ブラジル年表  その1

 1500年当時、ブラジルには800万の先住民が住んでいたとされる。海岸地帯にはトゥピあるいはトゥピナンバ(Tupinamba)族とよばれる部族が暮らしていた。彼らはパラグアイ地方から侵攻し、先史時代の住民ヘ(Ge)族を内陸部に追いやり定着したとされる。彼ら自身も20の部族に分かれ相互に争っていた。アマゾン内陸部にはカリブ、アラワク系の部族数百万が生息していたとされる。

 

1500

1500  ブラジルの発見

1.26 ビセンテ・ヤニェス・ピンゾン(Vicente Yanez Pinzon),ペルナンブコに到着。上陸地点は、現在オリヴェンカと呼ばれる集落の近くとされる。レシフェから海岸を北上し、アマゾン河を130-160 kmさかのぼり、その後ベネズエラ方面に向かう.ピンソンはスペイン人探検家で、コロンブスの第一次探検隊に参加。ニーナ号の船長を務めた。(スペインの新大陸探検に関しては,ラテンアメリカ全体の年表ー1-を参照)

3.08 バスコダガマにつづき,ペドロ・アルバレス・カブラルの指揮のもと,13隻の艦隊1500人からなる第二次インド遠征隊が,リスボン外港レステロを出発.

4.22 カブラルの船団,インドへの航海中,風に流され西に大きく進路をとる.ブラジルのブラニェム(uranhem河口に接近.ニコラウ・コエーリョの偵察隊がボートで河口の島に上陸し、モンテ・パスコアル(復活祭の山)と名づける。

有名な異説: 一般には、カブラルは、たまたま風に流され新大陸を発見したことになっている。しかしカブラル出発にあたり、ポルトガル王が秘密命令を下し、新大陸への権利を確保するために、流された振りをしてブラジルに上陸するよう指示したという説がある。

4.23 カブラル、ブラジル本土に上陸。20人ほどの先住民と遭遇。上陸地をポルト・セグーロ(安全な港)と命名した後9日間にわたり滞在.トルデシーリアス条約にのっとりポルトガル領を宣言。原住民は「ブラジルの木」(パウ・ブラジル)を磨り潰した赤の染料を贈る.

カミーニャ文書(Carta de Caminha): 探検隊の公式クロニスタであるPero Vaz de Caminhaは発見のいきさつを王室に報告。上陸の場所をカブラル海岸と名づけ、周辺一帯をサンタクルス島(Ilha de Santa Cruz)と名付ける。この名は後にベラクルス大陸(Terra de Vera Cruz)と改められる。このサンタクルスは現在のバイア州ポルトセグロといわれる。また文書は、土地の肥沃さを強調している。(文書により細部の異同あり、一次資料との照合を要する)

5.01 カブラル,インドに向け出発.船団のうち一隻を本国報告のためリスボンに戻す.バウ・ブラジルから作られた染料が、ポルトガルに持ち帰られ,ベラクルースよりブラジルの方が有名になる.

1501

4月 ポルトガル,ベラクルスに3隻の調査船を派遣.隊長はGoncalo Coelho。フィレンツェ人の航海士アメリゴ・ベスプッチも同行.(一説にガスパル・デ・レメ。この探検に関してはきわめて異説が多い)

8月 調査船、リオグランデ・ド・ノルチに到達。ここから海岸伝いに南を目指す。

11.01 調査船、トドス・オス・サントス湾に上陸。この日は万霊節であった。さらに南下を続ける.

1502

1.01 調査団,グアナバラ湾に到達。これを河口と思った調査団は「1月の河」(Rio de Janeiro)と名づける。

3月 調査団、サンパウロ州のカナネアまで達した後帰国。一行はベラクルスが大陸であることを確認,テラ・ダ・ベラクルスと改称.(一説にトドス・オス・サントスから3200キロ、南緯50度の地点にまで達したとされる)

02年 政府は商人フェルナン・ロローニャを公式採伐業者に指名,毎年6隻の船を仕立て、ブラジルの木の採伐・輸送を開始.ノバ・ルシタニア(現ペルナンブコ)に商館建設.翌年にはポルト・セグロにも商館建設.

ブラジルの木(バウ・ブラジル): 学名Caesalpinia echinata and C. brasiliensis。木材は光沢を持ち、家具やバイオリンの弓に用いられる。その名称はポルトガル語で橙色を意味する"brasa"に由来するといわれる。
これから採れる赤色染料はbrazileinと呼ばれる。毛織物用の赤色染料として欧州で珍重され、特にノルマンディーとフランドルの織物産業にとって重要な染料となる。16世紀前半でほぼ枯渇.

1503年

1月 Goncalo Coelho、ふたたびブラジル海岸を探索。グアナバラ湾の入り口を川と間違え「1月の川」(リオ・デ・ジャネイロ)と名付ける.サンビセンテ(現サントス近郊)に基地建設。

何とかならないか、この混乱: リオ発見談については、01年説と02年説があり、隊長もコエーリョだったり、ゴンサルベス(André Gonçalves)だったり、アメリゴ・ベスプッチだったりと一定しない。またロローニャの探検との混同も多く見られる。最初のリオの基地兼交易所は、現在のフラメンゴのあたりで、先住民はここをカリオカと読んでいた。

6月 コエーリョ、物見の塔、12門の大砲と24人の囚人を残し、サンビセンテを去る。(一説にバイーア)

03年 フランシスコ会の伝道団がブラジルに入る。15年に第二陣。

03年 フランスの船が初めてブラジル海岸に出現。パウ・ブラジルの交易を狙う。ほかのヨーロッパ船もブラジル海岸に出没。

1504 改宗ユダヤ人が、王室との契約によりバウ・ブラジルの採伐に入る。フェルナン・ロローニャを団長とし,アメリゴ・ベスプッチも同行。バイア(一説にカボ・フリオ)に5ヶ月間滞在.内陸に向け最初の探検隊(エントラーダ)を派遣.240キロ内陸に入るが,金は見当たらず.24人の残留部隊を残し帰国。(この記述は、02年の記載に対する異説と考えられる)

1506 パウ・ブラジルの採伐が盛んとなる.年間約1千トンがヨーロッパに輸出される.サンタクルスの俗称テラ・ド・ブラジルが一般的国名となる.(ブラジルの名称が一般的になったのは16世紀後半からで、これは異説のひとつと考えられる)

1508 南部のサンビセンテにもポルトガルの木材商人が進出.

