ペルー年表 その(1)

    3000BC ペルー海岸地帯にチャピン文明起こる.
    700AD ワリ文化が広がる.
    100AD モチェ文化。ビウラ川からワルマイ川まで12の川の流域にまたがる王国が形成される。
    1000 チムー文化が興る

    1438 パチャクティ・インカ,ライバルのチャンカ族を破り、クスコ谷から拡張を始める.
    1476 トゥパク・ユパンキ,ペルー北部海岸モチェ川流域のチムー王国を破る。さらにチリのアラウカンを破り,南方へと版図を拡大.
    1493 ウアイナ・カパクがインカ皇帝に即位.エクアドルからコロンビア南部までと版図を拡大.
    1527 ウアイナ・カパク,天然痘で死亡.クスコのウアスカルと,キトーのアタウアルパ(ウアイナの庶子)が跡目を争う.
    1532 アタウアルパが内戦に勝利.


1500年

13.9 バルボア,「西南の海とその沿岸の黄金」をもとめパナマ地峡を横断し太平洋岸に到達.フランシスコ・ピサロも隊員として同行.

14 スペイン,パナマ地峡の支配を強化するため,バルボアを更迭.ペドラリアス・ダビラをティエラ・フィルメおよびダリエン総督として派遣.

1519年

1 ダビラ,ピサロの訴えによりバルボアを反逆者として処刑.(これはほとんど嘘。ピサロはたんなる処刑執行人と思われる)

8.15 ダビラ,パナマ地峡の太平洋岸,ガジネーロ川(リオ・アバホ)河口にオールド・パナマ市建設.その後アンデスからの物資輸送の中継点となる.

22 ペドラリアスの指令を受けたパスクアーレ・デ・アンダゴヤ,パナマからサンミゲル湾を経てチョチャマ(エル・チョコ?)地方のサンフアン河まで進出.原住民より東方のピル国がゆたかな金をもっておりそれはさらに南の大国から供給されているとの情報を入手.インカ帝国の存在が示唆される.アンダゴヤは病を得てパナマに帰還。

24.11.14 ピサロ,コルテスのメキシコ征服に刺激され,ディエゴ・デ・アルマグロ,パナマ司祭エルナンド・デ・ルケ、ガスパル・デ・エスピノサらとインカ征服の謀議.アンダゴヤから征服の権利を買い取り、第1次ペルー遠征航海に出発.三隻の船に二百名の隊員を乗せ,パナマからチュチャマ,ピルーを経てプンタ・ケマダまで進出.

26 ポルトガル人アレージョ・ガルシアら,ブラジル南岸で難破したあとチリグアノ族と合流.原住民を統率する指導者となる.ガルシアの組織した2千名の探検隊,ラプラタ地方を横断してアンデス(現在のスクレ近く)まで進出.インカ帝国軍により撃退される.ガルシアらは帰途原住民の襲撃に会い戦死.

26.9.21 ピサロ,アルマグロとルケらもくわえ,第二次ペルー遠征に出発.リオ・デ・サンフアンに到達.同行したバルトロメ・ルイス・デ・エストラーダは、さらに赤道付近(現在のエスメラルダ,マナビ)まで進出.インカ帝国との直接接触に成功.プナまたはトゥンベスで原住民三人を捕らえ,一人にフィリピージョと名づける.

26 ピサロ,トゥンベスよりさらにペルー中部バルバコアまで南下。バルバコアからアタカメまで陸路探索したあと,イスラ・デル・ガリョに基地を定め、パナマに応援を求めるためアルマグロを派遣する。パナマ総督はピサロの支援要請を拒否。

27 インカ皇帝ワイナ・カパック,キトから北方に遠征中、疫病により死亡(一説に25年).キトを中心とする新領土をアタウアルパ、クスコを中心とする旧領土をウアスカルが継承する。

ワイナ・カパクの死因: スペインの記録者によって「おそらく天然痘またははしか」として記述されている.ワイナはイスラ・デル・ガリョにスペイン人が住み着いたという情報を得て現地に赴いた.直接の接触はなかったが、すでに現地にはスペイン人が持ち込んだ天然痘が蔓延していたものとみられる.

27年 インカ法に基づきクスコのウアスカル(Huascar)が皇帝となる.ウアスカルはHuayna Capacと彼の妹の間にできた子供であった。Atahualpaの母は現地貴族の娘で正妻ではなかったが,Huaynaがもっとも可愛がっていたという.アタウアルパはウアスカルに臣従を誓う。

27年 アタウアルパ、トメバンバを首都と定める.トメバンバ(あるいはトゥメバンバ)は現在のクエンカの近郊.かつてはカニャリス族の都市国家であり、ウアイナが北方(カヤンベ)進出の拠点とした。インカ連邦内の「第二のクスコ」と称されるほど高い文化と繁栄を誇っていた.

27年 ピサロと13人の仲間(trece de la fama)、7ヶ月のあいだGorgona島に待機するが、パナマの支援は得られず。ピサロは支援のないままさらに南を目指す。

1528年

5.03 ピサロ探検隊の一人アロンソ・デ・モリーナ,ギリシャ人ペドロ・デ・カンディアらは、通訳としてフェリピージョを伴いトゥンベスに上陸.ピサロはチャンチャン川の南まで下った後、パナマに戻る。

12 パナマの新総督ペドロ・デ・ロス・ディオス(リオス?),ピサロの報告をホラ話だと判断。ペルー征服の禁止を命じる.ピサロ,勅許を得るため本国に帰還.国王カルロス5世にインカ侵攻計画を献策.

29年 クスコのワスカール皇帝に対しキトの異母兄アタワルパが反乱.インカ帝国を2分する内戦となる.トゥパク・ウァイナ以来エクアドル征服に従事したチャルチマク、キスキスら有力な将軍はアタワルパにつく。エクアドル南部のロハとクエンカはワスカール側についたため、キトとクエンカの中間点リオバンバが両者の境界となる。(インカ内戦に関してはペルー年表に一括)

ウアイナ・カパクが死亡したあと、クスコのワスカールは自分こそが全インカ帝国の正当な継承者だと考え、アタウアルパに忠節を求めた。アタウアルパはこれに応じクスコに貢ぎ物を送ったが、ウアスカルはこれを拒否し、使者を殺害した上、遺体に女の装束を付けさせてキトに送り返した.これを見てアタウアルパはウアスカルからの独立を決心した。

1529年

7.23 王妃とピサロとの協約が成立する。ピサロのヌエバ・カスティーリャ(ペルー)征服が認可される.

ピサロは「テムンバラからチンチャまで」約200レグアの地域の総督兼総司令官兼アデランタードに任じられた。

、ルケはトゥ ンベスの司教に任ぜられた。一方アルマグロはトゥンベスの要塞の所有をが認められただけだった。

7.26 トレドの通商院(Capitulaciones de Toledo),ピサロを「征服権を持つ総督」(ゴベルナドール兼アデランタード)に任命。同時に侯爵位をたまわりサンチアゴ騎士団への入団を認められる.アルマグロはトゥンベス総督,ルケは同司教に任じられる.

29年 探検のために250人(スペインでは150人)を集めることが求められる。故郷のトルヒーリョに戻ったピサロは,イタリア戦役をともに闘った同志130名を中心に兵を募集.ゴンサロ,フアン,エルナンドらの弟たちも征服軍に参加.

1530年

2月末 ピサロが仕立てた三隻の船がコロンビアのサンタ・マルタに着く。現地で待機していたアルマグロは、差別待遇に不満を持ち資産を差し押さえ。ピサロへの援助を拒否する。

3月 ピサロの誘いに応じ、ニカラグァから エルナン・ポンセ・デ・レオンとエルナンド・デ・ソトが2隻の船に奴隷を連れて到着。これを見たアルマグロは、ピサロと和解し協力することとなる。

30年 キト南方カナリ王国のチャペラ王、アタワルパの統治を否認。クスコのウアスカルの支援をもとめる。ウアスカルはアトク将軍が率いる討伐部隊をキトに送る.(ウィキペディアでは都市国家TumebambaTumipampaウアスカル側に寝返ったとされる.いずれもクエンカ近郊で、クエンカを中心とする県名は現在もカニャリと呼ばれている)

30年末 トメバンバでアトクと内通したカナリ人部隊が反乱.アタウアルパを幽閉する.アタウアルパはその後脱走に成功し、キトでカリクチマ(Calicuchima 一説にChalkuchimac)、キスキスらを集め軍を再度編成する.(一説では、アタウアルパを捕らえた反乱部隊が、その晩酒盛りを開いているうちに忍び込んだある女性が脱走を手引きし、アタウアルパは壁に穴を開け逃げ出したという)

30年 この頃ペルーには約1600万人の人が住んでいた。その後スペイン人が持ち込んだ伝染病で人口の半数が死亡したと言われる.

1531年 

1.20 ピサロ,三隻の船に180の兵と27頭の馬、数匹の犬を乗せてパナマ出発.このときピサロは56才.隊には後のキューバ総督エルナンド・デ・ソトも参加.

1月 アトコ・チャペラの連合軍、トメバンバを占領しさらにキトに向かい進撃。アタワルパはカリクチマ(Calicuchima 一説にChalkuchimac)を送り、連合軍を迎え撃つ。

1月 Calicuchima軍はモチャの戦いに敗れる。このあとアタワルパが直接出陣し、リオバンバ北方アンバトのMolle Ambato平原の戦闘でクスコ・カナリ連合軍を撃破する。(ウィキペディアではキスキスの指揮する部隊が,Mochacaxa平原でウアスカール軍を待ち伏せ攻撃,これを撃破したとされる)

1月 アトコとチャペラはキトに送られ処刑される。この戦闘での死者は1万5千人と言われる.

アタウアルパの恨みは凄まじかった。アトクは拷問の末に殺害された.その頭蓋骨は金メッキをほどこされ、祝杯のために用いられた.4年後にスペイン人がアタウアルパと会見したとき、その祝杯は未だ用いられていたという.

2月 ウアスカル、増派軍を派遣.兄弟のウアンカ・アウキ(Huanca Auqui)を司令官とする.

3月ころ? トメバンバでアタウアルパ軍とウアンカ・アキ軍が対決。初日は兵力に勝るウアンカ・アキ軍の優勢。2日目の朝、アタワルパ軍は霧にまぎれて丘の上から奇襲攻撃を加える.ウアンカ・アキ軍はパニックとなり、潰走する.トメバンバに入城したアタワルパは、カナリ人住民を女・子供もふくめ皆殺しにする。

9月ころ? アタワルパ,キトを出発.プナエ(Punaes)王国の反乱を鎮圧した後ペルー北部のワマチューコに達する.スペイン軍上陸の情報を得たアタウアルパは、7千の兵士と共にワマチューコにとどまる。チャルクチマク、キスキスたちに委ね、クスコに向け前進させる.

以下の記述は、日時・場所共に極めて曖昧です.おそらく原典(Juan de Betanzos)に日付が入っていないのでしょう.おそらく31年の10月ころに始まり、ウアスカルの捕縛は32年半ばとされています.本来なら捨てるべきなのでしょうが、もったいないのでとりあえず一括りにしておきます.
ベタンソスはアタアルパの未亡人を妻とし、その口述に基づいてこの物語を書いたそうです.順序だけは多分このとおりです.なおこの出典となった
Chronology of a Brief History of Ecuadorは、精度は別として膨大な情報量を誇っています.グーグル・ブックスのEmpire of the Inca」(
Burr Cartwright Brundage)はえらく難しい英語です.

戦闘経過: 
キスキス将軍、カリクチマとルミニャウイ(Ruminahui)の支援を受けCusibamba and Cochaguayllaの戦闘でウアンカ・アウキ軍を撃破(クシバンバはリマとクスコとの中間にある谷間の町)。精鋭を失ったウアスカル軍は、圧倒的な軍事バランスにもかかわらず戦意を失い、戦いが優勢にあるときも追撃せず、ひたすらクスコへと退却を図った.

ウアスカル軍の主力はハウハ駐留のMayta Yupanqui の部隊がになうこととなる。

ユパンキ軍、ハウハ北方10キロのヤナマルカ(Yanamarca)に陣を構える.街道を見下ろすVilcas山の頂に石組みの要塞を建設.

キスキスの指揮するアタワルパ軍がハウハへの街道を南下。山腹に立てこもるマイカ軍がこれを攻撃.戦いは当初ウアスカル軍の優位で展開した。しかし最初の本格的攻撃が開始されると、守備隊はまもなく退却し始めた.

キスキスとカリクチマの連合軍、Junin県Bonbonの戦闘でマイタ軍を殲滅。

カリクチマの軍がハウハを占領。さらにAngoyaco河まで進撃.

マイカ軍はアンカヤコに撤退.ウアマンガ川を防衛線とする.一説によればウアスカルはタンガラのピサロに使者を送り支援を要請.

PincosとAndaguayiasで戦いが起こる。アタウアルパ軍の勝利に終わる.

アタウアルパ軍はクスコから80キロのLimatambo、さらに西方30キロのIchubambaまでウアスカル軍を追撃。ウアスカル軍は壊滅し四散する.

いったんクスコに戻ったウアンカ・アウキがふたたび司令官に復帰.軍主力をアンダウアイラス(Andahuaylas)とパチャチャカの間の王道に配置し、アプリマク川を最後の防衛線とし迎撃体制をとる.

アタウアルパ軍が首都クスコの北西とアバンカイ(Auancay)に入る。ウアスカル軍は闘わずして敗走.

アタウアルパ軍が、アプリマク川にかかるコラウアシ(Curaguaci)橋を攻撃.ウアスカル軍は橋の防衛に成功。アタウアルパ軍は上流のコタパンパ(Cotapampa)橋の確保に動く.

コタパンパのたたかい。ウアスカル軍がTumarimayの率いるアタウアルパ軍を殲滅する.

ウアスカル軍コタバンバ河を渡り、撤退中のキスキス軍を追撃.トバライ(Tovaray)で払暁から深夜にわたる戦闘となる。チャルコチマとキスキスの率いる本隊に壊滅的打撃を与える.

体制を立て直したカリクチマ・キスキス軍はキパイパン(Quipaipan)でウアスカル軍を奇襲。将軍のひとりTopa Ataoを捕らえ拷問し、ウアスカルの行動予定を知る。

800名を引き連れチョンタカハス(Chontacaxas)山に前線視察に出たウアスカルを、カリクチマとキスキスが挟撃.捕縛に成功.ウアスカルはハウハ(Jauja)の要塞に幽閉される。

アタウアルパ軍が,ウアスカルを引き売れクスコに進軍.クスコを占領.キスキスはアタウアルパに処置の方針をもとめる。

カハマルカのアタウワルパ、唯一のインカ皇帝を名乗る。ウアスカル一族、聖職者、太陽の処女(Orejones)、ウアスカル派貴族と軍高官全ての処刑を命じる。

 

1532年 アタワルパの幽囚

5 ピサロ隊,グアヤキル湾内の島プナ島に上陸。好戦的な住民との小競り合いを経てトゥンベスに移動・上陸.インカ帝国内乱の情報を得る.

9.24 ピサロ,陸路トゥンベス南方のサンミゲル・デ・ピウラに進出.最初の要塞を建設したあとさらに南進.後にサンミゲル・デ・ピウラは環境不良のため放棄され,現在のピウラの町があらたに建設される.

9月 アタワルパは戦闘で受けた傷を癒すため、ワマチューコから温泉町カハマルカに移動.

11.15 ピサロ一行約150名,アタワルパの招待を受けカハマルカ盆地に入る.

11.16 ピサロは,アタワルパを奸計により監禁.大量の金銀財宝を釈放の身代金として手に入れる.

部下フランシスコ・デ・ヘレスの記録: 先着したピサロは中央広場の入り口に部下を隠し、アタワルパを待ち受けた。アタワルパと非武装の随員が広場に入った。まずフェリピーリョをともなったバルベルデが、アタウアルパに宗教論争を仕掛けた。頃合を見たピサロが「サン・ティアゴ!」と閧の声をあげた。160人のスペイン人がいっせいに攻撃を開始した。従者4千のうち2千がその場で死亡し残りも捕虜となったという.

12月ころ クスコのインカ軍にアタワルパより離反する動き.アタワルパはワスカル謀反の動きを知り,獄中よりハウハのチャルクチマ将軍に殺害を命令.(ウィキペディアによれば、ピサロが「ウアスカルをカハマルカに連れてきた上で、どちらがサパ・インカにふさわしいか審問する」と脅かした.ウアスカルに負けることを恐れたアタウアルパは、ひそかにウアスカル殺害を命じた。)

 

1533年 クスコの占領

1.5 エルナンド・ピサロ,パチャカマ神殿(現リマ近郊)の黄金掠奪のためカハマルカを出発.

4.14 アルマグロの援軍,カハマルカに到着.

5.23 ピサロがクスコに派遣した掠奪隊,大量の金銀を持ち帰る.

6.13 ピサロ,財宝を兵に分配.アルマグロの兵は戦利品の分け前に預かれず不満を蓄積する.

7.26 キト守備隊のルミニャウイ司令官,アタウアルパの叔父コソパンキ(Cozopanqui)を追放し権力を握る.ピサロの兵は,ルミニャウイ進攻のデマの前に恐慌状態となる.アルマグロはアタワルパ殺害を主張.

8.28 ピサロ,ソトの反対を押し切りアタワルパ処刑に踏み切る。アタワルパの弟トパルパ(正式にはTupac-Huallpa)をかいらい皇帝とし,スペイン王への忠誠を誓わせる.(一説ではウアイナ-カパクの息子)

8.29 アタウアルパは審判にかけられ、洗礼を施されたあと絞首刑に処せられる。

8 ピサロ,トパルパ皇帝と5百の兵をひきいクスコに向け進軍開始.チャルクチマ将軍も捕らえられる.キスキス将軍は各地で抵抗闘争を組織.ワスカル殺害に怒る反アタワルパ派のカニャル族が味方につく(この記載は変ですね).沿道の原住民はピサロを神々の使者と仰ぐ.

10 ピサロ,ハウハの町に入り,植民地を建設.トパルパ,ハウハでアタワルパ派の陰謀により殺害される.ハウハを出たピサロはハキハワナでワスカルの弟マンコ・カパックの和平を受入れ,かわりのかいらい皇帝(インカ)にすえる.

10 エルナンド・ピサロ,4隻の船に金70万ペソ(3トン相当),銀5万マルコを積んでセビリアの港にはいる.アタワルパの身代金の一部を5分の1税として王室に献上.スペイン王室は献上額が少ないのを怪しみ,トマス・デ・ベルランガを団長とする調査団を現地に派遣.

11.8 ソトの率いる60騎の先発隊,ハウハを出発しクスコに向かう.アプリマック川にそってビルカクンガ山地に入ったところで,キスキス軍の待ち伏せ攻撃に会う.ソト軍はアルマグロの応援を受けこれを撃破.

11.15 クスコのアタワルパ派,マンコを引き連れたピサロの前に無血開城.マンコ,インカ皇帝に即位.征服者はスペイン国王から統治の全権を委任され(エンコミエンダ制),ヌエバ・カスティーリャと命名.キスキスは残党を従えキトに退却.ピサロはS.デ・ベラルカサルの指揮する2百名の歩兵と80名の騎兵を追撃隊として派遣.

1534年

2 キスキス軍,エクアドルより反撃を試みるが失敗,四散する.

3.24 クスコにアウディエンシア発足.ピサロはクスコを徹底的に破壊したあとスペイン人都市を建設.

1535年

1.6 ピサロ,インカの豪族リマックのすすめを容れ,インカ残党にとりかこまれたクスコを避け,カリャオ港の近郊にリマ・デ・ロス・レイエス(諸王の都)を建設,ヌエバ・カスティーリャの首都とする.諸王とはキリスト生誕時の三人の賢人の意.弟のペドロ,ゴンサロ,フアンをクスコに残す.マンコ・インカを幽閉状態におく.

5 アルマグロ,アルトペルーに遠征.オルロ付近に要塞を建設した後クスコに戻る.エンコミエンダの分配に預かれず.ピサロと協定を結びチリのアデランタードに任じられる.

7 アルマグロ,スペイン兵6百名と先住民数千名を引き連れチリ遠征を開始.マンコの異母弟パウユ・ユンガも随行.アンデス山中を進むうち数千の先住民と170頭の馬が病死.(一説では1万2千名が動員され、全滅したとされる)

11 エルナンド,新兵をひきいペルー到着.クスコ総帥に任じられる.マンコ・インカ,クスコ脱出をはかるが失敗.

 

1536年 マンコ・インカの反乱

4 マンコ・インカ,クスコを脱出しユカイの聖なる谷に到着.40万(数え切れないという意味)の部下を集め反乱を開始.フアン・ピサロはユカイにマンコを追撃するが,敵の大軍を前に撤退.

5 マンコ・インカの軍18万人がクスコを包囲.エルナンドはクスコ死守を決意し,190名のスペイン人兵士とともに篭城に入る.パウユは反乱に参加を勧誘されたが加わらず,スペイン人側に協力.

5 リマ奪回をねらうキソ・ユパンギ将軍,インカ反乱軍をひきいてスペイン軍を打破.

8 反乱軍,クスコを見降ろすサクサワマン砦を確保.半年にわたるリマ包囲に入る.

10 フアン・ピサロ,サクサワマン砦の争奪戦で戦死.反乱軍のキソ・ユパンギ将軍,陣没.ビラ・オマ(ビリャク・ウム)将軍が指揮をとるが,これを期に士気が弱まる.

1537年

2 エルナンドは総攻撃をかけサクサワマン砦を奪取.マンコ軍はウルバンバ川下流のオリャンタイタンボに撤退.エルナンドはこれを追討するが惨敗し逃げ帰る.

4 アルマグロ,アラウコ族の抵抗にあいビオビオ河から南へ進むことが出来ず.遠征に失敗しクスコ帰還.エルナンド不在中のクスコを占拠.帰還したエルナンドを逮捕しリマに追放.ヌエバ・トレドを自称しピサロのヌエバ・カスティーリャに対抗.クスコとアルト・ペルー一帯を支配,パウユ・ユンガを皇帝につける.

7 アルマグロの部下オルゴニェス,マンコをビトコスまで追跡.マンコ・インカ,アンデスの東斜面,ウルバンバ川とアプリマク川に挟まれたビルカバンバに基地を築き,ビトコスの砦を新インカ国家の中心としてスペイン人支配に抵抗.

1538年

4.26 エルナンド,クスコに向けて反撃開始.クスコ郊外ラス・サリナスのたたかいでアルマグロ軍を打ち破る.パウユはピサロ側にくら替え.

7.8 ピサロ軍に捕らえられたアルマグロ,クスコにおいて処刑.

9.5 アロンソ・デ・アルバラード,北部を探検しチャチャポーヤスの町を建設.

9 ペドロ・デ・カンディア,チュンチョ族の国をもとめ,クスコ東方の山岳地帯に侵攻するも失敗.

11 マンコ軍,アイマラ族の居住地であるチチカカ湖周辺のコリャオ高原を舞台に第二の反攻を開始.ティソ・ユパンギ将軍が指揮をとりオンコイの闘いでビリャディエゴ軍を撃破.

12 ゴンサロはインカのティソ・ユパンギ軍を追いアルト・ペルー一帯に進出,首長アヤビリを降してチャルカスと名付ける.コチャバンバでユパンギ軍に包囲される.

1539年

2 ゴンサロ,チャルカスの戦いでユパンギ軍を打ち破り,包囲の突破に成功.ペドロ・デ・アンズレスはさらに東方に進出,ラプラタ(現在のスクレ市)を建設.チャルカス州の首都となる.

4 ゴンサロ,チャルカスからもどりクスコ総督に任命.さらにビルカバンバに侵入.マンコ軍と4ヶ月にわたり激しい攻防戦を展開.パウユはピサロ側にたち,たたかいに参加.

10 マンコ軍のビラ・オマ将軍,コンデスユスでスペイン軍に降服.その後処刑される.マンコの反乱,ほぼ平定される.

1540年

1 ペドロ・デ・バルディビア,チリ遠征に出発.

40年 ピサロ,ゴンサロをエクアドル総督に任命.

40年 ピサロ,ユカイにおもむきマンコとの会見を求める.マンコはこれを拒否.

40年 ラ・プラタ市(後のチュキサカ、チャルカス、スクレ)が建設される。

1541年

2 ゴンサロ,アマゾン探検に出発。

6.26 ピサロ,リマの自宅で,アルマグロの息子ディエゴ・アルマグロ・エル・モソ(メスティソ)に襲われ死亡.アルマグロはペルー総督を自称し,アンデス高原地帯の平定に向かう.ユンガ,アルマグロのもとに復帰. ピサロ残党はいったんパナマに逃れる.

10.31 インカ征服に同行した修道士ヴィセンテ・バルベルデ、スペインへの帰途に遭難。プナ島に漂着したバルベルデは現地民に捕らえられ殺された。現地民は聖地を荒らし偶像を破壊したバルベルデへの復讐として、その死体を食べた。

1542年

9.16 スペイン王室,バカ・デ・カストロを新総督に任命.パナマでピサロ派と合流したカストロ軍,アルマグロ軍を追撃.ウアマンガ近郊ラス・チュパスにおいてこれを壊滅.アルマグロを殺害.ゴンサロがその後の支配権を掌握.アルマグロ残党の一部はビルカバンバに逃れ,マンコの庇護を受ける.パウユはチュパスのたたかい後ふたたび王党派に忠誠を尽くす.

11.20 カルロス一世,ラスカサスの意見を採り入れ「インディアス新法」を公布.エンコミエンダの世襲を否定,先住民の奴隷化や強制労働の廃止をめざすが,入植者の反発強まる.ペルーに副王庁設置.第一代副王にブラスコ・ヌニェス・デ・ベラを任命.リマにアウディエンシア開設. アウディエンシアの構成員となる4人のオイドール(聴聞官)とともにペルーに派遣.

 

1543年

5月 フェリーペ・グティエレス,クスコからコリャオを経由してフフイ,パラナ地方を探検.

43年 ベラ副王がリマに着任。強引にインディアス新法の徹底を試みる。これに反対したイリャン・スアレス・デ・カルバハルは刺殺される。

43年 ヘロニモ・デ・ロアイサ、最初のリマ司教に任ぜられる。48年には大司教に昇格。

 

1544年 ゴンサロの反乱

5.17 ベラ副王,リマに到着.新法の完全実施を宣言する.ゴンサロを先頭とするクスコの有力者層は一斉に反発,ベラに対し公然と反抗.ベラはキトに兵を集めはじめる.マンコは反ピサロの立場から副王に協力を申し入れる.

6 マンコ,ビトコスにおいて旧アルマグロ軍崩れのディエゴ・メンデスにより暗殺される.後継に幼帝サイリ・トゥパク,摂政にアトック・ソパ.スペイン人支配を受入れながらも抵抗を継続.

9.18 ゴンサロ,オイドールも巻き込みアウディエンシアの支配権を獲得.アウディエンシアはベラの更迭を決定.

10.28 ゴンサロ,先住民6千人を引き連れリマに入る。ベラをとらえスペインに強制送還.アウディエンシアにより総督兼総司令官に任命される.これとともにオイドールの一人テハーダを本国に派遣する.

45年 スペインに向かっていたテハーダ,途中パナマで疫病にかかり死亡.ベラは脱走に成功.エクアドルに本拠を構え反撃体制に入る.

