自由貿易主義の時代 米国の介入開始 労働運動と民族主義の高揚 ボゴタソ事件 ラ・ビオレンシア
キューバと連帯した武装闘争の時代 『進歩のための同盟』下での相対的安定 M19の華麗な登場 経済破綻と対外債務の重圧
1831年
10月 サンタンデル派の軍が政府軍を撃破。8ヶ月にわたり続いたラファエル・ウルタネーダ将軍の軍事独裁政権が崩壊.
10月 コロンビアはヌエバ・グラナダ共和国としてあらあためて発足.カイセド,新憲法起草のための委員会を招集.
32 連邦制を基調とする新憲法が公布.追放中のフランシスコ・パウラ・サンタンデルがボゴタに帰国し,コロンビア共和国初代大統領に就任.以後37年まで集権派とのあいだに国内紛争状態続く.
37 サンタンデル,任期を終え引退.後継者には副大統領のホセ・イグナシオ・デ・マルケス.各州知事は中央に従わず.
自由貿易主義の時代 40 マルケス大統領,パストの修道院を弾圧.これに反対する複数の州知事が反乱.内戦状態に移行.奴隷と先住民も、反オリガルキーの戦いに立ちあがる。
41 政府軍のペドロ・アルカンタラ・エラン将軍が内戦を鎮圧.みずから大統領に選出される.
43 エラン,連邦制を基調としながらも,中央の権力を強化した新憲法を制定.
45 トマス・シプリアノ・デ・モスケラがエランを継いで大統領に就任.輸出振興に力を注ぐ.一方政権内部では腐敗が進む.
46 米国とのあいだにビドラク・マヤリノ条約締結.対英防衛の立場から米国に接近,パナマ地域に運河を開さくする権利を認める.
48.7.10 ビドラク=マャリーノ条約にもとづき,米国との平和,友好,航海,通商条約改定.いかなる地峡ルートも米国に開放されること,関税の免除が与えられることをとりきめる.
49 連邦派を中心に自由党が結成される.自由貿易を支持する商人(ゴルゴタス),新興ブルジョア層,保護主義を支持する手工業者,職人や製造業者(ドラコニアノス),小地主などの雑多な支持層を背景とする. 保守・自由両党の政治が始まる.
1850年
50 自由党ホセ・イラリオ・ロペス将軍が大統領に就任.州の自治を大幅に認める自由主義憲法を制定.イエズス会の追放,宗教の自由を確立,奴隷制度廃止を含む新憲法を制定.連邦派の支配確立.奴隷制も形式的には廃止されるが,地方では奴隷制が事実上半世紀以上維持される.農業改革は大土地所有制を可能にするため,共有地の保護を撤廃するもの.土地を追われた先住民は僻地に移動するか都市に出て労働者となるかを迫られる.
51 ロペス政権,たばこの製造・販売を民営化.教会と政府の分離を宣言.教区の聖職者は選挙で選ばれることになる.これに対抗する中央集権派は,農村のすみずみまで保守党に組織.以後国が2大政党によって分裂する風土が形成.
1853年
1 自由党のホセマリア・オバンド将軍が大統領に選出される.オバンドは40年革命の司令官を務めた人物で自由党急進派(ドラコニアノス)を代表.
4 ロペス前大統領の起草になる新憲法が議会で成立.教会との分離をさらに進め,信仰の自由を保障.さらに男子普通選挙権をあたえる.大統領,議会議員,裁判所判事,知事をすべて直接選挙制とする.さらに各州の自治を広範に認める.
1854年
4.17 自由党急進派のホセ・マリア・メロ将軍,クーデターにより政権を打倒.自ら独裁者となり議会を解散.自由党内の手工業者を中心とした保護貿易派(ドラコン派)を背景にしたことから「手工業共和国」と呼ばれる.
12 メロ,急進派の主張を実現できないまま,ゴルゴタスと保守党の連合に敗れ退陣.これを機にドラコニアノスの政治的影響は消失.
57 自由党保守派と結んだ保守党の勝利.マリアノ・オスピナ・ロドリゲスが大統領に選出される.地方自治を縮小し,中央集権を進める.
58 保守党による新憲法制定.国名をヌエバ・グラナダ共和国からグラナディナと改称.9つの州よりなる連邦とする。大統領の任期を4年とし,三人の副大統領は議会により選出されることとなる.政教分離と地方分権は引き続き推進される.
59年 保守党政権による中央集権化が進む.自由党内のドラゴニスタ派は勢力を失い,連邦主義を唱えるゴルゴタス派が主流となる.前大統領でカウカ州知事のモスケラ将軍が指導.
1860年
60.7 モスケラ,保守党による中央支配の強化に抗議し,州の分離独立を提案.中央政府との3年にわたる内戦に発展.
1861年
1 オスピナ,大統領選を実施できないまま任期を終了し退陣.保守党の大統領候補バルトロメ・カルボが,そのまま暫定大統領を務める.内戦を通じて中央政府はほとんど解体に追い込まれる.
3 エクアドル大統領に,保守党のガブリエル・ガルシア・モレノが就任.カトリックを国をまとめるための主要な方法と考え,教会中心の国家作りを試みる.自由党はコロンビアのモスケラ大統領の支援を受け,反撃.
5.08 自由党のモスケーラがボゴタを占領.カルボを追放.「ヌエバ・グラナダ合衆国」の臨時大統領兼国軍最高司令官を宣言.モスケラは教会を管理下に置き,領地を没収.商人や大地主に売却し国家財政の建て直しに当てる.これを機に大土地所有制が一気に進行.
9 各州から,軍および民間の実力者により選ばれた全権委員が集まり,ボゴタ議会開催.
1862年
10 アンティオキアで抵抗を続けていた保守党軍が降伏.内戦が最終的に終了.その後も各地で両派の争いが続く.
1863年
2 リオネグロで自由党による政府協議会.63年憲法(リオネグロ憲法)を採択.国名ヌエバグラナダ合衆国をコロンビア合衆国と改称.出版・言論・侵攻の自由を保障.教会勢力の排撃,死刑の廃止,国民教育の改善,民族文化運動の提唱など,ロペスの憲法をいっそう自由主義的に改変.
12.06 エクアドル大統領モレノ,義父ファン・ホセ・フロレス将軍の指揮する6千の兵をコロンビアに送り込む.Cuaspadのたたかい.Mosqueraの下の4,000人のコロンビア軍がエクアドル軍を撃滅.およそ1,500が死傷.2,000人が捕虜となる.
66年 リオネグロ憲法制定後も,保守=自由党の争いは収まらず.いくつかの大きな衝突のほか,各地方であわせて40回もの小競り合いが発生.さらに自由党内でも,政府を握る穏健派と議会を握る急進派との間に争い.急進派は,州に対する中央政府の一切の干渉を禁止するよう求める.
67 議会の多数派をしめる自由党急進派,中央政府のいかなる干渉にも反対してクーデターを実行.モスケラを投獄し,上院での裁判により国外に追放する.国内内乱は継続,その後の20年間に50回以上の反乱があいつぐ.
1870年
76 トリマとアンティオキアの保守党軍,自由党政府に対し反乱.政府はかろうじてこれを鎮圧.その後自由党のゴルゴタ派が政権を維持.
78.05.18 コロンビア,レセップスに対し99ヵ年の開発権をあたえる.
79.08.17 レセップス,パナマ運河会社を設立.運河建設を開始.
79 ラファエル・ヌニェスが大統領に就任.
79 自由党政権に対し封建層による反乱.一年間にわたる内戦で死者8万人を出す.
80 内戦は自由党の勝利に終わる.ラファエル・ヌニェスが,ふたたび大統領に就任.「刷新運動」を唱え,行き過ぎた各州の分散主義を是正しようとする.任期は82年まで.その後も14年間にわたり鉄道建設などの近代化政策を実施.
1880年
84.2 ヌニェス,保守党と自由党の有志を糾合し国民党を結成.国家再生運動を展開.再び大統領に就任.経済苦境を打開するため強硬手段をとる.ヌニェスが憲法改正の意向を示したことから,サンタンデルのゴルゴタスが反乱.その後反乱は全国に拡大.
84 ボゴタ市内に路面鉄道敷設.まもなくボゴタと各地を結ぶ鉄道建設開始.
85.8 保守党軍,ゴルゴタスの鎮圧に成功.ヌニェスはリオネグロ憲法の廃棄を宣言.これまでの自由主義的改革をストップする.ヌニェス,ナショナリスタ党を結成.保守派と手を組んだ自由党ヌニェス派の支配確立.
85 パナマ州の自由主義勢力,反乱に敗れコロン市内の米大使館に亡命.ヌニェスを支持する米国は,海兵隊を上陸させ蜂起を鎮圧.自由派の頭領ペドロ・プレスタンを絞首刑に処す.
86 保守派の主張を基調とする新憲法を制定.中央集権主義をとなえ,国名をコロンビア共和国とあらため連邦制を廃止,州知事の任命権を持つ強力な大統領の権力.この憲法は1989年まで存続.
86 ボゴタを中心とする都市部の自由党はヌニェス体制を受け入れる.コーヒー栽培農民を中心とする地方の連邦主義者は,中央支配に反対の立場を貫く.保守党内右派は,新政権による自由党統制が不十分として国民党政府に反対.ヌニェス打倒を目指す.
87 ヌニェス,教皇庁と協定を調印.カトリックを国教とするなど保守政治を復活.カトリックを義務教育の一環として受け入れ,教会での結婚を唯一の有効な結婚と認定.教会は資産と特権を回復する.
1890年
93 自由党の連邦主義者が第1回目の武装蜂起.
95 連邦主義者による二回目の蜂起.
98 実施されなかった98年選挙,自由党のボイコットにより成立せず.国民党の大統領候補マニュエル・アントニオ・サンクレメンテが,議会で大統領に選ばれる.病弱のため,副大統領のホセ・マヌエル・マロキンが執務をとる.
1899年
1 コーヒーの国際相場が暴落.保守党政権は関税収益の減少を紙幣増刷で補おうとする.国家財政は破綻,不換紙幣の乱発により経済は混乱を深める.自由党の支持基盤であったコーヒー栽培者が,これに抗議して各地で反乱.
6 ヌニェス死亡.
7.28 自由党軍,サンタンデルで反乱の動き.保守党のマニュエル・アントニオ・サンクレメンテ大統領が戒厳令を敷く。
10.18 自由党急進派の蜂起。ラファエル・ウリベ将軍、ベンハミン・エレーラ将軍、フスト・ドゥラン将軍によって指揮される。反乱軍はベネズエラから軍事援助を受ける。反乱は「千日戦争」に発展.3年間で10万人が死亡,米国によるパナマ「独立」をもたらす.
12 自由党軍,政府軍を撃破.これに対し保守党は国民党へ大同団結し対抗.一方,自由党内の平和派は革命派のたたかいを支持せず.
99 レセップス,パナマ運河建設を断念,米国に建設権譲渡.
米国の介入開始 1900年
00.5.25 パロネグロの戦い.自由党軍は国民党軍に大敗.このあと自由党軍は正規戦を放棄し,ゲリラ戦法に切り替え,さらに2年にわたり抵抗を続ける.保守党による自由党員狩り,投獄,罰金,資産の収用が徹底的に行われる.農村地帯では自由党によるゲリラ戦が続き,さらに多くの生命が奪われる.
7.31 サンクレメンテ大統領は自由党の根絶を目指す.内戦の政治的解決を目指す保守党伝統派(historicos)のホルヘ・モヤ・バスケス将軍は,サンクレメンテをクーデターで打倒.ホセ・マヌエル・マロキン副大統領を後任にすえる。
7月 、パナマ地域の第一革命軍(ベリサリオ・ポラス司令官)、コロンビア政府軍(アルバン総司令官)に敗れる。残党はコロンビアに逃げ込み、後のアグアドゥルセの戦闘に参加。
8.01 ホセ・マロキンが大統領に就任。その後マロキンは,徹底弾圧に態度を変え,いっさいの交渉を拒否.
1901年
11.20 米国、国家権益保護のためコロンビアに軍事干渉。
1902年
6.12 軍事的平定を断念した保守党政権は,自由党との和解へ方針転換.大赦,自由選挙,政治・財政改革が約束される.
10 ベリサリオ・ポラス、パナマでNYタイムズ記者と会見。エレーラ将軍が率いる革命軍勝利の可能性は低いとし、これ以上戦闘を続けることは犯罪的だと非難。政府と革命勢力が和平委員会を設立し、自由党軍降伏の条件を決めるよう提案する。また、米国の出兵は反米感情を高め、問題を長期化させるだけと批判。
11.18 米軍がふたたび干渉。和平条約の早期調印を促す。
11.21 政府と自由党が、米艦ウィスコンシンの艦上で和平協定に署名.和平協定に基づき,自由党指導者ラファエル・ウリベ・ウリベとベンハミン・エレーラが投降.千日戦争終了.この戦争による死者は、一般市民7万五千を含め15万人を越える.
02 米議会でスプーナー法成立.ニカラグア案を捨てパナマ案を支持.フランスのパナマ運河会社を買い取る権限を大統領に与える.
1903年
1.22 コロンビアと米国とのあいだにヘイ・エルラン条約調印.1千万ドルの一時金と年25万ドルの使用料で,百年にわたる運河建設権,運河地帯の行政権を認める.条約更新の優先権は米国にあり,コロンビアは米国以外の国に譲渡できないなど屈辱的内容.
3.08 議会の選挙。保守党が多数を占める。
8.12 コロンビア上院,パナマ運河条約批准を否決.米国はこれに対しマロキン政府打倒を企む.
11.03 米国、パナマを奪取。「独立国」とする。(パナマ独立についてはパナマ史参照)
1904年
7.28 大統領選.保守党穏健派のラファエル・レイエスが当選。政策決定のあらゆる場面に自由党を巻き込むなど融和策に徹する.国民党は10万人の死者を出した自由党に対する非妥協性,パナマ分離に対する無能,経済政策の失敗などから事実上消滅.
8.07 レイエス政権成立.パナマでの失敗の経験から国内開発に力を集中.国内経済の復興をはかるため,経済的には輸出業者の要求を排し,保護貿易政策を採る.
05年 レイエス大統領は次第に独裁的傾向を強める。国会を解散し各州三人の代表からなる国民議会を創設。
06 コロンビア,ペルー国境のプタマヨ河流域を巡る争い.1909,1911,1922年にも紛争が発生し,そのたびに協定が結ばれる.
07 コロンビア,協定を破り,ふたたびプタマヨに軍を送る.ペルーも対抗して軍を配置.
07.04.24 コロンビア,カケータ河口とリオネグロ源流地帯をブラジルに譲渡.
1909年
1.09 レジェス,米国との関係修復をはかりトンプソン・ウルティア条約を締結.パナマの分離・独立を認める.議会での批准に失敗.
6 議会選挙.レジェスの強権主義に反対する自由党と保守党穏健派の超党派組織,共和連合が勝利する.
7.13 居座りを図るレジェスに対する抗議行動が拡大。数次にわたるデモの後、レジェスは大統領を辞任し国外亡命.
8 議会、暫定大統領としてラモン・ゴンサレス・バレンシア将軍を選出。
1910年
4月 政権議会選挙が実施される。共和連合が圧勝。
7.31 制憲議会での選挙を経て保守党のカルロス・レストレポが後任大統領となる.レストレポは共和連合の仕掛け人。
1911年
5月 新憲法にもとづく第1回議会選挙。10月には地方選挙も実施される。
7月 ペルーの軍隊は,プタマヨ河畔のプエルト・コルドバのコロンビア軍駐屯地を攻撃.その後両軍の兵員数を制限する「7月協定」が調印される.
1914年
2.10 大統領選挙。保守党のホセ・コンチャが当選。
4.06 ウィルソン大統領,コロンビアとの関係修復をはかり,T.A.トムソン(トンプソン?)をコロンビアに派遣.パナマをめぐる一連の経過に関して「遺憾の意を表明する」トムソン=ウルティア条約に調印.コロンビアが賠償と引き換えにパナマの独立を承認することとなる.しかしこの条約はセオドア・ルーズベルトが強力に反対したため米議会の批准を得られず.
14年 カウカ州の先住民パエス族、マヌエル・キンティン・ラメを指導者として蜂起。5年間にわたり大土地所有者との闘いを続ける。
18.2.10 マルコ・フィデル・スアレス,保守党から大統領に選出.パナマ奪回は不可能と判断,親米政策に切り換え,米国からの投資増大をはかる.米国と国交を回復.このあと英国に代わり米国が貿易を支配することとなる.
18年 コロンビア北部のUF社バナナ農園で長期のストライキ.週6日労働,一日8時間労働,医療施設改善を要求.敗北に終わるが、コロンビアで最初の本格的なストライキとなる.
1919年
3月 ボゴタで職工の闘いに弾圧。大虐殺。マルコ・フィデル・スアレス大統領に対する抗議運動。
19年 社会主義の影響を受けた労働者の第一回全国会議が開催される.会議に結集した労働者はまもなくコロンビア社会党を結成.
労働運動と民族主義の高揚 1921年
04.20 コロンビア政府、米国とのあいだにパナマ問題の和解を成立させる.
11.09 パナマ問題での妥協で抗議を受けスアレス大統領が辞任。ホルヘ・オルギン将軍が暫定大統領となる。
1922年
3.01 コロンビア議会,2千5百万ドルの補償金と引き換えに「遺憾の意」の表現を削除することに合意.「友好・運河の権利」条約を批准.パナマ独立の承認を余儀なくされる.米国から経済調査団を受入れ,その勧告に基づき国立銀行の創立,通貨改革などを実行.賠償金によりインフラ整備をおこなう.
3月 大統領選挙。保守党から立起したペドロ・ネル・オスピナ将軍が当選。
3 プタマヨ地方に関する4回目の協定(サロモン=ロサノ条約).米国が仲裁国となる.コロンビアの主張する境界線(リオ・プタマヨを国境線とする)の正統を認めたうえで,両国の自由航行の権利を保障.ペルーはリオ・ナポの北側,リオ・カケタとの分水界に至る地域を失うことになる.ペルーは1928まで条約を批准せず.
24年 ボゴタで第一回労働者会議が開催される。
25年7月 コロンビアに入り共産主義の思想を広げたシルベストル・サビツキー(Silvestre Savitsky)、コロンビア政府により国外に追放される。
26.2.14 保守党のミゲル・アバディア・メンデスが大統領に選出される。
26年11月 社会党の左派を中心に革命的社会主義党(PSR)が結成される。コロンビア共産党の前身となる。
26.12 革命的社会主義党のトマス・ウリベ・マルケスが社会主義ロシアを訪問。
27.12 サロモン=ロサノ条約を不満とするペルーのLeguia大統領,米国の強い圧力を受け,批准案を議会に提出.翌年議会で批准される.
1928年
2月 ボゴタ市内で公共・民間の建物に数発の爆弾が仕掛けられているのが発見される。当局はこれを共産党員による仕業と大宣伝。
5.01 政府当局、トマス・ウリベ・マルケス、マリーア・カノ、トレス・ヒラルドらPSR党員数人を爆弾犯人として逮捕。
7 コミンテルン第6回大会,キューバ共産党,パラグアイ共産党,エクアドル社会党,コロンビア革命的社会党をコミンテルン支部として承認.
11月 マグダレーナ州サンタマルタのユナイテッド・フルーツ社バナナ農園で,48時間労働と食糧クーポン制の廃止を要求し,ストに入る.米国は市民保護を名目に軍艦を派遣しサンタマルタに圧力をかける。
11月 アナーキスト系労働センターからはカルロス・マエーチャ,マリア・カノが指導に入り,自由党急進派はスト支援の全国キャンペーンを展開.さらに社会党,共産党が支援体制を強化.イタリアやスペインの無政府主義者も国際連帯.ストはコロンビア史上最大の規模に発展.(マリア・カノを主人公にした映画もあるらしい。美人はトクですな)
Maria Cano
12.04 保守党政権,米国の意向に沿いストを「共産主義の陰謀」と宣言。軍を送りストを弾圧することを決定.ミゲル・アバディア・メンデス大統領は非常事態を宣言。カルロス・コルテス・バルガス将軍の率いる政府軍を送り闘争の鎮圧を図る。自由党
12.06 マグダレーナ州シエナガ市の中央広場でUF労働者がデモ.バルガス将軍は,一斉射撃を命令.広場は無数の犠牲者により埋め尽くされる.現場報告によれば、人体の骨格と頭蓋骨がバナナの房のように木に吊り下げられ、さらしものにされた。政府は,バナナ地帯において非常事態を宣言.この後ストライキは死者千4百人を出し敗北.
12月 自由党議員のホルヘ・エリエーセル・ガイタン弁護士は,事件を"La Masacre de las Bananeras"と呼び、議会で政府を激しく糾弾.ラジオを通じて糾弾キャンペーンを展開.扇動政治家との評価を受ける.
28年 中央高原のビオタで小作農の反乱,一時独立的支配を確立.
28年 作家ガブリエル・ガルシア・マルケス,バナナ地帯のアラカタカに生まれる.
1929年
7月 コロンビア、政治危機を迎える。この月だけで約1,400人が、政治的な暴力により死亡。ストライキ弾圧で評判を下げた保守党は、分裂状態に陥る。PSRは自由党を支持し、傘下の労働運動を動員。
1930年
2.09 大統領選挙.自由党のエンリケ・オラヤ・エレーラが45%を獲得して勝利.左翼の支持を受けた自由党政権は「行進中の革命」を標榜。労働組合の合法化、8時間労働制の導入など,労働者よりの政策を打出す.
