ラブクラフトサークルとファンの違い

もしくは、酒屋の看板盗んできて、塩水売るような真似して、クリエイターとしてプライド方面はokなの?
さらには「這いよれニャル子さん」を全否定する


 

注意事項

元々は、独自の神を付け足して拡張させた人々と、利用、拝借しかしてない人たちの差について書くつもりだったのに、なんでこんな事になってしまったのか。「HPLファンとHPLサークルの違い」「パロディという神話殺し」「ニャル子の否定」の三つが絡まってしまっています。

ただでさえ、分かり難い文がより分かり難くなっていますので、ご留意ください。
ニャル子の否定は、ここじゃなくて、文学論というか「看板抱きつき商法」から脱却しないと、未来はない論に組み込むべきなんですが…まぁ、HPLファンもやってることの根っこは同じなんで。


サークルとファンで分けてますが、海外と日本でも、ほぼ問題ない分け方かと思います。

最近認識したことなんですが、いわゆる、ラヴクラフトサークルと呼ばれた人たちは、ラブクラフトの作った既存の神性を再利用することは、ほとんど無く、自分の作った神性を、ラブクラフトの神話に差し込んでいた。と言うことに気がつきました。

数少ない例外として目につくのは、ニャルラトテップの別の姿を書いた、ロバート・ブロックとデイビッド・ドレークぐらいで、他はハスターだの、ロイガーだの、ダオロスだのオリジナルばかりです(全て網羅しているわけではないので、まだ例外があるかと思いますが)。

対してファンは、既存の神性を出すことで、神話に乗っかっている事が多い。事件の黒幕は、クトゥルフだったのですとか、輝くトラペゾヘドロンでアザトースを操縦しますとか、クトゥグァ星人と幼稚園で幼なじみとか。単語に、看板に、頼りきって、関連ワードを並べれば参加した気分になっている。

関連語を並べれば、参加している気になっているファンと、自作の神性を、神話に組み込もうとしているサークルでは、それは差が出て当然だろうと。そして何より、自作の神を神話に組み込めるのは、クトゥルフ神話だけなんです。他の創作にしても、ペガーナやグローランサでも無理(グローランサは頑張れば、公式に採用してもらえるかも?)。今更、ギリシア神話に、新しい神を組み込もうとしても無理ですし、日本神話でもそう。まぁ、日本神話は、わりと後世の作の神がいるようですが(タケミナカタは悪役として差し込まれた説とか。タケミカヅチは藤原氏のために挿入されたとか。と言う説有り、真偽不明)。

すでに有るモノを流用する。と言う発想は、いわゆる二次創作としては有意義なんでしょうが、一次創作としては枷になっている気がします。多くの和製クトゥルフ神話ものが、既存の流用であり、最近では、既存の設定をまるっきり無視して、名前だけ拝借。と言う状況に陥っており、またそれが、正統なスタイルとさえ思われている節があります。

そうま竜也氏のコミックの中に、モビルスーツの出てこない宇宙世紀、つまりガンダムワールドの物語を描いたモノがあります(「異なる人々」たおせカラオケ番長収録)。最後に少し出てきますが、間違いなく宇宙世紀の物語の一つ。MSが出てくればガンダムモノではないのと同様に、クトゥルフやニャルラトホテプが出てくれば、神話モノではない。と言うことに気がついて欲しい


私から見れば、悪魔の子<<ダミアン>>は、確実にデモンベインなんですが。それ以前にも、魔界水滸伝とか妖神グルメとかある訳なんですけども、魔界水滸伝にしても、妖神グルメにしても、まだ個体設定は残していたと思うんです。でも、デモンベインは「いけ、ヨグ=ソトース!」「ま゛っ」と言うような世界で、元の風味は完全に消し飛んでる。欠片を集めてこね直した、ピンクスライム肉みたいなモノ。ともかく、そう言うのを正統なクトゥルフ神話モノとか言われていたわけですよ。それは良いのか?と。

いかに自由度がある。と言っても、他人が考えた設定を根底から突き崩してしまうのは、問題があるのではないかと。創作活動をする人間ならば、自分の作ったキャラクターが、原形も残らないほど改編されて、それでもなおかつ、原作通りなんて言われたら、キレてしまうでしょう。デモンベインや這いよれニャル子さんは、それをやっている。と私は思うのです(神話作品と見なしたのは、視聴者側ですけども)。世界観 を根底から覆してまで、なぜその名前、その設定を使う必要があるのか。私には理解が及ばないわけです。便乗商法?。