45.10 ベラ副王,キトを訪れゴンサロと会見.話し合いは新法をめぐり物別れに終わる.ベラはその後ポパヤンに足を伸ばし,ベナルカサルと会見.

45年 エンコミエンダの廃止,インディアス新法から削除.

45年 アルト・ペルーの砂漠地帯ポトシのセロ・リコ(Cerro Rico:豊かな山。標高4700メートル)に銀山発見.ペルーなど諸地域から多くのインディオが、強制労働させられることになる。

45年 逃亡黒人奴隷2百人,リマ北方のワウラで奴隷主のエンコミエンダを襲撃.

1546年

1.18 ゴンサロ,スアレス・デ・カルバハルの率いる600人のスペイン人部隊に命じ,キト近郊アニャキトで副王軍とベナルカサルの部隊を攻撃.副王側に50人,ゴンサロ側に20人の死者を出す激戦のすえ,ベラを逮捕処刑.カルバハルは捕らえた70人を虐殺.残党も先住民に捕らえられ殺害される.

2 ゴンサロはみずから船団を指揮しパナマを占領.南米大陸の支配者を宣言する.

4 スペイン本国はペドロ・デ・ラ・ガスカをリマのアウディエンシア長官に指名しゴンサロの反乱鎮圧に派遣.

1547年

1 デラ・ガスカの部隊,グアヤキルに上陸.ゴンサロの指名した総督らを逮捕.キトのスペイン人はデラ・ガスカ軍に参加.

3 ガスカ,ハウハに上陸.ギアリーナでゴンサロ軍とデラ・ガスカ軍が決戦.ゴンサロは敗走,クスコにたてこもる.

4.09 両軍がハキハグアナで対戦.勝利したデラガスカ軍はクスコ入城.ゴンサロはアルト・ペルー方面に退散.

10.26 チチカカ湖南東のワリーナで国王軍とゴンサロ派の衝突.数で劣るゴンサロ軍が,巧みな戦術で勝利.

1548年

1 ゴンサロ,クスコの地にペルー王国を開く.

4.09 クスコ郊外のハキハワナで,ふたたび両派の決戦.ペドロ・デ・ラ・ガスカの率いる王党軍が勝利.

4.10 ラ・ガスカ,ゴンサロを逮捕し処刑.

7 ラ・ガスカ,エンコメンデーロの圧制を止めさせ,租税額の再査定をおこなうなど先住民に対する保護策を講ずる.インカ軍との和平交渉に乗り出す.その後3年をかけて国内平定に成功.

48年 この時点でペルーの人口は推定825万人で、20年足らずで半減する。

48年 アロンソ・デ・メンドサ大尉,チュキアプに植民地ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラパス建設.ポトシの銀を太平洋岸の港へ運ぶ集積地として発展。

49.5 ラ・ガスカの意を受けたパウユ・ユンガ,サイリ・トパクの帰順説得に成功.迎えにいく途中で病死.

49 ヌニェス・デル・プラード,ガスカの命を受けペルーからアルゼンチン北西部に至る一帯を探索.

1550年

6月 プラード,バルコの町を建設.これを権利侵害と感じたサンチアゴのバルディビアはビリャグランを派遣しプラードを打ち破る.

1551年

9.12 元ヌエバ・エスパーニャの副王アントニオ・デ・メンドサ,第二代のペルー副王としてリマに着任.ゴンサロ亡き後のエンコミエンダ領を再配分し、支配体制を立て直す。

10 リマで最初の宗教会議開催.

51 トマス・デ・サンマルティンの要請を受け、リマに王立サンマルコス大学創立の勅令発布.実際の創設は71年.

1552年

7.21 メンドサ,着任から10ヵ月後に、リマ市内で病没.高齢と病弱のため力を発揮しないままにおわる.

52年 ラプラタ(チュキサカ)にアルトペルー最初の司教区が設けられる。1605年にはラパスとサンタクルスにも司教区が設置される。

53.11.13 エンコミエンダ特権の削減と先住民使役の制限に反対し,クスコ在住のフランシスコ・エルナンデス・デ・ヒローンを指導者とするエンコメンデーロの反乱.1年にわたりつづく.ウアマンガ(現アヤクーチョ),アレキパの植民者もこれに同調.

1554年

2 リマで王党支持派のエンコメンデーロが集り,戦争後の報償とエンコミエンダの世襲制を求める会議開催. 負債に苦しむ王室から,多額の献金と引き替えに世襲権を獲得.

11 摂政フェリペ皇太子を中心にロンドン会議開催.エンコミエンダの世襲を承認.

11 ヒローン軍,チチカメ北西のプカラのたたかいで壊滅.クスコの反乱終結.

12.7 ヒローンはハウハ近郊で捕らえられ処刑される.

55 メディーナ,水銀による銀の抽出法(アマルガム法)を発明.メキシコで実用化.

56.6 カニェテ侯アンドレス・ウルタド・デ・メンドサ,第三代副王として着任.

56年 フェリペ二世,国王に即位.エンコミエンダを世襲とし,さらに完全な司法権をも与える方向を打ち出す.インディアス顧問会議はこの提案を拒否.

57.10.7 サイリ・トゥパク,メンドサ副王の和平案を受諾.ビルカバンバを離れリマにおもむく.異母弟ティトゥ・クシ・ユパンキがビルカバンバの城主となる.

58.1.5 サイリ,リマでメンドサと会見,恭順の意を表わしクスコ近郊ユカイの谷に土地をたまわる.

59.9 フェリーペ2世,アルト・ペルーのチュキサカ地方チャルカス(現スクレ)にアウディエンシアの設置を命ずる.行政範囲はチャルカスを中心として半径100リーグという大雑把なもの。実際の設立は61年の9月.このあと独立まで、現ボリビアの地域は「アルト・ペルー」(高地ペルー、上ペルー)と呼ばれる。

59 東部のチャコ地方にサンタ・クルス・デ・ラ・シエラが建設される。

60.9 ティト・クシ,サイリの死にともない皇帝に即位.ビルカバンバにとどまり抵抗を続ける.

9.26 ペドロ・デ・ウルスア,副王の命により「オマグアスの国」探検のためワリャガ川を下降.

1561年

1.1 アマゾン航下中のウルスア,部下のローペ・デ・アギーレに殺害される.アギーレはアマゾンにティエラ・フィルメ王国の樹立を宣言し,スペインに対し反乱.

4 ニエバ伯ディエゴ・ロペス・デ・スニガ・イ・ベラスコ,第4代副王として着任.

9.07 チュキサカ地方のチャルカス(現スクレ)にアウディエンシア成立.チチカカ湖以東の高地ペルー(アルト・ペルー)を管轄する。ポトシ,国王から「帝国都市」の称号を受け自治権を獲得.人口は十万を越え,西半球の最大の都市となる。スペイン人も4千人を数える.

ボリビア東部平原地帯への進出: ヌフリオ・デ・チャベスは,ボリビアの平原地帯に進出.サンタクルス・デラ・シエラを建設.副王の命によりボリビア進出したアンドレス・マンソと支配権をめぐり抗争.しかしサンタクルス以東のグラン・チャコ平原は大部分が不毛で、チリグアノ族を中心とする先住民の抵抗も激しかったため、植民は進まなかった

10.27 アギレ,ペルー征服を唱え,ネグロ川からオリノコに入るが,バルキシメートの決戦に敗れ敗死.

62 ペルー副王の命によりペルーの海岸部にチャンカイ,イカ,サーニャの各都市建設.

62 クラカの全国会議.エンコメンデロへの特権付与に反対する合意.エンコメンデロを上回る献金額を提示.エンコメンデロ以外のスペイン人入植者も,世襲化と特権付与に反対の声を上げる.

63 エンリケ・ガルセスとアマドール・デ・カブレーラ,ペルー南部高地のワンカベリカでサンタ・バルバラ水銀鉱山を発見.これにともないアマルガム法がポトシにも導入可能となる.

64 中部高原ワンカ地方の原住民にスペイン人の滅亡を祈るタキ・オンコイ教流布.副王は先住民の大規模な反乱計画が明らかになったとして8千人を逮捕.

65.4 ラプラタ市(現スクレ)のドン・ディエゴ・ロドリゲス,宣教のためビルカバンバに入る.ティト・クシとの会見には成功するが,翻弄されたうえ追い返される.

65 フェリーペ2世,ペルーでの銀貨鋳造を許可,リマに造幣局を設置.

65 ハウハでワンカ族のクラカたちによる反乱計画発覚.

66.8.24 ティト・クシとチャルカスの聴訴官マティエンソのあいだにアコバンバ協定締結.スペイン国王への臣従を誓う.

67.11.19 アルバロ・ド・メンダーニャ・ド・ネイラ、70人の兵士と4人の牧師、多数の奴隷を率い、二隻の帆船でカヤオを出発。”テラ・アゥストラリス”と呼ばれる南方大陸を目指す。メンダーニャはペルー副王ローベ・ガルシア・デ・カストロの甥で当時25歳。ペドロ・サルミエント・デ・ガンボアの「インカ史」に、「インカの船乗り”パウジ・トゥパク・ユバンギ”が9ヶ月におよぶ南方航海の後に、莫大な富を持ち帰った」という話があったのを信じて、ガンボアと共に探検隊を組織。

68年2月 メンダーニャの探検隊、ソロモン諸島に達する。財宝を見つけられないまま、11月にペルーに帰投。

68.8 ティト・クシ,キリスト教への改宗を承諾.

68年 チュキサカのアウディエンシアの行政範囲、クスコからパラグアイにまで広がる広大なものとなる。

69.11.30 フランシスコ・デ・トレド,第5代副王に就任.各地に先住民を強制居住させるレドゥクシオンを建設.

70 リマに異端審問所(Inquisition)設置.

70 征服当時1千万人の先住民は130万まで減少.(一説では1600万から274万人に減少))

71.5 ティト・クシ,天然痘により死亡.異母弟のトゥパク・アマル(トゥパマロ),最後のインカ皇帝となる.トゥパク,滞在中のオルティス神父を殺害しアコバンバ協定を破棄.スペイン人との対決姿勢を強める.

71年 ミゲル・ロペス・レガスピ、メキシコからマニラにわたる。以後、太平洋航路を通じての中国への銀輸出が拡大。

71年 サン・マルコス大学が開校する。勅許が降りてから開校に至るまで20年を要した。

1572年

3 トゥパマロ,副王の使節アティラノ・アナヤをチュキチャカで殺害.

4.4 副王トレド,アナヤ殺害の報に接し強硬方針に転換.武力制圧を指示.

6.24 トゥパク・アマル,ビルカバンバ峡谷のコヤオ・チャカで副王軍と対決.スペイン軍の銃砲の前になすすべもなく敗れる.トゥパクは逃亡中をオンコイ付近で捕らえられる.

9.24 トゥパク・アマル,クスコで斬首刑.インカ帝国の最終的崩壊.

72年 ペドロ・サルミエント・デ・ガンボア(軍人)、副王トレドの命により「インカ史」を発行する.「インカ王朝が纂奪者の始めた専制君主のものであることを立証し,スペイン王のペルーにおける主権の正当性を明らかにするため」の文献とされる。

72年 ポトシに水銀アマルガムによる精錬法が導入される.含有度の低い鉱石も利用可能となり,銀生産の飛躍的発展をもたらす.スペインへの輸出の95%が銀となる。

74 スペインの王立造幣局、リマからポトシに移設.

74.2.07 トレド副王,ペルーの鉱山開発に関する包括的政令.織物工業においても先住民の強制労働を基礎とするオブラッヘ制が確立.

レパルティミエント制: エンコメンデロの保有する先住民をミネーロと呼ばれる鉱山主が借り受け,その労働により操業する制度。エンコメンデロは先住民を徴発するのに,インカ帝国時代に各村に使役を割り当てるのに用いられた制度ミタを利用した.年間1万3千人のミタ労働者を徴発し,銀採掘にあたらせる。これは当時の成人男子の7人に一人にあたる。ポトシは「地獄の入口」とよばれた。(エルネスト・マンデルによれば、1年間だけで8万1千人の先住民が命を落としたとされるが、これは眉唾)

74 ボリビアからラプラタ地方への進出拠点としてタリハ建設.

75 副王トレド,チリグアノ族を討つためチャコ地方に遠征.

77 副王トレド,サンマルコス大学開講のための布告を発す.さらにリマとクスコに現地人首長の子弟のための学校を開設.

78 エクアドルのアマゾン流域でJumandiの反乱が発生。99年にはShuarの反乱。

79.2.15 ドレイク,アリカに続きカリャオを襲撃.停泊中のサン・クリストバル号を掠奪.

10月 トレド副王,マゼラン海峡に要塞を建設するためサルミエントを派遣.

82年 ラ・プラタ司教、ティティカカ湖岸コパカバーナに先住民が黒い聖処女を建立することを黙認。コパカバーナは伝統的なアイマラ族の宗教的センターであった。

86 アンデスで天然痘とインフルエンザの大流行.4年にわたりつづく.

87 ペルー副王ビリャール伯,先住民の共有貯蓄(カハ・デ・コムニダ)徴発を許可される.

90 ウルタード・デ・メンドサ,ペルー副王に就任.

91 この年,ポトシの銀山の人口が13万人に達する.この人口を養うため、周囲の農業生産が活発化する。

95年4月 メンダーニャが30年ぶりに第二次探検隊を組織。メンダーニャは航海途中に死亡するが、ペドロ・フェルナンデス・デ・キロスが残りの部隊を率い、マニラに到達。結局財宝は見つからず。

 

1600年

02 ビルカバンバでフランシスコ・チチマのひきいる先住民の反乱.

02年 この年、ポトシの銀生産690万ペソのうち300万ペソが、アカプルコを通じてアジアに輸出される。

06 アルトペルー(ボリビア)のオルロに銀鉱山発見。1630年までのあいだ銀ブームが起きる。

08 リマ南東部のワロチリで先住民による「偶像崇拝」が摘発される。イエズス会はこれを機に偶像撲滅運動を展開。

09 インカ・ガルシラーソの「インカ皇統記」刊行.

11 ポトシの人口16万人に達し,当時の世界最大都市の一つとなる.

13 リマで人口調査.総人口は25千人.内訳はスペイン人1万人,黒人1万人,先住民2千人,メスティソ200人,ムラート700人,聖職者1500人.マニラから流れた日本人も20人いたという。

17 ディエゴ・バカ・イ・ベガ,副王の許可をえマラニョン川流域のマイナ族征服.

19 ディエゴ・バカ,ナポ川流域に探検植民.

23年 イエズス会、チュキサカにサンフランシスコ・ザビエル大学を設立。アルトペルー最初の大学となる。

26年 セビリアの貿易商組合、「ペルレーロ」と呼ばれるペルーの商人が国内で商品を買い付けるのに反対。国王に対しペルレーロの駆逐を求める。ペルー人商人はまもなく、英仏との密貿易に主力を移す。

36 フランシスコ会のヘロニモ・ヒメネス,タルマからウカヤリ川の支流ペレネ川を下りアマゾン布教に出るが,アンティス族の先住民に殺される.

37.10.28 フランシスコ会のドミンゴ・デ・ブリエとアンドレス・デ・トレード,ナポ川からアマゾン川を下ってパラに到着.パラ総督ライムンド・デ・ノローニャはこれを受け,ペドロ・テイシェイラを指揮官とする探検隊を組織し,アマゾンを遡上させる.

38 イエズス会のルカス・デ・ラ・クエバ,ボルハからさらに奥地に入りコンセプシオン・デ・ヘベロス建設.スペイン領アマゾンの重要基地となる.

39.12.12 テイシェイラの探検隊,キトに達したあとふたたびアマゾンを下りパラに到着.

40 ポトシ銀山,ほぼ枯渇. 原住民人口が激減.これに伴い大農園制(アシエンダ)が発展.

60年 この年までにヨーロッパに持ち出された金の総量は300トン、銀は2万5千トンにのぼる。銀の総量は、当時のヨーロッパの銀の備蓄総量の3倍にあたる(エルネスト・マンデル)

66 リマの先住民貴族ガブリエル・マンコ・カパック,スペイン人の追放を計画するが,事前に露見し鎮圧.

 

1700年

00年 スペインの同盟国となったフランス、ペルー貿易の2/3以上を獲得。ホーン岬を回航しヨーロッパに至る。このためパナマに向かうスペイン船団は廃止される(1740年)。

17 ペルー副王領から分離し,ボゴタにヌエバ・グラナダ副王配置,イギリスの侵略に備える.ベネズエラ,コロンビア,エクアドル,パナマを統轄する.財政難からいったん閉鎖されるが,39年復活.

18 エンコミエンダ制廃止.コレヒドールは存続.徴税と強制労働(ミタ)の権利をにぎる.

30 アルトペルー(ボリビア)のコチャバンバで、メスティソのアレホ・カラタユーが指導する反乱が発生。一時オルロにも拡大。

31 コムネーロの反乱.指導者アンドラーデは処刑される.

37 イグナシオ・トロテ,ペレネー川流域の密林に拓かれたフランシスコ会の伝道区で反乱.

38 フアン・ペレス・デ・コルドバ,行政府の増税政策に反発して,ボリビアのオルロで反乱を計画.ミタの廃止,クリオーリョとの連帯をうたう「暴政の弾劾文」をもとに各地で組織を開始.みずから「インカ王の孫」を名乗る.メスティーソ,先住民の多くが反乱に参加するが,密告により鎮圧される.

40年 パナマ地峡に向かう船団が廃止される。欧州との交易はホーン岬を回るフランス船が7割近くを占めることとなる。

1742年 サントス・アタワルパの反乱

6 フアン・サントス・アタワルパ,アンデス東斜面フニン州のハウハ,タルマを根城に反乱開始.インカ帝国の復活を唱える。その後カンパ族,ピロ族,クニーボ族の支援を受け東部森林地帯のキソパンゴ(グラン・パホナル)で武装反乱継続.

フアン・サントス・アタワルパ(Juan Santos Atahualpa): 先住民の出身でインカの末裔を名乗る。イエズス会で教育を受け,ヨーロッパにも滞在した経験を持つ。

8 副王軍によるアタワルパ討伐失敗.アタワルパは逆にキミリ攻略に成功.先住民に支持をひろげる.

12 エンソン海軍中将の率いるイギリス艦,パイタ港を占拠.

43 副王軍,キミリを攻略するが,アタワルパは戦闘の末再度奪取に成功.副王軍守備隊96人は全員斬殺.

44年 リマで、最初の新聞「ガセーテ・デ・リマ」が発刊される。

46 新副王スペルンダ,アタワルパ軍の壊滅を指示.ホセ・リャマスのひきいる大規模なアタワルパ討伐隊が密林地帯に進攻するが,アタワルパの迎撃にあい惨敗.逆に山岳地帯のモノバンバまでアタワルパにより奪取される.

46 リマで大地震.町は壊滅する.

47.2 マヌエル・アルバラン神父ら,アタワルパ説得にあたるが,一行30人はカンパ族の弓矢攻撃により全滅.

1750年 ワロチリの蜂起

6 リマで職人を中心として先住民による反乱計画が発覚する.この「先住民共和国」計画は,副王府を襲撃し司祭を除くすべてのスペイン人を抹殺.サントス・アタワルパを首領にすえることになっていたという.副王スペルンダはアントニオ・カボ,ミゲル・スリチャクら首謀者全員を八つ裂きの刑に処す.

7 陰謀参加者で逮捕を逃れたフランシスコ・ガルシア・ヒメネス,皇帝の末裔フランシスコ・インガと称しリマ東方の町ワロチリで蜂起開始.1週間にわたり町を占拠しコレヒドールを殺害.副王軍は鎮圧後残酷な報復を繰り返す.

8.23 カリスト・トゥパク・インカ,「先住民の嘆き」文書をたずさえ,スペインに密航.国王に直訴する.

50 第2次討伐隊,モノバンバを攻略,アタワルパの根拠地エネノをめざすが,ふたたび惨敗を喫する.その後の10年間で、13回にわたる先住民の反乱が発生。

51 アタワルパ,山間部へ攻勢をかける.ソノモロ,アンダマルカを攻略するが,その後自発的に密林地帯に引上げ,外部との接触を絶ち消息不明となる.(55年頃酔った先住民の投げた石にあたりケガで死亡との説)

51 サンテリセス,ポトシの長官に着任.先住民の労働条件緩和につとめ,61年には枢機会議メンバーとなり,植民地でのスペイン人の横暴を抑えるため活躍.

54 スペイン政府,商品の強制分配(レパルティミエント)を合法化.先住民からの収奪をさらに強める.

59年 マヌエル・デ・アマト副王(Felipe Manuel Cayetano de Amat y de Junyent)が着任(一説に61年)。15年の在任期間中に、道路を舗装し公園を造設,街灯を設けるなど公共土木事業を推進。クリオージョの女優との間に浮名を流す。

60年 先住民の反乱は50年代の13から60年代の16件に増加。その多くはクラカによるものだった。

67年 イエズス会が追放される。アマト副王はその蔵書を用い、サンマルコス大学図書館とする。

76 ラプラタ副王領設置.アルトベルーはラプラタ副王領に編入される.リマ副王の権威さらに低下.78年にはチリも,総督領となり,リマから事実上独立.

77.11月 キートのAudienciaで、国勢調査に対する反乱が拡大。

12月 クスコ南方のティンタ郡のクラカ(村長)ホセ・ガブリエル・コンドルカンキ,リマに赴き,ミタの廃止をアウディエンシアに提訴.アウディエンシアはこれを拒否.

77 カルロス三世の意を受けた全権巡察官フアン・アントニオ・デ・アレチェ,ペルーに着任.

78.5 (ボ)ポトシ近郊チャヤパタのアロース代官,カシーケの地位をトマス・カタリ(Tomas Catari)より奪い,メスティソのドリア・ベルナールを代わりに任命.これに抗議するトマス・カタリを投獄.

78 スペイン,植民地における自由貿易を認める勅令.

 

1780年 トゥパク・アマルーの反乱

1 アレキパでアルカバラ(売上税)に抗議するクリオージョ民衆の暴動.税関を焼打ち. メスティソや先住民も大量に参加.

6 (ボ)トマス・カタリ,代官アロースへの不服従運動を展開するいっぽう,彼の不正を訴えるためラプラタ(チュキサカ)のアウディエンシアに赴くが,とらえられ投獄.

8.26 (ボ)アロース,カタリの釈放を嘆願した先住民指導者を射殺.先住民はアロースをとらえ監禁.カタリの釈放を実現する.カタリはチャヤパタ一帯の事実上の支配権を獲得.

80年11月

11.04 クスコ近郊ティンタ地方のコンドルカンキを指導者とする農民,鉱山や織物工場での強制労働(ミタ,オブラヘ)の廃止を要求.横暴なコレヒドール,アントニオ・デ・アリアガをとらえ反乱開始.コンドルカンキはトゥパク・アマル二世(トゥパマル)を称する.その軍はトゥパマリスタと称せられる.

11.10 トゥパマル軍,トンガスカに送られてきた武器を奪取.

11.10 アリアガを即決裁判に掛け死刑に処す.

11.12 トゥパマル軍,キスピカンチ郡に侵入,キキハナを占領.キキハナの代官カブレーラ,クスコに逃げ入り反乱を知らせる.

11.16 トゥパマル,黒人奴隷解放令を布告.

11.18 トゥパマル討伐のため進攻したカブレラの指揮するクスコ軍,サンガララーで6千名のトゥパク・アマル軍に包囲され6百名が全滅.スペイン側の死者は576名に達する.指導者はすべて戦死.

11.24 リマのハウレギ副王,レパルティミエント制の廃止を決定.同時に視察官アレッチェを司令官とし,デルバイエ将軍を参謀とする討伐軍を組織.

80年12月

12 トゥパマル,南部を転戦.軍団は4万人にふくれ上がる. カルカの街を襲撃した際,スペイン人はみな殺しにされ,農園は略奪される.これを機にクリオージョ,メスティソは運動から離れるようになる.

12.28 トゥパマル,クスコから1キロのピチェ山を確保.

12.30 (ボ)チャルカスのアウディエンシア,ソラータ代官のセグローラをラパス防衛軍の司令官に任命.

 

1781年

81年1月

1.02 トゥパマル,クスコ包囲戦に入る.みずから「ペルー,キト,チリ,ブエノスアイレスおよび南海大陸の王,ドン・ホセ1世」を名乗る.

1.08 クスコ軍,反撃に出る.ピチェ山を奪取し,トゥパマル軍の正面を叩く.

1.09 リマからの討伐軍先遣隊,クスコ近くに進出.トゥパマルは敗色濃くなりサンガララーまで撤退.

1.15 (ボ)チャヤパタの新代官アクーニャ,カタリをとらえ処刑.トマスの弟ダマソ,ニコラスのカタリ兄弟,反乱を組織し代官の手兵を殺害.ダマソはさらに7千の先住民をひきい,チャルカス附近のプニーリャ山に陣を構え一連の暴動を起こす.

81年2月

2.10 (ボ)オルーロの町で先住民と組んだクリオージョの反乱.スペイン人を虐殺し町を占拠.ラプラタ政府はクリオージョ支配を追認.

2.13 (ボ)ダマソの軍,チュキサカへの攻撃開始.

2.17 (ボ)チャルカスのアウディエンシア,レパルト廃止を宣言するいっぽう,軍団を組織.隊長にセゴビアが就任.カタリ軍討伐をおこなうが大敗.

2.20 (ボ)クリオージョながらラプラタ副王ベルティスの信任あついイグナシオ・フローレス,セゴビアに代わりチャルカス軍の指導者となる.反撃作戦によりプニーリャ山を奪取.ダマソ・カタリはチャヤパタに逃れるが,裏切りにあい逮捕.

2.23 討伐軍本隊1万7千名,クスコ入り.強制配給,十分の一税の廃止,税関の閉鎖を宣言.

81年3月

3.01 (ボ)シカシカで先住民の反乱.指導者のフリアン・アパサ(Julian Apaza)は、二人の名をとりトゥパク・カタリを名乗る.セグレーロはこれを鎮圧し住民多数を殺りく.

3.06 (ボ)南部のトゥピサでクリオージョのラッソ・デラ・ベガのひきいる反乱.トゥパマルの名において支配すると宣言.代官を殺害.10日後にラッソが逮捕され計画破産.

3.13 (ボ)トゥパク・カタリ,4万の兵を集め170日にわたるラパス包囲作戦開始.

3.19 (ボ)スペイン人と手を結んだオルーロのクリオージョ,先住民を裏切り追放する.

81年4月

4.06 討伐軍とトゥパマル軍,サンガララーで決戦.トゥパマル軍は壊滅し,トゥパマル捕えられる.

4.18 従弟のディエゴ・クリストバル,ランギ村で闘いを継続.4日間にわたる激戦となる.

81年5月

5.04 (ボ)ディエゴの甥アンドレースがひきいる二万のトゥパマル軍,チチカカ湖東方のソラータを包囲.

5.09 (ボ)ディエゴ,プノ包囲中のトゥパク・カタリの軍に合流.

5.18 トゥパマル,クスコの広場で車裂きの刑に.同時に数千人の将兵が殺される.

5.23 (ボ)デルバイエ将軍の討伐軍,プノに到着.脱落者の続出により,三日後にはプノを放棄.反乱軍はディエゴを首領とし,チチカカ湖西方のアサンガロを首都とする.

