エクアドル年表

 

1530年  1900年  1950年  1971年  1979年  1990年  1995年  1999年  2000年  2005年

30年ボリーバル死去まではコロンビア年表に一括ただし
 スペイン征服前のエクアドルは,独自の流れを持っているので,ここに書いておきます.

紀元前3500年  グアヤス州海岸部でバルディビア文化。
紀元前2千年 アンデス山間部各地にも文明が発生。15世紀にインカが攻め込むまで有力な部族はクエンカ周辺のカナリ族、キト北方のカラ族、キト周辺のQuitu族(Duchicela族)であった。
1250年頃、北部高地でキトを中心に
Caranqui連盟と呼ばれる部族連合が成立.インカの来襲まで150年にわたり支配を継続.このほかグアヤス地方にワンカビルカ王国、
1463  第9代インカ皇帝「偉大な戦士」Pachacuti Inca Yupanqui,息子Topaにエクアドル征服を命じる.トパはQuituを負かした後,南方に海岸に沿って進出.報告によれば,彼は海上に出てガラパ ゴス諸島、あるいはマルケサス諸島を征服したという.しかしグアヤキル湾周辺の部族の征圧には失敗.
1470 インカ皇帝となったTupac Yupanqui,北ペルーのチムー帝国を征服。その後ロハのパルタ王国も手中に収める。
中南部を支配するカニャリス王国(現カニャル州インガピルカ)と,激戦の末に和睦.カニャリスの皇女と結婚しクエンカに定住.息子Huayna Capacをもうける。
1492 Tupac Yupanquiの息子Huayna Capac,Ingapircaで即位.グアヤキル一帯を制圧.その後、キト北方パスト族のカランキ=カヤンベ同盟軍と激戦の末、Cara王国を制圧。エクアドル全土が Tawantinsuyu(インカ帝国)の版図に入る.
1500 Huayna Capac皇帝はキトに居を定め,大量のケチュア人移民を導入.ここをインカ帝国第二の首都と定める.帝国を南北二つに分け,クスコをウアスカル (Huascar),キトをAtahualpaにゆだねる.インカ帝国による支配はわずか50年足らずであるが,灌漑設備が建設され,ユッカ、サツマイ モ、コカそしてピーナッツを含むいろいろな新しい作物が導入され,ラマなどの家畜が導入され,エクアドルに革命的変化をもたらす.
1528 キトのAtahualpaがクスコに反旗を翻す.
1532 アンバトでAtahualpa軍とHuascar軍が激突.Atahualpaの圧勝に終わる.Atahualpaはペルー北部のCajamarcaに首都を定める.

26.9.21 フランシスコ・ピサロ船団のうちバルトロメ・ルイス・デ・エストラーダ(Bartolomé Ruiz de Estrada)の一行,エクアドル北部のエスメラルダ(Esmeraldas and Manabí)に上陸.先住民3人を捕獲する。このうちの一人は受洗してFelipilloを名乗る。

27年 インカ皇帝Huayna Capacが急死する.スペインの記録者によって「おそらく天然痘または麻疹」として記述される.インカ法に基づきクスコのHuascar(Huayna Capacと彼の妹の間にできた子供)が皇帝となる.キト地方は異母兄のアタウアルパが統治する.Atahualpaの母は正妻ではなく「現地妻」だったが,Huaynaがもっとも可愛がっていたという.

28年 キトのアタワルパ,現グアヤス地方のワンカビルカ族の反乱を鎮圧.

27年 アタウアルパ、トメバンバを首都と定める.トメバンバは現在のクエンカの近郊.かつてはカニャリス族の都市国家であり、インカ連邦内の「第二のクスコ」と称されるほど高い文化と繁栄を誇っていた.

28年 クスコのワスカール皇帝に対しキトの異母兄アタワルパが反乱.インカ帝国を2分する.トゥパク・ウァイナ以来エクアドル征服に従事し たチャルチマク、キスキスら有力な将軍はアタワルパにつく。エクアドル南部のロハとクエンカはワスカール側についたため、キトとクエンカの中間点リオバン バが両者の境界となる。(インカ内戦に関してはペルー年表に一括)

1532年

9.24 ピサロの一行,サンミゲル・デ・ピウラ基地を建設し,セバスティアン・デ・ベナルカサルに守備を託す.ベナルカサルはピウラにとどまり、インカ帝国の征服に参加せず、したがって分け前ももらえなかった。

11.16 ピサロ、カハマルカ滞在中のアタワルパを奸計により監禁.部下2千を殺害し3千を捕虜とする.キスキスはペルー領内で抵抗活動を続ける。

1533年

7.26 キト守備隊のルミニャウイ(Ruminahui)司令官,アタウァルパ直系のコソパンキを追放し権力を握る.ピサロの兵は,ルミニャウイ進攻のデマの前に恐慌状態となる.アルマグロはアタワルパ殺害を主張.ピサロはソトの反対を押し切りアタワルパを処刑.

7.26 アタウアルパ,ピサロにより殺害される.

11.15 クスコが陥落.キスキスは残党を従えキトに退却.

11 ピサロ,サンミゲル・デ・ピウラの守備隊長セバスチアン・デ・ベナルカサルの指揮する2百名の歩兵と80名の騎兵をキスキス追撃隊として派遣.ベナルカサルはグアヤキルの要塞を建設.(現グアヤキル市ではなく、グアヤキル湾のどこかに上陸し、カニャル経由でリオバンバを目指したということだろう)

1534年  キト王国の征服

この年の記載は、文献により異同が多く錯綜していています。もともとペルー年表やコロンビア年表に紛れ込んでいたものを、エクアドル年表を独立させるときに引っ張り込んだためです。少しづつ直すつもりです。
問 題は、ひとつはキスキスとルミニャウィの行動が混同されていること、とくにペルーからエクアドルに撤退した後のキスキスの行動について、記載があいまいな ことです。第二にはサンチアゴ・デ・キトとサンフランシスコ・デ・キト(現キト)の混同です。当時も、その後も、現在のエクアドル一帯がキトと呼ばれてい たことは間違いないので、それは良いのですが、書いている人の中には現キトと混同している人がいるようです。第三にサンチアゴ・デ・キトについても、リオ バンバ付近であるのは良いとして、ティオハカスなのかシカルパなのか、そもそもシカルパとカハバンバのどちらが当時の名でどちらが現在名なのか、混迷を深 める一方です。第四にはアルマグロの行動が今一つはっきりしないことです。多少なりとも戦闘に参加したのか、それとも何もしないでペルーに戻ってしまった のか。抜け駆けをしたベナルカサルに対し、何らの代償も求めなかったのか?
そもそもエクアドル年表に入れることが適当なのか、むしろペルー年表に まとめたほうが全体がつかめるのではないだろうか。悩みは深まるばかりです。ただ昔はこうなると東京まで行って、アジ研の図書室に潜り込むしかなかったの が、最近は簡単にインターネットで手に入るようになったので、そのうちなんとかなると思います。

1 ベナルカサル,カニャル族の支援を受け,ピサロの許可を得ないままキト征服に乗り出す.馬が数頭と歩兵が140人という部隊.

2 キトに退却したキスキス軍,エクアドルより反撃を試みるが失敗,四散する.

2月 グアテマラ総督アルバラード,エクアドル征服に参加.5隻の船に500人の兵士を乗せグアテマラを発つ。途中ニカラグアでさらに2隻が合流。

3月 アルバラード、マナビのCaraquez海岸に上陸。プエルト・ビエホの基地を建設.ヒバロ族を襲いエメラルドを強奪.

4 ベナルカサル,ティオカハスでルミニャウイ軍を破る.ルミニャウイはキトに撤退し隊列を立てなおす.ティオカハスは現リオバンバ付近のチンボラソ山麓地帯.(8月の記事と混同されているかもしれない)

 

リオバンバから見たチンボラソ

 

6月 ベナルカサルがキトの町を攻撃。ルミニャウイ,キトに自ら火を放ち撤退.(どっちのキト?)

キトの富は?: キトに入ったベナルカサルは、財宝がほとんどないことに失望したという。2万人の住民のほとんどは、土壁にわら屋根の小屋に住んでいた。ベナルカサルはカヤンベ、エル・キチェなどで財宝を求め歩いたが徒労に終わった。その後、彼はリオバンバに腰を落ち着けた。

7月 ベナルカサル、カヤンベ(Cayambe)の町を占領。

8月初め アルマグロとベナルカサルがリオバンバ近郊で合流。アルバラードの到着を待つ。

8.23 アルマグロ、シカルパの近郊にサンチァゴ・デ・キート市を創設。アルバラードに「既成事実」を突きつけるためとされる。

8.26 アルバラード、ネバドス山地を越えキト高原に達するが,途中の難行で兵力を消耗.キトの支配を断念し、アルマグロに遠征軍の兵力を売り渡す。

8.28 ベナルカサル,30人の仲間とともにリオバンバを攻撃.ルミニャウイ,リオバンバ南方のシカルパ(カハバンバ)で最後の決戦を挑む.ベナルカサルはルミニャウイを捕らえ幽閉する.リオバンバをビリャ・デ・サンチアゴ・デ・キトと名づけ議会を設立.

8.28 アルマグロ、キトに対する勅許権を強調するため、リオバンバをVilla de San Francisco de Quitoと改称。

9.08 ベナルカサル、300人の部下とともにリオバンバからキトに向かう。

9.15 ピサロよりエクアドルの支配者に任じられたアルマグロが,エクアドルに入る。アルマグロ,ベナルカサルとアルバラドがリオバンバ で会見.アルマグロがエクアドルを支配することで合意.アルバラドはベナルカサルと協約を結び兵員装備を10万ペソで売却したあとグアテマラに引き返す.

12.04 ベナルカサルがキトに入る。ルミニャウイは捕らえられる。町はすでにルミニャウイの手により灰燼に帰していた。

12.06 アルマグロは,成果のないことに失望しエクアドル総督職を返上.クスコに戻る。ピサロはこれに代わりベナルカサルを,あらためてエクアドル総督に任ずる.

12.06 ベナルカサルは,サンフランシスコ・デ・キト(現キト)をあらためて再建.公式にはこの日がキト創設の日とされる。同じ年にチンボとグアヤキルの町も建設される.

メスティソ化(mestizaje): ベナルカサルはインカの貴族との通婚を奨励した。先住民の側もこれに積極的に応えたという。これにより多くの混血児が生まれ、キトの中間層を形成するようになった。

 

1535年

1.10 ルミニャウイは拷問のうえ処刑される.ルミニャウィの残党はキトから北方に撤退。イバラ近郊のヤグアルコチャ湖畔の戦いで全滅。

1月 キトの町にサンフランシスコ修道院が建設される。

3.12 フランシスコ・パチェコ大尉、ビリャ・ヌエバ・デ・サン・グレゴリオを設立する。現在のプエルト・ビエホ。

3 ガラパゴス諸島が,修道士フレイ・トマス・デ・ベルランガにより発見される.

7.25 ベナルカサル,Yaguachiの近くにキトの外港としてサンティアゴ・デ・グアヤキルを建設.ベナルカサルがキトに向かった数ヵ月後に、Huancavilca族(一説にChono族)が奪還に成功.

 

1536年

3.08 ベナルカサル、Pedro de Puellesをキト副知事に任命した後、さらにエルドラドを求め北方に旅立つ準備を開始。

8.23 キトの市参事会、先住民に「10分の1税」(Diezmo)を科す。聖職者の活動に対する謝礼とされ、スペイン人は仔馬もしくは牝馬で支払い、現地民は収穫物を貢納することとなる。

10 ベナルカサルは,アンデスを縦走しカリブ海岸に向け進軍.キト在住204人のスペイン人のうち150人が同行.

12.8 ベナルカサル,カウカ河流域にはいる.パスト,ポパヤンを建設.さらにカウカ渓谷にそって北進,現アンティオキア地方へ侵入.

36年 フランシスコ・ピサロ、グアヤキルの再建を命令。リマからエルナンド・デ・サエラとペドロ・デ・タピアがグアヤキルに向かう。ウアンカビルカ族は女性を差し出して和解を申し入れるが、拒否される。その後ふたたびグアヤキルを攻撃し、スペイン人を追い出す。

36年 クスコでのマンコ・インカの反乱に同調し、キトでも旧インカ軍の反乱が起きるが、まもなく鎮圧される。

 

1537年

7.25 フランシスコ・デ・オレリャーナによりサンタアナの丘の麓にグアヤキルが再建される。

7月 ベナルカサル、キトに戻る。本国のインディアス会議に密使を送り、キトの総督となるよう要請する。

37年 本国政府、ディエゴ・デ・アルマグロにクスコをふくむ「ヌエボ・トレド」地方の知事職を与える。フランシスコ・ピサロにはリマを中 心とする「ヌエバ・カスティーリャ」地方の知事職が与えられる。(二人が同格扱いされる)。この決定をめぐり、クスコではアルマグロ派とピサロ派の内戦が 始まる。

37年 アルマグロがクスコを制圧。エルナンド・ピサロを捕らえる。いったん死刑が宣告されるが、アルマグロは恩赦を与える。

1538年

2月 ベナルカサル、キトを出発しポパヤン北方の征服を目指す。引き続き本国にはキトの知事職を要求。

3.14 本国政府、ピサロに対し王勅を発行。ベナルカサルがキト領内で征服した土地のすべてをベナルカサルに譲渡するよう判決。

4.26 サリナスの戦い。ピサロ派がアルマグロ派を殲滅。この後ピサロは本国政府の命令を無視し、「ピサロ王朝」建設に乗り出す。

5月 ボゴタ征服でヒメネス・デ・ケサダに先を越されたベナルカサル,ニコラス・フェデルマンとともに本国にわたり,ケサーダのボゴタ支配に対して,異議を唱える.

7.08 エルナンド・ピサロが700名の兵士を引き連れクスコに入城。アルマグロを斬首。

9月 ディアス・デ・ピニェーダは、Quijosへの遠征を開始する。

11.9 エクアドルの直接支配をねらうピサロ,ロレンソ・デ・アルダナをキト総督に任じ,ベナルカサル捕縛を命じる.ベナルカサルはポパヤンにこもり抵抗.アルダナは使命を果たせないままリマに戻る.

38年 フランシスコ・デ・オレリャーナ、グアヤキルをふたたび占領。この地方の伝説的な酋長グアヤスの名をとり、Santiago de Guayaquil と名づける。公式にはこの年がグアヤキル創設の年とされる。

 

1539年

39.11.30 ゴンサロ・ピサロ,フランシスコによりキト総督に任じられる.

1540年

3.10 インディアス会議、ピサロのキト総督任命権を尊重すると決定。ベナルカサルに対してはあらたにポパヤンの知事職を与える。

12.01 ゴンサロ,ベナルカサルの抵抗を打ち破り,正式にキト総督に就任.ベナルカサルは本国に戻り,訴訟を起こす.

40年 ヌニェス・デ・ボニラ、マカス地方に遠征し先住民を制圧。

1541年

2 グアヤス知事のフランシスコ・デ・オレリャナ,アマゾン低地探検に参加するため、30人の騎手とともにグアヤキルからキトに到着.副隊長となる.

3.08 ゴンサロ・ピサロ,アマゾン探検に出発.スペイン人350人,先住民4千人、多くのブタ、900匹の犬がキトを出発.キートの副知事としてペドロ・プエジェスが残る。

アマゾンのエルドラド伝説: アンデスの東方、アマゾン低地は「シナモンの地」と呼ばれ、カネーロスというエルドラド(黄金国)があると伝えられていた。「アマゾン」の名の由来については後述。

3.14 王勅によりキト(San Francisco de Quito)が都市(Ciudad)の認証を受ける。「都市」の象徴として最初の瓦葺の建物(teja)が建設される。パストはキートの司法権の下に置かれる。

6月 オリエンタル山脈の横断で隊員の半分を失う.

6月 コカ川でブリガンティン型帆船を建造.オレリャーナと57人のスペイン人,数百人の先住民が、食糧確保のため下流に乗り出す.オレリャーナの一行は食料を発見できず、体力低下のため基地にも戻れず、そのままナポ川を下る。

7.26 ピサロ,アルマグロの息子に襲われリマで死亡.

9.26 キトの市参事会、本国がヌエバ・カスティージャおよびヌエボ・トレドの知事として指名したCristobal Vaca de Castroを承認。ピサロ兄弟に反旗を翻す。

41 本国のベナルカサル,コロンビアの支配権獲得に失敗.改めてポパヤンの知事に任じられ,コロンビアに戻る.

 

1541年

2.11 オレリャーナの帆船、ナポ河からアマゾン本流に出る。

6月 オレリャーナに同行したカルバハル神父によれば、ネグロ川合流点近くで先住民と遭遇戦。スペイン帰国後,女戦士に襲われたと話したことから、女族アマゾナスを発見したとされ,流域一帯がアマゾンと名づけられる.

8.24 オレリャーナ一行は「靴や鞍まで煮て食べる」苦行の後アマゾン河口に達する.オレリャーナはさらに海図なしにベネズエラまでたどり着く。

9月 バカ・デ・カストロがキトに入る。エルナンド・デ・サルミエントをキト知事に任命。その後リマに赴き、アルマグロ派とピサロ派の調停に当たる。

11.20 本国でインディアス新法が制定される。ペルーに副王制が導入され、ベラスコ・ヌニェス・デ・ベラが最初の副王に任命される。先住民を国王に帰属するものとし、エンコミエンダの世襲権が廃止される。またペルーで内戦に関わったもののエンコミエンダを没収する。

43.6 ゴンサロ,生き残った隊員80人とともにキトに辿り着く.一行はほとんど裸であった。2匹の犬以外の全ての動物は食べられた。同行した先住民のほとんどは死亡した。ゴンサロはキトにとどまらず、リマでピサロ派を束ねる。

44年 ペルーの征服者たちがベラ副王に対し反乱。アウディエンシア長官(Oidores)のファン・アルバレスがベラを逮捕し、スペイン行きの船に押し込む。途中下船したベラ副王はキトに入り、ロドリゴ・デ・オカンポを副知事に任命する。

1545年

3.04 ヌニェス・デ・ベラ、キトを発ちピウラに向かう。ピサロに寝返ったオカンポ副知事は反逆罪に問われ斬首される。
ピサロがリマからキトに向かったとの報を受けたベラは、ピサロを恐れキトに戻る。
さらにピサロがパストに到着したのを受け、キトからポパヤンのベナルカサルの下へ避難。
ピサロはパストからリマに戻るふりをして、Latacungaから密かにキトに向かう。ベラはポパヤンからキトに戻る。

10 ゴンサロ、ベラ副王と会見.話し合いは新法をめぐり物別れに終わる.

11月 ベラはその後ポパヤンに足を伸ばし,ベナルカサルと会見.ゴンサロ打倒で同盟を結ぶ.

45年 キートに司教区が確立される。

1546年

1.18 ゴンサロ,リセンシアド・スアレス・デ・カルバハル(リマでベラに刺殺されたカルバハルの弟)の率いる600人のスペイン人部隊 に命じ,キト近郊のイニャキトで副王軍とベナルカサルの部隊を攻撃.副王側に50人,ゴンサロ側に20人の死者を出す激戦のすえ,ベラ・ベナルカサル軍を 殲滅.ベラは落馬し捕らえられる。

イニャキトの戦闘の謎: イニャキトは現在のキト北部アラメダ通り とラ・カロリーナ公園のあたり。当時は平原だった。ベナルカサル軍は敵の本拠地まで出向いた上で闘いを挑んだことになる。しかしゴンサロ軍は200丁の火 縄銃と140人の騎兵部隊を持つなど圧倒的な武力を備えていた。副王側もそれは承知していたはずであり、戦闘が目的でキトまで来たとは考えにくい。しかし それにしては20人も死者を出すのは変だが…。

1月 カルバハルはベラを打ち首にし、捕らえた70人を虐殺.残党も先住民や黒人野盗の餌食となる.ベナルカサルは負傷し捕らえられたものの、脱走に成功。

7 ゴンサロ,ペドロ・プエジェスをキト知事に任命した後、キトからリマに戻る。(一説ではカラバハルがゴンサロ政権のキト総督となる)

46年 ゴンサロ、スペインからの独立を宣言.法王からの「リマ王国」の承認をもとめる。

46年 本国の派遣した特別弁務官ペドロ・デ・ラ・ガスカ(聖職者)がリマに入る。ゴンサロに対する反対のキャンペーンを開始。

1547年

3月 デラ・ガスカ、サン・グレゴリオで部隊を編成。グアヤキルに上陸する.ゴンサロの指名した総督ら町の幹部を逮捕.

4月 キトの王党派ロドリゴ・デ・サラザールはペドロ・プエジェス総督を殺害し、デラ・ガスカ軍に参加.デラ・ガスカはサラザールをキト総督に指名。キトとプエルト・ビエホからの加勢を得たデラ・ガスカは、トゥンベスに移動.

47年 デラ・ガスカの軍を迎えたゴンサロ、Guiarinaの戦いで勝利する。

1548年

4.09 デラ・ガスカ軍、Jaquijaguanaの戦いでゴンサロ・ピサロを破る。

4.10 デラ・ガスカ,クスコに入る。ゴンサロ一味を逮捕し処刑.南米全域を王室支配下に置く。デラ・ガスカは副王領の東部を4つの占領地(Bracamoros, Yaguarsongo, Quijos and Macas)に分割する。ボゴタに新たにアウディエンシアが創設される。

1549年

2.22 王勅。副王領において先住民を私的なサービスに用いてはならないと定められる。

49年 キートの司教区が大司教区に昇格。

50年7月 インバブラの西方、リタとキルカ地方で先住民の反乱.領主(Encomendero)のMartin de Aguirreらスペイン人6人を殺害.アタウアルパの息子ドン・フランシスコとLatacunga族首長のサンチョ・アチョが反乱を平定する。

53年 エスメラルダ海岸沖でスペイン船が難破。黒人奴隷23人(男性17人と女性6人)が漂着する。彼らは先住民に対する支配権を確立し、通婚により人口を増加させ勢力圏を確保する。

56.2.14 キト市に「高貴にして忠誠な市」(Muy Noble y Muy Leal Ciudad de San Francisco de Quito)の称号が与えられる。

56.9.09 アンドレス・ウルダド・デ・メンドーサがペルー副王に着任。ヒル・ラミレス・ダバロスをキトの総督に任命し、Quito, Puerto Viejo, Guayaquil, Loja and Zamoraおよびその周辺地方を統括させ、境界を定め、司法権を授与する。

キトのアウディエンシアの管轄範囲は現在のエクアドルよ りかなり大きかった。南はパイタの港まで、北はブエナ・ベントゥーラの港とカリを結ぶ線までが行政範囲だった。アマゾン領域も現在よりかなり広かった。実 効支配はアンデス山間部に限局され、約500のエンコミエンダに分割された

61年 最初の人口調査。現在のエクアドル領に住む人口はほぼ27万人と想定される。

62.7.23 キホスの先住民が反乱。スペインの旅行者を殺害し橋や駅逓(Tambos)を破壊する。

63.8.29 フェリペ二世によるインディアスの機構改革.キトにもアウディエンシアが設置される.カウカ,ナリーニョ,バジェ(現コロ ンビア)はペルー副王領内のキト総督領となる.(総督職はゴベルナドールからプレシデンテ、総督領もカピタニアからプレシデンシアに改称された)

63 オタバロのコレヒミエントの一部であったカヤンベもキトのアウディエンシアに合併される。

70 パナマからリマに向かう奴隷船がエスメラルダ海岸で難破.漂着した黒人が先住民を圧倒してマンタ以北の海岸地帯に支配権を獲得.先住民男性を殺害し女性と通婚.サンボ社会が形成される.50年後に制圧されるが、その後も相対的な自治を続ける。

75年 旧Villa del Villar Don Pardo の場所に町が再建され、リオバンバと名づけられる。

77年 ペルー副王、羊毛工場での先住民の労役(Obrajes)を規制・監督する条例を制定。

1578年11月29日 東部熱帯地方の先住民Quijos族の反乱。フマンディ(Jumandi)の率いる部族連合軍5千人が、エンコメンデーロの横暴に抗議し、“Pacha Mama”(母なる大地)を守るためAvila, Archidona の町を破壊しスペイン人を皆殺しにする。

12月 キトのスペイン軍、Baezaの町を襲撃したキホス軍を撃退、その後4ヶ月間にわたり追撃・掃討作戦。フマンディは待ち伏せ戦で対抗。隠れ家となった洞窟は、現在「フマンディ洞窟」と呼ばれている。

78年 ドレイクの海賊船がエクアドルのグアヤキル港を襲撃。その後グアヤキルを襲った海賊はオランダのキャベンディシュ (1587,1624)、モルガン(1670)、シャープ(1680)、フランスのドゥ・ピカール・グロニェら(1687)、イギリスのロジャース・ダン ピアら)(1709)

80年 王勅。副王の事前同意なしにエンコミエンダを与えることを禁止する。

86.5.27 ベナルカサルの現地人とのあいだの子供ミゲル・デ・ベナルカサル,植民地当局に謀反を企てたとして処刑される.

86年7月 イエズス会がキトでの布教活動を開始する。

86年 王勅。混血児(メスティソ、ムラートなど)が先住民地域で暮らすことが禁止される。

87.11.01 副王領において基礎生活資料をのぞくすべての取引に2%の税金(Las Alcabalas)が課せられる。各地で新税反対闘争が起こる。

87年 イギリスの海賊Thomas Cavendishがグアヤキルを襲撃。海賊27人、守備兵6人が死亡。

89 キトのアウディエンシア,新しい土地をスペイン人に配布するのを停止.スペイン人の多くは分配された土地を売却し都市で生活してい た。ただしエンコミエンダ制度そのものは独立のときまで維持されていた。エンコミエンダと先住民の共有地の住み分けが確立し,200年以上にわたり継続.

90 エクアドルで天然痘とジフテリアの大流行。10年間で人口の1/3が死亡。

1592年 モレノの反乱

92.7.24 アルカバラスに反対するキト市議会は,コロンビア人のモレノ(Alonso Moreno Bellido)を指導者として反乱を開始(アルカバラスの反乱).

9月 リマ政府はバロス知事のもとめに応じPedro de Arana将軍の率いる軍を送る。キト参事会はPedro Zorillaを司令官とする民兵隊を組織。

12.28 モレノが射殺され,反乱は終結に向かう.

93年3月 アラナ軍、500人の火縄銃兵によりキトの反乱を弾圧。参事会議長ら幹部は処刑される。

99年 キルバ(Quirruba)に率いられたアマゾン先住民(Jibaros)のシュアル族(Shuar)が反乱。ログロノ(Logrono)の町を襲撃し破壊。すべての白人を殺害。マカス知事アルダレーテは口の中に溶けた金を流し込まれ死亡。

 

1600

00.2.23 キトのアウディエンシア議長に就任したミゲル・デ・イバラ、ミタとオブラヘを禁止する。

00年 この頃までにクエンカとロハの金・銀鉱山はほぼ枯渇。アンデス東斜面キホス地方の綿と、導入したメリノ羊の牧畜が最大の輸出品目となる。織物工場はobrajesと呼ばれる先住民の無償労働で維持された。

11年 ディエゴ・デ・ウガルテ、エスメラルダスへの遠征。

17年 王勅で「交替法」(Ley de la  Alternativa)が発布される。Criollos とPeninsulares が交替で地方長官に就任することとなる。

19年 クリストバル・デ・トロヤ、エスメラルダスに遠征し、Malaba族の反乱を抑える。

21.8.08 イエズス会、キトにサン・グレゴリオ・マグノ大学を設立。

21年 フェリペ二世が死亡。ペルー副王ボルハ・イ・アラゴンは副王の地位をリマのアウディエンシアにゆだね帰国の途に着く。

1624年

6.06 Jacob L'Hermiteの率いるオランダ海軍400人がプナ島を占領、グアヤキルを襲撃する。この攻防戦でオランダ側に50人、スペイン側に15人の死亡者。 

8.25 L'Hermite の副官Gubernat船長が800人の兵力でプナ島とグアヤキルを襲撃。停泊中の船舶や建物に火をつける。この戦闘でオランダ側はグベルナト船長をふくむ83人が死亡。スペイン側にも15人の死者を出す。

(別論文では、「シュルテのオランダ船隊,3月、8月の二度にわたりグアヤキルの港を襲撃」とある)

25 キトに異端審問所が設立される。リマから来たJuan de Manosca審問官は、評議会議長Antonio de Morgaら市幹部を逮捕。

25 アルバロ・デ・カルデナス,エクアドルのアマゾン側斜面キホス地方の開拓を進める.

27年 フェリペ4世、Antonio de Morgaらの地位を回復する。マノスカにはキトへの干渉を禁止し、異端審問にのみ関わるよう警告。

29 キトのアウディエンシア,黒人混血民の支配するエスメラルダ地方の征服を計画するが,リマはこの計画を認めず.

29年 マラリアの特効薬 Quina が発見される。

31年 メキシコとの交易が禁止される。これによりグアヤキル・アカプルコ間の航路は途絶える。

35年 王勅により官職・爵位などの売買が禁止される。

45年 地震と伝染病によりキト領内で11千人が死亡。

67年 偽のインカ皇孫を名乗るPedro Bohorquez がペルーで捕らえられ処刑される。

84年12.17 グアヤキルの港をEdward Davis, Swam、Edward Eaton らの率いるイギリス人海賊が襲撃。

87年4.21 英国人George d'Hout、フランス人Picard and Groniet の率いる英仏混合の海賊船がグアヤキルを襲う。約260人の海賊のうち35人が死亡するが、守備隊にも死者75人、負傷者100人以上と重大な被害。

4月 海賊は女性を人質に取り、町に火を放つと脅迫。キトは身代金を払い海賊と妥協。

89年 この時点でグアヤキルの住民は2千人以下にとどまる。

99年6月 Ambato, Riobamba and Latacungaで大地震。住民の3分の1に当たる8千人が死亡。

1700

00年 カルロス二世が死亡。ブルボンのフィリップV世が後継するが、欧州各国から攻撃を受ける。

00年 新大陸に居住しない地主の「エンコミエンダ」が没収される。

04年 王勅によりミタとオブラヘが禁止される。(100年前にも同じ決定があった。エンコミエンダも、少なくとも150年も続いていたことになる)

07年 50人未満の先住民を使用する小規模「エンコミエンダ」が廃止される。

09年5.02 Woodes Rogers and Etienne Courtneyの率いるイギリス私掠船がグアヤキルを襲う。110人の部隊がグアヤキルを略奪し、人質をとって身代金を要求する。

5月 グアヤキルの海賊内に黄熱病が発生。海賊は身代金を受け取るなく姿を消す。

10年 オーストリア・ハプスブルクのカルロス皇太子が、マドリードでカルロス三世として王位につく。その後ブルボン出身のフェリペ5世が王座を奪回。

17.5.27 ペルー副王領から分離し,ボゴタにヌエバ・グラナダ副王配置,イギリスの侵略に備える.ベネズエラ,コロンビア,パナマを統轄する.

5月 クエバ侯Jorge de Villalongaが初代サンタフェ副王に任命される。

20 キトのアウディエンシア領、ヌエバ・グラナダ副王領の創設に伴い、ボゴタに管轄が移る。アウディエンシア機能は排除され、すべての司法権がボゴタの新副王の下に帰属する。

22.3.26 キトのアウディエンシアが復活され、ペルー副王の支配下に置かれる。

23.11.05 ヌエバ・グラナダ副王領、財政難からいったん閉鎖される。キトはふたたびペルー副王領に入る。

30年 Pomallacta地区の先住民が反乱。Esteban Joseph Rodriguez de Eguez が先住民共有地を簒奪しようとしたのに対抗してのもの。

36.5.29 フランスの科学調査団はエクアドルで測量を開始。10年にわたり調査を続ける。彼らの任務は赤道における地球の円周を測定することだったが、フランスで流行していた啓蒙主義を持ち込み、権威や伝統への疑問を植え付け、知識人に深い影響を与えた。

39年 カルロス三世、プレシデンシアに代わるものとしてインテンデンシア制度を導入。インテンデンシアは直轄管区制度と呼ばれ、本国から送られた軍幹部が、管理機構のトップを担うことで、中央集権と管理の効率化を図る。

キトにおけるインテンデンシア: インテンデンシアの導入に伴い、キトはふたたびリマのヌエバ・エスパニャ副王領に編入され、リオバンバ以北のキト管轄区と、クエンカ以南とグアヤスからなる南部管轄区に分けられる。

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エクアドル主部

 

39.8.20 スペインは南米防衛のため,再度ヌエバ・グラナダ副王領を再建.Sebastian de Eslava が副王に就任。ボゴタが首都となる.キトのアウディエンシアはヌエバ・グラナダに帰属することとなる。

39年 キトのアウディエンシア議長Jose de Araujo y Rio、密輸に関与していたとして告訴される。

41年11.24 海賊アンソンがパイタの港を襲撃し略奪。

42年 コトパクシ火山の噴火。

43年 エクアドル東部ジャングル地帯への探索(La Condamine)が始まる。

45年 キトのアウディエンシアで初のクリオージョ議長が誕生する。相続税の削減、聖職者への土地集中を抑える施策などをもとめる。

47年 政府、「Aguardiente」の専売制度を強行。「Aguardiente」は現地で作られる火酒で、ラム酒などと同じようにサトウキビのアルコールを蒸留させたもの。

55年 本国政府、キートからEsmeraldasへの道を完成させることを禁止する。

56年 資産の相続税が3%に減額される。

57年 本国政府の国勢調査。キトの人口は約1万人とされる。(10万ではないか?)

59年 キトの町を疫病が襲い、数千の死者を出す。

62年 グアヤキル、Corregimiento から Gobernacion に昇格する。知事が置かれ、副王の直轄となる。グアヤキル地区の人口は約72千人とされる。

1764年

3.07 (エ)リオバンバの先住民が,ミタの軽減と土地の分与を求め反乱.Forasteros の反乱と呼ばれる。

11月 ブルボン王室による税制改革が,エクアドルでも実施される.アグアディエンテの専売制が強化され、カカオなど輸出品の税関での課税も強化される。

1765年 バリオソ

5.07 キトーで新税に反対する大衆蜂起(バリオの反乱).「Estancos」(政府酒店)と税関が焼き討ちされる。

バリオソ: アグアルディエンテ(地酒の製造業者)と零細商人が暴動。これにキトの市民が合流。クリオージョのほかメスティソ,チョロも行動に加わる.

5月 反乱が拡大。住民はアウディエンシアを占拠,ベガ・フロリーダ伯をアウディエンシアの王として推戴.

5月 これに引き続き,Latacungaとリオバンバで反ミタ・白人追放を叫ぶ先住民反乱が広がる.

6月末 ファン・アントニオ・セラヤ総督の率いる軍が反乱を鎮圧。未婚男子のアウディエンシアへの参加を禁止.

66年 Molleambato 地方のSalcedo先住民が、租税徴収に抗議して反乱。

67年8.20 王室、新大陸のイエズス会を放逐し、その財産を没収。土地は競売にかけられ、地主階級の懐を潤す。しかし有能な経営者を失ったエクアドルは、その後深刻な経済停滞に陥る。

68.4.25 サン・イルデフォンソのオブラヘで、貢納労働に従事していた先住民が、労働強化に抗議して反乱。監督を殺害する。出身部族の垣根を越えて団結したことから、共同反乱(Conciertos)と呼ばれる。

70年 パタテで先住民の蜂起。

1771年

4.16 (エ)ティリプロとラ・カレラのオブラヘで働く農民が人頭税(番号制度)に抗議して反乱.

4月 ラタクンガのコレヒドール部隊は農民8人を虐殺し、闘いを鎮圧.

73年 火酒に続いてタバコも専売制が導入される。

76年 王勅により、白人と有色人種の通婚を禁止する。

1777年

11.09 国勢調査に反対する先住民の反乱が発生。(住民は国勢調査が彼らの子供を奴隷にし国外に売り払うためのものと考えていた)

11月 反乱はTabacundo, Cotacachi, Caranqui、 Atuntaqui などキトのアウディエンシアの北部全体に拡大。この反乱で白人+メスティソに16人の死者。先住民側も48人の死者。

77年 アウディエンシア議長のポストが廃止され、総督が摂政として司法・行政もつかさどることとなる。

77年 サンイルデフォンソ条約。エクアドル領アマゾンの一部がポルトガルに割譲される。

78.9.01 グアノでメスティソと先住民が反乱。国勢調査を人頭税導入の手続きと考えた。

79 スペイン,米西同盟にもとづき対英参戦.カリブ海岸の防衛のため戦費調達が必要となり植民地に増税を命ずる.

1780年

1.09 Pelileo でメスティソの反乱。Pillaro と Quisapinchaで先住民の反乱。「アルカバラス」の増額に抗議する。

2月 アンバト市近郊キサピンチャで重税に抗議するインディオの暴動発生.各地に波及する勢いとなり,増税は撤回される.

84年 Juan Joseph de Villalengua y Marfil アウディエンシア議長、世俗の大学Universidad de Santo Tomas de Aquinoを創立。

85年 キトではしかなどの疫病が流行。数千人が死亡する。

85年 キトのアウディエンシアの聴聞官エウヒニオ・エスペホ、痘瘡の対策に関する論文を本国の医学会に提出。同僚医師やイエズス会僧侶の痘瘡への対応を厳しく批判する。

エスペホ(Francisco Javier Eugenio de Santa Cruz y Espejo): 1847年生まれ。父はケチュア族先住民。母はキトのムラータという説と白人説がある。20歳で医学と法学の学位を取得。30歳を過ぎてから文筆家としても頭角を現す。

87.8 リオバンバのイエズス会聖職者の訴えを受けたキト聴聞院、エスペホを逮捕する。ボゴタに送られたエスペホは獄中でコロンビアの独立運動家アントニオ・ナリーニョらと交わり啓蒙主義の影響を受ける。

89年 エスペホの高弟Juan Pio Montufar、ボゴタでエスペホと会談。Escuela de la Concordiaの創設に乗り出す。のちに「キト祖国の友・愛国協会」(Sociedad Patriótica de Amigos del País de Quito)と改称。

89年12月 エスペホ、いったん釈放され、ボゴタからキトに戻る。

90年 エスペホ、「愛国協会」の活動を強化。イエズス会の蔵書を元に公立図書館を創設し館長となる。

90年 エクアドルの織物生産は100年間で50ないし75%にまで低下。スペイン人支配者は牧場や宝石を売り払い、無一文となる。

90年 Guamoteの先住民、「Diezmo」の徴収に反抗する。

91年 リタ(Lita)でミタに反対する先住民の反乱。

92年1.05 愛国協会、最初の新聞「Primicias de la Cultura de Quito」を発刊。エスペホが主筆となりスペインからの分離と共和制民主主義の政治システムを主張、自由主義の思想を広める。

92年 ココアのメキシコへの輸出が解禁される。

93年11.11 カルロス4世、愛国協会の解散を命令。まもなくエスペホも逮捕される。

93年 ボゴタ副王、Esmeraldas, Tumaco and La Tola地方の管轄権をポパヤンに移す。

95年12.28 エスペホ、病気のため釈放されるがまもなく死亡。3人の高弟-Juan Pio Montufar, Juan de Dios Morales、 Juan de Salinas が遺志を継ぐ。

97年 リオバンバで大地震が発生。リオバンバで6,306人、アンバトで5,908人、ラタクンガその他で2千人が死亡。リオバンバはタピ高原に移動して再建される。

 

1800

02年 勅令によりエクアドル東部のQuijos and Mainas州がペルー領に移管.

02年 ドイツ人科学者アレスサンダー・フォン・フンボルト、エクアドルを訪れ、チンボラソ山に登頂。フンボルト海流の名を残す。

1803年

2.27 チンボラソ山麓のコルンベとグアモテ(Columbe、Guamote)で10分の1税(diezmos)に反対する先住民の反乱。

7.07 グアヤキル,王勅によりペルー副王領に移管.グアヤキル市民はこの措置に反発.エクアドルへの復帰運動を進める.

07年9.09 本国政府、グアヤキル帰属問題に結論。ペルー副王が軍事以外の統治機能に干渉することを禁止する。

1808年

7月 ジョセフ・ボナパルトがスペイン王に即位。これに反対する市民はカディス議会を組織して対抗。キトのクリオージョ指導層も議会に従う。

12.25 フアン・ピオ・モントゥファルをはじめとする市会のクリオージョ有力者が集まり、「フランスのカイライ政権を認めず,フェルナンド7世を唯一の支配者とする」独立宣言を起草.

「チリョ・コンパニャ」会議: モントゥファルはアウディエンシア 議長も務めた由緒ある家系で、Marquis de Selva Alegre の爵位を持つ。自らも聴訴官の官位を持つクリオージョ屈指の大物。会談はモントゥファルの所有するキト近郊チリョ・コンパニャ農場で行われた。出席者はモ ントゥファルのほかJuan de Dios Morales, Manuel Rodriguez de Quiroga, Juan de Salinas y Zenitagoya, Miguel Riofrio and Nicolas de la Pena Maldonadoら。
会議はさらにフランス支配下のスペイン当局を転覆する計画も立てた。この陰謀はたちまち発覚・挫折したが、フェルディナント7世への忠誠心を訴えたため、そのまま釈放される。

 

1809年  キトの独立運動

8.09 蜂起のための最終会議が持たれる。愛国派の女性マヌエラ・カニサレスの邸宅が会場となる。

主役の交代: Juan de Salinas 大佐はモントゥファル家から提供された資金でスペイン兵士の支援を取り付けた。
モントゥファルが議長となったという説もあるが、最終盤になって脱落。修道士の前にひざを屈し、陰謀への参加を泣きながら後悔したというまことしやかな説もある。息子のペドロ・モントゥファルは反乱集団にとどまる。

8.10 反乱が成功。Ruiz de Castilla 総督は職を追われる。「正統的君主擁立のための評議会」が結成され、フェルディナントの名において独立を宣言.

ルス・デ・アメリカ: エクアドルでは、これがラテンアメリカで一 番早い独立宣言だったとし、「ルス・デ・アメリカ」と呼び、国家の祭日となっている。しかしそれはエクアドルにおいて王室への忠誠度が最も強かったからで あり、取り残された国エクアドルの封建性の表われであった。パスト、グアヤキル、クエンカの各都市はこの新政府も独立も認めなかった。

8.10 キトのクリオージョ有力者は最高評議会を結成。ファン・サリナス大佐の指揮下に25個中隊からなる「ファランヘ・デ・キート」が編成される。

最高評議会(Junta Suprema): Marquis de Selva Alegre, Marquis de Orellana, Marquis de Solanda and Manuel Matheu, Pedro Montufar, Juan de Dios Morales (Colombian) and Manuel Rodriguez de Quiroga (Bolivian)
と爵位保持者が3人もいる旦那集団。

8月 ボゴタとピウラから王室軍が派遣され、キトを包囲。キトの独立派は民衆の支持を得ることなく孤立。

8月 グアヤキルはペルー副王への服従を誓う。北部のパスト州はスペイン本国への帰属を継続する声明。

9.03 最高評議会、恩赦を条件にルイス・デ・カスティヤ総督に権力を戻す。カスティヤは報復行為は行わないと約束。

9月 最高評議会,スペイン軍に無血降伏.有力者は恩赦を受けるが下級兵士や活動家は厳しく罪を問われる。

9月 キト市民はこれに抗議して蜂起。刑務所と兵営を占拠。王室軍はこれに徹底的な弾圧を加える。逃亡に成功した指導者はあらたに「主権的評議会」を結成。(これは寿里の記載だが、おそらく翌年8月のキト蜂起を指していると思われる)

12.04 有力者に対する恩赦が取り消され、あらためて逮捕・投獄される。当局は首謀者40人と、反乱に参加した兵士32人に死刑を求める。

09年 この年、キト市の人口は約1万人とされる。

1810年

7月 キトでの裁判が終わり、ボゴタ副王の裁決を待つ。キトの愛国者は死刑囚を救出するための武装グループを組織する。

8.02 武装グループがエル・カルメン・バホの刑務所を襲撃し、大多数の兵士を解放する。

8.02 反乱首謀者が収監された兵営を襲撃したグループは撃退される。この戦闘で200人以上が死亡。

8.02 戦闘のあいだに、収監中のSalinas, Morales, Riofrio, Arenas, Larrea, Aguilera, Oleas, Villalobos, Cajias, Melo, Pena, Ascazubi ら20人の指導者が軍の手により殺害される。

8.10 (エ)スペイン軍,反乱の首謀者を処刑.これに怒ったキト市民は蜂起し、数日間におよぶ市街戦の末市内を制圧.

