六月の夢酔


 

 「戦争は卑劣だ。が、最も卑劣な行為ではない。
それよりも、戦争は無意味だと考える腐敗し、堕落したモラル、愛国心にしがみついていることのほうがもっと卑劣だ

戦うべき対象もなく、自分の身の安全の方が大切だと考える人間ほど惨めな生き物はない。
そういう人間は自分よりも優れた人間の助けによってしか、自分自身、自由の身になれない、情けない生き物だ

ジョン・スチュアート・ミル(哲学者)


自分より優れた相手の助けとあるが「文字通りの助け」すなわち救済の場合と、楯突き噛みつくことで自己を成立させている場合もあるのではないか。
相手を貶し、相手の足を引っ張る事でしか、自分を浮揚させられない。自分を自由の身に出来ないのではないか。
−独自解釈−


知らぬ顔の半兵衛(2011/06/01)
WHOの関連組織が携帯電話の電磁波による発ガン性を認めたらしい。さあ、反原発グループはどう出るか。あれだけ、2%でも増加は増加。とか、低濃度でも長時間浴び続けたら危険。と騒ぎ立てておいて、どう出るか。ま、知らぬ顔の半兵衛でしょうな。面の皮の厚さだけは、メートル級だからなぁ。

まぁ、私の予想としては、ガン発症率は極微弱で、しかも長時間の使用が必要。とか言う類になるかと思いますが。ケータイはもはや手放せないからしょうがない。と言う人が多いんですど…そのケータイを動かすのは電気なんですけどね。

しかしまぁ、反原発がいかにヒステリーだったか身にしみるでしょうな。まぁ、いちびりはこのくらいにして、先だって、積んでるゲームがときメモ2サブストーリーズと書いたら、興味が戻ったので気合いでプレイ。結論、やらなきゃ良かった(笑)。

まぁ、デジタルノベルとしては見れますが、ゲームとしてはダメ。というか、成立して無し。選択肢の張り方や展開の仕方が、ドキドキプリティリーグラブリースター並。発売時機も近いのかなぁ。この時機のゲームは、こんな制作者ばっかりだったポイよ、兄ちゃん。ときめも1のサブストーリーズは名作とか言う人もいるようですが、私は未プレイに付き何とも。というか、怪しい評価とは思ってますが。

元々、ファンツールであり、本編イベントの補完(本編では書ききれなかったもの、心理描写とか濃密に)したものだと思うのですが、なにぶん、選択肢に脈絡が無く(どれが正解か全く不明)、ピンポイントの正解を選び続けないといけないスタイルなので、攻略本がないと無理な作り。ぶっちゃけ、プレイを振り返っても何が悪かったかさっぱり分からない。と言う。最後発のvol3ですら、最初の選択肢で一番のインパクトは「光と純が抱き合ってた」「光と琴子がもの凄い形相で」とかあるんですが、「光と純が…」を選ぶと、文字通りその現場をみるわけですが、「光と琴子が」を選ぶと、夢オチから10分ぐらい引っ張って、「光と純」のイベントにつながるという…脈絡も伏線にもなってないただの上乗せですかと…

ファンツールなんだから、最初の選択肢でエンディングキャラ確定しても良いと思うんだ。あとは、プレイ中の選択肢で、網の目のようなルート分岐で、イベントを探す系にするべきではないかと。本編では軽く流してたあのイベントの裏は、こうなってたんですなぁ。で良いと思うんだけど。

正味の話、ファンツールだと大概まともに見えるのよね。失礼ながら、不出来な同人誌でも好きな作品の奴だと、普通に読めちゃう見たいな。それ言うと、出版社系ゲーパロ4コマでさえ、そんな感じですけど。

