心療内科での診療について
項目リスト
 心療内科で診ている患者さん
 軽症だが治りにくい患者さんたち
 軽症持続型の患者さんへの説明
 わかってもらえない患者さんたち
 心療内科での治療方法−その1:傾聴
 心身相関−心身医学の基本
 心療内科と精神科
 心療内科の採算性
 ホームページ作製と診療と
 NOと言えない患者様
 人間のエンジン
 80%で満足するココロ
 精神科での修業時代−その1
 増えている抑うつ
 自分にできない事は肯定してしまおう
 精神科での修業時代−その2
 抗不安薬は心の防波堤
 頭の中の引き出し
 「わたしことば」で話す
 …しかない より それが一番
 心の調子表示板を作ってはどうですか
 外の火の手と内なる火の粉
 心のベクトル
 心の3つのゾーン
 わかってほしい時には先手を打とう
 心身医学会に出席しました
 心身医学会に出席しましたー続き
 今年の心身医学会で気になったこと
 身体症状の意味
 こころを育む
 まだ見過ごされているパニック障害
 積極人間と消極人間
 心療内科にかかっているだけで...
 やせ症の入り口
 やせ症に共通な心理状態
 一を聞いたら一のみ知る
 今一歩治りきらないのは何故...?
 最近物覚えが悪くて...
 春眠暁を覚えず...ですが
 どんな人間関係をお好みですか?
 病気はすべて悪者か?
 高貴な病気!? 適応障害
 性差医療のインタビューがありました
 診療からの話題を2点
 体重が増えたことがバレてしまう!!
 内罰、無罰、外罰傾向 って?
 熟年離婚−夫の言い分
 「ありのままの私」を受け入れてほしい
 先生に不信感を抱くことがあります
 鉄は熱いうちに −学生への講義−
 夏は嫌いだー!!  抗うつ薬体験記
 口を出すなら手も出してほしい −家族の対応−
 積極人間と受け身人間
 「右から左へ受け流す」と、「でもそんなの関係ねぇ」
 考えると... 「寂しい」
 心療内科で診ている患者さん
2002.11.19
心身症の定義や、代表的な病気については既にたくさんのホームページで紹介されています。
かいつまんでいうと、身体的な病気の背景に、心理社会的問題が潜んでいるというものです。
たとえば、私が専門としている気管支喘息の患者さんが、様々なストレスで悪化したり、逆に心理的な負担がとれた途端に、それまでどんな治療をしても良くならなかった喘息が急速に良くなったり、というイメージです。
私が九州大学の心療内科で研修を受けていた時代には、確かにこのような患者さんが数多く入院されていました。 先輩の先生方が精神分析的な面接や、時にはフィンガーペインティングや催眠などを使って、患者さんの深層心理に迫ろうとしていたのを目の当たりにして、痛く感銘を受けたものでした。
しかしながら、当時に比べて、最近は身体疾患に対する薬物療法が非常に良く効くようになりました。かつては、心理療法をしなければ発作が収まらなかったような気管支喘息の患者さんでも、現在では多くの場合吸入ステロイド薬でコントロールが可能になってきています。難治性の胃潰瘍も、プロトンポンプインヒビターという薬を使うことで、治りやすくなりました。
したがって、かつては心療内科でなければ治らなかったような患者さんが、今では背後にある心理社会的問題にメスを入れなくても、症状のコントロールが可能となってきました。
しかし、これは本当に治ったといえるのでしょうか? 傷口にかさぶたができて、「見かけ上」治っているように見えるだけではないのでしょうか? 
心身症は、平たくいうと、心理社会的なストレスによる身体の変調といえます。このストレスを処理せずに薬で症状だけ取っても、このストレスはいつか形を変えて他の身体症状として出てくる可能性があります。また、良く効く新薬は概して薬価が高く、これらが医療費高騰の一因を作っている可能性もあります。
本来は時間をかけて患者さんからよくお話を聞き、身体的治療に加えて、ストレスへの対処方法を共に考えてゆくとよいのですが、忙しい現代社会にあっては、効く薬があれば手っ取り早く薬で治したい、と考えるのも、あながち責められるものではありません。
狭い意味での心身症には、うつや不安神経症の方は除外されていますが、上のような事情から、最近では身体症状が表面に出る軽症のうつの患者さんの受診が増えています。
(2002.12.8 以下を追記)
誤解のないようにしていただきたいのは、心療内科医がこころの側面を取り上げずに薬物療法に走っているということではなく、身体治療薬がかつてに比べるとよく効くようになってきたために(心理的な問題があっても)、心療内科医のもとを訪れなくても、症状のコントロールが(見かけ上)できている患者さんが増えてきたということです。
心療内科医は常にこころと体の両面を診ることを怠ってはいないことを、改めて追記しておきます。
 軽症だが治りにくい患者さんたち
2002.11.27
上に書いたように、心療内科を受診する患者さんの中で、軽症のうつや不安障害の方が増えています。
このような患者さんは、精神医学的にみれば確かに軽症です。しかし、軽症だからすぐに治るというものでもありません。
このような患者さんたちにはたくさんのお薬は必要ありません。多くの場合、抗不安薬や抗うつ薬を1日1−2錠飲めば、極めて快適に過ごせるのです。QOL(生活の質)も低下せずにすみます。でも、その1−2錠が手放せません。
このような状態は、依存症というべきなのでしょうか? 確かに、薬がなければ体調が悪くなるという状態は、依存に似ています。精神科で問題となる依存症と違うのは、必要とする薬剤の量が圧倒的に少ないことと、必要とする薬剤の量が増えてゆかないことです。
この程度の薬剤を、たとえその後一生服用しても、まず問題は起きません。にもかかわらず、患者さんたちは、薬がなければ困ると思う一方、薬をやめなくてはならないのでは、と感じています。
症状が起こるのは「気持ち」のせいなので、薬に頼るのは情けないと思ったり、次にテーマにするのですが、症状が目に見えないために、周囲の人たちにわかってもらえず、うしろめたい気持ちで薬を服用したりしているのが現状ではないかと思います。
 軽症持続型の患者さんへの説明  2002.12.01
症状は軽いけど治ってしまわない、このような状態に至るルートは2つあります。
一つは、初発時はもっと重い症状だったのが、治療によって症状が軽くなってきたけど、取れてしまわない場合。治療を始めて治ってゆく過程は、決して直線的でなく、山の頂上から下ってゆく過程に似ています。6〜5合目あたりまでは、坂が急な分だけ高度も速く下がって行きます。しかし、その後はどうでしょうか。坂が緩やかになって行くとともに、先に進んでも高度は容易には下がって行きません。裾野が広い山だと、どこまで行っても平地にたどり着かない気がするでしょう。このあたりが、いわゆる「薄紙をはぐ」ような治り方をする時期といえます。
もう一つのルートは、初めから軽症の方たちです。日常生活は何とか送れるし、仕事もできなくはない。しかし、何となくだるかったり、不安な感じが取りきれなかったり、食欲が時々落ちてみたり、もう少し何か活動をしたいのだけど、どうしてもそんな気になれない。このような方たちです。で、ある時心療内科の門をくぐってみると、丹念に話を聞いてもらった後に、これを飲んでみなさいといわれ、試しに飲んでみたら、これまでの状態が嘘のようにすこぶる調子が良くなった。
このような状態はどう考えたらいいのでしょうか。共通しているのは、多くの薬は要らない、1日1−2錠の抗不安薬や、抗うつ薬、あるいは自律神経の調整薬を飲めば、快適に過ごせるということなのです。そして、薬を飲んでいることに後ろめたさを感じ、何とかやめられないかと考えている方が少なくないということです。
私はこのような患者さんに、次のように説明しています。まず、状態としては軽症で、薬の量も少なく、このまま続けて飲んでも、まず大きな問題は起きないだろうということ。次に、薬を必要とする理由について、例えば、高血圧や、糖尿病にかかったら、多くの方は抵抗なく降圧薬や血糖降下薬を飲むでしょう。それとどう違うのか?と
気持ちの問題だから薬を飲むのは...と考えるかもしれません。しかし、このような軽症の状態でも、脳内に生物学的な変化が起こっているのであり、患者さんにもそのように説明しています。脳の中で色々な情報を伝達する物質が幾つかあるのですが、それが増えたり減ったりして症状の発現に至るのです。
でも、これまでは何ともなかったし、そんな薬を必要としなかったのに、どうして... と思われるかもしれません。では、高血圧、糖尿病、高脂血症といった「生活習慣病」はどうでしょう? これらの病気は生まれつきあったのでしょうか? これらの純粋に内科的な病気も、生まれつきあったわけではなく、遺伝的素因に食習慣その他の後天的要因が加わって、ある時以降に発症するものです。とすれば、同じことではないのでしょうか? 
何しろ脳内の変化なので、一人一人の患者さんについて、その変化を数値で示すことができるわけではまだありませんが、薬に対する患者さんの反応を見ていると、「気のせい」ではなく、何か生物学的変化が起きていて、薬がそれを修正したと考えざるを得ないのです。このような状態が肝臓や腎臓、血糖値のように目に見える形で表されれば、薬を飲むのにも後ろめたさを感じないですむし、周囲の人たちにもわかってもらいやすくなると思います。しかし、残念ながら、そのような簡便な方法は未だなく、今後の大きな課題です。
 わかってもらえない患者さんたち 2002.12.08
高血圧や糖尿病、気管支喘息、胃潰瘍などといった一般的な内科の病気は、誰に言ってもわかってもらえます。いくら不摂生の結果であっても、あなたの責任、とは言われません。特に息苦しさや、痛みというような症状があれば、たいへんですね、といたわってもらえます。
ところが、先に書いた軽症持続型の患者さんは、本人にはほとんど責任がないにもかかわらず、気のせい、気のゆるみ、なまけている、などといわれのない誹りを受け、いたわってもらうどころか、つらさをわかってもらえない苦しさを味わうことになります。これは、軽症よりもう少し重めの方でも同じです。
本人に責任がないと書きましたが、ではこのような症状が出る原因はどこにあるのでしょうか? 私たちはいうまでもなく社会の中で生きていますので、色々な人々との関係を持っています。その中には、波長が合う人もあれば、合わない人もいます。合わない人でも、時々顔を合わせる程度であれば、大きな心理的負担は感じません。しかし、これが、職場などで相性の合わない人が上司に来たりすると、これはもう大変です。
初めのうちは確かに「気持ちの問題」ですんでいます。ところが、これが長期に渡ると、脳内の情報伝達物質に変化が生じてきます。たとえば、「うつ」では、セロトニンという物質が減少することがその一つとして知られています。最近ようやく日本でも使用できるようになったSSRIという抗うつ薬は、このセロトニンの減少を抑えるお薬です。
このようなお薬を使うと、症状は軽くなるのですが、人間関係の相性までは改善してくれません。患者さんには相手の言葉の受け止め方や、はけ口のない感情の発散の仕方などをお話しするのですが、相手の個性が強烈だと、対抗しきれないことも多々あります。相手を変えることは至難の業ですので、配置転換があるまでは、ひたすら我慢ということになります。
このように書くと、個人の性格は関係ないのか? という声が聞こえてきそうです。確かに同じ環境にいても、心身に変調を生じない人もあります。人の言うことを適度に聞き流せる方は確かにおられ、そのような方はよほどのことがないと体調を崩したりはしません。被害を被る多くの人は、真面目で、人の言うことを聞き流せずそのまま受け止めてしまう、さらに頼まれたら断れない、私に言わせると「愛すべき」人たちなのです。
周囲の人々は、この真面目な「愛すべき」人たちに知らず知らずお世話になっているのですが、ひとたび体調を崩すと、気持ちが弱いから、などと、普段の恩を忘れて、そのつらさをわかってあげようとはしません。このようにして、わかってもらえない状況が形成されてゆきます。
職場などでわかってもらえない状況があっても、一番身近にいる家族の方にはわかってほしいと思います。親、兄弟、配偶者、時に子ども。私のところにおいでになる患者さんは、女性の方が多いのですが、結婚されている患者さんでは、ご主人にわかってもらえない、という方が非常に多いように思われます。もちろん、ご夫婦の間で会話が豊富にあり、つらい気持ちを聞いてもらえる方は、私の所になど来ないですみますから、診察室ではわかってもらえない方が目立つのでしょう。
このような場合、ご主人においでいただいてお話をすればいいのですが、ともすれば「何で俺が関係あるんだ、お前が先生に俺のことを悪く言ったんだろう」と、かえってご本人との関係を悪化させてしまうこともあり、簡単にはゆきません。
わかってもらえない状況にある場合は、私どもがご本人を支えて、ご本人が精神的な力をつけて行けるよう(したたかになれるよう)、お手伝いすることが唯一の治療であることもあります。このような医療に時間がかかるのはここに書いたような事情があることを、このページを読んでいただいた方には「わかって」いただきたいと思います。
 心療内科での治療方法−その1傾聴 2002.12.13
傾聴とは文字通り耳を傾けて聴く、ということです。英語でいえば listen。なんだ、そんなこと当たり前じゃないか、と思われるでしょう。でも、ただ聞くだけではありません。批判せずに聴く。これがなかなか難しいのです。患者様が理屈に合わないことを言われたり、何か誤解をしていることがわかると、ついつい話をさえぎって、「それは違うでしょう」などと言ってしまいたくなります。
よほど根性がある方は別ですが、多くの患者様方は、医師にそれは違うと言われたら、それ以上は言えなくなってしまいます。患者様には患者様なりの理由があるのですが、それをわかってもらえないと、心療内科に何をしに来たのかわかりません。この、本人なりの理由を批判せずに聴いて理解することが、まず入り口になります。
たとえば、若い女性に多いやせ症の患者さん(詳しくはいずれ書きます)がやって来ます。私自身は極端に痩せた経験はないので、本当の追体験はできないのですが、多くの彼女たち(時に彼)の話を聴いていると、部分的にはわかるようになるのです。
<例>
・初めは軽い気持ちで始めたダイエットがうまくゆき出すと、日々体重計の針が左左に行くのが快感になってきます。
・一旦極端に痩せると、痩せた体重が基準(ゼロ)となり、そこから体重が増えることは、元に戻るのではなく、「太る」と、彼女たちは認識します。
話をよく聴いた上で、このような共通の心理を指摘すると、彼女たちは初めてわかってもらえた、という気持ちになります。親や周囲の人たちからは、こんな気持ちも聞いてもらえず、ただただ「食べなさい」の連続なのですから。これが治療の出発点です。
話を聴くだけではまだ十分とはいえません。聴いたことをちゃんと理解した、ということを伝えないといけません。ただウンウンとうなずくだけでは不十分で、あなたのお話を聞いて私はこのように理解しました、と伝えます。これが正確であれば、患者様は大きくうなずいてくれます。
私たちはこのことを、自分が、患者様のこころの中を正確に映し出す曇りのない鏡になったような気持ちで、と教わりました。これは今でも診療の中で大切にしています。
治療の入り口である傾聴を、治療その1として紹介しました。この理由は、このような傾聴を繰り返してゆくことで、患者様が自分のこころの中を自ら整理して、特にこのようにしたら、というアドバイスなしに治ってゆける方があるからです。
親子関係もいっしょですよね。ついつい、「〜しなさい!!」と金切り声をあげたくなりますが、子どもとの関係がうまくいっていないと感じていたら、一度ただじっと子どもさんの話を「批判せずに」聴いてみてはいかがでしょうか。少しの忍耐があれば誰にでもできます。
 心身相関−心身医学の基本 2002.12.15
心身相関とは「こころ」と「からだ」がそれぞれ別物ではなく、互いに関連し合っているという意味で、心身医学の基本となっている考え方です。「身」→「心」はわかりやすいでしょう。ちょっと風邪をひいただけでも何となく気が重くなります。私も、ぎっくり腰で寝込んだ時に、夜中に痛みがひどくなり、このまま痛みが取れなかったらどうしようと、ひどく不安になった経験があります。
心身医学で重きをおくのは、「心」→「身」の方向です。こころの歪みが身体の症状となって現れるため、原因となっているこころの歪みを修正してやらないと、身体症状(既に病気になっていることもあり)は本当には治らないと考えるわけです。
こころの歪みには、初めは自分で気が付いていると思われます。最近仕事量が多くてきついなあ、でもこれをやらないと自分の評価が下がるし、会社の業績もこの景気では芳しくないし、多少しんどくてもがんばらなくては、と、いつの間にか、精神的負担はないことにして、こころの歪みに気づかなくなってゆきます
この段階で、ちょっと適応したように見えるのですが、このままこころの歪み状態が続くと、身体に症状が出るようになります。血圧が上がる、胃のあたりが何となく思い、風邪をひいていた時にだけ出ていた喘息の症状がよく起こるようになってきた、等々。これは心身症の発症といえますが、この時点では、こころの歪みには気が付かなくなっていますから、純粋に身体の異常として、内科などの身体科にかかります。
心療内科では、このこころの歪みに「気づいて」いただくことを大切にしています。まず、発症前の生活の様子とその時の気持ちを丹念に聞きます。次いで、現在の気持ちと症状の変化との関係に気づいていただくために、症状の日記をつけていただき、そこに症状だけでなく、その前後の気持ちを一緒に書いていただきます。
これは、心身相関に気づく一つのやり方の例ですが、例えばこのようにして、身体症状の裏側にあるこころの歪みに気づくことが治療の出発点となります。何が本当の問題かということを知ることにより、生活のあり方や、考え方の問題点を修正してゆこうという「動機付け」が生まれるのです。
もちろん、症状を軽視しているわけではありません。内科的な治療で症状をコントロールしながら、気づきを深めてゆくような面接を進めてゆくわけです。これが心療内科の真骨頂である心身両面からの治療です。
 心療内科と精神科 2002.12.17
心療内科は精神科と内科との合いの子、というイメージを持っている方は少なくないと思います。心療内科の黎明期に治療法の根幹を成していた精神分析(フロイトが創始)は、ヒステリーや神経症の治療に使われますので、これは精神科的治療といえるでしょう。しかし、現在心療内科で治療の主流となっている行動療法、交流分析、自律訓練法、認知療法、そしてカウンセリングなどは、どちらかといえば心理学的な治療法です。そういう意味では、むしろ、内科と心理学とがドッキングしたものといえます。
心療内科では近年、不安や抑うつの患者様を診る機会が増えてきたと、冒頭に書きました。これは精神科との境界領域というよりは、精神科の領域に足を(手かもしれませんが)突っ込んでいるというべきでしょう。しかしながら、特に抑うつや、心臓神経症といわれるような神経症は身体症状が主となって現れるため、内科などの身体科に受診するのが通常です。
このような患者様を診察した身体科の医師は、色々と検査をしても、症状を説明できるような異常が見あたらないことに気づきます。で、どうするか。このような患者様は、一見したところ精神症状は目立たないため、精神科に紹介するのははばかられ、自院内や近くに心療内科があれば、そちらを紹介することになります。このような状況で、心療内科医は一部の精神科領域に手を出さざるを得ないわけです。
 心療内科の採算性 2002.12.21
保険診療では、どのような診療を行うと何点、というふうに、診療点数というものが定められています。この中には、薬剤料や検査料などのように、実際に費用がかかるものに対する点数と、技術料的なものとがあります。日本の医療保険では、この医師の技術料が低いために、投薬や検査をして診療報酬を「稼が」ざるを得ない、という指摘が、延々となされ続けてきました。しかしながら、まだまだ十分とはいえません。
心身医学的な治療を行った場合にも、この技術料が認められています。では、いったい、いくらだと思いますか? 患者様のお話を、1時間真剣に聴いても、自律訓練というリラクセーションのための方法を、1時間かけてご指導しても、箱庭療法をじっくり行っても、たかだか900円なのです。
これが、精神科を標榜すれば、外来通院療法という技術料が、3000円あまりいただけるのです。この差はいったい何なのでしょうか? 