7.01 (ボ)チャルカスのアウディエンシアの議長イグナシオ・フローレス,みずから援軍をひきいてラパスに到着.トゥパク・カタリはいったん包囲をとき撤退.

8.4 (ボ)フロレス,脱落者続出のため軍を維持できず.わずかの守備兵を残し撤退.トゥパク・カタリはただちに包囲を再開.

8.5 (ボ)アンドレース,三ケ月のソラータ包囲作戦ののち勝利.一万の軍勢がラパス包囲軍に合流.

8.27 クリオージョの代表ホセ・パキハノ、リマに上陸したアグスティン・ハウレギ副王の着任歓迎式典で挨拶。「先住民は飢えと死に直面しており、弾圧政策を続ければ恐るべき事態が起こる」と警告。

9.12 リマ副王ハウレギ,イギリスの戦争への介入を恐れ,ディエゴ軍に対する大赦令を布告.

10.11 (ボ)ラパス包囲軍,アンドレースの指示にしたがって洪水作戦を試みるも失敗.

10.17 (ボ)レセギン中佐のひきいるラプラタ副王軍,ラパスに到着.包囲軍は撤退,アンドレースはアサンガロに戻る.

11.3 (ボ)アンドレース軍,副王軍に投降.トゥパク・カタリは投降を拒否,アチャカチに逃れる.部下の裏切りにより捕らえられ,車ざきに処せられる.この反乱による死者は先住民側10万人,スペイン側1万人といわれる.

12.11 ディエゴ,停戦協定に調印.

82.1.27 ディエゴ軍,武装解除し投降.

83.2.15 ディエゴ,アンドレースら,反乱の企ての嫌疑で逮捕.ディエゴは八つ裂きの刑に.アンドレースは流刑の途中行方不明となる.

1784年

4月 カラバンバでアレホ・サバレタ,ルムアルド・グティエレスにひきいられた先住民が武装蜂起.スペイン人民兵軍により鎮圧される.

84 ペルーにインテンデンシア制導入.コレヒドールは消滅.アルトペルーにはラパス、コチャバンバ、ポトシとチュキサカの4つのインテンデンシアが設けられる。

85年 保守派のテオドロ・デ・クロワが副王に着任。啓蒙思想、自由思想の本を押収・焼却する。

87年 スペイン政府、クスコにアウディエンシアを開設。高地地方の住民の監視を強化。

90年 サンカルロス大学の校長となったトリビオ・ロドリゲス・デ・メンドサ、ひそかに学生に自由主義思想を教授する。

1791年

1.02 パキハノ、イポリト・ウナヌエらが主宰する愛国者協会、「メルクリオ・ペルアーノ」誌を発行。進歩派の拠点となる。

91年 エクアドルのリタ(Lita)で、ミタに対する先住民の反乱が起こる。

96 チリのアラウコ族鎮圧に功績を上げたアイルランド人アンブロシオ・オヒギンス,ペルー副王に就任(息子のベルナルド・オヒギンスはチリ独立の英雄となる).

96年 ペルーの人口は108万人まで減少。スペイン人侵入直前には1600万人が住んでいたとされる。白人が14万、メスティソが約30万、原住民は約60万人とされる。首都リマの人口は5万人余り。

97 イエズス会神父ビスカルド,「アメリカ生まれのスペイン人に与える手紙」を発表,クリオーリョを独立運動に立ち上がらせようと呼びかける.政府はビスカルドを追放.

 

ペルー年表 その2

 

1800年

06 アバスカル,ペルー副王に就任.

07年 ナポレオン、ポルトガルを征服。ポルトガル王室はブラジルに移る。

08年 ナポレオン、スペイン国王フェルナンド7世を退位させ、自らの兄ジョセフをスペイン国王にすえる。

09.7 (ボ)チュキサカ(旧ラプラタ)で独立をめざす蜂起.メスティソの軍人ペドロ・ドミンゴ・ムリリョらがクーデターを起こし、政治委員会を結成。独立宣言を発する.ムリリョは処刑される.その後アルゼンチンの独立軍は三次にわたり支援軍をおくるが,スペイン軍により鎮圧.独立戦争の全期間を通じて王党派の牙城となる.

09年 リマの貴族リバ・アグエロ(Jose Mariano de la Riva Aguero y Sanchez)、スペインより帰国し独立運動を開始。翌年には逮捕され国外追放となる。

1810 アバスカル,1,500の正規軍と4万の民兵を組織.クスコとアレキパで発生した独立派の反乱を鎮圧.さらにキトとサンチアゴの独立政府を撃破.

11年 ラパスでマヌエル・カセレスが反乱。アバスカル副王の要請を受けたプマカワが反乱を鎮圧。

マテオ・ガルシア・プマカワ: メスティソでクスコ近郊チンチェーロの首長(クラカ)をつとめる。トゥパマルの反乱に際しては、スペイン側についた20人の首長の一人。クスコのアウディエンシア議長に任命されたが、クリオ−ジョたちにより罷免される。

1812.2 副長官によるインディオ虐待や,タバコなどの自由栽培の禁止に抵抗しワヌコで反乱.指導者クレスポはスペイン人追放運動に発展させるが敗れ処刑される.

1813年

6 ブエノスアイレス解放の英雄ベルグラノ,第2回のアルトペルー遠征に出発.

10.1 ベルグラノ軍,ビルカプーギオのたたかいに敗れる.次いで11月にはアヨウーマでも惨敗,軍はほぼ崩壊する.ペスエラのひきいる副王軍,国境の町ツピサに司令部を置き,フフイからサルタまで侵入.ベルグラノ,アルバレス・アレナレス大佐をコチャバンバの総督兼司令官に,イグナシオ・ワルネスをサンタクルス・デラ・シェラの総督に任命.抵抗継続を命じる.サンマルチン,ベルグラノの副官として就任.

1814年 プマカワの反乱

5.24 (ボ)アルトペルー総司令官ペスエラ,ブランコの軍をサンタクルスに派遣.サンタクルスを占拠したあと,アレナレス=ワルネスの部隊を追撃.アレナレス,フロリーダに副王軍を迎撃,これを殲滅する.副王軍はサンタクルス,およびサルタから撤退.

8月 クスコのカビルド内改革派、スペイン人が支配するアウディエンシアの乗っ取りを計画。計画は未然に露見するが、ホセとビセンテのアングーロ兄弟が脱走に成功。チンチェーロのプマカワ(当時77才)に支援をもとめる。

11月 ホセ・アングーロ、クリオージョ民兵にプマカワの農民軍を加え三部隊を編成。一部隊は南方のプノとラパス、一部隊は北方のウアマンガ(アヤクチョ)とワンカベリカ、プマカワの指揮する一部隊はアレキパを攻撃。一時占拠に成功する。

1815年

5月 プマカワの反乱軍、シクアニの戦いでホアン・ラミレスの率いる政府軍に破れ、処刑される。(一説では3月4日)

11.29 (ボ)独立派の蜂起.支援に出たロンデウ指揮下のラプラタ遠征軍,副王アバスカルの軍とチュキバンバを中心に戦闘状態となるが,シペシペで惨敗を喫する.独立派は壊滅,指導者は全員処刑される.

15年 アバスカル,副王を退任.後任にアルトペルーの英雄と呼ばれるペスエラ将軍が就任.ラセルナがアルトペルー総司令官に就任.

16.1 アルゼンチンに雇われた英国人ブラウン船長,海路カリャオ,グアヤキル港を襲撃.

1817年

1 サンマルチン,チリ亡命者を加え約5千の兵をひきいアンデス越えを開始.

2 サンマルチン,チカブコの戦いでスペイン軍を破る.

18.3 スペイン軍反攻.カンチャ・ラヤダのたたかいでサンマルチン軍を破る.3週間後にはマイプーの戦いに敗れ撤退.共和国執行議長オイギンスはペルー解放を目指し,軍艦7隻を購入.英国人トマス・コクラン提督に指揮を依頼.サンマルチンは,ペイレドン政権が倒れ後ろ盾を失うが,帰国命令を拒否し,チリの支援の下,ペルー進攻計画を続行する.

1820年:サンマルティンのリマ征服

8.20 サンマルチン,コクランを従え,米国より購入した戦艦7隻など16隻,4千5百の兵士などからなる遠征隊を編制.バルパライソを出撃.

9.7 サンマルチン軍,リマ南方160キロ,ペルー南部のチンチャ地方ピスコ港に上陸.6週間にわたり滞在し、ペルー政府と交渉する一方、敵情を視察。

20年10月

10.1 リマ南方のミラフローレスで休戦会談.副王側がスペイン憲法の受入れと,遠征軍のチリ帰還を条件としたために,交渉は決裂.

10.5 休戦期限切れ.会談は決裂し、サンマルティンは中部海岸のアンコン、ワチョに進出。アレナレスの別動隊は,高地の独立勢力との連携を求め、アンデスを越え高原地帯へ向かう.

10.9 コロンビア北部のグアヤキルで、クリオージョと結びついた軍の一部による反乱成功.ボリーバルとサンマルチンの保護下に独立を宣言.

10.24 サンマルチン,ペルー新共和国の国旗と紋章を制定.

10.25 サンマルチン,ワチョを出港しカリャオに向かう.

10.29 サンマルチン,カリャオ封鎖作戦を開始.

10.31 アレナレス隊,高原地帯に入りウアマンガの町を占拠.

20年11月

11.4 コクレイン提督,カリャオ港に侵入し,フリゲート艦エスメラルダ号の乗っ取りに成功.エスメラルダ号は当時、スペイン太平洋艦隊の中で最強の軍艦とみなされていた。

11.17 サンマルチン,カリャオ北方のウアチョに上陸,ウアラに陣を定める.

11.29 サンマルチン,7万の人口を擁するウアイラス県の解放に成功.

12.6 アレナレス軍,ハウハを落としたあとパスコで王党軍を撃破.オライリー将軍らを逮捕.ウアラへの連絡路を確保.

12.29 トルヒーヨ県知事のトーレ・タグレ侯爵(ホセ・ベルナルド・デ・タグレ),王党派の反対を押切りサンマルチン政府への合流を決定.チャンカイ以北の北部海岸地帯はすべてサンマルチン軍の手に落ちる.

1821年

1.5 サンマルチン,ウアラからレーテスに進出しアレナレス軍との合流に成功.ビジャールはゲリラ隊を組織し,リマ近郊でサボタージュを繰り返す.副王軍総司令官ラセルナ,参謀長カンテラックはなんら有効な反撃が出来ず,支配層に不安高まる.

1.28 ラセルナ,クーデターによりペスエラ副王を放逐,みずから副王となる.カンテラックが司令官に,バルデスが参謀長に昇格.

5 両軍交渉再開.カリャオの明け渡し,20日間の休戦で合意.

5.23 アレナレス,山岳地帯に再侵入.タルマとハウハ,ウアンカイヨをあいついで確保,全面戦に備える.

6.2 サンマルチンとラセルナ,プンチャウカで会談.サンマルチンは,スペインの王家から王を迎えること,それまでの間ラセルナを大統領,王党派と独立派から1人づつの副大統領により摂政府を創設すること,本国との交渉にはサンマルチンがあたることを提案.

7.9 休戦期間の期限切れにともない,副王はモンテミラ侯爵に全権を依託しリマを撤退,南方のカニェテに本拠を移す.その後あらためてクスコに陣を構える.市会はサンマルチンの入市を許可.マルチン軍,リマを解放.

7.28 ペルー共和国独立を宣言.リバ・アグエロが“リマ知事”に就任。サンマルチンは護民官(プロテクタトール)の称号を受け最高司令官に就任.ラセルナの意を受けたカンテラック,バルデス,アルトペルー司令官のリカフォルトらは山岳地帯のウアンカベリカを確保,サンマルチン軍に対し抵抗を続ける.コクランは財産を奪うと戦線を離脱しチリに帰る.

独立宣言は奴隷制の廃止、先住民への労働徴発制度やさまざまな人身拘束を廃止、ケチュア語を公認し、先住民に一般市民としての権利を認める。しかし実際にはこれらの原則は無視され続けた。

8.04 ラセルナとカンテラック,ワンカベリカで合流.サンマルチンはアレナレスに山岳地帯からの退去を命じる.リマ支配層の革命不支持もあり,その後苦戦を続ける.

8.25 カンテラック,反撃に出てリマを襲う.サンマルチン軍の強力な反撃にあい,サンチェス大佐を失うなど大きな犠牲を出し,成果を上げることなく退却.

9.21 カリャオ要塞のラマル司令官,サンマルチンのすすめを受入れ降服.

12月 サンマルティンとベルナルド・モンテアグード、リマのクリオージョ有力者を集め秘密会議。ペルーに王制を樹立することで合意。トレ・タグレに暫定統治を委任する。リマの独立派指導者は、王制を支持するイポリト・ウナヌエらと共和主義者のサンチェス・カリオン派に分裂。

1822年

4 サンマルチン,ボリーバルとの会見を目的にグアヤキルに出る.不在を知ったラセルナは,ハウハのカンテラックとアレキパのバルデスに出動を命令.イカ地方を防衛中のトリスタン,ガマラ大佐の独立軍を攻撃.ペルー人主体の独立軍は,将校80名を含む1千名の捕虜を出して惨敗.

7.11 ボリーバル,サンマルチンに先行してグアヤキルに到着,同市をコロンビア共和国に併合すると宣言.

7.26 グアヤキルでサンマルチンと会見.サンマルチンはペルーにヨーロッパから皇帝を迎え入れる案を提示するがボリーバルは拒否.以後の解放闘争は,ボリーバルが指導することで合意. 4時間にわたる会見のあと,サンマルティンは即日リマに戻る.

7.29 サンマルチンの部下でペルーの統治を委任されたモンテアグード,失政を繰り返し国内混乱.ホセ・デ・ラ・リバ・アグエロ大佐ら軍内共和派は,トーレ・タグレあてにモンテアグード罷免を要求.市内が暴動状態となるなかで、トレ・タグレはモンテアグード罷免をせまらられる.

8.20 サンマルチンは急遽グアヤキルから引き帰す.国内は安定をとりもどすが,リマの支配層内に軍事支配に対する反感強まる.サンマルチンは,政務をトーレ・タグレに委ね,軍の育成に専念する.

9.20 第1回国会開催.サンマルティンは守護官を辞すると宣言,即日チリに向け旅立つ.アレナレスもあとを追い辞任し帰国.国会は3名よりなる行政委員会を指名。

12 アルバラードが指揮するリマの独立軍,イキケに進出するが,カンテラック,アルトペルーのペドロ・アントニオ・オラニェータの軍に敗北し,リマに逃げ帰る.

12月 アグエロら軍人は、議会に対し行政委員会を廃して軍部に全権を与えるよう要求。行政委員会はこれを受け入れる。

22年 この年、ペルー政府はロンドンで120万ポンドの借款。その大部分はイギリスへの貿易支払いと軍事費に消える。

1823年

2.26 アンドレス・デ・サンタクルスがペルーの議会に対して反乱。リバ・アグエロを大統領とするよう迫る。

2 リバ・アグエロ,評議員会を解散し、みずから初代大統領兼元帥となる.アンドレス・サンタクルスがペルー軍総司令官に就任。アグスティン・ガマラ大佐が総参謀長、ラモン・エレラ大佐が陸軍大臣に就任。

3 ラセルナ副王の率いるクスコのスペイン軍、リマの奪回を目指し攻撃を開始。リバ・アグエロらペルー軍事政権はボリーバルに軍事援助を要請.

3月 ボリーバルはアグエロの要請に応じ、全面的な援助を約束.スクレの率いる6千の軍を派遣.

4 リバ・アグエロ,サンタクルス将軍にアリカから高原地帯を攻撃するよう指示.これに続きスクレ軍も出動,アレキパ攻略をめざす.

5月初め サンタクルス,チチカカ湖畔での戦闘でラセルナ軍に惨敗,リマに敗走.スクレ軍もなんらの成果を上げることなくリマに帰還.

5.14 カンテラックにひきいられた副王軍,リマを包囲し奪還作戦を開始.

6月 リバ・アグエロの率いるペルー政府と議会,リマを撤退し、カリャオに新たな拠点を構える。

6月 カリャオの議会、ボリーバルに全権を委任することを条件に直接援助を要請.ボリーバルはリマにむかう.

7.06 カリャオの議会、リバ・アグエロを罷免する。トーレ・タグレ(Jose Bernardo de Torre Tagle)が復活し大統領に就任.スクレに全権を託す。スクレに追放されたリバ・アグエロはカリャオからトルヒージョに移り、別政権を立ち上げる。

9.01 ボリーバル,カリャオに到着.リマ市民の大歓迎を受ける.議会はボリーバルに全権委任. カンテラックはボリーバル接近の報に接し,たたかうことなくリマを撤退.

23年末 ボリーバルは結核の悪化のため長期療養を余儀なくされる.このためリマ北方のパテビルカに撤退,カリャオ防衛をアルゼンチン隊に委ねる.

1824年

2.12 スペイン軍がふたたびリマに入る。トルヒージョのリバ・アグエロら30人の将校は、これを見てスペイン軍への服従を表明。

4.4 カリャオのアルゼンチン防衛隊,給料不払いに抗議し本国帰還を要求して反乱.上官を逮捕し,王党派の捕虜を釈放.スペイン側に寝返る.

4 トーレ・タグレ大統領,王党派に寝返りリマを明け渡す.王党派のモネートはリマに無血入城するが,確保を断念.カリャオにロディル司令官を残しハウハに引き揚げる.ボリーバルはさらにトルヒーヨに撤退し体制建て直しにあたる.

5 ボリーバル、トルヒージョに赴き、リバ・アグエロの軍を傘下に加える。スペイン軍との対決の姿勢を明らかにし、反攻の準備に入る。指導権の喪失を恐れたリバ・アグエロは、ひそかに副王軍との和解を求めた。これが露見して反逆罪に問われ、チリに追放される。

5 コロンビアから3千の援軍を受けたボリーバル,トルヒージョで1万の部隊を再編成.反撃を開始.

6 王党派に内紛.アルトペルーのオラニェータがラセルナへの服従を拒否.ラセルナはバルデスをアルトペルーに送り攻撃.

8.02 ボリーバル,トルヒージョからアンデスを越え北部高地のセロデパスコ(一説にワマチューコ)に出る.この後アンデス山中を南下しリマに向かう.

8.06 フニンでボリーバル軍とハウハの副王軍8千が対決.ボリーバル軍はコロンビア軍6千とペルー兵3千の寄せ集め部隊だったが、騎兵隊の活躍により王党派軍の主軸カンテラック軍を撃破.副王軍は本格対決を避け,副王の居るクスコに退却.ボリーバル軍はクスコから240キロのアンダワイラスまで進出.ボリーバルは本隊をスクレに委ね,リマ周辺に進出.

10 副王ラセルナの率いる9,300のクスコ軍,ウァマンガに進出し,ボリーバル軍とスクレ軍との分断を図る.

12.09 クスコに陣取る副王ラ・セルナ,1万の兵をウァマンガ近くのアヤクーチョ荘園に進出させ,スクレ軍5,700と対決.二時間にわたる決戦の末スクレ軍が勝利.王党派軍を壊滅においこむ.ラセルナは負傷し捕らえられる.副王軍は無条件降伏し,南米独立派の勝利が確定.王党派の死者1,400名,独立派も700人が死亡.

12月 ボリーバルがふたたびリマに入る。首都を占拠していたスペイン軍はカリャオに移り、サンフェリペ砦に立てこもる。

24年 この年、リマには250人のイギリス商人が住み、20の商社があった。そのほかアレキパ、イカにもイギリス商人が進出。

1825年

2.18 ボリーバル,ペルー大統領の辞任を申し出るが,議会により拒否.その後サンタクルスがボリーバルの下で大統領代理をつとめる.

4 スクレ、さらにアルトペルーに進出。王党派のオラニェータ将軍とのあいだに,ツムスラの戦い.スペイン軍は敗れ,最終的に放逐される.

8.06 スクレ,オラニェータ派を排除し,チュキサカでアルト・ペルー議会開催.ボリビア共和国の創設を決定.

25年 この年、ペルー政府はロンドンで二度目の借款。60万ポンドが集められたが、政府の財政危機はおさまらず。

1826年

1.23 1年あまりにわたり,カヤオ要塞にたてこもり抵抗を続けたロディル,ボリーバルに降服.スペイン軍は最終的に一掃.当初6千を数えたスペイン兵は、このとき367人に減っていた。

5.25 ボリーバル,スクレに対しボリビア共和国の承認を通知.ペルーとボリビア国内の保守派は、両国の分離に強い不満を抱き、「大ペルー」の形成を主張。

6 パナマでアメリカ大陸諸国会議開催.連合同盟を呼びかける.グラン・コロンビア,中米連合,ペルー,メキシコの4ヵ国が参加.他の諸国はボリーバルに対する警戒感から参加を拒否.

8 アルト・ペルー,ボリビア共和国として独立.ボリーバルが名目的に初代大統領をつとめたあと,スクレを終身大統領に選出.チュキサカを首都と定めスクレ市と改名.スクレ,インディオの労力徴発禁止,教育の世俗化など,リベラルな政策を打出す.

9月 ボリーバル、リマを発ち、ボゴタに戻る。離任にあたりラパス出身のアンドレス・サンタクルスを首班とする政治評議会に政権を委託する。

26年 ボリーバルの下で最初のペルー共和国憲法が制定される。読み書きできる25歳以上の、職業を持ったペルー国籍の男性に参政権が与えられる。この結果、先住民と黒人は政治の枠外におかれることになる。

1827年

6.04 新憲法議会が開催される。議会での投票で、グアヤキル出身のホセ・デ・ラ・マル(Jose de la Mar)が58票を獲得。27票のサンタクルスを破り、大統領に選出される。マルは反ボリーバルの立場を明確に打ちだす.ボリビアにたいし独立を認めず干渉開始.

4月 オラニェータを先頭とするボリビアの保守派は、クスコを根城とするカウディージョのアグスティン・ガマラ(Gamarra)将軍と内通。スクレ打倒を計画.チュキサカで武装反乱。

5.28 オラニェータと内通したガマラ軍5千人がボリビアに侵入しラパスを占領.スクレのコロンビアへの帰国とペルー連合を目指す新憲法の制定をもとめる。

9月 スクレ暗殺計画が発覚。状況に絶望したスクレは、大統領を辞任しベネズエラにもどる.

27年末? ガマラ将軍、ボリビアからの帰途アレキパを訪問。アレキパを根城とするカウディージョのグディエレス・デ・ラ・フエンテと会談。この会談にはサンタクルスも参加。デ・ラ・マル大統領の追放、ペルー・ボリビア連合の形成で意見が一致。

1828年

5.17 デ・ラ・マル大統領、グアヤキルの帰属を巡り大コロンビアに宣戦布告。デ・ラ・マル自らが出陣する。

6.03 ボリーバル、グランコロンビアからの分離を唱えるペルー、ボリビアに対して開戦宣言。スクレがコロンビア軍の司令官に任命される。

1829年

2月 ペルー軍、一時グアヤキルを占領する。その後高原地帯に向かい、クエンカ奪取を狙うが、ポルテテ・デ・タルキの会戦でスクレ将軍に敗れ撤退.

2月 ガマラ、撤退中のホセ・デ・ラ・マル大統領を襲い、辞任を迫る。デ・ラ・フエンテはアレキパからリマに進出し、副大統領を追放する。

8月 両者の合意によりガマラが大統領、デ・ラ・フエンテが副大統領に就任。議会はこれを承認。デ・ラ・マルは国外に追放される。ガマラは4年間にわたり17回の反抗を抑えつけ,政権を維持することに成功.

29年後半? ボリビアで自由主義独立派がオラニェータ派に勝利.サンタクルス,ボリビアにまねかれ大統領に就任.

29年 サンタクルスとガマラとの会談。ペルーとボリビアの分離が誤りであるという認識で一致。しかしガマラがペルーへの完全併合を主張したのに対し、サンタクルスはボリビアの大幅な自治を主張。

29 ベネズエラで大コロンビアからの分離運動さかんとなる.

30.12 ボリーバル,ボゴタを離れヨーロッパに去る途中チフスにより死亡.後継者のスクレも暗殺される.大コロンビアよりベネズエラとエクアドルが分離する.大コロンビアは,ヌエバ・グラナダに名称復帰.

30 サンタクルス、強権をもってボリビア経済を建てなおす.

31.8 ガマラ大統領、連合に消極的なサンタクルスに立腹し、ボリビア侵攻の構えを示す。チリの仲介によって戦争は回避され、平和友好条約が結ばれる。

33年 新議会が成立。すでに任期の切れたガマラの退陣を求める。ガマラはこれに応じ、腹心のペドロ・パブロ・ベルムデスを後継者に推す。

33.12 議会、自由党のルイス・ホセ・デ・オルベゴソ(Orbegozo)将軍を新大統領に選出する。ガマラは新政府に対抗する構えを見せるが、軍と市民の主力が離反したことから政権維持を断念。

34.1 ガマラ、ベルムデスとともにクーデターを起こし政権を奪取。背後で「女元帥」と呼ばれるガマラ夫人が糸を引いたとされる。その後自由主義者の反乱により政権崩壊.ガマラらは国外に亡命、オルベゴソが権力を回復する。

1835年

1月 保守派がカジャオで反乱を起こす。オブレゴソはフェリペ・サンティアゴ・サラベリ将軍(Salaverry)を送り鎮圧。サラベリはカジャオの知事に任命される。

2.23 サラベリが反乱を起こし首都を制圧。オルベゴソ大統領を放逐し「共和国最高元首」を名乗る。ガマラはサラベリと手を組み復権。ペルー南部はリマの新政権への不服従を表明。

2月? フェリペ・サラベリ、チリとの友好・通商・航海条約条約に署名する。

4月 サラベリ、南部に向け支配域を拡大。サンタクルスにも協力を求める。オルベゴソはわずかの手勢とともに北部高原に逃れる。(一説によればボリビアに逃れ,サンタクルスとともに復権を狙う)

35年末? ガマラ、サラベリの支援を受けボリビア攻略を目指す。サンタクルスはこれに対抗し積極的な反撃作戦を開始する。ボリビアの大統領にはホセ・ミゲル・デ・ベラスコ将軍が就任.