7 コロンビア革命的社会党,左翼勢力を併せ共産党(PCC)と改称.石油労働者を中心にバナナ農園労働者,輸送労働者に影響力を拡大.
8.07 コーヒー価格が1/3に暴落する恐慌。労働者・農民運動の激化により内戦の危機が高まる.
32.09.01 アマゾンのレティシア地方の領有をめぐりコロンビア=ペルー間に紛争勃発.ペルー軍がレティシアを占拠.引き続いて両軍の小競り合いが続く.コロンビアの勝利に終る.
32 オラヤ政権に不満を持つガイタンら自由党急進派(ヌエボ・リベラリスタ),下層民を組織し革命的左翼全国連合(Union Izquierdista Revolucionaria:UNIR)を結成.「革命」を目指す.
32 UF社,自社鉄道をコロンビア政府に譲渡.政府はあらためて30年間鉄道の使用権をUF社に与える.
1933年
5.14 議会選挙が実施され、自由党が過半数を獲得。保守党は選挙の不正を主張。
10 ガイタンとUNIR,首都占領をめざす.この戦術はムッソリーニのローマ行進にならったものといわれる.
34.02.10 自由党のアルフォンソ・ロペス・プマレホ,大統領となる.「革命の前進」をスローガンに掲げ,ポピュリスト政策で大衆の支持を獲得.農業改革,労働者の保護,公共扶助の拡大など一連の社会改革を実施,労働運動を育成し共産党も合法化.保守派の大地主は農地改革に反発を強める.
34 レティシア紛争,国際連盟の調停により解決.ペルーはレティシア領有を断念.
35 UNIRが蜂起を試みるも失敗.ガイタンはロペス・プマレホのよびかけに応じ自由党に復帰.以後自由党は急速に左展開.
36.6 ガイタンはボゴタ市長に就任.8ヶ月の在任中にいくつかの社会開発計画を実施。
36年 憲法が改正される。政府は私的企業への干渉を容認される。労働者の48時間労働制、ストライキ権が保障される。教育へのカトリック教会の影響は排除された。地下資源に対する国家主権が確認され、石油産業への国家統制権が承認された。農地改革も承認された。
36年 政府公認の下にコロンビア労働者連盟(CTC)が創立される。
1938年
5.01 プマレホに代わりエドゥアルド・サントスが大統領に当選。サントスはコロンビア最大の新聞エル・ティエンポの社主.
8月 サントスが大統領に就任.プマレホの急進政策の手直しをはかる.
40年 サントス大統領,公教育へのカトリック教会の干渉を排除.ガイタン、サントス政権の下で文相に就任。
1942年
5.02 アルフォンソ・ロペス・プマレホ,二度目の大統領に当選.プマレホ政権、バチカンとの協定改定で合意。批准案を議会に提出。保守党のラウレアノ・ゴメス・カストロ上院議員は、批准に反対。
43年 ガイタンが労働相に就任。PCCと良好な関係を結びながら、労働改革を実現。野党、自由党内右派から強い批判を浴びる。
1944年
4 プマレホ,党内の政敵ゴメスを誹謗の廉により逮捕.これに抗議するゴメス派のデモ隊と警官隊が衝突.軍部は政府の行きすぎた左翼化に警戒感を抱く.
7 プマレホ,パストの軍事演習を視察中,軍事クーデターをはかった将校により一時拘留される.自由党は軍部の評価と改革推進をめぐり分裂.
1945年
6 自由党急進派のガイタン,大統領選を前に党内指名獲得に乗り出す.この結果自由党は事実上分裂.中道派のガブリエル・トゥルバイが候補の指名を獲得.ガイタンは,党を離れ全国左翼革命同盟(Union de Izquierda Revolucionaria:UNIR)から立起することとなる.
7.31 プマレホ,政策の失敗により任期半ばで大統領を辞任.アルベルト・ジェラス・カマルゴに任を譲る.
1946年
5.04 大統領選挙.保守党は自由党の分裂に乗じて16年ぶりに政権を獲得.保守党中道派のマリアノ・オスピナ・ペレスが57万票(42%)を獲得し当選.Gabriel Turbayが44万票、ホルヘ・エリエセル・ガイタンは36万票にとどまる。
8.07 オスピナ,大統領に就任.サンタンデル,ボヤカの保守党系地主は,自由党時代に失った土地を一気に奪回しようと図る。保守党中央は国家警察とマスコミを自党支持者で固め,その支援にあたらせる.彼らは暴力的手段に訴え,「窮民制圧隊」(コントラチェスマ)という私兵団により自由党員を拷問・暗殺.自由党系農民は武装自衛団を作りこれに対抗。難を逃れて都市に流入する農民らが3万人に及ぶ.
1947年
3.16 国会選挙.ガイタンの下に統一を回復した自由党は保守党を圧倒.131の議席のうち73を確保。
7 コミンフォルムによるブラウダー主義の批判が進む.コロンビア共産党はブラウダー主義の評価をめぐり三派に分裂.大衆的影響力をうしなう.
9 リオ条約(米州共同防衛条約)締結,「如何なる国に対する武力攻撃も,米州のいっさいの国に対する攻撃とみなす」(第3条)など,のちの安保条約などのひな型となる.
1948年 ボゴタソ事件 2 ボゴタで自由党員20万人のデモ.地方での保守党員による殺りく行為に抗議する.ガイタンは「われわれは政治的・経済的要求を掲げているのではなく,ただ生命と生活を保障してもらいたいとだけ望んでいるのだ」と演説.
3.30 自由党,警察の暴力と蛮行に抗議する「沈黙の行進」に10万人を組織.ガイタンが「平和を求める演説」を行う.オスピナ,高まる自由党の圧力に対し,警察力に頼るようになる.
3 カストロ,第1回LA学生会議の開催を企画.アルゼンチンの他ベネズエラ,パナマの学生組織の賛同を得る.
48年4月
4 ボゴタで第9回米州会議開催.トルーマン・ドクトリンにもとづくボゴタ憲章採択.米州連合に代わる常設機構として米州機構(OAS)設立,米国を盟主とする反共軍事同盟となる.ボゴタソ発生により議題を完了せず中止.
4.7 米州会議にぶつけてLA学生会議総会の企画会議を開催することが決まる.ボゴタ入りしたカストロ,ガイタンと会見し学生会議での記念演説について了解をとる.
4.9 13:15 ガイタン,エル・ティエンポ紙でのキューバ学生代表団との対談のため新聞社に向けて歩行中に射殺される.場所はヒメネス・デ・ケサダ通りと7番通り(Carrera Septima)の交差点とされる。
13:30 激昂した群衆は犯人フアン・ロア・シエラをその場で捕らえ,ただちに殴り殺し街頭に死体を吊るす.さらに最寄りの警察署を襲い武器を押収,大統領官邸に向かう.
14:00 自由党員のデモを阻止しようとした軍とのあいだで市街戦に突入.さらに群衆は刑務所を占拠し囚人を解放.議事堂を襲撃するが追い返される.学生の一団は放送局を占拠.「革命が始まった.兵士諸君,われわれの行動に参加せよ」と放送.
午後 暴徒はボゴタに通じる橋を落とし、市外からの軍・警察の侵入を阻止。ボゴタの師団は鎮圧出動を拒否,さらに警察の一部も反乱側に立つ.
午後 オンダ、カルタゴ、バランカベルメハ、トゥルボの飛行場は暴徒により占拠される。バランキヤでは労働者が知事庁舎を占拠.
4.10 カストロとラファエル・デル・ピノは警察署を襲撃した暴徒の群に加わり暴動に参加.学生の一団を率いる.モンセラテ山中で一夜を過ごす.
4.10 米州会議,暴動のため中止となる.暴徒は「ヤンキー帝国主義が我々を軍事的・経済的植民地にしようとしている。コロンビアを守れ!」と叫ぶ。マーシャル国務長官は「暴動は共産主義者の仕業」と発言.
4.11 オスピナ・ペレス保守党政権と自由党・反乱警察とのあいだに「和平協定」成立.市民に武器の引き渡しが求められる.地方軍の到着により暴動鎮圧.このあと活動家狩りが始まる.この暴動(ボゴタソ)で136の建物が灰塵に帰し市民2千名が犠牲となる.軍の弾圧により1週間に5千人が虐殺.全国で自由党員による抗議行動,これを引き金に「ラ・ビオレンシア」開始.
18:00 ボゴタのホテルに逃げ込んだカストロ一行は,知り合いのアルゼンチン外交官の手引きでキューバ大使館に逃げ込む.当時のキューバ大使はギジェルモ・ベルト .
4.13 カストロ,キューバ大使館からハバナ行きの家畜輸送機に忍び込み,ボゴタからの逃亡に成功.
米国と密着した反動派の巻き返し:ラ・ビオレンシア 1949年
3 オスピナ,大衆の集会を禁止.
5.22 オスピナ,内閣から自由党員を排除.連立内閣崩壊。超国家主義者のラウレアーノ・ゴメス・カストロ外相が指導する保守党がすべてのポストを独占.ゴメスは反動の代表として,秩序と権威を普通選挙や多数決原理を否定する人物.さらに自由党員知事が全員解任される.
6.05 国会選挙が実施される。自由党が下院の過半数を獲得。選挙中に10人が暗殺される。
11.07 軍に命じ議会を実力で閉鎖.自由党の大統領候補ダリオ・エチャンディアはこれに抗議し出馬を辞退。全国から地方レベルまで,すべての自由党議員が抗議の辞職.
11.09 オスピナ・ペレス大統領、非常事態を宣言。地方警察は反乱と自由党員弾圧を強化.
11.27 大統領選.オスピナを軟弱と非難する超反動のラウレアノ・ゴメスが当選.選挙前後の2ヶ月で2千人の自由党員が殺され,数百人が投獄される.
1950年
1 ゴメスが大統領に就任.市民権を制限し,軍事力による支配の姿勢を強める.国家警察内の自由党員を解任し、Chulavistaと呼ばれる保守派農民を採用。地方警察を保守党の手先として使用.
9 政府,コロンビア大隊千名を乗せた軍艦パディリャ号を朝鮮戦争に派遣.これを機に自由党の反乱発生.
12 情報局(SIC)はクンディナマルカ労働者連盟を強制捜査.コロンビアの朝鮮戦争参戦を非難するビラを摘発.マヌエル・マルランダ書記長ほか三十人の活動家を逮捕.マルランダは警察内で拷問・虐殺される.
二人のマヌエル・マルランダ: 殺されたマルランダは”エル・ネグロ”マルランダと呼ばれていた。彼の死後、トリマ州エル・ダビスの共産党活動家ペドロ・アントニオ・マリンが,ゲリラ名として「マルランダ」の名を引き継いだ.なお彼はそれまで「射撃手」 "Tirofijo" とあだ名されていたが,この名前を嫌っていたという.
井高によれば、マリンは自由党員出身で、53年に共産党に入る。貧農出身ではなく、公共事業省勤務経験のある爆破技術の専門家だった。他の説では49年にトリマ州の自由党ゲリラに参加したといわれる。50年 反乱はしだいに自由党系農民の大土地所有反対の闘争に変化.ラノとダヴィスの決起をきっかけに第一次戦争(ローレアノ戦争)に突入.2年間の戦闘で5万人の自由党員が殺害される.ダヴィスの特別攻撃隊には共産党幹部のシロ・カスタノ,リカルド・エノック,レアルらが参加.共産党はアンヘル・マリア・カノ中央委員を指導者とする武装自衛政策を展開.逃亡農民をマルケタリア,リオチキト,スマパス,パト,グアヤベロなどにあつめ「武装自衛地区」組織.政府は共産党が独立共和国を作ろうとしていると非難.軍をトリマに送りカノを虐殺.
1951年
9 総選挙.自由党のボイコットにより保守党が圧勝.共産党と人民自由党の得票は1%に達せず.
11 ゴメス,病気のためいったん引退.ロベルト・ウルダネータ・アルベラエスが大統領職を代行.ゴメスの強硬路線を踏襲.ゴメスは反政府陰謀の嫌疑で,グスタボ・ロハス・ピニジャ将軍の辞任を要求するが,ウルダネタはこれを拒否.
52 ゴメス,超反動的な新憲法を公布.大統領と州知事に独裁的権限が与えられる.政治システムにおける教会の役割を大幅に拡大.30年代の労働立法は制令により破棄される.労働組合は禁止され,議会は翼賛化し,裁判は政府により統制され,出版は検閲制となり,信仰の自由は反故にされ,プロテスタント教会は暴徒により襲撃される.自由党員はゴメスにより共産主義者のレッテルを貼られ,毎月千名以上の市民が弾圧の犠牲となる.
52 政府,朝鮮から帰還したコロンビア大隊を投入し,自由党弾圧開始.トリーマ地方で自由党左派指導者による農民の武装蜂起.25万人の農民が参加し第二次戦争(ビラリカ戦争)開始.共産党もこれに積極的に参加し,指導的役割をになうようになる.サンタンデル州バランカベルメハ(Barrancabermeja)では労働組合,自由党員,共産党員が革命評議会を結成.地方警察の一部は山中でゲリラ戦を開始.農民運動の指導者は徐々に革命化し共産ゲリラが各地で結成される.ロス・リャノスでは自由党が農民2万人からなる軍を組織.保守党の拠点を襲撃し,教会を破壊し神父を殺害,掠奪するなどの行動を開始.
1953年
1.01 自由党、Puerto Salgar近くPalanqueroの軍航空基地を攻撃。攻撃に参加した自由党員60人、7人の政府軍兵士が死亡。
3.15 国会議員選挙。自由党はふたたびボイコットし、保守党の大勝に終わる。
4 病気休職中のゴメス大統領,療養を終え,職務に復帰の構え.陸軍総司令官グスタボ・ロハス・ピニーニャを解任する動き.アルベラス臨時大統領はこれを拒否.保守党オスピナ派,自由党,軍部が反ロペスで手を結ぶ.
6.13 ゴメスは大統領職に復帰の上,ロハスを罷免.
6.14 陸軍は無血クーデターによりゴメスを追放.ロハス将軍を長とする軍事評議会を設立.ロハスは直ちに両派に停戦を呼びかけ.自由党ゲリラに対する恩赦の提案.
6.17 自由党、ロハスの呼びかけに応じ政党活動を再開。
6月 多くの軍事組織がいったん戦闘を停止.ロス・リャノス農民軍を中心に6千人が武器を捨て投降する。ロハスは、都会に逃げ出した大地主の土地を占拠農民から取り戻すために、軍隊を各地に派遣する。
7 ロハス将軍,農地改革の要請に対し「社会復帰と救済局」を設立.娘のマリア・エウヘニア・ロハス・デ・モレノ・ディアスを局長に当てるなど,ペロンを真似たポピュリスト政策を実施.結果としてこの政策は,民衆の支持を得るより先に政界実力者の離反を促す.
1954年
1 ポピュリスト政策に失敗したロハスは,議会に同調し権威的・抑圧的な政策に切り替え.以後私服肥しに専念.検閲制を強化し国内有力紙を次々に廃刊に追い込む.地方における暴行がふたたび激化.抗争はなお4年にわたりつづく.
6月 ロハス、ゴメス派のテロリストに一斉恩赦を与える。Gomezistasの多くは、全国で無実の農民の殺害を再開。農民たちもふたたび武器を取り応戦。農民闘争がふたたび高揚.
6月 国家警察により学生12人が虐殺される。ロハスは政争の道具となっていた国家警察を軍に移管.
8.03 1886年憲法に代わる新しい憲法が公布.憲法に基づき,59人の保守党員と33の自由党員よりなる立法議会を創設.うち20人は大統領による指名.立法議会はロハスを大統領に選出.
8.07 ロハスが大統領に就任。ボゴタ市周辺の都市を併せ首都特別区(DE)を創設.
11.06 トリマ州で自由党の反乱。民間人11人が殺害される。
11.10 反乱鎮圧に出動した政府軍と自由党員が、トリマ州Genova近郊で衝突。30人が死亡。
1955年
3.17 トリマ州で政府軍と自由党員の武力衝突。3日間で28人が死亡。
3.19 トリマ州に続きバジェ州でも武力衝突。3日間で7人が死亡。
55年 ロハスは自由党員の反乱を武力弾圧する.農村地帯各地では反政府勢力に対し焦土作戦が展開される.ビジャリカ戦争(Villarica)と呼ばれる.トリーマ州では武装自衛運動の中から、後にFARCの母体となる闘争が展開される。
ビジャリカ戦争 第二次ビオレンシアとも呼ばれる.この時点で山岳地帯にはテケンダマ,リオ・チキト,マルケタリア,スマパス,パト,グアヤベロなどの農民による武装自治区(いわゆる赤色共和国)が形成され,土地の分配をおこなう.兵力は最大時で2万に達する.ビジャリカ戦争の敗北後,トリマ州の抵抗勢力は,メタ州,カケタ州の人里はなれた地域に「長征」することにより生き延び,FARCの母体を形成.残された開墾地は大地主たちの手に落ちる.
1956年
2.05 「牛の首輪」虐殺事件発生.ボゴタでロハスに対する抗議デモが国家警察と衝突。デモ参加者がロハスに敬意を払わなかったという理由で,市民9人が虐殺される.
7 スペイン亡命中のゴメス前大統領と自由党のジェラス・カマルゴ,ベニドルム(Benidorm)宣言に調印.その後スペインのシトゲス(Sitges)会談で「国民戦線」の構想がまとまる.86年憲法を復活する.両党が国民戦線を結成し,国会議員選挙を実施.その結果,議会内最大派閥の推薦した候補を最初の国民戦線大統領候補とする.一般投票によって選ばれた最初の国会で,それを大統領に選出する.4年ごとの任期を,保守,自由両党が交代で受け持つ.保守党穏健派はロハス支持にとどまる.
1957年
1 ロハス,独裁・腐敗に不満が高まるなかで,憲法の再選禁止条項を修正し大統領再任を狙う。ほとんどの組織勢力がロハス再選に抗議.ロハスを支えてきた保守党穏健派も自由党との連立に傾く.
3 サンカルロス協定調印.保守党穏健派も含むすべての反ロハス派が結集.内容はシトヘス合意とほぼ同様.国民戦線の初代大統領に保守党から選出することを決定.
4 ロハス,「国民戦線」の謀議に加わったとして,保守党首脳のギジェルモ・レオン・バレンシアの逮捕を命じる.学生は抗議デモを展開,労働者はゼネストで対抗.
5.02 ボゴタ、ついでカリでデモ参加者と政府軍が衝突。100人の死者を出す。教会首脳や軍幹部も反ロハスに回る.
5.08 下院、ロハス・ピニージャを大統領に再選。ロハスは62年まで大統領職を続けることとなる.
5.10 群衆を背後にした軍幹部の説得により,ロハスは大統領を辞任しスペイン亡命.ガブリエル・パリス将軍を議長とする五人の評議会が政務を引き継ぐ.パリス将軍は58年8月に直接選挙を行い,民間人大統領に引き継ぐと声明.
7.26 ボゴタなどで軍政反対のデモが強まる。暫定軍事政権は下院を解散し強行突破を図る。
7月 保守、自由両党がサンカルロス協定を正式に承認。
11 両党の連立による国民戦線成立,「今後12年間両党は政争を中止し,共同で政治の安定を図る」と声明.ビオレンシアに終止符を打つ.保守党政権成立後の10年間で18万人(一説に30万人)の犠牲を出す.自由・保守両党は「議会での議席を折半し大統領を交互に出す」と発表.国民戦線による自由党と保守党の政権たらいまわし開始.
12.01 サン・カルロス合意を86年憲法の付帯条項とすることについて国民投票.圧倒的な賛成で迎えられる.地方の自由党農民は幹部の裏切りを激しく非難.弾圧の手先だった警察官や憲兵を襲撃.ビオレンシアでの保守対自由の対立から、超党派のオリガルキーと地方のバンドレーロスの対立に移行。体制内に入ることを拒否したチスパスら地方軍閥は「山賊」と呼ばれるようになる。
キューバと呼応した武装闘争の時代 1958年
3.16 国会議員選挙.議会の半数を占める保守党議員の過半数をゴメス派が占める.ゴメスと保守党は,分裂をさけるため大統領被選出権を放棄.
4 国民戦線に反対する自由党の分派は「自由回復運動」(Movimiento de Recuperacion Liberal)を結成.まもなく「自由革命運動」(Movimiento Revolucionario Liberal--MRL)と改称.アルフォンソ・ロペス・ミケルソンが指導.ミケルソンはプマレホ元大統領の息子.
5.04 大統領選挙が実施される。両党の合意に基づき,アルベルト・リェーラス・カマルゴ(前OAS事務総長)が立候補。80%の得票で当選。各地の選挙防害行動により31人が死亡。
8.07 リェーラスが大統領就任.
8.20 国会での互選により自由党のダリオ・エチャンディアが副大統領に選ばれる。
8.27 ボゴタソ以来続いていた非常事態が解除される。
10月 戦闘参加者に対する大規模な恩赦が発表される。多くのゲリラ・グループは武装解除に応じるが、一部は山賊化して中央政権に抵抗。また共産主義者は山間部に「社会主義独立共和国」を維持。
1959年
9月 アイゼンハワー大統領、コロンビアのゲリラの状況を考慮し、ゲリラ戦専門家からなる特別調査団を送ることを決定。コロンビアに対する内政干渉の始まりとなる。
59 砂糖労働者のスト,軍隊との衝突に発展.