心身症を病名として書く時には、たとえば、気管支喘息(心身症)、高血圧症(心身症)のように書きます。このように書いていないと、心身医学的治療に対する点数は算定できません。ところが、ここに大きな問題があるのです。診療所や小規模な病院では、内科的な慢性疾患に対して、「指導料」という点数がいただけます。技術料の一つで、医療機関の規模によって異なり、2000円から3000円のあたりだと思います。大きな総合病院ではいただくことができません。
大きな問題というのは、この指導料と、心身医学的な治療法に対する点数とが、一緒にはいただけないのです。いずれか一方ということになると、当然高い方、すなわち、指導料の方を優先します。今や、診療報酬の引き下げで、診療所の経営も相当厳しい状況にありますから、心療内科医のプライドを優先して、いや俺はあくまで心身医学療法の報酬を請求する、なんてことはやっていられません。
そうすると、診療所においては、心身医学療法という保険点数は、有名無実ということになってしまいます。一定規模以上の病院においてのみ意味がある点数ということになります。これは、心身医学会でも問題となっており、学会としても厚生労働省に改善を申し入れているようですが、まだ改訂される気配はないようです。
これを改善してもらうためには、心身医学的な治療が、内科的疾患それぞれに対して、どの程度効果があるのかという点を、もっと数値で表してゆかなければなりません。特に、医療費抑制の観点から、例えば、気管支喘息に自律訓練法を行うと、喘息の医療費(薬剤費)が何%減った、という数値を厚生労働省に示してゆかなければならないと思います。このためには、心身医学会が音頭をとって、全国規模で臨床試験を行う必要があるのですが、学会の動きもこの点に関しては動きが今ひとつという感じです。
 ホームページ作製と診療と 2002.12.30
年末の片づけや年賀状の準備に追われていて、久々の更新となりました。一昨日は外の医療機関での本年最終の診療でした。そこで、診療をしながらこのページの更新のことを考えている自分に気づきました。
普段から、心療内科を訪れる患者さんには幾つかのタイプがあると思っていました。でも、なかなかその点をじっくり考えてみるゆとりがなく、ぼんやりと感じている程度でした。しかしながら、そのタイプについてここに書こうと思うと、ある程度形のはっきりしたものにしなくてはなりません。
一定以上長く通院している患者様は、どうしても日々の出来事の中に問題点が埋もれてしまいがちになります。お話は聴いているのですが、何が解決すべき問題点だったのか、というところがはっきりしなくなってきます。
一昨日おいでになった患者様の一人も、そのような方でした。そこで、お話を聴きながら、この患者様の問題点は一体何だったのだろうかと考えてみました。その結論を私が再認識するとともに、患者様にもお伝えして、次回までにこのような点に気をつけて過ごすようにしてはどうですか、と久々に課題をお示しすることができました。
このように、このページを更新することが、患者様の問題点の整理になる、ということは自分にとっても驚きでした。今後は、整理できたタイプから、順次ご紹介したいと考えています。初回は、「断れない方」の予定です。
 NOと言えない患者様 2003.01.03
かつて、「Noと言えない日本人」(だったかな?)という書籍が話題になったことがあります。日本人は和を尊しとし、争いを好まない国民性ですから、頼まれたら断れないという方はかなり多いはずです。かく言う私も、断るのは苦手です。できることなら断らずにやれる範囲で依頼を受けたい。
ところが、この「やれる範囲で」というのがくせ者なのです。やれるはずのことが、幾つも蓄積してゆくと、いつの間にか許容範囲を越えている。それでも、心身に症状が出なければまだいいのですが、ある、ものを作ることを仕事にしている女性の患者様などは、期限を切られると、次第に呼吸が苦しくなって、ひどい時は過呼吸の発作を起こしてしまう。
そこまでなることがわかっているのなら、引き受けずに断ればいいではないか、と思われるでしょう。でもね、断れない理由があるんですよね。せっかく頼りにしてくれた相手に悪い、断ればあの人が困るのではないか、断ると何か悪いことをしたような気がする、一度断ると次に会った時に顔を合わせにくい...等々
共通しているのは、頼んだ相手に対する自分の存在意義がなくなると感じること、でしょうか。人は誰でも、孤独では暮らして行けず、誰かにとって必要な存在でありたいと願って生きています。例えば、子育て最中のお母様方なら、子どもがいればそれで自分の全存在が肯定されます。少しくらい他人からの依頼を断ったって、へともありません。
子どもが巣立って、その時期でもまだ忙しそうで、帰りが遅い夫と二人暮らしになったご婦人はどうでしょう? 夫にとって自分は空気みたいな存在だと感じていれば、頼りにしてくれる他人があれば、期待に応えたいと思うのは無理からぬ心理でしょう。
頼む方はどうでしょうか? 多くの頼み上手な人は、Noと言えない方の「弱み」を心得ています。きっとこの人は断れないはず、と見抜かれているのです。Noというと気まずい思いをするだろうということを知っているのです。
依頼ごとは一種の交渉です。頼む方はとりあえず自分の都合を持ち出します。受けてくれれば超ラッキー、と思って口に出していることも多々あるでしょう。多少はああだこうだと、もっともらしい(受ける人がついホロリとくるような)尾ヒレを付けることもありましょう。ガンの末期の方に、どうしてもあなたの作品を差し上げたい... うまいんですよねえ。
でも、交渉は交渉ですから、不成立があるのは世の常です。「頼む方はとりあえず自分の都合だけを持ち出しているのだから、あなたの許容量をオーバーしているなら断っていいと思いますよ」、と私は話します。そうはいっても長年慣れ親しんできた「Yes」癖はそう簡単には治りません。
で、提案です。無理と思ったら、一度は断ってみて、それで再度依頼が来ないようならその程度のものだったと思う。再度頼んできた時は、これは本気と考えて、こちらも受けることを真剣に考える。なかなかいい方法だと思いませんか? でもね、Noと言えない方々は、一度断ってそれまでだったら、それはそれで寂しいんです。ああ、頼りにしてくれる人が一人減っちゃったー、なんて大げさに考えてね。 ここを乗り越えないといつまでも変わらないんですけどね。
 人間のエンジン 2003.01.07
私たちの診察室に来られる患者様の中で、何となく身体がだるく朝起きづらい、という訴えを持った方がおられます。通常の検査を一通り行っても、特に異常が見つからないため、心身症の疑い、ということで紹介されて来られることもあります。こんな時、もしや、と思って血圧を測ると、果たして低血圧のことが多いのです。
低血圧の方は、高血圧と違って、動脈硬化によるような大きな病気はしにくいのですが、何となくだるい、頭が重い、などという愁訴は多いのです。一見、自律神経失調症による「不定愁訴」のように見えるため、心身症と見誤られることがあります。
低血圧の方は、車に例えると、排気量の小さなエンジンを搭載している小型車のように思えます。これに対して、高血圧でバリバリ動ける方は、3000cc以上の高排気量エンジン搭載の大型車のようです。
ある時期を区切ってみれば、どちらがよく動けるかは明らかです。1000ccクラスの小型車がどんなに頑張っても、大型車にかなうはずがありません。人はそれぞれ、生まれ持ったエンジンの排気量が異なっていると私は感じるのですが、人は皆同じように活動できるはずだ、と考える人が少なくありません。
比較的大きなエンジンを持った姑さんの所に、軽自動車のエンジンを持ったお嫁さんがやって来ると、これはもう大変です。「私はこの年でもこんなに働けるのに、どうしてあんたはいつもしんどいしんどいと言って動こうとしないのか...」 ということになります。エンジンの排気量が違うだけで、病気ではありませんから、人に説明できるような病名は付きません。このような方たちも、「わかってもらえない」気持ちを抱きながら生活しておられます。
大型エンジンをブンブン回して動かしていると、故障が起きやすくなるのは、高血圧症の患者様が治療を怠って活動していると、いつの間にか動脈硬化が進み、脳卒中や心筋梗塞を発症するのと似ています。小型自動車を、無理せずに大事に乗ってやると長持ちするのですが、傍らを大型車が追い抜いて行く様をじっと見ていなくてはなりません。
昔から、太く短く生きる、か、細く長く生きる、か、といわれますが、これはどちらを選択するか、という意味合いがあると思います。エンジンは積み替えるのが難しいので、自分の排気量を知り、それに合った生活を心がけるようにしたいものです。
 80%で満足するココロ 2003.1.13
タイトルからお気づきのように、これは完璧を目指してしまう方へのメッセージです。心療内科を受診する患者様の一つのタイプです。完璧を目指そうとするというよりは、そこまでしなくても、と自分でも思いながら、物事をいい加減にできない、完璧にやり遂げないと気がすまないという人たちです。
このような方たちは、当然のことながら、ストレスが蓄積します。時として、物事が円滑に進みません。私の知り合いが、東京でも結構指折りのインテリアデザイン専門学校に入ったのですが、次第に提出すべき課題が出せなくなってゆきました。それはなぜか、自分で気に入ったものができないからだ、というのです。
他の友人は、こんなのを出すのか、という作品を出しているのを横目にしながらも、自分が納得が行かない作品は出せない。それが募って、私の知人は結局進級ができませんでした。
徒然草だったか、何かの古典に、自分の芸を人に見せる時に、完璧にできてからと思わず、ある程度の時に人に見てもらって、その意見を聞いた上で修正してゆくのがよい、と書かれていました(うろ覚えなのでかなり改変していると思います)。私は、自分でもやや完璧主義的なところがあったので、これを読んで、そうかー!と思いました。
そうなんですよね。自分でどんなに完璧と思っても、他人から見ればまだまだ不十分な点が多々ある。それは自分では気づかないわけです。それなら、古典に書かれているように、ほどほどの所で他人というフィルターを通した方が、結局いいものに早く近づけるのです。それをしないのは、他人に批判されたくない、というプライドがじゃまをするからなのでしょうか?
受験勉強を経験した方ならおわかりのように、テストで100点を取ることは、小学校の低学年を除いてはなかなか難しいことなのです。80点くらいは並の努力で可能なのですが、それを100点にアップしようとすると、教科書や副読本の隅の方に書かれていることまできっちり覚えていなくてはなりません。80点から20点増やすのは、80点取るのと同じくらいの努力と時間とを必要とするのです。
したがって、100点を取ろうとすると、ほんの狭い範囲のことしかできません。これを、80点でよしとすると、2つのことができます。競争試験は別として、資格試験の合格点は大体が60点です。80点を取ろうものなら、「優」が付くのです。月並みな言い方ですが、人生は一度きりです。一つのことだけに固執せず、80%を自分の合格点として、できるだけ幅広い生き方をしてみるのもいいのではないでしょうか。
 精神科での修業時代 −その1 2003.1.19
プロフィールにも書いていますが、私は九大心療内科とその関連病院で心療内科の研修をさせていただいた後、昭和61年に香川医科大学の第一内科に籍を移しました。当時の第一内科教授から、教室で心身医学のグループを立ち上げたらいいと言われたからです。このようなことは、母校の岡山大学より、当時の新設校の方がやりやすいと思いましたので、その言葉を信じて香川にやって来たわけです。
ところが、とりあえず、市内の病院の内科部長の席が空いたので、そこに行ってくれないかといわれました。30床の小さな病院でしたが、NTTの企業病院なので、きっと心身症の方も多いであろうと期待もあったので、お引き受けすることにしました。
NTT病院での経験は色々な意味で大変貴重なものでしたが、3年を過ぎても大学に帰してくれそうな気配がありません。そこで、これではいけないと一念奮起。ちょうどその頃、九大心療内科でお世話になった吾郷晋浩先生(心療内科助教授)が、新たに設置された国立精神・神経センター精神保健研究所の心身医学研究部部長に就任されました。
そこで、吾郷先生の元で勉強させていただけないかと、学会などでお会いする度にお願いしていました。すぐには叶わなかったのですが、NTT病院に勤めて4年目の中頃に、やっとチャンスが巡ってきました。心身医学研究部には正規のスタッフを抱える余裕はないが、国立精神・神経センターの武蔵病院が内科医を求めているので、そこにどうか、というお話でした。
NTT病院の後任の問題もあったので、すぐさまというわけにはゆきませんでしたが、翌年(平成2年)の7月になら行ってもよいという第一内科教授の約束を、ようやく取り付けることができました。

前置きが長くなりましたが、ここからが精神科修業時代です。 夏の暑い盛りに、高松から東京都小平市にある、武蔵病院の官舎に引っ越しました。武蔵病院は森の中に広がる、病床1000床を有する病院です。このうち800床が精神科病床ですが、内科医は常勤していませんでした。したがって、精神科の患者様が身体的な病気を発症すると(これを精神科では身体合併症と呼びます)、近隣の病院にお世話になっていました。
しかし、それでは身体合併症の発見やその対処が遅れることがあるとの判断で、内科医を置こうという話になったようです。当時の大熊輝雄病院長が誰かいないかと吾郷部長に相談され、私が精神科の病院で働くチャンスができたという経過でした。
私としては自分の勉強もさることながら、精神科の先生方のお役に立てるという気持ちだったのですが、精神科の先生方からの風当たりは予想外に厳しいものでした。この武蔵病院は精神科を志す若い先生達のあこがれの職場だったようで、多くの研修医とレジデント(卒後3年目から5年目までの医師)を抱えていました。
彼らはここで研修を受けても、5年経った時に空きがなければ精神科の常勤医になれないわけです。そんな所へ、精神科の心得がない医師が、精神科常勤医の枠を一つ取って勤めることになったために、特にレジデントの先生達の心中は穏やかでなかったようです。
医長の先生方の中にも、レジデントの心中を察してか、「お前は一体何しに来た」というような態度を露わにされる方があり、まさに針のむしろ状態でした。求められて行ったはずなのに、どうしてこのようなことになったのか? 精神科医師を1名内科医に置き換えるという決定は病院上層部でなされたものの、精神科医局ではまだ十分なコンセンサスが得られないままに私が赴任した、ということのようでした。 ともかく、このような状況の中で、私の精神科修行が始まりました。 (続く)
 増えている抑うつ 2003.1.26
抑うつの患者様は近年増加傾向にあります。この先行き不透明な今日にあっては、明るい気分で生活、という方が無理なのかもしれません。精神科での増加はもちろんのこと、うつは、身体症状が表面に現れやすいため、一般身体科、特に内科に受診する方がむしろ多いのです。
うつは、何らかの喪失体験、平たくいえば、大切にしていた何かを失ったことから生じると考えられています。うつは、精神的・身体的エネルギーが極端に減少している状態と考えることができます。従って、(対象が)はっきりした喪失体験だけでなく、長期にわたる心身の疲労からも生じます。次に、私が診察室でしている説明を図を用いて説明してみます。この図は、藤沢製薬が行った衛星放送番組の際に使用したものです。
ご覧になりたい方は、専用のページ(絵があるので少し時間がかかります)へどうぞ。

治療に抗うつ薬を使う理由はおわかりいただけたでしょうか。その次によく問題になるのは、いつまで薬を続けるかということです。
ここで、台風などで木が倒れたところをちょっと想像してみて下さい。倒れた木を横から支えて起こそうとします。これが、抗うつ薬で精神的エネルギーの水位を上げようとしているところです。木が真っ直ぐにならないうちに支えを外してしまうと、途端に倒れてしまいますので、真っ直ぐになるまでは支え続けないといけません。真っ直ぐになった状態というのが、日常生活を安定して送れる状態と考えて下さい。薬剤の種類と量とがうまく合ってから、この木が垂直になるまでにおおよそ3ヶ月くらいかかります。
