序:眠れない夜の眠りたくない理由


体が重い。あの日から、もう何日もたったハズなのに疲れはいっこうに消えない。そして、なにより寝苦しさが回復を妨げる。眠れない夜が、もう何日も続いている。

理由は、それだけではない。右腕には、まさに雪のような肌を持ったしなやかな腕が巻き付き、青い髪と幸せに満ちた寝顔がある。左の頬に、頬に押しつけられた踵がえぐり込まれる。コレが男か、ブスの足なら、至近距離から、454カスールを撃ち込んで、ニューメキシコ中にグラム三十円の肉片をばらまいてやるところだが、足そのものも、白く細く大理石のようになめらかで、足フェチがいれば、感涙に咽ぶところだろう。

足の持ち主も、足にふさわしい美貌の持ち主で、スーパーモデルも木陰に隠れてやり過ごすであろう、美しさと気品を持っていた。ギリシャ彫刻のように肉感的でありながら、冷たい美しさを秘めた体。彫刻のように整った顔立ちでありながら、母親のような柔らかな笑みを浮かべる顔。雄壮に延びた角。そう、角。彼女の名は、那水。水部を統べる竜王の娘。そう、彼女たちは人間ではなかった。

非日常が日常となったあの日、生まれついての国宝級の優柔不断さを遺憾なく、なおかつ、余すところ無く発揮した俺は、一気に妻を4人、同時にめとる事となった。重婚だ、法律違反だと、抗議したところで国籍も戸籍も持たぬ、里の人間には無意味な抵抗だった。そのまま、家庭という名の牢獄に、愛情という鎖でつながれるかと思ったが、長たちは意外な裁断を下した。

人間界での生活の許可。人間の世界を学ばせるには、良い機会だと言ってはいたが、実状は違う。里から人間が消えたことでも分かるように、里での生活は、生物的能力に劣るただの人間には、非常に過酷なものだ。
「わしらが里での生活が一番のように、人間には人間界での生活が一番なのかもしれん。」
あのクソじじいが、憂いた表情で、そうこぼしたとき、俺は初めて本当に愛されていることに気がついた。すずめを手放したくないのと同じぐらい、俺のことを心配してくれているのだと。

「それに、小十郎さんは人間界にまだ未練がお有りでしょう。学校を卒業するまでの間に、ゆっくりと考えてくださいね。私たちに取って、一年、二年など、ほんの瞬きにすぎないのですから」
微笑みを崩さない静氷母さんの目に涙が溜まっていくのを、俺は見逃さなかった。物の怪の寿命が長いとは言っても、時間の感覚は人間と変わらない。一日は一日だし、一年は一年だ。募る寂しさも変わらない。
「大丈夫だよ、母さん。」
こらえきれなくなったのか、俺に抱きついてきた静氷母さんは、そのまま泣き出してしまった。そのまま、泣かせてあげる以外、俺に出来ることはなかった。
「小十郎さん、大きくなりましたね。まゆきを・・・お願いしますね」
涙に濡れた瞳と、精一杯の強がった笑顔。
(いかん、この人は俺の母親なんだ。母乳の出なかった母さんの代わりに授乳してくれた人だ。そんなことを考えてはいかぁーーーーん。)
人間として、否、生物として最低な妄想を防いでくれたのは、一つの視線だった。

物静かで、世界の破滅を報告されても、眉一つ動かすことなく、茶をすすっていそうな奈美貴さんがじっとこちらを見つめている。女神のような柔らかな微笑みで、視線を逸らすことなく。邪な妄想を見透かされたかと、汗が逆流するような気分だったが、どうやらそうではないらしい。視線と沈黙に耐えかねて、思い切って訪ねてみる。

「あの・・・奈美貴さん?・・・どうかしましたか?。」
「・・・奈美貴さんですか・・・」
女神がため息をついた。それはナゼか、俺がとんでもない罪を犯してしまったような気分にさせる。でも、理由が分からない。名前、間違えてないよな。たぶん、呆けたような、状況を理解してないような、そんな顔をしていたのだろう。奈美貴さんはもう一度、ゆっくりと繰り返した。
「奈美貴さん・・・ですか」
分からない。脳味噌がスパゲティになって、糸を引くほど腐ってしまうぐらい、頭を酷使しても、理由は掴めない。想像すら出来ない。
「私は、奈美貴さん・・・ですか」
少々の怒気。女神の怒りと覇気が混乱に拍車をかけすぎて、暴れ馬が河にはまって、踊り念仏でキリストに助けを乞うぐらい、頭の中はパニックになっていた。
「ぬぁああぁぁ、罪悪感点呼盛りっっっ」
「あんずの苦労が知れますね。こんなに鈍感だとは・・・」
「奈美貴殿はな、静氷殿だけを「母」と呼んだことに立腹しておるのじゃろう。な、奈美貴殿。」
じじいが、カラカラと笑う。なるほど、妙なトコで女の戦いが始まっていたようだ。
「スミマセン、気が利かなくて。御免なさい、奈美貴母さん。」
たったそれだけで、子供のような笑顔に変わる。笑顔は、あんずにうり二つ。やはり、あんずの母なのだと実感する。

そんな微笑ましき幸せにも、魔の手は伸びる。がしす、と相応の質量を伴った腕が、俺の両肩をつかみ込む。濃い髭とむさ苦しい男の体臭が、眼前に迫る。
「婿殿。さあ、パパと呼んでごらん。」
その髭面は笑らっていると言うより、崩れていると言った方が正しい。何百年生きてるか、想像もつかないが、物の怪としては一番脂ののった時期なのだろう。肩には、絶対に逃げられず、痛みを感じない絶妙の力加減が施されている。たぶん、起重機でも持ってこない限り、この腕からは逃げられそうもない。

きっと、俺の肩には手形の痣が残っていることだろう。さすがは、チャンピオン。でっけぇ置き土産だぜ、なぁ、段平のおっちゃん。そんな混乱も、竜王には届いていないらしく、崩れるどころか、溶け始めた笑顔が迫ってくる。
「この日をどれだけ待ち望んだことか。さあ、恥ずかしがらずに。ぬ、パパもいいが、「だでぃ」と言うのも捨てがたいな。いや、離婚されると困るな。それでは・・・」
「小十郎、わしは「ぐらんぱ」と呼んでくれるな。」
「何だと、森の。抜け駆けはゆるさんぞ。」
男の戦いなんて見たくも無い。



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