旧神とHPL

どんな質問を受けても、指一本を立てるだけの俱胝と言う和尚がいた。
ある日、和尚の留守に来た客が、和尚の法の解き方を小僧に尋ねた。
小僧は、和尚をまねて指を一本立てた。
このことを聞いた和尚は、小僧の指を切り落としてしまう。
痛さに泣き叫ぶ小僧に、和尚は「おい、こっちを見ろ」と叫び、
小僧が見ると、和尚は指を一本立てていた。
小僧はその瞬間、悟った。


−俱胝堅指−(「無門関」 第三則)(碧巌録 第十九則)


 


現物を読んで無いので、何かを言う資格はないのだが、なんでも「HPLが旧神の設定に一枚かんでいた」と言う説があるらしい。一言で言えば「だから何?」なのだが。そもそも、ダーレスの世界観とHPLの世界観を融合しなければならない理由とはなんだろうか。クトゥルフ神話はシェアワールドではなく、それぞれの作家の作った設定の集合体に近い。それを一本に固定化してしまうと、せっかくの弾力性が失われてしまう。それは、クトゥルフ神話そのものを殺してしまうことに気がついていない。


まぁ、それでも思いつく限りの疑問を上げると

その1。ダーレスは捏造の前科があるので、捏造でない確証は取れているか。


その2。ネクロノミコンの使用許可を求められれば、即okしたHPLである。ダーレスから「こんな設定加えたいんですけど」と相談されて「No」と言う確率はほぼゼロだろう。ただ、そこには、「旧神対旧支配者」と言う設定は、あくまでダーレスの設定であり、自分、HPLとは無関係と考えていたかも知れない。 つまり、ダーレスと世界を共有していた意識がない。と言う可能性も。


その3。HPLが自分の世界を統合し、体系化しようとしたのは、かなり後期である。それまでは、ただ同一の都市や地名が出るだけに過ぎない。私には、アーカムやミスカトニック大は、地名のスターシステムのように感じる。つまり、アーミテッジ博士のいるミスカトニックと、ハーバード・ウェストが卒業したミスカトニックは別物かも知れないのだ。コロニーとガンダムがあっても、UCとACが別の宇宙であるように。

それ故に、初期や中期の設定を、全体を通しての設定と見なすのは危険だと思う。その場の勢いで、加えてしまった可能性もある。 インスマスを覆う影の頃は、すごい微妙な時期だよなぁ…編集長との対立がピークの頃でもあるし。ダーレスの口添えで、ようやく掲載されるぐらい険悪だったらしいし(魔女屋敷で見た夢は、ダーレスが無断で提出し、採用させたモノ)。インスマスも拒絶され、 他の出版社から出ているぐらいなので、ダーレス的設定を盛り込むことで、妥協を図った可能性も想像できる。それでも拒絶されたと。

その4。元々ノーデンスはHPLの作である。「宇宙が人類に敵意も好意もない」としながらも、害を与える存在ばかり書いてきたので、バランスを取るためにも、ノーデンスをやや人間よりに設定したことも考えられる。なにより重要なのは、旧支配者を旧神が地球から追い出し、旧支配者が虎視眈々と未だに地球を狙っている。と言うところまで、HPLが了承済みだったのか。四大元素への還元もしかり。だいだい「黒魔術を使ったので失墜した」等という、キリスト教本位主義的な発言をHPLがした。と信じる方がどうかしている。「西洋文明に迷信が必要ならばキリスト教よりも、古代の神々の方がふさわしい。」(要約)とまで言い切るHPLが、黒魔術*1という安っぽいキリスト教的オカルトに頼るなどとはありえない。

そもそも私は、ドリームランドの神々は、HPL初期の詩のみで、体系化したクトゥルフ神話に組み込むのは、どうなのかと、元々思っているわけだが。反面、ヒプノスやバーストなんかが、現実世界とのリンクポイントとなっているのも事実であるわけだけども。

