コロンビア年表 その(1)

 

征服時代  ペルーからの分離  コムネーロスの反乱  第1次独立運動  第二次独立運動  

ボリーバルの時代  ボリ-バルの死

 

征服以前のコロンビア

1200BC 中米から渡来した人々がトウモロコシを持ち込む.
500BC 中米から第二波の渡来.サン・アグスティン(現ウイラ州),ティエラ・デントロ(現カウカ州)に文化が発祥.
300BC ニカラグア地方からチブチャ族が渡来.同じ頃,カリブ方面からアラワク系のタイロナ族も渡来.
1000A.D カリブ族のカラマリ人が海岸地帯に侵攻.スペイン人は
カラマール(Calamar)と呼んだ。チブチャ族はボゴタなど山間部に追いやられる.
1500A.D このころもっとも優勢な種族はチブチャ族.彼らは二つの氏族に分かれていた.一つはムイスカ族で,クンディナマルカとボヤカの高原地帯にすんでいた.もう一つはタイロナ族で,北部のシエラ・ネバダ・デ・サンタマリア(現ラ・グアヒラ州)に住んでいた.スペイン人が来襲した際,ムイスカ族はバカタ連合とウンサ連合に組織されていた.バカタは現ボゴタを中心とし,酋長の名はジップ,ウンサは現トゥンハを中心とし,酋長の名はサケ.一方タイロナ族も海岸部の集団と山間部の集団に分かれ,両者が物々交換していた.

征服時代

1500(20年以前についてはLA年表に一括)

25.7 バスティダス,25年ぶりに南米に戻る。コロンビア北岸に初の恒久的基地サンタマリア(サンタマルタ)の町を建設.エルドラドが存在するといわれたシェラ・ネバダ探検の基地とする.

もっとも高貴な征服者: ウィキペディアによればバスティダスは先住民に敬意、人間性、友情の方針で臨んだといわれる。そしてTagangas、Dorsinos、Gairas族との平和的関係を維持したとされる。しかしラスカサスにより原住民への残虐さが告発されてもいる.このときすでに65歳であるから、それなりに枯れてはいただろうが、この仕事は枯淡の境地で勤まるようなものではないだろう。現地のカラマリ人もカリブ族の一派で毒矢の使用に長け、相当戦闘的であったようである。

27.7 バスティダス、住民統治政策に不満を持つ部下Villafuerteらにより暗殺される。

29.2 ヴェルザー家はアンブロシオ・デ・アルフィンヘル(Ambrose von Alfinger)を知事とし、副官ゲオルグ・デ・スペイエルとともにベネズエラのサンタ・アナ・デ・コロに派遣.内陸探検を開始.20年後に開発は挫折.

31 ヴェルザー家の派遣したアルフィンヘル,エルドラドをもとめベネズエラのコロからアンデスを越え、マグダレーナ河に達する。住民からXeriraという豊かな地方の存在を知らされる。これは現在のJeridas高原で、当時はチブチャ王国の北端を形成しGuane族が住んでいた。

30 ドイツ人冒険家ニコラウス・フェーデルマン,サンタ・アナ・デ・コロにわたり冒険家仲間に加わる.

32 サンタマルタの原住民,スペイン人の横暴に抗議し食料供給をストップ.

33.1.20 ペドロ・デ・エレディア,先住民の襲撃を受けていったん廃墟となったカルタヘナを再建.まもなくサンタマルタに代わり南米最大の交易要地に発展.港は29の石造りの要塞で守られていたが,数次にわたりドレークの侵略にあう.

33 アルフィンヘル,二度目の探検に出発.マグダレーナ河から遡り、エルドラドを目指す.住民の略奪と虐殺を続けた末,先住民に殺される.

34年 サンタマリアとカルタヘナに司教区が設置される.

1535年

11 カナリア諸島の総督ルーゴ,サンタマルタの開拓権を得て植民.

35年 ホルヘ・デ・エスピラ(独名Georg Hoemuth)がウェルザー家の名代として赴任.エスピラはエル・ドラドの第一報告者として名をはせる.グアヤビータ湖におけるインディオの神事をめぐり「エルドラド」神話がひろがる.

1536年

4 ルーゴの部下ゴンサロ・ヒメネス・デ・ケサーダ,600名の部下とともにサンタマルタを出航.食料確保のためペルーへのルートをもとめマグダレーナ川を朔行.このころチプチャ王国を形成するムイスカ族は二つの氏族に分かれ抗争.バカタ(現ボゴタ)を中心とする南部をジーパ(Zipa)国,ウンサ(Hunza,現トゥンハ)を中心とする北部をサケ(Zaque)国が支配.

10 キトのベナルカサル、エルドラドを求め,カリブ海岸に向け進軍.キト在住200人のスペイン人のうち150人が同行.

12.8 ベナルカサル,カウカ河流域にはいる.パスト,ポパヤンを建設.さらにカウカ渓谷にそって北進,現アンティオキア地方へ侵入.

1537年 チプチャ王国の征服

4 デ・ケサーダ,原住民から「エルドラド」と岩塩鉱の噂を聞き,ルートを変更.マグダレーナ河を離れ東コルディリェーラに登る.オポアの谷,城の谷などを横切るあいだに部下は170名に減少.ジーパ国の都バカタに達する.

6 さしたる困難もなくボゴタ首長の率いるシーパ軍を撃破,バカタを制圧.

7.25 先住民の攻撃で廃棄されたグアヤキルが,ピサロの部下フランシスコ・デ・オレリャナの手により再建される.

