声は命を吹き込まない


秋月律子の中の人(主に声帯担当)
−アイドルマスターアーケード版 スタッフの楽屋裏 コメントから
 



声は命を吹き込むか?

然りであり、否である。

とか言うと哲学っぽいが、概ね否だ。特に、ネットでは定番化してしまった感のある「声優は、キャラクターに命を吹き込む神である」と言うのは、アホか。とさえ思う。

答えは簡単で「ボイスデータのない小説やマンガのキャラは生きていないのか?」を考えれば2秒で出る。原作や脚本の段階で、生きていないキャラクターというのは、まごう事なき失敗作・駄作である。

声を含めた音というモノは、臨場感を高めるだけで、キャラクターの生命には関与していない。キャラクターの人格、セリフつまり人生哲学は、作家や脚本家が与えたモノで、この時点で生きた言葉を発せられないならば、 単なる駄作でしかない。声、広義では音は臨場感を高めるが、言葉そのものの重みは、その言葉を紡いだ人の重さだ。

マンガ版のキャプテンラブでは、論撃技として「ヘビーウェイトワードアタック」があり、偉人の恋愛に関する名言をぶつける技だが、クラッシャーアイアン関(要はボスキャラ)にこう言われてしまう。

「そんな借り物の言葉では、鎧のシミにもならんわ」

セリフはセリフでしか無く、借り物である。感情を込めた朗読。極論すれば声優は、生体スピーカーでしかない。 だから、演出家や監督が、演技指導を行う。監督や演出家が思い描いた世界を、再現するのが役者なのだから。宮村優子さんが、かつてラジオで「ちゃんとした関西弁で喋ると、監督にダメだしされてしまう」と言っていた。つまり、関東人の監督が、思い描いている関西弁に修正されているわけだ。誰が命を吹き込んでいるって?。


逆に言えば、薄っぺらいキャラクター、毛糸で吊ってある崩れかけの泥人形を生きているように見せかけられる奇跡の魔法使いが役者ではある。 腐りかけの死体や、うつろな目のマネキン人形でも生きているように見せてくれる声優は、無能な脚本家、ライターとっては、まさしく救いの神であろう。

映画も同じで、うすっぺらいセリフの、奥行きを感じない登場人物でも、名優がやれば、それなりのモノに見える。ぶっちゃければ、 視聴者は騙されているのだ、演技に。日常会話で「お芝居だよ」って言うのは「嘘だよ」と同義な訳だし。しょっぺえ脚本の、どこかで聞いたようなセリフの羅列でしかない駄作を、演技で 良いものと勘違いされられている。腹話術の人形を生きてると思いこむぐらい の、金の皿に盛られたキャットフードをすばらしい料理と言うぐらいのアホゥだ。

つまるところ、ゲームやアニメのライターが「声優はキャラに命を吹き込む」とか言っていたら、それは「声がないと生きているように感じられないキャラしか作れない無能です」と言う幟を立てているような物だ。まぁ、ゲーム界には多いけどね、賢いつもりのアホゥ(ex:シリーズ累計○万本>前作は売れたが、今作は売れていないって事だろ?。単品で売れてれたり、前作を上回れば累計にする必要はないし)。

とはいえ、作品の完成度には大きく寄与する。共同作業だから補完も相乗作用も起こる。

ニーチェか、チャンドラーか忘れたが、「名コックは不味いリンゴをすばらしいアップルパイに変えるが、ダメ料理人は、美味しいリンゴを、生ゴミに変えてしまう」と言うのは、核心を突いている。ダメなリンゴとダメな料理人の組み合わせが、映画デビルマンという伝説を生んだわけだ(漫画デビルマンは名作なんだが)。


音は、確かに魔法であり、派手な手品でもある。素人臭さを消してくれる。
>少ししなびたセロリを握りつぶすような、軽快ながらも湿った音が鳴り響く。音の元をたどれば、右腕が曲がるはずのない場所で、曲がるはずのない方向を向いている「う、腕が」

と言うような、素人丸出しのしょっぱい表現の腕が折れるシーンを、ゲームでやれば
>「ベキィ(SE)」
>「う、腕がぁ」

で済む。あとは、絵師があらぬ方向へ曲がっている人を描けば完璧だ。まぁ、実は音声データのが遙かに重いのだが 。機器の発達で、どんどん手抜きが出来るようになっている現状。