*1白魔術と黒魔術の違いは、親キリストか反キリストかでしかない。

まぁ、これらはきっと即座に否定される疑問であろうが。

ただHPLは「宇宙は、人類に敵意も好意も持たない」と言う基本理念だけは揺らいでいないと思う。交通事故に会う代わりに、地球の外側の法則を偶然覗いてしまったのが、HPLの登場人物だと私は考える。トラックの代わりに、神話生物と衝突したのだと。そもそも、ノーデンスにしても、人間に積極的に危害を加えないだけで、あまり好意的とは言えないと思うのだがなぁ(ダーレスが書いた物は別)。



繰り返すが、そもそも、ダーレスとHPLの設定をすり合わせる必要があるのだろうか?。栗本薫と魔夜峰夫の設定をすり合わせる必要があるだろうか。デモンベインとクトゥルーオペラでもいい。

私は、「人間に救いがもたらされるクトゥルー神話」と「人類に敵意も好意もない宇宙のクトゥルフ神話」。それぞれ別個の存在で構わないと思う。ギリシア神話から派生したローマ神話において、各神の性格が異なるように、クトゥルフ神話から派生した、クトゥルー神話で良いのではないか

なぜ統一せねばならないのか。神話とは、地域時代で変化するモノである。軍神アレスはギリシアではこう、ローマではこう。タケミナカタは古事記ではこう、日本書紀ではこう書かれているで済む話。なぜ、クトゥルフではそれが出来ないのか。

この「HPLの作った世界は唯一絶対」であるとする考えこそが、「HPLが添削した」とか「深きモノどもに似ている」とか言うだけで、アンソロジーに加えたり、固有名詞が出てくるだけで、これは神話作品だ!とヒステリックに叫ぶ思考につながるのではないか。

まぁ、元を返せば、ダーレスが自分の設定をHPLの発案のように見せかけた事が全ての始まりなのだが。師匠のは師匠の、ボクのはボクの。と思えなかったんだろうなぁ…二人で何かを成し遂げた証が欲しかったんだろうとは思うが……愛した証拠に あなたの子供が欲しいの。と言うお二号さん的発想だよなぁと思うのは私だけだろうか。



なんにしても、シャレや遊び、敬意から名前を拝借しただけで、世界観や設定を無視したモノを神話作品と声高に叫ぶ人 。作品自体が影響下にあるか、スタッフのお遊びか理解できない人(マクロスのバルキリーが撃つミサイルにバドワイザー缶が混じっているのは有名だが、バドワイザーの影響を受けたと言うつもりなんだろうか)、つまり、遊びとパロディ、オマージュの違いが分からない人がいる限り、この手の論争は終わらないのだろう。

そしておそらくは、この違いが分からない人は陰謀論者では無いだろうか。画面の端に六芒星が書いてあれば「ユダヤの陰謀だ!」と叫び、星があれば「アメリカの」と叫ぶような発想に近い。アパートの部屋が221Bだったら、すべてホームズの影響下なんだろうか。通行人が持っている新聞がデイリープラネットだったら、すべてスーパーマンの影響下?。別の映画監督が、カメオ出演していたりすると、その映画はカメオ出演した映画の影響下なのか?(例えば、スリープウォーカーズには、 スペースバンパイアのトビー・フーパー監督が出演しているが、 スリープウォーカーズの吸血鬼と、スペースバンパイアの吸精鬼は同一生物だ、とでも言うのだろうか?)。

スタッフの中に、それらのファンがいることは間違いないが、作品自体が影響下にあるわけではない。ただのお遊びに過ぎない。モンスターの総称が「使徒」 だったり、伝説の勇者名が「ロト」だったら、「パクリだ!」と大騒ぎする癖に、ことクトゥルフでは「この怪物の外見は、アレに似ているから、神話作品」とか「名前が似てるからきっとそう」とか 、似ているから本物と言っちゃう神経が分からない(アトラク・ナクアなんて本人が否定してるのにねぇ)。

