ボリビア史 その1

 

スクレとサンタクルスの時代  ベルスーとメルガレホの時代  太平洋戦争の惨敗  保守・自由党の対立  

チャコ戦争と敗北  ボリビア革命  軍事独裁の開始

 

独立以前のアルトペルー時代はペルー史に一括

1500 B.C  チリパ文明が始まる。およそ千年にわたり続く。

200 B.C  ティティカカ湖の南岸Akapanaにティワナク人(Tiwanaku)が最初の文明.

1200A.D ティワナク文明が消滅。その後アイマラ諸王国がラパス周辺とチチカカ湖南岸に展開.

1470 A.D. インカ帝国(ケチュア)のパチャクテク、トゥパク・インカ・ユパンキ皇帝がチチカカ湖周辺を征圧.アイマラ人地域はコジャスーヨ (Kollasuyo)と呼ばれる。アマゾン低地では半定住の生活様式を持つアラワク(Arawaku),トゥピ・グァラニー(Tupi-Guarani), チキート(Chiquito)などが孤立して生活。

 

1500年代

1535年5月 ピサロの盟友アルマグロ,アルトペルーに遠征.クスコを出発した後オルロ付近まで進み、要塞を建設。収穫なくクスコに戻る.

1538年11月 ティソ・ユパンギ将軍が率いるインカ軍、チチカカ湖周辺のコリャオ高原を舞台に抵抗を続ける。ゴンサロ・ピサロが率いるスペイン軍、ユパンギ軍を追いアルト・ペルー一帯に進出,首長アヤビリを降してチャルカスと名付ける.

1540年 チャルカスの谷にラ・プラタ市が建設される。(ラプラタはその後、チュキサカ、チャルカス、スクレと名を変える)

1545年 アルト・ペルー南部の砂漠地帯ポトシに銀山発見.セロ・リコ(Cerro Rico:豊かな山)と名づけられる。標高は4700メートル。その後の300年で20億ドル相当の銀を掘り出す。山麓に精錬工場が設置され、ペルーなど諸地域から多くのインディオが、強制労働(ミタ)させられることになる。

1548年7月16日 アロンソ・デ・メンドサ大尉,チュキアプに植民地ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラパス建設.ポトシの銀を太平洋岸の港へ運ぶ集積地として発展。

1555年 メディーナ,水銀による銀の抽出法(アマルガム法)を発明.メキシコで実用化.まもなくアルトペルーへも伝えられる。

1559.9 フェリーペ2世,アルト・ペルーのチュキサカ地方チャルカス(現スクレ)にアウディエンシアの設置を命ずる.行政範囲はチャルカスを中心として半径100リーグという大雑把なもの。実際の設立は61年の9月.このあと独立まで、現ボリビアの地域は「アルト・ペルー」(高地ペルー、上ペルー)と呼ばれる。

1561年9月7日 チュキサカ地方のチャルカス(現スクレ)にアウディエンシア成立.チチカカ湖以東の高地ペルー(アルト・ペルー)を管轄する。

1561年 Nuflo de Chavez、ブラジルからのポルトガル人バンデイラの来襲に備え、東部平原地帯のサンタクルス・デ・ラ・シエラに砦を建設。副王の命によりボリビア進出したアンドレス・マンソと支配権をめぐり抗争.しかしサンタクルス以東のグラン・チャコ平原は大部分が不毛で、チリグアノ族を中心とする先住民の抵抗も激しかったため、植民は進まなかった。

1563年 エンリケ・ガルセスとアマドール・デ・カブレーラ,ペルー南部高地のワンカベリカで水銀鉱山を発見.これにともないアマルガム法がポトシにも導入可能となる.

1568年 チュキサカのアウディエンシアの行政範囲、クスコからパラグアイにまで広がる広大なものとなる。

1572年 ポトシに水銀アマルガムによる精錬法が導入される.銀含有度の低い鉱石も利用可能となり,銀生産の飛躍的発展をもたらす.

1573年 セロリコを下った谷間にポトシの町が建設される。人口は十万を越え,西半球の最大の都市となる。スペイン人も4千人を数える.

74.2.07 トレド副王,ペルーの鉱山開発に関する包括的政令.織物工業においても先住民の強制労働を基礎とするオブラッヘ制が確立.

レパルティミエント制: エンコメンデロの保有する先住民をミネーロと呼ばれる鉱山主が借り受け,その労働により操業する制度。エンコメンデロは先住民を徴発するのに,インカ帝国時代に各村に使役を割り当てるのに用いられた制度ミタを利用した.年間1万3千人のミタ労働者を徴発し,銀採掘にあたらせる。これは当時の成人男子の7人に一人にあたる。ポトシは「地獄の入口」とよばれた。(エルネスト・マンデルによれば、1年間だけで8万1千人の先住民が命を落としたとされるが、これは眉唾)

1574年 スペインの王立造幣局、リマからポトシに移設.国王から「帝国都市」の称号を受け自治権を獲得.

74 ポトシのさらに南方にタリハの町が建設される.ボリビアからラプラタ地方への進出拠点となる。

75 副王トレド,チリグアノ族を討つためチャコ地方に遠征.

1582年 ラ・プラタ司教、ティティカカ湖岸コパカバーナに先住民が黒い聖処女を建立することを黙認。コパカバーナは伝統的なアイマラ族の宗教的センターであった。

1591年 この年,ポトシの銀山の人口が13万人に達する.17世紀には世界最大の都市のひとつとなる。

1600年

1602年 この年、ポトシの銀生産690万ペソのうち300万ペソが、アカプルコを通じてアジアに輸出される。

1606年 ポトシ北方のオルロにも銀鉱山が発見される。1630年までのあいだ銀ブームが起きる。

1611年 ポトシの人口16万人に達し,当時の世界最大都市の一つとなる.人口はセビリャ、マドリード、ローマ、パリをしのいでいた。

1623年 イエズス会、チュキサカにサンフランシスコ・ザビエル大学を設立。アルトペルー最初の大学となる。

1640年 ポトシ銀山,ほぼ枯渇.ヨーロッパに持ち出された銀の総量は2万5千トンにのぼり、当時のヨーロッパの銀の備蓄総量の3倍にあたる(エルネスト・マンデル)

1700年

30 アルトペルー(ボリビア)のコチャバンバで、メスティソのアレホ・カラタユーが指導する反乱が発生。一時オルロにも拡大。

1738 オルロの先住民指導者フアン・ペレス・デ・コルドバ,行政府の増税政策に反発して反乱を計画.ミタの廃止,クリオーリョとの連帯をうたう「暴政の弾劾文」をもとに各地で組織を開始.みずから「インカ王の孫」を名乗る.メスティーソ,先住民の多くが反乱に参加するが,密告により鎮圧される.

1776年 アルト・ペルーがペルー副王領からリオ・デ・ラ・プラタ副王領に転入される。経済や司法が、はるか彼方のブエノスアイレスに従属する。

1778年5月 ポトシ近郊チャヤパタのアロース代官,カシーケの地位をトマス・カタリ(Tomas Catari)より奪い,メスティソのドリア・ベルナールを代わりに任命.これに抗議するトマス・カタリを投獄.

78年 ブエノスアイレス港が正式に開港し、以降アルト・ペルーの海外貿易がブエノスアイレスを通じて行われるようになる。

1780年

6月 トマス・カタリ,代官アロースへの不服従運動を展開するいっぽう,彼の不正を訴えるためラプラタ(チュキサカ)のアウディエンシアに赴くが,とらえられ投獄.

8.26 アロース,カタリの釈放を嘆願した先住民指導者を射殺.先住民はアロースをとらえ監禁.カタリの釈放を実現する.カタリはチャヤパタ一帯の事実上の支配権を獲得.

11.04 クスコ近郊ティンタ地方のコンドルカンキを指導者とする農民,鉱山や織物工場での強制労働(ミタ,オブラヘ)の廃止を要求.横暴なコレヒドール,アントニオ・デ・アリアガをとらえ反乱開始.コンドルカンキはトゥパク・アマル二世(トゥパマル)を称する.その軍はトゥパマリスタと称せられる.

1781年

1.15 チャヤパタの新代官アクーニャ,カタリをとらえ処刑.トマスの弟ダマソ,ニコラスのカタリ兄弟は反撃を組織。代官の手兵を殺害.ダマソはさらに7千の先住民をひきい,チャルカス附近のプニーリャ山に陣を構え一連の暴動を起こす.

2月

2.10 オルーロの町でクリオージョの反乱.スペイン人を虐殺し町を占拠.一部先住民も闘いに参加する。ラプラタ政府は先住民の反乱を避けるためクリオージョの支配を追認.

2.13 ダマソ・カタリの軍,チュキサカへの攻撃開始.

2.17 チャルカスのアウディエンシア,レパルト廃止を宣言するいっぽう,軍団を組織.隊長にセゴビアが就任.カタリ軍討伐をおこなうが大敗.

