ペルソナ2罪


ハッキリ言って、女神シリーズの中で、最駄作。ココでの失敗が相当の痛手だったらしく、ペルソナ2罪のフォロー、ペルソナ2罰を発表して以来、SFC版の真・女神転生をPSでリメイク発売と言う、逃げの姿勢に終始しています。真・女神転生Uも発売されたので、おそらく、真・女神転生if...も、旧約シリーズもリメイクされると思います。

システムの面では、真・女神転生デビルサマナーの方が、明らかに失敗しており、あの取っつきの悪いシステムのせいで、もうメガテンの新作は買わない。と言うレビューをしていたサイトもあります。メインメディアが、カセットテープ時代の生き残りである私としては、あの程度で根を上げる方が、根性無し。とか思ったりしますが(笑)。

補記:初稿は2002年前後の古いモノ(このサイトの最古参ページの一つ)。なんだかんだで、メガテンシリーズは続いておりますなぁ。真3とアバドン王以外は目をそらすけど(サバイバーは未プレイです)


シナリオについて

別段、ゲーム途中までは、なんの不満…いや、悪魔のデザインの大多数が、金子一馬さんでは無い。と言うのもツラかったですが…逆に、金子さんのデザインが素晴らしすぎると言うことに気づかされたので良しとしましょう。河鍋暁斎、水木しげるに続く、妖怪(悪魔)絵師は、金子一馬だ。

話がそれました。 序盤までは、すばらしい世界観、謎が謎を呼ぶ展開に猛烈に引き込まれるのですが、中盤から迷走が見え始め、話の着地点を見失っている感が出てきます。
特に問題なのが、結末の付け方。結局、ニャルラトホテプの張り巡らした陰謀に手も足もでなくなり、陰謀を画策する以前にタイムワープして、今までのコトを無かったことにしてしまうのです。

この行為こそ、最も許されざる行為であり、ニャルラトホテプに人間なんてダメだよ。と言われてしまう原因ではないでしょうか。攻略本の巻末インタビューでは「さらに跳躍するために、助走を付けるために下がった数歩である」と言う言い方をしていましたが、とんでもない。

時間を逆転させると言うことは、自分達以外の全ての人から、時間と可能性を奪うことなのです。今の自分をも否定し、自分達の都合の良いように時間と世界をねじ曲げる。その行為は、仮面党やSSたちとどう違うのでしょうか。失敗したから、時間を戻す。リセットして、ロードする様な感覚で、時間を語られてはたまったものではありません。

そもそも、失敗とは誰にとって失敗なのでしょうか。誰にとって都合の悪い状況なのでしょう。加えて、フィレモンとニャルラトホテプは、表裏の関係ならば、フィレモンが時間を戻せること考慮しており、陰謀の中に組み込まれているはずです。もしかしたら、それがペルソナ2罰のストーリーなのかも知れませんが。

最終的に、フィレモンが関与するならば、最初から出会わないように仕組むべきだ。人を信じて、その未来を人に託したのならば、その結果、もたらされた、グランドクロスによって破壊された地上という結末をも、受け入れるべきなのではないでしょうか?。本当に、ニャルラトホテプに負けたくないのなら、荒廃した地球で強く、正しく生きて行くべきなのではないでしょうか?

時間を戻し、全てを無かったことにしてしまう事は、自分自身の可能性すらも否定した、最低、最悪の結末と言えるでしょう。自分達の力が及ばなかったという罪の意識から逃げ出してしまったに過ぎない。その罪を受けるコトもなく、別の時間軸で再会する。なんと安易な。

あれほど重々しくNPCたちの口から、人生や生き様について語らせておきながら、あっさりと時間を逆転させて、人生を無かったことにしてしまうなど、愚かすぎる。本末転倒もいいところ。私は、バッドエンドに違いない、と三周もクリアしてしまいましたよ。

此路あゆみさんのコミック『きゃぷてんX』のなかで、こんなセリフがあります。『時間の不可逆性を否定し過去へ。時間の連続性を否定して未来へ。その行為は、相対的に被験者以外の全ての宇宙を否定することだ。宇宙全体から時間を強奪することだ。』
私も、その通りだと思います。だからこそ、時間旅行には慎重さが求められ、危険視されるのです。


◆地下防空壕からの脱出についてだが、ハッキリ言ってあれは、成り立たない。最初に立っていた場所が、どう考えても入り口であり、例え、見た目が岩に変わっていても、幻覚と同じで、触ってみれば、岩と鉄の区別は付くし、叩けば音も違う。それに、空気の流れも感じ取れるはずだ。閉ざされた防空壕で水たまりが出来るならば、空気は、かび臭く、湿って重たいハズで、外からの空気は、ハッキリと感知できる。

また、噂によって、解法が固定化されている。と言うならば、儀式魔法と同じく、手順を踏むことで、噂の呪力から解放されて行くはず。つまり、同じ手順を踏まなくてはならい。