1510 ポルトガル人の船乗りディエゴ・アルバレス(Diego Alvarez Correa),Bahia de Todos os Santosに漂着。現地民に受け入れられ、カラマル(雷の子)を名乗る。

1511年

6.27 ポルトガル船ブレトア(Bertoa?)号,ブラジルで3ヶ月にわたりパウ・ブラジル伐採に従事。リスボンに帰港した際、ブラジルの木のほかに,多くのオウム,先住民36人を連れ帰る.ブラジルにおける奴隷制の始まりとされる.

11年 ポルトガル王室政府,ブラジルの原住民を王室の庇護の下におき,キリスト教化を進めると宣言.これに従わないものは奴隷としてかまわないとの見解を打ち出す.フランシスコ会,アラビダ会が先住民の布教にあたる.

15年 ポルトガル人の船乗りジョアン・ラマーリョ、サントアンドレの村を創設。後にサンパウロ建設の祖とされる。

ジョアン・ラマーリョ: 彼の生涯も半ば伝説と化しており、真偽不明のところが多い。サントアンドレ市のサイトによれば、06年から08年のあいだにサンビセンチ近くのゴイアナ海岸に漂着し、先住民ゴイアナ族に助けられた。内陸部のピラティニンガ高原を支配するティブリリカ村のゴイアナス酋長の娘と結婚。サントアンドレの集落を創設し、偉大な戦士との評判を得て支配者となった。(これは若干サントアンドレ市に都合よく出来た話ではあるが…)
正妻のほかに何人もの側妻を持ち、子孫の数は無数におよんだ。当初、イエズス会はこれを嫌ったが、布教のためやむを得ず手を結んだという。

1516 ペルナンブコ,ポルト・セグロ,リオ,サンビセンテにカピタニア(長官領)が設置され,フランス船取締りのため年1回の艦隊が巡視することとなる.(後のカピタニア制度とは異なる)。

1516 ポルトガル、ペルナンブコに要塞を兼ねた交易場所を創設。ブラジル最初の砂糖栽培。クリストバン・ジャックが司令官となるが、フランスの侵略、侵攻をチェックすることができないままに終わる。

1519年

12.13 世界一周を目指すマゼランの船が,リオ・デ・ジャネイロに到着.グアナバラ湾で2週を過ごす。

19年(それより以前?) グアナバラ湾付近に住むタモイオ族、ポルトガル人の搾取に抗議し反乱。ポルトガル人は、ボートで逃げ出した少数の生存者を除き、殺され食われる。

食人の“習慣”: ベスプッチは「勝者は敗者を食ってしまうのでありまして、肉の中で人間の肉はフツウの食物なのです。このことは正真正銘であります。かつて父親が息子や妻たちを食ったことがあるそうです」と述べているが、これは偏見に基づくものだろう。1547年に捕えられ、危うく食べられそうになったドイツ人スターデンは、復讐心が食人の理由だったと述べている。

1524 アレージョ・ガルシア(Aleixo)の冒険談.ポルトガル船がブラジル南部沖で遭難.乗組員のアレージョ・ガルシアは上陸に成功.一説では約2千のグアラニー人を手下としたという.

1525 この頃から,ブラジルの木盗伐を目的とするフランス人海賊の進出が盛んとなる.ブラジル沖合いはほとんど無法状態となる.フランス人は金属製品と引き換えに木材の伐採と積み出しを依頼した。フランスは多くの青年を送り先住民とともに住まわせ、言語を習得したため、非常に成功した。

1526 アレイジョ、グアラニー人の案内で西進しインカ国境(現ボリビア)に達する.国境の町を襲撃した後サンヴィセンチに帰還。(一説ではパラグアイで先住民に殺害される)

1528 ドン・ジョアン3世,フランス人によるブラジルの木盗伐取り締まりのため,クリストバン・ジャッケスを隊長とする6隻の沿岸警備隊をペルナンブコに配置.

 

砂糖栽培を基礎とするカピタニア制の確立へ

1530年

4月 Martim Afonso de Sousa、5隻の船と400人の乗組員でブラジル植民地作りに乗り出す。グアナバラ湾に貯蔵所を建設。

12月 ポルトガル政府、マルチン・アフォンソ・デ・ソウザをブラジルのカピタン(長官)兼ゴベルナドール(総督)に任命.交易地ではなく植民地として位置づける。

30年 フランスの海賊,ペルナンブコを奪取.仏王出資の私掠船がポルトガル船を襲撃.

1531年

2月 ソウザ,五隻の船に500人を載せブラジルに到着.このとき初めてブラジルに黒人奴隷を持ち込む.

3月 ソウザの艦隊、バイアに到着。現地トゥピナンバ族のカラムル酋長(ポルトガル人)は一行を歓迎。

8月 ソウザの艦隊、バイアから南に進み、サントス南方のカナネイア島に達する。ここでFRANCISCO DE CHAVESと遭遇。チャベスはこの島で30年以上暮らしていると述べる。またラプラタ地方探検隊の補給活動を助けたとも語る。ペルーまで行ってきたこともあると語る。また24年のALEJO GARCIAの冒険談についても語る。

9月 ソウザ総督、アレイジョの話を聞き探検隊(Entrada)を組織。40人の小銃隊、40人の弓手をつけ、ペロ・ロボとチャベスを内陸部に送る。部隊はパラナ河に達し、先住民のカヌーで横断を図る。載っていたカヌーが沈没し大半が死亡。岸まで着いた兵士も現地のカリーホ(Carijo)族に皆殺しにされる。カリホ族は探検隊をだまして穴の開いたカヌーに乗せ、溺死させたという。

3月 ディエゴ・デ・オルダスの率いるスペイン人探検隊、オリノコ河を300キロさかのぼり探索。本国にもどる途中、オルダスはパリアで急死。(一説ではアマゾン川流域に植民地を作ろうとするが失敗。うち1隻は難破し、乗組員は先住民と通婚し現地化。10年後にアマゾンを下ったオレリャーナにより発見・救助される)

32.01 ソウザ,二年間にわたるブラジル海岸警備活動の後、ジョアン・ラマーリョの勧めを受け、サンヴィセンチ島をみずからの植民地として確定.約4百人が入植し、マディラ島から移植した砂糖栽培を開始.先住民との接触が進み、労動、食料、配偶者の調達に成功。ソウザはアントワープの砂糖商人と結びつき、その投資を受ける。

33 ソウザ,ブラジルを離れる.後にインド総督に就任.