12 フェーデルマン,コロを出発.リャノス探索中,独断でエル・ドラド探検の旅に出発.コロンビアに入る.

1538年

4 デ・ケサーダの部下ゴンサロ・スアレス・レンドン,サケ国の首都ウンサを陥落.コロンビア中部の制圧を完了.

5 ベナルカサル,リマにもどりピサロの許可をえ,ふたたびコロンビアに向かう.中央山脈とマグダレーナ渓谷を横断しボゴタに達する.結局ボゴタ占領には遅れをとる.ニコラス・デ・フェーデルマンはさらに遅れ到着.ボゴタでケサダ,ベナルカサル,フェルドマンが会見.ベナルカサルはフェーデルマンと組み,ケサダ追い落としを図るが,フェーデルマンが多額の財宝を受け取ることで,ケサダの支配権を認めたことから挫折.三者は,それまでの征服地を互いの領土として尊重することで合意.

8.6 ケサダはヌエボ・レイノ・デ・グラナダ建国を宣言,バカタにサンタフェ・デ・ボゴタを建設.サンタフェは彼の生まれ故郷の名.期待したグアヤビータ湖には少量の黄金しか発見できず.「エル・ドラド」の発見には失敗.

11.9 エクアドルの直接支配をねらうピサロ,ロレンソ・デ・アルダナをキト総督に任じ,ベナルカサル捕縛を命じる.ベナルカサルはポパヤンにこもり抵抗.アルダナは使命を果たせないままリマに戻る.

39.11.30 ゴンサロ・ピサロ,フランシスコによりキト総督に任じられる.

39 キトを失ったベナルカサル,フェデルマンと連合し,ヒメネス・デ・ケサーダのボゴタ支配に対して,異議を唱える.

1540年

12.1 ゴンサロ,ベナルカサルの抵抗を打ち破り,正式にキト総督に就任.ベナルカサルは本国に戻り,訴訟を起こす.

40 ブリティカに金鉱発見.

40年 ロドリーゴ・デ・バスティダス、エスピラの離任に伴い二度目のベネズエラ知事に就任。

41 ボゴタ北方のムソにエメラルド鉱発見.

41 本国のベナルカサル,コロンビアの支配権獲得に失敗.改めてポパヤンの知事に任じられ,コロンビアに戻る.

46 キトに大司教区、ポパヤンに司教区が設置される.

49 ボゴタにアウディエンシアが設置される.すべてを失ったケサダは本国に戻る.

1550年

4 カルロス1世,コロンビア・ベネズエラを含む北アンデスをヌエボ・レイノ・デ・グラナダと命名.ボゴタを首都と定め,サント・ドミンゴからペルー副王領の管轄に移す.法と秩序をもたらすためレアル・アウディエンシア設置.

50 ベナルカサル,近隣の州に対し領有を主張.支配者を殺害.現地での裁判にかけられ,「仲間殺し」の罪で有罪を宣告される.無罪を主張し,本国に赴く途中,カルタヘナで熱病死.

50 ボゴタを副王領に奪われたあと,本国で不遇をかこっていたケサダ,ヌエバグラナダ総督及びボゴタの終身議員に任命される.

52 ウルスア,サンタマルタを出発.タイローナ国探検に向かう.

52 カルタヘナ大火.市街のほとんどが灰塵に帰す.

62 ボゴタに司教区が設置される.

63.8 ラスインディアスの機構改革.パナマをふくむヌエボ・レイノ・デ・グラナダは総督領(プレジデンシア)と改称.ペルーからの自治権を強化される.アウディエンシアは本来の司法機能に限定される.

63年 キトにもアウディエンシアが設置される.カウカ,ナリーニョ,バジェ(現コロンビア)はキト総督領となる.(総督職はゴベルナドールからプレシデンテ、総督領もカピタニアからプレシデンシアに改称された)

72 ボゴタ大学創立。

86.5.27 ベナルカサルの現地人とのあいだの子供ミゲル・デ・ベナルカサル,植民地当局に謀反を企てたとして処刑される.

 

1600

04 イエズス会,コロンビアでの布教活動を開始.

16 本国での迫害を逃れたユダヤ教徒,アンデス中央山脈のアブラ盆地にメデジンの町を建設.20世紀に入ってからコーヒーブームとともに急成長.

39 カルタヘナを取り囲む城壁建設.サン・ラサロの丘には新大陸最強といわれたサンフェリペ・デ・バラハス要塞

50 カルタヘナとマグダレナ河を結ぶディケ運河開通.カルタヘナは内陸とを結ぶ要衝として発展.

ペルーからの分離

1700

17.5.27 ペルー副王領から分離し,ボゴタにヌエバ・グラナダ副王配置,イギリスの侵略に備える.ベネズエラ,コロンビア,パナマを統轄する.

20 キトの所属は,ペルーからヌエバグラナダに変更される.

23.5.11 ヌエバ・グラナダ副王領、財政難からいったん閉鎖される。

27 ボゴタ地方でコーヒーの栽培開始.

36 フランス人科学調査団がキト入り.キトが赤道の緯度にあたることを確認.10年間の滞在中に啓蒙主義を広める.

39 イギリス,スペインにさらなる屈服を要求し戦争開始(ジェンキンスの耳戦争).カリブ艦隊がカルタヘナとサンチアゴ・デ・クーバを攻略.