では、木は垂直になればそれでいいのでしょうか? 根が張らない状態では、風が吹くとまた倒れてしまいます。真っ直ぐになった後、根が生えるまではある程度の支えを続けてやらなければなりません。これに要する期間が約6ヶ月。従って、症状がほぼ消失し、生活が安定してできるようになってから、約半年間は抗うつ薬を続けることが必要であることがおわかりいただけるでしょうか。もちろん、その間に主治医と相談しながら薬剤の量を減らしてゆくことは可能です。
うつに陥る元の原因がなくなったにもかかわらず、うつが遷延している方の中には、この原則をご存じなく、焦って服薬を止めてしまった方たちが含まれていると思います。山を下りてゆく時のたとえにも書いたように、焦らずにお薬を続けてゆくことを心がけて下さい。
 自分にできない事は肯定してしまおう 2003.2.3
人は同じように見えて、実はそれぞれ少しずつ違っているものなのですが、どういうわけか、「人並みに」といってみたり、物事の「標準」というものを作りたがる人がいます。工場で作るものの標準はいいのですが、人間の身体や気持ちについてのことで標準を盾に取られると困ることが起きてきます。標準でない(と思わされた)人たちが悩むようになるのです。
自分自身の経験で恐縮ですが、私は小さい頃からおしっこの回数が多かった。授業の合間の休み時間ごとにトイレに行かないと気がすまないのです。おそらく、膀胱の容積がそんなに小さかったわけではなく、単に行きたい「気がして」行っていたのだと思います。が、他の同級生と比べて明らかに回数が多いので、何か訳があるのではと思ったのと、からかい半分で、私が行こうとすると必ずトイレに付いて来るやつができてしまいました。
これには困りました。経験がある方もおありかと思いますが、後ろや横に立たれると出ないものなんですよねえ。(今日はあまりきれいな話でなくてすみません) で、そいつの目を盗んでトイレに行くわけですから、疲れ果ててしまうのです。この悪夢のような日々は1年くらい続いたでしょうか。追っかける方も疲れるでしょうから、もっと短かったのかもしれませんが。
で、このような出来事の元凶となったトイレの回数の多さを何とかしたい。がまんしてみよう!と思うのですが、結局は行ってしまうということの繰り返しでした。その後、何の加減か、いつの頃か忘れましたが、開き直れる時が来ました。
行きたければ行けばいいじゃないか。それで何の困ることがあろう。トイレが近いという自分は自分のほんの一部分で、そのことで自分の価値が下がるわけではない。と、回数が多い自分を肯定してしまったのです。
そうすると、楽になりましたね。もちろん、実際に困ることがないわけではありません。特に長時間の試験は辛かった。医師国家試験は150分もあるんです。でも、この時はかなり開き直った自分に馴染んでいたので、手を挙げて行かせてもらいました。
不思議なことは、肯定してしまうと、その後は次第にトイレに行く間隔が延びてきたことです。念ずれば通ずといいますが、反対に念じなければ通じたのです。ちょっとした性癖に悩んでいる方があると思いますが、少しでも参考になればと思い、幾分恥ずかしい昔話を披露させていただきました。
 精神科での修業時代 −その2 2003.2.4
精神科医局での十分なコンセンサスがないままに、武蔵病院に就職してしまった私が配属されたのは、第2病棟の3階にあった合併症病棟でした。ここには、肺結核の後遺症を持った慢性の統合失調症の患者様が療養を続けておられました。
私は赴任するまで、どの様な形で勤務をするかということを全く打ち合わせしていなかったのですが、この病棟には医長と私の二人しか担当医がいませんので、40人弱の患者様を二人で分担することになりました。すなわち私は20名前後の患者様の主治医になったわけです。
これはちょっと予想外で、困ったことになったと思いました。なにしろ統合失調症の患者様はほとんど接したことがありませんでした。日々どう接していいかわからないし、薬も使用経験がありません。週に一度定期処方を出すのですが、もうひたすら前の処方を書き写すだけ。一見楽なように聞こえますが、診療に自分の意志を入れられないというのは、なかなか辛いものです。
私はそれまで心身症の患者様とは接してきましたが、それは通常の言葉でコミュニケーションができる世界でした。が、ここではそうはゆきません。患者様の話す内容が理解できないし、ほとんど話してくれない患者様もいます。つくづく自分の無力さを感じました。
おまけに、年季の入った看護師さんの視線が厳しいし。少し新しいことをしようとすると、「そんなことしても意味ないわよ。私にはわかっている。新しい医者がやって来てあれこれすると患者様が迷惑する。」とけちょんけちょんに言われます。
最初のうちは、病棟に行くたびに腹痛が起こり、部屋に帰ると下痢(前回に引き続いて美しくない話ですみません)をしていました。典型的な心身症的反応です。それまで接していた患者様の気持ちがようやくわかりました。
(下痢のことは知らなかったと思いますが)私が辛そうにしているのを見かねた医長の井野先生が、合間を見ては精神科の診断と治療についてレクチュアをして下さいました。これは大いに役立ちました。井野先生、本当にありがとうございました。
このような私が何とか続けられたのには3つの要素がありました。一つは井野先生や病棟部長先生方のサポート。二つ目は、千葉県市川市にある、同センター精神保健研究所心身医学研究部に、週に1回勉強のために通わせて頂けたことです。ここでは当時、心の健康についての調査研究をしており、一緒に調査票作りをしたり、その解析をしたりして、充実した時間を過ごすことができました。ここでのことは未だに私の大きな財産になっています。
そして3つ目は家族です。私が独身で赴任したり、あるいは単身赴任をしたりしていたら、きっと精神に変調を生じていたと思います。初めのうちは精神科医師の中でも八方塞がりで会話ができず、病棟に行っても自分の居場所がない。夜になって宿舎に帰ってようやく普通の会話ができたのです。これは本当にありがたいことだと思いました。出社拒否を起こさなかったのは、これらのサポートがあったからだと今でも思い、感謝しています。
ただ、いつまでもこのような閉塞状態であったなら、さすがに私もへしゃげていたことでしょう。が、少しずつあちこちの病棟から合併症の診療でお呼びがかかるようになり、また、医局の造改築で同世代の精神科医師と同じ大部屋になった(それまでは数人ずつの小部屋に棲息していました)ことから親しくなり、ようやく過ごしやすくなってきたと思った頃に、香川から帰還命令が下りました。こうして、1年半の短い精神科修業は終わりを告げたのでした。
香川に帰る前に、お世話になった精神保健研究所の藤縄所長に挨拶に行きました。その時、精神科での感想をお話ししたのですが、先生は、われわれ精神科医は、ほとんど変わらないように見える(統合失調症などの)患者さんの、ほんの少しの変化を見いだすことを喜びとしているのだ、とおっしゃいました。自分にはできないことだと思いましたが、非常に感慨深いお言葉で、今でもよく覚えています。
 抗不安薬は心の防波堤 2003.2.8
不安や緊張の強い方に抗不安薬(いわゆる安定剤)をお出ししていると、最近効きが悪くなったとか、効く時とそうでないときとがある、というお話を聞くことがあります。これは常用しているから、お薬が効きにくくなったのでしょうか?
心には、2種類の刺激が押し寄せます。それは、外からの刺激内からの刺激とです。外からの刺激とは、例えば職場での仕事量の増加とか役割の変化、あるいは周囲の人たちからの心ない言葉などがあります。内からの刺激とは、頭の中で、先のことや過去のことなどについて、あれこれと考えを巡らすことです。
これらの刺激が強いと、心が苦しくなります。誰でもそれらの刺激に対する防波堤を持っています。しかし、強めの刺激が、すなわち防波堤を越えそうな波があまりに長期にわたって押し寄せると、防波堤は浸食されて低くなってしまいます。こうなると、波は容易に防波堤を越えて侵入してきます。これが心が過敏になった状態です。
少しのことで腹をたててみたり、普段なら聞き流せるような言葉に反応してしまったり。そして、そんな自分に嫌悪感を感じて、余計に落ち込んでしまったりします。この防波堤を高くし、強さを補強するのが抗不安薬です。大きな津波がやってきて、防波堤の中が大きな被害を被ってしまった時には、防波堤をしっかり補強して波が侵入するのをひとまず防いだ後に、中の修復をしなくてはなりません。これは心が何か大きな打撃を受けた時のたとえですね。
中の修復が十分にできたら、お薬で高くした防波堤の高さを徐々に低くしてゆきます。しかし、われわれは社会の中で暮らしていますから、低くしていている途中に、再び心ない人(このような人たちはなかなかコントロールできません)からの刺激が襲ってきて、防波堤を越えるかもしれません。このような時に、薬が効きにくいと感じるのです。
抗不安薬のようなお薬の効き方は、このように、内外の刺激とのつばぜり合いによって変化することがおわかりいただけたでしょうか。お薬が効きにくいと感じたら、それは薬のせいではなく、何か刺激が増えているのでは、と考えるようにすると、対応策や予防法が浮かんでくるのではないでしょうか。
 頭の中の引き出し 2003.2.12
よく、考えることがいっぱいあってまとまらない、とか、何から考えていいかわからない、という訴えを耳にします。これは誰でも経験することです。が、さらには、この頃記憶力が落ちた、何か脳の病気だろうかと心配される方もおられます。
頭の中には物事を考える運動場があると考えて下さい。運動場の広さは人それぞれです。が、問題は広さより密集の具合です。次々といろんな問題(荷物)を広げ散らかしては、整理がつきません。新しい荷物を広げようとすると、必然的に何か既に広げられていた荷物が、運動場からはじき出されてしまいます。これが記憶が落ちる状態です。
そんなに荷物をたくさん広げなくてもいいじゃないか、とおっしゃるでしょう。そうなんです。しかし、不安の強い方の多くは、運動場ががらーんとしていると、かえって不安になるのです。それで、隙間なく荷物で埋めてしまう。ぎっしり詰まっていると、何故か落ち着くのです。こんなに詰め込んでは収集が付かない、と、頭のどこかではわかっていても、隙間がある不安には勝てないようです。
このような方は、診察室でお話をした結果、一つの事柄に解決策が見つかった、と喜んで帰られても、次回にはまた新たな問題を携えてやって来られます。それは本当に今考えないといけないことなの? と言いたくなることもあります。
このように、本質的に運動場を埋めておかなければ気が済まない方々には難しいかもしれませんが、一時的に混乱に陥っているような方には、頭の中の運動場脇に置かれた整理ダンスを想像してもらいます。それで、今すぐに考えなくてもよいことは、その引き出しの中にしまうというイメージを描いていただきます。永久に考えなくてもよいことは厳重に封印してもらえばいいのですが、期限付きのものは簡単なロックをかけてもらいます。
そんな簡単なことで、と思われるかもしれませんが、使ってみると、案外有効な方法であることがわかります。しばらく前に来られた患者様も、この方法で考えを整理しやすくなり、気に入って友人に教えて上げたと言われていました。
考え事が多い方は、元々想像力が豊かな方ですから、その想像力を逆に利用するという手段は、案外使える方法なのかもしれません。
 「わたしことば」で話す 2003.2.26
「親業」って本をご存じでしょうか。親には自然になれるわけではなく、親になるためには修業をしないといけない、という趣旨の著書です。親になるためのトレーニングを解説した本といっていいでしょう。
その中で印象に残っているのが、「わたしことば」で話すということです(親業ではわたしメッセージと表現しています)。 親(特に接する機会の多い母親)は、ついつい子どもに、「どうしてあなたは...」、とか「あなたはいつも...」と言ってしまいます。ところが、既にご経験済みのように、この言い方(あなたメッセージ)は(親の発散にはなっても)子どもにはほとんど効果を発揮しません。
では、どのように話せばいいのでしょうか。「あなたは...」と子どもを責めるのでなく、「そんな風にいつもご飯をこぼすのを見ているとお母さんは悲しくなるのよ」とか、「お父さんは今日はとっても疲れているんだけど、おまえがそんなにテレビの音を大きくすると、気持ちが休まらないよ」などと、自分がどう感じているかを伝えるのです。
この伝え方は、何も親子に限ったことではなく、成人通しの会話にも使うことができます。驚いたことに、お薦めの一冊のところで紹介した、「嘘つき男と泣き虫女」でも、男女間の好ましいコミュニケーションのあり方として、この「わたしことば」が推奨されています。
時には言いたいことを言って、「発散する」のも必要なことでしょう。しかし、相手の行動を変えようと思えば、伝え方を一工夫する必要があると思いませんか?
 …しかない より それが一番 2003.3.09
世の中には、どうしようもないこと、がたくさんあります。いくらがんばっても成績が上がらないサラリーマン。いくらこちらの態度を変えても攻撃的に接してくる人、等々。
特に医療の分野では、現在の医療レベルをもってしても、原因が説明できない症状や愁訴が少なからずあります。いくら検査をしても、それらしい原因が見つからないと、患者様に納得のいくような説明をして差し上げることができません。
今の検査技術では、例えば微少な血管の血流障害などは検出できないのですが、こんなとき、医師は大きな無力感に苛まれます。そこで、つい、「これは様子を見るしかないですね」と言ってしまいたくなります。でも、言われた方の患者様はどんな気持ちがするでしょうか? 医師の口調にもよりますが、見放されたような気持ちになることもあると思います。
私は、接する機会のある学生達に、こんな時には、「今の段階では症状の原因となるような異常は見つかっていません。症状があるということは将来的に何かの病気につながってくることもあるかもしれませんが、幸いなことに、今は普段の生活が大きく脅かされるほどではないので、今の段階ではこのまま様子を見ることが一番いいと思いますよ」と、説明するよう指導しています。
どうでしょうか。伝えていることは同じ内容なのですが、「しかない」を「それが一番」と伝えることで、受け取り方が変わってこないでしょうか。日常生活の中でも、「仕方ないこと」を「置かれた状況の中ではそれがベスト」と言い換えてみることで、気持ちが変わる可能性があります。ちょっと考えてみてはどうでしょうか。
 心の調子表示板を作ってはどうですか 2003.3.21
心身症、自律神経失調症、また軽症うつの患者様は、一見してどこが悪いのか、周囲の方にはうまく伝わりません。これが、「わかってもらえない」状況を生み出すことになります。特に患者様が女性である場合、男性は「理解しようとする」生き物ではないようなので、普通の会話だけでは患者様の日々の調子を察することは不可能に近いようです。
先日ある患者様と話していて思いついたのですが、察してもらえないのなら、はっきり表示してはどうかという提案です。 リビングなど目に付くところに、ホワイトボードか何かを置いて、「今日の体調○○点」と毎朝書くわけですね。何点満点にするか(100点、10点、5点...)は、患者様それぞれの変動の幅によって決められたらいいと思います。
男性は、あれこれ言われるとうっとおしく思う傾向がありますので、こういうシンプルな表現の方が伝わりやすいと思います。しかも、聞く前に言ってくれる方がありがたい。
でもね、いつも低い数値を書いて、いつもいたわってもらおうというのはダメですよ。メリハリがないと信頼性が低下しますからね。
 外の火の手と内なる火の粉 2003.4.6
特別な出来事もないのに、自分の頭の中で色々と考えて不安になったり、落ち込んでみたりする方があります。 これは、城壁の外に火の手が上がっていないのに、中で火おこして火の粉を振りまくようなものです。
せっかく抗不安薬で城壁を高くしても、中で火の粉が舞ってしまっては、城壁を高くして外からの侵入を防いだ意味がありませんね。
中で火をおこすエネルギーがあるなら、それを別の方面に有効活用したいものですね。(言うほど簡単ではないこともわかってはいるのですが)
 心のベクトル 2003.4.29
ベクトルってご存じですか?  のように矢印の付いた直線のことですよね。高校の数学で習ったでしょうか? 何かの動きを表すことは、容易に想像できると思います。
では、表題の「心のベクトル」とは一体何でしょう? これは、心がどちらの方向を向いているかということです。 あなたの心のベクトルは外を向いていますか、それとも内を向いていますか? 
