恐怖の種類とその考察


クトゥルフのシナリオで、恐怖を演出するためには、恐怖を知らねばなりません。狂気についても同様です。狂気については『マッドウーマンの告白』の方で、軽く触れていますので、ご参照下さい。


◆恐怖の分類
第一類『肉体的恐怖』、第二類『精神的恐怖』、第三類『知識的恐怖』の三つに分類します。
すべては第三類『知識的恐怖』に集約され、それぞれが単独で存在しているワケではなく、複雑に絡み合い、相乗効果を発揮しているのですが、それはあとで述べます。


◆第一類『肉体的恐怖』
これらは、自分自身の「死」を連想させるものに起因した恐怖と言えます。高い場所が怖いのも、見知らぬ男に刃物を突きつけれて怖いのも、暴力団員に囲まれて怖いのも、そこから「痛み」ひいては「死」を連想されるからです。これらは、精神よりも、肉体の方が本能的に恐怖するものであり、生存欲に起因したモノです。

つまりは、スプラッター映画で血を吹き出すシーンや、惨殺シーンに恐怖するのも「死」を連想するからです。ジェットコースターや、(スポーツとしての)バンジージャンプなんかは、通常ならば死んでしまう様な、高いところからの落下体験を安全に提供しているワケです。擬似的な死を体験させている装置と言えます。

また、生存欲求と言う本能に起因した感情(恐怖)であるが為に、生理的嫌悪感も引き起こします。絶叫マシンを頑なに拒絶する人は「死」そのものに、生理的な嫌悪感を感じている人と言えます。

この第一類『肉体的恐怖』は最も再現しやすく、ほとんどのホラー映画や、いわゆる絶叫マシンの恐怖感は、この『肉体的恐怖』を安全に与えるための装置です。


◆第二類『精神的恐怖』
ここで言う『精神的恐怖』は『肉体的恐怖』と比較するための名称です。ここで分類する『精神的恐怖』とは、想像、連想する事で発生する自己完結的(当事者は怖いが、第三者には滑稽)な恐怖感です。

夜道で、木の影や電柱の影、なんかを化け物と見間違えてビックリしたことがあるでしょう。人が闇を怖がるのは「暗闇に何かいるかも知れない」と考えるからであり「夜の教室」が怖いのも、別の世界に迷い込んだような違和感を感じるからです。まぁ、突き詰めれば、暗闇から怪物が出たり、山賊が出たら、と死を連想しているから怖いのですが。

人類の最大の特徴である「想像力」がマイナス方向へ働いた場合に発生する恐怖感と言えるでしょう。

何かが居る「かも知れない」、「出るかも知れない」と言う予想、想像が働くがゆえの恐怖感で、お化け屋敷や映画でよく使われる恐怖感です。観客や入場者に「でるかも」「出そうな雰囲気」と気を持たせることで生じる恐怖です。肝試しなんてのもそうですね。

バラエティー番組で、当事者には内容の判らない箱へ手を入れさせて、その反応を楽しむ。と言う企画も、箱の中に何か凶悪なモノが入っているかも知れない。と言う想像力が怖がらせているワケです。そのため、想像力に乏しい人は、恐れることなく手を突っ込み、内容物を確認した時に恐怖する。と言うパターンも存在します。

ほとんどの心霊写真や心霊スポットなんかも、ここに分類されます。そう思ってみると、人の顔に見えるとか言う壁のシミとかですね。人間の認識力は、丸が三つあれば、人の顔と認識するように出来ているそうですし。ほら(∵)人の顔に見えるでしょう?

