フライング(2007/6/1)
ザッカー兄弟のフライングハイは好きだったなぁ。大笑いする人と、全く笑えない人に二極化する作品ですが。
さて、フライング。と言っても、何十分かになってしまいますが、書いてる段階では、まだ五月なんです。
肉体の回復力は高い反面。メンタルの回復は非常に遅いです。肉体の方も遅くなってきてますが。昔は、全治二ヶ月の骨折を二週間で治したりしたものですがねぇ。よって、しばらく休眠。長く放置しても、耐えうるようなネタがあると良いのですが、それを捜す気力も無し。
浜の真砂は尽きるとも、世にマニアの種は尽きるまじ。マニアというか、フェチというか、厨というか、まぁ、趣味趣向はそれぞれですけども。良い人ぶらずに、ハァそうですか。ウチにはウチのルールがあるので。で流すべきだったかなー。
この辺のあしらいは、まだまだだなぁ。
さて、DTPが本格普及したのは、1990年代の半ばぐらいだったかと。それを考えると、DTPが普及してから10年少々。この十年で、電子入稿から、ネットの普及により、印刷されたモノではなく、かつては一次原稿だったものを、直接モニターで読む時代が来て、五年と経ってない。
よく考えると、印刷物でない、つまり、紙でない、文字刊行物が、ここ数年でようやく誕生したわけか。まぁ、DOS時代にも、フロッピーに記録してやり取りはあったモノの、読める人は限られてた訳だし。
長かった紙出版時代からの転換期でもあるのか。ギブスンがその作品の中で書いてるけど、新聞を買うと、プリンターで打ち出される。と言うのがあったけど、どこかの新聞社もネットで過去の新聞閲覧できるようにしてたよーな。プリンターから新聞を買う。そんな時代が来るのかしらねぇ。
と言うか、端末に直接配信だよな。いまの技術力を考えたら。
まぁ、こうした転換期には、既存のものに固執してしまう人が出るのも当然か。かく言う私も、世の中がwin環境に移行していく中、頑なにDOS環境と五インチ環境に固執したりしてました。新しいもの、すなわち未知への恐怖というのは、人間の根源にあり、仕方のないことなのか。
反面、未知のモノに、抵抗していたお年寄りが、ケータイメールにずっぽりハマったり、任天堂DSからゲームにハマったり。未知への恐怖と、未知への興味という好奇心が、人間の原動力か。好奇心は猫を殺すが、人は好奇心で活性化するのか。
まあ、固執しても、時流にゃ勝てないんだよね。私もWindows環境にどっぷりだし。受け入れると意外と心地よかったりする。シーバースやボディスッナチャーの世界でも、意外と心地よいのだろうか。あの新しい世界は。
なんかダルダルゥ(2007/6/20)
マーフィー・チャン伍長が言うことにゃ「起こって欲しくないことほどよく起きる。ガンバーソンの法則」。いや、真理。しかも、ハードブロウでなくて、ジャブでペチペチやられるとそらあ、もぅ、心が折れますって。
そんなこんなで、一切合切が面倒になり、このまま一ヶ月も放置したら、自然消滅できて良いかなぁ。どーせ、誰かに感銘を与えたわけじゃなし、表現者としては失格だし、無くなったとしても、誰かが惜しんでくれるわけも無し。と言うDownwardspiral。離人症の経験は伊達じゃない。自傷も一歩手前まで行ったし。自分の存在が希薄すぎて、生存確認に流れる血が見たくなったという。まぁ、切ったら、血で部屋が汚れて、血の汚れは落ちにくい。と言う理由でやめた、アリー・ライト的な鬱症状。いまでも、尖ったものを眉間に押し当てるの好きだし。スキャナーズ見て、ドリルで開けたい気持ちが理解できた変態でゴワス。
それでも、やっぱり書いちゃうのは、思想を言葉で表現するのが好きなんだろう。特にココは脳内妄想を垂れ流せるし。歌うのが好きな人。絵を描くのが好きな人。私は、言葉を使って、他人の脳内に映像というか、五感を刺激する、VRを生み出したい。言葉は記号であっても、文章となった時点で、脳内にイメージを送れる…まぁ、イイや。
のだが、最近では「もう少し、表現に凝りましょう」と言われたら、文字レイアウトに懲りましょう。と言うことらしいでゲスな。なに?、飛躍しすぎ?。そんな設定はない?。そーでゲスか。ゲーゲッゲッゲッ。
基本の定義が変わりつつあるモノと言えば「数」がある。数人、数個。と言われたら、何個ぐらいを想定するだろうか?。最近の若人は、なんと、2−3個。と考えるらしい。コレは困った問題だ。ちなみに、辞書ひいても、数は「5、6つ」と言う風に書いてあるはず…パパッと辞書を見てみると、接尾語としては、3−4、もしくは5−6。とあるな。