ベクトルが外を向いているということは、気持ちが自分の外の対象に向いているということです。風景を見たり、鳥のさえずりに耳を傾けたり、仕事に没頭したり、自分以外の人のことを考えたりしている時は、ベクトルが外を向いています。
これに対して、心のベクトルが中を向いているというのは、自分自身の事を考えているということです。過去の出来事に対する後悔とか、将来に対する不安とか。 さらに、他人が自分のことをどう思っているか、と考えることは、一見外を向いているようで、実は中を向いているのです。
心のベクトルが中を向くことは、「内省」という意味では、時には必要なのですが、あまり中ばかり向いていると、神経症に陥ったり、後悔が多いと抑うつ的になったりします。
自分のことを振り返ってみると、中学生の頃までは、中を向くことが多かったように思います。他人の意見に左右されて、一体どう考えていいかわからなくなることもありました。 しかし、高校生の頃だったように記憶してるのですが、A,B,C3人いれば、皆それぞれ考え方が違う。このどれに従おうかなどと考えていたらきりがない、ということに気づきました。
で、結局頼るものは自分の考えしかないんだ、という結論に到達しました。さらに、自分を表現するものは、自分が作ったり書いたりしたものでいいんだとも考えるようになりました。ちょっと飛躍が大きくてわかりにくいかもしれませんが、芸術家ならその作品、サラリーマンならした仕事の内容と量ということになるでしょう。
私は医師という職を得ましたので、私を表現するものは「患者様」ということになります。患者様という外の対象に取り組むことで、心のベクトルが中を向くことは更に少なくなりました。もちろん、診療はいつもうまく行くわけではありませんので、言葉の使い方を反省したり、薬剤の選択を反省したりすることは少なからずあります。
しかし、他の仕事と違って、生身の患者様を相手に、待ったなしの対応を迫られることで、外向きのベクトルが増え、不必要な中向きベクトルに悩まされないですんでいることは、ありがたいことだと思っています。
 心の3つのゾーン 2003.4.29
20年近く前に参加した心理療法のワークショップで、心の3つのゾーン、というワークをしたことがあります。心には、外のゾーン(outer zone)と、中(inner zone)のゾーン、そして中間(intermediate zone)の3つゾーンがあるというのです。
ワークでは次のようにします。二人一組になって、次の3つのやりとりを交互にします。
 ・「私に今見えるもの(聞こえるもの)は...です」 これは、目に見えるものや景色、耳から聞こえる音や声などで、その場で見聞きできるものを声に出して言うのです。
 ・「私が今感じるものは...です」 これは皮膚が衣服や、衣服を通して椅子などに触れている状態、あるいは、身体の内部の感覚でもかまいません。例えば、空腹感とか、どこかの痛みなどです。
 ・「私が今思うことは...です」 これは、その時に頭の中で考えている内容です。
何しろ相当前の記憶なので細部は異なっていたかもしれませんが、おおよそこんな感じです。で、この3つのうち、どれが一番やりやすかったか、と問われます。皆様どう思われますか、ちょっと想像してみて下さい。
初めに書いた3つのゾ−ンに当てはめると、見えるもの、聞こえるものが、外のゾーン、感じるものが中のゾーン、そして、思うことが、中間のゾーンです。そうですね、ワークに参加した人の大半がそうでしたが、多くの人にとって、中間のゾーンが一番やりやすいのです。
一体何が言いたいかというと、現代人は、見たり聞いたり触れたりという、五感を働かす習慣が薄れており、見ても見えていない、聞いても聞こえていない状態に陥っています。そして、頭の中で考える比率が極端に高まっているということです。つまり頭でっかち人間になっているのです。この、中間のゾーンでより多くの時間を過ごしているのです。
この傾向は、神経症や抑うつを生み出す素地になっているということは、容易に理解できるでしょう。思考の世界は自由で制限がありませんから、過去のことをいくらでも悔やむことができますし、考え得る最悪の事態をいとも簡単に想像できてしまうのです。
では、そこから抜け出すにはどうしたらいいのでしょうか? 私が患者様にお勧めしているのは、しっかり物を見ながら歩くことです。帰ってきてから、見た物をノートに書き止めることができるくらい、しっかり見てくるようお話しします。こうすることによって、中間から外のゾーンに気持ちが向かいます。前回紹介した、心のベクトルが外を向くことで、神経症や抑うつから抜け出す素地ができます。天気のいい時にぜひ試してみて下さい。普段通っている道でも新たな発見があり、なかなか楽しいものですよ。
 わかってほしい時には先手を打とう 2003.5.11
心身医学会でのホットニュースにも触れたいのですが、先に今日の外来での話題を一つ。私が診ていた自律神経症状のある女性の患者さんが、子どもさんの進学を機に、ご主人の実家で、すなわち舅、姑と暮らすことになりました。二年ほど前のことです。
移り住んだ先はとある地方の町で、ご主人の実家は農家です。同居とはいっても、同じ敷地内ということで、棟は別ですので、台所や風呂を共有することはありません。しかし、ご主人のご両親は農作業を続けてこられただけあって、極めてお元気です。嫁の自律神経症状など理解できる素地がありません。
少しは嫁らしく、ご両親の農作業の手伝いもしたいのですが、経験的にも体力的にもほとんどと言っていいほど困難です。農家の嫁は外出は控えめにして、よく働き、という図式が望まれるのでしょうが、この方は家事は最低限で、おまけに車でちょっと離れた大型マーケットまで買い物に出かけます。それは最小限の息抜きだったんですね。
ところが、お舅さんも近所の手前見かねたのでしょう、外出は原付でして欲しいと言われたことがあるそうです。さすがに元々ふらつきがあるため、2輪は自信がなく、それだけは断ったようです。
そんなこんなで、なかなかご両親との距離を測りきれないまま過ごしていましたが、決定的に困ることが一つありました。それは、息抜きの外出のために使う自動車の通り道を、農作業のためにふさがれることがあるということなのです。
舅さんから外出は原付でと言われていたくらいですから、真っ向から抗議することもためらわれます。通路がふさがれたら、仕方なく車での外出はあきらめていました。そうすると当然のこと、気分は上向きにはなりません。
ところが、そこに変化が起きました。一体どうしたと思いますか? 簡単なことです。外出したい時には、あらかじめ、車をふさがれる恐れのある通路の外側に出しておくようにしたのです。そうすると、ご両親も、ああ、今日は外出するのだなあとわかります。そうなんですね、ちょっと先に車を動かしておくことでこの方は自己主張をしたわけです。
それまでは、お互い腹の探り合いをしていたのだと思います。嫁が車で出かけるかもしれないと思っても、農作業は止められないので、気にはなりながらも、やむなく通り道をふさいでしまいます。それが、車を動かすことで、外出することがはっきりとわかりますから、腹を探らないですむのです。
こうなると、お互い楽ですね。4つ前に書いた、「心の調子表示板」も同じことです。わかってもらうためには、こちらから簡単な方法で先手を打つ。そうすることで、どれだけ無駄な心の働きを減らし、本来必要な心の作業にエネルギーを注ぐことができるか。 わかってくれないと嘆く前に、シンプルな方法で相手に意思表示をしてはどうでしょうか。
 心身医学会に出席しました 2003.5.21
既に1週間以上経ってしまいましたが、連休明けに沖縄で行われた、日本心身医学会に出席しました。連休が終わって間もないこの時期に何で? と、私個人的には日程(5/8、9)に不満があったのですが、学会長によると、過去10年の気象統計から、まだ梅雨入りしていない、晴れが多い日を選ぶと、この日程になったということでした。
確かに雨は何とか降らなかったし、帰ってきて数日すると、「沖縄梅雨入り」のニュースを耳にしました。あとからなるほど、と感じ入った次第です。
今回で沖縄行きは5回目なのですが、泳げる時期はこれで2回目。どこかでチャンスがあるかも、と一応水着は持って行ったのですが... 泊まったホテル(日航那覇グランドキャッスル)にはプールがあり、沖縄入りした日は午後少し時間があったので、ホテルのプールで一泳ぎ、と目論んでいたのですが、部屋の窓から見下ろすと、プールには子どもが一人と、あとは掃除のお兄さんだけ。
さらにまずいことに、部屋からプールサイドに行くためのサンダルやTシャツも用意していないことに気づきました。プールを断念という決心は5秒で定まりました。 代わりにホテル近くの首里城へ出かけました。 (続く)
 心身医学会に出席しましたー続き 2003.5.25
沖縄には過去4回も来ていながら、首里城を訪れたことはありませんでした。気温は当日の高松と変わらなかった(28℃)のですが、日差しが強く、暑さにくじけそうになりながら、歩いて15分くらいかけて、ようようたどり着きました。
日本の城の造りとは全く違った建築様式で、万里の長城を思わせるような城壁でした。中の展示を見ても、ここは日本というより、まさに琉球王朝と呼ぶにふさわしい所だと、改めて感じました。
守礼の門が、札幌の時計台も同じなのですが、写真などで見るより小さかったのには驚きました。見学後、学会会場に行く必要があったので、奮発してタクシーに乗りました。これは会場へのバスの便が少ないことと、何より、冷房の環境に身を置きたいという気持ちからだったのですが、後者の期待は直ちに裏切られました。当然入っているだろうと思った冷房が入っておらず、「生風」なのです。
現地の方は、これくらいでは暑いと感じないようです。そういえば、懇親会の席で挨拶をされた琉球大学の先生も、今日は少し寒いと言っておられました。ある程度暮らしていると慣れるものなのでしょうか。私は汗かきなものですから、慣れるとしても長期間かかるだろうなあと感じました。
 今年の心身医学会で気になったこと 2003.5.25
長寿の県沖縄で行われた学会なので、「ヘルスプロモーション」も大きなテーマでした。気候・食物・そして、祈りというポイントがあるようです。われわれが、ゴーヤだけをまねてみても、この「祈り」の要素がないと、健康増進は難しいと感じました。自然を尊び、祖先を敬い、親を大切にする、今日われわれが最も疎かにしているところが、沖縄では面々と受け継がれているようでした。
さて、学会の内容ですが、今回気になったうちの一つは、心身相関がどこまで解明されているか、さらに遺伝子レベルではどうか、というテーマでした。まだまだ、動物実験の域を出ないのですが、それでも、ストレスがかかることによって、脳の一部に形態学的な変化が起こったり、遺伝子の発現が変化したりするという内容でした。
遺伝子そのものは変化することはないのですが、ストレスにさらされることによって、遺伝子が作り出すアミノ酸やその合成物であるタンパク質の産生量に変化が起きるのですね。すると、脳の中での様々な情報伝達が影響を受け、ひいては、自律神経などを介した末梢の臓器の働きにも変化が生じうるといった、そんな内容でした。
このようなことが人間でも明らかになり、さらには、それぞれの個人において、この部分が変化しているという証拠が得られれば、心身症や不安・抑うつも、もっと周囲の方への理解が得られやすくなると思います。年齢的に私にはそのような解明は無理ですので、若い研究者にぜひがんばってもらいたい領域です。
もう一つ気になったテーマは、男性の更年期です。これまで、巷ではいろいろと話題になっていましたが、心身医学会できちんと取り上げたのは確か今回が最初のように思います。テストステロンという男性ホルモンが年齢相応の値と比べて低くなっている方がおられ、だるい、元気が出ない、等の症状が伴うことがあります。しかし、全てがそれで説明はできず、その方を取り巻く環境をあわせて考えることが必要であるというような内容でした。テストステロンの正常値の基準も今後変わって行く可能性もあり、まだまだ発展途上の領域と思えました。
私が以前から親しくさせていただいている精神科の先生が、数年ぶりに学会に出たけど、心身症というより、soft psychiatry(軽症の精神疾患とでもいえばいいのでしょうか) の領域が増えているように思うと、帰り際に言っておられました。私は内科の立場から、以前に比べると内科的な治療がよく効くようになったため、心身医学的な治療をしなくても、かなりの程度症状のコントロールができるようになったためではないかと思う、とお話ししましたところ、かなり納得して下さいました。
でも、精神科の先生がそのように感じられるくらいだから、確かに方向が変わってきているのでしょうね。学会としても、その辺りをちゃんと自覚しているのか、あるいは認識していないのか、よくはわかりませんが、学会の独自性をもっともっと打ち出していってほしいと、改めて感じました。
 身体症状の意味 2003.06.26
歯の治療をしたことがない、という方はまずいないでしょう。最近は歯を削る時にさえ麻酔をしてくれるので、痛い思いをして治療を受けることは減っているのでしょうね。 私の歯のほとんどは治療歴があるのですが、九大で研修をしていた頃と、結婚後大分県で暮らした2年くらいは、特によく歯の治療を受けました。特に研修でストレスを感じていたわけでも、結婚生活が苦痛であったわけでもなかったのですが...
その時、麻酔をせずに歯を削ることが何度かあったのですが、虫歯の根が深かったのでしょうね、かなり痛かったのです。痛いと訴えれば何とかしてくれたのかもしれませんが、ほんの思いつきで、ちょっと我慢してみようと思ったのです。「これは自分の歯ではない、自分の歯ではない」と繰り返し念じつつ耐えてみました。 すると、何とか耐えられたのですね。後で肩がカチンカチンになっていることに気づきましたけど。
こんな事を書いて何が言いたいかというと、原因のわかっている痛みは耐えやすいということなのです。 これに対して、原因のわからない痛みや身体症状は耐え難く、そのために不安が大きくなり、症状がさらに強くなるという悪循環が生じます。
ですから、例えばみぞ落ちの辺りが空腹時に痛むと訴えて来られた方に、内視鏡の結果、潰瘍が見つかりましたとお話しすると、その後治療が必要であるにもかかわらず、安心したような顔をされるんですね。これは、自分の痛みの説明がついたという安心感なのでしょう。
困るのは、検査をしても、症状の原因となるような病変が見つからない時です。原因がないということで、安心して症状が軽くなる方も、もちろんいらっしゃいます。 しかし、原因が見つからないことで、では一体この痛みは何処から来るんだ!? と疑心暗鬼になる方もおられるのです。
では、原因が見つからない時はどうすればいいのでしょうか? このような症状は機能的な変化(潰瘍のように形が変わるのではなく、筋肉が痙攣するように働きが変わること)であり、それはほとんどの場合、自律神経の作用を受けているのです。ですから、不安・緊張や悲しみ、怒りといった情動と関係が深いのです。
先日おいでになった患者様も、しばらく前からみぞ落ち辺りが痛むのですが、内視鏡では大きな異常はありませんでした。その結果を説明し、痛みが和らぐようなお薬をお出ししても、あまり痛みは軽くなりません。 そこで、どんな時(状況)に痛みが強くなりやすいですか? とお尋ねしました。
すると、そういえば、会議の前など緊張感が高まった時に痛みが強くなるように思う、と答えられました。そこで、「その痛みというのは、あなたが緊張しているということを、あなたに教えているんですね」とお話ししました。すると、「ああ、そうなんですね。私はあまり強く緊張しているとは思っていなかったけど、体が余計に緊張していたんですね、今まで気づきませんでした」とおっしゃいました。
このように、症状と生活上の情緒的な変化とを付き合わせてゆくと、症状の意味がわかるようになります。これが、最初の方に書いた「心身相関」への気づきなのです。 身体の形の変化でなく、心の変化が症状の原因であるという理解が進むと、このような症状のコントロールができるようになります。
身体症状にはまた、精神分析的に捉えると、象徴的な意味があると言われます。 たとえば、原因となる病変がないのに吐いてしまう「神経性嘔吐症」。これには、現在の自分の状況を受け入れられない、という意味が潜んでいるとされます。中には、この意味をお話しするだけで、ハッと気づき、しばらくして症状が消失してしまった方もおられます。
身体症状はさらに、警告の意味も持っています。 特に幼い頃から感情を抑えるようにトレーニングされてきた方は、精神的負荷を心で感じず、体で受け止めてしまいがちです。まだまだこれくらいは当たり前、もっとがんばらないと、と頭では思っていても、体は耐えきれず下痢をしてしまう。こんなことが起きてくるのです。
身体のちょっとした症状は(もちろん検査で異常がないことが前提ですが)、継子にしないで、薬で抑え込んでしまおうとしないで、あなたに何かを告げようとしている心と体からの「声」であると、一度考えてみてはどうでしょうか。
 こころを育む 2003.7.21
カウンセリングの中心となる考え方とは何でしょうか? いろいろな流派があり一つではないと思います。その中で、私が九大で教わったのは、「心の成長」ということでした。まだ弱く未熟な心を育んでゆくことが、カウンセリングに求められることと聞き、深く印象づけられました。
心を育むということは、具体的にどのようなことなのでしょうか。私の外来には、周囲の人に期待をして、それが叶えられないということが、身体的な症状に結びついている方が多くおいでになります。
自分の期待に沿うように人の心を変えることは、容易なことではありません。特に人生の半分以上を既に過ごされているような方の考え方や感じ方を変えることは、まず不可能です。特にその相手方が変える必要性を感じていない時は、のれんに腕押しです。
ですから、このように期待に応えてくれないという悩みに対しては、多くの場合、期待をしないよう、期待を捨てるよう、お話しします。その相手は「そのような方なのだ」という前提に立って、自分の期待度を下げていただくようにお話しします。
しかし、それだけでは少し寂しい気もします。たとえば相手がまだ若い場合や、結婚後間がなくて、お互いの距離を測り合っているような場合には、変わってもらうことを少しは期待していいようにも思いますよね。一緒に暮らすようになって日が浅いご主人に、せめてこれだけはして欲しいとか、これは止めて欲しいとか、そういった場合はどうすればいいのでしょうか。
ただ黙って期待して待っていても、期待が叶うものではありません。期待通りの行動が得られるように、相手の心に働きかけなければなりません。働きかけるといっても、ああして欲しい、こうして欲しいと口うるさく言っても、既に皆様ご経験のように、効果はないどころか、下手をすると逆ギレされてしまいます。特に、「あなたはいつも....!」というような言い方は、まず逆効果です。
ではどうすればいいのでしょうか。心を育むためには、まず種を蒔かなければなりません。 この時だけは、自分の希望を言わざるを得ないのですが、少し前に書いたように、「わたし言葉」で、希望を伝えるのです。「食事の後は一緒に食器を下げてくれたらうれしいな」、とか、「...してくれたら助かるんだけどな」というようにです。
で、種を蒔いたら、後は芽が出るのを待ちます。この時期は、いつ芽が出るかわからないので、忍耐が必要です。場合によっては蒔き続けないといけないかもしれません。芽が出ないからといって、種子に苦情を言う人はいないでしょう。決して芽が出ないことを責めてはいけません。せっかくの種が腐ってしまう結果になりかねません。
芽が少しでも出たら、水をやります。すなわち、好ましい行動に対しては、それがほんの少しであっても、大きく取り上げて、誉めたり感謝したりするのです。人にポジティブに取り上げられた行動は、その行動が増すことがわかっています。逆に、まだまだちょっとしたことだから、といって取り上げないと、すなわち水をやらないと、せっかく出始めた芽が枯れてしまうことになります。
この部分は、行動療法という考え方を使っています。行動療法では、望ましい行動には評価をし、望ましくない行動に対しては(非難をするのでなく)無視をする、ようにします。人に取り上げられない行動は減少してゆくことがわかっているからです。
このやり方は、子育てにも応用できます。多くのお母さん方は、良いところを取り上げるより、できないことを叱責してしまいます。大人の目から見たら、できないことが多いのは当たり前なのにね。でも、これではお母さんの気はすむかもしれませんが、子どもの行動は変わりません。子どもの行動を本当に変えようと思えば、「気がすむ」叱責は少し辛抱してみてはどうでしょうか。
 まだ見過ごされているパニック障害 2003.9.7
「パニック障害」という状態は、最近よく知られるようになってきました。車の運転中などに、突然、動悸、息切れ、めまい感などにおそわれ、ひどい時は死の恐怖を経験することもあります。一度ひどい発作が起こると、また起こるのではないかという「予期不安」が芽生えるようになり、悪循環を形成します。
少し前、大型車を運転している知人から、同僚がめまいが治らなくて困っているから相談に乗ってほしいと頼まれました。ドライバーと聞いて、もしかしてパニック障害かも、と思いながら本人に会いました。
頭の検査をしても異常ないので耳鼻科に紹介され、めまいの薬を飲んでいるけどあまり良くならないと言われます。運転との関係を尋ねると、トンネルを抜けるのが恐怖で、特にある決まったトンネルで症状が出るとのことでした。また、両側に高い防音壁があるような場所も、息苦しく感じるとのことでした。
一番の症状はめまいでしたが、起こる状況からパニック障害と判断し、効果があるとされる種類の抗不安薬に変更しました。すると、次第にめまいは治まり、運転への不安も軽くなって行きました。実際に大型車に乗ることができるのには2ヶ月くらいかかりましたが、さらにその後しばらくして、高速道路も通ることができるようになりました。
パニック障害は、動悸や息苦しさを自覚することが多いので、救急外来に受診することが多い疾患として知られています。狭心性や脳血管障害が疑われたりしますが、通常の検査では異常が認められないので、結局の所、異常なし、ですまされてしまうこともまた、多いのです。
このように、きちんとした診断がつかないのは、日本の医学教育にも原因があります。パニック障害は、精神科的な疾患に分類され、精神科で講義されるのですが、実際に受診するのは内科であったり、耳鼻科であったり、精神科以外の診療科がほとんどなのです。
国際的に有名な内科の教科書である「ハリソン内科学書」には、パニック障害について原書で3ページも書かれているのです! 受診する窓口は内科であるという認識がしっかりなされているのでしょう。しかし、日本の内科の教科書で、それほどのボリュームで書かれているものはありません。
日本の医学教育も最近やっと、・・・学から離れて、患者様の問題中心に考えるように変化してきています。われわれの所でも、幾つかのテーマに沿った統合講義を行っていますが、医学教育全体から見ればまだまだ十分とはいえません。
パニック障害は早期に的確な診断がなされると、治ることができる病気ですが、診断が遅れると慢性化して、長期の経過をたどることもあります。心当たりの症状をお持ちで未治療の方は、最寄りの心療内科か精神科にぜひご相談下さい。
 積極人間と消極人間 2003.10.8
色々な人を見ていると、物事を自らどんどん推し進めて行く積極的なタイプの人と、自分からは何かを提案したりしないが、これをやりなさいと言われたら何とかやりこなすという、どちらかといえば消極タイプの人間とがあるように思われます。
今回はやや自己分析的になるのですが、自分の小さい時を振り返ってみると、とっても引っ込み思案の子どもだったように思います。幼稚園は集団通園をしていたのですが、自分からはその列に入って行くことができず、先生が呼んでくれてやっと列に入って行けたという光景を今でも覚えています。図体だけは大きかったのですが...