私のような凡夫がうんうん唸って考えた描写よりも、子供でも書けるような2行の方が、臨場感は高いと言う。まさに凡夫にとっての救済魔法、チート行為。それが音。 アダルトだともっと露骨で「ああっ、いくーーー」と言う様な、ふざけたセリフでも、声優に発してもらえば、大抵の男性の背筋はゾクッとなるのだ。なればこそ、良くできた官能小説は状況や心理描写で読者を興奮させようとしている。セリフに頼るエロゲは、文芸としては下の下であり、露骨な性器描写しかない官能小説 と同レベルだ。

ちなみに、小説と脚本の表現の違いは、上記の二例の違いであると思う。ナレーションで、心理描写や、情景描写、経過報告なんていれたら、まんま 小説の朗読になってしまう。脚本は基本会話のみで進行すべきである。

さらにちなむと、小説的な表現を捨てて(出来なくて?)、脚本的技法で小説を書いたのは、あかほりさとる氏である。どかぁーーんとか擬音で1行とか、まともな小説家には怖くて出来ない。私としては、アレを持って 現代型ラノベの完成と見なしている(現代は「小説として成立しているラノベ」と、あかほり型もしくはマンガ型ラノベが混在している混乱期とも言えるが)。


だもんで、中身はないのに、やたら豪華な声優を雇っただけのゲームなんかがありふれ、名作面しているわけだ(そして売れる)。 繰り返すが、それは騙されてんだよ?。そこらの漬け物石を、幸運の石ですって売りつけられているのと同じ。まつうらまさふみさんが言うようにおざなりな話を「こんなモンでいいだろ」と繰り返す脚本家にはNoを突きつけねばならない。魔法の声で怒りを消されている事にも気がつかない人の多い事よ。

まぁ、世の中の消費は、アホゥが支えているので、そいつらへ効率的な商売を持ちかける能力は、商才(てか詐欺力?)としては卓越しているのかも知れない が。

キャラクターの声なんてのは、効果音の延長線でしかない。漫画の書き文字で「カキーーーン」とあるのと、実際に金属バットの打撃音を流すのではどちらが臨場感があるかは自明。声優は、臨場感ある朗読をしているにすぎない。アーケード版のアイマスのコメントで、律子役の若林直美さんが「 秋月律子の中の人(主に声帯担当)」と言ったのは、非常に的確であると思う 。アニメーターが手足を担当し、デザイナーが顔を担当し、ライターは脳か魂を担当しているのだ。(どうでもイイが、iM@sの略称考えたの若林さんだったとは…中の人も才女であった)。

声が命を与えるとか言うのは、創作を分かっていない。アニメファンが、作画と声優しか評価できない理由が良く分かると言うものだ。 声は作品の完成度を高めるが、キャラクターの創生には関与していない。 ストレートに言うと、キャラクターが声優をあてがうまで生きてないと言われるのは、デザイナーやライターへの侮辱だ。 マンガや小説では生きて無くて、アニメ化して初めて命を得るとでも?。

良い例としては「EverBlue」シリーズを上げておく。コレは、声優はおろか、キャラクターのバストアップすらない。メッセージウィンドーの横に喜怒哀楽の顔もない。それなのに、セリフの一つ一つで、キャラクターの喜怒哀楽の表情がはっきりと見える傑作である。と断言する。

ゲームの手法としては定番となった、メッセージウィンドーの横にキャラの表情を出すのも、セリフだけで表現しきれない凡夫の逃げの手口だ った事に気づかされる。ああ、アレを豪華に、かつ、さらに分かりやすくするのが声優と思えばいい。本当に出来たゲームは、 というか、シナリオはBGMすら無くても面白いモノだ。BGMも臨場感たかめる興奮剤だしね。


ただまぁ、声に惑わされず、脚本の善し悪しを考えるようになると、純粋には楽しめなくなるので、万人には勧めない。映画を、カメラ位置とか、画面の構図考えながら見てもつまらんしね。娯楽を消費したいだけの人は考えなくて良いです。深淵を見つめたい人は、挑戦してみてください。 音の後ろにいる、言葉の深みを見つける事に。

 


初稿:2014/02/16 夢酔の方は2013/12/09 2017/03/30:リンク切れを修正  2017/06/21:ちょい加筆。音楽で例えるよりも、直接的な例を思い出したので。


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