チリ年表 その1 破壊と建設の時代
チリとはマプーチェ族の言葉で「地の果て」を意味する.
アルマグロの遠征に参加した兵士が「チリ帰り」と自称したことから「チリ」の名称が広がる.
1500年
1519.8 マゼラン,五隻の船でセビリアを出発.
20.10.21 マゼラン(マガリャンエス),マゼラン海峡を発見.11月28日に海峡を通過しチリ沖に出る.その後タイタオ岬から西に進路をとり,太平洋を横断.
26.2 フフレ・デ・ロアイサ,マゼラン海峡横断を試みるが嵐に遭い失敗.船団の1隻サン・レスムス号が南緯55度に達し,ホーン岬の南で大陸が終わっていることを発見.
アルマグロのチリ遠征 33 チリ中北部を支配していたインカ帝国,ピサロにより征服,以後スペイン植民地となる.
35.7 ディエゴ・デル・アルマグロ,6百人のスペイン人と数千人のインディオをひきいチリ遠征を開始.
36 アルマグロ,アルゼンチン側からアンデスを越え,サンチアゴ附近まで進出.ゴメス・デ・アルバラードの一隊はさらにイタラ川(マウレ川)まで進出.レイノウェレンでカウポリカンの指揮するアラウコ族の一支族マプチェ族と遭遇戦,勝利するが大きな損害をこうむる.
37 アルマグロの遠征隊,金銀がなかったこともありチリから撤退.その後ペルーにもどったあとクスコに陣取りピサロとの内紛開始.
1540年
1 イタリア戦役のベテランでピサロの腹心ペドロ・デ・バルディビア,あらたにチリ植民者に任命される.150名の軍をひきいチリ遠征に出発.アタカマ砂漠を縦断しチリ中部に侵入.コピヤポーでミチマロンコのひきいるアラウコ族を打ち破る.「アラウカ」はインカ語で敵の意味,インカはこの勇猛なアラウコ族を征服できなかった.
1541年
2.12 バルディビア,サンチアゴ市を建設.さらに南方,現在のバルディビア付近まで進出.
9 ミチマロンコ,バルディビアの建設したサンチアゴ市を破壊.
42 プラセンシアの「カエサルの都」探検隊,ディエゴ・ロハスの命により海上からチリ探索.マウレ川河口に上陸を試みるが,砂洲に乗り上げ失敗.
43.9 バルディビア,ペルーとの交信のため,アコンカグア河口で造船作業に取り掛かる.兵力の分散により,防衛体制が手薄となる.これを狙った原住民は,造船現場を襲撃しスペイン人を殺害,サンチアゴもいったん灰燼に帰す.
45 バルディビアの命を受けたフアン・バウティスタ・パステネ,洋上から南方探検.マゼラン海峡方面を探索.アイニレオ(Aynileo)河口にバルディビアの町を建設.
47 バルディビア,援軍を求めてペルーへ帰還.王党軍に加わりゴンサロの反乱鎮圧に功績を上げたあとチリ総督に任ぜられる.
49 バルパライソに上陸したバルディビア,南方への進軍を開始.
1550年
2 アギレ指揮下のスペイン軍先陣,ビオビオ川近くに進出,アンダリエンでアラウコ族と激戦.大きな損害を受けコンセプシオンまで撤退.
3 バルディビア,アンダリエン川下流に要塞都市コンセプシオン市を建設.
6 プラード,バルコの町を建設.これを権利侵害と感じたサンチアゴのバルディビアはフランシスコ・デ・ビリャグランを派遣しプラードを打ち破る.
1552年
2 ヘロニモ・デ・アルデレーデにひきいられたスペイン軍,アラウカニーアに侵入しカリェカリェ河まで進出,バルディビア市などを建設.
1553年
12 アラウコ族の酋長ラウタロ,スペイン軍に捕虜となったあとバルディビアの馬丁となり戦術を研究.脱走に成功したあと6千名のアラウコ軍を組織し,トゥカペル砦を襲撃.バルディビアは部下50人を引き連れトゥカペル救援に向かう.
12.25 バルディビア,アラウコ軍により破壊される.敗走中のバルディビアは捕らえられ,拷問の上処刑される.バルディビアの後任指揮官にビリャグラン.
53 バルディビアの命を受けたフランシスコ・デ・ウジョア,チリ側からマゼラン海峡を探索.
1554年
2 ラウタロ,マリグエニュでもスペイン軍を打ち破る.抵抗は3年にわたりつづく.
54 フランシスコ・デ・アギレ,チリ総督に就任.
56 ラウタロ,アンゴルとコンセプシオンでスペイン軍を打破.コンセプシオンの町を破壊.
57.4 ビリャグランのひきいるスペイン軍,ラウタロ軍を壊滅.ラウタロ戦死.部下のカウポリカンが闘いを引き継ぐ.
58.2 カウポリカン,部下の裏切りにあい,捕らえられ処刑される.その後もアラウコ族の頑強な抵抗が82年まで続く.
58 ウルタド・デ・メンドサの命を受けたフアン・ラドリジェーロ(Ladrillero),チリ側からマゼラン海峡を通過し大西洋に至る.
60 スペイン軍に同行した詩人アロンソ・デ・エルシージャ・イ・スニガ,叙事詩「アラウカーナ」を発表.アラウコ族の英雄ラウタロを賞賛.アラウコ族は「高貴な野蛮人」とみなされるようになる.
61 ビリャグラン,チリ総督に就任.アラウコ族との全面戦争を開始.
67 チリを統轄するアウディエンシア,コンセプシオンに設置.
71 スペイン軍,プレンの戦いで大敗.
78年
11月 ドレイクはマゼラン海峡のはるか南に流され,そこにドレイク海峡を発見.太平洋に達する.五隻で出発した船団は「ゴールデン・ハインド」号一隻となる.モチャ島に到着する.原住民との戦闘で頬に傷を負う.
12月 ドレイク,バルパライソを襲撃.砂金を積んだ船を捕獲し,町を焼き払う.その後,スペインが防衛を強化したため,ラ・セレーナ攻撃には失敗.ペルーに向かう.
80 ウィリチェ族とピクンチェ族が大反乱.
82 アラウコ族の抵抗,いったん終焉.ペルー副王の息子ウルタード・デ・メンドサ,チリ初代総督として赴任.
82.11 ドレイク海峡の存在を知らなかった副王トレード,あいつぐ海賊の襲来を前に,ペドロ・サルミエント・デ・ガンボアに命じ,マゼラン海峡封鎖を試みる.探検隊は偶然ドレイク海峡を発見.
サルミエント,マゼラン海峡にノンブレ・デ・ディオスとレイ・ドン・フェリペの二つの要塞を建設.(サルミエントの英雄たん:彼は基地建設中,嵐に流され,リオまで漂流.そこで船を修理し,船員を集め基地に向かう.しかしまたも嵐に見まわれ,バイアに流される.リオに戻りふたたび基地を目指す.この船は海賊に襲われ,サルミエントは英国まで引き連れられる.英国ではウォルター・ローリーに庇護され,彼の冒険談は女王の耳に届く.彼は女王の接見を受けた後,旅費と旅券をもらい,本国に帰ることになる.しかし帰国途中,フランスでユグノー教徒に誘拐される.身代金が払えないまま虜囚の身となる.彼は結局マゼラン海峡には戻れなかった)
86 トーマス・キャベンディッシュの率いる第2次遠征隊,サンタマルタ島に上陸.原住民から補給を受けた上,バルパライソ攻撃に出発.港が霧に包まれていたため,北方10キロのキンテーロに上陸.守備隊と戦闘になり敗走.なおキャベンディッシュは,航海中,マゼラン海峡で要塞に篭る15人のスペイン人兵士を発見.収容を申し出たが,一人を除き拒否.彼らの皮膚は骨から垂れ下がり,誰も歩けるものはいなかった.もうひとつの要塞では全員が餓死していた.キャベンディッシュはここを「飢餓の港」( Port Famine)と命名した.
93 イエズス会のルイス・デ・バルディビアが現地着任.以後1619年まで,先住民の人権保護のために活動を続ける.
94.4 海賊ホーキンス,バルパライソを襲撃.町を略奪する.捕虜を返還し,個人の財産に手をつけないなど紳士的な態度をとったため,後に逮捕されたときも,副王の恩赦を受ける.
95 チリ総督M.G.オニェス・デ・ロヨラ(ガルシア・デ・ロアイサ?),ペランターロのひきいるアラウコ族との全面戦争を再開.
98.12.23 ロヨラ総督,クララバの戦いでペランターロの奇襲を受け戦死.ビリャリカ市のスペイン人は包囲され食料不足で餓死寸前に追いこまれる.
99.11.24 ペランターロ,バルディビア市を破壊.スペイン人はビオビオ川北岸に撤退.アラウコ族はその後数年間にわたりアラウカーニャ地方の植民地をほとんど破壊.
1600 00 オランダのコルデス兄弟,オリバー・バン・ヌールトらがチリ沿岸を襲撃.とくにヌールトはバルパライソ襲撃のときに捕らえたスペイン人水夫30人を斬首したことにより有名.
03 アラウコとの闘いに備え,最初の民兵組織が形成される.
09.9.8 サンチアゴにアウディエンシア再建.法王パウロ5世,アラウコ族との戦争を正義の戦争と認定.ガルシア・ラモン総督はアラウコ制圧が出来ず,脅威にさらされる.
15 英国人海賊ジョージ・スピルバーグ,アンデス西岸を北上.メキシコとペルーの港を攻撃.
23 ハコボ・レルミテ(L'Hermite)提督の率いる11隻のオランダ船団が,南米太平洋岸に出現.この内ヤコブ・ショウテン船長の船は,南米の南端に達し,ホーン岬と名づける.航海中に死亡したレルミテに代わり指揮官となったヘルクマンはバルディビアに要塞を建設.その後原住民と紛争になり,要塞を放棄.
41 スペイン軍とアラウコ族とのあいだに休戦成立.コンセプシオン近郊のビオビオ川を両者の境界とすることで合意.スペイン人は協定破りを繰り返したため,その後も紛争は続く.インディオの多くはスペイン人領主に取り込まれ,農園奴隷(インキリーノ)となる.
43.6 ペルナンブコのオランダ人ブロウェル,船隊を組みマゼラン海峡から北上.チロエ島に拠点を建設しアラウコを攻撃. アラウコはスペイン人との闘いを中止し,ブラウワーの部隊を駆逐するようスペイン軍に要請.
47 サンチアゴ,大地震により壊滅.
70 ジョン・ストロングの率いる英国船団がチリ沖に出現.物資の補給を要求するが,チリはこれを拒否.
80 カリブの英国海賊バーソロミュー・シャープ,パナマを越え太平洋岸に進出.フアン・エルナンデス島を根拠地とし,捕獲した2隻のスペイン船により南米の太平洋岸を荒らしまわる.まもなくシャープは仲間から放逐され,ジョン・ワトリングがこれに代わる.
81.3 シャープの攻撃を受けたチリ総督ジョセ・デ・ガロは,バルディビアとタルカウアノの要塞を強化.民兵を組織し,モチャ島とサンタマルタ島から島民を引き揚げるなどの準備を整えた上,フアン・エルナンデス島を襲撃.この攻撃を逃れ,島内に潜伏した海賊の一人アレクサンダー・セルカーク(Selkirk)は,後に救出され,潜伏記を書く.この書物は,後にデフォー著「ロビンソン・クルーソー」の原案となる.
85 海賊スワム船長,バルディビアを攻撃するが,守備隊の猛攻の前に敗退.スワムはその後エドワード・デイビスの一味に合流.
85 ウィリアム・ナイトの率いる英仏混合軍,数十人がラ・セレーナを襲撃.守備隊に追い返される.
86 デービス船長,ラ・セレーナを攻撃.守備隊の反撃に合い,30時間教会に立てこもった後フアン・エルナンデスに敗走.
88 ペルー地震.このあとリマ向けの小麦生産をおこなうアシェンダが増加,牧草地の「穀物化」が進む.
1700 00 五隻の英国艦隊がチリに向かったとの情報がマドリードからとどく.実際には鼓張された誤報であったが,チリ国内は恐慌に陥る.
20 英国人シェルボック,コンセプシオンを攻撃するが敗退.チリ総督府はこれに対応しすべての港を要塞化.
30 大地震によりサンチアゴなどチリ中部が壊滅.
41 ジョージ・アンソン率いる英国艦隊が,チロエ島のアンクードに接近.内一隻がグアヤネコ諸島で難破,生き残った4人がバルパライソに漂着する.その一人見習い士官のバイロンは後の詩人ロード・バイロンの祖父にあたる.フアン・エルナンデスに集結した艦隊は,チリ本土に一切接触しないまま,修復を終え航海を続ける.
53 ウジョア兄弟を団長とするスペインの学術調査隊,チリ全土で資料を採取.
54 コンセプシオン,アラウコ族の襲撃により破壊され移転.
59 カルロス3世即位.植民地経営の改革と殖産を図るブルボン改革改革開始.チリのアウディエンシアは,ペルー副王領からの大幅な自治が認められるようになる.
65 ホーン岬を経由して,直接ヨーロッパとの通商路開く.
76 ラプラタ副王領が新たに設置.チリはラプラタとの関係を深める.さらに米国との直接交易も始まる.サンチャゴを中心にペルー副王の圧政に対する反乱.
78 ペルー副王領からはなれ,チリ総督領となる(一説に57年).チリ領土の骨格ほぼ確定
81.1 3人のアントニオの反乱計画発覚.フランス人アントワーヌ・グラミュゼ,アレクサンドル・ベルネー,チリの大貴族アントニオ・ロハスらが独立と共和制をめざす武装蜂起を計画.
81.9 アラウコ族カシーケのチカグアラ,ペルーの反乱に続こうと南部や山岳地帯で蜂起を計画するも未然に発覚.
85 アントニオ・デ・コルドバ,チリ南部の探検,殖民には適さないと報告.スペイン王室に雇われたイタリア人探検家マラスピナ,チリの地図を完成.
88 アイルランド出身のアンブロシオ・オイギンス・イ・バジェナリ,チリ総督に就任.96年まで総督を務める.アラウコ族鎮圧に功績を上げる一方,産業振興と国内諸制度の改革に力を注ぐ.
91.6.10 アンブロシオ・オイギンス総督,エンコミエンダと強制労働を廃止.インディオは奴隷身分から解放される.
96 オヒギンス,アラウコ族制圧の功によりペルー副王に就任(庶子のオヒギンスはチリ独立の英雄となる).
独立と混乱の時代 1800
02 ベルナルド・オイギンス・リケルメ,英国留学を終え帰国.帯英中にミランダの知己を得る.
07 ナポレオン,スペインを制圧.弟ジョセフ・ボナパルテをスペイン王にすえる.チリの寡頭支配層は独立を画策.
08.2 ムニョス・グスマン総督死亡.現地のガルシア・カラスコが臨時総督となる.
09.9.18 サンチアゴの公開参事会(カビルド)開催.フランス革命の影響が及ぶことを恐れる保守派は,スペイン王室への忠誠を誓う.