もしくは、自己暗示と同じく、デジカメで取ることで、同じ効果がある。と信じたことで出口が見えるならば、そこに扉がある。と思いこむことで、出口を発生させるのと同じコトだ。勝手な演出による自慰行為に過ぎない。これは、もはやゲームとは言えない代物だ。

補足
五感すら麻痺させる幻覚という可能性を忘れてますね、私。私のミスです、大変申し訳ありませんでした。

が、別にデジカメにとらんでも、割れた鏡の破片に映せば十分だし、それ以前に、シャッターを押さなくても、液晶に写ったものを見れば十分だと思うのですがねぇ。


キャラクターについて

このペルソナ2のみ、主人公にデフォルトネームが付けられ、「罰」の方に至っては、名称変更できません(多分…達也のみ変更可でしたっけ)。これまでの女神シリーズ(GBは除く)には、デフォルトネームすらありませんでした。これは、あくまで主人公は、ユーザーである。と言う信念があったからでしょう。

女神シリーズの主人公が、一切喋らないのは、あくまで主人公はユーザーであり、貴方だったら、ここでどんな風に言葉を返しますか?。と言う問いかけだったのだ。 それを敢えて揶揄し、無口無表情朴念仁としたのは、愛するが故の「いぢり」だったのに、素で受け止めちゃダメですわな、P3?。

しかし、デフォルトネームが付くことで、主人公はユーザーではなくなり、会社が設定した人格を擬似的に追体験すると言う、つまり、脚本通りに喋る役者の立場になってしまった。戦闘シーンで遊べる絵本程度の価値しかなくなってしまった。この設定が大成しないことは、ファイナルファンタジーシリーズが、身をもって示している(ゲームなのに、ゲーム性よりキャラクター性を売りした会社は軒並み潰れたのに、スクエアは頑張っていると思いますが…まぁ、スクエアは映像にこだわっているという違いがありますけどね)。

加えて、攻略本では主人公に関する設定が、公開されたが、それこそ興ざめの局地。サトミタダシのオナニーショーでしかない。どんなキャラクター設定も、作中で表現できなれば無意味だし、そもそもキャラクター設定と言うモノは、作中での厚みを出すためのモノ。つまり、制作者がキャラクターに喋らせる際に、一元的な価値観と、信念を持たせるために必要なもので、読者やユーザーに読ませてはならない。と思う。

キャラ設定を読むことで、初めて作品が理解できる。と言うならば、まごうことなき失敗作である。そもそも、普通の作家ならば、登場人物の履歴書ぐらい作って設定を固めるのはごく普通だしねぇ。

小説や映画ならば、それで構わないと思う。読者や観客は、あくまで第三者であり、安全なところから観戦しているに過ぎない。しかし、ゲームは、ゲームの利点は、自分自身が主人公となり、リングにあがれると言うことである。と私は考える。

自分の意志を反映できず、ただストーリーをなぞっていくダケのゲームならば、私はいらない。大抵のコンピューターRPGはそうであるけれども。つまるところ、分岐があると言っても「連れていきますか…いいえ」「そんな酷い」のループに入るような物が多い。それは、ハードの限界があったFC時代ならともかく、今でも見かけるのはどういうコトだろうか。


全てにおいて言えることは、サトミタダシ…死んどけ。と言うことである。同人の域から脱しきれていない。まさに、自慰行為のようなゲームだった。自分自身を投影したキャラクターをちょい役で、シャレとして出していたペルソナ1はまだしも、ペルソナ2に至っては、イベントまで用意し、あまつさえそれを絡めたストーリーをも展開するのである。馬鹿だ。

ちなみに、ペルソナ1でもあったが、雪の女王編は、あくまで裏ルートであり、オマケシナリオとも言えるので、その中で遊ぶなら、別段、文句は言わない。が、メインストリームでやられると、さすがに呆れる。

罪で独り立ちしたかにみせて大転倒して、罰では岡田耕治という歩行器具をつけてようやく歩けたようだし…まぁ、次はないね。つーか、ンなの採用したアトラスもヤバ目。そのせいか、リメイクばかりだし…岡田耕治は、ウィザードリィのオリジナルシナリオのBUSINとか作っている始末。

ゲームの方も、最初は鈴木大司教が関与していたらしく、旧約2、真・メガテン1までは、大きく関わっていたらしい。メガテンファンで、好きなメガテンを挙げろ。と言われたら、この二つのウチ、どちらかを挙げるのでないだろうか。まぁ、メガテンシリーズも、立ち消えっぽいね。たぶん、もう新作は出ないんじゃないかな。アトラスもダメかな…いや、会社的にではなくて、ゲームメーカーとしてね。

 


追記(2011/04/08)

ペルソナの意義

このペルソナ2から、ペルソナのペルソナたる所以が、曖昧になり、ただのスタンド能力のような扱いになってきています。心の海から出でし力。ではなく、フィレモンから与えられたスーパーパワー。簡単に取り上げられ、譲り渡される能力。それでは、心の力とは言えない。

