◆基本理念◆
『過去を知ることで未来を予測する。それは人間にとって意味のないことではない』
−マクマホン教授「スプリガン(たかしげ宙/皆川亮二)小学館」
私のスタンスは表題の一言で語り尽くしているのですが…歴史学とは、過去から未来を学ぶための学問である。と思っています。過去の栄光、過去の愚行、それらを知ることで、偉人はどうやって成功したかを学び、独裁者は、どうしてそんな凶行を行うようになったかを知れば、愚行を防ぎ、偉業に変えることが出来る。
しかし、ほとんどの人は、歴史とは過去に耽溺する役立たずの学問であると言う認識を持っている気がする。やはりそれは、学生時代の歴史の授業は、暗記ベースの詰め込み教育で、発想や考察させることが無いからだと思う。他のサイトを巡ってみても、事例の紹介文に終始し、考察どころか、感想文にもなっていない物が多い。
考えることなく、歴史を紐解くならば、これほどつまらない学問はない。知識をひけらかすことに喜びを憶えている人ならばともかく。知識と知恵が異なるように、知っているだけでは、意味がない。
全ての学問が哲学的要素を含んでいるように、全ての学問は相互に補完しあっている。だから、一芸専従の学者の著書は面白くないことが多い。狭い世界に生きているが故、また先生と持ち上げられる故か、自己の論に絶対の自信をもって、独善的に語る。私の様に、軸となるものすらないのでは困るが、やはり、主と従は持っておくべきだ。
歴史について
私は、文献を信用しない。書に記されたことは、50%の真実と、50%の虚飾であると思っている。歴史での敗者に弁明の余地すらなく、歴史書は常に勝者によって記されてきた。敗者の歴史書は焚書、遺棄され、その痕跡を立たれる。
生き残った敗者が、残す手段は一つ。口伝である。勝者の観点と、敗者の観点を両方学び、そして自分なりに判断を付けて初めて、一つの論が生まれる。と思っている。
書物は疑ってかかる様にしている。この偏屈さは、乙女座の特徴かも知れない。知識がゼロの分野は、さすがにそのまま信用してしまうけれど、段々と知識を付けていくと、一番最初に読んだ書を盲信していた事に気が付くことも多々ある。
文献至上主義はキライだ。そもそも、欧米的価値観が至上とされているせいか、文字がない文明は、低俗とされている。東アジアでは、言霊の思想があり、正式な場で交わした言葉は、神聖なものであった。つまり、文字を持つ文化では、相手の言葉が信用できないから、その証拠を残すために作られたのである。それが上位文明の証なのだろうか。
だから、私の論も、疑って欲しい。鵜呑みにする事だけは、避けて欲しい。疑問があったら調べて欲しい。そのために、大学や市町村に図書館がある。インターネットもある。疑問、反論大歓迎だ。感情論でないならば。
神話について
私は、歴史書であり、その部族の道徳教本であり、科学の本であり、最古の小説だと思っている。
ほとんどの人は、絵空事で、古代人の奔放な想像力の賜物と思っているはずだ。だが、人間は知らないこと、見ていないことを書けはしない。ベースとなった出来事がなければ、その類型すら想像できないのだ。
インスピレーションと呼ばれるモノでさえ、ひらめいた瞬間というのは、ジグソーパズルの最後のワンピースをはめ終わり、全体像が浮かんできた瞬間に過ぎない。それまでに、各分野の知識や情報、体験などで、地道に組み立てているのだ。
霊感、ひらめきも同様で、知識の幅が狭い人間に、ひらめきが少ないのはそう言うことだ。一芸専従のガリ勉君に、頭の固いタイプが多いのも、同じ理由。空想力、想像力も同系列だ。空想に関しては、感受性や共感力といったモノも含まれるが…
そのため、どこかに原型となった事実が存在する。私はそう考えている。
神々の闘争は、部族(国家)の闘争であるし、ある神の隆盛は、ある部族の繁栄の論拠である。キリスト教で、魔王と呼ばれる存在が、他の民族の神々であることは、有名な話だ。
宗教として成立したならば、神格化した存在を作ることで、道徳、すなわち支配体型の簡便化を行う。神様の罰が当たる。と言うのが良い例だろう。神に選ばれた王に従わないと、罰が当たると言う具合だ。
古代人なりの疑問への解答が神話でもある。それには、哲学も含まれる。人はなぜ死ぬのか、人はなぜ生まれたのか、雷はなぜ起こるのか、日はなぜ沈み、また昇るのか。月と太陽が同時に出ないのはなぜか。それらの答えが神話だ。
対して、英雄神と呼ばれる存在が出てくるようになると、娯楽要素が強くなる。戦記物、軍記物に振り分けた方が良いモノさえある。ギリシア神話と呼ばれているモノのほとんどがココに分類されており、神話に対する曲解、誤解の原因となっている。イリアスやオデッセイアなど、モロに小説である。三国志演義並みに脚色、虚飾されていると思われる。
【戻る】