だが、問題は、私がこの舞台劇に観客として付き合わされていることだ!!
−ニコラス・J・ベネット(沈黙の艦隊/かわぐちかいじ/講談社)
さて、ゲームにおいて、プレイヤーの立ち位置。と言うモノを考えたことがおありでしょうか?。
プレイヤーである、あなたは、そのゲームの世界において、どういう役割で、どういう視点で、どういう立ち位置で、そのゲーム世界に降り立ったのか。はたまた、降り立つことはかなわず、神の御使いのごとく、上空から主人公たちを、時折選択肢という天啓を授けながら、見守っているのか?。
一昔前のゲームならば『あなたは、○○となって、この世界を…』と言う一文がマニュアルなり、パッケージなりにあったものです。この一文を信用するならば、ゲーム世界において、プレイヤーは、その主人公と同一と言うことになります。これは、納得して頂けますよね?。
そして、そもそもゲームとは、特に、アドベンチャーやロールプレイングというジャンルならば、自らがゲーム世界にインサイドなり、異世界への旅でもいいですが(とても原始的ですが、ゲームというのは、サイバースペースへのダイブに他ならない)、することで、自分が小説の主人公のになったごとく、その世界を自由に旅し、その世界で起こる物語に巻き込まれる。と言うのが、根底にあった…ハズ。
しかし、様々な物理的制約(主にメモリ容量)のため、完全な自由行動など、不可能な話。そのため、限定された行動、限定された物語での冒険となっていたわけです。
簡潔に言うと、メインヒロインより、サブヒロインのこの子が好きだ。なんで、あんな女を選ぶかなぁ?。と小説、アニメ、映画で、悶々としていたところに、僅かながらも自分の意志で、物語を展開出来るゲーム、特にアドベンチャーやRPGと言うジャンルが登場したわけです。
このため、私が度々言う、『ゲームは、映画を越える可能性がある、唯一の表現技法』と言うのは、こう言うところからです。その為に、映画に近づこうとしている、某社の最後の幻想が嫌いなわけです。私にしてみれば、映画に近づくというのは、映画に逆戻りする。と言うことなので。
主役として参加できる物語と、観客として傍観する物語、どちらが、高位にあるかと聞かれれば、私は参加できる物語である。と思います。そうしたことを踏まえると、本来、敵役からの哲学論争(例えば、世界と恋人どっちを選ぶ?とか)には、プレイヤーが答えを出すべきであったハズなのです。例えば、真女神転生1では謎の老人(太上老君)から「悪魔を殺して平気なの?。と聞かれたらどう答える?」と言うシーンがあります。
が、いつの間にか、制作側、シナリオライターの想定した思想、哲学を勝手に主人公がしゃべり出すようになります。自己の意志が介在しない方が心地よいと言わんばかりに、見る(プレイするでなく)側も、いつのまにかそれを安心して見守るようになりました。
たしかに、ドラマ性としては、キャラクター間で、きちんと受け答えした方が、場面は盛り上がりますし、また、こうした哲学論争は、セリフの応酬があってこそ論争たりえるのもまた事実。はい/いいえだけの受け答えの状況から、さらに深く論争を発展させ、高いドラマ性を生むのは、かなり困難な作業と、才能を求められるでしょう。
日常的な1シーンを描くことでさえ、主人公を一言も喋らせないというのは、かなりの困難を極めます。さればこそ、成功したときには、名作と呼ばれる扱いを受けるわけですけども…往々にして、隠れた名作ですが…
そうした点から、主人公もある程度の性格設定を持たせざるを得ない。と言うのも分かります。特にセリフの応酬となる、アドベンチャーと呼ばれるジャンルならば、なおさらに。
しかし、落とし穴もいくつかあります。主人公設定が、共感ないし許容できる範囲の設定ならば、すんなりと没入できるのですが、生理的な拒絶をしてしまうぐらいの相違もあり得る。と言うことです。
また、性格設定程度なら良いのですが、完全な人格を有しているレベルになると、なんだか、疎外感を感じ、傍観している気分になるのは私だけでしょうか?。テリオスのアンジェリウムの一応の主人公はゼウスなのですが、完全な人格を有しており、プレイヤーはどこにいるのか分かりません。傍観型のゲームの典型例と言えるでしょう。
性格設定と、人格の線引き。と言うのも非常に難しい問題ですが。
もう一歩踏み込んで考察しますと、性格設定と背景設定を混同しているものも中にはあります。つまり、プレイヤーも知らないけど、主人公キャラクターも知らない事柄。と言うのは、最後のどんでん返したり得ます。しかし、プレイヤーは知らないけど、主人公キャラは知っている、しかも、その後の人格形成、価値観に多大な影響を及ぼしたであろう事件は、最後のどんでん返したり得るのか?。と言うことです。