1836年

2.07 サンタクルスの率いるボリビア軍がペルー南部に侵入。サラベリはガマラを国外に追放し、自ら軍を率い南部に進出。アレキパ近郊ソカバーヤ(Socabaya)でボリビア軍に殲滅される。(一説では、アレキパに引退したサラベリをボリビア軍が追撃したとされる)

2.10 敗走中のサラベリがボリビア軍のミラー将軍に降伏。ミラーはサンタクルスに身柄を引き渡す。サンタクルスはサラベリに銃殺刑を宣告。ただちに執行される。

2.14 オルゴベソ、サラベリがチリと結んだ友好・通商・航海条約条約の無効を宣言。これを機にチリとのあいだに「関税戦争」が始まる。ペルーはチリに再交渉を迫るためチリ産小麦への関税を250%引き上げる。これに対しチリもペルー産砂糖の関税を同率引き上げ。

3.17 「南ペルー共和国」が創設される。首都を太平洋岸のタクナにおく。インカの道路網を再建し外国との交易を振興する計画。

3月? チリの保守党政府,ガマラ将軍らを受け入れる。

6月 サンタクルス、チリの反政府勢力を支援。ラモン・フレイレ前大統領のひきいる部隊がペルーから海路チリに侵入し、アンクードの町を占拠。

7.28 フレイレを乗せたスループ帆船オブレゴソ、護衛艦モンテアグードによって拿捕される。フレイレはアンクードで捕らえられサン・フェルナンデス島の監獄に送られる。最終的にはオーストラリアに追放される。

8.11 ペルー北部もサンタクルスが制圧。「北ペルー共和国」を宣言。大統領にオルベゴソが就任。サンタクルスを「最高守護官」に推戴。(一説では北が3月で、南が8月とされる)

8.21 ポルタレス、スペイン人傭兵Victorino Garridoに二隻の小艦をあたえ、カリャオ港奇襲作戦を命じる。ガリードは港内に潜入し、停泊中のペルー軍艦三隻(Santa Cruz, Arequipeno and Peruviana)を拿捕する。この三隻は事実上ペルー海軍の全戦力だった。

10.28 南北の「ペルー共和国」とボリビアが連邦(Confederacion)成立を宣言。米英仏三国はこれを承認.リマには首都を奪われたことについて強い不満が巻き起こる。

サンタクルスの施策: サンタクルスは三人の「臨時大統領」の上に立つ「最高守護官」(プロテクタドール)に指名される。その地位は終身および世襲とされる。独裁的な権力を集中させる中で、法治国家としての整備を図り民法、刑法、商業取引法、関税規則を制定し租税取立て体系を整備する。

10月末? チリの全権使節マリアノ・エガーニャ、サンタクルスの要請を受けペルーを訪問。ペルーの対チリ債務の支払い、軍備制限、フレイレの侵攻による被害の補償、ペルー・ボリビア連合の解体を要求する。サンタクルスは他のイシューについては前向きに応えるが、連合解消については拒否。

11.11 チリのプリエト大統領、ペルー・ボリビア連合に対し宣戦布告(一説に12.28).国内に戦時事態令を発令。しかしチリ世論は戦争に賛成せず、実際の戦闘開始は遅れる。この時点でアルゼンチンとエクアドルは中立を守る.

1837年 

37年初め チリ議会で戒厳法が承認される。戦争継続のため全市民が統制の下に置かれる。野党はいっせいにこれに反発。プリエト=ポルタレス独裁への非難キャンペーンを集中。

5.09 アルゼンチンのロサス大統領も宣戦布告。サンタクルス軍,アルゼンチンの派遣軍を破る.

6.04 Maipo連隊の司令官ビダウレ(Jose Antonio Vidaurre)大佐、キジョータ兵営を視察に訪れたポルタレスを幽閉。バルパライソに向け出撃。バルパライソ防衛にあたるエンカラダ提督は港外でビダウレ軍を撃破。サンチアゴでは反乱部隊が期待した決起はなかった。

6.06 マイポ連隊の指揮を務めたサンチアゴ・フロリン大尉はポルタレスを殺害。

6月 政府はマイポの反乱をサンタクルスの陰謀と糾弾。チリ国内の世論は一気に強硬化する。戦争は神聖な正義となり、ポルタレスは殉教者となった。

8.21 「北ペルー共和国」の大統領にLuis Jose Orbegoso元ペルー大統領が選出される。

9.17 「南ペルー共和国」ではラモン・エレラ(Ramon Herrera Rodado)が大統領に任命される。ラモン・エレラはチリ人でペルー独立戦争に参加、サンタクルスの副官をつとめていた。

9月 チリ政府、2800人の遠征軍を編成。指揮をマヌエル・ブランコ・エンカラダ副提督と英国人ロバート・シンプソンにゆだねる。

10月 チリによる第一回目のペルー侵攻。陸戦隊が南部ペルーのイスライ(Islay)に上陸。長い行軍の末、アレキパを占領する。この間兵士の多くが病に倒れる。

10月 サンタクルスの軍がアレキパを包囲。アレキパ近郊のパウカルパタで遭遇戦となり、チリ軍は敗退。

11月 連合側の三隻(Socabaya, Confederacion and Congreso)からなる艦隊が出撃。最初にファン・フェルナンデス基地を襲撃。囚人を解放する。その後タルカワノ、サンアントニオ、ウアスコ、カルデラの港を攻撃。

11.17 パウカルパタでチリとペルー・ボリビア連合が停戦協定。チリはこの間捕獲した全船舶の返還、ペルー領土からの撤退、両国の通商関係の回復を認める。同盟側はペルーの対外債務を引き継ぎ返還を続けることを認める。(サンタクルスの交渉能力はすごいです)

12月 エンカラダ提督がバルパライソに戻る。チリ議会はパウカルパタ条約の批准を拒否。エンカラダを反逆罪で捕らえ収監。これを知った遠征軍法律顧問アントニオ・ホセ・デ・イリサリはチリに戻らずに亡命。

1838年

1月初め チリ政府、ふたたび艦隊を派遣。ロバート・シンプソンの指揮下に5台の戦艦から成り、ペルーの通商ルートを裂くことを狙いとする。

1.12 イスライの海戦。フアン・ホセ・パニソの率いる同盟軍のSocabaya, Junin and Fundador号が、シンプソンの艦隊と衝突。劣勢の同盟軍は夜になって脱出に成功。双方に確たる戦果なし。その後、半年間でチリ海軍が同盟側を圧倒するようになる。

7.30 オブレゴソ大統領、北ペルー共和国のペルー・ボリビア連合からの脱退を表明。共和国暫定大統領の地位には留まる。

8.01 リバ・アグエロ、サンタクルスの要請を受け、「北ペルー共和国」の大統領に就任。

8.06 チリ軍が北部ペルーのアンコンに上陸。部隊は総勢6千人。内ペルー人が600人を占め、「回復軍」を称する。マヌエル・ブルネス・プリエトが総指揮官を務め、ペルー人部隊の指揮をアグスティン・ガマラ、ラモン・カスティヤ、デ・ラ・フエンテらがとる。

8月 アンコンの部隊、地方を平定しつつリマに向け南進を開始。チリ艦隊はカジャオ港の封鎖作戦に入る。同盟軍は待ち伏せ攻撃など散発的な抵抗に止め、リマ死守の体制にはいる。

8.21 Portada De Guiasの戦い。リマ近郊に迫ったチリ軍と同盟軍が最初の本格的な遭遇戦を交わす。チリ軍がオブレゴソ派の守備隊を撃破する。

9.01 オブレゴソが暫定大統領を辞し、アグエロ政権に移行。

10.31 チリ軍がリマを占領。リマの指導者は会議を開き、ガマラを暫定大統領に推す。

11.03 サンタクルス軍接近の報を得たチリ軍は、いったんリマを撤退。海路・陸路を経由してウアチョに入る。

10月 「南ペルー共和国」の「大統領」、Juan Pio de Tristan y Moscosoに交代。

1839年

1.06 ブイン(Buin)の戦い。サンタクルスの本隊がチリ軍三個大隊とブイン川にかかる橋を挟んで戦闘。サンタクルス軍は優勢に戦いを進めたが、防衛線を突破できず、撤退を迫られる。

1.12 同盟軍艦隊とチリ艦隊がカスマ港で最後の決戦。フランス人ブランシェ(Juan Blanchet。corsairsと書かれているのでならず者の雇い兵か?)の率いる同盟軍艦船(Esmond, Mexicana, Arequipeno and Peru)が、港内に停泊中のチリ軍輸送船団を襲撃。シンプソンの率いるチリ艦隊により撃退される。この戦闘でブランシェは戦死、同盟側の海上戦力は消滅。

1.19 サンタクルス軍、リマの北方アンカシュ州ジュンガイの町を制圧。リマとウアチョを結ぶチリ軍の補給船切断を狙う。

1.20 ブルネスの率いるチリ軍が反転攻勢。ユンガイ郊外Pan de Azucar丘を確保したサンタクルス軍に戦いを挑む。早朝から始まった戦闘は夕方遅くまで続き、同盟軍は2,400人の犠牲者と1,600人の捕虜を出し敗退。チリ軍も1,300人の死者と400人の負傷者を出す激戦だった。

1月 ツクマンのアルゼンチン軍も、ボリビアに侵入し,勝利を収める.ペルー=ボリビア連合崩壊.サンタクルスは失脚しエクアドルに亡命.その後ヨ−ロッパで客死。

4月 チリ軍、ウアチョから南進し、リマを占領。

8.25 アグスティン・ガマラ将軍が南北を併せた「ペルー大統領」に就任、連合の解散を宣言する。

1840年

10月 チリ軍がリマからの撤退を完了。

40 鶏糞(グアノ)の肥料としての有効性確認.以後最大の輸出産業に成長.

41年 ボリビア,三つの政府が鼎立するなど混乱.一部にエクアドル亡命中のサンタクルスを呼び戻す動き。ペルーの国家評議会、ガマラ大統領にボリビアボ鎮圧を命令。ガマラはひそかにボリビア併合をねらっていた。

41年11.18 ガマラ将軍、インガビ(Ingavi)の戦いに敗れ戦死.(一説に20日)ペルーでは,このあと3年間にわたる内戦が始まる.

42年 ペルーとボリビア、和平協定を結ぶ。

43 ガマラ亡き後3人の大統領が継ぐが、内政は混乱が続く。マヌエル・イグナシオ・デ・ビバンコ(Vivanco)が内戦に勝利し4人目の大統領となる.みずから「再生者」と呼んで,軍の支持をもつ独裁者になる.議会と憲法を無視し,恐怖政治を敷く.

44初め 南ペルーでVivancoに反対するラモン・カスティヤらが護憲軍を組織.ビバンコの不在を狙い,リマを制圧.

44.7.22 カルメン・アルトのたたかいで,カスティヤの護憲軍がVivancoに勝利.ビバンコは国外亡命.21年から45年までの24年間で政府は24回交替,憲法は6回にわたり改められる.

45.4 ラモン・カスティージャ(Castilla)将軍が内乱を平定し大統領に就任.62年まで政権を維持.カスティージャはフニン,アヤクーチョの闘いの英雄で,ガマラ政権で蔵相を勤めた.イギリスからの資本導入とグアノ開発により経済的にも安定.半独裁的統治の下で近代国家の機構を作り上げる.

45年 エクアドルのフアン・ホセ・フローレス元大統領、アイルランドに亡命。スペインのマリア・クリスティナ王女の支援の下に、エクアドルに王制を樹立しようと動く。南米諸国はペルーのカスティヤ大統領を中心に、スペイン王制の復活を阻止するため大陸同盟を結成。

47年 カスティージャ、リマにアメリカ大陸会議を招集。各共和国の独立と領土保全を保障し、外国からの干渉を拒否する同盟を結成。

47年 カスティージャ政権、フランス・イギリスの会社とグアノの輸出契約を結ぶ。グアノの輸出代金によりペルーの財政状況は一気に改善する。

48 砂糖農園の黒人奴隷,トルヒージョで反乱.街を一時占領.これを機に奴隷制廃止へ.

49 カスティージャ,「移民法」の枠を拡大し中国からの労働力の輸入を許可.以後5年間で9万人の中国人「苦力」(クーリー)がと呼ばれる下層労働者が入国.

一応契約移民の形式をとっていたが、事実上は奴隷の輸入だった。大部分は誘拐、強制によって拉致され、悪条件の下に船で輸送されて、ペルーに着くと契約書が売買されたから、人身売買に他ならなかった。
彼らは海岸の大農園、鉄道建設、グアノ採掘のために酷使された。8年間の契約期間を終えても、前借りで足を抜けない場合が多かった。

1851年

12月 リマ=カリャオ間に南米初の鉄道開通.

51年 カスティージャ大統領、任期を満了して辞任。後継者にエチェニケ(Jose Rufino Echenique)が選出される。

51年 ブラジルとのあいだに貿易協定締結。アマゾン川上流に汽船を配備し入植を奨励。キニーネとゴムの生産を拡大する。

54.12 エチェニケ政権、戦時補償を巡る汚職事件により動揺。これを強圧政策により乗り切ろうとする。カスティージャ前大統領,政権復帰を狙いアレキパで蜂起.若き日のカセレスも反乱に参加。

1855年

1.05 カスティージャ、蜂起にあたり奴隷解放と先住民の貢納制廃止を宣言.

1.07 カスティージャ、リマ近郊ラ・パルマの戦いで政府軍に勝利。 エチェニケ大統領は退陣しパナマ経由で米国に亡命。

2月 自由主義者を主体とする議会が成立。カスティージャが二度目の大統領に就任.任期のあいだに奴隷2万5千人を解放。奴隷一人につき200ペソ相当の国債が所有者に渡される。

56年 自由主義思想にもとづく新憲法が成立。教会の特権を制限、大統領の権限を弱めて、議会に軍人の進級や閣僚更迭の権限を与える。またペルーで初めて大統領を国民の直接選挙で選ぶこととなる。地方自治も一定の枠内で認められる。

56年 カスティージャ、サンチアゴで行われたアメリカ大陸会議に自ら出席。国の独立を侵す外国の攻撃には共同して抵抗する趣旨の大陸条約に署名。ニカラグアでのウォーカーの妄動に対応する動きとされる。

57 カスティージャ政権に対し、前大統領ビバンコら保守派がアレキパ、トルヒージョなどで反乱。戦いは二年にわたる。

57年 ポリネシアの島々の人々を誘拐し、ペルーに奴隷として売りつけるビジネスが始まる。奴隷狩りを受けた島々の荒廃が明らかになり、64年に中止される。

59.11.17 ペルーとエクアドルの間に国境紛争.

60年 カスティージャ、各地の反乱を平定。自由主義憲法を廃止して、大統領権限の強化と教会勢力との妥協を図る新憲法を制定。この憲法はその後60年にわたり効力を維持する。

61年 アマゾン流域にロレート県が創設される。イキトスを県都とし、ゴムやキニーネを直接アマゾン川を下るルートで輸出する。

1863年

4月 カスティージャの任期満了に伴い、軍事相のサン・ロマンが後継者に選ばれるが、病気により死亡。副大統領のペセト(Juan Antonio Pezet)が大統領に昇格する。

8.02 北部沿岸のヘケテペケ平野のサトウキビ農場で,バスク人移民労働者とペルー人農場主が紛争.農場主たちがバスク人を襲撃し死者1人、負傷者数人を出す.スペインは謝罪と補償を要求し特使を派遣.ペルーは特使受け容れを拒否.

63年 リマにペルー人の経営する三つの銀行が誕生する。グアノ、綿花、砂糖など輸出産業の急成長に伴うもの。リマの人口は10万を越え隆盛を極める。

1864年

4.14 スペイン、太平洋艦隊を増強。ホセ・マヌエル・パレハ海軍相が自ら艦隊を指揮しペルーに進出。

64年 リマで第二回LA諸国会議開催.ペルー,チリ,ボリビア,エクアドルのアンデス諸国は,スペインの脅威に対抗するため連合・防衛条約を締結.同盟してスペインに宣戦布告.条約そのものは各国の批准が得られず,集団防衛機構としては実現せず.

64年後半 パレハの率いるスペイン艦隊がチンチャ諸島を占領.ペルー側のマヌエル・ビバンコ全権特使とビヤ・デ・マドリ号艦上で交渉を開始。

1865年

1月初め パレハ、ペルー政府に対し最後通牒を突きつける。ペセト大統領はスペインの補償要求を認める決断。

1.27 チンチャでビバンコ=パレハ条約が締結される。チンチャ諸島に対するスペインの領有権を承認。島の返還のために300万ペソを払う.チンチャ諸島は島全体が30メートル以上のグアノの層で厚く覆われた「宝の山」だった。

65年 スペインとの条約をめぐり国内に不満が高まる。これに抗議するアレキパ県知事プラド将軍(Mariano Ignacio Prado Ochoa)は,「国家の名誉回復革命」を開始。

11.26 ペセト政権、全国的な反乱の中で崩壊。ペドロ・ディエス・カンセコが暫定大統領となり、プラドに全権がゆだねられる。

1866年

66年初め プラド、スペインに対して宣戦布告。すでにスペインと交戦していたチリと同盟を結ぶ。これについでエクアドル、ボリビアも宣戦布告。

5.01 スペイン艦隊、カリャオに進出し砲撃を加える。5時間の激闘でペルー軍総指揮官のホセ・ガルベス軍事相が戦死。スペイン側も甚大な被害をこうむる。

66 プラド将軍とアンデス連合軍は,数度にわたる戦闘ののちスペインを撃退.チンチャ諸島の再確保に成功.スペイン艦隊はチンチャ諸島をふくむペルー周辺から撤退しマニラに向かう。

66年 プラドを押し立てた自由主義急進勢力はリマを制圧。プラードが大統領に就任。プラドを押し立てた急進派は、大統領の権限を制限する新憲法を制定。

66年 カスティージャ、急進派政権に対し反乱。プラド政権を打倒し60年憲法を復活。反乱のさなかにカスティージャが急死する。

1867年

67年 リマを中心に黄熱病の大流行。スペイン人の多くがリマを離れ海抜2500メートルのアレキパに移住。

67年 海岸地帯での綿の生産が、アメリカの南北戦争による品不足を受けて急成長。輸出額は100万ドルに達する。

68年 ホセ・バルタ、チクラーヨでプラド打倒の旗を上げる。議会はプラドを罷免しバルタを大統領に選出する。バルタを支えた市民は民政党(シビリスタ)を創設。

民政党: カウディージョ政治に対抗して、グアノ産業を中心とする新興有産階級が形成した保守政党。民間人の支配確立を掲げたが、実際にはあれこれの軍閥と手を結んで権力を目指した。党としての正式の発足は72年大統領選挙に際してとされる。なおシビリスタの訳語はいくつかあるが、現代感覚の「市民」とは程遠いので、「民政党」と統一する。

69 バルタ、ピエロラを財務相に任命。財政再建を託す。ピエドラ,グアノの権益をフランスのドレヒュス社に独占させる見返りに資金を獲得する計画を推進.マヌエル・パルド・イ・ラバジェの率いる民政党は売国行為として激しく非難.

ピエロラ: フルネームはH.E. Don Jose Nicolas Baltasar Fernandez de Pierola y Villena。支持者からは "El Califa"と呼ばれた。アレキパの生まれで、名前の通り貴族の末裔。妻はメキシコのイトゥルビデ皇帝の落とし子といわれる。

69年 パルタ、「グアノを鉄道に変える」と称し、モイエンド=アレキパ間の鉄道建設など新規投資に力を注ぐ。財政再建を掲げるピエロラと激しく衝突。

69 小商人からなり上がったアイルランド移民ウィリアム・ラッセル・グレース,ニューヨークで汽船会社を設立.

70 ボリビアとチリとの中立地帯に銀山発見.爆薬の原料,硝石の世界的需要高まる.ボリビア領のアントファガスタ,ペルーのタラパカなどにチリ資本の進出ラッシュ.

1871年

7 ピエロラ、パルタの放漫政策に抗議し辞任。バルタ政権はピエロラが資金を不正使用したと非難するが、議会はこれを否定。

71年 大統領選挙。反教会主義と軍縮を掲げる民政党(シビリスタ)のマヌエル・パルド(Manuel Pardo y Lavalle)が勝利。パルタ大統領は自らの後継者が敗れたにもかかわらず、パルドの大統領就任を認める。

7.22 トマス・グティエレス軍事相、任期切れ間近のパルタ大統領を捕縛・投獄。自らが大統領の地位につくと宣言する。パルドの反軍傾向を嫌っての行動とされる。パルドはカリャオ停泊中の軍艦ウァスカル号に避難する。

7月 グティエレスのクーデターに対する民衆の抗議と暴動が拡大。カリャオの陸海軍はグティエレスを支持せず。退役してアヤクーチョに農場を構えていたカセレスは、パルドを支持して決起。 Zepita 軍団の司令官となる。

7月 民衆暴動、獄中のパルタ大統領を殺害。グティエレスとその兄弟はアルマス広場の大聖堂の塔からつるされる。

71 ペルー=スペイン戦争,米国の仲介により終結.

1872年(明治5年)

6月 横浜港でマリア・ルス号事件発生.中国人苦力を乗せたペルー船マリア・ルス号から中国人が脱走し,イギリス軍艦に助けを求める.

日本政府はマリア・ルス号を拘留。ペルー政府はこれに抗議して特命全権公使アウレリオ・ガルシアを派遣した。翌年交渉が成立し、両国間に和親通商航海仮条約が締結される。しかしその後の外交関係の進展はなかった。

8.02 グアノ産業の隆盛を背景に,マヌエル・パルドがはじめて文民政権につく.エリート・テクノクラートが初めて政治運営の主体を獲得。教育改革と教育制度の充実に力を入れる一方、常備軍を1/4に減らし民兵制度を採用。前者は教会の反発を招き、後者は軍の不満を助長する。経済的には外資の導入と積極的な経済政策をとるがまもなく破綻.

8.22 軍縮計画で退役させられた軍人がパルドを狙撃。パルドは難を逃れる。これと同時多発的にワンカヨ、アヤクーチョ、カンタ、アレキパなどでも軍の反乱が発生。背後にピエロラが存在していたとされる。

73.8 日本とペルー,マリア・ルス号事件解決を期に友好通商航海仮条約を締結.

73 ペルーとボリビア,鉱山資源に関する秘密相互援助条約を締結.「チリ帝国主義」に対抗し、タラパカ・リトラル両地方をチリの野望から守るための同盟とされる。

1874年

74年 ペルー政府、イキケのチリ硝石会社を接収,自ら開発に乗り出す.

74年 ドレイフェ商会とのグアノ採掘契約が満期を迎える。すでにグアノの価格は低下し残りの埋蔵量もわずかになっていた。

74年 ニコラス・デ・ピエロラがMoqueguaで反乱。カセレスの部隊により鎮圧される。カセレスは戦功により大佐に昇進、クスコ地区司令官となる。

75 税制難にあえぐパルド政権,自国内のチリ・英合弁の硝石会社を有償接収.これまで投資してきたチリ人の怒りを買う。

1876年

10月 チリ亡命中のピエロラが反乱を企てペルー南部に侵入。まもなく現地軍により鎮圧される。

1876年

8.02 大統領選挙。プラド将軍が、リサルド・モンテーロ提督を破り勝利、二度目の大統領に就任する。プラドはパルドの後継者とされるが、もともとは民政党に罷免された人物であり、まもなく経済運営を巡り支持母体の民政党と衝突するようになる。

76 グレース,ニューヨーク汽船会社を基礎にグレース商会を創業.グアノ貿易に成功したあと米国=ペルー航路を開拓・独占.米国資本のエージェントとして砂糖,石油などの産業を支配.

1877年

5.06 ピエロラ派の退役海軍大尉ヘルマン・アステテ、カリャオ停泊中の新鋭装甲艦ウァスカル号を乗っ取り南に向かう。陸軍士官の一部もこれに賛同して反乱の動きを見せる。

5月 ウアスカル号、パコーチャで英艦二隻(Amethyst and Shah)と海戦を展開。その後政府軍に降伏する。ピエロラは国外追放となりカジャオ、バルパライソを経由してヨーロッパに亡命。

78.11.16 パルド前大統領、軍縮計画によって昇進を妨げられた下士官により暗殺される。

1879年

2 チリ,アントファガスタに軍を出動.ボリビアはただちにチリに宣戦.(太平洋戦争関連の記事はチリ年表に一括)

4.05 秘密同盟にもとづきペルーも参戦.4年間にわたる「太平洋戦争」起こる.

12.21 ピエドラがクーデターを起こす。プラド派も激しく抵抗し、戦闘は3日間にわたる。

プラドはタクナ・タラパカの現地に飛び、ボリビアのイラリオン・ダサ大統領とともに実戦の指揮を執ろうとして。しかしそのための準備が決定的に不足していることを悟り、増援を求めリマに戻った。リマでの工作の後、兵器と資金の不足に悩んだプラドは、ラ・プエルタ副大統領に後事を託し、欧州へと旅立った。しかしこれは国民から裏切りと見られ非難された。プラドは戦争終了まで故国に戻らなかった。

12.23 ピエドラ派がプラド政権を打倒。ピエロラは自ら最高総司令官を宣言。リマ市内を確保した後、報道機関などの弾圧を開始。エル・コメルシオ紙は3年間にわたり発行を禁止される。軍のプラド派は一掃され、軍事能力よりピエロラへの忠誠度を基準にした人事が行われる。この人事でカセレス将軍(Andres Avelino Caceres)やモンテロ提督(Lizardo Montero)は冷遇される。

80年 海岸地帯でのサトウキビ生産が急成長。輸出額が1千万ドルとなり、20世紀初めまで世界一の生産量を誇る。


ここから太平洋戦争の後編

1881年

1月 チリ,リマを制圧.リマに残留した議会、民政党のフランシスコ・ガルシア・カルデロンを大統領に選出。カルデロンは米国の支持を背景にチリとの和平交渉に臨む。ピエロラはアヤクーチョに司令部を置いて抵抗を続けるが、もはや全軍を掌握できず、当事者能力を失う。

1月 リマのフランシスコ・カルデロン、大統領を称し、主に民政党員よりなる議会を背景に、チリ側と和平交渉を開始する。カルデロンは米国の支持を背景に領土割譲を認めない態度をとり続けるが、米国のガーフィールド大統領が暗殺されたのをきっかけに、チリは交渉を中止し、カルデロンを逮捕してチリに連行。

4.26 カセレス、ハウハの政治・軍事司令官に任命される。農民を動員しチリの占領軍にゲリラ戦を挑む。Pucara, Marcavalle, Pucara again and Concepcionの戦いで、チリ軍掃討部隊を撃退。カセレスは「アンデスの魔法使い」(Brujo de los Andes)と呼ばれるようになる。

11.28 アレキパでピエロラに対する反乱。リサルド・モンテーロが大統領を自称する。カセレスもアヤクーチョで反乱を起こし、ピエロラを放逐。大統領を名乗る。

82 ペルー高地に侵入したチリ軍,掠奪を繰り返す.先住民はチリ軍に反撃しつつ土地を回復の戦いを進めようとする.封建的生産関係を維持しようとする大地主たちは,チリ軍と手を結び農民を弾圧するにいたる.

82年末 北部高地を中心とする軍閥代表がカハマルカに集まり、ミゲル・デ・イグレシアスを大統領に選出。三人の大統領が鼎立する事態となる。チリはイグレシアスをペルー共和国代表として承認。

1883年

7.10 カセレス将軍の率いる農民ゲリラ軍、Huamachucoの戦いで壊滅。このあと組織的な抵抗は不可能となる。

10.23 イグレシアス政権、リマ北方アンコンの町でチリとのあいだに講和条約を締結.翌年ボリビアも降伏.チリは戦いに勝利してアントファガスタの完全領有に成功,さらにペルーからタラパカ県をも獲得.タクナ,アリカ両県については,10年間占領した後住民投票により帰属を決定することとなる.結局住民投票は実施されず.チリは硝石資源を独占したが,実権は戦費を供給したイギリス資本の手に.

11月 カセレスはアンコン条約を認めず.7ヶ月間の内戦に発展.

