宇宙の戦士

『子供を知識に導くことは出来るが、考えさせることはできないのだ』
−ジャン・V・デュボア機動歩兵退役中佐


原題がスターシップトルーパーズ。と言うことで、近年、映画化された方は見た人は多いかも知れない。が、映像の方は、駄作とまではいかないが、ただの娯楽作に仕上がっており、ぜひ原作小説を読んで貰いたい。


私が、この本と出会ったのは、小学6年生だったか、機動戦士ガンダムを作るきっかけとなった本。と言うことを知り、購入し読んだのだが、小学生には難しすぎた。ただ、強化服の戦闘シーンにわくわくしながら読んだのを憶えている。中学生になると、ジョニーの進路に対する葛藤に共感を覚え、高校生になると、新兵の訓練キャンプで心理的な困難を行軍中に乗り越えるシーンに感銘を覚え、大学生になってようやく、デュボア先生の歴史と道徳哲学の時間に驚嘆した。

いまでも、読み返す度に新たな発見と感動があり、文庫で400ページを越す長編なのだが、読み始めるとついつい引き込まれて一気に読破してしまう。たぶん、30代、40代になるとまた違う発見があるのだろうと思うと、楽しみな作品だ。読み込みすぎて、背表紙の印刷が剥げてしまっているほどだ。


内容はと言えば、一人の少年が、軍隊にはいることで、一人前の男になる。と言う話。そこに、強化服というパワードスーツと、非人間型異星人との戦争というSF要素を搬入しているに過ぎない。しかしながら、主人公ジョニーの成長や、そうした異星人との戦争は二の次で(客寄せのためと言っても良い)、本題はデュボア先生の言葉に全てがあると思う。

巻末のSFマガジンの書評に端を発する論争が、実に的を射ていなくて歯がゆく、また、時代を感じさせるのだが。とりあえず、本編を読み、巻末を読んで貰いたい。当時、ベトナム戦争が勃発中で、当時の世相から、共産主義こそが至上。というソ連のプロパガンダに乗せられた世代のマヌケぶりが露呈している。

ここで、反論させて貰うなら、ファシズムへの拒絶反応ではなく、共産主義を否定された事への憤りであろうな、あの反応は。巻末において、宇宙の戦士を正しく理解し、評価しているのは、訳者の矢野徹氏だけであろう。あとのはただの感情論。

力の哲学と言うことに要約されているが、それを放棄した日本が、どれだけ世界から軽視されているか。そもそも、力無くして、何が守れようか。ハインラインは、無制御な暴力を推奨してはいない。制御、統率された力を持つことは、恥じるべきではないと諭しているだけだ。

抑制された力とは、理性的な防御術である。と言えるだろう。ひたすら防御に徹して勝った国、いや存在を続けた国など無い。自分達が滅びるか、隷属されるか、俺達は、お前たちを消滅させることもできるが、そんな子供じみたことはしない。と相手に分からせるまで、戦いは終わらない。ただ、敵を退けても、また戦力が整えばやってくるに決まっている。

さらには、カルタゴもローマも、自国民が兵役を拒絶しはじめ、国防を傭兵に頼ることで、国が傾き、滅んだ。実際に戦闘が勃発したとき、最後まで踏ん張るのは自国民だからで、傭兵は所詮、傭兵なのだ。

巻末の論争では、地域紛争から、核戦争へ移行する。とか、原水爆の存在する今、力とは破滅を示す。と言っているが、その言質はハインラインよりも人間を信じていない。つまり、人間には理性など無い。と言ってるようなものなのに、暴力に暴力で対抗してはならないと言う矛盾。 つまり、理性のない人間を、会話でなだめることが出来ると言うなら、やってみて欲しいものだ。

ハインラインは、作中で、原水爆の使用にも言及している。原水爆を使うことは、子供を叱るのに首をはねてしまうようなものだと。

共産主義が崩壊し、宇宙の戦士で、ハインラインが嘆いたとおり、少年法で庇護された為に凶悪な少年犯罪が横行している現在を、宇宙の戦士を、ハインラインを否定した人たちは、どんな思いで見ているのだろうか。

ヘンドリックを追放処分にしたズイム軍曹とフランケル大尉がどれほど心を痛めたかを、読みとったのだろうか?。私が子供時代「殴った先生もつらいのよ」とよく言われたが、今なら何となく分かる。TVコマーシャルで「大人を逃げるな」とあるが、まさにその通り。子供に処罰を与えることは、必要なのだ。痛みと共に憶えたことは、忘れはしないのだから。ハインラインは教育問題を犬のしつけに例えているが、まさにその通り。何が悪いかを理解できないのなら、それをすると痛い思いをする。と学習させるべきだ。それを怠たり、過保護にした結果が二十世紀だった。

