2001/10/1分の酔生夢死で、書いたモノを師匠に言ったら、大変褒めてもらえたので、改めて書き足します。
私は、芸能人が「最近ハマっている」と言うことから、流行病のようなものだと思っていたのですが、実情は少々違うようです。有名人が、公共の電波でうち明けたことから、「やっぱり、あれは笑っても良いんだ。好きだと言っても良いんだ」と言うのが実情のようです。まぁ、熱病のようにあっという間に廃れてしまったのも、事実なのですが。
私は、流行していた時期から嫌いでした。ただのコメディーとしても、全く笑えないし、そもそもにおいて、ビーンというキャラクターに嫌悪感がありました。役者さんにではありません。ビーンと言うキャラクターにです。
あの表情、動き、動作なんかに、なんとなく生理的嫌悪感を感じていました。長らく疑問のままだったのですが、NHKの特集で、ダニエル・キイスが心の闇を探る。と言った題で自分の作品をネタに、心理学・精神分析についての番組をやっていたのです。何気なく見ていたのですが、第一回という事もあって『アルジャーノンに花束を』が、ネタだったのです。
その中で、主人公チャーリーについて語っているときだったでしょうか。「欧米では、知的障害者を生まれながらの道化師として扱い、彼らの失敗を皆で笑う」慣習があるのだそうです。ダニエル・キイス自身も、知的障害者の人がウェイターをやっている店で、彼の失敗する様を嘲笑っていたそうです。
そこで、私の脳内で、Mrビーンの動きや表情とつながったのです。
補記:以前には伝統的な道化師云々という一文を書いておりましたが、無知から来る勘違いをしておりましたので、削除させて頂きました。
そう、まさにビーンの動きや、表情、細かい仕草まで、知的障害者の模倣をしているように思えました。実に障害をお持ちの方に類似しています。潔癖症や、テディベアをいつも連れている事なんか、モロです。偏執的と言うと差別的な言葉になるかも知れませんが。
私の嫌悪感は、健常者が、障害者を模倣することで、笑いを発生させようとしている事への嫌悪だったと、私は理解しました。Mrビーンの笑いとは、弱者を嘲笑するという、決してた褒められモノではないのです。ですから、冒頭に戻りますが、Mrビーンを好きだという人は、弱者(しかも、全く非のないことでハンデを負わされている人たち)を嘲笑っているのです。
もちろん、全てが、こうした嘲笑ネタで、構成されている訳ではありません。端々に、嘲笑が潜んでいるのが、他のコメディーよりも、はっきりと見えるのです。
なお、笑いの壺というモノは、個人差、地域差、世代差などがありますから、お好きな方は胸を張って良いと思います。逆に「ビーンをそう言う視線で見るお前(文責者)の方がヒドイ奴だ」とも言えますから。
方向性は少しずれますが、一番分かりやすい例は、安っぽいアメリカの映画で、歪んだ日本人像を出されると、ムッとされる方は多いのではないでしょうか。丸メガネで、出っ歯で、猫背。常にカメラをぶら下げていて、ツアーコンダクターのあとを群れて歩く。そんな嘲笑じみた笑いの作り方が、私には見えると言うことです。
偉そうなことを言っている私ですが、小学校の頃、養護学級が同一校舎にあり、特に、小学三年生か四年の時は、隣が養護学級だった事もあり、休み時間に、からかったこともあります。障害者を物笑いの種にするというのは、世界共通なのかも知れません。
一つの救いとして、日本で熱病の様に大流行し、ハリウッドで映画化それたりしたとき、とんねるずの番組に出演したのを見ていたのですが、そこでビーン役の役者さんがこう言っていました「私は、もうビーンをやりたくはない。これで最後です」と言うようなことを言っていました。
今にして思えば、少し切なそうな表情は、自分が物笑いの種にしてしまった弱者への悔恨なのかも知れません。そのときは、これだけ騒いでくれ、ファンだと言っている人の前で、もう撮らないと言う心苦しさか、一過性のお祭り騒ぎにウンザリしているからだろうと思っていました。
あの役者さんは、ちゃんと分かっていたのかも知れません。世界的なヒットになったことで、世界中の障害をお持ちの方を嘲笑う風潮に火を付けてしまったことを。
永井豪氏も筒井康隆氏も「ギャグマンガは若いウチしか描けない」と言っておられます。笑いが発生すると言うことは、笑われる人の存在を、生み出しているのです。それに気がつくと、描けなくなるそうです。その人の痛みを考えてしまうから。
私は、笑いには二種類あって、「見てみて、今からアホなコトするから、みんなで笑ってや」と言うものと「みろよ、あそこに変な奴がいるから、みんなで笑おうぜ」と言うものがあると思う。他者をネタにすると言うのは、限界が早いのだろうな。若い頃、毒舌としてならし、あれだけ他人を斬りまくった、ビートたけしも、今じゃ自分自身しかネタ(オチ)にしないしね。
持ちネタ全滅の自虐リアクションが売りのダチョウ倶楽部が、意外と長続きしているのは、その辺に秘密があるのかも知れません。あ、誤解無きようにいっておくけど、他人をネタにするのと、毒を吐くのは違うからね。
他人をネタにするのは、陰口をたたくのと大差なく、毒を吐くのは社会批判だ。爆笑問題の太田が、毒から、ただの攻撃になっているし、毒であり続けるというのは、とても難しいようだ。その点、立川談志師匠は毒であり続けているのは立派だ。そう言えば、爆笑問題が売れ始めた頃、談志師匠が「ちゃんと毒を続けられたら、コイツら売れるよ。でも、(ビート)たけしもダメだったからな」と言っていたのだが、その言の見事なこと。
やはり、テレビは過激さを必要とするので、どんどんエスカレートする傾向にあるのだろう。爆笑の太田も、初期は個人攻撃と社会批判のバランスが絶妙だったのだけどなぁ…立ち直ってくれると良いけど。今のままだと、人気にかげりが見えたら、一気に消えてしまうだろうな。って、ビーンのレビューから、お笑い論になってしまった。
そんなワケで、ビーンはコメディー作品としても、駄作だし、その作品に秘められた物も劣悪。まさに、嘲笑による安易な笑いを追求した結果と言えましょう。こうした、弱者を笑うものって、作るのは簡単なんだよね。下手に人気が出てしまって、それに陥っているのが「笑う犬の発見」だ。「よっさん」なんて、小須田部長の改悪バージョン。よっさんへの仕打ちは、ただの虐めでしかない。こんな可哀想な人いますよ、笑いましょう。って感じですわ。
もっとも端的なのは、志村けんさんが、昔良くやっていた「でしっ」と言うのが口癖のキャラクター。あれは、ビーン以上にそのままなんだよね。返事の時の力の入れ方とか、やや猫背で上目を見るとか。ビーンも同じ。変な奴がいる。みんなで笑おう。って話。人と少し違うだけで、嘲笑を受けなくちゃ行けないなんて、間違っていますよね?
ちなみに、私の感覚は、モンティーなら笑えるが、チャップリンではちっとも笑えないような、歪な感性です。マルクス兄弟は見たこと無いのでなんとも。
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