地味に影響を与えているかもしれないストーリーテリングの話です。なんやもう講義化してきてますが…なんで、私ごときがこんな 基本事項を語っているのだろうか……。
・そもそもゲームにおけるイベントとは
ゲームにおけるイベントとは、一言で言えば
「主人公を揺さぶる出来事」そして「その揺さぶられた出来事に対して、答えを出す」と言うことです。
その出来事に遭遇して、主人公の理念信念が揺さぶられ、好むと好まざると、意図しようがしまいが、Factionを選んでいく行為と言え、Factionを選ぶこと こそがゲームにおける意志決定である。と言えます。
Factionとは派閥の事。ゲームにおけるエンディング分岐とは、各エンドナンバーという派閥に属すること見て良い(最近は特に)。ルート分岐でも良いけど。ヒロインAのルート、Bのルート、と言うのはヒロインA派閥、ヒロインB派閥 に入ると見て良い。イベントの積み重ねによって、自分自身を捧げる派閥を決めるからこそ盛り上がるし、ドラマが成り立つ。 そして、その意志決定をプレイヤーが行うことで、ゲームだけが持つストーリーのインタラクティヴをもたらす訳だ。
ゆえに、きちんとしたイベントとして成立していないと、信念の揺らぎや、Factionの選択という最大の意志決定が成されないため、ドラマが盛り上がらないどころか、ドラマとして成り立たない。
近年のゲームにおいて、選択肢が効いていない。と感じるのは、そのイベントに対しての主人公/プレイヤーが感じるであろう「揺らぎ」を先読みしていないからだと言える。たんなる「yes/no」「右か左か」「AかBか」に留まっている(そして、左右どちらを選んでも、同じ答えに至ったりする)。 それはもう別々の扉を選んで「じゃあな、次は地獄で会おう」と見得を切ったのに、扉を開けたら同じ部屋でしたー。ってぐらいコント。と言う認識がない。ギャグでやっているなら良いが、本気だから始末が悪い。
紛れ込んだゲリラを一般市民ごと殺害する帝国軍を見て、帝国へ怒りをたぎらせるのか、自分の無力さに打ちひしがれるのか、 自分が生き残るために一般人をも巻き込むゲリラを軽蔑するのか、そうした積み重ねと意志決定がないままに、「帝国 に参加しますか はい/いいえ」「レジスタンスに荷担しますか はい/いいえ」とされたところで盛り上がるわけがない。 まぁ、それでも、意志決定できるだけマシだったりもするが。
真メガテン2で、ダレスと戦い、ベスの死というイベントで、ホークはメシア教会に疑念を持ち決別する。それでもなお、 規範となるルールは必要だとしてLawに帰属するのか、人は自由であるべきとChaosに与するのか、それとも 、人は法に縛られても、自由におぼれてもダメだと、全く別の道を選ぶのか。その選択の起点になるからこそイベントであり、一方的にChaosに流れ たり、Lawへの疑問を感じないならば、単なるエピソードでしかない。
そうした、ストーリーを盛り上げるためのイベントというモノが、絶対に理解できていないのが、チーム村正で、迷宮クロスブラッドで黒騎士がらみのイベントが、ほとんど無いことからも解る。黒騎士が「なぜそうした行動を取るのか」と言うのを見せて、プレイヤーを揺さぶらなければ、ドラマは生まれないのだ。ギミックの発動とイベントの発生は明確に異なるのだ。
もっと解りやすい例は、STARLESS。間宮家の過酷で強烈な研修をナゼ受け続けるのか。と言う意志決定が出来ないがために、ただ流されていくだけになっている。 「ただ耐える」としても、耐える理由が必要なのだ。金とためと割り切ったのか、御手洗を守るためなのか、マリサに褒められたいからか、それとも、単に気持ちいいからか。その決定に関与できずして盛り上がりはない し、その目的と意志の延長線上に結末がないと、降って沸いた結末を迎えるハメになる。
Akiba'Strip+での双子エンドが好例で、瑠衣とさんざんイベントを重ね、盛り上がけておきがら、なぜか双子に乗り換える。それを降って沸いたと言わずしてなんと言えばいいのか私には分からない。
・選択とは意志決定であり、責任が伴う
読者がどんなにサブヒロインに恋いこがれたとしても、小説や映画ではヒロインと結ばれることは避けられない。だが、ゲームなら違う(と言っても、シャイニングフォース2で「なんで姫さん固定やねん、待って、サラー!」となった人は二万人は居るはずだ)。と言うのは、ホントに10年言い続けていることなんだけど。
そうした意志決定を伴わないイベント群は、ただのエピソードの羅列でしかない。エピソードの羅列は絶対にストーリーとはなり得ない。ただ、そこには、意志決定に至るまでのプロセスを伴っていなければならない。それがなければ、選択肢があったとしても、ただのお仕着せに過ぎない。「いいえ>そんな酷い」でループするようなものだ。
ゆえに、STARLESSを初め、聖少女ライティングのシナリオや、チーム村正のシナリオは、極平坦に、なんの感慨もなく 、感情にさざ波すら立てずに進む、足音もなく進むいわば幽霊物語ならぬストーリーのゴーストである。
エピソードは、挿話と訳され、根本的には「本筋とは関係のない逸話」である。ゲーム的に言うなら、サイドイベントであり、ミニクエストである。閑話休題のレベルであり、寄り道を促す時間稼ぎですらある。
イベントとの違いにクローズアップするならば、エピソードには意志決定が伴わない。と言っても良いだろう。なぜなら、エピソードは過去の逸話、思い出話であり、すでに終わった話だからだ。
