【下蒲刈島と下蒲刈町】 
島の風土が育んだ 人情厚い島人たち
本当の豊かさとは何をもって言えばいいのでしょうか  
下蒲刈町は,小さい島でながら地形が変化に富み,四方を海に囲まれ,南には遠く四国連峰を臨み,多島海独特の風光明びな景観や緑豊かな自然に恵まれた環境にあります。 
歴 史  明治24年7月24日下蒲刈島村として発足以来、57年で村の時代は終わり、1962(昭和37)年1月1日町政が施行、下蒲刈町となった。2003(平成15)年4月1日に呉市に編入されました。
気 候  気候は,年平均気温は約16.2℃,年降水量は約1.436mmと温暖で雨の少ない瀬戸内海気候です。主な産業は,急傾斜地と瀬戸内海性の温暖な気候を利用して,かんきつ類(みかん,デコポン,レモン)やイチゴの栽培が行われています。
交 通 1979年10月上蒲刈島との間に蒲刈大橋(全長480m)が開通し上蒲刈島と陸続きになる。さらに、町民の悲願であった夢の「安芸灘大橋」が2000年に完成。地域産業の振興,町民の利便性や定住条件の向上など,豊かな自然と歴史を生かした魅力あるまちづくりを模索しています。
位 置 下蒲刈島は,瀬戸内海安芸灘の芸予諸島の中にある島です。広島県の南の端にあり,呉市仁方町の南東の海上,約5kmに位置しています。2003年4月1日には,呉市に編入され,平成12(2000)年1月18日に安芸灘大橋(全長1,175m)が開通し,上蒲刈島・下蒲刈島ともに本土と陸続きになりました。とびしま海道で最初にわたった島が下蒲刈島です。
人 口 2002年3月31日の人口は2,259人 →2011年8月の人口は男863名,女920名,計1,783名と推移し,2015年1月末現在は、わずか1,592人 (●男771人女821人、世帯数806世帯と激減し、高齢化に向かっています。
学校は島の
文化の中心 
潮騒の聞こえる下蒲刈小学校の学び舎(や)には,都会にはないのびやかな自然環境があります。海は,人を育む場なのです。統廃合で3つの学校が1つになり,子どもたちが減少していき,過疎と高齢化が急速に進む下蒲刈島。人は少ないけれど,島じゅうの人が大きな一つの家族。
集 落  下蒲刈町は,下蒲刈島と上黒島32.5ha,下黒島23.0ha,ヒクベ島0.03haの3つの島をあわせた町です。総面積は,8.71平方キロメートルあり,島で一番高い最高地点は,大平山の山頂で海抜が275mあります。
島は,海からすぐに山に接する,急傾斜の土地が多くて,その中の限られた平らな地域に3つの集落,下島(しもじま),三之瀬(さんのせ),大地蔵(おおじぞう)があります。 
地 質 下蒲刈島の地質は,北側の半分が古生層の「砂岩」をともなう『粘板岩』でできています。また,島の南半分は,『花崗岩』でできています。そして,島の北の端,安芸灘大橋の下にある「白崎」には,『石灰岩』が露出し,白くみえているのがわかります。この「白崎」から,「見戸代」から「大地蔵」の尾ノ鼻の北斜面に断層がとおっています。
 大地蔵地区の記憶
大地蔵地区

 
海岸線が埋め立てられる前の大地蔵地区は、白砂青松(はくしゃせいしょう)の美しく長い砂浜が続いていた。民家は、海側(南側)を高い石垣やブロック塀で固め、台風の高波や強風に備えていた。昭和40年代、私が遊びざかりだったころ、夏になると浜でよく泳いだ。大地蔵小学校で、西から東に向かって遠泳もした。近所の友達と砂遊びや相撲、はだしで砂浜を競走した。また、イワシをはじめ多くのアイナメ、メバルなどの魚やアサリ・シャコがとれた。
大地蔵地区は、明治の初めごろ民家は30戸ぐらいしかなかった。下島地区から移り住んだらしい。その後、イワシ網が盛んになり、呉市冠崎の漁師さんたちの前線基地となって定住した人もいた。イワシの群れが近づくと東の牛ヶ首と西の尾の鼻の海に突き出た小高い場所に作られた魚見(うおみ)やぐらから合図を送った。浜で待っていた漁船が一斉に沖合いに出てイワシが近づく方向に網を張ってとった。大地蔵は「イワシ網でできた地区」だとも言える。盆踊りには、イワシを運ぶ竹でできた「マイラセ」を持って踊っていた。