小学校の高学年になってようやく生徒会など、人の前でも発言できるようになりました。しかし、おそらく、気質はその後も、そして今も余り変わっていないのだと思います。このような消極タイプ人間の特徴は、自分でテーマを見つけて行くことが苦手で、誰かがテーマを与えてくれると、それに対しては、一生懸命に取り組むことができるという点です。
したがって、組織や部署の「長」になることはかなりの負担で、二番手がいいんですね。「長」になって方向性を打ち出し、組織を引っ張って行くような状況になると寝込んでしまうかもしれないけど、「長」の方向性を具体的に実行して行くことはできるんです。こんな人って周りにいませんか? もしかしてあなた自身?
そんな人間でも医師になってやれているじゃないか、と言われるかもしれません。 だから選んだんです、臨床医。基礎医学に進むと、これはもう研究成果しか評価してもらえる物がないから、常に自らテーマを見いだして研究を推進して行かなければならない。それでも、いい(テーマを一杯抱えた)師に巡り会えれば、しばらくは何とかやれるかもしれませんが、いずれは独り立ちしないといけません。そんなことは自分にとっては恐怖以外の何者でもないのです。
臨床医の場合は、(幸いなことに今は積極的な営業活動が認められていませんので)おいでになった患者様に精一杯対応すれば、口コミで患者様が増える可能性がある。これは、私のような消極人間でもできるんですよね。全国版にはなれなくても、地方版(地域版?)「いい先生」にはなれる可能性がある。
しかし、臨床医でも、大学病院で生きてゆこうとすると、そうはゆかない。大学というところは、業績最優先ですので、臨床でもテーマを見つけて論文を書いていかないと、生き残ってゆけない。かく言う私も大学病院に勤めていますので、常日頃肩身の狭い思いをしているのですが、幸いなことに医療情報担当という、現業部門に職を得ましたので、何とか生き延びています。来年度からは独立行政法人となり、ますます評価が厳しくなるということですので、果たしていつまで生き延びることができるやら。
自己分析が過ぎてやや焦点がボケましたが、今回言いたかったことは、積極的であれ消極的であれ、どちらがいいというのでなく、どちらもそれなりに果たす役割があるということです。周りの期待などに応えようとして、適切でない役割を果たそうとすると、大きなストレスとなります。
 心療内科にかかっているだけで... 2003.11.4
初めの頃に、周囲の方にわかってもらえない患者様が多いと書きました。しかし、わからないのは周囲の人だけではないのです。一部の医師も、同じ反応をされるのです。
かつて、九州の病院に勤めていた時に、男性で腹部を中心とした種々の不定な症状を訴える方がおられました。その方がある時、急に耳が聞こえなくなりました。おそらく突発性難聴という状態だろうと考え、最寄りの大学病院の耳鼻咽喉科に紹介しました。もちろん、私が診療している内容や、治療薬剤についても記載した紹介状を持って受診していただいたのです。
ところが、帰ってきてご本人が言うには、何となく訴えていることをまともに取り上げてもらえず、しかも、陰で若い先生らに笑われているような気がしたとのことでした。笑われているような、というのは本人の意識しすぎなのかもしれませんが、あまり正当に扱われなかったのは確かなようでした。
最近も私の所にかかっていて、抗不安薬や抗うつ薬を服用している患者様が、交通事故に遭いました。車を運転していて追突され、幸い外傷はなかったのですが、頭部をひどく打撲し、頸椎捻挫を生じたようです。
この方は正直な方なので、心療内科にかかっていて、これこれの薬を飲んでいると整形外科医師にお話ししたそうです。頭部打撲による症状については、整形外科では詳しくはわからないので、脳外科を紹介してくれたそうです。しかし、肩から胸が痛いとかいった周辺の症状はよくわからないと言われる。翻訳すると、心療内科にかかっているあなたの訴える症状は、本当に身体的な原因で起こっているのか、心理的なところから来ているのか判別できないということのようでした。
整形外科の先生が判断に苦しむのもわからなくはないのですが、そう言われた患者様は、心療内科にかかっているというだけで、自分の言うことがすべて信用できないと言われているように思えるのです。
私が診ている患者様が、他科のお世話にならないといけないような病状が新たに起きてくることがあります。そのような時、診療内容を書いて紹介状を持っていっていただくのですが、持って行ってもらって役に立ったことより、患者様の訴えが信用されなかったり、ひどい時には精神病扱いされたりということもありました。
そのようなお話を聞くと、私自身がひどく悔しく、また一方、このような我が国の現状に寂しい思いをします。心身医学会などが中心となって、心身症や軽症うつ、神経症などについての啓蒙をもっと行って欲しいと切望します。(2003.11.6修正)
 やせ症の入り口 2003.11.21
私が初めてやせ症の患者さんと出会ったのは、九州大学の心療内科で、研修を始めた時でした。大学在学中に、「神経性食思不振症」という病名だけは聞いていましたが、主治医として受け持つことになり、初めは当然の事ながら戸惑いがありました。
初めて受け持ったのは、18歳くらいの女子学生さんでした。もともとそれほど太っていたわけではなかったのに、何でやせたんだろう、と不思議に思いながら、当時主流だった、行動制限療法のやり方に従って入院治療を行ってゆきました。
行動制限療法というのは、ご存じですよね。文字通り、患者さんの行動を、病室内で、本なし、ラジオなし、面会なし、などと制限しておき、体重が増えるとその制限を解除して行くんです。当時の順序は忘れましたが、本人が最も手に入れたいものから解除していったように記憶しています。体力がなければ、病室内で、本やラジオから許可してゆきます。
治療の最初に食事が摂れなくても、食べなさいとはいいません。食べることを強要すれば、親と同じだからです。制限されているものを取り戻したいという力を、食べるというエネルギーに変えてゆくんです。では、やせた理由はどうするのか? 必要以上にやせるには、それなりの理由があったはずです。
そこは、食べる食べないとは別に、やせ始めた当時からの話を、とことん患者さんとやって、やせざるを得なかった本人なりの理由を理解しようと努めます。この、常識的ではない、本人なりの理由というところがミソなのですが、多くの方は、体重がある程度戻ってから、本当の理由に気づくようです。
やせ症の入り口、と書きましたが、やせ症が増えているのは、「やせ=美しい」という、現代の風潮に根ざしていることは、疑いがありません。女の方は、何歳になっても、ある程度のやせ願望はあるようです。しかし、やせ願望がある女性がすべてやせ症に陥ることはありません。では、一体何が引き金を引くのでしょうか?
やせ症に陥った女性達(時に男性)の話を聞いていると、元々存在していたやせ願望に、幾つかの要因が加わって発症していることが多いのに気づきます。例えば、学校で友達関係がうまくゆかなくなった時に、たまたま父親など家族の誰かが入院して、母親が子どもの食事の世話をすることができなくなった、とか、夏の暑さで食欲が低下していた時に、部活の先生から身体のキレが悪いと言われたとか、2つ以上の要因が偶然に重なった時に発症しやすいという印象があります。
入り口はまちまちでも、途中からは同じような心情に至ります。これは次回に。
 やせ症に共通な心理状態 2003.11.30
前回はやせ症の入り口について書きました。元々あったやせ願望に偶発的な因子が複数重なって、やせが始まるのが典型的ですが、心配事が重なって食欲が落ちた状態が続いても、やはりやせに至ります。
やせるきっかけは様々でも、体重がある程度以下になると、そこからは共通の心理状態に至ります。まず、体重が減ることが快感となります。体重計の針が左に左に動くのを見るのが励みとなります。どこかで減るのが止まると、食べる量をもう少し減らしてみよう、と考え、実行します。
やせていっている時は、過活動になると言われています。この時は、自分で自分をコントロールできている、自分で立てた課題を達成しているという充実感にあふれているのですね。だから、気分も高揚するし、動き回ることはやせの促進にもなるので、まさに目的にかなった行動なのです。
それまで、いわゆる「いい子」で、親の敷いたレールの上を走ってきたと感じている子ども達にとっては、初めて自分で敷いたレールの上を歩んでいるという充足感があるのでしょう。
体重がかなり限界(多くの場合、30Kg台半ば)まで低下すると、親の介入が始まり、体重を元に戻す時期がやって来ます。この時に共通して見られるのは、最低体重がゼロレベルと認識され、そこから体重が増えてゆくのは、元に戻るのではなく、「太る」と感じるのです。周囲の大人達は元に戻すだけ、と考えるのに対して、当の本人達は少しでも体重が増えると「太った」と認識する。
ここが大きな違いで、この相違点を親たちがちゃんと理解しないと、子ども達は「誰もわかってくれない」と感じます。また、体重が増えてゆく過程は、本人にとってはせっかく食べたいものも我慢して手に入れた「貴重なやせ」を手放すことにもなります。
やせる過程が「獲得」の過程なら、体重を増やす過程は「喪失」の過程となります。親を始め周囲の人間と治療にかかわる者は、この点をしっかり認識しておかないと治療が進まないことになります。
何人ものやせ症に陥った方々を見ていると、入り口は様々でも、体重減少後の心理はおおむね同一で、ここの所に理解を示すことが、治療の始まりとなります。治療についてはまた後ほど。
 一を聞いたら一のみ知る 2004.1.20
普通は、「一を聞いて十を知る」、ですよね。もちろん、言外の意味まで感じ取る、と良い意味に使われます。ところが、よく考えてみると、残りの九はあくまで推察です。一を言った人の性格や行動パターンを熟知していれば、確かに残りの九を間違いなく察することが出来るでしょう。勤続十数年の社長(たいてい頑固でワンマン)秘書さんが典型例ですね。
でも、そんな間柄でない人が一を言った場合はどうでしょうか。二、三はわかっても、後の七〜八は難しいですよね。しかし、世の中には、一を聞けば、九、いや二十も三十も考えないと気がすまない人たちがいるのです。こう書けば、あなたの周囲で一人や二人はすぐに頭に浮かぶでしょう。もしかして、あなた自身がそうかもしれません。
人間関係が薄い、すなわち、情報が少ないところで推測しようとするとどうなるでしょうか。そうですね、多くの場合、「邪推」となる。つまり、いいことは考えないんですよね。負の思考ばかりしてしまう。しかも、想像というのは全くの自由なので、どんどこどんどん拡がってゆく。まるで雪だるま状態です。
そうして、しんどいしんどいとおっしゃる。何故か? 自分の創り出した想像の世界で闘っているからなのですね。ああなったらこうして、こうなったらああして... そりゃあ、しんどいですよ、際限がないんだから。テレビゲームで、倒しても倒しても敵が出てくるようなものです。
このしんどさから逃れるにはどうしたらいいか? 答えは簡単、事実を見ればいいんです。事実とは、おわかりですね、一の言葉のことです。相手が発した言葉だけを、判断の基準とするんです。言っていないことは気にすることはありません。相手がAと言った場合に、でも、本当はこちらがBと受け取ることを期待しているのかも、なんて、考える必要は全くありません。
口から出た言葉には重みがありますが、想像の産物には重みはなく、また何の保証もありません。Aと言われて、あなたが勝手に深読みしてBと判断して行動しても、後で、Aと言ったはず、と言われれば、全てが徒労に帰してしまいます。
というところで、今回のテーマとなるわけです。察しが悪いと言われれば、すみません、想像力が足りないもので、と言っておきましょう。もちろんこれは、うっとおしい人間関係での話で、好ましい人のために「思い遣る」ことには、際限がなくてもいいことはいうまでもありません。
 今一歩治りきらないのは何故... 2004.3.4
病気の治り方については、皆様はどんなイメージをお持ちでしょうか? 一直線に治るというイメージでしょうか。急性疾患なら、確かにそんな治り方もします。しかし、心身症にしても、うつや神経症にしても、症状が出てからある程度以上時間が経ったものは、そう簡単には行かないのです。
一口で言うと、頂上まで登り詰めた山を下るイメージでしょうか。症状に耐えきれなくなって医療機関を受診し、それまでの経過や辛い気持ちを聞いてもらえて何かをつかんだり、あるいはお薬がうまく合ったりして症状が取れる時は、五合目くらいまではすっと楽になるのです。しかし、そこからは同じペースではゆきません。
富士山の裾野を思い浮かべて下さい。頂上からある所までは切り立っていますが、そこからはなだらかな下り坂となります。少し慢性化した病気の治り方はこんな感じです。ですから、例えば初めの2週間で半分くらい症状が軽くなったからといって、次の2週間でゼロになるわけではないのです。うまくいって初めの2週間の半分くらい、いやもうちょっと少ないかもしれません。
よく、薄紙を剥ぐようにと言いますが、1合目付近からはまさにそんな感じです。初めよく効いたお薬が、なんだか効きにくいと感じることもあります。でも、これは違うんですよね。ちゃんと効いているのですが、2週間で1000m下るのと、10m下るのとでは、変化(下ったー! すなわち良くなったー!)の度合いが違ってくることは、おわかりいただけると思います。
1合目以降は、良くなり方が減ってくる事に加えて、もう一つやっかいな問題が加わってきます。それは、周囲の期待です。高い山の頂上にいる時は、酸素も薄いわけですから、身体もきつく、日常生活もままなりません。そして、それは周囲の人にもよくわかります。家庭の主婦が患者様の場合、普段何もしないご主人も、さすがに食器の後片づけをしようか、明日の朝はゴミ出しをしようか(我が家の実情を引き合いに出しているわけでは...)、などと少しばかり優しくなります。
で、奥様はというと、このあたりは身体はきついのですけど、気持ち的にはご主人の変化が心地いいのです(もちろんこれは無意識的なことも多いのですが)。その後も治療がうまくいって、1合目のあたりまで下ってくると、かなり症状は取れてきて、普段の生活はおおむねできるのですが、まだ何となくしっくりこない。今日は気分がいいからと、ちょっとがんばって溜まった家事などをすると、しんどいなあ、と感じる時期になります。
この頃ご主人はどうかというと、「妻もようやく元気になってきたようだ、昨日も帰りが遅くなり、寝るのが遅かったので今朝は特に眠い。ゴミ出しもそろそろいいかなあ」、と思ってしまいます。この時に、もう一踏ん張りしてゴミ出しを続けてくれたら、奥様は本当に良くなって行けるのですが...