1534年 カピタニアの建設

34 ジョアン2世、カピタニア制(貴族への依託開拓)の導入を決定。ブラジルは14の世襲のカピタニアに分割され、入植と砂糖生産開始.約20年後にはサンビセンテとペルナンブコを残し崩壊.

カピタニア制度: フランスはトルデシーリャス条約を認めず、ブラジルへの進出を試みた。ポルトガルの主要な関心はインド・東アジアにあり、資源の希少なブラジルは手薄になりがちであった。このためポルトガル王室はブラジルを17の地域に分け、それぞれを世襲権つきで有力貴族に分与し、防衛と開発に当たらせた。彼らはカピタニアと呼ばれ、王室からの寄贈を受けたことからドナタリアとも呼ばれた。
世襲制は比較的早期に解消されたが、Capitanias Hereditariasの名称は植民地時代の政治風土の表現として後まで残る。

34年 サントメのドナタリアとなったPero de Gois、Vila da Rainha(女王の町)を建設。

34年 Itabaraca のドナタリオPero Lopes de Sousa、コンセイカード島(Conceicado)の要塞に立てこもるフランス人100人を排除。

1535年

35.3.12 ペルナンブコのドナタリアとなったドゥアルテ・コエリョ・ペレイラ(ゴンサロ・コエーリョの息子),サトウキビ農園の開発を進めるため現地に入る.オリンダの丘に石造の塔を立て、その麓に初の本格的な植民地イガラスー(Igaracu)を建設.

ペルナンブコ植民地の成功: ①コエリョは、実家のアルブケルク(Albuquerque)家を通じて、イタリア系の資本と結びついた。これに対しポルトセグーロ、エスピリト・サントなどは資金の不足から衰退。②現地民との関係が比較的円滑に進んだ。とくに部下のVasco Fernandes de Lucenaは、酋長の娘と結婚。現地民に偉大な魔法使いとして尊ばれたという。

35年 マラニョンのドナタリアとなったJoao de BarrosとFernando Alvares de Andrade、Aires da Cunhaの率いる部隊を派遣。バロスはインドとの香料貿易で成功を収めた資産家で、文筆家としても王室の高い評価を受けていた。艦隊はマラニョン海岸で遭難。da Cunhaをふくめ、銃と野砲を装備した900人の部隊、130人の騎兵のほとんどが溺死。上陸に成功した部隊も先住民の抵抗に苦しめられる。残りの船団はアマゾン河を数百キロ遡上するが、植民地となる適地を発見できず。

1536年

36年 バイアのカピタンとなったクーティーニョ(Francisco Pereira Coutinho)、Sao Diogo砦に隣接してビラ・バイアを建設。現在のSanto Antonio da Barraとされる(一説にビクトリア)。原住民を弾圧、サトウキビ栽培に使役を強制し搾取する政策。

36 本国で宗教裁判.迫害を逃れ多数のユダヤ人が資本を持参して,ユダヤ人に寛容なペルナンブコにわたる.

1538年

38 ブラジルへの黒人「輸入」始まる.ギアナ,サントメ島(アフリカ)から120人が「輸入」.その後中心地ペルナンブコには,ユダヤ人が支配する一大奴隷市場出現.

38年 マラニョンの入植者、虐待した先住民から反撃を受け、ほぼ全員が死亡。先住民をフランス人が支援。一部の生存者は内陸に入りGe語系のTapuia族に保護される。

38 イギリス人,サントスに上陸を試みるも失敗.その後沿岸での掠奪行為に作戦変更.

39年 Itamaraca のドナタリオPero Lopes de Sousa、インド航海中に遭難死。後任のジョアン・ゴンサルベスは、現地のポルティグアル族との融和を図るが、植民者は襲撃と誘拐作戦を続けたため、ポルティグアル族はフランスと結び抵抗を続ける。

41.12 ゴンサロ・ピサロ,エルドラドを求めキトを出発,アンデスを越えアマゾンに分け入るが挫折.先発隊をつとめたフランシスコ・デ・オレリャーナ,60人の部下とともにナポ川を経てアマゾン川を下る.

41年 スペイン領ラプラタ総督のカベサ・デ・バカ、ラプラタ地方を探検。イグアスの滝を発見。彼はこの滝をSaltos de Santa Mariaと名づける。

42.08.24 オレリャーナ,アマゾン河口に至る.途中6月にはインディオと遭遇戦,同行した神父カルバハルが女族アマゾナスを発見と報告.