2.20 クリオージョながらラプラタ副王ベルティスの信任あついイグナシオ・フローレス,セゴビアに代わりチャルカス軍の指導者となる.反撃作戦によりプニーリャ山を奪取.ダマソ・カタリはチャヤパタに逃れるが,裏切りにあい逮捕.

3月

3.01 シカシカで先住民の反乱.指導者のフリアン・アパサ(Julian Apaza)は、二人の名をとりトゥパク・カタリを名乗る.セグレーロはこれを鎮圧し住民多数を殺りく.

3.06 南部のトゥピサでクリオージョのラッソ・デラ・ベガのひきいる反乱.トゥパマルの名において支配すると宣言.代官を殺害.10日後にラッソが逮捕され計画破産.

3.13 トゥパク・カタリ,4万の兵を集め170日にわたるラパス包囲作戦開始.

3.19 スペイン人と手を結んだオルーロのクリオージョ,先住民を裏切り追放する.

4月

4.06 ペルーのトゥパマル軍,サンガララーで副王軍と決戦.トゥパマル軍は壊滅し,トゥパマルは捕えられ、クスコの広場で車裂きの刑に処せられる.残党はアルトペルーに逃れ、トゥパク・カタリの軍に合流.チチカカ湖西方に陣を張る。

7.01 チャルカスのアウディエンシアの議長イグナシオ・フローレス,みずから援軍をひきいてラパスに到着.トゥパク・カタリはいったん包囲をとき撤退.

8.04 フロレス,脱落者続出のため軍を維持できず.わずかの守備兵を残し撤退.トゥパク・カタリはただちに包囲を再開.

8.05 アンドレスの率いるトゥパク・アマルー軍,三ケ月のソラータ包囲作戦ののち勝利.一万の軍勢がトゥパク・カタリのラパス包囲軍に合流.

10.11 ラパス包囲軍,アンドレースの指示にしたがって洪水作戦を試みるも失敗.

10.17 レセギン中佐のひきいるブエノスアイレスのラプラタ副王軍,ラパスに到着.これを見た包囲軍は撤退,アンドレースはアサンガロに戻る.

11.03 アンドレース軍,副王の大赦例に応じ投降.トゥパク・カタリは投降を拒否し,アチャカチに逃れる.その後、部下の裏切りにより捕らえられ,車ざきに処せられる.この反乱による死者は先住民側10万人,スペイン側1万人といわれる.

1784年 新大陸で一連の行政改革。アルトペルーにはラパス、コチャバンバ、ポトシとチュキサカの4つのインテンデンシアが設けられる。

1800

スクレとサンタクルスの時代

1808 スペイン本国がフランスにより占領される。アウディエンシア議長のラモン・ガルシア・レオン・デ・ピサロは、フェルディナンドと中央評議会を支持するが、具体的な行動は起こさず。保守派は中央評議会を大衆的反乱の産物と見て、支持を拒否。いっぽうで現地クリオージョは急進化し独立を目指すようになる。

1809年

5.25 急進派のクリオージョ、中央評議会をも認めず、アルトペルーのスペインからの独立を訴える。チュキサカ(旧ラプラタ)街頭での示威行動はただちに官憲により弾圧される。

7.16 メスティソの軍人ペドロ・ドミンゴ・ムリリョ、ラパスで蜂起。クリオージョとメスティソを結集し政治委員会を結成。フェルディナントVII世の名において国家独立を宣言。コチャバンバ、オルロとポトシがムリージョの独立宣言に同調するが、チュキサカは動かず。

11月 リオ・デ・ラ・プラタ副王はアルトペルーに軍を送り反乱を鎮圧。ムリリョは処刑される.その後、独立派は地方で活動を続け、6ヶ所に支配区(republiquetas)を形成。

1810年 アルゼンチンが独立したことから、アルトペルーはペルー副王領の管轄に入る。ペルー副王アバスカルがアルトペルーを制圧。アルゼンチンは三次にわたり独立支援軍をおくるが,撃退される.

1811年 ラパスでマヌエル・カセレスが反乱。アバスカル副王の要請を受けたプマカワが反乱を鎮圧。

マテオ・ガルシア・プマカワ: メスティソでクスコ近郊チンチェーロの首長(クラカ)をつとめる。トゥパマルの反乱に際しては、スペイン側についた20人の首長の一人。クスコのアウディエンシア議長に任命されたが、クリオ-ジョたちにより罷免される。

1813年

6 ブエノスアイレス解放の英雄ベルグラノ,アルトペルーの独立運動を支援し,第2回の遠征に出発.

10.01 ベルグラノの遠征隊,ビルカプーギオのたたかいに敗れる.次いで11月にはアヨウーマでも惨敗,ラプラタ軍はほぼ崩壊する.

1814年

1 アルトペルー総司令官ペスエラのひきいる副王軍は,ラプラタ制圧を目指し,国境の町ツピサに司令部を置く.王党軍はフフイからサルタまで侵入.

2 ベルグラノ,アルバレス・アレナレス大佐をコチャバンバの総督兼司令官に,イグナシオ・ワルネスをサンタクルス・デラ・シェラの総督に任命.抵抗継続を命じる.この頃欧州から戻ったサンマルチンが,ベルグラノの副官として就任.

4 ペスエラ,アレナレス=ワルネスの部隊を撃滅させるべくブランコ将軍の部隊をサンタクルスに派遣.ブランコ軍はサンタクルスを占拠.さらにコチャバンバに向け追撃.

5.24 フロリーダに陣を構えたコチャバンバ司令官アレナレス,ブランコ軍を迎え撃ち,これを殲滅する.副王軍はサンタクルス,およびサルタから撤退.

1815年

11.29 独立派の蜂起.アルゼンチンから支援に来たロンデウ指揮下の遠征軍と合流.副王アバスカルの軍とチュキバンバを中心に戦闘状態となる.独立派はシペシペで惨敗を喫し壊滅,指導者は全員処刑される.

15年末 アバスカルは副王を退任.後任にアルトペルーの英雄と呼ばれるペスエラ将軍が就任.ラセルナがアルトペルー総司令官に就任.

16年  トゥクマンの議会により、リオ・デ・ラ・プラタ連合州が独立を宣言する。議会にはアルト・ペルーの代表者も出席した。

1820年 ラセルナに代わり、チャルカス生まれのクリオージョであるペドロ・アントニオ・デ・オラニェータ将軍がアルトペルー総司令官に就任.

20年 スペイン本国に自由主義革命成立。オラニェータはフェルディナンドに忠誠を誓い、本国政府の支配を拒否。同時にボリーバルの独立運動に加わることも拒否。クリオージョ保守派はオラニェータを支える。

23年4月 再び独立戦争始まる。リマの独立政府、サンタクルス将軍にアリカから高原地帯を攻撃するよう指示.サンタクルスの軍はチチカカ湖畔での戦闘でラセルナ軍に惨敗,リマに敗走.

24年12月9日 アヤクーチョの戦い。副王ホセ・デ・ラ・セルナの率いる王党派軍は壊滅。残党はアルトペルーに逃げ込む。

 

1825年 アルトペルーの独立とボリビア建国

1.05 アルト・ペルーの独立派,ラ・パスでスペインからの独立を宣言.

3 クスコを追われた王党派,アルトペルーに逃げ込み、オラニェータ将軍を司令官とし抵抗を続ける.

4.01 進攻してきたスクレ軍とオラニェータ軍,ツムスラで決戦.オラニェータ軍は敗れ壊走。オラニェータは身内の手にかかり殺害される.スペイン軍は最終的に放逐される.

5 スクレはチュキサカに会議を招集し,将来の帰属を問う.代議員のほとんどはアルゼンチンあるいはペルーへの編入を拒否し独立国家となることを希望.

5.25 ボリーバル,スクレに対しボリビア共和国の承認を通知.

8.06 チュキサカでアルト・ペルー議会開催.チャルカスのアウディエンシア領を受け継ぎ,アルトペルー共和国として独立することを宣言.オラニェータ派は排除される.

8.08 ボリーバル,ラパスに入城.およそ5カ月にわたり滞在,この間に多くの布告を発する.全市民の平等,貢租制の廃止と「直接税」への変更,土地のインディオへの解放,教会の政治干渉の排除などを布告.

8.11 議会,アルト・ペルーの独立保障をボリーバルに求めると同時に,国名をボリビア共和国とすることを決議.ボリーバルを初代大統領に推戴。ボリーバルはペルーにボリビアの独立承認を求める.

1826年

1 ボリーバル,ペルーがボリビア独立を承認すると保障したあと,スクレを摂政として残しラパスを発つ.サンタクルス,正式独立までの短期間ペルー大統領となる.

5 立憲議会総会,スクレを終身大統領に選出.ボリーバルとスクレの布告を採り入れた憲法公布.インディオの労力徴発禁止,教育の世俗化など,リベラルな政策を打出す.ボリビア領内の教会資産を没収,多くの修道院を閉鎖に追い込む.