39年 カルロス三世、プレシデンシアに代わるものとしてインテンデンシア制度を導入。インテンデンシアは直轄管区制度と呼ばれ、本国から送られた軍幹部が、管理機構のトップを担うことで、中央集権と管理の効率化を図る。インテンデンシアの導入に伴い、キトはヌエバ・エスパニャ副王領に編入され、リオバンバ以北のキト管轄区と、クエンカ以南とグアヤスからなる南部管轄区に分けられる。

39.8.20 スペインは南米防衛のため,再度ヌエバ・グラナダ副王領を再建.ボゴタが首都となる.

41 イギリス軍エドワード・バーノン提督,186隻の船団に2千の砲と2万5千の兵をのせカルタヘナを攻撃.3ヶ月間にわたる包囲にもかかわらず,副王フローレスの派遣したドン・ブラス・デ・レソ将軍と,2千5百の守備隊の堅い守りのため失敗に終わる.カルタヘナの町はほぼ崩壊.その後フローレスは地場産業や輸出用作物の生産増大をはかる.

67年 王室、新大陸のイエズス会を放逐し、その財産を没収。

74 スペイン政府,新大陸各植民地間の交易を許可.

78 コロンビアで最初の統計.サンタフェ・デ・ボゴタの人口は1万6千人,うち52%を白人が占める.

79 スペイン,米西同盟にもとづき対英参戦.カリブ海岸の防衛のため戦費調達が必要となり植民地に増税を命ずる.

1780年

10.12 ボゴタの巡察使フランシスコ・グティエレス,タバコおよび酒精に高額の税を課し,売買税の対象品目を日用品にまで拡大.

11 沿岸部に対するイギリス軍攻撃の危機迫る.副王フロレスら軍の大部分はカルタヘナに移動.首都での監視弱まる.

 

1781年:コムネーロスの反乱

3.16 ソコロ地方(現サンタンデル州)でタバコ税など重税と物価騰貴に反対するたたかいをきっかけとする「コムネーロスの乱」発生.

4.15 ソコロのコムネーロス,クリオージョのフアン・フランシスコ・ベルベオ(マヌエラ・ベルトラン?)を指導者とし4人の商人を中心に最高軍事委員会を組織.クリオージョだけでなくインディオや黒人も参加.6千人が結集.コロンビア内の諸都市やベネズエラ,エクアドルにも波及.反乱のスローガンは重税反対から,独立の要求に代わって行く.

4.18 グティエレス,反乱鎮圧のため聴訴官オソリオを司令官とする80名の兵を派遣.

4.22 オソリオ(バレラ?)の軍隊,プエンテ・レアルで反乱軍に包囲され投降.反乱軍はベルベオを司令官に選出.鉱山奴隷や農場のインディオを解放し3千から4千の人民軍となる.インディオはアンブロシオ・ピスコを指導者として決起するが,コムネーロスは共闘を拒否.

5.26 反乱軍,ボゴタ北方のネモコンに進み,ボゴタ解放をねらうにいたる.ボゴタ側は大司教カバエロ・イ・ゴンゴラ(のちの副王),バスコ判事とガラビス聴訴官をシパキラーまで派遣,反乱軍との交渉を提案.

6.7 コムネーロスとボゴタ側のあいだにシパキラー協定成立.反乱軍の解散を条件にグティエレス巡察吏の解任,新税の撤回,クリオージョの公職への登用で合意.反乱軍はソコロへ引上げる.

7 副王フロレスは協定を認めず,武力を背景に指導者の懐柔をはかる.ベルベオはソコロの代官に任命され,他も大多数が副王側に寝返り,運動は終焉.ホセ・アントニオ・ガランだけが抵抗の姿勢を保つ.

1782年

1 副王軍,抵抗を続けるコムネーロスに対し弾圧.ガランは捕えられ,ボゴタにおいて四つ裂きの刑に処せられる.

3.18 副王兼大司教となったカバエロ,コムネーロスとの公約の破棄を宣言.

83 チブチャ語の使用を禁止.

94年 ボゴタのアントニオ・デ・ナリーニョ,トマス・ペインの「人間の権利」(一説にフランス人権宣言)を西訳し流布した罪で逮捕.アフリカの監獄に入れられるが,逃亡し本国に逃げ帰る.

 

1800

1808年

12.25 キト近郊チリョ・コンパニャ農場にフアン・ピオ・モントゥファルら市会の有力者が集まり「フランスのカイライ政権を認めず,フェルナンド7世を唯一の支配者とする」独立宣言を起草.

08 モンポスとカルタヘナ,ナポレオン政府への服従を拒否し独立を宣言.ボゴタの独立派は中央政体となるべくヌエバグラナダ最高裁判所を設立.各地から判事を選出するよう呼びかけることとなる.各地はこの提案を拒否し,ボゴタからの自治をもとめるようになる.

1809年  キトの独立運動

8.10 (エ)キトのクリオーリョ,「正統的君主擁立のための評議会」を結成。フェルディナントの名において独立を宣言.

9月 キトの最高評議会,スペイン軍に無血降伏.有力者は恩赦を受けるが下級兵士や活動家は厳しく罪を問われる。

 

1810年:第一次独立運動

5.22 カルタヘナの参事会,評議会の設立を決定.独立に向けて動く.

7.04 アグエダ・ガリャルド・デ・ビリャミサルの指導するパンプロナの議会,独立を宣言.

7.05 カラカスのフンタの呼びかけで議会が召集され、スペインからのベネズエラの独立を宣言する。ミランダがフンタと軍の指揮権を与えられる。カラカス以外の三つの町(コロ、マラカイボ、グアイアナ)の参事会はカラカス参事会の支配下に入るのを嫌い、スペインからの独立に反対する。

7.10 コムネーロス発祥の地、アンティオキア州のソコロが独立を宣言.