しかし、一文字の怪力設定って本編で見た記憶が…総番長を倒したとかが該当?。もう記憶から消えてるからなぁ。vol1である夏と、vol3である春を同時にやったせいか…光の声の違いが気になるぅ(笑)。夏だと、無理矢理、高くて可愛い声にしようという努力が裏目(あざとく聞こえる)に出ている気がしますが、vol3だと、かなりナチュラルに聞こえます。収録スタジオの差?収録スタッフの差?。野田さんは素でも可愛い声だと思うので、無理矢理可愛く作ろうとしなくても良いと思うんですけどねぇ。

久々に琴子姐さんの声を聞いたら、こんなにドスがきいていたっけなぁと(笑)。ツンデレラだから、余計に良いです。本編リメイクしないかなぁ。ラブプラスを引っ張り続けてるから、また、同じ轍を踏むつもりみたいだけど。そいや、アーケード版ってどうなったんだろう。


不信任案(2011/06/02)
あえて、一言、言っておこう。したり顔で『今の時期に、不信任とか出してる場合か』とか言う奴は、アホ。
棄権を公言して責任回避するぐらい政党ぐらいアホ。

国の命運がかかる判断時に、逃げ出す奴に国会議員の資格があるか?。なんのために国会議員となったのだ。

震災からはや三ヶ月を迎えようとしているのに、何もしていない政府を信任し続けるのは被災者の首に巻いたロープを引っ張るのと同じだ。誰だって、こんなゴタゴタしている時期に、こんな事はしたくない。それでも出さざるを得ない、低能政権という現実を見るべきだ。

会社がピンチの時は、社員全員で支え合うものですが…とか言うが、それは、トップの目が覚めている。と言う前提での話。社員は一丸となっているのに、社長は、まだ我が儘放題。そんな会社をドコの社員が支えるかと。

まぁ、「今のこの時期に」とか得意げに言う奴は、詰まるところ、鳥のオウム。テレビでやっている言葉をオウム返ししているに過ぎない。実際は、何も考えてないのだ。

そして、面白いことに「この時期にこんなことするなよ」と言う奴は、共産党の棄権に好感を持つようだ。アホ同士気が合うらしい。

それにしても不思議なのは、これほど動きが鈍い政府を遠回りながら支持する被災者。普通ならば「こんなにも何もしてくれないなら、いっそ変わった方が良い」と言いそうなモノだが…どこぞの市長が「政権が変わったら、復興がどうなるか不安だ」と言うが、今より悪くなることはないと思うのだが。

この解散が是か非かは次の政権の出来次第ではある。


一度目は悲劇として、二度目は笑劇として(2011/06/02)
宮沢内閣以来だろうか?内閣不信任案の成立か。となったわけだが、さすが一流の市民運動家。ゴタゴタしている内輪もめを一時的に鎮火させるのは上手かった。まぁ、即座に袈裟の下から鎧を出したわけだが(幹事長の辞任は条件ではない発言)。しかしまぁ、舌先八寸の男の証書もない発言を信用するあたり、おぼっちゃんだなぁと。

もっとも不可解なのが、小沢一郎氏の欠席棄権。造反時にコレをやった人に次はない(加藤紘一の乱などなど)。散々、旗を振っておいていざ合戦となったら、一目散に逃げたのでは居場所などドコにもないだろう。喜劇を通り越して、笑劇としか言いようがない。

結局、今回の失敗も、鳩山坊ちゃんの空回りのせいだ。この男が「復興をめどに辞任する」という、豊田商事のクーポン券並みの信用しかない言質をとらなければ、不信任案は可決されていただろう。さっそく、岡田幹事長から「辞任なんかしらねぇよバーカ」と言われて、さっそくピエロになっている始末。やることなすこと足を引っ張るうっかりドジ子を先に処理すべきか。

まぁ、被災地は否決を喜んでいるようなので、復興が進まなくても文句は言いません。ずっと待ってます。信じて待ってますという事なんだろう。

本当に不思議なのだが、ここまで遅れが目立ったら「もういっそ変わって欲しい」と言いそうなモノだがなぁ。この極端なまでに、変化を恐れるのが東北気質なのかねぇ?。よく言えば我慢強い。悪く言えば、変革に怯えている。と言うことかも知れない。