8 アルト・ペルー,ボリビア共和国として独立.チュキサカを首都と定めスクレ市と改名.保守系のクリオージョは植民地時代の秩序が破壊されるのを見て反スクレの傾向を強める.地方ではベネズエラ人の支配を非難する動き.

1827年

27年初め ボリーバル,リマからボゴタに去る.ボリーバルの後のペルー大統領にホセ・デ・ラ・マル(Jose de la Mar)が就任。

4月 ホセ・デ・ラ・マル、反ボリーバルの立場を明確に打ちだす.ボリビアにたいし独立を認めず干渉開始.オラニェータを先頭とするボリビアの保守派はペルーと内通。スクレ打倒を計画.

1828年

4.18 ペルー軍5千人、チュキサカの武装反乱を口実にボリビアに侵入。クスコ出身の保守派軍人アグスティン・ガマラ(Gamarra)将軍が率いる.

5.28 ガマラ軍はいったんラパスを占領するが、スクレ軍に打ち破られ撤退する.

9月 オラニェータを先頭とする保守派は,ペルーと内通しスクレ暗殺を計画.計画は失敗に終わるが,スクレは国内の保守派が関係していることを知り,「事態の解決は不可能」としベネズエラに戻る.

1829年

5.24 スクレ出国後,何人かの大統領が入れ替わるが,最終的に自由主義独立派の勝利.ボリーバルの推挙を受けたサンタクルスが第6代大統領に就任.強権をもって経済を建てなおす.

アンドレ・デ・サンタクルス・イ・カラウマナ(Calahumana): ボリビア生まれのメスティソで,インカ帝国の後継者を自称し、ボリーバル軍の一員として輝かしい武勲を誇る.スクレの方針を踏襲し10年間にわたり国内強化に努める.また財政危機克服のため通貨切り下げを行い,綿布製造業のための保護関税を設定.鉱山税を抑え生産量増大を図る.コビハの港を開く.さらにラテンアメリカ諸国で最初となる商法,民法を制定.ラパスにサンアンドレス大学を創設する.いっぽうで5千~1万からなる正規軍を編成.士官学校を創設するなど武装強化に努める.民主的な憲法を頂きつつも,実際上は開明的独裁者として君臨.

29 サンタクルス,ガマラとの会談でペルーとボリビアの分離が誤りであるという認識で一致。しかしガマラがペルーへの併合を主張したのに対し、サンタクルスはボリビアの大幅な自治を主張。

1830年

35 ペルーのガマラ将軍,オルベゴーソ自由党政府を打倒し自ら政権につく.ペルーは内戦状態に移行.オルベゴーソはボリビアに亡命。ガマラはふたたびボリビア侵入の構え.

 

1836年 ペルー=ボリビア連合

6 ボリーバルの理想を再現しようとしたサンタクルス,ペルー内戦に介入し幾多の闘いで勝利をおさめる.ガマラ将軍はチリに亡命.サンタクルスは自ら「保護者」の位置に納まる.ペルーを南北二つの独立した州に分け,ボリビアと併せペルー=ボリビア連合を結成.首都を南ペルー共和国のタクナに置く。

10 チリの保守党政府,ガマラ将軍らのペルー亡命政府をうけいれサンタクルスに対し宣戦布告.アルゼンチンもこの連合に対し宣戦布告.

37年 パウカルパタ(Paucarpata)の戦い。ペルー・ボリビア連合が、チリとペルー反乱軍の連合部隊を撃破。同じ戦場で和平協定を結ぶ。その後サンタクルスは、アルゼンチン軍の駆逐にも成功。

38 チリ議会、パウカルパタ協定の受け入れを拒否。ふたたびペルー・ボリビア連合との戦いを開始。サンタクルスはチリとの闘いに苦戦.

1839年

1.30 Manuel Bulnes将軍の率いるチリ遠征軍がペルーに侵入。

2.17 リマの北方アンカシュ州ジュンガイ(Yungai)の闘い。サンタクルス軍はチリ軍に敗れる.ツクマンのアルゼンチン軍もボリビア入りし,勝利を収める.

2.20 ペルー=ボリビア連合崩壊.サンタクルスは失脚しエクアドルへ亡命.ホセ・ミゲル・デ・ベラスコ・フランコ将軍が政権につく.ベラスコは28,29年にも一時政権についた経験を持つ.ベラスコはサンタクルス派残党との抗争を調停しようと試みる.

39年 ボリビア,三つの政府が鼎立するなど混乱.ボリビア軍は大幅に縮小され、私兵集団が互いに抗争する.このあと40年にわたりボリビアは政治的昏迷と経済的困難の中におかれることとなる.

1841年

6.10 ボリビア併合をねらうペルーのガマラは5千4百名の兵を率い侵入.ベラスコ,ガマラの攻撃を撃退出来ず辞任.

9.27 サンタ・クルス派のホセ・バジビアン・イ・セグローラ(Ballivian)将軍が大統領となり、反撃体制を組織。

11.18 バジビアンが率いるボリビア軍4千百名が,ラパス郊外インガビ(Ingavi)にガマラ軍を迎え撃ち,撃破する.ガマラ将軍は闘いに敗れ戦死.これ以降,ペルーによるボリビア統合の企ては終焉.

 

ベルスーとメルガレホの時代

42 バジビアン大統領がボリビアを支配.47年まで比較的平穏な時代を迎える.自由貿易政策を採り,輸出用作物の振興を図る.国庫財政のほとんどは地方のインディオから.

46 国勢調査によれば,90%近くの国民は地方に住み続け,農業には革新的変化は起こらず.チンチョーナの茎(キニーネの原料)とコカの葉が唯一の輸出用作物.

47.12.23 マヌエル・イシドロ・ベルスー・イ・ヒメネス少佐、バジビアンに対し反乱。バジビアンは、政権維持を断念し、国外逃亡。これに代わりEusebio Guilarte将軍が政権を担当。老ベラスコが4度目の大統領となるが、そのまま内戦に移行.(反乱の理由はバジビアンがベルスーの妻に手出ししたためとされる)

48.12 マヌエル・イシドロ・ベルスーが,内戦に勝利しボリビア大統領に就任.これまでの支配者と異なり,ベルスーは下層階級(チョロ)の出自で,手工業者や先住民など下層階級の支持を受け鉱山主や大商人,大地主に対抗.地主の土地を没収,さらに農民による土地占拠を奨励してエヒードの復活を試みる.インディオには「タタ」と呼ばれ敬愛された.彼はアンデスにおけるポプリスモの元祖とみなされている.

1850年

50 ベルスー,都市手工業者の支持を得ようとして自由貿易政策を転換,外国人商人のボリビアにおける活動を抑え,輸入制限策を採る.英国の憤激を呼ぶ.任期中刑法,民法,軍法,鉱山法を制定.近代国家の確立に力を注ぐ.アルセ,パチェコ,アラマヨなどの鉱業寡頭勢力が台頭,貿易自由化に向け圧力をかける.

55.8.15 ベルスー,42回(30回?)にわたる軍事反乱を切り抜け,義理の息子ホルヘ・コルドバ将軍に政権を委譲し辞任,その後欧州大使として赴任.

57.9.09 反ベルスー派の首領で保守派エリートのホセ・マリア・リナレス・リサラス,ホルヘ・コルドバを放逐しボリビア初の文民大統領となる.自由貿易主義に復帰しチリ,英国など外国の投資を奨励.一方インディオへの税を厳しくしたことからコパカバーナの農民一揆が発生.

57年 太平洋沿岸部のリトラル県(アントファガスタ)で最初の硝石鉱山が発見される。リナレスは,鉱山主を背景とする寡頭制支配を確立.蒸気エンジンの導入など技術的進歩と相まって鉱山の生産は増大する.

1860年

61.1.14 軍部によるクーデター.リナレス政権崩壊.ホセ・マリア・アチャ・バリエンテ将軍の暴政が開始.アチェはラパス軍司令官プラシド・イェペス大佐に命じホルヘ・コルドバをふくむベルスー支持者71人を虐殺.「イェペスの殺人」として知られる.

64.12.28 マリアーノ・メルガレホ・バレンシア将軍が大統領となる.メルガレホ,農地の生産性向上を口実にインディオ共有地への残虐な襲撃を開始.彼は60日以内に税を払えばインディオも土地所有者になれるという口実で法外な税額を設定.税が納入されなかった土地をすべて競売に付す.土地のほとんどは大土地所有者のものとなり,農民の抵抗はますます暴力的なものとなる.

1865年

2 ベルスー,帰国し反乱に成功.ふたたび大統領に就任.(就任目前に暗殺されたという説もある)

3.27 ベルスー,メルガレホ前大統領らにより官邸を襲われ殺害される.無能でアル中で腐敗したメルガレホはボリビア史上もっとも悪名高い支配者となる.