学校から、体罰(もちろん一時期、一部教師による行き過ぎた、しかも無意味な体罰があったことは認める。しかし、ハインラインは威張り散らすような人間を教育者にすべきでないと言っている)が消え去り、教育体制はどうなったか。少年法の厳罰化をどう見ているのか。共産主義的に、競争を廃しようとする教育現場(今、リーダーシップを取っているのは共産主義大好き世代だからしかたないのかも知れないけど)から生まれた子供達の無機質さをどう見ているのだろう。

そして、競争原理を極力廃した教育法の集大成である、ゆとり教育は、過ちであったと認定され、廃止されたことを彼らはどう見ているのか。

刑罰が、異常なものと市民が感じなくてはならい。と言うハインラインの弁も正しい。異常で残虐なものだからこそ、抑止効果になり得るのではないか。甘受できるならば、罰となるだろうか。 犯罪で得られる甘い汁よりも、何倍もの責め苦が待っている。耐えられないほど辱められる。そう考えて、犯罪を思いとどまる人もいるのではないか。

刑罰を軽くして、社会復帰をはめる。と言う人もいるが、私は問いたい。「なぜ、社会復帰を早めることよりも、犯罪をおこさせない。犯罪者にしない努力をしないのか」と。病気を治す努力よりも、病気にならない努力のほうが良いに決まっているのに。

まぁ、巻末の論戦のまとめは、結局の処、本題からズレており、的はずれも甚だしいので、言及する価値もない物なのだが、あまりに馬鹿馬鹿しくて、反論したくなる。巻末論争で、日本人読者が言及している、ほとんどのことはハインラインが作中で述べ、否定していることばかりだ。

もはや、常識となりつつある言葉だが「戦争にいった人間ほど、戦争を憎んでいる。最前線にいた兵士ほど、戦争を嫌っている。」。新版後書きの矢野氏の言葉が一番正しい。ハインラインは、宗教が道徳となり得ない実情を嘆き、制御された暴力による統治を訴えたのではないだろうか?。言っても分からない奴には、力で従わせるしかないのだ。説得を続け、言葉であやすだけの現行少年法が、どれほどの効力を発揮したというのか。

ハインラインの作品は、ファンタジックな未来世界をオモシロおかしく。と言うよりも、人生哲学をSFと言うスパイスを効かせて語った物が多い。夏へ扉もそうだ。ハインラインにとって、SFなんてただの道具でしかない。主題は別にある。つーか、主題をSFとか、ホラーとか言うのは、馬鹿の証拠だ。SF、ホラー、歴史、ジャンルは主題ではないし、テーマでもない。込められた真意、つまりテーマ、主題は別にある。

また、クモどもの王族、支配階級が、歩けないほどに肥え太っているのは、共産主義への痛烈な非難であろう。共産主義の国々を見て分かるとおり、カースト上位の人間だけが肥え太り、他は消耗品のパーツのように浪費されてきた。ちなみに、世の中で共産主義ほど、ファシズム的なモノはない。武力革命を推奨しているのだから。つまり、自分達と考えの違うならば、滅ぼしてしまえ。極論ではあるがそう言える。

そして、クモとの戦いは、共産主義との戦いも隠されているが、共存できない相手が現れたとき、どうするか。という意味も込められていると思う。良くいるのだが「捕食関係にあっても、共存はできる」とする連中だ。共生は出来る。野生動物がそうであるように。一方的に狩り、狩られる関係ならば、共生は出来よう。

だが、共存は出来ない。いや、出来なくもないが、かなり屈辱的な事となる。つまり、家畜となることだ。家畜として暮らすことを、喰われるために生まれてきたことを甘受するということだ。反戦主義もしかり。攻められたら、命すらも差し出すと言うことなのに。

1959年に原語での初版が出ており、早すぎた哲学書だったのだろう。反感を持つにせよ、共感するにせよ、実に色々と考えさせられる物語なので、絶対に読んで欲しい本の一つです。読んで損はないし、ぜったいに人生観にプラスとなる本です。書評になってないですね、コレ 。

2011年2月補記。
奇しくも、左翼政権である民主党が、全共闘世代の、左翼的論理で日米同盟に亀裂を生じさせ、傷口に塩を塗り込むごとく、中国、ロシアがすかさず侵略を開始したことは、特筆しておくべきだろう。

まさに、自分たちが根底から否定した、力の論理を振りかざす共産主義国家を、あれほど貶んだ帝国主義を、21世紀に行う共産主義者を、巻末の論客たちはなんと言って擁護するのか?。ぜひとも、聞いてみたいモノである。



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