それは決め台詞だろうか?(2011/06/03)
なんかあちこちで「首相や政権が変わっても何かが変わるとは思えない」という言葉をよく見る。さらがら、薄暗いバーの片隅でグラスを傾けながら、誰に言うわけでもなく呟いているようだ。当人は、決まっていると思っているのかも知れないが、全く決まってないし、端から見れば滑稽でしかない。どうにも、中身がないのに、俺ってかしこい、俺って決まってる見たいなポーズを取る奴が多くて困る。そのくせ、決め台詞が、陳腐に流布しているものを、自分発案のように使うのだから情けない。まぁ、比率からすれば一割程度。リンゴ一箱買えば腐ったリンゴが混じっているものではある。

何も変わらないから変えない?なんという矛楯。変えないから、変わらないのだ。自民党政権になれば、すぐに何かが変わるとは私も思わない。だから変えるのだ。政権交代とは、そう言うことだろう。と思うのだが。しょっぱい事しやがったら、即座にたたき出してやる。常に見ているからな。と言う事を国を運営している連中に思い知らせるまで、変えるしかない。もしくは、あらゆるものを変えるしかないのかも知れない。

詰まるところ「政権が変わっても何も変わらないし…」と言うのは、家父長主義に浸りきっているという事ではないだろうか。政府にして貰って当たり前、やって貰って当たり前。誰がなっても、何もしてくれないから。と言う認識だからこその「何も変わらない」だと思う。まぁ、結局、お上思考から脱却出来てないんだわな。今の民主主義も、GHQから貰ったものだし。

東北地震は未曾有の大災害だったが、人心にも政治にも、ニュークリアヒステリックと菅内閣という未曾有のカタストロフィが巻き起こっている。これほどのインパクトで、意識変革がなければ、日本は没落するしかない。

まぁ、ワタシ的には全共闘世代と日教組に沈殿した連中が死去すれば、大きく変わると思っている。全共闘世代の結晶たる民主党が倒れた時こそが転回点だと思っている。まぁ、ものの見事に、人間としての低俗さを、これでもか見せつけてくれておりますが。アレが、日本のサヨク、全共闘の最終形態であろう。

もしかしたら、民主党の崩壊が、戦後政治の崩壊となるかも知れない。GHQによってもたらされた、押し付けられた民主主義でなく、民衆から発露する民主主義がようやく生まれるかも知れないなぁ。自民党のような甘える事でもなく、社会党のような、楯突くことで認めて貰う背伸びでもなく。そんな政府が生まれるかも知れない。

まぁ、あと50年は無理だろうが、それでも変え続けなければ、変わらない。手の届くところから整理整頓、掃除を始めなければ、部屋はずっと汚いままだ。そうだ。「政権変えても、何も変わらないし」とか言ってるのは、「どうせ部屋は汚れるんだから、掃除しても意味がない」と言ってるのと同じだ。


失敗学に感心(2011/06/07)
する奴は○○(お好きな言葉をどうぞ)。なぜならば、ごく当たり前の事だから。失敗、トライ&エラーから解法を導くのは、ごく当たり前の作業。にも関わらず、コレに感心するのは、独自解法つまり、独自の発想方法を持たないコピーマシンだからだ。クレームこそ宝。と言うのも、実はいわゆる失敗学のひとつ。

まぁ、結果至上主義が長らく続いたため、過程の評価はほとんどされなかった副作用だろう。悩み抜いて、調べ尽くして導き出した誤答を繰り返した上での正答よりも、回答集を盗み見た一発正答の方が評価される世の中だったわけですよ。どちらが血肉になっているかは自明。私は「初等教育では、結果よりも過程の評価を」と公言しちょります。

ま、考えてみれば、新発売のゲームソフト同時に攻略本も買う。プレイして行き詰まると即ネットで調べる。明確な結論のない論説にイライラする。これらは、すべて結果のみを尊重するがゆえの行動で、実際には、ゲームほどトライ&エラーを楽しむ教材はない。それでも行き詰まったら、初めて参考書を手にするべきなのだ。