1960年
3月 特別調査団が最終報告を提出。
特別調査団報告の骨子: ①大統領の権威を高め、政府に諸権限を集中させる。②機動的な「ランセーロ」(レンジャー部隊)の創設により、山賊とゲリラは1年以内に著減できる。③軍の戦略と組織を対外的な性格から対内的なものに変える。④国内の情報組織を充実させ、心理戦争と住民の動員体制を実現させる。⑤「内政干渉」との非難を避けるため、これらの活動は厳密に秘密を保つ。
1月 キューバ革命を支持する最初の大衆組織として、「労働者・学生・農民運動」(MOEC) が結成される。ボゴタ大学の学生アントニオ・ラーロタ(Larrota)が指導。
4月 ジャレス政権、米国の勧奨に基づき農地改革計画を発足させる。コロンビア農地改革協会(INCORA)が創設され、地方における協同組合の結成や灌漑設備の改善などを推進。
60年 朝鮮戦争のベテランでアメリカ式の戦闘スタイルになじんだアルベルト・ルイス将軍が、国軍司令官に任命される。米国の強力な推薦を受けたもの。
60 カミロ・トレスの主唱で国民戦線に対抗する「人民統一戦線」 Frente Unido del Pueblo を結成.またガイタンの娘グロリア・ガイタンとその夫ルイス・エミロ・バレンシアを中心に「革命行動統一戦線」(FUAR)も形成される。
60年 この当時、共産党は合法化され、党員数はインテリを中心に1万近く、シンパは3万近かった。統一戦線の動きから締め出された共産党は自由党左派組織に潜入し、ストライキやデモなどに加わり宣伝を強めた。
60 急進的傾向を持つ自由党農民,武装ボルシェビキ組織へと発展.奥地のビオタ・スマパスなどに自治区を形成.この頃マルランダも党中央から派遣された工作員ハコボ・アレナスの要請を受け、トリマ州山間部のマルケタリア地区に潜入したといわれる。のちにマルランダ自身も共産党中央委員となっている。
独立共和国: 主なものは米情報部の評価では、総勢2千名近い共産主義ゲリラが11のグループに分かれ活動していた。このほかに非共産系ゲリラ約4500名が29のグループを形成し、主に中南部の山岳部を中心に活動していた。
1961年
5月 MOECの指導者アントニオ・ラーロタが暗殺される。その後MOECは衰退する。
8.17 進歩のための同盟が発効.①十年間に2百億ドルの援助.②土地改革と税制改革など経済改革,③十年間にひとりあたり所得を2.5%引き上げ,などを骨子とする.
10.11 軍の一部がボゴタ近郊で反乱。ジェラス大統領は非常事態を宣言。
12月 コロンビア、米国に追随しキューバとの国交を断絶。
61 農地改革法成立.農地改革庁(INCORA)が設立される。地主のサボタージュによりほとんど実効を上げず.5%の人口が7割の耕地を独占する状況に対する農民の不満高まる.
61 スペイン亡命から帰国したロハス,全国人民連合(Alianza Nacional Popular-- Anapo)を結成.
61 労働組合第1回全国大会開催.共産党は武装闘争の方針を打ちだし,マキ団を組織.ハーバード出身の青年医師トリオ・バイエル・ハラミジョ,アンチオキアでゲリラを組織.ベネズエラ国境地帯でゲリラ戦開始.(この項は真偽、出処ともに不明です)
1962年
1 OAS外相会議(プンタ・デル・エステ),キューバ除名と制裁を決議.ブラジル,メキシコ,アルゼンチン,チリ,エクアドル,ドミニカは米国の制裁案に反対.その後これらの国に対し,CIAの政府転覆策動が強まる.
1月 「公共秩序」計画(Orden Publico)に基づき、米国からH-43Bヘリ3機など150万ドルの軍事援助が与えられる。
1.21 バジェ州で農民運動が武力衝突に発展。47人が犠牲となる。
1月 「マルケタリア共和国」の存在が明らかになる。キューバ型革命の進展を恐れるジェラス政権は、マルケタリアに奇襲攻撃をかけるが失敗。
2 ウィリアム・ヤーボロウ(Yarborough)将軍を団長とする米軍特殊戦争顧問団が,コロンビアで現地調査し報告を提出する。ルイスはヤーボロウ報告に対応した対ゲリラ戦略「プラン・ラソ」を立案.市民自衛隊の創設と市民=軍関係の強化を訴える。
ヤーボロウ報告: ゲリラと共産党との関係を断ち切らなければならない。そのため市民及び軍が協力したチーム体制をとらなくてはならない.この準軍事組織は軍の秘密訓練を受け、必要ならば,共産主義者に対するテロ活動を行う。
3.18 国会議員選挙。自由・保守の連立候補が各地で圧勝。自由党のアルフォンソ・ロペス・ミチェルセン,国民戦線体制に反発し自由革命運動(MRL)を結成.総選挙では下院22,上院12議席を獲得.左派は独自に全国人民同盟(ANAPO)を結成.
5.06 大統領選。国民戦線の立て役者で保守党のギジェルモ・レオン・バレンシアが当選。不満層を結集したミケルセンは、3割の得票率を獲得.
8.07 レオン・バレンシア,リェーラスにかわり大統領に就任.ルイス陸軍司令官が軍事相に任命される。
8月 パナマ運河地帯にラテンアメリカ特殊行動軍が配置される。第一特殊軍と第8特殊軍グループからなる。中南米諸国の軍隊における対ゲリラ訓練の90%を担当する。
10月 「公共秩序」計画による武装ヘリの偵察活動が稼動開始。パイロットは米軍事顧問が勤める。
11月 コロンビアに米国の「市民行動チーム」が配備される。対ゲリラ計画を整備し、AIDの援助計画と結びつける。「宣伝小隊」がクンディナマルカでのテスト作戦を開始。
62年 ガイタンの娘グロリア・ガイタンとエニロ・バレンシアの夫妻,革命行動連合戦線(ELAR)を結成.キューバ革命の影響を受け農村運動の組織に乗り出す.
62 ボゴタの国立大学を中心に大学紛争.カミロ・トレス社会学部長は辞任.米国,「コロンビア,不正規戦争の実験場として合衆国軍隊により選ばれた地区の概要」を発表.
1963年
2 北部地帯で2万人の農業労働者による農場占拠闘争.
12 コロンビアのゲリラ,あいついで米系企業を襲撃.政府はマルケタリアに対し初の本格的な攻撃.失敗に終わる.
マルケタリアの指導者: マヌエル・マルランダ・ベレスは,本名はペドロ・アントニオ・マリンで共産党中央委員.マルランダの名はラ・ビオレンシア中に死んだ労働運動家の名前を借りたもの.共産党からハコボ・アレナス(ゲリラ名モランテス)が派遣され、政治・思想教育の指導に当たる。
63年 ブカラマンガのサンタンデール工科大学の学生たちがゲリラ組織「ホセ・アントニオ・ガラン解放旅団」を結成。中核はキューバにわたりゲリラ訓練を受ける。
63 カトリック教会のグスマン,ゲリラ組織に関する調査結果を発表.153のゲリラ組織が存在し,うち29が62年中に消滅分散.24が活動停止,79が不活発ながら活動を継続,21が活発に活動とする.また153の政党別内訳は自由党77,保守党34,共産党13,無党派29とする.
1964年
1.20 コロンビア内部防衛計画の最終報告がまとめられる。非政治的な強盗犯の掃討を基本とする。
1月 保守党幹部のアルバロ・ゴメス上院議員、「国内には政府の主権が及ばない16の“独立共和国”があり、これを一掃しなければならない」と発言。武力制圧行動の強化を呼びかける。アルバロはラウレアノ・ゴメス元大統領の息子。
農民「共和国」の分布
Agriari, Viota, Tequendama, Sumapaz(以上ボゴタ南方), El Pato, Guayabero(以上南東部), Suroeste del Tolima, Rio Chiquito, 26 de Septiembre, Marquetalia(以上三角地帯)
3.30 治安当局、トリマ州南部の悪名高い盗賊集団「DESQUITE」の掃討作戦に乗り出す。
4.01 ボゴタの米大使館が国務省あてに情報伝達。この「盗賊」はマルランダ、またの名をTiro Fijoという頭目が率いており、ウイラ州の東部山岳地帯を根城にし、リオ・チキート、カウカ州に影響を広げている。彼らは見せ掛けではなく根っからの共産主義者であり、キューバを崇拝し支援を受けている。作戦は4月20日に開始される予定であり、現在軍が続々と現地に到着している。我々はこの努力を全力を挙げて支持しなくてはならない。
4.10 米大使館から国務長官あての手紙。マルランダとその支持者は正真正銘の共産主義者である。ボゴタの共産党や労働組合、共産青年同盟は募金を募って彼らを支援している。マルケタリアばかりではなく、エル・パト、リオチキート、スマパスにも彼らの行動は拡大している。このような広範囲の作戦では、ヘリが必要である。
4.10頃 軍と警察、トリマ州北部で活動していた盗賊デスキテを殺害。
4.20 コロンビア軍,米軍事顧問の支援を受け第二回目のゲリラ鎮圧作戦「マルケタリア作戦」を開始.共産主義撲滅を目指すケネディ政権のラテンアメリカ安全保障作戦(LAZO)の仕上げ計画と位置づけられる。作戦の情報面を担当する部隊として、軍事情報大隊が組織される。
4.25 ボゴタ大使館から国務長官への電報。悪名高い盗賊サングレネグラとその手下のAguila Negra、Malasuerte、Tarzancitoが、本日バジェ州エル・カイロで当局の手により殺害された。その前3日間、バジェ州チョコからカルダスへと移動戦が展開された。警察と軍はヘリで効果的に移送され、山賊どもを追い詰めた。
盗賊団: 100から150の盗賊団が確認され、総勢は2千名を超えるとされる。主にコーヒーの豊富なトリマ州北部のCauca谷に集中。最強とされたのがサングレネグラ(黒い血)と呼ばれる頭目で、本名はJacinto Cruz Usma。殺したもの数百人に及んだという。共産主義ゲリラは、盗賊から住民を守ることで信頼を取り付けたという。
4.28 ボゴタ大使館から国務長官への電報。盗賊どもの征伐は終わった。次の目標は共産主義者の根拠地である。我々はこの作戦を支持する。これは62年の特別グループによる「内部防衛計画」の一部をなすものであり、米国およびコロンビア政府の了解に基づくものである。
5.01 国務省・国防省からボゴタ大使館への電報。軍はすでにマルケタリアと隣接地域に配置された。彼らは市民行動と心理作戦を開始している。「ティロ・フィホ」の伝説的名声は地に落ちようとしている。共産党と過激派は「マルケタリアを守れ」とのキャンペーンを行っている。ソ連もラテンアメリカの特殊性から「暴力革命」を容認している。
5.08 ボゴタ大使館から国務長官への電報。トリマ州での盗賊掃討作戦は大成功した。これは軍事援助計画によるヘリの供給がもたらしたものである。コロンビア大統領はこの援助を喜んでいる。我々は激励と援助を提供し続けなければならない。
5.10 コロンビア政府、トリマ州北部の盗賊征伐に続き、南部の共産主義者盗賊地域を掃討すると発表。
5.10 バレンシア大統領、「マルケタリア作戦」の開始を命令。重火器による砲撃、空軍による爆撃ののち、歩兵部隊と警官がゲリラのひそむ村を包囲した。パエス族先住民の先導を受け、3500人の兵が集落に対する掃討作戦を展開する一方、170人のエリート部隊がマルランダの隠れ家となっている農園に降下。
5月 マルケタリア,スマパス,グアヤベーロの「農民共和国」は粉砕され、ウイラ州の農民闘争も消滅.マルランダらは包囲線を潜り抜け隣接する「リオ・チキート共和国」に避難。リオ・チキートはウイラとカウカ州にまたがる山間部で、先住民5千人を組織し共産ゲリラの聖域となっていた。
FARCの創設
5.27 カケタ州に逃れたマルランダとハコボ・アレナス、残党を集め「南部ブロック」(Bloque Sur)を再編成する。自らを「寡占層に簒奪された国家権力が宣言し実行した砲火と剣の政策の犠牲者」と規定。①「独立共和国」の幻想を捨て、②「武装した革命」を継続することにより、コロンビア全土に影響力を拡大し、③資本家から権力を奪取することで社会主義コロンビアの実現を目指す。(UPI通信で「スマパスから来た老練な共産主義者Issauro YOSSA (リスター少佐)」が起草した、と記載されているのは、おそらくアレナスのことであろう)
7.04 民族解放軍(ELN)が結成される.「正義,民主主義,平等」をスローガンに掲げる.
ELNの創立経過: ブカラマンガのサンタンデル工科大学で、ファビオ・バスケス・カスターニョ神父を中心に学生らがグループを形成。キューバ革命に影響を受け、63年にホセ・アントニオ・ガラン旅団を創設。ハバナで9ヶ月間のゲリラ訓練を受けたあと民族解放軍(ELN)と改称。創設メンバーはバスケスの他リカルド・ララ・パラーダ,メディナ・モロンら18名とされる。
7.20 第一回南部ゲリラ会議が開かれる(おそらくリオ・チキート内某所で行われたのであろう)。非共産党系の組織を含む武装自衛運動の諸組織代表が集まり、共産党=マルランダの統一的な指令系統のもとで同時に戦うこととなる.また拠点防衛の戦略を放棄しゲリラ機動戦術をとることで全滅を避ける。全国的な農業改革プログラムを発表.この計画は後にFARCの綱領となる.
7 政府軍,残された農民ゲリラ支配区への大掛かりな制圧作戦を開始.総兵力の三分の一にあたる2万の軍隊を派遣.
8.31 ククタ近郊で山賊行為を働いていたエル・ミコ(小猿)ことファビオ・イササと愛人が、2週間にわたる警察の追撃を受け殺される。
9.30 共産党の指導で,農民ゲリラの第1回協議会開催.「農民を基盤とする反帝革命」の位置づけで一致.農民の武装自衛をめざす統合組織「南部ブロック」の結成を決定.コロンビア革命武装勢力(FARC)の建設に着手.(7.20の会議との異同は目下不明)
10 南部ブロックのマルランダ司令官,第三次戦争の開始を宣言.マルケタリア他四つの戦線で反撃作戦を展開と発表.
11 LA共産党大会,ハバナで開催.ベネズエラ,コロンビア,グアテマラ,ホンジュラス,ハイチにおける武装闘争を正規の路線として承認.
64 国会議員選挙.国民戦線の枠組みに反対するアナポとMRLが躍進.
64 コロンビア共産主義青年同盟内の中国派除名.中国派はあらたにコロンビア共産主義青年団を結成.
64年 「ホセ・アントニオ・ガラン解放旅団」が民族解放軍(ELN)と改称し、ゲリラ活動を開始する。
1965年 1 景気の後退とコーヒー価格の低迷から,経済危機を迎える.ELN,農村ゲリラとして最初の軍事行動を開始.サンタンデル州シマコタ村を占拠.「シマコタ宣言」を発表.サンタンデル州のベネズエラ国境附近を中心に,村への武装宣伝,刑務所や銀行の襲撃などの作戦を展開.ゲリラによる資産家の誘拐が相次ぐ。
65年初め 対ゲリラ作戦の策定を進めたアルベルト・ルイス・ノボア将軍、政治的スキャンダルにより解任される。その後も軍内タカ派に影響力を維持。
2.17 米軍関係者の国防総省宛秘密連絡によると、このころ軍内にクーデターの動きがあり、抑制に努めているとされる。
3 マルケタリア,ほぼ陥落.マルランダはリオ・チキトに移りウィラ州,トリマ州で作戦展開をこころみる.
3 エルナン・ゴンサレス(トゥルキート)が指揮するFARCゲリラ、約100名が、カウカ州インサ(Inza)の町を一時占領.軍はこの部隊をリオ・チキートの共産党指導者シロ・カスターノがかくまい、手引きしたと非難。
3 国立大学教授のトレス神父のよびかけでキリスト教社会民主党,国民大衆同盟,共産党などが統一戦線結成に同意.トレスが綱領を起草.大統領選に対する戦術で合意が出来ず流産,
5.22 ラスク国務長官からボゴタ大使館への秘密の電報。トリマ州北部は、軍部隊「コロンビア旅団」がノエル・ロンバナ(別名ターザン)を殺害したことにより完全に平定された。ターザンは、デスキテとサングレネグラの死により残された最後の大物盗賊であった。マルランダの率いる共産ゲリラも徐々に駆逐されつつある。
5 米軍のドミニカ侵攻を機に、メデジン・ボゴタ・バランキージャなどで大学学生協会(FUN)を先頭とする反対闘争もりあがる.バレンシア大統領は非常事態宣言を発し弾圧.
6月 コロンビア軍情報当局、ゲリラや盗賊などのギャング団30組織、およそ700ないし800名が、依然活動を続けていると発表。第一軍領域で3組織30人、第三軍領域で3組織200人。この中で最大のものは“シロ市長”が率いる組織150人から200人(リオチキート共和国のことであろう)。第4軍領域で5組織60人、第五軍領域(サンタンデル州)で4組織65人。このうちELNゲリラが40人。第六軍領域で12組織400人。このうち6組織300人は共産主義ゲリラ(旧マルケタリア地区の遊撃ゲリラ)。第8軍領域で3組織25人。
6月 ELNとPCC-MLによる金持ち誘拐事件が頻発。この半年間で、米大使館や国防省の建物など34ヶ所に爆弾テロ。
PCC-ML(コロンビア共産党=マルクス・レーニン主義): 共産党の中国派が、共産主義青年団を母体に結成。ペドロ・バスケスが書記長に就任。カリ市を中心に2万人を擁する労組組織「独立ブロック」の指導権を掌握.
5 カミロ・トーレス神父,統一戦線大綱を発表.ルイス・コンチャ枢機卿の圧力を受け聖職を辞任.「われわれの周りには,瀕死に近い貧困がある.霊魂の不滅について共産主義者と議論している暇はない」
8.07 バレンシア大統領、ティロフィホ(マルランダ)が戦力を失い逮捕を目前にしていると発表。
8.15 コロンビア内部防衛計画(IDP)の中間報告。学生は政府の弾圧に対し爆弾テロで対抗。その多くがELN、PCC-MLに参加している.
9.09 政府軍はパト,グアヤベロ,リオチキトに対する攻撃を開始.ナパーム弾による大規模な空襲と農民虐殺を繰り返す。
9.14 政府軍の武装ヘリがリオチキートに強行着陸。ティロフィホらゲリラ部隊約250人が山の中に逃げ込む。
9.15 アジェルベ・ショー(Ayerbe Chaux)陸軍司令官,リオチキート地区の制圧に成功したと発表.軍によれば、当初カスターノは軍との取引を提案したが、その後裏切り、山間部に逃げ込み、抵抗を続けた。(どちらが裏切ったかは火を見るより明らかでしょう)
9.19 ホセ・ホアキン・マタリャーナ大佐、クーデターを企画し米大使館に陰謀を図るが失敗。
10 トレス神父,マキ(南部ブロックのゲリラ隊の呼称)に加わろうとするが,共産党のヒルベルト・ロヨスは合法闘争の分野にとどまるよう説得.共産党の拒否に会ったトレスはELNに加入.
11.8 カミロ・トレス,遊説先のサンタンデルから突如失踪.3日後にはサンビセンテ・デ・チュキュリのENLゲリラに合流.当時のENLはビクトル・メディナとファビオ・バスケスが指導.
65 大統領令3398号が公布される.ゲリラを打倒するために「国の全住民の組織」が必要であるとする.この布告により,民間武装組織の結成が合法化される.
1966年 1 ELN,ホセ・アントニオ・ガラン,カミロ・トレスの二つの戦線を中心に各地で攻勢.北部マグダレナ州でも大規模な作戦.南部ブロックの農民ゲリラも五つのうち三つの戦線で「自主防衛区」を維持.
Fabio Vásquez, Víctor Medina and Camilo Torres
1 ペンタゴン,農村ゲリラに対する軍民共同作戦の有効性調査のため,アメリカ大学に調査事業「シンパチコ作戦」を依頼.コロンビア国内で保守派もふくめた反対運動が起こる.
2.15 トレス神父,サンタンデル州のアジトを襲撃され戦死.(小高によれば、軍のパトロールに対する待ち伏せ攻撃に参加し、射殺された)。ELNはその後軍事的影響力をうしなうが,聖職者,知識人のあいだに精神的影響力を広げる.
66年3月 FARCの設立
3 マルランダ,リオチキトに対する敵の包囲を突破.ウイラ州に新たな根拠地を形成。ハコボ・アレーナス副官,シロ・トルヒージョ,ハイメ・グアラカ,アルフォンソ・カノ,ラウル・レイエスらが戦線を立て直す。
3月 マルケタリアとリオチキトの生き残りがウィラに結集.第二回南部戦線会議開催.マルランダと共産党の中央委員会メンバーの有志を指導者に,コロンビア革命武装隊(FARC)発足.マルクス・レーニン主義を組織原則に掲げる。6つのゲリラ戦線に再編成。創立時の兵員数は約350人。その後の2年間で500人に増えたとされる。農民数千を組織化.カラカスに亡命したビエイラら共産党主流派は,公式にはこれを認めず.
5.01 国民戦線の合意にのっとり自由党のカルロス・ジュラス・レストレボが大統領に選出される.惨敗したロペスはMRLを解散し自由党に復帰.旧ロペス派の多くはANAPOに流入.
