トゥルーとバッドとマルチエンド



 




真・女神転生4ですら分かってないと言う事から、少し書き記しておこうかなと。


至極単純な話で、トゥルー、ノーマル、バッドエンドというのは、いわゆるクリアランクと言え、マルチエンドは、等価なエンディングが複数あるものと言えると思う。

本当のエンディングが一つで、あとはプレイヤー死亡があるモノをマルチエンドとは言わない。まぁ、プレイヤー死亡でも、同等の価値がある終わり方も無い事はないので、ややこしくはありますが。

例えば、カセットテープ時代のマイクロキャビンの「ミステリーハウス」。これも宝を手に入れるトゥルーエンドの他に、プレイヤー死亡のエンドがいくつかあります(開始早々、問題の屋敷以外の方向へ進むと車に轢かれて死亡ゲームオーバーです)が、これはマルチエンドと言わないわけで。

ともあれ、マルチエンドというのは、マルチの言葉通り、比重の重さは対等であるべき。単なるゲームオーバー同然の死亡エンドがいくつあっても、マルチエンドとは呼べない。エンディングとして等価たり得るためには、プレイヤーの選択が積み重なった結果、そこへたどり着いた。と言う選択の重さが対等であることが条件だと思う。

対して、トゥルー、バッドの方は、クリアランクと言うのは分かりやすいと思います。例えば、脱出型ミステリーの場合、被害者が少ないほど高ランククリアで、全員無事に脱出するのがトゥルーエンド。と言うのは、だれも疑義を挟まないでしょう。


この単純な区分けが理解できていないのが不思議でならない。

女神転生シリーズは、ロウ、ニュートラル、カオスと各ルートが存在し、それらはプレイスタイル(=キャラクターの生き様)を反映したモノで、選択の積み重ねが反映されたものであるはず。にもかかわらず、 真・女神転生4では、ニュートラルルートは2周目以降 しか選択できない(もしかすると、かなりピンポイントなルートを取れば行けるのかも知れないけど。とはいえ、生き方の具現化と言うルート選択において、ピンポイントな選択肢を積み重ねろというのはおかしいわけですが。)というのは興ざめだし、無理解すぎる。中庸を貫き通したのに、なぜ最後で二択なのかと。

これを例えるならば、ときめきメモリアルで、紐緒閣下一途に過ごしたのに、最終日に詩織をクリアしないとダメです。と言われるようなモノ。ときメモ1じゃ古すぎるか、星川をクリアしないと、エリサクリアできませんみたいなもの。

逆にクリアランクエンディングの場合は、一度クリアしないと、トゥルーは見せません。と言うのはアリだと思う。が、それはあくまでエンディングへの道程であるべきで、ヒロイン攻略の阻害にすべきではない(……つーか、エンディング=ヒロイン攻略でしかないものも多いのだが…特にエロゲ)。


おそらくシステム的に完成させたのが、サウンドノベル・ビジュアルノベルだと思う。周回が進むごとに選択肢が増え、あのとき「こうしていたら」が可能になるのは、コンピューターゲームならではだと思う。それがなぜか曲解されて、喋るノベルビューワーになってしまったのか。

最初に誕生したモノが、完成されたシステムだった弊害なんだろうなぁ。スーパーマリオや、DOOMと同じく、表層理解しかされず模倣作が氾濫していった結果、偽物が主流になると言う悲劇。RPGもそうだよなぁ。 ときメモ型恋愛ゲームもそうだねぇ。

少々脱線してしまったが、個人的には、ランクシステムでも、かなりタイトだが、初周でも、トゥルーに行けるべきだとは思っている。東京鬼祓師は、その辺が上手く、一周目はかなりタイトなチョイスが必要だが、2周目以降は最後の設問を間違えなければ、トゥルールートへ入れるようになっている。これが理想だろう。




当初のゲーム、とくにAVG、RPG(主にダンジョンRPG)は、ゴール地点が明示され、そこへ至る過程を楽しむのが主なゲーム性だった。ミステリーハウスは、宝を手に入れろ。だし、ポートピアは殺人犯を捕まえろ。ウィザードリィは ワードナから魔除けを取り戻せ。だし。これらは、クリアランクとの相性が良いゲーム。