case266と言うゲームにおいて、主人公である老刑事は、最近出所した犯人を執拗に追いかけます。そして、最後の最後で、その犯人が、自分の娘と妻を暴行して自殺に追い込んだ。と言う過去を吐露するのですが。妻子を殺されたと言う過去を知らずして、どうしろというのでしょうか?。
もちろん、ユーザーの視点を、完全な第三者。つまり、観客として扱うならば、あり得ない技法ではありません。が、これは、完全なる映画やドラマの技法…と言っても、映画やドラマでさえ、主人公は知らないものですが。友人知人が、知っていた上で、巻き込むパターン多し。
しかるに、近年(2005年ベース)で、個のドラマ性を注視する余り(俗に言う「萌え」を生み出すためには、キャラクターを際立たせる必要があるためと思われる)、もはや、主人公は、プレイヤーとは完全遊離しており、プレイヤーは、さながら、テレビドラマや、アニメを見るがごとく、ゲーム進行途中に挟まれる。流麗なアニメーションで語られるドラマを見る。
と言う風潮が、ますます際立ってきているように思えるのです。ユーザーはもはや、テレビを通してでしか、ゲーム世界に触れられていない。
本来、主人公、つまりユーザーが紡いでいくべき物語(それが極度に限定されているとは言え)だったゲームは、物語と言う側面を盛り上げるための、さらに限定された個のドラマのみが注視されていくようになったと思います。
また、本来根底にあったと思われる、ゲーム性。つまりは、物語展開の自由さ。と言うモノは、物語選択の幅に変わりつつある気がします。つまり、登場するヒロインキャラの分だけ、ストーリーがつまった、オムニバスゲームという感じに。それは、まさにルート分岐であり、物語の展開とは少々差があるように、私などは感じます。
勘違いして欲しくないのは、主人公=ユーザー、プレイヤーという観点が、絶対唯一のあるべき姿と、私は思っていない。と言うことだけは理解して欲しいと思います。
ゲームの将来性、映画を越える可能性を考慮した場合、主人公とプレイヤーの視点が同一なることが、もっもと有力だ。とは思っていますが、他の人格を体験するというのも、また一つの物語です。
いわば『遊べる(選択肢のある)小説(無いし、映画)』を理想としたゲーム作り。と言うモノも、一つの理想型ですので、それを否定するつもりはありません。しかし、物語を展開させるべきは、プレイヤーと言うことを忘れてはならない。例え達成出来ずとも、心にとめておく必要はあるのではないかと。
テレビコマーシャルや店頭デモで、主人公たち、そう「たち」、複数なんですよねもはや、ユーザーと切り離された物語は、そのグループ全体が主人公となって、その主義主張を高らかに歌い上げ、アニメーションで流麗なドラマ演じ上げている。それはもう、登場人物が織りなすドラマを傍観する、完全なる映像作品。
こうしたドラマ傍観型のゲームが、次世代の本流、ゲームのあるべき姿なのか、それとも、ただのミスディレクションだったのか、それは何年か、何十年か、してみないと分からない事です。
だからこそ、今敢えて、プレイヤーのゲーム世界における立ち位置。と言うモノを考えて欲しいと思うわけです。
最初に戻りますが、プレイヤーは、ゲームの主人公として、物語という運命に立ち向かうのか。それとも、運命と向き合う主人公を、空の上から見守るのか?。まぁ、ここまで極端に、二分されるワケではないですが。
さて、オマケにもう少し考察してみましょう。ドラマ傍観型の原型と呼ばれるモノは、やはり、サクラ大戦ではないかと思います。
アニメ界の気鋭、大御所とゲーム界のコラボレーションは、当時、一大旋風となりました。確かに、大きな追い風ではあったモノの、疫風の一面も忘れてはならないと思います。
サクラ大戦以降、原画師に有名アニメーター、漫画家を起用すれば良いと言う風潮が少しずつ出て来ましたし、フルボイス、ムービーと言うよりアニメーションが必須となってきました。フルボイスと言うことで、さらに有名声優をキャスティングすれば、そこそこ売れる。と言う風潮もまたしかり。逆に、ゲームのCVから、アイドル声優になるパターンも生まれましたが。ボイスという観点からすれば、ときめきメモリアルの方が影響大かも知れません。
セガガガでも、「ゲームの質は、声優で決める。」とか、「肌色の量で決まる」とか、ありましたので、制作側は分かっているけど、売るためには仕方ないと思っているのでしょうねぇ。
これらの技法は、すべてアニメの技法であり、アニメ界の気鋭、大御所を導入したのだから、至極当然と言えます。また、購買層が、アニメとゲームを並列で深く愛好している。と言う点もまた、見逃せない点でしょう。
