オールザットウルトラ科学
ヒトはこの世で一番オモシロイ。この理解なくば、科学も空虚なもんです。
鹿野司(オールザットウルトラ科学/第四章扉にて)
かつてログインは、パソコンを中心とした科学雑誌でした。それがいつしかゲーム雑誌になり、Eログインというモノになり…時代に合わせたと言えば、聞こえはイイが、信念無く追従したに過ぎない。これはもはや、編集センスというか、出版というメディアの一員としての資質問題であり、ログインに限らず、アスキーという会社、出版社全体の問題で、本当に、ログインが月二回になった頃から、急速に質が悪化した。実際に、この時期に購入をやめた人は、私の周りでも多い。
そんなセンスの無さの結晶とも言うべき存在が、『オールザットウルトラ科学』。本書の内容は、非常に素晴らしく、ハッキリと言ってしまえば、空想科学読本が世に出る前から、魔球を科学していたり、ウィリアム・ギブスンのサイバーパンクシリーズに登場する「シムステイム」(サイバーパンク2020だとブレインダンス)を解説してみたりしている。作者の鹿野さんは、科学のヒトというだけでなく、ちゃんとSFのヒトでもあるので、科学読本にあるような、とんちんかんな 解釈と、論旨のすり替えは一切無い。
元々は、ログイン紙上での連載モノであり、映画や小説のガジェットに対する科学的な解説だけでなく、日常の科学(旨い酒とは、とか、テレパシーマシンは作れるか、愛ってなに?とか)も、解説しているという非常に読んでいてオモシロイ記事だった。残念なことに、本書は、連載された中からいくつかをピックアップしたもので、他にもオモシロイモノや、本が刊行された後の記事も本当に面白い。なぜに、連載一回目から、全部まとめたモノを出さなかったのか。ついでに言うと、ログインに連載されていた、二ページの短編小説も面白いモノがたくさんあり、そして今では、大御所クラスの人が、駆け出しの頃に書いていたモノもあり、価値も高い。
これらを単行本として、残そうとしなかった辺りに、編集者としての資質の無さ。というか、ただのゲーム雑誌に成り下がった体たらくがみえ、非常に残念でならない。今からでも、何とかならないモノか。
などと、鬱積したモノを吐露しても、書籍案内にはならないのですが、最初に結論を言っておくと、科学に興味がある人は、絶対にお得な本です。興味の無い人は、 もっと価値のある本です。なぜなら、科学ってこんなに面白いのかと思えるのですから。
さて、この本が刊行されたのは1990年。内容を書かれたのは、さらに古くなるわけですが、「マスメディアにはオタクが理解できないのか」という題で書かれた内容は、非常に的確であり、いまだに、猟奇殺人を犯した犯人の趣味中から、マイナーでかつ、猟奇性を連想しやすいものを引きずり出して、矢面に出すと言う行為を続けているのをみると、鹿野さんはすごいなぁと想いながら、ニュースを見てたりします。
話の骨格である、ア・カルイ系(表面知識だけを広くもつ)とオタク系(一芸専従型)人間に分化していく。と言う記事は入ってないのが残念なんですけども。この分け方も、言い得て妙であり、昨今のテレビドラマも、社会問題となったモノ取り上げるのはイイが、表層知識で止まっているので、非常に内容がないものが多い。得てして、そう言う番組を喜んでいるのも、ア・カルイ系人間だったりする。
さて他にも、「ショックウェーブを乗り切れ」では、情報が多すぎるために、専門家と呼ばれるための情報量が突出するため、一芸タイプにならざるを得ない。そうすると、他者と共有している知識が少なく、表層の会話にとどまるため、専門家同士で集まるようになり、いわゆるオタクグループを形成していく。それに伴い、書籍も、そうしたオタクを満足させる専門誌になるか、誰しもがほどほどに納得する、広く浅いモノになるかになり、専門誌は、一定数売れるが、それ以上は絶対に売れず、カタログ的な雑誌も、飽きられて短命になる。と預言されており、これも、今の出版業界には、耳が痛い話だろう。
