東西対抗の起源:弥生対縄文


日本人が、何かと東西対抗と銘を打ちたがるのは、縄文人と弥生人の対立に端を発しているのではないかという、トンデモな仮説です。

東西対抗の意識を読みとるためには、まずは天皇絶対主義に触れなくてはなりません。

◆埋め込まれた天皇絶対主義
戦時中、つまり日本帝国時代にもっもと顕著だった、天皇絶対主義ですが、いまだにその痕跡が強く残っています。端的に言うならば、皇族関係のニュース報道は、すべて過剰ともいえる敬語で報道されますが、特に規約があるわけでなく、各テレビ局が、自主規制で敬語を使用しているわけです。手術の際に、自己血を使うとか、輸血すると皇族の血が薄れるとか言う発想も、絶対主義の幻影ですな。

学術レベルでも、天皇絶対主義は根強く残っています。もっとも、端的なモノは、天皇が埋葬された古墳の再調査禁止です。大戦中に、軍部が、適当に各古墳に、名前を振り分けたため、実際に調査すると、全く別の天皇陵だったりします。本来ならば、再調査して確定させるべきなのですが、頑なに拒否されます。神聖で不可侵な存在という意識が残っているせいでしょう。

教科書に載るような、天皇陵でさえこのような感じです。さらに古史古伝と呼ばれる、記紀系以外の歴史書に対する処遇となると熾烈です。

戦時中の思想統一のため、天皇は唯一絶対の存在として脚色されました。いわく、アマテラスより血を絶やすことなく、続いている家系である。そして、天皇家は、日本創世の時より、日本の頂点に君臨し続けていると脚色したのですな。

その為、記紀系のみを真書とする結果となりました。もとより記紀系は、天孫系の人間が、支配の正当性を創り出すために編集創作したものと、私は思っていますので。

その為、反朝廷の色合いのあるモノは、偽書・国賊として槍玉に挙げられたのです。

古史古伝の中で、特に、反大和朝廷の色合いが濃いモノは、東日流外三郡誌と呼ばれるモノです。その為、三郡誌に関しては、執拗なほど偽書説が取りざたされました。親朝廷よりの古史古伝である、宮下文書や秀真伝などは、偽書として取りざたされることは、ほとんどありません。

私自身、三郡誌の内容、全てが真実とは思いません。ですが、全てが嘘とも思いません。古事記や日本書紀にだって、誇張や誤記は存在するはずです。ホメロスの著作が、マルコ・ポーロの東方見聞録が、三国志演義が、偽書と断罪されたことがあったでしょうか?。

古史古伝も、当時の反体制側の人間の思想や立場を知る貴重な資料のハズです。それなのに、その存在すら抹殺しようとするのは、天皇絶対主義者たちの過剰反応だからに他なりません。

そもそも竹内文書や外三郡誌が創作された偽書だ。と反対派は弾劾する(注:紛う事なき偽書だった模様。2〜3割は真実が含まれると期待したんだけど…いやまぁ、真実は含まれていたのだけど、それは他人様の論文の盗用で地名を差し替えただけだったという。詳しくはASIOSをご覧ください。 とはいえ、偽書だったからと言って、東北に大和朝廷と敵対する国家クラスの存在を否定する論拠にはならない)のだが、古事記も、稗田阿禮による創作ではない。という論拠は提示されないどころか、論議される事もない。古事記の成立自体が、統一王朝を成立させるための戦略である事は間違いなく、創作とまで言えないモノの、都合の良いものをつぎはぎしている事は疑いようがない。内容そのものも、すでにある結論に導くために、強引な論理展開や、整合を取る事を諦めた箇所も、見受けられます。 また、権威付けのために、豪族が自分の一族の先祖神とするモノを古事記の中に折り込んだ事例も少なからず判明しつつあります。

◆反朝廷に過剰反応する訳
直接的な理由は、戦時中に刷り込まれた天皇絶対主義と言う思想のせいですが、刷り込まれたのは戦時中だけでしょうか?。

大和朝廷が、日本人(原生日本人と言う意味で)によって作られたと思っている人は多いでしょう。

しかし、弥生人が、渡来人である。と言うことは既に確定しています。渡来人、すなわち、中国大陸や、朝鮮半島からの移民団です。そうしたことを考えても、大和朝廷は、渡来系によって作られた王朝である。と言うことは間違いなさそうです。また、渡来系の侵攻経路と、古事記に記された神武東征の経路が酷似しているのも知れた事実です。

NHKなどで、こうした古代史に触れるとき、渡来系人が、穏やかにやってきたように演出されるのですが、実際は、武力侵攻に等しく、ネイティヴアメリカンを追い払った、イギリス移民団のような感じでしょう。