再三言うけど、クロスワードパズルの答えを見ながら埋めていく奴は居ないのに、攻略本を見ながらゲームを解く奴は、なにゆえ五万と居るのだろうか。トライ&エラーを繰り返し、自分で解くからゲームは面白い。と思うのだが。

与えられた答え、提示された解法、それをなぞって楽しいのかと。ゲームの解法ですら、こういう情勢なので、元々、解がない現実問題ともなれば、何かの勢いで主流派(と言うか、一番大きい声)となったものに、迎合していく。そして、そこに自己のアイデンティティを据えてしまったがため、妄執とも言える弁護と、実はよりよい回答である異論を数と感情論で封殺していく。

放射線と、その後の携帯電話の電磁波問題で、まざまざと見せつけられたにも関わらず、いまだカルトは増大中だ。それに、最近目に付くのが、その提言をテーマにして、論述を広げられない人たち。新聞の論説に対して「で、あんた達はどう行動するの」とかで、決めたった〜みたいなブログ多いんだわ。何も思考していないし、考察もしていないのに、当人はした気になっている。

他所でもよく言われるとおり、日本人は、自分で考えるのが非常に苦手になってしまった。考えるだけなら良かったが、考察すら出来ない人(当人はしているつもりなのがまた…)も増えてしまったからなぁ。私もその口ですが。

それはやはり「過程を評価せず、結果のみを評価した」結果、トライ&エラーをしなくなった。どころか、失敗はかっこ悪いものとなってしまった。ちなみに、私は親から「失敗するならやるな。100%成功しないなら手を出すな」と教育され、冒険心のない人間に育ってしまいました。人生の大多数は、伸るか反るかの勝負事。恋愛でも仕事でも、100%の確証なんてあるわけがない。

と、気がついても、三つ子の魂百まで。十分な、十分すぎる確証がないと動けない=ほぼ動かない人間になってしまいましたとさ。もう少しアクティヴに売り込みが出来たら、全く違う人生だったと思うわぁ。と言うわけで、お子さんをお持ちの方は、「挑戦させてみる」「過程を褒める」「致命(同じミスを繰り返すなど)的な失敗は叱る」など、大事かと思われます。あと「小さいウチは、結果だけ見ない」も。

あとは、ホントに、文字に反応して感情的になる人が多い。文章を読めなくなっているのかなぁ。池田信夫氏の持って回った皮肉に、本気で反応するひと多かった…文系の人ほど、こういう傾向があるんだよねぇ…考えてみれば、伏線処理ってのも、論理的思考が必要なわけで、理系作家のが優秀な気がするんだ。アシモフなんて生化学の博士号と終身教授持ちだった気も…

次回は、理科好き文系と、文章好き理系について。と言うか元々コッチだったけど、ちょっと失敗学への賛辞が多いのが気になって。まぁ、何とかの品格とか、なんとかの壁とか、自己啓発系が最近大人しかったから、中身の無い人が飛びついたんだろう。と思う。


答えありきなのか(2011/06/09)
本当にテレビを見なくなって久しく、特ダネなのかな?ちょっと見ていたら、「夫にガソリンをかけて焼き殺そうとした事件」をやっていたのだけど、なんかもう「夫のDVが原因」と固定されてて、それを前提にコメンテーターに話を聞くというのは、どうなんでしょうかと。

近所の方のインタビューの中で「奥さんの方が(言葉で)責め立てて、旦那さんはボソボソと言い返す感じ」とか「奥さんの方が責め立てるけど、たまに(旦那が)爆発する」と言った証言をしており、私から見ると、「奥さんの、夫への言葉によるDV」の可能性の方が高いと思うのだが。

通常、男性から女性への暴力が恒常化していると、女性の側は反抗する気力を失う。つまり、言葉で反抗するを通り越して、責め立てるという状況にはなりにくいはず。さらに夫は台所で寝ていたと言うから、普通に考えれば、どっちの地位が下だったか分かりそうなものだが。それでも番組では「夫の暴力が…」で進行していた。