43年 03年からブラジルでの布教を開始したフランシスコ会、オリンダに最初の伝道所(Convent)を建設。その後イエズス会の前に勢いを失う。

45年 バイーアのコウティーニョ、先住民の反乱を前に植民地を放棄。成功した植民地Ilheusに向け避難。バイアでの反乱成功の知らせは、ブラジル全土のトゥピ族のあいだに広がる。

1546年

46年 エスピリト・サントの入植者エンリケ・ルイス、サントメに寄航。捕らえた先住民を奴隷として販売する。サントメのドナタリオ、Pero de Goisは国王に告発するが、無駄に終わる。

エンリケ・ルイスのやり口: 彼はヨーロッパ人と親しいワイタカ族の酋長を捕らえた。そしてその身柄と引きかえに奴隷を提供するようもとめた。人々が人質を差し出すと、彼は酋長を返すどころか敵対する部族に与えた。敵対する部族はこれに感謝して奴隷を差し出すと、酋長を食ってしまった。ルイスはそれで部族抗争が激化し、より多くの奴隷が生まれることを企んでいたのである。

46年 ワイタカ族がサントメに復讐の攻撃。砂糖プランテーションを破壊し、駐屯地の大砲を奪取。数回にわたるポルトガル人の反撃をはね返す。Pero de Goisは数年後、別な場所にもう一度殖民を試みるが、ワイタカ族の抵抗にあい失敗。

46年 オレリャーナ、ふたたびアマゾン探検を試みるが遠征中に死亡。

1547年

47年 バイーアのトゥピナンバ族、ポルトガル人との交易復活を望み、カラムル酋長を通じて和解の申し入れ。コウティーニョはこれを受け入れバイーアに戻る。船はトドス・オス・サントス湾の入り口イタパリカ島沖で難破。乗組員全員が、トゥピナンバ族に捕らえられ食われる。生き残ったカラムルは後に逃亡に成功し、フランスに逃れる。

47年 イグアスーでポルトガル人入植者がカエテ族の酋長の息子を殺害。カエテ族はフランスの支援を受け復讐に出る。町は2年間にわたり包囲される。砂糖産業はほぼ壊滅.

イグアスー防衛戦: 先住民部隊は8千人。斬壕を掘り盾を構え、火矢を放った。コエーリョ以下90人のポルトガル人、30人の黒人奴隷が防衛にあたる。守備隊長Afonso Goncalvesは目を射抜かれ死亡。
カエテ族は最終的にVasco Fernandes de Lucenaの説得で包囲を解く。その後、コエーリョの各個撃破により、集団としての戦闘能力を失う。

47 ジョアン3世,カピタニア制崩壊のあとを受け,総督制度を創設。初代総督にトメ・デ・ソウザを任命.弱いカピタニアを強化し、破産したカピタニアを再建し、すべてのカピタニアに威令を広げるよう指示。

1549年 総督制の発足

1.07 ソウザ新総督、6隻の船と千名の乗員を連れペルナンブコに上陸。トゥピナンバ族を味方とし、それ以外のすべての先住民を改宗しない異教徒とし宣戦布告。ペルナンブコの反乱鎮圧に成功し、捕らえた人々を奴隷化。

3.29 ソウザ,バイアに上陸。要塞と市街地、サトウキビ工場を建設。この時点で入植者はブラジル全土で3千人足らず.

11.01 ソウザ、トドス・オス・サントス州サルバドルに総督府設置.カピタニアはそのまま残されるが、ドナタリアはリスボン政府ではなく総督府への司法権集中を求められる。総督制度とカピタニアの並存は1822年の独立まで続く。

サルバドル(バイア)が首都となった理由: 王室は、ペルナンブコ、サンビセンチのカピタニアの経営はそのまま尊重し、ほかのカピタニアの底上げを狙っていた。このため両者の中間にあるサルバドルを、コウティーニョの子孫から買い戻した上で首都とし、ここに第三の拠点を作ろうとした。

49 フランス船でバイーアに戻ったカラムル、フランス人を殺害し、ポルトガルの支配を受け入れる。

49 イエズス会のマヌエル・ダ・ノブレガら5人の神父,ポルトガル政府の意を受けソウザに同行。五人が各地に散らばり、精力的に布教にあたる。インディオの奴隷制からの保護を図る.トゥピ語を習得し現地の生活スタイルを受容。16世紀末までに、128人のイエズス会聖職者が改宗先住民を全面掌握。

1550年

50年 バイアに最初の黒人奴隷が輸入される。その後Nigeria, Senegal, Angola, Mozambique, Congo, Benin, and Ethiopiaなど各地から黒人奴隷が輸入される。

50年 ノブレガ、「先住民の改宗の勢いは増している。それは愛からではなく恐怖からきている」と述べる。

1551年

51 本国政府、先住民が反抗しない限りにおいては保護の下に置き、改宗を促すよう指示。改宗を拒否すれば回教徒と同じく奴隷化できるとされる。指示そのものは両様に受け取れるが、現地では奴隷化の条件付き許可令として受け止められる。

1552年

6.22 バイアにブラジル監督区(Bishopric)が創設される。初代ブラジル司教ドン・ペドロ・フェルナンデス・サルディーニャが赴任。イエズス会の原住民文化保護に反対.これを嫌うイエズス会は、バイーアを離れ南方のサンビセンチに向かう.

(2005.8 上記の三項の記述は相互に矛盾しています。とりあえずそのまま記述しますが、詳しいことが分かり次第訂正していきたいと思います。とりあえず、“Jesuit Missions to the Brazilian Indians”というページが参考になります)

52年 バイーアの先住民改宗者のあいだで最初の疫病流行。

1553年

7.01 第二代総督ドゥアルテ・ダ・コスタが就任。原住民と結託したフランス人の進出に備える一方,千人の植民を誘致し砂糖キビ栽培を奨励.欧州の甜菜糖に比べ甘さと白さで際立つブラジル糖は高い評価を生む。

7.01 Jose Anchietaがイエズス会第二陣としてRibeira das Nausに上陸(一説に6月13日バイアに着任)。サルバドル近郊のSao Andreに先住民を対象とする伝道所を開設。10月にはLeonardo Nunesをともないサントスに向かう。

53年 コエーリョがポルトガルに戻ったことをきっかけに、ペルナンブコ先住民が反乱を再開。植民者とのあいだに2年間にわたる戦争。コエーリョの義兄弟ジェロニモ・デ・アルブケルクが率いる部隊が北部のポティグアル族、南部のカエテ族との激戦を制する。植民地側も二機の最新式砂糖黍圧搾機を破壊され、サトウキビ収穫の大幅な減少を強いられる。