ここまで書いてくると、もうおわかりですね。体調が悪い時にご主人が示してくれた好ましい行動が取り消されようとすると... ちょ、ちょっと待って、私はまだ完全には良くなっていないのよ、もう少しゴミ出し(こだわっていますが)を止めないで。と1合目の状態が続くことになります。もちろん、奥様はこのことも無意識のことが多いのです。何で私はこれ以上良くならないのですか? と医師に相談(時に詰め寄り)した時にそんな気持ち(専門的には疾病利得といいます)を指摘されて、ハッと気づくことが多いのです。
こんな関係は、妻−夫だけではなく、嫁−姑の間にもあるでしょうし、実際の親子の間でも生じる可能性があります。では、病気になっても優しくしなくてもいいのか? 優しくするとかえってよくないのか? これは違いますよね。症状が出たのは、優しくない関係が元々原因しているのです。症状が出た時に優しくしてあげることによって、症状の改善が速まるなら、それは元々必要な優しさだったのです。もうこれくらいでいいだろうと思わずに、そうか、これが欠けていたんだ! と気づいてあげて下さいね。
 最近物覚えが悪くて... 2004.4.8
この頃記憶力が低下してきて、という訴えをよく耳にします。薬のせいでしょうか、とか、そろそろ呆けてきたのでしょうか、と心配されます。しかし、ほとんどの方は、薬が効きすぎているのでも(もちろん副作用でも)なく、呆けているのでもありません。この記憶力低下には、2つの場合があると考え、患者様に説明しています。
その一つは、頭の中の運動場が既に一杯で、新たな物質を運び込むスペースがない場合です。無理矢理運び込むと、既にあった荷物がトコロテン式に押し出されます。で、押し出された方の記憶が薄れるのですね。 これは、仕事などが忙しくて考えることを休めない場合や、運動場に空きスペースがあると不安で、いつも何かを考えていないと気がすまない方に見られます。
もう一つは、元々運動場に持ち込めていない場合です。これはどういうことかというと、目の前のことに集中できていないために、見たり聞いたりしたことが、記憶としてインプットされていない状態です。目の前の人と話をしていても、気持ちは別の所にある、という経験は誰でもお持ちでしょう。こんな時、その場はしのげても、話した内容や相手の表情などははっきりとした記憶には残っていないのです。
私が心身医学に接し始めた時は、「今、ここ」という言葉をよく耳にしました。文字通り、過去に囚われず、先のことを心配しすぎないで、その時その時に集中するという意味です。 しかし、そうはいっても、気になっていることが多いと、なかなかその場に集中しきれません。
かく言う私も、外来で患者様に接している時には、一言一句聴き逃さないように耳を傾けているつもりなのですが、時として、その前にあった会議の内容が気にかかったり、数人前の患者様のことが心に遺ったりすると、聴けていないことがあります。心療内科を自称している医師にとっては、あるまじきことなので、そんなときは、診察終了後、壁に向かって深く深く反省しています。
というわけで、最近物覚えが悪くなったと感じておられる皆様、このどちらが当てはまるか、振り返ってみて下さい。もし、第三、第四の場合がある、という方は、遠慮なくメールでお知らせ下さいね。お待ちしています。
 春眠暁を覚えず...ですが 2004.4.17
ようやく春らしい気候に、と思ったら一気に夏の気温!! ここ何年かこんな傾向が続いているように思いますが、ちょっと身体がついて行きません。車の中は既にエアコンが活躍しています。私は上着を肩にかけて歩けるようになるこの時期が一年で一番好きなのですが、残念なことに、長くは味あわせてもらえません。
こんな気温では、春の朝寝もままならず、暑さで起きてしまうのではないでしょうか。「春眠暁を覚えず」、はそのうち死語になるのではと密かに懸念しています。
朝だけでなく、気温が上がってくると、寝付きも悪くなってきます。不眠の訴えは、心療内科でも最も多い訴えの一つです。振り返ってみると、不眠については一度も書いていなかったので、最近の考え方をほんの少し紹介します。
まず、どうして眠れないかということです。脳の中には、「睡眠系」という、眠りに向かわせる物質と、「覚醒系」という目覚めに向かわせる(起きている状態を維持する)物質とがあると考えられています。通常は、夜になると、ノルアドレナリンなど覚醒系の物質が減り、メラトニンなど睡眠系の物質が増えて、眠りに至ります。
しかし、昼間の精神活動が非常に盛んであると、覚醒系の物質が過剰に産生され、夜になっても、睡眠系より覚醒系の方が過大な状態が続き、その結果として寝付けなくなります。また、夜になってから、あれやこれやと考えることもまた、覚醒系を肥大させます。
ですから、寝付くためにはこの覚醒系を小さくしてやる必要があります。夕方以降、あれこれと(通常は考えなくてもよいようなことについて)考えを巡らすのをやめること、寝る少し前にぬるめのお風呂にゆったりと入ること、静かな音楽を聴くことなどは、この覚醒系を鎮めることに役立ちます。
近年の睡眠導入薬(ベンゾジアゼピン系といいます)は、昔の睡眠薬(バルビツール系など)のように大脳皮質にはほとんど作用せず、この覚醒系の物質の作用をブロックしてくれます。その結果、睡眠系が相対的に覚醒系より大きくなり、寝付くことができるようになります。大脳皮質に作用しないことから、巷で言われているように、服用を続けると呆ける、などということは決してありません。ただ、服用してから長い間起きていたり、途中で目覚めたりすると、その間の記憶が失われることがあるので(ベンゾジアゼピン健忘といいます)、この点については気をつけなければなりません。
睡眠は取ろうとすればするほど、すなわち、寝ようとすればするほど、眠れなくなる、という経験は誰しもお持ちでしょう。最近の行動医学の考え方では、眠くなるまでは寝床に行かないことが推奨されています。眠れないのに寝床にいると、寝床=眠れないところ、という条件付けができてしまうからです。ですから、眠くなるまでは起きていて、眠くなったら寝床に行き、起きる時刻は一定にする、これが秘訣のようです。
寝酒も、寝付きには役に立つものの、深い眠りには不利とされています。私が昼前頃と、夕方にたまらなく眠くなるのもこのため?? でも一日の終わりの自分へのご褒美はやめられないしなあ...
長々と付き合っていただいてありがとうございました。 少しは眠くなりましたか? 
では、おやすみなさい。
 どんな人間関係をお好みですか? 2004.5.27
久々の更新です。前々から、診療の場でも最もよく見られ、しかも解決が難しい、人間関係について書きたいと思っていました。しかし、なかなか図を書く暇がなくて、これまで延ばし延ばしになっていました。幾つかの人間関係モデルを図にしてみましたので、ご自分とその周囲の方との間の関係を考える上で参考にして下さい。
これは見てわかるように、AとBとがまだ出会っていない状態です。時に、どちらかが他方のことを噂で聞いていたり、あるいは、マスメディアに登場する人のように、片方が一方的に知っていたり、ということはあるかもしれません。
これは、出会ったばかりの状態ですね。人と人にはいわゆる相性があり、これは最初出会ったときに、おおかた予想が付くものです。そのピントきた相性の有無で、上のようにまた他人になるか、または下のように親密な関係を築いて行くかが分かれるのです。
これは、AとBとの関係がかなり深まってきた状態です。図のLの幅が親密さを現していますが、その幅がどうであれ、お互いが相手を必要とする程度が一致しているため、その関係はうまくゆきます。
これは、上の関係とは違い、AとBとの求めている関係の深さが異なっています。見ておわかりのように、AはBに対して、より深い親密さを求めているのに、Bはそれほどと思っていません。期待に応えてもらえないために、体調を崩してわれわれの所においでになる患者様の中に多いパターンです。
Aはまた、相手に対して、自分と同じような考えを持って欲しいと望む傾向があります。自分は自分、とは考えられず、人が自分と違った考えを持っていることがわかると、とてつもなく不安になります。このために必要以上に相手に合わせてしまう傾向があります。合わせて丸く収まればいいのですが、自分本来の想いとは違った思考や行動をするために、身体が反乱を起こすことがあります。これが心身症の一つのパターンです。
これは上の反対ですね。Aは人との関わりをあまり持ちたくない人か、あるいは、たまたまBとの関わりを深めたくないのかもしれません。このような場合、Aには多少のプレッシャーはかかるものの、不思議とあまり体調を崩すことはありません。Bには欲求不満が残るんですけどね。
 病気はすべて悪者か? 2004.7.11
久々の更新です。何しろ暑くて、作文意欲が湧かず... それはさておき、以前に「症状の意味」について書きましたが、今回は病気の意味についてです。
多くの方にとって、病気は避けたいものであり、自分の身体から追い出してしまいたいものでしょう。しかし、時によっては心と身体の暴走を止めるブレーキの役割を果たすこともあります。
ある30代の男性患者さんは、繰り返す下痢で受診されました。かなり多めに整腸剤を飲んでも、少し強めの下痢止めを飲んでも治まってしまわないとおっしゃいます。仕事は設計関係で、有能な方らしく仕事の量は増えるばかり。最近はイライラすることも多く、上司からの仕事の依頼にも腹が立ち、いけないと思いながらつい「キレた」発言をしてしまうこともあると言われます。
で、一方では食事をすると、間もなくトイレに駆け込むという状態が続いているわけです。診断は「過敏性大腸(心身症)」ということになると思いますが、さて、この「病気」をどうとらえたらいいでしょうか?
この方は当然下痢を止めて欲しいわけですが、でも、下痢という症状がなかったとしたら、この方は今後どうなると思いますか? この方は、仕事ができる分だけプライドも高く、また上司からの評価も当然のごとく気になります。自分のエネルギーを「評価」に変えているわけですからね。ですから、身体が言うことを聞けば、仕事を断ることをしないで、どんどん増やして行くことが予想されます。
そうするとどうなるか。人は無限のエネルギーを持っているわけではありません。補充しないで、すなわち休息を取らないでエネルギーを消費すると、どこかで枯渇してしまいます。この方のように、身体を使うというより頭を使う職業の方は、精神的エネルギーが身体より先にすり減ってしまうことが予想されます。これが「うつ」状態です。
この方の場合、下痢という症状は何をしているか、もうおわかりですね。そうです、この方が無制限に仕事を引き受けて、心と身体を酷使した結果大きく体調を崩さないようにブレーキをかけているんです。何かちょっとした病気、特に症状が出るような病気があることで、仕事や生活の上で無茶をしないように気をつけるようになります。これを「一病息災」といいます。   ちなみに、皆様が初詣で祈願するのは「無病息災」です。
病気の中には、遺伝的な要因が大きく、生活環境とはほとんど関係なく発病してくるものもあります。しかし、かなり多くのものは、生活状況、特に身体的な負荷や食生活、そして種々のストレスと密接に関係して発症します。その意味では、病気はそれまでの生活の歪みを表現しているということができます。
ですから、病気になった時に、どうして私だけが!? と恨みがましく嘆くのではなく、どんな歪みが問題であったのか、今後どう修正していけばよいのかを考えるようにすることで、よりよい生活を送ることができるようになります。よく耳にする「病気と共存」という意味も、飼い慣らして大暴れをしないように手なずけるというより、自分の中の小さな守り神であるというように、積極的な意味で考えてみてはどうでしょうか。

 高貴な病気!? 適応障害 2004.8.5
今年は台風の当たり年のようで、1ヶ月余りの間に3回も台風に見舞われました。久々の警報で学校が休みになったり、逆送する台風があったり、忍者のように突如現れる台風があったり、まったく目が離せません。おかげで、最近はインターネットの天気予報に釘付け状態です。台風に伴う水害に遭われた方々には、心からお見舞い申し上げます。
そんな中、皇太子妃雅子様の病名が公表されました。その名も「適応障害」。医師団としては相当な考慮の上での公表だったと思われます。この病名が、ご本人にとってどうかということはさておき、この病名は、一般の方々には大きな恩恵になったと思います。
これまで、はっきりした精神障害と正常との間にある方々については、十分認知されていませんでした。誰でも、過酷なストレス状況にあると、心身に不調をきたすわけですが、それが「病気」としては認めてもらえず、怠けている、気が弛んでいる、などと本人の気持ちの問題にされてきたのです。医師の側も、訴えに見合う検査結果がないため、病名を付け難かったわけですね。そこへ「適応障害」。この病名のおかげて、今後救われる方々は多いと思います。しかも、この病名を付けるためには、患者様の身体面だけでなく、心理面にも目を向けなければならないわけで、心身医学にとっても追い風と言えましょう。
 性差医療のインタビューがありました 2004.10.16
「性差と医療」という雑誌を出している、じほうという出版社のインタビューが約1ヶ月前にありました。もっとも、これは、私がメインというわけではなく、泌尿器科で男性・女性の更年期外来を担当している医師へのインタビューが主で、私はそこから紹介を受けるという立場でのインタビューでした。
それまで、診療をする上で「性差」ということをあまり意識したことはなかったので、始めは何をお話ししようかと迷いました。女性の更年期障害と思われる方の診療経験は少なくありません。しかし、男性の更年期障害については、患者さんのご要望で男性ホルモン(テストステロン)を測定したことはありましたが、それらは散発的で、まとまった治療経験はありませんでした。
で、結局、心療内科受診の男女差について感じていることをお話しすることにしました。私が心療内科の外来で診ている患者さんは、きっちり数えたことはありませんが、おそらく8割以上が女性であると思います。これにはどういう意味があるのでしょうか? 女性の方がストレスを受けやすく、それが身体症状として現れやすいのでしょうか? 確かに仕事と家庭とを両立しないといけない立場の女性は、専業主婦よりは受けるストレスは多いと思われます。
でも、患者さんの数が違う、男性患者さんが少ない理由はそれだけでしょうか。男女の行動や思考の違いということについては、「嘘つき男と泣き虫女」、にもわかりやすく記されていますが、男性は孤独に闘う生き物で、基本的に自分以外は全てライバル。それに対して、女性は横の繋がりを求めます。誰かに自分の気持ちを聞いてもらいたいと思う。いわゆる「井戸端会議」が成り立つのはこのためです。
女性患者さんの訴えの中で少なくないのが、「夫が自分の気持ちを聞いてくれない」ということです。ご主人は、仕事で疲れているためもあるでしょうが、どうも男性は根本的に、人の話を聴く、気持ちをわかろうとするような頭の構造になっていないようです。で、私が何をしているかというと、ご主人の代わりをしているわけですね。月に1,2回、代理夫として色々とお話しを聴くわけです。もちろん、永遠に代理を続けるわけにはゆきませんので、ある程度貯まっているものを吐き出していただきながら、男性とはそういう生き物であることを受け入れていただくようにもって行きます。
話が少しそれましたが、どうして男性の患者さんが少ないのか? 既にお気づきの方もあるかもしれませんね。男性は自分以外は全てライバルで、誇り高き生き物ですから、心療内科を受診することは、自分の心の弱さを認めるように感じるのです。受診が他人に知られることになったらこれはもう大変なことなのですが、自分自身ですらも、心に問題があるということは受け入れがたいのです。
ですから、多少精神的にきついなと感じていても、弱音は決して吐かずにがんばる。その結果、疲労困憊して、休職寸前まで追い込まれて、ようやく受診となるのです。しかも、身体症状を愁訴として、内科など身体科を受診し、そこからの紹介で、心療内科や精神科を受診するというのが通常の経過です。
こんなになる前に来てほしいな、とよく思うのですが、どうも、男性は女性に比べて、自分の感情や気持ちに気付いたり、それを言葉で表現したりすることに慣れていないようです。 女性はね、慣れているんです。例の「井戸端会議」や、長電話で。「ねえねえ、ちょっと聞いてー」。男にはできない芸当ですよね。
そこで、受診の窓口として役に立つのが「男性更年期外来」です。心の調子が悪いとは言えなくても、体の調子が悪いというのは大義名分が立つ。もちろん、本当に男性ホルモンが低下している場合もありますので、50歳前後で何となく体調がおかしい、元気が出ない、という場合は受診をお勧めします。で、ホルモンに異常がなければ、その時は心療内科へどうぞ。
男性はこのように、孤独で誇り高く、そして可愛い生き物なんですよ、と男の私が言っても説得力がないですかね。
 診療からの話題を2点 2004.10.31
熟年離婚は何故起こる?
