ケータ
イと家族の変容
社会言語科学会第17回研究大会 シンポジウム「ケータイとコミュニケーションの変容」
2006年3月19日 東洋大学 での報告
『社
会言語科学会第17回大会発表論文集』pp.240-243.
1. はじめに
ケータイの社会生活への浸透がもたらす「影響」については,ここ10年さまざまな形で議論されてきた.しかし,その多くは肯定的であれ,否定的であれ,「ケータイが**に与える影響」に焦
点を当てたものである.たとえば,報告者自身も批判的に検討を加えたが,ケータイが若者たちの間に爆発的に普及した1990年代後半よく見られたのが,
「ケータイが若者の対人関係を希薄化する」といった議論である(松田,2000).しかし,ケータイのみが一方的にコミュニケーションのありようや対人関係に影響を及ぼすとは考えら
れない.メディアに対する社会構築主義的なアプローチが明らかにしてきたように(フィッシャー,2000:水越,
1993),他の社会的制度や事物同様,メディアと社会は相互構築的な関係性を結んでおり,一方がもう一方の「原因」や「結果」となることはありえない.
ゆえに,本シンポジウムのテーマである「ケータイとコミュニケーションの変容」についても,「ケー
タイがコミュニケーションをどのように変容させるか」ではなく,「ケータイ」と「人びとのコミュニケーション」それぞれが,どのように関わりながら,変容
したのか/変容しつつあるのかという視点に立つべきであると考える.
ただし,限られた時間の中で,「ケータイの変容」と「コミュニケーションの変容」の両者を,相互に
関連づけながら議論することは難しい.このため,本報告ではコミュニケーションの領域を家族に絞った上で,前提となる[1]長
いスパンでの「家族の変容」の概観しながら,そこにケータイがどのように関わるのか/関わりうるのか考えてみたい.
2. ケータイで維持管理される家族
ケータイと家族のコミュニケーションについては,一
般的には,ケータイが家族をバラバラにするとも,あるいは反対に,家族関係を緊密にするとも言われている.
しかし,すでにMatsuda(2005)で論じたように,これは同じ現象の表と裏である.ケータイはそれまでの家族関係が内包していた傾
向を可視化する,あるいは強める方向に機能するだけである.だから,ケータイ「以前」に,コミュニケーションをとる傾向のあった家族は,ケータイを用いて
より頻繁にコミュニケーションをとるようになるが,コミュニケーションをとらない傾向にあった家族は,ケータイでもコミュニケーションをとらない.後者の
家族においては,家族メンバーそれぞれがケータイを通じて,家族以外の人といつでも親密な会話を交わすようになれば,相対的にはケータイが家族をバラバラ
にしたように思えるであろう.
ここでは,「家族の変化」もあわせ て考えておくべきである.目黒(1987)は戦後の日本の家族の変化を「個人化」ととらえている.「家族生活は人
の人生の中で常にあたり前の経験ではなく,ある時期に,ある特定の個人的つながりをもつ人々とでつくるものとしての性格を濃くしてきた(目黒,1987:
C)」.つまり,「一緒にいるから家族」「血のつながりがあるから家族」ではなく,「家族の絆は個人が努力して維持するもの」へと,家族観がかわりつつあ
るというのである.
その家族関係の維持管理に重視され るのが,「言葉によるコミュニケーション」である.今日の家族の「危機」を主張する言説においては,しばしばかつての家族が理想化される.たとえば,「家
族がお互いに思いやりの気持ちを持ち,理解し合っていた」と.しかし,1955年に奈良県二階堂村でおこなわれた 家族のエスノグラフィックな調査結果が示すように,昔の家族は今日の家族と比べ,あまり会話をしなかった(加藤,1958)。
「会話がなかった」というと,「会話がなくても,わかりあえていたはずだ」という反論も考えられる
が,それに対する「反証」を提示することが可能だ.たとえば,1964年に農村と大都市商業地,大都市住宅地で小
学校5,6年生とその親を対象におこなわれた調査によると,食事や食後の団欒で家族がそろう機会が多いのは農村部であるが,子どもが親に学校や友達のこと
を話す頻度は都市部の方が高い.そして,その理由の一つと考えられるとして,都市部の子どもの方が家庭のふんいきを「あたたかい」「たのしい」と考えてい
る割合が高いことを示されている(田村,1973).つまり,家族関係への満足と関わっているのは,「一緒に過ごす時間」ではなく「言葉によるコミュニ
ケーション」であるのだ[2].
