懐かしきもの(2010/03/07)
いやはや、新しいページ作るのが面倒で面倒で。作ってしまえば、問題ないのですけども。
さて、最近、とんと無くなったマンガのジャンルに、下宿もの。が上げられるのではないかと。昔は、結構定番の、得にギャグマンガでは定番中の定番ジャンルで、個性的という言葉では収まらない奇妙な下宿人に巻き込まれていく、気弱な主人公ってのが、定番だったわけですが。マカロニほうれん荘とか、優&魅衣とか。めぞん一刻も、まぁ恋愛ものだけど、半分コメディーだしねぇ。やはり、下宿そのものが下火というか、ワンルームマンションになってしまい、現実にあまり見なくなった。と言うのが大きいのでしょうかね。
ま、単純に、私がマンガ雑誌を全く読まなくなったせいで、知らないだけだと思いますけども。ギャグマンガ自体が絶滅危惧種ですしねぇ。ふと、ギャグマンガとコメディマンガの境界線ってドコなんだろうかと。もしかすると無いのかも知れないですが。そもそも、ギャグと素っ頓狂な言動の境目も、かなり曖昧で定義はかなり難しいものかも知れませんなぁ。ま、これは、受けたかすべったかの差なんだと思うのですが、それって結局、受ける側の好みの問題ですし。
てゆーか、ギャグマンガ=お笑いマンガ?って思ったんですけど、あろひろし先生によると微妙に違うらしい。ストーリーやコメデイの新人は出てきているがギャグはいない。と優&魅衣の2巻で書かれております。うーむ、境目はドコなんだろうか。
軽い(2010/03/10)
CSで、OVA北斗の拳トキ伝を見まして、ホントに、脚本家の減退というか退化は著しい。原作有りでこれだからねぇ。完全新作、作れない訳だ。あしたのジョー実写化って別に悪くないけど、どんだけ、過去の遺産で食いつなぐ気なのかと。ヤマトと同じく、100%転けるよね。せめて、ダークナイトなみに、人物像を掘り下げられれば、見れると思うけど…絶対にうわべだけなぞった、やっすい、軽い、物になる気がして…
結果だけを求められて、冒険が出来ないとは思うけど、クリエイターのサラリーマン化は、事実上、想像力のスロウデスだ。ガンダムにしたって、いまだ、トミノ、トミノいうてて、70のじいさんがトップクリエイターってオカシイですよ、カテジナさん。宮アもね。大御所は、大御所で良いんだけど、若い力…っても、40とか50はもう若くないヨね…庵野さん。
で、トキ伝なにがダメだったかというと、クライマックスのトキ対ラオウ。ラオウが上空へ逃げたあと、トキが「勝機みえたりっ」で、空中へ追いかけていって、あたたたたたナンだけど、原作だと、その間にラオウの「なんと、間合いに?!」ってセリフが入る。
この「間合いに?」ってのは、意外と重要なセリフで、単なる状況説明ではなく、トキの猛攻に対して、いったん、間合いを取るべく、ラオウは空中へと退避したわけ。それはつまり、絶対に、間合いを空けられる。逆に言うと、ラオウにとって、絶対に相手が間合いに入ってこれるはずがない空間だったハズ。にもかかわらず、トキは、必殺の間合いへと滑り込んできた。すなわちそれは、トキがラオウを越えた瞬間と言えるわけ。そして、締めのセリフである「(俺を倒せるほどの男が)病ごときに負けたのだ!」につながり、拳士として卓越した才覚がありながら、それを活かせぬ不運、不遇に思わず泣いてしまうことで、ラオウの人物像が見えてくる。
セリフの絶対比重として「なんと間合いに?」の方が遙かに重い訳で、ダメだなぁと。アストロでも、大門のセリフの比重が見えてなかったりと…まぁ、昔でも、バオーのOVAで、猟師の老夫婦の逸話をざっくりカットしてあるんだけど、あそこが一番重要だと思うんだよね。バオーが敵の臭いをかぎ分けられるようになった瞬間であり、そして、人間を認めた瞬間。OVAだと、敵だと思って殴ったら、鏡に映った自分で、ガーンで、もう即座に、育郎は寄生虫バオーを完全にコントロールしてるんだよねぇ。