7.20 ボゴタでクリオージョを主体としたフンタが結成される.クンディナマルカ共和国成立,ナポレオンに支配されたスペイン政府からの独立とフェルディナンド支持とを宣言し、副王を追放する.指導者はアントニオ・ナリーニョ.

8.10 (エ)キト市民が蜂起し数日間におよぶ市街戦.実権をクリオージョの評議会が握る臨時政府を樹立.2年にわたり独立を維持.

11.11 カルタヘナの参事会,「カルタヘナ共和国」の独立を宣言.カミロ・トーレスら連邦派が主導権をとる。アンティオキア、カルタヘナなどコロンビア北部5州は、「ヌエバグラナダ諸州連合」を形成。

 

1811年

11.11 ボゴタでヌエバグラナダ独立派の議会開催.カミロ・トーレスを先頭とする海岸地帯の独立派は,米国をモデルとする連邦制を主張.これに対しアントニオ・ナリーニョを先頭とするボゴタの独立派は中央集権制の維持を主張.結局議会は「ヌエバグラナダ諸州連合」の成立を宣言.国軍の指揮権をボゴタにゆだねることとする.

12.15 ベネズエラでの闘いに敗れたボリーバル,キュラソーからヌエバ・グラナダ自治政府の統治下にあったカルタヘナにわたり,「ヌエバグラナダ市民に宛てたカラカス人の回想」(カルタヘナ宣言)を発表.内部の不統一と弱体な政府が敗因であると第一次共和制崩壊の原因を分析.

12.24 ベネズエラからカルタヘナに逃れたボリーバル,カルタヘナ軍をひきいモンポッスとテナリーフェを占領.マグダレーナ川領域に独立派の支配権確立.

 

1812年

 

1813年

2.28 ボリーバル,カルタヘナからベネズエラに反攻開始.ククタのたたかいに勝利

3.12 ボリーバル,ヌエバグラナダ政府の准将となる.

13 クンディナマルカ,連邦派と中央集権派のあいだで内乱.

1814年

2 フェルナンド親王,フェルナンド7世として即位.絶対王政が復活される.LAへの反攻と支配の再確立をめざし派兵.共和派各地で敗北を重ねる.ボゴタ共和国崩壊,ナリーニョは捕えられスペインへ.王党派の巻返し強まり,中間派クリオーリョの本国への幻想を打ち砕く.

5.28 ボリーバルとマリーニョ,カラボーボでボベスとモラレスの連合軍とのあいだに決戦開始.

11.27 カルタヘナのヌエバ・グラナダ政府はボリーバルを最高司令官に昇進させ,クンディナマルカ州の奪還を依頼する.

12.12 ボリーバル,ボゴタのスペイン軍の降服協定をとりつける.ボゴタ政府成立.

1815年

2 フェルナンド王,パブロ・モリリョ将軍指揮下の1万の遠征軍をカルタヘナに派遣.

5 モリーリョ軍,カルタヘナ奪回作戦を開始.4ヶ月間にわたる激戦となる.

8 カルタヘナで王政派の反乱が起き,独立派は敗北.この闘いで市民6千が飢えや病気のため死亡.戦闘を指導したボリーバルはジャマイカに亡命.

9.6 ボリーバル,亡命先のジャマイカでヌエバグラナダ政府,ジャマイカ総督宛に独立の大義とLAの統一を訴えた手紙をまとめた「ジャマイカからの手紙」を出版.

 

1816年

1 ブラウン船長のひきいる傭兵団,アルゼンチンの依頼を受け海路カリャオ,グアヤキル港を襲撃.

5 独立派最後の拠点ボゴタ,モリーリョ軍の手に落ちる.カミロ・トーレスら共和主義者を処刑.粛正裁判所を設置して独立派を弾圧.没収委員会が亡命者の資産を押収.教会裁判所では独立運動に参加した聖職者を摘発.モリーリョの厳しい処置に対する反発が,これまでの非独立派の中にも広がる.その後モリーリョは内陸の各都市を奪回し17年には全土平定を実現.

 

1817年

1 サンマルチン,チリ亡命者を加え約5千の兵をひきいアンデス越えを開始.

 

1818年

18年 エクアドル独立運動の指導者モントゥファル,カディスの監獄で獄死.(多分カルロスと思うが、父フアン・ピオの没年も同じである)

 

1819年

2.15 アンゴストゥーラで3地域の代表者会議,単一の強力な中央集権国家を作ることで合意.「コロンビア共和国」の創設を宣言.ボリーバルを大統領とする.

2 フランシスコ・デ・パウラ・サンタンデル,ボリーバルの命を受けカサナレ地方に潜入.当地に潜伏していた独立派残党を糾合.

2 ボリーバル軍,アンゴストゥーラを出発,アプーレでモリーリョ軍と遭遇.いずれも決定的勝利を得られず消耗戦に移行.

4 サンタンデルの部隊,王党派軍を撃破.

5.23 ボリーバル軍の将官が,ベネズエラ領内のセテンタ村で会談。モリーリョ軍との戦闘膠着状態を脱するため,迂回してヌエバ・グラナダ解放を先行させる作戦開始.アンデス越え作戦にとりかかる。

6.23 (エ)グアヤキル,住民の希望によりふたたびキトのアウディエンシアに帰属することとなる.

 ボリーバル軍,ヌエバグラナダのターメでフランシスコ・デ・パウラ・サンタンデルの軍と合流.二千の軍を率いアンデス越え開始.

7 ボリーバル軍,アンデスを越えソガモーソに到着.