言葉によるコミュニケーションが,都市部の家族で多い傾向が見られるのは,それが都市的=近代的な
価値観として広まっていったからである[3].
そして,実際にこの「会話する家族」は一貫して増えてきたが,それでも「家族の会話を増やすことを望む傾向」は弱まってはいない.たとえば,家族の会話も
家族一緒の行動も,ここ30年増加傾向にある[4].
内閣府の調査でも全体の9割近くが「何よりもまず家族を第一に考えていくのがよい」に賛成している[5]. 近年少年犯罪の原因などとして「家族の危機」「家族のディスコミュニケーション」がしばしば挙げられるが,「危機」どころか,強まっているのは,「家族中
心主義」とでもいうべき価値観と実態なのである。
こういった価値観を内面化した家族は「絆」を維持管理しようとケータイを駆使する.ケータイは選択
的な人間関係を促進する道具であるが(松田,2000),家族間においても同様である.「家族だから話さなくても
わかる」と考える家族では利用されず,「家族だからこそ,話し合ってわかりあわなければならない」と考える家族においては活用され,その関係を緊密化する[6].
3. ケータイで配慮/監視する保護者
2004年11-12月におこなわれた調査(ベネッセ教育研究開発センター,2005)によれば,
小学校高学年(4-6年生)のケータイ所有率は2割近く(男子16.3%,女子21.6%),大都市では3割近い(29.4%).中学生では5割近く(男
子39.1%,女子51.4%),高校生では9割を超えている(男子90.5%,女子95.5%).また,中高生になると友だちにメールを送ることが増え
るものの,ケータイの「相手」は小学生では家族が中心である.このような利用状況を見るかぎり,少なくとも小学生にとってケータイの第一の用途は,家族と
のコミュニケーションにあることがわかる[7].
実際,モバイル社会研究所(2005)によれば[8],
小学生(4-6年生)がケータイを所持するきっかけで最も多いのは「塾や習い事に通うようになった(42.5%)」であり,「保護者や家族に勧められた
(22.5%)」が続く.中学生以上では最も多い「使用している友だちが増えた」は2.5%と少なく,現状では小学生にとってケータイは,「自ら持つも
の」ではなく,「保護者から勧められるもの」である.確かに,小学校高学年になり,塾などに一人で行った場合に,保護者に迎えに来てもらう連絡手段として
なら,公衆電話の減った昨今,利用価値があるかもしれない.近年,「体感治安の悪化」[9]が
関心を集めているだけに,子どもの安全確保手段として,「子ども向けケータイ」の普及が進んでおり,さらに低年齢化が図られているのだ.
たとえば,2005年新入学児童を対象としたランドセル商
戦には,「GPS搭載ランドセル」「ランドセルフォン」などが登場した.ケータイ事業者側は飽和状態にある市場活性化のために,「子ども向けケータイ」の
開発,普及に力を入れている.しかし,少し考えてみればわかることだが,ケータイを持っていているだけでは,子どもの「安全」を確保することはできない.
特に低学年の子どもが,ケータイを持って一人で歩いても,犯罪に巻き込まれる機会が減らないばかりか[10],
話しながら歩くようでは交通事故などの危険性が増す可能性すら考えられる.GPSケータイなどで子どもの居場所が常にわかるとしても,それは子どもの「安
全」のためでなく,保護者の「安心」のためでしかない.
しかし,実はこの「保護者の安心感」こそが,「子ども向けケータイ」の普及を推し進めているのだ.
「家庭でのしつけが衰退した」という言説の広がりに対し,歴史社会学的な見地から明治期から今日ま
での資料を検討した広田(1999)は,一般的な言説とは反対に,むしろ親たちがますます子どもの教育やしつけに
熱心になっていると主張する.同時に「家族中心主義」も強まったことで,「子供の教育に関する最終的な責任を家族という単位が一心に引き受けざるをえなく
なっている(p127)」というのだ.ただし,ここでの「教育」とは,勉学における「成果」だけでなく,人格的にも子どもをよりよく育てることを目標とす
るものである.先に紹介したベネッセ教育研究開発センター
(2005)のデータでも,「親との会話が多いこと」と,子どもの成績のよさ,知的好奇心や学習意欲の高さ,学習
時間の長さに関連性が見られる.「会話する家族」の子どもは,学習面での「成果」や「意欲」が高い[11].