6.28 ボゴタ大使館から国務長官への秘密の電報。陸軍司令官は大使に「ティロフィホはすでにカウカを離れ、スマパスからリャノへと移動した。バレンシア大統領の任期中にティロフィホを捕らえるのは困難」と語る。
7 FARCが各地で一斉攻勢.ウイラ州では1個小隊を殲滅するなど大規模化.メタ地方ラ・ウリベを本拠地とし,マグダレーナ川沿いにウイラ,カケタ,トリマ,カウカ,ボヤカ,サンタンデルの各地方で活動する.
8.07 ジュラス,大統領に就任.就任式に合流したアンデス諸国首脳,共同市場形成で合意(ボゴタ宣言)
9 コロンビアのゲリラせん滅作戦。米軍の指導の下でコロンビアとベネズエラ軍が共同.コロンビア軍がベネズエラ領内から出撃し,ビチャーダ地区のゲリラを攻撃.このゲリラはミヌート・コルムナーレスとトゥリオ・バイエルが指導.
1967年
3 ゲリラが列車を襲撃.政府は共産党書記長をはじめとする指導者を一斉逮捕.
4 ELNとFARC,ブカラマンガで共同行動.ユイラのパトロール隊を乗せた列車を爆破し15人を殺害.
4月 コロンビア共産党マルクス・レーニン主義派(PCC-ML),軍事組織として人民解放軍(Ejercito Popular de Liberacion--EPL)を結成.ベルナルド・フェレイラを司令官とし,ジャイロ・クラボ,フランシスコ・カルバロ,ジャビア・ロブレスらが指導.
5 新憲法,発効.
12月 PCC-ML、軍事闘争と結合したフロント組織として愛国評議会(JPL)を創設。EPLは北部のウラバ州,コルドバ州のアルト・シヌ,アルト・サン・ホルヘを中心に根拠地を形成.都市部ではコマンド組織として「軍事都市部隊」(BUM)、フロント組織として「マリア・カノ名称女性部隊」(アマンダ・ラミレス司令官)も作られる.
67年 サンタマルタ東方のシエラネバダ山麓で大麻(マリンベラ)の大規模な栽培が始まる。ニューヨークやサンフランシスコのヒッピーのあいだでは「コロンビア・ゴールド」と呼ばれ、キロ8000ドルで取引される。
1968年
8.24 コロンビアのメデジンで,第二回LA司教会議開催.「解放の神学」を提起.
8 軍の一斉掃討作戦.EPLは創設者フェレイラが殺されるなど重大な損害.これに代わりペドロ・レオン・アルボレダが司令官となる。レオンはアンティオキア大学を卒業後、新聞記者を勤めていた。FARC創設者の一人で共産党中央委員シロ・トルヒーヨ,ボヤカで作戦中殺害.
12 ジェラス・レストレポ大統領,戒厳令を解除.
68年 ELNは敗北の中で内部分裂.フアン・デ・ディオス・アギレーラらはELNから分かれシモン・ボリバール戦線を結成.
68年 パラミリタリー組織が法律48によって恒久化される.65年の大統領令3398号を法制化したもの。さらに軍の戦略マニュアル『対ゲリラ戦の規定』で組織のあり方が規定される。
「対ゲリラ活動マニュアル」(80年代に軍内に流通していたもの): 「市民を軍事的に組織し,ゲリラの活動からの自衛にあたらせる」とパラミリタリー組織を定式化.民間人を「自衛委員会」に組織し、ゲリラ活動に対する情報活動の手先として位置づけ、地域における「ゲリラ支持者」の密告を奨励。「組織された自衛団の統制は常に軍が握っていなくてはならない」と述べる.また軍人の私服での情報活動(民間人の誘拐・暗殺などの非合法活動)を勧める。
1969年
5.26 アンデス地域統合(ANCOM),LAFTAのサブ・リージョナル機構として創設.外資導入を厳しく規制し,経済的自立をめざす.域内貿易はその後の十年間で1億から9億ドルに増加.ベネズエラは遅れて73年に加入.
69年 PCC-MLのペドロ・バスケス書記長が暗殺される。これに代わりフランシスコ・カラバジョが書記長に就任。
69年 PCC内の毛沢東派が、PCC-MLとは別に独立・革命労働運動(MOIR)を結成。
69年 北部海岸のバランキージャ近郊で大規模な輸出用コカイン栽培が始まる。(最初のコカイン精製はカウカ州という)
1970年
1 ELNの創設者でホセ・アントニオ・ガラン戦線の司令官ファビオ・バスケス,ベネズエラのブラボとともにキューバ批判を開始.資金獲得の手段として要人誘拐,銀行強盗作戦を展開.
4.19 大統領選,軍政時代の指導者で,ポピュリスト政党「全国人民同盟」(ANAPO)のおすグスタボ・ロハス・ピニージャ将軍が優勢となるが,不正操作によりわずか5万票差で保守党のミザエル・パストラナ・ボレーロに敗れる.同時におこなわれた下院選ではロハス派が36%を獲得.
国民戦線政府は開票作業をいったん中断した。この間、パストラーナ陣営は、全国各地の投票所でなりふりかまわず投票箱にパストラーナ票を詰め込んだ。このため、ある村では有権者数をはるかに上回るパストラーナ票が出た。(伊高による)
4.24 陸,空軍内のロハス派によるクーデター計画発覚.政府は非常事態宣言を発し,ロハスを軟禁.同派の反乱計画が発覚し将校多数が逮捕.その後ロハスは退陣し娘のマリア・エウヘニア・ロハス・デ・モレーノ・ディアスが指導.ロハスは75年に病死.
7.19 ジェラス・レストレポ大統領、全国非常事態を宣言。
9 マルランダ,結核により死亡との報道.他にも数度にわたり,報道機関により「死の宣告」
FARCの大移動: このころFARCはウィラ山麓から東に200キロのカケタ州マカレナ山地に拠点を移していた。アマゾン川流域とオリノコ川流域の境界に当たる。ここから西に50キロのメタ州ウリベがFARCの前進拠点となる。
70 コロンビア,取り締まりの厳しくなったメキシコをしのぎ最大のマリフアナ生産国となる.北部海岸沿いのグアヒラ半島,サンタ・マリア近くのシエラ・ネバダを中心に3~5万の農民,5万の従業員がマリフアナを栽培.米国のマリフアナの7割をコロンビア産がしめるようになる.バランキージャやサンタマルタには多数のマフィオーソと呼ばれる成金が出現.警察は腐敗し無力化.
1971年
71年 カウカ州の先住民パエス族、カウカ州先住民地域会議(CRIC)を組織。1914年の蜂起の指導者キンティン・ラメ(67年死亡)の遺言を引き継いで民族の自決をもとめ闘う。
1972年
4.16 非常事態体制の下にコロンビア地方選挙.二大政党の厚い壁に阻まれた共産党は1.7%の得票にとどまる.
4.26 ブラジルとコロンビアがアマゾニア共同開発計画を発表.
72年 ANAPO内の武闘派,都市ゲリラ作戦を開始.当初は銀行強盗に限られていた.
72年 FARCの政治指導者ハコボ・アレナス、「マルケタリア・抵抗の日々」(Diario de la resistencia de Marquetalia)を発表。キューバ革命の理論とゲバラの理想を引き継ぐ。
理論指導者としてのアレナス: 農民武装勢力を思想的に武装させ、国際的共感を得られるゲリラに育て上げた。FARCの旗に描かれているのは本と2丁のライフルである。それはFARCにとって思想学習が決定的に重要であることを示している。
1973年
12.29 政府、74年選挙に向け非常事態を解除。キリスト教社会民主党,コロンビア拡大運動(MAC)に共産党も加わり全国野党連合(UNO)を結成.政治囚の解放,「外国への従属と闘い,すべての地下資源を国有化し,土地を農民と労働者に渡す民主的な土地改革,独占体への統制」を要求する共同綱領を採択.翌年には中国派の独立革命運動(MOIR)も参加.
73 ANAPOの活動家を中心に4月19日運動(M-19)結成.イデオロギー的にはポピュリズム,民族主義,革命的社会主義のごった煮.ハイメ・バテマン・カイヨン,カルロス・トレド・プラタらが指導.軍事組織の最高司令官となったバテマンは、元FARCメンバーで弁護士.トレドはアナポの議員団長で医師.プトマーヨ地方プロビデンスを中心とする南部戦線,カルダス,カウカ,バレ・デル・カウカ,キンディオ,トリマを中心とする西部戦線を形成.ここを根拠に都市ゲリラとしての活動を開始.
73年 コロンビア政府軍,ELNに対する「アノリ作戦」を展開。1年にわたる大規模な掃討作戦のあと、「ELNは実質的に,破壊された」と声明.
73年 ボヤカ州にあるエメラルド鉱山が民営化される。鉱山の権利を巡ってマフィアが争う.紛争のなかで各派が私設軍隊を創設.民間パラミリタリーの起源となる.
1974年
1 M-19,ボゴタ博物館からシモン・ボリーバルの剣と拍車を奪い,一躍有名になる.都市中間層や知識人の支持を獲得.ANAPO武装部隊を宣言するが、ANAPO指導部はM19との関係を否定.
4.19 Yacopiの村で選挙をめぐり衝突。5人が死亡。
4.21 国民戦線体制終焉.自由競争にもとづく大統領選と国会議員選実施.自由党のアルフォンソ・ロペス・ミケルセン前外相が56%を獲得し当選.下院でも自由党が113/199議席を獲得。保守党は66議席にとどまる。ANAPOはロハスの娘のマリア・エウヘニア・ロハスを候補に指名.得票率9.4%で惨敗.UNOは20万票の得票で7議席を獲得するが,右翼幹部の寝返りとMOIRのセクト的態度により崩壊.
8 ミケルセン,大統領に就任.公共投資の削減,福祉計画の見直し,金融引き締め,売上税の引き上げなどからなる経済安定化政策を開始.いっぽうでキューバとの国交回復,運河に対するトリホスの要求支持,コロンビア労働組合連合(CSTC)を合法化するなど一定のリベラルな政策をとる.
12 エチェベリア前メキシコ大統領の提唱した「国家間経済権利義務憲章」,国連総会で確認.資源ナショナリズムの高揚.LA諸国のバナナ輸出協定成立.バナナひと箱につき1ドルを課税することで合意.
74 ELNを主な対象として大規模な鎮圧作戦展開.ELNは幹部の殆どを消耗,おいつめられた組織の中で反キューバ路線を取るバスケスとの間に矛盾激化.一方FARCは徐々に力を蓄え、兵士数は780名(推定)まで増加
1975年
1.31 ゲリラ,オランダ領事レクビンをカリで誘拐.
4.10 FARC、プエルト・リコを攻撃。警官2人を殺害。
6.20 FARC、Mutataを攻撃。警官ら3人を殺害。
6.25 モラレス近郊で政府軍とELNが衝突。3人の政府兵士と3人の反乱軍が死亡。ファビオ・バスケスは独裁性を批判するキューバ派との権力闘争に敗れ,組織を脱走.ニコラス・ロドリゲス・バウティスタ(ゲリラ名ガビーノ)とスペイン人神父マヌエル・ペレスがかわって指導権をにぎる.
6.26 ミケルセン大統領、非常事態を宣言。
10 チリ,ANCOMを脱退.
75 米国でコカインの需要が急増.マイアミの亡命キューバ人グループの依頼を受けたコロンビアの麻薬業者は,従来カウカ州サンホルヘ渓谷でパエス族が作るコカに依存してきたのを改め,ペルーやボリビアのコカをペーストにしてコロンビアに持ち込み,精製した上で米国に密輸するルートを確立.
メヂジン・カルテルとカリ・カルテル: メデジンではファビオを長とするオチョア・バスケス一家がコカイン組織を確立。76年にはパブロ・エスコバルが独自に組織を作り、これにカルロス・レデルやゴンサロ・ロドリゲス・ガチャが加わる。両者は共同関係を結びメデジン・カルテルを形成。一方カリでは、70年代初めからヒルベルトとミゲルのロドリゲス・オレフェラ兄弟がコカイン組織を形成した。
ほかにレティシア・カルテル、大西洋岸カルテルなど。カルテルの呼び名は米国のマスコミが作ったもの。75 ロハス・ピニリャ死亡.以後アナポの影響力は消滅.
75 EPLのペドロ・レオン・アルボレダ司令官、カリにおける軍との衝突で死亡.これに代わりエルネスト・ロハスが司令官となる。このあとEPLは沈滞期を迎える.
75年 社会主義革命連合(URS)が結成される。
1976年
6月 1年ぶりに非常事態が解除される。
8 ロペス・ミケルソンの緊縮政策に対する抗議が拡大.学生や労働者は次々とスト入り.
10 社会福祉労働者のストが2カ月にわたる.ミケルセンは戒厳令を発令してストを弾圧.
76 M16,CIAのエージェントを勤める労組指導者を誘拐,殺害する.その後,誘拐はM19の常套手段となる.
76 ELN,学生を中心に再建.銀行強盗,誘拐,殺害作戦を開始.軍情報部のトップ,ホセ・ラモン・リンコン・キオニェス将軍を暗殺.
76 パブロ・エスコバル・ガビリア,コカイン18キロを押収され逮捕される.三ヵ月後に不起訴処分となる.彼を捕らえた警官は,後に暗殺される.
1977年
9.14 四大労働者組織が統一スト.120万人が参加.生活困難に抗議して5割賃上げを要求.政府はストを非合法とし弾圧.スト破りの乱入事件で労働者20人が死亡.強引なスト抑制は暴動を誘発.閣僚の数人が弾圧に抗議し辞任.
2.14 FARC、米平和部隊ボランティアのリチャード・スターを誘拐し、3年の間拘束。80年に25万ドルの身代金を払い解放される。
10月 ゲリラの活動がふたたび活発化.FARCはアンティオキア,トリーマ,マグダレーナ,ボヤカ,カケタ,メタを中心に影響力を拡大.M16は400人以上を誘拐,人質にする.ELNはボリーバル州南部で誘拐作戦や,軍の待ち伏せ攻撃を強化.
77 M16,産業施設の破壊活動に乗り出す.
77年 指導者が相次いで暗殺されたカウカ州先住民地域会議(CRIC)、M19の支援を得て合法闘争からゲリラ闘争に転換。後に先住民闘争の英雄を記念し「キンティン・ラメ運動」を名乗る。
77 ホルヘ・オチョア,マイアミにシー・エイト貿易会社を設立.コカイン密輸のルートとなる.
77 DEA,初めて「メデジン密輸シンジケート」の存在を明らかにする.「メデジン・カルテル」はオチョア一家,エスコバル一家など三つのギャングが連合したもの.地元では「ラ・コンパニーア」と呼ばれる.
77年 トロツキスト系の活動家が労働者社会党(PST)を結成。
1978年 2.26 国会議員選挙.自由党が109議席を獲得、引き続き圧勝。自由党内では左派のフリオ・セサル・トゥルバイ派が多数を占める.右派のジェラス・レストレポは大統領候補の指名争いにも敗れる.保守党のベタンクールは国民運動を結成,保守党の他自由党反トゥルバイ派,アナポの一部,キリスト教社会民主党などを味方につける.
3.08 ゲリラ,ビスタエルモーサを攻撃.
5.18 公共料金引き上げに反対し、公務員60万人が参加するスト。ボゴタでは100人が逮捕される。
5 EPLに対する掃討作戦.EPLは主力のゲバラ戦線が壊滅するなど重大な損害.
6.05 コロンビア大統領選挙.自由党のトゥルバイが当選.保守党のベリサリオ・ベタンクール・クァルタスは,自由党の一部,旧アナポ,キリスト教社会党などと「国民運動」を結成し選挙に臨むが,僅差で敗れる.
9.12 PCC・ML,追い詰められたEPLにかわり新たに都市ゲリラとして労働者自衛運動(MAO)を創設.アルマンド・ロペス・スアレス(”コレータ”)が指導.ボゴタを中心に作戦展開.ラファエル・パルド元内相を暗殺.実行部隊には詩人として有名なマリオ・カスメロ・フランコも参加.暴力至上主義をとなえテロ,誘拐,ギャングに専念.やがて中国派を離れトロツキズムに傾斜し,第4インターと手を結ぶ.
9 自由党のフリオ・セサル・トゥルバイ・アヤラ,大統領に就任.当初ミケルセンの路線の修正を図る.
11 トゥルバイ大統領,一気に反動化し強硬路線に変更.戒厳令下に国家安全法(反テロリズム法)を制定.軍に逮捕権と軍事法廷による裁判権をあたえ,メディアに対し検閲制をしく.その後左翼ゲリラの撲滅,ストライキや大衆運動の弾圧などこれまで以上の反動的方針をとる.不当逮捕,拷問,「行方不明」者が続出.活動家の多くがゲリラに合流.
12 トゥルバイ大統領,ラ・グアヒーラ半島州の麻薬取引とマリフアナ栽培撲滅のため,軍に全権を与える. 12,000人の軍部隊は16ヵ月にわたって大麻畑を破壊して,商人を逮捕.海軍は海岸線を封鎖,米国向けの麻薬出荷を摘発.
78 メデジン・カルテル,全米の麻薬市場制覇の計画を発動.フロリダ南部で「コカイン戦争」が始まる.マイアミでの抗争に対処するため,オチョア一家はカルロス・マドリ・パラシオスを派遣.マドリはベネズエラ出身で,元海軍将校.
78年 FARC,着実に組織を拡大.ゲリラ部隊を5つの戦線に拡大・再編成.
78年 ラモン・イササを首領とする極右私兵隊、マグダレーナ・メディオ地方で活動を開始。
78 もと国会議員のカルロス・トレド,M-19最高幹部に就任,武装闘争を強化.官憲当局や警察署などを襲撃.米国の多国籍企業に対しても攻撃を開始.FARCはELN,MR19に共闘を提起するが,両組織はFARCの日和見主義を批判し共闘を拒否.
78年 カウカ、ウィラ州でけしの栽培が始まる。
1979年 M19の華麗な登場 1.2 M19,ボゴタの軍事省ビルにトンネルを掘り,銃5千7百丁を盗みだす.1カ月以内に捕獲した武器が摘発され,作戦参加者のほとんどが逮捕される.
1.03 ゲリラ,テキサス石油の現地会社社長を射殺.
2.27 M19,5百人にのぼる政治犯虐待に抗議しあいつぐ要人誘拐作戦を展開.
3 M19,FARCとELNの和解をめざし仲介に入ると声明.
3 1年半にわたり続いた,グアヒラ半島の麻薬撲滅作戦が終了.軍に代わり国家警察の6千人が引き続き取り締まりに当たる.作戦は地域の経済を衰退させ,軍隊は麻薬密売人の賄賂により腐敗.
4 M19とELN,人民権力獲得のため連帯して戦うと声明.FARCはこの方針を厳しく批判.ELN,15年間に指導者のうち10人が殺されたと発表.マグダレーナ中部の小地域においつめられる.
7.11 マイアミ郊外のデードランドの繁華街で、コロンビア人二人がマシンガンを乱射.コカイン戦争の始まり.犯人はそのまま逃走.後に発見された車からは機関銃,カービン銃,ショットガン,ピストルなどが発見される.
8 FARC,ELNとの即時合併を提起するが,仲介役のM19はこれを無視.
8.12 エクアドル大統領就任式に参加したコロンビア・ベネズエラ各大統領,ボリビア・ペルー両外相ととともに中南米民主化の推進を宣言(キト宣言)
9月 米国とのあいだに麻薬犯の引き渡し条約締結.M19は条約を反人民的でスキャンダラスなものと非難.
9 ELN,統一を回復しマヌエル・ペレス・マルティネスを代表に選出したと発表。マヌエル・ペレスもバスケスと同じく神父で、スペイン出身。これはカミロ・トレス、ファビオ・バスケス以来、左翼神父との連携を重視するELNの伝統にのっとったものであり、実際の指導者は引続きニコラス・ロドリゲスがつとめる.マヌエル・ペレスは98年、マラリアが悪化しキューバで死去。
10 武器強奪事件に関連したM19活動家200人の一斉審理が始まる.
79 トゥルバイの権威主義路線に反対するルイス・カルロス・ガラン・サルミエント,新自由主義運動(Movimiento Nuevo Liberalismo--MNL)を結成.
79 FARC,カグアン河流域に新たに戦線を構築。移動コマンドを主軸とする従来の戦術に加え、コカイン栽培農民を基盤とする陣地戦を復活。さらにエル・バリェ,メタ,クンディナマルカ,アラウカに作戦地域を拡大.
79 EPLの指導者ラファエル・ベルガーナ・ナバロ,メキシコ大使館に亡命.かわってフランシスコ・カラバジョが指揮をとる.他団体との非妥協的態度を軟化.
1980年 2.27 M-19コマンド17人が,ドミニカ大使館のパーティー会場に突入.17(14?)ヵ国の大使をふくむ57人を人質とする.司令官はローゼンベルグ・パボーン(コマンダンテ・ウノ)
3.02 ドミニカ共和国大使館占拠中のM19,人質の一部を解放.
3.18 政府,ゲリラ側の要求には応じないとの方針を確認.
4.01 アムネスティ・インターナショナル(AI)、政府の人権虐待を告発。
4.18 政府,政治犯9人の釈放に踏み切る.
4.21 OAS人権委員会 (IACHR)、コロンビアの人権状況を視察。6月末には「人権状況について懸念」を表明する報告を発表。
4.27 ドミニカ共和国大使館占拠事件,OAS人権委員会とキューバの調停により、61日後に平和解決.M19ゲリラは、獄中から開放された仲間9人、一部の人質とともにキューバへ亡命,ハバナで人質解放.