1554年

8.29 ノブレガらイエズス会神父は、サンヴィセンチから内陸に入り、ピラティニンガ(Piratininga)・デ・サンパウロに最初の教化村落(レドゥソン)を建設.ジョゼー・デ・アンシエッタが司祭となる。サント・アンドレにも別の教化村が建設される。

54年 イエズス会のJoao Azpilcueta Navarro、ポルト・セグーロから内陸に入り、布教活動を試みる。アイモレ族は隊を襲撃。トゥピニキン族の斥候が、目前で八つ裂きにされる。これを見て隊は退却。

54年 Joao de Barros(息子)がマラニョンに救援・探検隊を派遣。先住民に上陸を阻止され、植民地化を断念し戻る。その後マラニョンは、先住民と手を組んだフランス商人の独壇場となる。Charles des Vaux船長は、現地語を学ぶなど友好的態度をとり、ポルトガル人からの保護を約束し信頼を得る。故国に戻ったドボーは、リオの南極フランスに対抗し赤道フランス(France Equinocial)計画を打ち上げ、貴族や銀行家から資金を募る。

54年 サンビセンチで赤痢の流行。

1555年

1.25 ノブレガ神父,サンビセンチにイエズス会の学校を設立.パラナ州を中心にインディオに対する伝道活動が活発になる.サンビセンチからパラナ河流域のカリージョ(Carijo)に送られた宣教師は、グアラニー族の教化に成功するが、パラグアイ在住スペイン人の陰謀により殺害される。

5.26 バイーアで、Antonio Cardosoの所有するサトウキビ工場を先住民50人からなる群集が破壊、白人植民者を人質にする。総督の息子アルバロ・ダ・コスタ、騎兵76名と歩兵を率い、三つの先住民集落に放火。酋長を捕らえ、人質数名を解放。

6.01 先住民千名がアントニオ・カルドゾの製糖工場を包囲。アルバロ・ダ・コスタの騎兵隊は先住民を圧倒。多くを殺害。

11.10 フランスの副提督ニコラス・デュラン・デ・ビルガニョン(Villegagnon),アンリ2世の支援を受け,三隻の船にユグノー教徒80名を載せグアナバラ湾に進出.セルヒペ島Ilha de Sergipe.現ビルガニョン島)に上陸.フランス領「南極フランス」(Frank Antartida)を宣言.切り立った断崖の上にFort Colignyを建設。

55年 Villegaignon、リオのタモイオ族のCunhambebe首長と協定。10年にわたり共存。Temiminosはポルトガルと結び闘いに参加。敵対部族を捕らえては奴隷とする。

55年 グアナバラ湾地帯でトゥピ人同士の紛争。タモイオ族(Cunhambebe酋長)がテミミノ族(Maracaja guacu酋長)に勝利。テミミノ族はエスピリトサントへ逃れ、イエズス会の教化村に逃げ込む.(Maracaja guacuは大きな山猫という意味だそうです)

55 バイア南方のエスピリト・サントで、奴隷狩りに抗議する先住民の武装抵抗が強まる.Waitaca and Tupinikin族は、植民地を攻撃し守備隊長のJorge de Menezes and Simao de Castelloを殺害。サトウキビ工場を焼き、町を破壊する。植民地はCricare川沿いの1ヶ所を除き崩壊。多くのポルトガル人はほかのカピタニアに逃げる。

1556年 サルディーニャ司教、食い殺される

6.02 サルディーニャ司教は任を解かれ帰国の途につく。

6.16 ペルナンブコに向かう船が、サンフランシスコ河とクルリプ河の間の付近で浅瀬に乗り上げ難破.二人の妊婦と子供をふくむ乗員全員がカエテ族に捕らえられ、食い殺されたという.

56年 ノブレガ神父、「異教徒の改宗に関する対話」(Dialogue about the Conversion of the Heathen)を著す。ブラジルにおける最初の文学的業績となる。

56年 グアナバラのフランス人、タモイオ人の援助を得ながら植民地を継続するが、飲料水の不足から飢えと疫病に苦しむ。雇い兵はVillegagnon暗殺を計画するが発覚し、首謀者が絞首刑に、残りは奴隷となる。

56年 リオのフランシスコ会司祭アンドレ・テヴェ,ヨーロッパにタバコを持ち込む.スペイン,ポルトガルで観葉植物兼「医薬品」としてタバコの栽培が盛んとなる.

1557年

10.05 カラマルが死亡。バイーアの名誉市民として遇される。

57年 第三代総督メン・ヂ・サー(Mem de Sa),崩壊寸前のブラジル植民地を救うためバイアに赴任.ふたたびイエズス会を重用し,原住民との関係改善に努める.

57年 スペイン人、パラナ川東岸にシウダ・レアル・デル・グアイラを建設。後にポルトガル領に編入される。グアラニー族はその後長期にわたりスペイン人への抵抗を継続。

1558年

1月 グアナバラのフランス植民地でユグノー教徒の反乱。Villegagnonは首謀者5人を処刑し、ほかのユグノー教徒を本国に送還。その後まもなく司令官を辞し本国に戻る。後任にはビリェガノンの甥Lord Bois-le-Comteがあたる。

9.08 先住民ゴイタカス(Goitacaz)族が反乱.ディオゴ・デ・モウラの部隊と対決.