無制御な力を制御できるようになる。と言うのは、もっとも成長を感じさせる瞬間であり、見せ場であるハズなのに、それを瞬間で終わらせるのは、ちょっとねぇ…
で、トキ伝の新キャラ、サラもめっちゃ浮いてる。その存在がね。北斗の拳の最終テーマが愛だとはいえ、安易に恋人役を持ち込んだという感じしか受けず、愛と言っても、兄弟愛もあれば、師弟愛もある訳で、兄ラオウへの愛、義弟ケンシロウへの愛。師でもあり、目標でもあったラオウへの兄弟愛は特に強く、安易な恋愛相手の持ち込みは、ストイックなトキのキャラが台無しになっていると感じる。そもそも、死の灰によって死ぬ事が確定しているトキは、確実に拒絶するであろう。それがトキの最大の愛情であろうと私なら思う。サラの担当声優が、平野綾で、ほとんど客寄せパンダちゃうかと。この頃は無名だったのかしらね。ちなみに、スタッフロールまで、小島幸子さんだと思ってました。
かるーい、かるーい、かるーい。軽いと言えば、鳩山政権。岡田外相も、この時期、このタイミングに密約だったんじゃー、エッヘン、すごいすごい?。って言う取る場合か。ただでさえ、普天間問題でぎくしゃくしてるのに、さらにアメリカとの問題をこじらせるだけじゃないか。ホントに、自分の言った事には責任取ったモンね!だけかよ。その発言が、どれだけのトラブルを引き起こすか全く考えてない。桝添さんもね…自分が改選だからって、焦るのは分かるけど…軽いよ、ホント…見え透いた勇者願望は…
シャウト(2010/03/16)
今さらながらに、九龍妖魔学園紀再装填を買いました。正直、今井監督は、剣風帖で枯渇したと思っているので、その後のシリーズには手を出していません。が、いまだに、中古で4000円近いなど、市場的にもユーザー的にも評価が高いので、禁断症状も出てるし、ルピーポイントも貯まったし、買うかなぁと。
ゲーム的には、良くできてます。語弊を含めつつ言うと、フォールアウト3の原型のような感じ。ターンバトルではある物の、FPS+ADVな雰囲気。今ぐらい、FPSが認知されてて、ハイエンド機の性能があれば、リアルタイムバトルにしたがったんじゃ無かろうかと思う訳です。ワタシ的に残念なのは、トラップとか、設置系攻撃が存在しないのよねぇ。詰まるところ、ドラクエタイプの、交互に殴り合う戦闘で、ちょい飽きる。3D視点の魔人学園の戦闘と言って差し支えない。
で、肝心のシナリオなんだけど、悪癖…とまで行かないけれど、今井監督の限界が丸出しになったまま。
今井監督のシナリオは、いわゆる「来た、見た、勝った」というタイプ。つまり、事件に対する謎解き要素は全くなく、特定の場所に行けば、勝手にNPCが解決していく。ま、傍観シナリオの典型例。解決も、何かあるかと思いきや、とりあえず攻撃して、勝てばok。って言う安いタイプ。SFCやギリギリPS1やSS初期ならともかく、PS2の時代にこれではネェ。
第二話を例に取ると、「墓地に、彼の心の闇を解き明かす鍵がある。」との事で、墓の探索を始めるんだけど、彼(取手:人名)の謎は一切触れることなく、ただダンジョンギミックを解き、敵を倒して進むだけ。で、ボスゾーンに到達すると戦闘して、勝ったら、解決編スタート。これではねぇ。
ではどうするべきだったか。まずは、取手が、無くしたものを、ADVパートで突き止め、それをダンジョンを探索して見つけるべき。その際に、なぜに取手が、宝を捧げて、力を欲したのかを語るべき。で、宝を守る番人を倒して、宝を奪還。そして、取手に挑む。忘れるために、逃げ出すために、もっと大きな物を無くしているよ的なやりとり後、戦闘と。宝を無視して、取手まで行くと、取手と戦闘後、番人が出てくると。宝は弱体化アイテムを兼ねる感じで。宝を取り返しておくと、仲間になって、そうでないと、一応解決するけど、完全ではないな感じにするとか。