例えば、「数人の人影が見えた」とすると、書き手としては、5−6人で、すでに取り囲まれている感を醸し出したとしても、最近の情勢では「2−3人」と思われてしまう。すると、すでに包囲された感はあまり出ない…気がする。
誤解がないようにすると、「5、6人の人影が」となるのだが、人影と、ぼかすことで、見つかったような、見つかってないような緊迫感を与えようとしているのに、5、6人。とハッキリ数を書いてしまうと、なんだか、緊迫感が薄れてしまう気がする。やはり「数人の人影」とすることで、正体が見えない緊張感がでると思うのだけども。
と、まぁ、私にとって、文章における表現というのは、こーゆー事を考慮すること。いかに、私の脳内あるものを正確に他人に転送するかという事なんでゲスな。
時に知り合いの印刷編集関係の人に聞いたところ「文字配置フェチは多いで」と言われた。マジッスか。まぁ、編集者は配置フェチ。文筆者は、言葉選びフェチってのが、正しい姿かと。文字配置フェチの文筆者って、陸サーファーみたいな気がするのだけども。まぁ、いいや。サァいくか。
表現の妙(2007/6/24)
言葉と言うものは、面白いもので、同じ単語を使用しても、順序を変えるだけで、ニュアンスが異なる。例えば
「大酒飲みだが、働き者」
「働き者だが、大酒飲み」
こうした場合、前者は誉めている感じを。後者は、けなしている感じを、多くの人は受けるはずだ。これは、逆接に若干の否定や、反語的なニュアンスを含んでいるためと思われる。コレを順接でつなぐと「大酒飲みで、働き者」と意味は通るが、座りの悪さを感じる文となる。 逆に、肯定的な意味の二単語を、逆接でつなぐと「几帳面だが、働き者」と言う、頭の悪い文章となる。
先の例文をさらに小説的に膨らませると「彼の父は、働き者だが、大酒飲みだった」とすると、銀縁のメガネをかけたおとなしそうな、神経質そうな父親だが、飲むと暴れてしまうようなタイプと想像できる。それ故に、小綺麗な一戸建てに住んでいるものの、家庭の空気は冷え切っており、「彼」の性格や生活態度の原因がココにありそうだ。
「彼の父は、大酒飲みだが働き者」とすると、終始、赤ら顔だが、仕事を始めると別人になる職人タイプが連想できる。あまり裕福ではないが、明るくも暖かい家庭の空気を感じ取ることも出来よう。
とまあ、単語を入れ替えただけで、こうも与える印象が異なる。もちろん、例は極端にしてあるが。もちろん、こんな事を理論立てて書いている文筆者は二流以下だ。スポーツでもそうだが、理論が身体に染み込んでからが本番。つまり、ナチュラルにコレらのことを感じ取れなくては、一流とは言えない。もちろん、解説を求められたら、パパッと説明できなくてはいけないが。
据わりが悪い。しっくり来ない。と言う感覚の裏側にあるモノというヤツです。文章表現とは、こういう事を、以下略。
以前に、アメトーク。だったかな、ダチョウ倶楽部が、自身のリアクション芸を、解説している時があって、熱々おでんにしても、熱湯風呂にしても、揺るぎないアイコンタクトと、チーム内連携の賜物なんだなぁ。と解説を聞きながら唸ったものです。
かつて、こうした解説は、いわば、ギャグを解説するようなもので、寒いことだったのですが、解説させることで見えてくることもあるのだなぁと。特に昨今、文章読解力が低下しているとのデータが持ち上がっているわけで、言わなくても理解できるダロ。と言う、行間読み。と言うことが期待できない現状。逐一、解説が必要なのか。と思う反面、どこかで鍛えなければ、一生、行間が読めなくなり、やがて、行間を読む。と言うことが無くなってしまうのかもと。
別に、行間読みが必須とは思わないが、行間を読む。とは、想像力であり、連想力である。また、それらは、思いやりと、優しさの元である。「こんな事を言われたら嫌だろう」「こうされたら、嬉しいだろう」と言う、想像と連想が、思いやりの元だと、私は思う。
アイコンタクトやチームプレイも、想像力や連想の賜物。「アイツならこの場面こう動くはず」「ヤツなら、ここにパスを出すはず」と言う思考のシンクロが、チームプレイである。だから、スポーツが教育になりうるのだけど、最近のスポーツ教育は、勝敗のみに、こだわりすぎるキライがあるからなぁ。
昔は、こんな解説、野暮の極みだったんだけどなぁ。ニュータイプ、本当に進化なのか。共感力を取り戻すことが進化なのか。などと、拙作「カーマイン」の解説もしてみる。
議論の法則(2007/6/27)
議論の第一法則
『バカとは議論するな。はた目には、どっちがバカだか分からない』