子どもに対して高い関心を持つからこそ,保護者は子どもの行動に常に日常的に配慮する必
要性を感じるのであり,さらに,それを把握できる技術=ケータイを用いたさまざまなサービスの利用意向を持つようになる.つまり,「子ども向けケータイ」
の広がりは,「体感治安の悪化」を隠れ蓑にした「教育する家族」の「配慮/監視」が原因だ.
ここで,「配慮/監視」と述べるのは,それが「配慮」するため=「相手のためを思って」なされるソ
フトな監視であるからだ.しかし,行動を把握される側=監視される側は決まっており,「配慮」であるがゆえに拒否しがたい.さらに,ケータイを通じた電子
的な「配慮/監視」は同じ場所に居合わせる場合の相互性をもたない(松田,2004)
保護者は離れていても常に子どもに「配慮/監視」する,あるいは「配慮/監視」せざるを得ないから
こそ,「安全」には直接的には役立たないケータイ所有を子どもに勧めるのである.
さらに,本人がケータイを所有できない幼児のための「配慮/監視」システムも登場している.たとえ
ば,カメラ映像をインターネットやケータイを介して映像で確認できるシステムがある.不審者対策として防犯カメラを設置する保育園や幼稚園,小学校など
で,保護者が遠隔地から利用できるように,このようなシステムが導入されはじめているが,子どもの「安全」には全く役立たないネット中継が支持されるの
も,保護者による「配慮/監視」に役立つからである[12].
4. ポ ケットの中のママ
さて,子どもがケータイを持つことで親子関係はどの ようになるのであろうか.
Rakow and
Navarro(1993=2000)は女性がケータイを持つことで,いつでもどこででも母親業を遂行できること/せざるをえないこと――リモート・マザ
リング-―を明らかにした.「いつでも子どもと連絡が取れる」という気持ちを持つだけでなく,実際に,子どもからの電話でどこにいても車で送迎に向かう,
そんな母親の事例が出てくるこの論文タイトルの一部を報告者は「リモコンママ」と訳したことがある.母親はケータイを持ったことで,子どもから遠隔操作
(リモートコントロール)されるのだが,それは,母親としての支配的なジェンダー・イデオロギー――いつでも子どもからの接触に答えられる――に適合的で
あり,利用の満足につながっている.
では,子どもの側までケータイを持つようになると どうなるのか.まず,母親にとっては,さらにリモート・マザリングが強化されるであろう.両者がケータイを持てば,それだけ「接触」の機会は増えるから だ.また,現状では,子どもへの「配慮/監視」の中心は母親であるものの,「教育する家族」においての「母親と同様の役割をこなす父親」が広がりつつある という広田(1999)の主張を容れれば[13],
両親ともが四六時中「親業」に携わるようになる可能性も考えられる.
昨年から予備調査として小学生の子どもにケータイ
を所有させた母親にインタビューしているが,興味深いのが「思った以上に頻繁に子どもから電話がかかってくる」という感想だ.「おやつはどこ?」「雨が
降ってきたけど,洗濯物を取り込んでおこうか?」と子どもがかけてくるというのだ.
ケータイは「気楽な用件」を増加させてきた(松田,1996).特に通話は,何らかの用件があってかけられることが多いが,その「用件」のハードルは下がっており,以前は「電
話をする必要のない用件」までもが,「用件」としてケータイ利用の対象となる.
このようなケータイの利用傾向と合わせれば,「子 どもがちょっとしたことがあると,ケータイを通じて,母親に『おうかがい』を立てる」というのは,なんら不思議がない.職務中にかかってくる子どもからの
「気楽なおうかがい」には,「状況がわかるからいい」「仕方ない」といった評価を母たちは下している.「めんどくさいんだけどね」と,多少とまどいを感じ
ながら.
母親が持つケータイが「リモコン」であるとするな ら,子どもが持つケータイは「ママへのホットライン」である.いつでも頼りになるママをポケットの中に忍ばせて,子どもたちは毎日を過ごす.親子関係や子
どもへの影響を簡単に述べることはできないが,少なくとも,子どもたちが「大人になる過程」はケータイ「以前」とは異なるものになるのではないか.