10.9.18 カビルド,フェルナンド7世の名のもとに政務委員会「旧祖国」(Patria Vieja)を樹立.コンセプシオン出身のフアン・マルティネス・ロサスが委員長となる.君主制が復活するまでのあいだ,スペインをめぐるさまざまの争いから独立すると宣言.一方で植民地の自主独立も主張した.フンタはただちに港のあらゆる貿易商の自由を保障.それまでの米国との密貿易を公然化する.後にこの日が独立記念日とされる.
1811年
6 政務委員会,カラスコの腐敗を弾劾し実力で辞任においこむ.後任総督にコンキスタ伯が就任.ロサスは急進党を組織.アウディエンシアを解体しスペイン人官僚を追放.南部では初代総督の息子ベルナルド・オヒギンスにひきいられた民兵が立ち上がる.
9.4 元スペイン軍少佐ホセ・ミゲル・カレラ・ベルドゥーゴ,帰国し政権転覆をねらい策動開始.ララインのひきいる自由党と組み,ロサス放逐に成功.カレラを指導者とするチリ政務委員会成立.奴隷制を廃止するなど改革を実行.ロサスはコンセプシオンで反政府活動を継続.
11.15 カレラの兄フアン・ホセ・カレラ,砲兵隊をひきいクーデター.ララインと自由党を放逐.カレラは,みずからに加え北部のガスパル・マリン,南部のロサスを代表とする3人構成のフンタを提唱.
12.2 カレラ,国会解散を要求しふたたびクーデター.スペイン自治の枠内で独裁者となることを目指す.軍隊で教育を受けたカレラは,圧制的な支配を行う.完全独立を唱える北部のマリンと南部のオヒギンスはこれに抗議し地元に戻る.フランス革命の影響が及ぶことを恐れる保守派は,ペルーのスペイン軍と結び反オイギンスに回る.
1812年
1.12 カレラ,マウレ川北岸に兵をすすめロサスとの決戦をはかる.オヒギンスの仲介により,北部,中部,南部の3地方に分割してそれぞれ統治することで合意.
7.29 コンセプシオンの王党派,反革命を起こしロサスを放逐.ロサスはメンドサに逃れる.
1813年
2 ペルーのアバスカル副王,チリに反攻軍を派遣.アントニオ・パレハ提督を艦隊司令官に,オソリオ将軍を上陸軍司令官に任命.副王軍は米国船を雇い,バルパライソの港を封鎖.王党派の根城である南部のチロエ島に上陸,バルディビアで軍を編成.
3.26 副王軍,チロエを発ちコンセプシオン近くのサンビセンテに接近.部隊をレンガ河口に上陸させる.これに対しラファエル・デ・ラ・ソッタ大佐の率いるタルカウアノ民兵隊が応戦するが惨敗.コンセプシオンの独立派はなだれを打って退散する.部隊はコンセプシオンを占領.さらに北進を開始.政務委員会はカレラを総司令官,オヒギンスを副将とする防備軍を編制.
4.27 マウレ川南岸のパレハで両者の遭遇戦.独立軍の圧勝に終わる.副王軍は総崩れ状態となりいったん撤退.
5.2 独立派,コンセプシオンの奪還に成功.
5.15 追撃中のカレラ軍,ヌブレ川北岸サンカルロスで惨敗を喫する.副王軍はヌブレ川南岸のチランで軍を再編成.
9 カレラ軍,体制を建て直した副王軍によりコンセプシオンに封鎖される.
1814年
2 カレラ,コンセプシオンの包囲を突破.サンチアゴに退却をはかるが,副王軍ゲリラにとらえられる.その後逃亡に成功.
10.2 オソリオ将軍の率いる副王軍増援部隊がチリ南部に上陸.カレラに代わりオヒギンスがアラウコに進出.カンチャ・ラヤダでスペイン軍に闘いを挑むも敗北.その後も内紛のため敗戦を重ね,ランカグアまで後退.
10.11 カレラ兄弟は,サンチアゴ市内を掠奪したあとアルゼンチンに向け壊走.
10.12 オイギンス軍,ランカグアの決戦で壊滅.オヒギンスら残党はアルゼンチンに逃亡.
12 サンチアゴは副王軍の手に落ちる.最後までサンチアゴを守ったマヌエル・ロドリゲスは,スペイン軍により処刑.「再征服」を完了したスペイン軍は,反乱者に対して過酷な弾圧を加える.このため多くのチリ人は反乱側に結集するようになった.
1815年
15 アバスカル,副王を退任.後任にアルトペルーの英雄と呼ばれるペスエラ将軍が就任.ラセルナがアルトペルー総司令官に就任.
15 スペインの圧制に対する抵抗が強まる.チリのエリートは完全独立の方向へ動く.国内における抵抗運動の先頭に立った故マヌエル・ロドリゲスが国民的英雄となる.
16.1 アルゼンチンの命を受けたブラウン船長,海路カリャオ,グアヤキル港を襲撃.
1817年:チリ解放
1.18 ラプラタ連合州,当面最大の敵を,アルトペルーの王党派と設定,チリ,ペルー経由でこれを打倒す戦略を決定.サン・マルチン指揮下の4千名,亡命中のオヒギンスを先導にメンドサを出発.アンデスを越えチリに向かう.
2.08 アンデス軍の先鋒ラスエラス隊,サンタロサを占領.本隊はアンデス越えを完了,ロス・パトスを越えた部隊とウスパジャータを越えた部隊が,サンタローサで合流.この間に馬匹の3分の2を失う.
2.12 チャカブコの戦い.サンマルチンとオイギンスの連合軍がチリ総督管下のスペイン軍を破る.死傷者千名に及ぶ犠牲を出したスペイン軍はいったん南方に後退.このあとオイギンスがチリ独立軍の最高司令官となる.
2.12 カボット隊,コキンボ州を制圧.ダビラ隊,コピアポを占領,フレイレ隊はタルカを占領.
2.14 サンマルチン,サンチアゴに入市.チリを解放.
2.18 フランシスコ・ルイス・タグレ臨時総督,サンマルチンに総督就任を要請.サンマルチンはこれを断り,オヒギンスを最高統領に推挙.みずからはアルゼンチンに戻り軍の強化に専念する.
4.5 王党派のオルドニェス,南部で抵抗を続ける.ラスエラス隊,コンセプシオンを占領するが副王軍の増援をえたオルドニェスとのあいだに膠着状態が続く.
1818年 1.01 チリが独立を宣言.初代大統領にオヒギンスが就任.
1 ペスエラ副王,14年の勝利をもたらしたオソリオ将軍をチリ討伐軍司令官に任命.副王軍3千5百,タルカウアノに上陸.オルドニェスに代わり王党派の指揮をとる.
2.12 オヒギンス,いったんタルカに撤退.タルカで独立議会を開催.共和国として独立を宣言.執行議長にオイギンスを選出.
3.4 オヒギンス軍,タルカをさらに撤退.オソリオ軍,タルカに進出.
3.5 オイギンスはペルー解放を目指し,ブランコ・エンカラーダ提督を中心に海軍を創設.軍艦7隻を購入.ロンドンで買い求めたフリゲート艦ウィンドハムと艦長ジョージ・オブライエンがバルパライソに到着.船はあらためてラウタロ号と命名される.ラウタロ号はバルパライソ港を封鎖していたエスメラルダ号を駆逐することに成功.
3.20 オルドニェス指揮下の王党軍,タルカ近郊のカンチャ・ラヤダで独立軍を夜襲.オヒギンスは負傷,サンマルチンの副官も倒れるなど大混乱をもたらす.
3.23 サンチアゴに,サンマルチン敗北のニュース流れる.ロドリゲスは,デマと扇動により一時市議会の実権を掌握.議会の一部はスペイン軍と「裏切りの条約」を結び,フェルナンドへの忠誠を誓う.
3.25 オヒギンス,サンマルチン,ラスエラスらサンチアゴに集結,戦線建て直しにあたる.
4.05 サン・マルチン,スペイン軍の攻撃を迎えうち,サンチアゴ南方10キロのマイプーで決戦を挑む.オルドニェスはとらえられオソリオはタルカまで敗走する.
4.13 サンマルチンはいったんアルゼンチンにもどりラウタロ・グループと会談,ペルー侵攻作戦の合意をとりつける.
5.23 王党軍に内通したロドリゲス,軍により射殺.
8 最初の暫定憲法,国民投票で承認される.政権についたオヒギンスは,中央集権的体制の下に社会改革,税制改革,移民の奨励,交通体系の整備,教育の充実など積極的政策を進める.
9.5 オソリオ,サンチェス大佐にコンセプシオン部隊の指揮を任せカリャオに撤退.
10.29 サンマルチン,サンチアゴに戻りペルー進攻の準備を開始.
11 イギリスの国会議員で元海軍士官,冒険家のトマス・アレキサンダー・コクレイン卿,バルパライソに到着,独立軍に参加.
12 サンマルチン,南部平定を指示.フレイレのひきいる独立軍,ヌブレ川をわたりチランを占領.
18年 アルゼンチンで反オヒギンスのゲリラ活動を続けていたカレラの二人の兄弟,アルゼンチン軍により捕らえられ処刑される.
1819年
1 バルカルセのひきいる独立軍,コンセプシオンを制圧.サンチェスはバルディビアに撤退したてこもる.南部ではその後も散発的な王党派の抵抗が続く.
1.14 コクレイン,チリ海軍提督に就任.オヒギンス,サンマルチン,ラウタロ,チャカブコの4艦をひきいバルパライソを出港,第1回目のペルー攻撃に向かう.途中スペ,ウアチョ,パイタなどの港を襲撃し略奪を繰り返す.
1 サンマルチン,チリに財政的余裕がないと見て軍司令官を辞任,軍の主力をひきいメンドサに引き揚げる.
2.7 クーヨ州サンルイスの捕虜収容所で暴動.鎮圧によりオルドニェス,プリモ・デ・リベラらが殺害される.
2.28 コクレイン,カリャオの港を1ヶ月にわたり封鎖,数次にわたり侵入を試みる.
3 サンマルチンとラウタロ・グループのあいだに,ペルー遠征についての合意成立.チリのオヒギンス,ギドも遠征を支持するとあらためて表明.
9.12 コクレイン,第2次カリャオ攻撃に出発.カリャオ攻撃はロケット弾の不調のため戦果をあげることなく退散.その後第二の港ピスコを攻め,千人以上の守備隊を駆逐し占拠に成功.その後,精鋭を引きつれグアヤキルを攻撃.敵艦の捕獲に成功.さらに船団はバルディビア攻略を目指す.
1820年
1.20 サンマルチン,チリに入りペルー進攻の準備に入る.
2.5 コクレイン,コンセプシオンのラモン・フレイレの協力を得て,チリ南部の王党軍要衝バルディビアを攻め落とす.さらにチリ国内最後の王党軍基地チロエも攻撃するが,堅い防御のため敗退.
5.6 サンマルチン,チリ上院によりペルー遠征軍元帥に任命される.
8.20 サンマルチンの遠征軍,バルパライソを出発.9隻の戦艦,16隻の輸送船に5千名近い兵士,1600人の船員を乗せる.4ヶ月分の兵糧を積む.
9.7 サンマルチン軍,ペルー南部のチンチャ地方ピスコ港に上陸(ペルーでの作戦はペルー年表に)
11.5 コクレーン,2隻のボートでカリャオ港内に潜入.スペイン艦隊の旗艦エスメラルダ号の捕獲に成功.
1821年
7.24 コクレーンの部下トーマス・クロスビー,夜戦をしかけ敵艦4隻を鹵獲.スペイン軍は完全に戦意を喪失.アンデス山中に撤退.
7.28 リマに入ったサンマルティン,ペルー共和国独立を宣言.プロテクタトールの称号を受け最高司令官に就任.ラセルナの意を受けたカンテラック,バルデス,アルトペルー司令官のリカフォルトらは山岳地帯のウアンカベリカを確保,サンマルチン軍に対し抵抗を続ける.コクランは財産を奪うと戦線を離脱しチリに帰る.
21 アルゼンチン亡命中のカレーラ,二人の兄弟に続き,王党派のスパイとしてメンドサで処刑される.
22 旱魃と大地震,あいついで起こり,大地主を中心にオヒギンスにたいする不満高まる.オイギンス,独裁的権力を握ろうと憲法を提示するが保守派に阻まれる.反対派はサンマルティンのペルー遠征への支援も拒否.自由派は彼の独裁傾向を嫌い,保守派と教会は彼の反教会傾向を嫌い,地主は彼の土地改革を嫌う.旧カレーラ派は反乱の準備開始.
23.1.28 自由派の連邦主義者ラモン・フレイレ・セラーノ,南部で反乱開始.独裁傾向を強めつつあったオヒギンスは失脚.大統領を辞職しリマに亡命.フレイレが大統領に就任.貴族制廃止に反対し地主層を代表する一方,他国に先駆け奴隷制を廃止するなど自由主義的改革を進める.各州に大幅な自治を認める連邦制を採択.この結果チリは北部,中部,南部の連邦制に移行.以後自由主義派(ピピオネス)と保守派(ペルコーネス)の抗争続く.
26 フレイレ,チロエ島で抵抗を続けた王党派を駆逐.スペイン軍は最終的に撤退.
26 チリ,奴隷制を廃止.無条件で黒人奴隷4千人を解放.その後チリ国内から黒人は消滅.
27.5 フレイレ,保守派の圧力により大統領を辞任.フレイレ政権の副大統領フランシスコ・アントニオ・ピント・ディアスが大統領に就任.フレイレは,その後も何度か大統領(1828,1829,1830)に就く.
27 LA最初の新聞「エル・メルクリオ」バルパライソで発行開始.保守派の意向を反映.
28.8 ピント政権,中道革新の傾向を持つ憲法を公布,連邦制を廃止.ピントは連邦主義者や自由主義者と距離を置くようになる.これに反対するフレイレ,政権を奪取.二度目の大統領に就任.長子相続制度の廃止をめぐり保守党との間に紛争.間もなく保守派の抵抗に対処できないまま引退.ふたたびピントが政権に就く.
29.11 フレイレ,ふたたびクーデターを試みるが失敗.保守党の抵抗を押えられず国内は内戦状態に移行.保守党の指導者はバルパライソの商人ディエゴ・ポルタレス・パラスエロス.
29 チリ政府,ロンドン滞在中のベーリョを招聘.教育充実に力を注ぐ.
30.4.17 ピント,自ら辞任.フレイレが大統領となり最後の抵抗を試みるが,リルカイ(Lircay)の戦いで自由党軍は壊滅.フレイレはオイギンスの後を追うようにリマに亡命.保守党のディエゴ・ポルタレスが実権を握る.
30 この年でチリ人口百万人を越える.
寡頭政治の時代 31.9 ピント大統領,任期を全うし退陣.リルカイ以降,実質的には保守党支配が始まっていた.保守党のホアキン・プリエト・ビアル将軍が大統領に就任.その後二期10年にわたり大統領を務める.ディエゴ・ポルタレス・パラスエロスはみずから大統領となることはなかったが,内務,外務,陸海軍長官を兼ね,実質上の最高権力者として君臨.その開放経済政策は商人,大地主,外国人資本家,教会,軍隊の支持を一手に集めた.外国資本により港湾,鉄道,電信などが整備される.