ともかくも、事件、人間に対する謎解き要素が一切無い。これは、シナリオ的には、平坦な、山のないシナリオと言わざるを得ず、やはし、それが限界なのかなと、言わざるを得ないという。まだ、三話めなんだけど、早くも飽き始めているという。話単体、脚本そのものは良くできているだけに、本当に、「来た見た勝った」で、盛り上がりのないシナリオが残念でならない。
外法帳の失敗も、時代をズラしただけで、人物設定が全く同じという、2匹目のドジョウを狙うにもほどがある。と言う。せめて、幕末の葵は、おてんば姫だったとか。小蒔のがおしとやかとか。そうしたズラしが最低限必要だったのではないかと。さらに言えば、 九角家編と言っても良いぐらいのシナリオなわけで、正味の内容は、朧のオマケに収まっていてもおかしくはない。と思うんだけど、プレイしてないから完全な想像。
いや、シナリオが未完でした。とか言って謝罪文をどっかで見た気がするんだけど、だって、九角家の物語の解決は、剣風帖でされる訳で、外法帳の終わりは、どうあがいても、剣風帖へ続く。になってしまうレベル何じゃないかと。
あとアレだ、1話ごとにOPED入れるやつぁ、たかが知れてるよね。作ってる側は、テレビドラマやアニメ作ってる気分になれるだろうけど、プレイヤーからすると、邪魔以外何物でもない。剣風帖DSでも、しつこくやってる辺りに、限界をみた。と。剣風帖も、やり直してみると、ホントに傍観シナリオの王道で、感情入力しかして無く、謎解きは自動進行という…過大評価されて、しぼんでいった典型例かなぁ…ぽっと出の芸人が、ホントは芸も腕もないのに、テレビの勢いだけで売れた気になって、あっさり消えていくような物か…
魔人の最新作って…出るの?本当に?。もし出すのであれば…まぁ、こんな泡沫末端サイトに来る訳はないと思うけど…時期も外しているしね。プレイヤーの存在という物を、もう少し考えていただきたいと。
凶作の年(2010/03/22)
相も変わらず、九龍妖魔学園紀をやっておりますが、発売が2004年と、ゲーム界大不作の2003年前後の中での光明となるか。
とか思ったんですが、やはり、ダメでした。ゲームシステムとしては見るべきところがたくさんあり、良作なのですが、シナリオ面では、もう…。
本当に2003年前後は、星の位置による呪いだったのか?。と思えるほど、シナリオ面での大崩壊作品が、大手を振って歩いているという。魔人シリーズで、最高傑作という前評判で買った身としては、本当に、この崩落は…本当に、今井監督枯渇してたのねと言わざるを得ないと言う。
何がダメって、前回分でも書いたんだけど、元来、今井監督のシナリオは「来た見た勝った」と言う安い形なんだけど、それでも、一応、魔人の頃は、謎に対する解決は行われていた。九龍においては、何にもないんですけど…ホントにダンジョン突破したら終わりって言う…六話の時を駆ける少女とか、もぅ、ヒドイとしか言いようがない。入れ替わった事に対する解決策は、一切講じられず、ただ、ダンジョンギミックを解いて、ボス倒したら終わり。まぁ、なんか伏線ぽい展開ありましたけど、何かわけわからんうちに元に戻ってお終い。いや、本当に…シナリオ担当二人だったので、今井監督じゃない方なら許す。と思ったんですけど、思いっきり、今井秋芳って出てました…漢字これだっけ?。まぁ、調べる気力もねぇや。視点切り替えも、頻発するのでテンポが悪く、こうした脈絡のない視点切り替えでの伏線もどきは、真っ当な伏線をはる能力が欠如している証明。魔人の時は、プロローグとエピローグで敵視点での盛り上げ演出として許容できなくもないんだけど、九龍では、本編中に、がっつり切り替わる。無能の証明。ホントに、2003年代のゲームって、こうした視点切り替えが、格好いいと思ってる人たちの時代だったねぇ。そして、こんなシナリオを最高傑作って評価するユーザーも、見る目なさ過ぎる。