もう少し、多面的な意見に出来ないものだろうか。まぁ、放送で憶測で滅多なことは言えないので、警察発表に準拠してますなんだろうけどねぇ。あっちでは大本営発表は信用できないと言い、こっちでは公的機関の発表がって言うのは、なんか便利に使ってますなぁ。やっぱり、テレビって見なくて良いなぁと思う始末。と言うわけで地デジにはしない方向で。電波利権に抗う方向で。


理科好きの文系と国語好きの理系(2011/06/09)
この二つを比べた場合、優秀なのは国語好きの理系であろう。基礎力として、大きく差が出るのは理系知識であり、文系知識は実は苦にしなければ、文系理系大差ないレベルとなる。韻を踏むとか、そんなテクニックを評して名文と言われることはほとんど無く、描写力、表現力、盤面に応じた決め台詞が紡げるか。の方が評価されることが多い。そして、それらは文系理系とか言う区分に意味はなく、個人の感性と、それまでに読んだ本の量に批准すると言っても良い。

端的に表れるのが、SF小説で、理系が書いたSF小説は土台(世界観などを含めたいわゆるSF考証)がしっかりしていて安定感がある。文系が書いたSF小説は、カタログ書き写しのようなガジェットでSF風味に味をつけている場合が多かったりもする。そう言うのを喜ぶのも、また文系読者だったりするわけですが。

理系知識も苦にしなければ文系でも…と思うだろうが、理系知識が苦にならない人は、かなりの確率で理系を選ぶ。つまり、苦にしない時点で理系といえる。理系学問が苦しいから文系に行く人がほとんどであろう。文理両道で、どうしても文系に進みたいと言う人もいるだろうが。

嫌な言い方をすれば、理系をドロップアウトした人間の逃避先が文系である。とも言える。思い返せば、理系大学に進学した友人は、すでにやりたいこと、興味のあることが確定しており、それを満たす大学を選んでいた。反面、文系大学に進んだの多くは友人は、大学名や学部のイメージで選んでいたような気がする。経済学より経営学のがなんか良いよね。見たいなノリで。

かくいう私もモル数とかで盛大にドロップアウトした文系人間な訳ですが。考えてみれば、理系基礎知識が足りないから、世界設定の作成が下手で、小物に頼りきりだしなぁ。理系に進んだ連中は、世界設定作るの上手かったよなぁとか。

伏線とか、トリックとかいうのも、結局はロジックであり論理学の一環とすると、理系だもんねぇ(論理学は数学者が兼ねている事が多い)。理系ドロップアウト文系人が理解できないのも無理はないのかねぇ。理科離れの深刻さが叫ばれてもう長いし。

まぁそれはさておき、一番大きな問題は、国語好き理系はもちろんレアだが、実は理科好き文系も准レアである。と言うこと。ほとんどの人は、ただの文系理系だし、国語ダメ理系(某空想科学読本の人は確実にコレ。あの映像読解力は…)とか、最悪と言える完全ドロップアウトと言える国語ダメ文系(この手合いは、文章を読まず、文字に反応して感情論を論理的と思っている/ないし脳内ルールを世界ルールと思っている。文頭の一文字空けてないから、この文は信憑性がないとか)とかも居るわけですよ。

国語好き理系ってのは、ある意味天才のカテゴリーに入るわけで、そんな人物は滅多にいない。理科好き文系は、量産しやすいが、正味、ガンダムとジムぐらいの性能差が付くんだよね、コレが。しかし、量産しやすいと言っても、理科離れの現状から局地化が早期に進行しており、MA(ザクレロなみの問題作)みたいな人は結構増えている。意外とジムの汎用性は侮りがたいんですよね。

汎用性、つまり、多面的な知識があるから、良い文が書け、的確な心理描写が出来、臨場感ある情景描写が出来る。と私は思っています。それ以前に、幅広い知識がないと、面白い着想が生まれてきませんから。創作に限らず、ビジネスシーンでも、戦場の献策でも。


