エヴァンゲリオン

心臓(ハート)って、とても弾力性のある筋肉なんだね。
−ウディ・アレン

大人は、妥協の産物。個々のツライ過去に妥協して生きている
−キャロル・クローパー(カリフォルニア大学教授:アメリカンナイトメアにて)


コレもまた今さらかよ。ってシロモノですが、まぁ気にせず書きます。たぶん、他で書かれているレビューとは、着眼点全く違うと思いますしね。

本放送の頃は、タイミングがなかなか合わず、ビデオも持っていなかったので、あまり見れませんでした。それでまぁ、知人から、色々と言われた情報しかなかったのですな。それでようやく見たというわけです。

たしかに、本放送の最終回だけで終わってたら、ちょっと酷いですな。ただまぁ、明確に体験した人間ならば、あの『おめでとう』の意味は、感覚的に理解できると思います。逆に、体験のない人には、怒りすら沸いてくるでしょうなぁ。体験って何を?と言う人は、無理ッすな。

さて、細かいことは後回しにして、第一印象を。
「庵野監督は、デビット・クローネンバーグになり損ねた男」と言うのが浮かびました。ただの感覚的なインスピレーションなので、お世辞にも正解とは言えないでしょう。

クローネンバーグ監督と言えば、ビデオドロームとか、スキャナーズで有名な監督で、冷徹な外科医のような視線で、文明も人間も検死するように無感動に切り刻むような演出。と言われております。クローネンバーグは、人間を切り刻む事で、人間や文明の裏側を取り出したと思うのですが、庵野監督は、心理的、哲学的な問題を真正面から捕らえてしまい、また最後まで客観的でいることが出来ずに、情が入ってしまった、もしくは自分の痛みを吐き出してしまったのではないか。

ホラーで、こうした裏主題とも言うべき問題を、表に出してしまうと白けてしまうか、空々しい棒読みの答えを大見得切って絶叫するハメになる。と私は思う。

と言うところで、クローネンバーグになり損ねた男。と言うインスピレーションが沸きました。26話の方の演出を見ると、ニコラス・ローズ監督の「地球に落ちてきた男」みたいなサイケな演出でもあるけれど、アレはキューブリック的な演出と言えなくもないので、なり損ねたのはキューブリックかも知れない。

巨大ロボットモノの皮をかぶっているけども、心象風景をストレートに映像化し、心象風景と現実との境界が曖昧な物語であると言う観点から、実は、ホラーモノに入れて良いのではないかと。26話を見て特に思いました。

また、庵野監督は、「アニメーションは、実写に比べて格下」と心の深奥で思っているのではないかなぁとも思いました。精力的に、実写映像を素材に演出しているのですが、それはアニメーションの進化の模索と言うより、実写への憧れを強く感じました。私は。

碇シンジの絶叫も「アニメじゃ誰も評価してくれない。所詮アニメって言われるんだ。みんな誉めてよ」みたいな叫びに聞こえてしまいました。他にも、自身の痛みの吐露ではないかと感じるところもあり、だからこそ、観察者でいられなかったと評したわけですが。

実写には、実写の演出技法があり、アニメにはアニメの演出技法がある。もちろん、いつも言っているように、ゲームにはゲームの演出技法がある。同じ球技だからと言っても、野球中継とサッカー中継、バレーボール中継では、カメラワークが、それぞれ異なるように。

故に、実写にアニメの技法を持ち込むと失敗すると思う。映画の技法を持ち込んだゲームがあまり売れないように。実写でアニメ的演出をしたキューティーハニーは、反響聞かないのですが、どうだったんでしょうね。

クローネンバーグは、医者への夢断たれ、映画を作れば「愛がない」「冷たい映画」と酷評され、人間が嫌いになって、人間を破壊する映画を作ったら大絶賛。世間は、自分の冷たさを愛していると悟ったと評されます。自分にとって、自分の嫌いなところだとしても、他者には憧れであったり、尊敬であったりする。そう言うことに早く気が付いて、妥協して欲しいですな。そうしたら、おめでとうと言ってあげたいモノです。

などと、未だに自分が嫌いな私に言われたくないでしょうな。つーか、そもそも勝手な妄想だし。実写に憧れているかどうかなんて分かんないしね。でも、庵野監督も自分のことを好きになれてない気はしますけども。


さて、最終話なんですが、私は懐かしく見ました。と言っても、最終話が懐かしかったワケではなく(初見だし)、まるで私の中学、高校時代を見るようで、懐かしかったなぁと。あの疎外感と言うか、離人感と言うか、体験は誰しもしていると思うのだけど、それと正面から向き合ったことがないと、分かんないでしょうね。

生きるために自分を殺す。そうやって、痛覚を無くして生きている人間が、自分を好きになると言うのは、かなり難しい。好きになれそうと思うだけでも、それは「おめでたい」事なんだけども。私は、自分自身を好きになっても良いんだ。と気が付いたトコで足踏み中ですが。

ちなみに、自分を殺すのって、心の壁はより高くなります。壁と言うよりは、拒絶度かな。自分を死体、モノにしちまうんだから。モノだから、好意を示されても、反応できないどころか、拒絶したりします。でも、自分の意識は生きているものだから、どうやって折り合いつけるかというと、観察者になる。自分を観察するのね、飼育係のように、実験動物の観察するように。自分を観察する自分に耐えられなくなると、自分を観察している自分を観察している自分が出てくる。