32 チャナルシーリョ銀山発見.その後北部アタカマ砂漠地帯に銅,硝石鉱相次いで発見.チリ輸出産業の主体は鉱業となる.
33.3 保守党の指導下に共和国憲法(ポルタレス憲法)制定.大統領の任期は5年で一度限りの再選が可能.さらに後継者を指名する権限.きわめて限られた有権者により選出された大統領がすべての権限を握る.文民統制が明文化され、立憲政治の名の下に,「ポルタリオ国家」と呼ばれる中央集権システムが成立.その後90年間にわたる安定した寡頭制時代にはいる.カトリックを国教として認定.人口の大部分を占める土地なし農民と文盲は政治の場から排除される.この法律は1925年まで維持される.
1836年 サンタクルスとの闘い
6 ボリーバルの理想を再現しようとしたボリビアのアンドレス・サンタクルス・イ・カラウマナ将軍,ペルーに侵入しこれを併合.
7 ペルー亡命中のフレイレ将軍,サンタクルスの援助を受け政権奪還を目指す.アンクードに投錨したところをチリ軍に捕らえられ,攻撃は失敗.
8.21 アキレスの率いるチリ艦隊,カジャオを夜襲.停泊中の船舶を奪取.
10 サンタクルス,リマ政府を追われたオルベゴーソとともにペルー=ボリビア連合を成立させる.チリはガマラの亡命を受け入れ,亡命政府を承認.
12.28 チリ議会,ペルー・ボリビア連合に対し宣戦布告.開戦時,チリはわずか二隻の小舟艇しか持たなかったが,ペルー艦船を奪い短期間に強化.1年後には制海権を確保.
1837年
6 ディエゴ・ポルタレスの強権的政治に対する不満たかまる.マイポ連隊は,閲兵にきたポルターレスを捕らえる.反乱はまもなく鎮圧されるが,混乱の中でポルターレスは射殺される.
10 ブランコ・エンカラーダ指揮下のチリ軍2千8百名は,ペルー南部イスライに上陸.困難な進軍の末アレキパを占領.チリ艦隊がカジャオとグアヤキルを封鎖.
11.17 チリ軍,パウカルパタの会戦でサンタクルスの指揮する同盟軍に敗北.休戦条約を結びバルパライソに帰還.
1838年
1 チリ政府,サンタクルスと結んだパウカルパタ休戦条約を拒絶.マヌエル・ブルネス・プリエト将軍の指揮する軍を再度派遣.アルゼンチンもチリを支援.
8.6 チリ軍,リマ北方のアンコンに上陸.ゆっくりとリマに向け前進.この間チリ海軍がカジャオ港を封鎖.
10 チリ軍,上陸後三ヶ月でリマを占領.
11.3 サンタクルス軍,リマに接近.チリ軍はいったんリマを撤退.ウアチョに陣を構える.
38 農業全国協会創設.現在にいたるまで封建・反動層の最大のバックボーンとなる.
1839年
1.6 サンタクルス軍とチリ軍,ブ?で対決.
1.12 カスマの海戦.英提督ロバート・シンプソンの率いるチリの小部隊がペルーの艦隊を打ち破る.
1.20 ブルネス将軍の指揮するチリ=ペルー保守派連合軍,リマの北方ユンガイ(Yungay)の戦いでサンタクルスを打破る.
4 勢いに乗るチリ軍は連合軍の残党を打ち破り,ふたたびリマを占拠.ペルー=ボリビア連合崩壊.サンタクルスは失脚しエクアドルに亡命.
40 銅山の開発進む.世界銅生産の4割に達する.
41.10 プリエトに代わり,マヌエル・ブルネス・プリエト将軍が大統領に就任.二期十年にわたる.プリエトはリルカイおよびジュンガイの戦いを指揮した英雄.
42 チリ国立大学設置.ベネズエラのアンドレス・ベリョが学長に就任,ラテンアメリカ各国の自由主義者が結集.ロサス独裁を嫌い逃れて来た多くのアルゼンチン知識人を迎える.フランシスコ・ビルバオ・バルギン,ホセ・ビクトリーノ・ラスタリア・サンタンデルらが指導.「1842年世代」を形成.
43 ブルネス大統領,ビオビオ川以南のマプーチェ族掃討を命令.マプーチェの同意なく移住者に無償払い下げ.マプーチェ族は武力抵抗を展開.
43.9.18 南方探索を命じられたフアン・ウィリアムス(ギジェルモ),マゼラン海峡に到達.サルミエントの建てた廃屋に基地を再建.
44 スペイン,チリ独立を承認.
49 ホセ・サントス・マルドネス,カーボン・リバー(現リオ・デ・ラス・ミナス)の河口に恒久基地プンタ・アレナスを建設.南方進出の拠点とする.
51.4 保守党のマヌエル・モント・トレスが大統領に就任.これに反対する自由主義者が反乱.数千人が死亡する内戦となる.モントは英国船の援助を受けこれを鎮圧.フランシスコ・ビルバオを指導者とする「社会主義者」の反乱,失敗に終わる.ビルバオは国外亡命.
51.11 プンタ・アレナスでホセ・カンビアソ中尉の反乱.有力者を処刑した後,略奪・放火し逃亡するが,アルゼンチンで捕らえられ処刑.
51 保守党のマヌエル・モント,大統領に就任.10年にわたる在任中,経済発展と政治安定,穏健な改革を実現.教会財産は徐々に制限されるようになり,初等教育における政教分離も少しづつ実施される.長子相続制実施,永代所有制廃止,インディオの土地取り上げなどにより農村からの労働力創出をうながす.ドイツ移民を多数受入れ,鉄道,港湾整備などインフラ整備にも力を注ぐ.
52 チリ最初の鉄道・電信開通.
55 アタカマ砂漠で世界で最も埋蔵量豊富な硝石が発見される.
56 大統領選.自由党の分裂によりふたたびモントが政権を握る.モントの与党,新興支配層の要求を代表する党として国民党が結成される.国民党は保守党に比べ,より反教会的で中央集権主義的立場をとった.三党が上流階級の支持を争う.自由党内の左派はさらに急進的な改革を要求.
59.1.05 銅,小麦価格の暴落.強権姿勢を強めるモントに対する批判高まる.自由主義者,親教会派の保守党員,地方政治家などが同盟.議会を中心に各地で反政府派による反乱勃発.4ヵ月にわたり内戦状態となる.モントは当初武力弾圧の構えを見せたが,反対派も受け入れたホセ・ホアキン・ペレス・マスカヤノを後継に指名することで事態の収拾を図る.
59年 チリ南部のマプーチェ族,内戦に呼応して最後の抵抗運動に決起.移住者に対する襲撃を開始するが,61年完全敗北に終わる.軍は内戦に関与せず.
1860年
11.17 フランス人冒険家のオルリー・アントアン、チリ南部に入り、マプチェ族(Mapuche)の抵抗闘争に参加。アラウカニアの独立宣言を発表。宣言の写しをチリの新聞に送付する。
12.20 アントアン、パタゴニアもふくめた「アラウカニア・パタゴニア王国」の独立を宣言。マプチェ族は彼を王に推挙する。国旗として青・白・緑の三色旗が制定され、硬貨の鋳造も行われた。
60 チリの銅生産,世界の4割に達する.
61.9.18 大統領選で自由党のホアキン・ペレスが当選.二期十年にわたり大統領をつとめる.このあと91年まで30年にわたり自由党政権が続く.
62年 オルリー・アントアン、チリ政府に拘束され、フランスに追放される。
1863年 海岸戦争
4 スペイン遠征隊がバルパライソ沖に到達.司令官は独立戦争時にスペイン軍司令官だったパレーハ提督の息子.当初は親善航海を装うが,ペルーに入ってからは次第に支配復活の狙いを明らかにする.
63 保守化した自由党に抗議し,党内左派が急進党を結成.都市中間層を支持母体とし最大野党として進出するようになる.
64 スペイン艦隊,グアノの採取地チンチャ諸島を占拠.主要な港を封鎖してペルー政府に交渉を強要.チリ大統領ペレスはスペイン砲艦ベンセドーラへの石炭,水の補給を拒否.
65.9.17 パレーハ,バルパライソに旗艦を入れ,チリ海軍の敬意を要求.チリはこれを拒否して宣戦布告.ペルー,チリ,ボリビア,エクアドルが同盟を結ぶ.海岸戦争開始.
65 南部のアラウコ族による反乱,数年間にわたりつづく.
1866年
2.07 ペルー艦隊,チロエに到着しチリ海軍と合流.スペイン艦隊の攻撃を受けるが撃退.
3.31 スペイン艦隊,バルパライソの海岸に艦砲射撃.チリはほとんど対抗できず.港湾設備とチリ所属の船舶のほとんどが焼き尽くされる.
5.02 スペイン艦隊,カジャオを襲撃.守備隊の反撃にあい,百名の戦死者を出すなど甚大な被害.その後補給の欠乏から戦闘継続が困難となる.
9.17 チリ海軍提督フアン・ウィリアムス・レボジェードの率いるアンデス連合軍,パプードの海戦でスペイン軍を撃破.まもなくスペイン軍は南米再制覇を断念.
66 チリ政府,マプチェ族の保留地(レドゥクシオン)を指定,残余の土地を移住者に払い下げ.インディオを押し込めようとする.
66 爆薬の原料,硝石の世界的需要高まる.ボリビアとチリとのあいだに第一次国境条約.アタカマ砂漠の真中,アントファガスタ港のすぐ南,南緯24度を両国の国境とすることで合意.南緯23度と25度のあいだの地下資源については,両者が自由に採掘してよいが,そこからの利益は平等に分け合うことになる.その後,砂漠のなかに引かれた境界線のあいまいさにより矛盾が表面化.チリとボリビアは相互に66年協定侵犯を非難しあう.
67 国立高等学校,コントの高弟ガビノ・バレダを校長に迎え開設.チリのエリート養成機関となる.
1870年
70 ボリビアとの共同開発地域に銀山発見.24度以北をボリビアの専有とする条約改訂.ボリビア領のアントファガスタ,ペルーのタラパカなどにチリ資本の進出ラッシュ.背景にはチリ会社に出資した英国.
71 憲法修正により,大統領重任が出来なくなる.また宗教裁判所を廃止.教会はこれに対抗して議員たちを破門.
71.10 ペレスに代わる大統領にフェデリコ・ エルスリス・サナルトゥ(Federico Errazuriz Zanartu) が就任.
73 ペルーとボリビア,鉱山資源に関する秘密同盟条約を締結.チリ資本の駆逐をはかる.チリとボリビアは相互に66年協定侵犯を非難した.
73年 政府,アラウコ族の土地に対する支配権を定めた法律を制定.
1874年
74 チリ=ボリビア条約が修正される.チリは鉱物輸出税の分け前を放棄.ボリビアは税収のすべてを獲得する引き換えに、チリ資本の鉱業会社に対する企業税を25年間凍結することで合意.チリは英国の出資を受け,タラパコとアントファガスタに鉱山会社(Antofagasta Nitrate Company)を設立.急速に事業を拡大したため、ボリビアは警戒感を強める。
74年 チリの近代砲艦マガリャネス号950 トンが就航。英国のRaenhill海軍造船所で作られ、1,040馬力のエンジン、11 ノットのスピード、7インチ砲、2インチ砲、64ポンド砲を装備していた。
74 選挙法改正.男子普通選挙法が成立.財産による差別を撤廃し,すべての文字を読める男性に選挙権が付与される.
75 ペルー,タラパカ州内のチリ経営の硝石鉱山を収用.
1876年
10月 自由党の アニバル・ピント・ガルメンディアが大統領に就任.
76年 チリの最新鋭戦艦Admiral CochraneとBlanco Encaladaが英国で建造される。
チリとペルーの海軍力: チリの二隻はともにエドワード・リード卿の設計で、ヨークシャーのEarle 海軍造船所で作られた。排水量は3,560 トンで、 二つのスクリュー、4,300 馬力のエンジンを備え、最高時速は12ノット。9インチの主砲6門のほか、4.7インチ砲4門、1インチNordenfeldt 機関銃3丁、 14 インチ魚雷発射装置4基を擁していた。
一方、ペルーの主力艦インディペンデンシア号は、排水量2000トン、1865 年製造の老朽艦。スピードは 12,5 ノットに達するが、エンジンは550馬力で主砲も4インチに過ぎなかった。
1878年
2月 ペルーの圧力を受けたボリビア議会、チリのRailroad of Antofagasta会社への税金を引き上げることを決議。会社は新税を拒否し、政府を通じて提訴する。
11 ボリビアのイラリオン・ダサ大統領(Hilarion Daza),74年協定を破り、アントファガスタ州のチリ鉱山会社経営の硝石鉱に対する税額引き上げを決定.チリのAnibal Pinto大統領は協定違反と抗議するが無視される.
ボリビアは短命政府が続き、内政は混乱。実際にはチリと戦うための準備はまったく出来ていなかった。また孤立した海岸地帯と背後の広大な砂漠という地理的条件から見て、制海権を掌握することが死活的に重要であるにもかかわらず、ボリビアの海軍力は事実上ゼロであった。またペルーは当時経済的苦境にあり、海軍には適切な訓練を与える余裕も財政的能力もなかった。鋼艦はウアスカルとインディペンデンシアの二隻のみで、ほかの大部分は正規の戦闘に耐えうる代物ではなかった。一方チリは戦争に備えて準備を整えており、海軍は近代的装備に基づき十分に訓練されていた。主力戦艦Almirante Cochrane号とBlanco Encalada号はペルーを圧倒する強力な火砲を持っていた。
1879年:太平洋戦争
1月 ボリビア、チリ政府の提訴を退ける。鉱山会社は増税分の支払い拒否.チリは戦艦 Blanco Encalada号をアントファガスタ港に送り威圧。
79年2月
2.01 ボリビア、チリ軍艦の領海侵入に抗議し、税金支払いを拒否するアントファガスタ硝石・鉄道会社の資産没収を発表。
2.12 チリ外相、アントファガスタの総領事に訓告。「海軍がアントファガスタを占領し、大統領が領土編入を宣言し、知事を任命するであろう」とする。チリは硝石資源確保をめざしただけではなく,ペルーを弱体化し太平洋における覇権を獲得しようと狙っていた.