7.25 パイパ北方10キロのパンタノ・デ・バルガスの沼沢地帯で前哨戦.ボリーバルのベネズエラ軍が辛勝するが、最終的な決着には至らず。両軍はともにボゴタを目指し移動する。

8.05 バルガス沼の戦い。(上記との異同は不明)

8.07 ボヤカの戦い

コロンビア・ベネズエラ連合軍2850名が、ホセイ・マリア・バレイロ(Barreiro)将軍率いる王党派軍2670人を3時間の短時間で打ち破る。

ボヤカ: ボゴタから150km北方のアンデス山中、現在のボヤカ州Casa de Tejaに相当する。この村を流れるTeatinos河に架かる橋“el Puente de Boyaca”が名前の由来。この橋から、道はSamaca、Motavita、Tunja(北方16キロ)へと分かれていた。この橋はもはや使用されてないが、南米独立のシンボルとして今も保存されている。

午前6時00分 スペイン軍、モタビータ(Motavita)を出発。25キロ北方のボヤカへ向かう。

午前10時00分 サンタンデル将軍の率いるコロンビア軍が、Tunjaを出発。16km先のCasa de Piedraへ向かう。

午後1時30分 セバスチャン・ディアス大佐の率いるスペイン軍の前衛部隊、ボヤカに到達。後方の主力は1.5キロ遅れて進む。

午後1時30分 サンタンデル軍の右翼となったAndres Ibarra大尉の部隊がボヤカのスペイン軍と遭遇。スペイン軍はイバラの部隊を追撃。イバラ部隊を迎えたサンタンデル将軍は、ただちにパリス中佐に迎撃を命じる。

午後2時 スペイン軍はボヤカ橋の北側に陣を構える。サンタンデル軍主力はCasa de Piedraに入る。ホセ・アントニオ・アンソアテギ(Anzoategui)将軍の率いるサンタンデル軍は、スペイン軍中央部に突撃し、前衛のディアス部隊と本隊を分断する。攻撃を受けたスペイン軍本隊はCasa de Piedra付近の小さい丘に退却。3つの大砲を中心に、本国部隊が円陣を形成。両翼に騎兵部隊を配する。

午後2時 シモン・ボリーバルのベネズエラ軍が、バルガス沼の戦いの後パピアから到着。スペイン軍後衛への攻撃を開始する。バルセロナ大隊とBravos de Paez大隊が右翼を攻撃。「イギリス大隊」とライフル大隊が左翼を攻撃。

午後2時 劣勢のスペイン軍は、総崩れとなる。ボリーバルは槍部隊に中央の歩兵部隊の攻撃を命じ、騎兵部隊には逃亡兵の殲滅を命じる。Bareiroはボリーバル軍の封鎖網を破り、前衛部隊との合流を目指すが、激しい砲火の前に降伏。

午後2時 一方、Casa de Piedraでは橋から1.5キロ離れて、独立軍前衛が徒歩で川を越える。部隊はスペイン軍の背方にまわり銃剣攻撃を開始。その間に後衛部隊も渡河に成功。

午後4時00分 スペイン軍兵士は橋に司令官のフアン・タイラ大佐を残し逃走。2時間あまりの戦いが終了。独立軍は敵を追撃し。1,600人の将兵とホセ・マリーア・バレイロ大佐、フランシスコ・ヒメネスを含むスペイン軍高級将校数人を捕らえる。ヌエバグラナダの解放は、この勝利によって保証された。

夜 シモン・ボリーバル、勝利は「イギリス大隊」の功績によるものとし、大隊に月桂冠を贈る。またフランシスコ・デ・パウラ・サンタンデルとホセ・アントニオ・アンゾアテギ(Anzoategui)を、地区総司令に任命する。ボヤカの闘いの敗北を知らされたボゴタのスペイン人は、各地に向かい逃げ出した。

8.10 ボリーバルは副王軍を撃破したあと一気にボゴタを解放.コロンビア共和国の建国を宣言.バレイロ将軍は捕らえられボゴタで処刑される.

9.18 ボリーバルはコロンビア共和国大統領に就任.リベルタドールの称号をあたえられる。その後サンタンデル副大統領に政務を委ね,アンゴストラにもどる.

12.17 アンゴスツラで革命議会開催.ベネズエラ,クンディナマルカ,キトの三行政州に分かれたグラン・コロンビア共和国を創設.国会は憲法を発しボリーバルを大統領に選出.政府,奴隷から生まれた新生児を解放する政令を発布.

 

1820年

1 カディスに集結した新大陸遠征軍の一部が蜂起.各地の自由主義者も呼応し,護憲革命が成立.

3.5 ボリーバル,ふたたびボゴタ入りしベネズエラ解放戦に備える.

8.05 (エ)エスメラルダ地方が,スペインからの独立を宣言.

10.09 (エ)グアヤキルで,独立派と軍の一部による独立をめざす反乱成功.ペルー軍の駐屯部隊を駆逐.ボリーバルとサンマルチンの保護下による独立 (Provincia independiente)を宣言.市民評議会の議長にはホセ・ホアキン・デ・オルメドが就任.グアヤキルを代表する農園主で貿易商のフェブレス・コルデロがパトロンとなる。オルメドはカディス議会のグアヤキル代表をつとめた思想家。

10月 (エ)サンマルチンはギドとルスリアガの2人を送り,同盟関係の締結を試みる.第一次独立とは逆にキトが王党派の牙城となる.

11.03 (エ)グアヤキルに続き、クエンカもスペインからの独立を宣言。

11.09 (エ)レオン・デ・フェブレスの率いる独立軍,「カミノ・レアル」の闘いで王党派に勝利. 