マイラ 
大地蔵の食文化  私が子どもの頃は、山の畑のいたるところでサツマイモが作られ、『地蔵のイモ食い』という言葉が使われた。祖母は麦と米、サツマイモの混合飯を作って食べさせてくれた。押麦と米のご飯を炊くと分量の多い麦は上に残り、少ない米が下にたまる。祖母が私に、釜底から先に米をすくいあげて食べさせてくれた。母親や父は後から上の麦を食べていた。イモを生で切って干して乾燥した「かんころ」、それを粉にして煮て、味を付けて食べる「かんころ餅」をおやつで食べていた。倉庫には味噌樽があり、自家製の麦味噌を食べていた。
海藻と島のくらし  波静かな水の澄んだ大地蔵の海岸線は、アマモなどの海藻が豊かに生育する。春になると海藻採集の時期を迎える。また、「テングサ」や「ヒジキ」は大切な食材だった。戦後は、塩が不足していたので、天日干しにしたワカメは、貴重な塩分補給源だった。ワカメをゆで、冷水で洗い、軒下に干していた。また、ヒジキは、寒の大潮に採ったものは、「寒ヒジキ」といってやわらかいので重宝され、今も「姫ひじき」として販売されている。「テングサ」は、井戸水で何回もさらして夏の日に当て、トコロテンにしてごま味噌をかけて精進料理としてよく食べた。テングサは、正式には紅藻類テングサ目テングサ科に属する海藻で一口にテングサといってもいろいろな種類のテングサがある。テングサといって、マクサ、ヒラクサ、オバクサ、オオブサ、キヌクサ、その他にもオニクサ、ユイキリといった名前のテングサがあり、海藻です。テングサ(天草)は春から夏にかけ岩から離れ浜に打ち上げられたものを拾い自家用にしたり行事などに使われる。採取したものは真水で洗い、広げて天日にさらして乾燥させる。これを何回も繰り返していると白っぽくなる。よく乾燥さると何年でも持つ。「海藻」・・・・・花が咲かないで、胞子で増える。「海草」・・・・・花を咲かせ、種を作り種で増える
 マクサ(天草) 
子どもの時の思い出(回想)  子ども時代の思い出
私は1955(昭和30)年に大地蔵で産まれた。ミカンと漁業に生きる半農半漁の「へき地」だった。幼い頃の石炭が燃えた臭いを思い出す。イワシをゆでるのに石炭を燃やし、その時に出る臭いだ。
かつて大地蔵漁港は、今の観音山トンネルのある東のはずれにあった。大正元年から昭和10年ごろまでは「イワシ網」が盛んだった。網が5じょうあって、1じょうに30人もついて大漁にわいた。イワシは鮮度が大切なので、とれるとまず「マイラセ」と呼ばれる竹カゴにイワシを入れ、釜(かま)に移して湯がいた。湯がいたイワシは道路に広げ、よく乾燥するまで何日も干していた。
道路には、エビ網でとれたエビやシャコ、イワシがあちらこちらに干してあり、それを食材やおやつ代わりによく食べた。「頭の黒い猫がイワシをとって食べようる」と言われた。
◆時々、「どーん」と大きな爆発の音がした。前にある黒島の山を崩し、埋め立てに必要な岩をとるためだ。爆破で命を落とした人もいる。
◆防波堤のなかった頃の道路は、すぐ真下が砂浜で、相撲をとったり、七夕の日は、笹に火をつけて燃やした。ゴカイを掘って魚のエサにし、竹を切って釣り竿を作り、釣り針は岩場で探し、おもりは、小さな石を糸にくくって釣りをした。アサリ掘りに行くと、すぐにバケツ一杯になり、おばあさんによくほめられた。砂の中からは、戦争時代の銃弾の薬きょうや赤珊瑚を見つけたりもした。
◆男の子は勇気を試すのに、石船から飛び込んだり、伝馬船をこいで沖に出たりした。遊びから潮の干満や船の操り方を覚えた。釣り、貝掘り、牡蠣やサザエ、アワビ、イイダコをとって海で遊んだ記憶がある。
◆春は、綿郷神社の近くの田んぼでメダカやドジョウを捕まえて遊んだ。山では、ツワブキやワラビをとって小遣い稼ぎもした。お菓子が少ない時代、お腹がすくと山に行き、ニッケの木を見つけて、根をかじったり、イタドリをとったりしておやつがわりに食べた。
◆秋には、父と田んぼに行く途中、山の中で「動くなよ~」と言われ、足下を見ると足の踏み場がないほど松茸が生えていたのを覚えている。しかし、その後、松食い虫が大発生して赤松は枯れ、島の人も山には入らなくなり山が荒れてきた。1974(昭和49)から松食い虫の防除が始まる。
◆大雨被害
1967(昭和42)年は、特に思い出の深い年だ。それは、7月9日の豪雨。2名の方が亡くなり、負傷者15名、倒壊家屋13、同級生の家も土石流で倒壊した。不幸にもこの年は、7月以来雨が降らなかった。そのため、ミカンの木は枯れ、家にあった井戸の水を飲むとしょっぱい味がして、泥水の風呂に入った記憶がある。翌年の1969(昭和43)年にようやく大地蔵簡易水道ができ、安心して水が飲めるようになった。
◆沿岸漁業の衰退
大地蔵漁港は、波よけのコンクリートのパラペットが完成し、砂浜が続いて遊んでいた浜の景色が一変した。1967(昭和42)年に港のしゅんせつ、波止場、中央荷揚げ場などを新設する港湾整備事業が完成。漁港整備で港はきれいになったが、皮肉にも「底引き漁業」は衰退していった。終戦から昭和40年代は、底引き船だけでも40~50隻いた。エビ網をする人は、朝6時に出漁して午前と午後に2回網を入れる。夕方5時ごろ帰港し、底引き漁が盛んだった。しかし、次第に漁獲量が減少し、昭和49年頃になると、底引きの船13隻、タコ船5~6隻、1本釣りの船3~4隻、コノシロをとるグリ網船2隻と減って、漁業から転職をする人がでてきた。
そのころ大地蔵地区は、漁船の他に外国航路の大型船を含め、鉄鋼船が30隻、石材や砂利を運ぶ石船(いしぶね)が20隻いたが、かつてののどかな漁村風景や大漁でにぎわう様子が次第に姿を変え、港には朽ちた廃船を目にするようになってきた。
その理由の一つが、赤潮が異常発生した昭和45年の環境汚染だった。
 