特に、黒須はペルソナを奪われても、再び、心の海からペルソナを生むべきであって、譲られるべきではなかった。自らの意志と罪の償いのため、新たな決意をもって、ニャルラトホテプを宿したジョーカーとしでてはなく、黒須純として、自分のペルソナを、心の海から生むべきだった。
ある意味、ペルソナ2を象徴しているとも言えますが。「自らに頼む」のではなく、結局他人にすがっているわけで、それはまさに、ペルソナ2のエンディングで、自分たちでの解決を諦め、フィレモンという「デウスエキスマキナ」に丸投げしてしまうわけですから。

作が重ねられるたびに、ペルソナはペルソナでなくなり、スタンドやスーパーパワーになっていきました。3で明確にスタンド能力となり、4ではもはや単なるスーパーパワーで主人公がペルソナを取り替えられる理由すら語られない。ペルソナとして専用にデザインされず、過去の金子悪魔をそのまま使い回すようになりましたしね。

心の海から出てきた力が、なぜ神や悪魔の姿をしているのか?。フィレモンの「ここに来て、自分が誰だか名乗れるモノは多くない」と言う出迎えの言葉。それは、確固たる自分自身というモノを持っているからこそ、悪魔のように残忍な心、神のような慈愛の心、そんな仮面をかぶっても、自分を見失なわない。だからこそ、ペルソナを使いこなせるのではないか。

P3のストレガのように、無理矢理覚醒されたペルソナ使いは、ペルソナに殺されるのではなく、所持ペルソナのような思考に染まっていくべきなのではと、思うわけですよ。物理的に殺されるのではなく、精神的に乗っ取られる。と。

ペルソナとは、なにか。と言うことを再定義しない限り、復活は難しいんじゃないかなぁ。

そして、ペルソナを見た本物の悪魔は、どういう反応をするのか。人間が思い描く自分(悪魔)の姿に悪魔はどう反応するのか。人間が思いの外、勇猛に思い描いてくれていたり、愛らしく思ってくれていたり、そんな驚きがペルソナトークになるのではないかと思う次第です。ジャックフロストなんて、本来は、霜の魔で人を凍死させる霜男なんだし。アスタロトが、イシュタルのペルソナを見て感動するとかさー。
(超今更ですが、ジャックフロストのジャックは、固有名が分からない男性に使用されるもので、日本だと、山田太郎とか、田中一郎みたいなものです。つまり、ジャックフロストは、怪奇霜男なんですわな。ジャックザリッパーもジャックは固有名詞でなく「切り裂き男」とか訳すべきで、口裂け女みたいなもの。ジャック&ジルも、太郎と花子みたいな感じ。)

まぁ、スタンドとかスーパーパワー扱いで、ローティーン向け、ゲーム界のライトノベル(ケータイ小説よりの)ポジションを確立しますと言うなら、それでも良いんですがね。


追記2(2013/10/12)

と言うのをナチュラルにゲームプレイ後に感じて憤って当時書いたわけですが、先頃、罪の攻略本を読み直すきっかけがあって……
ニャルラトホテプの解説欄に「唯一の方法は、全てを受け入れた上であきらめないこと」と書いてあって噴きました。
……だったら、なおのこと、荒廃した地球で「心正しく生きよ」でしょ。力及ばなかった現実を受け入れろよ。負けたという事実を受け止めろよ、敗北から立ち上がれよ、若人。時間巻き戻して、出会わなかったことにするのが、受け入れた上で諦めないことなの?タダシ君。

全力で現実を否定した上に、責任から逃げてるよね?。自分で「対処方法は、受け入れた上で諦めない」と設定しといてあの結末?。マジで?。予想を遙かに超えるダメッぷり。つーか、まわりも止めろよ…突っ込めよ。監督してよ、岡田さん……そりゃあ、クソにも程がある。セッシャだったら、恥ずかしくて腹かっさばいちゃうね。あ、だから退職したのか。

そもそもね、根幹キャラクターに「ニャルラトホテプ」という他の作家のを丸ごとパクってくるあたりで、リテラシーがない。いかに、神話と呼ばれていてもさ、シェアワールド同然といってもさ、他人の小説、創作物。本物の神話じゃない。ニャルラトホテプでなくて、ヘドリアン女王とか、ウォッチメンとかに置き換えたら、その違和感は一発で理解できるはず。ヒトラーだから許される、あれが魔人加藤だったら?、レックスルーサーだったら?。バカか?ってなるでしょ。しかも、名前だけパクって設定丸変えだよ。HPL愚弄にも程がある。

私が、クトゥルフ神話のキャラクターの名前だけ借りてるクセに、さもオリジナルですって顔する作品が嫌いな理由はそこにある。自分が、クトゥルフ神話の世界にはいるべきで、クトゥルフを自分の世界に呼び出すべきじゃない。それは商業作家が、商業作品で、やっちゃいけないことだ。
 


戻る