最近、成田離婚ならぬ熟年離婚が増えていると聞きます。夫が定年退職を迎えたその日に離婚届を突きつけられ... あまり考えたくない構図です。 既に社会学者などはその原因を考察していることとは思います。しかし、識者の見解はまあ置いておいて、ある患者さんと話していて気付いたことがありますので、ちょっと聞いて下さい。
夫婦の間で、妻は更年期や、同時期の子供の巣立ちなどで、夫より一足早く、危機を迎えます。手塩をかけた子供が独立してしまい、情熱を注ぐものがなくなり、心にポッカリ穴の空いた状態が生じます。体も女性ホルモンの減少で曲がり角に。えもいわれぬしんどさと、得体の知れない焦燥感、不安感が日々襲ってきます。この時、夫はまだ仕事の上では現役バリバリで、時に中間管理職として職場での人間関係の対応に追われ、本来最も身近なはずの妻のそういった危機を思い遣る余裕はありません。妻が体調の不良を訴えても、「医者に行ってこい、自分にはわからん」の一言で片づけられてしまいます。
妻はその後数年間、心身ともに辛い日々を過ごしますが、そのうち、何か自分なりの生き甲斐を見つけて行きます。運動や文化サークルに加わったり、ボランティア活動をしてみたり。で、次第に独り立ちして行くわけですね。そのようにして、夫が定年退職を迎える日には、夫からは精神的にしっかり独立してしまっている。危機が早い分だけ、脱するのも早いのですね。
ところが、夫はというと、よっぽどしっかりした趣味でも持ち合わせていないと、退職からが危機なんですよね。で、今後どうしたらいいんだ、と妻に寄りかかろうとするが、どっこい、更年期に夫から冷たくされた経験のある妻は、「あなたはあの時の私の辛さをわかろうとしなかったでしょう」、と簡単には寄りかからせてはくれません。それだけならまだいいのですが、危機のギャップが大きい場合には、離婚の危機がここに潜んでいるのですね。
男性側からこれを避けるためには、更年期を迎えた妻に優しい言葉をかけてあげることと、定年後に時間を過ごせるような趣味をしっかり持っておくことでしょうね。


決められないことはサイコロでどうでしょうか
皆さんの中で、物事を決めきれない方はいらっしゃいませんか? 女の人の買い物に付き合う(もちろん家族ですよ)と、特に衣類はなかなか決めてくれないのでねえ。これで決まりか、と思うと、もう少し見てみよう、とキッパリと歩き出す。この繰り返しでこちらはもう足が棒状態。もっといいものがあるかもしれない、見逃してはなるものか、と思うようです。こちらの買い物は、「それでいいんじゃないの」、とまず一発で決まるんですけどね。
それはさておき、AかBか決めきれないときは、どうしていますか? ほぼ同じような条件で、決め手を欠く。Aをとれば、Bがよかったかあ、と思うし、Bを取ればその反対。社員旅行で、A、B2つのコースがあり、どちらも行ったことがなく魅力的。これに、仲のよい友人2人が、別々のコースを選び、どちらからも誘われようものなら、これはもう眠れませんね。もうー、誰か決めてーー!! 状態です。 
そこで、サイコロの登場です。サイコロに決めさすのです。何と、無責任、いい加減! と思われるかもしれません。でも、このように物事を決めがたい方々は、それぞれの選択肢については、既に十二分に吟味していますから、最後の一押しはサイコロで十分なのです。サイコロのいいところは、6つまでの選択肢に応えられるということです。2つなら例えば偶数か奇数か、3つなら、1,2か3,4か、5,6で決まりです。4つなら、1から4のどれかが出るまで振ればいいし、5つも同じです。まあ、7つ以上を同じ条件で迷うことは極めて少ないでしょうから、通常の迷いはサイコロで解決です。どうでしょうか、小さなサイコロを、そっとポケットか財布に忍ばせておいてはいかがでしょうか。
 体重が増えたことがバレてしまう!! 2004.12.12
摂食障害、特に拒食症の患者さんの気持ちは、かなりわかっているつもりだったのですが、先日やせにこだわっていたある患者さんの話を聞き、そんな気持ちもあったんだー、と久々に複雑な心境の一旦を垣間見たように思えました。
やせに至る過程は一つではありませんが、一旦やせた後の心情は共通したものがあります。前にも書いたように、一旦やせると、その体重がゼロレベルとなり、そこから増えることは、周囲の人間が思っているように、元に戻るのではなく、本人達にとっては「太る」ことを意味するのです。
今回知ったのは、本人の想いだけでなく、周囲の人々に自分がどう映るかという観点です。元来やせは他人との関係において成り立っています。周囲に自分がどう見えているか、やせたことをちゃんと認識してくれているか。また、自分よりやせた人を見ると、メラメラと競争心が芽生え、あの人よりさらに細くなりたいと思うのです。無人島で一人いれば、まずやせることなんてしないでしょうね、きっと。
で、やせから回復する(これは周囲の人間の観点ですが)過程で、体重が増えると彼女(時に彼)たちはどう感じているかということについては、これまでは本人の視点でしか見ていませんでした。先日話した患者さんによると、体重がほんの少しでも増えると、増えたことが周囲の人間にバレてしまう、と感じるのだそうです。
本当はそんなことはありえないのですが、(体重が増えたことを)あの人も知っている、この人も知っている、と思ってしまうのだそうです。そのため、それ以上体重が増えることに抵抗してしまう。時には前の体重まで再度減らそうとする。この、周りの人間が知っているに違いないという考えには、これまで思い当たりませんでした。やせ症の患者さん全てが同じように感じているわけではないかもしれませんが、そんな考えを抱く方があるということを知っておくことは大切なことだと思います。
それで、体重が戻って(しまい)、やせへのこだわりが減った(まだ、なくなったとは言われません)今はどう感じるのか。これも興味があるところです。今は、体重が増えても、自分が言わなければ周囲の人間にはわからない、と思うそうです。これはその通りですよね。腹囲が増したと感じたら、着るものでごまかして、その間にまた体重を戻そうと考えるそうです。やせているときは、数100gの体重増加にも過敏になっていたのに、今では1,2kg増えても人にはわかりっこない、と考えるようです。
何という心境の変化でしょうね。このようなことを話してくれるのは、決まってやせへの呪縛から抜け出せた後です。抜け出して振り返ってみて、あの時はこんな風だったんだと、思い起こせるようです。自分にはもう役に立たない情報でも、次の患者さんのためには大変役に立つ情報なので、われわれ治療者にとっては、とても貴重なものとなります。今後もう少ししたら、さらにまた新たな情報を提供してくれるかもしれないので、これからの展開を楽しみにしているところです。
 内罰、無罰、外罰傾向 って? 2005.1.25
いったい何のことでしょう? これは、何か欲求不満が起きた時に、気持ちがどの方向を向くか、という分類です。PFスタディという心理テストで、使われている分類ですが、患者さんとお話ししていると、まさにこれ、と思い当たることがあります。
例えば、患者さんが予約時間を確認するために、朝8時半頃に受付に電話をしてこられて、電話口で、「○○先生をお願いします」、というと、「○○先生はまだ来られていません」と、紋切り型で事務的な返事が返ってきて、次に何か言う前に電話を切られてしまったとします。患者さんは、もう少し会話を続けて、事務員でわかるのであれば、予約時刻を確認したかったのかもしれません。
このような場面は日常生活でも時折見られますね。さて、ここで、心の中にはどんな気持ちが芽生えるでしょうか?
@何という対応の仕方だ! けしからん。今度行ったら投書箱に苦情を書いて入れてやろう。
Aおかしいなあ。普通はもっとソフトに対応してくれるのに、今日は何か事情があったに違いない。
B(クシュン)きっと何か私の言い方が悪くて、機嫌を損ねてしまったに違いない。ああ、どうしよう...今度行って顔を合わせるのがつらいなあ。
いかがでしょうか。おわかりですよね。@が外罰傾向、Aが無罰傾向、そして、Bが内罰傾向です。さて、何が問題なのでしょうか? 外罰タイプは、自分に対してはほとんど問題はありません。ちょっとカッとなるので、その瞬間血圧が上がるくらいでしょうか。しかし、これが行き過ぎると、「社会が悪い」などという「信念」を産み、反社会的行動を起こしてしまうかもしれません。
内罰タイプはどうでしょうか? これは、悔いが自分の内面に向かい、しかも外罰タイプのように感情の動きが一瞬でなく、ネチネチと自分を責めてしまうため、自分の体調を損ないやすいタイプと言えます。また、精神面でも抑うつに陥りやすいタイプです。人間にはある程度反省する、内省する気持ちは必要なのですが、本来相手にあるはずの問題を自分に取り込んでしまうところが、内罰タイプの共通した特徴です。
例えば、職場の上司が朝から機嫌が悪いとします。この機嫌の悪さにも、内罰タイプの方は敏感なのですが、さらに、それを自分の言動と関係づけてしまう。「昨日自分の仕事がはかどらなかったから、今日は機嫌が悪いんだろうか...」、とか、「私の朝の挨拶の仕方が悪かったんだろうか...」、などと延々考えてしまうんですよね。こうなったらもう仕事どころではありません。上司の言動が全て気になって、挙げ句の果ては、胃が痛い、食欲がない、などとなってしまいます。
このような上司は、たいていは自分の内部に感情の起伏があって、部下の言動などはほとんど関係ないのです。ですから、無罰的に、「ああ、今日は機嫌が悪いなあ。また奥さんと喧嘩でもしたんだろう。今日はできるだけ話しかけないようにしよう。クワバラ、クワバラ」と、適当に距離をおいておけばいいのです。
いかがでしょうか。私たちの所によくおいでになる、内罰タイプの方が、少しでも無罰方向にシフトして下さればいいのですけれど。そのためには、一時は徹底して「人のせいにする」練習をすることが必要かもしれません。内罰タイプの方は、それくらいでちょうど無罰のあたりに落ち着くのです。どうぞ、心の中でチャレンジしてみて下さい。
 熟年離婚−夫の言い分 2005.2.28
2回前に、熟年離婚について、どちらかといえば女性の立場から書きましたが、先日患者さんと話していて、男性側の言い分もあることに気づきました。
子どもさんをお持ちの男性なら経験があると思うのですが、子どもが誕生してしばらくの間は、女性は子どもにかかりきりになりますよね。夫が仕事とかに余裕があって、子どもの入浴などを手伝うと、そのかかりきりになることにお墨付きが与えられ、さらに拍車がかかるわけです。
結婚して間もない時に子どもが誕生すると、夫と妻、という関係が成熟しないままに、夫は「お父さん」という呼称を与えられてしまいます。欧米では、子どもは早くから独立心を植え付けるように、寝室なども配慮するわけですが、日本はまだまだ母子密着型。川の字型に寝てもらえればまだいい方で、住居事情によれば、いつの間にか父親は別室ということも少なくないでしょう。このようにして、「お父さん」は、いつの間にか、母子の生活から分離してしまうわけです。
子どもに本当に手がかかる時期を越えても、次は「お受験」の時期が到来したりして、母子密着はますます磨きがかかるわけですね。ここで、「お父さん」の称号を与えられた夫はどう考えるのでしょうか? ああ、俺はしっかり働いて、稼ぎを家に持って帰ればいいんだなあ、という決意を固めた日を覚えておいでの男性は少なくはないはずです。
で、一方では妻や子どもへの気持ちを抱きながらも、家族のために仕事に精を出して、そのうちに仕事にのめり込んで、妻の更年期も右から左へ聞き流し、気がつくと退職がすぐ目の前に。ここで、妻から三行半を突きつけられても、「え、一体何のこと? 自分は妻や子どものために一生懸命働いて来たではないか。自分の何が悪かったの?」とただオロオロするばかりです。
これは少し極端な例かもしれませんが、どちらのご夫婦でも少しは思い当たることがあるのではないでしょうか。もっとも、最近の夫婦は子育ても妻任せにせずに、父親積極関与型になってきているので、今後は熟年離婚の危機は少なくなってゆくのかもしれませんね。団塊の世代の専売特許で終わればいいのですが。
 「ありのままの私」を受け入れてほしい 2005.4.23
以前、就職時の面接で、どのくらい自分のことをありのままに話すか、ということについて、ある方と話した事があります。この方が応募したのは、公民館の館長で、基本的に行事がなければ公民館にいなくてもいいし、嘱託なので、空いている時間に他の仕事をして収入を得てもかまわないのです。このことは、応募要項からも読み取れるし、応募時に事務的にも確認してありました。この方は別に自分でやりたい事業があったため、時間の融通が利く仕事は大変望ましかったのです。
で、面接は特に問題なく順調に進み、最後に、面接の担当者が、何か質問はありませんか、とおっしゃったのです。面接があまりにすんなり進んだこともあり、この方は、思わず既に確認してあったこと、すなわち、空き時間の利用の仕方について、再度尋ねてしまったのですね。そうすると、当然の成り行きですが、空いた時間で何をなさるのですか、という話題になります。
ここでも、正直に計画している事業のことを話されてしまったのです。すると、面接担当者の表情が、少し曇ったのを、この方は見逃しませんでした。あっ、しまった、言い過ぎた。しかし、時既に遅し、結果はご想像のとおりでした。面接担当者が最終的にどのような判断をされたかはわからないのですが、もしかして、公民館の仕事がおろそかになるという懸念を抱かれたかもしれません。
振り返ってみると、何か質問は? というところで、「いえ、特にありません。」で終わればよかったのです。仮に、確認をして空いた時間を何に使うのかを訊かれた時にでも、体を動かしたり、趣味に使ったりとか、要するに自分のために使う、ということであれば問題はなかったはずです。事業はちょっとまずかったようですね。
この方は、非常に正直な方なので、隠し事をすることに耐えられなかったのでしょう。思わず「ありのまま」を話してしまいました。どうでしょうか、似たような経験をお持ちの方は少なくないはずです。「ありのまま」を受け入れてもらえるとどんなに人生が楽か。
この話題は前々から書きたいと思っていましたが、今一歩構想がまとまりませんでした。この度、美輪明宏さんと齋藤孝さんの対談集の形で出版されている「人生賛歌(大和書房)」を読む機会を得たのですが、何とそこに、「ありのままの私」について書かれていたのです。美輪さんに言わせると、「ありのままの私」は、「泥大根」なのだそうです。すなわち、今畑から抜いてきたばかりの泥の付いた大根のことで、だれもこんなものを、召し上がれ、といって人に差し出したりはしません。きれいに洗って、皮をむいて、調理を施して、器に盛って、さあどうぞ、といってお勧めするわけですね。
「ありのままの私」を受け入れてもらえると、本当に楽ですよね。独身で、これから結婚相手を選ぶなら、そんな、全てを受け入れてくれる相手がいいに決まっています。しかし、しかしです、「ありのままの私」を押しつけられた方はどうでしょうか。これは、泥大根を押しつけられたと同じように、ちょっとばかり迷惑なのです。
それまで不眠症が続いていて、入眠薬を飲んでいる状態で、就職の面接を受けることになったとします。面接官から、何か健康のことで気になることがありますか? と訊かれたら、さあどう答えるでしょうか。隠し事ができない正直な方は、睡眠のお薬を飲んでいます、と答えてしまうかもしれません。質問した面接官は、主に内科的な病気の有無を訊いたつもりだったのに、予想しない答えが返ってきてしまいました。
こんな時、面接官はどう感じるでしょうか。私なら「アチャー!」です。特にそれまで良い雰囲気で面接が進んでいて、かなり採用に傾いていた時なら尚更です。「何でそんなことを今ここで言うの!?」 聞かなければ知らずにすむのですが、聞いてしまった以上、それを知った上での採用は自分の責任になります。言わなければ本人の責任、言えば聞いた方の責任になるわけです。
こうしてみると、「ありのままの私」を受け入れてほしいというのは、責任の一端を分かち持ってほしいという「甘え」の発想なんですよね。この甘えを排除するためには、言わずにすませられることは言わずにおく、という「したたかさ」を身につける必要があります。内部のドロドロしている物を覆い隠して、きれいな包装紙で包み、どう、きれいでしょう? と言えるしたたかさですね。それはまた、生きてゆくための強さでもあります。
 先生に不信感を抱くことがあります 2005.9.6
振り返ってみると、何と4ヶ月半振りの更新です。台風(14号)のために自宅待機となり、思いがけず時間ができてしまいました。 冒頭の言葉は、永年通ってきておられる、ある男性患者さんからのものです。この患者さんとはいい関係が保てていると思っていましたから、内心、かなりドッキリでした。
しかしまあ、こちらもプロ、内心の動揺を悟られないようにして、どういうことなのか、よく聴いてみました。すると、彼の言い分はこうでした。先生は、自分が何か困ったことを訴えると、「ああしたら」、「こう考えたら」、という対応は示してくれて、それはそれでいいんだけど、その前に、「それは困ったねえ」とか、「大変だねえ」という同情(彼の表現)が欲しいということでした。
これまで、彼の訴えに対しては共感を示してきたつもりだったので、この言葉には虚をつかれた感じでした。しかし、振り返ってみると、お付き合いする期間が長くなると、ついつい共感することを怠って、早め早めに対応策を示してしまっていたのかもしれません。
多少言い訳をさせていただくと、共感のみを続けていると、なかなか(治療者への)心理的な依存から抜け出せないことがあります。その意味で、私の対応は、彼にそろそろ依存から脱却して自立をして欲しいという、私の希望でもあったのです。
しかし、対応法を示す時でさえ、辛い気持ちに少しでいいから共感の言葉かけをして欲しいというのが彼の言い分だったのです。そうなんですよね。治療の初期は共感部分を多くして、提言は少なめに。それを、治療の進展と共にその比率を変えてゆき、すなわち共感を減らし提言部分を増やしてゆくのですが、共感をなしにしてはいけなかったのですね。
大学の医学教育の中では、医療面接の講義や実習で、「患者さんのお話に対して共感をしっかりすること」、と言っている本人がこれではいけませんね。大いに反省しました。それとともに、今のやり方を少し変えて、こちらから提案することは減らして、「どうしたらいいんでしょうね」、と、まずご本人に考えて頂く機会を増やしてゆくようにしていきたいと考えました。これがどうなってゆくかは、またしばらくしてからお伝えしたいと思います。
 鉄は熱いうちに −学生への講義 2006.2.18
このコーナーの久々の更新です。久々もいいところですね、今振り返ってみると、昨年は何と4回しか記事を書いていませんでした。いやあ、反省、反省。
先日、医学科の1年生に講義をする機会を得ました。「臨床医学入門」という、週に1回だけあるコースで、何ら医学的な知識のない(少ない)学生たちに、少しでも医学・医療の香りを、という意義を持ったコースです。医学科に入学してくる学生たちは、入学時は志も高いのですが、一般教養などを受講している間に、その意識が次第に薄れてくる傾向があります。そこで、入学時の意識を維持して、できれば医学に対する関心をもっと高めてもらいたい、という期待を持った時間帯なのです。
ここでは何をテーマに取り上げてもよかったのですが、私は当然心身医学を取り上げ、「心身医学入門−病は気からの医学−」として1時間あまり話をしました。