2.14 ボリビア政府、アントファガスタ硝石・鉄道会社を没収し競売にかけると公表。チリは募集が実施されれば国境条約を破棄すると通告。
2.28 競売の予定日、エミリオ・ソトマヨール大佐の率いる500名のチリ軍がアントファガスタに上陸.ボリビア政府が硝石会社を競売しようとするのを阻止.ボリビア側は組織的な抵抗を起こさないまま占領を許す。
エドワルド・アバロアの記念切手(ボリビア)
79年3月
3.01 ボリビアはただちにチリとの外交・通商関係を停止。チリに宣戦布告.秘密条約に基づきペルーに参戦を求める。
3.01 ペルーのプラド大統領(Mariano Prado)、ボリビアとの秘密同盟条約を公表すると同時に、チリとの交渉のためにJose Antonio de Lavalleを代表とする外交使節団を派遣。
3.04 ペルー外交団がバルパライソに上陸。チリ政府に和平案を提出。ボリビアが10%の硝石輸出税をかけるのを停止させることを柱とする。チリはこの提案を拒否。ボリビアと開戦した場合、ペルーが中立を保つようもとめる。暴徒が領事館を襲撃したため、ラバジェは近くのホテルに逃げ込む。
3.23 Topáter の戦闘。554名からなるチリの騎兵・歩兵部隊が、ラパスにつながる道路上の要衝カラマ(Calama)占領を目指す。ボリビア側は、ラディスラオ・カブレラ博士(Dr. Ladislao Cabrera)に率いられた兵士・市民135人が対抗。トパテル川にかかる二つの橋を落とし、塹壕を掘り、迎え撃つ。人員・装備ともに圧倒的に劣勢なボリビア軍はまもなく撤退するが、エドゥアルド・アバロア(Eduardo Abaroa)大佐の率いる市民部隊は最後まで戦い続けたと言われる。
Wikipediaというのはすごいもので、エドゥアルド・アバロアについてもかなり詳しく記載されています。
Colonel Eduardo Abaroa:Topáterにおける市民の抵抗を率いた、ボリビアのもっとも有名な英雄の一人。リトラル沿岸地方の銀鉱山で技師として働いていた。最後にチリ軍に包囲され降伏を勧められたときこう叫んだという。"¿Rendirme? ¡Qué se rinda su abuela, carajo!"(降伏だと? お前の祖母さんはお前に降伏しろといったのかい?)
ちなみにコロネルというのは正式の位階ではなく、地域の旦那さんというほどの意味です。ブラジルでは「コロネリスモ」というと地方主義、「旦那衆の仕切る政治システム」をさします。3月 ペルーはチリに圧力を加え交渉を継続するため、アルゼンチンにも同盟に加わるよう依頼。アルゼンチンはパタゴニアの問題でチリと係争中であったが、独自に平和解決の道を探ることとし、同盟には加わらないとの態度をとる。
79年4月
4.03 チリは、ペルーとの外交関係を断つ。
4.05 チリ、ペルーとボリビアの両国に対し宣戦布告。秘密同盟にもとづきペルーも参戦.4年間にわたる「太平洋戦争」起こる.フアン・ウィリアムズ海軍少将の率いるチリ艦隊,海岸線を北上開始.
4.12 両艦隊が最初に衝突したChipana の海戦。。ペルーのコルベット艦ウニオン号とピルコマヨ号(Pilcomayo)が、Huanillosの沖合いで、イキケ(Iquique) へ向かうチリのコルベット艦 マガリャネス号を発見。2時間にわたり砲火をまじえる。ウニオン号にエンジン故障が発生。マガリャネス号は軽微な損傷を受けたものの脱出に成功。
4.17 ウィリアムス少将の率いるチリ艦隊,モジェンド(Mollendo)とピサグア(Pisagua)、Huanillos, Picaの港湾設備を艦砲射撃により破壊.ペルーの硝石積み出し港イキケを封鎖.
4月 チリ艦隊がボリビアの全海岸線を封鎖.アントファガスタ州全域を支配下に置く.同盟軍は、武器・弾薬の海上からの搬入が不可能となる。紛争地帯への陸路が整備されておらず,最初から苦戦を強いられる.
79年5月
5.16 イキケを封鎖中のチリの主力艦隊,カリャオに停泊中のペルー主力艦2隻を急襲するためにイキケを出発.これは誤報で、ペルー艦隊はアリカにいた。ペルー艦隊はチリの動きを知り,イキケを包囲中のチリ中小艦を襲撃するために出発.
5.21 イキケ沖の海戦。ペルー艦隊の主力艦ウアスカルとインデペンデンシアが,イキケ封鎖に残留したエスメラルダ号とコバドンガ号(Covadonga)に降伏するよう勧告.チリ艦隊はこれを拒絶する.4時間あまりの海戦でチリ戦艦エスメラルダ号が撃沈される.ペルー最大の軍艦インディペンデンシア号は、老朽木造船コバドンガ号の策略にかかり、Punta Gruesa で座礁・沈没。
5.22 チリ艦隊がカジャオを攻撃するが,ペルー軍はすでに港外に避難.ウィリアムスは船団をイキケに戻す.
5.24 イキケの海戦後ペルー海軍で唯一残された戦艦ウアスカル号が Iquique に戻る。このあミゲル・グラウ艦長の指揮の下、チリのコビハ、 Tocopillo 、Mejillones 港に一連の奇襲攻撃を行い対抗。
5.26 Huascar 、アントファガスタ港を奇襲。2時間にわたる攻撃で港湾施設を壊滅。
5.27 Huascar 、アントファガスタとバルパライソをつなぐ海底ケーブルを破壊。
5.28 Huascar 、ペルーのスクーナー、カケタを奪還。さらにチリの輸送艦Emiliaを鹵獲。
5.29 Huascar 、ウィリアムズ海軍少将の旗艦 Blanco Encaladaに追撃を受けるが逃走に成功。Huascar はチリにとって悪夢となる。
79年6月
6.02 Huascar 、Arica から Pisagua に進出。イキケ以南の海域に威力偵察行動に出る。
6.03 Huascar 、Huanillos と Puntaのあいだで、再び戦艦 Blanco EncaladaおよびMagellan号に遭遇。砲火を浴びせた後ただちに退却。18時間にわたる敵艦の追跡を振り切り、カジャオに戻る。
79年7月
7.06 Huascar は、再びカヤオから南部へ進出。
7.09 Huascar 、アントファガスタへ進出。停泊中のチリのコルベット艦アブタオとマガリャネスを奇襲。アリカに引揚げる。
7.16 チリ艦隊、無防備のイキケ港を攻撃。
7.17 Huascar 、4回目の攻撃作戦を開始。イキケ攻撃に対する報復作戦として、チリ各地(Chanaral、Huasco など)を奇襲。チリの小型船舶を破壊。航行中の船舶を鹵獲しカリャオに送る。
7.23 Huascar 、チリの軍事輸送船Rimac号を鹵獲。リマック号は1,870 トンで、32ポンド砲で武装。ジュンガイ(Yungay)の警察軍(Carabineros)連隊に所属する騎兵一個大隊を運んでいた。この大隊の司令官はマヌエル・ブルネス中佐、兵員は260人、軍馬215頭を擁していた。
79年8月
8.01 Huascar 、コキンボ、タルタル、トコピジャの港を攻撃。
8.24 Huascar 、払暁を利用してアントファガスタの港に潜入。停泊中のマガリャンエス号に魚雷を放つが、魚雷は不発に終わる。
8.25 Huascar 、タルタル港に潜入。ボート三隻を破壊し6隻を鹵獲。
8.26 議会、Correrias del Huascarと呼ばれる作戦の功績を認め、ウアスカル号のグラウ艦長を当時最高ランクの海軍少将に任命。
8.28 Huascar号、アントファガスタに戻り、Abtao and Magellan号とふたたび対決。アルタオ号に甚大な被害を与える。
79年10月
10.08 イキケ付近アンガモス(Angamos)で海戦.ペルー唯一の大型戦艦ウアスカル号がチリ艦船の挟撃を受け,ウアスカル船上で白兵戦となる.グラウ艦長以下61名の将校・水兵が殺され,船は乗っ取られる.これにより両軍の海軍対決は終わりを告げ、チリは制海権を全面確保.(ウアスカル号は現在チリのタルカワノ港に係留、公開されている。
10月末 チリ軍1万6000人がアントファガスタに集結.エラスモ・エスカラ将軍の率いる部隊は、タラパカ州のペルーからの切り離しを狙い、ピサグアとフニンに上陸を試みる。これらの町はアントファガスタ北方500キロ、イキケを越えてさらに北に位置する。フアン・ブエンディアの率いるペルー第一南方軍は、これを阻止しようとして南下。
79年11月
11.01 上陸部隊を乗せたチリ艦隊が、ピサグアとフニンに艦砲射撃を加える。
11.02 2100人の上陸部隊がピサグアの港に強行接岸.1200人の連合軍守備隊は,5時間にわたり抵抗を続け,チリ軍に350人の損害を与えたあと撤退.ピサグア上陸作戦と平行して行われたフニンの上陸作戦は失敗に終わる。
11.18 ピサグアのチリ軍は6千人に増強。南方の要衝イキケを目指す。いっぽうフアン・ブエンディアの率いるペルー軍も、ボリビア軍をあわせ9000人に達し、ピサグア市街を確保。ピサグア港に陣取るチリ軍を包囲.
11.19 サンフランシスコの戦い(一説にピサグア近郊のドロレス)。イキケに向かうチリ軍6千が同盟軍7400の待ち伏せ攻撃を受ける。当初チリ軍は苦戦を強いられたが、ボリビア軍が戦線を離脱したこともあり、装備に勝るチリ軍が圧勝.
11.23 チリ軍、ほとんど抵抗を受けないままイキケを占領。エスカラは3,600 人の兵を送り周辺の掃討作戦。2千足らずのペルー軍残党は戦意を失い壊滅。連合軍はピサグアとイキケを放棄し,タラパカ方面へ撤退。トラパチャで陣容を立て直す.
11.27 エスカラ,2300人の先鋒隊をトラパチャに送りこむ.アンドレス・カセレス大佐の率いるペルー軍は5000人の兵で反撃.チリ軍は687人の戦死者・捕虜を出し、装備・弾薬を残して敗退.その後,エスカラは司令官を更迭される.
12.18 戦力が4千まで減少し、補給線の維持が困難となったブエンディア軍は,チリ軍を追撃することなくアリカに撤退.ペルー軍はタラパカでの戦線維持は困難と見て、カセレスにタクナへの撤退を指示。
1980年
80年1月
1.10 ニコラス・デ・ピエロラ大統領、船舶総動員令を発令。
1.19 ピエロラ大統領、Juan Fanning 海軍総司令官にカリャオで"Guarnicion de Marina"旅団を組織するよう指令。
1 ダサに替わりナルシソ・カンペラ将軍がボリビア大統領に就任.タクナで軍主力の指揮を執る。
1月 ピサグアのチリ軍、増援部隊1万2千を加え2万2000に増強.マヌエル・バケダーノ(Baquedano)将軍が指揮をとる.
80年2月
2.24 バケダーノ軍、Pisagua を出発しPacocha 湾に上陸。タクナとアリカを確保し、ペルー軍増援部隊を撃退することを目標とする。
80年5月
5月 チリ軍,ボリビア軍主力が位置するタクナ近郊のイロ(Ilo)に上陸.ボリビアのカンペラ大統領はペルー軍の支援をもとめるが実現せず.
5.26 Alto de la Alianzaの戦い。カンペラ大統領,タクナから1万の兵を動員し奇襲に出る.この奇襲は成功せず,チリ軍の逆襲を受け敗走.死傷者はチリ軍2128人、ボリビア軍3150人.この戦い以降ボリビア軍は戦闘単位としての力を失い、山間部に篭り散発的な抵抗を続けるだけとなる.
80年6月
6.06 チリ軍,7000人を動員し,アリカに駐留するペルー軍に総攻撃.Pedro Lagos大佐の率いる約 4,000 のチリ軍が、海軍の支援を受けアリカに上陸。
アリカの決戦
6.07 チリ軍、アリカを見下ろすMorro de Aricaを攻撃。ペルー軍に降伏を迫る。ペルー軍司令官のフランシスコ・ボログネシ大佐(Bolognesi)は降伏を拒否。太平洋戦争における最も激しい戦闘となる。
6.07 ペルー軍守備隊1800人は半日にわたる抵抗の後敗走.チリ軍は474人、ペルー軍はボログネシ大佐自身のほか、アルフォンソ・ウガルテ大佐、マリアノ・ブスタマンテ大佐らをふくめ約千名の死者を出す。総司令官ボログネシは心臓を打ち抜かれて戦死し、指揮官ウガルテはエル・モロからペルー国旗を持って飛び降りたという。
6.07 アントファガスタ、アリカをふくめ、すべての係争地帯がチリの全面支配下に入る.Litoral 行政区を回復することができないボリビアは、タラパカとタクナのペルーの防衛に加わる。
8月 アメリカ合衆国による調停の試み.アリカ湾に入ったアメリカの戦艦ラカワナ(Lackawanna)艦上で三国和平会議.チリはアントファガスタ(ボリビア)とタラパカ、アリカ、タクナ、モケグア(ペルー)の割譲を要求。ペルー・ボリビアはともにこれを拒否し米国の調停案を受け入れず,会議は決裂.
8月 会談決裂の後、米国は、英国がチリ支援を行うのに対抗し、ペルーを間接支援するようになる。
9月 パトリック・リンチ大佐に率いられたチリ軍3千がペルー北部の海岸を襲撃。大農園を破壊し収穫物や機材を持ち去り、家畜を殺す。
10月 ピエロラ大統領、軍の残存部隊に、リマ防衛の任につくよう指令。正規軍と民兵部隊が防衛準備に入る。ペルー軍はチリ軍が北方から侵攻すると考え、アンコンに大部隊を配置。
11月 チリ軍約3万が、リマ南方LurinのCurayacu海岸に上陸。
80年12月
12月 Lurinに上陸したチリ軍がリマに向け北上を開始。すでに正規軍を失ったペルー軍は「南部第一軍」の残党を中心に国内の志願兵18,000 人をかき集め、抵抗を続ける。その多くはアンデス山脈の領域からの小作農であった。
1881年
81年1月
1.10 チリ海軍,リマ近郊のチョリロスとミラフローレスを攻撃.ミラフローレスの戦いではチリの艦砲射撃により陸上砲台が破壊される.
1.13 アルトゥーロ・プラト・チャコンの率いる海戦隊が、リマ南郊のChorrillos海岸に上陸.引き続いてバケダーノ軍が上陸しリマに押し寄せる。リマ近郊のサンファンとミラフロレスで3日間にわたる戦闘。
1.14 サンファンの決戦。ペルー軍は惨敗し壊滅。"Guarnicion de Marina", "Guardia Chalaca"、"Celadores del Callao"部隊の残党はカリャオからミラフロレスに敗走したあと、Andres Caceres大佐の指揮するリマ防衛戦線に配置される。
1.15 ミラフローレスの戦いが始まる。ペドロ・ラゴス大佐の率いるチリ師団のアコンカグア大隊がカリャオから攻勢。ファニング大尉の"Guarnicion de Marina"部隊は白兵戦を挑み、敵陣深く侵入するが、増援部隊の前に全滅。ファニング(当時57歳)をふくめ524 人のうち400人が戦死したという。
1.16 ピエロラ政権とペルー軍主力はリマから撤退。最後まで戦い続けた"Guardia Chalaca"も降伏。チリ軍もこの間の戦闘で1250人の死者をふくめ 5,000 人の死傷者を出す。
1.17 リマがバケダーニョ将軍(Baquedano)の率いるチリ軍により占領される。ペルー軍はリマを放棄し、山間部のハウハに防衛線をひく。チョリ-ジョ海岸などの高級住宅地をふくめ、リマ市内は略奪され国立図書館は破壊される.海岸地帯の農場は中国人クーリーの暴動で焼き尽くされる。
1月 リマに残留した議会は、民政党のフランシスコ・ガルシア・カルデロンを大統領に選出。カルデロンは米国の支持を背景にチリとの和平交渉に臨む。ピエロラはアヤクーチョに司令部を置いて抵抗を続ける。
この後のペルー国内での抵抗についてはペルー年表へ。
80年10月 引き続き自由党のドミンゴ・サンタマリア・ゴンサレスが大統領に就任.出生,結婚,死亡などにかかわる実務を教会から国家の手に移す.