8月 アウディエンシア当局との和平が成立.アウディエンシア長官を名目的トップとして承認し,実権をクリオージョの評議会が握る臨時政府を樹立.フェルナンド支持の立場を明らかにする.2年にわたり独立を維持.以後各地に続々と自治の動き.

9.09 「スペイン中央評議会の地区使節」(Comisionado Regio de la Junta Central de Espana)としてカルロス・モントゥファルがキトに入る。(3人目のモントゥファル!)

9.19 第二次最高評議会が成立.議長にルイス・デ・カスティーリャ伯爵が就任.本国の摂政評議会への参加を決議。カスティージャは青年時代にトゥパク・アマルーを処刑した分隊を指揮していた。

10.08 ルイス・デ・カスティーリャ,サンタフェ・デ・ボゴタからの分離を宣言.その後カスティーリャは独立志向を強める。

10.10 フンタ内の独立派が反対派を押し切り、「主権的評議会」を召集し、ボナパルト政権からの独立を図る.

10.10 ボナパルト政権を支持するペルー副王Jose Fernando de Abascal y Souza、エクアドルに干渉。ボゴタ副王を無視した措置にキトは抗議。

10月 アバスカル副王、グアヤキルの知事職(Gobernacion de Guayaquil)をリマのアウディエンシアの下に置く。モリーナ(Joaquin Molina y Zuleta)が摂政評議会の指名によりグアヤキルの長官となる。キトはこれを認めず.

10月 モリーナはグアヤキルにエクアドル各地の代表を集め、ペルーへの忠誠を誓させる。クエンカは王党派の拠点となり、キトの王党派もクエンカに結集。

11月 キトの主権的評議会が独立を宣言。フェルディナンドが王位に復帰すればそれに従うことも確認する。

 

1811年

1月 カルロス・モントゥファルの率いるキト軍,グアランダ(Guaranda)の闘いでアレドンド大佐の率いる王党軍を撃破する.

2.20 ペドロ・モントゥファルの率いるキト軍、カナル県パレドネス(Paredones)で王党派軍を破る。

2月 キトの主権評議会、憲法を採択し独立を確認。

3月 ペドロ・モントゥファルの率いるキト軍、パスト知事ミゲル・タコンの率いる王党派軍と対決。Cuaspud, Sapuyes, El Chupadero and El Guaytara で相次いで撃破する。

4月 ルイス・デ・カスティーリャに代わり、Jose Cuero y Caicedo司教が最高評議会議長に就任。

12.04 カルロス・モントゥファルを先頭とする独立派がアウディエンシアの反対を押し切り,キトで制憲議会開設.フェルナンドの統治再開を求めるが、フェルナンド復位後もスペイン支配下には戻らないとする。

12.11 キトの制憲議会、摂政委員会からの脱退と管轄地域全土の「キト国」(Estado de Quito)としての独立を宣言する.臨時政府は「主権的評議会」と呼ばれ、首班にはカルロス・モントゥファルが就任。

1810年8月から1812年12月までの記載は前後錯綜している。いずれ決定版を確定したいと思う。

 

1812年

2.15 (エ)制憲議会,憲法に準じるものとして「キト国の構成諸州間の交流と結合に関する正式協約条項」を公布。三権分立を基本とする民主的統治機構を規定する.フェルナンドを正統な国王として擁立し、形式的には立憲君主制を採る。

?月 本国の摂政評議会、トリビオ・モンテスをキトのアウディエンシア議長に任命。

?月 前知事Ruiz de Castilla、キト市内で虐殺され、死体は街路を引きずられる。前民政官Fuertes y Amar は裁判なしで吊るし首にされる。

?月 チカの率いるキト軍、モチャの戦いで王党派軍に敗れる。

11月 トリビオ・モンテスが率いる王党派軍がグアヤキルからキトに向かい進攻開始。キト軍は,王党派軍のまえに次々と敗退

12.02 キト軍、サン・アントニオ・デ・イバーラの決戦で最終的に崩壊.王党派軍がキトを制圧する.カディス議会はスペインの全面支配を柱とする政治憲章を承認する。

1813年

13年 ナポレオンの支配が崩壊。フェルディナンドが復位。アウディエンシアは本国政府への忠誠を誓う。

15年 グアヤキル政庁(Gobernacion de Guayaquil)、本国政府に対しペルー副王領からの分離とヌエバ・グラナダの副王領への復帰を要請。

 1816年

2.08 英国人ギジェルモ・ブラウン、アルゼンチン独立派の支援を受けグアヤキルに入港。スペイン支配への反乱を促す。

17年 トリビオ・モンテスが中心となり、アウディエンシアの再編。ファン・ラミレス・デ・オロスコが議長に就任。Juan Pio Montufar, Manuel Matheu and Guillermo Valdivieso らはカディスに送られ収監される。

18年 初期独立運動の指導者フアン・ピオ・モントゥファル,カディスの監獄で獄死.

1819年

6.23 グアヤキル,住民の希望によりふたたびキトのアウディエンシアに帰属することとなる.

8.09 ボリーバル、ボヤカの戦いで王党軍を破り、ボゴタに入る。ヌエバ・グラナダ副王Juan Samanoは逃亡。

12.17 ボリーバル、コロンビア共和国の創設を宣言。

19年 コクランの率いるチリのコルベット艦「アンデスのバラ」号が、グアヤキル港を封鎖。スペイン船籍の入港を阻む。

1820年

8.05 (エ)エスメラルダ地方が,スペインからの独立を宣言.王党軍はリマに撤退。

8月 ホセ・デ・サンマルティンの船団がチリからペルー国内に進撃。海上からリマを封鎖。

9月 ベネズエラ人将校 Miguel de Letamendi, Luis Urdaneta、 Leon de Febres Cordero グアヤキルでJose de Antepara と Jose de Villamil Joly らの反乱計画に加わる。

レオン・デ・フェブレス(Captain Leon de Febres Cordero y Oberto): ベネズエラ出身の王党軍将校。"Numancia"大隊に属していたが、自由主義思想を理由に軍から放逐された。その後二人の仲間(Captains Luis de Urdaneta y Faria and Miguel de Letamendi)をともないグアヤキル経由で帰国の途中だった。

10.01 オルメドらグアヤキル独立派が決起を決定。"Guayaquil por la Patria"のスローガンを掲げる。

ホセ・ホアキン・デ・オルメド(Jose Joaquin de Olmedo y Maruri): スペイン総督Don Miguel de Olmedo y Troyanoの息子。カディス議会のグアヤキル代表をつとめた。
オルメドは思想家・詩人でもあった。独立運動の戦士をインカ帝国の正統な後継者 として讃える愛国詩、「フニンの勝利」(La victoria de Junin)や、「10月9日の歌」(後にグアヤキル賛歌と呼ばれる)を作ったことでも有名。グアヤキル国際空港には彼の名が冠せられている。

10.09 グアヤキルで,独立派と軍の一部による独立をめざす反乱成功.反乱に加わったDamian Najera大尉が砲兵部隊司令官 Manuel Torrez Valdiviaを逮捕。Febres Corderoの率いる反乱部隊に武器を引き渡す。同時にウルダネータ大尉、Lorenzo de Garaicoaらの率いる反乱部隊がダウレの要塞を占拠。さらに港に停泊する7隻のガンボートを襲撃し水夫350人を捕獲する。

10.10 近接する Portoviejo、Machala でも、ペルー軍の駐屯部隊を駆逐することに成功.ボリーバルとサンマルチンの保護下による独立 (Provincia independiente)を宣言.市民評議会(Junta Gubernativa)の議長(Jefe Civil)にはオルメドが就任.

10.15 ペルー攻撃中のサンマルチンは、ギドとルスリアガの2人をグアヤキルに送り,同盟関係の締結を試みる.Jose de Villamilの率いる一隊が呼びかけに応え、スクーナーAlcance号に乗船し、南方に向かう。

10.23 Daule, Babahoyo, Zamborondon, Baba, Jipijapa, Naranjal, Portoviejo and Montrecristi などグアヤス地方の町が相次いで独立を宣言。

11.03 (エ)グアヤキルに続き、クエンカもスペインからの独立を宣言。Jose Maria Vasquez de Noboa をヘフェ・シビルに指名。第一次独立とは逆にキトが王党派の牙城となる.

11.09 (エ)レオン・デ・フェブレスの率いる独立軍,キトへと続く「カミノ・レアル」(王の道)を進み、グアランディアの闘いで王党派に勝利.

11.18 グアヤキルで憲法が制定され、「恒久的最高評議会」を選出。

11.19 Machachi, Latacunga, Riobamba, Ambato, Alausi, Loja, Tulcan and Guaranda が独立派に加わる。

11.20 ウルダネータの軍はTungurahuaからの500人を含め1,800名に達するが、ライフルが600丁という貧弱な装備で、ほとんどは棒か石か徒手であった。

11.22 (エ)トゥングラウア近郊ウアチ(Huachi)の闘い.ルイス・ウルタネーダの率いる独立軍はフランシスコ・ゴンサレスの率いる王党派軍に大敗.戦場には800の死体が遺棄される。

11月 王党軍、反乱軍を追討。Francisco Tamariz はティサレオの人々の半分を虐殺した。Pillaro、Chacata では女性がみなレイプされた。

11.28 (エ)劣勢に追い込まれたグアヤキル,ボリーバルを最高指導者と認め,グランコロンビア共和国への加入を決議.

12.20 マリア・バスケス・デ・ノボアの率いるクエンカの独立軍,アスアイ(Azuay)近郊ベルデロマ(Verdeloma)の闘いでゴンサレス軍に敗れる.クエンカを占領したゴンサレスは,独立派28人を見せしめとして公開処刑.

1821年

1.03 グアランダ近郊タニサグア(Tanizagua)の闘い.サンマルティン軍から派遣されたバルタサル(Jose Baltazar Garcia y Zaldua)の部隊が,Friar Francisco Xavier Benavides の率いる王党軍の待ち伏せ攻撃を受ける.この闘いで独立派兵士410人が戦死.バルタサルの首はキトの町で晒しものにされる.

1月 同じくサンマルチン軍のルスリアガが,グアヤキル軍の司令官に任命される. ボリーバルは陸軍大臣となったスクレを海路派遣する.

1月 ボリーバル軍のホセ・ミレス将軍、武器・弾薬をグアヤキルにもたらす。

5.15 コロンビア共和国の陸軍大臣となったスクレ,1千(一説に700)の兵とともに海路グアヤキルに着任.ルスリアガにかわり現地軍司令官となる.

6 キト軍司令官アイメリチ,グアヤキルを攻撃.スクレはこれを撃破し、さらにアムバト(Ambato)まで追撃するが,キトから迎撃に出たゴンサレス軍に惨敗,死者3百,捕虜640人を出しグアヤキルに退却.

8.19 (エ)ホセ・ミレスの率いる独立軍,ジャグアチ(Yaguachi)の闘いでゴンサレス軍を撃破.ゴンサレスは200の兵を失い、自らも捕虜となる。この後王党軍の指揮をアイメリッチ総督が直接がとる。

8 ククタで大コロンビア憲法制定議会が召集される.新共和国憲法を起草.三権分立の下に強力な中央集権政府の設置を憲法に定める.

11.12 スクレの部隊,ウアチの砂浜の闘いでアイメリッチの騎兵部隊に敗れる.スクレは800の兵を失う惨敗。グアヤキル独立運動の先駆者Jose de Antepara も犠牲となる。ミレスは王党派の捕虜となる.

11.23 キトの新総督となったJuan de la Cruz Murgeon将軍が、800名の兵を引き連れ、Atacamesに到着する。

11.24 スクレ、軍の再建のため、スペイン軍とのあいだに90日の休戦協定を結ぶ。

11 スクレ,サンマルチンに独立戦争での協力を申入れ.サンマルチンはトルヒーヨ管区司令官となったアレナレスに出動を指示.アレナレス は病気を理由にアンドレス・デ・サンタクルス・カラウマナに委ねる.サンタクルスはスペイン人を父に,インディオを母にもつ混血の軍人.

12月 サンマルティン、リマを占領。Loja, Cuenca and Guayaquil への進撃準備を開始する。

 

1822年 エクアドルの解放

1.18 (エ)スクレ,部隊を再編成しグアヤキルを出発.クエンカに向けて進軍。いったん南部の山岳地帯に入り、そこから北上を目指す作戦で臨む。

1.22 (エ)サンマルチンの派遣したサンタクルス将軍(Andres de Santa Cruz y Lavayen)指揮下の1062名が,ロハ北方のサラグロ(Saraguro)でスクレ軍に合流.クエンカに向かい北上。

2.21 (エ)Tolra将軍の指揮するクエンカの王党派軍,戦わずしてスクレ軍に降伏.

4.07 (エ)ボリーバル,コロンビアからエクアドルに進出.スクレとともに,キト軍の挟撃をはかる.ボンボーナのたたかい.王党派を寝返ったホセ・マリア・オバンド将軍の情報をもとにたたかうが,千8百名以上の死傷者を出し敗退.

4.08 Juan de la Cruz Murgeon がキトで死亡。Melchor de Aymerich がアウディエンシア議長を兼任する。

4.21 タピで両軍が衝突。アルゼンチン騎兵隊が王党派軍を撃破。

4.22 スクレはリオバンバに入る。部隊は三千人に増える。王党軍はキト方面に敗走.

「解放者」: シエラの町は、宿泊所を提供することを強制された。ロシア人やスコットランド人をふくむ兵士は「税」を課して、金品を強奪し家畜を盗んだ。コロンビアやベネズエラの黒人兵士は美女を誘拐し慰み物にした。

5.18 (エ)ミレス将軍,ロシータ・モントゥファルの助けを借り、キトからの脱獄に成功。スクレ軍に合流する.

5.24 (エ)スクレ軍3千名とアイメリッチ指揮下の王党派2千名が,キト西方ピチンチャ火山の山麓で決戦.スクレ軍の勝利に終わる.王党派400人,独立派200人が戦死.

当初闘いは均衡していたが、最後に投入したAlbion、 Magdalena大隊が、本国人からなる精鋭のアラゴン大隊を撃破して決着がつく。

5.25 (エ)ボリーバル軍,キトの包囲体制にはいる.アイメリッチ将軍,キトで降伏の意を表明.

6.16 (エ)ボリーバル,キトに入城.エクアドル,グランコロンビアに併合.キトをふくむ高地地帯をエクアドル州(Departamento del Ecuador)とし、スクレを州知事(Intendente)とする。

6.24 シモン・ボリーバルの立会いの下で、コロンビアの憲法に調印。その後も長期にわたり,グアヤキルの自由派と,キトの保守派+教会勢力とのあいだに抗争続く.

7.11 (エ)ボリーバル,サンマルチンに先行してグアヤキルに到着,同市をコロンビア共和国に併合すると宣言.グアヤキルの評議会はボリーバルを司令官として承認する。

一説には7月20日にボリーバルがキトに入城とあるが、これでは27日のサンマルチンとのグアヤキル会談が間に合わない。

7.17 (エ)エクアドル民兵軍,キトからさらに北方へ進出。イバーラの闘いで王党派を撃破.両軍併せ800の死者を出す激戦.

7.26 (エ)サンマルチン,グアヤキルに到着.

7.27 (エ)ボリーバル,グアヤキルでサンマルチンと会見.サンマルチンはペルーにヨーロッパから皇帝を迎え入れる案を提示するがボリーバルは共和制を主張して譲らず.

一説ではもう少し生臭い。リマ支配層の求めを受けたサンマルチンは、グアヤキルのペルー帰属を求めるが、ボリーバルはこれを拒否。グアヤキルとキトの代表が協議し、キトを引き続き首都とする単一国家の維持で合意。グランコロンビア内の南部州となる。

7.28 サンマルチン,ペルーの統治をボリーバルに委ねると通告.以後の解放闘争は,ボリーバルが指導することで合意.

7.31 (エ)ボリーバル,グアヤキルをグラン・コロンビアに併合.グアヤキルをふくむグアヤス地方と、エスメラルダをふくむマナビ地方を併せグアヤキル州とし,バルトロメ・サロム将軍を知事に任命.

8月 ハエン(Jaen)地方がグラン・コロンビアに加わる。ペルーはボリーバルに抗議する。

1823年

4月 グアヤキル州知事のバルトロメ・サロム将軍、Ecuador, Guayaquil and Azuay を一括した「南部地区」(Distrito del Sur)の「軍民統領」(Jefe Civil y Militar)となる。

4.12 サロム将軍の強制的徴兵は、キトの反乱を引き起こす。サントドミンゴ広場での衝突は36人の死者を生む。

7.17 イバラ(Ibarra)のたたかい。ボリーバルに率いられたエクアドル民兵隊が、Agustin Agualongo の率いる王党派(Pastusos)を破る。両者あわせて800人の死者を出す。

7月 ボリーバル、Juan Jose Flores をパストの、Antonio Lemus をキホス地方の軍民司令官に指名。

8.08 ボリーバル,グアヤキルから船でカリャオに向かう.数千の「エクアドル人」がペルー解放の戦いに送り込まれる。

8月 スクレ、エクアドル州知事を辞しペルーの王党派との戦いに参加。後任にはVicente Aguirre が就任。

9 ボリーバル,副王軍を撃破しリマを解放.

1824年

1.12 ボリーバル、綱紀粛正に乗り出す。公的な基金から10ペソ以上を盗んだものは死刑に処すと宣言。

5.25 エクアドル領内の王党派軍が復活を狙うが、Gualaceoで壊滅。

7.25 「グラン・コロンビアの行政区分に関する法律」が制定される。エクアドルは三つの州からなる「南部地方」としてまとめられる。

南部地方(Distrito del Sur): 1.エクアドル州: キト県、インバブラ県、チンボラソ県  2.アスアイ州: ロハ県、クエンカ県、マイナ県、ハエン県  3.グアヤキル州: グアヤキル県、マナビ県

7月 南部地方の最高統領(Jefe Superior)にPedro Murgueytio将軍、エクアドル州の総司令官にJuan Jose Flores がそれぞれ指名される。

8.06 フニンのたたかい。ボリーバル軍が王党派軍を撃破する。ボリーバルは軍の総指揮をスクレにゆだねボゴタに戻る。

12.08 アヤクーチョのたたかい。スクレ軍がカンテラック将軍率いる副王軍を殲滅。副王ラ・セルナは囚われの身となる。

1825年 「南部地方」の総人口が526,000人に達する。グアヤキルの人口は16,139人にとどまる。

1826年

8.28 キート、グアヤキル、クエンカの三州、シモン・ボリーバルの独裁を中核とする憲法を受け入れる。

26年 ベネズエラに帰還途中の「アラウエ」部隊が、キトで給与の未払いを訴え反乱。ファン・ホセ・フロレスにより鎮圧される。

 

1827年

3.16 ボリーバルとサンタンデル,関係決裂.サンタンデルは副大統領を辞任.

3 リマ駐留のコロンビア第三補充師団(Tercera Division Auxiliar Colombiana)がサンタンデルを支持して反乱.海路エクアドルに向かう。首謀者はJuan Francisco and Antonio Elizalde。

3月 第三師団、グアヤキルに入りボリーバル派の評議会を解散。反ボリーバル評議会を設立.ラマル将軍を「グアヤキル州軍民統領」、Diego Noboa を州知事に推挙する。

ラマル(Jose de LaMar y Cortazar): クエンカ出身で、アヤクーチョの戦いの英雄。当時はペルーの大統領を務めていた。彼の野望はエクアドル南部とグアヤキルを奪い、ペルー領に編入することであった。

9.22 マヌエル・レオンの率いるボリーバル軍Vencedores大隊,グアヤキルを奪還し,秩序を回復.

1828年

3.03 ボリーバル、ペルーに対しエクアドル南部ハエン地方の返還を要求する。

5月 オカナで制憲議会。ボリーバルは「王ではないが終身大統領でありたい」とし、上院議員の世襲制を提案するが否決される

6.11 ボリーバル、オカナの自派代議員に退席を指示。これによりオカナの議会は解散する。

7.05 ペルー,トゥンベスからパナマに至る海岸線を封鎖.ボリーバルと対決.ボリーバルはペルーに宣戦布告.

7.13 シモン・ボリーバル、みずから終身大統領を宣言。

9.23 ホルヘ・ギセ提督の率いるペルー艦隊,グアヤキルを砲撃.オリアリー大佐の指揮下の港駐屯軍がこれを撃退する。

9.25 ボリーバル暗殺未遂事件が発生。愛人Quitena Manuela Saenz をふくむ共謀者が処刑される。サンタンデルは死刑を免れ国外追放となる。

11 ペルー人のオバンド将軍,カウカで反乱開始.ペルー在住のラ・マル将軍に共闘をよびかける.

11月 ラ・マル将軍,グランコロンビアへの攻撃を開始.ペルー軍8千がエクアドル領ロハを占拠.

1829年

1.19 ホセ・ボテリン司令官の率いるペルー軍がグアヤキルを攻撃。Juan Illingworth知事はペルー軍に降伏。評議会幹部は市当局幹部は市外に逃れる。

1月 ボリーバルはフロレス司令官のエクアドル駐屯部隊に加えスクレ軍4千をグアヤキルに派遣.

2.10 ロハに続きクエンカが,ペルー軍により占領される.クエンカはラマルの出身地であり、一族郎党がラマルの下に結集する。

2.27 クエンカ南方タルキ渓谷(Tarqui)のたたかい。スクレ元帥とフローレス将軍の率いる4千人のコロンビア軍がラマルとアグスティン・ガマラ将軍の率いる8千のペルー軍を、苦戦の末に撃破。

ライフル銃の威力: コロンビア軍が2倍の兵力を持つペルー軍に勝利した要因はライフル銃の導入にあった。コロンビア側の死者が154人、負傷者206人であったのに対し、ペルー側は死傷者・捕虜あわせて2,500人を失う。

2.28 スクレ,クエンカを奪回。戦死者は合せて千五百名を越える.

2.28 スクレとラ・マル将軍とのあいだにヒロン条約(Convenio del Giron)が調印される.ペルーとエクアドルの境界線は副王領時代の境界で確定.多大の犠牲を出し、代償を獲得できなかったスクレは、すべての公職から の引退を申し出る.ラ・マルは条約を無視してグアヤキル進駐を続ける.

7.10 ピウラ協定(Armisticio De Piura)が調印される。グアヤキルのグラン・コロンビアへの復帰が定められる。

7.21 ボリーバルみずからのひきいるコロンビア軍,苦戦の末グアヤキルを奪還.

9.22 グアヤキル条約(Tratado de Guayaquil)が調印される。ヒロン合意を再確認し戦争を終結させることで合意。

29年 ホセ・パエス、ベネズエラのグランコロンビアからの脱退を通告。

 

1830年

1.20 ボゴタで制憲議会(賞賛議会)開催。ボリーバルが召集し、スクレが議長を務めた。

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エクアドルの行政区分

 

3.01 ボリーバル、大統領を辞任。政府評議会議長のホセ・ドミンゴ・カイセドに政権をゆだねる。

3月 新憲法が制定される。大統領候補は40歳以上でなければならないとされ、35歳のアントニオ・ホセ・デ・スクレは排除される。

3 重税に苦しむキト州,「国づくりを考える会」を復活させる。全地方共通の理念と利益のもとに、コロンビアから独立する話し合いの場「キト市の組合と家族の会」が結成される。

4.18 ベネズエラが、グラン・コロンビアから離脱する。

5.04 ホアキン・モスケーラがグランコロンビア大統領に選出される.任期は8年。副大統領にはボリーバルの腹心ドミンゴ・カイセード.

5.05 パストが「南部州」に加わる。

5.13 ボリーバル派が多数を占めるキト議会,モスケーラの大統領就任に反発しグランコロンビア連邦より脱退の意思を表明.ボリーバルの大コロンビア共和国は事実上崩壊する.

5.13 スクレ、ボゴタを発ちキトに向かう。

5.15 キト議会,グラン・コロンビアからの分離・独立を宣言.スクレを大統領に選出.当面の政治・軍事指導者(Jefe de la Administracion del Estado)には同じベネズエラ出身の軍人フアン・ホセ・フローレスが就任。

「独立」の背景: 英国は分離を財政支援.いっぽうペルーは条約締結国であった大コロンビア共和国が消失したことを理由に,1年前の国境議定書を無効と宣言.

5.19 グアヤキル県、コロンビアからの離脱とキトへの合流を決定。翌日にはクエンカ県も同様の決定。

6.04 スクレ,エクアドル初代大統領として赴任の途中,待ち伏せされ,暗殺される.暗殺の場所は国境地帯の山間部の町ベルエーコスで、 現在はコロンビア南部に属す。一説ではグランコロンビア憲法制定会議の議長として執務中,休暇をとりキトの自邸に帰る途中だったとされる.

寿里によれば、ホセ・スクレ暗殺はフロレス陰謀説が濃厚とのこと。しかし学説の主流はホセ・マリーア・オバンド将軍の命令としている。

8.10 リオバンバでエクアドル制憲会議が開かれる。共和国として独立宣言.大コロンビア共和国崩壊当時の領土は現在の4倍だった.

この年も情報が錯綜して、前後関係が分かりません。おそらく憲法制定会議は、あいだでスクレが殺されたり、グアヤキルやクエンカとキトのすりあわせが必要だったりして、かなりのマラソン会議であったろうと思います。
制憲会議は国名をエクアドルとすることで合意します。キトの人々は当初キトを国名にしようとしたが,グアヤキル側の強硬な反対にあいました。エクアドルの国名は,独立の数年前にフランス・スペイン合同科学遠征隊がやって来て,この国に赤道を引いたことに由来しています.

8.14 キト議会、亡くなったスクレに代わり、フアン・ホセ・フローレスを暫定大統領に指名する.

フアン・ホセ・フローレス(Juan Jose Flores): ベネズエラのプエルト・カベージョの生まれ。ムラートの下層階級の出身で,ほとんど文盲だった.15歳で入隊し第一共和制のときは王党派軍の一員であったが、のちに独立軍に加わりボリーバルの忠実な部下となった.独立時にはパスト州の長官をつとめていた。

8.20 ブエナベントゥラ県がエクアドルへの参加を決定。

9.05 ボゴタでボリーバルを支持するラファエル・ウルダネータが政権を握る。

9.11 リオバンバ議会、正式にフローレスを大統領に選出。副大統領には1820年のグアヤキル独立運動を率いたオルメドが就任。

9.23 最初のエクアドル憲法が成立。フローレス暫定大統領が、憲法に定められた第一代大統領として就任。

選挙資格: 読み書きできる22歳以上の男性。既婚者は年齢を問わず。300ペソ以上の資産を持つか、医者、弁護士、聖職者などの専門職。被選挙者は少なくとも3万ペソの資産を持つこと。

11.23 コロンビア大統領ラファエル・ウルダネータの弟ルイス、グラン・コロンビアからの分離に反対し、グアヤキルで反乱を起こす。

11月 クエンカ、サンボロンドン、ロハ、キト、イバラの議会はウルダネータ側に回り、フロレスはPintag、Saquisili のみを支配する。

12.17 ボリーバルが死亡。ボリバリストは急速に力を失う。

12.18 フローレス、ポパヤン県を統合。

30年 独立当時のエクアドル軍は3つの歩兵隊大隊そして、1つの騎兵隊連隊から編成された。高級将校のほとんど、騎兵連隊の隊員はベネズエラかコロンビア人だった。

1831年

10.09 最初の通貨法が成立。

10.12 Guallabambaで、コロンビア人とベネズエラ人から成る「バルガス」大隊が、給与未払いに抗議して反乱。祖国に戻るか、パストのオバンド将軍のもとへの帰属を望む。

10月 ファン・オタメンディ将軍(黒人)の率いる追討部隊、Tusa and Tulcanでバルガス大隊を殲滅。捕らえられた433人の半分以上はキトで銃殺される。

31年 カウカはエクアドルに統合される。チョコ、カリ、ブガ、ポパヤン県のイラリオ・ロペス将軍、オバンド将軍はボゴタへの統合を主張。

1832年

2.12 イグナシオ・エルナンデス、ガラパゴスを占領する。囚人を移民として送り込む.

8.12 「フロレス」大隊は、ラタクンガで給与支払いをもとめ反乱。上級将校のほとんどを殺害し、町を略奪した後グアヤキルを迂回して、マナビ方面に向かう。

8月 オタメンディ将軍、バイーアで「フロレス」大隊を攻撃。参加者500名あまりを虐殺する。

9.19 オバンド将軍、ポパヤン・パスト地方の領有を主張し侵入。

12.08 フローレス軍は敗北。パスト条約でCarchi川以北のパスト州を割譲.この戦争で国庫は破綻.グアヤキルを中心とするエリート層に不満が広がる.

32 ペドロ・モンカヨ、ニコラス・アルバンら4人の自由主義派の知識人が「キト自由市民協会」を結成。指導者のフランシス・ホールは英国人で陸軍大佐。ボリーバル軍に加わり、その後キトに残留。

32年 ペルー、マイナス地方の南部を奪い、アマゾナス州の一部とする

1833年

5.12 ペドロ・モンカヨらキトの4人の知識人が、「El Quiteno Libre」誌を発刊.「国民の財産が外国人によって略奪されている」と非難.反教会・反ボリーバルを標榜する。

9.20 グアヤキル出身でピチンチャ県選出の国会議員ビセンテ・ロカフエルテ、ペルー亡命から戻る。グアヤキルの自由党(Restauradores)の支持を受けグアヤス県知事に就任。

ビセンテ・ロカフエルテ(Vicente Rocafuerte): 確かな名前はこれだけ。一説にはVicente Rocafuerte y Ortiz de Cevallos。異説ではJose Vicente Rocafuerte y Rodriguez de Bejarano。グアヤキルの資産家に生まれマドリードに学ぶ。24歳で故国に戻り独立運動に参画。

10.12 フローレス、グアヤキルのウルダネータ派将校の追放をもくろむ。メナ大佐らはこれに抵抗し「チワワ」の反乱を起こす。ロカフエルテを「最高司令官」に指名。

10.19 「自由キト」の4人が、国家転覆の陰謀を企てたとして当局により処刑される。自由派のパトロンとなっていたフランシス・ホールも暗殺される。ただしこのときフローレスはキトを離れていたという.

10.20 ロカフエルテ,フローレスの保守党政権(Convensionales)の打倒と外国人排斥を唱え反乱活動開始.

11月 黒人将軍オタメンディ、Babahoyoと Yaguachiの戦闘でロカフエルテ軍を撃破。“習慣的な獰猛さで”、チワワ部隊の200人、フロレス部隊の50人を虐殺。プーナからグアヤキルまでの海岸線を封鎖する。

11.24 フロレス、サラド経由でグアヤキルに入る。ロカフエルテは停泊中の米艦船に逃げ込む。米艦はロカフエルテの引渡しを拒否。

1834年

6.12 イバラとオタバロ地方、フロレス政権の閣僚Jose Felix Valdiviesoを最高司令官に指名。コロンビアとの連合の再建を図り、フロレスから離反する。

6.18 ロカフエルテ、姦計によりプーナ潜伏中を捕らえられ、フロレスの下に送られる。

7.03 フロレスは、ロカフエルテに恩赦を与え、グアヤキルの「副最高司令官」(Jefatura Suprema)のポストを提供する。

7.13 バルディビエソ派の「再建者」(Restauradores)がキトに入り、バルディビエソをエクアドルの最高司令官にすえる。(実体はコロンビア軍であろう)

8.25 クエンカの評議会、バルディビエソ支持の態度を明らかにする。再建派の支持はクエンカ、ロハをふくむ高地と、マナビとエスメラルダスをふくむ北部海岸地域に拡大する。

9.05 ババオヨ(Babahoyo)、再建派の手に落ちる。

9.10 グアヤキル市議会は、フローレスの支持の下にロカフエルテ・ロドリゲスをグアヤスの最高司令官として擁立。エル・オロ、ロス・リオス地方もロカフエルテ支持に回る。フローレス・ロカフエルテ連合は、「再建」派に対し「総会」派と呼ばれる。

9.10 フロレス、グアヤキルをロカフエルテにゆだね、高地での再建派との戦いに出発。

1835年

1.18 フローレス軍、アンバト近郊ミナリカの戦いで再建派(コロンビア)軍を打ち破る。コロンビア軍は撤退し、国内に平和が戻る。

フローレス軍は1千名の軍勢で、2千名の再建派を壊滅させた。フローレス軍は50名を失ったが、再建派軍の600人を殺害し、400人を捕虜とした。オタメンディ将軍は1人で17人を殺したという。

1.31 ロカフエルテ,キト議会により「最高司令官」に選出される.

6.22 アンバトで第二期制憲会議開催。憲法を改正し、コロンビアとの連合の可能性を断つ。

8.08 ロカフエルテ、エクアドル共和国の大統領となる。多くの改革(特に先住民の保護、経済発展、教育の世俗化)を達成.英国からの圧 力の下,自由貿易主義に転じる.しかしフローレスとの力関係から,「エクアドルの後進性は開明的専制を必要としている」とし,民主主義を否定.

8.13 アンバトの制憲議会、第二憲法を可決。引き続き民法(Ley de Procedimiento Civil)、公職選挙法(Ley de Elecciones)などが制定される。

9.17 ダーウィン、探検船ビーグル号でガラパゴス諸島を探索。

10.03 タマヨ大佐とメンドーサ大佐が降伏。再建派の抵抗は終焉を迎える。

再建派への報復は苛烈であった。まず3日にフルートス・オセス大佐、ブリト中佐な ど20人の政治犯が銃殺された。ついで9日にはアタカメスで2人、パレンケで7人の将校が銃殺された。北部でも4人が銃殺された。翌年にはコロンビア将校 ファクンド・マルドナード・パリが、裁判を受けることなくキトのサントドミンゴ広場で処刑された

37.4.13 議会、独立に際してのコロンビアとベネズエラの援助に対し負債として支払うことを承認。

1838年

3.08 キトに軍事学校が設立される。

3.10 リオバンバで反政府の反乱が発生。

3.17 Hualilahuaの戦い。反乱派は壊滅。

39.2.01 フロレスが二度目の大統領に就任する.ロカフエルテ,大統領の任期を終えグアヤキルに戻り,知事となる.フローレスは約束を守り、出版の自由など民権を尊重したといわれる。

39年 共和国銀行の創立が決定される。最初の劇場が建設され、最初の蒸気船グアヤス号が建造されるなど、経済成長が加速する。

40年2.16 スペイン、エクアドルを国家として承認。

40年 フローレス、コロンビア政府の支持を取り付けパストに遠征。オバンド将軍の軍を破る。

42年 フローレス、コロンビア政府の依頼を受け内政に干渉。反政府派のホセ・マリア・オバンド軍と戦う。エクアドル軍は連敗し、オバンド軍がエクアドル領内に攻め込む。(40年の記事と同一の出来事か?、だいぶニュアンスが異なるが…)

42年 グアヤキルで黄熱病が流行。3千人以上が死亡。

42年末 フローレス,不正選挙により大統領に居座る。さらに制憲議会を召集し、35年憲法の破棄と大統領居座りを容認する新憲法を押し付ける。

奴隷憲章(Carta de la esclavitud): 大統領任期を8年とし,無制限に再選可能とする。合法的な政権交代を阻まれたロカフエルテらの野党は,新憲法を国民を縛りつける「奴隷憲章」と呼ぶ.

1843年

4.01 キトで制憲議会開催。第三次憲法を制定。大統領の任期を8年に延長する。議員のほとんどは政府官僚で、9人の外国人将校も含まれていた。

4.01 フローレスが大統領に就任。これに抗議するロカフエルテはペルーに逃れる.リマに亡命中のロカフエルテは,「半島出身の白い抑圧者は,それに代わった黒い野蛮人に比べれば,はるかに寛容だった」と述べる.

43 学生活動家ガブリエル・ガルシア・モレノ,フローレス暗殺を試みるが失敗.モレノは後にフローレスの娘婿となる.

この話は相当眉唾モノ。伝記事典では、21年グアヤキルでスペイン人の父とエクア ドル人の母のあいだに生まれ、キトで宗教家の教育を受けるが後に法学に転向。キトの名家の娘と結婚。最初、ロカフエルテの支持者として政界入りするが、 50年代に教会勢力の代弁者として力を増し、キト市長、キト大学学長、上院議員を歴任。大統領になる際には仇敵フローレスと手を組んだ。

1845年

3.06 ビセンテ・ラモン・ロカ、ディエゴ・ノボアらグアヤキルの自由党系武装勢力が決起。グアヤキルに暫定政府を樹立。

グアヤキル暫定政府: 自由主義派知識人、保守的な司祭、農商工業者などの寄り合い所帯。手兵としてグアヤキルの騎兵部隊を確保。ラマル将軍(Antonio Elizalde LaMar)が反乱軍の指揮を執る。

3.12 マナビの知事を務めるウルビナ将軍(Jose Maria Urbina)が反乱に参加する。グアヤキル派は「3月党」(Marcist)と呼ばれる.

5.03 ラマル将軍の率いる「三月党」部隊、フローレスの農場を襲撃するが、フロレスとファン・オタメンディ将軍の軍に撃退される。

6.05 クエンカは、グアヤキルの臨時政府につく。

6.06 独立運動の英雄オルメドが担ぎ出され、暫定政府の大統領に就任。

6.17 フロレスと三月党の間に「ラ・ビルヒニア条約」が結ばれる。フロレスは辞任を受け入れる。

辞任の舞台裏: 三月党の実態は反キト・反フローレスだけの雑多な集団であり,その後も党内の内紛が続いた.フロレスは三月党が原則のためではなく、自分を追い落とすためにのみ闘っていることを悟り、辞任を受け入れたという。

10.03 クエンカで制憲議会が開かれる。議会は「ラ・ビルヒニア条約」がフローレスに対して譲歩しすぎだとして否認。フアン・ホセ・フローレスはアイルランドに亡命。

12.08 第4次憲法が制定される。三月革命を財政的に支えたグアヤキルの実業家ビセンテ・ラモン・ロカ・ロドリゲスが、大統領(Encargado del Poder)に就任。ロカフエルテは特別代表として外交活動に専念。

45年 独立後15年経ったこの時点でも、15人の将官のうちのエクアドル人は4人だけ。騎兵隊部隊の大部分の将校、下士官も外国人が主体となっていた。

46年 フローレス、スペインでマリア・クリスティナ王女の支援を受け、銀行から資金を獲得。エクアドルにスペイン王制を樹立しようと動く。英国にわたり艦隊と陸戦隊の編成に乗り出す。スペイン人、イギリス人、アイルランド人傭兵3千人を集め、遠征を準備。

46年 ロカフエルテは、英国財務省に対する必死の外交交渉により、テームズ河に停泊中の三隻の艦船を没収させることに成功。これにより侵攻計画は頓挫する。

47.5.16 ロカフエルテが死亡。ロカフエルテは死の直前までラモン・ロカ政権の特使として南米各国を訪問。

48.4 南米諸国はペルーのカスティヤ大統領を中心に、フロレスの侵攻とスペイン王制の復活を阻止するため大陸同盟を結成。

1849年

10.15 ビセンテ・ラモン・ロカ,三月党内部がノボア派とエリサルデ派に分裂する中で大統領を辞任.副大統領のアスカスピ(Manuel de Azcasubi y Matheu)が暫定大統領を務める。(アスカスビはガルシア・モレノの義兄に当たる。69年にも、短期間暫定大統領を務めている)

1850年

2.20 グアヤキルの軍勢力はアスカスビを大統領と認めず。ホセマリア・ウルビナを上級司令官(Jefe Superior)に指名。ウルビナはアスカスビをフロレス寄りだと非難する。

3.02 グアヤキルの議会、実業家ノボア(Diego de Noboa y Arteta)を最高統領(Jefe Supremo)に指名。

6.10 キト、ラタクンガ、リオバンバで地方評議会が開かれる。いずれもディエゴ・ノボアの政権を承認せず。

6.14 クエンカ、ロハ、マナビの地方評議会、エリサルデ・ラマル将軍を上級司令官に指名。

7.27 ノボアとエリサルデが「ラ・フロリダ協定」に調印。アスカスビ政権打倒のため共闘することとなる。

12.08 アスカスビが辞任。議会はノボアを臨時大統領に指名.ロカとエリサルデは、直ちに追放される。ウルビナはグアヤキル駐屯軍司令官に昇格。

1851年

2.26 ディエゴ・ノボア、キトの国会での選挙を経て大統領に就任。副大統領のポストは廃止される。

2.27 第5次憲法が制定される。

3.25 ノボアは、イエズス会士が国に戻るのを許す。

7.13 ホセ・マリア・ウルビナ将軍、ノボアがコロンビアとの戦争をあおっていると非難。フロレスの失敗を繰り返し、三月党の原則を侵しているとする。

7.17 ウルビナ、フランシスコ・ロブレス将軍に命じ、グアヤキルに戻ったノボアを逮捕。ペルー行きの船に載せ国外追放する。

7.24 ウルビナ、みずから共和国の最高統領と宣言。

7.25 ウルビナ、国民会議により大統領に指名される.就任の1週間後に国内の奴隷を完全解放する.

ホセマリア・ウルビナ・ピテリ(Jose Maria Mariano Segundo de Urbina y Viteri): リ オバンバ近郊の山村キリョン出身でグアヤキルの海軍兵学校卒。Punta de Mapeloの海軍戦闘で戦功を上げ、フロレスの副官を務めた。徹底した自由主義者。教会権力の抑圧に回ったほか、政治犯の死刑禁止、先住民の徴税禁止、 初等教育の無償化など当時としては進歩的な政策を遂行。
ただ奴隷解放の狙いは、解放された黒人を軍に編入することにあったとされる。

1852年

7.07 グアヤキルで制憲議会が開かれる。

7.14 ファン・ホセ・フロレスの編成した傭兵部隊がカジャオを出航。グアヤキルを砲撃し上陸を試みる。

9.06 グアヤキルで第五次憲法が制定される。フロレス時代の反動的憲法を改正。ウルビナが共和国大統領に就任。

11.21 反教権主義を掲げるウルビナ政権,国政への干渉を理由に保守党の牙城となっていたイエズス会を国外追放.

