レッドデッドリデンプション


「映画のようなゲームを」
−映画のような夢ををもじって−


映画のようなゲーム。良い意味でも悪い意味でも。
 
実はXBOX版を予約購入していたのだが、一週間ぐらいプレイして、一通りクリア後すぐに売ってしまった。まぁ、私にとってあまり語る事のないゲームだったのだが、世間一般ではもの凄い評価が高い。が、そこまでのゲームではないだろうと言う事で、ブームも去ったし、ちょっと悪い面を強調してみようかと。

ロックスターゲームのシナリオ(本来の意味でのね)は、Bullyでもそうだったが、「行った、見た、終わり」。マーカーが示すポイントに「行き」、ムービーを「見て」「終わり」。そこに選択肢はなく、用意された解決策を傍観する事しかできない。いや、もちろん選択肢がある時もあったが、基本的にと言う話(揚げ足取り対策。でもサブミッションには選択肢なかった気がするなぁ)。大概は「え、それで終わるの?」と思う事が多かった。なぜコレで没入感とか、ジョンの人生をトレースと…ああ、トレースか。あくまで、ジョンの選択をプレイヤーは見ている。と言うスタンスなのか?。

そう言った意味では、よく言われるとおり「映画のようなゲーム」である。映画のように展開に参加する事は出来ないゲーム。自分の意志を反映できないゲーム。とあるレビューで「やっているうちに、このジョンというキャラクターが好きになった」と言うものがあったが、それはまさに確立したキャラ、個性を持つものを操作している事で、なりきりゲームと言える。自己投影型なら、好きも嫌いもない。なにしろ自分自身なのだから。一応、ジョンを悪党にも聖人君子にもできるのだが、ここまでキャラを確立しておいて、悪党か聖人かの選択はプレイヤーにさせる。というのが、私にはどうもチグハグとしか受け取れなかった。また、悪党になろうが、善人だろうが、メインミッションには影響しないなら、意味があるのだろうか。

なりきりゲームと言うべきなのか、インタラクティヴムービーと言うべきなのか、キャラクターを操作できる、映画のようなゲーム。と言う言葉しか出てこない。プレイヤーの意志は介在する隙がない。自己の投影でなく、ジョンへの没入。「急げ、息子が危ない」ではなく「急げジョン、おまえの息子が危ない」だった。スクリーンを見つめる代わりに、画面を見ているだけだ。そう言う物と認識していれば良かったが、自己の投影型を想定していたので、かなりがっかりした。

ゲームのシステムも、ミッションによって告知無く変更され、指定された解決策を強要される事も多かった。司令官の乗った馬車を止めろ。では、司令官の乗った馬車の御者のみ無敵だったりした。その他の護衛の馬車は御者を撃てば脱落していったのだが。こうした自分勝手なルール変更を、一般的には反則ないしイカサマと呼ぶ

GTAWでも、こうした作りになっているらしく、決められたタイミングでしか倒せない敵。ミッションと言いながら、毎回敵を全滅させるだけなども、GTAWと重なる点が多い。逆にいえば、実に日本的な作りとも言える。例えば、エースコンバットも、会話イベントが終わるまで無敵とか、そんな作りだし。

開発サイドのタイミングを強要するという事は、箱庭ゲームとしては自滅行為。いろんなアプローチで解決できてこその箱庭ゲーム。と思うのだが。GTA4からずっと、こうしたリニアな古めかしい作りにしているのは、まぁ、バグ検証が面倒だからだろう。 クリアへのアプローチの数だけ、チェック項目が増えるわけだから。タイミングを固定してしまえば、バグチェックは通り一辺倒で済む。

マップの広さも誇示されるが、3-4割はまったく用のないエリアであり、単なる無駄と言える。 山の奥地だったりなのでNPCの挙動を鑑賞できるわけでもない。オブリビオンのように奥地をかき分けたら、未踏の遺跡とか砦が。と言う事もなく、ただあるだけ。マップ移動中に発生するランダムイベントも、パターンは5−6個(ホールドアップに合ってる一般人、犯罪者に逃げられた保安官、馬車が故障した婦人、←と思わせた美人局…あとなんかあったっけ?)で、すぐにネタが割れるし、駆け回っている時に、発生すると邪魔でしかたない。中盤以降は完全に無視していた。リスポンも死体があるところに、なので、変な倒し方をすると、クマ牧場ができあがる。動物の感知範囲は広く、 不自然なまでにNPCよりもPCを優先追尾なので、移動中知らない間に延々と追尾されている事は良くあった。マップを確認するために停止したら、クーガーに引きずり下ろされたり。馬で自宅に戻る途中、ふと後ろを見ると、イノシシ二匹、クマ三匹、クーガー二匹がコッチへ向かってきており、爆笑してしまった。ちなみに道なりにしか走ってない。

AIもべた褒めされているが、オブリビオン系列の方が、生活感があると思う。なにしろ、オブリビオンは、ポケットに毒リンゴをすり入れたり、その人物の机や収納に毒リンゴを入れておくと、食べてしまうのだ(そう言う暗殺ミッションもある)。もちろん、夜はベッドで寝てるし、昼は出勤している。

私個人としては、「来た見た終わり」が、許せないレベルで、本当にそりが合わない。反面、固定化された演出を眺めるのが好きな人には合うのだろう。特に、ミッション中の決闘は、相手を殺害するしかないのが許せなかった。ジャックに移ってからの復讐劇も、両手両膝を打ち抜いて「その傷がうずくたびに思い出すがいい。おまえが踏みにじった一家の事を」とか言いたかったんですけど。殺すしかなかった。

そう言った意味では、LAノワールは、ロックスターの持ち味−映画のようなゲーム−を生かす方向性だと思う。ゲームキャラクターの表情が褒められているしね。ただ、私としては固定化されたシナリオを読むだけの物はゲームと呼びたくない。BullyもRDDもそうだが、戦闘シーンそのものが、進行のためのミニゲームに感じられる。ミニゲームをクリアしてムービーを見るという、ある意味、日本的なゲームとも言えないだろうか。

おそらくは、自己の投影となるゲームと、こうした映画のような、私の言う「傍観」ゲームと二つに分かれていくのだろう。海外では傍観から一歩進んで、なりきりゲームへとなったわけだが(傍観型は、ゲームから完全に阻害されるが、なりきり型は、一応関与できる)。ゲームの方向を探る上で、ロックスターのゲームは注視しておきたいと思う。もう買わないけど。

余談だが、ゲームキャラクターの表情はドコまで必要だろうか?。私は、表情筋まで動かすのは、行きすぎた特撮のような物だと思っている。眉と目、口が動けば十分だ。それ以上は過剰だと思う。いくら画面上のキャラクターが、表情豊かになろうとも、陳腐なセリフや、救いがたいドラマを繰り広げるのでは、マペットの方がマシだろうし、表情を付けるのに予算や開発時間を取られるなら、シナリオのルーティングを充実して欲しい。その方がゲームになるはずだ。PCやゲーム機で、デジタルアクターのドラマが見たい。と言うなら別だが。


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