内容としては、「気」が身体に及ぼす影響を、「気」をストレスで代表させて、自律神経系の変化を中心に解説しました。終盤では、心身医学的な配慮をしないと患者さんにとってどんなまずいことが起こるか、という「心身医学医からの訴え」も交えました。朝一番の講義だったのですが、出席もまずまずで、意外だったのは寝ている学生が少なかったことでした。しかも、メモを取っている学生までいる。久々に手応えのある講義でした。
終わった後に前にきて質問までする学生がありました。自分はこのようなことに関心があって医学部に入った、今度はいつ講義があるのか、と。 ごめんなさい、今のカリキュラムでは、入門といいながら、今後の予定はないのです。心身症という用語は、精神科では話しているように思うけど、心身相関という観点では話されていないように思います。
講義の後で、レポートを書いてもらいました。テーマは2つから選択。一つは、自分、あるいは自分の周囲の人の心身相関体験、もう一つは、今回の講義の感想です。どちらが多かったと思いますか? 私は、まだ人生経験が浅く、比較的健康と思われる医学生では、自分の心身相関体験は少なく、当然感想が多いと予想していたのです。
ところが、結果は違っていました。体験:感想は7:3くらいで、意外なことに体験が多かったのです。講義の冒頭で例として挙げた、ストレスが貯まると風邪を引きやすくなる、とか、試験の前になると息苦しくなる、とか、緊張すると下痢をする、とか、それらしい体験が数多く語られていました。入試で難関を突破して入学してきた彼ら(彼女ら)もやはり生身の体なんだなと、少し親近感を覚えました。
感想は、私に気を遣ってか、面白かった、というものが多かったのですが、ストレッサーの評価(どのようなストレッサーが身体に大きく影響するのかなど)に興味があった、という感想が意外でした。これは来年の講義の参考にしないといけません。
医学部に入学して間がない頃は、このように、「こころとからだ」に関心を持っている学生が決して少なくないということがわかったのですが、今後はこの関心をどのように維持して、本当に「こころ」を持った医師を育ててゆくのか、ということが課題です。機会があれば、続編を講義する時間を獲得することがまず必要ですね。がんばらねば。
 夏は嫌いだー!!  抗うつ薬体験記 2006.10.1
とてつもない暑さだった夏が過ぎ(かなり過ぎてしまいましたが)、ようやくすがすがしい秋の日を迎えることができました。
今年の夏は本当に疲れました。その理由としては、@やはり暑さ:昼にJRで移動することが週に2回あるのですが、JR→バス→歩き、は炎天下ではかなり辛いものがあります。また、夜にJRで帰るときのホームがこれまた遠慮なしの暑さ。ボディブローのように体力を奪ってゆきます。A連休以降8月初めまでの忙しさ:例年は春の学会の準備くらいですむのですが、今年は総務省の研究費をいただけることになったので、その書類の準備や研究開始の打ち合わせなどが追加になりました。さらに頼まれた講演などもあり、7月末まで、毎週のようにあちこちで新ネタで話をしていました。その時々は何とかこなしていましたが、これらも後でどっと疲れが疲れが出たものと思われます。B娘(中2)の夏休みの宿題の心配:何でお父さんが? 本人ががすればいいのでしょう、という声が聞こえてきそうです。しかしまあ、量が半端じゃない。あまけに普段から、ちゃんと理解できていれば自力でできるのでしょうが、抜けが多いもので、手伝わなければ問題集の空白が埋まらない。数学なんて240問もあったんですよ。尋常じゃない。あれも残っている、これもまだできていない...と(勝手な)心労が募ってゆきました。C繰り返しの中距離ドライブ:家族の都合で、片道180kmくらいの道のりを、高速道路を使って2.5時間かけて移動。これを日帰り4往復しました。車の運転は好きなほうなのですが、さすがに1日5時間の高速道路ドライブはこたえたようです。後になるほど疲労感が蓄積して行きました。D来年主催する学会の企画を検討するための会議の開催:偉い先生方を迎えての会議だったので、かなり気疲れしました。
こんなことが重なった結果!! 8月下旬になって、私もついに、抑うつ状態を体験することになりました。どんな症状が出たかというと、@朝早く目覚める(早朝覚醒):普段でも通勤の都合で5時過ぎには目覚めるのですが、更に早く、4時頃に目が覚めて、その後は眠れない。眠れないと、色々と考えなくてもいいことを考えてしまう A起床時の気分がたまらなく不快:何というのでしょうね、身体がだるく、寂寥感というようなもの悲しさがある。できるなら出勤せずに家に留まっていたい B朝の食欲が低下:食パン1枚が砂をかむような味がして食べきれない Cちょっとしたことがおっくう:職場に出す簡単な書類でも、点検するのが面倒 D空いた時間があると、どう過ごしていいかわからなくなる:8月下旬はそれほど急ぎの仕事がなかったので、半日単位で空き時間が出来たのですが、そうすると、どう過ごしていいかわからなくなり、椅子に座ってため息ばかり。午後の外来がある時は、終わるとさっさと帰ってしまいたくなりました E先行きの不安が増大:臨床から大きく離れてしまっている今の仕事をこのまま続けてゆくと、臨床の腕が鈍るのではないか、など、普段は考えないことを考えてしまいます。
一番困ったことは、患者さんを診る自信が消失しかけたことでした。外来で患者さんと話をする気力が低下し、また、自分の状態さえ自力で回復できないのに、患者さんに説得力のある話をする事はできないのでは、と思ってみたり。薬剤の選択にも確証がなくなりました。
これではいけない。こんな状態になった原因は、それまでの心身の疲労の蓄積にあるということは気づいていましたので、一番いい治療法は休暇を取ることでした。しかし、いくら空き時間が多少はあるとはいえ、さすがに全く休んでしまうことはできませんでした。そうすると、次の策は薬剤です。それまで(幸いなことに)抗うつ薬のお世話になることはなかったのですが、この機会に試してみようと「決心」しました。私の関心は、現実的に抱えている問題(将来への不安など)がありながらでも、本当に薬剤で気分が改善するものだろうか、ということでした。
ちょうど最近出たばかりの抗うつ薬(SSRI)があったので、これと、昔からある穏やかな薬剤とを組み合わせてみることにしました。 さて効果は...  効果が出るには、数日はかかったように思います。まず朝のいやな気分が少しずつ減ってゆきました。朝食も少しずつですが、食べやすくなりました。そして、先々への心配や不安がどうなるかと思っていたのですが、気になり方が減るんですね。思考の中心にあったものが、周辺に移って、見ようと思えば見えるけど、いつも目に入ってくる状態ではなくなるんです。で、思考の中心には何とか現在の、目の前のことが入ってくる。
ああ、なるほど、と思いました。うつ状態がひどいときには、目の前のことが思考の周辺部に移ってしまうために、記憶力や集中力が低下したように見えるんですね。この、思考の中心−周辺の転換が薬剤なしでできれば、うつから脱却しやすくなるのだとは思いますが、この度の自分自身の経験からは、通常の生活をしながら薬剤なしで、というのは、かなり困難のように思われました。
抗うつ薬の効果は確かにあると改めて認識しましたので、うつに悩む方々も、ぜひ薬剤を毛嫌いせずに、適切な量を、継続して服用下さい、と申し上げたいと思います。使用する薬剤の量にも気をつける必要があり、薬に頼るのはいやだと言って、中途半端な量しか飲んでいないと、結局治りきらない状態が延々と続くことになります。私が心療内科で教えていただいたことの一つに、抗うつ薬は効果が出るまでは、(可能な限り)薬剤の量を増やしてみる必要があるということでした。長く抗うつ薬を飲んでいるのに効果が今一つと感じている方がおられたら、それは量が少ないためかもしれません。一度主治医の先生とよく相談されることをお勧めします。
 口を出すなら手も出してほしい −家族の対応− 2006.11.23
今日は勤労感謝の日で、週の途中のちょっと儲けたようなお休みです。
「勤労感謝」の日ですから、本来ならば家族は私に感謝して、肩のひとつでも揉んでくれてもよさそうなものですが、そんなことはおかまいなしに、母娘はさっさと倉敷まで海を越えて、宝塚の地方公演に出かけてしまいました。おかげで私は一日時間ができてしまい、午後から映画を観に行ったあと、こうやって更新の時間を持つことができています。

心身症の外来をしていて、時々問題になるのが、お薬を飲む、ということです。私達は症状に合わせて、抗不安薬や、抗うつ薬、また、睡眠導入薬を使います。
このようなお薬に比較的抵抗なく服用していただける方もあるのですが、一方、かなり抵抗を示される方もあります。巷で言われている、「続けて飲んでいると痴呆になる」、「習慣性ができてやめられなくなく」、等々の副作用とされていること(実際は違う)が気になられることが多いのですが、時にはそんな薬に頼らなければならない自分が情けないから飲みたくない、という方もいらっしゃいます。
もちろん、薬を使わないで回復に向かうことができれば、それにこしたことはありません。私も、最初にお話を聴くときは、できるだけ、お薬なしでお気持ちが落ち着いたり、精神的な混乱が解決できるような手段を考えるようにしています。しかし、いくら時間をかけてお話を聴いても、自分で自分の気持ちをコントロールすることが難しいところまで来ている場合や、時間が足りない場合にはお薬を使わざるを得ません。
その際には、お薬の必要性と効果とを十分に説明し、また、世間で言われているような副作用はないことを時間をかけて説明します。このような説明を受け入れて、お薬を飲んで下さった方は、気持ちが楽になったり、あんなに気になっていたこと(多くは気にしても仕方ないことです)が気にならなくなったりすることを体験して、お薬の必要性をわかって下さいます。
お薬を適切に使うことで、生活が正常化し、いわゆるQOLが向上し、そのような経過を通じて、ご本人は次第に精神的な自律性を取り戻して行かれるのです。その回復状態に応じて、お薬を次第に減らして行くのですが、時にこの減量に時間がかかることがあります。このあたりで、「口」が出てくることがあるのです。どこからか? 家族や身近な親族からです。ご本人以外はこのようなお薬をご本人が飲んでいることを、元々快く思っていないことが多いので、服用が長期化すると、「一体いつまでそんな薬を飲んでいるんだ、いいかげんに止めないと...」と巷の副作用を持ち出して本人を脅します。ご本人は、薬を飲んで、実際に心や体の症状が良くなってきたことを実感しているのですが、いかんせん、日々生活を共にしている家族の言葉は、月に1,2度しか会わない医師の力を上回ることがあるのです。で、そのパワーに負けて、ある日、「先生、家族が薬をそろそろ止めたらどうかと言っているのですが」と訴えたりされます。こんな時は再説得の余地があるのですが、時には薬を勝手に中断してしまい、症状が悪化してしまうことすらあります。
このような家族に限って、受診の最初は、「身体のことはよくわからんから医者に行け」と言っているのです。中にはご本人の症状の原因が家族にある場合もあります。しかし、ご本人がいくら辛い思いをしていても、手助けひとつするわけでもありません。これは男性に多いのですが、家事や育児を全て妻に押しつけて、自分は休みになると付き合いと称してゴルフに出かけてしまう。最近あった例では、子育てに苦労している娘の手助けもしようとしないで、いつまでも治らない、薬の量が多い、と苦情を言う親がありました。こんな人たちには、ご本人が薬を飲まないですむようにしたかったら、口だけでなく、援助の手を差し延べてほしいと思います。手を出さないのなら口も出さずに治療は私達に任せてほしいものです。
 積極人間と受け身人間 2007.5.4
人には、積極的な人と受け身的な人とがあると思いますが、皆様はどう思われますか? そして、ご自分はどちらにより近いとお思いでしょうか。
積極的というのは、自分から問題点や課題を見いだしていって、それに向かって自主的に突き進む人です。それに対して、受け身的というのは、自ら課題を見つけるのが苦手で、どちらかといえば、人から課題を与えてもらったほうが動きやすい方を指します。これは決して能力がないというわけではなく、課題が与えられると、それには真面目に取り組んで、きちんとした成果を上げることができる方が多いのではありますが。
私たちのような医師でいうと、積極型は研究者向きです。研究者は次々と研究課題を見いだしていって、創意工夫してその解決方法を考えなければなりません。それに対して、受け身型は臨床医向きです。医療は営業活動をするわけには行きませんから(最近はインターネットの普及で少し事情が変わってきてはいますが)、受診していただいた患者さんに誠意を持って丁寧に対応することで、その患者さんはまた困ったら来ようと思いますし、口コミで広まって、患者さんが集まってくださる可能性もあります。
積極型はまた、芸術家向きで、受け身型は実務者向きという見方もできます。もちろん、実務者の中にも、色々と創意工夫をして成果を上げる人もあるのですが、大枠の課題なり仕事はやはり与えられたもので、その中で工夫するという意味では、大きな部分では受け身型と言えましょう。
私はどちらだと、皆様は思われますか? 大学病院に勤めていて、しかもこんなサイトを運用しているのだから、きっと積極型とお思いになるかもしれません。しかし、私は自分自身のことはよくわかっています。ずいぶん前から感じていることなのですが、私は典型的な受け身型人間なのです。臨床の、それも一番ソフトな部分である、心身医学なんていう分野を選んだのが、全てを物語っていますよね。臨床医でも、大学病院にいると、なにがしかの研究をしなくてはならないのですが、これが苦痛です。
臨床研究には前向き研究と後ろ向き研究という区分があります。後ろ向き研究は、既に受診した患者さんのカルテを調べて、ある疾患の発症傾向や、その治療方法等について検討するものです。これは私でも時々はやります。これに対して、前向き研究は、ある一定の基準に従って患者さんのデータを集めたり、一定の方法で治療してその結果を検討するという研究方法です。後ろ向きよりは、前向きの方が研究的価値が高いとされているのですが、私はこれが苦手です。目の前に患者さんがおいでになったら、研究的なことはできるだけ考えないで、その人の問題そのものに取り組みたいと思ってしまうのです。ですので、論文がなかなか書けずに、ポジションも上がらないことはよくわかっているのですけどね。
さて、今はGWの既に終盤に差し掛かっていますが、皆様はどのようにお過ごしですか。私は、今日一日これという用事がなかったのですが、一日過ごしてみて、自分がつくづく怠惰であることを再認識しました。時間があれば何か文章でも書けばいいようなものですが、それは面倒で、デジタル放送が入るようになったのをいいことに、朝からビデオ鑑賞の連続です。午後になって少し出かけて、夕方からまたビデオ。
よく考えると、受け身的というのは、まだ格好を付けている表現のしかたで、本当は単に怠惰なだけかもしれないと、今日という今日は感じてしまいました。空いた時間を有効に使うのって、本当に難しいですね。50代の後半になったら、真剣に定年後の生活を考えなければなりません。
 「右から左へ受け流す」と、「でもそんなの関係ねぇ」 2007.12.31
今年もほとんど更新ができないままに、最終日を迎えてしまいました。反省、反省。

それにしても、今年は心身症の治療にとって非常に重要なフレーズが流行りましたね。皆様は気が付いておられたでしょうか。
その一つがムーディさんの「右から左へ受け流す」です。私たちの所に来られる患者さんの多くは、色々なことを気にしすぎ、考えすぎて、更にそれを自分の頭の中に長い時間留め置く傾向があります。今日のあの人の話はもしかしたらこんな意味があるのではないだろうか、隣の人の話題はひょっとしたら私のことを言っていたのではないだろうか...等々。その結果、眠れなくなったり、神経過敏になったり、そしてそのような事が続くと抑うつ的になったりします。
これを打ち破るキーワードが、「右から左へ受け流す」ことなのです。上司の避難めいた言葉、お姑さんのちょっと辛口の言葉、思い切って受け流しましょう。それらの言葉は、たいていはその場限りで、言った本人もその後覚えていないことが多いのです。言った本人が覚えていないのに、言われた方だけが記憶に長く留まっているというのは、これは不公平以外の何物でもありません。このフレーズは、残念ながら流行語大賞にノミネートされませんでしたが、私が心身医学などの学会長なら、迷わずに大賞を贈呈します。
もう一つのフレーズが、「そんなの関係ねぇ」です。世の中には、どこかの役所の官僚みたいに、本当は大いに関係があるのに、関係ない振りをする人も目につきます。これは論外ですが、心身症・神経症およびうつなどの患者さんたちは、本来それほど関係ないことを過剰に自分と関係づけてしまいます。何が過剰か、ということについては常々意識していなければ気づきにくいかもしれませんが、うまく気づけば、あの動作まではしなくて結構ですが、「関係ねぇ」と振り捨ててしまいましょう。
年末は除夜の鐘の音と共に、一年の垢を落とすチャンスです。もし今年一年悩まされて来たことがあれば、このチャンスに意識の中を大掃除をして、身軽になって新たな歳を迎えてはいかがでしょうか。

皆様どうぞよい年をお迎え下さい。
 考えると...「寂しい」  2008.6.8
またまた更新が遅くなってしまいました。
元々筆が遅い上に、HPを管理していた愛用のパソコンが、5月半ば頃に調子を崩してしまいました。いつも出てくるはずの画面が出なくなってしまったんですよね。初めはシステムの問題かと考えて、システムを再インストールしようとしたのですが、どうしてもうまくゆかない。ついにDELLのサポートセンターに何度も電話をして、その結果わかったことは、どうもハードがめげて(=壊れて)いるらしいということ。しかも、購入後既に6年経っているので、修理部品がないということ。こ、これは新しいパソコンを買えといっているのと同じことではないか?!
そう言われても、すぐにパソコン代を払えるわけではないですよね。しばらくはノートパソコンを代わりに使っていたのですが、やはり、画面が小さい、遅い...  2週間ほど粘ったのですが、ついに根負けして、新しいデスクトップを買ってしまいました。さすがに6年も経つと、同じくらいの価格でも極めて高性能ですね。それで気を良くして、今日は新しいパソコンで久々に更新という次第です。
で、今日のテーマですが、これはパソコンとは関係ありません。我が家は昨春に息子が大学進学で家から離れたのですが、今春は、中学校を卒業した娘が県外の音楽学校に入り、寮生活を始めたため、奥方と二人の生活になってしまったのです。息子の時は、その前1年間ほとんどの時間を予備校か、その自習室で過ごしていたため、ほとんど寂しさは感じませんでした。ま、まだ下がいたからかもしれませんけどね。
娘がいなくなると、さすがに寂しいだろうなあ、と想像していましたし、実際に家を離れた後に、知人からも寂しくなったでしょうと言われました。確かに、娘がつい先日まで寝ていたベッドを見て思い出すと、その時は一瞬寂しさがこみ上げて来たりしました。でも、仕事をしている時は思い出さないですみますし、思い出しそうになると、気持ちを他のことに向けると、寂しさは薄らぐものです。おそらく皆様にもこのような経験はあると思うのですが、気持ちの持ち方を工夫すると寂しさは和らぐということを、今回は身をもって体験しました。これは今後の診療に活かせるかな?
それにしても、息子の同級生のお宅をみても、子供さんたちが進学するなどして、ご夫婦二人になっているお宅がずいぶん増えました。気持ちは若いつもりでいたけど、もうそんな年なんですね。こちらの事実の方が衝撃が大きいかもしれません。

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