58年 カエテ族がふたたび反乱。植民者はオリンダ周辺に押し込まれる。その後カエテ族は、ポルトガルの手先となったTupinamba and Tupina連合軍との戦いに敗れ、勢いを失う。戦士の多くは食われるか、ポルトガル人に奴隷として売り飛ばされる。

1559年

6.07 メン・ジ・サー総督,トゥピナンバ族反ポルトガル派の征服を決断。少人数の部隊を自ら率い集落を夜襲。Curupeba酋長を捕らえる。これに抵抗する先住民は改宗者3人を殺害した後、パラグアスー川の上流に砦を作り、数千人が立てこもる。

6.09 メン・ジ・サー、ポルトガル人と改宗先住民を率い、パラグアスーの砦を攻める。火縄銃と弓矢による激しい攻防戦の後、砦は陥落。先住民は泳いで逃亡。メン・ジ・サーは引き続きもうひとつの砦も攻め落とした。ここには200の集落から集まった先住民兵士が立てこもっていた。

6月 Vasco Rodrigues de Caldasの率いるポルトガル部隊が残党狩り。30ないし160の村が焼き払われる。この後もバイーア北部では抵抗が継続される。一部は内陸部に入り、アンデス山脈に到達した後、アマゾン低地へ定住したという。

59年 イエズス会、バイアの修道院近くにサンペトロとサンパウロの二つの伝道村を建設。改宗したトゥピナンバ族を受け入れる。反乱軍弾圧を生き残ったトゥピナンバの多くが、イエズス会の伝道村に逃げ込む。バイア近郊では11ヶ所のイエズス会教会区に34000の先住民が暮らすようになる。ノブレガはメンジサー総督に、植民地拡大のためこれらの先住民を用いるよう進言。

59年 トゥピニキン族が Ilheusの植民地を襲う。植民者は砂糖農園を捨て Ilheusの町に立てこもる。トゥピニキン族は町を包囲。植民者にはわずかなオレンジのほかに食料なし。メン・ジ・サーは改宗したトゥピナンバ族部隊を率い出撃。300の村々を焼き、湖に泳いで逃げた先住民を虐殺。この戦いによりトゥピニキン連合の組織的抵抗は終焉。(別に「泳者の戦い:Batalha dos Nadadores」との記載もあるが詳細不明)

59年 サーの息子Fernao de Sa、エスピリトサントの救助要請に応じ出撃。Cricare川を船で上り、 Tupinikin族の三つの砦を破壊。帰途、先住民の奇襲を受け、フェルナンは死亡。代わってメン・ジ・サーの甥バルタサールが指揮を執る。トゥピニキン族連合はいったん降伏したものの、その後もAimore, Waitaca, and Temiminoの抵抗が続く。

59年 Pedro Leitaoが第二代のバイア司教として着任。73年死亡まで在任。

1560年  タモイオ戦争とリオの建設

2月 Mem de Sa、グアナバラのFort Coligny攻略に向けバイーアを出発。トゥピナンバ族を従える。フランス軍にはタモイオ連合が支援に回る。

3.15 ポルトガル軍、2日にわたりセルヒペ島に総攻撃。Fort Colignyは水の欠乏から疫病に悩まされたすえ、島を離れ本土に逃走。ポルトガル軍は施設を破壊した後いったん撤退。

大本営発表: フランスは、わずか10人のフランス人が26隻に乗った2千人の敵と闘ったと報告。ポルトガルは、116人のフランス人と千人以上のタモイオ族を、ポルトガル人120人+トゥピアンバ族140人で撃破したと報告。

60年 サンビセンチ植民地(サンパウロとサントスを含む)はタモイオ族の猛攻を受ける。白人とゴイアナス、混血からなる60人の混成部隊は、タモイオの拠点を奪取する。

60 Porto Seguro and Ilheusでは、トゥピニキン族の衰退に伴い内陸部のアイモレ族(ゲ語系)が進出。凶暴な戦法を採るアイモレ族との全面戦争に発展。結局ポルトガルはこれらの植民地を放棄。

60 ドゥアルテの息子Jorge de Albuquerque Coelho(当時20歳)がペルナンブコに上陸。カエテ掃討作戦を指揮。Jeronimo de Albuquerqueはトバハラ族酋長 Green Bowの娘と結婚。トバハラ族を味方に引き入れる。5年後にはポルトガル人がペルナンブコの海岸線を320キロに渡り掌握。

60 ペルーのDon Pedro de Ursua、スペイン人370人とアンデス先住民 (yanaconas)2千人を引き連れ、アマゾン上流のオマグア族征服作戦に入る。まもなく内部割れからDon Fernando de Guzmanに暗殺される。実際の下手人はビスカヤ出身の兵士Lope de Aguirreといわれる。アギーレはグスマンや従軍牧師などウルスア派を排除し、230人のスペイン人とともに探検を続ける。

60年 原住民のあいだにインフルエンザ,痘瘡,麻疹が次々に流行.エスピリトサントで出血熱が発生。やがてサンパウロ、バイーアへも飛び火。先住民が次々と倒れる。

 

1561年

3月 これまで同盟関係を結んできたサンビセンチの植民者とゴイアナス族の関係が緊張。ポルトガル人がゴイアナス族のティエテ集落を襲撃。ゴイアナスはポルトガル人と断交。タモイオと同盟関係を結び報復に動く。

1562年

7.09 Piquerobi酋長の率いるゴイアナス族が、サンパウロの教化村を襲撃.ハグアニャロ(Jaguanharo)とアラリの率いる守備隊が防衛.戦いは2日にわたるが、最高指導者のTibirica酋長ら8つの改宗派集落がポルトガル側についたため、Piquerobi酋長は撤退を余儀なくされる。

7月 その後,タモイオ=ゴイアナス連合がポルトガル植民地・農場をつぎつぎに襲撃.

62年 クニャンベベを指導者とするタモイオ族連合、グアナバラを中心にふたたび反乱.ゴイアナス族もこれに呼応。

62年 Mem de Sa総督、カエテ族に対し「正義の戦争」を宣言.兵士が集落を襲っては原住民を奴隷化.改宗者も襲われ、奴隷になるか奥地に逃げ込むかの選択を迫られる。カエテ族以外もカエテ族と口実をつけて捕らえられる。Mem de Sa総督は布告を取り消すが勢いはとまらず、87年までにカエテ族は絶滅する。

62年 総督からサンパウロ防衛をゆだねられたジョアン・ラマーリョは、サントアンドレを放棄。先住民5千人を引き連れサンパウロに移住。イエズス会伝道区に隣接して新しい町を建設。サンパウロは白人と先住民の混血(メスティソ)を中心に拡大。のちにバンディラの「内陸への入口」として発展.