たこつぼ漁
 
◆たこ壺の重さは約4㎏あり、船に積んで沖に出る。太い綱に10mごとに1個ずつくくりつけて、水深が30~40mくらいの海底に沈めた。タコはこの壺を、「すみか」と思い、入りこむ。たこ壺の引き上げのは、先に沈めたものから1日おきに上げていく。大潮の日は15日ごとにやってくるので特に、大潮で潮の流れが大きい時はタコが驚き、壺に入りやすいということを聞いた。漁期は7月 ~ 9月。

イカ壺(つぼ)
◆竹と糸とツゲの枝で作られた籠の漁法。周りに網をはった円筒形のかごの中央に「ツゲ」の枝を入れ,周りに直径約10cmほどの穴がある。ツゲの枝を海藻に見立て,産卵にきた「甲イカ」をつぼの中にさそいこむ。かつては,1つぼで20匹以上も入っていたそうだ。船に50つぼほど積み,沖合に沈ませ,4月下旬 ~ 10月まで漁をする。
 
海の環境汚染で翻弄された「コノシロ漁
◆コノシロという魚は、武家社会では、「この城を焼く」に通じることや切腹の際に出されるため「腹切魚」と呼ばれ敬遠された。そのため、江戸時代には、幕府によりコノシロ漁は禁止されていたが、寿司にするとうまいため、「コハダ」と偽って江戸の庶民は好んで食べた。
1970(昭和45)年に瀬戸内海の赤潮が異常発生した。1973(昭和48)年、PCB(ポリ塩化ビフェニール)汚染問題で魚の不買騒ぎが起こる。コノシロは、汚染魚として取り上げられた不運な魚である。それは、えさの植物性プランクトンの多い沿岸水域に集まり、大きな口を開けて入るものなら何でも食べてしまうので、「赤潮の原因になるようなプランクトンでも食べてしまう」という理由で「コノシロが増えると海が汚れた」などと汚染の指標にされてしまったからだ。
◆私は、父が漁から持ち帰ったコノシロを炭火で焼いて食べた記憶がある。臭いは独特で、骨も多いがおいしい魚だ。PCBが厚生省暫定基準以下だから広島県産のコノシロは食べても大丈夫と安全宣言がでた。そこで、昭和48年9月4日、地元の漁師さん6人は、大地蔵沖に網を入れ、とれたコノシロ約10トンを中央市場に持ち込んだ。しかし、全く値がつかずに、結局は養殖ハマチのエサになった。そのため、そのうち4人がコノシロ漁に見切りをつけ転職し、その後は、漁をする人手がそろわず、捕っても値段がつかないので、大地蔵のコノシロ漁がなくなった経緯がある。今で言う風評被害である。
◆コノシロは美味で、郷土料理に「さつま」 がある。幕末の参勤交代の時、呉地方に来た薩摩(鹿児島)の武士が自炊したのがその起こりだとされている。漁期は9月から3月。体長20cm余りに成長するコノシロの呼び名を倉橋島では、体長7~12cmの幼魚をツナシ、16cm以上をコノシロ、その中間の12~15cmをオタザイナシと呼んでいる。(このしろ)・魚へんに祭りと書いてコノシロ。最大25cmに達し、内湾の岸近くの砂泥域に生息。産卵期の初夏に海水と淡水が混ざる汽水域まで回遊する。背びれの一番後ろの軟条がアンテナのように長いのが特徴。植物プランクトンを好んで食べ、寿命は約4年。 