1884年

6月 カセレスが降伏。アンコン条約を承認する。

8 チリ軍,ペルーから撤退.ピエロラ前大統領,国の近代化をめざし民主党を結成.反政府行動を開始.カセレスもリマで立憲党を結成し政治活動を開始する。

85 政府、財政難から農民への課税を強化。アンカシュ州ウアラスでは、ペドロ・パブロ・アトゥスパリアら14人の村長が増税と農民虐待に抗議。彼らは逮捕され髪を切られる。これに抗議する群集が牢屋を襲撃。村長らを解放し、当局者やイギリス人を追い出し、地主や商人の資産を略奪する。反乱は渓谷全体に拡大するが、数ヵ月後,政府軍により破られる.

ウアラス(Huaraz)地方: リマから400キロほど離れたウアラス地方は、当時孤立した世界であった。東をブランカ山脈、西をネグラ山脈がさえぎり、その間を流れるリオ・サンタ川が流れ、カジェホン・デ・ウアイラス(Callejon de Huaylas)渓谷を形成する。人々は伝統的に伸ばした髪を後ろで一つに編んでいた。
なお、アトゥスパリアはその後リマに出て民衆の英雄として扱われたという。

85.12 アンドレス・アルベリノ・カセレス将軍,反乱を開始.イグレシアスを放逐し権力を獲得する.その後,シエラの先住民反乱を鎮圧.反乱の指導者はかつてのゲリラ仲間ペドロ・パブロ・アトゥスパリア.(この記事は上の記事と大きく食い違っています。どちらかが正しければもう一方は間違いです)

86.7 カセレスが任期4年の大統領に就任。この時点で対外債務は5千万ポンド.これに対して年間歳入は7百万ポンドに満たなかった.

87年5月 カセレス政府、4千万ポンドの対外債務支払いを巡り、債権者団体の代表マイクル・グレイスとの交渉.債権者団体の作った「ペルー会社」が5千万ポンドの外債を引き受け、その交換に66年間ペルー鉄道の権益、毎年300万トンのグアノ採掘権、6つの港の自由使用、チチカカ湖の航行権、モンターニャ地方の40万ヘクタールの土地使用権を保障される。さらにペルーは33年間にわたり、毎年8万ポンドの返済の義務を負わされる。

89.7 カセレス、議会などの反対を力で押し切り、屈辱的なグレース協定に調印,国内主要産業の多くがイギリス資本の手に.

89年 クスコ生まれのクロリンダ・マット・デ・トゥルネル、インディオの悲惨な生活を描いた小説「巣なき鳥」を発表。ほかに「クスコ」伝説集も著している。

1890年

2月 高橋是清,カラワクラで銀山経営を試み,17名の日本人とともにペルーにわたる.鉱山は実際には廃鉱にすぎず,失敗に終わる.

7月 カセレスに代わり,同僚のレミヒオ・モラレス・ベルムデス大佐が大統領となる.金権政治と軍人支配に対する反対が強まる.

90年 海外の債権者,ロンドンでペルー会社を設立.7つの港の使用権と鉄道の敷設権を,ペルー政府から譲り受ける.債務をグアノの販売とカリャオ港の関税から受け取ることも確認される.

90年 ロンドン太平洋石油会社、ラ・ブレーア、パリーニャスの石油採決権を得て操業を開始する。

93 アンデス山脈を横切るカヤオ・オロヤ間の中部鉄道,20年にわたる工事の末米国人ヘンリー・メイグスにより完成.

94.7 モラレス大統領が死亡。カセレスは,副大統領の就任を拒み、みずから二度目の大統領に就任する.民主党を押さえ込むため,独裁的傾向が強まる.

94年末 元大統領ニコラス・デ・ピエロラ(Pierola)は、「人々は危険なとき、私の下に集まる」と「託宣」し、独裁者カセレスの追放を目指し反乱を開始。

1895年 95年革命と貴族制共和国

3月 ピエロラら、民衆層の動員に成功し,2日間の激戦の末カセレス政権を打倒。狂信的民衆は戦闘で1万人(1千人)の死者を出したといわれる。民政党もピエロラを支援。

9.08 大統領選挙。カセレスを倒したピエロラが自ら大統領につく.4310の有効票のうち4150票を獲得したという。この後、外国資本に従属する新興ブルジョアと高地の封建的大地主のあいだの「貴族的共和制」が成立.荒廃した経済が再建され、「貴族制共和国」の枠組みの下に、財政・軍事・宗教・市民生活の改革がすすむ。

ピエロラはかつての自由主義思想を捨て、大筋で民政党の政策を受け継ぐ。政府主導のインフラ整備を推進し、私企業の参加を通じて産業振興を行う。また徴税制度を改革し財政を安定化させる。また軍の旧幹部を排除し,フランス人顧問による軍の非政治的専門職業化に努力した.

95年 ピエロラを財政的に支えたギジェルモ・ビリングルス(Billinghurst)が副大統領に就任.

96年 この年、リマで登録された会社542のうち、451社が外国系企業だった。

96年 この年、ペルーで最初のストライキ。

1998年

4.09 タクナとアリカの帰属に関するチリとのプロトコールが成立。スペインのマリア・クリスティナの調停を仰ぎ、住民投票を行うこととする。チリの外務大臣ライムンド・シルバ・クルスとビリングルスト副大統領の間で覚書を交わす。

11.24 市民党と民政党が合同し、国民連合党を結成。大統領選挙に向け民主党のアレハンドロ・ロペス・デ・ロマーニャを候補とする。アレハンドロは推薦を辞退し、弟のエドゥアルドを推挙する。

98年 マヌエル・ゴンサレス・プラダ(当時50歳)、ヨーロッパから社会主義やアナーキズムの思想を持ち込む。労働運動と連帯し、インディヘニスモと呼ばれる先住民運動を支持して論陣を張る。

1899年

4.03 日本から最初のLAへの移民790人,佐倉丸でカヤオに上陸.海岸地帯のプランテーションで半奴隷労働者として,苛酷な労働を強いられる.

9.08 ピエロラ大統領が任期を満了して辞任。後任にはエドゥアルド・ロペス・デ・ロマーニャが就任。これに不満を抱くビリングルスは反乱を起こすが敗れる。

1900

00年 国民連合党が旧民主党派と旧民政党派に分裂。上院の多数を握る民政党がロマーニャ大統領と組んで、下院の多数を握る民主党と対立。

00年12月 リマ市議会選挙。民主党と連立与党・民政党(Civilistas)が分裂して選挙を戦い、民政党が勝利する。この評価を巡り民主党ロマーニャ派とピエロラ派(ニコラス前大統領の弟カルロス・デ・ピエロラ下院議長)が分裂。

1901年

01 チリ下院、タクナ・アリカに関する協定の批准を拒否。ペルーはチリとの国交を断絶。

01年 都市中産階級と知識人を基盤に反教会主義を掲げる自由党が結成される。党首にアウグスト・ドゥラン。

01年 リマでペルー最初の労働者会議が開催される。当時はスペイン・イタリアからの移民によってもたらされたアナルコ・サンディカリズムが主流となっていた。

02年 アメリカ資本によるセロ・デ・パスコ銅山の本格的開発が開始される。アマゾンではゴム景気が始まる。中心地イキトスは人口2万5千を数え、オペラ劇場ではサラ・ベルナールも公演。

1903年

4月 大統領選挙。@再選を図るピエロラの民主党、A亡命から戻ったカセレスの立憲党、B同じくチリ亡命から戻ったビリングルスの民政党、Cロマーニャ大統領と組んだ民政党、の四つ巴となる。カセレス派はピエロラ当選阻止のため民政党候補に乗る。この結果民政党総裁で上院議長のマヌエル・カンダモが勝利する。

7.14 カンダモが大統領に就任。翌年5月7日に急死。ふたたび各派が入り乱れる混乱が始まる。

04年8月 カンダモの急死によりやり直し選挙。民政党のホセ・パルド前外相(Jose Pardo y Barreda)が当選。パルドは暗殺されたマヌエル・パルド大統領の息子でサンマルコス大学教授、当時の進歩派を代表する人物。

9.24 パルドが大統領に就任。蔵相には実業家出身のアウグスト・レギア・イ・サルセドが就任し、40歳のパルドに影響を与える。

1907年

5.01 アウグスト・ドゥランの率いる自由党、民主党の一部も巻き込み反乱。まもなく鎮圧される。

5.25 大統領選挙。民政党のアウグスト・レギアが当選。第一次レギア政権成立.

09年5.29 ピエロラの弟と二人の息子(Carlos, Isaias and Amadeo)が徒党を組んで大統領宮殿に押し入り、大統領を拘束。リマの目抜き通りをレギアを引き連れてデモ行進。まもなく軍部隊に逮捕される。

09 ビリングルス,リマ市長に当選.労働者よりの施策を実行.(99年に反乱に失敗し国外亡命しているが、この頃は帰国していたのか?)

1911年

7月 米国人ハイラム・ビンガム,マチュピチュの遺跡を発見.

11月 サンマルコス大学の学生がレギアの強圧政策に抗議してデモ。警官隊の弾圧により1名が死亡。民主党の抗議に民政党の一部も同調する動き。

11年 ピエロラが死亡。以後民主党は力を失う。(一説に13年)

1912年

4月 大統領選挙を前にビリングルストがチリから帰国。改革の必要を訴え、労働者に大きなパンを配給すると公約。

5.25 大統領選挙。シビリスタは党内最保守派のAntero Aspillagaを候補に擁立。民主党がペルー最初のゼネストを組織して力を誇示する。

9.24 ビリングルスは,議会に強制し、アスピジャガの当選を阻止。自ら大統領に就任.

ビリングルス自身は硝石産業で財産を築いた大富豪であり、資本主義の擁護者だった。しかし資本家が譲歩しなければ労働者が放棄して資本主義体制は破壊されるという危機感を持っていた。

1913年

1.10 ビリングルスト政権、カヤオの港湾ストと8時間労働制を認めることで妥結。

1.17 ビリングルス、組合結成、ストライキ権、団体交渉権などを認める労働法を議会に提出。議会の反対に対し,労働者の力を背景に大衆動員により対抗、野党を力で押し切り可決。さらに公教育の拡大などの施策を打出す.

13年 ビリングルスト政府、高原地帯の先住民の生活を調査する特別調査官を現地に派遣。大地主の虐待の実態が明らかになる。議会は調査官が農民放棄を扇動していると非難。

13年   大衆を扇動して圧力をかける方式に反発し、議会で民政党、立憲党、自由党が反リビングルストで結束する.Javier y Manuel Prado Ugartecheを中心とするシビリスタ党保守派は軍と結びつきクーデターを画策。

1914年

1月 議会、ビリングルストに対する弾劾審理を開始。ビリングルストは労働者を武装させ、議会を強制解散すると脅迫。

2.04早朝 ビリングルスの扇動政治に反感を持つ参謀総長オスカル・ベナビーデス大佐らによる軍事クーデター.ビリングルスはまもなく亡命先のチリ(イキケ)で死亡.

2.04午後 議会は文民、軍人よりなる評議会を設置。1年後の民政移管を前提として、ベナビデスを大統領に任命する.

5.15 ベナビデスが臨時大統領に就任。

7月 第一次世界大戦が始まる。ペルーは当初中立を守る。外国貿易は減少し、国内経済は沈滞する。

8月 パナマ運河が開通。ヨーロッパや米国東海岸へのアクセスが容易となる。

1915年

8月 ベナビデスの任期が満了。オリガルキーを代表する民政党のホセ・パルドが大統領に当選.立憲党、自由党もこれを支持。

11.11 南高地でプロテスタントの布教団が暴行を受ける。政府はカトリック以外の信者にも礼拝の自由を認める法案を提出し議会で可決される。

15年 マレーシアでゴム栽培が始まり、アマゾンのゴム景気は終焉。

16年 ロンドン太平洋石油会社、石油採掘権をニュージャージー・スタンダード社に売却。政府は採掘地域が認可の範囲を超えていることが判明したため、契約解除を国際法廷に求める。

16年 最低賃金法が議会を通過。あまりに低水準のため労働者の反発を招く。

17年 サンマルコス大学を中心にペルー学生連合が結成される。

18年6月 マリアテギ、Cesar Falcon and Felix del ValleとともにNuestra Epocaを創刊。「社会主義の宣伝・組織委員会」を結成。青年将校のグループはマリアテギを「悪い傾向」と攻撃する。

1919年

1.15 リマとカリャオで、飢餓に反対し8時間労働を求める3日間のゼネストが行われる。パルド政権は軍によりこれを弾圧するが、8時間労働制を受け入れる。このゼネストを機にペルー地域労働者連合が設立される。(一説に6月)

5.18 大統領選挙。ロンドンから帰国したレギアは、カセレスやドゥランの支持を受け、民主党、立憲党支持層にも食い込む。民政党はふたたび超保守派のアスピヤガを候補に立てるが惨敗。

5.27 物価統制と大学改革をもとめる労働者と学生が、2回目となるゼネストを起こす。パルドは軍を出動させ、デモ参加者3千人を逮捕する。

5月 左翼系雑誌「ラ・ラソン」を発刊。ストライキを支持し社会主義の思想を打ち出す。生活費の引き下げをもとめるゼネストや大学改革運動を支援。レギア政権は発行を禁止。

7.04 レギア,パルドが選挙無効化の陰謀を企てたとしてクーデター.警察内支持グループを動員し大統領宮殿を奪取し、パルドを国外に追放する。この間、軍は好意的中立を守る.

7月 レギアは臨時大統領に就任。民政党が支配する議会を解散。選挙により新議会を招集し、マリアノ・コルネホを議長にすえる。新たな憲法を制定するためハビエル・プラドを起草委員長とする。

7月 第2次レギア政権成立.自らの政党である社会改良党と、軍部を背景にした立憲党、ピエロラの政党だった民主党により連立政権を立ち上げる。

オンセニオ(11年): 第二次レギア政権は.封建層を政治から排除.労働徴発により道路開発をすすめる.一方,8時間労働を求める労働者のゼネストを鎮圧するなど、労働運動の弾圧と労働保護政策を使い分け,11年にわたり独裁制をしく。この間に道路網の拡大から都市への人口集中がすすみ、リマの人口は68%増加.

8.02 サンマルコス大学で近代化を求める改革運動が起こる.

10月 レギア政府はマリアテギをイタリア留学の名目で事実上の国外追放。途中フランスではアンリ・バルビュスと会見。

1920年

1月 40年ぶりの新憲法が発布される。メキシコの1917年憲法を範とする進歩的憲法となる。5年毎の大統領および議会選挙、基本的人権の保障、政府による価格統制、累進課税、労働者保護などがうたわれる。また第59条で先住民に教育を与え、同化を進めることを政府の義務として明記する。

7月 マリアテギ、北イタリアで工場委員会運動を目撃。マルクス主義の系統的学習を開始する。

20年 レギア、大学改革法を制定。学生の要求にこたえ、学生の大学運営への参加を認める。実際に首にしたのはレギアの政敵ばかりだったといわれる。

20年 クスコで第一回全国学生会議が開催される。サンマルコス大学の学生アヤ・デ・ラ・トーレが指導権を握り、大学改革の方針が討議される。

1921年

1.22 アヤ・デ・ラ・トーレら,労働者のための「ゴンサレス・プラダ人民大学」を創設.組織労働者との接触に乗り出す.

1月 マリアテギ、イタリア社会党大会にエル・ティエンポ紙の特派員として参加。イタリア社会党の分裂と共産党の創立を目撃する。

21年初め リマの有力紙「ラ・プレンサ」の論説委員ルイス・フェルナン・シスネロス、政府批判を行い逮捕・投獄される。サンマルコス大学のビクトル・アンドレス・ベラウンデの呼びかけで、学生が釈放を求めるデモ。

5月 内外の越えに押され、レギアはシスネロスを釈放。出獄したシスネロスは「サンロレンソ島の監獄には無実の政治犯がいまだ40人いる」と暴露。

5月 学生の政治犯釈放を求めるデモを騎馬警官隊が蹴散らす。レギア大統領はサンマルコス大学のハビエル・プラド学長を罷免し、大学を年末まで閉鎖。(レギアの任期中大学閉鎖は4回にわたり行われた)

21年 レギアのいとこのヘルマン・レギアが内相として強権を振るい、オスカル・ベナビデス、ホルヘ・プラドらを国外追放とする。

21 農業労働者のスト,海岸地帯に波及.

22.3 プタマヨ地方に関する4回目の協定(サロモン=ロサノ条約).米国が仲裁国となる.コロンビアの主張する境界線(リオ・プタマヨを国境線とする)の正統を認めたうえで,両国の自由航行の権利を保障.ペルーはリオ・ナポの北側,リオ・カケタとの分水界に至る地域を失うことになる.ペルー議会は1928年まで条約を批准せず.

1923年

4月 マリアテギ、 Cesar Falcon, Carlos Roeらとともに、イタリアで最初のペルー人共産党細胞を結成。

5.23 レギア独裁,「ペルーをイエスの心臓に捧げる」聖心儀式を強行.多くの知識人や学生、労働者はこの計画に反対。アヤを指導者とするペルー学生連合は抗議デモを組織.大学に立てこもった学生に対し政府軍の弾圧.学生1人、労働者1人が死亡。

5.24 二人の死に抗議してゼネストが決行される。リマ市内は麻痺。政府はふたたびサンマルコス大学を閉鎖。

6月 マリアテギ、イタリア駐在を終え、ヨーロッパ各地を歴訪。各地の革命運動に学ぶいっぽう、帰国の機会をうかがう。

7月 ホセ・カルロス・マリアテギ,4年間にわたるイタリア留学から帰国.人民大学運動と接触する一方で、Fausto Posadasの発行するラ・ラソン紙に加わる。

10月 アヤ・デラ・トーレ、レギア政府により追放される。パナマを経て革命直後のメキシコに亡命.Oscar Herreraが人民大学の学長となる。マリアテギは左翼運動の中心となり労働者の中にマルクス主義を浸透させる.

デラ・トーレは雑誌「クラリダード」の編集をマリアテギにゆだねる。増田によれば、マリアテギはゴンサレス・プラタ人民大学の仕事を手伝い、アヤと知り合うが、性格上の違いもあって二人の人間関係はぎこちなかった。

23年 立憲党のカセレス、自由党のドゥランが相次いで死亡。国内にレギアのライバルはいなくなる。

23年 レギア、憲法を修正し、大統領再選を可能にする。

23年 ペルー,日本人の契約移民の入国を禁止.その後も「呼び寄せ移民」の流入続く.

1924年

3月 クラリダード誌、第五号をレーニン特集号として発刊。官憲が編集会議を襲い、マリアテギら編集部員を逮捕。

5.07 亡命中のアヤら,メキシコにおいて学生会議を開催、アメリカ人民革命同盟(APRA)を結成.「ヤンキー帝国主義」に反対し、前アメリカ大陸の抑圧された人民が団結して戦うことを訴える。

5月 マリアテギの足の持病が悪化し、右足を切断する。その後は「ムンディアル」誌の寄稿者となる。

12 アプラ,結成大会開催.土地と産業の国有化,パナマ運河国際化,LAの政治的統一,全世界の被抑圧民族および階級の連帯をうたうアプラ綱領を発表.肉体労働者と知識人の統一戦線をとなえ政府と武装闘争を展開.

24年 国家警察が創立される。国内治安活動を軍の手から切り離すのが目的といわれる。

1925年

2月 療養中のマリアテギ、APRA細胞の創設を受け、リマにおける統一戦線に参加する。

9月 小康を得たマリアテギは,ミネルバ社より月刊理論誌「アマウタ」を創刊.経済構造,インディオ・土地問題を分析.アヤの論文も掲載された。

25 アヤ,モスクワ訪問.第五回世界共産主義会議に出席。コミンテルンと接触をはかるが共感を得ず.第三インターへの参加を保留する。

25年末 キューバ共産党がAPRA路線を批判。メキシコに帰ったアヤは、「反帝国主義とAPRA」を表し反論。APRA思想は基本的にマルクス主義であるが、ヨーロッパとアメリカ大陸の事情は異なっており、とくに先住民問題の扱いは特殊であると述べる。

1927年

6月 レギア、共産党の陰謀を非難するキャンペーン。アマウタは発禁となりミネルバ社は閉鎖される。

12月 サロモン=ロサノ条約を不満とするLeguia大統領,米国の強い圧力を受け,批准案を議会に提出.翌年議会で批准される.

27年 マリアテギ、逮捕され陸軍病院内に監禁される。後に自宅拘禁となる。持病の悪化したマリアテギは、隣国への亡命を検討。

27年 ブリュッセルで開かれた世界反帝国主義会議、アヤラを修正主義者と非難。APRAは共産党と絶縁。

1928年

4月 マリアテギとHaya de la Torreが決裂。マリアテギは第三インタナショナルとの接触を図る。モスクワで開かれた第4回プロフィンテルン大会と、バクーで開かれた東方民族会議に、Julio Portocarrero and Armando Bazanを派遣する。

9.16 マリアテギ,APRAと別れペルー社会党を創設.

10.08 ペルー社会党が正式に発足する。マリアテギが書記長に就任。

11月 マリアテギ,アマウタなどに掲載した論文を集め、「ペルーの現実解釈についての七つの試論」を発表.先住民を革命の主体と位置付け(インディヘニスモ),LA革命の理論的支柱となる.

マリアテギの理論: @ペルー民族は先住民層を基盤として形成過程にある。Aペルー問題は先住民問題である.そして最終的には土地問題である。その問題は封建的大土地所有制の打倒を通じてのみ解決される.Bメスティソは植民地支配の遺産である.メスティソはペルー民族の機軸にはなりえない。C都市部においては社会主義を目指す労働者階級の闘争が行なわれる.共同体の社会主義的精神をいだく農民の闘争は,労働者階級の戦いに合流する。D従って,ペルーの民族性は先住民層を基礎にして,先住民系と西洋的な社会主義が合流する形で実現される。

28年 レギア、大統領に三選される。

1929年

5月 ペルー労働者総連合の組織委員会が発足。Julio Portocarrero をラテンアメリカ労働組合会議の創立大会に派遣する。

6 ブエノスアイレスで第1回LA共産党会議.Hugo Pesce and Julio Portocarrero、Buenos Airesの第一回ラテンアメリカ共産党会議に出席。マリアテギは第3インタナショナルの指導する反帝同盟の総評議会メンバーに選出される。マリアテギの先住民路線はトロツキズムとして退けられる.

6.03 チリとのあいだの係争,米国の仲裁により決着.タクナはペルーに,アリカはチリに所属することとなる.このためチリは600万ドルを支払う.この和解条件をめぐり,レギアにたいする不満高まる.フラサ・デ・アルマス爆弾事件,士官学校のクーデター陰謀などが続発,レギアは憲兵隊をもちいこれを弾圧.

29 マリアテギ,労働総同盟(CGTP)を創立.中産階級を中核に据えて反帝民族主義革命をめざすアプラの路線とも対立.

1930年

2月 マリアテギの健康状態が悪化。Eudocio Ravinesがひそかにペルーに戻り、社会党書記長に任命される。

4.16 マリアテギ、傷の合併症悪化により死亡(36才).

5.30 社会党,コミンテルンの指示により共産党と改称して再発足.エウドシオ・ラビネスを中心に活動を展開。

8.22 アレキパ連隊長ミゲル・サンチェス・セロ大佐,民主主義政治の尊重を主張し反乱開始.クスコ、プノにも反乱が波及する。リマでも反政府デモが爆発.

サンチェス・セロ: メスティソの軍人で、父は地方の下級官僚。ベナビデスのクーデターに際して、大統領宮殿に突入した一人。増田によれば、「勇猛な軍人であり、博打と酒と女が大好きだった」といわれる。

8.25 レギアが辞任。軍の政治委員会に全権を託し、カヤオより軍艦ミゲル・グラウ号に搭乗し亡命を試みる。

8.27 サンチェス・セロ、アレキパから軍用機でリマに到着。そのまま大統領官邸に入る。8万人の市民がセロを歓迎して繰り出す。

8.27 政変直後の大衆暴動により日本人経営の商店が焼打ちされる(この時点で2万人の日本人が在留).時のペルー公使来栖三郎はセロに面会し、日本人の身辺保護を依頼。セロは自らの責任において日本人の武装自衛を認めたという。

8月末 セロの説得を受けた軍艦ミゲル・グラウ号はカヤオに引き返し、レギアの身柄を引き渡す。レギアはサンロレンソ監獄に拘留される。

8.28 軍部内に結成された政治委員会は、参謀総長のポンセ将軍を大統領にあてる。セロはこれを拒否,自らをトップとする軍事委員会に全権を引き渡すよう要求.D・S・オカンポが暫定大統領に就任.

10月 ルシアノ・カスティヨらはペルー社会党を再建し、マリアテギの遺志を継ぐ。コミンテルンには加わらず、暴力革命に反対する。高地先住民を重視し、「首都が多数者である高地先住民に奪取されない限り、ペルーで真の政治生活は始まらない」と述べる。

30 アヤ,帰国しペルー・アプラ党を創設.ペルー・アプラ党の基本綱領を発表.中産階級の指導下に労働者・農民の結集をはかる.北部コスタの農業労働者に影響力拡大.

30年 共産党のリカルド・マルティネス・デ・ラ・トレ、ブルジョアジーと中産階級に対する「死の戦い」を宣言。先住民に対しては、「奪われた土地を取り返し、ケチュア・アイマラ共和国を作れ」と訴える。

30年 共産党系のペルー労働総同盟、5万6千の工場労働者と8千人の失業労働者を組織する。高地の農民の組織化にも着手し3万人を加入させる。

30年 ファシズムの洗礼を受けたホセ・デ・ラ・リバ・アグエロが亡命より戻る。「民主主義と自由主義が共産主義を生み出した。共産主義を退けるのはカトリシズムとファシズムである」と宣言。

1931年

2 サンチェス・セロ,労働者のデモや学生の大学占拠に対し、警察を導入するなど厳しい態度で臨む。

3.11 サンチェス・セロ、左右からの反撃を前に孤立。辞意を表明しヨーロッパに亡命。サマネス・オカンポを首班とする臨時政府が設立され、総選挙の準備に入る。

7.03 セロ、カヤオに強行上陸。右翼組織の「革命同盟」に依拠し、大統領選挙に向けた運動を開始する。アヤは,基幹産業の国有化,農地改革,インディオの国民統合など三百項目におよぶ改革案を打ち上げる。

9月 10月選挙に向けて新選挙法が公布される。21歳以上の文字が読めるすべての男子に投票権が与えられる。

10.11 初の大統領選.サンチェス・セロが15万票を獲得。アヤに5万の差をつけ勝利。セロはアヤを恐れる財界の消極的支持をとりつけ,下層大衆の政治動員に成功。

12月初め リマの有力紙「エル・コメルシオ」、アプラが革命を計画していることを示す文書を発表。アプラはセロが8日の大統領就任にあわせ、行動を計画しているサインとして危機感を募らせる。

12.08 アヤ、トルヒーヨで大衆集会を開き演説。「我々の主義への確信と征服の決意をもって前進しよう」と訴える。

31年 アルベルト・イダルゴ、ヒトラーとムソリーニを英雄として讃える一方、アヤをラテンアメリカが生み出した偉大な人物と絶賛する。アヤはこの賞賛を神秘的な表現で受け入れる。

31 スタンダード石油会社で大ストライキ発生.

31 セサル・バジェホ,ソ連訪問後アプラよりの立場を捨て共産党に入党.労働者の闘いを描いた「タングステン」を発表.