5 MAOのアルマンド・ロペス,ボゴタ市内で逮捕される.MAO残党はゲリラ組織統一に傾く.
6.17 トゥルバイ大統領、FARCに恩赦の提案。FARCはこれを拒否。
9.22 アムネスティ・インターナショナル(AI)、政府による人権虐待をふたたび非難。
9 自由党のルイス・カルロス・ガラン,新自由党を結成.都市不満層を基盤に急成長.ミケルセン自由党首は大統領返り咲きをねらい,トリホスの仲介でM19のバテマンと接触.
12 米国との共同によるティブロン作戦がスタート.3千トン近いマリフアナを押収.
80 M19,コロンビア労働連合(CTC)のホセ・ラケル議長を暗殺.
80 政府,ラ・グアヒラ州での麻薬取締りの権限を軍から全国警察に戻す.
80 ELN,サンタンデル州から駆逐される.残党はマグダレナ河を挟んで西側の南ボリーバル州に入りサン・ルカス山間部に根拠地を建設.
80年 PC-MLが党大会を開催。ハイロ・デ・ヘスス・カルボが党書記長、エルネスト・ロハスがEPL司令官に再任される。中国寄りの路線を放棄しつつ民族主義政策を維持する。反主流派はPC-MLを離れ、新たに共産党マルクス・レーニン・毛沢東派を結成。
80 麻薬王パブロ・エスコバルら,メデジン・カルテルを組織.ペルー.ボリビアからはこばれた粗製コカインを,密林内の精製工場で加工,カリブ海経由で米国に「輸出」するルートを確立.
メデジン・カルテル: 幹部はエスコバルの他ルイス・オチョア,ゴンサロ・ロドリゲス・ガチャ,カルロス・レーデルなど.レーデルは新聞社を設立しラテン民族運動党を結成.メデジン,カリのほかボゴタ,サンタマルタ,ブカラマンガなどにも小規模なカルテルが活動.シカリオと呼ばれる殺し屋を雇い,政府当局に対する攻撃も開始.
80年 アンティオキア州(コルドバ?)の牧場主カスターニョ、FARCにより誘拐される。身代金が払えなかったことから殺害される。
1981年 1.19 M19,テキサコの現地総支配人で米国人のチェスター・アレンを誘拐.(一説に語学教師チェスター・ビターマン)
3.07 M19,チェスター・アレンを殺害.
3.18 軍部隊,M19を急襲.多くの活動家が逮捕される.
3.23 M19,地方の2地区を同時襲撃.とらえられたメンバーから,M19がキューバで訓練を受けたあと,パナマ経由で国内潜入したことが判明.トゥルバイ大統領,M19に対するキューバの支援を理由にキューバとの国交を断絶.キューバ政府はM19への関与を否定,レーガンの圧力を受けた措置と批判.
3.26 親キューバ文学者ガルシア・マルケス,M19との関係を疑われコロンビア政府から逮捕状.マルケスはメキシコ亡命.
3 トゥルバイ,4ヶ月の期限つきで,ゲリラの武装放棄と交換に,獄中の活動家に恩赦を与えると提案.上院もこれを承認.
5.25 M19,エクアドル大統領ロルドスの暗殺を実行したと名乗る.
8 FARC,ELN,M19,MAO,共同行動をとることに合意.背景にキューバの仲介.ベネズエラのバンデラ・ロハもELNと合体.ガブリエル・プエルタが指揮をとる.
9.15 FARC,各地で陸軍部隊に攻撃.軍の発表によればゲリラ7人死亡.
9.28 コロンビア教員連盟(FECODE)のヘルマン・トロ全国執行委員,軍の諜報機関B2により誘拐,拷問.
10.21 労組,政府の政策に抗議するゼネストを計画.政府は戒厳令上の「破壊活動」にあたるとして150名を事前検束,スト中に約千名を逮捕・拘留.
10 コロンビア政府,パナマ国内の飛行場がM19の武器輸送に利用されていると抗議.
11 貨物船「カリーナ」号,M19ゲリラと武器を積みエル・カカタンに接近中を捕らえられる.関係者の聴取からキューバとパナマの関与が明るみに出る.
11.12 M19,カリーナ号事件の失点を取り返そうとして麻薬王カルロス・レデール・リバスを誘拐しようとするが失敗.続いてファビオ・オチョアの末娘マルタ・ニエベス・オチョアをアンチオキア大学で誘拐.身代金千五百万ドルを要求.
12.03 オチョアとレデールはゲリラに対抗し,カリの有力麻薬商人223人を結集.「誘拐者に死を」(Muerte a Secuestradores:MAS)を結成.息子ホルヘ・ルイス・オチョアを議長に,エスコバル一家の若頭ゴンサロ・ロドリゲス・ガチャを司令官とし、公称2230名(一組織あたり10名のメンバーを供出)からなる.
12.03 サッカー試合が行われていたカリのパスクアル・ゲレーロ競技場の上空をヘリコプターが旋回。「223人の麻薬密売人とマフィア・ボスが加わりMASが結成された。誘拐に関係するあらゆる人物を容赦なく処刑する」と告げるリーフレットをばら撒く.その後の数週間で,ゲリラと支持者百人以上を殺害.
81 米国内で「コカイン戦争」が最高潮に達する.この年だけで麻薬がらみの殺人事件が100件を越える.
81 トゥルバイ政権,麻薬犯罪者の米国への引渡し条約に同意.また麻薬捜査を独立させるため,司法警察を創設.カルロス・レデールは、キンディオ州の州都アルメニアで「民族ラテンアメリカ運動」を創設。「キンディオ・リブレ」紙を発刊して身柄引き渡し政策非難のキャンペーンを展開。
81年 共産党マルクス・レーニン・毛沢東派がふたたび分裂。カウカ州を本拠とする主流派は農村革命論を堅持する。少数派は革命左翼運動「自由な祖国」(MIR-PL)を名乗る。カストロ主義に傾斜しELNに合流してゆく。
1982年 1.27 M-19,エアロタル(国内航空)機をハイジャック.M19はカリで乗客の一部を解放した後ハバナへ亡命.
1月 サンタンデル州プエルト・ボヤカで,Barbula大隊の肝いりで準軍事組織 「MAS」を結成.軍人市長のオスカル・デ・ヘスス・エチャンディア大尉が音頭をとり,ビジネス関係者,大規模牧場主,テキサス石油会社代表,現役軍将校,政治家などを結集.「破壊分子を浄化する」ことが目的とされ,支配層に反対するものは誰もが標的とされる.情報の提供,訓練,組織作り,作戦策定には陸軍があたる.
MAS: Muerte a Secuestradores(誘拐者に死を!)の頭文字をとったもの。もともとはメデジン・カルテルがゲリラに対抗して結成した雇い兵部隊を指していたが、国軍が各地で「武装・自衛組織」を作らせたとき、多くにこの名前をつけたことから、パラミリタリー組織の代名詞となる。カスターニョ兄弟もバルブラ部隊で訓練を受ける。
2.17 パナマでノリエガを仲介にメデジン・カルテルとM19の和解成立.マルタは解放されM19は全面敗北.ゲリラとの相互不可侵の了解成立によりメデジン・カルテルの権威確立.
2 トゥルバイ,6月までに投降に応じたゲリラ戦士には恩赦を与えると発表.
5月 エスコバル,豊富な資金にものをいわせ「アンティオキア自由刷新」党から下院に出馬.自由党ハイロ・オルテガの補欠議員(スプレンテ)となる.報道によればエスコバルの個人資産は20億ドルに達する.メデジンのバリオに住む200家族のために住宅を提供するなど善行を施したため,住民からはロビンフッド・パイサと呼ばれる.いっぽう,はね物のコカインを使った「バスコ」が国内に大量に出回る.青年の多くがマリフアナより安いバスコに乗り換える.
5.31 大統領選.自由党はロペス・ミケルセンを推すトゥルバイ派と,ガランを推すジェラス・レストレポ派に割れる.ポピュリスト的キャンペーンを展開した保守党内反主流,国民運動(MN)派のベリサリオ・ベタンクール・クアルタスが,政治の「民主的開放」を訴えて当選.ガイタンの娘やマリア・エウヘニア・ロハスらの支持も獲得.自由党の内部分裂にも助けられる.
6.20 任期終了を控えたトゥルバイ,非常事態を解除.国家保安法を失効させる.FARCはカウカ,カルダス両州に陣地を拡大.いっぽうELNは活動力を弱める.
8.07 ベタンクール,大統領に就任.ゲリラ指導者をふくむ政治犯400人を釈放しゲリラに交渉を呼びかけるなど,親米反共と武力弾圧路線に一定の手直しを行う.M-19は呼掛けに応じ武力活動停止を宣言.さらに民族主義の立場から,麻薬犯人の米国への引渡し協定に反対.マリフアナ栽培地へのパラコート散布を拒否.
10.08 ベタンクール大統領,国営テレビ・ラジオで経済非常事態を宣言.最大手銀行のひとつエスタード銀行を国有化すると発表.
82年 FARC、この年162人の一般人、13人の政府兵士、それで、10の政府警察を殺害。
82年 FARC、第7回ゲリラ会議を開催。アレナスの手になる「戦略計画」を策定。FARCの正規軍部門をFARC-EP(Ejercito del Pueblo)に分離・再編。この時点でFARC兵士数は約1100名と推定される。
FARCの政治目標: ボリーバル精神を受け継ぐマルクス・レーニン主義組織と自己を規定。有産者階級に対抗する地方貧民の闘いを代表する組織とする。そして米国の干渉に反対し、天然資源の民営化、多国籍企業、パラミリタリー組織に反対する。合法闘争と非合法闘争、政治闘争と軍事闘争を組み合わせながら、90年代に権力を獲得することを展望する。マルランダを書記長とする8名の書記局が編成され、モノ・ホホイも書記局員に任命される。
82年 この年、ボゴタ国立大法学部の学生アルフォンソ・カノ(ゲリラ名)がFARCに参加。アレナスの右腕として政治指導に当たる。
82年 共産党マルクス・レーニン・毛沢東派、労働者革命党として再編成。カウカ州の農民運動に基盤を置き、身代金誘拐戦術や麻薬取引への関与を拒否し、「潔癖路線」を貫く。
経済破綻と対外債務の重圧 1983年
2.11 ベタンクール大統領,経済非常事態継続を宣言.
2.20 ベタンクル大統領の指名を受けた検事総長,MASによる暴力活動に関する報告を発表.容疑者163名のうち59名は,警察と軍の現役であった.軍と防衛省が「クーデターが迫っている」と仄めかした結果,MASのメンバーに対する制裁手段は停止された.
3 政府軍によるゲリラ平定作戦展開.FARCは重大な被害をこうむる.反撃に出たFARC第7戦線の120名の部隊が,カウカ渓谷の町トリビオを攻撃.共産党中央委員ホセ・カルドナ・オヨス,PCCのFARC支持路線を批判し,党より追放.
4.28 M19のバテマーン司令官(Jaime Bateman Cayon),EPLと組織統合の話し合いのため旅行中,飛行機”事故”で死亡.南部戦線指導者コンラド・マリンもともに死亡.恩赦のあとキューバ亡命中だったイヴァン・マリノ・オスピーナが,かわってカケタ戦線の指揮をとる.
5 サンタンデルでELN地下組織幹部逮捕.このあとELNは行きづまった山村ゲリラ戦にかえ,都市ゲリラ活動に比重を移す.メデジンの都市ゲリラ,「ペドロ・レオン・アルボレーダ戦線」(PLA)とも共闘関係強化.
6 M19,エクアドル国内に闘争を拡大,M20(AVCの母体)の結成へ動く.
7 ELNコマンド,ブカラマンガの三つの米系企業をダイナマイト攻撃.ボゴタのAFP支局を占拠.彼らのコミュニケを送信.
7 アンデス5ヵ国大統領,カラカスで会談.ANCOM強化をさらに推進することで合意.
8.29 ベタンクールの仲介により,エルサルバドル政府「平和委員会」とFDRがボゴタで初の会談.
8 ロス・リャノス州のヤリ河畔トランキランディアに建設された史上最大のコカイン精製工場が操業を開始.14の独立した施設からなり,水道,電気,住宅,道路,滑走路を完備し月産3.5トンの純コカインを生産.ベタンクール大統領は麻薬取締強化のためロドリーゴ・ララ・ボニーリャを司法大臣に任命.ボニーリャは反カルテルのキャンペーンを開始.ボゴタの有力紙「エル・エスペクタドール」がエスコバル議員の前科を暴露.
10.7 ELN,学生獲得へ工作を強める.学生内主導権をめぐり国立大学内で乱闘を引き起こす.
10 マドリードでベタンクールとFARCの会談.FARC,ベタンクールに対し平和提案.ベタンクールは恩赦法案など和平条件を逆提案.EPL,アンティオキアで武装行動展開.
11.22 ELN,ベタンクールの弟を誘拐.二週後にカストロの仲介で釈放.
12 M19のオスピーナ司令官とファヤド副司令官,記者会見し和平会談の早期実現を訴える.
83年 マグダレーナ中流域農牧者協会(Asociacion Campesina de Ganaderos y Agricultores del Magdalena Medio:ACDEGAM)が創設される。ゲリラ闘争の根絶に向け、武装組織への支援と広報活動を集中させる。
メデジン周辺の武装組織: マグダレーナ中流域の武装組織を仕切ったのは麻薬王ガチャ(Jose Gonzalo Rodriguez Gacha)。大のメキシコ・ファンであったことからエル・マヒカーノと呼ばれる。ほかに牧場主で武装組織のボスであるドゥラン(Henry de Jesus Perez Duran)
さらにメデジンの北方では「コルドバ及びウラバ農民自衛団」(Autodefensas Campesinas de Cordoba y Uraba: ACCU)が結成される.一般にはLos Tanguerosと呼ばれる。創設者は,カルロス及びフィデル・カスタニョ兄弟.83 政府オンブズマンのカルロス・ヒメネス・ゴメス,カルテルと関係した軍・警察関係者59名の氏名を公表しようとして暗殺される.この中にはプエルトボヤカとプエルト・ベリオを所管する二人の軍区司令官も含まれる。
83年 軍はMASとの関係を1968年の法律48号に基づく正当な活動であるとし、オンブスマン事務所による告発を拒否。ベタンクールは軍関係予算の増額で将軍たちの懐柔を図る.
83年 メデジンの大地主アルベルト・ウリベ、FARCにより誘拐。その後殺害される。アルベルトは後のアルバロ・ウリベ大統領の父親。麻薬取引嫌疑で米国の引渡し令状の対象となっていた。
1984年 1 キトでLA経済会議開催.「キト宣言」採択.
1 M19総司令部,バジェ・デ・カウカとナリーノに西部戦線を結成と発表.
2 FARCの合法闘争路線への転換に不満を持つハビエル・デルガド,「リカルド・フランコ戦線」(FRF)を結成,FARCより分裂.ホセ・フェドル・アルバレツの指揮の下カウカ渓谷を中心に活動開始.FARCはERFを盗賊一味になりさがった集団と非難.
3.10 政府,「メデジン・カルテル」の一角,ロドリゲス・ガチャのコカイン製造工場「トランキランディア」に対し,大規模な摘発作戦.居合せた全員を逮捕,大量の武器と車両,7機の飛行機と化学物質,原料を押収.コカイン14トン(10億ドル相当)を川に流す.カルテル幹部はレーデルを残しパナマに逃亡.
3.14 M19,フロレンシアで刑務所,軍施設,警察,銀行を同時襲撃.EPLもアンティオキア地方でサバナ・ラルガなどの町を連続攻撃.
3月下旬 ラ・ウリベ州のFARC作戦本部において,政府の全国平和委員会,民間の人権・平和組織との間に和平交渉開始.
4.01 FARC,ベタンクール提案を受諾.「民主主義強化のため」武装闘争を停止.PCC13回大会,ビエイラ書記長が提案した反寡占・反帝の広範な統一戦線の結成をめざす方針を決定.FARCもこの方針を支持.
4.04 FARCとM19の連合部隊、カウカ州コリントを攻撃。
4.30 メデジンカルテル,摘発作戦を指揮したロドリゴ・ララ・ボニージャ法相を暗殺.ベタンクールは「仮借なき戦い」を宣言.
5.01 ベタンクール大統領,全土に非常事態を宣言.各地のコカイン秘密精製工場を摘発.麻薬密輸業者13人の米国への引き渡しを開始.パナマのカルテル幹部,ベタンクールに対し和平提案.資産を国家開発計画に提供し,130億ドルの対外債務を肩がわりすると提起.政府は「慎重な考慮の末」,この提案を退ける.
5.28 政府とFARC、軍隊敵対行為の休止を定めたウリベ協定に署名。FARCは武力闘争を停止.ELNは和平を拒否し,セゴビアの金鉱を襲撃,9万ドルを奪取.
6.03 コロンビア,アルゼンチン,ブラジル,メキシコ4国大統領,中南米債務危機解決に関する要望書を第10回主要先進国首脳会議(ロンドン・サミット)に送る.
6.24 ベタンクール大統領,中南米債務国をカルタヘナに召集.LAの債務国カルテルを目指す,11カ国によりカルタヘナ・グループ結成.先進国に対して利子の引き下げを要求する.
7.24 EPLがボゴタ市内でテロ作戦。5人が殺害される。
7 政府とFARC,カウカ州コリントで停戦会談開始.
8.10 M19最高指導者のトレードが暗殺される.トレードは元国会議員.
8.11 FARCとM19、ユンボに報復攻撃。警官3人、民間人2人を殺害。
8.11 エクアドル大統領就任式.ブッシュ米副大統領とアルゼンチン,ベネズエラ,コロンビア,ボリビア,エクアドル5ヵ国大統領が会談.中南米の債務問題について協議.
8.23 政府とFARC,M19とのあいだに平和休戦協定成立.ベタンクールは,国政の根本的変革,とくに農地改革と反対派の政治活動保障へ向けての努力の意を表明.FARCは合法闘争に転換.
9.01 EPL,労働者自衛運動(ADO)とのあいだにも停戦協定が成立.ADOは元ブラジル都市ゲリラの生き残りジオマル・オベアレが、フアン・マヌエル・ゴンサレスの偽名で組織。オベアレの死とともに組織は消滅。
9.03 カルタヘナで発展途上17ヵ国グループ経済協力会議開催.ペタンクール大統領,債務問題に関する南北首脳会議開催を提唱.
9月 ELNは休戦拒否.和平会談を妨害するため,Betancur大統領の兄を誘拐.カストロはELNの和平妨害を非難し,会談に応じるよう呼びかける.この結果,ELNを構成する三つの戦線が政府との一時的な停戦協定に応じる.
11.01 政府,議会と左翼ゲリラ4派による「国民対話」が始まる.
84年 カウカ州先住民地域会議(CRIC)の武装集団、キンティン・ラメ武装運動(MAQL)を名乗る。
1985年 1 ローマ法王,中南米を歴訪,「解放の神学」を非難.
2.07 DEAのグアダラハラ(メキシコ)駐在係官エンリケ・カマレナ・サラザール,運転手とともに誘拐され,拷問の上殺される.現地麻薬ボスのラファエル・カロ・キンテーロの指示によるもの.この事件のあと、米政府はラテンアメリカ麻薬問題の対策を抜本的に強化する。
2 FRF,メデジンの米企業7社を爆弾攻撃.ELN,政府との交渉の余地はまったく無いことを再確認.
3.02 ウルグアイ大統領就任式.アルゼンチン・コロンビア・ニカラグアなどラテンアメリカ7ヵ国大統領,国家元首が域内社会・経済危機克服でモンテビデオ宣言採択.
3.30 ベタンクール大統領,コンタドーラ・グループなど中米9ヵ国(コロンビア メキシコ パナマ ベネズエラ コスタリカ エルサルバドル グアテマラ ホンジュラス ニカラグア)歴訪.各国首脳と中米和平問題について協議.
4月 FARC、コカ栽培地をカケタ州から南のプトゥマヨ州に拡大。さらにグアビアレ州やメタ州へも影響力を拡大。
5.28 合法闘争に転じたFARCを中核とし,共産党など左翼政党が愛国同盟(UP)を結成.FARCの社会・経済的要求の一部を組み込み,停戦を広げたことで,内戦を政治的に解決する可能性を開く.FARCの政治トップであるハコボ・アレナスが指導。
5月 EPL、人民戦線(Frente Popular)を結成し地方選挙に参加。
5月 M・19,LA革命連合(CRAL)結成をよびかける.M19の活動家は2千近くに増加.ゲリラ戦士も500人に達する.コロンビア第二のゲリラ組織となる.
5月 カルロス・カスターニョの「私の告白」(01年)によれば、エスコバルの農場でM19のカルロス・ピサロと会談。エスコバルは最高裁長官殺害と引き換えに230万ドルを与えることで合意したという。これが事実なら、最高裁ビル襲撃は、麻薬カルテルとM19の共謀であったということになる。伊高によれば、エスコバルは政府に対し、140億ドルの対外債務肩代わりを条件に免罪と麻薬取引の黙認を提案したが、拒否されたという。
6.18 M19、休戦協定を破棄しふたたびゲリラ活動開始.Genovaを攻撃。この戦闘で19人が死亡。
6 FRF,共産党議員ウンベルト・ウルタードを狙撃,重傷を負わす.
7.24 M19,警察など6ヶ所を一斉攻撃.闘争方針をめぐり内紛.マリーノは射殺される.
9 M19のイニシアチブで,ADO(労働者自衛運動),EPL,ELN,FRFなどのゲリラ組織が全国ゲリラ連合(CNG)を結成.M・19は従来の学生中心から農民に重心をうつす.
10 法律家で最高指導者の一人アンドレス・アルマラーレス・マンガの指導する,サンタンデルのM19軍事訓練基地が軍により摘発.