11月 生活必需品への課税が廃止される。輸出時の関税も廃止される。

52年 ウルビナはCanonigosという武装集団を用い強圧政治を展開した。解放黒人で編成された「タウラス」大隊は恐れられた。すべての反対者は国外に追放された。

53年 ガルシア・モレノ、イエズス会の力を背景に「ラ・ナシオン」紙を発行。ウルビナ大統領はこれを危険視して、発行を禁止し、モレノを国外に追放。

53 ペルー,「1802年の王室証明書」なるものを根拠にアマゾン河上流地帯を併合しロレト州を創設する。エクアドルは強硬に抗議.

1856年

9.01 ウルビナ大統領,任期を満了.52年憲法に従い、選挙評議会が創設され、直接選挙が実施される。

10.16 ウルビナの盟友のフランシスコ・ロブレス将軍(Francisco Robles Garcia)が大統領に就任.ヘロニモ・カリオンが副大統領となる。ロブレスは政庁所在地をキトからグアヤキルに移動。

56年 モレノがエクアドルに戻る。教会勢力の代表として議会に進出する。

1857年

9月 イギリスとの間にIcaza-Prittchet協定が調印される。独立運動時の債務を支払うため、エスメラルダス、カネーロス、サモラの公有地を譲渡する。一連の緊縮政策に対する国内の反発が強まる。

10.30 ロブレス大統領,3世紀にわたり続いた先住民の強制的年貢制度を廃止.先住民を搾取することで成り立って来たキトの経済はどん底に落ちる。

57 グアヤス地方のカカオ生産がピークに達する.

1858年

7.30 ペルー、Icaza-Prittchet協定に抗議してエクアドルとの国交を断絶。議会はロブレス大統領に非常大権を与える。

10.26 ペルーのラモン・カスティージャ大統領、エクアドルの港湾の封鎖を命じる。

11.04 グアヤキル政府、ペルーの攻撃を恐れリオバンバへ移動。

58 ロブレス政権,対外債務軽減のため,増税と財政緊縮政策をとる.保守党はこれに反発し,抗議行動を強める.保守党と地主層が各地で反乱.中央政府からの独立を宣言.事実上の無政府状態に陥る.

1859年 「恐怖の年」

1.12 ロブレス政権、キトを放棄しグアヤキルに戻る。

3.15 マルドナード将軍(Manuel Tomas Maldonado)、ロブレス大統領の逮捕を命じる。ロブレスの友人フランコ将軍(Guillermo Franco)はこの試みを妨害。

5.01 キトで保守派により暫定政権が樹立される。ヘロニモ・カリオン副大統領のほか、ガブリエル・ガルシア・モレノ、ラファエル・カルバハルらが参加。

5.06 クエンカ、ヘロニモ・カリオンを政府首班として承認。

6.03 ウルビナ将軍、グアヤキルからキトに進軍。Tumbuco(Guaranda)でガルシア・モレノの軍隊を破る。キトの「暫定政府」は消滅する。

8.31 イバラのラファエル・カルバハルがキトに向け進撃。グアランダの戦いで敗れたロブレスは大統領を辞任。

9.04 ダニエル・サルバドルがキトを占領。「暫定政府」を再建する。

9.16 コロンビアのモスケラ大統領とペルーのラモン・カスティージャ大統領が、エクアドルを分割する秘密協定(Esposion De Pasto)を結ぶ。(これについては真偽のほどは不明)

9.17 グアヤキル司令官ギジェルモ・フランコ、Jefatura Suprema に指名される。フランコはロブレスとウルビナに国外退去を命じる。(ペルーの意向を受けて寝返ったものか?)

9.18 ロハの評議会、Manuel Carrion Pinzano をロハ連邦区司令官に任命。各地にカウディージョ政権が乱立、国内は無政府状態となる。

9月 フランコは根拠地グアヤキルを動かず,ガブリエル・ガルシア・モレノがキトの臨時政府首班に指名される.キト、グアヤキル、クエンカ、ロハがそれぞれ自治政府を樹立。統一国旗は廃止される。

11.17 ペルー,陸戦部隊を南部海岸地帯に進めるいっぽう,軍艦を派遣しグアヤキル港を封鎖.

11月 ギジェルモ・フランコは,ペルー軍とMapasingue条約を結び,南部アマゾン上流地帯諸州を割譲することで和平を図る.

12.21 キト政府のガルシア・モレノ、フランス領事Emile Triniteと会談。フランスの保護領としてエクアドルを受け入れるようもとめる。フランスは61年に、正式にこの提案を拒否する。

1860年

1月 フランコの裏切りへの怒りが国内で噴出。モレノがフランコに反旗を翻す。フランコ陣営は内部分裂。

1月 フランコ、キトに討伐軍を送るが、YaguiとSabunの戦いで敗れ退却。

1.25 フランコ将軍とペルーのラモン・カスティージャ大統領がマパシング条約に調印。1829年のグアヤキル条約を破棄し、1802年の「王室証明書」を承認。フランコはこれと引きかえにペルーから軍事・財政援助を受ける。

2月頃? モレノ、かつて暗殺を謀ったホセ・フロレスと手を結び軍司令官に採用。フランコとの戦いに備える。

ホセ・フロレスはグアヤキル侵攻に失敗した後、ペルー政府からの年金を受けリマで暮らしていた。フランコに勝つために自分の軍事経験を利用するよう、モレノに売り込み、受け入れられた。

8.07 フロレス軍、ババオヨ(Babahoyo)近郊ボデガスの戦い、サラド河の戦いで連勝。

9.24 フロレス軍、サラド川を経由してグアヤキルに進出。フランコはペルー軍艦でリマに脱出する。

9.26 三月党の三色旗に代わり、今日の三色旗(黄色、青、赤)が採用される。

9月 モレノはフランコ軍参加者を罰せず、「内戦の傷跡を出来るだけ早く癒そう。共和国は一つの家族と考えなければならない」と呼びかけ、グアヤキルとの意見の相違を脇において,ペルーとの闘いに国民を結集させる.

1861年

1.10 キトで制憲議会が開かれる。

1.17 制憲議会、ガルシア・モレノを暫定大統領に選出。モレノは教会の権利の回復と財政システムの再建を柱とする施策を実行。ペルーとのあいだに「良識にもとづく、敬意を持った相互理解」の関係を築く。

4.01 モレノ、新憲法にのっとり正規の大統領に就任。副大統領にマリアーノ・クエバが就任。老フローレスは陸軍最高司令官となる。

モレノはカトリックを国をまとめるための主要な方法と考え,イエズス会を呼び戻すなど宗教立国を旗印として,キトの地主寡頭支配層を背景に,10年にわたり政権を維持した.

4.10 第7次憲法が制定される。「直接・普通選挙」を柱とする。議会はマパシング条約の批准を拒否。

61年 議会、キト・クエンカ・サンタロサ・サルマを結ぶ南部鉄道の建設を決定。

61年 コロンビアでArboledo政権に代わり自由党モスケラ将軍が権力を握る。モスケラはグラン・コロンビアの復活を狙い、エクアドルへの干渉を強める。ウルビナ元大統領らエクアドル自由党は,モスケラの支援を受け,モレノ政権打倒の動き。

1862年

62年前半 エクアドル,領土侵犯を繰り返すコロンビアに対し宣戦布告.

7.31 ガルシア・モレノの軍はラス・グラダスでコロンビア軍に惨敗を喫する。モレノはトゥルカンで捕らえられ、コロンビア軍との間に秘密協定を結んで解放される。(この話はウラがとれていません。少なくともwikipediaにはそのような記載はありません)

9.26 エクアドル特使がバチカンを訪問。協約(コンコルダート)を結ぶ。

1863年

3月 議会、モレノの辞任を勧告。モレノは任期の満了まで職務を続けると宣言。

11.02 モレノ、モスケラの挑発政策に怒り、ふたたびコロンビアとの戦争を宣言。

12.06 エクアドル軍がコロンビア領内に侵攻。Cuaspad(Guaspud?)のたたかいで,フローレスの率いるエクアドル軍は、 モスケラのひきいるコロンビア軍4,000人に惨敗.およそ1,500が死傷.2,000人が捕虜となる.モスケラ軍はイバラまで進出。

12.30 両国政府は反戦世論を前に Pinsaqui 和平条約を結ぶ。

63 ガルシア・モレノ,バチカンとの協約(コンコルダート)を発布.モレノは教育その他の分野で教会にほとんど無制限の権限を与える。

協約の内容: 異端 審問所の復活,教会によるすべての書物の検閲、聖職者に関する人事権、公教育の権利など巨大な権力をエクアドルのローマカトリック教会に与える.モスケラ によってコロンビアから追放されたイエズス会士など外国人聖職者をつぎつぎと呼び寄せ,腐敗・変質した地元の聖職者ととりかえる.

63年 ウルビナは、ペルーから「南アメリカ人のための南アメリカ」との宣言を発表。「コンコルダートはコロンビアをローマの足下に投げ出す仕業」と非難する。

1864年

前半 マナビで自由主義者の反乱。

6.22 グアヤキルでマルドナード将軍が反乱を開始する。反乱は失敗し、マルドナードは捕らえられる。

8.30 モレノ、キトのサントドミンゴ広場で、妻を立ち会わせマルドナードを銃殺。

9.30 ウルビナ将軍がペルーからエクアドルに侵攻。マチャラを占領するが、サンタロサで政府軍の前に敗退。反乱軍兵士に対し過酷な処罰が加えられる。

9月 ファン・ホセ・フローレス、ウルビナとの戦いのためハンベリに赴くが、途中船上で尿毒症のため死亡。フローレスはディエゴ・ノボアの独裁の時代、自宅監禁され健康を損ねた。

1865年

6.25 ウルビナ、二度目の侵攻作戦。ロブレス、フランコも作戦に参加する。Jambeli で海上戦となり、侵攻軍が大敗。このあと大統領選挙までの1年間は静穏が続く。

モレノは反乱に対し苛烈な態度で臨んだ。捕らえたもののうち36人を収監、10人に恩赦を与えたが、他はすべて処刑された。Jose Maria Vallejo大佐は面前で息子を銃殺された後自らも処刑された。収監された囚人も後にキトで処刑された。

9.07 モレノ,第1期目の大統領任期を終了.副大統領ヘロニモ・カリオンを大統領に就任させる。

66.2 エクアドル、スペインに宣戦布告する。

67.11.06 カリオン大統領、議会の非難を前に辞任。モレノは自らの指名したカリオンを,力量不足と切り捨てる.これに代わりハビエル・エスピノサが大統領に選出される.

68.8.16 ピチンチャ火山が噴火。オタバロ、アトゥンタキ、イバラの町が破壊され、2万人が死亡。5万人が家を失う。

1869年

1.16 大統領選挙で自由党が有利と見た保守派がモレノを担ぎ出す。モレノはキトの砲兵部隊に支えられクーデターを実行。エスピノサ大統領を放逐する。

1.17 ガルシア・モレノ、暫定大統領に就任。モレノは保守党を創立し党首に納まる.

2.13 執行令により63年の「公衆規範法」(Ley de Instruccion Publica)が廃止される。

3.19 ホセ・デ・ベインティミリャ、グアヤキルで蜂起するが失敗。戦闘中に死亡。

5.16 国会はモレノに代わり、Manuel de Ascazubi y Matheuを臨時大統領に選出。(アスカスビは保守派の大立者でモレノの義兄弟)

8.10 モレノが新憲法にもとづく大統領に選出される。副大統領にはフランシスコ・ハビエル・レオンが任命される。

8.11 モレノは第8次新憲法を公布。「黒い憲章」と呼ばれる。(寿里さんはこのとき初めて大統領に就任した。それまではキト市長職だったとする。しかし多くの文献は二期目の大統領としている)

黒い憲章: 大統領は独裁権を与えられ、任期は6年に延長され、再選禁止規定は排除される.政治犯罪には死刑が適用される。国民の資格としてカトリック教徒であることが義務づけられ、カトリック以外の宗教やカルトは禁じられる。市民権はカトリック教会の許容範囲内に制限される.

8月 執行令によりイギリスへの債務返還が停止される。

1870年

5.03 キトに工科大学、国立音楽院が創設される。イエズス会はキトにサン・ガブリエル神学校を創設。

11.01 イバラとエスメラルダスをつなぐ道路の建設が始まる。

1871年

1.18 ガルシア・モレノ、イタリア政府による教皇庁の略奪にたいする抗議文をイタリアの王に提出する。

9.07 主要都市を結ぶ電信網の整備が開始される。

12月 チンボラソ県ヤルキエス(Yaruquies)で、ダキレマ(Fernando Daquilema)が重税に反対する先住民反乱を起こす。たたかいは近隣一帯に広がるが、1週間後に鎮圧される。

71 議会,共和国をイエスの聖心に捧げる決議.地方の聖職者すら,ガルシア・モレノを狂信者と呼ぶようになる.(一説に71年)

モレノは必ずしも国内の聖職者を擁護したわけではない。バチカンとイエズス会の支援の下、外国人聖職者を招きいれ、腐敗した聖職者を排除した。このため国内の旧ヒエラルキーからは反感を持たれた。

72.4.08 ダキレマ、ヤルキエスで処刑される。

1875年

3.13 ガルシア・モレノ,三期目の大統領に選出される。

モレノの善政: モレノの評価は、毀誉褒貶相半ばする。一説によれば、モレノは黒人奴隷制度を廃止したが、所有者に完全な補償が行われたため、問題を起こさなかったという。
モレノは積極的な富国策をとった。、道路・鉄道の建設を進めた。輸出額は100万ドルから1千万ドルに増加した。最も重要な輸出商品であるカカオの生産高は650万キログラムから1800万キログラムまで増大した。
プロシアの軍人を呼んで軍制を改革し、読み書きできない新兵に教育を与えた。
鉄道と道路が各地に広がり、電報・郵便・水道が整備され、市街地は舗装され、地方の盗賊は取り締まられた。
イエズス会の支援を受け学校教育を拡充した。大学は整備され、二つの工科大学と農科大学が作られ、小学校の数は200から500へ、生徒数は8千から3万二千に増加した。
このほかモレノは売春を禁止し、主要な町に病院を開設した。

8月はじめ 自由党がモレノ暗殺を企てているとのうわさが広がる。教会は自由党に対する弾圧の強化を訴えるが、モレノはこれを拒否したという。

8.06 モレノが大統領に就任.直後に大統領宮殿前の階段で,自由主義派のファウスティノ・ラヨ(エクアドルに帰化したコロンビア人)により斬殺される.ラヨはその場で警備兵により殺され、共犯のマヌエル・コルネホらが逮捕される。

8.06 フランシスコ・ハビエル・レオン内相がモレノの後任となる。

9.01 共犯者マヌエル・コルネホが銃殺される。

12.09 レオンが大統領職にたえられず辞任。これに代わりアントニオ・ボレロ(Antonio Maria Vicente Narciso Borrero y Cortazar) が臨時大統領に就任.グアヤキル管区総司令官のベインテミリャ(Mario Ignacio Francisco Tomas Antonio de Veintemilla y Villacis)将軍を軍司令官に任命。(69年に反乱を起こしたホセ・デ・ベインティミリャとは別人)

1876年

76年前半 その後もキトとグアヤキルの内乱状態が続く.ボレロはベインティミリャを解任。

9.08 イグナシオ・デ・ベインテミリャ、ウルビナやロブレスなど自由派に推され反乱を開始。アントニオ・ボレロ大統領に改憲を迫る。グアヤキルの市議会は「最高司令官」の地位を与える。

9月 ロブレスがベインテミリャを支持して蜂起。Babahoyoを奪取する。自由派は「再生評議会」(Ejercito Regenerador)を名乗る。

12.14 ウルビナ将軍が率いる「再生派」軍、ボレロを支持する「立憲派」(Constitucionales)をガルテの戦いで撃破。1千人近くの死者を出す激戦となる。

12.18 自由党の反乱が勝利.ボレロは辞任しベインテミリャが最高統領(Jefe Supremo)に就任.

1877年

3.30 ベインテミリャを批判したキト大司教Jose Ignacio Checa y Barba、ミサの最中に毒殺される。

6.28 ベインテミリャ、コンコルダートを廃棄。ククタで1821年に採択された「コロンビア教権法」(Ley del Patronato Colombiano)の復活を宣言する。直接のきっかけは、コトパクシ火山の噴火だった。灰がキトの町を覆い暗くした。これを聖職者が「神の政府への怒り」と信じさせようとしたことにあった。

7月 リオバンバとロハの司教は、ベインテミリャを恐れて逃亡する。アウグスティヌス会は、教会の保有する「アシエンダ」を売却するよう指令。

1878年

1.26 ベインテミリャが大統領を辞任。その後も実権を掌握。政党と離れポピュリスト独裁的傾向を強める.任期中エクアドルは太平洋戦争がらみの特需景気に沸く.

3.31 アンバトで制憲議会開催。ベインテミリャを大統領に選ぶ。(上の記事と矛盾しています)

4.06 アンバト議会、第9次憲法を採択。政治犯、一般犯罪への死刑宣告を無効とする。また教育の非宗教化を徹底する。

4.21 ベインテミリャが二期目の共和国大統領に就任。副大統領はおかず。

9.04 野党の大統領候補ピエドライタ(Vicente Piedrahita)、「ラ・パレスティナ」の牧場で暗殺される。

11月 北部地方で反乱。イエペス(Manuel Santiago Yepez)将軍とランダスリ(Tomas Landazuri)大佐が指導。

1980年

10.20 エロイ・アルファロがエスメラルダスに到着。エスメラルダ地方軍司令官セサル・グエデス大佐の支持を得て、「最高司令官」となることを宣言。その後反乱に失敗し国外に逃亡。

10.30 別の自由党グループは、トゥルカンを攻撃し、ファン・モンタルボを「最高司令官」に指名する。翌日には政府軍に遂われ敗走。

80 グアヤキルの人口,キトを上回る.

80年 政令でバチカンとの新たな協約を批准。ベインテミリャを恐れるバチカンは、手持ち資産の売却を図る。

1882年

3.25 ベインテミリャ、選挙を前に政権を強奪。「最高統領」と自称する。キト、グアヤキルの市会はベインテミリャの最高統領就任を承認。

6月 ベインテミリャ独裁に対する保守・自由双方からの反乱が始まる。

11.09 グアヤキルの自由派ジャーナリストのミゲル・バルベルデ、ベインテミリャを批判する論説。政府は公衆の面前での鞭打ち刑という屈辱刑を与える。

82年 グアヤキル市長カアマニョ(Jose Maria Placido Caamano)ら進歩党の反対派をいっせいに国外追放。進歩党はグアヤキルを基盤とするカトリック・リベラル派の政党。

1883年

1.06 「再建」派が決起するが、エスメラルダス-ラスパルマスの戦いで、ベインテミリャの政府軍に撃破される。

1.09 「再建」派軍を追跡した政府軍、ババオヨ近郊ボデガスでふたたび戦闘となる。決定的な勝利を収めることが出来ないまま、いったん後退する。

1.10 キトで中部、南部、北部から結集した「再建派」軍、「独裁派」部隊を撃破する。この「独裁派」部隊の指揮者は女性だった。マリエ リータ・ベインテミリャはペルー生まれでベインテミリャの姪にあたる。エクアドルでは「女将軍」(Generalita)と呼ばれていた。

1.14 キトで5人の将軍による五頭統治(Pentavirato)が開始される。(アグスティン・ゲレロ将軍、ルイス・コルデーロ、ラファエル・ペレス・パレハ、パブロ・エレーラ、ペドロ・リサルサブル) アントニオの弟ラモン・ボレロ上院議長を暫定首班とする。

2.04 政府軍、プーナ近郊のエル・サラドの戦いで、「Restauradores」を破る。その後2月4日から7月7日までの間に、政 府軍=再建派軍の戦闘は6回にわたり発生。(エスメラルダス、ラ・アタラサナ、ラス・パルミタス、プエルト・リサ、セロ・エル・カルメン、バニョス・デ・ エル・サラド) いずれも決定的な勝敗がつかずに終わる。

4.17 リマ亡命中のカアマニョ、反乱部隊を率いカリャオを出航。エクアドル海岸に上陸。

6.05 エロイ・アルファロ、ふたたびエスメラルダスで決起。マナビ、エスメラルダスの「最高統領」を宣言する。

6月中旬 カアマニョの部隊にサラスティ(Jose Maria Sarasti)、エロイ・アルファロ、サラザールらも加わり、グアヤキルを包囲。自由党主流派は、独裁色を強めるベインテミリャと離反し、辞任を迫る。

7.09 ベインテミリャ、辞任を受け入れた後、グアヤキルから船でリマに逃亡。

寿里によれば、ベインテミリャは弾圧と暴力以外になすすべを知らない殺人鬼だった。教会勢力の排除に手段を選ばぬ「司教の毒殺」事件が明るみに出ると、さすがに海岸貴族も彼から手を引いた。

7.10 グアヤキル議会で保守派と自由派との妥協により、臨時政府が成立。ペドロ・カルボが最高統領となる。この時点でエクアドル国内にはマナビ・エスメラルダスのアルファロ政権、グアヤキルのカルボ政権、キトの五頭政権の三つが鼎立する。

10.11 臨時政府にグアヤキルの進歩党を加え、全国代表者会議が開催される。このあとカカオ景気に支えられ,政局は安定に向かう.

10.15 制憲議会が開かれる。進歩党(保守党?)のホセマリア・プラシド・カアマニョが臨時大統領に選出される.バチカンとの間で、10分の一税を他の税金と置き換える交渉が開始される。

11.23 キトでは、進歩党に対抗してガルシア・モレノの政策を支持する「共和同盟」が結成される。のちに「カトリック共和党」と「自由革新党」に分裂。

1884年

2.13 キトの制憲議会で第10次憲法が制定される。死刑が廃止される。

2.17 カアマニョ、正式にエクアドル共和国大統領に就任。副大統領にはAgustin Guerrero Lizarzaburu。

7.09 キト・グアヤキル間の電報が開始される。

9.05 Alejo Saez、チンボラソ州リクト(Licto)で、重税に抗議する反乱。

11.15 マナビ県チャラポトで「チャプロス革命」(Revolucion de los Chapulos)が開始される。アルファロが最高統領に就任。

12.05 アルファロの反乱軍、ハラミジョ海上で政府軍と海戦。アルファロは敗北し逃亡。その後の10年を中米で亡命生活。

84年 ペソ=8レアルに代わり新通貨スクレ=100センタボが導入される.ペソとスクレは等価。このほか銀行制度の改正、教会税の廃止、外国債務の再調整、鉄道建設の契約などが成立。

84年 グアヤキルで日刊紙「エル・テレグラフォ」が発刊される。

85.1.01 パレンケの自由主義者Nicolas Infante Diaz、政府軍により銃殺される。

85年 アルファロ軍の残党、海岸地域で武装闘争を継続。「モンタネロス」と呼ばれる。南部での反乱はほぼ平定される。

86.12.07 ルイス・バルガス・トレス大佐の自由党部隊、ロハで政府軍に殲滅される。バルガス・トレスは捕らえられ、クエンカで軍法会議にかけられる。

86年 カアマニョ暗殺の企て、失敗に終わる。彼は川に飛び込んでかろうじて死を免れたという。

1887年

3.20 バルガス・トレス、クエンカで銃殺される。

8.01 ペルーでエスピノサ-ボニファス協定が締結される。スペイン国王に国境紛争の仲裁をもとめることで合意。

88.7.01 カアマニョが大統領を辞任。これに代わり進歩党のアントニオ・フロレスが大統領に就任.保守党と自由党を足して二で割ったような政策を提唱.カアマニョは駐米大使に転出。副大統領にはPedro Jose Cevallos Salvador。

アントニオ・フロレス(Juan Antonio Maria Flores y Jijon de Vivanco): フアン・ホセ・フローレス将軍は独立戦争中の1824年にMercedes Jijon de Vivanco y Chiribogaと結婚した。そして12人の子供をもうけた。その一人がアントニオ・フロレスである。

1889年

6.05 グアヤキル商工会議所が創設される。

6.18 議会、ペルーとの間のエレーラ・ガルシア条約を批准する。エクアドルはアマゾンの広大な区域をペルーに割譲。

9.14 フロレス大統領、中国人入国禁止令を公布。グアヤキルの商人たちは中国人への迫害をエスカレートさせる。

90年 グアヤキルの自由党穏健派は、エロイ・アルファロに対抗して全国自由党を結成。

 

エロイ・アルファロの時代

92.7.01 フロレスに引き続き,進歩党のルイス・コルデロ(Luis Benjamin Cordero y Crespo)が大統領に就任.(コルデロは最初のキチュワ語辞典を編集したことで知られる)

92年 ピチンチャ工芸・工業協会(Sociedad Artistica e Industrial de Pichincha)が設立される。その後、先住民運動の理論的支柱となる。

94.7.25 ペルー、マラニョン河へのアクセス権を拒否。エクアドル議会はエレーラ・ガルシア条約の批准を取り消す。

94.12.03 グアヤキルの貿易商、チリから軍艦「エスメラルダ」号を買い、日本に転売する。実際にはエクアドル国旗の掲揚権を売ったに過ぎず、これをグアヤス州知事Placido Caamano(元大統領)が黙認したことから、「旗売り事件」として大問題になる。

94 カカオ・プランテーション,グアヤキル農商銀行や政府の融資・援助の下に急速に成長,世界最大の輸出国となる.

1995年

1月 「国旗売却事件」が発覚。国家的憤激を呼ぶ.

国旗売却事件(Venta de la Bandera): 日清戦争中の日本に対し,チリが軍艦エスメラルダ号を売却.チリは中立法違反を避けるため,エクアドルをトンネル会社として利用.エスメラルダ号はエクアドル国旗を掲げて日本に向かう.これに関連してエクアドル政府は賄賂を受けていた.

2.12 エル・ミラグロで反コルデーロの蜂起。

4.09 自由派と保守派がGuarandaを占領。政府軍により鎮圧される。

4.10 保守派がキト市内で蜂起。政府軍との戦闘となる。

4.16 コルデーロ大統領が辞任。Vicente Lucio Salazar副大統領が暫定大統領に昇格。

4月 自由党のカルロス・コンチャ・トレスら、エスメラルダの町を占領。

5.09 マヌエル・セラーノ大佐のひきいる自由派がエル・オロの戦いで勝利。

5.28 リオバンバの市議会、反政府宣言を発表。

6.04 グアヤキルの新興資本を背景とした自由党(正式には急進自由党)の反乱起こる.町を制圧した反乱軍はイグナシオ・ロブレスを「軍民司令官」に指名。

6.05 イグナシオ・ロブレス、エロイ・アルファロを「最高統領」に迎える.アルファロは反モレノの武装闘争以来の自由党の「老戦士」で,10年前からパナマに亡命していた.

6.05 政府軍、キンチェ付近パルギージョ(Paluguillo)の戦いで自由党の反乱軍を撃破。

6.15 政府軍、アスアイ県Tablon De Machangara の戦いで自由党軍を連破。

6.19 エロイ・アルファロ、パナマからグアヤキルに到着。ただちに戦場での指揮をとる。

7.22 自由党軍、チンボラソ県グアンゴプード(Guangopud)で、初めて政府軍に勝利をおさめる。

7.29 自由党軍、ロハでの戦闘で敗退。

8.06 自由党軍、サンミゲル・デ・チンボの戦闘でも敗れる。

8.09 自由党軍、パレンケで勝利。ロス・リオス県ケベドのたたかいでも政府軍を撃破する。

8.10 エロイ・アルファロの率いる自由党軍、チンボラソ州まで進出。現地のAlejo Saez軍と合流。

8.15 チンボラソ県ガタソ(Gatazo)で自由党軍と政府軍のホセ・マリア・サラスティ将軍の精鋭部隊が衝突。自由党軍が勝利、さらにアスアイ県ヒロンでも自由党軍が勝利する。

9.01 自由党軍が全土を制圧.アルファロがキトに入る.自由主義革命成功.

9.04 アルファロが大統領に就任。保守党はその後も武装抵抗を続け,国内は内戦状態となる.聖職者は大衆に「無神論のアルファリスタ」に抵抗せよと呼びかける.

10月 Portoviejoの外国人司教ペドロ・シューマッハーと,リオバンバのアルセニオ・アンドラーデがアルファロに対し反乱.

12月 内戦の犠牲者が増加.フェデリコ・ゴンザレス・スアレス大司教はキリスト者の政治への関与をやめるよう訴える.

1896年

5.29 コロンビアに亡命した保守派がコロンビア人盟友とともに北部国境から侵入。カルチ県カブラスで政府軍部隊と衝突。

7.05 アントニオ・ベガ・ムニョス大佐の下の「保守派」が、クエンカを占領。

8.20 Ulpiano Paez将軍の率いる自由党軍、リルカイ、レンタ、ヒロンでムニョス軍を撃破。

8.22 クエンカ全市を巻き込む市街戦。戸口から戸口への接近戦が展開され、双方あわせ1,250人の兵士が死亡。

10.05 グアヤキルの町に砲弾が打ち込まれる。全市のおよそ半分が破壊されたという。

10.09 グアヤキルで第12次制憲議会が開かれる。エロイ・アルファロが暫定大統領に就任。教会領地没収令を公布。学校教育の完全な公教育化、教会婚から法律婚への移行、戸籍台帳の確立など反教会政策を実施.イエズス会宣教師はブラジルに追放される。

96年 アルファロの反教会政策に抗議して各地でキリスト教徒の反乱。ポルトビエホの外国人司祭ペドロ・シューマッハー、リオバンバのアルセニオ・アンドレードがいち早く蜂起。

96年末 アルファロ,キトに公益評議会政府(Junta de Beneficencia)を創設.

1897年

1.12 第11次憲法(アルファリスタ憲法)制定.信仰の自由、死刑の廃止、法の下の平等をうたう。革新主義(Progressismo)にもとづく改革の土台となる。

1.17 憲法に基づき、アルファロがエクアドル共和国大統領となる。マヌエル・ベニグノ・クエバが副大統領に就任。実権はイグナシオ・ロブレスが把握。このあと30年にわたりグアヤキル派の政治支配が続く.

1月 思想の自由法、公教育法などが成立。基礎教育の原則を義務・無償・世俗とする。

6.17 キト・グアヤキル間の鉄道建設契約が結ばれる。

1898年

12.03 アントニオ・ヴェガの保守党軍、クエンカの占領を試みる。ウジャウリ大佐の率いる政府軍がこれを撃退。

12月 カルチ県タヤ、コトパクシ県グアンゴロマで保守派の反乱。いずれも政府軍により鎮圧される。

98年 10分の1税に代わる諸税が廃棄される。聖職者に対する国家の財政的支援は基本的に撤廃される。

1899年

1.07 コロンビアから侵入した部隊が、インバブラ県アグアロンゴで政府軍と対決。

1.10 サラスティ将軍の率いる保守派軍がペルーから侵入し、ロハで政府軍部隊を打ち破る。

1.23 政府軍、サナンカハス(Sanancajas)の戦いでサラスティ軍を撃退。

4.12 後見法(Ley del Patronato)が成立。しかしこれまでの債務奴隷(concertaje)システムは廃止されず。

12.11 キトに6年制の軍事大学校(Colegio Militar)が創設される。郊外には士官学校(Escuela Militar)が設立される。

 

1900

1900年

3.28 エクアドル軍、コロンビア領から侵入した保守党軍をルミチャカ県モロの戦いで破る。保守党軍はコロンビア領内への撤退を余儀なくされる。

5.20 エクアドル人とコロンビア人からなる保守党軍がふたたび侵攻。トゥルカンの政府軍部隊を攻撃。

7.21 ルミチャカ・カルチ県ラ・オジェリア(La Olleria)のたたかい。エクアドル政府軍が保守党軍を撃退する。

8月 エクアドルとペルーで地震があり,数千人が死亡.

9月 コロンビア国境地帯での保守党軍との戦闘が続く。

10.24 グアヤキルに海軍学校が再建される。

00年 登記所(Registro Civil)が創設され,戸籍管理、出生登録、墓地の管理が教会から政府の手に渡る.

1901年

9.01 自由党内反アルファロ派のLeonidas Plaza Gutierrez将軍が大統領に就任.副大統領にはAlfredo Baquerizo Morenoが指名される。その後アルファロとの間に激しい抗争が始まる.

1902年

7.07 エクアドルに最初の蒸気機関車が到着する。翌年には最初の自動車がキトに到着。(随分遅れています)

10.03 婚姻の届出に関する法律が定められる。市民法の下での離婚も許可される。

1904年

6.28 ペルー軍、東部ジャングル地域のTorres-Causanaのエクアドル駐屯軍基地を攻撃する。

10.12 耕作法(Ley de Cultos)が制定される。教会の所有地が国家のものとして収容される。

04年 ルイス・マルティネスの『海岸へ』が発表される。近代小説の嚆矢とされる。その後、ホルヘ・イカサの『ワシプンゴ』や、ウンベルト・マタの『塩』などのインディオを描いた小説が次々に発表される。

1905年

06 エクアドル,ブラジルのカケタ・アマゾン間の地域に対する領土要求を受諾.

7.24 グアヤキルからの鉄道がリオバンバまで開通する。

9.01 保守党によるクーデターが成功.プラサ政権が崩壊.保守党のリサルド・ガルシア(Lizardo Garcia Sorroza)が大統領となる。

12.31 アロイ・アルファロ、ガルシア政権に対する転覆活動を開始。

1906年政変に関しては有力な異説がある。プラサの大統領任期が満了し、プラサが同僚を後継者に指名したが、アルファロはこれに反対し政権を転覆。大統領に復帰したというものである。

05年 政府は国を4つの防衛地帯に分割した。軍事学校を設立。9つの歩兵隊大隊、3つの騎兵隊連隊、3つの大砲連隊そして、3つの工学大隊を編成する。

1906年

1.01 リオバンバの軍基地でEmilio Maria Teran ら自由派が決起。エロイ・アルファロを共和国の最高統領と宣言する。

1.01 キトで最初の日刊紙「エル・コメルシオ」が発行される。

1.06 トゥルカンの議会がアルファロ支持を表明。

1.16 アルファロが率いる部隊がコトパクシ県チャスキ(Chasqui)で政府軍を撃破。アルファロは自ら最高統領を名乗る。

1.19 グアヤキル、アルファロを最高統領として承認。

10.19 アルファロ派が内戦に勝利。アルファロは制憲議会による臨時の大統領に選出される。

12.23 第12番目の憲法を公布。(寿里によれば、アルファロがプラサの再選を阻止するためにクーデターを起こして政権を握ったとされる)

12.09 保守派のアントニオ・ベガ将軍が最後の抵抗。アスアイとカナルの中間に位置するアヤンカイで決戦。ウルピアノ・パエス将軍の軍により壊滅に追い込まれる。ベガは弾丸を受け負傷、捕らえられクエンカへの移送中に死亡。

12月 自由党軍の「バルガス・トレス大隊」、ロハの街に入り略奪行為。

12.22 第12次憲法がキトで制定される。国家から教会の分離を確立する。保守派はこれを「無神論憲法」と呼ぶ。

06年 グアヤキルとキトを結ぶ鉄道が完成。これによりグアヤキルの経済的優位が確立。

1907年

1.01 アルファロ,制憲議会により共和国大統領に指名される.

4.25 キトで選挙人登録の打ち切りに抗議する市民の暴動。政府軍は武力で鎮圧。反乱者のうち2人が死亡。

7.19 グアヤキルの庁舎内でアルファロ暗殺未遂事件。護衛兵8人が殺される。首謀者は銃殺される。

8月 輸出の2/3を占めるカカオ輸出価格が暴落。生産輸出業者(gran cacaos)とエクアドル経済に深刻な打撃を与える。

07年 最初のレバノン人の集団移住。アントン、ブカラム、メメ・コサヤ、イサイアス一族がこの頃移住。

1908年

6.25 キト=グアヤキル間の鉄道が営業開始.アルファロがモレノの時代に始まった工事を完成させるため,米国企業と契約したことから,「共和国をヤンキーにゆだねるもの」と非難される.

11.06 公益法(Ley de Beneficencia)が成立。教会土地の統制を政府に移す。一般には「死者の手」(Manos Muertas)として知られる。

09年8月 エクアドル最初の全国的労働者組織として、キトで「労働者会議」(Congreso Obrero Ecuatoriano)が結成される。

1910年

4.03 グアヤキルの暴徒が、ペルー領事館と、ドック入りしたペルー商船を襲撃。

4.24 ペルーとの国境紛争が激化。アルファロ、ペルー侵入に備え、自ら軍を指揮してグアヤキル湾の防衛を強化。米国,ブラジル,アルゼンチンに調停を依頼.

10年 議会、防衛費に充てるため教会領地の没収と売却を承認。

10年 エクアドル,バナナ輸出を開始.

1911年

7月 アルファロの後継大統領としてエミリオ・エストラダ・カルモナが選出される.しかしアルファロは政権引渡しを拒否.政権を渡さなかったアルファロに対する怒りが高まる.

7.03 アルファロの居座りに反対したエミリオ・マリーア・テラン将軍、キトでルイス・キロガ大佐に暗殺される。

7.30 「愛国評議会」、アルファロ政府に対しエミリオ・エストラダの大統領就任を認めるようもとめる。

8.11 収監中のキロガ大佐、テラン将軍支持者により暗殺される。

8.11 レオニダス・プラサ・グティエレス将軍が反乱を起こしアルファロに辞任を迫る。アルファロは辞任しパナマ亡命.(一説ではヨー ロッパに渡ったとされる)これを受けてCarlos Freile Zaldumbide国会議長が、執行代表(Encargado del Poder)に就任。

9.01 エミリオ・エストラダ・カルモナが、立憲大統領となる。副大統領職は不在。

12.21 エストラーダ大統領、心臓発作で死亡。このためふたたび Carlos Freile Zaldumbide国会議長が、執行代表(Encargado del Poder)に就任。

12.22 エスメラルダ地方はフレイレを認めず、アルファロを最高統領に指名。

12.28 グアヤキルのペドロJ.モンテロ将軍、自らをグアヤキルの最高統領と宣言。パナマ亡命中のアルファロに「あなたの軍を返す」と訴え、帰国を求める。

12.28 アルファロ、ひそかにパナマからグアヤキルに向かう.

12.31 プラザ将軍の率いる政府軍、反乱鎮圧のためキトからグアヤキルに向かう。

1912年

1.05 フラビオ・アルファロがグアヤキルに入り、モンテロと合流。

1.11 ウイグラ(Huigra) の戦い。フリオ・アンドラーデ将軍の下の政府軍がモンテロとフラビオ・アルファロの連合軍を撃破する。

1.12 エロイ・アルファロが、グアヤキルに上陸する。

1.14 レオニダス・プラサ将軍の率いる政府軍、ナランヒートの戦闘でモンテロ軍を撃破する。

1.18 ヤグアチ(Yaguachi) の戦い。機関銃を装備したプラサ・アンドラーデ軍の前にモンテロ・フラビオ連合軍は3千の死者を出し壊滅。

1.22 モンテロ将軍、プラサとの間に休戦協定を締結。プラサはアルファリスタに国外脱出の保障を与える。

1.24 プラサ、モンテロとの休戦協定を破棄。エロイ・アルファロ、フラビオ・アルファロ、メダルド・アルファロ、ペドロ・モンテロ、ウルピアノ・パエス、マヌエル・セラーノの各将軍、ベリサリオ・トレス大佐らがグアヤキルで逮捕される。

1.25 政府軍、モンテロ将軍をグアヤキルで殺害。

1.28 政府代表のフレイレ議長、アルファロ一家、パエス、セラノ将軍をキトに移送しガルシア・モレノ刑事監獄に収監する。

1.28 フレイレは監獄の警備を行わず、拘留された叛徒を暴徒のなすがままにさせた。暴徒は収監されたアルファロとその同志数人をリンチで殺害.彼の体は切断され、街を引きずられたすえ「エル・エヒード」で焼かれる。

3.05 キト駐留の政府軍、フレイレを放逐し下院議長のFrancisco Andrade Marin 議長に全権を委ねる。

3.06 プラサ将軍に対抗してキト派が担ぎ上げたフリオ・アンドラーデ将軍、キト警察軍本部内の暴動に巻き込まれ暗殺される。

8.31 プラサ将軍が大統領に就任.自由党政治を続行.アルファロ派の急進自由主義者を厳しく弾圧。

プラサの第二次政権以降の真の支配者は海岸部の農業経営者とグアヤキルの銀行だった。この特権集団は「アルゴジャ」(輪)と呼ばれ、その中心にいたのがグアヤキル農商銀行のフランシスコ・ウルビナだった。大統領をふくむ政府幹部人事は彼らの承認なしには不可能だった。
彼らは通貨の発行権を得て紙幣の印刷にいそしんだ。その結果、天井知らずのインフレーションがもたらされた。
カカオの伝染病が流行し、アフリカでの栽培開始とあいまってカカオ産業は深刻な不況となり、大恐慌で崩壊した。

1913年

9.23 エスメラルダで、アルファロ路線の復活を目指す回復派(Reinvindicaciones)の反乱が始まる。黒人のカルロス・コンチャ・トレス大佐が率いたことから「コンチスタの反乱」とも呼ばれる。

10月 コンチャの黒人部隊、グアヤボで政府軍と衝突。

12.02 反乱軍、エスメラルダを占領。その後、最盛時にはマナビ、カルチ州まで浸透。

1914年

2.10 政府軍の砲艦がエスメラルダを攻撃。

2.25 政府軍がアタカメに上陸。エスメラルダに向け進撃を開始する。

3.14 政府軍、エスメラルダを奪還。

4.12 エンリケ・バスケス・コンチャ大佐、エスメラルダ県カマロネスの戦闘で死亡。反乱軍はその後も1年以上にわたりゲリラ戦を展開。モントネロスと呼ばれる。

1914 サンタ・エレナ半島のアンコンに油田が発見される.

1916年

7.15 Munoz Vernaza-Suarez 条約が締結される。エクアドルはコロンビアにカケタ河とプトゥマヨ河の間の地域をコロンビアに譲渡する。

8.31 PLのアルフレード・バケリソ・モレノ(Alfredo Baquerizo Moreno)が大統領に就任.

アルゴラ政治:(la argolla:輪): このあと10年間の政治の実権は,政府に大量の資金を投入した「グアヤキル農商銀行」とエクアドル農業協会に握られる. Francisco Urbina Jadoを指導者とする支配者集団はアルゴラと呼ばれ,大統領・閣僚・上院議員候補を決定するまでに至る.

1916年 モレノ政権とモントネーロスのあいだに和解が成立。兵士に大赦が与えられる。モントネーロスの要求してきた8時間労働制が認められる。

18.10.25 初めて先住民の債務に関する法律が制定される。これにより債務を理由とする投獄が禁止され、シエラにおける債務奴隷(concertaje)制度が廃止される。

18年 野口英世、ロックフェラー黄熱病委員会の調査団の一員としてエクアドルに入る。グアヤキルの黄熱病検疫所で駆除・防疫作戦を展開。黄熱病の病原体を発見したと発表するが、これは間違っていた。

19年 ロンドンでアングロ・エクアドル石油会社設立。

1920年

3月 農業新税が発効する。クエンカでは新税に抗議する反乱が起こる。5月にはチンボラソでも先住民の反乱。50人が弾圧の犠牲となる。

8.24 Azuay州Ricaurteで新税に抗議する反乱が発生。

8.31 バケリソ大統領の後継にタマヨ(Jose Luis Tamayo Teran)が就任.政財官の癒着と,紙幣の乱発による天井知らずのインフレが,深刻な影響をもたらす.

10.07 グアヤキルで第二回エクアドル労働者会議(Congreso Obrero Ecuatoriano)開催。このあと海岸地帯のモントゥビオ(メスティソ)労働者を中心に,最初の労働運動の高揚.自由党政権は激しい弾圧を加える.

