マッドウーマンの告白

世の中の人はハムレットが分かっているのだろうか?

彼を狂気にしたのは、疑惑ではなく、むしろ確信なのだ。
−ニーチェ『この人を見よ なぜ私はかくも怜悧なのか』より


アリー・ライト監督(93年)

大阪時代、深夜に映画枠があり、そこでなにげに見つけ、虜になった作品です。ビデオデッキもなく、新聞等も取ってなかったので、詳しいデータは分かりません。ご存じの方、ご一報下さい。大阪外大にビデオがある様なのですが…「ビデオでーた」等を見ても、絶版だとかも記述がないので、日本ではビデオ化されていないのかも知れません。

大阪外大にあるのも、海外で発売された、字幕無しかも知れません。


内容は、ドキュメンタリーに分類されるのでしょうか?。タイトル通り、治療中、治療済みの精神病を患っている、もしくは患った経験のある女性へのインタビューと再現ドラマで構成されています。監督自身も、鬱病を患った経験のある女性です。

登場する女性達は、分裂症、多重人格、鬱病、レズビアン、躁と多様です。

この作品に登場する本当に精神を患った人たちを見て、多くの映画やドラマに出てくる精神を患った人たちは、あくまで精神的な健常者から見た、精神病患者だと言うことに、気が付きました。

本当に、心を壊してしまった人は、奇声をあげたり、暴れたりはしません。ただ、別の世界の住人になってしまうのです。我々とは、別の法則、規則に支配された世界。その顔つきは、まるで世界の支配者の様に、自信に満ち、世界の真理を全て知り尽くした賢者の様に、理知的な瞳をしているのです。ただ、その世界には、その人一人しか存在していないのですが。


奇声を上げ、暴れ回るのは、未だ精神が、二つの世界、現実と狂気の狭間にあるためか、本能的に、狂気を演じることで、過去を忘れようとし、どうにかして現実と折り合いを付けようとした結果です。都合が悪くなると暴れだし、奇声を上げる。都合とは、触れられたくない過去であり、一人になることです。また、日本では神経症と、精神病を混同している節があり、日本の精神医学は一世紀は遅れています。

分裂症(妄想と現実の区別が付かなくなる)の女性は、すでに死んでしまったロック歌手と同棲していると言う妄想にとりつかれていました。ロック歌手との個人的な面識は一切ありません。ですが、自分の部屋をロック歌手の部屋とまったく同じに作り替えてしまって、のちにその部屋はあまりに正確なので、記念館として機能しているほどでした。

私は、テレビの向こう側の女性に恐怖しました。ただ、穏やかな顔で、にこやかにインタビューに対応している女性に。本能的に、彼女には勝てないと悟らされました。

どんなに勉強し、どんなに世界の絶対の真理を解き明かしたとしても、彼女には追いつけない。そう思わせられるのです。それが、とても怖かった。間違いなく、彼女は世界の真理を見つけだしている。ただそれは、彼女にしか通用しない法則。彼女だけしか住んでいない世界の法則なのです。

しかし、人間に必要な真理など、そんなものかも知れません。ほとんどの人間が、利己的で、独善的な価値観の元に行動し、それを上手く誤魔化し、他者に悟られないように生きているに過ぎません。そうでしょう?。自分だけの物の善し悪しの判断基準や、価値観と言う物差しで、世の中を見ているはずですから…

そして、ほとんどの人は、その判断基準が絶対だと信じ、独善的で、自分にしか通用しない価値観だとは、気がついていません。だからこそ、対立が生じるワケなんですけどね。掲示板での言い争いとか…価値観の押し付け合いを見ていると、気が違っているとしか思えないような偏執ぶりで、相手の意見に耳を傾けず、と言うか、理解を拒んでいる姿は、そのものです。


多重人格の女性は、やはり虐待から逃避するために、人格を生み出していました。虐待を受けることが無くなり、人格統合のため、精神科医に通ったこともあるそうですが、結局、止めたそうです。彼女曰く「人格の統一は、その人格を殺してしまうことに等しいから」。彼女にしてみれば、苦楽を共にした戦友であり、最も信頼できる友人でも、あるのでしょう。

逃避対象であった人格をコントロールすることで、上手く社会に適応しているのかも知れません。みな、仮面を持っています。仕事用の顔、恋人用の顔、どれが自分自身か分からなくなるほどの顔を。ただ、彼女はそれが独立していっただけなのかも知れません。破壊衝動の塊のような人格が発現しない限り、別に放置していても良いのかも知れません。