10 M19,軍最高司令官のサムディオを襲い負傷させる.フェルナンド・ランダサバール国防相はベタンクールの和解政策を公然と非難。68年の法律48号の厳格な適用を主張
85年11月 M19の最高裁占拠事件
11.06 M19の35名のコマンド(司令官はルイス・オテロ)が正義宮殿(最高裁)を占拠.ベタンクールに「和平のための直接交渉」をもとめ、国会議員、判事12人を含む5百人を人質に立てこもる.
11.07 軍は28時間にわたる銃撃戦の末突入.建物は炎上し,アルフォンソ・レイエス最高裁長官を含む判事11人,市民50人が遺体となって収容される.パボーン,アルマラーレスらM19コマンド35人も死亡.その後の死亡も含め死者は115人に達する。軍はゲリラ生存者をつれだし「行方不明」とする.
11.13 M19を中核とする全国ゲリラ連合,ボゴタ市内で政府軍と激しい戦闘.90名にのぼる犠牲者を出し,指導者の大半をうしなう.アルバロ・ファヤドが最高司令官となり,カルロス・ピサーロ,アントニオ・ナバロ,グスタボ・アリアス,マルコス・チャリータ,リバルド・パラらがその後の指揮をとるが,弾圧により勢力減少.FARCは幼稚な冒険主義と批判.
11.14 ネバード・デル・ルイス火山噴火.山麓の町アルメロが全滅.死者2万5千人.政府は最高裁占拠事件とあわせ「社会・経済非常事態宣言」を敷く.
11.16 ELN,創設者の一人リカルド・ララ・パラダを,「組織の名を悪用した裏切者」と断定。自宅近くで襲い殺害.(一説には、ララは政府軍に殺されたとある)
11.30 カリでM19と政府軍が衝突.M19指導下の原住民組織「キンティーン・ラメ」の幹部ルイス・アンヘル・モンロイ,軍により虐殺.カリ市周辺に夜間外出禁止令.キンティーン・ラメはエクアドルの伝説的なインディオ抵抗運動の指導者の名を記念したもの.彼は百歳で死ぬまでのあいだに百回以上逮捕され20年間を労獄で過ごしたといわれる.
12 ELN,幹部数人がFARCに移籍したあと,武装闘争唯一論を再確認.
12 カウカのFRF,内部矛盾の激化から「血の粛清」事件発生.デルガドの指令で134人が敵のスパイの廉で殺害.CNGとM・19はFRFを除名.デルガドはM19を不道徳なホモの集団で,麻薬業者とつるんでいると非難.
85年末 最高裁占拠事件以来、コロンビアは「汚い戦争」の時代に入る.正体不明の勢力が左翼活動家,恩赦を受けた元ゲリラ,労組指導者,人権活動家など数千人を殺害もしくは「行方不明」とする.
85年 アラウカ州のカニョ・リモン油田とカリブ海岸のスクレ州コベニャスを結ぶ、全長800キロの送油管が完成する。
85年 ACCU、エスコバルからの豊富な資金により強化。ウラバを経由してパナマの闇市場から重火器などを購入。いっぽう、ウラバ一帯のコカイン栽培・密売にも関与することになる。兵力は2000人にふくれあがる。
カスターニョ兄弟とエスコバル一家: この年、フィデル・カスターノは、メデジン・カルテルのパブロ・エスコバルと会談。エスコバルは、ホセ・ロドリゲス・ガチャを紹介。ガチャはマグダレーナ河中流域でのカルテルの作戦司令官であり、獰猛な反共産主義者だった。二人は共同し、農民、ゲリラと政府に対してテロの作戦を開始。
1986年 1.02 コロンビア外相,ニカラグア政府に最高裁占拠事件へのニカラグア軍の関与につき釈明を求める書簡を送付.ニカラグア政府は介入の事実を否定.
1.15 ベタンクール大統領,中米五か国が和平会談の再開に同意したと発表.
1 M・19のよびかけにより「アメリカ旅団」結成.エクアドルのAVC,ペルーのMRTAとの連係をはかる.EPLのエルネスト・ロハス,労働者革命党(PRT)のイグナシオ・アルバレス,「自由の祖国」のバレンチン・ゴンザレスも参加.FRFやELN,MAQLの一部もまきこむ.ERFはまもなくBAから排除される.
1月 FARC,中部メガ峡谷やチョコ地方で武装作戦展開.
3.03 政府とFARC、停戦合意を更新。
3.09 国会議員選挙。自由党は議席を減らすが、過半数の100議席を確保。愛国同盟は30万票,上下両院に合わせて14議席を獲得,2大政党制にクサビをうちこむ.主として保守党票を食ったことから保守党内の強硬派の反感を買う。
3.13 M19指導部,古典的ゲリラ戦に復帰.「反乱は新しい軍事的段階に入り,カウカのゲリラ軍は進撃を開始した」と声明.ゲバラの戦いの復活をうたう.
3 数百人単位の「アメリカ旅団」が,アンデス西部山脈沿いにバジェ・デル・カウカ州まで進む。陸軍部隊を撃破し、サンベルナルディーノ基地を24時間にわたり占拠.さらに州都カリを一時支配する。
4月 アメリカ旅団、内部対立から空中分解。最高指導者のアルバロ・ファヤド司令官は軍により射殺される,キンティーン・ラメは,軍事路線では土地は得られないとし,M19の指導を拒否するとともに,アメリカ旅団からの脱退を示唆.保守党政治家3人を暗殺するなど,テロ活動を強化.
5.25 大統領選では自由党のビルヒリオ・バルコの勝利に終る.愛国同盟は大統領候補にハイメ・パルド・レアル委員長を擁立。これに対する軍の弾圧が過酷さを増す.6万人が国内難民となる.耕地の2割が麻薬業者の手に渡る.
6 EPL,FARCにたいする連続テロ.ソ連友好協会に対する爆弾攻撃.
7.18 アムネスティ・インターナショナル(AI)、この年前半だけで、600人が政府軍の弾圧の犠牲となったと報告。
7 ローマ法王,コロンビアを訪問.解放の神学を評価するメッセージを発表.
8.07 バルコ大統領,大統領に就任。79年に締結した米国との麻薬犯罪人引き渡し協定を有効化すると宣言.カルテルは引き渡し条約は売国的とキャンペーンを展開.民族主義者の共感を獲得.最高裁はこの協定を違憲であるとして退ける.
8月 選挙後3ヶ月のあいだに愛国同盟の議員14名中3人が殺される。
8 アメリカ旅団,パエンス州ベナルカサルの兵営を攻撃.MRTAの”フランシスコ大尉”が指揮をとる.
9 軍,M19の膨大な武器庫を発見,摘発.
11月 国家警察麻薬取締特殊部隊のハイメ・ラミレス司令官、ボゴタ市内でメデジン・カルテルにより暗殺される。ラミレスはエスコバルがララ法相暗殺事件の黒幕であることを証言していた。
11 FRF,FARC幹部に対し「死の通告」.すでに「自らを独裁者に売り渡した」数名を暗殺済みと発表.
11月 MAS、自らをセクエストラーブレス(被誘拐可能者)からエストラディターブレス(Extraditables:被引渡し可能者)と規定を変更。米国が要求する「犯人引渡し」(Extradiction)を皮肉ったもの.「渡せるものなら渡してみろ」という意味.「米国の刑務所に入るよりはコロンビアの墓場を選ぶ」とし、政府との全面対決姿勢を明らかにする。
11月 愛国同盟、議会から総引き揚げ。過去6ヶ月で幹部18人が暗殺された。活動家の多くが暗殺を逃れFARCの戦列に加わったことから、FARCは一気に勢力を拡大。この時点で少なくとも5千人の勢力に発展。
12.27 軍と左翼ゲリラ衝突,21人死亡.
12 カルテルの脅しに屈した最高裁判所,犯人引渡し条約を骨抜きにする.87年6月にも同様の判決.
12 カルテル,反カルテルの論陣を張る「エスペクタドール」紙の社主ギジェルモ・カノを暗殺.
12月 相次ぐ要人暗殺を受けたバルコ大統領、対米犯罪者身柄引き渡し条約に大統領として署名。
1987年 1 メデジン・カルテル,イタリア・マフィアの暗殺部隊をブダペストに送り,エンリケ・パレホ・ゴンサレス駐在大使を襲撃,重傷を負わせる.ゴンサレスはベタンクール政権でララ・ボニラの後継法相として,対米麻薬犯身柄引渡し条約を承認した.
1 カルテルの殺し屋,司法長官カルロス・マウロ・オジョス・ヒメネス(Mauro Hoyos Jimenez)を暗殺.アンドレス・パストラーナ(保守党のボゴタ市長候補者,前パストラーナ大統領の息子)を誘拐.
2.04 麻薬対策警察,DEAと協力しメデジン・カルテルの一角カルロス・レーデル(Carlos Lehder Rivas)を逮捕.メデジン・カルテルが人身御供として差し出したとされる。彼はM16による最高裁襲撃事件の、影の発案者だったといわれる。
2.16 EPL指導者のJairo de Jesus Calvoが殺害される。後継指導者にFrancisco Caraballoがつく。
3 M16最高指導者アルバロ・ファハド(Fayad),殺害される.M16は一時活動停止状態に陥る.カルロス・ピサロ・レオン=ゴメス,新たな指導者としてM16の再建に乗り出す.ピサロの父は海軍中将で、コロンビア軍統合司令部議長を務めた。
5 政府,カルロス・レーデルを,最高裁の判断を待たず米国に引き渡す.
6 ELN,弱体化したM・19にかわりCNGの主導権をにぎる.ベネズエラ国境地帯の石油パイプラインに攻撃集中.80年代後半におけるELNの規模は,約500人と推定される.一方,この時点でFARC活動家は6,000人.27の戦線が活動.
7 FARC,ゲリラ活動を活発化.軍の護送隊の待伏せや小さい町への攻撃など.Barco政権は,カケタ,ウイラ両州で休戦を破棄すると発表.
8 UP,度重なるテロに抗議しボゴタで2万5千名のデモ(87年だけで千名以上が犠牲に).
9.23 法務大臣デ・グレイフ女史,大統領令にもとづいて麻薬犯罪人引き渡し協定を合憲であるとの判断を下す.ナルコの脅迫にあい直後に職務を放棄する.
9 M19,カルロス・ピサロ,アントニオ・ナバローティを指導者に活動再開.ボゴタの新聞社を襲い,声明文を発表させる.IISSの報告によればこの頃のM16活動家は千5百人.政府によればゲリラ兵士は5百人.主要都市のすべてに独立した都市ゲリラを組織.
87年10月
10.3 最高裁,麻薬犯罪人引き渡し協定を対米国にかぎり合憲であると認める.
10.11 FARCの呼びかけで、6ゲリラ組織(FARC,M・19,EPL,ELN,MAQL,PRT)がシモン・ボリーバル調整機構(CGSB)を結成。「新しいコロンビア建設を目指して」、和平交渉開始をよびかけるいっぽう、白色テロに対しては仮借ない武力対決の構えを見せる.
10.11 愛国同盟委員長のハイメ・パルド・レアル(Jaime Pardo Leal)上院議員,ボゴタ南方50キロのパティオ・ボニートで、和平呼びかけの演説を行った直後に、右翼により暗殺される.
カスターニョによれば、ガチャがパルド暗殺を命じたという。ガチャは所有していたコカインをFARCに奪われたことから、復讐を狙っていたとされる。(伊高による)
10.28 政府とFARCとの和平交渉再開.政府機関として「政治の再生,和解,正常化を目指す恒久顧問会議」設置.これまでの政府特別顧問の職を引き継ぎ,「恒久平和のためFARCその他のゲリラとの建設的対話を進める」ことを目的とする.
10 ELN,マグダレナ河畔のバランカベルメハ海軍基地を襲撃.
12 FARC,合法活動を断念し武装闘争を再開。ガイタニアにたいし大規模な攻撃.
12 オチョア一家の長男ホルヘ・ルイス・オチョア,米国への犯罪人引渡しの対象として拘留される.まもなく脅迫された裁判官の判断で保釈される.
87年 カウカ州先住民地域会議(CRIC)とキンティン・ラメ運動、カウカ州の非武装化を提案。政府もこれを受け入れる。
87 最高裁,米国との犯罪人引き渡し条約は適用不可能と判決.
87年 マグダレーナ中流域農民自衛隊(ACDEGAM)のグアリン(Pablo Emilio Guarin Vera)が暗殺される。これに代わりロベルト・ドゥケ(Ivan Roberto Duque Escobar)が議長に就任。独自の政党として「国家再建運動」を立ち上げる。
88年1月
1.01 FARC,国内4ヵ所で軍隊・警察などに同時攻撃.
88年初頭,FARCの戦線は全国で約40にまで拡大.主な作戦地域はウイラ,カケタ,トリマ,カウカ,ボヤカ,サンタンデル,アンチオキア,バジェ・デル・カウカ,ミータ,クンディナマルカ州.
1.01 ホルヘ・ルイス・オチョアの保釈に抗議する米政府、コロンビアからの全旅行者と輸入貨物に対し、税関で厳しい麻薬検査を実施する。生ものを扱う輸出業者は大打撃を受ける。
1.26 検事総長カルロス・マウロ・オジョス・ヒメネス(Carlos Mauro Hoyos)、メデジン空港近くで誘拐・射殺される.ナルコによる犯行.
1.27 コロンビア政府,戒厳状態を宣言.警察の捜査力に限界を感じたバルコは,麻薬対策に軍を動員する方針を打ち出す.「民主主義防衛法」(テロ対策法)を公布し,公安権力の司法権を拡大.テロ行為に対する刑罰を重くする.
1月 ボゴタ市長選の保守党候補アンドレス・パストラーナがメデジン・カルテルに誘拐されるが、1週間後に解放される。パストラーナはミサエル・パストラーナ元大統領の息子で保守党の若手幹部。テレビのキャスターとして人気を集めていた。
1月 右翼パラミリタリー,ゲリラの活動地域で相次いでテロ事件を起こす.1年間で約百人が犠牲となる.
88年2月
2.20 バルコ大統領,テロ対策を柱とする憲法改正の是非で,10月9日に国民投票をおこなうと発表.
2月 ELN,オキシデンタル石油会社ビルを車爆弾で攻撃.石油パイプラインへの連続攻撃を開始.1年半の間に100回に及ぶ攻撃で,4億ドルの被害をもたらす.
88年初頭,ELNは兵士約5百名.サンタンデル.ボリーバル,カウカ,アンティオキアなど北部山岳地帯に散在.石油会社の基地襲撃,パイプラインの破壊などを続けるいっぽう,誘拐で資金稼ぎ.
2月 米南方軍司令官ゴーマン,「カルテルは米国空軍よりすぐれた装備をもっている」と上院で証言.麻薬問題を口実に軍備支援の増強を要求.
2月 アムネスティ・インタナショナル,コロンビアに「人権非常事態」を宣言.人権侵害の犯人は麻薬業者・地方政治家・地主などと手を結んだ準軍事組織であり,その背後で軍幹部(特に空軍)があやつっていることを暴露.
88年3月 ウラバの虐殺
3.03 暗殺者集団がメデジン・ホテルに宿泊。暗殺者はカスターノの手下とされる。メデジンの第10旅団諜報部のルイス・ベセラ・ボホルケス少佐が暗殺者を取り仕切り、本人名義のダイナース・カードで宿代を支払ったとされる。前月末より、軍が労働者を逮捕し拷問。これにより活動家のリストを作成し、それを暗殺者に手渡したと見られる。(ヒューマン・ライツ・ウォッチの報告による)
3.04 アンティオキア州ウラバで,武装した一団がラ・オンドゥラス農場の17名の労働者を虐殺.さらに隣接するラ・ネグラ農場の3名を殺害.犠牲者はすべてバナナ労働者組合の組合員だった.この虐殺作戦は,AUCにより実行されたという.またフィデル・カスタニョも作戦に参加したことが確認されており、本人不在のまま懲役20年の判決が下される。
3.23 メデジン・カルテル,ボゴタの米大使館にバズーカ砲攻撃.
88年4月
4.29 パルコ大統領とアルフォンシン・アルゼンチン大統領が会談.パナマ情勢について意見を交換.CG+SGはパナマ政府の要請あれば,当面する問題解決のため行動の用意があると発表.
4月 壊滅したM19組織が再建に向けて活動開始.カルロス・ピサロ,レオン・ゴメスが中心となる.
88年5月
5.23 メデジン・カルテル,航空機をハイジャック.
5.26 メキシコ大使館,ゲリラ数十人により占拠される(M19?). 国防省は陸海空3軍と警察をスクランブル態勢下におく.
5.29 M19,社会保守党(PSC)指導者アルバロ・ゴメス・ウルタード上院議員を誘拐.ゴメスは悪名高いラウレアーノ・ゴメス元大統領の息子で、国民戦線以来の保守派の大立者。『シグロ』紙編集長をつとめ,大統領選にも2回にわたり立起した.
6.08 M19,ゴメス解放の条件として戒厳令解除,石油産業国有化など10項目を要求.これは建前で、実際は和平交渉開始をもとめたとされる。
88年7月
7.20 M19と政府,ゴメスを解放することで合意.政府は,交換条件として,M19ほか主要ゲリラ組織の代表とボゴタのローマ法王庁大使館(教会)で会見することを約束.
7.29 ボゴタ市内の教会で政府側とゲリラ代表による“救国サミット”開催.軍・警察とゲリラの戦闘停止を実現するため,「国民和平委員会」を設置することで合意.ゴメスは53日後に解放される。
7月 バルコ大統領,人権問題,戒厳令,国会の改革などに関する規定をもりこんだ憲法改正案を国会に提出.1年半におよぶ議論のすえ結局流産.
7月 ボゴタでモルヒネ密造工場が摘発される。このころからコカイン密売ルートを使って、ヘロインが米国に出回るようになる。
8.24 ボゴタ北方400キロのサイア村で,FARCとFPLの連合軍が軍・警察と戦闘.死者39人を出す.
88年9月
9月 バルコ大統領,三段階からなる包括的和平計画を提案.
第一の和解段階では,①ゲリラが計画を支持する意思を発表し,テロを停止すること.②ゲリラと政府代表が会談しゲリラの市民生活復帰に向けた手だてを検討する.③ゲリラの代表は憲法改正に関して議会に意見を述べることができること.④大統領はゲリラ恩赦の法案を議会に提案すること.
第二の移行段階においては①政府がゲリラを中立地帯に移動し,医療.食料・宿泊などの処置を施すこと.②軍・警察などのパトロール活動を停止すること.ゲリラ保護のために行動すること.
第三の社会復帰段階では,復帰したゲリラの安全保護,一定期間にわたる経済援助,市民権の完全保証などが織り込まれる.9月 マルタ・ルシア・ゴンサレス判事,3月のウラバ労働者集団虐殺事件で,ベセラ少佐の逮捕状を発行.またフィデル・カスターノにも逮捕状が発行され、欠席裁判で懲役20年の判決が下される。このときベセーラは、昇進を目指し米国のスクール・オブ・アメリカ在学中で、逮捕は実現せず。逆にゴンサレス判事は殺害脅迫を受け,国外に逃れる.
11.05 バルコ大統領,サムディオ国防相を更迭.後任にゲレロ三軍総司令官.
11.25 バルコ大統領,対ゲリラ融和政策を変更,武力行使含む緊急措置を実施.
12.16 バルコ大統領,M19と和平交渉を開始すると発表.
12月 FARCを主体とするCGSB、ウラバ州に解放区を作るコントゥンデンテ作戦を企画。国防省武器調達局の武器購入書類を偽造し、欧州の武器市場から大量の武器調達を図る。ポルトガルなどからNATO公認のライフル、機関銃、迫撃砲、ロケット砲、弾薬の買い付けに成功。ポルトガルのセトゥバル港からパナマ貨物船コパカバーナ号に積み込む。
88 ガランの新自由党解散.自由党に復帰したガランは次期大統領候補となる.党員のほとんどが自由党に復帰.
88年 この年だけで、愛国同盟の指導者108人(一説に200人)が暗殺される。政治的殺人は、1970年代の1,053から1980年代の12,859へ劇的な増加。
1989年
麻薬カルテル戦争
1.18 準軍組織による一連の殺害を調査していた2名の判事と10名の調査員が,準軍組織による虐殺の犠牲となる.この事件はバルコ大統領を初めとする政府当局に深い衝撃を与える。
1月 ジャマイカのキングストンに寄港したパナマ貨物船コパカバーナ号、CIAとジャマイカ警察により拿捕される。これによりCGSBの総攻撃作戦は崩壊。
1月 M-19のカルロス・ピサロと政府の平和委員ラファエル・パルド,トリーマで交渉を開始する.
2月 バルコとM19の間で停戦交渉が成立.ゲリラはカウカ州サント・ドミンゴに政府が設定した中立地帯へ移動.
2月 ロドリゲス・ガチャ、エメラルド鉱山の利権をめぐり、「エメラルド王」と呼ばれたヒルベルト・モリーナを攻撃。ボゴタ北西郊外ササイマにあるモリーナの農場を襲撃し、モリーナと部下16人を殺害。
3.01 FARC、一方的停戦を宣言。
3.03 UPナンバー2のアンテケーラ,空港でカルテルにより狙撃され死亡.過去1年だけでUP指導者二百人が殺害される.国際自由労連によればコロンビアは殺された労組指導者の数で,世界のなかでも群を抜いている.80年からの死者はすでに3万に達する.