81 南部に住むマプチェ(アラウコ族),太平洋戦争の間隙をねらい反乱.チリ軍は無差別の殺戮でこれに応える.83年に反乱は最終的敗北,これが最後の反乱となる.以後武力抵抗は消滅.
1883年
10.23 リマ北方アンコンの町で講和条約締結.ペルー降伏.翌年ボリビアも降伏.チリは戦いに勝利してアントファガスタの完全領有に成功,さらにペルーからタラパカ県をも獲得.タクナ,アリカ両県については,10年間占領した後住民投票により帰属を決定することとなる.結局住民投票は実施されず.
83 国内小規模産業資本家により工業振興協会(Sociedad de Fomento Fabril-Sofofa)設立.
1884年
4.04 ボリビア,バルパライソでチリと休戦協定を締結.太平洋へのアクセス,アタカマをチリに割譲し内陸国となる.チリは戦いに勝利して鉱石地帯の完全領有に成功.しかし,実権は戦費を供給した「硝石王」ジョン・トマス・ノースらイギリス資本の手に
84 チリ軍,居留地に残留する原住民を駆逐.国内のすべての富がサンチアゴに集中することになる.新たに獲得された土地は大地主のあいだに分配され,インディオの多くは大農場ではたらく季節労働者に転落.
84 LAで最初の普通選挙が実施される
政治勢力交代の時代 85 チリ軍,ドイツ式の編成近代化を開始.エミル・ケルナーが教官として赴任.
86.4 ホセ・マヌエル・バルマセーダ・フェルナンデス,大統領に就任.国立銀行の創設.保護関税の設定などの税制改革,鉄道の国有化,教育の近代化,保健省などを設置.地方ボスの支配する議会と対決しながら,民族的政策と富国強兵策をすすめる.
87 自由党政権に接近する急進党から改革派が分かれ民主党を結成.中小業者,インテリ,技能労働者などからなり,「人民の政治的,社会的,経済的解放」をうたう.
89.10 バルマセダ,英国の権益制限のため北部硝石産業を国有化.英国資本の「タラパカ硝石・鉄道会社」を接収.一部を外国人への譲与禁止の条件で民族企業に譲渡.反大統領勢力は国民党,急進党と自由党の二つの派からなる同盟を結成.ラモン・バロス下院議長が指導者となる.
1890年
12 イギリス資本の援助を受けた議会,軍隊維持のための年度予算案を拒否.
90 硝石鉱,空前のブームを迎える.チリ資産は4倍化,硝石の輸出関税は国庫収入の半分以上を占める.
90 北部鉱山地帯で硝石鉱労働者による初の自然発生的ゼネスト.軍隊により鎮圧.
1891年 バルマセーダの闘い
1.07 バルマセーダ,予算案を議会不承認のまま執行すると表明.バルマセダに反感を抱く議会保守党は反乱を起こす.とくに権益のサンチアゴ集中に危機感を持つ北部で,反乱に強い支持.自由党と民主党はバルマセダ支持に回る.自由党から分かれた急進党は,立憲主義の立場から保守党と手を結ぶ.海軍と支配層出身の将校は保守側に,陸軍は政府側に立つ.
2 保守党を中心とする議会勢力は大統領を「罷免」し,海軍将校のホルヘ・モントを臨時政府の指導者に指名.議員たちはバルパライソに移動,議会派を支持する海軍に守られ,さらにイキケに移動.3人からなる反乱政府評議会を設立.内戦開始.バルマセーダにストを弾圧された硝石労働者も反乱側につく.陸軍はバルマセーダに忠誠を誓う.バルマセダの民族主義的傾向を嫌う硝石会社の英国資本家は反乱側を支援.これに対し米国は正統な支配者としてのバルマセダを間接支援.
6 陸軍,最終的に戦闘に参加しないことを決定.戦闘は反乱側優位に傾く.
8 内戦最大の決戦となったプラシリアの闘いで反乱側が決定的な勝利.米海兵隊が上陸,チリ民族主義者の反乱を鎮圧.
8.28 戦闘終了.バルマセーダはアルゼンチン公使館に避難.この内戦で1万人が死亡.
9.19 バルマセーダの任期満了.同日バルマセーダはアルゼンチン公使館内でピストル自殺.ホルヘ・モントが後継大統領に就任.大統領に対する議会の権限強まる.この内戦で1万人が死亡.
12 ボルチモア事件発生.バルパライソ停泊中の米軍艦水兵ボルチモアが,チリ人とケンカ.チリ政府は謝罪し,賠償金を支払う.
96 バロス,上院議長に就任.議会政府の代表となる.
1900 02.5.28 アルゼンチンとの間に国境などに関する「5月条約」を締結.
03 民主党員で印刷工のルイス・エミリオ・レカバーレン,イキケで新聞を発行し硝石鉱山労働者の組織を始める.当局は新聞社を襲撃するなど弾圧.
03 バルパライソで港湾労働者が最初のスト.軍の弾圧により30人が死亡.
04.10.20 チリ・ボリビア平和条約調印.ボリビアは正式にアントファガスタを放棄,内陸国となる.チリは、ラパスとアリカを結ぶ鉄道の建設、ボリビアの通商のためにチリの港湾を使用する権利を認める。
04 アメリカ人鉱山技師ウィリアム・ブレイドン,グッゲンハイムの出資を得てブレイドン銅会社を設立.後にケネコット社と合併.サンチアゴ近郊のエルテニエンテ銅山を開発.同じ時期,アナコンダ社はアタカマに露天掘りのチュキカマタ銅山,エルサルバドル銅山,サンチアゴ近郊のラ・アフリカーナ銅山などを経営.セロ社はリオ・ブランコ銅山を開発.
05 サンチアゴでスト.弾圧により2百人が死亡.
06 レカバーレン,民主党を離れ社会民主党を創立.下院選挙に立起,鉱山労働者の支持を受け当選.聖職者の前での宣誓を拒否したため,議会は無神論者であるとの理由により除名,就任を拒否.
07.12 イキケで硝石労働者6千人による初の大規模なストライキ.レカバーレンらが指導,数万人が市内中心部のサンタマリア学校に立てこもる.軍の発砲により労働者数百人が死亡.3千6百人が負傷(サンタマリアの大虐殺).
07 LA最初の社会立法が制定される.
08 社会民主党,第2インタナショナルに参加.
08 最初の社会主義新聞「労働者の目覚め」がレカバレンらによって発行される.
09 鉄道労働者のストライキ闘争の中から,初のナショナル・センターとしてチリ労働者大連盟(GFOCH)発足.鉱山労働者,バルパライソの港湾労働者が中心となる.当初から当局の激しい弾圧を受ける.都市の労働者は無政府主義の世界労働者連合 (IWW)に結集.
1910年
レーモン・バロシュ・ルコ,大統領に就任.ほとんど権限を持たず,議会に振り回される.
12年6月 社会民主党,マルクス主義を指針とする社会主義労働党(POS)に発展改組.レカバレンらの指導下にイキケで結成大会.
13 ラパス=アリカ間を結ぶ鉄道開通.
14 第二インタナショナルの崩壊にもめげず,社会主義労働党は革命的スローガンを堅持.「戦争のあとには革命を続けなければならない.プロレタリアートは諸国人民の運命をになわなければならない」と声明.
15.5.25 アルゼンチン,ブラジル,チリのABC条約が締結.
15 議会選挙.北部鉱業地帯を基盤とするアレサンドリが上院議員に当選.火を吹くような熱弁から「タラパカのライオン」と呼ばれるようになる.
15 ドイツで窒素肥料合成に成功.以後硝石産業は衰退.アメリカ,対チリ貿易高において英国をうわまわる.ブレイドン社,ケネコット社に吸収.以後,エルテニエンテ鉱をもつケネコット社と,ポトレリージョス,チュキカマタ鉱をもつアナコンダ社が銅採掘を事実上独占.
16 社会主義労働党のイニシアチブの下に,サンチアゴでLA各国社会党会議が開かれ,帝国主義戦争と社会排外主義に反対する決議が採択される.
17 チリ労働大連合第2回大会がバルパライソで開かれ,階級協調路線と決別し資本主義体制の廃止を掲げる.中央集権的な組織強化が達成されるとともに,「チリ労働者連合」(FOCh)に改組.
18 チリ労働者連合を中心に全国労働者食糧会議(AOAN)が,社会主義労働党,民主党,「チリ学生連合」の参加の下に組織される.急進党員も個人の資格で参加.食料危機と労働者の飢餓状態の根本原因は大土地所有制にあるとして,アシェンダの解体と土地の再分配の必要性を訴える.
19.8 サンチアゴでAOANの主催による「飢餓集会」.十万以上の大衆を結集.
19 チリ労働者連合第三回大会は,コンセプシオンで開催.産業別組合への転換をはかる.
急進主義の時代 1920年
10.20 国会,北部タラパカ出身の自由党員アルトゥーロ・アレサンドリの当選を承認.アレサンドリは,激しいアジ演説から「タラパカのライオン」とよばれ,中間派の他に一部労働者層もまきこむ.レカバレンを立てた社会主義労働党は,「われわれが希望するのは,人民が寡頭制の決議と指図に唯々諾々としたがわないことである」と呼びかける.
12.23 アレサンドリ,自由同盟(自由党の一部のほか急進党,民主党多数派からなる)の支持を受け大統領選に就任.初の中間階級を基盤とする政権成立.
12 イキケでひらかれた社会主義労働党第三回大会は,コミンテルン第2回大会の「コミンテルン加入条件に関する21箇条」を検討,満場一致で加入の方針を決定.
1921年
1 アレサンドリ政権,8時間労働,労組合法化などをもりこんだ労働憲章の制定,土地税と所得税の創設,国家と教会の分離,中央銀行の創設,地方自治の権限拡大などをつぎつぎに提案するが,4年間にわたり上院の反対に遭いすべて握りつぶされる.
21 チリ労働者連合第4回大会,プロフィンテルン加盟を決議.この頃までにチリ労働者連合は20万の労働者を組織した.
21 サングレゴリオ硝石鉱山で労働争議.弾圧により130人以上が殺害される.
1922年
1 社会主義労働者党第4回大会,ランカグアで開催.民主党左派も合流し,共産党と改称.コミテルンに加盟申請.レカバレン,ソ連を訪問.
22 コミンテルン第4回大会開催.レーニンはロシア革命の経験を一面的に国際共産主義運動に適用しようとする方向に対し「左翼小児病」としてきびしく批判.
22 労働運動は急速に高揚.共産党,アントファガスタから立候補したレカバーレンを始め下院に二人の議員を送りだす.
23 特権階級が多数をにぎる上院,アレサンドリの法案をことごとく否決.アレサンドリは国民投票に訴え勝利するが,上院の抵抗を排除できず政局は混乱.
23 ドイツ十月革命失敗に終わる.
1924年
3 国会議員選挙.自由連盟は上院の支配権をも掌握.しかし依然議会の抵抗はつづく.
9.3 上院に対する国民の不満高まる.若手将校によるクーデター発生.アレサンドリは将校との協定を背景に,大統領府の議会に対する優位を定めた改正憲法など改革プランの可決を議会に強制しようとする.
9.05 若手将校はアレサンドリを解任,国外追放.アルタミラーノ将軍を長とする軍事評議会を設置.保守派の抵抗にあって未成立だった労働三法を制定.
24 レカバレンはコミンテルン第5回大会に出席ののちソ連から帰国.党の「ボルシェビキ化」を推進するが,同年死亡.
1925年
1.23 カルロス・イバニェス・デル・カンポ大佐とマルマドゥケ・グロベ(ドン・マルマ)大佐の指導する若手将校による再クーデター.保守化したアルタミラ-ノを罷免,軍事評議会を解散し,ヨーロッパに亡命中であったアレッサンドリを大統領に復位させる.
3 第二次アレッサンドリ政権発足.歓迎集会には数十万の人が参加.イバニェスは陸相として入閣.
9 イバニエス,圧力によりアレサンドリを退陣させ,エミリアノ・フィゲロアを大統領候補におしたてる.グロベはアレッサンドリを支持したグロベは敗れ,ロンドン大使館付陸軍武官として派遣されたあと,軍務を解かれる.
10.04 33年以来のポルタレス憲法にかわる新憲法公布.議会の行政府に対する干渉を排し,元老院を廃止するなど立法権に対して執行権力を大幅に強化.政教分離しカトリック教会に対する国家の庇護権を撤廃.さらに懸案の労働三法の制定などを骨子とする
10 大統領選実施.共産党とチリ労働者連合は「全国労働者会議」(ANA)を結成し鉄道労働者連盟,大学教授総連合,商工業者連盟,小作人連盟などを結集.ホセ・サントス・サラスを擁立.工業生産の促進,自然資源の国有化,農業問題の民主的解決を掲げるが,18万対8万の大差で敗れる.
12 共産党はANA存続をはかるが,政党化を主張するサラス派にやぶれる.サラス派はチリ勤労者共和社会同盟を結成.
25 ラ・コルナでスト.弾圧により3千人が射殺される.イキケで大規模な労働争議.イバニェス陸相は武力弾圧を命じる.大砲をふくむ弾圧により2千人以上が虐殺される.
25 米経済顧問エドウィン・ウォルター・ケメラーの指導を受けて,会計検査院 (Oficina de la Contraloria General de la Republica)が創設される.会計の支出を必要としている全ての法律について,合憲性を判断する権限を与えられる.また金本位制に基づくチリ中央銀行も創設される.財政基準が確立したことにより,特に米国からの投資が増加.
26 グロベ,亡命先のアルゼンチンで新聞社の後援を受けクーデターを組織.チリに侵入するが失敗.イースター島に10年間流刑となる.
1927年
2 イバニェス,内相となったあとフィゲロアを辞任させ,副大統領として大統領職を代行.
7 イバニェス,綱紀粛清,財政改革,共産党撲滅をうたい,自らを唯一の候補者とする大統領選挙を実行.(1)寡頭勢力との結びつきを強め,国家警察(カラビネーロ)を創設するなど軍事独裁体制の確立をめざす.(2)ITT,チリ電話会社をイギリス資本より買収するいっぽうで,米国民間資本の導入により産業育成を図る.(3)官制労組の合法的労働組合全国連合(CNSL)を結成,中産階級に手厚い保護を行うなど「ポピュリスモ」路線をとる.共産党,チリ労働者連合は非合法化され,大きな弾圧を受ける.新政権の経済刺激策によりチリの経済は活況を呈する.