さらに、話を広げれば、一芸タイプと言えば聞こえはイイが、言い換えれば、専門バカであり、その専門家も、90年代よりも、さらに進んでいると考えられ、同じジャンルでも、さらに細分化された専門分野となっている事は想像に難くない。そのため、同一カテゴリーでありながら専門外という事が多々発生する事態に。となると、自分の専門カテゴリー(と思っている)ジャンルで、知らないことがあると、すぐに否定したり、他人の意見をとにかく拒絶したりする。と言うのも、ネットコミュニケーションでよく起こるトラブル。
もっと行くと、他者との共有知識が狭いと言うことは、それだけ会話の成立がしづらい。と言うことは、コミュニケーションベタになっていく。話に合わせることも、合わせて貰うことも出来ない。と言うことで、一方的にどちらかがしゃべり続けるか、双方が、おのが得意分野で平行線の会話を繰り返すという。到底、コミュニケーションと言えない会話が発生する。となると、昨今(2009年)での社会問題の解決の糸口すら提示しているとも言える。
この辺りのことは、鹿野さんは、どう解釈されているのかなぁ。今の考えを聞いてみたいところです。 本当に、現代は、情報過多であり、自分で情報にフィルターをかけられない人間が、テレビやαブロガーをフィルターにしてしまい、そこから発信された情報を盲信してしまっているこの現代社会を、もう一度、鹿野さんに切り込んで欲しいなぁ。マジで、ネット界で、2ch情報を盲信するひとがあふれているのも、情報集積地であり、尚かつフィルターの役目を果たしているということだろうし。
他にも、ソフトウェアは貨幣経済を超えたか。人はナゼ踊るのか。人は万物の霊長なのか。テレパシーとノンバーバルコミュニケーション。人の本能は壊れているのか。メディアはメッセージなのだよほほーん。等、目次からでも、ちょっと興味を引かれるモノばかり……惹かれるのは、科学に興味のある人間だけかな?。
重たい話も、軽妙な語り口で、なおかつ、わかりやすい例え(現代は情報過多だ。と言う例に、とり・みき氏の原田知世マニアたるために収集している情報量を上げてあったり)と、非常に読みやい。また、挿絵は米田裕氏なのだが、SFイラストを描く人なのに、理系知識はほぼダメという、文系読者代表ような感性がまた、和ませてくれる。まぁ、ぶっちゃけて言うと、二人とも、オヤジギャグ連呼するタイプなんですがね。
科学的コラムにありがちな、表面的な解説にとどまらず、哲学的な域にまで足を入れているので、読み応えも十分にあります。私がよく言う、スキーマの破壊。と言うのも、この本からの引用ですし。スキーマ=予断。で、簡単に言うと、先行入力された情報。たとえば、コーヒーを飲もうとするとき、脳は、コーヒーの味を記憶から引き出してすでに待ちかまえている状態にいる。無い場合は、これから覚えるぞ。と待ちかまえる。これが、鹿野流スキーマ。この予断、スキーマを破壊するのが、芸術は爆発だぁ。ではないか。と言う話が、「芸術は爆発だぁ(前編/後編)」。
思わず納得したこの例は、麦茶と思ったらコーヒーだったとき、頭にものすごい衝撃が走り、頭の中が真っ白になる感じ。これがスキーマの破壊であると言われているのですが、私もこの体験があり、コーヒーではなく、そうめんのめんつゆでしたが。母は、めんつゆを、ガラスコップで希釈するクセがあり、さらに冷やすために氷も入れる。そのコップも、普段使っているものを使用するため、部活から帰った私が、私の席の前にあるコップの麦茶を飲んだら…頭の中が真っ白になり、流体が舌の上にある感触だけがあるという。
本当に、10年以上も連載されていたのに、出たのが抜粋本一冊だけ。なんとも、惜しい。というか、こういう継承すべき知識をどぶに捨てるような真似は、本物の編集者なら出来ないハズなんだけどなぁ。DTPとか、デジタル入稿がもっと活性化していた時代ならば、出版されたのかも知れないけど。デジタル入稿が普及してきたのは、なんと2000年ぐらいから。あと、10年耐えてくれれば…ホントに今からでも出してくれません?。コレのために、1985年ぐらいのログイン、捨てずに取ってあるんだよねぇ。読み返したいんだけど、量が多すぎて、出すに出せないと言う。
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