4.22 ELN,停戦を拒みゲリラ闘争を強化.軍当局はELNに対する全面攻撃を開始したと発表.
3月 自由党のエルネスト・サンペル上院議員、ボゴタ空港でカルテルに襲撃され、11発の銃弾を浴びる。二ヶ月間の集中治療の末、奇跡的に命をとりとめる。
4月 これまで寡占層の利益を代弁していたバルコ大統領,準軍組織を批判する声明.「準軍事組織に殺された大多数の犠牲者は、実際はゲリラでない。犠牲者の大多数は当局に銃を向けたことはない平和的なコロンビア人である.ゲリラではなく,反体制でもなく,武器も持っていなかった男性,女性そして子供なのだ」
4月 M-19による和平交渉の一部として「分析と合意のための作業グループ」が発足.社会・経済問題に関する政治的な協定作りを目指す.
5.25 コロンビア最高裁は「法律第48号」を違憲であると裁定.軍の超法規的活動を制限。この法律は68年に制定されたもので,軍が自己の目的と関連して市民を武装させることを認めている.準軍組織の法的基盤となっている.
5.29 カルテルの殺し屋(シカリオ),ボゴタ市内でマサ・マルケス特別警察(DAS)長官の車を狙撃.死者4名,負傷者50名を出す.このあとアンティオキア州知事,メデジン警察署長を相次いで暗殺.
6月 バルコ大統領,最高裁判決に基づき大統領令第1194号を発布.「法律第48号」を廃棄し,文民や軍人が「自衛」団を作ったり,それに援助したりすることを禁止.このあとも,軍と準軍組織との関係は秘密裡に維持される.
6月 ELN,スクレ州コベナスのパイプライン・ターミナルを破壊.石油の輸出が一時ストップする.
7月 アンティオキア州知事アントニオ・ロルダン、仕掛けられた爆弾により死亡。
89年8月 カルテル,ガランを暗殺
8.18 政府は「麻薬戦争」を布告,カルテルの一斉摘発を指示.さらに犯人の米国への引き渡しを認める新法を発表.バルコは非常大権を用いて、パブロ・エスコバル・ガビリア,ホセ・ゴンサロ・ロドリゲス・ガチャら五人のカルテル幹部を米国へ引き渡すとする.
8.18 ナルコとの対決を打ちだした自由党の大統領候補ルイス・カルロス・ガラン・サルミエント上院議員,ボゴタ南西10キロのソアチャ集会会場で演壇下や周辺の建物から複数の銃撃を受ける。病院に運ばれた後まもなく、出血多量で死亡.
ガランを運んだのは救急車ではなく公安庁(DAS)の乗用車で、搬送先は最寄の病院ではなく、遠く離れたケネディ病院だった。ガランの側近は同乗をもとめたが拒否された。
8.24 政府のメデジン・カルテル取り締まりに対し,カルテルが全面戦争宣言.残虐なテロ,銀行,新聞社,政党本部,個人の邸宅への爆弾攻撃などを展開. その後二カ月間に数十回の爆弾テロ.
カルテルの軍隊: 麻薬カルテルのパラミリタリー組織をイスラエルの退役軍人が指導していたことが,発見されたビデオテープにより明らかになる.訓練官のうち二人は,ヤイル・クレイン退役中佐とアマツィア・シュアリ中佐.クレインは私営軍事顧問会社「スペアヘッド」の社長.
8.25 米国は麻薬撲滅対策の名目でコロンビアに武装ヘリ,爆撃機など6千5百万ドルの武器援助と軍事顧問の派遣を決定.
8.27 政府もコカイン密輸組織に対して宣戦布告.ガラン暗殺の容疑者13人が逮捕されるが、容疑不十分のまま釈放される。
麻薬戦争の戦果
最初の数カ月で989の家屋を捜索,1万人を越える容疑者が拘留される.500にのぼるカルテル不動産と、美術品など資産5億ドルを没収,367の飛行機・ヘリ,73の船舶,710の車両,4.7トンのコカイン,1279の銃器,2万5千の弾薬を押収.8.30 アンティオキア州の9都市に夜間外出禁止令.メデジンには治安部隊8000人が投入される。
89年9月 カルテル戦争,本格化
9.02 反麻薬キャンペーンを張ったエスペクタドール新聞社,カルテルの車爆弾により爆破.死者1名,負傷者80名.
9.04 政府とシモン・ボリバル・ゲリラ連絡機構(実体はFARC),和平のための準備交渉を開始.ELNは和平を拒否.
9.05 ブッシュ,ホワイトハウスから全米テレビ放送.「今日,もっとも深刻な国内問題は麻薬である」とし,全面戦争を宣言.南米麻薬業者の撲滅戦略を発表.カリブ海域麻薬取り締まり特別部隊を設置。コロンビアなど南米3ヵ国に総額78億ドルの援助を与えるとする.さらに間接的ながらノリエガ政権打倒への支持を訴える.
9.06 メデジン・カルテルの幹部で,金庫番と呼ばれたエドゥアルド・マルチネス・ロメロ,米国へ身柄引き渡し.バルコは対戦相手を武闘派のエスコバルとガチャに絞り、情報提供者に1億ペソの報償金を送るとのキャンペーンを開始。
9.11 元メデジン市長で日本との合弁企業の社長,パブロ・ペラエスがカルテルの手で射殺される.ほかに自由党や保守党のメデジン支部も爆破される。
9.29 バルコ大統領,国連総会で演説.麻薬戦争に対する国際協力を要請.
9月 総合麻薬対策戦略の一環として、コロンビアに6500万ドルの緊急軍事援助。軍事顧問100人、C-130輸送機、UH1ヘリ、A37戦闘機などが送り込まれる。
89年10月
10.05 パルコ大統領,法相にロベルト・サラサノル,内相にレモス通信相,通信相にエンリケ・ダニエスを任命.
10.11 リマ南方のイカでリオ・グループ第3回首脳会談.麻薬取締まり強化などを謳った共同声明採択.これと並行してコロンビア・ペルー・ボリビアの麻薬生産三国首脳が会談。「麻薬問題は生産国・消費国双方の責任であり、90日以内に米大統領との4カ国首脳会議(麻薬サミット)を開催する」との共同声明を発表。
10.22 ボゴタで末端価格56億円相当のコカインを押収.
10月 M-19,「分析と合意のための作業グループ」の結論を元に,武装解除と政党結成の方針を決定.
10 カルテル,メデジン高等裁の裁判長を暗殺.コロンビア法曹界は保安状況の改善を要求し72時間のストライキ.
10 コロンビア東部のアマゾン地方FARC支配地区で,シモン・ボリーバル・ゲリラ連合とバルコ政権の交渉が始まる.ELNは,アラウカで教会司祭を暗殺するなど誘拐・暗殺活動を強化.
89年11月
11.27 アビアンカ航空のB727旅客機,ボゴタのエルドラド空港をカリにむけ離陸直後,メデジン・カルテルの仕掛けた爆弾により爆破墜落.乗客101人と乗員6人全員が死亡.
11 バルコとM19の間で最終和平協定が成立.M19は政党組織として再出発することとなる.
89年12月
12.06 ボゴタのDAS本部ビル前にトラックが突入,爆発.推定500キロのダイナマイトの爆発で62人が死亡.負傷者6百人.DASは捕らえられていたテロ作戦の首謀者ガチャの息子を釈放し、追尾する。
12.15 コロンビア当局、スクレ州コベナスにあるガチャの隠れ家を発見。警察の特殊部隊と海軍海兵部隊が突撃作戦を展開.銃撃戦でガチャとその息子,15人のボディーガードが死亡.
1990年
1.08 米国,麻薬密輸阻止のためカリブ海側のコロンビア領海内に空母ジョン・F・ケネディー,原子力巡洋艦を派遣.コロンビアは強く抗議.
1月 カルテル,政府の勝利を受け入れる声明.法的な保護があたえられるなら,暴力と麻薬売買を停止すると述べる.バルコ政権は直ちにこの提案を拒否.
2.15 カルタヘナで麻薬サミット開催.米国,コロンビア,ペルー,ボリビアの各国大統領が参加.ブッシュ大統領が「アンデス・イニシアチブ」を発表.3ヵ国は米国の経済援助強化で賛同するが,米国の派兵については一致して反対.
アンデス・イニシアチブ
22億ドルの経済・軍事援助からなるもの.コカイン生産の抑制を目的とし、コロンビア・ペルー・ボリビア三国を対象とする。援助の3分の2は軍事援助と警察隊援助にあてられ,麻薬戦争のために目的を限定される.関係国は「経済援助を得たければまず軍事援助を受け入れなくてはならない」と脅迫される.コカ生産の経済的原因(すなわち貧困)の解決策は、まったく無視される。
米政府はアンデス・イニシアチブにもとづき,コロンビア軍の諜報ネットワークを再組織.米国大使館の軍事グループ、米南方軍、DIA、CIAなどからなる「14人委員会」を組織。コロンビア軍の情報網の再編成について勧告する。以後のコロンビアにおけるすべての軍事作戦を統括するようになる.90年3月 トルヒージョの大虐殺
3.09 M19は恩赦と引き換えに武装闘争を放棄.EPL、PRT、キンティン・ラメとともにM19-民主同盟(AD-M19)を創設。合法闘争に復帰し大統領候補を立てる.
3.22 パルド後継のUP議長で大統領候補ベルナルド・ハラミジョ・オッサ(Bernardo Jaramillo),ボゴタ空港で暗殺される.86年以降,UPの幹部8百名がテロの犠牲となる.ACCUのフィデル・カスタニョはみずから暗殺計画に参加していたことを認める.労組はゼネストで抗議.UPは選挙ボイコット方針を決定.
3.31 トルヒーヨの虐殺事件発生.軍と準軍組織の合同部隊が農民63名を誘拐.麻薬商人の屋敷で拷問.生きたままチェーンソーで手足を切断したあと殺害.目撃者によれば,現役の少佐が最も残忍な拷問を自らの手で行ったという.法廷は有罪判決を忌避.このため民間人権委員会のヒラルド神父は,事件を米州機構の米州人権委員会に提訴する.
3 自由党,ガランに代えセサル・ガビリア・トゥルヒージョ(Cesar Gaviria Trujillo)を大統領候補に決定.
90年4月
4.26 M19の指導者で大統領候補のカルロス・ピサロ,アビアンカ航空の国内線機内でシカリオにより射殺される.犯人は直ちにDAS護衛の手で殺害(口封じ?)される。ボゴタ市内での葬儀には数万の市民が参列.M19は急遽アントニオ・ナバーロを大統領候補に立てる.
選挙期間中に4人の大統領候補が暗殺されたことになる.UPのハイメ・レアルとベルナルド・ハラミジョ,自由党分派のルイス・カルロス・ガラン,M19民主同盟のカルロス・ピサロである.
4月 捜査当局、メデジン公害のフィデル・カスターノの農場2ヶ所から6つの集団墓地を発見。拷問され殺された遺体26体を発見。当局は、250,000エーカーの農場全部を捜索すれば、100人くらいの犠牲者が埋められているかもしれないと語る。
90年5月
5.13 大統領選挙を前に,カルテルの反撃が強化される.13日にはボゴタの繁華街2ヶ所でナルコによる爆弾テロ.死者17名,負傷者114名.24日にはメデジンのインターコンチネンタル・ホテルで爆弾テロ.6人が死亡.5月だけでテロ11件,死者42人.
5.27 セサル・ガビリア・トルヒージョ,大統領に当選.麻薬カルテルとの決戦を打ちだす.危機に対応するため,新憲法の制定を提起.M19は7県で保守党を上回る得票を獲得.ナバロ大統領候補は12%を獲得,新政権に参加し厚相に就任.
5月 カウカ州で活動する先住民系ゲリラのキンティン・ラメ(Quintin Lame)武装運動、バルコ政権とのあいだで和平交渉を開始。
6.28 メデジン警察署前でカルテルによる車爆弾が爆発.40名以上の死傷者を出す.これまでにカルテルによる犠牲者は2千名に達する.
6月 ガビリア予定政権,EPL、PRT、Quintin Lameとの個別の予備会談を開始.
7.27 政府とEPL,停戦合意に署名。
90年8月
8.03 FARC,「バルコ政権はベタンクールの始めた和平プロセスを破壊した」とし,「新政権が議会も含めた直接的で開かれた対話を進めるよう要求する」と公式声明.
8.07 ガビリア新政権発足.CGSBとの和平交渉を開始.FARCとELNは政府との交渉には応じるがなおゲリラ闘争を継続.EPLは武装闘争の放棄と政治的プロセスへの参加を決断.少数派グループはコロンビア北部で武装活動を継続.
8.10 FARCの思想的指導者ハコボ・アレナスが死亡。ゲリラ名(nom de guerre)はルイス・モランテス。心臓発作による突然死とされるが、下級将校の一人が、兄弟を処刑されたことを恨んで射殺したとの情報もある。
9月 シモン・ボリーバル・ゲリラ共同体(CGSB)の司令官の最初のサミットが開かれ,政府の和平攻勢への対応を協議.
11.10 FARCとELN、北部の軍事基地を攻撃。25人の死者を出す。
11月 ELN,米国系石油会社を襲撃.アメリカ人技術者3人とコロンビア人1人を誘拐.
ELNの勢力 この頃,戦闘員は500名に達する.活動地域はコロンビアの東部平野,サンタンデル,北サンタンデル,ボリーバル,カウカ,アンティオキア,アラウカ州に広がる.
活動の柱は石油会社を対象としたものであり,採掘施設,パイプライン,油田調査サイトへの攻撃を繰り返す.作戦の対象が生産インフラであること、また誘拐活動による資金稼ぎをもっぱらこととしたことから、国民の支持は希薄であった.12.03 米州人権委員会、三名からなる調査団をコロンビアに派遣。4日間にわたり実情を調査。
12.09 国民投票.「立憲議会を立ち上げ,抜本的な憲法改正をもって危機にあたる」案が圧倒的支持を受ける.同時に実施された立憲議会選挙では,民主同盟(M19)が27%の得票で19議席を獲得し第2党に躍進.他に自由党24,国家救済運動11,社会保守党9など.特別選挙では前ゲリラ,原住民代表,プロテスタント,市民活動家などが二大政党代表とともに選出される.
12.09 FARC,ENLは選挙そのものを認めず破壊活動に出る.左翼ゲリラの分裂を見た政府軍は,ラ・ウリベ州Casa VerdeのFARC拠点を投票日にあわせ急襲.FARCとの武力対決を本格化する.双方あわせ80人の死者を出す。
90年 米政府、コロンビア軍の地方情報網の整備を援助するために専門チームを組織。大使館武官グループ、米南方軍、DIA、CIAなどから編成される。公式には麻薬カルテルに対する対策強化のためとされる。
1991年
91年1月
1.01 FARC,パトロール中の警官を襲撃,4人を殺害.このあとFARCは,これまで最大規模の戦闘行動を1ヶ月あまりにわたり展開.
1.26 カリブ海岸沿いにゲリラを展開していた労働者革命党(PRT)が武装放棄.ADM19との共闘を明らかにし,政府との合意により制憲議会に1議席を得る.
91年2月
2.05 制憲議会開会.最高得票を獲得したM19のナバロ,制憲議会の議長(三人の内の一人)に就任.
2.05 制憲議会開催に抗議するCGSBは,この日を期して全国的な武装活動の開始を宣言.ボゴダ市内では潜入したコマンド部隊が政府軍兵士と交戦,両者あわせて45人が死亡.
左翼ゲリラ(CGSB)の分裂と再編成
これまでM19とFARCがイニシアチブを握っていたCGSBは,実質的にFARC=ELN連合となる.和平にスタンスを置いていたFARCは,交渉の余地を残しつつ武装闘争に比重を移す.ELNは,主導権がカストロ主義からキリスト教左派に移動.現局面での和平を断固として拒否し,武装闘争の継続を主張.この年だけでFARCとの協同作戦もふくめ,約50ケ所の重要施設への攻撃作戦を展開.和平を重視する少数派は社会主義改革派(CRS)を結成。91年3月 EPLの合法活動復帰
3.05 ベルナルド・グティエレスらEPL多数派、和平受け入れを決定。合法政党E・P・L(希望・平和・自由)を結成.ADM19との共闘に踏み出す.議会に1議席を得る.フランシスコ・カラバジョPCML書記長を指導者とする“左派”は、武装闘争の継続を宣言し,FARC・ELNとの共闘をはかる.FARCとELNにEPL左派を加えたゲリラはCGSBを再編成.
EPL多数派: 鄧小平の出現でEPLは孤児となり、ペレストロイカで左翼思想が変質し、左翼ゲリラの旗印は無意味になった。弱いEPLに明日はない。そこで合法政党に変身することとした。(グティエレスの伊高とのインタビュー) どのみち、これでは“明日”はありませんね。ちなみに、Eはエスペランサ(希望)、Pはパス(平和)、Eはリベルター(自由)という語呂合わせ。
3.07 FARC、El Retornoで5人の政府警官を殺害。
3.20 FARCが列車襲撃誘拐など一連の作戦を展開.
91年4月
4.30 CGSBに属するゲリラ3派と市民活動家,ボゴタのベネズエラ大使館に突入.政府との交渉を要求したてこもる.その後ベネズエラヘの亡命を申請.
4 元法相でメデジン・カルテル撲滅運動の先頭に立つエンリケ・ロウ・ムルトラ弁護士,ボゴタ市内でカルテルの殺し屋により暗殺.
法相経験者の犠牲
これまでロドリゴ・ララ・ボニージャとカルロス・マウロ・オヨスがカルテルの手で暗殺されている.他にも数千人にのぼる民間組織や政党の指導者,市長や町村長,共同体や原住民組織の指導者,宗教家,教師,法律家,ジャーナリスト,人権活動家,その他数知れない無名の農民,労働者が犠牲となっている.91年5月
5.17 アラウカ県クラボ・ノルテで政府代表とCGSB幹部との予備会談.カラカスにおける和平交渉実施について合意成立.政府は態度を軟化し,一方的武装放棄の条件を取り下げる.
5.31 カウカ州で活動する先住民系ゲリラのキンティン・ラメ武装運動(MAQL),和平に応じ武装闘争を停止。他の原住民団体と組み合法活動に進出.制憲議会に1議席があたえられる.
5月 政府,新しい‘暴力に対する戦略’を発表.まず停戦,その後交渉という二段階論を捨て,停戦なしで交渉を始める可能性を取り入れる.
5月 コロンビア国防省、「14人委員会」の勧告に基づく情報網の整備が完了したと声明。事実上「法令1194号」の再開となる「指令200-05/91」を発令.プラン作成に当たっては,アンデス・イニシアチブにより派遣された米国顧問団が陣頭指揮.
「指令200-05/91」
16ページにわたり対ゲリラ戦の戦略を記述.麻薬についてはまったく言及していない.30の「情報ネットワーク」(要するに殺し屋部隊)を創設し,各司令官にネットワークの幹部となる文民や退役軍人などを選定するよう指示.準軍組織を禁止したバルコの「大統領令1194」は,事実上骨抜きとなる.5月 軍当局は、左翼の拠点となっていたバランカベルメハ地域に活動を集中。指令200号に基づく強力な軍民情報ネットワーク(反革命テロ組織)を形成する.
バランカベルメハ マグダレーナ川河口の産業都市.国営石油企業エコペトロルの本社,燃料需要の6割をカバーする石油精製工場などがある.またコロンビアで最も強力な労働組合である労働者協同組合(Union Syndical de Obreros: USO),愛国同盟など左派政党の拠点,FARCとELNの基盤でもあった.
91年6月 エスコバルの投降
6.03 カラカスで,CGSBと政府との第1回和平交渉が開かれる.
6.19 犯罪者引き渡しを禁止する新憲法が発効.政府は逮捕の交換条件に米国への引き渡しをおこなわないことを認める.パブロ・エスコバルとオチョア三兄弟はこの条件に応じて,政府に降服する.メデジン郊外エスコバルの生まれ故郷エンビガドに,カテドラルと呼ばれた豪華な「刑務所」が建設される.
6.21 エスコバルの兄ロベルト・エスコバルも政府に投降.メデジン・カルテルは大きな打撃を受けるが,これにかわりカリ・カルテルが進出.麻薬密輸業そのものは無傷のままとなる.米国には引続き毎週2~3トンの精製コカインが流入.
91年7月
7.04 立憲議会開催.新憲法で二大政党制の議会制度に抜本的な変更.
7.04 ガビリア、立憲議会開催に合わせ84年以来の戒厳令を解除.CGSBは政府との本格的交渉に入る意志を表明.
7.05 新憲法発布.ガビリア大統領は新憲法が「すべてのコロンビア人の平和条約」となるよう演説.「アペルチューラ」(開放)のスローガンの下,これまで政治から疎外されてきた社会的階層の大幅な参加をうながす.
7月 政府,アペルチューラ政策の一環として金融市場を開放.関税や貿易障壁が撤廃され,ISI(輸入代替型産業化)政策のもとでの保護体制が廃棄される.これを機に,コロンビア経済は一気に奈落の底へ突き落とされる.
アベルチューラの結末
海外資本の国内銀行への投資制限が撤廃され,海外への利益環流が自由化される.自由化バブルの下で個人消費は急増し,貯蓄レベルは史上最低まで落ち込む.
貿易収支は1991年の23億ドル黒字から,1994年には24億ドルの赤字へと転落.民間の対外債務は35億ドルから85億ドルに跳ね上がる.
