これは、小学校の高学年までは確実に起こっていました。このおかげで、子供の頃、迷子になって泣いたという記憶はほとんどありません。
家族とはぐれると、耳を澄ますのです。物理的、肉体的にではありません。精神的にです。意識を集中するとも言いますが。そうすると、声が聞こえるのです。耳からではありません。頭の中に、遠く幽かに響く声。私の名前を呼ぶ声です。どことなく聞き覚えのある声のする方へ、足を進めると、家族がいるのです。
家族は、私がはぐれたことにさえ気がついていませんので、別段、私を呼ぶどころか、なにか商品を真剣に選んでいるところだったりします。一度など、神戸に家族旅行に行った際、当時、小学六年だった私は、はぐれてしまいました。しかし、この内なる声に従ったところ、見事、合流できました。家族は会計をしていたので、私の名を呼び叫んでいるわけがありません。
この体験は、年を取るごとに、消えていきました。まぁ、当たり前と言えば、当たり前です。迷子にならなくなったのですから(笑)。人生の路頭には、迷っていますが。
さて、中学、高校になると、この能力は別の方向性を持ちます。大音量の音楽を聴くとか、ライブに行くとかでなくて、声に押しつぶされそうになったことがあるでしょうか?。中学、高校の頃、私は始終、その感覚に悩まされていました。
休憩時間ともなると、地獄でした。頭の中に、声が詰め込まれ、音の質量に押しつぶされそうになるのです。クラスメートの会話が、重油のように頭蓋骨の中にそそぎ込まれていくのです。馬鹿騒ぎしいるわけでもなく、ただ普通の声で話しているのに、あまつさえ、教室の端にいる私の耳元で、叫び続けているかのような感覚。
何十人もの声が、頭骨の中で乱反射し、残響を残していく。車やその他の喧噪も存在するはずなのに、クラスメートの声だけが、ねっとりと脳味噌にまとわりつく。本当に喋っているのか、誰も喋っていないのか、そもそも、耳から聞こえてくるのか、頭の中から聞こえてくるのか。まったくもって、分からなくなり、前後不覚になり、自分が立っているのか、座っているのかも分からなくなり、吐きそうになるほどでした。
そのせいか、未だに人混みが大の苦手で、雑踏の中に飲み込まれると、人のザワつく雑音声に感覚を失いそうになります。
この感覚は、ソロツーリングで、人知れぬ山奥の森で、一人野宿をしていくウチに沈静化して行きました。克服したのか、ただ年齢のため、消えてしまったのか未だに分かりませんが。
能力を分類するならば、エムパス(共感能力)とも言えるもので、看護婦や介護士なんかが、喋れない患者さんや、上手く伝えられない子供の言いたいことを的確に察知する能力に通じるものです。勘が良い。とか、やたら気が利く人。と言うのもそうでしょう。意図せず、相手の思考を、感じ取っているのですね。
意図して使えれば、使いこなせれば、便利でしょうけど、始終他人の気持ちが流れ込んでくるのは、ハッキリ言って不快です。まさに、気を使いすぎてつかれてしまうのです。遮断するのも、感じ取るのにもね。
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