また、想像するためには、知識が必要です。なんの知識もない赤ん坊が、あらゆるモノを恐れないのと同様に、知識のないモノは恐れを知りません。反面、知識ばかりあるモノは、恐れおののき何一つ切り開けない。と言う事態を引き起こします。このことは、第三類に分類しても良かったのですが、想像力のきっかけとしての知識。と言う事でこちらに分類しました。

つまり、人は恐怖を克服するために知識を付け、知識を付けることでまた恐怖の対象を増やしていくという、無限連鎖の中に陥っていくのです。探索者がクトゥルフ神話の技能を得ることで、また新たな恐怖を知る。と言ったかんじでしょうか。



◆第三類『知識的恐怖』
知識的と言う銘打っていますが、実際は『未知への恐怖』、すなわち「知らない事への恐怖」です。

『死への恐怖』は、痛みや苦しみが伴う事も要因の一つですが、決定打ではないと考えます。宗教も、死後の世界について少しでも手掛かりを知るために発生したものです。『死』を怖がる第一の原因は、『死』について、何も知らないからです。死んだらどうなるのか、死んだらどこへ行くのか?、人類の発展は、死への恐怖を克服する課程で生じている。と言っても過言ではありません。

第一類『肉体的恐怖』で、血や殺人シーンが死を連想させるために、恐怖感を生む。と書きましたが、なぜ死を怖がるかというと、この第三類『知識的恐怖』につながるからです。また、第二類『精神的恐怖』も、「何か居るかも知れない」と想像することで恐怖する。と論じました。では、なぜ何かが居ると怖いかというと、「未知のモノ」かも知れないからであり、その未知のモノに襲われるかも知れない。襲われて危害を加えられるかも知れない。と言うことからではないでしょうか。

「死」と言う全世界の共通認識についてだけではなく、新しいテクノロジーを拒絶する人もまた、未知への恐怖にとらわれた人です。自分の理解の範疇、ひいては知識の範疇を越えたものに対する恐怖。と言うこともできます。

知らないこと、理解できないこと、自分に認識できない事象があると言う恐怖。と言う乱暴な定義付けが可能です。そのため、知的好奇心が旺盛だったり、慢心していない純粋な人には、まったくもって通用しない恐怖心だとも言えます。知識があり、慢心しやすいと言うと、学者や研究者に起こりやすい恐怖心です。

そのため、この恐怖心から逃れるために、意外なほどあっさりと、宗教に逃げてしまう知識人が多い事は、強制捜査をうけた某宗教団体の幹部に、そう言った知識者層が多かったことが証明しています。医学で患者を救えなかったり、科学で解明できないことに直面した事が、きっかけだったようです。

反面、神秘的な事象を全て拒絶する人もまた、恐れているからこそ拒絶する。と言えるでしょう。

また、この「知らない事への恐怖」は、民族主義をうみ、民族差別を引き起こします。自分たちとは違う、自分たちの知らない事を行っている。と言う恐怖から、虐殺を引き起こします。このことは、歴史に多数刻まれています。

第二類『精神的恐怖』とは逆に、「想像できないがゆえの恐怖」と言う定義付けが出来るでしょう。また、自分の信じていたモノ(信仰、知識、信念、力)が脆くも崩れ去ったときに起こる恐怖心も、ここに分類されます。牧山昌弘さんの言う通り、第二類『精神的恐怖』は、「知らない事から、知っていることに変わる恐怖」であり、第三類は「知っている恐怖から、知らない事への恐怖」と言えるでしょう。

人生において、変化を恐れるのも『未知への恐怖です』し、転勤、転職、転校でドキドキするのも、未知への恐怖と希望が入り混じっているからです。新しい世界への扉は、天国か地獄か、開けてみるまで判らない。そんな恐怖感と言えるでしょう。


補足:『喪失感』
恋愛モノで、よく言われるセリフに『貴方を失ってしまうことが怖いの』のたぐいがあります。また、お子さんをお持ちの方でしたら、子供を亡くしたときのことを考えると気が狂いそうになるくらい怖い。と言うのもあるかと思います。

もうお解りでしょうが、第二類『精神的恐怖』に分類されます。想像による恐怖だからです。子供や最愛の人の居ない自分を想像できない。つまり、第三類『未知の恐怖』である。とも言えます。



◆恐怖の実像
大きく三つにカテゴライズしたわけですが、実際は、これら三つの要因が単独で存在するワケではありません。補足の部分で書き記したように、恐怖を感じた場合、そこには二つないし三つの要因が複雑に絡みあっています。一概に、コレだ。とは言い切れないものなのです。

死体に対する恐怖感も、死そのものに対する恐怖や、血に対する嫌悪、そして犯人がそばにいるかも知れないと言う恐怖と縦横に絡み合っているのです。上記にあげた三つのカテゴリーは、恐怖という織物を解きほぐしたときに、最後まで残った三本の糸でしかないのです。