66 ボリビアとチリのあいだに国境協定.南緯24度を国境線とし,23~25度のあいだの資源を両国で折半することで合意.

67 アタカマ砂漠の真中,アントファガスタのメヒリョネスに巨大な硝石鉱が発見される.

67 ブラジルと条約.メルガレホは大西洋への水路を確保するため国土の10万平方キロをブラジルに割譲.国内でメルガレホ打倒のための陰謀があいつぐ.

69 チチカカ湖岸のウアイチュ族,共有地の回復の反乱を起こす.メルガレホ大統領は軍を送リ,住民を大虐殺.

1870年

70 アントファガスタのカラコレスに銀山発見.爆薬の原料,硝石の世界的需要高まる.ボリビア領のアントファガスタ,ペルーのタラパカなどにチリ資本の進出ラッシュ.チリ人が大挙して押しかけたため,太平洋戦争開始の時点でアントファガスタの人口の85%をチリ人が占め,生産のほぼ全てを支配する.

70 コロコロの銅山採掘開始.

71.1.15 アグスティン・モラレス・エルナンデス,メルガレホ政権を打倒.メルガレホはまもなく亡命先のリマで暗殺される.モラレスは「もっと自由を,もっと小さな政府を」という公約に反し,メルガレホの統治スタイルを踏襲.

72.11.27 モラレスに代わりトマス・フリアス(Tomas Frias Ametller)が大統領に就任。実権は依然モラレスが握る。

73.2 ペルーとボリビア,チリに対する鉱山資源防衛を内容とする秘密同盟条約を締結.ペルーは自国内イキケのチリ硝石会社を接収,自ら開発に乗り出す.

73 モラレス,暗殺される.犯人は彼の甥.

74.8 ボリビアとチリ,国境を南緯24度で確定することで合意.アントファガスタのチリ・英会社に対する輸出税を今後25年間凍結することで合意.

74 ボリビア,太平洋岸にモジェンド港を開設.アンデス越えの鉄道とティティカカ湖の水路を経由することにより,ボリビアの鉱山が世界に向け開かれる.

76.05.04 メルガレホの支援を受けて軍幹部となったイラリオン・ダサ・グロセジェ(Hilarion Daza Groselle)将軍,クーデターによりフリアス政権を打倒。

5.14 ダサが自ら権力を掌握.多くの反乱,スクレの手工業者によるデモなどを鎮圧し,メルガレホに劣らない独裁政治を展開.

 

太平洋戦争と惨敗

78.12 ボリビア政府,財政難を克服するため、チリ・英会社の硝石輸出に対しあらたな課税を通告.チリは74年協定違反として抗議.ダサはこの国際緊張を利用して,民族主義の高揚を図り,国内における地位を強化しようとはかる.

1879年

2.24 チリは軍を派遣して圧力.ボリビア,増税の撤回を拒否.硝石の輸出を禁止,経営者を逮捕して硝石会社を接収.これに抗議するチリは,戦艦をコビハに派遣,アントファガスタに5千の兵を出動させ占領.

3.01 ペルーと同盟したボリビア,チリに対し宣戦布告.しかし沿岸部のボリビア軍はあっけなく敗退.軍事同盟の取り決めに基づきペルーの援助を求める.

3.23 カラマでロア川を挟んで両軍が対決。トパーテル橋の戦いにおいて、エドアルド・アバロアが戦死。以後アバロアはボリビアの国民的英雄となる。62年には3月23日が「海の記念日」と定められた。

4.05 ペルー,ニコラス・デ・ピエロラ新大統領のもと,秘密同盟にもとづき参戦.チリもペルーとボリビア両国に対し宣戦布告.4年間にわたる「太平洋戦争」起こる.

12.28 ダサは国民の反抗により辞任,国家資産を持ち逃げしてフランスに逃げる.このあとダサに代わったナルシソ・カンペロ・レジェス将軍が戦闘を引き継ぐ。

1880年

5.26 タクナの闘い.カンペロ将軍の指揮するボリビア軍は5千が戦死し惨敗.ボリビア海軍はなすことなく,海岸部の4つの基地を失う.太平洋戦争敗北の後,腐敗した軍人政権に対する批判強まる.カンペロは,古参の将軍連を放逐し軍の近代化に乗り出す.

10.28 カンペロ、新憲法を公布。中央集権にもとづく共和主義政治をうたう。

83.10 ペルーもチリに降伏.アンコン条約締結.チリは戦いに勝利してアントファガスタの完全領有に成功,さらにペルーからタラパカをも獲得し硝石資源を独占.しかし,実権は戦費を供給したイギリス資本の手に

1884年

4.04 バルパライソで,チリとボリビアのあいだに休戦協定.チリのアントファガスタ(リトラル県)領有で合意.ボリビアは15万平方キロの領土と海への出口を失う.

5  銀鉱山の所有者が国内最大の経済グループとなる。最大の鉱山主アニセト・アルセと第2の鉱山主グレゴリオ・パチェコ・レジェスが中心となり保守党を創設.チリとの早期和平を実現し,失った領土への補償金を獲得.これによる資金で鉱石輸出のための鉄道を作る政策を主張.また鉱山産業のチリと英国による支配を非難し米国との関係強化を訴える.

9.04 カンペロの下で自由選挙実施.保守党のパチェコが大統領となり国家再建政策を推進.自由党は保守党の政策を敗北主義を批判するが,国内政治は比較的安定期を迎える.

保守党時代: 銀国際価格は高値を維持.銅,鉛,亜鉛,錫などの生産も増大し,相対的繁栄の時代を迎える.インディオ共有地を破壊しながらアシエンダが拡張され,これに抗議する数多くの反乱.この結果多くのインディオが大地主の下で働くか,都市にさまよい出るかを余儀なくされる.

84年 大西洋戦争の英雄の一人ホセ・マヌエル・パンド・ソラレス、エリオドロ・カマチョに代わり自由党の指導者となる。武力闘争をふくむ激しい反寡占闘争を展開。ただし政治に参加したのはスペイン語を読み書きできる少数のみ.

 

保守・自由党の対立

88.8.15 大統領選挙.保守党のアントニオ・アルセが大統領に就任.不正操作に怒った自由党が反乱を起こすが敗北.アルセは反対派に弾圧を加え,強権的政治を展開.自由党は議会への参加は許されるが,大統領選での勝利の道は閉ざされる.

88 ブラジル東北部に激しい旱魃.農民は南部やアマゾン諸州に大量流出.一部はボリビア領アクレ州に侵入.

89年 アクレに入植したブラジル人ゴム労働者の反乱によりブラジルと紛争が発生(アクレ紛争)。

1890年

94.2.27 ボリビアに戻ったダサ元大統領、Uyuniの駅で殺される。

95 オルロとラパスとを結ぶ鉄道開通.錫産業の価値が高まる.

97 斜陽の銀鉱山と新興の錫鉱山資本家の衝突.ポトシやスクレの保守党と結託した銀山資本家に対し,パティーニョ,ホッチル(ホッホシルト),アラマヨの三大錫鉱山主はラパスの自由党と組んで反抗.ロスカと呼ばれる政治・経済支配層を構築.地域主義を掲げ連邦制度への移行を主張する.

三大錫財閥: シモン・パティーニョ は,もっとも成功した錫王である.貧しいメスティソ出身の彼は鉱山事務所で見習いとして働きはじめ,副業として金融業をはじめた。借金のカタにとった古い錫鉱山が大当たりし、錫王にのし上がった。24年までに国内生産の5割を保有し,ヨーロッパにおける錫精錬業も支配するに至った.上流階級から疎んぜられたパティーニョは、後半生を駐西・駐仏大使としてヨーロッパで送ったが,もう二人の錫王カルロス・アラマヨとマウリシオ・ホッホシルトはボリビア国内で生活.

99 自由党,首都をスクレから,より産業の発達したラパスへ移すよう要求.これを保守党が拒否したことから紛争となる.内戦の末,ラパスの自由主義者がバリヤの決戦(一説にオルロ県での第二次クルセーロ決戦)に勝利.「連邦革命」と呼ばれる.

99.10.25 自由党軍が全権を掌握。ラパスにホセ・マヌエル・パンドを首班とする臨時評議会を創設。スクレには名目上の首都の名称と最高裁判所のみが残される。ただちに、ともに戦ったラパス・オルロ地方農民の反乱を弾圧。パブロ・サパテ・ウィルカなど指導者を処刑。

99.9 ペルー日本人移民の一部(91名)がリベラルタやトリニダのゴム園に就労.厳しい労働と食料不十分のため,マラリヤや脚気に掛かるものが続出し,まもなくほとんどがペルーへ引き揚げる.

 

1900年

00年 自由党のイニシアチブで議会が開催され、ホセ・マヌエル・パンドが大統領に就任。開放経済体制を推し進め,錫の生産を振興.錫財閥による経済支配体制が確立.農民たちは生活改善を約束した自由党を支持したが、約束は守られず,農村は収奪に任された.