すこし真面目に考えよう(2011/06/14)
この記事。実は私、ついったーもニコ動のアカウントを取ってない、取る気もないわけですが…まわりからは「ありえへん」とか言われてますが、必要性を感じない上に、本能が危険を告げているので。

池田信夫氏も言ってますが、ついったーは簡単に衆愚メディアに落ちる危険性が高い。ただでさえ短文なのに、高速で流れていく(人の少ないところは除く)わけで、流れなくても、文章を読めない人が多いこのご時世に、短文でかつ高速となれば、インパクトつまり文字、字面に反応して、中身を理解せず、誤認を通り越してデマになる危険を孕む。

ついでに短文にまとめる能力は、文章の認識力が大きく関与するので、元々文章の読めない人間が、省略してしまうと、肉を捨てて皮を残す可能性が高い。現に、ニュース引用の個人ブログでも、ニュースの骨子とは明らかに違うところに反応して、激高しているものを散見する。

ニコ動の方は、単にyoutubeの方が好きだから。消せるとはいえ、コメントが画面上に広がるのが気持ち悪い。下手をすると、コメントで画面が埋まるほどなので、動画を見たいのか、書き込みたいのか、私には理解しかねる。まぁ、おそらくコメントを書き込みたいのだろう。何人かで集まって、映画を見てくっちゃべる。と言うのと同じだろうとは思う。たぶん、ニコ動が嫌いな人は、私のように本当に見たい映画は一人で行くタイプではないかと。映画その物を楽しみたいのか、映画を見て騒ぐ事を楽しみたいのか、の違いと思います。


で、本題。ゲームのプレイ動画は違法か。と言うか、法律的には違法なんですが。

要するに、プレイ動画をそのまま上げるというのは、映画をそのまま上げるのに近い。映画を見ている人を後方から定点観察しました。と言いながら、フォーカスはテレビ画面を中心に据えており、画面の端に人の後頭部がチラチラと写る程度のシロモノ。と言う認識も出来る。

映画でコレをやれば、誰しもアウトだと思うのだが、ゲームではそうした意識が希薄なのは、やはり、ゲームに対する著作権の認識問題だろう。コンピューターゲーム(どころか、ほとんどのプログラムも)をたどれば、フリーウェアにたどり着くわけで、無料でスタートしたものに、急に値段をつけられても、やはり抵抗がある。そもそも、ソフト本体に対する著作権意識が希薄なのに、それに付随するものの著作権意識を問うのはかなり難問だろう。

そもそも根底にあるのは「合法違法は関係ない。俺たちの遊びを邪魔するな」と言う、暴走族と同じような思考を正論と思っている一部の人間であろう。もしくは、ローリング族(古っ)の様に、俺たちもギャラリーも楽しんでるから良いじゃないか。と言う理屈になってない理屈。おそらく、暴走族と同じく、耳目を集めたいからやっているだけで、そこに高尚な意識は感じ取れない。この手合いは、人格攻撃か、hatespeechしか出来ないにもかかわらず、論理的に論破したと思う知能だしね(反原発カルトとかもそう)。

インタビューでも言っているけど、無料で落とせる動画や体験版を、わざわざ動画で見る。というのは、単に騒ぎたいだけと言う確固たる証左だろう。

動画投稿サイトも真新しいシロモノで、まだまだルールが構築されていない。過渡期である。言い換えるなら、無法地帯である。コレに法的秩序をもたらすために、訴訟に踏み切ったのは英断と思う。ただ、個人的には、攻略動画は勘弁して貰いたいなぁ。FPSとか、言葉だけだとよく分からんこと多いのよね。

