WEEKLY INTERVIEW 再録
(毎週土曜or日曜更新)時々臨時休業
第21回 出典:「ライトミュージック」誌より
1973年11月号 と 1976年1月号
アルバム「扉の冬」と「MINAKO」発売直後の
インタビュー。古いものですけど、貴重なものです。
(提供:三浦豊樹さんより。ありがとう!!)
■1973年11月号■
トリオと言えば、ステレオのメーカーだけど、今度トリオレコード
という会社ができた。そこで若者のレーベル「ショーボート」の第
1弾としてファーストアルバム「扉の冬」(3A−1004)を発
表した吉田美奈子さん。
吉田(以下M)「五輪真弓さんのレコードはあまり聞いたことがありませんね。女の
人で自分の曲を自分で歌っているで好きな人と言ったら金延幸子さん(当時:
アメリカ クロータディー誌のジャーナリストと結婚。ビクター、URCから
レコードを出しているシンガー、ソングライター)くらい。曲が似てるのかな
。生活の中から出てくる歌を作っている点が似ていたし、昔から友達なので…
」
Q 「最近では、4年も音楽活動をしてきてソロレコードをださずにいるなんて、珍
らしいことじゃなかろうか?」
M 「別に、レコードを出す、出さないというより、ボクを表現するのに音楽しかな
いし、このレコード(「扉の冬」)はボクの記録でしかない。たとえレコード
を出さなかったとしても、ボクは歌を書いてゆくし。でも、ボクは自己中心的
な曲作りをするから、キツいんじゃないかな。淋しい時とか、悲しい時とか…
人間が避けたいというものを歌にしているから…。
Q 「彼女に言わせると、これは自分のアルバムじゃないという、どうして?キャラ
メルママの演奏が気に入らない?」
M 「キャラメルママは水準以上のグループだけど、今まで使ったことのないタイコ
とか、ボクの他にキーボードに松任谷(正隆)さんが入ったし、…なぜか自分
のアルバムだという気がしない。もちろん、キャラメルママがバックをやって
くれたので、音に広がりが出たんだけど…。細野晴臣さんや鈴木茂さんは昔か
らの知り合いだけど、そういうことじゃなくて、ボクとしては音と音の間に出
来る一瞬というものを大切にしたい。その瞬間に聞く人が自分なりの音を感じ
ると思うの。細野さんは理論家で、シンコペーションなどに気をつかうけど、
ボクの音楽は一瞬の間というか音の余韻だから…。だから、次にレコーディン
グする時は、ホールでやりたい。ライブじゃなくてお客さんを入れないで…、
アコスティックな音に戻りたい。ホールだと自然な反響があるから… 。
■1976年1月号■
コラム 「FREE TALK」より
吉田「ボクが変わった、なんてよく言われるけれど、そんなことないよ。前からずっ
と聴いててくれた人なら判ってくれるんじゃないの?ボクにはボクの好きな音
があるし、やりたい歌があってそれをひとつひとつやってるだけなのよね。人
間って、そう簡単に変われるものじゃないわ。この間のコンサート(註:19
75年12月末の中野サンプラザのライブか?)のこと?非常に疲れましたね
。ボクとしてはああいうのは大嫌い!コスチュームなんかのことも人からよく
言われるんだけど、純白のドレスのボクなんて自分でもサマにならない、と思
うよ。(1976年)1月に紀伊國屋ホールでコンサートをやることになって
いて今それで頭を痛めているの。信介(本多信介)の新しいグループがバッキ
ングやってくれてね、こっちのほうは楽しいんだけど、コンサートのライブが
ついこのあいだ終わったばかりで、もう次のレコーディング(註:「FLAP
PER」の)が始まるの。だからちょっとバテ気味。半年に3枚なんて多すぎ
るわねえ。レコードってのはコンサートで曲を歌い込んで、一番高まったとこ
ろで作るのが本当だと思うんだけど。
ボクの場合、ミュージシャン同士のつきあいを一番大切にしたいのね。だから
バックコーラスなんかも随分やってきたし、実際楽しかったし、ボクのために
なったしね。だからソロになったからってやってくれって頼まれたら、今だっ
てやりたいのね。感覚が全てだって考えは今も変わらないし、楽しければボク
はそれでいいんだから。
やっぱりボクはミュージシャンだから、現場で生きていくしかないと思うの。
アルバム「MINAKO」の売れ行きとボクの歌とは本当は何の関係もないは
ずなのよね。遅くとも着実に前進できれば、それで十分なんじゃないかな。」
〜 おしまい 〜
※次回は、またまた古いインタビューを再録します。