00 ブラジルの好戦主義者が遠征団を組織,ボリビア領アクレ州に侵入.米国の支援を受けたボリビア軍により撃退される.政府,議会などスクレからラパスに移転.スクレは法律上のみ首都として残る.

02 アクレ州でブラジル人ゴム採集者の反乱.ジョゼ・プラシド・ジ・カストロ,ボリビア軍をアクレ州より駆逐し独立を宣言.

03.11.17 ペトロポリス条約締結.ボリビアはマデイラ川とパラグアイ川流域の二つの地域,合計5千平方キロと引き替えにアクレ州20万平方キロを割譲.

1904年

8.14 自由党のイスマエル・モンテス・ガンボア,大統領に就任.13年からふたたび大統領に就任するなど,20世紀初頭のボリビア政治を支配.パンドはモンテスの施政方針に反発。

10.20 ボリビア,敗戦から24年ぶりにチリとの和平協定に調印.チリがアリカとラパスのあいだに建設する鉄道の利用権と引き替えに海岸部の領土を割譲.

04年 アクレ州独立の立役者カストロは暗殺され,アクレ州はブラジルの帰属下に.

05 ヨーロッパにおける錫生産の減少と相まって,錫ブームが起こる.オルロ南方およびポトシ北方であいついで大規模な錫鉱山の開発.集散地としてのラパスの経済力はポトシを圧倒するようになる.

07 「夕陽に向かって走れ」で知られるブッチ・キャシディとサンダンス・キッド、アルゼンチンで銀行強盗を働く。一時、パタゴニアの牧場にこもったが、まもなく牛肉会社に売却、ボリビアに入る。ボリビアでは鉱山会社を襲い、給料を強奪しようとしたが、護衛の部隊により蜂の巣にされる。

08年 大統領選挙。不正選挙によりモンテスが再選を果たす。パンドらの抗議により選挙は無効とされ、エリオドロ・ビジャソンが大統領に就任。

08 ボリビアのアマゾン上流地帯にゴムのブーム.日本人の移民はリペラルター市,トリニダー市を中心に,最高時800人を超える.

1910年

10年 錫の生産量が急増。90年代の20倍に達する。

12 ラパスで最初の労働者全国会議開催.これを契機にして鉱山での労働争議があいつぐ.

13.08.06 イスマエル・モンテスが二度目の大統領に就任する.政治腐敗がさらに進行。

13 ラパス=アリカ間を結ぶ鉄道開通.

15 パンドと自由党の反モラレス派地主が中心となり、コチャバンバで共和党を形成.

共和党と先住民問題: グスタボ・ナバロらのエリート知識人や若手活動家は先住民問題に深い関心を示した.ナバロはインディオの英雄トリスタン・マロフをみずからのペンネームとするほどのインディオ擁護者だった.彼は過去のインカ帝国の中に最初の社会主義の萌芽をとらえ、それを問題解決のためのモデルと考えた.シレス・レジェスら若手活動家はインディオの悲惨な生活に対し,インディオ救済全国十字軍を組織した.

1917年

6 パンド、ラパス近郊で何者かの手により暗殺される。その後、共和党はバウティスタ・サアベドラ・マジェアを指導者とし、都市の中間層を基盤としながら勢力を伸張.

8.15 大統領選挙.自由党のホセ・グティエレス・ゲラが共和党のサーベドラを破り当選.

1920年

7.12 共和党員,無血クーデターにより政権を掌握.

20年 先住民の反乱。

21.1.28 サアベドラが大統領に就任.共和党政権が成立。歴代大統領は親米主義を標榜し,米国資本との結びつきを図る.在任中にスタンダード・オイル社により東部低地地帯の油田開発が進む。

23 ウンシアで鉱夫のストライキ.政府はこれを厳しく弾圧.

26.1.10 共和党のエルナンド・シレス・レイエス,大統領に就任.米国からの借款を元に国家的プロジェクトに着手.民族主義者は米国の経済進出に強い警戒感を示す.党内保守派はダニエル・サラマンカ・ウレイを中心に結集.ほかに時期を前後して,マルクス主義や社会主義の影響を受けた多くの小政党が創設.

26年 ウーゴ・バンセル、平原地帯コンセプシオンでドイツ系移民の息子として生まれる。

 

チャコ戦争と敗北

28.12.06 ボリビア・パラグアイ間で武力衝突(バンガルディア要塞事件)発生.チャコ紛争開始.パラグアイを支持するシェル社とボリビアを支持するスタンダード社の代理戦争といわれる.

28 マルクス主義の影響を受けたホセ・アントニオ・アルセとリカルド・アナヤ,ボリビア大学連合を結成.のちに革命的左翼党 (PIR)の指導者となる。

1929年

6.03 アリカ・タクナ紛争,アメリカの調停により解決.チリはアリカを,ペルーはタクナを獲得,ボリビアは鉄道権を得る.

9.16 ボリビア・パラグアイ間にいったん講和が成立する.

1930年

5.28 大恐慌が波及。経済不況と社会不安のため,シレス・レイエス政権が危機状態に陥る.シレス・レイエスは大統領再選禁止規定を骨抜きにしようとして失敗.軍事クーデターにより政権の座を逐われる.

1931年

1 ボリビア,対外負債の支払いを停止.ラテンアメリカ諸国もこれに追従.世界的金融恐慌の発端となる.

3.05 軍事評議会の下で大統領選.共和党保守派のダニエル・サラマンカが大統領に就任.チャコ平原の地下資源開発に精力を集中.

7.02 サラマンカ政権、植民地時代からの領土問題を持ち出し、グラン・チャコ地方とパラグアイ川の通行権を求め、パラグアイに圧力。

1932年

1 サラマンカはパラグアイとの国交を断絶,ドイツ式訓練を受けた精鋭部隊を背景に開戦に動き出す.国内での弾圧強化.アルセらはチリに亡命.

6.15 ボリビア,宣戦布告と同時にパラグアイのロペス要塞へ攻撃.チャコ戦争開始.ドイツからの招聘軍人クント,ペニャランダによって指揮されるボリビア軍と、エスティガリビアにひきいられたパラグアイ軍との死闘が35.6まで4年間にわたり続く.(戦闘の詳細はパラグアイ年表へ)

1934年

1.06 国際連盟の呼びかけによる停戦が時間切れ.ふたたび戦闘開始.

12.11 ボリビア,中立地帯設置と動員解除を求める国際連盟の勧告を受諾するが,パラグアイが拒絶し戦争再開.主要な戦闘のことごとくに敗れたボリビア軍は,開戦当時の防衛線から500キロ近く後退.前線はアンデス山麓まで迫る.

12.01 サラマンカは軍司令部の停戦要請を押し切り,戦争継続を指令.軍最高司令官のエンリケ・ペニャランダを解任.自らチャコに赴き督戦するが,軍司令部に逮捕され辞任を迫られる.これに代わり和平論者のホセ・ルイス・テハダ・ソロルサノ副大統領が大統領昇格.

1935年

2.23 パラグアイは停戦を認めずさらに進攻.停戦を求める国際連敗に反発し脱退.国際連盟加盟20ヵ国が,ボリビアに対する武器輸出禁止措置を解除.

6.14 アルゼンチン,ブラジル,チリ,コロンビア,ペルー,米国よりなる調停団,停戦発効を宣言.兵力には勝るが,熱帯気候に適応できないボリビアの敗北に終る.当時ボリビア人口は3百万足らずで,軍25万人中6万5千が戦死,3万5千が負傷もしくは捕虜となる.さらにチャコ地方のほとんどを失っただけでなく,2億ドルの戦費を費消し,国家破産の危機に至る.パラグアイ兵も4万が死亡.結局石油資源は見つからず.

1936年

4.13 チャコ戦争の参謀総長だったダビッド・トロ・ルイロバ中佐ら軍部革新派,クーデターによりテハダ大統領を解任.

5.22 トロが大統領に就任。ムッソリーニに倣い国家社会主義的政策を実施.イタリアの将校を招き軍の近代化を急ぐ.

5.22 ラパスのサンアンドレス大学の経済学教授ビクトル・パス・エステンソロが蔵相に就任.パスを中心に中間階級,専門職,文筆家,青年将校などが「チャコ世代」と呼ばれるグループを形成.

36 オルロを中心に鉱山労働者と不在資本家との抗争激化.グスタボ・ナバロ,「土地をインディオへ,鉱山を国家へ」をスローガンに勢力を伸ばす.