私も過去、自分を殺しすぎて、自分を傍観している自分が居ることに気が付きました。まるで、他人事のように自分に起こっていることを見ることが出来るのです。しばらくして、傍観している自分を、観察している自分の存在にも気が付きました。どんどん、自分が稀薄になっていくのです。今にして思えば、あの傍観していた自分たちが、それぞれに名前を名乗っていたら、多重人格になっていたのかも知れません。私の場合、タイミング良くストレス源である土地と母から、遠ざかることが出来たので、助かったようなものです。


鬱。色々と誤解されていて、気分が乗らない時とか、暗い気分なんかに使用されたりしますが、鬱病となると、今まで軽々しく使っていた自分が恥ずかしくなります。精神科医はよく、鬱病による自殺衝動。と言うことをあげますが、それは嘘です。精神的健常者からみた、症状であり、分析です。

本当に、鬱病になったときは、全てのモノに執着心がわかなくなるそうです。この作品の監督も鬱病を患い、自ら出演もしているのですが、そう仰ってました。全くの無気力、無執着。子供にせがまれて食事を作り、掃除をする。誰かにせっつかれなければ、餓死しているかも知れない。そんな状態だったそうです。

そして、料理の最中、切っているのが人参でも、自分の指でも、頓着しない。ニンジンを切り終わり、自分の指を切っているところを子供が見つけ、救急車で運ばれたほどだそうで。その位、執着心が喪失している状態らしいのです。声を大にして言っていましたが「自殺したい」と言う事さえ、能動行動あり、それは鬱ではない。鬱ならば、死ぬという行為すら自発的には行わない。のだそうだ。

つまり、ニンジンから自分の指を切っている姿は、健常者からは自殺願望の様に取られるかも知れないが、当人にとって見れば、生命維持にすら頓着してないだけであって、自殺などと言う能動行動は思い付かない。と力説していました。


レズビアンが狂気に入るかどうかは、疑問なので論じませんが、一般大衆とは、異なった価値観に生きている事には違いないので、参考にはなるかも知れません。

躁の女性は、混浴の露天風呂で、レイプされ、三日間森の中で歌いながら、その場で回転しているところを保護されたようです。一般の人には一番わかりやすい狂気ではないでしょうか。

典型的な現実認識の拒否による狂気であり、世間一般で狂気と認知されている状態です。クトゥルフの呼び声ならば、真の狂気とか、不定の狂気と呼ばれている状態です。

私は、元々クトゥルフの呼び声(ホビージャパン)で、狂気を扱っていることから、狂気に興味を持ち、色々と本を読んだりしていました。

日本人の書いたモノは、結局、脳内麻薬がどうとか、脳の構造がどうとか、大脳生理学を展開している物が大多数で、心や精神について、正面から触れることはまずありません。そんなおり、この「マッドウーマンの告白」をたまたま、目にして、まさに「目から鱗」の思いでした。

この「マッドウーマンの告白」に登場する、精神病中、病後の方々の、理知的な目、穏やかな物腰、それらを見て奇声を発し、暴れ回る患者は、本当には壊れていないのだと、悟りました。

壊れかけた心の苦しみから、痛みから、逃れるためにそうするのです。自分が狂っているのでは無いかという恐怖から、こんな状態では、誰にも相手にされないのでは、と関心を引くため、壊れかけているが故の苦しみなのでしょう。

ある意味、演技であり、思いこみによるモノとも言えると思います。魂の、心の自衛手段なのです。そう思いこむことでしか、自分を保てないのです。しかし、思いこみと言えど、痛みが存在する以上、救いの手を差し伸べねばなりません。

心を癒せるのは、やはり心しかないと思います。大病院の精神科医より、丹念に会話を続ける町医者のカウンセラーの方が治癒率が高いのも、そう言うことではないでしょうか。もちろん、薬効を否定したりしませんが、全面的な信頼できる医師からの薬と、そうでない医師からの薬では、雲泥の差があると思います。プラシーボ効果が実証されたのですから、。

ともあれ、ここらで一つ、心とはいったい何か?。精神とは何か?。目に見えるモノが現実かどうか?。まったく異なる価値観の人々の話を聞くことは、プラスにこそなれ、マイナスになることはないでしょう。あなたに、相手の話を聞き入れるだけの、正気があるならば…ですが。

惜しむらくは、入手どころか、閲覧さえ困難と言うことですね。



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