31年 リマを中心にカトリック青年教区連合が組織される.当初は共産主義の浸透阻止を掲げるが,社会問題にかかわる中で,急速に社会主義に接近.

1932年

2.06 レギア、獄中で重病を患い死亡。

2月 セロ大統領、アプラが政府転覆の陰謀を企てているとし、国会に警官隊を導入し、アプラ党の議員23名を拘束する。アプラは街頭で暴力事件を繰り返す。

3.05 アヤに逮捕状が発行される。軍事法廷は国家に対する裏切りの罪で死刑を宣告。アヤが拷問を受け、処刑が目前に迫っているといううわさが流れる。

3.06 サンチェス・セロ、ミラフローレスの教会でアプラ党員の青年に狙撃され重傷を負う。

5.06 アプラ派の海軍人が反乱を起こし軍艦二隻を占拠。軍は反乱を鎮圧した後、300人の逮捕者の面前で、任意に選んだ8人を射殺。

7.07 アプラ,ペルー北部のトルヒーリョで武装蜂起.武装した千人が、市郊外のオアナパン陸軍兵営を襲撃。数時間にわたる戦闘の末占領する。この後アプラが全市を制圧.軍人・警官は市内を引き回され投獄される.トルヒージョが先走ったため、他の各地でのアプラの反乱は事前に押さえ込まれる。

7.09 軍はトルヒージョを包囲。飛行機による無差別爆撃も含めた強硬手段でトルヒージョを攻撃.

7.10 軍がトルヒージョ市内に突入。アプラ幹部が逃亡する中で、統率を失った群集は投獄した軍人・警察官など60人を虐殺する。軍は報復のため市民千名を郊外のチャンチャン遺跡に連行し虐殺.

9.01 レティシア地方(アマゾン)の領有をめぐりコロンビア=ペルー間に紛争.レティシアはソロモン=ロサノ協定で,ペルーへの帰属が決まっていた.

増田によれば、レティシアは同協定でコロンビアに帰属することになっていた。ペルー人武装集団が「迫害された同胞を守り、不当にコロンビアに奪われた領土を奪回する」ため侵入し、コロンビア人当局者を追放した。

1933年

1月 新憲法が制定される。大統領権限が強化され、「国際的組織の政党」が非合法化される。国家と教会は一体であるとされる。

2月 両国軍がアマゾンで衝突。戦闘はコロンビアの勝利に終る.ペルーはオスカル・ベナビデス将軍を司令官とする大部隊を現地に送り体制挽回を期す。

4.30 サンチェス・セロ,レティシアに送られる部隊2万5千を閲兵する。会場でアプラ党員の青年により暗殺.

4.30 制憲議会はベナビデス将軍を臨時大統領に指名.みずから労働者保護政策を打ち出す.

6月末 ベナビデス、ホルヘ・プラド・イ・ウガルエチェ首相を首班とする内閣改造を行う。プラドはアプラ議員失職に伴う再選挙を行うと発表。

8.10 政府、アヤとAPRA議員に特赦を与える。右派はAPRAとの宥和政策に反対、フローレスの率いる「革命同盟」は黒シャツを着て反政府デモを繰り返す。右派系紙「エル・コメルシオ」も政府攻撃を強める。

33年末 APRA、ベナビデスの宥和政策を利用してさらに勢力を強化。傘下のAPRA青年連合はメンバーを互いに“ファシスタ”と呼び合ったという。

1934年

34年初め 11月26日を予定日とするAPRAの武力蜂起計画が発覚。1千人以上の党員が逮捕され、アヤは地下に潜行。インカワシと称するアジトからさらに反乱をあおる。

5.15 エル・コメルシオ紙の社長アントニオ・ミロ・ケサダ夫妻がAPRAにより暗殺される。

10月 ペルー、日本との友好通商条約を廃棄.また日本からの移住者を制限し、外国人の営業活動を制限するなど、反日政策がますます露骨になる.背景に、日本からの織物輸入による国内産業の衰退。

35年 ペルー共産党、正式にコミンテルンに受け入れられる。地下活動を通じて労働者の間に影響力を拡大。

35年 カトリック青年教区連合を中核に「キリスト教行動」が結成され,政治活動を開始.

1936年

6 日本人を狙い打ちにした移民制限法および営業制限法制定.日本人に対する排撃強まる.

夏頃 大統領選が予定される。ベナビデスはホルヘ・プラドを支持する。プラドは国民戦線を結成し選挙に臨む。ファシストの国民同盟はルイス・フローレスを、保守派はサンマルコス大学のビセンテ・ビヤランを押す。アヤは「国際的な政党」の候補であることを理由に立候補を阻止される。

9月 アプラ、国民戦線内の穏健左派のルイス・アントニオ・エギグーレンを民主戦線から立候補させ、党員にエギグーレンへの投票を指示する。

10.11 大統領選挙が実施されるが、途中で開票が中止される。裁判所はエギグーレンの得票にはアプラ党員の票が含まれており無効であると判定。推定ではエギグーレンが40%、後の三候補合わせて60%とされる。

12.08 ベナビデスは選挙の無効を宣言,議会に臨時大統領の任期を3年間延長するよう決議させたあと,議会そのものを解散,事実上の独裁者になる.

12.08 ベナビデスが大統領就任演説。「ペルーを混乱から救うために後3年在任する」と宣言。アプラは街頭で抗議行動を展開するが、3日間で鎮圧される。

36年 ペルー共産党、スペイン人民戦争への連帯と反ファシズム統一戦線を訴え、影響力を拡大。

37年 アプラ、穏健路線に転換。ルーズベルトの「善隣外交」を是認。反ファシズムの立場を明確にする。

37年 ベナビデス、道路建設、水道建設などインフラ整備を推進する。また年金、住宅、医療など労働者対策に着手し、社会の安定を図る。景気は33年をそこに持ち直し、38年にはほぼ恐慌前の数字に戻る。

38.12.04 リマで汎アメリカ会議.「南北アメリカへの侵略行為に対して共同で対処する」とするリマ宣言が採択される.

1939年

2 軍事クーデター失敗.首謀者のアントニオ・ロドリゲス将軍は行動の間に死んだ.

6 大統領選.ベナビデスの推すオリガルキーの代表マヌエル・プラド・ウガルテチェが,新興資本家層の支持も得て当選.プラドはリマの大銀行家で,元大統領の息子でもある.

9.01 第二次大戦が始まる。

12.08 マヌエル・プラドが大統領に就任。就任に当たりアプラと密約を交わし、アプラの合法化に向け努力することを約束したといわれる。

12 古屋事件発生.日本人理髪業組合の内紛に日本領事館が介入,反主流派でペルー国籍の古屋氏を日本に強制送還しようとするが失敗に終わる.このとき古屋氏と同行したペルー人女性を殺害,日本の主権侵害に対する憤激が高まる.

40.5.13 リマを中心にアプラの扇動による排日暴動.右翼は「黄色人種が都市を侵略し労働者からパンを奪っている」と宣伝.日本人商店6百が20時間以上にわたり焼打ちや掠奪を受ける.死者1名,負傷者十数名にのぼる.

40年 共産党内でエウドシオ・ラビネス書記長とブラウダー主義を奉じる右派の間に論争。42年にブラウダー主義者は党から追放される。

41.7.05 アマゾン地方の領土の帰属をめぐりエクアドル・ペルー間の武力衝突.ペルー,太平洋岸沿いにエクアドル領内に侵入.エクアドルは挙国一致体制をとれぬまま敗退をつづける.

1942年

1.24 プラド政権,日本と断交.日本人の移動禁止,団体解散,営業権の剥奪を指示.国内の日本人1800名を米国の強制収容所に送り込む.

1 リオデジャネイロ議定書調印.エクアドルは米州外相会議の調停を受入れアマゾン地域の殆ど(約20万平方キロ)をペルーに割譲.

4 外交官を含む日本人千8百名を資産没収のうえ強制送還.米国の強制収容所におくる.

43年 「キリスト教行動」左派学生がキリスト教学生全国同盟を結成.

44 アルゼンチン大使を勤めたベナビデスが帰国.リベラルな傾向をもつ全国民主戦線(FDN)を結成.翌年の大統領選の候補者としてホセ・ルイス・ブスタマンテ・イ・リベロを指名.

1945年

5月 ベナビデスとアヤが会談。両者がともに立候補せず、ブスタマンテを大統領に推薦することで合意。選挙管理委員会は、人民党という名の下に、アプラの選挙参加を合法的なものとして認める。

6.10 大統領選挙。ブスタマンテが勝利する。次点にはエクアドル戦争の英雄ウレータが入るが、彼もブスタマンテ政権への協力を約束したため、挙国一致の政権が成立する。議会選挙ではアプラが総投票の50%を獲得する圧勝。

7 ブスタマンテが大統領に就任.ベラウンデ・テリーもFDNから国会に初当選.ブスタマンテを支持するキリスト教系活動家はキリスト教民主連合を結成.「エル・プエブロ」紙を創刊.

7月 ベナビデス、ブスタマンテの大統領就任を見届けた後病死。

7.28 議会が開催される。アプラは行政に権力が集中する憲法の再改正を求める。この結果、議会は多数決だけで大統領の拒否権を無効に出来る権利を獲得。(この頃のアプラに関する増田の記述にはやや疑問)

12.07 リマの有力紙「エル・コメルシオ」と「ラ・プレンサ」が「アプラの破壊活動」を非難するキャンペーンを展開。議会は検閲制導入法案を提出して対抗。サンマルコス大学では両派の衝突で多数の死傷者を出す。

45年 第二次大戦の終了により、鉱物資源の輸出が激減する一方、農産物輸出は引き続き好調を維持する。この結果、国内では食料不足が生じ物価が上昇。

46年 ブスタマンテ政権、スタンダード石油の子会社、「国際石油会社」(IPC)に北部セチューラ海岸の採掘権を与える。この時点で。IPCはペルー原油の80%を生産。「エル・コメルシオ」と「ラ・プレンサ」は外国資本への投売り行為だと批判。

1947年

1.07 アプラ活動家,政府批判の急先鋒だったラ・プレンサの社主フランシスコ・グラニャ・ガーランドを暗殺.後継者のペドロ・ベルトランはアプラが政権から排除されるまで闘いを続けると宣言。

7.28 議会保守派が、法の抜け道を発見し、議会行政委員会の機能を麻痺させる。この後ブスタマンテの発する政令が、実質的に国政を動かすことになる。

9月 リオ条約(米州共同防衛条約)締結,「如何なる国に対する武力攻撃も,米州のいっさいの国に対する攻撃とみなす」(第3条)など,のちの安保条約などのひな型となる.

1948年

6 ブスタマンテ,ふたたび大統領選に勝利.アプラ,選挙に向け「民衆党」を結成.ブスタメンテをおして野党を結集.キリスト教民主連合は民主人民運動を結成し本格的な政治活動に動く.

7月 米国務省,ブスタマンテの大統領就任を前にクレイン使節団を派遣.共産主義国との取引停止,公共事業の抑制を求める.

8月 第二次ブスタマンテ政権成立.中銀総裁には保守系の「ラ・プレンサ」社主ペドロ・ベルトランが就任.IMFの指導に忠実に従い,開放経済と引き締め政策を実施.この結果,貧富の差が一気に拡大,莫大な対外債務が生じる.

9月 ペルー共産党第三回大会。党勢は4万人に達する。

10.03 デラ・プエンテのひきいるアプラ左派,海軍の一部を巻き込みカヤオで武装蜂起.マヌエル・オドリア(Odria)内相ら右翼閣僚はAPRAの非合法化を求める。ブスタマンテがこれを拒否したため、いっせいに辞任。オドリアは陸軍少将、エクアドルとの1941の戦いで名を上げた.

10.04 カヤオの反乱は軍により鎮圧される。APRAは非合法化され、幹部が一斉逮捕される。その後もAPRA左派の学生を中心に各地で暴動が繰り返される。

10.27 アレキパの陸軍部隊が反乱を開始。「復興革命」を称する。オドリアが指導者に推される。リマの陸軍司令官セノン・ノリエガはブスタマンテの出動命令を拒否。

10.29 ブスタマンテが辞任.オドリアがフンタ議長に就任。「8年間」(Ochenio)と呼ばれる強権政治を敷く。ペルー共産党,アプラ,民主人民運動などを相次いで非合法化.多くの活動家が逮捕・殺害される。アヤはコロンビア大使館に逃げ込むが、国外亡命を認められず8年のあいだ幽閉状態となる.プエンテはメキシコ亡命.

11月 オドリアが新大統領に就任。ブスタマンテは国外亡命。

48 国連LA経済委員会(CEPAL,英ECLA)発足,本部はサンチアゴに.開発論に立つアルゼンチンの経済学者ラウル・プレビッシュが指導.

49.7 国内安全保障法が制定される。公共秩序を守るために政府はどんな手段をも使用できることとなる。政府は立法府ばかりでなく、司法の監視からも自由になり、人身保護法は事実上無効になった。

1950年

7.28 オドリアが対立候補なき大統領選挙に勝利、正式に大統領に就任。二重為替相場制を廃止し,為替の自由化を実施.開放経済をとるいっぽう、貧困者の支持を獲得するためにペロン風の労働保護政策をとる。夫人のマリア・デルガドは社会扶助センターの代表として下層大衆への慈善活動を展開,バリアーダに支持を広げる.独裁とバラマキ政治は当然ながら汚職と腐敗の温床となった。

50年 アレキパで共産党が指導する大衆蜂起が発生。

52 クスコ北方140キロのコンベンシオン渓谷で,地主の保有地取り上げに反対する土地奪回闘争開始.農民はクスコの労働者連合(FTC)と連係しながらコンベンシオン・ラーレス農民組合連合を結成.

1953年

2 アレキパで共産党の指導する港湾労働者のストライキ.弾圧により100人の逮捕者を出し敗北.

8.2 「前衛大学生」グループのイニシアチブで農地改革実施.農民問題担当閣僚ニュフロ・チャベスが実施責任者となる.ヘルマン・ベラ・タピア農相を先頭とするバングアルディア派は強硬に反対.

53 陸軍高等軍事教育センターが発足.ホセ・デル・カルメン・マリンが初代所長に就任.国防の基本的問題と国の社会経済的問題とのかかわりをテーマにすえる.

53 エスクリバ,カトリック教会内の反動的秘密結社「オプス・デイ」のペルー支部を創立.

53年 朝鮮戦争に支えられていた好景気の後退が始まる。この年の貿易収支は1千万ドルの入超となる。

54 アプラ左派のプエンテ,ボリビア革命に影響を受け、反乱を計画するが失敗.投獄される.

1955年

7.20 オドリア政権の強権支配と腐敗に、保守層からも批判が出る。ラ・プレンサ紙のベルトランは、国内安全保障法の廃止と公平な次期大統領選挙をもとめる論説を発表。

12月 アレキパで、キリスト教民主運動が反乱。アレハンドロ・エスパルサ内相の罷免を要求。オドリアは反乱を鎮圧する一方、内相の解任でこれに応える。

55 ルイス・ベドヤら旧「民主人民運動」派,キリスト教民主運動(MDC)を結成.「エル・プエブロ」紙に拠り、オドリアの圧制と腐敗に抗議する運動を展開.

55 共産党が指導する大規模なストライキが相次ぐ。

55 ゲバラ枢機卿が死去.これに代わりリマ大司教フアン・ランダズリ・リケッツが国内最高位となる.ボゴタでのラテンアメリカ司教団会議(CELAM)結成を受け,ペルー社会の「刷新」(Aggiornament)を掲げる.

1956年

56年初め 大統領選挙を前に政界の再編が進む。寡占層を代表する国民連合党からはマヌエル・プラドがふたたび立候補。アプラは合法化の約束と引きかえにプラドを支持。帰国したブスタマンテもプラド支持を表明。

56年初め 民主青年国民戦線を代表するフェルナンド・ベラウンデ・テリーが出馬を表明。地方分権と高地農民の同化政策を訴える。知識人やマルクス主義者にも影響を拡大。

1 アレキパを中心に各地のキリスト教民主主義運動が結集し、キリスト教民主党(PDC)を結成.ルイス・ベドヤが書記長となりブスタマンテを精神的指導者とする.

4月 オドリア政権の干渉を受けた選挙管理委員会、ベラウンデの立候補登録を拒否。ベラウンデはサンマルチン広場で抗議集会を開いた後、単独で抗議の街頭デモ。これを受けた選挙管理委員会は、ベラウンデの登録を承認。「カレタス」誌は、国旗を掲げ行進するベラウンデを、「次の指導者が現れた」(Asi Nacen Los Lideres)と報道。

6月 女子もふくめた普通選挙法のもとで初の大統領選.マヌエル・プラードが当選.民主青年国民戦線のベラウンデ・テリーは,プラードの57万に対し46万票を獲得.オドリアの支持を受けたエルナンド・・デ・ラバジェは22万票に止まる。

6月 議会選挙。アプラは投票直前に合法活動を許されたが、得票率は27%に止まる。ベラウンデ派が躍進。選挙後に人民行動党(Accion Popular)として再発足.キリ民党も下院で13、上院で4議席を獲得する。

7.28 プラドが大統領に就任。オドリアの政策を受継ぎつつ,アプラや共産党の合法化など一定の手直し.

8月 両院の多数を占めたアプラはプラード政権と無原則的野合.進歩勢力はアプラを離れAP,PDC,独立社会主義派の「進歩社会運動」(MSP)などに流れる.

56年 この年の物価は8年前に比べ93%の増加。不況と物価高が同時に進行する。

56 アマゾン地方のイキトスでインディオの反政府暴動発生.

56年 アメリカ・マグロ船協会、ペルー政府とのあいだに合意。ペルーの主張する領海内でペルーの法に従い操業することを約束。

1957年

57 陸軍高等軍事教育センター初代所長のホセ・デル・カルメン・マリンが退役.これに代わりマルシアル・ロメロ・パルドが所長となる.軍事力強化の観点から富国強兵政策を探求.植民地経済からの脱却と工業振興を訴える.

57 陸海空三軍の将校団が統合司令部(CCFA)を結成.陸軍高等軍事教育センターを母体に,高等軍事教育研究センター(CAEM)を創設.三軍統合司令部の直属機関とする.

58.5 ニクソン副大統領,LA各国を訪問.ペルー,ベネズエラで抗議デモの洗礼を受ける.

58 ペルー司教団,「ペルーにおける若干の社会問題についての教書」を発表.「ペルーの危機は少数の手に富が集中しているため発生している」と分析.危機打開のためのキリスト者実践として,協会の主導による協同組合運動を高く評価する.

1959年

7月 プラード政権,放漫財政により危機を迎える.「ラ・プレンサ」紙の社主ペドロ・ベルトランが再び首相に起用される.緊縮政策を実施.反対派に憲法停止など強権で臨む.ベラウンデは当局により逮捕.リマを中心に抗議行動ひろがる.プエンテらアプラ左派はプラード政権との妥協に強く反対,党を除名される.

増田によれば、オーセンティックな引き締めを行ったのは前任者のパルドで、ベルトランは対米従属の強化と金持ち優遇政策により経済活性化を図ったとされる。

8.01 キリスト教系各種社会団体が合同で「社会問題週間」のキャンペーン.このあと急速に政治への関心を深める.リマの枢機卿フアン・ランダスリ・リケッツ、「現在の経済・社会秩序は改革されなければならない。より公平な富の再配分が行われなければならない」と述べる。

11月 プラド政権,土地改革法や工業化促進法などを制定.開放政策一辺倒に一定の修正を加える.次期大統領を狙うベルトランは,IMFに一定の距離を置くポーズ.

59年 ペルー共産党第4回大会、産業労働者と農民の同盟を民主勢力の基本とする決議を採択。キューバへの連帯活動を展開し、青年の間に影響力を拡大。

59 クスコ出身のウーゴ・ブランコ,ラプラタ大学医学部在学中にトロツキズムの洗礼を受け革命的労働者党POR(キャノン派)に加入.医師となったあと,クスコの靴みがき労働者の活動に参加.のちにコンベンシオン渓谷のインディオ組織に従事.「土地か死か」をスローガンに農民運動の急進化をめざし組織を開始.

59年 ボストンのリチャード・カッシング枢機卿,「サンチアゴ・アポストル協会」を創立.ペルーを中心に多数の米国人聖職者を送り込む.

1960年

6.09 与党の次期大統領候補ベルトラン,アメリカを訪問しアイクと会談.反共政策の強化で合意.

7.26 米州開発銀行,ペルーに対し5千万ドルの緊急援助.与党・ベルトランへの肩入れを強める.

10 リマのキューバ大使館で,キューバから左翼団体への秘密援助を証明する文書が盗まれ暴露される.ペルーはキューバと断交.

60 デ・ラ・プエンテら,キューバの土地改革の影響を受け「アプラ共産主義戦線」(反逆派)を形成.当初,合法的過程を通じての農地改革をめざす.

60 エクアドルのベラスコ・イバラ大統領,リオ条約の再検討をペルーに要求.

1961年

3 リマで人民行動党によるオリガルキー独裁反対の十万人集会.共産党とその影響下にあるペルー労働総同盟もこれを支持.

3 ペルー共産党非合法化.諸活動は事実上黙認.

8.17 進歩のための同盟,発効.@十年間に2百億ドルの援助.A土地改革と税制改革など経済改革,B十年間にひとりあたり所得を2.5%引き上げ,などを骨子とする.

11月 ベルトラン,首相を辞任.大統領選への本格的体制作り.

11 反プラド=ベルトランの統一戦線としてペルー民族解放戦線結成.石油資源の国有化,人権の尊重,徹底した土地改革,キューバ革命支持を掲げる.共産党も参加する.エクスキーザ(あるいはエリクサス?)将軍が議長に就任.ロメロのもとでCAEM副所長をつとめたセサル・パンド陸軍大佐を大統領候補におす.

11月 FLNの影響下に第1回全国農民大会.

11月 PDC党首エクトル・コルネオ,「共同体企業」の創設を提唱.資本主義の枠内での社会改革をめざす.

12 PORを中核に第4インター統一書記局派の援助を受け革命左翼戦線(FIR)創設.大衆組織として労働者革命党(PRT)を結成.

1962年

1 ウーゴ・ブランコ,コンベンシオン農民連合内で頭角を表わし書記長に就任.「土地か死か」をスローガンに掲げ,「二重権力・民兵」という方式で戦いを組織.トロツキストによる農民組織の拡大と土地占拠戦術の激化.土地を占拠した農民は地主,警察,軍隊と対決ししばしば暴力的事態となる.

2月 ベルトラン、世論の支持をまったく得られず。米国はベルトランをあきらめ、アヤに鞍替え。

4 FIR,リマの銀行を襲撃.3百万ソルを強奪.

6月 大統領選,アプラのアヤ,APのベラウンデ,元大統領のオドリアが立候補。アヤが14000 票の僅差でベラウンデを抑え首位に立つ。憲法で定められた投票の 3 分の 1 の得票者がいなかったことから,議会における決選投票に持込まれる.

6月 大衆行動党、アプラが不正な選挙登録を行ったと告発。

6 プエンテらアプラ反逆派,合法的な土地改革の可能性を断念.左翼革命運動(MIR)を結成.農民運動を基盤に,50年代武装闘争の再開をめざす.

6 鉱山労働者6万人がスト.

7.17 アプラは元の独裁者オドリアと野合するという離れ業を演じ,アヤの当選を確実にする.MSPは選挙に惨敗したあと運動を事実上停止.

増田によれば、アヤとオドリアが会見。アプラがオドリアを支持することで合意。ベルトランもこれを支持。アヤは議会で多数を握ることにより実質的主導権を握ろうと狙った。

7.17 新政権の発足を防ぐため,軍部は選挙の無効を迫る.プラドはこれを拒否。

7.18 軍部首脳、プラド政権を無血クーデターにより打倒.リカルド・ペレス・ゴドイ総合参謀本部議長を指導者とする軍事政権誕生.革命的軍事政府を称する.1年後の公正な自由選挙を公約。個人の権利は制限されず、言論・政党活動の自由も認められる。

7月 この間一貫してアプラを支持してきた米国は,その後の2ヶ月間にわたり軍事政権を承認せず,軍事援助も停止.バリェホ中尉に率いられた蜂起の試み失敗に終わる.

7 軍事政権,ペルーの抱える問題を解決する一つの手法として,農民運動に好意的態度を示し,土地占拠を事実上黙認.ブランコらのコンベンシオン農民連合が,土地占拠闘争をすすめる.

10 プエンテ,キリャバンバのブランコを訪問し会談するが,ブランコのアプラにたいする不信感のため物別れにおわる.

11 ゴドイ軍事政権,国家企画庁を創設し、さまざまな社会改革計画を実施に移す。ラ・コンベンシオン,ラーレス両地域を農地改革地区に指定.小作人への土地分与をおこなう.いっぽうでコンベンシオンの急進化に危険を感じ,軍を派遣して運動を弾圧.

都市に対しては国立住宅銀行を作り、住宅購入のための低利の融資によりスラム街撤去を目指す。農村に対しては農地改革研究所を創設し,農民への技術訓練、特別融資が図られる。

11 農民の土地占拠闘争,高地全体に拡大.ウーゴ・ブランコと農民,地方の警察派出署を襲撃.

62 共産党,共産主義者同盟左派からの離脱者を中心に民族解放軍(ELN)結成.カストロ主義に基づく権力奪取をめざす.エクトル・ベハル・リベラが指導.ボリビア領内で武装闘争の準備を開始する。

1963年

1 軍事政権,戒厳令を公布し大弾圧を開始.民族解放戦線のエクスキーザ議長など3百名を逮捕.続いて共産党のホルヘ・デル・プラド議長やアスコタ書記長など逮捕.共産党を一斉摘発.党員2千名を逮捕.軍部内で右派の比重高まる.

1 APとPDC,大統領選を前に共同政策綱領を策定.

3.05 軍事クーデター(軍部内の権力移動).ゴドイ将軍を追放しニコラス・リンドレー将軍が軍事革命委員長に就任.改革の民族主義的深化を恐れる米国の差し金によるものといわれる。

5 キューバの影響を受けた民族解放軍(ELN),ボリビアより侵入.著名な詩人ハビエル・エラウドが指揮をつとめる.FIRと結合し武装蜂起を試みるが,マドレ・デ・ディオス河畔のプエルト・マルドナドの闘いにやぶれ失敗.エラウドも逮捕・虐殺される.

5 ラ・コンベンシオンの農民反乱,ウーゴ・ブランコらの逮捕により解体.

6.09 ベラウンデ,軍部の支持も受け大統領に当選.

7.28 ベラウンデ,大統領に就任.多くの学生が「人民行動」計画に参加,一斉に農村に入り教育や医療活動に加わる.カトリック教会も高地で農民運動への支援をつよめる。

7.30 フニン州で農民がセロ・デ・バスコ社所有の土地に侵入。高地農民の土地占拠行動がいっきょに拡大.

11 民族解放戦線第1回全国大会開催.共産党も加わり合法的政権奪取をめざす.