11.22 (エ)トゥングラウア近郊ウアチの闘い.ルイス・ウルタネーダの率いる独立軍はフランシスコ・ゴンサレスの率いる王党派軍に大敗.

11.26 反攻開始以来の政府軍指揮官モリーリョ将軍,本国の指示によりボリーバルと停戦.まもなく本国に召還される.トルヒーリョでボリーバルと休戦条約締結.

11.28 (エ)劣勢に追い込まれたグアヤキル,ボリーバルを最高指導者と認め,グランコロンビア共和国への加入を決議.

12.20 (エ)マリア・バスケス・デ・ノボアの率いる独立軍,アスアイ近郊ベルデロマの闘いでゴンサレス軍に敗れる.クエンカを占領したゴンサレスは,独立派28人を公開処刑.

 

1821年

1.03 (エ)タニサグアの闘い.サンマルティン軍から派遣されたホセ・バルタサル・ガルシアの部隊が,王党軍に敗れる.この闘いで独立派兵士410人が戦死.バルタサルの首はキトの町で晒しものにされる.同じくサンマルチン軍のルスリアガが,グアヤキル軍の司令官に任命される. ボリーバルは陸軍大臣となったスクレを海路派遣する.

4 ボリーバル,7千の兵を連れ,ボゴタを出発.ベネズエラ解放を目指す.

5.06 ククタ近郊のビラ・デル・ロサリオ(サンタンデルの生地)で独立軍の代表者会議.議会そのものは5月6日から,10月14日まで断続的に開催される.エクアドルも含め大コロンビア合衆国建設を決議.サンタフェをボゴタと改称,首都とする.

5.15 (エ)コロンビア共和国の陸軍大臣となったスクレ,1千の兵とともに海路グアヤキルに着任.ルスリアガにかわり現地軍司令官となる.

21年6月

6 (エ)キト軍司令官アイメリチ,グアヤキルを攻撃.スクレはこれを撃破し、さらにアムバト(Ambato)まで追撃するが,キトから迎撃に出たゴンサレス軍に惨敗,死者3百,捕虜6百4十を出しグアヤキルに退却.

6 ボリーバルとパエスの部隊,スペインとの休戦協定を破棄しカルタヘナを攻撃,ついでマラカイボに進撃.

8.19 (エ)ホセ・ミレスの率いる独立軍,ジャグアチの闘いでゴンサレス軍を撃破.この後副王軍の指揮をアイメリッチ司令官が直接がとる。

8 ククタで大コロンビア憲法制定議会が召集される.新共和国憲法を起草.三権分立の下に強力な中央集権政府の設置を憲法に定める.二院制の国会,大統領府,5人の判事からなる最高裁判所が創設される.奴隷解放(奴隷の子の自由),ミタ制度の廃止を決める.税制度の確立,人権の尊重,出版・通信の自由が謳われる.サンタンデルは3国のゆるやかな連邦制を主張.中央集権主義者と連邦主義者の争いの始まりとなる.

9 制憲議会での投票の結果,ボリーバルが大統領に,サンタンデルが副大統領に就任.ナリーニョも副大統領に立候補するが敗北.

10 カルタヘナの町を解放.ボリーバルはカルタヘナに「英雄の町」の称号を授ける.

11.12 スクレの部隊,ウアチの闘いでアイメリッチの騎兵部隊に敗れる.ミレスも王党派の捕虜となる.

11 スクレ,サンマルチンに独立戦争での協力を申入れ.サンマルチンはトルヒーヨ管区司令官となったアレナレスに出動を指示.アレナレス,病気のため応援部隊の指揮をアンドレス・デ・サンタクルス・カラウマナに委ねる.サンタクルスはスペイン人を父に,インディオを母にもつ混血の軍人.

1822年 エクアドルの解放

1.18 (エ)スクレ,部隊を再編成しグアヤキルを出発.いったん南部の山岳地帯に入り、そこから北上を目指す。

1.22 (エ)サンマルチンの派遣したアンドレス・デ・サンタクルス・イ・ラバジェン指揮下の千名が,ロハ北方のサラグロでスクレ軍に合流.クエンカに向かい北上。

2.21 (エ)クエンカの王党派軍,戦わずしてスクレ軍に降伏.

4.07 (エ)ボリーバル,コロンビアからエクアドルに進出.スクレとともに,キト軍の挟撃をはかる.ボンボーナのたたかい.王党派を寝返ったホセ・マリア・オバンド将軍の情報をもとにたたかうが,千8百名以上の死傷者を出し敗退.

4.21 (エ)スクレ軍,リオバンバの近郊でアイメリチ軍と対決.これを打ち破る.王党軍はキト方面に敗走.

4.21 (エ)スクレ軍,リオバンバにはいる.アルゼンチンの騎兵部隊がタピで王党派を撃破.

4 イカの闘い.副王軍がサンマルチン軍を撃破.リマに迫る.

5.18 (エ)ミレス,キトからの脱獄に成功しスクレに合流.

5.24 (エ)スクレ軍3千名とアイメリッチ指揮下の王党派2千名が,ピチンチャ火山の山麓で決戦.スクレ軍の勝利に終わる.王党派400人,独立派200人が戦死.

5.25 (エ)ボリーバル軍,キトの包囲体制にはいる.アイメリッチ将軍,キトで降伏の意を表明.

6.16 (エ)スクレとボリーバル,キトに入城.エクアドル,グランコロンビアに併合.その後も長期にわたり,グアヤキルの自由派と,キトの保守派+教会勢力とのあいだに抗争続く.