36年 国営企業YPFB (Yacimientos Petroliferos Fiscales Bolivianos)が創設される。炭化水素の探索、生産、販売に関して独占権を与えられる。

1937年

3.13 トロ大統領,エネルギー・セクターの国営化の一環として、スタンダード石油を無償で国有化.YPEBに移管.これは地下資源の国有化を目指すラテンアメリカ史上最初の試みとなる.(一説ではスタンダード社の持ち株を170万ドルの免責 indemnificationと交換)

7.13 社会主義化を恐れる鉱山財閥,ファシズムを公然と掲げるファランヘ党を設立.軍の内紛を利用しトロを追放,ヘルマン・ブッシュ・ベセラ将軍を大統領に据える.ブッシュはドイツ系二世でファシスト的傾向を持つとされる.就任後財閥系と離反し,鉱山財閥と対決姿勢を明確にする一方で独裁制を強める.パス,鉱山銀行の総裁に就任.

1938年

7.21 ボリビアとパラグアイ,ブエノスアイレス講和条約に調印.チャコ戦争が最終的に終わる.

10.10 アメリカ・南米諸国の仲裁裁定で最終的に国境が画定される.パラグアイが係争地のほとんどを獲得.

38 ブッシュ大統領,「われわれはヨーロッパ諸国でのユダヤ人に対する迫害や敵意の協力者になるべきではない」と声明.ユダヤ人移住を受入れる.ユダヤ人1万人が農業労働者として移住.

38 4トロの指導を受けた革命的労働者党(POR)結成.セイロンのLSSPにつぐ大衆的政党に成長.

1939年

4 アルセ,亡命先のチリでボリビア左翼戦線を結成.

6 ブッシュ政権,「パティーニョ」「ホスチルド」「アラマヨ」の三大錫財閥に対し獲得外貨をすべて引渡すよう要求.

8 ブッシュ,謎の死を遂げる(おそらくは保守派による暗殺).軍人政権はいったん後退.

1940年

2 大統領選,保守の推すエンリケ・ペニャランダ将軍が当選.ファシストを排し徹底した親米政策を推進.アルセ,チリから帰国.大統領選に唯一の反体制候補として立起.17%の得票を獲得.国会議員選ではのちにMNR幹部となるパス・エステンソロ,エルナン・シレス・スアソ,ゲバラ・アルセなどが初当選.

5月 革命左翼党が結成される。指導者はホセ・アントニオ・アルセ(José Antonio Arze)とリカルド・アナヤ。知識人を中心とした政党。鉱山や石油資源の国有化,農業改革,インディオの全面解放などを掲げる.マルクス主義を標榜するが、コミンテルンには加盟せず。鉱山労働者に接近を図る。

 

1941年

1月 パス・エステンソロを中心に軍事政権時代の活動家を中心に国民革命運動(MNR)結成.錫鉱山の国有化を主張し,反帝国主義を標榜.

MNRの基盤: チャコ戦争ベテラン連合、コチャバンバ谷のケチュア族農民組合、mestizo-criollo中流階級の三要素からなる。またMNRは、鉱山のボリビア鉱業労働者組合連合(FSTMB)の支持を得た。先住民の中では高原地帯のケチュア語族の支持を集めた。当時まだ、アイマラ族は市場経済にはあまり統合されておらず、MNRの「メスティソ化政策」(mestizaje)にも関心が無かった。

41年 米国務省のボーハンを代表とする経済開発視察団、①石油生産の増大とパイプライン、製油設備の建設、②コチャバンバ・サンタクルス間のハイウエイの建設、③鉱産物の増産などを提言。

1942年

6.07 MNRが創立大会を開催。ファシズムに共感する軍部不満派(RADEPA)を巻き込み急成長.旧RADEPAグループはバングアルディア派を名乗り,党内右翼武闘派を形成.米国はMNRをナチの手先と攻撃,政府によりMNR非合法化.

12月 ボリビア第1のすず鉱山カタビで,賃上げを要求するスト.政府は会社と結び労働者を弾圧,鉱山警備の軍隊はデモ隊に機銃掃射し4百人(8百人?)が死亡.MNRを中心に抗議行動高まる.反ファシズム闘争最優先の左翼革命党(共産党)は,指導性を発揮できず影響力を失う.

42年 ボリビア援助計画を受けて、政府と米国輸出入銀行の拠出で、ボリビア開発公団が設けられる。

42 米国の軍事使節団がボリビア国内での活動を開始.戦時協定に基づき米国からの軍事援助が始まる.高級軍人は改革派,保守派,チャコ前,チャコ後世代,親ファシスト,親米派などに画別される.

43.4 エンリケ・ペニャランダ大統領,枢軸諸国に宣戦布告.ビジャロエル大佐を中心とする親ナチ勢力は,アルゼンチン亡命中のMNR,アルゼンチンの軍事政権,ブエノスアイレスのドイツ特務機関と手を結び,クーデターを企画.

43.12.20 MNRの影響を受けた軍の民族主義グループ「祖国の大義」(RADEPA)によるクーデター.ペニャランダを追放しグアルベルト・ビジャロエル・ロペス少佐が大統領に就任.パス・エステンソロ蔵相を含め3人のMNRメンバーが内閣に入る.トロ,ブッシュの改革路線の継承を訴える.米国はこのクーデターをナチとアルゼンチンの陰謀によるものとして非難,米州諸国に承認を見合せるよう迫る.

1944年

1 アルセ,人民戦線の立場からPIRの入閣を提案するがビジャロエル政権は拒否.このあとPIRはオリガルキー政党と手を結び反ファシスト民主戦線に参加,ビジャロエルをファシストと批判,政権打倒に乗り出す.

PIRの伸び悩み: 第二次世界大戦の間、連合国のために資源の供給を続けるため、ストライキ戦術は避ける。また政府に対しても反ファシズムの立場から支持を続ける。これらの戦術が弱腰と批判され、労働者の支持はMNRやPORに流れる。

2 ビジャロエル,改めて連合国側との協力を約束.日本に占領されたマレー,スマトラに代り,連合国側への錫供給を独占.

4 ボリビア総選挙.RADEPA=MNR連合が多数派を獲得.米国の承認を得て,MNR閣僚が復帰.エステンソロは金融相に就任.一連の労働保護政策を実施するも鉱山国有化には至らず.

6 MNRの影響下にボリビア鉱山労働者連合(FSTMB)結成.フアン・レチンが指導。

6 ビリャロエル,MNRと絶縁.エステンソロらを解任し米国の政権承認を得る.

1945年 ビジャロエル,全国先住民会議を創設.農民の生活改善に乗り出す.農民の地主への労働奉仕の禁止などの法律が作られたが,実効性はなし.

 

ラパス暴動

1946年

1月 戦争終了後の鉱物価格の低下,インフレーション,失業で,厳しい経済の困難に陥る.国民の支持がMNRに流れたことから,軍部は離反.ビジャロエルは孤立を深め,政権維持能力を失う.

7.17 学生,教師,労働者などの広範な抗議(一説では反動派にそそのかされたラパス市民の暴動)のなかで暴動が発生.兵器庫から武器を奪い,大統領官邸を襲撃.暴徒は大統領執務室に乱入しビリャロエルをとらえ,中央広場の街灯に吊るし上げ,しばり首とする.

7.21 反軍政,反MNRの臨時政府評議会が権力を掌握.米国とアルゼンチンは新政権を承認.エステンソロはアルゼンチンに亡命.市内の暴動は21日まで続く.この間,軍は兵営から動かず.

46 ギリェルモ・ローラ,革命的労働者党(POR)を結成.永続革命と武装闘争を求めるトロツキスト綱領プラカーヨ・テーゼを発表.

47.3.10 臨時政府評議会,保守党のエンリケ・エルツォグ・ガライサバルを暫定大統領に選出.経済界指導者を中心にコンコーダンシア派の他PIRも内閣に加え,挙国一致体制を目指す.政界に復帰したアルセは下院議長に就任.政府は軍人の政治関与を否定する憲法を公布し,軍事的影響力の排除に乗り出す.多くの改革派若手将校が軍を離れ政治活動に参加.

48 政府は増税を中止することで保守党の支持も得ようとし,同時にPIRを加えることで労働者の支持も得ようとするが,労働組織はこの政府に協力せず.逆に保守派と癒着したPIRが労働者に見放される結果となる.

1949年

49 カタビ鉱山で7千名の労働者が解雇される.これに抗議する労働者に残虐な弾圧が加えられる.政府と労働者の協力はいまや不可能となる.全国原住民会議開催.政府は生活改善のための公約を行うがいずれも反故にされる.不満を持つ地方農民たちはインディオの権利を守ると主張するMNRに支持を集中.

49 軍の一部将校を巻き込んだMNRによる武装蜂起,ラパスでの支持が得られず敗北に終わる.しかしラパス以外の主要都市のほとんどでは労働者や一部将校の支持の下,支配権を獲得.MNRの国民への影響力は拡大.

49.10.24 マメルト・ウリオラゴイティア・アリアグ副大統領,ヘルツォグを継いで大統領に就任.軍事評議会議長のウーゴ・バジビアン・ロハス将軍がこれを支持.政府はバジビアンの支援を受け全国の反対派弾圧に乗り出す.