27 PCC第8回大会,コミンテルンの極左的方針の影響を受け,「プロレタリアートの解放は国会の中でなく,ソビエト運動の中にある」と規定.このころから共産党内部の混乱と分裂がチリ労働者連合などにも波及し,共産党の影響力は議会においては,この年の総選挙で上院に2名,下院に7名の当選となって前進するが,大衆の中での影響力を徐々に失っていく.イダルゴ・メンドサらトロツキスト勢力は共産党を脱退し国際左翼反対派をなのる.
27 共和国会計監査院(コントラーリア)発足,終身制の長官のもとあらゆる行政行為に対して適否を判断する権限をもつ.保守派の牙城となる.
27 「原住民法」制定される.原住民が土地を売買し所有することを認める.実際にはさらに多くの土地(保留地の5割以上)が「売却」され,地主のものとなる.
28 コミンテルン,チリ共産党の加盟を承認.
28 ビオビオ地方のマプーチェ族を主体に小作農組合結成.指導者にフアン・レイバ・タピア.
1929年
6.03 ペルーとのあいだのタクナ・アリカ係争,アメリカの仲裁により決着.タクナはペルーに,アリカはチリに所属することとなる.チリはアリカの代償に600万ドルを支払う.
29 コミンテルン,「社会ファシズム」論を提起,社会民主主義者に主要打撃をあたえる方針を提起.
30 世界大恐慌がチリも巻き込む.チリは大恐慌でラテンアメリカ諸国中最大の被害を蒙る.失業者は30万人,労働人口の1/4に達する.経済危機と社会不安が全土をおおう.
1931年
1 チリ政府,対外債務への支払いを停止.対米負債は3億ドルに達する.
7.27 イバニェス,緊縮政策と抑圧的姿勢に抗議する労働者・兵士などのデモに取り囲まれる中で辞任,アルゼンチンに亡命.
8 大統領選でフアン・エステバン・モンテロが民主党のアレサンドリを破り当選.イースター島を脱出したグロベ,国防大臣に就任.空軍を創設しみずから司令官の地位におさまる.
9 バルパライソで港湾労働者のスト.コキンボ,タルカワーノ海軍基地では水兵による反乱.若手将校の一部はストを支持,革命委員会を組織し軍艦に赤旗を立てる.政府は軍艦爆撃で応える.
10.04 モンテロ,大統領に就任.国民の不満は納まらず.失業者は労働人口の1/4,30万人に及ぶ.
31 急進党大会,「諸原則の宣言」を採択.資本主義制度を生産手段の集団的所有制にかえること,階級闘争を前にしては,無産者の側につくことを宣言.
1932年 あいつぐ急進派クーデター
6.04 「知識人によるゼネスト」のさ中,グロベによる軍事クーデター.新共和行動党(NAP)指導者のエウヘニオ・マッテ,カルロス・ダビラと「労働者,農民,兵士の革命評議会」を構成,「社会主義共和国」を宣言する.共産党は「労働者大衆の独立したたたかいを横道にそらせようとするもの」と批判.
6.17 評議会右派メンバーでイバニェス派のダビラ,米大使館と結託しクーデター.社会主義共和国はわずか13日で崩壊,その後「百日社会主義共和国」に移行.グロベはふたたびイースター島に流刑となる.
9.13 空軍のブランシェ将軍のクーデターによりダビラ解任.アブラハム・オヤネデルによる臨時政権成立.
12.24 大統領選挙がおこなわれる.アレサンドリは保守派の代表とし立候補し、55%の得票を獲得してみたび大統領となる.グロベはふたたびイースター島からの脱出に成功するが,大統領選には間に合わず,独自に「人民戦線」を結成し議長におさまる.
アレッサンドリ政権の下での経済回復: 50家族による寡頭支配を維持するため,急進党を排し保守党で閣僚をかためる.恐慌による経済危機を,金本位制からの離脱、平価切下げ,間接税の引上げなど大衆負担により乗切る.このため「飢餓内閣」とよばれる.貨幣通貨量増大に伴い激しいインフレが襲う。
外資導入により硝石,電力その他の公共事業のおおくが外国資本の手に移る.やがて銅輸出の回復もあり経済は回復に向かう.32 ヒトラーを模範にした「国家社会主義運動」(MNS)の突撃隊が編制され,各地で集会や組織にテロ活動を繰り返す.アレッサンドリと蔵相グスタボ・ロスは「共産主義の危険からこの国を救う」と称し,共和国民兵隊(Milicia Republicana)を創設,5万人を結集.ファシズムに傾斜を強める.
チリ年表 その2
1933年
4 グロベら,社会主義諸グループの合同により「社会党」(PS)が結成される.コミンテルンとは別のスタイルの社会主義をめざす.新共和運動,革命的社会主義行動,社会主義秩序,社会主義マルクス主義者党,統一社会党の5政党が参加.綱領に「プロレタリア独裁」をうたいトロツキズムの影響を受ける.25才の青年医師アジェンデも参加.結党後,社会党は共産党をしのいで,とくに「合法的全国労働組合連合」内部に大衆的影響力を確立する.ブルーカラーばかりでなく知識人や中産階級の中にも支持者を獲得.
4 共産党合法化.全国協議会を開催.チリ革命を,社会主義をめざす闘争に結合された反帝・反寡頭制・民主主義革命と規定.
33 国際左翼反対派を中心に左翼共産党(PCCI)結成.主として農民運動に取り組む一方コピアポ陸軍基地を襲撃するなど武装闘争路線を展開.最盛期には4千人を組織することに成功.
33 チリ,金本位制から離脱.貨幣通貨量増大に伴い激しいインフレが襲うが,銅輸出の回復もあり経済は回復に向かう.
1934年
10 モンテビデオでLA共産党合同会議.農民の土地革命と結合しながら広範な反帝人民戦線を作り上げる路線を確認.改良主義政党とも共同するたたかいを重視.
34 ビオビオ地方でフアン・レイバを指導者とする小作農組合の蜂起.ランキルでは軍の弾圧によりレイバ他多数が射殺.
34 チリ労働者連合は全労働者にプロレタリアートの単一中央組織の結成をよびかける.社会党第2回大会は共産党を排除した「左翼ブロック」結成を提唱.
34 女性の地方議会選挙への投票権が認められる。国政選挙への参政権は45年まで持ち越される。
人民戦線の時代 1935年
4 共産党,左翼ブロックに対しメーデーでの共同行動を呼びかけるが,拒否にあう.
8 コミンテルン第7回大会,人民戦線戦術を提起.共産党,人民戦線を各政党に提起.各政党はこれを黙殺.
10 コミンテルン,ペルー出身のエウドシオ・ラビネスをチリに派遣.社会党との行動の統一で合意に達する.急進党左派,共産党,社会党,労働総同盟が人民戦線結成について合意.また同年,社会党の指導する合法的全国労働組合連合は,チリ労働者連合に統一のよびかけをおこなう.
35 社会党,民主党,急進社会党,共産党左派(トロツキスト系)による左翼ブロックの形成.このブロックの形成によりファシズムの中間層獲得が阻止された.しかし同時にこのブロックは反共産党の傾向が強く,共産党の左翼ブロック参加は拒否された.共産党の「社会ファシズム論」にもとづくセクト的対応が顕著であったことにもその一因がある.
35 アレッサンドリ内閣の労相ベルナルド・レイトン・グスマン,政府の姿勢を非難し辞任.カトリック系の青年組織の左傾化を受け,保守党青年部のフレイ,ラドミロ・トミッチ・ロメロ,オスカル・ガレトン,ペドロ・ロドリゲス・ゴンサレスらとともにファランヘ・ナショナル結成.保守党内分派として発足する.
1936年
1 鉄道労働者の大規模なストライキが,政府の弾圧に対するたたかいに発展する中で,民主諸政党や労働者組織は支援のため共同行動の準備を進め,「労働組合統一全国戦線」(FNUS)を結成する.これを基礎にして,自由主義的,合法主義的労働組合組織もふくむ「チリ労働者総連合」(CTC)が結成され,労働組合組織の統一が実現する.さらに各政党所属の青年の結集する青年統一指導部,次いで青年解放同盟も結成.知識人同盟や婦人解放運動など下からの統一の動きが急速に進展.
2 鉄道スト.アレサンドリは軍を出動させ鎮圧.社会党のよびかけに応え,急進党主流派も,人民戦線への参加を打ちだす.
3.25 人民戦線(FP)結成される.急進党,社会党,民主党,共産党,左翼共産党(まもなく社会党に合流),急進社会党,CTCHなどが参加.議長にはグロベが就任.
10 スペイン総領事ネルーダ,人民戦線への支援活動が本国政府の反感を買い,職務を解任される.
1937年
4 チリ国会議員選挙.人民戦線は大幅に進出.大統領選に向け,アレッサンドリはロス蔵相を候補に指名.急進党主流派はアレッサンドリ派のペドロ・アギレ・セルダを候補とすることを条件に人民戦線への参加を決定.社会党は急進党のセルダおしつけに反発し,人民投票による候補者の決定を主張.
11.9 共産党,「チリ国民へのメッセージ」を発表.チリ・ナチ党に支援される国民解放同盟のイバニェスを人民戦線に加えるよう提案する急進党右派の態度を批判しつつ,ロス候補と同列視する社会党に対してもそのあやまりを指摘.イバニェス派に対しファシストとの断絶,人民戦線への参加,人民戦線候補の支持を訴える.社会党は猛反発.
37 左翼共産党,社会党と合同.オスカル・ワイスら指導部は,CTCHの指導部を掌握.
1938年:人民戦線政府の成立 1 急進党大会,アギレ・セルダを自党の大統領候補とすることを決定.
4.10 共産党第10回全国大会.カルロス・コントレーラス書記長は人民戦線の綱領を受け入れ,党の独自性を損わない限り「あらゆる種類の同盟者を労働者階級の側に獲得すべきである」と報告.民族ブルジョワジーは急進党によって代表されていたが,左翼勢力は急進党左派に依拠し,中間派と右派への闘争によってこの党を人民戦線の重要な一翼に加えることに成功した.
4 人民戦線大会.当時CTCHの執行部をにぎっていたトロツキストの提案をしりぞけ,「民主主義の防衛と政治的自由の拡大,経済の計画化と農地改革」などをうたった綱領を採択する.大統領選統一候補に急進党のアギーレ・セルダが選出される.イバニェスにつながる社会党右派は共産党との共同を主張する主流派に反対し脱退,「社会主義同盟」(US)を結成.
6 社会党から分裂した組合社会党とチリ・ナチ党などを中心に人民自由同盟結成.イバニェスを大統領候補に推す.人民戦線は,イバニェスに選挙を辞退し人民戦線に加わるよう交渉するが拒否される.
8 選挙での勝利が絶望となったイバニェス派とナチ党,ゴンサレス・フォン・マレースを指導者としてクーデターのくわだて,国家警察軍により鎮圧.マレースとイバニェスは逮捕される.アレサドリはこれを利用して民主勢力に弾圧.
9 獄中のイバニェス,みずからを「ファシズム反対者,反帝国主義者であり,民主主義と人民戦線の賛同者」と宣言.立候補を辞退し人民戦線のセルダ候補支持を表明.マレースも反アレサンドリの立場からセルダへの票の集中を指示.
9 保守党内でファランヘを名乗るグループが分離.民族ファランヘ党を結成.大学に対し襲撃を加えるなど反共の先兵としての役割.のちにキリスト教民主党と改称するが、その後20年は弱小政党にとどまる.
10.25 人民戦線,アレサンドリに反対するナチ党の支持も受け4千票差で寡頭制力の代表ロスを破り大統領選に勝利.国家警察隊(カラビネーロス)は,人民戦線の勝利を否定すれば「人民の興奮状態を惹起し,流血の争乱に国を突き落とす」可能性があるとして中立を宣言した.ロスはアルゼンチンに亡命.
12.24 アギーレ・セルダ(急進党主流派)を首班とする人民戦線政権誕生.厚生相にサルバドル・アジェンデ・ゴセンス就任
1939年 1 チリ中部に激震.50の町が消滅,5万人が死亡.政府は復興のため産業開発公社(Corporacion de Fomento de la Produccion--Corfo)を設立.米国輸出入銀行の支援も受けながら,輸入代替産業の育成に力を注ぐ.その後製鉄,精糖,電力等の諸工業が発展.都市労働者の組織化,公教育の拡充に力を注ぐ.10年後には国内生産の1/4をCORFO系企業がしめるようになる.
8.24 イバニェス,アリオスト・エレーラ将軍ら軍の一部を扇動しクーデターの企て.タクナの連隊を乗っ取り実力行動(アリオスタソ)に出るが大衆動員により粉砕.
8 独ソ不可侵条約締結.ドイツ,連合国に侵攻開始.スターリンは条約支持を各国共産党におしつける.共産党はコミンテルンの指示にしたがい,戦争に対し厳正中立を主張,連合国を支持する他党と対立し人民戦線を離脱.
12 ネルーダ,チリ政府の委任を受けスペインからの亡命者数千人をつれ帰国.
12 共産党第11回全国大会.セルダ政府の土地改革サボを批判.また政府の大地主との妥協傾向,「経済計画」の名による労働者抑圧の企て,政府内の腐敗傾向について警告.
1940年
人民戦線は協議の場に変貌.そこでは人民戦線政策に代って保守層との協調政策が主流となる.社共の共同行動が弱体化した上,社会党内では人民戦線の評価をめぐって意見が対立.急進党の日和見主義に反対する左派部分は分裂し「社会主義労働者党」(PST)を結成,人民戦線を離れる.
8 ネルーダ,メキシコ総領事に任じられ赴任.
9 共産党中央委員会,人民戦線の下からの強化を訴え全国大会の開催を提起.急進党右派は,人民戦線がもはや存在理由を失ったとし提案を拒否.
12 ハバナの米州会議総会から帰国した社会党のシュナーケ,人民戦線は崩壊したと宣言.チリ労働者総連合も社会党系と共産党系に分裂.
1941年
1 独ソ不可侵条約を巡り,社共のあいだに激しい論争.共産党の人民戦線からの追い出しに失敗した社会党は,人民戦線崩壊宣言を発表しみずから離脱.ビデラ政権内には残留.人民戦線は無力化.保守党と自由党が議会でサボ戦術を採ったことから,国会は機能停止.
11.25 アギレ・セルダ死亡.急進党内保守派のフアン・アントニオ・リオス・モラレスが臨時大統領に.人民戦線内閣は崩壊し急進党単独政権となる.
42.4.2 大統領選.ファン・アントニオ・リオスが56%の支持を得て当選.人民戦線は公式には解散されたが,社会党,共産党は,保守党と自由党に推されたイバニェスが復活するのを阻止するため,リオスに投票を集中した.新政権は,引き続き親連合国的中立政策を採り,戦時体制の下「増産」奨励を第一とし,社会改革については後回しとする.
43.1.20 リオス,国内外の反ファシズム勢力に屈し枢軸国との外交関係を断絶.コミンテルンの解散とともに,共産党は社会党に合同の提案を示す.