閑話休題◆恐怖からの防御法

◆一つ目は、見なかったことにしてしまう。と言う方法です。

つまり、記憶を消去したり、その事象そのものを認識することを拒絶したりするわけです。記憶のすり替えと言っても良いでしょう。死体を発見した人が異口同音に「マネキンかと思った」と言うのも、死体であると認識するのを拒絶したからです。

本当にマネキンだと思ったら、気にせず先へ進むはずです。わざわざ、ゴミ袋を開封したり、岸へ寄せたり、警察へ通報するのは、死体であることをどこかで認めながら、拒絶しているためだと思われます。もしかしたら、そうした第一発見者よりも、先に見つけたが、通り過ぎてしまった人が、多数いるかも知れません。

記憶を消す。と言う行為は、特殊な事象に関わらず、常に人間の脳では起こっています。忘却力と言われるモノですね。自己防衛のために、忌まわしい記憶を消去したにも関わらず、痕跡が焼き付いてしまった。と言うのが、トラウマと考えて良いでしょう。忌まわしい記憶との類似した情景、状態になると、焼き付いた痕跡に神経回路がふれ、フィードバックをおこすのが、PTSDと言うことでしょう。

◆二つ目は、狂気に陥ることです。

平たく言うと、記憶だけでなく、全人格をもって見なかったことに、現状を認識するのを放棄してしまう。と言うことです。クトゥルフにおいて、この状態を「一時的な狂気」と表記していることは、素晴らしい事です。この状態は、まさに一時的な狂気であって、真の狂気ではありません。

認識を放棄。と言ってもそれは狂気の種類だけ存在し、例えば、今ここで、こんな恐怖にさらされているのは自分じゃない。と別人格に全てを押しつけると多重人格ですし、自分自身ではなく、自分を取り巻く世界の方を変えてしまうと、分裂症です。外界からの接触を拒絶し、自分の殻に閉じこもると緊張症や痴呆症となります。

結局の処、逃避行動、防御反応として、狂気を演じているにすぎないので、記憶のフィードバック、いわゆるフラッシュバックに反応して、奇声を発して記憶から逃れようとしたり、暴れ回ることで忘れようとしているのでしょう。まるで、頭の中の忌まわしい記憶をかき消しているかのように。

一般的に『狂気』と言われるものは、この一時的狂気のことを指しているのです。真の狂気に陥った者は、ごく理性的に行動します。自分だけのルールと真理で。その辺のことは『マッドウーマンの告白』の感想の中で述べていますので、ご参考に。


閑話休題2 恐怖症とPTSD(心的外傷後ストレス障害)

非常にデリケートな話題ですが、私自身、誤解があったので、触れてみることにします。また、PTSDを誤解している人が、正しい認識を持つきっかけとなればと思います。

私自身、トラウマとPTSDを混同しており、手ひどい勘違いから、次の様な間違いをしでかしました。

『かなり以前のNHKの人間大学「トラウマの心理学」で、講演者の大学教授が、心神喪失状態とトラウマを混同していてビックリしたものです。…ただ、私はアマチュアどころか、素人ですので、トラウマと言う言葉の真意は違うのかも知れません…

日本映画のワンシーンを例に挙げていて「交通事故で一人息子を亡くした父親が、発作的に遮断機を乗り越えようとする」シーンを、トラウマに起因する行為として論じていたのですが…心神喪失か心身薄弱状態による判断力の低下。だと私は判断します。車道に出ている男性を見たとか、車を見て発作を起こすとかなら、トラウマなのですが…』

間違いが分かりますでしょうか?。以前は、この後さらに暴言を吐いていました。講演をされた教授には、大変申し訳ない気持ちで一杯です。無知ほど恐ろしいモノはないと実感しております。

さて、私の間違いは、次のように要約されます。
(トラウマは『心的外傷』のことで、それ自体は『精神疾患』ではなく、『心神喪失』は精神状態のことです。)