そんでまぁ、ダンジョンもねぇ…慟哭そして。とか、火焔聖母なみの、ボスはどうやってソコにいったん?。見たいな、どっかに、ヒミツの通用口でもあるの的な…まあ、ゲームだから見逃してあげて。なポイントだとは思うけど…それにもまして、レベル縛りがヒドイしなぁ。
ゲームバランスも、レベル上げ作業の強要が酷く、武器の値段と、クエスト報酬のバランスが今ひとつで、装備の更新がやりにくい。また、装備の設定がなんか微妙に違和感があって…なんで、Vz62スコーピオンが、MP5より高威力、長射程なのかとか。フォールディングストックになると、威力が上がって、AP増えるのかとか。謎すぎる。普通に考えたら、折りたたみストック、取り回し安い、AP減だよねぇ。反面、命中が下がるとかなら分かる。拳銃も設定が妙で扱いにくいし…銃器に詳しいっぽく見せておいて、実はそうではないンじゃないかという。
いや本当に、今井監督はTRPGの経験あると思うんだけど、魔人でTRPGのクトゥルフのエキスパンションセット持ってないと分からないような事述べてるし。持ってるだけで、プレイ経験無いのかな…本当に、六話をTRPGでプレイした時の事を想像してみて欲しいです。ゲームって、基本的に、プレイヤーキャラ視点で、その知覚範囲で物語を進めるからこそ、盛り上がると思うんだけどねぇ。まぁ、今だから言えます、確実に、過大評価でした。今井監督の才覚に対する評価。小説なんかでも、処女作以上のヒットは出ない。ってよく言われますけど、ホントにそうなのかも知れませんね。
あ、ちょっと思い出した。ソラウタだっけ、漫画界の太宰とか言われている人のヤツ。アレを見ると、日本人ってホントに私小説とか、自伝的作品って好きよね?。出来の善し悪しは関係なく、自伝的なものを若いウチに出しちゃうと、後が続かないんだよねぇ…日本人は、一度ヒットした物を悪く言わない、言えない習性と、惰性でファンを続ける習性があるから、まぁ、安泰とは思いますけど、次はないんじゃないかと。等身大の物語で、感情移入しやすいってのはあると思いますが、自伝的、私小説的ってのは、自分の人生の経験を切り売りしてしまう事なので、あとが無くなる。いや、創作って、経験から生み出される物なのは分かってます。だからこそ、いわば、私小説って、卵を産むのが待てなくて、ニワトリを食っちゃうような物なんだよね。あれ?このセリフ、このネタ、他でも使い回してた。とかなっちゃう訳です。そうでないと、他人の経験を盗み取っちゃうしか無くなる。ま、それでも、一発当てれば、ラッキーなんだけどね。
ちなみに、私小説ってジャンル。日本にしかないそうです。ともあれ、小説って、もうその役目を終えたのかも知れないなぁ。マンガって、もはや、小説の全行に挿絵を付けたとも考えられる訳で、今さら、活字一本に戻れるか。と言うと、私も戻れない気がする。でも、文字から情景を想像するって大事だと思うんだよねぇ…他人と違う情景を思い浮かべる事が、そんなにも恐いのかなとか思う訳で、いや、ほら、絵として、どどんって出されると、誤解できない回答としてソコに存在する訳で、確固たる答えだけに接していると、異なる意見を許容できなくなるのではないかと言う。マンガ化とは、絵本化なのか…作者の問題ではなく、読み手の問題として…