多くのゲームが、イベントと言いながらも、エピソードの羅列になっているのは、ライターによるキャラクターの昔語りに陥っているせいで、現在進行形の出来事、問題として描けていないと言えるのかもしれない。
読み物とゲームの差は、そこにある。
要するに、条件を満たせばシーン再生が行われるだけのADVやRPGが氾濫している。と言うこと。PDAを拾い集めて、背景世界をより深く理解すると言う仕組みはFPSに多いが、それと同レベルの「語り」になっているわけだ。 ゆえに、読み物レベルに留まる。意図的に留まっているならばいいが、ゲームのつもりで読み物を作っているのが散見されて困る。
イベントとは動的であり、エピソードは固定化されたモノと言っても良いかもしれない。ビデオの中で起きたことに、関与することは出来ないのだ。出来事に対して、動的に関与できる。と言うのがゲームの強みだと私は考えている。選択肢によって、物語に関与できると言うことだから。
すなわち、イベントという事態を揺り動かす出来事に対して、どう決断し、どう展開させるのか。イベントとは、問題提起であり、選択肢は答えである。「あなたなら、どうする?」、ゲームブックの始祖であるシリーズは、そんなタイトルだった。まさにゲームとはなにかを、端的に言い表したタイトルと言える。
実際のところ、ときめきメモリアルも、エピソードの連続体でありストーリー性は薄い。 「私にはどうしようもない」シーンの連続で、デートイベントでは、選択肢はあれど、反応は固定化されており、好感度稼ぎの場になっていて、そこに揺らぎはない。ルイルイが「うわっ、ニブっ。もぅ知らん、知らんっス」と言っても、どうすることも出来ない。 ややあっさり目に感じられるのも、ブッキング等で選択を迫られることがないからとも言える。デートに誘う=選択したとも言えるのだが。
もっと明確なのがドリームクラブで、完全なる単発エピソードの群体であり、一連のストーリーとして組み立てることすら放棄している。アレを困難な手法と評価したのを鼻で笑ったのも、そういう理由。受け手レベルの低さに愕然もしたが。
小説や映画においても、エピソードの羅列でストーリーにはならない。と言われるのに、さらにそれをゲームでやれば、白けるのも道理だろう。ビデオレターのように再生される昔語りを眺めて面白いモノか。ゴブリンを退治するのに、正面から切り込むか、シーフを囮にして引き寄せてから、スリープで寝かせるのか、それても隠密で忍び込み毒でも盛るか。そうした動的な関与すら出来ず、ムービーで強制的になぎ倒すのであればエピソードに過ぎない。
ゆえに、イベントとは出来事に対して動的に対応できる。その対応が、factionへの帰属につながる。と言うことかな。
シナリオ作りにおいて、これらのことは、ごく基本。出来てないゲームが目に付くのは非常に残念。と言うか、ゲーム学校のシナリオ科って、いったい何を教えているのだろうか。まぁ、どのくらいが卒業生なのかは解らないけれど。
GAMELIFEの「HalfLife」批評、●Half-Lifeが変えたものの末尾にある>>
このようなインタラクティブなストーリ演出はゲームというメディアならではの手段であり、映画的な、などという表現はもはや全く陳腐な響きしか残さなくなってしまった。
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と言う一文は、全てのゲーム関係者、ゲーム制作を志す人、そして評価者に胸に刻んで貰いたい。私が長ったらしく、分かり難い文で延々書いたことが集約されている一文だから。
しかし、2013年の現状を見る限り、ユーザーの大多数は、ゲームに、体験よりも傍観を求めて止まないようだ。展開が多岐に渡るゲームよりも、固定化されたアニメ化を喜ぶのだから。
・ゲームがゲームであるために
いまゲームを作っている人、これからゲームを作りたいと思っている人、それぞれに覚えていて欲しいのは
ゲームは、ストーリーを読んで貰う場所ではない。ストーリーの中で遊んで貰う場所だ。
と言うこと。お仕着せの展開や、選択できない選択肢で、自分の想定通りの展開を鑑賞して貰う場ではない。と言うことだけは忘れないで欲しい。
テーブルトークをしていた頃から、嫌われるマスターナンバーワンは、自分の設定に酔うマスターだった。NPCが主導し、プレイヤーはもはや講談か一人芝居を聞いている観客に過ぎないようなマスタリングをする人も少なくなかった(初心者が陥る罠でもある)。
責任を伴う選択、それなくしてはゲーム、すなわち体験たり得ない。と私は考える。
責任を伴う選択、現実世界でも、その選択への決断こそが体験と言える。それなくしてはゲームたり得ない。と私は考える。だからこそ、自分のストーリーに酔いたい、酔わせたい人たちは、こぞって小説や映画のようなゲームを作りたがるのだろう。だから、彼らはゲームを愛してない。踏み台に過ぎないのだ。だから、映画や小説、アニメへと走るのだと。
あなたはゲームが好きですか?。それとも物語を鑑賞するのが好きですか?。自分の語りで人を酔わせたいですか、それとも自分の世界で、自由に遊んで貰いたいですか?。
あなたはゲームを愛してますか?
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