と、一言だけおいておけば、マーフィーの法則(アーサー・ブロック/アスキー刊)と言うこともあって、それなりに重たい一言になると思うのだが、ついつい、余計なことまで書いてしまうのが、私の悪癖ですな。
さて「感想文や考察レベルで推敲は不要」と言う意図の文をみて、わたしゃ、腹筋が切れそうなほど爆笑したんですが、世間一般では、「ウンウン、そうだよね。感想文に推敲なんていらないよね。」と賛同される方、多数なんでしょうか。
とすると、夏休み明けに、一度も読み返さずに読書感想文を提出し「一度読み返して、もう少し、表現を考えてみて」と再提出を求められたら、内容には手を付けず、雑誌編集者並みに、ビシッと組み版成形して提出し、先生も「これで、君のこの本に対する感想が良く表現されますね」と言うのか。
おーい、文科省。国語教育考え直せ〜。
ちなみに、卒論クラスだと、「〜〜における考察」と言うタイトルを付ける人は多いのですが、可愛そうに、推敲しちゃダメらしいですよ(´_ゝ`)。
と、このくらいネタにすると、自己愛と自己正義に耽溺したタイプだと、絶対反論してくる。最後最後と言いながら、復活しまくるクソゲーのラスボスがごとし?。このタイプは、無理矢理、反論しようとするから、ハナっから論理崩壊してたり、本筋とは関係ないところにこだわったり。上の例だと「タイトルが考察なだけで、論文と、ただの考察は違います」とかかなー。こうして、自分から本題を遠ざけておいて、詰まってくると本題とは関係ない、とか言うのね。きっと。
このくらい、機先を制すると、プライドだけは高いから、相手の読み通りにはしたくない。でも、自己愛から、黙っているのは耐えられない。と、すると次の手は、メールで直接かねぇ。そんな予想を立ててみる。
まぁ、根底から勘違いしているのはよく分かったし、底もよう見えた、浅いから。文学論とかぶつけ合える友達がいれば、こんな恥をかくこともなかったろうにねぇ。まぁ、泡沫末端サイトでやって良かったね。大手でやってたら、確実に祭りだ。
こんな知的レベル相手に一ヶ月浪費したのかと思うと、せつなさみだれうち。ちなみに、私は、掲示板に書き込む前に、再度、目を通すだけでも、推敲と考えております。さらなる、適切な表現(not文字配置)の模索や、ミスのチェックをせずに、自分の文を、読み返す人いる?。そう言うのは推敲じゃないんですってヨ、奥さん。
アナライズ(2007/6/28)
ビリーの代わりに、私の腹筋を割ってくれたお礼の意味を兼ねて、また、異常心理に興味があるものとして「文字配置と文章の説得力の増減」と言う思考を、ちょいと分析してみたいと。
一つの仮説として至ったのは、「文章を文章として理解できず、文字という単記号の集合体として認識しているのではないか」と言うことになりました。一般的に、文章として捕らえるとなると、単なる文字の集合体ではなく、言語を使用した意思伝達とし、その内容解釈を第一義として、捕らえるはずです。文章という物を、文字という単記号の集合体として捕らえているのではないかと。
分かりやすく言うと「お習字」。書道や書の大家まで行くと、ややこしくなるので、お習字レベルに限定して、話します。つまり、習字においては、書かれている文の意味など、ほとんど価値がなく、字そのものの美しさ、書面(半紙)に対する配置などで、優劣が付きます。
書かれている内容が、般若心経でも、漢詩でも、マタイ伝でも良いわけです。ただ、字の美しさ、文字の配置などが問われると。
と言う感じで、文章を、文字記号の集合体としてか捉えられないのではないかと。習字的な判断基準を前提に考えると、某氏の意見も、ある程度、理解できるのではないかと。それでも、文字配置と、内容の説得力をつなぐのは、計り知れない異常心理。習字的美醜感覚で全てを認識しているのかなぁ。ま、勝手な推論なのでねぇ。
アレなんかな、物事を額面通りにしか認識できない精神疾病。宿題を忘れた子に「犬に宿題を食べられたんですか」と言うと、その疾病持ちの子は「自分は犬を飼ってないこと」「犬は紙を食べないこと」を真剣に説明するというヤツ。
とすると、行間以前に、文章そのものが読めていないと言うことになるのか。文字記号の集合体として示す、表層のものしか感じ取れず、文意、文章の真意、もしくは、裏側に込めた意味。を認識できないと言うことに。あー、だから、軽い例え話に、もの凄く固執するのか?。
つーか、私こんな事してる場合じゃないのよ。今月末までなのよ。何がかは秘密。ま、一年に何件かはクレームが来て、そのウチの7−8割は、意味不明のオレ流脳内ルールをぶちまけて帰って行くのですが。なぜか、一番来て欲しくない時期に来るんだよねぇ。ああ、ゲームみたいに一晩眠ればMP全快って世界がうらやましいわ。