というか「這いよれニャル子さん」は「果てのない慄然たる未知の領域−影の集う外界−に乗り出すときには、忘れることなくその戸口において、人間性というもの−そして地球中心の考え方−を振り捨てなければならないのです」と言い切ったHPLを侮辱してないだろうか?。まぁ、原本は読んでない気がするのだが(しかも、原作調べるどころか、読んでもない感じがする…)…やっぱ、デモンベイン世代が作ったのかなぁ……

固有名詞以外、何も残らないほどに改変しておいて、さも独自設定(または、独自解釈)でーす。と言うのは、どうなのかなぁ。それなら、なぜクトゥルフ神話の名前を使 う必要があるのか。固有名詞の看板力、ブランド力に寄生しているだけではないのか。ガンダムも、仮面ライダーもそうなんだと思うんですよ。ガンダムW以降、その名前が「ガンダム」である必然性はないわけで。 特に「ガンダムAGE」は「マジンガーAGE」でも、成り立ってしまう(と言うか、元祖ファミリーメイドロボのマジンガーの方が似合う気がするよね)。



ともあれ、和製クトゥルフモノで、真のクトゥルフモノが存在しないのは、パーツ流用の二次創作で止まっているからではないかと。だからこそ、関連ワードが少しでもあれば「神話作品」と反応してしまう人が出るのではないか。まぁ、海外のアンソロジーを知らないので、海外も「ネクロノミコンが出てくる」とか「深きモノどものに似ている」とかでまとめているのかも知れませんけども。

九頭竜がクトゥルフとか、そう言う転嫁でなく、新しい神性を組み込もうとすることが真の正統派なんでしょうね。日本神話とクトゥルフとか、中米とクトゥルフとかやってる私も、ファン止まりな訳なんですが。

ホントに、主要作家で、オリジナルを組み込もうとした人は日本には、ほぼいない(私が知らないだけの可能性も高いですが)。何かにつけて、九頭竜いこーるクトリュウ>クトゥルフ的な展開。ラムレイもキャンベルも、自分の神を神話に組み込んだ。 私が知りうる、唯一のオリジナルは、RPGマガジン95年6月号のシナリオ「天巫女の朱印」のショニレイグとアマミコでしょうか。作は伏見健二さんで、なんとなく納得です。テーブルトークまで来ると、オリジナル魔道書は雑多に出てると思います。私も、1シナリオに一冊は出してましたし(中身は日記レベルですが)。


話がそれてしまいましたが、今現在、自分の神を公式に組み込める 世界唯一の神話。それがクトゥルフ神話だと思います。 ペガーナはもう無理ですし、グローランサなら頑張れば認めてもらえるかも知れませんが。しかし、既存の神を利用するコトしかしない現状、クトゥルフ神話も死につつあるのでしょう。特に、名前だけ利用して、その世界観や神々の性格を一切無視しても、なんら意に介さないクリエイターの出現が、神話の固定化、つまり死を表していると思います。

RPGマガジンの「クトゥルフ通信」においても、こういう考察がされています

>>向心性は、すべての事象に理屈がついて、整合性がとれてしまえば、なくなります。物理学で言えばエントロピーが増大しきった状態です。こうなると、その物語は完結しきって、それ以上付け加える事はなくなります。>>


つまり、発展性、拡張性を失った時点で、完結した、固定化した物語となってしまう。それは、現代の神話、語り継がれている民話としての死を意味するはずです。かつてのあちこちで語られていた怪談話が、文芸家によってまとめられてしまうと、そこで固定化され、変遷しなくなったように。例えば、番町更屋敷の怪談は、日本全国にありました。武家屋敷のある城下町があれば、そこに類型の怪談があったのです。

皿屋敷と言えば江戸番町。と言う固定化がされてしまうと、それ以外はまがい物に落とされてしまいます。物語を変更することは許されず、以降は、二次創作とならざるを得ません。

二次創作への常態化をもって、物語の死、神話の死後硬直と私は感じています。そもそも、パロディ、オマージュは、原作に手を加えることが許されないからこそ、産まれたもの。と認識しています。常に新しいモノを生み出せたクトゥルフ神話には、パロディもオマージュも必要なかったハズで、それらが常態化すると言うことは、固定化され、不可侵のものになってしまったからでしょう。