あまり関連しないが、リンク先のインタビューで「最近のユーザーは伏線を理解できない」と言うモノがある。それは納得するが、伏線を張れてないゲームも結構あるぞ…まぁ、他社を揶揄するわけにも行かないだろうから、やむを得ないことではあるが。ただまぁ、これは最近のことではなく、もう20年は言われ続けている。そして、それが改善されないのは、低下していくユーザーの認識力に迎合した作品ばかりを出しているメーカーに責任がある。

負荷をかけずに伸びる能力など無い。幼少期、柔らかいものを食べ続ければ咀嚼力が付かないように、文章の咀嚼力も、考える文章、考えさせられる文章を読まなければ付きようがない。かつては、小説がその任を務めていたが、今はゲームや映画、アニメであろう。その自負無くして創作は出来ないのではないかなぁ。いや、気負えと言うのではなく、意識の隅っこにでも常駐させておく必要があるのではないかと。

ちなみに、このサイトで「画像無いの?」と聞かれることはあるのですが、著作権が怖いので上げてません。侵害も怖いが、かつてのN天堂が引き起こした、零細同人作家逮捕事件を知っている身としては、恐ろしくて上げられたものじゃない。と言うのもあります。

補記:ちなみに、インタビューページのついーと見て笑ったのが「行間読めない」にhateしている一部の人たち。コレ完全に「正論だけにムッとする」だよね(笑)。
まぁ、世代論は間違いだけど。各年代に万遍なくいる。ゲーム=若者文化と思われがちだが、50代は微妙だが、40代には間違いなく定着している。もう若者文化ではない。主な購入層も30前後が一番多いのではないだろうか。この辺、過ぎると養育費とかで財布が締まるのよね。


善意に潜む無自覚な悪意と、悪意ぶった慈しみに激高する悪意(2011/06/20)
タイトル長っ。だけど中身はストレートに。

古い話で申し訳ないが、未だに「福島にいると奇形児が生まれる」とかいうツイートをまき散らしている有名人がいるという。
コレには強く言っておきたい。この言の意味するところは『長崎・広島の被曝二世以降は奇形児であると指さしている』である。明確な差別発言であることをなぜ自覚できないのか。

原子爆弾から受けた被曝量は福島の比ではない。さらに言えば、当時マスクや予備知識など無いので、広島市近郊にもかなりの放射性物質が飛散しそのまま生活していたはずだ。黒い雨の適用外地域のさらに外側でさえ、相当量の放射線量になっていると予想される。それなのに、「福島で畸形が」と言うなら、我々はどうなるのかと。

総電力量を考えても、原発の即時停止などはあり得ない。南極で「ストーブの排煙で肺ガンになる」と代用品もないのにストーブの停止を求めているようなモノだ。反原発デモの主催は、労働組合などであり、明らかに「ナリタ・オキナワ・ヒロシマ」の一環の政治活動でしかない。彼らこそが、自分たちが逃げ切れればそれで良いという輩であり、今現在のような空気の中で、敢えて、原発の必要性を説く人こそが、未来への慈しみを持った人であると言える。

原発を止めた先にあるのは、阻止限界点を超えたスロウデスのみなのだから。

そして、サヨクお得意の「自分と意見が違うのものは全て敵」というすり替えによって、反原発自然エネルギー派以外は、全て原発推進というレッテル張りを行っている。少なくとも、原発で現状を維持しつつ代替を模索する、本当に現状の原発増設というおおざっぱに分けても二派存在する。再生可能エネルギーへのシフト派か、既存技術(ガス発電とか)派かも含めれば、かなり細分化される。

本当に、単なる政治闘争で、しかも、下火になっているサヨクが起死回生とばかりに騒いでいるだけで、冷静に考えれば本当に中身はない。

東京から沖縄に逃げた家族の報道を見たが、いつの撮影かは知らない(放送は六月上旬だった)が、もう肌が赤黒く焼けており、皮膚ガンの発症率はかなり上がっているようにも見えた。まぁ、おそらく、皮膚ガンになったとしても、原発の放射線のせいだと言うのだろうけども。そして、資産が潤沢にあり、そのまますごせるなら良いが、おそらく遠からず破綻するだろう。そうなれば、家父長主義の彼らは、間違いなく国を頼る。30年後の発ガン率上昇よりも、何年か後の経済破綻を選んだ上での逃避ではなかったのか。