22年7月 ボリーバルとサンマルチンの会見

7.11 (エ)ボリーバル,サンマルチンに先行してグアヤキルに到着,同市をコロンビア共和国に併合すると宣言.

7.11 (エ)ボリーバル,グアヤキルの支配者として承認される.

7.17 (エ)エクアドル民兵軍,キトからさらに北方へ進出。イバーラの闘いで王党派を撃破.両軍併せ800の死者を出す激戦.

7.26 (エ)サンマルチン,グアヤキルに到着.

7.27 (エ)ボリーバル,グアヤキルでサンマルチンと会見.サンマルチンはペルーにヨーロッパから皇帝を迎え入れる案を提示するがボリーバルは拒否.

7.28 サンマルチン,ペルーの統治をボリーバルに委ねると通告.以後の解放闘争は,ボリーバルが指導することで合意.

7.29 サンマルチンの部下でペルーの統治を委任されたモンテアグード,失政を繰り返し国内混乱.リマ市内は暴動状態となりモンテアグード罷免される.副王軍,ふたたびリマの町を包囲.ペルー議会はボリーバルに全権を委任し出動を依頼.

7.31 (エ)ボリーバル,グアヤキルをグラン・コロンビアに併合.グアヤキルとエスメラルダを併せグアヤキル州とし,バルトロメ・サロム将軍を知事に任命.

8.08 ボリーバル,グアヤキルから船でカリャオに向かう.

9 ボリーバル,副王軍を撃破しリマを解放.

1823年

1824年

1 ボリーバル,結核の悪化のため長期療養を余儀なくされる.

2 副王軍,ボリーバルの部隊を撃破し,ふたたびリマを確保.共和国政府と議会は副王に忠誠を誓う.ボリーバルは北部のトルヒージョに撤退.

6 トルヒージョで1万の部隊を再編成したボリーバル,アンデス山中を通りリマに向かう.

8.06 フニンでボリーバル軍とハウハの副王軍8千が対決.ボリーバル軍は王党派軍の主軸カンテラック軍を撃破.副王軍は本格対決を避け,副王の居るクスコに退却.ボリーバル軍はクスコから240キロのアンダワイラスまで進出.ボリーバルは本隊をスクレに委ね,リマ周辺に進出.

10 副王ラセルナの率いる9,300のクスコ軍,ウァマンガに進出し,ボリーバル軍とスクレ軍との分断を図る.

10 ボリーバル,米国と平和,友好,航海,通商条約締結.このなかでパナマ地峡のあらゆる通商ルートを米国に解放すると規定.

12.07 ボリーバル,ラテンアメリカ各国にパナマ会談への参加をうながす手紙.ラテンアメリカ5原則を提示.①経済,政治,文化の面で密接な関係に基づく共通のアイデンティティーの確立,②経済,貿易,防衛面での域内の協力,③紛争の平和的解決,④各国の法律を遵守し,国民によって自由に選出された政府を共同して擁護すること,⑤外交政策での協力と国際政治が提起する諸課題に共同して交渉に当たること.最低10万からなる連合軍の創設,外交権の一部委譲,国家間紛争の仲裁などの機能付与を提案.

12.07 ボリーバル,リマを解放.報復を恐れる副王派の市民数千が,カリャオ要塞に立てこもった副王軍と行動をともにする.

12.09 クスコに陣取る副王ラ・セルナ,1万の兵をアヤクーチョに進出させ,スクレ軍5,700(一説に7千)と対決.二時間にわたる決戦の末スクレ軍が勝利.王党派軍を壊滅においこむ.王党派は2千が戦死,2千が捕虜となる.スクレ軍側にも千名の戦死者.ラセルナは負傷し捕らえられる.

12.10 副王軍は無条件降伏し,南米独立派の勝利が確定.ギニアを除く南米諸国,総て独立をかち取る.

1825年

2.18 ボリーバル,ペルー大統領の辞任を申し出るが,議会により拒否.

8.6 スクレ,王党派の生き残りオラニェータを追撃しアルトペルーへ進出.チュキサカでアルト・ペルー議会開催.ボリビア共和国の創設を決定.

1826年

5.25 ボリーバル,スクレに対しボリビア共和国の承認を通知.

6.22 パナマでアメリカ大陸諸国会議開催.グラン・コロンビア,中米連合,ペルー,メキシコの4ヵ国が参加.他の諸国はボリーバルに対する警戒感から参加を拒否.ボリーバルはこの会議を,連合軍および艦隊からなる固有の軍事力を備えた常設機関とし,イスパノアメリカ諸国の「対外的行動を統一し,共同防衛の調整センターとしての役割を果たす」ようにしようと考えたが,各国の協力をえられず失敗.

8 ボリーバル,各地の指導者に対し,ボリビア憲法を基本とした憲法改正をおこなうよう要請.

26 グランコロンビア,戦争による経済疲弊のため,イギリスに対し債務返済不能状態(デフォールト)におちいる.

 

1827年

1.1 ボリーバル,プエルト・カベーリョにおもむきパエスと会談.ベネズエラの自治を認めパエスをベネズエラの指導者に任命.その後カラカスに入る.

2.05 新大陸統合に反対のサンタンデル,自派の新聞に連邦制強化とボリーバル批判の文書を掲載.ボリーバルはボゴタ議会に対し大統領辞職願いを提出.

3.16 ボリーバルとサンタンデルの関係が決裂.サンタンデルは副大統領を辞任.