これが、ビジュアルノベルやフリーローミングスタイルのRPG(広義にはフィールドタイプも含めて)の発展によって、物語の展開性を楽しむのがゲーム。と言うようになってきたと思う。その世界の住人となって、様々な反応を楽しむ。と言う事で、これらはマルチエンドが必須


現状の混乱は、この条件の混同だと思う。解決策が一つしかないのに、展開性を楽しめる様に思わせる作りのもの(exダンガンロンパ)とか、物語の展開性で押してきていながら、実は何も選択できないもの(ex:FFシリーズ)など。

どのヒロインを選んでも展開が同じとか、ヒロイン次第で展開が変わるのに、ラストで選べるのは一人みたいなゲームがゴロゴロしているわけで。聖少女作品とかね。実は、もんむす学園もそう。期待してたのに影花さん……

この齟齬が生まれる原因は、ゲームとしてのエンディングへの道筋が考えられていないからだと思うに至った次第です。ようは、ゲームデザインとストーリーデザインが乖離してて、シナリオになってないとも言える。

さらに、考察を進めるならば、クリアランク型は「デザイナーが考える最良のルート」を探し出すゲームであり、マルチエンド型は、プレイヤーの自由、思うがままに行動した結果を反映するゲームと言えるだろう。 つまりは、デザイナーが出した謎を解くのか、箱庭でプレイヤーに自由に遊んで貰うのか。と言う事にもつながる。ロウとカオスが入り乱れる中で、プレイヤーが自分の生き様を見つけ、しかも、ロウとカオス、どちらでもない選択すら可能なのがメガテンであるべきだった。

「デザイナーの考える最良のルート」は、かなり落とし穴が大きい。要は「自分の考えが、普遍かつ標準」と思いこんでいるわけで、その段階で、すでに破綻が見えている。特に、一本道のクリア型、紙芝居型の場合は、そこで行き詰まってしまう(だからといって、RPGならレベル上げで気を紛らわす事が出来ると言うのは、逃げなんだが。謎解きの難度を調整すべきだ)。

一例として、第四のユニットというゲームでは、何気なくカードをかざすと、そこに銃弾が当たり狙撃を免れる。と言うシーンがあるが、カードをかざす以外は、狙撃されてGAMEOVERになる。ライター以外は「ざっけんな」と叫ぶ事、受けあい。

究極的には、「オレが思いついた解法以外認めない」と言う理不尽なモノへと陥る。さらには、オレが決めた展開しか認めない。と言う方向性にもなり得る。実際問題として、近年のADVもRPGも、展開に関与できるモノは少ないし、コト和製に至っては、選択肢すらない時代(物理的にない>カットシーンで強制進行の場合も、提示された選択肢の何を選んでも同じ展開の場合もある)が長く続いている。

常々言っているが、そうしたものは、読み物であって、ゲームではない。少なくとも、ゲームとして遊べてはいない


なればこそ、ノーマルエンドからトゥルーへと段階が上がっていく事を楽しめるならば、この上ない名作ADVと言えると思う。だが、グッドエンドやトゥルーエンドが、基準で、ノーマルエンドがバッドエンド扱いになっている現状がある。これは、いかんともしがたい問題で、打開策は(私には)今のところ無い。

正味のところ、今の一本道紙芝居型ADVに落ち着いたのも、トゥルーエンド以外は敗北である。と言う価値観の定着がもたらした結末だから、トゥルー以外は全てゲームオーバーというのも、ある意味解決策ではある。が、それはゲームなのか、と言う本筋からは、大きく逸脱してしまっているワケなんだが。


ともあれ、何らかのゲームデザインをする人は、「クリアランク型」と「マルチエンド型」を意識して、ルート作りや謎解きを用意すると、一皮剥けるかも知れません。

まぁ、それ以前に、意味のない選択肢があるかどうかを確認した方が良いですが。選択したのに、何も変わらないのでは選択肢の意味がない。ストーリー展開の無理矢理な押しつけは、拷問ですよ。



 


初稿2015/04/02 

2015/04/04訂正(トレボー>ワードナ…なんで間違えるか、コレを……)。
2015/04/05加筆
 


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