ボラ網漁と
魚霊塔
 ボラの墓(昭和4年3月15日建之)かつて、大地蔵の「尾の鼻」にボラ網を引いた浜があった。山の上には「やぐら」があり,ボラ網漁の期間中は20~30名の人がこの浜で働いてにぎわっていた。浜の山ぎわに「元小屋」といってご飯をたいたり,食事して休んだりする8坪ほどの小屋があった。その裏山に、ボラの霊を慰める魚霊塔「ボラの供養塔」が建てられた。元小屋で煮炊きをしている間,この華蔵界と刻まれた石碑に毎日御神酒(おみき)を供えておがんだそうだ。
「華蔵界(けぞうかい)」というのは「蓮華蔵世界」,仏様の浄土の
ことで,漁師さんがとらえたボラたちが華蔵の宝利(浄土の立派なお寺)に向かってくれることを祈願した。この文字からも,大地蔵地区の当時の漁師さんたちの信仰心の厚さや心の優しさがうかがわれる貴重な石碑と言える。
    鉱山跡-金山- 森を50m進み、北側の斜面にズリ場がみられる。鉱山跡の坑道は、高さ約1メートル、幅約1メートル、奥行き約7メートルあり、入ってすぐ右に分岐し掘られた跡がある。戦時中に資源不足のため再採掘されたものか?鉱山の跡は金属の採掘が重要な産業だった時代の遺蹟として戦中、戦後に資源の枯渇による歴史の記憶を知るための歴史教材と言えるだろう。鉱山は、かつて日本経済を牽引し、日本の礎を築いた根幹産業であり、産業遺産として調査、記録し、活用方法の検討、保存が望まれる。 
 島の人情・風情 ◆島には、時々芝居が来たが、娯楽が少なかった。日常の主食は、麦と米との混合食で、麦の割合が多く、サツマイモをよく食べた。
どの家も家族が多く、貧しい生活だったが、親子、兄弟がみな助け合いながら生活をしていた。そのため、冠婚葬祭(かんこうそうさい)や寄り合いの場「コミュニティ」を特に大切にしてきた。
寄り合いの際には、みなが家にある米や食材を持ち寄り、共同で料理を作り食べた。今も助け合いの風習の一部は、葬式の場で残っている。このように互いに助け合い、接しながら、料理の味付けや作り方、人間関係のあり方などを自然と学んでいくことができた。結婚も島民の中での縁組みが多かったので、従兄弟関係も多く、自然とお互いに「助け合う生活習慣」がうまれた。
        環境問題-森と海の健康は,人間の健康でもある
環境破壊は,「目に見え始めた時」は,すでに遅い一部の人が,目先のせまい視野で夢みた,お金(利益)と幸せ(幸福)の追求が,過去、これまでに日本をどんなに不幸におちいらせたか。
森の破壊   かつては島の自慢で,保護に取り組んできた赤松の林は,松食い虫の被害にあい,壊滅状態。現在は,少しずつ竹林や広葉樹が森をおおってしまい,山や畑が荒れています。「島を公園にしよう」という全島公園構想の試みは,赤松の保護を進めてきた時は良かった。しかし,やめたとたんに松食い虫の大発生。その被害はだれも止められなかった。
環境破壊は,目に見え始めるともう遅い。森が荒れると,イノシシや狸がみかん園や野菜畑をおそい,石垣をこわし,みかんを食べ,枝を折り,木も根ごとひっくりかえしてしまう。農業をやめる人もでてきた。また,カラスの被害も問題になってきています。 
海の汚染  下蒲刈島の多島海独特の美しさは,大地蔵地区の梶が浜,その前にある上黒島と下黒島にあった。しかしながら,その美しい景色もかつての姿は無い。山はけずられ,崩されて島の形が変わり,かつての景観が失われて荒れ果てた状態になっています。さらに,上黒島と下黒島の2つ島には,ゴミの最終処分場があり,ゴミが埋め立てられています。第二の豊島事件(汚染された島)にならないか心配している。