縄文人が狩猟民だったことは確定しています。今の世界は農耕民が優勢であるせいか、狩猟生活は、農耕生活よりも、文化レベルが低いと認定されています。たしかに、道具や政治体制は、簡略であったかも知れません。しかし、狩猟民の生活は、小グループによる直接民主主義で、穏やかな母系社会であるのが一般的です。

蓄財する事がないので、盗賊や妬みに怯えることなく、貧富の差もない(全員が貧乏とも言えますが)穏やかな集団であったはずです。狩猟民の方が、文化レベルが低いというのは、幻想だと私は思います。

さて、狩猟民は、土地に対する所有権という考え方はまずありません。縄張りは存在したでしょうが。大地は、皆のモノ。と言う認識のところへ、農耕民が突然やってきて、柵を作り、ここは俺の土地だ。と言い始めたらならば、争いになってしかるべきでしょう。

また、農耕民は、農地を増やすために、森を切り開きます。狩猟民にとって森は大事なものですから、そこでも争いの種となります。

この争いは、古事記で、神武東征とナガスネヒコの戦いを読んでいただくとしましょう。脱線しますが、邪馬台国の畿内説と九州説ありますが、なんでどっちかに決めたがるんでしょうかね。失地とともに東へ移ったとしてもおかしくは無いはずです。私個人としては、九州の邪馬台国は、渡来系の人間が、名前を拝借したのだと思います。

縄文連合の長であったナガスネヒコを畿内から追い出した、神武は朝廷を作ります。その際に、支配を盤石とするためには、反乱分子をつみ取る必要があります。記紀を編纂することで、自分たちの正当性を主張したわけです。それと同時に、縄文の有力者の娘を后にするなど、融和政策も行っています。

しかし、完全に和解できた訳でないのは、歴史を見れば一目瞭然です。そのため、支配の基盤である天皇制に異を問えるモノは、早急に抹殺する必要があった。と言うわけです。

◆東西対立
拝仏派の台頭によって、朝廷内は、より中国大陸の色が濃くなります。拝仏派の台頭は、厳密に言えば、第二波の渡来人たちの台頭なのですが。

権力闘争に敗れた物部氏は、東北へ逃れます。西でなく、東へ。西は、渡来系の本拠地なので、当然と言えば当然ですが。さらに、東北地方は、制圧が完了するまで、朝廷の地図には記載されない外国だったことも事実です。

まつろわぬ者や、反朝廷の人間が登場するのも、東側から現れることが多いと言うのも事実です。逆に、幕末に、尊皇思想が定着したのが、西日本。と言うのも奇妙な符合と言えます。
幕府とはあまり上手く行ってなかった、伊達藩で、尊皇攘夷が定着してもおかしくは無いはずです。九州・長州と言う、縄文時代に、弥生人が上陸してきた土地で、尊皇攘夷が定着した。と言うのも面白い事実でしょう。 相馬小次郎将門皇も、関八州をもって朝廷からの独立を目指しました。今でも、祟り神、逆徒として言われているのも、明確な反朝廷、反皇族に起因するのかも知れません。さらに踏み込んで、トンデモな発想をすると、新撰組が人気が高いのは、その建前が「京都の治安維持」つまり、公家や皇族の側に立っていたと言う事かも知れず、赤穂浪士が褒め称えられるのも、幕府に一泡吹かせたからとか。まぁ、幕府に一矢報いたのが受けたのは事実ですが。

戦国から江戸時代にかけては、皇族が冷遇された時代です。東海地域と言うグレーゾーン出身の信長、家康と皇族を冷遇したことは面白い一致と言えましょう。縄文系の天皇を何人か排出したことがあるとは言え、江戸時代は、縄文人が完全勝利を収めた希有な時代だったのかも知れません。昨今、江戸エコロジー、循環型社会が注目されていますが、この循環型社会というのも、狩猟民たる縄文系だから成し得たことかも知れません。浪費社会と言うのは、蓄財が出来るからこそ浪費が出来るワケですから。華美な浪費社会であった平安時代が、農耕民たる弥生人の典型なのかも知れません。

そして幕府は、尊皇思想に破れる。それは、皇族、ひいては渡来系の復権と言えなくもありません。

何かにつけて、東西対抗と銘を打ちたがるのは、こうした遺恨が民族の集団意識に残っているせいかもしれないなぁ。と言うお話です。アメリカでは、東西対抗ではなく、南北対抗になりやすいのは、やはり南北戦争に原因があるからだろうと。日本の東西対抗の原因を探ってみたら、縄文対弥生なのではないかなぁと。

誤解無きように言っておきますが、私は別段、扇動する気はありません。現天皇制になんら不満はありません。まぁ、不満があるとすれば、皇族にではなく、宮内庁やらマスコミなど、やたらと神格視させようとしている人たちでしょうか。

ただ、日本人はずっと単一民族だった。とか、そう言う幻想は打破したいとは思ってます。この幻想もまた、支配体勢を固めるための策略でしょうね。



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