12月 地方自治体選挙。大衆行動党とキリ民党の連合が圧勝。ペルー市長選ではキリ民党のルイス・ベドヤ・レジェスが、オドリア夫人を破る。

1964年

1月 共産党全国会議,革命路線をめぐり紛糾.デル・プラード議長やアコスタ書記長など主流派はモスクワに忠実な路線を踏襲。「統一」紙を発刊したことから統一派と呼ばれる。これに対しサトゥルニノ・パレーデスやホセ・ソトマヨールら中国派は毛沢東の革命戦略にしたがい「農村から都市へ」という持久人民戦争路線を主張.「赤旗」(Bandera Roja)を発刊したことから赤旗派と呼ばれる。

1月 ウーゴ・ブランコ派の残党,革命的前衛(VR)を組織.プマルナが指導.のちにリカルド・レッツが書記長に就任.統一書記局派フランス派の指導を受入れる.路線の違いを留保し,MIRのゲリラ闘争を支援.70年代に分裂しほぼ消滅.

2.7 左翼革命運動(MIR),リマのサンマルチン広場で集会.デラ・プエンテは,農地改革に取り組まないアプラ幹部を激しく非難.「新たな闘争形態」が必要と訴える.その後MIRはゲリラ組織の統一をよびかけるが,ELNは軍事主義,非政治主義の立場からこれを拒否.

5.24 リマでアルゼチン対ペルーのサッカー試合.審判の判定に不満の観客が暴徒化し320人が死亡.

5 農地改革法公布.議会では地主層と結託したアプラの手により骨抜きにされ,大地主のサボタージュにあいほとんど実施されず.

7 獄中のウーゴ・ブランコ,「我等が革命の道」を発表.強力な前衛党の存在の下に農民ソヴェートを形成し,二重権力状態を作りだすことを戦略的目標として提起.カストロ路線を厳しく批判.

11 LA共産党大会,ハバナで開催.ベネズエラ,コロンビア,グアテマラ,ホンジュラス,ハイチにおける武装闘争を正規の路線として承認.

1965年

4 MIR,「ペルー革命宣言」を発表,ゲリラ戦に入る.MIRとELN,それぞれゲリラを組織するが,統一して武装闘争を展開することには失敗.ELNは,MIRのふたつの根拠地の中間点にあたるアヤクーチョ県ラマール地方に根拠地を形成.

9.9 MIRとELN,協調のための全国司令部結成で合意.

9 MIR,クスコ,アヤクーチョを中心にゲリラ戦展開.

10.23 ルイス・デ・ラ・プエンテ,南部戦線メサ・ペラダで裏切りにあい暗殺.ペルーMIRによるパチャクテクの闘いは壊滅.中部戦線でも指導者の一人マキシモ・ベランド逮捕,処刑される.

12 中部フニーン県のMIR戦線「トゥパク・アマル」壊滅.6ヵ月にわたる戦いで農民8千人が死亡.アヤクチョ県のELN軍,ティンコーで待伏せ攻撃にあい壊滅.

65 共産党第5回大会開催.中国派は党から離脱し,共産党紅旗派を結成.民族解放武装戦線(FALN)を結成するが,さらに内紛を繰り返すなかで弱体化.

1966年

1 ハバナで開かれた三大陸連帯会議のあと中南米を視察中の尾崎,仁科の両氏,リマで一時逮捕.

1 MIR中部戦線(トゥパク・アマル戦線)の指導者ギジェルモ・ロバトーン逮捕,その後消息不明.

2 ELNハビエル・エラウド戦線指導者エクトル・ベハル逮捕.ゲリラ闘争は完全に終結.

4 ペルー,ゲリラ指導者リカルド・ガエダ・アコスタ,逮捕される.ガエダはゲバラの前夫人の兄.

8 アンデス諸国の共同市場形成で合意(ボゴタ宣言)

12 PDC大会.急進的傾向を強めるコルネオら指導部に対し,元書記長でリマ市長のルイス・ベドヤら右派が反発,脱党しキリスト教人民党(PPC)を結成.

1967年

12 PDC大会.APとの連合協定を破棄.AP内でもエドガルド・セオアネ副大統領のひきいる急進派が,ベラウンデの保守化に抗議し脱党.

67 ベハル,ELNとMIRの合体を示唆.その後ELNは事実上消滅.

 

 ペルー年表その3

1968年

1月 共産党赤旗派、正式に党を離れ、新たにペルー共産党を結成。「赤い祖国」(Patria Roja)派共産党と呼ばれる。

5.16 ガジェゴス,ロドリゲス,モリーナの急進派三大佐,ベラスコの依頼を受け民族自決を基調とする秘密計画「インカ計画」を策定,提出.ベラウンデ政権の後半には,鉱業の3/4,工業の1/2,商業・金融の2/3,水産業の1/3が海外資本の直接支配下にあった.

6 CGTP,PCの指導下に結成.

8 コロンビアのメデジンで,第二回LA司教会議開催,「解放の神学」を提起.

8.13 ベラウンデ政権,国際石油会社(IPC)と「国有化」の合意。ベラウンデは現地タララに飛び、石油資源の国有化を宣言。協約の内容が明らかになるにつれ、非難の声が高まる。石油国営化はベラウンデみずからの公約であり,議会の決定でもあった。

協約の内容: @IPCはタララにおける石油資源の権利と油田の地上施設を放棄する。A油田に付設した精製部門と貯蔵施設は引き続き保持する。Bペルー石油公社(EPF)はタララ産石油の80%をIPCに販売する。CIPCは精製と販売の権利を保持する。

9.10 EPF総裁は政府方針に反対し辞任.辞任直後のテレビ会見でIPCとのあいだの秘密契約書,タララ文書の存在を暴露.さらに契約書の脱漏ページの発見から密輸に関係した政治家のスキャンダルが発覚.

10.02 36人の将軍が協約を弾劾する声明を発表。軍出身の閣僚を先頭に内閣は総辞職。

10.03 軍によるクーデター.ベラウンデは空港からアルゼンチンに追放される。その後ボリビアに亡命.

10.03 軍事政権、「革命綱領」を発表。ペルーの社会構造の変革,下層大衆の生活向上,民族主義的立場の堅持をうたう。またタララ文書の即時破棄を声明.三人の軍管区司令官がフンタを形成し、議長にフアン・ベラスコ・アルバラード陸軍総司令官が就任。ベラスコはチョロ出身.ペルー北部の貧しい生まれ.学校には裸足で通ったという.

10.03 共産党は進歩的な見せかけは「民衆を篭絡するためのたんなるジェスチュア」だとしてクーデター反対の態度を打ち出す.アプラも放送を通じてクーデターに抗議。学生数千人がクーデターに抗議するデモ。軍の出動により300人が逮捕され、鎮圧される。

10.09 軍事政府、IPCとの協約を破棄すると発表。ラ・ブレーア、バリーニャス油田とタララ精製施設を強制接収.軍部は,この措置は特殊ケースであり,外資のあつかいについては今後とも法律を尊重するとする.共産党はこの措置を支持するとともに,ベラスコ政権への評価に再検討を加え始める.

11 軍事政権,長期発展戦略を発表.自らを「革命的軍事政権」と名づけ、@大衆の参加,A国家による経済の管理と統制の強化,B自然資源開発と工業発展の結合,C外国投資規制を柱として経済の発展をすすめていく方針を明らかにする.

68年末 ペルーの沿岸警備船、200カイリ内で無許可で操業中の米マグロ漁船2隻を拿捕。米側は機銃掃射を受けたと主張。

 

1969年

1 軍事政権の首相,蔵相ら保守派閣僚,ベラスコ不在の閣議で解任を決定.ベラスコは革命評議会を開き解任決定を覆す.

69年2月

2.06 軍事政権,IPC接収にともなう補償について、「補償のための資金を封鎖預金し、IPCがこれまでの不当利得に対して支払いを行えば、解除する」と発表。事実上の無償接収に踏み切る.

2.28 反ベラスコ派急先鋒のバルディビア蔵相,IPCの海外送金を許可したことが暴露され辞任.

2 漁船だ捕事件への報復として、米国はペリー修正条項を適用しペルーへの軍事援助、および武器輸出を禁止、ベラスコ政府は米軍事使節団の国外退去を命令。

2月 ペルー、ソ連と外交関係を開設。通商協定を締結.71年には中国とも国交樹立。社会主義諸国への輸出額は4年間で6倍に.

69年3月

3 内閣改造.国民の支持の高まりを背景にマルドナド鉱山相など保守派閣僚を追放.軍政の革新的性格が明確になる.ベラスコは「貧者に正義を!」と訴え、ペルアニスモと呼ばれるようになる。

3 共産党第5回党大会.政府の反帝民族主義的政策を支持.「革命の第一段階の始まりを意味する反帝・反寡頭制革命の過程が始まった」と評価.「この過程を強化,推進,深化させるとともに,その政府を支持し擁護する」という目標を定める.

4 鉱業改革基本法制定.19世紀末からペルーの資源を独占してきた外国企業の国有化が決定される.

69年5月

5.19 ベラスコ,米国の軍事援助停止に対抗しロックフェラー特使の訪問を拒否.米国は経済制裁を予告.ベラスコはさらに米軍事施設団41人の強制退去で応酬.

5.31 大地震が発生し,65万人が死傷.

5 アンデス地域統合(ANCOM)創設.外資導入を厳しく規制し,経済的自立をめざす.ベラスコは共同市場の結成に中心となって活躍.域内貿易はその後の十年間で1億から9億ドルに増加.ベネズエラは遅れて73年に加入.

69年6月

6.24 軍事政権による農地改革法(大統領令17716号)施行.太平洋岸の米国,西独系を含む大農場を接収,協同組合など集団的生産単位に再編.南米史上最大規模の改革となる.ベナビデス農相は辞任により不同意の意を表明する.

6.24 これまで伝統的に祝われてきた「インディオの日」を「農民の日」(Dia del Campesino)と改称。これに合わせて農地改革が開始された。ベラスコは「農民たちよ、もう地主たちに君らの貧困を食い物にはさせない」というツパク・アマルの言葉を引用する。

69年9月

9 農地改革法にもとづく土地収用法制定.大地主から150ヘクタールを越える農地を収用.大規模農園は国営協同組合「農業社会資産管理団」(SAIS)として,原住民を中心とする高地の中小規模の農園は「共同体協同組合」として組織される.しかし,約百万の季節労働者と旧来の村落共同体にとどまる農民(地方人口の4割を占める)にはほとんど影響を与えず.

ベラスコの農地改革: 沿岸部の8大砂糖プランテーションを接収するなど,1年間で150万ヘクタールを接収し,協同組合を通じ2万人の農民に解放.その後の5年間で農耕地全体の40%が解放され,協同組合などの集団的生産単位に分配される.地方農家数の1/4にあたる36万世帯が,耕作権を与えられる.これによりペルーの大土地所有制はほぼ解体.

9月 ベラスコ政権は同時に文盲撲滅運動,農村社会の近代化,ケチュア語を第二公用語化するなど,「インカ計画」をつぎつぎと実施.

9 鉱山開発促進法および中小鉱山振興法制定.開発されないまま放置された鉱区の接収と新たな鉱山の開発に乗り出す.さらに貿易を牛耳るリマのエリート,山岳部の不在地主など伝統的な支配層の経済基盤を破壊.

10.3 PC,ベラスコの改革を肯定的に評価する声明.いっぽう保守系のエル・コメルシオ紙は「政府が独裁への道を歩んでいる」とし,軍政を公然と非難.

69年12月

12 ベラスコ政権、国家司法会議を設立し大規模な司法改革を実施。保守派の牙城である最高裁の判事16人全員を辞職させ、下級審判事184人を罷免する。

12 北部海岸地方で,地主層によるサボタージュ広がる.労組,農民組織などは,これに対抗し革命防衛委員会を組織.運動は急速に全国に拡大.

69年 軍事政権の経済相となったモラレス・ベルムデス、対外債務の借り換えと税制の抜本改革、通貨ソルの安定化に成功。

69 エクトル・ベハルが獄中で著した「ペルー1965:ゲリラ闘争の経験に関するノート」,キューバ出版社より表彰され,国際的に流布.

69 アヤクチョの国立サン・クリストバル・デ・ウアマンガ大学哲学科元教授でカント哲学を教えるアビマエル・グスマン・レノーソ,中国に行き文化大革命に触れる.帰国後学生のPCP紅旗派への組織を開始.反文明論を基礎に,みずからをマルクス・レーニン・毛沢東とならぶ「四つの剣」とし,インカの救世主伝説も利用しカルト的集団を形成.

 

1970年

3 地主が親類縁者の名を使い名目的な土地分割により接収を免れようとするのを防ぐため,名目的土地分割禁止法を発令.

3 PC,保守派の抵抗に対し,政府を擁護するようよびかけるアピールを発表.

5 ペルー北部ユンガイを中心に,南米史上最大,マグニチュード7.7の地震発生.山崩れと洪水で6万6000人が死亡,80万人に被害.

6 金融オリガルキーの盟主プラード家が所有する「バンコ・ポプラール」,破産の危機に瀕する.軍事政府はこれを買収し国有化.

10 銅鉱山を国有化する受け皿として独占的国営鉱業会社ミネロペルーを設立.外貨条令を改正し,外国への送金を事実上禁止.その後75年までに,国有企業が鉱業産出高の1/2,金融システムの2/3,工業の1/5,全生産高の半分を支配.

12.25 政府,クリスマス恩赦.ウーゴ・ブランコ(FIR),エクトル・ベハル(ELN),リカルド・ガデア(MIR)ら,60年代初期から拘禁されていた多数の人々が釈放される.ベハルは政府系労働組織の幹部となる.

70 グスマン(ゴンサロ議長),ベラスコ軍政の評価をめぐりペルー共産党紅旗派より分裂しペルー共産党=マルクス・レーニン・毛沢東主義(PCP=MLM)結成.機関紙「マリアテギの輝ける道をめざして」を発行したことから輝ける道(センデロ・ルミノソ,以下SL)とよばれる.暴力革命の計画を作成し,地下組織の形成に向け活動開始.カワタ・マカベ(日系人でルイスとカルロスの兄弟)も指導者の一員となる.

70 APRA青年部,軍事独裁に反対する武装抵抗を開始.ガルシアやビクトル・ポライも闘いに参加.

 

1971年

1 労働省,CGTPを公認.この時点でCGTPはアプラ系のCTPを抜き最大の労働者センターとなる.PDCは別個にCNTを組織.このほか金属鉄鉱労働者連合(FNTMMP),教職員労働組合(SUTEP),公共部門労働者連合(CITE),住民連合(CGPP)などがつぎつぎに認可あるいは結成.

4 キューバ,中国とのあいだに通商協定成立.

4 リマ郊外のパプローナで大規模な土地占拠行動発生.軍部は大衆動員によりこれらの動きを統制しようと試みる.

6 全国社会動員支援機構(SINAMOS)設立.反共の立場からの翼賛組織作りをめざす.同時に,大衆に依拠して改革を推進する立場を鮮明に.CNAのほかペルー革命労働者連合(CTRP),全国工業共同体連合(CONACI),などをつぎつぎに創設.スラム街は「新しい街」と名付けられ,住宅や道路建設など環境の整備が進む.改革の恩恵によくせない高地農民は,農民連盟(CCP)を結成しSINAMOSに対抗,

8 中国とのあいだに国交樹立.

10 PDC青年部の多数派,みずからを社会主義者と規定.PDCを集団離党.

12 チリから帰国途中のカストロ,リマ空港でベラスコと会談.国交回復について合意.

 

1972年

4 全国工業協会会長に反ベラスコ派のライモンド・ドゥアルテが就任.軍政に対し対決姿勢を明らかにする.

5 PDC,軍政に対する全面的支持を表明.

5 政府,土地改革に抵抗する寡頭支配体制の中枢である農業経営者協会(SNA)を解散させ,これにかわり全国農業連合(CNA)を結成.

7.06 ペルー,キューバと復交.ベラスコは米国によるキューバ封じ込めを批判。

11月 鉄道公社(Enafer)が創立される。1890年以来ペルーの鉄道の大部分を所有していたペルー会社が接収されたもの。

72 アルホンソ・バランテス,共産党を離れ独自路線を歩みはじめる.

72年 エル・ニーニョが発生。カタクチイワシが絶滅する。漁業は壊滅状態に陥る。

 

1973年

1月 カリフォルニアのマグロ船20隻がペルー海軍に拿捕される。米国はペルーへの武器輸出を禁止。

1月 ペルー政府、米国の武器禁輸に対抗し、ソ連と武器購入契約を締結。

2.22 ベラスコ,腹部大動脈瘤破裂で緊急入院.命はとりとめたが片足切断.

3.11 革命評議会,メルカド首相が大統領職を代行すると発表.ベラスコからの権力取り上げをはかる.

3.16 左派系紙「エスプレッソ」のよびかけで,ベラスコ支持のデモ.CGTP,CNT,CTRPのほか社会主義人民行動党(旧APセオアネ派),PDC,PCなどが参加.ベラスコの政権復帰をかちとる.

4月 米政府、ペルーへの懲罰措置を停止。米州開銀や世銀の融資が解禁される。

5.28 ドルチコス・キューバ大統領,アルゼンチン大統領就任式に出席の帰途ペルー訪問.両国の外交関係が樹立される.

5 ベラスコ,左派の政治ストに対し強硬な態度をとる.2百名以上が逮捕され,リマの警察本部内の国家保安部で「犯罪捜査部隊」により拷問.

5月 漁業公社「ペスカ・ペルー」が創設される。全漁業を国有化し、漁業関係者を救済。

7.23 ペルー,非同盟諸国会議の正式メンバーとなる.

7.23 ペルー政府が,21日のフランスの核実験に抗議して国交断絶を発表.

8月 米政府特使がペルーを訪問。接収された米企業への補償問題について交渉。

73年 アマゾンのセルパ地帯で油田が発見される。政府は太平洋岸までパイプラインを敷設し、バヨバールにコンビナート建設を計画。日本などの借款をもとめる。

73年 オイルショックを機に経済が悪化。「混合経済」は資本主義の効率も、社会主義の規律も持ち合わせていなかった。輸出品国際価格の下落、一連の天災などが景気後退をもたらし、緊縮財政措置は政府への大衆の支援を侵食した。

 

1974年

1 ペルー最大の銅山会社であり,唯一の精練会社であるセーロ・デ・パスコ社を接収.政府は鉱業生産の半分,精練と輸出のすべてを統制下に入れる.

2.19 ペルーと米国、IPCなど5企業に対する補償問題で合意。IPCは1千万ドルの補償金を受け取る。補償の原資は米国銀行の融資による。

5 AP,民政移管を主張し活動禁止処分に.APの背後に軍政内反主流派の海軍が存在.

6月 週刊誌「カレータス」が発禁処分を受ける。

7.27 政府、新新聞法を公布。リマの有力6紙を接収し国有化。エル・コメルシオは農民の新聞、ラ・プレンサは労働者の新聞として再発足。

7.27 新聞社接収に抗議するデモ。500人が逮捕される。一部で破壊行為や暗殺未遂事件なども発生。

7 ベラスコ政権,「インカ計画」を公表.第三世界の一員であることを宣言し,輸出産業の国家管理,44家族に依るオリガルキー制度の解体をうたう.石油ショックによる財政難で,実体的には,すでに改革は終焉を迎える.

11.27 ベラスコ,メルカード首相を「更迭」.フランシスコ・モラレス・ベルムデス・セルッティ将軍が後継首相に就任。

大串先生から以下のごとくご指摘をいただきました。謹んで訂正させていただきます。
11.27に「ベラスコ,メルカード首相を更迭.」とありますが、 メルカードは1975年1月末まで首相を務めております。1974年11月27日にはベラ スコが、翌年の内閣改造を発表しました。その中で、メルカードが1975年1月末 に定年退役するのに伴い、モラレス=ベルムーデスが後任となると発表されて います。定年退役で内閣を退くことはベラスコ大統領以外の全将官の慣例でし たので、「更迭」というニュアンスはないと思います(モラレスが後継者であ ることを明確にしたことのほうが重要だったように思われます)。

74 消費拡大と輸入代替の促進により経済成長率は5年間にわたり5%近くを維持する.しかし農作物生産は改革前の水準以下にとどまり,結果として激しい物不足とインフレを招来する.

74 米国とのあいだにメルカド=グリーン協定締結.接収された米資産の一括保障がまとまる.米国は援助凍結を解除.

 

1975年

1 石油ショック後の経済安定政策強化.賃金凍結や改革ストップに対する労働者のストがあいつぐ.政府は力によるスト弾圧や新聞の発行停止処分で危機をのりきろうとする.

2.05 リマ市の警察官1万8千人,賃上げを要求しスト入り.アプラは反政府デモを扇動,左翼系団体の事務所を襲撃.スラムの住民は極左集団の扇動により商店街掠奪と焼き討ち.市内は無政府状態に陥る。

2月 ベラスコは警官ストを不法とみなし、全国に非常事態宣言.30日間にわたり憲法を停止.軍は実力行使に乗り出し、警察署にこもる警官と銃撃戦。86人が死亡.(一説に死者100人、負傷者1千人)

2月 民主勢力は,チリの経験に学び民衆組織調整地域委員会を結成.三大労働センター,CNAも結集.400万人を結集する大衆組織が食料,生産の確保,秩序維持と教宣活動にとりくむ.ベラスコ政権はPCに対する警戒感からこのイニシアチブを黙殺.むしろ反共姿勢を強めたことから民主勢力とのあいだに亀裂拡大.

2.25 ベラスコ,脳卒中で倒れる.海軍を中心にクーデターの動き活発化.

4月 政府、社会動員の機構を再編成すると発表。共産党の排除を狙う。

5 ケチュア語を公用語化.

6.30 政府,経済緊縮措置を発表.これに抗議するストが全国に拡大。

75年8月 ベラスコ解任

8.05 左翼系週刊誌「マルカ」が発行禁止処分を受ける.左翼活動家30人が国外追放.政府内左派に対しても監視の強化.

8.23 非同盟諸国外相会議開会.ベラスコは「もし一国の寡頭制が時代遅れというのなら,世界的な寡頭制も同断だ」とし第三世界の団結を訴える.

8.25→8.29 ベラスコの下で首相を務めるモラレス,タクナで蜂起(タクナソ)開始を宣言.各軍区と海・空軍はあいついでモラレス支持を表明. 新しい暫定軍事政権の満場一致の決定によってモラレスが大統領に任命される。

ここについても、大串先生からご指摘をいただきました。訂正いたします。
1975年8月25日にモラレス=ベルムーデスがタクナで蜂起したとあります が、モラレスがタクナで蜂起したのは1975年8月29日未明です。なお増田によれば、蜂起ではなく、ベラスコ辞任とモラレスへの交替を求める、5人の軍管区司令官の共同声明が発表された、とされます。

8.29 モラレスの反乱を知ったベラスコは、ただちにリマ東方20キロのチャクラカヨ離宮を離れ、リマに向かう。政府宮殿で閣僚会議を開催するがベラスコを支持するものはほとんどなく、夕方には国民に向けラジオ演説で辞任を表明。「ペルー人は互いに戦うことは出来ない」と述べる。

8.30 ベラスコは病気を理由に辞任.モラレスが大統領に昇格し非同盟諸国外相会議の閉会あいさつをつとめる.

モラレス: 正式にはフランシスコ・モラレス・ベルムデス・セルッティ。祖父Remigio Morales Bermudezは元大統領(1890 to 1894)、父Segundo Regimio Morales Bermudezは軍高級将校で1939年のAPRA反乱に際して暗殺された。彼自身は軍内エコノミストとしてエリートの道を歩んできた。

8.30 モラレス新大統領,反帝国主義路線を「1ミリも偏向せず」継続すると語る.しかし実際には、任期中,押し寄せるインフレの大波をくい止めるための緊縮経済計画を遂行することにおわれる.

10 軍当局の権威主義的態度に対しゲリラ闘争復活の兆し.ホセ・フェルナンデス,アントニオ・アラゴンら,旧MIRの一派を中心に武装集団再建に動く.

75年末 漁業の不振、銅の国際価格の低迷、オイルショック後の世界不況により経済困難が深刻となる。物価上昇率は40%に達する。貿易赤字は10億ドルに達し、対外債務は30億ドルを越える。

 

1976年

1.12 新政府は増税・補助金削減・賃金凍結を骨子とする経済政策を発表。

3 急進派抑えこみをねらう軍主流の「制度派」,三軍代表による統治評議会を設置.経済危機を前に生産性の向上が重視され,民間部門投資の刺激のため,改革を凍結.超緊縮政策を実行.

6.28 新緊縮財政計画が発表される。労働組合はこれに強く反発。

7.19 共産党系の労働総同盟が指導する24時間ゼネストが決行される。

7月末 ペスカ・ペルーの船舶1千隻が民間に売却される。

8 農地改革終了宣言.大農場の総面積の約半分が接収され受益者農民は28万人,農業人口の2割と発表される.封建的共同体に縛り付けられた高地の貧農は,ほとんど改革の恩恵に浴さず.農民連盟(CCP)はSLの温床となる.

10 チリ,ANCOMを脱退.

11 旧ベラスコ左派,社会革命党を結成.PDC青年部を中心とし,ロドリゲスやバルデスら左派将校も参加.

 

1977年

2月 産業改革法が改正される。産業共同体の会社の政府シェアーを50%から33%に引き下げ。

2 モラレス政権,民政移管の日程を明示した「トゥパック・アマル計画」を発表.民法改正により有権者資格を21才から18才に引き下げ.労働者,農民はモラレス政権の危機打開政策に反発しあいつぐスト.ペルー国内はマヒ状態に.

5 SL,アンダウイラス地方のCCP活動家フリオ・セサル・メツィッヒや紅旗共産党プカ・リャクタ派を加え勢力を増強.武装闘争の方針を確認.アヤクーチョ人民防衛戦線,農民大衆運動など大衆組織を創設.

12.24 ベラスコが死亡。リマでは市民20万人が葬儀デモに参加する。

7.20 左派若手将校によるクーデター,失敗に終わる.

7 第1回目のゼネスト.

12.24 フアン・ベラスコ・アルバラド没.67歳

77 バランテスら,人民民主主義連合(UDP)を組織.

77 MIR,再建を公式に声明.ゲバラの義弟リカルド・ガデアが指導.キューバの支持の下に合法闘争を展開.

 

1978年

2 モラレス政権,IMF融資の受入れを決定。このため平価切り下げ,為替自由化,財政支出削減,公営企業の人員カット,賃金凍結などを実施.

2.28 リマで第2回目の48時間ゼネスト。警察の弾圧により200人が逮捕される。

5.08 ペルーで小中学校の教師10万人がストライキに入る。ストは2ヵ月半におよぶ。このほかにもストライキが頻発。

5.22 ペルー労働総同盟、物価値上げに抗議し、第3回目のゼネスト.全土で3日間にわたり物価値上げ反対行動ひろがる.モラレス政権は非常事態を宣言,左翼・労組指導者の大量逮捕にふみきる.

6.18 制憲議会選挙.APがボイコットしたこともあり,アプラ党が36%・37議席を獲得し第一党となる。右派のキリスト教人民党は25議席にとどまる。統一左翼(IU)など左翼諸党が結成した「ペルー労働者・農民・学生・民衆戦線」(FOCEP)は12議席を獲得し躍進。プノ県,ウアンタ県(アヤクーチョ州)では県知事と議会をIUが掌握.

6月 制憲議会開催。議長にはアプラ党首のアヤが就任.