中央労働者連合(Unified Workers Central:CUT)は,2万の私企業が閉鎖されたと報告.国内産業は補助金などが減額されたことで崩壊の危機に陥る.
労働法改正により,解雇が容易になったことから,急速に失業者が増大.人口の20%が失業,非公式セクターを含めれば60%に達する.7月 グダレーナ中部のパラミリタリーの中にも、和平の受け入れをめぐり混乱。強硬派のヘンリー・ペレス(7月)とアリエル・オテロ(92年1月)が身内の手にかかり暗殺される。エスコバルの差し金とされる。
91年8月
8.06 ボゴタ,旧称のサンタフェ・デ・ボゴタに改称.
8.14 オメス蔵相,左翼ゲリラの攻撃から主要経済基盤を守るため,来年度から新税を導入すると発表.
8.27 アンティオキア州の電力公社(ISA)のサンカルロス水力発電所に出張中の東芝社員二人(中山明美さんと小西俊博さん),FARCゲリラにより誘拐される.
91年9月
9.4 政府とCGSBの第3回カラカス和平交渉開始.月末にはゲリラによる前上院議長への狙撃事件をきっかけに交渉が中断.
9月 ラプレンサ紙,首都南東70キロに米軍の秘密航空基地が建設され,国内を偵察飛行していると暴露.
10.27 総選挙.自由化バブルのなか,与党自由党が上・下院とも過半数を占め勝利.M19民主同盟は15議席を獲得。
91年11月 FARCのゲリラ闘争再開
11.10 カラカスの第4回和平交渉,不調のまま終了.
11.14 FARC,カラカス会議の決裂を受け闘争再開を宣言.クンディナマルカ県ペスカ村を襲撃.警察の営舎を破壊.
11.26 FARC,ボゴタ郊外ウスメ居住区で当局の施設を襲撃.職員7人が銃弾で惨殺される.治安問題政府諮問委員会は,CGSBに自主的停戦を要求.
11.28 昨年11月,ELNに誘拐された米国系石油会社のアメリカ人らが,ククタで解放される.
12.04 カルタヘナで南米5ヵ国大統領会談.核兵器,生物・化学兵器など大量破壊の所持・開発・使用放棄を宣言.
12.16 二人の東芝社員がメデジンで解放される。英国のコントロールシスク社が仲介となり、身代金200万ドルが支払われたという。
1991年 ボゴタ東方180キロの平原地帯カサナレに、推定埋蔵量20億バレルの大規模な油田が発見される。94年の生産開始が見込まれる。
1992年
1 国防省の指令200-05/91を受け,創設されたバランカベルメハ・ネットワークが活動を強化.ジャーナリスト,労働組合員,人権活動家に対するテロがあいつぐ.二年間で,ブランカ・バレロ,フリオ・ベリオ,リヒア・パトリシア・コルテスら一般市民57人がテロの犠牲となる.人権活動家は,一時海外亡命を余儀なくされる.
カルロス・ダビド・ロペスの証言
バランカベルメハ・ネットワークの管理者だったカルロス・ダビド・ロペスは,のちに文民当局のもとめに応じ証言.また自らの告白手記を発表した.これによれば,海軍と反共集団MASが中核となりいくつかの準軍組織を結成.このネットワークは,1992年の前半に46の殺害計画を実行.海軍からの支給品には「ボルト・アクション・ライフル,M16ライフル,ガリル・ライフル,レボルバー,ピストル,サブマシンガン,破砕性手榴弾,軍事教練指導書,そして海軍及び陸軍と通信するための高周波2-WAYラジオが含まれていた」という.
この証言のあと,ゴメス,ロペスなどバランカベルメハ諜報ネットワークについて証言した人々は,すべて「失踪」した.2月 永住日本人で電気通信会社社長の中川浩治さんがプトマヨ州で誘拐される。2週間後に解放される。
3.03 最高裁,刑事検察局長官にデ・グレイフを指名.
3.21 ドゥラン・キンテーロ,EPL武闘派に誘拐され軟禁中に死亡.ガビリアはCGSBとの交渉代表の帰国を命令.CGSBとのメキシコ,トラスカラにおける交渉は中断.
3 異常気象による降雨不足で,主要都市部で1年にわたる計画節電の実施.
4.06 コロンビア司教会議,政府とCGSBの和平交渉再開を呼びかけ.ネル・ベルトラン司祭を仲介役として公認.
4.22 司教会議の呼びかけを受け,メキシコのトラスカラ(Tlaxcala)で和平交渉再開.CGSBは交渉過程に対する国際監視団の仲介を要請.
92年5月 ELNのゲリラ闘争再開
5.02 トラスカラ交渉,再開日程を決めないまま中断.
5.03 ELNは外国企業施設やパイプラインの破壊,外国人誘拐活動を再開.メタ県ウリベで政府軍との交戦.
5.04 米州人権委員会、第二次調査団を派遣。三人の委員他5人のスタッフも同行し、5日間にわたり実態調査。
5.16 民間チャーター機,ゲリラに乗っ取られる.乗客の陸軍兵士3人が東部地区で遺体で発見.
5.24 FARCも戦闘行動を再開.アンティオキア県ダベイバで政府軍とのあいだに交戦.
92年6月
6.01 コロンビア政府,ペルーのアラン・ガルシア元大統領の政治亡命を認める.
6.10 FARCとELN,政府の国営企業民営化を阻止するため,外国企業とマスコミをテロの攻撃目標とすると宣言.
6.11 カラカスでメキシコ,ベネズエラ,コロンビア三国大統領が会談.年度内に自由貿易協定に調印することで合意.
6月 トラスカラの和平交渉は最終的に決裂.その後2年間にわたり,ほぼ全面的に対話中断.
92年7月 CGSBの闘争再開宣言
7.03 FARC,北東部セサル県チリグアナ市を攻撃.
7.16 FARC,南部カケタ県において公的部門の通常業務の停止を指令.アンティオキア県レメディオスで石油パイプラインを爆破,史上最悪の原油流出事故となる.
7.22 パブロ・エスコバル,「カテドラル」からの脱獄に成功.軍・警察との戦闘を再開.その後1年半にわたり千5百人からなる捜査当局の追及を逃れる.
7月 ラファエル・パルド国防相,「複合的戦争」政策を発表.カルテルおよびゲリラとの戦闘強化の方針を明らかにする.
10月 FARCとELN、コロンブスのアメリカ「発見」500周年にあわせ、「コンドル・パサ」作戦を展開。
92年11月
11.05 CGSB,新大陸発見5百年を機に,和平交渉の決裂と闘争再開を宣言.カニョ・リモンで石油パイプラインを爆破.
11.07 FARC、南部で武装行動を展開。26人の政府警官を殺害。
11.08 ガビリア,90日間の国内動乱状態を宣言.特別立法権を行使し,軍部に1万人,警察に8千人を配備し鎮圧にあたる.この作戦で死者,逮捕者,脱走者をふくめ1300名がゲリラから脱落.追い詰められたゲリラは,強請,誘拐や強盗などによる資金調達をはかる一方,麻薬密売にも手を出すようになる.
11.23 AD・M19は政府の強硬姿勢に反対し現政権からの脱退を表明.デ・ルー厚相が辞任.ウルフ委員長は次期大統領選に出馬の意向を表明.
11.27 ペルー最高裁,任期中の不正蓄財疑惑追及のためアラン・ガルシア元大統領の身柄引き渡しを要請.
12月 身代金支払いを禁止する誘拐対策法が成立。政府にそれだけの解決能力がないため、当初から有名無実となる。
92年 コロンビア政府、トルヒージョの虐殺事件を調査するため、民間代表をまじえた調査委員会を作ることに同意。委員会は軍関係者が虐殺に加わった事実を認定する。しかし責任者の処罰は行われないままに終わる。
92年 この年、ヘロインの生産量は4トンに達する。これは世界の生産量の3%弱。北バジェ・デル・カウカ・カルテルがコロンビアのヘロイン業者を牛耳る。
92年 EPLの武装解除に伴い、ゲリラ約2000人が武装解除。カスターノは部隊の規模を縮小。「コルドバ平和財団」(Fundacion por la Paz de Cordoba)を創設し元ゲリラ兵に若干の援助を行う。(米財務省のサイトでは、この「財団」は麻薬カルテルの偽装組織のひとつにリストアップされている)
1993年
93年1月 エスコバルの闘争再開宣言
1.14 ガレラス火山が噴火.国際火山学会に参加していた研究者6人が死亡する
1.21 エスコバル,武装組織「メデジンの反逆者」を結成.政府に対し宣戦布告.判事や警察幹部に暗殺予告.ボゴタ北部地区で自動車爆弾.死者23名.30日にはダウンタウンで自動車爆弾.死者21名,負傷者68名.
1.31 FARC,パナマの国境地帯に侵入.新部族宣教団の米国人3人を誘拐.身代金500万ドルを要求.
93年2月
2.05 ガビリア大統領,カルテルに対し強硬策でのぞむ方針を発表.テロに対処するため,非常事態宣言の90日間延長.米軍200名を導入しカリに配置.検察側は特捜隊「捜査ブロック」を創設,
刑法改正: 犯罪捜査に対する軍の権限を一層拡大,一般犯罪の捜査におよぶ.軍による不当逮捕,拷問は日常茶飯事となり,政治犯5千人が獄につながれる.司法制度は国民抑圧の制度にすり替えられる.米国は政府・軍の対麻薬活動に対し3千6百万ドルにおよぶ援助.
2.15 ふたたびボゴタのダウンタウンで自動車爆弾.死者4名,負傷者100名.
2.23 ELN,チョコ州のオレソム金鉱山で米国人職員を誘拐.
2 マスコミの鳴り物入りで「ロス・ペペス」(パブロ・エスコバルに迫害された者たち)なる武装組織が活動を開始する。カルテルとの対決をうたうが,組織実体はエスコバル追い落としを狙うカリ・カルテルの私兵団。
ロス・ペペス: その後明らかになったところによれば、ロス・ペペスの指導者はカスターニョ兄弟。コカイン利益の配分をめぐりエスコバルに身内三人を殺されたことから、カスターニョ兄弟が逆切れしたもの。これにライバルのカリ・カルテルが援助を与えたというのが実態のようだ。
3.15 パルド国防相,18ヶ月以内にゲリラを降服に追い込むと公約.
4.13 報道によれば,昨年11月8日から本年3月22日までの間に,ゲリラとの戦闘で計924人が死亡.
4.15 ボゴタ北部地区で自動車爆弾.死者11名,負傷者108名.「ロスペペス」は報復と称してエスコバルの農園を焼打ちし、エスコバル派幹部に波状攻撃をかける。
93年5月
5.4 憲法裁判所,国内動乱状態下の「司法当局に協力した場合の被疑者の減刑」に関する大統領令は違憲であると発表.
5.19 132人を乗せたサム航空旅客機がメデジン市の北西100キロのアンデス山中に墜落
5 政府,非常事態宣言(国内動乱状態)を更新.
6.19 大統領選.接戦の末,自由党のエルネスト・サンペール・ピサノが保守党のアンドレス・パストラナ・アランゴをやぶり当選.投票率は30%にとどまる.
7 CGSB,この状況が続けば「黒い9月」作戦を発動せざるをえないと警告.「黒い9月」はミュンヘン・オリンピックでパレスチナが敢行した大規模誘拐テロ作戦からとったもの.
8.28 FARC,軍・警察への待ち伏せ攻撃を強化.ボゴタ郊外のウスメ地区で,警察車両で移動中の警官12名が,爆弾テロと銃撃に遭い死亡.
93年9月 黒い9月作戦
9.02 FARCとELN,「黒い九月」と名づけた一斉攻勢を開始.地方での待ち伏せ攻撃やボゴタ市内での爆弾テロ活動を展開.アンティオキア州では移動中の軍のトラックが狙撃され14名が死亡.
9 コロンビアでゲリラがドイツ人実業家を誘拐しようとして失敗.ドイツ人は殺害される.
93年10月
10.05 88年のウラバ虐殺事件の首謀者ベセラ少佐,今度はリオフリオで軍と準軍組織による13名の虐殺に関与.ベセラは軍命令で退役させられるが,逮捕は免れた.同じ容疑でフィデル・カスタニョにも逮捕状.カスタニョは不在裁判で有罪となり20年の禁固刑を宣言される.
カスタニョは,1988年から1990年の間にさらに4つの虐殺に関与していたとされる.またカスタニョ自身が,1990年の愛国同盟大統領候補ベルナルド・ハラミヨ暗殺計画に参加していたと認めている.
10.21 ナルコ幹部3百名の連名で,恩赦を認めれば当局に投降しすべての麻薬密売活動を放棄すると提案.当局はこれを拒否.
10 南部カウカ州で軍がELNと銃撃戦.ゲリラ11名が死亡.その後、ELN社会主義改革派グループ(CRS)が、オランダ政府の仲介で和平交渉に入る。
93年11月
11.5 ロンドーニョ上院議員,メデジン市内でナルコの刺客により暗殺.
11月 刑法の一部改正。「自首し、麻薬取引の実態を白状し、不法に得た資産を政府に引き渡せば、実刑を軽減する。……自宅軟禁を認め、身の安全を保障する」との付加条項。グスタボ・デグレイフ検事総長は、「欧米に麻薬消費を合法化する動きがある以上、コロンビアはコカインおよび大麻取引の合法化を検討すべきだ」と語る。
11 夏にゲリラに誘拐されたコロンビア在住のイタリア名誉領事,死体となって発見される.
93年12月 エスコバルの死
12.02 捜査当局,エスコバルの部下や協力者のほとんどを殺害した後,エスコバルを追い詰める。エスコバルは家族にかけた電話を逆探知され、メデジン市内の隠れ家を襲われ、銃撃戦の末に射殺される.
12月 エスコバルの葬儀に市民3千人が参列。
12月 アンデス計画に基づき、米軍工兵部隊150人がコロンビア入り。太平洋岸の川沿いに軍事基地を建設し、マフィアの船舶利用を監視。
93年 コロンビア共産党、FARCとの関係を断絶。その後も党内には多くのFARCシンパが残り、コロンビア共産党は事実上二重構造に移動。
93年 メデジン・カルテルに代わり,カリ・カルテルが麻薬密輸の主導権を握る.ロドリゲス・オレフエラ兄弟に率いられたカリ・カルテルは,ニューヨークのコカイン市場の8割を支配し,他の欧米各地の市場にも支配権を握っているといわれる.また米国における消費者の要求に応じ,アヘンやヘロインにも手を伸ばしているといわれる.
93年 人権団体によれば、この4年間で暗殺団「シカリオ」(sicarios)による「道徳的浄化」の犠牲者は、記録されただけで1,926件に達する。団員は町の失業青年からリクルートされる。対象は麻薬常用者、前科者、こそ泥、売春婦、同性愛者、乞食とストリートチルドレンなど。古参の団員は、「知りすぎた」ことを理由に、より若い団員により処分される。
1994年
1.14 ELN,エル・プラヨンを旅行中の米国人家族を誘拐.カサナレ州の日本人牧場主も、この年ELNに誘拐され、1ヵ月半後に解放された。
1月 フィデル・カスタニョ,武器買い入れのためパナマに入り、そのまま失踪。一説では、アンティオキア州サンペドロ・デ・ウラバでEPLカラバジョ派に射殺されたとされる。
1 ELN,コカコーラの工場を破壊.
2.11 議会での承認を経てCONVIVIR制度が成立。地区毎に住民が協力しゲリラを監視するグループを創設する計画。法令48号の復活につながるものとして批判を集める。まもなく準軍事組織の手先として機能するようになる。
3.13 議会選挙。自由党が過半数を獲得。M-19民主同盟の議席は下院で2議席にとどまる。パラミリタリーが愛国同盟を集中攻撃し4千人を殺害。愛国同盟は法廷得票数に達せず惨敗。このあと公然活動の停止に追い込まれる。
3 アムネスティ,年次報告の中でコロンビアを「最悪のキリング・フィールズ」と呼ぶ.ラテンアメリカで最も安定した民主主義の国と言われながら,86年以来の犠牲者は2万人に達する.政治的な殺人の7割がパラミリタリーないし軍によるもので,麻薬がらみは2%にとどまる.報告は「闇市場では人肉が売られ,政治家も子供もホモも麻薬中毒者も,見境なしに撃たれて死んでいく」と.
3月 ガビリア大統領、米州機構の事務総長に当選。エスコバル殺しの論功行賞といわれる。
5.29 大統領選.有権者の2/3が棄権するなど国民は無関心.自由党ガビリア後継のエルネスト・サンベール(Samper Pizano)元経済開発相が,保守党候補アンドレス・パストラーナを僅差で破る.過半数には届かず,決戦投票に持ち込まれる.ADM19のアントニオ・ナバロ・ウォルフは4%の得票にとどまり影響力を消失.
5月 エスコバルの死後勢いを失った「メデジンの反逆者」は、政府とのあいだで,M19などと同じ方式による自主解散に合意.
6.06 マグニチュード6の地震が起こり,500人以上が行方不明になる.
6.19 大統領選の決戦投票.サンペールが当選を果たす.
6月 ゲリラ闘争を続けていたEPLカラバジョ派も、ガビリアとの和平に応じ停戦。
94年7月 FARCの作戦拡大
7.02 ワールドカップ米国大会で,相手に自殺点を与えたアンドレス・エスコバル選手,メデジン市内で暗殺される.数人の男に取り囲まれ,合計12発の銃弾を浴びせられたという.
7.15 FARC,サンペールの大統領就任を前に一連の軍事作戦.15日にはエクアドル国境近くの政府軍駐屯地を急襲.兵士24人が死亡.22日にはボゴタの北西約375キロの地点で軍部隊を急襲.兵士10人が死亡.さらにボゴタ市内で軍最高幹部の一人を暗殺.
94年8月 サンペールとFARCの対決
8.07 エルネスト・サンペール,大統領に就任.対立の背景となっている社会経済問題と取り組む「統合的平和」政策を提案.すべてのゲリラ勢力に対し交渉を呼びかける.平和問題高等弁務官にカルロス・ホルメス・トルヒージョを指名.
8.07 FARC,サンペール大統領の就任にあわせ各地で軍事行動.グァビアレ地区のミラフローレスでは警察の麻薬取締本部を襲撃.警官6名を殺害し,29名にけがを負わせる.メデジンの広場では爆弾が爆発,28人が死亡.
8.16 サンペール大統領,全土に非常事態を宣言.ハロルド・ベドーヤ・ピサロ大将を,参謀総長(軍のナンバーツー)に指名.彼は対ゲリラ作戦の責任者で准軍事組織のフィクサーとして悪名高い人物.
8.19 マヌエル・セペダ上院議員,ボゴタ市内を車で走行中,オートバイから撃たれまもなく死亡.セペダは左翼の愛国同盟議長を10年にわたり勤め,最近ではゲリラとの停戦に精力を集中していた.彼の名はこの数ケ月間,「死のリスト」の筆頭に掲げられていた.
シカリオ: 都市における準軍組織=暗殺者部隊は「シカリオ」として知られる.過去4年間に1926件の「社会浄化」を実行.暗殺者の多くは,コロンビアの悪化する経済のために周縁化された都市部の失業者.こうした暗殺者は「知りすぎた」と判断されると,新たに雇われたシカリオの標的となる.犯行声明を発表した「共産主義者とゲリラに死を!」(MACOGUE)もシカリオのひとつとされる. ただし 政府は麻薬業者による犯行と推測.
9.23 FARC,米国人トマス・ハーグローブを誘拐.
9 OAS総裁に前コロンビア大統領のセサル・ガビリアが就任.
9 ACCUを継いだ弟カルロス・カスタニョは,旧EPL活動地域だったコルドバ・ウラバ州に進出しようとするFARCに対抗し、パラミリタリー組織の連合を目指す.背後で国家警察,軍情報部,さらに米軍も関与.
カルロス・カスタノ: コロンビア史上最も醜悪なフィギュアの一人。「兄をしのぐ残虐さを示し、一回数十人づつ、年間1000人にも及ぶ虐殺を繰り返す。電動鋸で体や首を切断して殺すのは、ごく普通の手口となっている」といわれた。さらに麻薬ビジネスに進出し、その軍事力にものをいわせ、コロンビアの麻薬カルテルを牛耳るボスのひとりとなる。
11 FARC,ゲリラ活動を活発化.石油基地などで軍と交戦.数十名の死者を出す大規模なもの.
11月 ホルメス平和問題高等弁務官,ゲリラとの交渉開始を告げる最初の報告を提出.
12.13 サンペル大統領,「監視と個人保安のための協同組合」(CONVIVIR)の結成を発表.地域の情報を軍部隊に提供する目的で「地方治安組合」を設置することが推奨される.これにより、全国400あまりの自警隊や私兵隊が実質的に合法化される。指令200-05/91と相まって,準軍組織はほぼ完璧に合法化され、AUCへと結集してゆくこととなる.
94年 農村の崩壊が進む.貧農は暴力と脅迫により,強制撤去や強制売却を余儀なくされる.人口の3パーセントの大地主が70パーセント以上の耕作可能な土地を所有する一方,最貧の農民層の57パーセントは,3%の土地を持つに過ぎない.
94年 米保守系のシンクタンク,ランド研究所,麻薬対策としては「治療が警察による取締りよりも7倍費用対効果が高く,麻薬産地での介入よりも23倍費用対効果が高い」と報告.
94年 米政府,コロンビア軍とその準軍組織の同盟者による人権侵害への対応として軍事援助を停止.