11.04 最初の飛行機がグアヤキルからキトに飛ぶ。

1920 公衆衛生の改善により黄熱病が根絶される.(でもなぜか、今年(2008年)、私は黄熱病のワクチンを打たなければならない

1921年

5月 チンボラソ州グアノで農民の反乱。翌年にかけて中央高原地帯で先住民による大規模な反乱が発生.当局は残酷な指導者虐殺で応える.

21年 炭化水素鉱床法(Ley sobre Yacimientos o Depósitos de Hidrocarburos)が成立する。

1922年

11.15 グアヤキルでインフレと失業に抗議する労働者のゼネスト.デモに対し警察が発砲。これに怒った群衆が暴動を起こす。タマヨ大統領は大規模な公権力を行使し、数百名を射殺。一部の死体はグアヤス川に投げ込まれたという。

22年 フアン・マヌエル・ラッソ・アスカスビ(Lasso Ascasubi)大佐、カヤンベで社会主義革命を起こそうと計る。

22年 エクアドル経済の生命線であるカカオの木が伝染病により壊滅的打撃.さらにアフリカの英植民地でのカカオ栽培が盛んとなり,エクアドルの輸出は激減.

1923年

9.13 アンバト近郊Tungurahua県のLeito牧場で、先住民が労働強化と労働時間延長に抗議してストライキ。牧場主の依頼を受けた政府軍は、争議中の先住民37人(一説では100人)を殺害する。

23年 アングロ・エクアドル石油会社が、太平洋岸のサンタエレナ半島にあるアンコン(Ancón)油井で原油採掘を開始。

23年 急進自由党が結成される。

1924年

8.31 コルドバ(Gonzalo Segundo Cordova y Rivera)がコスタ農業資本を代表する自由党支配層(La Argolla)の最後の大統領に就任.

9.12 インバブラ県San Jose de Ambi で保守党の反乱。Jacinto Jijon y Caamano and Manuel Sotomayor y Luna.が指導。まもなく政府軍により鎮圧される。

11.16 キトの社会主義者が「La Antorcha」を発刊。

24年 Matilde Hidalgo de Procel、エクアドルで投票する最初の女性となる。

24年 当時第一の輸出用作物カカオが病害により壊滅.大量の失業者を生み出す.

24年 シエラの地主層が「保守党」を結成。相次いで反乱、国内は内戦状態となる。政府は徹底した弾圧策で臨む。

1925年

1月 キトのLa Antorchaを中心に最初の社会主義グループが形成される。

7.09 イルデフォンソ・メンドサ・ベラ軍曹を先頭とするグアヤキルの下士官グループが兵営を占拠。

7月革命(Revolucion Juliana): このクーデターは「社会主義」を唱え、「プロレタリア階級の名において」支配する。アルファロ以来のグアヤキル寡占層による自由党政治終焉.一連の社会改革と労働者保護を掲げるが、寡占勢力の抵抗で混乱。

7.10 キトのカルロス・ゲレロ少佐ら青年将校8人が決起。ピチンチャ兵営を乗っ取った後、50人の部隊が出動し、コルドバ大統領、政府幹部と軍指導部、銀行首脳部を拘束。Luis Telmo Paz y Mino中佐を首班とする最高軍事評議会を樹立する。

7.11 最高軍事評議会、政府機能を停止させ、暫定政府評議会を樹立。フランシスコ・ゴメス・デラトーレ将軍が議長となり、Jose Rafael Bustamante, Luis Napoleon Dillon, Moises Olivaの4人から構成される。13日にはさらにPedro Pablo Garaicoa and Francisco J. Bolonaが加わり、オリバ将軍の代わりにFrancisco Arizaga Luqueが入る。

7月 「商業・農業銀行」(Banco Comercial y Agricola)が細分化された後清算される。頭取 Francisco Urbina Jadoは告訴される。

告訴の理由: ウルビナは銀行の経済力を背景に、国政への絶大な影響力を悪用し、金の裏づけなしに不法に巨額の紙幣を発行させ、経済悪化をもたらした。

7月 グアヤキルの下士官グループはキト新政権に同調せず。

9.22 メキシコ人外交官ラファエル・ラモス・ペドルエサ(Pedrueza)、「レーニン・共産主義宣伝・行動隊」を組織。エクアドル共産党の前身となる。

12.13 キトのスクレ劇場で、社会主義者大会が開催される。

1926年

1.16 第一次暫定政府評議会が解散される。軍事評議会は第二次評議会を組織。メンバーは Isidro Ayora議長のほか, Humberto Albornoz, Julio E. Moreno, Adolfo Hidalgo Nevares, Homero Viteri Lafronte, Jose Antonio Gomez Gault and Pedro Pablo Eguez Baquerizo

1月 Jesus Gualavisi、「フアン・モンタルボ名称農業労働者組合」を結成。エクアドルで最初の先住民農民の組織となる。その後、中央高地の農場に相次いで農民組合が設立される。グアラビシはまもなくカヤンベのChangala牧場で反乱を指導。

4.01 軍事評議会,イシドロ・アヨラ・クエバを暫定大統領に指名(大統領就任は3日).アヨラはコスタの有力者の一員でありながらも, 青年将校と連携し社会改良に力を入れる.(寿里は「ロハ出身の医師で、キト中央大学の学長、社会保障相などをつとめた」としているが疑問)

5.16 キトで7日間にわたりエクアドル社会党(Partido Socialista Ecuatoriano)の創立大会が開催される。グスタボ・イトゥラルデ(Iturralde)を書記長に選出し、エル・プエブロ紙を発刊。

9月 エクアドル社会党、コミンテルンへの結集を決定。

10月 アヨラの招聘により,エドウィン・W・ケメラーを団長とするプリンストン大学からの顧問団が入り,5ヶ月間にわたりエクアドルの調査にあたる。

27年3月 ケメラー調査団、財政・金融構造の再編成を諮問する.社会改革を通じて国家の近代化を目指す.これを受け発券機能を持つ中央銀行(Banco Central)の設立,大蔵省と税関の整備など徴税機構の整備・再編が実行される.国家財政の好転により公務員年金基金が設立されるなど下層階級の生活改善が図られた

10月 リカルド・パレーデス、10月革命10周年記念大会とコミンテルン第6回大会出席のため、ソ連を訪問。

1928年

2月 政府軍、Tungurahua県Tisaleoで先住民14人を虐殺。

8.13 米国、クーデター以来途絶えていたエクアドルとの国交を回復。

8.17 コミンテルン第6回大会。エクアドル社会党を支部として承認。

1929年

1.10 軍と警察、チンボラソ州Coltaで先住民の反乱を鎮圧。数百人が虐殺される。

1.12 コミンテルン大会から帰国したパレーデスが、エクアドル共産党中央委員会で書記長に選ばれる。

3.28 13番目の憲法が制定される.制憲議会はイシドール・アヨラを正式の大統領として選出。大統領権限の縮小と国会の機能強化がうた われる.先住民にも代表権が与えられ、LA諸国で初めて女性参政権を認める.これと並んで一連の社会立法が成立.労働者保護と労働条件の改善を図る.

4.17 制憲議会により選出されたイシドロ・アヨラが立憲大統領に就任。副大統領は置かず。

5.18 モンテビデオでラテンアメリカ労働組合連合の設立総会が開かれる(8日間)。

6.01 ブエノスアイレスで、第一回ラテンアメリカ共産党会議が開催される(12日間)。

9.29 ラタクンガ近郊のティグア農場で虐待の中止と労働条件の改善を要請した労働者10人が虐殺される。

10月 ウォール街で大暴落。農産物輸出額は前年の1500万ドルから700万ドルに低下。

1930年

8.21 社会党、労働者・農民救援会(Socorro Obrero y Campesino)を結成。先住民・農民闘争の防衛に当たる。

12月 エクアドル社会党が社会主義派と共産主義派に分裂。リカルド・パレーデスが共産主義派を指導。

12月 チンボラソ高原で先住民を主体とする農民闘争が相次ぐ。

1931年

2.01 カヤンベ県Juan Montalvoで第一回農民組織大会 (Primer Congreso de Organizaciones Campesinos)が企画されるが、軍の弾圧により流会となる。

8.24 アヨラ政権,ファシスト蜂起と結合した軍事クーデターにより打倒される.ファシスト蜂起を主導した全国労働者結集(Compactacion Obrera Nacional)が勢力を伸ばす.全国労働者集合は高地の貧困層を基盤とし,下層労働者の支持を受けていた.

8.25 ルイス・ラレア・アルバ大佐(大統領府長官)が執行権者(Encargado del Poder)として残留する。

10.06 エクアドル社会党の主流派,大会を開催(10日間)。独立した政党となり、エクアドル共産党(Partido Comunista Ecuatoriano)に改称.レバノン人入植者のペドロ・サアドが指導。青年組織としてエクアドル共産青年同盟を結成。

10.15 ラレア、独裁権を獲得しようとクーデターを起こすが失敗。7人が死亡。

10月 アルバ大統領が辞任。Alfredo Baquerizo Moreno上院議長が執行権者に就任。この後47年までの16年で25人の大統領が交代し,6回も憲法が制定され,数十回の革命や反乱が発生するなど,エクアドル政局は混迷.

31 大恐慌により経済が崩壊.カカオの輸出は28年の1500万ドルから,31年の7百万へと激減.32年には5百万まで減少する.

1932年

4月 キトで反革命派の反乱。政府軍により鎮圧される。

5 クーデター後最初の大統領選挙.コンパクタシオンの支持を受けたNeptali Bonifaz Ascazubiが、自由党候補フアン・デ・ディオス・マルティネス・メラ(前上院議長)を破り当選.アスカスビはGuachala牧場を所有する大地主。

8.20 次期大統領Neptali Bonifaz Ascazubiは、ペルーとの二重国籍者であることが発覚する。自由党と左翼勢力が握る議会はボニファスの失格を決議し、就任阻止に動く。

8.27 コンパクタシオンに支持されたキトの軍の一部は、ボニファスを擁立して反乱。

8.28 軍事評議会のAlfredo Baquerizo Moreno 議長、大統領府長官のCarlos Freile Larrea を新たな執行権者に指名。(31年8月の記載との異同は?)

8.28 ボニファスに反対する自由党派の軍がキトを北と南から包囲する。

8.29 4日間戦争(Guerra de los Cuatro Dias)と呼ばれるキト市街戦が起こる。軍主流はこの間動かず.

8.31 フレイレ・ラレアが辞任。軍事評議会は後継者を指名できず。

9.02 4日間戦争が終わる。自由党のマルティネス・メラが執行権者に選ばれる。コンパクタードス(コンパクタシオンを支持する都市貧困者)を中心に1千名以上が死亡。

10月 大統領選挙。自由党のフアン・デ・ディオス・マルティネスが勝利するが、選挙不正を非難する動きが強まる。

12.05 マルティネス・メラが立憲大統領に就任。下院議長ホセ・マリア・ベラスコ・イバラが先頭に立ち、マルティネスの提出した人事案件を次々に否決。

1933年

4月 グアヤキルで最初のPCE中央委員会総会が開かれる。社会党少数派はエクアドル社会党の再建に動く。

10.17 大統領選挙が行われ、マルティネス・メラが勝利する。上院は大規模な選挙違反があったとしてメラの大統領就任を認めず。

10.20 メラに代わりAbelardo Montalvo大統領府長官が執行権者に指名される。モンタルボは新たな選挙を召集する。

選挙の不正を訴える声が高まる.議会は閣僚候補をことごとく否認.下院議長のホセ・マリア・ベラスコ・イバラ(保守党)は,議会対政府の対立を煽る.これに呼応してコンパクタシオンは連日街頭行動を展開.

12月 議会、メラを弾劾。これにともない下院議長のベラスコが暫定大統領に就任。ベラスコは保守党の扇動政治家として知られる。

12.14 大統領選挙。保守党のホセマリア・ベラスコ・イバラが,都市貧困層の支持を得て当選。共産党からはパレーデスが立候補する。(このあたりの時間経過は混乱しています)

33年 海岸地帯でユナイテッドフルーツ社によるバナナ農園の開発進む.

1934年

9.01 ベラスコ,立憲大統領に就任.当初は社会保障制度を導入するなど進歩的改革を実施.

34 ホルヘ・イカサ(Icaza),搾取に対する原住民の抵抗の物語「Huasipungo」を発表.

34年 織物工場で大規模なストライキ。

34年 ガラパゴス諸島が国立天然資源保護区に指定される。

1935年

2月 チンボラソで賃上げと虐待停止をもとめる農民闘争が高揚。

7月25日 コミンテルン第7回大会。

8.20 ベラスコ,軍の一部と謀り国会を解散。野党指導者を逮捕し独裁権力の確立を目指す.

8.21 軍部若手将校団,ベラスコを逮捕・追放.大統領府長官アントニオ・ポンスが執行権者となる。ベラスコは後に「私は銃剣めがけて突進した」と述懐する。

9.26 ポンス、権力を将校団「評議会」に委譲する。評議会は議会を無視し、フェデリコ・パエス前上院議員を首班(Encargado del Mando Supremo)とする政権に執行権を引き渡す。

10月 パエスは最初は左翼,後に右翼の支持を得ながら,アヨラ改革の復活を目指すが,財政困難によりほとんど成果なし.

11.05 キトで、先住民運動指導者会議(Conferencia de Cabecillas Indigenas)が開かれる。

12.25 エクアドル共産党、ミラグロで最初の全国大会を開催。

1936年

10 前大統領ベラスコ・イバラ、反乱を開始するが政府軍により鎮圧される。

11.28 「4時間の反乱」(Las cuatro horas)が発生。ベラスコ派のキトのカルデロン連隊に解散が命じられる。連隊兵士は指揮官や将校を殺害し街頭に出るが、多くが虐殺される。

11月 パエス大統領、クーデターに参加したとして共産党を弾圧。

36年 先住民防衛中央委員会(Comite Central de Defensa Indigena)が創設される。

1937年

8.06 先住民保護をうたう共同体法(Ley de Comunas)が発布される。

8.10 パエス、制憲議会を招集。立憲大統領を宣言する。

10.22 アルベルト・エンリケ・ガリョ(Gil Alberto Enríquez Gallo)国防相がクーデターニより議会を解散.改革への情熱を失い保守化したフェデリコ・パエスは辞任し国外に去る.

10.23 エンリケスは軍の支援を得てみずから臨時大統領に就任.1906年憲法(アルファロ憲法)の復活、パエスの制定した「Ley de Seguridad Social」の廃棄を宣言。1年足らずの任期のあいだに,財政の近代化,労働憲章を公布するなど社会改革に着手.

37年 石油法(Ley de Petróleo)、外国石油会社にコンセッションが与えられる。

1938年

1月 エンリケ大統領,米国資本の南米開発会社(石油)との交渉を開始.エクアドル側の利権拡大,労働者の賃金増加,利益のエクアドルへの還元率の上昇を訴える.国務省の支持を獲得した石油会社はエクアドル側の要求を全面拒否.

4月 反政府派の反乱。

8.05 労働憲章(Codigo del Trabajo)が発布される。

8.10 エンリケス将軍、辞任を表明し制憲議会を招集。議会はManuel Maria Borrero Gonzalez を暫定大統領に指名。

8月 ペルーとの国境問題をめぐる交渉が失敗に終わる.その後も小規模な国境紛争が相次ぐ.

12.01 マヌエル・ボレロが制憲議会に辞表を提出。アウレリオ・モスケラ・ナルバエスが暫定大統領となる。制憲議会は第14次憲法を採択。

12.14 警察と軍の支持を得たモスケラ、制憲議会を解散し、あらたに特別議会を招集。

38年 共産党が合法化される。超党派的なエクアドル中央労働評議会が組織される。教会勢力はこれに対抗しカトリック労働者連合(CEDOC:Confederacion Ecuatoriana de Obreros Catolicos)を結成。

1939年

2月 特別議会、1906年憲法の復活を宣言。

11.17 モスケラ大統領が腎不全のため死亡.カルロス・アルベルト・アロヨ・デル・リオ上院議長が暫定大統領(Encargado del Poder Ejecutivo)に就任.(副大統領とする記載もあるが、米国と同じく副大統領が上院議長を兼務するのか?)

12.11 アロヨは大統領選出馬のため3週間で辞任。フェルナンデス・デ・コルドバ下院議長(Andres Fernandez de Cordova Nieto)が後任の執行権者となる。

1940年

1 大統領選挙.軍の支持を得た自由党のアロヨが,不正選挙によりベラスコを破り大統領に「当選」.その後ベラスコ派への烈しい弾圧により地位を固める.ベラスコはふたたびコロンビア(チリ?)に亡命.

8.10 ペニャエレーラ下院議長(Julio Enrique Moreno Penaherrera)がコルドバ後任の執行権者となる。

9.01 アロヨが大統領に就任。経済の回復を背景に政権の維持に成功.グアヤキルの親米派「金権政治」の代表者とされる。

1941年

7.05 アマゾン地方の領土の帰属をめぐりペルーとのあいだで「十日戦争」.2年間にわたる紛争となる.ペルーがエル・オロを突破口に大規 模な侵攻作戦.エクアドルは,準備不足のまま敗退を続ける.首都が手薄になることを恐れたアロヨ大統領は,軍主力をキトに残留させる.

7.23 Zarumilla.の戦い。ペルー軍は,落下傘部隊の活躍によりエクアドル軍を撃破.

7.24 アルゼンチン、ブラジル、米国が停戦をもとめる。

7.27 ペルー軍、エクアドル領内のプエルト・ボリーバルを占拠.

7.29 ペルー軍がエル・オロの町を占領。その後1週以内に係争地域のすべてを確保.エクアドル軍はマラニョン河沿いのサルミージャの町を辛うじて支配.

7.31 ペルー軍が一方的停戦を宣言。国境での戦闘終結.エクアドルは挙国一致体制をとれぬまま敗退.

10.02 ブラジル、アルゼンチン、米国の大使館付武官の調停によりタララ協定が締結される。ペルーが新たに確保した地域は非武装地帯とされるが、ペルー軍はエクアドル南部諸州にそのまま残留.エル・オーロ州などエクアドル領の約半分を確保.

41 米国政府,戦争協力を得るため,エクアドル鉱業会社への支持を終わらせる.アロヨdelリオ大統領は,ガラパゴス諸島の海軍基地,サンタエレナ半島のサリナスに空軍基地を建設することを承認.

1942年

1 リオデジャネイロで第三回米州外相会議.会議に平行してペルー=エクアドル国境紛争の調停が続く.

1.29 両国,米州外相会議の調停を受入れ「平和・友好・国境議定書」(通称リオ議定書)調印.アマゾン地域の係争地2/3(20万平方キロ)をペルーに割譲.

2 反アロヨ派は民主連合を結成,保守党から共産党まですべての党派が参加.

2.26 エクアドル議会,リオ議定書を僅差で批准.反対派は民主同盟を結成し,「国家の名誉を守ることができなかった」アロヨ政権の打倒を目指す.保守党から共産党まですべての党派が参加.インフレに苦しむ労働者もこの運動に結集,アロヨは孤立を深める.

42年 エクアドル、日独伊との外交を断絶。キトのドイツ人学校は閉鎖され、ドイツ人は拘留され米国に送還される。

1943年

5.28 武装市民が政府宮殿を襲撃。アロヨ大統領の辞任をもとめる。警備兵数人が殺害される。

7.05 警察学校が創立される。

9.14 キトの知識人を中心にエクアドル先住民協会(Instituto Indigenista Ecuatoriano, IIE)が設立される。

1944年

5.27 ヒロン少佐の率いる民主同盟,共産党と社会党の支持をえてグアヤキルで武装デモを展開(5月革命).陸軍はこれを見てアロヨ・デル・リオに退陣をせまる.

5.28 軍の一部が反乱。市民と合流し警察軍本部を襲撃し数百人を殺害する。リオバンバでは警官が虐殺され死体は引きちぎられる。

5.29 ベラスコ,亡命先のコロンビアから陸路エクアドルに入る。各地で民衆の圧倒的な歓迎.

5.31 アロヨ、「内戦の脅威を避ける」ため辞任する。

6.01 キトでベラスコ歓迎集会.雨の中集まった民衆を前に,ベラスコは「国家の名誉を傷つけた自由党寡頭政治に対し,司法の手を入れ,相当の処罰を与える」と演説.「民族の復活」と社会正義の実現,腐敗の一掃を誓う.

6.04 ベラスコ,最高統領となる。アロヨ派に対する一斉弾圧を開始.アロヨ派の活動家は投獄され,国外に追放される.しかし非アロヨ派の政財界人はベラスコの庇護の下に置かれる.

7.04 左翼系の労組が合同し、エクアドル労働者連合 (Confederacion de Trabajadores del Ecuador:CTE)がキトで創立大会。エクアドル中央労働評議会に対抗。

7 憲法制定会議が召集される.民主同盟内の左派が多数を占める.共産党は85議席中15議席を獲得。ベラスコ政権に教育相を送り込む。史上初の女性議員は共産党のネラ・マルティネスだった。

8.06 共産党の支援の下に、土地制度の改革を目指すエクアドル先住民連合(Federacion Ecuadoriana de Indios, FEI)が結成される。

8.10 ベラスコ、制憲議会を招集。立憲大統領に選出される。

1945年

3.06 左派が主体を占める憲法制定会議、民族主義的な憲法草案を採択.保守派と結託したベラスコ,憲法制定会議による憲法草案を拒否.左翼が主流を握る議会との対立が決定的になる.

5 議会、ベラスコの反対を押し切り憲法(第14番目の憲法)を発布。

45年 労働・社会福祉省、先住民局(Departmento de Asuntos Indigenas)を設置。

45年 エクアドル、ソ連との国交を樹立。

1946年

3.30 ベラスコ、カルロス・ゲバラ・モレノ大統領府長官と共謀し、クーデターを画策。憲法制定会議を解散し,あらたに制憲議会を招集.

6.30 自由党が選挙をボイコットした結果、保守党が議会の過半数を占める。制憲議会は保守的な憲法草案を起草.ベラスコはこれを受け入れる.左翼はいっせいに反発,右翼はベラスコ支持に回る.

8.03 自由党の反乱が鎮圧される。ベラスコは共産党を非合法化し、メンバー多数を逮捕。

8.11 ベラスコ・イバラ大統領、制憲議会によって再選される。副大統領にはマリアーノ・スアレス・ベインテミリャがつく。

12.31 保守派の手に成る第15番目の憲法が発布される。副大統領職を復活。最高選挙裁判所を設置し、市民権の条件として18歳以上の市民で読み書きできることを付加する。

11.16 キトで第三回共産党大会。

46年 先住民運動の指導者が各地でバイリンガルの学校を創設する。

1947年

3.14 ベラスコの退陣を求める一部軍部の反乱。

4.19 FEI、キト中央大学で先住民指導者会議(Conferencia de Dirigentes Indigenas) を開催。

8.23  ベラスコ政権,国防相カルロス・マンチェノ(Carlos Mancheno Cajas)大佐のクーデターにより崩壊.ベラスコはアルゼンチンに亡命(このあとさらにみたび大統領となる).ベラスコの腐敗政治の下でインフレが進 行.外貨保有残高は,危険ラインを突破.

8.28 マンチェノ大佐が自ら大統領となる左派政権が成立。

8月 マンチェノ、南部に兵を送るが、アンバト県Puente del Socavon およびヤンボ(Yambo)で Angel Baquero Davila大佐の立憲軍に武装解除される。

9.02 マンチェノ政権から排除される。左派政権はわずか4日間で崩壊。スアレス前副大統領が立憲大統領の地位につく。

9.15 特別議会が開かれる。スアレスは辞任、保守党のカルロス・フリオ・アロセメナが暫定大統領、Jose Rafael Bustamanteが副大統領に就任する。保守派政権の復活。アロセメナは後のアロセメナ・モンロイ大統領の父.

47年 先住民問題評議会(Junta de Cuestiones Indigenas)が創設される。土地と水などに関する先住民の権利保護に当たる。

47年 保守党政権の樹立にともない、ソ連との外交が断絶される。

1948年

5月 Cayambeでの反乱。diezmos and primiciasが最終的に廃止される。

6.06 大統領選。独立自由党と社会党は連合し全国市民民主運動(Partido Movimento Civico Democratico Nacional)を結成。ガロ・プラサを候補とする。僅差で保守党候補をやぶり25年以来の自由党政治が復活する.共産党も合法活動を認められる。

9.01 ガロ・プラサが大統領に就任。プラサ政権は,何回かのクーデターの危機を抑え親米自由主義政策と福祉国家的経済開発を進める.

ガロ・プラサ(Galo Plaza Lasso 独立系の自由党員(地主層出身)で前大統領グティエレスPlazaの息子.米国で生まれ,米国の大学を卒業し,アロヨ・デルリオ大統領の下で駐米大使を務める.プラサはのちに米州機構の事務総長をつとめる.

9月 プラサ政権の下で「金融政策法」(Ley de Regimen Monetario)が制定され。中央銀行の下に「金融評議会」が設置される。国内政治はおりからの農産物の高価格に支えられ,相対的な安定期に入る.

1949年

2.12 H. G.ウェルズの小説「世界戦争」のリアルな放送が全市を巻き込むパニックとなる。暴徒が放った銃により6人の人々が死ぬ。

8.01 グアヤキルで第4回共産党大会。

8.05 マグニチュード6.75の地震が発生。ペリレオは廃墟と化し、アンバトでも建物の3分の2が崩れる。Tungurahua, Chimborazo、 Cotopaxi県で6000人の死者が出る.

1950年

7.15 プラサ政府を批判したCarlos Guevara Moreno, Rafael Coello Serrano らが収監される。(下の事項とはだいぶニュアンスが違います)

7.16 元内相カルロス・ゲバラ・モレノ、グアヤキルで反乱を起こす。政府軍により鎮圧。このあとゲバラ・モレノは「人民勢力集合」(Concentracion de Fuerzas Populares-CFP)を創設し、グアヤキルを中心に勢力を拡大。

11.25 先住民・農民勢力の支持も得て最初の国勢調査が施行される。

50 バナナ・ブームが始まる.バナナ輸出は、1948年の2百万ドルから,1952の2千万ドルまで拡大.病害で悩まされる中米のバナナ農場を尻目に,瞬く間に世界最大のバナナ生産国にのし上がる.

50年 最初の国勢調査が実施される。エクアドル人口は3,211,916人、キトが209,932人、グアヤキルが256,966人。

51.11.04 ゲバラ・モレノ、グアヤキル市長選挙に立候補し当選。

1952年

3.03 グアヤキルで軍事反乱。13日にトゥルカンで暴動発生、2人が死亡。

3.23 ベラスコ支持派がキトで平和的デモ。警察の弾圧により1人が死亡、多数の負傷者を出す。

4.13 大統領選挙を前に、エドワルド・サラザール・ゴメスを押すアクアドル民主連合(Alianza Democratica Ecuatoriana)と、ベラスコを擁立する自由党が激突。クエンカで一人が死亡。26日にはキトの衝突で2人が死亡。

6.01 ベラスコ,グアヤキルの「人民勢力集合」と連合し,みたび大統領に当選.

7.24 Ambato.で第5回共産党大会。

9.01 ベラスコ・イバラが第3回目の大統領に就任。

9.12 グアヤキルを中心に反政府暴動が発生.人民勢力連合とベラスコ=自由党との間の矛盾が激化。

12.09 ベラスコは「人民勢力集合」党首のカルロス・ゲバラ・モレノをはじめとする指導者を逮捕し国外追放.独裁権力を獲得する.バナ ナ景気に支えられ,初めて4年間の任期を全うする.CFPに代わり保守のキリスト教社会運動(MSC),極右のエクアドル国家主義革命行動(ARNE)が 与党となり勢力を伸張.

53.7.22 チンボラソのガルテ農場で、先住民労働者が8ヶ月のストライキのすえ勝利。

8.06 ピンタグのメルセド農場の争議。労働者の大虐殺により終焉。

1954年

1.10 PitanaのGuachala農場で争議。警察は労働者4人を殺害し、多数を負傷させる。

6月 エクアドル共産党指導者のドロレス・カクアンゴ,原住民運動の組織化に着手.

9月 海岸部で農業労働者連合(FTAL, Federacion de Trabajadores Agricolas del Litoral) が結成される。高地の農民はFEIに組織されるようになる。

54年 最初の全国土地調査が行われる。

55 鉄道労働者(Sindicato de Ferroviarios)の全国スト.政府は非常事態を宣言しストを中止させる.学生のストライキでも学生一人が弾圧の犠牲となる。

55 ベラスコ,米国漁船2隻を200海里領海内に侵入したとして捕獲.アメリカを相手に「マグロ戦争」をしかける.

1956年

1月 アマゾン低地に布教に入った米国人宣教師五人がアウカ族により惨殺される。

4.27 Pichincha、Imbabura、Cotopaxiなどの農民運動指導者がキトで会議。

6.03 大統領選挙.ベラスコの閣僚だったMSC創設者のカミロ・ポンセ・エンリケが大統領に当選.

8.08 アルトゥーロ・ダビラ中佐、Jose Maria Plaza中佐ら,ポンセの大統領就任を前にマナビ県で武装反乱.3日後に政府軍により鎮圧される。

8.31 ポンセが大統領に就任。ベラスコは当初ポンセを支持したが,まもなく反対に回る.ポンセは保守党のほか自由党を政権に入れ,ベラスコに対抗.

1957.5.24 共産党の第6回大会がキトで開催される。

58年 バナナ・ブームが終焉.失業と社会不安が広がる。

1959年

1.01 民間企業の従業員に失業保険が適用される。

6.03 グアヤキルとポルトビエホで暴動が発生.ポンセは徹底弾圧を命じる。警官との衝突で37人が死亡。

7.20 ガラパゴスが国立公園に指定される。

59年 先住民、Pesilloで90日のストライキ。代表がキトに向かい行進。

1960年

3.19 キトでベラスコ派の暴動。7人が死亡。

8.20 ミラグロで先住民の決起。

9.01 ベラスコ,4回目の大統領に就任.副大統領にCarlos Julio Arosemena Monroy。土地改革,公共住宅の建設,資本家に対する増税の公約を掲げるが,相変わらずの反米デマゴギーに終始する.

9.29 国土の東半分をペルーに割譲したリオ議定書の無効を宣言.

10.15 労働者評議会、キトで最初の全国農民会議を開催。

60 バナナ輸出は45年の2万トンから90万トンまで拡大.輸出額の2/3を占めるに至る.

60 CFPの党首選挙.グアヤキルの露店商人上がりのAsaad Bucaram Elmhalimがゲバラ・モレノに代わり委員長に就任.その後二度にわたりグアヤキル市長に当選.

寿里によればブカラム家は07年にレバノンから移住し露天商から財を成した。大統領選挙では姪の婿ハイメ・ロルドスを候補に押し立てた。

 

1961年 アロセメナと民族主義の高揚

3.02  ベラスコ,ロハで演説.「われわれが住宅を建設できずにいるのは,米国がキューバ断交を迫り借款を遅らせているからだ」と発言.これをきっかけにキト,グアヤキルなどで「キューバシー,ヤンキーノー」を叫ぶ連日のデモ.

6  バナナ,ココアなどの国際価格下落により経済悪化.政府はIMF要請を受入れ為替レート一本化,増税,賃金凍結,首切り合理化を断行.

6 カルロス・フリオ・アロセメナ・モンロイ副大統領兼下院議長,キューバのカストロに対する共感を表明.アロセメナ(Carlos Julio Arosemena Monroy)はグアヤキルの名門で,父親は47年の反ベラス・コクーデターのあと短期間,大統領を務めた経歴を持つ.

7月 アロセメナ,ソ連・東欧諸国を歴訪.緊縮政策を中止し経済困難を社会主義国との関係強化により乗り切るよう提言.

8月  ベラスコ,左右対立の激化のなかで独裁的性格を強める.アロセメナは下院議長として公然とベラスコに反旗を翻す.政府の支持者が議会を銃撃.大統領と議会は最悪の関係となる.

9.13 アマゾン地方南部にヒバロ・センターの地方協会が設立される。サレジオ会の教会活動家が中心となる。サレジオ会は左翼系の農民運動に対抗する立場から、先住民組織の民族性を強調。文化・宗教・医療・バイリンガル教育の要求を前面に掲げる。

10.16 政府当局、セザール・パレーデス大佐と共産主義者による反政府の陰謀を摘発したと発表。

11.03 緊縮政策の中心となる売上税新設をめぐり,国内は騒然となる.クエンカでは群衆と警官隊が衝突。労組はゼネストや波状デモで対抗.

11.05 グアヤキルその他の町でデモ隊と警察の衝突事件が相次ぐ。11人が死亡、14人が負傷。

11.06 ベラスコ,アロセメナを解任し逮捕・投獄.ベラスコ支持者は議会を銃撃し,議員がこれに応戦する事態にまで発展.労働総同盟,アロセメナを支持してゼネスト入り.陸軍はベラスコを支持するが,空軍と工兵隊がアロセメナを支持したため軍は動けず.

11.07 空軍機が議事堂上空を旋回,陸軍部隊がベラスコに辞任を迫る。

11.08 反対派のデモの中でベラスコは辞表を提出.軍は政府の運営を最高裁長官Camilo Gallegos Toledo にゆだねる。

11.08 議会は憲法にもとづき政権の連続性を保障。獄中のアロセメナを立憲大統領に指名。

11.09 出獄したアロセメナ副大統領が,大統領に就任.容共派との確執を和らげるため,自由党・保守党を含む内閣を組織.ガロ・プラサ前大統領を特使としてワシントンに派遣するなどの措置.

11月 アロセメナ大統領令により全国農業改革委員会を創設。

12.16 先住民・農民1万2千人が農地改革をもとめ、キトに向け行進。

1962年

1 OAS外相会議(プンタ・デル・エステ),キューバ除名と制裁を決議.ブラジル,メキシコ,アルゼンチン,チリ,エクアドル,ドミニカは米国の制裁案に反対.その後これらの国に対し,CIAの政府転覆策動が強まる.

3.09 グアヤキルで第7回共産党大会。

3月 エクアドル南部海岸のユナイテッド・フルーツ社テンゲル農場を労働者が占拠。

3 軍部のクーデター計画が発覚.アロセメナの親キューバ政策に,親米派の批判が高まる.米南方軍司令官ボガードは,陸軍幹部と結託しエクアドル政府に直接介入,キューバ断交を迫る.

4.03 アロセメナ政権は当初,国民投票に持込もうとするが,軍部の圧力に屈しキューバ,ポーランド,チェコと断交.

4.25 アロセメナ,さらに右翼に屈伏.「進歩のための同盟」の協定書に調印.政府から社会党閣僚を追放,共産党や学生連盟指導者への弾圧に着手.これに対抗して左翼は統一組織人民革命運動(NPR)を結成.

5月 中部高原地帯で全国のうち調査に対する抗議運動が広がる。ペシジョでは土地なし農民が賃上げと土地を求めストライキ。

6.03 国会議員選挙。保守党が下院73議席中51を獲得。アロセメナ派は22議席にとどまる。

8.15 Tungurahuaで先住民Salasaca族が、利水権を求め闘争。当局は農民を大量虐殺。

62年 この年、先住民人口は4,581,476人に達する。

 

1963年 第一次軍事政権

7.11 米国とつながるラモン・カストロ・ヒホン提督(海軍参謀長)による軍事クーデター.アロセメナ政権を倒し憲法停止,4人からなる軍事評議会を設置.アロセメナはパナマに亡命.

7.12 軍政評議会,経済改革が完了するまで民政復帰は行わないと宣言.市民弾圧を開始.共産党を非合法化し、党員多数を逮捕・追放し,二つの国立大学を無期限閉鎖.同時に「進歩のための同盟」の立場から土地改革にも着手.

クーデターを推進したのは石油メジャーの一つ、テキサコといわれる。オリエンテ(アマゾン)のラゴアグリオに大規模な油田が発見された。

1964年

1月 ガラパゴスへの新規入植が禁止される。

7.01 政府評議会,創設1周年を機に農地改革法(Ley de Reforma Agraria y Colonizacion)を発表.高地における封建遺制ウアシプンゴ(労働貢納)制度を廃止するというもの.結局資金難から目標の半分以下に終る.

10.22 社会福祉省、先住民組織のシュアル・センター連合(Federacion de Centros Shuar)を公認する法律を公布。シュアルは解放神学の影響を受けたカトリック教会の進歩的なセクターの後援で組織された。

64 エクアドルは世界のバナナの25%を供給.

64年 ノース・アメリカン・テキサコとガルフのコンソーシアムが、アマゾン地域の石油開発コンセッションを獲得。アマゾン地域のラゴアグリオ油井で原油採掘を開始する.

64 非合法下のエクアドル共産党が分裂。親中国派はマルクス・レーニン主義共産党(PCMLE)を結成.

1965年

3.09 CEDOCの公認の下に、エクアドル農業労働者連合(FETEP, Federacion Ecuatoriana de Trabajadores Agropecuarios 68年にFENOCに改称 )が結成される。

11月 政府評議会の空軍代表,アロセメナを擁立する反乱を企てたとして更迭.その後逮捕される.政府評議会は3人制で運営されることとなる.

1966年

3 バナナ価格の暴落から深刻な不況に陥る.輸入税を新設しようとした軍部に対し,グアヤキルの商工会議所がゼネストを呼びかける.これまで抑えられていた労働運動・学生運動に火がつき,たちまち全国に拡大.

3.23 精鋭のパラシュート部隊がキト中央大学を襲撃,流血の事態となる.

3.29 この間の衝突で100人以上が死亡。高まる抗議を前に財界主流も政権から離反.統治能力に自信を失った軍事評議会は,政権を放棄.

3.30 キトの「有識者評議会」(Junta de Notables)、クレメンテ・ジェロビ・インダブル(Yerovi Indaburu)を臨時大統領に指名.イエロビは無党派のバナナ農園主で,ガロ・プラサ政権で経済相を勤めた.

10.16 立憲議会選挙.自由党が勝利。

10.28 中部高原で先住民の農場占拠闘争が拡大。チンボラソ州の農業生産は実質的にストップ。

11.17 制憲議会、憲法制定までの暫定大統領としてオットー・アロセメナ・ゴメスを選出。オットーはカルロス・フリオの甥に当たり,政治的には中道右派.

1967年

3月 テキサコ・ガルフ、東部ジャングル地帯のラゴ・アグリオで最初の油井を掘り当てる。

4.14 プンタ・デル・エステ(ウルグアイ)で米州首脳会議。アロセメナ大統領は米国の通商帝国主義を非難する演説。

5.25 キトの立憲議会により新憲法(独立以来16番目)が公布される.アロセメナが立憲大統領に選出される。

1968年

6.02 新憲法にもとづく大統領選実施.75才のベラスコが,全国ベラスキスタ連合(FNV)をバックに五度目の当選を果たす.これまでと異なり,得票率は1/3に過ぎず.

7.02 ロハ州Canton Calvasで土地占拠農民に対し警察が発砲。8人のarrimadosが殺され22人が負傷する。

7.30 学生と軍の衝突。学生一人がライフルで射殺される。

8.04 グアヤキルで共産党が第8回大会を開催。分裂からの再建を目指す。

9.01 ベラスコが大統領に就任.国防相で甥のホルヘ・アコスタ・ベラスコ将軍を通じて軍部が政権をコントロール.議会での多数派工作に失敗.最初から手詰まり状態に陥る.グアヤキル自由党出身のJorge Zavala Baquerizo副大統領もベラスコを批判するようになる.

11.26 進歩的な聖職者の援助を受け、農民運動全国連合(Federacion Nacional de Organizaciones Campesinos, FENOC)を結成。FETEPに対抗して農民の土着性を強調。

68 ベラスコ,「ヤンキー帝国主義」非難のポーズを見せかけながら,石油法改正により米メジャーに9百万ヘクタールの土地を供与.

68年 テキサコ=ガルフ、ラゴアグリオ油井に続きシュシュフィンディ油田で原油を採掘。

1969年

5月 アンデス地域統合(ANCOM),LAFTAのサブ・リージョナル機構として創設.外資導入を厳しく規制し,経済的自立をめざす.域内貿易はその後の十年間で1億から9億ドルに増加.ベネズエラは遅れて73年に加入.

69年 石油問題を扱う天然資源省が創設される。

1970年

6.22 議会少数派のベラスコ,オロ州のスト弾圧を契機にアウトゴルペを起こす.議会と最高裁判所を解散し独裁権力を握る.キトとグアヤキルに戒厳令を敷き、通貨スクレの切り下げ,外国為替業務への厳しい統制,輸入関税の大幅引き上げ,新税創設などを次々と断行.

9月 ベラスコ,「マグロ戦争」を宣言.反米感情を煽ることで政治基盤の維持を図る.

70年 海岸部の農場のうち未耕作地が収用される。

1971年

1 エクアドル,米国の世界最大のマグロ漁船アポロン号を2百海里侵犯によりだ捕.10万ドルの罰金を課す.米国は軍事・経済援助停止で応える.エクアドルは軍事使節団の国外退去措置で対抗.

1.31 OAS外相会議,米・エクアドル漁業水域紛争の当事国間交渉を勧告.

3.13 外国銀行規制法成立.

3.31 キトで政府軍兵士250人が反乱。

4 ベラスコ国防相,キト軍事学校の反ベラスコ派を追放しようとして失敗.逆に国防相の地位を追われ,マドリッド大使として転出.

71 ベラスコ,新憲法草案を発表.国民投票にかけようとする.市民の騒乱が相次ぐ中で断念.

71年 バラオ油田とエスメラルダの間に石油パイプラインの敷設が開始される。

71年 炭化水素法(Ley de Hidrocarburos)が制定される。石油開発をコンセッション方式から契約方式に変更した。発効は30 年後という有名無実の法律。

71年 フィデル・カストロがグアヤキルを訪問。

71年 エクアドルは中国の国連加盟に賛成票を投じる。

 

1972年 第二(?)次軍事政権

2.15 大統領選を4カ月後に控え,ふたたび軍事クーデター.ベラスコを放逐.カルナバルの最中におこなわれたことからCarnavalazo と呼ばれる。

クーデターの背景: 来るべき選挙ではグアヤキル市長を二期にわたって勤めたCFPのアサアド・ブカラム・エルムハリムが有力視されていた.元行商人でポピュリスト的傾向を持つブカラムが石油利権を握ることに,CIAと軍部・財界が強い警戒感を抱き、予防クーデターを敢行した.

2.16 陸軍参謀総長のギジェルモ・ロドリゲス・ラーラ(Bombita),海軍のアルフレド・ポベダ・ブルバノ提督ら三人からなる軍事評議会成立.

2.17 ロドリゲス・ララが国家元首を宣言。対外的にはペルーの軍事政権にならい「革命的民族主義」政策をとる.資源ナショナリズムを称 え、前年成立の炭化水素法を発効させる。石油公社とタンカー会社を創設,OPECに加盟.メジャーに供与した土地の半分を返還させ,残りの土地の賃貸料を 十倍化.国内では左翼勢力に過酷な弾圧.

2月 軍事評議会,前大統領オットー・アロセメナらを石油汚職の疑いで逮捕.グアヤキルの支配層は政権内の進歩勢力に警戒感を表明.