多くのアニメファンと呼ばれる人たちも、と言うよりは、その人たちの方が、個のキャラクターを特別視する傾向にあり、ストーリー展開など余り気にすることなく、この回は誰々の作画だったから良い。とか、言ってたりしますよねぇ。
ずいぶんと前ですが、そして年代がバレますが、知人から、三つぐらいタイトルあげられて、どのラムが好き?とか聞かれて往生した思い出が…資本主義である以上、主たる購買層が、そう言う感性であるならば、ゲームがこうなってしまったのも、宿命なのだろうか。
とは言え、アニメ誌では、もう数年前から、今のアニメはダメだ等という対談が組まれているという。
私がいつも引き合いに出すのが、松浦まさふみ師の「Gガンダム雑感(MSサーガ9巻に掲載)」から、。ちょっと抜粋させて頂くと「元々アニメ誌とは、「最近のアニメはもうダメだとと言う有識者の対談が組まれているが、表現(氏の定義は「放映されたり、印刷されたりしてエンドユーザーに届くモノのこと」)」されたものの二次商品で、キャラクターグラフィックが売りであり、○○を描いた××さん。と言った具合に、たまに実作業レベルまで、降りてきて、形態を整えていた…」
つまり、アニメ誌ですら、今で言うキャラ萌えしか、評価対象にしていなかった。振り返れば、シナリオレベルに踏み込んだアニメ誌などほぼ皆無で、キャラクター設定画集などがそのほとんどの紙面を占めていた気がする。
さて、ゲームは、ようやくアニメに追いついたのか。それとも、アニメレベルに墜落したのか。
と言うところで、振り返ってみると、本当に、サクラ大戦は、現代のドラマ傍観型ゲームの、全ての要素をもって生まれており、と言うよりも、サクラ大戦から、個のキャラクタードラマを進化させたと言うのが正解かも知れません。
しかし、考えてみれば、サクラ大戦1って、私が大学に入った頃に出たような気がするなぁ。近年、十代半ばを迎えたような世代からしてみれば、生まれたときから、ゲームというモノは、アニメーションのように、傍観するもの。と思っていたとしても不思議はないのかも知れない。
加筆(2011/09/01)
日本の新聞記事は、サーバーに残してくれないので、いつまで見れるか分からないが、2011年に流行しているという、リアル脱出ゲームのこの記事。 要はアパートの一室をまるまる使って、謎を解いて脱出するというもの。90年代にテーブルトークRPGをやっていた人ならば、経験があるか、RPGマガジンの軽井沢コンベンションのレポート記事を目にしたことがあるだろう。いわゆるライブRPGとかライブゲームのことだ。
記事を引用させて貰うと「一番の肝は、ただのパズルではなく、物語の中に入ったような経験、没入感をいかに演出できるかなんです」という所。
詰まるところが、究極の自己視点ゲーム。そりゃ、自分自身がプレイヤーなんだから。と言うところで、私がよく言う「プレイヤーの視点=キャラクターの視点」と言う所につながるわけ。 ここまでかみ砕きつつ、実例が付くとさすがに理解してもらえると思う反面、文才の無さが身にしみる。
本来ならば、ゲームとは、モニターの中でプレイヤーを、物語に没入させようと努力していたはず。それが、臨場感を高める音楽であったり、ムービーであったり、ひいてはフルボイス化だったはず。
手段と目的の混交。と言うよりも、手段が目的となってしまったのが2000年代初頭のゲームではなかったか。物語を見せることに意識が行くあまり、プレイヤーの存在も、ゲーム性というものも忘れて、ムービーやキャラクター造形に没頭していたのではないか。
それを突き詰めれば、自慰行為のような自己満足の過剰演出。合う合わないが、露骨に出るピーキーな作品の乱立。ゲーム性のないゲーム。本当の意味でのデジタルコミックか、電脳紙芝居。その面白さは否定はしないが、それはゲームではない。ただの読み物だ。まぁ、ビジュアルノベルは最初からゲームと名乗ってないわけだが。
特にアダルト、いわゆるエロゲーが、パソコン世代Nerdのための、デジタルエロ本(音声付き)か、ポリゴン製のエロビデオの制作会社と化すのであれば、それも一つの道だろう。エロゲーという、コミックとアダルトアニメの中間というか折衷スタイルと言うことで。
アダルトビデオがそうであるように、男性向けの性商品は裸があればいい(女性向けは、シチュエーション大事らしい)。だが、非アダルトのゲームは、どうなるのか。
微エロ路線、つまりエロゲから本番エロを抜いて提供するか、キャラ押しでクリックゲームを作るか、ガチでゲームを見つめ直すか。
いずれにしても、プレイヤーのゲーム内での立場。と言うものを考えてみては如何だろうか。特に、AVGやRPGは。
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