集団と合同プレイングの違い


近頃、本当に集団、共同プレイングが出来なくなってきています。

集団プレイングの参加者が、みな同じプレイングを書くことが、集団プレイングでしょうか?。
それこそ、ただの多数決の投票になってしまいます。

作戦目的を統一しておいて、多元的なアプローチで行動するからこそ、意義があるのではないか?。

一つの目標に対して、各プレイヤーが、自分の得意分野を活かして、プレイングをかける。
たったそれだけの事だ。
誰かの元で、思想統一された事を書き写すだけで面白いのか?。

しかしながら、同一目標でありながら、行動が不統一であったならば、ただの寄せ集めでしかありません。
そこがまた、難しいところなのですが。

「***の作戦に参加」とだけ書いて、あとはPCの心理描写に徹する人もいるそうで、これは合同、もしくは多数決投票プレイングの最たる例ではないでしょうか。

この作戦を成功させるために、自分に出来ることはなにか?。この作戦の結果、どう言った結果が得られ、また、得られるであろう結果をどう活かすか。それらは、個々のプレイヤー次第である。と思います。

例えば、「ある施設を襲撃する」と言う作戦の元に、参加者が集まったとしましょう。
ある人は、施設への到着を容易にするために、陽動をメインとしたプレイングを仕掛けます。
ある人は、施設に潜入後の行動をメインにプレイングをかけます。

施設の破壊に重点を置く人もいれば、研究員ないし情報の確保を重視する人、お宝(物品)の奪取に専心する人。色々居るでしょう。

さらには、退路の確保を主眼にする人もいるでしょうし、襲撃を正当化するために、情報操作や住民の煽動をする人もいるでしょう。

それ故、「施設の襲撃しか聞いてない」と不平を言うのは間違えています。施設の襲撃から、物語を広げる努力をして欲しいものです。「襲撃」だからと言って、直接乗り込むだけが襲撃ではありません。それ故の、戦術・戦略行動なのです。歴史を見ても、戦闘には勝ったが、戦争に負けた国・人物は山のようにいます。

襲撃を成功させるために、何をすべきか。何が出来るか。自分で考え、また多角的に物事を見る。と言うことは、一般生活でも重要なことでしょう?。特に社会人の人。

作戦目的を提示すれば、各人が、自分の得意分野を活かしたプレイングを行い、そして、それらのプレイングの統合、調整がうまいプレイヤーもいた。と言うのは、贅沢すぎる好条件だったのだろうか?。あの頃のメンバーが懐かしいなぁ…マスターはツライだろうけどね。つーか、その時の指揮官によると、マスターすら操っている状態だったそうだ(笑)。


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