つまり、私は「トラウマとは、キー(原因物)となる事態を、追体験ないし、似たシュチュエーション下、もしくは、関連事物の見聞によって起こる各種症状の原因」と考えいた様です。手っ取り早く言うと、PTSD(心的外傷後ストレス障害)とトラウマを混同していたのです。

例に挙げられた父親は、PTSDだったのでしょう。離人・遊離感、鬱と言った症状から、発作的な自殺を遂げようとした。と解釈するのが妥当でしょうか?。

当初の私の解釈では「父親は、一時的な狂気(一度に正気度を5ポイント以上失った状態)が続いており、心神喪失状態である」と考えていたのですね。ワンシーンしか、紹介されなかったので、この解釈でも間違いとは言い切れません。

しかし、「トラウマ」と「原因物を見ることによって起こる症状」をセットにして考えるのは、間違いと言えるでしょう。

◆さて、ここからが本題です。

クトゥルフの呼び声のルールによる恐怖症は、不定の狂気に陥った際に発露する症状として設定されています。これはもう無条件にトラウマとPTSDの関係と見て良いでしょう。

正気度を20%失うことで、トラウマがきざまれ、正気度を失う原因に起因した恐怖症が発症ないし、後遺症として残る。と考えても良いでしょう。

しかし、ゲームの狂気(特に、恐怖症の説明文)は、ゲーム用にアレンジしてあり、ゲームではこうなっているからと、現実にもその認識を持ち込むのは大変危険ですし、病に苦しんでいる方に失礼です。注意しましょう。

恐怖症の説明では「逃げ出しましょう」とかで、締めくくっているモノが多いですが、現実の症状では、過呼吸や、動悸、異常な警戒心、空おう吐、酷いときは失神にまで至ります。

その場から逃げ出す。と言うのも、異常な不安感や、警戒心(私の経験では、臨戦態勢に近い状態になります)に、押しつぶされそうになり、走り出すのです。

地下鉄サリン事件の被害者の方には、地下鉄の入り口を見ただけで、気分が悪くなり、動悸や空おう吐(胃の痙攣ですね)を起こしたりするそうです。

ゲーム上の恐怖症は、単なるゲーム上の枷として扱つかったり(やたら武器を欲しがる探索者は、銃弾恐怖症にしてしまえ、とか)、酷い時は、オチとして使ったりしてますが、実際にはかなり深刻な障害です。

むろん、ゲームですから、プレイヤーが、狂気やPTSDに正しい認識をして、その上で、ゲームとして楽しむのならば、問題ありません。が、えてして、現実認識として持ち込みかねません。心というデリケートな問題ですから、正しい知識と認識を身につけたいモノです。

また、狂気だからと、毎回、奇声を上げ、よだれをたらすのでは、演出としても弱いと思います。そのうち、狂気についても、まとめたいですね。


演出としての恐怖

このことを書かなければ、ただのアマチュア心理学者の考察にすぎません。上記の分類ごとに、クトゥルフシナリオを含め、ホラーシナリオに使用する際の指標を考えていきたいと思います。

全体を通して、考慮しておかなければならないことは、恐怖と驚愕を混同してはいけない。と言うことです。怪談話をするときに、突然大声を出す。と言う小技がありますが、アレは驚きであって、恐怖ではありません。それと同様のことが、安易なお化け屋敷で行われています。暗がりや、物陰から飛び出したりする行為ですね。

そのため私は、実はお化け屋敷が苦手です。反射的に攻撃を仕掛けてしまいそうで…スタッフに怪我させたらたまりませんから。正直なところ、高校時代、飛び出したお化けに、反射的に構えてしまい、お化けの方が怖がってしまったという経験があります。

ですから、暗がりから怪物が飛び出すのは、ヒロイックなゲームに留めておきましょう。真・女神転生やゴーストハンター等です。クトゥルフでやると興ざめです。幽霊の正体見たり枯れ尾花。正体が判明するまでが、花なのです。逆に言えば、正体が分からなければ、どんなものでも怖いのです。

◆さて、第一類で恐怖を演出する場合、これは直接的な恐怖ですから、クトゥルフ以外のルールでもっとも適当なものは戦闘です。しかし、ここでは「演出としての恐怖」と言うお題目ですから、戦闘では演出になりませんし、しかもプレイヤーには実害がなく、負傷するのはキャラクターであるため、プレイヤーにとって戦闘は楽しみであっても恐怖とはなり得ません。