50年 革命左翼党(PIR)の一部が党を離れボリビア共産党を結成。ラウル・ルイス・ゴンサレスが書記長に就任。COB、FSTMBなどの労働運動の中で勢力拡大を目指す。

50 農業改革の遅れから,食物輸入が増加.全輸入額の19パーセントに達する.可耕地の92%は大地主の手に集中される.

1951年

5 大統領選.MNRは国有化と土地改革を掲げ選挙に臨む.アルゼンチン亡命中のパス・エステンソロが大統領候補,シレス・スアソが副大統領候補となる.PORとPCBの支持を受けたエステンソロが,45%を獲得しウリオラゴイティアに圧勝.議会選でもMNRは上院9人中の5人,下院55人中の10人を獲得.

5.16 任期を残したウリオラゴイティア大統領,突如政権をバジビアンの指導する軍事評議会に引き渡し辞任,チリに亡命する.MNRの権力獲得阻止をはかる事実上の軍事クーデター.軍は「ファシストと共産主義者の汚らわしい同盟が,鉱工業を国有化し,独裁制をしくのを拒否する」と声明.政権引渡しを拒否.戒厳令を布告.シレス・スアソ,武装蜂起を試みるも失敗.

10 民族系錫会社,朝鮮戦争による国際的錫不足を背景に錫価格の引き上げを要求するが,米国は拒否.軍事政権はペロンとの連係をはかりながら米国への錫輸出を停止.結果として深刻な外資不足に陥る.

51年 革命直前の国勢調査では、八つの家族が農地の1割を所有するなど、著しい格差が明らかになる。農地は高原地域とコチャバンバに集中しており、所有者は都市部に暮らす不在地主であった。これに対し東部の平原地帯では、地主の半分は自分の土地で生活をしていた。

 

1952年

1 MNR,ふたたび力で権力を獲得する計画.軍事評議会メンバーで内務省と国家警察を管轄するアントニオ・セレメ将軍を味方に引き入れる.

4.01 「飢餓行進」がラパス市内にはいる.圧倒的市民の共感を呼ぶ.

4.08 MNR武装蜂起.評議会メンバーのセレメ将軍,MNRを支持し武装警察隊に蜂起の支持を指令する.MNR,ラパス市内で反乱を開始.武器庫を襲撃し,市民に武器を手渡す.

4.09 鉱山労働者がラパスに入る.MNR左派指導者ホアン・レチンの指揮のもと武装し,地方から動員された軍隊と対峙する.ラパス市民はシレス・スアソの指揮のもと市民軍を組織.セレメは闘いを放棄し脱走(一説に戦死).

4.12 反乱部隊,3日間の戦闘で600の犠牲を出した末,首都を制圧.軍が全面降伏し革命終了.市民・労働者の決起により死者3千人を出しながらも,3日間の首都攻防戦をふくむ11日間の戦闘に勝利(4月革命).

4.16 パス・エステンソロ,帰国し大統領に就任.工業石油相にホアン・レチンが就任.エステンソロは一方において旧ナチ亡命者を登用,親ファシズムの姿勢を取り続ける.

4.18 政府はただちに軍の規制に乗り出す.保守党体制を擁護してきた多くの将官が放逐され,軍の規模・装備も劇的に縮小される.内戦で革命派に立ち空輸作戦を実行したレネ・バリエントス,新政権に認められ大尉から空軍司令官に昇進,同時にMNRの軍内細胞の指導者となる.

5 朝鮮特需終了.米国は錫買い付け停止.錫価格は暴落し,生産コストを下回る.農業部門は資金不足から立ち遅れ.食料輸入が輸入総額の2割に達する.

7 革命政府,識字力,資産の有無にかかわらずすべての国民に普通選挙権を認める.

7 すべての鉱物資源の輸出・販売が国立鉱業銀行に一括される.

8.02 左翼革命党(PIR)の主要活動家は共産党に移籍.PCBが国内におけるモスクワ路線の代表となる.革命労働者党(POR)はレチンと行動をともにする中でボリビア労働連合(COB)の指導権を掌握.COBを「革命的蜂起の時代の大衆組織の最高形態」と規定,ソビエトへの転化をはかる.

10.31 生産量の3分の2をしめる三大財閥(Patino、Hochschild、Aramayo)の錫鉱山を国有化.「ボリビア鉱山会社」(Comibol)を創設.中小の鉱山は私営のまま残される.

11 PORのインディオ活動家ホセ・ロハスの指導するウクレーニャ河谷農民組合,全国で農民組合の結成をよびかける.コチャバンバ県クリサで大農場を襲撃し白人を追放,土地奪還に成功,徹底した農地改革のさきがけとなる.

農地改革の動き: 当初MNR は、農地改革を政策として提示していなかった。政権奪取時に、既にMNR は農地改革の準備をすすめていたが、農民の組織化を農地改革に先立って行うべきだと考えていた。しかし、革命により地域の治安部隊が退去すると、暴力的に土地を獲得する運動が西部高地と渓谷部のコチャバンバを中心に起こり、農村部の治安は著しく低下した。

52年 琉球民政府、10年間でボリビアに12,000人を移住させる計画を立案。戦後人口増や基地拡張で土地を失った農民への対応を理由とする一種の棄民計画。

1953年

1 最高政令第3301号公布.シレス副大統領を座長とする農地改革委員会を設置.メキシコからの援助により法案制定を急ぐ.農民運動の激化に対処するため、当面の対策を盛り込んだものとなる。

農地改革の当面の政策: ①土地なし農民への土地の再分配、②共同体所有地の返還など。また生産性向上と東部開発のために、①農業生産性の向上と流通改革、②高地住民の東部への移住促進など。生産性の高い経営に対しては、大規模な私的農業財産が認められた。

6月19日 琉球民政府の送り込んだ沖縄移民団第一陣の269名がボリビアに到着。その後の20年間で710世帯,3,344人の沖縄県民が移住するが、その半数以上が移住地を離れる。

7.24 共産党(PIR),政府の右傾化に抗し民族解放愛国戦線の結成を提唱.

8.02 農地改革法制定.農産物の自給、先住民の解放と農村の社会構造の変革を目標とする。強制労働を禁止し,伝統的地主階級の地方資産を没収しインディオ農民に分配することをうたう.没収された土地に対しては政府公債を発行し25年で返済することとする.土地の評価額は革命前の申告税額により決定されることとなる.

8 鉱山労働者を中心にボリビア労働連合(COB)結成.急進的要求と政権への参加を決議.MNR主流派は,ボリビア労働連合(COB)内のPOR活動家排除を試みる.鉱山大臣となったレチンはこれに対抗し武装民兵を組織,鉱山を自主管理するなど影響力を広げる.PORもこの動きを積極的に支持.

53年 MNR は、農民組織(sindicato)をパートナーとし、シンディカートに政府との交渉担わせ、また地主との土地の分配交渉もゆだねる。55万家族に二千万ヘクタールの土地が分配される。作物の多様化に伴い農業生産額は10 倍となる。また農奴制度からの解放によって都市部への出稼ぎが自由となり、生活改善に結びつく。また農民組合を通じての政治ルートが出来たことから、農民の要求が政治に反映されるようになる。

53年 この時点でボリビアは約4236万ドルの対外公的債務を抱える。その後の米国による援助は1億3700万ドルに達したが、物価上昇率2428%というハイパーインフレーションとなる。

53年 米政府は反共の立場からボリビア政権を積極的に支援。対ボリビア援助は、MNR 革命政権時の12 年間で3 億8 千万ドルの資金が投入された。これは平均して国家予算歳入の25%を占める。しかし援助はサンタクルスを中心とする東部に集中し、政権のあり方を歪んだものにする。

53年 5000 万ドルが投入されたコチャバンバ・サンタクルス道路が開通。従来トラックで6 日かかったのが20 時間にまで短縮される。

1954年

10.09 政府の右傾化に反対する鉱山労働者の武装スト.内閣総辞職.革命政府にはCOBから二人の閣僚が入り,ボリビアの労働者の管理に関してはCOBが実質的支配権を握ることとなる.労働者民兵に加え,農民民兵制創設.

54 4トロ分裂にともない,PORも分裂.主流派はキャノン派に流れるが,まもなくレチン派と合同.反主流派もギジェルモ・ローラ派と「労働者の闘い」派の二つに分かれる.

54 米軍に土地を取り上げられた沖縄農民400人が移民.入植直後,原因不明の熱病患者が続出,半年の間に15名の犠牲者が出る.その後も水害,土地問題などにより,2度の移転を余儀なくされる.

54年 農地改革の動きが先細りとなる。

農地改革の挫折: 革命の時点で可耕地の92%は千ヘクタール以上の大規模農場に集中し、先住民は事実上奴隷として働かされていた.MNRはその多くを貧農に分配しようとしたが、さまざまな圧力と内部の腐敗により効果は薄かった。結局、5500万ヘクタールが地主の手に残り、中小農家には条件の劣悪な4500万ヘクタールが譲渡された。地主は荒地を政府に買い取らせ、焼け太り状態となった。

1955年

4 与党側学生,オルロ大学の共産党拠点を襲撃.大学の一部を占拠.この事件に関してパス・エステンソロ大統領は共産党を非難.