6.02 FENOCの中核組織として「エクアルナリ」(Ecuador Runacunapac Riccharimui)が結成される。Runacunapac Riccharimuiはキチュワ語で「先住民の目覚め」を意味する。まもなく教会の影響を離れ左翼化。FEIと共同するようになる。

8.01 パイプラインが完成。石油輸出が開始される。

11 エクアドル中央大学の学長,国際赤十字と国連人権委員会に,政治犯への拷問に関する調査団を派遣するよう要請.共産党のリカルド・パレデス議長は亡命,ペドロ・アサド書記長やルイス・バルディビエソ書記など幹部は地下に潜行.

72 エクアドル国営石油会社による東部の石油開発すすむ.LagoAgrio(現Nueva Loja)、Shushufindi、Sacha、Aucaなどの油田が相次いで開発される。アンデスを越え太平洋岸のエスメラルダ港に達するトランスエ クアドル・パイプラインが完成し,輸出を開始.

72 軍事政権,国内政治勢力からの支持が得られず孤立.ギジェルモMaldonado農相の提起した「意味がある農業改革」は,旧支配層の強固な反対の前に挫折.

72年 150年前の独立戦争当時の対英負債が完済される。

1973年

6月 Gustavo Jarrin Ampudia自然資源相,OPEC加盟を発表.Texaco-Gulfなどと石油利権について再交渉し,ロイアリティー,固定資産税,石油輸出税などの改善をかちとる.

8.18 FEI, FENOC、Ecuarunariにコスタの農業労働者グループが加わり、農業改革統一戦線(Frente Unitario de Reforma Agraria, FURA)を結成。キトで全国集会を開催。

10.09 政府、第二次農業改革法を公布する。

11.15 グアヤキルで共産党の第9回大会。

73年 石油輸出が,バナナを抜いて第一位となる.エクアドル国家石油会社(Corporacion Estatal Petrolera Ecuatoriana-CEPE)がEsmeraldasに石油コンビナートを開設.

1974年

6.06 CEPE がテキサコ=ガルフ・コンソーシアムの株式を25%購入し、CEPE=テキサコ=ガルフ・コンソーシアムが成立。

7.11 ロドリゲス政権,政治活動を5年間禁止.ベラスコ派に対する弾圧を強化するいっぽう,石油収入を基礎に農業基盤,金融改革,社会プロジェクトへの大規模な投資.

9.26 警察は、チンボラソでEcuarunariの指導者Lazaro Condoを殺害。その後エクアルナリ活動家への暗殺が相次ぐ。

10.31 エクアドル,南ベトナム臨時革命政府と外交関係樹立.

10 ハリン自然資源相はテキサコ・ガルフ社にたいし,株式のシェアを25%から51%に引き上げるよう要求.これに対し,石油会社側は徹底した輸出削減で応じる.

11.12 コロンビア,エクアドル,ホンジュラス,ベネズエラ4ヵ国外相,キューバ復交の意向表明.

74年 OPEC 第40 回総会をキトで開催。

74年 国勢調査。エクアドル人口は6,5000,845人。

1975年

1.06 ベネズエラとエクアドル,米国の経済侵略に対抗するためのOAS特別総会開催を呼びかけ,3月のOAS外相会議出席を拒否.

7 政府,石油会社の輸出税を減額すると発表.石油会社の輸出削減による数億ドルの収入欠損が生じたことで耐えられなくなる.

8 輸入品の増大にともないインフレが進行.政府は贅沢品の輸入に対し60%の関税をかける.グアヤキル商工会議所はこれに強く抗議.

9.01 統合参謀本部のラウル・ゴンザレス・アルベアル議長が中心となり、右翼勢力を結集したクーデターが発生。失敗に終わる.流血の事態で23人が死亡.「葬式の反乱」(La Funeraria)と呼ばれる。

9.02 政府,全土に外出禁止令を発動.

11.12 政府,反独裁運動の先頭に立っていたアロセメナ元大統領を国外追放.

75年 OLADE(ラテンアメリカ・エネルギー機構)の本部がキトに設置される。

1976年

1.11 ロドリゲス・ララの民族主義路線に危機感を持つ右派が、アルフレード・ポベダ・ブルバーノ海軍中将を中心に軍内クーデターを起こす.

1.12 ロドリゲス・ララに代わり三軍司令官からなる最高国政会議が権力を握る.

1.12 最高国政会議は憲法復活と民政復帰の方針を打ち出す.

1.15 最高国政会議、非常事態を解除。選挙法改正、政党法、国民投票法などの検討に入る。

6 フンタ,民政復帰のタイムテーブルを発表.実際には軍内の対立や,選挙への思惑(ブカラム当選阻止)から3年以上にわたりずれ込む.

76年 石油ブームを背景に、民間企業が海外からの資金を大量に導入。「無謀な債務膨張」(aggressive indebtedness)の時期が始まる。

1977年

10.18 カナル県の国営アストラ製糖工場のストライキ。当局の弾圧により先住民活動家を主体とする労働者数百人が「行方不明」となる。そのうち23体のみが確認される。

77年 エスメラルダス製油所が完成。日本輸出入銀行が融資。日量11 万バレルで国内全体の約半分を占める。

77年 ガルフの撤退で、CEPE=テキサコ・コンソーシアムが成立。CEPEの株式比率は62.5%へ。

77年 東部ジャングル地帯の開発のため「殖民法」が制定される。

1978年

1.15 二つの憲法案を選択するための全国国民投票.44%が革新的な「新国民憲章」を支持,31%が45年憲法の修正版を支持.伝統的右翼は無効票を投じるよう呼びかけ.23%が無効票となる.

新憲法の特徴: 
社会・経済発展における国家の役割の承認,経済部門における労働者の自治セクターの合法化,一院制議会と大統領の再選禁止規定など.また歴史上初めて文盲への選挙権付与などが盛り込まれる.

1.18 アマゾン地域で軍事衝突発生。エクアドル軍がペルー領内に入り守備隊を攻撃。

4.08 チンボラソ州コルンベでFEI, FENOC, and Ecuarunariが会談。農民闘争統一戦線(Frente Unico de Lucha Campesina:FULC)の結成で合意。Kichwa, Achuar, Shuar, and Zaparaの各種族はパスタサ先住民機構(Organizacion de Pueblos Indigenas de Pastaza:OPIP)を結成。

7.16 新憲法に基づく大統領選挙が実施される.「人民の力」集中(CFP:コンセルタシオン)のハイメ・ロルドス・アギレーラが27%を獲得し首位に踊りでる.

第一次大統領選挙: 軍はブカラムの出馬を禁じた。このため副委員長のロルドスが身代わりとして出馬。「ロルドスを大統領に,権力をブカラムに」と訴える。キリ民党はCFPに相乗り.オスバルド・ウルダド委員長を副大統領候補に立てる.
保守派は連合し,Sixto Duran Ballenを候補に擁立.24%を獲得し二位に入る.世論調査で最有力視されていた民主左翼(ID)のロドリゴ・ボルハは三位にとどまる.もう一人のポピュリスト候補アブドン・カルデロン・ムニョスも9%を獲得.

7月 第一次選挙で深刻な不正があったことから,最高選挙評議会は抜本的に改組される.軍部がロルドス当選阻止に向け策動したため,決選投票は大幅に遅れる.

11.29 「アルファロ主義急進戦線」(Frente Radical Alfarista)の指導者アブドン・カルデロン・ムニョス、グアヤキルで撃たれる。マイアミで治療を受けるが死亡。その後の調査で、警察の高級幹部が暗殺を指示したことが判明する。

 

1979年 民政移管

1.15 キトで第17次憲法が成立。その後の国民投票でも承認される。

3 ベラスコの妻が86歳で死亡.葬儀参列のためベラスコが一時帰国.

4.29 大統領選の決戦投票.ロルドスが,68.5パーセントの地滑り的勝利.「我々は許さないだろう,我々は忘れないだろう」と軍政による人権侵害を摘発する意思をあきらかにする.

4.29 同時に施行された国会議員選挙では、「人民の力」連合が69議席中45を獲得。

5月 カーター大統領,軍隊が「民主化」プロセスを止めることに対し強く警告.軍は主要国家企業の執行部と国防大臣を自ら選任することを条件に,ロルドスの大統領就任を受け入れる.また軍政による人権侵害の断罪は行わないことで密約.

6.17 エクアドル,ニカラグアのソモサ政権との断交を発表.

8.10 民政移管,ラテンアメリカに於ける軍政終えんのさきがけとなる.軍部は就任式で軍政7年間の経済成長の成果を誇る.この間予算規 模,輸出,個人所得は5倍化.石油生産とアンデス共同市場の特恵条項に支えられ産業も発展.就任式に出席したアンデス5カ国首脳が「キト宣言」を発表.

8.10 第17番目の憲法が公布される。文盲にも投票権があたえられる。これにより、初めて多くの先住民族にも市民権が拡大される。

8.25 キューバとエクアドル,全面的外交関係の正常化を発表.

1980年

5.14 通貨委員会が国内のプロジェクトのためのドル建ての借入を承認。ドルによる返済は、支払日のレートによることになったため投機的融資へと道を開く。平価切り下げにより返済額は天文学的に膨らむ。

8.22 シュアル連盟が主体となり、パスタサ州プヨで第一回エクアドル領アマゾン先住民会議を開催。Kichwa, Shuar, Achuar, Siona, Secoya, Cofan, and Huaorani族代表が結集。「エクアドル領アマゾン先住民総連合」(Confederacion de Nacionalidades Indigenas de la Amazonia EcuatorianaCONFENIAE)の結成を決議。白人侵入者に土地を奪われた先住民が団結。

8月 与党内でのロルドス派とブカラム派(保守派)の対立激化.目先の利益を追うブカラムに対し政府内外からの批判が強まる.国会議長選ではロルドスの推す候補が,僅差でブカラム派候補に勝利.

10.16 高地農民を主体とするEcuarunari, FENOC, and FEIの三組織が共同して、キトで「アストラの殉教者」を悼む行進を組織。

10.20 Ecuarunari, FENOC, and FEI、スクアで「エクアドル国籍先住民協議会」(Consejo Nacional de Coordinacion de las Nacionalidades Indigenas del Ecuador :CONACNIE)を結成。

10月 週40時間労働制が導入される。

12 一斉地方選挙.ブカラムのCFPは各地で惨敗.

1981年

1.28 エクアドル軍,ペルーとの紛争地帯に侵入.コンドル山地のパキシャで両軍が衝突し、兵士数十人が死亡する流血の事態に発展.

紛争の部隊: サンチアゴ河とサモラ河の間にあるこの地域は,コンドル山地と呼ばれ,ジャングルの中の山岳地帯になっている.全長78キロのこの地域には金,ウラン,石油などが埋蔵されている可能性がある.

1.29 エクアドル,ペルーとの国境紛争でOASに調停を要請.ペルーはOASの調停を拒否し,リオデジャネイロ議定書保証4ヵ国に仲介を依頼.

2.02 軍事衝突が停止.6日間の戦闘でペルー側が圧勝.OAS外相会議とリオデジャネイロ議定書保証4ヵ国が,ペルー国境紛争の調停に乗り出す.

2.13 武装キューバ人29人,国外亡命を要求してハバナのエクアドル大使館を占拠.

2.20 エクアドル政府,ペルー軍が攻撃再開と発表.

2.21 ペルー政府,エクアドルに最後通告.全軍に総動員態勢を指令.

2.24 国境紛争,アメリカ・ブラジルなど4ヵ国の提案した非武装地帯設置で合意.リオ議定書保証国は,ふたたびペルーに有利な裁定.

3.16 両国軍の紛争地帯からの撤収開始.

5.24 ロルドス大統領夫妻,国防相などが乗った飛行機,南部ロハ州Huayrapungo山の近くで墜落.全員が死亡.後継大統領にはオ スワルド・ウルタード・ラレア副大統領が就任.7月のトリホス死亡時の状況と類似していることから,CIA=ノリエガによる犯行が疑われる.

12.09 全国規模のストライキが実行される。

81年 ロルドスの黒幕だったアサド・ブカラムが死亡。甥(息子?)のアブダラ・ブカラムが地盤を引き継ぐ。ヒトラー崇拝を公言するなどEl Loco=キ印と呼ばれる。

1982年

3月 米国、エクアドルに対しガラパゴス諸島への米軍基地の建設を要請。エクアドルは要請を断る。

4.16 FENOC と Ecuarunariの主催で、第一回農民・先住民全国集会を開催。

9.20 通貨(スクレ)の切り下げに続いて、民間部門で深刻な金融危機が発生。政府主要閣僚が辞任の意向を表明,政治混乱が激化する.

9.21 政府,外国主要債権銀行に対し,計63億ドルの債務の一部返済延期を要請.

9.22 政府、ガソリンと小麦に対する助成金を減額。これに抗議して第5次の全国ストライキが決行される。

10.18 西側債権銀行に12億2,000万ドルの債務返済繰り延べを要請.国際金融機関は民間債務の肩代わりを強くもとめる。

10.20 労働者統一戦線(FUT)による48時間のゼネスト. 政府は全土に5日間の非常事態を布告.軍がクーデターの構えを見せたことからゼネストは中止される.労働者統一戦線(FUT)はさらにこのあと,4次にわたるゼネストで抗議.

12月 エルニーニョによる洪水が巨大な被害をもたらす。さらに旱魃が6億ドルの損害をもたらす.

82年 石油ブームが終焉.GDPはマイナス2%,財政赤字は3億ドルに達する.

82年 国際金融機関からの強い要請を受けた政府は、金融セクター救済のため、ドル建て債務の自国通貨による買い取り(スクレティゼーション)を実施。

スクレティゼーション: 民間債務のうち16億8250万ドルがスクレ建ての債券に交換される。私的債務者の借金を、エクアドル社会全体が肩代わりすることになる。赤字国債の乱発により、公的債務は6倍に増加。70億ドルの対外債務がのしかかる.

1983年

1.19 ペルー軍とエクアドル軍,ふたたび国境地帯で交戦.

3月 政府の妨害と脅迫を打ち破り、48時間の全国ゼネストが決行される。

4.19 GEPE(エクアドル石油公社),埋蔵量1億バレルの新油田を発見.

6 M19,エクアドル国内に闘争を拡大,M20(AVCの母体)の結成へ動く.

7.24 エクアドルを含むアンデス6ヵ国首脳,中米債務問題で協調宣言.

8 共産党青年部と学生を中心にニカラグア革命の影響を受けたゲリラ組織,「アルファロは生きている,たたかおう!(AVC)」結成.ニカラグアがえりのローザ・ミレヤ・カルデナス,ハイメ・チャリアらが指導.当初よりM19の強い影響を受ける.

83 経済危機がさらに深刻化.GDPはマイナス3.3%.失業率は13%,物価上昇率は史上最高の52%に達する.ウルタードはIMFの要求を受け入れ緊縮政策を実施.基本的食品のための政府助成金を廃止し,スクレを引き下げる.

1984年 

1.13 キトで28ヵ国が参加してSELA経済会議開催.新規融資と融資条件の緩和を求めた「キト宣言」を採択.

1.29 深刻な不況のなかで大統領選挙.第一次投票では保守派が一致して推したグアヤキルの実業家レオン・フェブレス・コルデロ・リバデネイラと与党のロドリゴ・ボルハ・カバジョスが決選投票へ駒を進める。

5.06 大統領選の決選投票。レオン・フェブレスが,与党のロドリゴ・ボルハを僅差で破り勝利.

5.06 国会議員選挙では民主左翼(DL)が71議席中24議席を獲得。政党単独では第一党となる。

5.06 アブドラ・ブカラム,グアヤキルの市長に選ばれる.軍隊を「国の予算の半分を,独立記念日パレードの行進に浪費する無用の長物」 と非難.国家を侮辱したとして逮捕令状が発せられ,まもなく汚職がばれ海外亡命.ブカラムに対する反感から人民勢力結集党は勢力を失う。

8.10 フェブレス,大統領に就任.IMF勧告に沿ってネオリベラル政策を開始.緊縮財政をしく.

10.31 労働者統一戦線(Frente Unitario De Trabajadores)、緊縮政策に抗議する24時間のゼネスト決行.

1985年

4.14 フェブレス大統領,キューバを訪問しカストロ首相と会談.

8.07 AVC,M19との共同作戦で銀行家ナヒム・イサイアス・バルケ(Nahim Isaias Barquet)を誘拐.AVC幹部で元外相の息子フアン・アコスタ・コロマ,警察との射撃戦で死亡.AVCはエミリアノ・メンディエタ・フロレス,イサ ベル・マリン・ベリス,ローザ・ミレヤ・カルデナスなど5人の最高指導部を形成.ローザ・ミレヤは捕らえられ組織系統を自白.

9.01 政府軍、AVCを一斉摘発。この作戦でAVCメンバー5人が殺害される。

9.02 政府、イサイアスの居場所を突き止め解放作戦。イサイアスはAVCメンバーとともに射殺される。

10.11 エクアドル,AVCに援助していたとし,ニカラグアと国交断絶.

1986年

1 コロマのあとAVCの指揮をとったファウスト・バサンテスも殺害される.残党はアメリカ旅団の指揮下に入り,ルイス・バルガス・トレス部隊を編制.

3.07 フランク・バルガス・パソス参謀総長兼空軍司令官,クーデターを計画したとして解任される.バルガスは決定を不服としマンタ基地に立てこもる.

3.08 バルガスとフェブレス大統領がマンタで和平に合意。

3.13 バルガス、フェブレスが和平合意を履行していないと非難。キト空軍基地でふたたび反乱を起こす。フェブレスは反乱を実力で鎮圧するよう命令。

3.14 陸軍部隊がキト空軍基地を包囲。銃撃戦の末,反乱軍を鎮圧しバルガスを逮捕.全土に非常事態が宣言される.

8月 米兵がエクアドルに上陸。マナビに道路を建設。

9月 議会、フランク・バルガス将軍に恩赦を付与するようもとめる決議。フェブレス大統領はこの決議を無視。

9月 全国一斉ストライキが決行される。

10.22 政府,AVCのテロ活動に対処するため全国に非常事態令を発動.

10.27 AVC幹部のアルトゥーロ・ハリン(Ricardo Arturo Jarrin),警察との遭遇戦で死亡.アルベルト・トレスはコロンビアで逮捕.バサンテスの後継者ハメット・バスコネスやアメリカ旅団指揮官チャリアも 年末には犠牲となるなど,多くの犠牲を出しほぼ壊滅.

11.13 先住民の自主的団体「エクアドル国籍先住民総連合」が結成される。自治権,先住民文化の尊重,居住環境の保全,バイリンガル教育をふくむ教育の権利,憲法での多民族国家の規定等を要求.

エクアドル国籍先住民総連合(Confederacion de Nacionalidades Indigenas del Ecuador, CONAIE): 母体については説が錯綜している。エグアルナリを主体とする「エクアドル国籍先住民協議会」(CONACNIE)にアマゾンの先住民組織CONFENIAEが合併する形で結成されたとされる。FEIが左翼、キリスト教左派中心の階級路線をとるのに対し、CONAIEは先住民組織であることを強調し、NGOとの連携を強めようとしたようである。
FENOCはこの流れに加わらず、被抑圧グループを統合する立場から独自に「先住民、農民、黒人組織全国評議会」(
Federación Nacional de Organizaciones Campesinas Indígenas y NegrasFENOCINを組織。伝道派は「エクアドル先住民伝道評議会」Federación Ecuatoriana de Indígenas Evangélicos (FEINE)を結成し、逆に先住民の霊的・文化的アイデンティティーを守ることに特化。

12 AVC,キトーのラジオ局を乗っ取り,フェブレス大統領の辞任と人権の尊重を訴える.アルトゥーロ・カリージョが指導.

86年 国会議員選挙。共産党(この時点で非合法)も加わる拡大左翼戦線(Frente Amplio de la Izquierda)が13議席を獲得。

1987年

1.16 タウラ事件が発生.グアヤキル近郊タウラ(Taura)空軍基地の特殊部隊がフランク・バルガス前参謀総長を支持し反乱。フェブレス大統領とスタッフ40名をら致・監禁する.

1.17 フェブレスは拘留中のバルガスの釈放、空軍特殊部隊参加者への罰則適用免除を飲まされた上で解放される.

1月 議会、フェブレスに辞任をもとめる。フェブレスはこれを拒否し、空軍特殊部隊の解散と将校30人の起訴を命じる。

3.05 マグニチュード6を越す地震が多発.死者約300人,行方不明130人超す.2万人が家を失う.送油管破壊で,石油輸出は半年にわたりストップ.

3.11 世界銀行・IMF,エクアドルへの緊急融資について検討開始.この時点でエクアドルの対外債務は83億ドルに達する.

3.13 エクアドル,地震による被害を理由に,対外債務の今年度分利払いを停止すると発表.背景として、①劇的な国際利率の上昇、②石油 価格低迷による歳入減少、③スクレティゼーションによる債務返済の大幅増加が挙げられる。スクレの対ドルレートの切り下げがこれに拍車をかける。利払い停 止はその後5年間にわたり続く。

4月 米軍の工兵部隊がエクアドル入り。被災地区に道路を建設し、犠牲者の援助にあたる。

7.21 タウラ事件の参加者58人に軍事裁判で有罪判決。

11月 米陸軍部隊、エクアドル議会の要請を受けてエクアドルを去る。

87年 PREのアブダラ・ブカラム、一連の政治取引により帰国と大統領選立起が可能となる。左翼と中道派は民主左翼(ID)を結成し社会 民主党のロドリーゴ・ボルハ(Rodrigo Borja Cevallos)を推す。保守派はキト市長で人民民主党のジャミル・マウアドを立てる。マウアドはブカラムと同じレバノン人。

87年 パリ・クラブ加盟国、エクアドルへ債務スワップを適応。債務の一部を社会開発・環境管理的性質を持った生産投資へと振り向ける。ただし割引は66%にとどまる(実勢価格は額面の30%)

1988年

1.31 大統領選挙。第一次投票でロドリゴ・ボルハとAbdala Bucaramが勝ち残る。

2.25 政府,外貨不足のため自動車輸入を全面禁止.

4月 フェブレス、大統領選挙を前に非常事態を宣言。生活悪化に抗議するストが相次ぐ。

5.08 大統領選.ロドリーゴ・ボルハがブカラムを破り当選.ブカラムはボルハに対する口汚い批判が反感を呼び、ふたたび国外へ逃亡。

6.01 FUT(労働統一戦線),賃上げを要求し24時間ゼネストを決行.

6.03 空軍幹部を乗せた小型機がキト近郊の山に墜落.フロレス空軍司令官ら11人が死亡.

7.06 グアヤキルで学生と警察が衝突。警察の発砲で学生一人が死亡。

8.09 保守派のレオン・フェブレスに代り,ボルハが大統領に就任.就任式にはカストロも出席.

8.11 ボルハ新政権,コンタドーラ・グループの支持,ニカラグアとの国交回復など革新的政策を発表.「アルファロは生きている」との和解交渉にも乗り出す.

8.31 政府,経済非常事態を宣言.経済危機乗切りのための緊急経済政策発表.対ドル・レート切下げ,輸出規制,公共料金引上げなどを打ち出す.

8月 共産党が合法化される。しかしこの時点で党員数500人まで減少。

9.10 政府,緊縮政策の第一段として通貨スクレの41.8%切下げを実施.

11.24 「労働統一戦線」(FUT),賃上げ要求でボルハ政権初の24時間ゼネスト.

12.01 ボルハ大統領、タウラ事件で収監中の空軍特殊部隊に対して恩赦法を適用。また、中央銀行の基金を準軍事グループのために使ったとしてフェブレスを訴える。

88年 新憲法が制定される。石油を含む再生不可能な天然資源の管理は国家に帰することが定められる。憲法にもとづくCEPE の機構改革で、ペトロエクアドルへ移行。

1989年

1月 AVCとボルハ政権の間に和平交渉成立.AVCは武器を引き渡し合法活動に復帰する.これに反対する武闘派は,残党百人ほどで「プカ・インティ」(原住民の言葉で赤い太陽)を結成.米国企業・政府機関へのテロを続ける.

12.17 ペルーのガルシア大統領、ガラパゴスの会談に出席するためエクアドルを訪れる。

89年 ブレイディ米国財務長官、債務額の削減を条件に、商業銀行への債務を各国の発行する国債に交換することを提案。ブレイディ・ボンド と呼ばれる。受益国は債務の一本化と、IMFの構造調整計画の受け入れを迫られる。銀行に関係する側面に限っては問題は解決したが、債務国にとっては問題 が先送りされただけだった。

ブレイディ債: 先進国の民間銀行団がもつ商業債権にたいして,債務の一部削減と金利負担の軽減を飲ませる代わりに、元本を政府債券に転換し、IMF・世銀・主要国政府が共同出資した担保(米財務省が発行する無利息債券)をつけた債券.ブレイディの提案を受け、先進国政府と国際金融機関,パリ・クラブなど民間銀行団のあいだで妥協が成立する.対象は途上国債券の半分近くにのぼる

1990年

1月 最高裁、フェブレス前大統領に対し国家資産横領の罪で逮捕命令。

2.02 キトで南米共産党会議が開催される.東欧崩壊後の対応をめぐり意見交換.

2.21 国会,ロルダス大統領事故死に対するノリエガ将軍の関与について調査開始.

4月 ナポ河流域に住むウアオラニス族の12の村に、合計6千ヘクタールの土地が返還される。

5.28 全国先住民会議(CONAIE)の活動家、キトのサントドミンゴ教会を占拠し、土地紛争の解決を要求。

6.04 CONAIE,9日間にわたり全国で土地返還をもとめる一斉行動.幹線道路を岩石と木材で封鎖。首都への食糧供給がストップする。中核活動家はパチャクティクを結成。

パチャクティク(pachakutik): キチュワ語でpachaは「時または土地」、kutikは「戻る」を意味する。変革により世界から不正を取り除き正義の秩序を取り戻すというカテキズム。

6.11 4千人を越す先住民が,アマゾンからキトまでの400キロを行進.キトの中心部は先住民集団によって占拠される.

7.17 キトで「先住民の抵抗500年に関する第一回大陸会議」が開かれる。

8月 フェブレスに無罪判決。

11月 カトリック教会、先住民の土地獲得のため、エクアドルの対外債務の1000万ドルを肩代わりすると提案。

1991年

2月 全土にストライキの波が広がる。医療機関、学校などの職員・教員が給料の支払いを求める。

91年 アルゼンチン,エクアドルとクロアチアに兵器を出荷(95年まで).銃はまず,パナマとボリビアに出荷され,武器ディーラーによりひそかに転売される.発覚時,アルゼンチン政府は,武器ディーラーが武器を不正に転売したと非難した.

1992年

1.09 フジモリ大統領がキトに入り、ボルハ大統領と国境問題の対話を再開。

4.11 アマゾンのパスタサ先住民機構(OPIP)が、土地の権利を要求しプヨからキトまで行進(caminata)。Kichwa, Shuar, Achuar族など2千人が、アマゾンからキトまで385キロを歩き通す。 

7.05 大統領選の決戦投票実施.共和連合党(PUR)のシスト・ドラン・バジェン(Sixto Duran-Ballen Cordovez)が,キリスト教社会党(PSC)のハイメ・ネボトを破って当選.

8.10 ドゥラン・バジェンが大統領に就任する。

8月 ドゥラン・バジェン大統領就任式に合わせ,フジモリ大統領がエクアドルを訪問.ペルーとしてはじめて領土問題の存在を認める.また係争地帯において,エクアドル船舶の自由航行を認める妥協案を提示.エクアドルは領土主権を求める従来の主張に基づいて同定案を拒否.

9.14 グアヤキルでバス代引き上げに対する抗議行動。バリケードを築き警察と衝突。

9.17 ドラン・バジェン,石油生産を牛耳るオクシデンタル・ペトロリアム社の意向に従い、エクアドルのOPEC脱退を発表.

12.18 サリナス県Bahia de Caraquezでドゥラン・フジモリ会談。領土問題を詰める。

12月 エクアドル政府、約5年続いた対外商業債務の支払い停止を断念。未払い利子分をふくめた累積債務をブレイディ・ボンドに変換することを決定。この時点で民間部門の債務は70億ドルに達する。うち21億ドルが延滞利息。

92年 4000人を越すエクアドルの先住民はアマゾンからキトまでの400キロを行進。政府に自治権、先住民文化の尊重、居住環境の保全、教育の権利、憲法での多民族国家の規定等を要求。

92年 政府は地下資源の開発権を保留する条件の下に,アマゾン地方の国有地110万ヘクタールを3つの民族集団に授与.

1993年

1.12 外国投資促進を目指す政府,従来の外国資本への規制を全面撤廃.多くの国営企業を民営化するなどIMFの方針に従い経済立て直しを図る.

1月 エクアドル、OPEC の拠出金の支払いに不服をとなえる。「増産意欲があるにもかかわらず生産枠の増加が見込めない」としてOPEC を脱退。(理由は後付けで、国際金融筋から強制されたのでしょう)

3.06 ドゥラン・バジェン大統領,リオ議定書無効のテーゼを放棄することを発表.

5.02 全土でエルニーニョによる大規模な水害.政府は全土に非常事態宣言を発令.電力の75%を供給する水力発電所を一時閉鎖し,電力供給を制限.

11.29 教職員のストライキ,2ヵ月近くに及ぶ.政府はスト中止のため全土に非常事態を発令.

93年 アマゾン地帯の先住民族が「アマゾン防衛戦線」を結成.テキサコ社(現シェブロン・テキサコ)による石油開発の汚染被害への賠償を求めて,ニューヨーク地裁で裁判闘争を展開.CNNのネットワークを利用して、全世界に向けてテキサコの人種差別主義を告発する.

1994年

5月 92年に続いて二度目の先住民組織の反乱.先住民グループは「生存のための動員」(La Movilizacion Por la Vida)に結集し、新土地法に抗議する。背景に新自由主義にもとづく土地取り上げ、水資源の民営化、経済基盤の侵食などがあった。

6.20 ドゥラン-バジェン大統領、非常事態を宣言。「プカ・インティ」(赤い太陽)は,変電所にダイナマイトを仕掛けるなど国内各地で爆弾テロ作戦を展開.

94年 エクアドル,ブレイディ・プランに基づき、外国銀行団との間で合意。債務返済の繰り延べと債券化に成功。45%の割引債を発行することにより、額面価格の30%削減に成功.米財務省は公的対外債務(合計60億ドル)に相当する10億ドル分の保証債券(ゼロ・クーポン)を発行。

エクアドルの債務返済計画  ブレイディ・プランの枠組みにしたがい,エクアドル政府が新規に債券を発行する.対外債務総額160億ドルのうち,37%に相当する60億ドルがブレイディ債に転換され、残りはチャラにされる.この比率はラテンアメリカ最大.60億ドルの内訳は、32%が民間銀行、30%が国際金融機関、18%がパリクラブあてとなる。
元本は額面価格より30%削減されたが、実勢価格はすでに額面の10%にまで低下しており、その差損は政府がかぶることになる。
債務の41%に達する利息分についても帳消しにはされず。また民間債務も政府に引き継がれる。利子は市場金利より高く、しかも変動利率であった。

94年 ノボア家の当主ルイス・ノボアが死亡(78才).Noboas家は、グアヤキルでバナナ事業を支配.エクアドル人口1100万人のうち300万が、バナナ事業から生計を立てているといわれる。

 

 1995年 ペルー・エクアドル戦争

95年1月

1.13 エクアドル国防省,ペルー軍兵士が国境を侵犯し,国境警備兵との銃撃戦になったと声明.

1.26 コンドル山地のセネパで両国パトロール隊が衝突,戦闘は三日間に及び,双方の死者が30人を越える.

1.26 ドゥラン・バジェン大統領,ペルーの武装ヘリコプターが領空侵犯を繰り返していると声明.国内全域に非常事態令を発動.軍に出動を命じる.

1.26 ペルー軍、Soldado Monge, Teniente Ortiz, Coangos, Cueva de los Tayos, Tiwintza、Etza のエクアドル駐屯地を攻撃。

95年2月

2.01 国境紛争で,両国がそれぞれ停戦を提案するが合意に致らず.

2.05 リオで 国境紛争に関する和平会談が開催される.停戦合意には至らず.

2.06 ペルー軍がエクアドル側の拠点ティウンサを陥落.

2.13 フジモリ大統領が,テレビ放送を通じて一方的な停戦を発表.

2.14 両国,戦闘行為を停止.

2.15 リオ議定書の保証国の仲介でブラジリア会談.

2.16 ふたたび国境地帯での戦闘が始まる。保証国の軍事監視員は戦闘地帯から避難。

2.17  両国がブラジリアで「イタマラティ平和宣言」(Declaracion de Paz de Itamarati)に調印.軍事的にはペルー側の勝利に終わる.

2.22 主要な戦闘が終了。ペルー側は軍用機数機,50人の兵士を失う.エクアドル側は死者30人,負傷者300人と発表するが,実際の犠牲者はこれをはるかに上回るものと推定される.

2.28 エクアドルとペルー、モンテビデオ宣言に署名。イタマラティ平和宣言を再確認。

95年3月

3.24 ペルー軍当局,国境地帯でエクアドル軍の攻撃により兵士が負傷と発表.

3.27 両軍が紛争地帯から撤退。

4.07 モデスト・コレア蔵相,経済政策の対立から辞任.

5.09 国境地帯のチェケイサ基地付近で,両軍部隊が交戦.ペルー人兵士1人が死亡.両国はどちらも相手国の越境が交戦の原因と主張.

7.28 エクアドル,ペルー両国,国境未確定地の非武装化と保証国による監視団の派遣で合意.

10.11 最高裁,アルベルト・ダヒク副大統領に公金横領の疑いで逮捕状.ダヒクは辞任しコスタリカに逃亡.

95年 CONAIE,代議制民主主義を「排除型民主主義」と呼び、拒否していた姿勢を改め、選挙運動への積極的参加に乗り出す。左派諸組織や非先住民社会運動と手を結び、「パチャクティク」党を創設.

パチャクティク党: 正式名称はパチャクティク多民族統一運動・新祖国(Movimiento Unidad Plurinacional Pachakutik-Nuevo País : MUPP-NP)。自らを新しいラテンアメリカ左翼の一部と位置づけ、共同体・連帯・統一・寛容・尊厳をうたう。新自由主義に反対し抱合的な参加型の政治を訴える。

 

1996年

3.29 中央エクアドル中部高原を中心とする大地震.29人の死者.

5.20 大統領選第一次投票.キリスト教民主党のハイメ・ネボ(Nebot)が首位に立つが,過半数を制することができず.Roldosista党のアブダラ・ブカラムとの間で決選投票に持ち込まれる.ロルドス党 (Partido Roldosista Ecuatoriano=PRE) は,81年に死亡したロルドス大統領の衣鉢を継ぐと標榜する組織.

5.20 国会議員選挙で、コナイエ議長のLuis Macasが、「多民族統一を目指すパチャクティク新祖国運動」(Movimiento Unidad Plurinacional Pachakutic Nuevo Pais)から下院に立候補し当選。

7.07  大統領選の決選投票.「貧者の味方」を掲げたロルドス党のブカラム(44)が,54%を獲得し逆転当選.副大統領にはアルテアガ(女性).議会では82議席中19議席の少数党.

寿里によれば、ブカラムはウルグアイの民謡グループを雇い、全国で実演と演説を展 開。「今度大統領になる、頭の変なアブダラです」と挨拶して、自らギターの弾き語りをしたという。このパフォーマンスで地方の貧困層や先住民の圧倒的人気 を勝ち取り、21の州のうち20州で圧勝。

8月 キ印大統領Bucaram,Lorena Bobbitを国家宮殿での昼食に招待.Bobbitは米国人の夫のペニスを切り取ったことで有名な人物(Wikipediaを参照のこと).

10.12 Abdala Bucaram大統領,自作のロックCD "A Madman in Love" をリリース.キ印を自認する.

10.22 ボーイング707貨物輸送機がキト離陸の後、墜落.Dolorosa教会の塔にぶつかり炎上.少なくとも10人が死亡.

11.26 ブカラム政府、11項目の憲法改正を国民投票にかける。投票の結果、憲法改正は否決される。

 

1997年 

97年2月 ブカラン大統領追放

2.01 就任時の公約を破り,IMFの緊縮政策を断行しようとしたブカラン大統領,電気料は5倍,ガスが3.4倍,電話料を7倍化するという「トンデモ案」を提出.政府要人による賄賂要求、大統領自身の公私混同、権威主義的態度、放漫財政に批判が高まる.

2.05 労働組織は経済の緊縮、縁故採用、腐敗に抗議し,2日間のゼネストを提起.人口の1/5にあたる2百万の国民が参加する.そのまま無期限ストに発展.ブカランは非常事態を宣言,軍を動員してゼネスト押さえ込みを図るが,軍は動かず.

2.06  臨時国会,ブカランに対する弾劾審議。「精神的な統治能力に欠ける」との理由で罷免を決議.

2.07 議会,ファビアン・アラルコン・リベラ上院議長=アルファロ急進戦線(FRA)を暫定大統領に選出.ロサリア・アルテアガ・セラーノ副大統領は自ら大統領に就任と宣言.ブカランは辞任を拒否し大統領府を出た後グアヤキルに立てこもる.

2.08 軍はブカランを見限る。国防相は非常事態宣言を発令し,三者の調停を求める.

2.09 軍部の意向を受けたアラルコンはいったん臨時大統領を辞退,議会はアルテアガ副大統領を暫定大統領に選ぶ.

2.11 アルテアガ,就任二日後に辞任を表明.議会はふたたびアラルコンを大統領に、アルテアガを副大統領に指名.ブカランはパナマに亡命.

2.15 シミのアチュアル先住民,米国人地質学者,英国人助手,エクアドル人科学者二人を誘拐.誘拐されたグループは,アルゼンチンの会社に雇われ,石油探索地帯における環境調査を行っていた.

2.16 アチュアル先住民,エクアドル人二人を解放.22日には米国人,英国人も解放.

3.07 最高裁判所は、腐敗、横領、縁故採用、そして、地位の悪用でBucaramを起訴.訴状によれば,大統領が2月に大統領官邸を出たとき,300万ドルを詰め込んだバーラップ・バッグ11個を持ち出したという.

3 アラルコン,通貨スクレの切り下げなどのミニショック政策を提示.左翼人民民主運動(MPD)とCONAIEが統一ストを断行.

4.09 最高裁判所は、ブカラム前大統領と側近のマルコ・アルブハの逮捕を命じる.大統領職のための公金の不正使用の罪にとわれたもの.

5.08 議会、公金横領の申し立てにもとづき、17人のブカラム派議員を追放。

5.25 国民投票で、ブカラム追放とファビアン・アラルコン上院議長の大統領就任が承認される.

6月 最高裁,亡命したブカラン元大統領にたいし汚職や公金流用,政敵に対する陰謀などで2年の実刑判決.

6月 エル・ニーニョによる洪水。各地で甚大な被害を出す。

97年 アラルコン政権、資金不足に対応するためブレイディ・ボンドに加えユーロボンドを発行。5年から7年満期で5億ドル分発行される。

 

1998年

1.19 ペルーとエクアドル、5月までに国境問題を解決することで合意.長年の49マイルの未確定境界をめぐる紛争解決に着手.

4.16 ペルーとの国境線確定のための本交渉開始.

5.28 ホテル・フロント係が,演習で宿泊中の米国人水兵と口論,暴行により死亡.家族は米国海軍に対する150万ドルの訴訟を起こす.

5.31 大統領選第一次投票と国会議員選挙.ジャミル・マウアド・ウィット(キト市長)とキリスト教社会党のアルバロ・ノボアの決選投票となる.Jamil Mahuadは36.7%でリード.最大の財閥の一族アルバロ・ノボアは29.8%.

6.05 エクアドル第18憲法が発布される。エクアドルは多文化・多民族の国家であると宣言。

7.12 大統領選決選投票.僅差でマウアドが勝利.

7 ペルー,エクアドル軍部隊が非武装地帯に侵入と非難.エクアドルは否定.

8.10  第19次憲法が成立し、前キト市長で人民民主党のジャミル・マウアが新大統領に就任.副大統領もノボア(Gustavo Noboa)。世論調査で支持率は7割に達する.国境紛争でフジモリ大統領は出席せず.

ロス在住の保坂さんから以下のようなお便りをいただきました.
エクアドル年表で名前の発音が違う大統領が一人います。最近クーデターで失脚したJamil Mahuad です。「ハミル」ではなく「ジャミル」です。確かにスペイン語読みではそうなのですが。彼はレバノン人の父とドイツ系の母の子供で、名前はスペイン系ではありません。ハーバードのPublic Administration の修士号を持ち、フジモリ大統領の「親友」です。キトー市長までは良かったですね。

8月 マウア大統領,議会内での多数派工作の末、右派政党のキリスト教社会党と連立政権を組む.

8.21 エクアドル・ペルーの間に国境問題を含む広範囲な友好条約が締結される.

8.29  キューバのTupelov-154機,キト空港で離陸に失敗して市街地に墜落.乗員・乗客のほか住民合わせて死者83人を出す.地上で遊んでいた5人の子供たちも巻き添えとなる.

9.14  マウァ大統領,財政再建政策を発表.スクレを10%切り下げ.金融・輸出業界の利益を代表するキリスト教社会党の圧力を受けて所得税を廃止.代わって金融取引に1%の課税を加える.同時に危機に瀕した地方銀行に対して救済策.

9.21 金融取引税実施の結果、1週間でドル預金が30%、スクレ預金が17%減少し、全国的な金融危機の発生.少数与党のため,財政赤字削減及び為替・物価の安定は達成されず.逆に社会不安と反政府機運をもたらす.

9.23 マウア、市場-自由化方針を打ち出す。電気、ディーゼル油、ガス代の引き上げを柱とする。キトでスクレの切り下げに抗議するデモ.労働組合は、10月1日の全国ストを呼びかける.

10.01 公共料金の引き上げに抗議する最初の全国的なストライキ。警察との衝突で、海岸地帯では3人が死亡、9人が負傷する。軍が出動し、公共秩序の維持に当たる。

10.16 エクアドルとペルーの議員,境界紛争の解決を米国、ブラジル、チリとアルゼンチンに一任することで同意.

10.23 4カ国調停にもとづき,コンドル山脈(Cordellera de Condor)を境界とすることで原則合意.この地帯を両国共同のエコロジー・パークとし,軍・警察を常駐しないこととする.

10.26 ペルーとエクアドル,ブラジリアにおいて最終和平条約に調印.エル・コンドル山脈地帯78キロの国境を画定.ペルーはエクアドル軍駐留地のあったティウインサ(1平方キロ)をエクアドルに譲渡.エクアドルがペルー領アマゾン川流域を航行することを容認.

12月 スクレ、1年で54.13%の引き下げとなる.政府に対する抗議が再開された。

12月 銀行は深刻な不況により莫大な不良資産を抱え、信用不安が拡大する。議会、預金保護局(Agencia de Garantia de Depositos)を創設。信用不安の解消のため、国家が無制限に銀行預金を保証する。

 

1999年

99年1月

1.01 ブラジル通貨切り下げの影響を受け、過去70年間で最悪の経済危機.ジャミル・マウア大統領,緊縮政策を発表.通貨スクレの対ドルレートを15%切り下げ,400%におよぶ公共料金の値上げ,プロパンガスは5倍,電力料金は3倍増に.

国家財政は15億ドルの赤字.対外債務は160億 ドルを超え,債務利払い額は国家予算(総額21億1560万ドル)の41%を占める.スクレの価値は1ドル25スクレから2万5千スクレへと下落。原因は 前任大統領アラルコンの放漫財政,エル・ニーニョ,および原油価格の低迷とされる.

