プレイヤーが操作すべきモノ:キャラクター、選択肢そして物語
私ごときが語る必要も資格もないけど、一席打ちます第二弾。
プレイヤーは、キャラクターを操作します。そしてゲーム世界を動き回るワケですが、実際に操作しているのは、キャラクターだけでなく、選択肢をも操作し、そして物語をも操作している事を忘れている、ないし、気がついていないクリエイターもどきが、まだいるようです(特にエロゲメーカー内に)。2002年前後に発売されたゲームに関与した人は、特にヒドイと言わざるを得ない状況で、選択肢を選んでも、何も変化しないような、いわゆる無意味な選択肢を乱発して、ゲームっぽく見せているけど、実はデジタルコミックなみの無変化一本筋というモノが多々ありました。
シナリオ面において、プレイヤーが操作する第一要素は選択肢です。特に、戦闘や育成と言った他の要素がないAVGにおいてそれが如実に表れます。
右の扉を開けるか、左の扉を開けるか、その選択肢が、これからの展開を左右するモノであり、また、左右しないならば、選択させる必要など無いのです。そうした意味において、選択肢の存在は、ゲーム世界におけるパラレルワールド発生装置と言えます。右の扉を開けた未来、左の扉を開けた未来、どちらも同じなら、何故選択させる必要があるのでしょうか。
良く現実世界でも、人生は選択の連続だ。と言われます。進学か就職か、と言ったわかりやすいものから、朝の一杯をコーヒーにするか紅茶にするかと言う、どうでも良い選択。そして、日常に潜む危険を、何気ない選択、先で言うどうでも良い選択で人生を左右する事もあります。
十数年前に、釣り船の転覆事故で、多くの死傷者がでた事故がありましたが、実は事件であり、船長が搭乗制限を越えて客を乗せ、不安定になったところに波を食らって転覆した事が後に判明した訳ですが、この事件で驚くべきコトに、釣り船を見て、キャンセル料を払ってまで、乗船を辞めた客が二人いたのです。キャンセル料がもったいないからと、乗っていれば被害者は二名増えていたでしょう。まぁ、他にも、いつも乗る電車を一本遅らせたり、早めたりして、事故を回避したり、事故に巻き込まれた例は色々とあります。
つまり、ゲームにおける選択肢の発生とは、こうした事件事故に関連するような前振りであり、これから何か起きますよ。と言う暗喩でもあるはずなのです。プレイヤーは、選択肢を見れば、これが何かしらのきっかけになるはずだと、どちらを取るか悩む訳です。逆にどうでも良いような選択が、事件解決のキーになっていたりすると、「この人、出来る!」と思われる訳です。
まぁ、全部の選択肢が、そんな運命の選択では、プレイヤー側も、制作側も保ちませんから、行き止まりである事を確認させる選択肢とかもあるべきなのですが、コレを曲解して、どちらの扉を開けても、同じ部屋に入る。つまりは、どちらを選んでも、展開が同じ。と言う事は許されません。逆に、右の扉を開ければ、倉庫で行き止まり。左の扉を開ければ、大広間。ぐらいの選択肢なら許されるはずです。
女神転生シリーズ、特に真1や真2の何がスゴイというと、何気ない選択であるハズなのに、実はロウ、カオスのパラメーターに還元されていると言う事。つまりは、ゲーム内の行動全てが、どちらの属性に即した行動をしているかということを逐一監視されているようなモノで、まさに、その回のプレイヤーの行動、軌跡が、物語としてつづられている。と言う事です。
逆に、ギレンの野望の様に、独裁国家の長の役割を与えられながら、攻略目標を自分で選べないと言うのは、果たしてゲームと言えるのかと。少なくとも、PS2版においては、戦略級という看板は詐欺だと言えます。
かまいたちの夜2と、河原崎家の一族2のレビューを見られて、少々誤解された方いるようですが、ゲームの選択肢として、正しいのはかまいたちの夜2の方です。選択する事で、展開が変化していく、つまりは、選択肢を選ぶ 事で世界が変化していく。選択肢を選ぶと言う事は、まさに新しい平行世界への扉を開く事だからです。逆に、河原崎家の一族2は、いかなる選択肢を選んだとしても、一つの世界の中に閉じこめられたままで、時間だけを引き戻されると言う世界です。
つまり、端的に言うならば、間違った選択肢を選んでも、ゲームオーバーにならない代わりに、間違った選択肢の所に引き戻されるだけです。正解を選ぶまで、進む事が出来ない閉ざされた世界で、それをマルチシナリオとか、マルチエンドなど呼ぶ事は到底出来ません。 本来ならば、閉ざされた時間軸の外にいる主人公は、確実なイレギュラーな存在であり、その行動は、閉ざされた時間を変化させる存在でなくては、おかしいのです。つまりは、行動に即した結末へと導くべきであり、固定化された結末へ引き戻される事の方が、世界が閉ざされている訳です。ついでに言うなら、なぜ時間や世界が閉じたかも説明されず、なぜ主人公が記憶を積み重ねられるのかの説明もないと言う投げっぱなしにも程があるゲームだった訳ですが。近年、蛭田さんがテコ入れしてリメイク…リテイクですね、したようですけども。
ともあれ、まっすぐ、屋敷に向かえば、かまいたちの夜本編シナリオ、寄り道して、ほこらを見つけたら底虫村編。それだからこそ、選択肢の意味があり、選ぶ意味があると思います。 行くべき道を選ぶ事で平行世界が生まれる。だからこそ、選択肢の意味があり、選択のしがいがある。まっすぐ行こうが、寄り道しようが、本編シナリオしかないならば、何のための選択肢なのでしょうか?。誤魔化しの選択肢は、騙すための撒き餌のようなものと言えるではないかとすら思います。
この選択肢を選ぶ事で、物語が変遷していく事こそが、ゲームがゲームたり得る根幹であり、それがなければ、PCやゲーム機で見るCG紙芝居に過ぎません。固定化された物語を眺める事が、ゲームでしょうか?。ならば、なぜに選択肢が必要なのか。それをまず考え欲しい。そしてなにより、選択肢を選ぶ事で、物語が変遷していく、それは、プレイヤーが物語を操作していると言っても過言ではないはずです。
何度も言いますが、プレイヤーが操作するのは、1キャラクターですが、キャラクターは選択肢を選び、物語を変遷させていきます。それはつまり、ワンクッション置いて、プレイヤーが物語を操作している。と言う事なのです。
選択肢は、ゲームっぽくするための小道具でも、プレイヤーに操作している実感を与えるためのマヤカシでもなく、物語の展開を左右する、まさしく運命の選択であり、キャラクターにとっては、人生を左右する選択であり、プレイヤーに取っては、ゲーム世界に関与する数少ない道具であり、世界に影響を及ぼす手段であり、ゲームがゲームとして存在するための根幹であり、存在意義であるものです。
つまりは、選択肢の存在こそが、ゲームをゲームたらしめている根幹であると認識すべきです。
むろん、選択肢のでないモノもありますが、それは分岐点が用意されています。シューティングゲームのダライアスですら、ステージクリア後の分岐で、ルートが変わり、難易度が変わり、ステージ構成という展開も変わります。
ゲームをゲームたらしめるモノは、なにか。デジタル紙芝居を作りたいのか、ゲームを作りたいのか、それをまず考える必要があるのではないかと思います。
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