55 レチン,米国の圧力により鉱業石油相を辞任.

55 個人の企業移民である“西川移民”集団88名が入植.砂糖きび栽培のプランテーション経営を試みる.見通しの甘さから失敗に終わる.

1956年

6 革命後最初の選挙.先住民にも選挙権が認められたことから、有権者は20万から百万に増加.シレス・スアソが大統領に就任.農地改革の責任者チャベスが副大統領に就任.農民運動指導者のホセ・ロハスも上院議員に当選.シレス・スアソはHernando Siles Reyes元大統領(1926~30)の庶子。

8.02 日本とボリビアとのあいだに移住協定締結.その後の2年間で150家族がサンタクルス西北130キロのサンフアンへ入植.その後悪天候の連続,道路建設など生活基盤整備の遅れもあり大量に脱落.

12 レチン,安定計画に反対しジャジャグアで鉱山労働者のストを組織.反政府暴動の続発に対し政府は戒厳令を公布.

57.1 シレス,深刻な経済危機を迎え破綻した国内経済をたてなおすため,IMFの勧告にしたがい通貨為替安定計画を実施.米国の援助を受入れ緊縮財政を進める.不満を強める労働者民兵に対抗し軍を復活する一方,伝説のインカ王にならいみずから断食するなど民心掌握につとめる.チャベス副大統領は抗議し辞任.

1958年

3 シレス,いったん辞意を表明するが撤回.背景にレチン,エステンソロとの権力抗争.

12 英国,多額の赤字を抱え,アントファガスタ=ラパス=コチャバンバ間の鉄道経営を放棄.政府がこれに代り運営.

1959年

3 ファランヘ党,緊縮政策に対する都市住民の不満を背景に反米武装反乱を組織.

4.19 ファランヘ党,首都ラパスで蜂起.市街戦で死者2百人を出し壊滅.指導者ウンサガ・デ・ラ・ベガも戦闘で死亡.

59年 ボリビア共産党が最初の全国大会を開催。この時点で党員数は6500人と推定される(米国務省)。

59年 ボリビア出身のバイオリン奏者Jaime Laredo, ベルギーのエリザベート音楽コンクールで優勝。

1960年

6 錫国際価格の暴落の中でシレス退陣.「米国は,私に首吊りするのにちょうどよいだけの長さのロープをくれた」と発言.

8.06 前大統領のパス駐英大使,COBの力を背景にふたたび大統領に就任,第2次パス政権発足.レチンが副大統領となり下院議長にPORの元指導者エルネスト・アヤラが就任するなどCOBが影響力を拡大.レチンに反感をもつゲバラ・アルセ前副大統領らは離党しMNR本党(右派)を結成.パスは就任後親米政策に転換し,軍の強化と民兵の削減をはかる.レチンらMNR左派は米国への屈服を激しく非難.

61.6.07 政府打倒の陰謀が発覚し,全土に戒厳令.

62.9 パス,憲法の再選禁止条項を削除.独裁への道を開く.反対派による大頭領暗殺計画発覚.戒厳令公布.

1963年

5 ハビエル・エラウドの指揮するゲリラ隊,ボリビアからペルーへ侵入.プエルト・マルドナードで政府軍の攻撃を受け壊滅.エラウドも殺害される.

6.12 ボリビア,OASを脱退.

7 ゲバラの腹心マルティネス大尉,ボリビアに潜入しアルゼンチンでのゲリラ活動開始に備え,南部のサルタに根拠地建設.指揮官には,ハバナの「プレンサ・ラティーナ」通信社の編集長で,アルゼンチン人のマセッティが就任.

11 ホルヘ・リカルド・マセッティの指揮するゲリラ,ボリビアからアルゼンチン北部に侵入しゲリラ活動開始.

63年 アルゼンチンで訓練を受けたボリビア軍将校,コチャバンバの第7連隊内に特殊部隊訓練センター(CITE)を創設.米陸軍特殊戦闘学校(ノース・カロライナ州フォート・ブラッグ)で訓練を受けた若手将校が,多数配備される.米軍の援助は年間320万ドルに達する.

1964年

1 MNR全国大会,レティンを除名.レチンは民族主義左翼革命党(PRIN)を組織.

2 リカルド・マセッティ(セグンド少佐),ボリビア南部のサルタの山岳地帯に人民ゲリラ軍(EGF)を結成.キューバ人,ボリビア人なども参加.

3 人民ゲリラ軍,アルゼンチン憲兵隊の越境掃討作戦により壊滅.マセッティも殺される.共産党は「外国による干渉」としてマセッティの行動を非難.

5 パス・エステンソロが三選される。フアン・レチン,シレス・スアソなどの反対をおさえるために,軍部のレネ・バリエントス空軍司令官を副大統領とする.MNRは極右派のバリエントス派,中間派のエステンソロ派,ルーベン・ジュリアン派に事実上分裂.シレス・スアソは追放されウルグアイに亡命.

8.21 ボリビア,キューバと断交.

9.20 政府,OAS総会でキューバ制裁へ反対票を投じる.シレス・スアソ派による反政府の陰謀が発覚.これを見たバリエントスはCIAに内通しクーデターの準備に入る.

10.26 鉱山労働者,ゼネスト入り.民衆暴動あいつぐ.労働者民兵はソラソラにおいて正規軍を撃破.MNRは内部分裂により自壊状態となる.

11.04 バリエントス,アルフレド・オバンド・カンディア両将軍によるクーデター.パスはペルー亡命.米国の軍事援助は58年の10万ドルから,320万ドルにまで増額.レチンは反パスの立場から当初クーデターを支持.

11.05 軍事評議会結成.バリエントスが暫定大統領に就任.ウーゴ・バンセルは、陸軍士官学校の校長に指名される。

11 タニア,ゲバラ部隊の情報員としてラパス入り.内閣情報局長など政界上層部に食い込み情報活動を展開.

1965年

4 ボリビア共産党大会,クーデターへの対応をめぐり分裂状態となる.ルイス・ゴンサレス前書記長らは党を離れ、新たにボリビア共産党(マルクス・レーニン主義)を結成。フェデリコ・エスコバル,オスカル・サモラら中国派が実権を握る。残された党の書記長はマルコス・ドミッチが務める。マリオ・モンヘとホルヘ・コリェらのグループはキューバに接近,「ボリビア共産党」を称する.PIRは軍事クーのあと地下に潜行。いくつかの派に分裂し無力化。

65年5月 鉱山労働者の反乱

5 軍事政権,レティンを国外追放に処す.全土に抗議のゼネスト拡大,COBの武装民兵が各地で武装衝突.事実上の内戦状態に移行.政府は鉱山労働者のストに強硬方針で臨み,米国の援助の下に軍を三千から三万に増強.アルフレード・オバンド・カンディア将軍が鎮圧にあたる.

5.23 軍部が最終勝利.レチンはパラグアイに亡命.軍はBarrientosに強制し,オバンドを共同大統領とさせる.鉱山労働者の賃金を45%切り下げ,日当を0.8ドルに抑える.さらにコミボルの要員を1割削減.

5 政府,産業綱領を発表.国有石油会社をガルフ・オイルに売り渡すなど,民営化により多国籍企業の投資をうながす.いっぽうで「25エーカー構想」を発表。自営農の増加を図るなど、農業・工業における中間層の形成をうながす.

5 ボリビア潜伏中のナチ戦犯で元リヨンのゲシュタポ長官クラウス・バルビイ,軍情報部の幹部に就任.

6 米国の訓練を受けたレンジャー部隊,空挺部隊などが鉱山地帯爆撃のあと突入,労働者数百人が殺される.鉱山地区は軍により制圧され,労働者民兵は武装解除される.

9 労働者民兵の残党,農民民兵と共同しゲリラ闘争を開始.全国ゲリラ本部,機関紙「武装人民」第1号を発行.

12 非合法化され地下に潜ったPRIN,共産党,PORが人民民主評議会を結成.政治綱領を発表.この時点で,農民民兵もほぼ壊滅.

1966年

1 大統領選での勝利を目指すバリエントス,共同大統領を辞任.オバンドが単独大統領となる.バリエントスは自らの政党としてキリスト教人民運動を結成.さらに小政党を結集してボリビア革命戦線を結成,選挙母体とする.同時に軍農協定により農民運動指導者との結びつきを強め,ポピュリスト的政治体制の実現をめざす.

9.26 選挙に勝利したバリエントスが大統領に就任.

66 オキナワ移住地への日本政府の援助が始まる.その後85年の第49次までに3千名あまりが入植.現在の人口は836名.

ボリビア2へ続く