7.06 社会革命党分裂.追放された武闘派のルイス・バレセ(ルイス同志),ウラジミル・ゲバラ一派は社会革命党ML派を結成.ホセ・フェルナンデスらのMIR武装集団と合流.議会闘争と軍事行動の二正面作戦をかかげ活動開始.指導部にエルネスト・モンテス,ビクトル・カロが就任.バレセはペルー軍団のオルグとしてサンディニスタに加わる.

78 FIR,トロツキスト系組織の結集をはかりペルー労働者農民学生戦線(FOCEP)を結成.

78 麻薬製造目的でコカを耕作することを禁止.

78年末 緊縮政策による2年続きのマイナス成長のなか、対外債務は93億ドルまで膨らむ。

 

1979年

1 軍政,CGTPの72時間ゼネストを抑えるため全土に非常事態.

3.24 モラレス大統領,ボリビアに対し南部の2港の使用を認めるとの書簡.

7.12 制憲議会,ベラスコの目指した改革の方向を確認する憲法修正を可決し解散.農地改革などの実績と諸改革の成果が保障され,文盲をふくむ18才以上の成人に選挙権があたえられる.

8 アヤ死亡(84歳).後継者をめぐりアプラ内紛となり勢力を弱める.

10.13 アプラ,大統領選候補にアルマンド・ビシャヌエバ・デルカンポを選出.

12月 この年のインフレ率は74%に上昇(モラレスが就任した74年には17%だった)。対ドル交換レートは76年の55ソルから289ソルまで低下。リマ市民の実質収入は同じ時期に50%以上低下した。

79 大統領選にむけて左翼系を中心に15候補が乱立.ウーゴ・ブランコも立候補する.FOCEPゲナロ・レデスマ派は,ウーゴ・ブランコの大統領候補おしつけに反発しFIR=PRTを除名.

79 MIRスポークスマン,統一左翼戦線結成のための話し合いが持たれたと発表.参加グループは共産党,革命的共産党(労働者派),VRプロレタリア共産主義者同盟(バンデラ・ロハ).

 

1980年

1 8党があつまり民主主義左翼(IU)を結成.UDPのバランテスが議長に就任.MIR,IUに加盟の方針を打出す.

3 SL,第2回中央委員会総会を開催.「軍部は12年の施政のあいだに政治的に後退し国民の信頼を失った.いまこそ好機である」とし,9年の準備活動の後,人民戦争の開始を決定.

5.17 センデロ、アヤクーチョ州チュスチで投票所を襲い、投票箱を焼く。武装行動の開始.リマで米大使館,バンク・オブ・アメリカなどをあいついで爆弾攻撃.その後10年間の死者は1万8千人を越す.

ペルーのポルポト: グスマンは「ゴンサロ議長」と呼ばれ,制圧地域での商品販売を禁じ,主義にしたがわないものは,子供でも殺す残忍さから,「ペルーのポルポト」といわれる.一方麻薬カルテルと手を結び,潤沢な資金供給を受けているといわれる.

5.18 新憲法下最初の大統領選挙.ベラウンデが45%を獲得し,任期5年の大統領に返り咲きを果たす.アプラは20%に止まり、大幅に勢力を弱め,左派のガルシアの下に刷新をはかる.左翼勢力は連合に失敗し得票率は18%に低下.

5 ノーベル賞作家でキューバ革命を支持してきたバルガス・リョサ,デ・ソトとともに自由民主協会を設立.ハイエクやフリードマンを招くなど右翼的立場に転向.

7.28 百億ドルの対外債務と60%のインフレを残し民政に復帰,

8月 ベラウンデ大統領,開放経済政策を実施.GNPの36%に達する多額の資金を外国銀行より借りた.それはベラスコ政治が開始された68年の2倍にあたる.いっぽうで公共企業を民営化し,農業振興法を制定し大規模個人農の育成に重点を移す.

11 共産党,革命社会党,労農学戦線など六政党によりIU(左翼同盟)結成.地方選挙で24%を獲得,人民行動党につぐ第二位の地位をしめる.

80年 協同組合移行後も土地を所有できず,事実上の小作状態におかれた農民は,各地で協同組合の土地を占拠する行動に出る.土地占拠をめぐり農民活動家は大きく分裂し対立を深める.

80年 クスコでコカ栽培者による最初の年次総会.クスコの大司教が祝福のミサを行う.ベラウンデ,米国の圧力の下コカ生産を制限.

 

1981年

1 81 エクアドルとのあいだにマラニョン地方の帰属をめぐる争い再燃.エクアドルはリオ条約の再検討を要求,5日間の戦闘.

4 政府,プノ州のIU指導者7名をテロ容疑で逮捕.全州規模の抗議のゼネスト.

4.11 ペルー諜報警察(PIP),クスコ州でゼネストをおこなった民間建設業労組のロベルト・ロハス書記長ら8名の指導部を逮捕・拷問.

5.27 教育者で「全国人権委員会」メンバーのニコラス・マタヨシ,ウアンカヨでケチュア語教育をおこなうが,公安部隊により「SL」メンバーの疑いで逮捕.

9.15 ウアンタ州知事のシモン・サンチェス,公安部隊により逮捕・拷問.ベラウンデ時代に6千のペルー人が軍とセンデロ双方の暴行により死亡.軍の破壊活動により10億ドルの被害.数百にのぼる人権侵害について国際的人権団体から強く非難されながらも,ベラウンデは軍事的解決の方針を改めず,暴力の経済的・社会的バックグラウンドにも手を付けず.民衆をセンデロの側に押しやる結果となる.

9.19 プノ州フリでカトリック教会の農村教育教会事務所がダイナマイトで破壊.フリ大司教アルベルト・コエニスネク,右翼の脅迫があったと声明.

10.12 SLのテロを理由に,アヤクチョ州に戒厳令公布.PIPにより多くの拷問事件発生.

10.23 アプラの学生党員アントニオ・アエルベ,クスコ市内で公安部隊の「特別機動部隊」により逮捕・拷問.脳内出血で死亡.クスコ市内で抗議デモ.ホセ・マリア・デ・ラ・ハラ内相は,警察部隊の蛮行に抗議し辞任.

12.15 国連総会がペルーのデクエヤルを事務総長に任命.

 

1982年

2 アプラ全国会議.アラン・ガルシア(当時32歳)を書記長に選出.ルイシ・アルバ・カストロ上院議員を中心に政策体系「ペルーの計画」を策定.

3.03 SL,アヤクチョで蜂起開始.刑務所,警察を襲撃,政治囚3百人を解放.このときの銃撃戦で10人が死亡.以後アヤクチョ地方にテロルと反テロルが続く.

3 MIR,UDPの一部,PSR-ML,VRが合同しトゥパク・アマルー革命運動(MRTA)を設立.軍事綱領を採択する一方,フロント組織として人民前進運動(MPM)と人民民主統一組織(UMP)を結成.活動家は最盛期には4000から500を数える.主な指導者は元アプラ青年部幹部のビクトル・ポライ・カンポス,労組指導者で大工のネストル・セルパ・カロトリニ,FSLNとFMLNのベテラン,ルドルフ・クリエン・サマネスら.

5.31 革命社会党ML派,最初の武装行動としてリマ市内の銀行を襲う.

12.29 政府,テロ治安対策に軍の投入を決定.アヤクチョ,ウアンカベリカ,アプリマク(アンダウアイラス?)の三州に非常事態宣言を発し,センデロ掃討作戦を展開.センデロはこれ以外の地域への展開を図る.

82年 ペルーをエルニーニョが襲う。異常気象による経済的打撃により、経済成長率がマイナスに落ち込む。開放経済をとったことから、貿易赤字は大幅に拡大。インフレ率も73%に達する。 政府は対外債務返済のためIMFの方針に従い経済調整を実施.

 

1983年

2.23 SL,「人民ゲリラ軍」を結成,各地で一斉攻勢.封建的大地主の支配が失墜し,コカ製造農民の政府に対する反発が広がる中で政府からの庇護者として影響力を拡大.シエラ南部からさらにセルバ西部にまで活動領域を拡大.82年から90年のあいだに,センデロの攻撃により兵士5百人以上,警官千人以上が命を失う.

5.20 センデロ,山岳地帯で警察への襲撃を繰り返す.一連の行動で死者200人.さらにリマをはじめ都市部でもテロ活動開始.

5.31 政府,テロの頻発に対し60日間の非常事態宣言を発する.

7 アンデス5ヵ国大統領,カラカスで会談.ANCOM強化をさらに推進することで合意.

11 統一地方選挙.ガルシアを先頭とするアプラが首位に立つ。IUは30%の得票を獲得,アプラ党とともに大躍進.議長のバランテス,バリアーダス(貧困者地区)の厚い支持を背景に37%の得票でリマ市長に当選.

11.6 社会革命党ML派を中核にツパク・アマル革命運動(MRTA)創設.当初よりコロンビアM19の強い影響下に.アメリカ旅団からはニカラグア帰りの精鋭「ペルセオ」,VRプロレタリア共産主義者同盟(バンデラ・ロハ)のマリア・ルセロも創設に参加.

12 SLの最高幹部アントニオ・ディアス・マルティネス(アロンソ同志)逮捕される.のちに刑務所内の暴動時死亡.

83年 ウーゴ・ブランコ,IUへの参加の意志を表明するが,バランテスは「我々の団結をこわすのが目的の連中との同盟など信じられない」と拒否.

83年 ローマ法王庁,ペルーの司教あてに解放の神学の指導者,グティエレスを批判する文書を配付.

83 ベラウンデの輸出振興戦略,失敗.・エルニーニョなど自然災害,・国内政策の失敗と・大恐慌以来の世界的な一次産品の価格低下,・高金利,外資の流出がそれに輪をかけた.70年代を上回るインフレと不況が同時に襲った.経済成長率はマイナス12%に落ちこみ,実質賃金も20%低下した.失業・半失業者が65%に達する.大蔵省は「いまや今世紀最大の経済危機となった」と宣言.

 

1984年

1 キトでLA経済会議開催.「キト宣言」採択.

1 バランテス市長のもとでリマ市建設記念パレード.アルマス広場をIU支持者が埋めつくす.

1 MRTA,最初の行動としてリマ市内で警察署を襲撃.

3.23 リマでベラウンデの経済政策に抗議する24時間ストライキが決行される。武装した機動隊1万人がデモ隊に対抗。放水車でデモ隊を蹴散らし、催涙弾を打ち込む。共産党議長のホルヘ・デル・プラド上院議員(81歳)が弾丸を胸に受け死亡。さらにサンマルコス大学の学生2人も警官隊により殺害される。

3月 MRTA,元経済相宅に機関銃を撃ち込む.

6 LAの債務問題での団結を目指す,カルタヘナ・グループ結成.

6 MRTA,MIR残党の結集に成功.MIRの5つの分派の代表とPSR=ML,MRTAから8人の政治局を選出.エルネスト・モンテスが指導者に.武装闘争の開始で合意.軍事組織の建設はバレセが担当.キューバ=ニカラグア路線を明確にする.旧ベラスコ派軍人から,IUのバランテスにいたるまで広範な支持を受ける.

7.20 センデロ,コカ生産業者を政府からだけでなく麻薬密輸業者の横暴からも守る中で権威を確立.コロンビアの密輸業者から3千万ドルの「税金」を獲得するなど,現代史上もっとも裕福なゲリラとなる.豊富なコカイン・マネーを背景にアヤクーチョ全県で行動展開.政府は三県における活動地域全域でテロ対策の計画,実行を軍の全面管理下に移行.

8.8 SL,リマ近郊を襲撃.26人を虐殺.三県のほかワヌコ,パスコにも非常事態宣言.

9.12 SL,軍部協力者に対しあいつぐテロにより数十人を殺傷.

9月 MRTA,リマ海軍病院の哨所で下士官を狙撃し射殺.

10月 MRTA,米大使館の外側に放火.

10 MRTA,「マンコ・インカ,ツパク・アマル,マリアテギ,初期のアプラ,デラ・プエンテ,ギジェルモ・ロバトーンの後継者」としてペルー解放のため闘うと結成宣言.

1985年

1 ローマ法王,中南米を歴訪,「解放の神学」を非難.

3月 MRTA,ケンタッキー・フライドチキン2店に放火.3店目の放火は未遂におわる.

4.18 大統領選.アプラのガルシアが53%の得票をえて大統領に当選.IUのバランテスも23%の得票を獲得.一方ベラウンデのAPはわずか6%の得票にとどまる.モラレス元大統領も「エル・フレンテ」を結成し出馬するが、8人の候補中5位に止まる。(増田によればガルシアの得票は46%、IUが決戦投票を辞退したため当選確定)

4.18 下院選では180議席中アプラ105,IU8,AP10,ADC8となる.ベラウンデは100%の物価上昇のなかで退陣することとなる.対外債務の総額は80年の100億ドルから85年には130億ドルに増大.

7.28 36才のアラン・ガルシアが大統領となる.就任直後の世論調査では支持率90%に達する.就任演説で「利払いは,輸出の10%以下にとどめる」と声明.IMF介入を拒否.就任式に出席したブラジル,ウルグアイ,アルゼンチン,ペルーの4か国外相会議で,コンタドーラ支持グループ結成.

7.30 リマでキューバもふくむLA20ヶ国外相会議開催.ガルシア提案を受け,輸出額とリンクした債務支払い方式をよびかける.

7 MRTA,リマ市内の6警察署に狙撃と爆弾攻撃.市民3人が巻き添えにあい負傷.

8 三菱商事の現地自動車販売会社「日本モートル」,SLによる爆弾テロを受ける.

8.16 MRTA,ガルシアとの交渉をおこなうため武装行動を一時停止すると声明.

9 ガルシアの提案で「平和委員会」創設,ゲリラとの対話をはかる.教会も参加の意向を表明.

9.23 ガルシア,国連総会で演説.「ペルーは国民生活を優先させるために債務返済よりも民主主義を選択する」と発言.

10 軍部,ガルシアの対話方針に同調せず,解放勢力への弾圧を強める.MRTA,政府の対話のポーズはギマンでしかなく,ゲリラ活動を再開すると声明.教会もガルシア支持の方針を撤回.

11月 MRTA,テキサコ石油のリマ支社に爆弾.米大使館用地への侵入・爆破を試みるが,爆弾は外側の歩道で暴発.

12.27 政府,軍部の支持も得て米系石油企業ベルコ社の国有化を決定.

12 通貨がソルからインティに変換。賃金引き上げ,価格凍結などの内需拡大策により86年度の経済成長率は8.5%に達するが,投資資金欠乏に苦しむ.

 

1986年

1月 MRTA,二つの放送局を占拠.ケネディ上院議員の来訪に対し抗議の放送を流す.

2.7 この年SLの活動は頂点に達する.リマ市内でのテロ活動活発化.政府はSLの破壊活動に対しリマおよびカヤオに非常事態宣言.地方開発援助などのプロジェクトが滞る中で,苦しい生活の市民・農民はセンデロの宣伝を受け入れるようになる.いっぽう軍は,センデロを圧倒する能力を失い,麻薬業者の賄賂など腐敗が横行.

2 ガルシア,労働者の給与引き上げと一般販売税引き下げを断行.景気は上向きとなるが対外債務はさらに深刻化.生産能力にも限界が出始める.

3.15 ガルシア大統領,ニカラグアを侵略する勢力とは外交関係を断絶すると言明.

3 SL,チャクラ・パンパス地方で村長3人をあいついで殺害.

4月 MRTA,米大使の公邸に自動車爆弾をしかける.米資本の関連企業・銀行数力所にも爆弾攻撃.

6.18 リマで社会主義インター国際大会開催.

6.18 リマ,カヤオの三つの刑務所でSL系の政治囚が看守の武器を奪い蜂起.軍隊の出動により鎮圧.270人が死亡,うち100人が射殺.リマ市内のルリガンチョ刑務所では千8百名の定員に対し約5千名を収容していたことが,この事件を通じて暴露.ガルシア大統領は刑務所暴動に調査命令

7 SL,ソ連大使館を爆弾攻撃.

8月 MRTA,ガルシア政権に対する一方的休戦を破棄すると通告.政府関連のビル2カ所に最弾を仕掛ける.

8 経済成長率は9.5%に達しインフレも鎮静化に向かう.IMF理事会,ペルーを融資不適格国と宣言.

9.15 ガルシア大統領,首都をリマからアンデス山間地帯に移す構想を発表.

9月 MRTA,FPMRとの共同で,リマのチリ大使館を攻撃.

11 MRTAの軍事指導者バレセ,公安により逮捕.後継指導者にはアプラ青年部の活動家出身で,ガルシア大統領と同輩のビクトル・ポライ・カンポス(ロランド司令官)があたる.

12 MRTA,MIRと組織統合.アマゾン地方サンマルティン,ロレト,ウヤカリを中心にゲリラ部隊を組織,兵は千名を越えると自称.

12月 MRTA,米関連施設各所にダイナマイト爆弾攻撃.壁にMRTAとMIRの統合を宣言するペンキの殴り書きを残す.

 

1987年

1月 MRTA,ウアンカヨの陸軍施設を襲撃.募兵担当官を射殺..アメリカの航空会社,国連機関,オーストリア大使館などを爆破.さらにペルー大手銀行の各支店を連続爆破.

87年2月

2.13 政府,4千人の兵士を動員し三つの大学に立入り捜査.教授・学生ら795人を逮捕.ガルシア評価をめぐりIU内部に混乱.

2月 MRTA,リマ市内六つの放送局を占拠.政府を非難する放送.

87年3月

3 油田地帯に大地震,石油輸出ストップにより経済危機深刻化.他のLA諸国がつぎつぎにIMFとの交渉に入るなかで,ペルーは孤立.財政赤字とインフレが表面化.反政府運動強まる.アルバ・カストロ首相兼経済相,ガルシアに造反し辞任.後任にラルコ・コックスが就任.

3 MRTA,アマゾン地方で「チェは生きている」,「解放者トゥパクアマル」などの作戦をあいつぎ展開.人口2万5千のフアンヒをはじめいくつかの村を一時占拠したり警察署を襲撃したりするなど気勢を上げる.リマ市内では,教会に侵入し革命のアジ演説と大衆の武装闘争参加を煽動する演説.コンテナ会社を爆破の際は,追跡してきた管理人を射殺.

3.23 東京銀行リマ支店,MRTAによる爆弾テロを受ける.3日後にはSLにより沢木支店長が狙撃され重傷.東京銀行はペルーから撤退.

87年4月

4 ガルシア,空軍総司令官を解任.これに抗議し空軍機が大統領官邸を威嚇飛行.

4月 MRTA,タクナで放送局を占拠. ガルシア政府に対する武装闘争をよびかける15分間のテープを放送.

87年5月

5.19 労働総同盟の呼びかけで、ガルシア政権下初のゼネスト.バランテスは親ガルシアの立場からゼネストに反対し政府との話し合いをよびかける.これに反発したIU左派とのあいだに矛盾激化.

5.31 バランテス,IU議長を辞任.

5月 MRTA,リマでバス4台を爆破.放送局を占拠しMRTAの宣伝放送を流す.

87年6月

6.22 アルバ首相,ガルシア大統領に辞表を提出,内閣総辞職.

6.29 ガルシア,深刻化する経済危機を前に内閣を改造.ラルコ新内閣が発足.

6月 MRTA,リマで二つの放送局に侵入.「べラウンデ大統領時代のMRTA弾圧2周年記念」(?)の声明を流す.銀行への自動車爆弾攻撃.

87年7月

7.05 ガルシア大統領,複数為替レート制度を導入すること,債務返済の条件を厳しくすると発表.3日間の全銀行,証券取引所などの取引停止などの対応策を売り出す.

7.28 ガルシア,議会で演説.自党にもはからず独断で銀行など民間金融機関の国有化計画を発表.最大の金融機関であるクレジット銀行を擁するロメロ財閥など財界は,ガルシア政権から離反.

87年8月

8.07 ガルシア大統領,銀行・金融機関国有化法の執行を停止.

8.21 リマで銀行国有化反対の集会.世界的な文学者で保守派のバルガス・リョサ,銀行国有化に反対し市民運動「自由」を始める.

8月 MRTA,大統領官邸に手投げ弾攻撃.

87年9月

9月 MRTA,銀行施設39力所,官公庁,大学,アメリカ系企業に対し連続爆破作戦を展開.

87年10月

10.18 ガルシア大統領,非常事態の30日延長を発表.

10 ガルシア政権、銀行の国有化法案を公布。33の民間金融機関が国有化される.外国銀行が撤退し、投資水準は下降。これを機に経済は一気に崩壊状況に入る.

10月 MRTA,ボリビア大使館と米領事館の別館に爆弾を仕掛ける.

87年11月

11 MRTA,サンマルタン地方のジュアンティを80人以上の部隊をもって占領.治安部隊に先立ち逃亡.タルマの街の襲撃では政府軍の待ち伏せに合う.総勢790名中60名が殺害される(ロス・モリーノスの虐殺).

11.18 リマ市内のペルー日産工場に,30-40人からなるSL部隊の攻撃.倉庫が消失.警察隊との銃撃戦でゲリラ4人が死亡.

12 統一左翼(IU),政府との対応をめぐる一連の混乱を解決するため全国人民代表者会議を開催.7党の選挙連合を発展的に解消し,単一政党への合同路線を討議.議論の過程で武装闘争を容認する統一マリアテギスタ党(PUM),革命左翼同盟(UNIR),労農学人民戦線(FOCEP)と,議会主義をとる革命社会党(PSR),革命共産党(PCR)とが対立.ペルー共産党統一派(PCP=U)と社会主義政治行動党は中間派的立場に立つ.

 

1988年

1 「自由」のバルガス・リョサ,APのベラウンデ,キリスト教人民党(PPC)のルイス・ベドヤ・レジェスとプンタ・サルで会談.FREDEMO(民主戦線)の結成で基本合意.

2月 MRTA,リマのシェル石油事務所,製薬工場,家具店,ペルー・アラムコを連続爆破.

3月 MRTA,シェル石油リマ支店を爆破.2人が負傷.

4月 FREDEMOが正式に結成される。

4月 MRTA,米情報サービスセンター2カ所を同時爆破.

5.11 ラルコ首相,ガルシア大統領に辞表提出.内閣総辞職.

6.04 フレデモ、リョサを大統領候補に指名。

6月 MRTA,米大使邸に60ミリ追撃砲3発を射ち込む.

7.28 ガルシア大統領,国営企業330社の1/3を国家,民間資本,労働者参加経営に移行する方針を発表.事実上の民営化宣言.

9.6 ガルシア大統領,@日常食料品,ガソリンの2〜4倍値上げ,A賃金・物価の120日間凍結を指示.インフレ対策と称するが,事実上の物価統制放棄宣言.さらにインフレをあおる結果となる.

88年10月

10.10 SL,陸軍基地を襲撃.12人を殺害.

10.13 労働者総同盟(CGT,共産党系),緊縮経済反対の全国24時間スト.

10.21 ストの続く工業部門に緊急事態宣言発動.警官と陸軍を導入.

12.17 経済混乱の中でアプラ党大会.ガルシア大統領は党首辞任の意思を表明する書簡を提出.

88 ラ・モリーナ国立農科大学学長で,国立大学協会会長などをつとめた日系二世の農業経済学者アルベルト・フジモリ,カンビオ90(変革)を組織.「勤勉,正直,技術」をスローガンに中間層と貧困層の支持を急速に獲得.

88年 オジャンタとアンタウロのウマラ兄弟、軍内に秘密組織「ペルーナショナリスタ運動」(MNP)を結成。ベラスコ型の改革を目指す。兄弟の父イサーク・ウマラはアヤクチョ県で弁護士を務め、共産主義者といわれる。

 

1989年

89年1月

1 第1回IU全国大会を前に各派の大会.バランテス支持派は社会主義的合意(AS)派を結成.統一マリアテギスタ党はバランテス支持のマリアテギ地域委員会(PMR)と反バランテス派の革命マリアテギスタ党とに分裂.ヘンリー・ピース全国大会開催実行委員長を中心とするカトリック系大学知識人は社会主義確認運動(MAS)を結成.

1.19 リマ市近郊のワンパニでIU全国大会開催.バランテス派は新中央執行委員の選出が民主的でないと反対,IUを離脱する.IUはPCP=Uのデル・プラドを選出.

1 フニーン州カニパコのSAIS農場「カウイデ」で,3万エーカーの土地が一部農民により占拠される.「カウイデ」総会はこの行動を是認し,組合所有の土地を分配する決議.土地占拠を阻止しようと図る政府職員と衝突.

89年2月

2.27 センデロ,リマの食糧生産基地となっていた「カウイデ」農場を占拠.建物や資材を破壊,備蓄物を農民に分配.反対派農民39名が射殺される.センデロは新たなシステムを提示することなく,もっぱら「人民戦争」に向け兵の徴募を行う.

2 MRTAのロランド司令官,リリアナ司令官ら,ウアンカヨのホテルを襲撃するが失敗.秘密警察(PIP)により逮捕.

3.03 政府,リマを含む八つの州に,4日から60日間の非常事態令発令.

89年4月

4.28 ロス・モリノスで軍とMRTAとのあいだに戦闘.MRTAメンバー52名が逮捕された後殺害される.

4.14 フレデモを構成する三党,「政府綱領の基礎」を発表.

4.28 SLと鎮圧にあたった政府軍とのあいだに激しい銃撃戦.

89年5月

5.01 SL,下院議員二人を暗殺.さらに20人の国会議員に「死の脅迫状」を送る.

5.08 ビジャヌエバ首相兼内相,下院議員2人が暗殺された事件の責任とり辞任.ガルシアはサンチェス第一副大統領を後任首相に任命.

89年6月

6.4 バルガス・リョサ,フレデモの大統領候補に決定.

6.25 陸軍部隊,アヤクチョ州のセンデロ拠点を急襲し,ゲリラ42人を殺害.

6 世論調査では96%が司法制度に不信感.国会に対しても75%が不信.

89年9月

9.28 サンチェス首相兼大統領府長官ら15閣僚全員が総辞職.

9.30 ガルシア大統領,ギジェルモ・ラルコ外相を新首相に任命.政権は末期症状を呈する.

9 IUの候補者決定選挙.APSのグスタボ・モーメとPMRのアグスティ・アヤ・デラ・トーレとのあいだで争われる.いったんアヤ・デラトーレを候補に決定するが決着を見ず.話し合いの結果,MASのピースを統一候補とすることで一本化.IUを離脱したバランテス,社会主義左翼(IS)を結成し大統領選に立候補.

89年10月

10 統一左翼,路線をめぐって対立.マリアテギ統一党(PUM),革命的左翼同盟(UNIR),労農学人民戦線(FOCEP)派,武装闘争も辞さないと急進的立場を鮮明に.

11 統一地方選.リョサ人気に乗ったフレデモが各地で躍進.リマ市長選ではテレビのパーソナリティーで名を売ったリカルド・ベルモンが政策抜きのムード選挙で圧勝.IUのピースは12%,左翼社会主義的合意(ASI)は2%の得票しか得られず惨敗.アヤクーチョなどではセンデロの死の脅迫にあって候補を建てられなかった.

89 GDPは88年マイナス8.3%,89年マイナス11.9%.インフレは88年度1,722%,89年度2,775%,90年7,650%.ガルシア在任中の累積は2,200,200%となる。国家財政は9億ドルの赤字を抱える。一人当たりの年収は720ドル(1960 年のレベル)以下まで低下。GDPは20%以上低下する。