1563年

5.26 サンビセンチのノブレガ神父とアンシエタ神父,タモイオ族とイペロイグ(鮫の川)で会談。「イペロイグ講和」を締結.先住民の奴隷化を中止することを約束.タモイオはサンビセンチに対する攻撃を停止し、旧来のライバルであるトゥピニキム族への攻撃を開始。

63年 サー総督の甥エスタシオ・デ・サー(17歳)、ポルトガルから大きい船2隻とともにバイアに到着する。

64年 エスタシオはメン・ジ・サーからグアナバラ制圧の命を受ける。ノブレガ神父の進言を受けサンビセンチにまわり、植民者と先住民をリクルート。

1565年

3.01 エスタシオ・デ・サーが指揮するポルトガル軍,グアナバラの海岸に砦(Sao Sebastiao do Rio de Janeiro)を建設。フランス人とタモイオ連合に戦争宣言.その後2年にわたりリオを巡る戦闘が断続.

65年 タモイオ族、ポルトガルのカラベル船を奪取。乗組員全員を食う。

65 アンシエタ、サルバドルに戻りイエズス会修道院を創設。

1566年

8月 Cristovao Cardos de Barrosの率いる三隻のガリオン船がバイーアに到着。人員を補強し、Mem de Sa自らが乗り込み、グアナバラに向かう。

66年 ウルクミリム(Urucumirim)の戦い.タモイオ連合は180隻のカヌーに1万2千人が乗り込み,ポルトガル人を待ち伏せ場所へおびき寄せようとこころみるが成功せず。要塞を攻撃するが敗れる.

1567年

1.18 メン・ジ・サー、リオに到着しエスタシオの部隊に合流。

1.20 ポルトガル軍、Ibiriguacu-mirim酋長の構える要塞集落を襲撃。激戦の末制圧。エスタシオはこの戦いで顔面に矢を受け,1ヶ月後に死亡.残されたタモイオ族全員が殺害され、5人のフランス人も首吊りにされる。

1.23 メン・ジ・サー、引き続きParanapecuの砦を陥落。防御者を奴隷にする。この砦は大砲を備えていた。

6.20 ポルトガル摂政ドン・エンリケ、ブラジルのユダヤ人を追放する命令。

67年 タモイオ連合は崩壊しアインベレ(Aimbere)ら指導者はさらし首にされる.原住民は食料不足から次々に餓死.逃亡者は内陸部Cabo Frioに新たな集落を形成。

67年 メン・ジ・サー、要塞を出て、海岸部にリオデジャネイロを再建。150人の防衛・植民者を置く。このあとメン・ジ・サーはさらにエスピリトサントに進み、先住民鎮圧に当たる。この時点でエスピリトサント残留の植民者はわずか68人に減少。

1568年

68年 Duarte de Albuquerque Coelho (ホルヘの弟)、ペルナンブコの新ドナタリオとして着任。 ポルトガル人呪術師Antonio de Gouveia(別名黄金の父)のとりことなる。ゴウベイアの指示に従い、飢饉に苦しむビアタン族を奴隷として売り飛ばす。

68年 フランス船4隻の支援を受けたカポ・フリオのタモイオ族、リオ近郊でArariboiaの率いるTemimino 族の村を襲撃。アラボイアの反撃により、フランス人を含む多数の襲撃者が殺される。

1569年

69年 ドゥアルテ、ポルトガル人部隊6個中隊と先住民部隊2万人で、オリンダ南方40キロまで進出。サント・アウグスティン岬までの海岸からカエテ族を掃討。さらに南方に進み、Serinhaem族を捕らえ奴隷とする。この作戦にはすべてのカピタニアの兵士が参加する。

1570年

3.20 イエズス会の説得を受けたポルトガル政府,「戦争以外の理由による」インディオ奴隷化を禁止する勅令.代って黒人奴隷の輸入本格化.この頃すでに2千~3千を数える.ポルトガルは奴隷を求め,アフリカ西海岸からモザンビークまで進出.

70年 マノエル・ノブレガ神父、リオで布教活動中に死亡。

70年 ペーニャ修道院(Convento de Penha)、エスピリトサントのヴィトーリアを見下ろす164メートルの絶壁の上に立てられる。

70 この頃より,バイア州,ペルナンブコ州を中心に砂糖ブームが始まる.ポルトガル人人口は、この当時の約二万人から急速に増加.南リオグランデにいたる海岸線に農場(Enclave)と工場(Engenhos)が点在。またバイア内陸部乾燥地帯セルタンでは砂糖産業人口を支える牧畜が盛んとなる。

ペルナンブコの繁栄: 23の砂糖工場が作られ、オリンダ、イガラスーの二つの町はそれぞれ1千戸以上の家屋を擁する。ブラジルの裕福な植民者が集中。

71.1.25 ポルトガル政府、ペルナンブコの「黄金の父」を、魔術を用いたとして逮捕。異端審問にかける。ペルナンブコのドゥアルテもこれに関わったとして、本国に召還される。これに代わり兄ホルヘがペルナンブコに戻る。

1572年

72 サー総督,サルバドルで死去.

72年 Antonio Dias Adorno、ポルト・セグーロから金を求めて内陸に入る。金は発見できず、7000人のTupiguen奴隷を連れ帰る。

1574年

1.16 ふたたび先住民奴隷化禁止令.バイアのポルトガル人は、北部海岸沿いに残存する独立したトゥピナンバ族を掃討。多くを敵対者との口実で奴隷化。

74年 レシフェ北方65キロに農園を構えるDiogo Dias、内陸部Potiguar族のIniguacu酋長の娘を襲う。Iniguacuは海岸部Potiguar族、フランス人と協力し復讐に出る。数百人の武装部隊をおびき出し皆殺しにする。

1575年

7月 Cabo Frioのタモイオ族、リオ近郊の砂糖農園を襲撃。Antonio de Salema総督は、リオの健常白人男性全員をふくむ400名、テミミノ族部隊700人を動員。

8.17 ポルトガル軍、パライバ谷をさかのぼりCabo Frioに迫る。Japuguacu酋長の集落を包囲。タモイオ族は、フランス人から与えられた火縄銃と大砲で抵抗。南方のパライバ・タモイオ同盟軍500人も参加。司令官はフランス人二人とイギリス人一人。

9.22 タモイオ連合が最終的に降伏.リオ近郊のフリオ・ボカに集められる。ヨーロッパ人士官は絞首刑に処される。先住民のうち2千人以上が虐殺され、4千人以上が奴隷とされた.ジャグアスーの手の者は村に残ることを許される。

1576年

76年 アルメイダ総督、Domingos Fernandes Nobre Tomacaunaをセルタン地方に派遣。トマカウナは多くのアラボ族を奴隷として連れ帰る。

76 塩の王室専売制度がしかれ,重量税が適用される.