痛みに耐える事は、痛みと向き合うことなのだけど、痛覚を消すことで、痛みを無くすのは、痛みから逃げ出しているだけなんだけどね、それは。痛いのは、辛くて苦しいけれど、気持ちよくもある。と気がつくまで長かったな。

本放送中に見れなかったのではなく、見なかったのかも知れません。見てたらやばかったかも。あの当時はたぶんまだ、「自分を好きになってもいいんだ」とさえ思えなかったから。私はどうやって克服したかは、分かりません。こういう葛藤の克服って、朝起きたら突然克服できてる事が多いので、言葉に出来ないんだよねぇ。感覚的な答えなので、言葉にすると、嘘臭くなる。つーか、私も完全には克服できてないし。

抗議をした人っていうのは、自分が痛覚を消して生きていると言うことさえ消してしまった人たちで、痛みを思い出さされたからかも知れぬ。良かれ悪しかれ、反響(賞賛も抗議も含めて)あると言うことは、響いてたからなんだよね。作品の持つバイブレーションに共鳴して、鳴り響いたのが、拍手か、ブーイングかってこと。

でもまぁ、予算取れなくなって打ちきりになったんだっけか?。そう言う事情の方が影響大きそうだけどね。

んで、26話。巨神ゴーグとか、本当の最終回はOVAで。って言うのは、昔はけっこうあったよーな気がするけどなぁ。真実の最終話、全ての伏線にようやくピリオド打てた感じっすな。それでも、心象風景と現実が交錯するので難解ではありますが、一般の人へも分かりやすいように分解はしてますな。そのせいで、やや説教臭いのは否めない。まぁ、哲学問題に正面切って答えたら、こんな風になるよねぇ。身体だけでもつながって、補いたいとか説明する辺りからしても、観察者の視点ではなく、自己の痛みの吐露になっている様な気も少し。

猛烈な抗議をしてきた虚構の中に現実と真実を作り出してしまった閉鎖チルドレンへの返事でもあるのだろう。作中に、メールらしき映像があって「庵野殺す」とかあったので。ああいう抗議する連中って、理解できんわ。

スタートがロボットアニメだったので、明確な敵と、葛藤はヒロインのビンタで乗り越える程度を期待していた人にすれば、難解すぎたのでしょうな。また、一部マニアにとって、理解できないと言うのは、屈辱なのでしょうかねぇ。映画とは、答えを出すものではない。常に問題を提起するものだ。と言ったのは誰だったっけ。

ロシア映画の「ストーカー」の様に、哲学的で難解なものは嫌いではないのですが、自分なりでも良いから、答え出せないと、やっぱり釈然としないからなぁ。ストーカーは本当に難解で、自分なりの答えさえ出せないですが。

最後の「やだ、気持ち悪い」は、いつもの照れ隠しの悪態なのか、本気なのか分からない。と言うところで、人が理解し合える日は遠い。って風に私は考えました。ゲンドウとシンジの関係を見ても、庵野監督も、親に対する鬱積があるんでしょうな。なんか、監督の分析でなくて、自己分析みたいでやだなぁ…

しかし、私にしては珍しく、シナリオには一切触れてないな。


実際に見てみて、やっぱり、他者というフィルター通して判断するのは良くないなぁ。ッてのは実感しました。本放送の最終話だけならば、確かに、理不尽で不条理で、伏線になんの説明もない終わりでしたが。特に、拒否感は無かったのは、自分を好きになっても良いのか?と言う葛藤を経験していたからでしょう。見終わった一声は「経験してないと、理解は無理だわ」でしたし。

本放送の最終話だけならば、不条理エンドで伏線の説明も何もないエンドって代名詞にエヴァパターンと言うのは、問題ないですが、26話があるから、エヴァエンドと言うのは、ちょっと的確ではないですねぇ。エヴァ本放送終了時エンドって言うのは長いし。

ともあれ、私が「理不尽・不条理エンド」と呼んでいたのは、「シナリオの根幹の謎を解明せずに終わる」。例えるならば、「密室殺人のトリックは解明しないけど、動機が糾明されて犯人が逮捕される」ようなもの。ストーリーの謎と、シナリオの謎では、私には微妙な誤差があるのですが。

しかし、エヴァンゲリオンでは、シナリオ根幹の謎は解明されてます。ただ、解釈の仕方が、数多く存在するだけです。

この解釈の仕方が、数多く存在する。と言うことが、唯一無二の答えを連呼するレベルの作品になれていた人には、耐え難かったんでしょうなぁ。そして、このことを安易に理解したつもりになった人が、安易に理解して、不条理・理不尽エンドを流行らせたのでしょう。

昨今のドラマ、アニメが詰まらないのは、考える余地が無いからかも知れません。映画もリメイクされるたびに、詰まらなくなるのも、作り手が誤解されないように、唯一無二の答えを連呼しているからかも知れません。

端的に言うなら、芸術ではなく、製品、それも工業製品になってきているのかも知れません。誰にも理解できる。と言うだけではなく、誤解できないような設定。使い方を考えさせるのではなく、間違わせない。それは、工業製品でしょう。

実相寺監督の「子供には、分からなくても良い。大人になってから『あのシーンはこういう意味だっんだ』と分かれば良いんだ」と言う言葉が重いですなぁ。

子供にも分かりやすく。ってのは、大人の傲慢かな。そらまぁ、三歳、四歳ならともかく、小学生ぐらいになれば、考えながら見る癖をつけてもいいんじゃなーい。

つーわけで、今後、不条理なエンドがあっても、エヴァを引き合いに出すのは止めます。てか、もう不条理エンドの作品見ないけどね。



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