結局の処、血や死体による嫌悪感。と言うモノに頼ることになります。NPCが血塗れになって逃げてくる。と言うのもあるでしょうか。しかし、この第一類『肉体的恐怖』は、生存本能に基づく恐怖感ですから、想像力と空想で楽しむテーブルトークには、最も不向きな恐怖であると言えます。第二類への導火線として使うことが一番の得策でしょうか。


◆第二類は、もっともテーブルトークで有効な演出法となります。と言うよりも、コレを使わずして、恐怖は演出できません。想像で楽しむゲームですから、その分、浸透力も早いはずです。死体を出すことさえも、実際は、この屋敷(洞窟でも可)に強大な未知の怪物が居る。と言う連想を喚起させる小道具にすぎません。

そのため、最も有効な手段は『展開を予測させることで恐怖させる』と言うことになります。ホラー映画でもそうですね、観客は扉の向こうに何が居るのかを知っているから怖いのです。登場人物が扉を開けたらどうなるかを想像するためです。

シナリオ解決のためのヒントだけでなく、恐怖のタネをも蒔いておくべきです。

しかし、主人公の視点と、観客の視点が別にある映画と違い、探索者とプレイヤーは別個であるにもかかわらず、視点は同じでなければならない。と言うことが、テーブルトークでの第二類を使用しての演出を煩雑にしている原因です。

この為、プレイヤーが知らないフリをしてくれることが、不可欠と言う、プレイヤー頼みの演出になります。役者の演技に頼り切った演出家は有能とは言えないでしょうから、なるべく避けたいところですが、なかなか美味い手段は見つかりません。

プレイヤーの知識量も大きく影響します。わずかな痕跡から、プレイヤーにはどんな神話生物か判明しているモノの、探索者には判らないため、破滅的な行動をとる。と言うプレイヤーがいれば、完璧なのですが…なかなかそうはいきません。

私自身、上手く行ったと確信できるマスタリング(キーパリング)をしたことがないので、実例を挙げることは出来ません。申し訳ありません。


◆第三類は、最後のどんでん返し。シナリオ最大の謎で発生することにするのが、最もベターでしょうか。

牧山さん流に言うなら「知っている恐怖から知らない恐怖へ切り替える」瞬間です。崩壊するアイデンティティ。と言うのはHPLも小説でよく使っていた手法です。そもそも、グレートオールドワンは、キリスト教の世界観(ひいては西洋人のアイデンティティ)を破壊するために生まれたのですから。

そのため、クトゥルフの世界観をそのまま使用しても、キリスト教で道徳を学んでいない我々には、なんら恐怖を感じられないのです。ただのモンスター映画になってしまったり、ホラーファンタジーに陥ってしまうのです。

また選民思想の強い欧米人(白人種)は、とくにこの分野に対する恐怖心は強いですから。なんせ、たこ焼きの上で、踊る鰹節が怖いらしい…欧米では、削り節を食べる習慣はないでしょうから、未知の食べ物のハズ。知らないモノへの拒絶です。洋モノホラーが、あまり怖くないのもこうした観点の違いでしょう。アジア人の方が、ホラーを作るのは上手いかも知れません。

神に祈ってもどうにもならない事態を知っているアジア人の方が、より怖い恐怖を作れるはずです。

こうしたアイデンティティの崩壊は、世界観の崩壊と言う大きなモノではなくとも、信念や目的の崩壊。と言う小さなモノにも流用できます。私が良くやる手法ですが、独善で横暴な論理を振りかざしていたと思える敵キャラが、自分の子供のために敢えて罪を犯していたり、世界のためを思っての行為だったりと、単純には論破できない信念と覚悟で挑んでいた。とするものです。

まぁ、かなり手垢が付いていて目新しくありませんし、恐怖よりも、虚しさとか虚脱感のほうが強いかも知れません。ですが、小さいながらも、信念の崩壊や確信が崩れ去る瞬間であり、自分のした行為が正しいかどうか。と悩むのは、結構怖いものだと思います。


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