43 社会党大会.グロベが党首に就任,アジェンデが書記長となる.リオス政権を認めないアジェンデ派とグロベ派とのあいだに抗争,アジェンデ派の勝利に終わる.
44.12.11 モラレス大統領,ソ連と国交回復.この年に社会党から分裂した社会主義労働者党は共産党に合流.社会党を除名されたグローベは「正統社会党」(PSA)を結成し,共産党との同盟関係を強化.
1945年
3 女性に参政権が与えられた最初の国会議員選挙.ネルーダはタラパカ・アントファガスタ地区から共産党推薦の上院議員候補として立起し当選.7月には共産党入党.
3月 総選挙での勝利を受けリオス急進党政権が再編成される。キリスト教民主党も政権に参加しフレイが入閣。
45 硝石採取労働者のストを支援するデモに弾圧.労働者6人が死亡.労働組合はゼネストを支持.社会党は入閣を条件にゼネスト回避に回る.
45 女流詩人ガブリエラ・ミストラル,ノーベル文学賞を授賞
45 フエゴ島のソンブレロに油田発見.
45 イバニェス,農民労働党を結成.政治活動を再開.
1946年
6 リオスの健康状態が悪化したため,アルフレド・デュアルデ・バスケスが臨時大統領に就任(8月まで).リオス=デュアルデ政権の保守的傾向に反抗する急進党左派のガブリエル・ゴンサレス・ビデラ,38年政権の精神復活を訴える.
9.4 「民主主義同盟」(社会党,共産党,急進党,民主党)を基礎に,ビデラが大統領選に勝利.しかし議会での絶対多数を勝ち取れず,その後綱渡りの政権運営を強いられる.
11 ビデラ政府発足.共産党からはじめて三人の閣僚が入閣.同年の地方議会選挙でも共産党は第1党に躍進.
46 ラウル・アンプエロ・ディアス,社会党書記長に就任.チトーの影響を受け,共産党を左から攻撃
46 労働総同盟,ビデラ政権の評価をめぐり共産党系と社会党系に分裂.この直後労働総同盟そのものが非合法化.社会党系はAFL=CIOとの結びつきを強める.
アカ攻撃の時代 1947年
10 コンセプシオン近郊のピサグア鉱山で共産党系労組によるスト.アメリカの冷戦政策にのって右傾化したビデラは,共産党を激しく非難.
10.20 チリ,ソ連との国交を断絶.
47 アメリカのトルーマン・ドクトリン,マーシャル・プランの提唱は,フランス,イタリアにおいて共産党閣僚の追放という事態を惹起する.
1948年
1 「民主主義恒久防衛法」を制定.ビデラは炭坑ストを口実に共産党との同盟関係を断ち,三人の共産党閣僚を解任.ユーゴ,チェコとの国交断絶.米国とのあいだに軍事援助条約締結.米国はこれに応えて借款,投資,技術支援を強化.ビデラは,資本家に対しては労働運動の弾圧で,大地主に対しては農民組合の結成禁止法の延長で応える.とくに大地主と妥協して農民組合の結成に法的規制を加えたことは67年まで尾を引くこととなる.
2 政府,共産党を非合法化.共産党議員の資格を剥奪.
3 共産党幹部に逮捕令状.党員数千人を北部砂漠地帯の強制収容所へ送る.ネルーダも1年余りの地下生活にはいる.社会党は共産党非合法化法案をめぐり二派に分裂.法案に反対するアジェンデ派は党を離脱し人民社会党を結成.
49.2 チリ国内潜伏中のネルーダ上院議員,アンデス山脈を越えてアルゼンチンへ逃亡.
50 ネルーダ,「大いなる歌」を地下出版,熱狂的に受け入れられる.
10.17 12の産業別全国労働組合が,労働者統一全国運動(MUNT)を結成,連絡調整委員会を儲けて具体的統一行動を開始.他の六つの産業別全国労働組合は,労働組合統一連絡委員会(CRUS)を結成.MUNTはCRUSに行動の統一をよびかけ,全国労働組合指導本部の組織に成功.サンチアゴで労働者の統一を訴える2万人集会.
1951年
3 共産党書記長ガロ・ゴンサレス・ディアス,米帝国主義のラテンアメリカ攻撃を非難.
5 統一委員会によるメーデー.サンチアゴで6万人を結集.
6.27 チュキカマタから始まった銅山労働者のスト,全国に拡大.高物価反対統一行動委員会のよびかけによるゼネスト成功.反帝反寡頭制をスローガンに,非合法下の共産党とチリ社会党(少数派),国民民主党による「人民の戦線」を結成.
51 軍内ペロン派将校らのPUMA団(すばらしい明日のために),クーデターの陰謀発覚.
1952年
3 北部の硝石労働者1万名が共産党の指導の下にストライキ.政府はアントファガスタ,タラパカ両州に非常事態を宣言.
9 急進党から立候補したイバニェスが,労働運動への保護を期待する人民社会党の支持を受け47%の得票を獲得.合法化を狙う共産党の一部もイバニェスを支持.婦人参政権実現や社会保障制度を作るなど階級協調政策をおこなう.アジェンデはイバニェスを支持した人民社会党を離脱し社会党に復帰.共産党の支持を受け社会党の大統領候補として立起するが,得票率5%以下で惨敗.
52 米州相互援助条約の一環として,反共とアメリカの軍事支配を容認するアメリカ・チリ相互防衛条約調印.アメリカ,相互安全保障法にもとづく軍事援助計画を開始.軍主流派は急速にアメリカに接近.
1953年
1 共,社のほか急進党,ファランヘ党系労組も参加し,労働者統一中央組織(CUT)結成.この時の加入人員は約十万人.人民戦線時代の教訓を生かし,執行機関のポストを代議員の投票により比例配分することで各派に合意.元トロツキストで社会党幹部のクロタリオ・ブレストが委員長となる.共産党,急進党とのあいだに結んだ人民戦線協定を最終的に破棄.
2.21 ペロン・アルゼンチン大統領,サンチアゴを訪問しイバニェスと会談.経済協力を約束.
54.2.12 CUT,「民主主義防衛法」の廃止を要求しゼネストに成功.政府は共産主義者取り締まりのため全土に戒厳令.チリ共産党は非合法下に19回中央委員会開催.イバニェスの独裁的傾向に抵抗する広範な民族解放戦線の結成を提唱.
55 軍内「直線」派,議会解散とイバニェス独裁実現をはかる.軍内フリーメーソン派の強い反対にあい失敗.CUTは抗議ストに120万人を組織.イバニェス,非常事態を宣言.指導者3百名を逮捕.
1956年
2 チリ社会党(PSC)と社会大衆党(PSP),合同により統一を回復し,「人民の戦線」に参加.さらに広範な「人民行動戦線」(FRAP)の結成をよびかける.反帝,反寡頭,反封建のスローガンをかかげるこの人民行動戦線は,社共のほかに人民社会党,民主党が参加し同年中に実現される.ファランヘ党はフレイを指導者に全国ファランヘ党に改組,影響力を広げる.
3 非合法下の共産党第10回大会.チリにおける革命の平和的発展の可能性を指摘.人民戦線を通じての権力獲得の路線を確認.
1957年
4.2 アメリカのクライン=ザックス使節団の勧告にしたがい,金融引き締め政策実施.インフレ昂進の中,バス料金値上げをきっかけとし大衆運動高揚.サンチアゴで貧民暴動発生.ラ・ビクトリアでは土地占拠に成功,その後もっとも政治的に強力なポブラシオンとなる.学生デモに対しカラビネーロスの要請で出動したオラシオ・ガンボア将軍指揮下のサンチアゴ警備師団はデモ隊を山に追い上げたあと発砲,学生2人が死亡.抗議運動にさらに弾圧,70名を殺害2百名を負傷させる.政府,非常事態を宣言.
57 国会議員選挙,イバニェスを支持する保守派が29%を獲得し勝利.
57 全国ファランヘ党,おなじ保守党の分派である社会キリスト教保守党と合同しキリスト教民主党(Partido Democrata Cristiano)と改称.「中道と改良」をスローガンにかかげる.後にイバニェスの農民労働者党も合流.農村部や未組織労働者を中心に急速に組織をのばし人民行動戦線を上回る13%を獲得.
1958年
8 イバニェス,民主主義防衛法撤廃.共産党を合法化し選挙法を大幅改正する.ルイス・コルバラン,共産党書記長に就任.
9.03 大統領選.保守党,自由党よりなる民主主義戦線の候補,ホルヘ・アレッサンドリ・ロドリゲスが31.5%を獲得し当選.アレッサンドリはアルトゥーロ・アレッサンドリ(50年死亡)の息子.これに対し,FRAPのアジェンデは28.8%の得票を獲得,アレッサンドリに3万票あまりの差まで追い詰める.急進党は当初ルイス・ボッサイ・レイバを候補に推すが,のちにアレサンドリに合流.キリ民党候補フレイは20.4%の得票を獲得,さらに選挙後農民労働党の主要部分を吸収する.共産党は11.5%を得票.
59.08.12 サンチアゴで米州機構の外相会議開催.
人民連合形成の時代 1960年
5.22 チリ部を中心にマグニチュード9.5の今世紀最大の地震.死者2千人.津波は太平洋を越えて日本におよぶ.
11 チリで非常事態宣言.非常事態下で60万人労働者による24時間スト決行.物価はこの10年間で15倍になり,政府はIMF勧告を容れ緊縮財政をしく.
60 サンチアゴ首座大司教ラウル・シルバ・エンリケス,枢機卿に叙せられる.超スピードの昇進だったため,「インスタント枢機卿」とよばれる.
1961年
2 ケネディ政権,国務省,CIA,ホワイトハウスのトップレベルの官僚から成るチリ選挙対策委員会を設立.サンチァゴでも大使館,CIA要員らが同様の委員会を設立.64年の大統領選に向け約100人の工作員が作戦専任となる.
3 国会選挙.FRAPが29%をしめ第1党に躍進.キリ民党は16%を獲得.30%にとどまった保守,自由両党はキリ民党切崩し工作を熾烈に展開する.
9 アナコンダなど銅山各社の労働者2万人,1ヶ月にわたる賃上げスト.銅相場は5年間で1/3に暴落.FRAPは銅山国有化法案を公表し支持を広げる.
10.27 主要銅山の国有化を主張したセラノ鉱業相,政府により解任.
12 ソ連と30万トンにのぼる銅販売契約に調印.
61 社会党幹部のブレスト,CUT委員長の座を解任される.
61 農業労働者連盟,農業全国協会,インディオ全国連合,土地組織戦線などが統一し「全国農民インディオ連盟」結成.FRAPに結集し土地占拠闘争を進める.マジェコ,アラウコなどで激しい弾圧の中2万ヘクタールの土地占拠に成功.
61 シルバ・エンリケス枢機卿は,教書の中でLAにおけるカトリック教会の改革主義的志向を表明.土地改革,脱税者の処罰,巨大な独占会社の抑制,教育の大幅な拡大を提起.「数百万の国民が国内で困窮しているのに,金を海外に預金する富裕なチリの人々」を非難.「チリの十分の一の人間が,国民所得のほぼ半分を一人占めにしている.チリの富のこの間違った分配は,国民の栄養失調でまかなわれている.社会的不公平と貧困は共産主義を育てる.われわれは反動主義者であってはならない.われわれは瀬戸際に立っているのだ」さらに「自分は共産主義を激しく嫌悪するし,共産主義との提携をいっさい排除してきたが,教会と社共連合政権との協力はある範囲内で可能」であると述べる.農業改革を進めるため教会所有の農地5万エーカーを零細小作人に配分.協同組合の創設をうながす.
1962年
4.02 CIA,「特別グループ」宛に書類を提出.アレッサンドリに対するリスク・ヘッジとして,キリ民党あるいは急進党を支援するオプション.「特別グループ」はこの提案を了承.5万ドルの支出を承認.
8.27 「特別グループ」,キリ民党支援のため18万ドルを供出することを了承.米政府内にトーマス・マン米州担当国務補佐官,ドズモンド・フィッツジェッルドCIA西半球部長,ホワイトハウスのラルフ・ダンガン,マクジョージ・バンディ補佐官,西半球軍第4師団長(チリを管轄区域とする)をメンバーとして,チリの選挙活動を調整する秘密委員会が創設される.これと平行してサンチアゴのチリ大使館内にも,同じような構成の選挙対策委員会がおかれる.
10 アレッサンドリ,保守,自由の両党に急進党を加え「民主戦線」を結成,辛うじて過半数を保つ.キューバ危機をめぐり,キリ民党とFRAPとのあいだに決裂.以後,両者は統一できないまま経過.
11 保守党提案の偽瞞的土地改革法成立.
11 チリ24時間スト.百万人が参加.軍と労働者の衝突により4人の死者.
1963年
4.08 チリ地方選.自由・保守両党に加え急進党も巻き込んだ民主戦線が93万,FRAPは58万,キリ民党が45万票を獲得.政党別ではキリ民党が急進党に代わり第1党となる.「特別グループ」,急進党を支持するため5万ドルの支出を承認.
63 社会党脱党者を中心とする「社会主義青年」,武装組織としてマルクス主義革命前衛(VRM)を結成.キューバ型路線をとる.
63 ハイメ・バロスら共産党中国派,チリ革命共産党(PCCR)を結成.
63 民主戦線,アレッサンドリに続く大統領候補として,急進党指導者で元上院議長のフリオ・ドゥラン・ニューマンを指名.
63年 サンチアゴ師範学校の学生グラディス・マリン、共産青年同盟の書記長に選出される。
1964年
3 クリコ州で補欠選挙.急進党の候補者は最下位で落選.ドゥランは責任をとり大統領選立起を辞退.
4月 「特別グループ」,フレイ候補当選のため,300万ドルの拠出を承認.
5月 「特別グループ」,キリ民党の住民組織,農民組織を支援するため,16万ドルの拠出を承認.
6月 大統領選挙でアジェンデ当選を阻止するための「303委員会」,「特別グループ」を再編・改称して発足.チリで活動する多国籍企業から150万ドルの秘密援助の提案をを受けるが,安全性の面からこれを拒否.
6 米大使館のジョア参事官,当局への秘密工作を暴露され,チリ議会から退去要求.
7.19 チリ国防評議会(統合参謀本部に相当),アレッサンドリと会談.もしアジェンデが勝利すればクーデターを行うべきと提案.これを聞いたCIAサンチアゴ支局長は,人を介し,国防評議会にクーデターに賛成しないとの米政府の態度を伝える.
7.20 空軍某将軍,米大使館の幹部と面接.アジェンデが勝利すればクーデターを行うと伝える.
7月 ドゥランはふたたび立起を表明するが,保守・自由両党はこれに応ぜず,民主戦線を解散.キリ民党に相乗りすることとなる.CIAはカトリック教会の社会福祉機関「カリタス」を通じ,運動費の半分以上にあたる総額2千万ドルをつぎこみ,反共攻撃に狂奔する.