そもそも、名前だけ取ってきて、なんの設定も被ってないのに神話作品とか影響を受けたとか認定するのは、どういう感覚なのだろうか。何度でも言うが、某エロゲの<クトーニアン>と<ラヴクラフト>なんて、影響でもなんでもなく、ただの侮辱以外何物でもないぞ。真面目に、あれをファンネルとニュータイプってあったら、ガンダムファン、キレると思うし。ニュータイプじゃないな、<ファンネル>と<トミノ>だな。<使徒>と<アンノ>でも、<魔獣>と<イシカワ>でも良いぞ…最後のは分かり難いか(「魔獣戦線/石川賢」ね)。いや、違うな。クトーニアンはラムレーの作で、HPLとは関係ない。<魔獣>と<ナガイ>か 、<使徒>と<アカイ>とかか。



ともあれ、こうした統一化作業は、ファンや研究家たちには楽しい作業だが、クトゥルフがもっていた話の弾力性を失わせる。あらゆる矛楯を飲み込めるこの弾力性こそが、クトゥルフ「神話」の肝であり、それを失ってしまっては神話でなく、共通意志の元に書かれたアンソロジーとなってしまう。

固定化された統一見解から外れたモノは、パロディとなっていくしかない。そして、パロディとして成立するためには、常識として定着 させ固定化する必要がある。誰もが、お約束として分かっているからこそパロディとして成立するからだ。

そして、故意にパロディとして生み出すことは、固定化を強要、促進してしまう。それこそが<神殺し>と言えよう。生きた物語を、固定化された書物への封印したとも言える。

直接封印を施したのは、テーブルトークのルールであろう。石燕が目に見えぬ妖怪を視覚化して、封じたように、おそらくはサンディ・ピーターセンが封じてしまったのだと思う。妖怪は、目には見えぬが気配を感じ取れる存在であった。だが石燕の図説によって視覚化 され、人間が理解できる存在となった妖怪は、その存在感を失い絵の中に閉じこめられてしまった。RPG用に数値化された神話生物もまた、理解され 絵に記され、その存在感を失ってしまったと言える。

私にとって、小説としてのクトゥルフ神話は、下品なパロディの対象にされるほど、精彩を欠いた彫像…崩れかけの粘土細工になってしまった。見る人によって、自在に姿を変えた不思議な 神像は、ただの不格好な紙粘土細工になりはてててしまった。元々そうだったのか、だれかが扱いを謝ったのか。私には………何とも言えない

ゲームのダメな続編モノと同じく、捨てるべきモノと、守るべきモノの区別がつかない人々の起こした悲劇なんだろうか。かくいう私も、こうした怒号を上げている時点で、こだわっており、魔境にとらわれているわけだが。


ただまぁ、もう魅力は感じないなぁ…さよなら企画になんかしようかな。もしくは頑迷に固持しようかな、ダーレス見たく。私に、真の愛があるのならば後者だろうし、ただのミーハーなら前者をとるだろう………ダーレスのように直向きに愛すのは無理だなぁ………ダーレスのあの愛情と行動力は、驚嘆する。捏造はダメだけど。


表題に上げた俱胝の臨終の言葉は「指一本を使い続けたが、とうとう使い切れなかったぞ」だそうだ。信念と理解なくば、ただの猿まねに過ぎぬ。信念と理解あらば、全て が本物となる。HPLが、ダーレスがというのは、己の不足を他者に依存している証である。さらには、クトゥルフが、ネクロノミコンがと言うのは、野孤禅、生悟り以前の、ただの猿まね。詐欺師にも劣る、言葉の並べ立てに過ぎない。

信あらば指一本で支えられる。信なくば、寄せ集め、借り集めても、まだ足らぬともがく。もがく自分にも気がつかぬ。それどころか、 寄せ集め、かすめ取ったモノを、我がモノとして誇りさえする。

グラーキ、ダオロス、そしてハスター等の別の作家に生み出された神性が本物なのは、信念あらばこそ。逆に、クトゥルフが、ネクロノミコンがと、ただ単語を並び立てるモノに、本物がないのは、猿まねに過ぎないからだ。本物ぶろうと寄せ集めても、虚飾にすぎず、逆に嘘が際だつものだ。


心より心を得んと心得て心に迷う心なりけり  一遍上人



 


2012/11/13 初稿  2012/11/15 増補

 


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