セイント聖矢や、マイティ・ソーが、ギリシア神話、ゲルマン神話に行ったように、原著の意図を無視してしまえるほどに、 もしくは、意図を計ろうとされないほど、力を、価値を失ない、名前だけの存在に、形骸化してしまった。それは、神から魂を抜いてしまった、と言える。 つまり<<神殺し>>であると。 そして、本物の神話のように、遠い過去の真偽不詳の物語。と見なすには、クトゥルフ神話は若すぎる。一作家の作り話と言うには、広がりすぎた。そこに齟齬があったのかも知れません。

ガンダムは自分たちの手で、神殺し(「宇宙世紀」殺し)を行い、神を喰ったと思いますが。直接、神を殺したのは、流派東方不敗です けども。宇宙的恐怖を語るための道具として生み出したのに、名前だけの存在になった事、道具が神格化してしまったことを、HPLはどう思うか。まぁ、同人の先駆けな人ですから、笑って許しそうな気もしますけど。

現代において、我々が悪魔とか、妖怪とか、それらが名前だけの存在にしてしまったように、クトゥルフの神々もそうなったわけです。考えてみれば、明治大正期の、泉鏡花とか芥川とかの妖怪小説が<<神殺し>>だったのかも知れませんね。あれ以降、ホラーとしての妖怪モノは薄れていく。現代では、せいぜい擬人化して、雪女萌え〜とか言う感じですから。真摯語り継ごうとしたのに、断絶する結果となり、神を否定するために作ったのに、新しい神になってしまった。のかな?。

ラヴクラフトは無神論者でしたし、神を否定するために生み出した「モノ」が新しい信仰となり、そして<<神殺し>>を受けてしまう。皮肉なモノです。
 



上手くまとめられていませんが、一つ確実に説いておきたいのは

他人が作った世界観、世界設定を無視しながらも、その固有名詞やキャラ設定だけ横取りすることは、恥ずかしくないのか
苦労して構築した世界設定を、根底から覆されて、名前だけ利用される。それに憤慨しない作家は居ないでしょう。

クトゥルフ神話の持つ強みは、その世界へ自由に「参加」できること。私たちは、あくまで「参加」であって「改変」までしてはならないのではないか。

私たちが行えるのは、神話の「拡張」と「増補」であって、改竄ではない

だからこそ、ラヴクラフトサークルの面々は、ラヴクラフトが作った世界設定を踏まえながら、自分独自の神。ガタソノアやチャウグナーフォーン、ダオロス、と言う新しい存在の物語を描いたのだと。彼らは、ラヴクラフトの作った神々の名前をほのめかすことはあっても、改変はもとより、覆すことはあり得ない。それを私は、ラヴクラフトへの敬意と、自身の作家としてのプライドからだと思う


「ニャル子さん」は<<神殺し>>だけでなく、<<作家殺し>>も行っているのではないか。デモンベインもですが。。クトゥルフ神話の根幹であろう、宇宙的恐怖、絶対的存在への恐怖。そうした世界の物語を語るために生み出した存在。最低限度、それを踏まえずして、クトゥルフ神話を名乗ることも、語ることも許すべきではない。魔道書で操れる大怪獣に貶めたり、ミニスカちらつかせて、ナイトゴーントを狩るものを、組み込むのは 、もはや冒涜であると。オリジナルの著者を侮辱しているのではないか。


だから、私は「這いよれニャル子さん」とその作者を全否定する。作家にとって、世界設定は一つの財産と言えると思う。これはその財産の強奪だ。許されるべきでも、許すべきでもないと思う。 手ひどい言い方をするならば、偽ブランドに近いやり方です。有名メーカーのブランド力を頼りに、模造品を売っているようなものですから。

アメコミにおいて、パラレルワールドの設定として、性格などを改変する作品もありますが、アレは、元々の性格を読者が熟知している事を前提にしたパロディです。トニー・スタークの元々の性格・人柄が分かっているから、崩してあると笑える。つまりは、ちゃんと原作を踏まえているわけです。

そもそもパロディは、原作を踏まえているからこそ機能するもので、原作を無視したパロディなどありえない。

IGNの記事にもこんな言葉がありました

>>そのジャンルにライフサイクルの終わりが近づいていることが如実に現れるのが、パロディだ。というのも、そのジャンルのお約束が一般常識化している状態でのみ、パロディは機能するからだ。>>

お約束の一般常識化。それはすなわち、原作が広く認知され、解釈が固定化されていると言うことだろう。熱血勇者なアムロを主人公にした岡崎版ガンダムに違和感を持つ人は多いと思うのです が、あれを一種パロディと思えるのは、アムロが内向的な少年という認識を皆が持っているからで、逆襲のシャアの頃の しかもGジェネでのアムロしか知らない人ならば、岡崎版に違和感を感じないかもしれないけど。 もう一例上げると、某ゲームのDメール、デロリアンメール。これは、実際の車種としてのデロリアンでなく、映画「バックトゥザフューチャー」のタイムマシンとしてのデロリアンが定着しているから成り立つわけである。