3 リマ駐留のコロンビア第三補充師団がサンタンデルを支持して反乱.グアヤキルに入り反ボリーバル評議会を設立.

4 ペルーのAgustin Gamarra将軍,ボリビアに侵入.スクレの改革を恐れるボリビア国内の保守派もガマラを支援.

4 保守派によるスクレ大統領暗殺未遂事件発生.

6.6 コロンビア議会,ボリーバルの辞職願いを拒否.

7 ボリーバル,カラカスを出発,グアヤキルに向かい当地の内紛を解決.

9.10 ボリーバル,ボゴタにおいて共和国大統領の宣誓.

9.22 マヌエル・レオンの率いるボリーバル軍,グアヤキルを奪還し,秩序を回復.

1828年

4 グランコロンビアの統一の維持のためオカーニャ議会開催.ククタ憲法の改正を審議.中央集権の強化をはかるボリーバルの思惑とは逆にサンタンデル派が進出し,対立激化.

6 オカーニャ議会,中央集権派と連邦派の対立解消になんらの前進もえられぬまま解散.

7.05 ペルー,トゥンベスからパナマに至る海岸線を封鎖.ボリーバルと対決.ボリーバルはペルーに宣戦布告.

8.27 ボリーバルは長老会議の決定を受けコロンビアの全権を掌握.事実上のクーデター.自らを終身大統領とし,後継者の指名権も持つ新憲法を発表.サンタンデル副大統領を解任,米国駐在大使に任命.独裁制にふみだす.ボリーバルの専制に対する連邦主義者の不満が表面化.サンタンデルらは,10月28日を期してクーデターを起こす計画をたてる.

9.23 ホルヘ・ギセ提督の率いるペルー艦隊,グアヤキルを砲撃.

9.25 ボゴタでフランス人ホルマンとカルーホ(ベネズエラ人将校)によるボリーバル暗殺未遂事件.ボリーバルの愛人マヌエラ・サエンスが逮捕される.前副大統領サンタンデルが事件に関係したとして,死刑を宣告される.ボリーバルは罪を減じ海外追放処分に処す.

11 ペルー人のオバンド将軍,カウカで反乱開始.ペルー在住のラ・マル将軍(コロンビア人)に共闘をよびかける. ペルー軍,エクアドル領ロハを占拠.

1829年

1 ラ・マル将軍,反乱開始.ペルー軍8千が,エクアドル領内に侵入.ペルー艦隊がグアヤキルを占領する.ボリーバルはスクレ軍4千を派遣.

2.10 クエンカ,ペルー軍により占領.

2.28 スクレ,クエンカを奪回。クエンカ南方タルキのたたかいで、苦戦の末ペルーの反乱軍8千名を打ち破る.戦死者は合せて千五百名を越える.残党はペルーに敗走.

3 スクレとラ・マル将軍とのあいだにヒロン条約.ペルーとエクアドルの境界線は副王領時代の境界で確定.多大の犠牲を出し、代償を獲得できなかったスクレは、すべての公職からの引退を申し出る.ラ・マルは条約を無視してグアヤキル進駐を続ける.

7.21 ボリーバルみずからのひきいるコロンビア軍,苦戦の末グアヤキルを奪還.

29年 チリ政府,ロンドン滞在中のアンドレス・ベーリョを招聘.教育充実に力を注ぐ.

 

1830年:ボリーバルの死

1.13 ベネズエラ議会、コロンビアからの完全独立を宣言。

1.20 コロンビア議会,スクレを議長に指名.サンタ・マルタの司教が副議長に選出される.

4.27 ボリーバル,議会にあて最終的に辞任の意志を表明.後任にスクレを推薦するが,議会に拒否され,ホセ・ドミンゴ・カイセドを指名.

5.04 ホアキン・モスケーラがコロンビア大統領に選出.副大統領にはボリーバルの腹心ドミンゴ・カイセード.ボリーバル派が多数を占めるエクアドル,大コロンビア連邦より脱退の意思を表明.スクレを大統領に選出.

5.08 ボリーバルはヨーロッパにわたるべくボゴタを出発.

5.13 エクアドル,グランコロンビアからの分離・独立を宣言.大コロンビア共和国崩壊.ペルーは条約締結国であった大コロンビア共和国が消失したことを理由に,1年前の国境議定書を無効と宣言.

6.04 スクレ,エクアドル初代大統領として赴任の途中,コロンビア南部の町ベルエーコスにおいて暗殺される.

8.10 エクアドル,共和国として独立宣言.ベネズエラ出身の軍人フアン・ホセ・フローレスが政治・軍事指導者に指名される.フローレスは,彼の周囲を固める多くのベネズエラ人軍人と同じく,ムラートの下層階級の出身で,ほとんど文盲だった.

9.05 コロンビア政府内でボリーバル派が力を盛り返す.1810年以来の歴戦の勇で、ボリーバルの右腕と目されたウルダネタが、コロンビア政権を掌握.ボリーバルをふたたび迎える意志を表明.

9.18 ボリーバル,ウルダネータ政権を支持するため,ふたたびボゴタに向かうと表明.

9.22 ベネズエラ,共和国として独立.ホセ・パエスが16年にわたり執政をとる.

12.17 ボリーバル,チフスによりサンタ・マルタにて死去.ボリーバルは死の直前次のように語ったといわれる.「歴史上三人の偉大な馬鹿がいる.それはイエスとドンキホーテと私だ」

もう一人の馬鹿: チャベス大統領は「ボリーバルは毒殺だった」と主張。2010年、死因を究明するために、国立霊廟にまつられている遺体を発掘させる。

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