逆説の日本史の逆説
ピンキー、貴様も私と同じ考えか?
たぶん同じだと思うよ、ブレイン……でも、舌は二枚も要らないよね?
−ねずみのピンキーとブレイン『ピンキー&ブレイン』より
知人に勧められて。と言うか強引に押しつけられて読んだのだが、十数ページで、降参。馬鹿らしくて、読むに耐えない。何しろ、前書きをすぎて、数ページで論理矛盾が起こるのだから。
断っておくが、私が読んだのは、古代史編であって、中世や近世ではまともな事書いているかもしれない。著者の本領は、中世から近世にかけてなので、不得意分野を無理に出す必要があったのか疑問だ。
前書きで、学会の文献偏重を非難しているのだが、当の本人は、何かと松本清張の説を引き合いに出す。学会の定説に対抗すべく出しているのだろうけど、傍目からは、松本清張の説を盲信しているとしか見えない。お前に取っての「文献」は松本清張ではないのか?。と声を大にして言いたい。
さらに、邪馬台国論争、倭国についての記述なんて、呆れてしまう。
倭国の「わ」は、邑(ムラ)が輪になっている、自国の状態を表現したとか、中国との交渉で、私の国と言ったのを「倭国」と記載したとか、言う論を展開するのだ。
人間には、パーソナルスペース。つまり、支配エリアが存在する。国に制空権があるように、人間にも存在する。電車内での暴力事件の心理的原因にあげられるもの。端的に言うならば、男子用の小用トイレを一つ置きに使ってしまうのも、パーソナルスペースの例。
当然、パーソナルスペースは、自分を中心に円で形成される。人間が集合するときに、円。すなわち輪になるのは、当然のことなのだ。学校時代を思い出して欲しい。なんの指示もなく集合をかければ、円で集合するハズである。
だからこそ、平安京など升目に区切られた都市を計画都市と呼ぶ。自然発生的な村、街が、円になるのは自然の摂理なのだ。
そして、そんな邑が、日本。もしくは九州に二つしか無いなら、私の国。と言う弁は立つ。しかし、集落、部族に等しい邑である。少なくとも、10以上存在したはずであるし、私と貴方の代名詞が二つで足りるわけがない。トーテムや族長の名で呼称したはずである。
さらに、桶を浮かべたような、単底の船で、海を渡ろうとしたのである。しかも、朝貢と言う目的を持って。そんな人間たちが、言葉を伝わらないのに出かけるわけがない。これから、貿易でも始めようかとする会社が、その国の言葉を話せない人間を送り込むだろうか?。たとえば、アメリカの会社と提携を持ちかけるのに、まったく英語の分からない人間を派遣するのか。と言うこと。私の会社、貴方の会社、貿易しましょう。と言って信用するか。答えは、自明である。
帝国主義の時代の欧米並に、植民地化を企んでいたのなら判らないでもないが、朝貢、いわば挨拶回りである。自分たちが格下と認識しているはずだ。なにより、中華思想の国である。言葉の分からない蛮族が、王宮にアポイントも、紹介状もなく、言葉すら話せない集団が訪れたら、どうなるか。そう考えれば、私がバカらしいと言った理由が、分かっていただけると思う。
また、朝鮮半島を避け、中国本土を目指していた節がある。当時の澄んだ空気なら、福岡沖で漁をしていれば、朝鮮半島は見えたかもしれない。それだけ近いハズなのに、あえて避けているのである。意図的に中国本土を目指していた。と言えないだろうか。
そして、逆説の日本史の神髄とも言うべき事であるが「当時の常識であることは、記載されない」と言っているにもかかわらず、自分もその過ちを犯しているのである。
邪馬台国議論の中心。水行何日とか言う、中国側に旅の行程を示すところであるが、逆説の日本史の著者は、学会の説をそのまま、受け止めているのである。前書きで、ご大層に述べた「中日ドラゴンズ現象」は何だったのだ。
私は、いま定説となっている、水上、陸上移動距離に、異論を唱える。どうやって算出したのかも疑問だ。そもそも、水行三日。この三日とは?。日の出、日の入り時間は、現代とは明らかに異なるはずである。エジプトの天文学の本から、地軸が千年かそこらの周期で、ずれていることは確認されている。現代の日照時間で計算して良いのか?。
当時の認識として、空が白んだら日の出なのか、太陽が完全に登り切ったら日の出なのか。日の入りも同様である。それすらも分かっていない。それだけで、日の出、日の入り併せて、4,5時間の誤差がでる。それだけあれば、水上でも80キロは移動できよう。十日あれば、800キロの誤差である。
そもそも、「日」と言う移動距離単位が存在した可能性すらある。ぐらい言って欲しいものだ。
バイクより小型の乗り物で旅をした経験がある人なら、すぐに分かるだろうが、「ココに来るまで、どのくらい(何日)かかった?」と言われたら、迷って浪費した時間や、電車での移動なら、乗り継ぎをしくじったり、駅で迷った分も含めて答えるはずである。
初めて行く友人宅に、到着した際でも良い。「どのくらいかかった」と聞かれたら、迷って浪費した時間も含めて答えるハズである。
当時の船は、ガレー船ではない。まさに、船は帆まかせ、帆は風まかせ。凪いだときも、潮流に乗って、時を浪費したときもあるだろう。そして、距離が遠くなればなるほど、誇張したり、大げさに言いたくなるのが人間である。現代では、移動時間は短い方が尊ばれるが、当時は「こんな遠くから、わざわざやってきました。」と言うのが、尊ばれたのかもしれない。
金印の奴国は、楽浪郡経由で朝貢している。邪馬台国の一行も、朝鮮半島に近いところから、大陸入りしたのかもしれない。水上、陸上移動が入り交じっているのは、そのせいかもしれないし、途中無人島に乗り上げて、探索した時間が含まれているかも知れない。
逆説の日本史−古代史編−は、開始から数十ページも行かない間に、この体たらくである。読む気がしないのも、同意していただけるのでは無いだろうか。まぁ、学会の方も、ある地点から放射状に進んだと言う学説もふざけていると私は思いますがね…そこまで自説に固執すると、見苦しいと思ってしまいますが、私などは。どっこいなのかも知れませんけどね。
当然の事ながら、本を購入してないので、記憶を頼って書いているので、細部に間違いがあるかもしれない。が、大筋は間違えていないはずである。私にこの本を薦めた、知人を楽々論破しているので、大きな間違いはしていないと思います。また、一冊の本としては、放棄したモノの、邪馬台国がらみの、1テーマの論文としては読み切っているので、問題はないと思います。
まぁ、古代史は一つの発見で、全てが否定されてしまうので、難しい時代ではあるが。それでも、ひどい内容だ。
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