故に、パロディとして機能し始めたクトゥルー神話は、デモンベインとニャル子によって命脈を絶たれた。つまり 、固定化されてしまった。いかようにも変革できたはずの現代の神話が塗り固められてしまった。<<神殺し>>神話殺しだったと思うわけです。デモンベインは、まだ絶対的恐怖の象徴として扱ってましたから、とどめの一撃を加えたのはニャル子でしょう。


ニャルラトホテプ星人とクトゥグァ星人が、幼稚園で同級生。それは、ただの擬人化(美少女化?)と名前の盗用で、パロディですらない。人格攻撃になるので避けるが、クトゥルフ神話の要素を抜けば、「天地無用」系統(本当に「りょーおーき」丸パクリしてあるとは…)の平凡な地球人と強力な美女宇宙人の ありふれたコメディでしかない。故にニャントロ星人とエルバッキー、ナイトゴーントの代わりにモスマンに置き換えてても問題はない。逆に、据わりは良いように思う…ハス太の代わりがおらんな……つか、ニャルラトホテプを名乗るなら、せめて色黒に……今更、ガングロコギャル?的な。 手のひらまで真っ黒にしてほしい…エジプト出身でさ…それが、原作への愛ってもんでしょ…


バカパロディにムキになるなよ。とも言われるのですが、その通りだと思います。分かってはいるのですが、デモンベインの時の嵐を思うと怖いのです。歪められた方が、本家本元と解釈されることが。

そして漠然としたものですが、同人とプロにあるべき、壁。姿勢の違いまでも、崩れかけているのではないかという危惧を抱くのです。編集者のモラルにも。ストーリーラインをそのままに、名前だけ変更すると、大抵、著作権裁判では負けるもの(荒野の用心棒とか)ですが、名前をそのまま使うのはセーフなんでしょうかねぇ。

クトゥルー神話に、著作権がない事を逆手にとって、好き放題するのは無粋とは思いませんか?。
擬人化、女性化で喜ぶのは、同人止まりにしておいて欲しいモノです。それ(女性化に伴うちょいエロ)を喜ぶのも中学生なみの感受性でしかない。(余談ですが、クトゥルフ神話図説の登場神話生物を女性化した同人本は実在します(1990年ぐらいだったか?)。人は進歩しませんな)

分かりやすい例えかどうか分かりませんが、「這いよれ、ニャル子さん」がやっていることを、ガンダムに置き換えると「MS少女を、正規の宇宙世紀に組み込もうとしている」と言うと理解してもらえるかも知れません。



ああっと、もちろんテーブルトークのシナリオを作る時は、二次創作で良い。その方が分かりやすいし、毎回、新作モンスターを作れるなら、プロになるべきだ。それにラストは派手な方がいい。月に吠える三本足の巨人を横目に、一目散に逃げるなんてのは、絵になる。だが、オリジナルのグレートオールドワンや外なる神を出しても構わないはずだ。黄昏の天使の地中衆の様にね。地中衆は独立種族だと思うが。考えてみると、日本オリジナルの魔道書も、あんまり無いんだよね (日記クラスの魔道書は山ほどあるけど)。

神謡招魂集一書とか。「かしこみもうす かしこみもうす あい いあ しゅうぶにぐるん ふたぐん なあ いい」つか、ストレートすぎるので、もうちょっと神代の書物っぽいタイトルにしたいなぁ。本気で考えようかしら。

萌えという人形(ヒトカタ)に閉じこめておきたいと言う願望を恐怖からと言う設定にできたら、面白い話かけそうだけどなぁ。固まりつつある集団的無意識を拡散させるための 対抗の「式」だったとか。
 


おまけ
ニャル子のセリフに「SAN値が減りますよ」みたいなセリフがあるそうだ。

キーパーや探索者諸氏なら分かると思うが、SAN値と言うモノはない。あるのは正気度である。ルールブックで、かろうじて能力値SANとしているのが、99−クトゥルフ神話技能で算出される数値で、これは正気度の上限を決めるモノ(第二版においては)。山本弘氏のリプレイでは「SANを減らして」とか「SANロールして」などと書かれているので、これの誤用であろう。SAN=sanity=正気。ただし、SAN値などと記載されたことはない。さらに付け加えると、テーブルトークを実プレイしたことが無い人(特にリプレイだけを呼んでいた人)が良くやる勘違いでもある。