1.07 エクアドルの学生,連日デモを開始.延べ数百名が逮捕される.デモの隊列には扇動分子「人民戦士グループ」が入り込み,警官に挑発行動.

1.11 政府、グアヤス県に非常事態を宣言。

1.27 エクアドルで学生がスト入り.

1.29 Jamil Mahuad大統領,アマゾン・ジャングル地域で,石油採掘,伐採,鉱業,植民を禁止.Cuyabeno-ImuyaとYasuni国立公園の270万エーカーの開発を制限する法律を強化.

1月 米州相互援助条約に基づき、エクアドルとの間で米軍基地貸与協定を締結。港湾都市マンタに2万4千ヘクタールの空軍基地を借り受けコロンビア計画に使用。

99年2月

2.04 エクアドルとペルー、国境紛争解決へ軍拡競争停止を公約.ペルーとの和平協定調印に伴ない兵役義務を削減し,兵器の新規購入をストップ.

2.05 エクアドル各地でデモ.ブカラム追放1周年記念と緊縮政策への抗議.統一労働戦線(FUT)と草の根組織連合(CMP),原住民組 織などが共催.公衆を最も怒らせたものは地方の銀行に対する10億ドルの政府の支出である.ファウスト・ドゥタンFUT議長はゼネストの準備を開始すると 声明.

2.12 エクアドル中銀,通貨スクレの為替バンド制を廃止し、変動相場制に移行すると発表.マワ政権は、ブレイディー債やユーロ債利払い一部不履行宣言。

2.17 人民民主運動党(MPD)のハイメ・ウルタード・ゴンサレス下院議員,国会議事堂近くでコロンビアのパラミリタリーに銃撃され死亡.ウルタード議員は1979年の大統領候補で,左翼系の論客.

2月 エクアドル政府、預金一部凍結を発表。キトでは銀行の前に長蛇の列。スクレへの不信と銀行の貸し倒れへの恐れから、預金引き出しと外国銀行への移動が一気に加速。

2月 アナ・ルシアArmijos(50)が大蔵大臣に就任.IMFの融資条件に沿い、助成金など公的支出の減額を計画。

1999年3月

3.03 スクレ,1月以降14%の低下.Occidente銀行が流動性問題のために閉鎖される.銀行の連鎖倒産の可能性が浮上する。

3.08 銀行監督局、「外貨の流通を停止し、銀行の債務超過を避けるため」、5日間の銀行休業措置を発表.

3.09 エクアドル,政府の経済政策に抗議するゼネストに対処するため,全土に60日間の「非常事態令」を宣言.不測の事態に備え石油基地や電力,通信施設などを軍が警戒.

3.10 労組,非常事態宣言を無視し48時間ゼネストに突入.政府と全面対決へ.教員、警官、医師らの給与は年初から未払い状態が続く.

3.11 ジャミル・マウァ大統領,高額預金口座の50%凍結などの緊急経済調整策を発表.マクロ経済の安定と銀行救済を目的として,ガソリンの300%,公共料金の100%を超える大幅値上げや,付加価値税(IVA)の10%から15%への税率アップも打ち出される.

3.12 抗議のゼネストが続くなか,ルイス・ハコメ中銀総裁と理事全員が辞任.

3.15 ガソリンの二倍値上げに抗議するタクシー運転手などの交通ゼネスト.9000台のタクシーによる車バリケードにより,キト市内は麻痺状態に.

3.16 エクアドル労組、政府の緊縮政策に抗議し無期限ゼネストを決定。議会も緊縮財政に反対の構えをみせる。

3.16 ファビアン・アラルコン前大統領,最高裁による予防拘禁命令を受けキトの第4刑務所に出頭.容疑は国会議長時に1119人を不正雇用し給与だけを支払っていたというもの.

3.17 外相,「IMFの緊急支援について月内合意を目指す」と語る.

3.18 マウア大統領,危機を打開するためガソリン料金値上げ案の撤回と「緊急対策」の取り下げを発表.非常事態宣言を解除.

3.22 国内最大規模の銀行であるプログレソ銀行が破綻.破綻の原因は、経営陣の背任行為、放漫経営、そして預金流出が重なったもの.97年以来,8銀行が倒産.政府はすでに7億ドルの救済資金をつぎ込む.

4.17 愛国前線(FP),マウァ政権の経済政策への全国抗議行動を展開すると発表.

4.30 エクアドルとIMF,9億ドルのローン・パッケージについて合意に達する。

5.13 エクアドルとペルーは、国境確定条約に調印.

6.03 カルロス・メンドーサ国軍司令官、「エクアドルは、エルニーニョ・輸出産品の下落・累積債務により、過去50年間で最悪の危機にある。これらに対処するためには“別コース”が必要だ」と発言。

6月 IMF、「エクアドル:社会防衛と経済危機」と題する報告。「医療と教育に対する予算配分は、ラテンアメリカ諸国の平均以下である」と認める。

1999年7月

7.05 輸送業者がガソリン値上げに抗議して無期限ストを再開.政府が非常事態令を止めてスト中に逮捕されている約350人が釈放されるまで,ストを続行すると宣言.労働組合や先住民組織などが支援ストに入る.

7.11 キトの南90キロのラタクンガ(コトパクシ県)で,先住民が運輸業者のガソリン値上げ反対ストに呼応する形でストを決行.パンアメリカン・ハイウェー近くで軍と衝突し,少なくとも先住民9人が負傷.

7.12 マウア大統領は,ガソリン価格を今年いっぱい凍結すると発表.値上げされた現行料金の凍結発表に運輸業者の反応はなく,ストは依然 として続く.エクアドル先住民連合(Conaie)が政府の経済政策に反対して首都キトで抗議行動.キトを事実上の占領下に置く.大統領府の前には戦車5 台が出動し襲撃に備える.

7.14 マウア,ガソリン値上げを撤回.来年6月まで価格を凍結すると発表.労働者,原住民をこの決定を評価し,ストを中止.

8.10 マウアの支持率は、就任時の66%から1年たって16%にまで低下。

8月 アジア危機に始まる世界金融危機がエクアドルを襲う。ブレイディ・ボンドの価値は額面価格の約25%まで落ち、エクアドル政府はモラ トリアムに陥る。その後ブレイディ・ボンドとユーロボンドのグローバル・ボンドへの債務転換で危機を乗り切るが、さらに対外債務が増加する結果となる。

1999年9月

9.26 ブレイディ債の利払い期限を2日後に控え.9600万ドルの返済が困難となる.Mahuad大統領,ブレイディ債に関しては,利 息だけが払われるだろうと述べる.エクアドルの累積債務は、総額60億ドルのブレイディ債をふくめ、ほぼGDPと同じ136億ドルに達する。

9.28 政府は返済額の半分(4450万ドル)について支払い停止を宣言.エクアドルは1999年中に政府予算の半分に匹敵する24億ドルの返済を迫られていた。さらに、倒産状態にある国内銀行の救済資金として15億ドルが必要となっていた。

9.29 マウアド大統領は、ブレイディ債以外の債務返済は履行すると宣言.99年の返済額は5,100万ドルとなる.野党,先住民族団体が,政府のモラトリアム措置に対して支持を表明.

9.30 IMF,エクアドルのモラトリアム回避のための4億ドル緊急支援に合意.ブレイディ債の不払いについては、債権者の25%の同意が得られれば、米国財務省が1年分の利子に相当する保証金を支払うことになる。IMFは「モラトリアムの容認ではなく、モラトリアムに陥らないための最大限の措置である」と説明.

10.01 マウアド政権はつづいて、世銀・米州開銀との間で10億ドルの融資交渉に成功.均衡予算の実現、税収の50%引き上げ、不良銀行の救済措置の停止の条件を受け入れる.

国際金融市場の反応
国際金融市場はブレイディ債の利払い一部停止措置に反発.同債券の取引価格が,額面価格の22%程度にまで急落.これを,額面価格で米国裁判所に買い戻し提訴を狙う「ハゲタカ投資家」が買いまくる.民間では,「世銀・IMFのみを優先する返済は不公平.ブレイディ債だけを支払わないという選択的な利払い停止ではなく、モラトリアム宣言をだすべきだ」との意見が高まる.

10.06 軍部は「個人や集団の利益にたいして国の利益を優先すべきであり、政党間のコンセンサスを求める」声明を発表.有力紙も「文民が非効率ならば、軍人が模範を示して民主主義を指導すべきである」との社説を掲げ、軍事クーデターを暗に期待.

10.06 Pichincha火山が噴火.キトの街に5千トンの灰が降り積もる.

10.25 年末までに12千万ドルの支払いに追い込まれたマウアド政権,ユーロ債の利子2,730万ドルの利払い停止.国際金融機関はブレイディ・ボンドとユーロ債のグローバルボンドへの変換を強制。

グローバル・ボンド: ブレイディ・ボンドとユーロ債を一本化。さらにブレイディ・ボンドの所有者に提供した米国債7億ドルの返済が課せられる。債務は43%削減されるが、実勢価格はすでに25%に下落していたため、差損を背負わされる。新債券の利率は10%から12%とされ、ますます深みにはまる。

10月末 IMFはリスケジュール合意と均衡予算の成立を、すでに合意済みの4億ドルの融資支出の条件に組み込む.

10月 政府は一連の金融危機にたいして、預金者保護を理由に、銀行救済のために17億ドルを注ぎ込む決定.

銀行救済lこそはマウアの最大の悪政である.銀行救済にGDPの24%相当が費やされた.これに対し、1999年の社会保障費は7%、教育費は3%、保健衛生費は2.2%.
国内39銀行のうち15行が政府の管理下に入る.全銀行資産の70%が政府資産(当然ながら不良資産)となり、預金の56%が政府の管理下に入る.,この結果財政赤字が急激に拡大.最終的には7億6千万ドルに達する.

11.05 2000年予算が議会を通過.債務返済の優先と大幅増税という国民へのダブルパンチ予算となる.付加価値税は10%から12%へ引き上げられ、金融取引税も0.8%に維持される.

11月半ば テキサコにたいして推定10億ドルの賠償金支払いという和解案を示す.「防衛戦線」の側はあくまで裁判所の判決を求める姿勢である。

アマゾン石油開発問題: 普通は無理やりにでも年表化するのですが、この問題は現在のところ日付の分からない出来事があまりにも多くて年表化できません。またロスの保坂さんに持ち込もうかと思っています。
99年に政府がアマゾン川流域のジャングル(セルパ)のうち「ブロック23,24」という鉱区の開発権をテキサコに売却したようです。テキサコは
アルコ・オリエンテという子会社を作って開発を始めようとしたのですが、元から住んでいたアチュアル、シュアル、キチワという先住民三部族が猛反対します。それぞれが「エクアドル・シュアル民族独立連合」(FIPSE)と「アチュアル民族連合」という組織を結成し、これが「防衛戦線」という連合を結成し、石油採掘権の譲渡撤回を求めて裁判に持ち込みました。
アチュアル族の長、ミルトン・カレーラは「この土地は先祖代々我々のものだ。侵すことの出来ない我々の権利だ」と述べています。

11月 通貨スクレは1ヶ月でドルに対して40%も下落.199910ヶ月間の通算では140%の下落.インフレ率は47%に跳ね上がる.外国投資は前年比で63%低下し、20万人が雇用を失った。有力65社が倒産の憂き目にあっている。金融機関は35千万ドルの損失をだしてしまい、政府がその96%を保証する.

11月 マンタの空軍基地が、10年間の契約で米軍に貸与される。基地内にDEAの麻薬監視所が設置され、米軍人300名が常駐。コロンビア計画に沿って麻薬栽培・取引の監視等を行うための前進基地となる.空港の整備・拡充が行われる.米国は交換条件として当面一千万ドル,10年間の契約で6200万ドルの投資を提示.米軍は要員を配備し、FARC鎮圧作戦に利用。

12.21 世論調査.マウア大統領の支持率はわずか11%.危機打開の方法は「大統領の辞任のみ」とする声が44%に達した.労組・財界・野党政治家などすべての社会勢力が、マウアの辞任を要求する。

12.27 国軍は声明を発表し、憲法の秩序を遵守することを誓う。

12.29 マウア大統領、1999年がエクアドル史上最悪の年の一つであったと認める。

12.31 対外債務は140億ドル,GDPと同じ規模に達する.国家予算の40%が対外債務返済に消える.この年の経済成長はマイナス 7.2%,インフレ率は70%.98年8月に1ドル=5000スクレだった交換レートは,2000年1月には1ドル=25000スクレとなる.人口の 62%が一日一人一ドルの「貧困線」基準を下回る.失業者・不完全就業者は70%に達する.

 

 2000年

2000年1月 

1.06 キートで大統領の追放を要求するデモ.警察により解散させられる.マウア大統領は非常事態を宣言し対抗.

1.07 民間の世論調査で、91%がマウアの施策に反対、53%が退陣を望む結果となる。

1.09 マウア大統領,通貨をスクレに変え米ドルにすると発表.当面は1ドル=2万5千スクレに固定されることとなる.

ドル化政策: 政府はドル化により、インフレ抑制(2000年予測では65%)、為替投機鎮圧による金融危機克服、投資家の信頼回復を可能にすると主張.しかし2万5千スクレの固定相場を維持できるだけの外貨準備はなし.実際はドル化政策発表後,一気に20%下落.

1.09 中央銀行総裁、国防大臣を含む全閣僚が、ドル化政策に抗議し辞任.政権支持率は7%にまで落ち込む.

1.10 マウアド,昨年3月以来の銀行預金の一部引出し停止措置を,7年ないし10年に引き伸ばす措置を発表.

1.10 グアヤキルを含むグアヤス都市輸送労働者連合,ドル化計画に反対してストライキを開始.

1.11 先住民族団体と社会組織の代表300人により「民衆議会」が発足.議長にはクエンカ大司教アルベルト・ルナ・トバル,事務局長にはCONAIE代表のアントニオ・バルガスが就任.①大統領と全閣僚の退陣をもとめるだけでなく,②汚職の源である国民議会の解散,③もっとも腐敗した人物を裁判長に抱く最高裁判所の解散を要求.これに代わるものして救国政府評議会と民衆議会の設立をめざす,

1.12 マウア大統領、ホセ・ガジャルド国防相の辞任を受け入れ、カルロス・メンドーサ将軍を後継者に指名する。

1.15 先住民がキトの占拠を目指す行動を開始。政府は非常事態を宣言し、労組や学生運動の指導者を一斉検挙.軍・警察3万人が動員され,道路の確保に当たる.

1.15 全国先住民会議(CONAIE)と社会運動調整委員会(CMS),全国人民議会を創設.全国で無期限の抵抗運動に立ち上がること,先住民が首都キトに結集するよう訴える.

1.16 ドル化発表後わずか1週間で消費者物価が60%も上昇.

1.16 政府は最低賃金を月額6ドルに固定する措置を発表.(1日20円!)

1.17 警察はキト市内のデモを催涙ガスを用いて弾圧。騒乱に備え3万人の軍兵士が,首都内外に配備される.

1.17 国営「ペトロエクアドル」の労働者,政権が倒れるまで無期限ストを続けると宣言.統一労働者戦線,エクアドル自由労連もゼネストを呼びかける.

1.18 全国先住民会議(CONAIE),ハイウエイを封鎖した後,キトーになだれ込む.マウア大統領は暴動鎮圧を指令するが,ホセ・ガジャルド国防相はこの指令を拒否し,辞任.

1.19 先住民運動指導者、軍指導部に対しマウア政権を拒否し「救国政府評議会」の合法性を承認するよう求める。

1.19 クエンカでは,5万人の市民が蜂起.軍や警察の弾圧を打ち破り市庁舎を占拠.南部のロハでは軍が地元大学を占拠し,学生150人を逮捕.チンボラソ県では先住民5万人がすべての道路を封鎖.アマゾンの先住民は労働者とともに,油田の占拠を実行すると宣言.

1.20 CONAIE議長アントニオ・バルガス,「先住民と都市の支持者たちは,泥棒や腐敗者,権力者の前に膝まづくことはない」と宣 言.民衆にキト結集を呼びかける.軍・警察の規制にもかかわらず,2万人以上の先住民がキトの市街に満ち溢れる.政府は中枢機関の建物を鉄条網で囲み,最 終防衛に入る.

1.20 メンドサ国軍総司令官、軍は憲法を遵守すると宣言。先住民に対し民主的方法により要求実現をもとめるよう警告する。

1.20 軍部隊,エスメラルダの石油精製所を制圧.労働者は就業拒否で応える.キト市内では,非常事態下に数万規模のデモが展開.

00年1月21日 マウア大統領の追放

1.21午前 先住民組織が国会ビルに突入し占拠.マウァ大統領を拘束.守備隊との銃撃戦となる.バルガスは軍部の若手将校の支持を得ていることを発表.バルガスとルシオ・グティエレス大佐、カルロス・ソロルサノ元最高裁長官からなる救国政府評議会の発足を宣言.

1.21昼 陸軍士官学校が決起.国会占拠を支持し兵員数百名を装甲車で派遣.ルシオ・グティエレス大佐を先頭とする青年将校70人が,反乱への参加を宣言.

1.21昼 統合幕僚会議議長カルロス・メンドサ、「社会的混乱を避けるため」マウアに辞任を要求。マウアはこれを拒否するが、メンドサはマウアを拘束した上、救急車で大統領官邸から連れ出す。

1.21午後 メンドサ,反乱を支持すると声明.バルガスとソロルサノによる救国評議会を支持し、最後まで辞任に抵抗していたマウアドを「軍部としての意思」を示して押し切る.同時にデモ隊による大統領官邸の占拠に対しては、実力をもって抵抗する姿勢を明らかにする。

1.21夕方 グティエレスは,「前大統領諸氏,誠実な政治家,教会,メディア,正直な経営者,銀行家,労働者,失業者,そして女性の皆さ ん,この国の変化を支援してください」と呼びかける.ソロルサノは「経営者の皆さん,この国を無政府状態と略奪から守るため,新政府に協力しましょう」と 呼びかける.

1.21夕方 若手将校団の支持を背後に,先住民族は大統領官邸の占拠に向かう.メンドサ将軍に忠誠を誓う精鋭部隊はこれを阻止.

1.21夜 メンドサとグティエレスのあいだに妥協が成立.グティエレス大佐に代わってメンドサ将軍を軍部の代表とし、バルガスとソロルサノをメンバーに加えて新評議会の発足が発表される.若手将校団は軍部の統制系統に戻り、グティエレスが軍権力を掌握することとなる.

1.21深夜 メンドサ,米大使館を訪れたあと記者会見.グスタボ・ノボア副大統領の政権継承を支持すると述べる.ピーター・ロメロ米国務次官補からの圧力を受けたとされる.

1.21 米州機構理事会と事務総長が反乱を非難する声明。ブラジル政府も反乱を非難。

1月22日

1.22早朝 メンドサが評議会を離脱し、ノボア副大統領へ権力を委譲すると発表.「ノボアはマウアのドル化政策,銀行救済と近代化を続けることになるだろう」と述べる.メンドサはバルガスに対して国会の占拠を解き、先住民族の動員を解除するよう求める.

1.22午前 バルガスは「メンドサによって裏切られた。だが状況が改善されない場合、我々はいつでもより強硬な手段に訴えることができる.半年のうちに完全な転換がなければ,社会的爆発が生じて内乱につながるだろう」という声明とともに、動員を解除し、共同体へ戻るようCONAIメンバーに求める指令.

1.22午前 クーデター後に発足した政府評議会,軍の求めに応じ解散.議会に新政府の設立をゆだねることとなる.米国政府と国際金融機関の「説得」により形式的に立憲体制が守られることとなる.

1.22午後 グ アヤキルで緊急議員総会.憲法上の手続きにのっとり,グスタボ・ノボア副大統領を新大統領に指名.ノボアはグァヤキル(グァヤス州)の大富豪で,グァヤス 州知事やカトリック大学総長などを歴任.クーデターに際しては最後まで大統領支持を貫く.反乱に加わったグティエレス大佐は逮捕される.

1.22(午後) ノボア、「軍と警察の支持のもとに」大統領就任を受諾する。ただし「憲法の範囲内で最も合理的形態ではあるが、マウアが辞任を拒否している限りは、その法的根拠は明確ではない」と告白する。

1.22(夕方) マウアが声明。「私が大統領の座を追われたことは間違いない。しかしそのことが、ノボアが大統領職につくことの障害にはならない」と声明。(おそらくメンドサが強制的に言わせたのでしょう)

1.22 英国、チリ、フランス、EUがあいついで反乱を非難する声明。

1.23 グアヤス州において自治の是非を問う住民投票.自治賛成の結果.ただし多くが棄権.

1.25 ノボア新大統領,クーデターに荷担した軍人を全員処罰すると発表.グティエレス大佐は「国家反逆罪」に問われ、半年間の獄中生活を送る.地方の人民議会は次々に崩壊.

1.26 議会、新大統領としてノボアを承認。

2.14 ノボア大統領,IMFに従いドラリゼーション,電気通信・電力や石油部門の民営化,労働市場の調整の三つからなる経済政策を発表.前政権の政策を踏襲すると声明.

3.01 議会,ノボア大統領の提案した,「ドル化のための経済変革基本法」(通称第一トロリーバス法)を成立させる.4月1日から米国ドルが公式通貨となる.

3.21 緊縮政策に反対する全国一斉行動.

2000年4月

4.10 社会保障制度の民営化に反対し,全国で農民が道路封鎖行動を展開.数万の農民が,19/22の行政区で道路を封鎖.

4.13 ノボア大統領,1月の反乱に加わった軍人に恩赦例を発する.

4月 ノボア大統領,IMFとの融資合意を達成.IMF、世銀、IDB、CAFより、3年間で総額20億4500万ドルにのぼる新規融資の道が開かれる。

融資合意の内容: ブレイディ・ボンドとユーロボンドを総額55億7千万ドルのグローバル・ボンドに交換することを柱とする。毎年利率が1%UPし、7年後には利率年10%に達するという高利。
ドル化の下では、資金調達を高利の短期国内資金に依存する以外になく、民間部門は海外から資金を借り入れ、国債を引き受ける状況となる。このため対外債務は減るが、国内をあわせた公的債務返済額は、政府予算の36%にまで増加。

4月 ドル化を含む経済変革基本法が成立。1ドル=25,000スクレに固定。国営電力会社、電話会社の株式の51%までの売却、労働法の改正などが定められる。

5 年金・公務員給与の値上げ、燃料価格の引き上げ等を内容とした経済・社会政策が発表される。IMFより融資の条件として提示されたもの。

6.13 銀行業務,ドル決済に全面移行.

7.13 最高裁,99年3月に不法に預金口座を凍結した罪で,国外亡命したマウア前大統領,アナルシア・アルミホス前蔵相らの逮捕を命令.

2000年8月

8.02 先住民国民会議(CONAIE)と社会運動共同委員会(CMS)が,国民投票を求める要請署名を提出.国民投票の内容はドラリゼーション,国営企業の民営化,議員のリコール,マンタの米空軍基地の撤去など6項目.

8.17 大統領令により,投資促進・市民参加法(第2トロリーバス法)が成立.投資の振興と市民の参加を促すことを標榜する.実体は,金融システム再建・税制改革・民営化などを柱とする経済構造改革法.

8.24 エクアドル労働組合連合,エクアドル先住民総連合(CONAIE)などが記者会見.通貨スクレの廃止に反対する闘争を強化すると発 表.CONAIEのアントニオ・バルガス議長は「人民の闘いは1月21日よりさらに荒っぽいものになるだろう.我々は牢獄も死も恐れていない」と述べる. 石油労働者連合は抗議のストを宣言.

8.29 エクアドル議会,野党キリスト教社会党のウーゴ・ケベードを議長に選出.PSCはこの選挙を憲法違反と非難し,ケベードを除名.

8月 ブレイディー債やユーロ債などを、2種類のグローバル債に変換する再編プログラムが発表される。

9.09 すべての商取引において通貨スクレが廃止され,ドルに置き換えられる.IMFの試算では2000年度の物価上昇率は101%,対外債務はGNP比135%に達するといわれる.

ドル化政策の弱点: 通 貨や物価の安定をもたらすが、財政赤字が生じた場合は自国通貨の発行(シニョレッジ)が出来ないため、資金調達に苦しむことになる。IMF・世銀などから の融資がない限り、市場からの資金の調達に頼らざるを得ないが、財政に対する信頼が失われれば、たちまちデフォールトに追い込まれることになる。このため IMFへの従属度が高まり、国家主権は限りなくゼロに近づく。

9.12 エクアドル最高選挙裁判所(TSE), 要請署名の点検の結果,有効署名は21万しかなかったとし,要請を却下.CONAIEとCMSは150万筆を集めたとしていた.

10.12 武装誘拐グループがヘルメリッチ&ペイン石油会社所属の外国人10人(うち米国人5名)を誘拐.ヘリコプターを乗っ取ってそしてコロンビアへ逃亡.当初FARCの犯行とされたが,後に国内犯罪集団によるものであることが判明.

11月 ガラパゴス島の漁民,ロブスターの漁獲割り当てをめぐり4日間のストライキ.サンタクルーズ、サンクリストバル、Isabela島では暴動に発展.

12.12 エクアドルで一連のトランスエクアドル・パイプライン爆破事件.爆発は通り掛かりのバスを炎上させ,乗客8人が死亡,19名が重傷を負う.政府はコロンビアとの国境地帯に非常事態を宣言.FARC支持派の市長を追放.

12.27 政府,家庭用プロパンガスの価格の100%引き上げ,レギュラー・ガソリン価格は25%,ディーゼル油は50%引き上げを決める.野党や労組は経済テロであり,民衆に対する宣戦布告だと非難.

12月 ドル化政策が実施される。このあとエクアドルの経済は急速に悪化。便乗値上げなどの影響で、国民の実質収入が低下。貧困層は八割を こえ、平均的な世帯収入では最低生活費の67%しかまかなえない事態となる。石油やバナナなどは生産費が割高となり、輸出が伸び悩み、国際収支は悪化の一 途をたどる。

12月 税収の低下により政府の公的債務は急増。累積対外債務は130億ドル,インフレは90%に達する.官庁統計でも,貧困者の比率は70%から79%に増加.正規の被雇用者は人口の25%にとどまり,1年間で3千以上の会社が破産.

00年 石油の余剰収入を債権購入に充当するための基金としてFEIREP(安定化、投資、および公的債務削減基金)を創設。同基金の70%が対外債務返済と債権買戻しに充てられるようになった。

2000年 移民からの送金は13億6400万ドル、GDPの10%に上る。

 

2001年

01年1月

1.02 キト、グアヤキル、クエンカの学生が、公共輸送機関の料金・ガス・ガソリン値上げに抗議し、燃料への助成金継続をもとめるデモを開始する。

1.10 学生がマウア追放1周年を記念し,全国統一行動.すべての学校を占拠.道路封鎖,官庁占拠など各地で抗議行動.

1.16 243,000ガロンの燃料を積んだエクアドル船籍のタンカー・ジェシカ号が、ガラパゴスのサンクリストバル島で座礁。三日後から燃料が漏れ始める.

1.17 マウア追放運動に参加したグティエレスら軍幹部の代表,国民の抗議行動を支持すると声明.「エクアドルの軍は民衆の味方であり,エリートたちのために盲目的に職務を遂行するだけの存在ではない」と述べる.

1.20 首都警察,大学の電気・水道を遮断.ヘリで攻撃.催涙ガス弾を投下.選挙中の学生数百名が負傷する.

1.21 グティエレス,政治運動「1月21日愛国社会党(PSP)」を創設 汚職対策、貧困の減少、保健衛生と教育への資金投入、「5つの安全保障(社会、市民、司法、環境、食糧)」の推進、雇用創出に向けた競争力の引き上げをスローガンに掲げる.

1.27 先住民と農民たちは,地方ごとに集会を開き,人民議会を開いた後,幹線道路の封鎖に入る.チンボラソ州の州都リオバンバやクエン カでは,住民が大聖堂を占拠し人民権力の成立を宣言.ボリーバル州では住民が選んだ知事が,庁舎に入り執務を開始.トゥングラウア州ではすべてのテレビ, ラジオ放送が集中する中継所を占拠し,宣伝放送を開始.

1.31 長引く交渉にいらだつ誘拐グループ,人質の一人ロナルド・サンダーを殺害.

1月 ノボア大統領,IMFの20億ドル緊急融資を要請.その見返りとして,家庭用ガスの二倍化,ガソリン価格の25%引き上げ,公共バス料金の75%引き上げ,付加価値税引き上げからなるパッケージを提案.

01年2月

2.01 10月に誘拐された石油技術者の一人ロナルドClay Sander,Sucumbiosで射殺死体となって発見される.サンダーはミズーリ州出身の米国人.フランス人技術者2人は逃走に成功.7人が引き続き拘束される.

2.02 政府と先住民との交渉が決裂。先住民団体代表はふたたび道路封鎖など実力行使の準備に入る。

2.02 ノボア大統領,非常事態宣言を公布.反対派に対する弾圧に乗り出す.大学に立てこもる農民抗議団を排除するため,大学内突入の準備に入る.

2.04 先住民が道路封鎖を開始。クエンカ、リオバンバ、アンバト、Cayambe などで交通が途絶。

2.05 アマゾニア州ナポで,橋を封鎖中のピケ隊に軍隊が発砲.14歳の少年を含む4人が死亡、80人が負傷する.これに怒った群衆はテナの空港に到着した増援部隊を襲撃.兵士9人が負傷.石油労働者を含む全労働組合は,7日のゼネスト決行を意志統一.

2.06 政府と先住民組織代表とのあいだで、燃料とバス料金引き下げに関する合意成立.先住民組織はゼネスト解除を呼びかけ.

2月 IMF,5億ドルの緊急供与.見返りとして付加価値税の引き上げを求める.

01年3月

3.01 拘束中の外国人石油技術者7名,1300万ドルの身代金を払って解放された。

3月 ドル化のための経済変革基本法(通称第1トロリーバス法)が成立。

4月 IMFとの融資合意を達成。政府、「アカウンタビリティと透明性に関する新法」を導入。石油収入が確実に債務返済に回るように法体系を整備。債務返済予算は教育予算の約10倍、医療予算の6倍に達する。

4月 国務省副長官リチャード・アーミテージ,下院予算委員会外交活動小委員会で証言.アルカイ-ダとヒズボラーが、エクアドル・コロンビア・ペールの国境地帯で活動していると主張。エクアドル政府は、この主張を「ナンセンス」と批判.

5 ノボア大統領,付加価値税を12%から14%に引き上げる政令公布.議会が引き上げ案を否決したことにともなうもの.

7.26 ストライキ中の医師団がデモ.警察は病院近くで催涙ガスを発射し弾圧.このため新生児集中治療室の患者が避難を余儀なくされ,新生児二人が死亡.

7.30 「栄光の愛国白色軍団」を自称するグループ,エクアドル人権保護活動家に対して死の脅迫.

7月 エクアドルは、コロンビアに対し、国境10キロメートル以内での除草剤空中散布の中止を求める。コロンビアはこの要請を無視。

8.03 公立病院の医師が社会福祉費の増額と賃上げを要求し1ヶ月間のストライキ.

8月 投資促進・市民参加法(第2トロリーバス法)が成立。

9.01 憲法裁判所,ノボアの増税布告を違法と裁定.12%に戻すよう指示.

12月 エクアドル政府,IMFの提示したマクロ経済・財務指標の目標を概ね達成.国際的な信用を回復.GDP成長率が中南米最高の5.4%に達する.インフレは昨年の91%から22%に低下.政府会計もプライマリ黒字を計上人口の10%が国の富の42.5%を獲得.ラテンアメリカで最も貧しく,最も不公平な国となる.キートの商工会議所は,「エクアドルは毎年、腐敗により20億ドル(GDPの11.2%)を失っている」と報告.

 

2002年

 3.14 20カ国以上から500人が集まり,1週間にわたる「社会正義と人民自決のためのキャンプ」が開催される.麻薬取締りを口実に した米国の軍事覇権確立策動だとして「コロンビア計画」を非難.また米州自由貿易地帯構想(FTAA)を,ネオリベラリズムの押し付けと貧困化の拡大に結 びつくものとして非難.集会後参加者は,マンタで抗議活動を展開.

マンタ空軍基地: 首 都キトから南西に320キロの太平洋岸マナビ州に位置する。正式名称はエロイ・アルファロ基地。総面積2万4千ヘクタール。米空軍に貸与され,コロンビア での「麻薬作戦」をはじめ、ラテンアメリカにおける米軍最大の戦略拠点として位置づけられている.2009年に貸与協定の期限が切れる。

3月 グティエレス大佐、「ナショナリスト、進歩主義者、ヒューマニスト、革命主義者」を自称。大統領選に向け、「第二の独立を築き上げる」ことが必要だと訴える。パチャクティク党は,来るべき大統領選で独自候補の擁立を断念し、グティエレス候補を支持することに決める.

①グティエレスの選挙母体「愛国社会1・21」は下級兵士と予備役士官からなる政 治結社.②これにCONAIE(先住民族組織)の政党組織である「多民族統一新国家パチャクティク運動」が連合.③さらに社会運動組織として、 FENOCIN、CEOLS、UNE、セグロ・カンペシーノなどの統一組織「民主人民運動」(MPD)が支援.これに対しノボアは反共思想とネオリベラリ ズムを訴え、グアヤキルのバナナ産業などの傘下約100社のグループ企業を背景に選挙戦を進める.

4月 国務省副長官リチャード・アーミテージ,米国下院予算委員会外交活動小委員会で証言.アルカイ-ダとヒズボラーが,エクアドルとコロンビア,ペールの国境地帯で活動していると主張.エクアドル政府は,この主張を「ナンセンス」と批判.

7月 グティエレス候補はドル化政策を批判し,付加価値税の引き下げを提起.汚職一掃を公約.汚職関係者への厳しい処罰を含む「正義の実現」を強調.学校給食・教材費の無料化,低家賃住宅の供給など貧困層向けの政策を打ち出す.

7 首都キト市内で世論調査.ドル化政策に対する否定的な評価は65%に達した.

ドル化政策の影響
実施以降,エクアドルの経済は急速に悪化.石油やバナナなどは,生産費が割高となり国際収支は悪化.平均的な世帯収入は月200ドルあまりに低下.最低生活費用の67%しかまかなえない.予算執行のため、政府の公的債務は急増.

10.20 グティエレスは当選を目指すため、ドル化解消や付加価値税引き下げなど経済政策上の公約を多くの点で変更。

10.21 大統領選第一回投票.制度的革新国民行動党(PRIAN)のアルバロ・ノボア(52)と,「愛国社会1・21」の創設者ルシオ・グティエレス元大佐(45)の対決となる.

10.21 国会議員選挙.社会カトリック党24人、ノボアの国民行動革新党(Prian)が10人.パチャクチック運動(MUPP- NP)は議員数6人から14人へ前進。全国22州のうち5州の知事選でも勝利.グティエレス支持勢力は国会で15/100に過ぎず,当選した際のガバナビ リティーが問われる.

11月初め グティエレスは「誠実な企業家、誠実な銀行家、社会運動を含む」国民の団結を重視した政府を樹立することを表明。議会で圧倒的少数であることから、右翼のキリスト教社会党(PSC)の支持をもとめたことが背景となる.

11.24 エクアドル大統領選挙の決選投票.ルシオ・グティエレスが54%を獲得し当選.アルバロ・ノボアは45.6%.グティエレスは 決選投票を前に,経済政策について「現状を維持する」と変化.米ドルを自国通貨とした現政権の政策を支持,国際通貨基金(IMF)との合意を尊重する姿勢 を示す.

11.25 グティエレスは、国際通貨基金(IMF)と合意を交わし、構造調整計画を受け入れ。

構造調整計画の骨子: 公務員の賃金凍結、公的セクターの従業員3万人のレイ・オフ、年金凍結を要求。付加価値税の比率を50%に引き上げ、所得税と財産に対する税を28%に引き下げる。さらに公共料金の値上げにより国庫収入を増加させるよう迫る。

11.29 フィデル・カストロとウーゴ・チャベスがエクアドルを訪問する。

02年 IMFの圧力によりFEIREP(安定化、投資、公的債務削減基金)が設立される。石油収入を原資とし、基金の70%は債務返済とグローバル・ボンドの高利を維持するための買い戻しに使われる。

02年 ドル・リンケージによる不況がさらに深刻化。この年の税収不足が2億5000万ドルに達する。経常収支赤字は17億ドル、貿易収支の赤字は14億ドルとさらに増大。

 

2003年

1.15 ルシオ・グティエレスが大統領に就任.汚職・貧困との闘い、経済成長の追求、自主独立・不干渉政策を訴える。副大統領には人権派医師のアルフレード・パラシオ、内閣にはコナイエからバカリ外相とマカス農相が入閣.共産党もグティエレス政権を支持。

就任演説の柱: 汚職撲滅、貧困撲滅、治安改善、生産性の向上と競争力の強化、民族的多様性を反映した外交の推進の5つを課題に掲げる.
外交面では,ペルーとの国境和平、米国との経済・政治協調、アンデス共同体諸国・リオグループとの経済協調・友好関係、環太平洋諸国、EU諸国との貿易関係の維持・発展を基本方針とする.
ルーラの社会政策を賞賛、「飢え追放」と「汚職撲滅」を優先政策とする.

2月 エクアドル政府はIMFと2億ドルのスタンドバイ取り決めに署名。グティエレス政権は、IMFとの合意をベースに、徹底した緊縮政策を実施。家庭用ガスへの補助金停止、国営の電力会社や電話会社の民営化を推進する。

 

街角で見かけたポスター2003年(終わってます!) Zamora

 

5月 コファン、セコジャ、シオナ、ウアオラニ、キチワの先住民組織、セクンビオ高等裁判所にテクサコ社を告発。36年間の原油開発によって、居住地域が汚染され、健康と環境が損なわれたと非難。60億ドルを払うよう要求。

7月 パチャクティク党幹部は支持基盤と疎遠になり、「金色のポンチョたち」と呼ばれるようになる。ラファエル・コレアは、「パチャクティク党はIMFと合意を交わすという恥ずべき行為を正当化してしまった」と批判。

8月 先住民政党パチャクティク(Pachakutik:PNP),IMFとの協定に基づく政府との労働協約を拒否.連立政権を脱退.少数与党となったグティエレスは、連立相手を求め迷走を繰り返したことから、「迷宮の大佐」と呼ばれるようになる。

10月 エクアドルで農産物輸入自由化と社会保障の負担増に抗議する全国的な抗議行動.

12月初め チャベス大統領とキューバのカストロ議長がキトを訪問.グティエレス大統領はコロンビア訪問を口実として,両者との面会を避ける.

12月 エクアドルはGDP3.0%増、インフレ率 6.1%、財政黒字GDP比1.9%といずれも目標を達成する。いっぽうで120億ドル超、GDPの80%近い公的対外債務を抱え,その支払いに、毎年20億ドルを費やす.