9.04 大統領選.エドアルト・フレイ,「自由の中の革命」をスローガンに56%の得票を獲得.39%の対立候補アジェンデに圧勝.ドゥランは急進党の単独支持で立起するが得票率5%で敗北.アジェンデは男性票では67,000票上回ったが,女性票で50万近く差をつけられる.女性票がフレイに回ったことについて,CIAは「反共産主義で,恐怖をあおりたてる作戦が最も効果的だった」と総括.
10.02 ラルフ・ダンガン,サンチアゴ駐在米大使に任じられる.
11.3 フレイ,大統領に就任.就任式には労働者・農民代表数千人が招かれる.
フレイ政権の特異性: フレイは保守派の後押しで当選したにもかかわらず、みずからの掲げた「革新的」な政策が支持されたものと“誤解”した。
フレイはソ連の承認,銅山の“チリ化”(FRAPの“国有化”方針に対抗したもの)や,農地改革法など,民族的要求を一定取り入れる方針を提示し、キリスト教農民同盟,都市の隣人委員会,母親センターなどをつぎつぎに育成.CUTからの分裂組織として全国労働司令部(CNT)を結成.両者の組合員獲得競争により労働者の組織率は一気に高まる.
一方で、ケネディの「進歩のための同盟」路線を押し進め,「開発主義者」の異名をとった.公営企業の多くが民間へ移管し,外国企業の手に渡った.国内矛盾はむしろ拡大.64 米系銅山労働者のスト,勝利.都市勤労者は74時間のゼネストを成功させる.
64年末 チリ共産党が第13回大会で選挙結果を総括。フレイ政権の改良主義的本質を指摘すると同時に,これに対するたたかいの強化を確認する.
1965年
2月 「303委員会」,3月国会議員選挙に向け,17万ドルの支出を承認.米国支持派候補に対する秘密資金援助として用いられる.CIA支局長とサンチアゴ駐在大使により,22人の当落線上候補が援助の対象に選ばれる.チャーチ委員会報告によれば,この資金注入によりFRAP有力候補13人の落選を実現.
3.07 国会議員選挙.キリ民党が41%を獲得.下院の議席は23から78議席となり絶対過半数を獲得.上院でも第一党となるが単独支配は確立できず.この中で政界の再編すすむ.
3月 グラディス・マリン、チリ共産党から国会選挙に立候補し当選。このとき23歳。
6 ペンタゴンの発案になるキャメロット計画暴露される.南米の「特定の国」で内乱の可能性や,それを鎮圧する力が政府にどの程度存在するかを調査するため,6百万ドルを計上.「特定の国」とはチリ,コロンビア,ペルー,ベネズエラ,アルゼンチンを指す.チリについては,ワシントンのアメリカ大学のナッティンがチリ大学社会経済研究センター所長E.アムイ教授に調査をもちかけるが,外部への漏洩で大問題となる.
11.15 アジェンデ,ニューヨーク・タイムスとインタビュー.64年選挙で彼を敗北させた「外部勢力」のひとつとして米政府がいると述べる.
65年 フレイは「協定による国有化」政策に着手するが,寡頭勢力はこの政策をも過激すぎるとして拒否.フレイ政権の改良政策は行き詰り,大衆の支持は急速に失われる.
65年 あわせて15%にまで低落した自由党,保守党,国民行動党は,工業振興協会(SOFOFA),全国農業協会(SNA)などの圧力を受け合同.国民党を結成する.泡沫政党化した急進党は大会をひらきウーゴ・ミランダ,カルロス・モラレスら左派が主導権をにぎる.
65年 合法的権力獲得は不可能とする社会党左派の学生らは,社会党を離れコンセプシオン大学を中心にMIRを結成.前学長の息子で青年医師のミゲル・エンリケスが書記長に就任.VRMの運動を引継ぎキューバ路線にもとづく武装闘争を開始.トロツキスト政党「革命的労働者党(POR)」,MIRと合併.毛沢東主義者も加わる.コンセプシオン大学学生連盟の指導権をにぎり,さらにチリ大学に左翼大学運動,革命学生戦線などを結成.
65 ビクトル・ハラ,キラパジュンを結成,音楽活動開始.
1966年
1 ケネコット社の経営するエル・テニエンテ銅山労働者,物価上昇率26%に見あう賃上げを要求してスト入り.
3.11 エル・テニエンテの争議深刻化.アナコンダ社のエルサルバドル銅山とポトリジャ鉱でもエルテニエンテに対する同情山猫スト.フアン・デ・ディオス・カルモナ国防相は争議を不法と断定し軍を投入.エル・テニエンテの組合事務所に突入した軍は,集会所に立てこもる労働者・家族らに対し発砲.6名の労働者と2人の主婦を射殺.約40名を負傷させる.さらにエル・サルバドル鉱も武力で制圧.フレイは「政府を困らせる目的で左派過激分子がストを指導し,国に5千7百万ドルの損害をもたらした」と演説.
66 「社会民主党」がキリスト教民主党から分離した少数派で結成される.書記長にエステバン・レイトン.(ベルナルド・レイトン・グスマン内相?)
66 政府,ケネコット系銅山の株式の51%を接収.69年には同様にアナコンダ系銅山社株の51%を接収.
1967年
2 元共青活動家で平民出身のルシアーノ・クルス(後に派閥抗争で粛清),アンドレス・パスカル・アジェンデ(アジェンデ大統領の甥),ウンベルト・ソトマイヤー,アルトゥーロ・ビジャベージャら「若手の行動派」,MIRの主導権をにぎる.コンセプシオン大学学生自治会を中心に影響を広げる.MIRの二人の学生メンバーが「ゲバラは死ななかった」と壁に書いているところを捕まり,国警隊によって殺害.
6.02 303委員会,急進党の右傾化促進のため,3万ドルの工作費を承認.これを受けた急進党右派議員は,党内に「自由の軍団」派を立ち上げる.結成宣言では「アジェンデが政権をとる場合,あるいはフレイが共産党まで含めた連合政権を目指す場合,我々はクーデターを呼びかけるだろう」とする.また会議の発言の中では,「米国の支持さえ得られれば,軍は選挙前にもクーデターを決行するだろう」と述べられる.
6.16 エドワード・コリー,ダンガンに代わりサンチアゴ大使に任命される.
6 キリ民党全国大会.左派が執行部の過半数をにぎる.民主的計画経済,共同体の拡大,外資や私企業に対する規制などを骨子とする「非資本主義的発展の道」を主張.これを受けたフレイ政権は,農民の団結権とスト権を承認.税制を改革し富裕層からの徴税強化を図る.また選挙法を改正し,文字の読める,読めないにかかわらず,18歳以上のすべての国民に選挙権を与える.
7 キリ民党提案の土地改革法公布.80基準ヘクタール以上の農地の接収を認め農地収用と農民への分与を始める.ジャック・チョンチョルが長官をつとめる農牧開発局(INDAP)が農地の接収を推進.多くの抜け穴のため,実行は進まず.農民組合法も制定され合法活動の枠が大幅に拡大.
8 OLAS大会開催.アジェンデが議長をつとめる.コルバラン,OLAS大会について「ゲリラが反動政府に対する闘争のひとつの形態であることは認めるが,チリではゲリラの存在する余地はない」と発言.
8月 社会党急進派の指導者カルロス・アルタミラノ、ハバナのOLAS大会に参加。帰国後、チリにおける暴力革命を扇動したとして拘留される。
11.13 政府,1年間のスト凍結と,強制貯蓄をふくむ緊縮法案を提出.CUTは24時間ゼネストでこたえる.
11.14 24時間ゼネストに対し,全軍挙げての鎮圧行動.22人の労働者が殺害される.
11 社会党,チリャーンで第22回大会開催.アルタミラーノとセプルベダのひきいる左派がアジェンデの中間派をおさえ主導権をにぎる.アルタミラーノ派はプロレタリアート統一戦線をうちだし,二段階革命を否定.議会を通じての権力獲得に対しても懐疑的立場をとり「革命的暴力は政治・経済権力を掌握するための唯一の方法である」と主張.「平和的な選挙闘争というものは,運動の諸々の形態の中にあってきわめて限られたものとしてのみ受入れる」という決議が採択される.ラウル・アンプエーロ元書記長を除名.アニセト・ロドリゲスが書記長に就任.アジェンデは党内基盤をうしない,共産党の全面的支持に依拠することとなる.
12.17 カウティン,ビオビオ,マジェーコなど「政治的に遅れた諸州」で上院補選.共産党もおす急進党左派の候補が当選.キリ民党は惨敗を喫す.社会党は選挙そのものをボイコット.
1968年
1 キリ民党右派,執行部を奪回.フレイ,内閣を改造,左派指導者のセルヒオ・モリーナ蔵相を更迭,財界よりのラウル・サエスに代える.左派のジャック・チョンチョル,INDAP長官を辞任.キリ民党の指導でつくられた「農民の勝利」の指導に専念,農民組合の半数を獲得.
6 サバのワーグナ・シュタイン電器会社で労働争議.会社のロックアウトに対抗して労組は工場を占拠.会社は警察軍の出動を要請し労働者を逮捕.事件後,各地で工場占拠戦術が拡大.工業振興会(SOFOFA)側も危機意識を抱き同業者組合の組織化につとめる.
7.12 キッシンジャーを長とし,国家安全保障会議のメンバーからなる「40人委員会」発足.海外での秘密作戦を統括するため,ニクソンの指示により作られた.69年の国会議員選挙に向け35万ドルの支出を承認.社会党の分裂を促し反アジェンデ派に支援を集中.この結果,チャーチ委員会によれば当落線上の候補12人のうち10人を勝利させたという.またこの結果社会党の議席を少なくとも7議席奪ったという.
8 チェコ事件発生.共産党は,チェコ侵攻を支持したカストロを,真の国際主義の態度として賞賛.共産党のソ連支持に対し学生層から反発.共青前書記長マヌエル・カンテーロが中央批判の先頭にたつ.
12 アンドレス・イダルゴ社で労働者の工場占拠.労働者は学生などの援助を受け自主操業に踏み切る.労働者の自主操業はUP誕生までに20社におよぶ.
12 CUT第5回大会.フレイの裏切りを告発し「革命的変革のための統一を」をよびかける.反帝反寡頭制の革命をめざす綱領原案を採択.この時点で60単産,約65万の組合員を結集.
68 大学改革運動,全国的な広がりの中で勝利,闘争の中で共産党の影響力強まる.
68 急進党内で左派が主導権を確立.モラレスが議長に就任.同党右派は脱党し「急進民主党」を結成する.
1969年
3.01 国会選挙.アレサンドリの率いる国民党が大躍進.右翼勢力の支持を失ったキリ民党は得票で29.6%まで後退.左翼も社会党,共産党がそれぞれ12.3%,15.9%に得票を伸ばすなど躍進し,人民連合の展望ひろがる.
3月 議会選挙で大敗したキリ民党は再度分裂を深め,フレイ派,反逆派,第3派に分かれ抗争.反逆派(農地改革を指揮した部分と青年層)はハイメ・ガスムーリを書記長に「人民統一行動」(MAPU)を結成する.
3 キリスト教民主党急進派の指導する全国農民のゼネスト決行される.南部の町プエルト・モントで土地占拠農民のデモにたいしペレス・スコビッチ将軍の指揮する軍が出動.警官の襲撃により7人が死亡(一説に数百人),60人が負傷.サンチアゴで10万人の抗議集会.政府と軍の強硬姿勢を前に,MIRは平和的権力獲得は不可能として武装闘争にスタンスをうつす.
4.15 303委員会,チリの状況について議論.アジェンデ当選阻止のため,CIAと現地大使館が協力体制をとることを確認.
4 カルロス・コンチャら急進派,キリ民党を脱退しMAPUに合流.キリ民党系大衆組織の多くが,MAPUと行動をともにする.
6 社会党中央委員会総会,「大統領選を放棄することはでき」ないと判断.暴力革命不可避論から,統一戦線による平和的移行の可能性についても議論されるが,基本戦術,大統領候補について合意を得られないまま閉会.
6 MIR,ウルグアイのツパマロスにならいあいつぐテロ活動を展開.ルシアーノ・クルスは,ゲバラのあとを追い,暴力革命を宣言すると発言.
6 急進党大会,エンリケ・アルフォンソ,フリオ・ドゥラーンらの右派を排除.国民党と断絶し急速に左展開.アルベルト・バルトラを大統領候補に指名.
7.11 社会党全国総会,大統領選への参加を正式に決定.アジェンデとロドリゲス書記長が候補者の地位をめぐってあらそうこととなる.
7 大統領選に向け共産党はネルーダを候補に擁立.MAPUはチョンチョルを指名.
8.29 社会党中央委員会,ロドリゲスの立候補辞退を受けアジェンデを自党候補者に決定.大統領選をFRAPプラスMAPUでたたかうよう提言.幅広い連合を主張する共産党と対立.
8 キリ民党,左派のトミッチを大統領候補に指名.国民党はトミッチを拒否,独自候補の擁立に動く.
10.7 社会党の提案を受け,FRAP(社共)による人民連合への参加アピールが出される.4政党と二つの運動による調整委員会発足.
10.21 アントファガスタ陸軍師団長で旧「直線」派のロベルト・ビオー(Viaux)将軍,政府批判を行い解任.サンチアゴ駐屯のビオー派のタクナ連隊は,タクナッソ・クーデター計画にもとづき,軍人の待遇改善を口実として反乱を起こすが直ちに鎮圧.CUTはただちに立憲政治を守るためのゼネストで戦う.
10.24 アジェンデ,人民連合(この時点ではFRAP)の大統領候補に決定.
11 タクナソの直後,陸軍の規律たてなおしのため,「専門職主義」,「立憲主義」を標榜するレネ・シュナイダー将軍が陸軍総司令官に就任.
11.23 共産党第14回大会は,十回大会で決定された綱領を大幅修正.きたるべき革命の性格を「その本質および目的において,社会主義への展望をもつ反帝国主義・反独占・土地革命である」と規定.人民政府の構成と機能,人民権力や軍の評価などが加えられる.コルバランは「軍隊が政治の中で一つの新しい要素になっているのはいつわりのない事実である.軍隊が政治生活から超然としていた時期は終わった」と報告.
11 国民党,アレッサンドリを大統領候補に指名.コーリー米大使は,小差でアレッサンドリが勝つだろうと本国に通報.
12.17 「人民連合」(UP)(社会党,共産党,急進党,社会民主党,独立人民行動(API),人民統一行動が参加)が結成される.
12.26 農地改革,銅山の国有化,社会福祉の充実の3本柱からなる基本綱領を発表.「権力の獲得に向かってチリ人民の動員を促進し,また指導するために各左翼運動・政党の活動家を結集し,抜本的な変革を決意した多数のチリ国民の参加する人民連合委員会を工場や農場に,貧民居住地区や事務所,学校いたるところに組織しよう.人民連合委員会は単なる選挙組織にとどまらないであろう.それは差迫った大衆の要求の代弁者であり,たたかい手であり,そしてなによりも人民権力の行使を準備するであろう」と宣言.
12月 303委員会,アジェンデと人民連合についての評価.国務省の一部では「アジェンデは共産党ではない」とするが,コリー大使は「アジェンデ政権が成立すれば,カストロ以上に悪い政権となる」と強調.