テーブルトークは未プレイ疑惑を強く持った。まぁ、うちのグループはこういう言い方でした。とか、プレイしてないからなんだ。と言われると返す言葉もないし、エンターブレイン版は持ってないのでそう言うのかも知れない。全般に聞きかじりや、つまみ食いででやっている印象も強まった。「一見してパロディとして分かるものを目指した」らしいし。

私に言わせれば、工夫のないパロディは模倣だし、敬意のないパロディは盗作である。愛と敬意と工夫があってこそパロディである

だから、ダーレスのクトゥルー話は、HPLのうわべの模倣でつまらないし、ニャル子は…言わせないでおくれ。作家として、創作者として、敬意を持って引用し、オマージュとすることは否定しない。だが、パロディだから。と寄せ集め、かき集めて、胸を張る。のはプロの仕事ではあるまい。ニャル子は、ラノベバブルの終焉を告げる、第二のラッパであろう。もうバブル自体は、はじけている説もあるが。

出版社、編集者にとっては第三のラッパつーか、すでに苦い水で満ちあふれているか。電子書籍というノアの箱船に乗り損ねてるしね。


旧神とHPLの末尾にも書いたんですが、こうした看板やブランドに寄生するのは、自分に自信がないからです。自分の世界観を表現しない小説なんてゴミ屑だし、同人誌やファンのお遊びならともかく、商業作家が堂々と寄生して良いのか。しかも、新人賞として採択したというのは、選者の作家や評論家、編集者などは腹を切るべきと思う。表現者としての矜恃はないのかと。

こう言うのも、安易なノベライズが売れた疫風なんかなぁ…腐り落ちてるよね、出版界。無事な幹が有るうちに、何とかなって欲しいモノだけど。


※:謝罪と訂正
第二版のルール(日本語BOX版)を見返したところ、SAN値を正気度として使用している箇所を見つけました。謝罪いたします。とはいえ、第二版では、SANを減らす。SAN値を失う等、訳語が一定していません。おまけにキャラクターシートに書き込むSANの欄は、上記の通り99-クトゥルフ神話技能%だったりしますし、正気度の欄もありますが、ルール本文では、正気度は使われず、SANやSAN値と記載されています。かなり不統一。 ルールブックの誤記や誤訳というべきかと思います。

キャラクターシートの記入欄でも、SANと正気度は別欄になっています。第二版では、能力値欄のSANに書き込むのは、99-クトゥルフ神話技能%です。

なので、ニャル子の作者が、いい加減な知識で誤用を広めた事には変わりないわけですが、SAN値を正気度としてルールブックが使用していたわけですから、「正気度をSAN値と言わない」と言った私も謝罪すべきと思い、追記した次第です(ルールブック側の間違いとは言え)。 あと、調べてみるとRPGマガジンでも誤用しているライターがちらほらいました。


なお、第五版ではsanity pointは正気度に統一され、SAN値(正確には「能力値SAN」)はPOW*5で算出される固定値となっています。 正気度、最大正気度、能力値SANの違いを一章使って説明しますという意図の一文まであります。

そもそも、正気度は「異常な事態にどれだけ耐えられるか」の指標であり、低いから狂気に近いわけではありません。ルールブックにも、正気度24で正気の人も、正気度77の狂人もいます。とあります。正気度が0になると、人間としての倫理観や道徳観が失われるだけです、それをもって永久的な狂気と称しているわけです。人間の生贄をささげるのに呵責を感じない人は、狂っているとしか言いようがないですし。 減ったからピンチになるようなものでもありません。

クトゥルフの呼び声では、狂気に陥ったといっても、よだれを垂らしながら、奇声を発し踊り狂うような安っぽくわかりやすい狂気ネタではありません。完全に異なる価値観の世界に移ってしまった。人としての倫理観をなくしたことを狂気と称しています。だから、既往の症状を発症するものは、一時的狂気、(期間)不定の狂気となっているわけです。

SAN値がピンチ。なんて、いかに知らずに書いているかの証左ですわ。大嘘広めやがって。なんかまた怒りのボルテージが上がってきたなぁ。


 


初稿:2012/4/23 改稿2012/05/08 妙なポエム削除して、ニャル子の否定を書き連ねた 2012/11/10さらにおまけ追記  2019/01/22で:謝罪と訂正追加
 


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