03年 ワオラニ(Waorani)族の武装集団が、同じく先住民族のタガエリ(Tagaeri)とタロメナニ(Taromenani)を襲撃。26名を殺害する。ワオラニ族の一部は略奪的な林業をおこない、これに反対する他の先住民を攻撃してきた。

 

2004年

9月 グティエレス、パナマを公式訪問。このときパナマ亡命中のブカラムと非公式接触。

10.17 エクアドル地方選。グティエレス大統領与党の愛国社会党(PSP) は大敗。右翼のキリスト教社会党(PSC:レオン・ファブレス党首)が多くの市と州で勝ち第一党の地位を占め、民主左翼(ID:ロドリゴ・ボルハ党首)も 前進。グアヤキル市長およびグアヤス州知事選はいずれもPSC候補が再選を果たす。首都キトーでは、退役将軍のパコ・モンカーヨ(ID)が58%を得て再 選。グティエレス大統領の支持率は14%、信頼率は6.5%にまで低下。

11月 野党が主導権を握る議会、グティエレスに任期を二年前倒しして辞任するよう要求。政府との対立を深める。罷免するためには、議員100人の国会で67票以上の賛成が必要で、国家の安全に対する犯罪か汚職があったことをもってのみ発議することが出来る。

11.25 グティエレス大統領、最高選挙裁判所と憲法裁判所の人事に介入。この人事により、議会内旧ブカラム派(エクアドル・ロルドス党:PRE)の取り込みを目指す。

12.08 議会、最高裁がキリスト教社会党党と癒着しているとして、最高裁判事31人のうち27人を罷免する決議を採択。PREとPRIAN(国民行動機構改進党」がグティエレスを支持。

04年 債務返済額は、石油による税収の148%に達する。

 

2005年

1.14 エクアドルのラモン・ロドリゲス最高裁長官、グティエレス大統領と連携した国会多数派による司法改革決議を受け辞任。後任の最高 裁長官には、PRE党員で「ブカラムの古くからの友人」であるギジェルモ・カストロが就任。新しい判事たちは、グスタボ・ノボアとアブダラ・ブカランに対 する過去の判決を取り消す。

1.18 民主左翼のボルハ元大統領、「もし、グティエレスが辞任しなければ罷免しなければならない」と語る。右派のキリスト教社会党も、グティエレス大統領の独裁的態度やネポティスモ、公金横領疑惑を糾弾。

2.16 グティエレスの失政に抗議する20万人の大集会がキトで開催される。

3.25 国連調査団、最高裁の再編は政治の司法介入だとの判断。司法の不偏性は「共和国大統領の基本的な目標であるべき」と述べる。

3.31 最高裁判所のカストロ長官、パナマ亡命中のブカラム元大統領と、ドミニカ亡命中のノボア元大統領らに対し、過去の有罪判決を無効と裁決。事実上の恩赦を与える。市民らはグティエレス大統領の辞任を求める大規模な抗議行動を開始。

05年4月

4.02 ブカラム元大統領、亡命先のパナマから8年ぶりに帰国、グアヤキルの港に入る。「ロコ」(狂人)を自称するほど奇行の多いブカラムは、統治には不適格として罷免され、公金横領などで有罪判決も受けていた。

4.03 ブカラムに続き、ノボアもドミニカから帰国。

4.04 暫定最高裁、腐敗裁判を無効にするための法律的手続きを決定。

4.06 エクアドルの反政府派は憲政と司法の独立を取り戻すため、国民戦線を結成することを明らかにした。デモ行進の先頭に立ったパコ・ モンカーヨ市長は「国民は飽き飽きしている。」と述べ、「エクアドルが正義と最高裁の変化を達成するまで」抗議を続けるとした。またキトーが県庁となって いるピチンチャ県で12日にストを行うと述べる。

4.11 野党と市民勢力、最高裁判事の処遇にからんでグティエレスの辞任を求め、街頭行動を展開。キトの地元ラジオ局ラ・ルーナ(パコ・ベラスコ社主)は大衆の声を反映。連日すべての放送時間を使いキャンペーンを主導、戦いの輪を広げる。

4.12 市民の「創造的抗議運動」が始まる。数千人の規模のデモ隊が連日ユニークな抗議行動を展開する。

創造的抗議行動: 13 日は「鍋叩き行進」(cacerolazo)、14日は「風船破裂行進」(reventon)、15日は「拍子木行進」(tablazo)を行った。16 日は「ロールペーパー巻きつけ行進」(rollazo)、17日が「ごみ投げ込み行進」(basurazo)の予定だった。(ロールペーパー作戦の意味は 英語で:hurled streams of toilet paper at the main government building suggesting the need to wipe clean the excrement of corruption)

4.14 グティエレス、デモ隊を「我が家の眠りを妨げるならず者」と非難。このあとデモ隊は「私もならず者」(Yo tambien soy forajido)を合言葉とするようになる。

フォラヒードスの反乱の意義(ルモンド紙による): このフォラヒードスの蜂起は、真の社会運動というよりも、大統領のやり方は反道徳的だったと考えた一部の中産階級のシニカルな抗議行動だった。このときの社会運動は1カ月半で、政治的な提案もなく退潮に向かった

4.15 グティエレス大統領、キート大都市圏(キトー市とピチンチャ県)の非常事態を宣言。同時に昨年暮れに選出された最高裁判所判事31人全員を更迭、最高裁の機能停止を宣言する。デモ隊がグティエレスを独裁者と呼び、数千人が抗議のために街に出てその辞任を要求。

4.16 軍は非常事態を受け入れず。「独裁者」の非難にたじろいだグティエレスは立場を後退し、非常事態を解除。野党勢力との対話による解決をもとめる。同時に日当10ドルで地方の支持者をキトに動員。

4.17 グティエレス、臨時議会を召集。89名が出席し、昨年12月の判事更迭決議を全員一致で「憲法違反」と判断(!?)。最高裁が4 月1日に下した裁定を無効と宣言(?)。89対0で現最高裁判事の追放を支持(?)、「司法の空白」を宣言した。その期間は裁判官を選出する無党派組織が 作られるまでとされる。

4.17 キトでサッカーの試合が行なわれる。民衆は“Golpe de estadio”のスローガンを掲げる。 estadioはEstado(国家)のもじり。

4.17 コナイエ、全国で農民の抗議行動を開始する。

05年4月18日

4.18 グティエレス大統領、辞任の意思はないと発表。またクーデターの可能性について否定。

4.18 CONAIEリーダーHumberto Cholangoは、抗議行動が全国的な農民蜂起につながる可能性があると示唆する。

4.18 コナイエのルイス・マカス委員長、グティエレスとの一切の妥協を拒否すると声明。またいかなる政権が誕生しても、米国との自由市場協定交渉の破棄、マンタの米軍基地閉鎖、コロンビア計画の拒否という自らの要求を取り下げることはしないと述べる。

05年4月19日

4.19 グティエレス派も大衆動員を開始。先住民福音連合 (FEINE)の先住民1500人がキトに入り、国会議事堂近くに集結。グティエレスを支持し、議会に危機打開を求める。グアヤキルの愛国協会議長レナ ン・ボルブア・エスピネル、「民主主義と憲法を守るため」数千の支持者をキトに送り込むと声明。

4.19 反グティエレスの抗議を支持するキト市長パコ・モンカヨ、市所有のバス・トラックに砂を積み、首都周囲の要所を封鎖。グティエレス支持者の入市妨害を図る。

4月19日、約5万の民衆が、キト市内のカロリーナ公園から政府宮殿のあるカロンデレトまで、平和的にデモ行進。彼らはエクアドル国旗を掲 げ、国歌を歌い、スローガンを叫んだ。「みんな出ていけ!」 これはすべての政治家と政府高官の排除を意味する。そしてそこにはLucio Gutierrez Borbua大統領もふくまれる。

19日午後  政府、デモの弾圧を命ずる。警官4千を街頭に動員し、装甲車、警察犬、騎馬、高圧水砲、数百発の催涙ガス弾を持ち込む。社会 福祉省のビルからは群衆に受かって狙撃弾が発射される。衝突は深夜にわたり続く。この衝突で2人が死亡。少なくとも130人が催涙ガスにやられ、治療を受 けた。ほかに44人が負傷、数十人が逮捕される。

4.19 催涙弾攻撃により、チリ人カメラマンのフリオ・アウグスト・ガルシア・ロメロが呼吸不全となり死亡。テレビ・カメラは弾圧をやめ るよう警察に叫んでいる、生前の彼の姿を放映した。ガルシアはピノチェトの独裁を逃れエクアドルに移住。以来30年にわたり、進歩的なジャーナリストとし て、民衆の教育とコミュニケーション・プロジェクトに貢献してきた。

05年4月20日

4.20 進歩的な情報源は、事件の黒幕としてアントニオ・バルガス前社会福祉相を非難。バルガスはコナイエ書記長を勤めていたが、裏切り者として除名された。

4.20 警察の弾圧はさらにデモの過激化をもたらす。大学生・高校生数千が決起し、群衆と行動を共にする。グティエレスがデモを「無法者」と呼んだことから、デモ隊は「無法者革命」を呼びかける。

4.20早朝 抗議者の声を代弁してきたラ・ルーナ放送局に、銃弾が打ち込まれる。放送局は前日、電話による脅迫を受けていた。またその前 日には、数時間にわたり放送信号をカットされた。国家警察はボリーバル・ゴンサレスに逮捕状を発行。ゴンサレスはバルガスの子分で、社会福祉ビルからの狙 撃を命じたとされる。

4.20早朝 民衆が首都につながる幹線道路を封鎖し、グティエレス派の侵入を阻止。その後大統領官邸前の独立広場に民衆が結集し始める。

4.20 10:30am 国家警察長官ホルヘ・ポベーダが辞任。「私は暴力的な人間ではない。エクアドル人民との対立の目撃者であり続けることはできない」と声明。

4.20 1pm エクアドル議会、ラテンアメリカ高等通信研究国際センター (CIESPAL)を会場として、臨時総会を開く。62人の議員が出席。議会はまず、オマール・キンタナ議長を排除(キンタナはロルドス党員でブカラム元大統領の側近だった)。ついで「任務の放棄」を理由に、憲法上の手続きに基づきグティエレスの解任を決議。

2pm 議会新議長Cynthia Viteri、 Alfredo Palacio Gonzalez副大統領をエクアドル新大統領として承認。パラシオは65歳の心臓外科医。副大統領就任の直後に、事実上グティエレスと袂を分かっていた。

2pm 軍兵士、投票の直後から政府ビル周囲の防衛任務を放棄。統合参謀本部議長のウーゴ・ロセロ提督は記者会見を開き、「我々は人々の宣言の前に無関心なままでいることはできない」とし、グティエレスに対する支持を停止すると発表。

2pm 議会の動きに抗議する群衆がCIESPALビルを包囲する。群衆は議会の解散、憲法制定会議の招集、自由貿易協定とドル化政策撤 回、新たな政治形態の創出を求める。Palacioは群衆に演説。政治的な状況は、既存の選挙法を尊重する中で解決されなければならない。全ての堕落した 政治家は投獄されるだろうと述べる。

2:30pm グティエレス、陸軍のヘリでカロンデレトの大統領宮殿を脱出。キト国際空港(マリスカル・スクレ名称)に向かう。キト空港に つめかけた群衆は滑走路を占拠し、グティエレスが小型機に乗り換えようとするのを阻止。グティエレスはヘリに戻り、キト郊外のラ・バルビナ基地に入る。

夕方 暫定検事総長Cecilia De Armas、抗議者に対する弾圧命令に関してGutierrezに逮捕命令。Gutierrezはブラジルの大使公邸に避難し、政治亡命者としての保護を依頼。

8pm パラシオが国防省内で記者会見し、大統領就任を宣言。

05年4月21日

4月21日朝 ブラジル政府、Gutierrezに亡命者保護を与えることに同意。Gutierrezのためにブラジリアまでの安全な通路を確保すべく、Palacioと交渉開始。

4.21 Palacio、首相・外相・経済相・通産相・国防相を任命。経済・金融相にはラファエル・コレアが任命される。コレアはイリノイ大学の教授を務める経済学者。パラシオスの経済顧問を務め、ドル化、自由市場、IMFに批判的な立場といわれる。

4.21 コレアは記者会見で、「当面はドル化政策を守るが、長期的には、ドルに代わる地域ブロック単一通貨の導入を検討する」と述べる。

05年4月22日

4.22 Palacioとブラジルとの交渉で、Gutierrezがブラジルに出発するのを黙認することで同意。

4.22 4:15am 大使公邸を囲んでいる抗議者群衆がまばらになったとき、Gutierrezは裏口からの脱走に成功。

5:50am グティエレスを乗せたブラジル空軍機が、キトー南部のラタクンガ空港を離陸。

11:15am グティエレスと彼の家族、ブラジルの空軍ボーイング737でブラジリアに到着。

4.22 ブカラムはいち早くパナマ亡命に成功。逃げ遅れたノボアは拘留される。

4.22 新しい軍司令官と警察長官が指名される。

4.22 米州機構、エクアドル問題で臨時総会を開催。グティエレス解任が合憲的か否かについて調査するために、ハイレベルの外交団を送る ことで同意。パラシオ新政権の明確な承認を保留する。OASが問題とするのは、①正規の国会議事堂でないところでの採択、②議員100人のうち出席議員が 62人、罷免賛成が60人で解任に必要な2/3に達していない、ことである。さらにOASを差し置いてブラジルが干渉したことにも不快感。

4.26 国会が召集される。ルセロが新議長に就任。腐敗議員11名を罷免。

2005年5月

5.07 エクアドルの先住民グループ、シェブロン・テキサコがセルバの環境を破壊したとして10億ドルを求める訴訟を起こす。 シェブロン・テキサコ社は、「われわれは国営会社ペトロエクアドルとの合弁会社の少数株主に過ぎない」として訴訟を拒否。

5.15 パラシオ、政府との契約が遵守されていないという理由の下に、米系多国籍企業オクシデンタル・ペトロリウム(OXY) とのBlock15 に関する契約を無効とし、7億8000万ユーロに及ぶ資産を没収する措置をとる。

5.24 パラシオ、近日中に国民投票を実施すると発表。①政治改革:司法の独立、小選挙区制、二院制。②経済改革:対外債務返済義務の尊重、石油輸出利益の生産・社会部門への投資など6項目を掲げる。

5月 パラシオ、石油収入の使途を見直すなどIMF路線に一定の手直しを図る。コレアはチャベス大統領と交渉して、5億ドルの対外債務証券の売却話をまとめる。

6.25 議会、コレア経済相の提案した「安定化、社会・生産部門投資、債務削減基金」(FEREP)の改正案を承認。FEIREPは事実 上廃止され、CEREPS(生産社会活性化特別勘定)が創設される。石油収入のほとんどを基金につぎ込む現行の計画を改め、社会政策に振り向ける。

2005年7月

7.15 IMFの代表、エクアドル中央銀行内に陣取っていた事務所を撤退。

7.21 パラシオ、政治改革に関連し、7項目からなる国民投票項目の政府案を議会に提出。議会はこの提案を否決。

7.22 グティエレス、ブラジルからコロンビアに移り政界復帰をうかがう。

7.24 エクアドル最高裁、「国家安全を脅かす」としてグティエレス前大統領に対し逮捕命令。

7.29 世銀、エクアドルの新経済政策に反発。1億ドルの新規融資申請を拒否。世銀の圧力を受けたパラシオはコレア経済相を辞任に追い込 み右展開。政府から「ナショナリスト・フォラヒードス」勢力を一掃し、産業界と折り合いをつけ、コロンビア政府と和解。国際金融機関との関係を正常化し、 アメリカと自由貿易協定の交渉に入る。

2005年8月

8.14 アマゾン地方のオレリャナ、スクンピオス県で、先住民を中心とする抗議行動。アマゾン地域への投資を拡大するよう石油企業に要求。デモ参加者により262ヶ所の油井が操業不能となり、電力供給が停止される。

8.17 政府、オレリャナ、スクンピオスに非常事態を宣言。

8.18 石油輸出が停止に追い込まれる。政府は契約済み石油の代替輸出をベネズエラに依頼。

9月 政府、石油部門における利益分配は不公平であると声明。政府と外資系石油会社の間に締結された参入契約の見直しを開始。

9月 大統領府を巻き込む公職売買事件が発覚。大統領顧問のうち8名が事件に連座し辞任。

10.14 グティエレス、コロンビアからエクアドルに戻り、ただちに逮捕・収監される。

10月 パラシオ大統領、「エクアドルの発展を妨げる“機能しない国家”を回復させる」ため、議会の頭越しに憲法議会の招集を提案。最高憲法裁判所(TSE)の承認をもとめる。TSEは「まず議会通過が必要」とし、承認を拒否。

10月 中国の国営ジョイントベンチャーが5 つの鉱区およびパイプライン資産を買収。

12.01 パラシオ大統領、憲法改正のための議会との対話に終止符。大統領令で再び憲法議会を求める。議会はパラシオ大統領を解任する構えを示す。

12.09 パラシオ大統領、憲法議会招集を試みるが、最高憲法裁判所(TSE)に否認され断念。

2005年 貧困ライン以下の人々は61%に達する(70年には40%)。子ども達の半分が慢性的栄養不良に苦しむ(山岳地帯では70%)

 

2006年

1.28 コロンビア戦闘機(ブラックホーク・ヘリコプター3機、戦闘機2機、レーダー機1機)がエクアドル国境を侵犯。バランカ・ベルメ ハ村を攻撃。パラシオはコロンビア内戦に対し中立を守り、反乱勢力をテロリストとみなすことを拒否。エクアドル領内へのコロンビア軍の侵攻に抗議を続け る。

1月 Rafael Correa、Alianza PAISを結成し大統領選への立起を表明。新党は政治的主権、地域の統合、貧しい者のための経済支援をうたう。コレアは自らをヒューマニスト、左翼キリスト教徒、21世紀の社会主義の提案者と規定する。

2.21 アマゾン地域ナポ州で抗議行動をしていた3人が、銃弾で負傷。政府は緊急事態を宣言、全ての抗議行動を禁止する。

2月 コレア、国民同盟を立ち上げ大統領選への出馬を表明。「ラジカルな変革」と「21世紀型社会主義」をスローガンに掲げる。

コレアの出馬表明: ①公的対外債務の再編、②外資石油会社との契約見直し、③議会の解散・憲法制定議会の創設、④完全ドル化の見直し、⑤貧困者向け補助金の拡大、⑥マンタ米軍基地の閉鎖、などを公約に掲げる。
「我々はチャベシスタでもバチェリスタでもキルチネリスタでもなく、21世紀の社会主義の一翼を成している。それは調整と協力、補完の論理に足場を置き、社会正義、国の主権、天然資源の保護、地域統合を希求する社会主義である」と述べる。

2006年3月

3.01 全国22州のうち11の州で先住民が反乱開始。「我々はアメリカの植民地になるつもりはない」と叫んで自由貿易協定に反対しデモを繰り返す。道路が封鎖され、木々が折り倒され、タイヤが炎上し、麻痺状態となる。

3.08 パラシオ大統領、アマゾン地域のナポ、スクンビオス、オレジャーナノ3州に非常事態宣言。ペトロエクアドルの下請け会社従業員が6日からストに入ったため。

3.18 エクアドル先住民族総連合(CONAIE)、自由貿易協定に関する国民投票をもとめ抗議行動を開始。CONAIEのルイス・マカ ス委員長は、「唯一の解決策は、アメリカとの協定を国民投票にかけることだ」と主張。「サインするなと言ってはいない。エクアドルに役立つならサインすれ ばよい。しかし資源の管理権、食料、領土、政治の自主権を売るような真似には賛成しない」

1300万人のエクアドル人国民のうち、3分の1が先住民である。その80%が貧困で、教育、保健サービスは対象外である。

3.21 エクアドル政府、CONAIEが呼びかけた道路封鎖行動に対し戒厳令を発動。チンボラソ、コトパクシ、インバブラ、カニャルなどの州で道路封鎖の強制解除に入る。

3月 エクアドルのガンダラ内相、①FTA交渉を中断すること。②鉱山と石油に関するすべての契約を見直すこと。③プラン・コロンビアとは 距離を置くこと。④対米軍事協定の破棄を検討すること。このうち④についてはパラシオ大統領が、ケニー米大使との昼食会の後取り消す。この協定は1999 年に締結され、西部マンタの軍事基地を提供するもの。マンタ基地はコロンビアのゲリラを標的にし、500人のアメリカ兵が展開する米軍南方軍司令部の戦略的施設である。

3月 エクアドル最高裁のハイメ・ベラスコ判事、ルシオ・グティエレス前大統領とグスタボ・ノボア元大統領をあいついで釈放。

4.20 エクアドル議会、原油価格の高騰による特別譲与利益の再配分を目的とする炭化水素法の改正案を可決。契約時に合意した価格(1バ レル24ドル)を上回った場合に生じる超過収入の50%を政府が取得することとなる。これによりエクアドル財政に対する5億ドルの追加収入が見込まれる。

2006年5月

5.12 エクアドルの司法当局、ルシオ・グティエレス前大統領の大統領選出馬申請を却下。議会特別委員会は、グティエレスが2002年の 大統領選でメキシコと台湾から資金を受け取っていたと発表。グティエレスは、「エクアドルでは不公正なことを正当化するために、でっち上げをしたがる人間 がいる」と反発。

5.15 米国石油企業オキシデンタル社がエクアドル当局の承認なしにカナダの石油企業エンカナ社に石油権益の移譲。

5.15 エクアドル政府、エクアドル国内にある米国の石油企業Occidental Petroleumの国外追放を決定。同社がエクアドル当局の承認なしにカナダの石油企業エンカナ社に石油権益の移譲を行ったこと、海外送金上の法律違反をしたことを理由とする。

5.16 オキシデンタル社との石油開発への参入契約を破棄。15鉱区の契約が破棄され、同社の資産が接収される。

5.16 アメリカはエクアドルとの自由貿易協定交渉を中断し、没収された企業への補償を求めることを決定。

5.18 エクアドルのフェリペ・ベガ外相、「米政府の決定は受け入れられない脅迫であり、もしアメリカが交渉をやめたいなら、我々は欧州の方を向く」と述べる。アメリカのロブ・ポーツマン通商代表は、「交渉再開の用意がある」と述べ、強硬態度を緩める。

6.23 パチャクティク党の政治協議会が開かれる。コレア支持をめぐり対立。13の州組織がコレア支持に回った。その他の州はCONAIEの創始者ルイス・マカス候補を擁立する。

6.27 ペルーのアラン・ガルシア次期大統領がコロンビアとエクアドルを訪問。チャベス大統領に対抗する同盟作りを目指す。

7月 コレア大統領候補、米ドルを引き続き通貨として採用することを認める。

8.14 コロンビアのマリア・アラウージョ外相がキトを訪問。除草剤の散布は一時停止されていると述べる。

8.14 マンタ基地のジャヴィエル・デルッカ新司令官、「マンタ基地がコロンビア計画において重要な役割を果たしている」と発言。

8.15 フランシスコ・カリオン外相、デルッカ司令官あてに抗議書簡。コロンビア計画へのいかなる関与も拒否すると述べる。さらに「マン タ基地の存在によってエクアドルの安全保障は損なわれている」との考えをあらためて強調。国防相もコロンビア計画への関与を否定する声明。

8.20 『エクスプレソ・デ・グアヤキル』紙、コロンビア軍の兵士がマンタ基地の米軍機に乗務していると報道。記事によれば、空軍関係者は、「コロンビア領空を飛ぶときのみ活動している」と弁明したという。

8.21 エクアドルの人権恒久会議(APDH)、コロンビアがエクアドル国境地帯のプトゥマヨ州で農薬空中散布を再開したと非難。

8.24 キトー南方135キロ、海抜5,029メートルのトゥングラグフア(Tunguraghua)火山が噴火。数千人が避難。

8.24 マンタ基地の空中早期警戒管制機(AWACS)飛行隊のリッチ・ボイド司令官、AWACSはコロンビア軍のパイロットによっても操縦されていると述べる。

8月 コレア、ウーゴ・チャベスを個人の友人と考えるけれども、彼自身はベネズエラBolivarian運動の一部ではないと強調。

9月 コレア、①憲法制定議会の発足、②南米統合、③対外債務の再編の推進、④米国とのFTA反対、⑤マンタ基地撤去などを掲げ躍進。半月 で支持率を14ポイントあげトップに立つ。これに続き民主左翼のロルドスが21%、制度的革新国民行動党のノボアが19%、キリスト教社会党のビテリが 12%。

9月 大統領選挙のレースが始まる。当初は、前回も立起したアルバロ・ノボアが優勢。これに対し祖国同盟(Alianza Pais)のラファエル・コレアが「市民革命」を訴え立起。パチャクティク党は、グティエレスで失敗したことから慎重になり、コレアの要請を退ける。

ラファエル・コレア: 米国で学んだ経済学者で、一時アルフレド・パラシオ暫定大統領の政権で経済相を務めた。「ヒューマニストであり、左翼キリスト教徒」であると自称。
アルバロ・ノボア:
 100以上の企業の所有者で、ワシントンに親しい友人を持つ。選挙期間中は聖書を振りかざし、コンピューター、車椅子、薬をプレゼントした。コレアがチャベスの操り人形になるだろうと述べ有権者を驚かせた。

2006年10月

10.05 主要候補者4人によるテレビ討論会。外国投資を呼び込むための税制上の優遇措置の是非や、米国とのFTAに対する賛否、麻薬対 策に対する態度などで論争が展開される。ラファエル・コレア候補が他候補を圧倒。ノボアは、チャベスがコレアを金銭的に支援して干渉をしていると批判。当 選後はベネズエラとの関係を断絶すると発言。チャベス大統領は、ノボアを「労働者を搾取するバナナ・キング」と呼ぶ。

コレアの発言要旨: ① 短期的な優先課題は、債務や石油など「経済改革」ではなく、「政治改革」である。既得権層が牛耳っている立法府と司法府をどう変革するかがエクアドルを苦 境から救う上での鍵だ。②エクアドルの対外債務は「不法」であり返済を拒否する。ただしドル化の撤廃や天然資源の国有化という選択肢は採らない。③アメリ カとの麻薬対策に関する合意は更新しない。

10.11 大統領選の世論調査。市民革命を訴えるコレア37%で、レオン・ロルドス21%、アルバロ・ノボア19%、シンシア・ビテリ12%らを圧倒。

「市民革命」(Revolucion Ciudadana)の五つの柱: ① 憲法革命: 「政治制度はまひし、国会は信頼を失っている」と指摘。制憲議会発足による新憲法づくりを提唱。②腐敗、汚職とのたたかい。③経済革命: 新 自由主義の克服、対外債務の再編と国際金融機関の支配からの脱却。④教育・医療革命。⑤地域統合の推進: 南米共同体の制度化や社会分野での協力推進。

10.12 大統領選直前の世論調査。コレアは36%、ノボア候補が23%、民主左翼などが推すレオン・ロルドスが19%。コレアは石油関連の多国籍企業との契約の見直しや投機資本規制などを訴える。

10月15日 大統領選の第一次投票と議会選挙。コレア優勢の世論調査をくつがえし、アルバロ・ノボアが26.8%を獲得。コレアは 22.8%を獲得し決選投票に勝ち残る。軍の暗黙の支持を背景とするヒルマル・グティエレス候補(ルシオ・グティエレス前大統領の弟)は、15%を獲得し 3位となる。 先住民地域での票はグティエレスに集まるが、コレアも第二位を獲得する。パチャクティク党とマカスは圏外に去る。

10.15 国会選挙ではノボアのPRIAN(国民行動制度改革党)が28%、グティエレス元大統領のPSP(愛国社会党)が24%を占める。コレアは当選後に制憲議会を召集するとして、議会選挙を無視。

10.15 米政府、自由貿易協定の交渉をストップし圧力をかける。決選投票を控えたノボアは「共産主義か自由体制かの選択だ」と強調。コレアの親チャベスの姿勢に警戒感を抱かせる作戦に出る。

10.19 ボゴタのヌエバ・グラナダ軍学校で爆弾テロが発生。ウリベ大統領は、犯行を指揮したFARCの幹部ラウル・レイエスが、エクアドルのセルバに潜行していると非難。

10.21 フランシスコ・カリオン外相、ウリベ大統領の非難を否定。「FARCが偶然に入り込むことはあろうが、エクアドル領土内に留まることは許さない」と述べる。

10.25 Cedato Gallup Internacional社とInforme Confidencial社の世論調査。ノボア候補がコレア候補を16ポイント離して優勢を保つ。先住民運動CONAIEはコレアに対して条件付の支持を与える。

10月 コレア、チャベスがブッシュを悪魔と非難したことに触れ、「ブッシュを悪魔に比べるのは悪魔に失礼だ。悪魔は邪悪だが、少なくとも知性はある」との発言する。

10月 コレアは、コロンビアの内部対立に関するエクアドルの関心を強調するいっぽう、FARCメンバーがエクアドルに入るなら、「追及し捕らえるだろう」と述べる。

2006年11月

11.01 決選投票直前の世論調査で、Informe Conofidencial社は40%がノボア、37%がコレアとする。Market社の調査では、41%がコレア、37%がノボア。

11.03 アルバロ・ノボア、「レーガン大統領の政策に倣い、外国投資を誘致し、雇用・消費・財政を活性化する」と述べる。政治的改革はまったく取り上げられず。

11.12 コレア候補、アメリカによるエクアドル兵士の訓練計画を厳しく非難。米国軍人に無処罰特権を与えることを拒否すると言明。

11.13 コレア候補、チャベスとの連携を改めて確認。チャベスのノボア候補批判について、「時宜を得た発言ではないが、真実だ」と述べ る。そしてノボアをかつてのニカラグアの独裁者ソモサになぞらえて、「裕福で、本能的、頭の悪い、21世紀におけるソモサの化身」だと非難。

11.15 エクアドル選挙当局、アルバロ・ノボアの銀行口座を凍結。ノボアは規定の選挙資金68万7000ドルに対し、すでに92万2000ドルを費やしたことが明らかとなる。

11.24 決選投票に向けての選挙運動が終了。制度的革新国民行動党のアルバロ・ノボアと、これを急速に追い上げた国民同盟のラファエ ル・コレアが拮抗。Cedatos-Gallup社の選挙前の最終世論調査では、コレアが52パーセント、ノボアが48パーセントと逆転。

11月26日 決選投票に際し、パチャクティク党、大衆民主党(MPD)、社会党(PS)、民主左翼(ID)、CONAIEを含む200の 政党・市民運動組織がコレア支持に回る。PS-FA (左翼拡大戦線)は、「改革は進めなければならないが、安定し平穏な雰囲気の中で行うべきだ」とし、コレアの運動に対抗する考えを明らかにする。

憂慮か希望か: 政 界通は「これは憂慮をめぐる戦いである。少しでも憂慮の与え方の少ない方が勝つだろう」と観測した。第三の候補ロルドスは「エイズにかからないためにガン に投票するようなものだ」として、最悪の二つの中からしか選択できないことを嘆いた。しかし後になって分かったのだが、それは実際は「憂慮の闘い」ではな く、「希望の闘い」だった。

11.29 大統領選挙決選投票の大勢が判明。最高選挙法廷、コレア候補(43歳)が勝利したと言明。沿岸地域でも、ノボアより多くの票を 集める。コレアは最終的に57%の支持を受け、地すべり的勝利を収める。先住民運動の支持、NAFTA加入反対、経済の自立的発展と社会正義の実現、 OPEC再加入、利益の85%還元を目指す石油会社との再交渉、マンタ米軍基地の閉鎖などを訴える。

コレア勝利の背景: エ クアドルは、中南米から米国への第二の石油供給元であるが、1300万人の住民の60%以上は貧困線以下の生活を送る。完全失業率は11%、不完全失業率 は40%、極貧者の割合は25%に達する。対外債務はGDPの35%に達しており、その返還のために数年前から破産状態に陥いる。

11.29 ペルーのメルセデス・アラオス外相、コレアの勝利により「アンデス共同体(CAN)の分裂がますます促進されるだろう」と述べる。

11.29 大統領選挙と同時に行われた国会選挙。「国民同盟」は、新憲法にもとづく新国会を展望し候補を立てず。この結果、議会は反コレア派が82人を占める。

11.30 コレアが記者会見。CANの分裂について、「被害を受けるのはコロンビアとペルーのみだ。この二カ国はアメリカとの自由貿易協 定交渉をしており、CANに未練はない。経済・社会統合はラテンアメリカ全体を通じて進めるべきで、もはや我々の世界はCANではない」と述べ、メルコ スール加盟に努力する意向を明らかにする。

11月 ルシオ・グティエレス元大統領が率いる「愛国社会」党、制憲議会設置を支持すると表明。コレアはグティエレスのIMFへの屈服を批判する姿勢を崩さず。

11月 エクアドル中央銀行、公共債務は103億ドルとなり、これは国内総生産の25.3%に相当すると発表。

06年12月

12.14 コロンビア、昨年の合意を破り、国境から10キロ以内の地帯での薬品散布を再開。エクアドルのフランシスコ・コリオン外相は、「エクアドルはコロンビア難民50万人を受け入れている。これは敵対行為である」と非難。

12.16 エクアドルは駐ボゴタ大使を召還。コレア次期大統領は、「私たちはコロンビアの攻撃を受けており、これをエクアドルへの敵意と考える」と警告。対話の再開は散布中止の後になるとする。

12.18 コレア次期大統領、ブラジルを訪問。マンタ基地は米国が撤退したあと、国際空港になるだろうと述べる。

12.19 コレア次期大統領、ブラジル訪問を終えベネズエラを訪問。チャベスはコレアを国賓待遇で歓迎。

12.21 コレア次期大統領、予定していたコロンビア訪問を突如中止。「国境地帯で私たちに対して除草剤の爆撃をやめないなら、兄弟国コロンビアを訪問するわけにはいかない」と述べる。コロンビアのサルディ内相は、この決定がチャベスの示唆に基づくものと仄めかす。

12.22 コロンビア政府、エクアドルとの国境地帯での除草剤散布を、年内一杯で中止すると発表。

12.25 コロンビアのダニエル・カストロ警察長官、「コカの葉の栽培は国境近くのエクアドル領内でも行われている」と発表。「以前にはなかったことで、この発見に驚いている」と付け加える。

12月 エクアドル、駐ボゴタ大使を召還。コロンビアは、コカイン撲滅のため枯葉剤を国境地帯に散布。その一部がエクアドルにも影響を及ぼしているとして抗議。

12月 アメリカのエクアドルに対する特恵関税が期限切れとなる。アメリカは特恵国待遇を半年間延長することを決定。

12月 選挙中、反コレア宣伝を展開した大手メディアは、中立よりの論調に切り替わる。

 

2007年

2007年1月

1.05 エクアドル議会が召集される。100人中82人が反大統領派。「国民行動機構改進党」(PRIAN)のホルヘ・セバージョスが議 長に選出される。議会はエクアドルの求める改革を実行すると言明するいっぽう、「コレアが憲法違反行為で国を混乱に陥れようとしている」とし、もしこれら を実行すれば罷免すると警告する。

1.11 ニカラグア大統領の就任式に出席したアルバロ・ウリベ大統領とラファエル・コレア次期大統領が会談。国境地帯での除草剤散布問題で合意。薬剤が国境を越えないようエクアドル側が監視。このためコロンビアが散布地域を事前通告することとなる。

1.14 コレア次期大統領、キトーから南100キロの先住民の村スンバウアで、先住民の象徴的統率権授与式に臨む。コレアはケチュア語で、「皆さんを失望させることはしない」と誓う。

統率権授与式: 「統率権の杖」引き渡しの儀式はケチュア語で行われ、スペイン語に同時通訳された。先住民の僧が、植物、花、伝統的なリボンで、精神の「清め」を行った。コレアは青年時代に先住民地区で1年の間ボランティア活動を行い、その間にケチュア語を学んだ。

1.15 ラファエル・コレアが大統領に就任。チャベスとモラレス、ルラ、チリのバチェレ大統領、ハイチのプレヴァル大統領、イランのアフマディネジャド大統領、ニカラグアのオルテガ大統領、キューバのラヘ副大統領らが出席。米政府代表のグティエレス商務長官も出席。

コレアの就任演説: 「新自由主義の長い闇は終わった」とまず最初に宣言。「IMFが押しつけた自由主義経済政策で貧富の格差が広がった。今こそ発展から取り残されてきた人々の声を聞き入れさせる」と述べる。ワシントン・コンセンサスを非難し、世界銀行、国際通貨基金によるエクアドル経済の見直しを拒否すると発表。
①国家再建と「21世紀型社会主義」の建設のための計画を提唱し、自立と社会的公正をめざす「市民革命」を呼びかける。決意を示すため、給与の半額返上を宣言。
②「エクアドルの
既成の政治勢力と国家機関は腐敗しており、21世紀へ向けた国家作りに備え新憲法の制定が必要」とし、制憲議会の創設を訴える。
③「南米諸国が調和と協力に基づいて統合し、南米をたんなる市場としかみない、新自由主義のグロバリゼーションに対抗していく」ことを訴える。
米国との自由貿易協定(FTA)締結や、米軍の駐留継続に反対。石油資源開発で政府による外国企業への管理強化を打ち出す。
④社会政策を優先させるため対外債務の支払いを一部停止する考えを示唆。
エクアドルの対外債務の一部は軍事政権に発生したものであり、そもそも不法であるとの見解を表明。

1.16 コレア大統領、ベネズエラとのエネルギー同盟条約に調印。エクアドルの原油をベネズエラに輸出し、見返りに石油製品を輸入するも ので、エクアドルにとって2000万ドルのメリットがあるとされる。またエクアドルのEsmeraldas 製油所の改修への協力についても合意される。

1.16 コレア大統領、最高選挙法廷に対し、憲法議会の創設について国民投票を実施するよう求める。投票日は3月18日と指定される。また不要な紛糾を避けるための「礼儀」として、議会に対し招集の政令を送付する。

1.16 コレア大統領、100万人以上の貧困者に対して年金を月15ドルから30ドルに引き上げると発表。

1.17 コレア大統領、アメリカとの自由貿易協定交渉を凍結すると発表。アメリカはコレア政権の意思を尊重することを明らかにする。

1.20 議会、フランシスコ・クカロンを新たな検事総長に指名。コレア大統領は「クカロンは腐敗した人物であり、指名は国家を不安定にする策動」として、この人事を拒否。

1.23 選挙最高裁判所(TSE)、「制憲議会に関する国民投票」を否認。野党が圧倒的多数を占める議会に、その決定を委ねる。選挙最高裁判所の決定に抗議する数百人の群集が建物に乱入。世論調査では政権議会の開設を支持するものが75%に上っていた。

1.24 グアダルーペ・ラリバ国防相、マンタ空軍基地を飛行機で訪問。ヘリコプターとの衝突事故で死亡。ラリーバは教員組合の指導者でエ クアドル社会党の前委員長、国防相に就任後わずか9日目だった。彼女は下級兵士の待遇改善を含む軍改革に乗り出そうとしていたといわれる。

1.27 コレア大統領、「議会と選挙当局が、憲法議会に関する国民投票を実施することを確信する」と述べる。同時に「議会に対立しようとは考えていないが、審議が進まない場合には多くの代替策を準備してある」と警告。

1.27 コレア、警察署長のうち三人を腐敗の疑いで更迭。

1.29 レニン・モレノ副大統領、コロンビアが散布している薬剤による被害の証拠を得たことを明らかにする。これを国際司法裁判所へ証拠として提出すると述べたうえで、「問題を政治的なものとせず、科学的に扱うべき」と語る。

1.30 議員報酬の引き上げに抗議し、国民投票法案の採択を要求する5千人のデモ隊が国会に押し寄せる。「議会ノー、制憲議会シー、ねずみどもに死を!」のスローガンが叫ばれる。一部が議会への乱入を試みる。警察当局は催涙ガスを使いこれを阻止。

1.31 議会が再開。ホルヘ・カバジョス国会議長はコレア大統領に対し、審議の継続を保証するよう求める。

1.31 フランシスコ・クカロン検事総長が辞表を提出。クカロンはノボアの盟友であり、コレア派の糾弾を受けていた。

1.31 コレア政権、予算案を議会に提出。対外債務支払いの10億ドル削減を打ち出し債務問題の再交渉を求める。また税制を改革し、付加価値税を12%から10%に引き下げる一方、法人税を増加する方向を打ち出す。

この時点で、エクアドルの対外債務は170億ドル(1970年には2億ドル)。うち100億ドルあまりがグローバル・ボンドと呼ばれる公的債務。
今年の債務返済額は国家予算の38%にあたる28億ドルあまり。これに対し保健医療と教育は15%にとどまる。(1980年には債務返済は予算の15%、予算の40%が保健医療と教育予算だった)
エクアドルはこの14年間で債務の支払いにより135億ドルを失った。しかし債務は100億ドル増えている。まさに蟻地獄である。

07年2月

2.01 コレア大統領とカバジョス国会議長、野党が「国民投票を妨げない」ことを条件に、議会の解散権を行使しないことで合意。

2.01 政府、グアダルペ・ラリダ前国防相の安全管理について落ち度があったとしてペドロ・マチャード軍司令官を解任。リカルド・パティーニョ国防相代行は、「軍は生きたラリダを受け入れ、死体で返した」と批判。

2.02 コレア大統領、ロレナ・エスクデロを後任国防相に任命。

2.03 コレア、「不必要に環境に損害を与える」石油会社の契約を停止すると発表。油田周辺を汚染したOxy Petroleumとの10億ドルの契約を破棄する。この代わりとしてブラジルのペトロブラスに受注を打診。

2.05 エクアドル政府、枯葉剤を国境を越えて散布したとして、コロンビアを国際司法際へ告訴。

2.06 議会、「制憲議会に関する国民投票法案」の採択を拒否。キャスティング・ボードを握る愛国社会党が、法案賛成の立場から採決拒否 の立場に変えたため。愛国社会党はグティエレス前大統領の率いる政党で、100の議会定員のうち24議席を確保し、第二党の座を占める。

2.06 コレアは、「この闘いは議会とエクアドル人民1300万人との間の闘いだ」と強調。グティエレスを「毒蛇」にたとえ、議会が妨害 を続けるならばそれ以外の方法をとると述べる。レーニン・モレノ副大統領は、制憲議会の設置基準を定める特別委員会を招集することも可能だと示唆。

2.06 ECUARUNARI(CONAIEとならぶ先住民組織で、先住民の4割を組織)のウンベルト・チョランゴ議長、3月13日に、 議会が大衆の意向に従うようもとめるキト大行進が行われると発表。制憲議会に関しての議論が長引くなら、先住民の反乱が再び起きるだろうと述べる。

2.07 エクアドルのパティニョ経済財政相、IMF債務2200万ドルを近日中に繰り上げて完済すると発表。「IMFは融資による政策指 針づくりで重大な過ちを犯してきた」と指摘。世界銀行などからの融資も減らし、公的対外債務約100億ドルを低利融資への借り換えなどによって再編する意 向を示す。

2.08 コレア大統領、自国領土に外国軍兵士の活動を認めないとの立場から、マンタ基地の貸与協定を更新しないとの方針を明らかにする。マンタ基地は米空軍が南米に唯一所持する基地で、米兵士220人前後が駐屯し、コロンビアなどの麻薬密輸組織の動向を監視している。

2.10 エクアドル政府、「プラン・コロンビア」と対決する形で独自の「プラン・エクアドル」を発表。「暴力、死、軍国主義の計画と対決し平和、正義、発展の計画を提案する」と述べる。

2.13 エクアドル議会、国民投票実施法を投票可決。100名の議員のうち57名が出席、賛成54,反対1,棄権2であった。残り43名は反対の意思を表明するために欠席。

2.13 グスタボ・ラレーア官房長官は、エクアドル議会が国民の要求を理解していたと讃える。その後、野党派議員は手続きについて再度議会に諮るべきだとして、審議遅延策に出る。

2.17 コレア、自らのラジオ番組(毎週土曜日)で、制憲議会選挙で敗北すれば辞職すると声明。

2.23 ベネズエラからのディーゼル油22万バレルがエクアドルに陸揚げされる。エクアドルは精製施設が不十分なため、年25億ドルの石油を輸入してきた。

2月 エクアドル、102億ドルの対外債務の再交渉を求める。債務総額はGDPの25%に達する。Ricardo Patino経済相、「一部の政府が過去に受け入れて来たIMFの勧告を受け入れる意思はない。それは我々には容認できない。しかしIMFのメンバーとし て、規約に定められた年次報告は、引き受けるつもりだ」と述べる。

2月 マリア・フェルナンダ・エスピノサ外相、「エクアドルは主権国家であり、私達は私達の国に外国軍を必要としていない」と述べ、2009年のマンタ基地廃止の公約を改めて確認。

2月 ベネズエラとアルゼンチン、「南の銀行」プロジェクトを立ち上げる。2007年末までに発足することを目標とする。①天然資源を自分 たちで利用する、②医療、教育、インフラ、工業生産等の分野のプロジェクトに資金援助、③IMFや世界銀行など国際融資機関への依存を終わらせる、などを 柱とする。エクアドルのコレア大統領も構想段階から積極的に参加。

07年3月

3.01 最高選挙裁判所(TSE)、議会の採択を受け4月15日に国民投票を実施することを承認する決定。愛国社会党をふくむ議会はこの決定に反発し、選挙裁判所長官を罷免する決議。さらに憲法上の合法性を検討するとの態度を示す。

3.02 最高選挙裁判所、憲法議会招集のプロセスを妨害したとして長官罷免に賛成した議員57人の議員資格を停止。登院を禁止する。憲法裁判所は失職議員による訴えを棄却し、速やかな国民投票の承認を促す。

3.08 キトとマンタで「外国軍事基地撤去国際大会」が開催される。主催はエクアドルの平和団体などでつくる「外国軍事基地の撤去を求め る連合」。約四十カ国から四百人が参加。会議に出席したコレア大統領は、「米軍の存在はエクアドルにとって利益にならず主権を損なうものである」と述べ、 あらためてマンタ米軍基地の撤去をもとめる。

3.08 コレア大統領は日本を含む四カ国の「外国軍事基地撤去国際大会」参加者を招いて懇談。日本の基地闘争を激励。

3.09 米州機構、「この数十年の慢性的不安定に終止符を打とうとしている」として、コレア大統領の努力への支持を表明。インスルサ事務総長は、最高選挙法廷(TSE)からあった監視委員会への招請を受け入れると述べる。

3.09 キトのラ・ホーラ紙、「公式の破壊主義」と題する社説を掲載。コレアが「騒動と、投石と、ゲバ棒で」エクアドルを支配しようとしていると非難。これに対しコレアは激怒。

3.13 失職議員20名が議会に突入。憲法裁判所は機動隊を動員し、催涙ガスを使用して排除。

3.13 キリスト教社会党、権力がこれ以上弾圧を続けるのなら、グアヤキルに「対抗議会」を創設すると声明。コレアは「すでに自らが排除されたと分かっているこれらの人々は、何とか混沌状態を作り出そうと狙っている」と非難。

3.13 憲法裁判所、コレアに対し「国民投票の正統性については、近く予定される裁判所の判断に従うよう」警告。コレアは裁判所にこの問題での合否を判断する資格はないと反論。制憲議会を確実に実施するために大規模な大衆動員を行うとする。

3月 コレア大統領、OPEC再加盟の意向を表明。

3月 Gallupの世論調査。コレア支持率は62%に達する。

07年4月

4.02 パティーノ経済相、対外債務の利払いについて、2011年までに国家予算に占める比率を現在の28%から11.8%に低下させると述べる。

4.15 制憲議会設置の是非を問う国民投票。右派の抵抗を国民的なたたかいで打ち破り、82%の賛成を得て圧勝。コレアの支持率も76%にまで上昇する。議会選挙は10月に予定される。