5. お わりに
さて,長いスパンでの家族の変容を追いかけながら,
ケータイがそれにどのように関わってきたのか/関わりうるのか,検討してきた.自ら持つのではなく,持たされるケータイと子ども、保護者については,まだ
調査不足であることは承知している.しかし,あえて触れたのは,シンポジウムという場においては,問題として提起することが重要であると考えたためであ
る.
子どものケータイ所有については,出会い系サイトの
利用や猥褻画像や暴力情報などへの接触,詐欺や著作権侵害など「危険な他者」との出会いやトラブルが危惧されることが多い.そして,その対応策として真っ
先にあげられるのが,保護者による禁止や制限である.「保護者がこどものケータイ利用に関心を持ち,指導し,一緒に考えていく.」このような考え方自体を
否定するつもりはないが,「保護者が子どもに持たせるのであるから」と自己責任論よろしく,「子どもとケータイとのつき合い方」が保護者だけに任される状
況では,「教育する家族」にとっては,新たな「配慮/監視」の領域を増やすだけとなるのではないか.
ケータイが爆発的に普及し始めて,ほぼ10年経つ.ケータイは,社会において「新奇なもの」ではなく,「当たり前のもの」となってきた.「ケータイがコミュニケー
ションに与える影響」ではなく,「ケータイとコミュニケーションがいかに関わり合いながら,お互いに変容を遂げているのか」について理解するのは,そろそ
ろよい時期となったと考えている.
参考文献
ベネッセ教育研究開発センター.(2005).第1回子ど も生活実態基本調査報告書.
ベネッセ未来教育センター.(2005).モノグラフにみ る小学生のすがた.
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柳田國男.(1931→1990).世間話の研究,柳田國 男全集9,(pp.511-530)ちくま文庫
[1] 「前提となる」と述べたのは,ケータイの実際の利用にはそれぞれの人間関係,なかでも,社会構造的位置に規定される人間関係が大きく関わっているためであ る.松田(2002)を参照.
[2]もちろん,このような調査や分析がおこなわれていること自体が,当時の「都市−農村問題」の反映である.だが,ここでは親子間の言葉によるコミュニケー ションの量と関係への満足度の関連性を示すデータとして取り上げた.
[3]柳田國男(1931→1990) は明治末期から大正期にかけての新世相として「会話する家族」を論じている.
[4] たとえば,1977〜1998年まで3年おきにおこなわれた東京都子ども基本調査『大都市における児童・生徒の生活・価値観に関する調査』などを参照
[5] 内閣府国民生活局「平成13年度 国民生活選好度調査」2002年4月
[6] その意味で興味深いのは「家族割サービス」である.顧客囲い込みのためのサービスが,ケータイ経費を通じた「家族のつながり」や個人が事業者を変更できな い理由になっているからだ.
[7] 高校生と親とのケータイを通じたコミュニケーションについては,辻(2003)を参照.
[8] 2005年3月におこなわれた調査.所有率は小学生24.1%,中学生66.7%,高校生95.0%.
[9]ちなみに,少なくとも1984年から2003年までの20年間を見ると,他殺された10歳未満の子どもの「数」は減少傾向にある(浜井,2005).もちろん、「体感治安の悪化」という問題は統計的 な数字では理解できない.これについては,河合(2004)も参照のこと.
[10] もちろん,ケータイ所持が見えることでの「犯罪抑止効 果」はあるだろうが,ケータイの相手=保護者が離れたところにいる以上,それが防犯ブザー以上の効果があるかどうか疑問である.
[11] もっとも,保護者からの日常的な配慮が,成績だけでな く知的好奇心や学習意欲などとも関連するとすれば,苅谷(2001)が主張するインセンティブ・ディバイドの議論につな がり,ひいては,社会全体に「教育する家族」が広がりつつあるという広田の主張への疑問となる.たとえば,本田(2004)はアンケート調査の分析を通じて「非教育ママ」= 「教育しない家族」の所在を明らかにしている.この「教育しない家族」において,小学生がケータイを持つようになった場合,以下の議論は当てはまらないで あろう.
[12] 「安全対策サービス,学校向け需要拡大」『日経産業新聞』2002年1月11日16面,「安心?不安?我が子中継」『朝日新聞』2004年4月15日朝刊 22面.後者では,映像を見る親と保育園とのトラブルも紹介されている.松田(2004)参照.
[13] 小学生を対象に1991年におこなわれた調査でも同様の傾向が報告されてい る。ベネッセ未来教育センター(2005)