逃げなくても良いのに逃げ出し破産するかも知れない人、胎児に影響はないのに人工堕胎する人が出るかもしれない今、不必要な危機を煽った自称ジャーナリストだの、作家だのは、なにも呵責を感じないのだろうか。呵責を感じるからこそ、反原発を推し進め、黒を白に変えようとしているのか?。

ついでに言うなら、種々のニュース番組もオカシイ。福島にもっと近いはずの埼玉や千葉の放射線量は出さないのに、都内の情報ばかり出す。それは全国ニュースではなく、ただの東京ローカルニュースだし、詰まるところ、自己保身なのかと感じてしまう。


風が吹けば(2011/06/25)
桶屋が儲かる。というのは、捕らぬ狸の皮算用的な揶揄とされていると思うのだが、私は意外と好意的というか、事象としてあり得る論と思っている。まぁ、原本においては盲人が三味線のみに走るか?と言う気持ちはありますが。そう言った点では、原本では皮肉だったのだと思いますが。

だが、実際には「中東情勢が日本の魚の価格に影響を及ぼす」と言うのは現実に起きるわけで、これを桶屋論で書くと
中東情勢が不安定になる>原油の出荷量が減る>ガソリン価格が上がる>船の燃料費が上がる>魚の価格が上がる
となります。

リビアの革命騒動で、原油価格がやや上がりましたが、実際には、そうそう値上げしていると売れなくなるので、各所でダメージを吸収していて、最終価格はあまり変動しません。今年は、豚肉の価格が上がるようですが、実はコレ、去年の猛暑で、出産率が低下し、平均12頭前後産むはずが、8頭ぐらいしか産まなかった為だとか。今年も猛暑の気配ですし、節電で豚舎に冷房や扇風機ってのも苦しいですから、来年はさらに値上がりかも知れませんなぁ。猛暑の原因まで考えると、豚肉の価格も環境破壊とかまで引っ張れるかも知れません。

まぁ、詰まるところは、原因と結果を真面目なモノに限定するか、皮肉ったものにするか、なんだと思いますけどね。逆に、我々のような凡夫が「風が吹けば桶屋が儲かるかっ」と思う時は、意外な真理が潜んでいるのかも知れません。


クールビズ(2011/06/29)
何か違和感を感じるのは、私だけだろうか。四六時中、ネクタイをしていろ。というつもりもないし、私はネクタイ嫌いな人間なので、ノーネクタイが当たり前になるのは有り難い訳なんですが、それでもそれは違うだろう。と思うわけですよ。

日常業務なら、ノーネクタイでも、アロハでもいいと思うんですよ。でも、正式の場所ににノーネクタイはオカシイでしょうと。特に政治家。特に菅氏。肝炎の和解調印式でノーネクタイとか、舐めてるだろうと思うのですが。燕尾服着てこいとは言いませんが、公式会見とか、調印の場に、ノーネクタイっておかしくないですか?。会社の合併調印式に、ノーネクタイとか、アロハとか、おかしいでしょうと。いや、ハワイの人ならアロハは正装だから良いんですけども。

最終契約の段階で「この度はどうも…」とサンダルにアロハで出てきたら、ちょっと考えるよねぇ?。

本会議場とか、党首討論とかは、正装して欲しいなぁ。定例会見は微妙ですけど、公式記者会見にも、礼儀としてネクタイは締めるべきではないかと。時と場合を使い分けられない人が増えてきている気がするなぁ。まぁ、使い分けられたら、こんなグダグダな政治にはなってないか。

しかし、ほんとーーーーーーーに。菅総理誕生時に『鳩山以下になりうる』と予言してたんですけど、鳩山前総理以下とかそう言うレベルじゃなかったという。リンポの最下層というか、餓鬼道の最下層とか、そんなレベルですなぁ。



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