4.16 コレア大統領、現行憲法は新自由主義を法制化したものだと述べ、「国民はだまされない」と強調。

4.16 コレア大統領、IMFへの債務4千万ドルを完済、IMFとのあらゆる債務関係が終了したと発表。さらにIDBに対しても、総額18億ドルの債務の返済期限の延長や金利の見直しを求める。

4.24 コレア大統領、「戦争に平和を対置する」ための「エクアドルプラン」を発表。「人間を中心におく、平和と発展、安全のプロセスの推進」をめざし、難民保護を含む国境地域への援助をおこなうとする。当面135百万ドルをあてる。

4.25 キトで「不当な債務に関する国際セミナー」が開かれる。国連の国際法委員会の宣言にもとづき、議論を深める。エクアドルがかかえる対外債務の帳消しを決議。

国連の国際法委員会の債務に関する宣言: 国家が、国内あるいは海外の債権者への債務返済資金を捻出するために、学校・大学・裁判所を閉鎖し、公共サービスを廃止し、コミュニティを混乱と無秩序に陥れることなど論外である。国家に対して合理的に期待できる範囲には、個人に対するのと同様限りがある。

4.26 エクアドル政府、大統領命令により、世銀のエクアドル駐在代表エドワルド・ソメンサットを国外追放。さらに「国際通貨基金によるマクロ監視を承認する協定の更新をするつもりはない」と述べる。

4月 ペトロエクアドルとPDVSA、サチャ油田増産やマンタ製油所の建設で協力協定を締結。

5.10 コレア、「大統領に対する脅迫もしくは名誉毀損」を禁じた刑法第230条に基づきラ・ホーラ新聞に対する訴訟を起こす。ラホーラ側はこれを受けて立つ。新聞協会はラ・ホーラ支持に回る。

5.19 コレア、記者会見でエル・ウニベルソ紙(グアヤキル)の記者に退席を求める。そしてクーデターを扇動するようなメディアに対しては、躊躇なく認可を取り消すと警告。

5月 エクアドルによる外債市場操作の疑いが浮上。デフォルトの可能性を宣伝することでエクアドル外債の値下がりを誘発し、底値で買い戻す 手法。ベネズエラの銀行がこれをバックアップしたとされる。この作戦は実行に当たったベネズエラの銀行筋が、これを利用して一儲けをたくらんだことから発 覚した。コレアは、これを大手銀行家による陰謀として一蹴。

6.05 コレア大統領、環境保護を石油開発に優先させるとし、ヤスニ国立公園内での鉱区石油開発を行わないと宣言。公園保護のためのヤスニ・イニシアティブ局を設置。

6月 国会が、銀行に対する規制強化法案を可決。

6月 南の銀行創設が合意される。一国一票制に最後まで難色を示したブラジルは、その後も実務作業を遅らせる。

07年7月

7.05 公的融資の統合的監査委員会(CAIC)が設立される。パラシオ前大統領が立ち上げた対外債務特別監査委員会(CEIDEX)を引き継ぐもの。4人の政府高官、6人のエクアドルの市民社会組織代表、3人の国際的な債務問題NGO代表で構成される。

7.26 Patino大蔵大臣が市場操作を議論しているビデオ録画が暴露される。コレアはPatinoを更迭し、太平洋岸地域を統括する新ポストに付ける。

7月 コレア、不当な債務(illegitimate debt)、汚い債務(odious debt)と認定されたものの支払いを拒否すると宣言。

不当な融資: ①許容できない融資=独裁政治への融資、②許容されない条件=法外な利子、③不適切な融資=返済能力がないのを知りつつ貸し付けられた融資、④不適切な条件=返済をさらに困難にする条件つきの融資、などが不当な融資とされる。
汚い債務: 独 裁的権力の行った債務契約は、その体制の債務であり、独裁者が倒れれば債務は消失する、というもの。国際法関連NGOは三つの条件を満たしたものを「汚い 債務」と呼ぶよう提案している。すなわち①国民の合意がない、②国民の利益にならない、③貸し手が前2項について事前に承知していた、の3条件である。

8.01 エクアドルで憲法づくりの経験交流を目的とする研修会。OASのインスルサ事務総長は、「中南米はいま、民主主義の強化をはかる 好機にある。国民は、経済成長の恩恵がなぜすべてのセクターに届かないのかと自問している。選挙という民主主義だけでなく、不平等と不公正の是正を目的と する、制度と法の社会を構築できる民主主義をもとめよう」と発言。

07年9月

9月30日 制憲議会選挙。与党国民同盟(Alianza Pais)が定数130のうち70議席を確保。グチエレスのMPD(15議席)やパチャクティクなど左派グループもコレア支持に回る。右派は「共産主義の脅威」をあおりたてるが惨敗。ノボアの率いるPRIANは議席の5%に達せず。

9.30 コレア大統領は「疑う余地のない勝利」を宣言する。「政府への恐怖をあおって国をマヒさせるのはもう十分だ」とメディアなどを批 判。「独裁的あるいは従属的な計画などはない。われわれが唯一めざしているのは全国民のための祖国だ」と強調する。また国民同盟の草の根の活動、とりわけ 青年の奮闘をたたえる。

9月 エクアドル政府、未払いとなっていた3 億1,700 万ドルを10 月31 日までに支払うよう石油会社に命じる。支払いを拒否したCity Orienteに対し政府は契約を終結させると発表。

07年10月

10.04 コレア、現行の契約を尊重する法令に署名。同時に外国石油企業が原油高で得た想定外の利益の99%(約10億ドル)をエクアド ル国家の収入とする。コレアは「もはや略奪は終わった、もはや降伏は終わった、もはや浪費は終わった。今、エクアドルの石油はエクアドル人のものである」 と語る。

10.04 エクアドル政府、OPECに再加盟の申請を行うことを決定。申請は12月に受理される。エクアドルは73年にOPEC加盟後、93年に脱退していた。

10月中旬 チリボガ石油相、ITT 鉱区での石油開発を中止し、Yasuni 国立公園(熱帯雨林)での掘削を禁止すると発表。

ITT 鉱区: イシュピンゴ・タンボコチャ・ティプティニ(Ishupingo-Tambococha-Tiputini)鉱区の略称。面積は約20 万ヘクタール、確認埋蔵量9 億4600 万バレルとされる。その大部分がヤスニ国立公園に属し、先住民族の生活領域をふくんでいる。

07年11月

11.08 City Orienteは国際投資紛争解決センター(ICSID)に仲裁を求める。ICSIDは、エクアドル政府に対し、いかなる法的な行動をとることも慎むように命令。

11.25 アマゾン地域の産油地帯Orellana州で雇用、インフラ整備、環境問題改善を求める抗議行動が発生。Petroecuador の原油生産量は20%減少する。

11.29 エクアドル西部のモンテクリスティで制憲議会が発足。左派の経済学者アルベルト・アコスタが議長に就任。これに合わせ、国会は 1ヶ月の休会に入る。

制憲議会と国会: 制憲議会は行政、立法、司法の上に立つ全権限を有すると位置づけられる。
06年の選挙で違反行為を理由に資格を剥奪された議員が57人も出たことで、国会は休会状態に追い込まれていたこともあり、制憲議会が実質的に立法機能を代行することとなった。

11.29 初の国営テレビ「TVエクアドル」が放映開始。コレア大統領は「市民革命は後戻りできないところまできた。変革を実現する歴史的機会だ」と強調。この機会を生かせなければ暴力による変革に突き進む恐れがあるとする。制憲議会に対しては、資源主権の確立、国会(一院制)の二院制 化、国会による国家機構幹部の任命の廃止、独立した憲法裁判所の設置、大統領への国会解散権の授与などをもとめる。

11.29 政府、Orellana州に非常事態宣言を発する。

07年12月

12月初め 制憲議会、税制改革法案の審議を開始。大企業や富裕層は特権を失うことを恐れて強く反発し、激しいせめぎ合いが続く。

税制改革法: 大企業や富裕層の優遇を是正する目的で、大企業の設備投資に関する税控除を廃止し、所得税の累進性を強化する。非生産的な土地や相続財産に対する新税も設けられ、外資流出も規制される。

12.10 エクアドル政府とPerenco、Petrobras、Repsol YPF、Andes Petroleum、City Orienteなどの石油会社が交渉を開始。政府は、99 対1 の割合についてはすでに交渉の余地はないとする。

12.26 コレア、インタビューで父親について語る。「父は失業者で麻薬運搬人(mula)だった、少量の麻薬を米国に持っていき、米国の刑務所で4年間過ごした。エクアドルへと強制送還されたあと自殺した」

12.29 制憲議会、税制改革法を可決。これにより年3億ドルの税収増が見込まれる。

12.29 グアヤキルのネボ市長や一部の企業家は、税制改革法が新憲法案とともに国民投票で承認されない限り、従わないと表明。

12.29 コレア大統領は、「所得の再分配は格段に改善され、税金逃れが規制される」と強調。最富裕層には増税だが、圧倒的な国民は恩恵を受け、中所得層も教育、医療控除などで減税になると指摘する。

12月 コレア大統領、オレリャナ州での抗議行動の責任を問い、ペトロエクアドルのパレハ総裁を解任。あらたにスリタ海軍提督を総裁に任 命。スリタ新総裁は、生産部門の子会社ペトロプロダクション副総裁にゴイエス海軍大佐をあてるなど、主要ポストに17 人の現役海軍将校を任命。ペトロエクアドルの機構の調査や改革、人員削減をめざす。

12月 経済成長率は2.6%。インフレ率は3.3%とラテンアメリカ最低となる。この結果、わずかながら実質賃金も上昇。しかし石油部門は10%近いダウン。設備の老朽化もあるが、炭素水素法の規則改正で企業の取り分が1%に減ったことが嫌われる。

 

2008年

08年1月

1月15日 コレア政権が成立1周年を迎える。

記念演説の骨子: ①祖国を取り戻すため「市民革命」(Revolucion Ciudadana)を続ける。制憲議会を通ずる民主的・憲法的革命により新たな社会合意の基礎を打ちたてる。
②軍事的なプラン・コロンビアに対抗するものとして、プラン・エクアドルを推進。国境地域の住民の福祉と安全をまもる。
③国家警察の近代化をおこなう。プログラムは既に準備されており、3億ドルが必要となる見込みである。

1.15 コレアは記者会見で「私たちは21 世紀の社会主義を信じている。これは協調、協力、相補性の理論に基づいて社会正義、国家主権、国家の資源防衛と地域統合を目指すものだ」と語る。

1.15 支持率は当初の73%、ピーク時の76%より低下傾向を見せるが、依然58%と高率。好ましくないと思われる点は、「大統領と意見の食い違う人々に対する不適切な発言」(41%)

1.19 グアヤキルで、コレア大統領を支持し、就任一年を祝う数万人規模のデモ行進。コレアは「市民革命はもう後戻りできない。右翼・マ フィア、腐敗とのたたかいは続くが、勝利を確信している」と述べる。グアヤキルはノボアの出身地で、右派が基盤として来た。ただしコレアもグアヤキルの出 身。

08年2月

2.19 グティエレス元大統領は、コレア大統領によるラジオ放送に対抗すべくラジオ放送を開始する。

2.21 ネボット市長を先頭とするグアヤキルの反コレア派、権力の均衡と制憲議会の独立をもとめる要望書を提出。

2.24 キトで「第2回ボリーバル主義大陸会議」が開かれる。中南米及び欧州の左派政党・団体、先住民組織等の約400名が参集

2月 コレア大統領、FARCが拘留する37人の政治的人質の釈放のために、エクアドル領内で交渉を開始する用意があると述べる。

コレア発言: コロンビアの内戦は、半世紀の間続いており、「ラテンアメリカの中の不安 定性の最大の源」である。現在もその戦争が続けられているのは、コロンビア計画を通じてアメリカからコロンビアに流れる大量の援助のためである。
 私はいつか、統合した地域防衛政策が出来ることを望む。我々が仲介者として勤めることができるならば、我々はそうする。

08年3月 コロンビアの越境攻撃

3月1日

3月1日未明 コロンビアのフアン・マヌエル・サントス国防相がエクアドルへの越境攻撃を行ったと発表。

声明の内容: 小部隊がパトロール中、エクアドル国境から1.8キロ離れた地点から攻撃を受けた。コロンビア空軍はゲリラ野営地の所在地を突き止め、節度ある攻撃を行った。コロンビア国軍はその土地に対する統制を確保すべく進入し、エクアドル軍が到着するまでのあいだ、コロンビア警察に統轄を委ねた。

3月1日早朝 コロンビア軍が戦闘の概要を説明。

コロンビア軍発表による戦闘の概要: コロンビア軍が攻撃したFARC第48戦線はコロンビア領グラナダからエクアドル領内に逃げ込み、国境から7Kmエクアドル領内に入った、スクンビオス県内にキャンプを構えていた。FARCナンバー2と目されるラウル・レジェス司令官が一隊を率いていた。
コロンビア軍はまず固定翼機による事前爆撃を開始、ついでヘリボーン数機を投入し爆撃を加えた後、地上部隊60人を侵入させる。
この攻撃によってメキシコ人4名を含む24名が死亡(後にエクアドル人1名も含まれていたことが判明)。戦闘の後、レジェス司令官の遺体のみを収容。他の死体はそのまま遺棄された。

3.01 ウリベ大統領、コレア大統領に作戦について電話連絡。「襲撃は国連安保理決議1373条に基づく正当な防衛であり、エクアドルの主権を侵害してはいない」とする。攻撃前か攻撃後かは明らかにされていない。

3.01午前 コレア大統領はいったんコロンビア政府の主張を受け入れる。一回目の談話では「コロンビアの自衛権に基く行為である。深刻な事態ではあるがウリベ大統領と電話会談を持ち、話し合いで解決する」とし、事実上容認する発言。

3.01午後 コロンビア警察庁のナランホ長官が記者会見。「エクアドルのグスタボ・ラレア内相がレイエスと接触し、関与していたことを示 す」資料が発見されたと発表。その証拠として、「掃討作戦の際に回収したレジェス司令官のパソコンからプリントアウトした書類」を振りかざす。またこれに はコレア大統領も関与していると語る。

3.01 ウリベ大統領の広報官、FARCがコレア大統領へ献金していたことも明らかになったと声明。コレアはこの発表に抗議。

このあたりの一連の経過については、南瞑さんのブログからいただきました。次の文章はとてもリアルです。
ウリベが最初にコレアとの電話で説明したのは「偶発事件」としてでした。ところが、警察長官会見はそれを根底から否定し、エクアドル現政権とFARCの関係を強調するものでした。このギャップが意味するものが、コロンビア軍の軍としての意思であるならば、戦乱は避けられないかも知れません。それは軍の暴走を 意味するからです。エクアドルもベネスエラも南米最大規模の陸軍を持つコロンビアに対抗する能力はありません。

3.01午後 チャベス大統領、コロンビアの行動を「戦争行為」と非難。ベネズエラ国境を越えた場合には戦争に発展する可能性があると警告し、軍部隊の国境地帯への移動を命令。

3.01夕方 エクアドル政府、コロンビア警察長官の記者会見を受け、外交関係断絶を発表。

エクアドル側が収集した戦闘に関する情報: キャ ンプに残された状況は、コロンビア機から4発の爆弾が発射されたことを示している。軍諜報部の調査は爆撃が南部から行われたこと、すなわちコロンビア機が エクアドル領内深く侵入(推定10キロ以上)し、反転して爆撃したことを示している。飛行機からの爆撃の後、複数の「スーペルトゥスカン〔Supertuscan〕」 ヘリコプターが侵入し、エクアドル領内に位置するFARC野営地への攻撃が継続された。爆撃後、ヘリコプターに搭乗した特別奇襲部隊が、負傷したゲリラ兵 を並ばせた後、止めを刺す。部隊はラウル・レジェスとフリアン・コンラドの遺体とともに、ふたたびヘリでコロンビアに戻る。

3月2日

3.02朝 コレア大統領が声明を発表。明確な国家主権侵害だと非難し、ボゴタのエクアドル大使館を閉鎖し、コロンビアの駐キト大使カルロス・ オルギンに、即時に国外退去するようもとめる。さらにコロンビアとの国境付近にエクアドル軍を配置する。

コレアの怒り: コロンビアの越境攻撃は偶発的なものでなく、計画されたエクアドル主権の侵害である。ウリベ大統領のこれまでの説明は「汚い嘘」だったことが明らかになった。

3.02 チャベス大統領、「アロ、プレジデンテ」で吠える。レジェスを「知り合いだった。よい革命家だった」と悼む。ベネズエラ政府は、コロンビア国境に軍や戦車を派遣。戦闘機を出動待機させるとともに、ボゴタのベネズエラ大使館の閉鎖を命じる。

チャベス節のさわり: 南米大陸というわれわれの世界で、コロンビアが第2のイスラエルになるのを、われわれは受け入れるつもりはない。われわれは戦争を望んでいないが、北米帝国 とそれに従属するウリベ大統領の政権が、われわれを分断し弱体化するのは許さない。コロンビア治安部隊は、ベネズエラ領内で同じことをするなどという考えは持たないほうがいい。戦争開始の正当な理由となるからだ。私はコロンビアに宣戦布告し戦闘機を送るだろう。

3.02 ウリベ大統領、作戦はコロンビア領内から指揮された「合法的な防衛」行動だと主張。アラウホ外相は「テロリスト」に対する防衛作戦であり、両国の利益にかなうものだとする。

3.02夜 コレア大統領が、予定していたキューバ訪問を急遽中止しテレビ番組に出演。ラレア内相も同席する。すでに中南米諸国、米州機構(OAS)、スペインなど12人以上の指導者と電話で連絡をとったと述べる。

コレアは「エクアドルはFARCを支持しないし彼らのやり方を認めない。しかしエ クアドルは主権国家であり、逮捕を実行するのはエクアドルの公的部隊であるはずだ」と反論。彼は怒りをあらわにして、「遺体は下着姿やパジャマ姿だった。 つまり、寝ているところを爆撃され、虐殺されたのだ」と述べたという。
ラレア内相は、「FARCとの接触は誘拐者解放の交渉だった」と説明。軍事 作戦直前に、イングリッド・ベタンクール上院議員(フランス国籍)を含む人質12人の解放について、FARCと合意直前だったことを明らかにする。コレア 大統領は、FARCへの接触目的が人質解放交渉のみであり、ベタンクールの母国であるフランス政府も関与したと述べる。
また、「FARCのエクアドル領内侵入を阻止しなかった」との非難には、「阻止すべきはコロンビア軍の隣国に対する責任」と反論。

3.02 米政府、コロンビアの行動の容認を表明。対テロ戦争の同志と評価する。またチャベスの動きについて、「テロ組織」であるFARC との戦闘に対する「奇妙な反応」だと批判。これに対し南米諸国はエクアドルに同情的。ブラジル、ペルーは中立的立場から仲介の意思を表明。

チリのバチェレ大統領、「我々はエクアドルが攻撃されたと聞き、嘆いている」と語る。アルゼンチンは「領土主権の侵害を失望し、憂慮する」との声明を発表。カストロ元議長、「我々の大陸の南で、ヤンキー帝国の戦争のラッパが激しく聞こえる」と述べる。

3月3日

3.03 コロンビアのナランホ長官、さらに追い討ち会見。レジェスのコンピュータから、「ベネズエラ、エクアドル両政府がFARCと連携 していたことを示す書類が発見された」と発表する。彼は「ベネズエラはFARCに3億ドルを提供していた。たんに親しいだけではなく、軍事的結びつきを示 唆するものだ」と糾弾。さらに「FARCがウラン50キロを入手していた」ことを明らかにする。

3.03 コロンビアのサントス国防相、「エクアドル政府がゲリラ組織を黙認し、またある意味で共謀していたことを意味する」と非難。パソコンのデータを証拠として国連および米州機構に提出する予定だと述べる。また、越境攻撃に米国が提供した情報が一部使われたことも明らかにする。

3.03 ラレア内相が弁明。「我々の唯一の目的は人道的なものであり、FARCによる人質の釈放であった。話し合いは進展しており、3月に人質解放という所まで漕ぎ着けていた。ラレア自身がFARCとの間に協力関係を結んでいたというのは全くの嘘であり、領土侵犯を煙に巻くための言いがかりに過ぎない」

3.03 ベネズエラのカリサレス副大統領は「コロンビアのうそには慣れっこだ。どんなものでもでっちあげられる」と強く反発する。

3.03 エクアドルの駐カラカス大使レネ・バルガス・パッソ、「キャンプ地で眠っているゲリラへの攻撃には軍事的正当性はない。それは平和を望まない、統合を望まない、戦争を望む人びとによる挑発であり、全ての南米の人びとが反対しなければならない」と発言。

3月4日

3.04 コレア、諸国歴訪に出発。最初の訪問先はペルー。コロンビアに対し「明確な非難」を要請。

3.04 ブッシュ米大統領、コロンビアへの「全面支持」を表明。ベネズエラのチャベス政権を非難。

3.04 アンデス共同体で構成するアンデス議会、ブッシュ発言に関連して「米国が干渉するときではない」と決議。

3.04 米州機構常設理事会、事態解決のためワシントンで緊急会議。ラテンアメリカ諸国の大勢はエクアドルの立場に理解を示す。ブラジルのアモリン外相は、作戦を非難する一方、平和的解決に向けて仲介に動いていることを明らかにする。

会議の経過: エク アドル代表は、コロンビアによるエクアドルの主権侵害を非難し、非難決議の採択、事実関係にかんする調査委員会の設置、外相協議会の開催を求める。また、 FARCによる誘拐行為なども批判。コロンビアの紛争は平和的に解決すべきだと述べる。コロンビア代表は、エクアドル領の侵犯を謝罪したものの、「テロリ スト掃討は当然」と主張。ベネズエラとエクアドルはFARCと関係していると非難する。

3月5日

3.05 米州機構常設理事会の緊急会議、14時間にわたるマラソン審議のあと最終的に、コロンビアが「エクアドルの主権および領土保全を侵害し、国際法に違反した」ことを認める決議を全会一致で採択。

3.05 サルバドル外相、「今日、OASは歴史的試練を乗り越え、平和維持及び安全維持の監視役であるというその存在意義を証明した」との声明を発表。

3.05 コレア大統領、ブラジリアでルラ大統領と会見。その後ベネズエラに向かう。チャベス大統領はエクアドルに対するベネズエラの絶対的支持を明らかにする。

3.05 コレア大統領、カラカスでチャベスと共同会見。OAS決議がコロンビアに対する非難には至らなかったことから、「不十分な決議だ。コロンビアに罰を下すことなしに本件事態の収束は望めない」と批判。

3.05 ベネズエラのブリセノ国防相、国境付近に戦車部隊10個大隊を展開、部隊配置をほぼ完了したと明らかにする。

3.05 ホワイトハウス、コロンビアへの軍事援助を検討するのはやや時期尚早だとの見解を示す(いやらしい言い方です)

3月6日

3.06 コレア大統領、カラカスでチャベスと会談。コレア大統領は「国際社会が“コロンビアは侵略者だ”と非難しない限り、エクアドルに休息はない」と述べる。チャベスは「無条件の支援」を約束。陸軍10個大隊を国境に増派する方針を明らかにする。

3.06 コレア大統領、マナグアでオルテガ大統領と会談。共同記者会見でオルテガは「エクアドル国民と連帯する」として、コロンビアとの 断交を宣言。「コロンビア国民と絶交するのではなく、ウリベ大統領の『テロ政策』とは関係を断つということ」と説明。(かなり唐突ではあるが、キューバと ベネズエラの要請を受けての行動と思われる)

3.06 アルゼンチンのフェルナンデス大統領、「コロンビアの行為が正当だと主張することは不可能だ」と述べる。

3.06 ライス米国務長官、「コロンビアは友好国であり、外交的な解決を望んでいる」とトーンダウンする。

3月7日

3.07 サントドミンゴでリオグループ首脳会談が開かれる。「主権侵害を拒絶する」宣言を発表。領土と主権の侵害を確認するとともに、コロンビア側の謝罪と再発防止の約束を明記する。

会談の経過: 最初にウリベ大統領は、「エクアドル政府の理解や事前の同意もなく実行された」ことを認め、左翼ゲリラに対する闘いにおいて、「同じ事態を繰り返さない」と表明。同時に、参加各国にゲリラに対する強硬姿勢を改めて強く要請した。「けじめ」を求めるコレアとウリベとの激しいやり取りのあと、事態はコロンビアの謝罪で解決された。
会議の最後にホストであるドミニカ大統領の依頼により、コロンビア、エクアドル、ベネズエラ、ニカラグアの各大統領が握手し、危機を脱したことを確認。

3.07 リオグループ宣言を受けたエクアドル・ベネズエラは和解に合意し、ニカラグアも国交回復に合意。これを受けたコレア大統領は、「事態の解決」を宣言。ベネズエラは国境地帯に展開した軍の撤収を決定。

3.07 英国誌「エコノミスト」、事態が「ここ10年あまりの南米でもっとも深刻な危機」に入ったと報道。

3月8日

3.08 キトに戻ったコレア大統領がラジオ出演。「リオ・グループのお陰で、コロンビアとの危機は早期に克服することが出来た。しかし外交上の絆が回復されるには、もう少し時間がかかるであろう」と述べる。

3.08 米州機構、リオグループ決議を受け調査委員会の設置を決定。エクアドル、コロンビア両国に調査団を派遣。17日に外相会議を開き、具体策をさらに協議すると発表。

3.08 フィデル・カストロ、「同志フィデルの省察」で、「アメリカ帝国主義の陰謀によっ て、軍事的な紛争が起こりそうになったが、友愛の精神のおかげで、平和が確かなものとなった。帝国主義が唯一の敗北者であることが明らかになった」と述べ る。(コロンビアを敵に回さないよう、囲い込もうとするキューバの姿勢は一貫している。チャベスもこの枠内で動いている)

3月9日

3.09 インスルサOAS事務総長を筆頭とするOAS調査団がキトに入る。コレア大統領と会談。コレアは、「OASが国家の領土不可侵と主権尊重を確認してくれたことに感謝する」と述べ、また3月17日の外相協議会の重要性を指摘。「エクアドル政府は何ら隠すような事実は無い」とし、「事件の完全なる詳細な情報を手にすることを望む」と述べる。

3.09 コレア、コロンビアとの紛争をめぐり、サンドバル国防相を解任。カマチョ統合軍司令官、ガベラ空軍司令官、バスコネス陸軍司令官がこれに抗議し辞任。(解任理由は不明だが、13日のウリベ発言からおよその内容は伺える)

3.09 ベネズエラはコロンビアとの外交及び通商関係の正常化を宣言、軍隊の撤退を指示する。

3.10 OAS調査団、スクンビオス県ラゴ・アグリオで現場検証を行う。

3月11日

3.11 コレア大統領、第二次歴訪に出発。チリでバチェレ大統領と会談。「チリ政府が取った確固とした姿勢に感謝する。自分はチャベス主義者になるかどうかは分からないが、間違いなく確固としたバチェレ主義者である」と述べた

3.11 コレア、チリ大学で講演。「21世紀初頭にわれわれが目撃しているのは、ワシントン・コンセンサスのすべての処方せんが政治的、経済的、社会的に敗北したことだ。ラテンアメリカにおける21世紀の社会主義は地域統合を模索する」と語る。

3.11 CONAIEが「平和のための行進」を組織。キトで約1万人の集会を開く。制憲議会と政府に対し、天然資源の活用、必須資源としての水資源の保護、鉱山開発の中止、米軍のマンタ基地からの撤退を求める。またコロンビア軍の侵攻についてコレア大統領支持を明らかにする。

3月13日

3.13 メキシコ訪問中のウリベ大統領、「FARCの掃討作戦をエクアドル大統領が妨害した」と発言。エクアドル軍が自国内でFARC掃討作戦を行おうとしたが、コレアは攻撃の許可を与えなかった、とする。

3.13 エクアドルのポンセ国防相、ウリベに「発言の責任を取ってもらうよう要求する」と応酬。エクアドル政府は、ウリベが「侮辱的かつ偽り」の情報を広めたのは「明らかな内政干渉」だとし、米州機構へ提訴。

3.14 チャベス大統領は、「コロンビアはどこであれ自分たちがテロ組織と呼ぶものを攻撃する権利を求めており、それはブッシュ米政権と同じだ」と批判する。

3.17 ワシントンで米州機構第25回外相協議会が開かれる。エクアドルは領土侵犯を非難し主権尊重の厳守を求める文言を要求。「親米国」とされるメキシコやチリを含めてラテンアメリカ諸国は軒並みエクアドルを支持する。米国が「自衛権」に固執したため会議は紛糾。

3月18日

3.18未明 米州機構外相会議、両国間の和解に向けた合意文書決議を採択。米国は保留に回る。コロンビアは米州機構とリオ・グループ会議においてエクアドル領への侵入を謝罪。英BBC放送は「米国だけが最終合意に不満足を表明した唯一の国だった」と報道する。

OAS合意文書: コ ロンビア軍によるエクアドル領内への急襲を「拒否」し、「コロンビア軍及び警察が、エクアドル政府への事前通報及びその同意なしに、3月1日にエクアドル領域に侵攻したことは明白なOAS憲章第19条及び21条違反であり、これを容認しない」ことを確認。
「リオグループの宣言を積極的に受け入れる」とし、OEA憲章で認められた領土的主権と内政不干渉の原則は「米州諸国間の共存という最も重要な原則」であり、「いかなる例外もない」こと、「軍事力の行使やそれによる脅し」を自制すべきことを再確認。
この観点から、
「国際法の原則、主権の尊重、武力行使や威嚇の放棄、他国への不干渉の完全な有効性」を確認する。さらに米州機構事務総長に対し、決議の遂行を監視し、エクアドルとコロンビアの信頼醸成メカニズムをつくるよう求める。

3.18 マリア・イサベル・サルバドール外相、OAS外相会議の決議により「米州機構の全加盟国の確認を勝ち取った」と声明。

3.18 ベネズエラのマドゥーロ外相は、「この競技における最大の勝者は、ラテンアメリカ人民だ。ラテンアメリカ諸国がチームで行動すると勝利者になる」と述べる。

3.23 コロンビアのフアン・マヌエル・サントス国防相、「エクアドルへの攻撃は正当な戦争である」と発言。「コロンビア軍はテロリストを一掃するためには同様の行動をもっていかなる場所へも出動する用意がある」と述べる。

3月24日

3.24 チャベス、コロンビア国防相の発言を「狂気の沙汰」と批判。ウリベに善処を求める。

3.24 ウリベ大統領、ベタンクール元大統領候補を含む著名人の人質を解放する準備を進めていると発表。FARCの複数の幹部から電話があり、「身柄の自由が保障されるならFARCを脱退し、ベタンクール元大統領候補ら人質を解放する」と提案されたという。

3.24 コロンビア国防省、1日の作戦でエクアドル人1人が死亡していたことを明らかにする。死亡したエクアドル人男性はFARCの陣地に滞在していたという。

3.26 コロンビア政府、マルランダ最高司令官は夕刻に死亡したと発表。FARCは沈黙を守る。

3月31日

3.31 エクアドル政府、ハーグの国際司法裁にコロンビアを提訴。エクアドルとの国境10km以内での散布をやめることと、過去の健康被害等に対する補償をもとめる。

3.31 サルバドル外相、訴訟に関して発言。「もう他のオプションは残されていない」と語る。この間、エクアドルは外交ルートを通じて、散布中止を申し入れてきたが、コロンビアは拒否し続けた。

3.31 コロンビア政府は、違法なコカ栽培はFARCが行っているものであり、コカ畑一掃への反対行動をFARCが煽っていると反論。

3月 ブラジルのネウソン・ジョビン国防相、「FARCがブラジル領に侵入すれば銃弾をもって迎える」と語る。

08年4月

4.01 エクアドル制憲議会、外国軍基地を国内に置くことを禁止する条項など、国家の主権や領土、資源に関する五つの条項を賛成多数で可決。

主権に関する5つの条項: ① エクアドルは平和の地である。外国軍基地あるいは軍事目的を持った外国の施設は認められない。国の軍事基地を外国軍あるいは外国の治安部隊に譲渡すること はできない。②エクアドル領土は不可侵であり、だれも領土の統一を乱したり、分離を助長したりすることをしてはならない。③エクアドル国家は天然資源の所 有者であり、とりわけ天然資源に対して主権を行使する。 その他。

4.01 制憲議会のアウグスタ・カジェ主権・外交関係・統合委員会委員長、「歴史的な勝利だ。外部からの強力な圧力とのたたかいだった」と強調する。

4.01 コレア大統領、制憲議会の決定を受け、「米軍の撤退を実現した後、マンタを物流の拠点となる国際空港として拡張、整備したい」と語る。米国大使館は、エクアドル政府との協議を続けると表明。

4.13 ウィリアム・ブラウンフィールド駐コロンビア米国大使、マンタの米軍基地の機能をコロンビアに移転する可能性を検討していることを明らかにする。

4.15 コレア大統領、コロンビアとの「対立を深め」たくないと語る。「しかしウリベは反エクアドルの言動を止めようとしない。ボゴタの もの「誤報に基づく名誉を傷つける政治工作は、我々に多くの害を与えた。ボゴタのうそ、悪意そして、メディア・キャンペーンが続く限り、外交関係を再確立 することは難しい」

4.18 コレア大統領、米州機構のインスルサ事務局長と会談。コロンビアからの非難をやめさせるよう要請。

4.18 コロンビアのサントス国防大臣、また同じような状況が発生すれば同じような行為に及ぶことも辞さないと述べる。

4.30 エクアドル制憲議会、企業が仲介業者など第三者を通じて労働者との雇用契約を結ぶことを禁止する指令を可決。労働者の貧困化の原因とされる不安定雇用の克服に道を開く。

4.29 コレア大統領、「エネルギー主権は国民の将来を定める基本的政治決定だ。今ではラテンアメリカの諸国民は、自分たちの国や地域の 利益を考え、IMFや世界銀行の『処方せん』をあてはめてきた服従的な官僚を否定する勇気を持っている。ラテンアメリカ諸国民の活力、人道的な左翼や二十 一世紀の社会主義を目指す勢力の力強い前進は誰も止められない」と強調。

4月 ウリベ、エクアドルがFARCの流入を阻止すべく十分な措置をとっていないと批判。コレアは「我々は13個中隊を国境に配備している が、コロンビアは2個中隊に過ぎない」と反論。「問題はコロンビア政府が自らの領土内で軍事衝突をコントロールできないままに来たことにある。そのために 紛争が国境を越えてあふれてきたのが真相ではないのか。ウリベはまずそのことを認識すべきだ」と批判する。

4月下旬 米国防総省、中南米カリブ海地域で活動する米海軍第四艦隊を58年ぶりに再設置すると発表。「南方軍はこれまでも艦隊のように行動しており、作戦上は何も変わらない」とする。

08年5月

5.09 ブラジルのジョビン国防相、「ブラジル領を監視するのはわれわれだ」と語り、米海軍が許可なしに同国領海を移動することを許さない姿勢を示す。

5.23 モンテビデオでサンパウロ・フォーラムが開催。越境攻撃、米第四艦隊の再設立など、米国の干渉政策の強まりを批判し、米国抜きの 地域的安全保障機構をめざす展望を論議する。フォーラムに参加したエクアドルのパティニョ政治調整相、空爆作戦が米軍機によって行われたことが判明したと 報告。

5.23 南米諸国連合(UNASUR)の設立条約が調印される。「多極的で均衡のとれた公正な世界」の実現をめざし、主権の尊重と民族自決、民主主義と人権の尊重などを共通理念とし、対話による問題の解決を強調する。さらに南米防衛理事会創設の提案もおこなわれる。

5.25 FARC、マヌエル・マルランダ最高司令官(80)の死亡を認める。後任に思想的指導者とみられているアルフォンソ・カノが就任。

5.28 コロンビア元大統領のセサル・ガビリア、「情けないことだが、現在の政府の下では、FARCとの開かれた対話は不可能としか思えない。ウリベ政権は好戦的態度を断固追求するつもりだ。それはFARCが政府への態度を変える可能性をますます失わせている」

5月 コロンビア政府の要請に応え、インターポールがコンピューターを調査。「改ざんの後は証明できなかった」とするが、同時に「真正性」も証明できず。

08年6月

6月1日 エクアドルは、FARCのファイルを徹底調査するようOASに頼む。コロンビアがエクアドル政府とFARCの関係について主張することに対抗して。「エクアドルは公式にOAS事務局長インスルサに調査を依頼した」とMaria Isabel Salvador外務大臣が語る。インスルサは加盟国が調査を要請するならば積極的に応えたいとする。

6月初め コロンビアとエクアドル、通商官級の外交関係を回復することで合意。コレア、「コロンビアの攻撃で味わった苦汁を忘れることは出 来ない。信用というものは水晶のようなものだ。もしそれがこれが壊れれば、それが再接着できたとしても、この傷跡は永遠に残る」と語る。

6.06 ジミー・カーター、両国間の関係修復案を提示。両国はカーター提案に沿って交渉を開始することで同意。

6.08 チャベス大統領、FARCに武装闘争をやめるよう呼びかける。軍事独裁政府のもとで民主的な変革の道が閉ざされていた八〇年代初 めまでと違い、選挙を通じた政治革新が可能になっている現状をふまえ、「ラテンアメリカでは今ではゲリラは場違いだ」、「戦闘はもう十分だ。平和について 話し合うときだ」と語る。

6.08 コロンビアのオルギン内務・法務相は「FARCがチャベス大統領に耳を傾けるように」と発言。左派・民主代案同盟の代表も「ラテ ンアメリカの左翼がチャベスの立場に結集し、武装闘争が不必要だというなら、FARCに政治的出口を選ばせる強力な圧力になるだろう」と歓迎する。

6.12 コレア大統領、「民主的な政府とたたかうゲリラにどんな未来があるのか」とし、FARCに「武器を捨てなさい。平和を勝ち取るために政治的、外交的な対話をしよう」と呼びかける。

6.13 両国が公式の国交を復旧し通商代表を指名する準備に入る。

6.13 コレア大統領、小規模農家を対象にした支援金や免税など一連の支援政策を発表。「インフレとたたかうため」、国内の農業生産を強め、穀物価格の高騰抑制をはかる。

6.20 カーター元大統領、コロンビア=エクアドル間の関係修復を促す。米州機構も、声明の応酬を止めて関係回復に動くよう求める。

6.22 コレア大統領、エクアドルに落とされた爆弾が米国のものであることを明らかにする。「軍事筋の情報によれば、この攻撃に参加したコロンビア機には、このような爆撃を行う能力はなく、アメリカ軍が直接攻撃に関係していたとしか考えられない」と述べる。

6.23 コレア大統領、「我々は、その国土を隣国によってなんらの予告なしに攻撃された。その行動がエクアドル主権の侵害であることは、 国際社会とOASによっても確認されている。完全な関係を確立するために、攻撃が完全に解明されるよう要求する」と声明。コロンビアからの「ハードディス ク情報」の垂れ流しに怒りを表す。

6.24 コロンビアのFernando Araujo外務大臣、ラファエル・コレアが攻撃態度を続けるため外交関係の修復が延期されたと発表。

OAS憲章第19条: いかなる国家または国家のグループも、他国の国内あるいは国外の事件において、他国に干渉する権利を持たない。直接であろうと間接的であろうと、いかなる理由があろうとそれは許されない。

6.24 マリーア・イザベル・サルバドル外務大臣、アラウホ発言を受け、「彼らは決定を延期する措置をとった。我々はコロンビアとの関係修復を行わないと決定した」と述べる。

6.25 コレア大統領、「コロンビアとの関係を“まじめな政府”が作られるまで無期限に停止する」と発表。ウリベ大統領が退任する2010年まで回復の見込みはないと述べる。

6.25 Javier Ponce国防相、エクアドル軍がブラジルのスーパー・タカノ多用途軽ジェット機24機、イスラエル製の無人飛行機6機、新式レーダー・システムなど2億 7000万ドルの装備を発注すると発表。さらにチリから軽護衛艦2隻、地対空ミサイルの購入、3つのレーダー・ステーションを建設する予定も明らかにす る。国防相はこれらの軍備は隣国に向けられたものではなく、国境地帯でのFARCや麻薬密売人の行動に対処するためのものと説明。

7.24 制憲議会、新憲法草案を採択し解散。

9.28 新憲法に対する国民投票。64%の支持で成立。大統領連続再選が解禁される。

新憲法の特徴: 建国後178年間で20番目の憲法となる。
①食料主権を確立する観点から、封建的な大土地所有制を禁止した。
②義務教育を12年間に延長し、充実を図る。
③「国民の生活権」の考えを拡大した。たとえば専業主婦の年金受給権が憲法に明記される。
④アマゾン先住民地域における石油開発にかんがみ、環境保全を国家としての任務とする。
⑤経済活動では、新自由主義を批判する立場から、国家が公共利益を理由に介入することを記した。

 

2009年

09年1月

4.25 エクアドル総選挙。コレア大統領が一回目の投票で52%の得票を得て新憲法下の初代大統領に選出される。議会では与党PAISは124議席中59議席にとどまり、過半数に届かず。

4.25 米政府、コレアに祝福のメッセージを送る。

6.20 コレア大統領、「言論の自由」を掲げながら政府へのデマ攻撃を続ける放送局の閉局を決定。

6.23 米国務省報道官、「マンタ基地をコロンビア国内に移設することは未だ決定していない」と語る。

6.24 米州ボリバル代替構想特別首脳会議がマナグアで開催される。エクアドルは加盟文書に署名。これにより加盟国は9カ国となる。

6.25 ALBA会議に初参加したコレア大統領、「国際企業は中間利益をむさぼっており、商品は適正価格で取引きされていない。これからはALBAを通して公正な商取引を行いたい」と語る。

7.02 公務員組織法の原案が、政府より国会に提出される。この間、省庁は18から39機関に、公務員は36万から45万人に増加。

7月 土地利用法の改革に関する政令が発行する。2年以上未使用の土地は政府が接収できることとなる。企業や大土地利用者が所有している未使用地を小規模農家に配分し始める。

9月 政府はマンタ空軍基地に駐留する米軍との契約を更新せず、米軍は撤退を余儀なくされる。

12.20 政府は北西部地域に住む農家約1850世帯に対して、合計1万2千ヘクタールの未使用地の所有権を譲り渡した。この土地は大手銀行が所有していたが、1999年に銀行が倒産し後は放置されていたものである。

09年 リーマンショック不況に対応するため、政府は市場介入を強化する。石油・鉱山・電力・通信・製薬・セメントなど基幹産業の国営化をおこなう。

2010年

8.11 第二読会、公務員組織法案を修正の上可決する。煩雑な賞与(ボーナス・勤続表彰金・記念周年祝金・勲章・褒章・クリスマス支給物資・昇給祝金)を廃止する条項について、国家警察・国軍を適用除外とする。

9.03 コレア大統領は議会で成立した公務員組織法に対し部分的拒否権を発動。例外なき適用をもとめ国会に再審議をうながす。

この後のクーデター未遂事件 については別論文を参照のこと。

 

2011年

11年 政府、法定最低賃金を月額170ドル(06年)から264ドル(11年)に、低所得者層に支給される生活補助金(BDH)を月額15ドルから35ドルに引上げる。また安定した雇用環境を構築すべく、パートタイム労働や派遣労働を禁じる。

 

2012年

8月15日 コレア大統領のヤスニITT提案終焉の決定。

8月27日 CONAIEなど、ヤスニ国立公園での石油開発に反対し国民投票を要求する行動を展開。独立広場のコレア支持派と衝突。コレアは先住民たちの要求している国民投票を認める。

 

2013年