「イラン人」=「得体の知れない外国人集団」。この図式は未だに健在ではなかろうか。
イラン・イラク戦争後、ビザなしで入国できる「唯一の先進国」日本に、就労目的で訪れる「イラン人」が急増。職探しや情報交換のために彼らが集まった上野公園や代々木公園では、偽造テレカや麻薬の取引が行われた。九二年四月のビザ協定締結後は不法滞在する者も多い。
ただし、実際の違法行為以上に「得体の知れない」というイメージ形成に寄与したのは、彼らが「集まった」ことである。「見た目の異なる人」=「外国人」が集団でいることが、「単一民族神話」の支配する「日本人」に不安を与えたのだ。
しかし、言うまでもなく「イラン人」は、「得体が知れない」わけでもなければ、一枚岩で捉えられるわけでもない。
本書は、日本で暮らす五人のイラン出身者のライフヒストリー(生活史)から、その背後にある文化を描き出すことを目指したものだという。年齢や職業、出身地や来日目的などがそれぞれ異なる彼/彼女らの語りから見えてくるのは、顔のない「外国人集団」ではなく、個性を持った一人の人間としての「隣のイラン人」である。生き生きした人物像が伝わってくるのは、著者が長年にわたってイラン文化・社会と真摯に向かい合ってきたからであろう。
さらに、彼/彼女らの生活史上欠かせない「日本との関わり」は、それぞれの視点からの「日本」を描き出していて文句なく面白い。著者も述べているように、イラン人/イラン文化論というよりも、鋭い日本人/日本文化論となっているのだ。
だが、日本人/日本文化論の一冊と扱えば、本書の魅力は半減する。なぜなら、「××人」という捉え方自体への疑問が随所で呈示されるからだ(もっとも、この捉え方は「日本人」が行いがちとされているが)。
「ガイジンの見たニッポン」ではなく、気楽に読める優れた比較社会論として五人の語りに耳を傾けたい。(松田美佐)
「サンデーらいぶらりぃ」『サンデー毎日』1998年7月26日号