78 モーロ人,モロッコ奪回を狙い各地で反乱.ポルトガル,国力をあげ北アフリカ遠征.アルカッセル・キビールの戦闘で惨敗.国王ドン・セバスチアンは戦死.

1580年 スペイン=ポルトガル両王国の成立

80 エスパニャ王フェリペ2世,ポルトガル国王を兼務.両国の事実上の合体によりトルデシーリャス条約は無実化.この時点でブラジル領土は北はペルナンブコから南はサンビセンテまで拡大.大幅な自治権の下で,ブラジルの版図は拡大し、北限をパライバまで拡張.さらにトルデシーリアス線を越えて西に広がる.

80年 これまでポルトガル=ブラジルと交易関係を結んでいたオランダは、連合王国の出現により新大陸との接点を失う。

80年 サンパウロ周辺の先住民はほぼ絶滅する。パウリスタは徒党を組んでパラナ海岸部の Carijo族 (Guarani系)を奴隷狩りに出かける。

80年 ジョアン・ラマーリョが死亡。すでに90歳を超えていたという。

81年 この年、バイアとペルナンブコには62の教会が開かれていたという。

82年 Fructuoso Barbosaの船団、パライーバに進出。奇襲によりフランス船8隻のうち5隻を破壊。しかし陸戦ではPotiguar族に待ち伏せを受け、司令官の息子を含むポルトガル人40人が死亡するなど惨敗を喫しレシフェに戻る。

1584年

84年 この時点で、ペルナンブコには60台以上のEnhenhos(サトウキビ圧搾機) が設置され、農園主はリスボンより贅沢な生活を送っていたとされる。いっぽう、ペルナンブコの先住民はほぼ絶滅。ポルトガル人は単独でフランス人とポティグアール族の攻撃に対処するよう迫られる。

5月 スペイン=ポルトガルの合同部隊がバイアを出発。パライーバでフランス船を撃破。河口から数キロ入った河畔にサン・フェリペ要塞を建設。ポティグアール族は川を上ってきた掃討部隊を待ち伏せ。司令官をはじめ40人のポルトガル人、多くの先住民兵士を殺害。

11月 ポティグアル族、サンフェリペ要塞の包囲戦に入る。フランス人は土塁で囲み、迫撃砲をすえるヨーロッパ風の包囲戦術を伝授。砦の内部では食料が欠乏し、馬を殺して食べる。スペイン人とポルトガル人の内紛も発生。

84年 Francisco de Caldasの率いる奴隷狩り部隊、ペルナンブコからサンフランシスコ川をさかのぼり、先住民7千人を捕獲。部隊にはPirajibaの率いるトバハラ族200名が参加。途中カルダスの意図を知ったピラヒバはポルトガル人の寝込みを襲い殺害、捕虜を解放した後パライバのポティグアル族に合流。

1585年

3.01 レシフェの判事Martim Leitao、植民者500人と先住民からなる救援隊を組織。陸路、パライーバに向かう。

3.05 Martim Leitaoの部隊、トバハラ族3千の防衛線を夜襲により突破。

3.08 ジャングル、沼沢、落とし穴と罠を切り開いてサンフェリペ砦に進むが、赤痢の集団発生により進軍が不可能となる。結局、三週間ほど後にレシフェに撤退。

4月 サンフェリペのスペイン人司令官、防御を断念。大砲を海に捨て退却を開始。最終的にレシフェに帰還できたのは50人の白人と400人の先住民兵士のみ。

8.05 トバハラ族との関係を回復したMartim Leitaoの部隊がふたたび出撃。わずか300人の部隊(白人は8人、馬は18頭のみ)で、ポティグアラ族の二度にわたる待ち伏せ攻撃を撃破し、Jaguaribe 川方面に進出。フィリペイア砦(現ホアン・ペソア)を建設。

85年 サンパウロの参事会、セルタンでの奴隷狩りを公式に認可。

85 ヨーロッパにおける精糖産業の中心地アントワープ,スペイン軍により攻撃され壊滅.その後アムステルダムが精糖業の中心となる.

1586年

86年 ポティグアルとフランス人、7隻の船でイバラカのトバハラ族(Guirajibe酋長)集落を攻撃。Martim Leitaoはペルナンブコのポルトガル人140人、ピラジバ(Pirajiba)の率いるトバハラ人500人をかき集め、内陸部の乾燥地帯を横切り、ポティグアル族の住むコパオバ山岳地帯に進入。さらに海岸部の酋長Tejucupapoの村に向けて進軍。ポティグアル族はリオグランデの西まで後退する。

86 カンバーランド伯の派遣した英船団,バイーアに進出.

1587年

87年 バイア西北部に残されたトゥピナンバ族の最後の拠点が陥落。マノエル・テレス知事はBarreto Domingos Fernandes Nobre Tomacaunaと一個中隊を派遣。Jaguaribe川沿岸のSantidade砦を制圧。

87年 ペルナンブコの奴隷狩り隊、セルタンでトゥピナンバ族の奇襲を受け、14人が死亡。

87 英蘭連合軍,ペルナンブコを襲撃.このときブラジル人口は,ポルトガル人三万人に対し,黒人奴隷1万4千人.

89.12.23 クリストバン・デ・バロス(Cristovao Cardoso de Barros)総督,リオ・レアルの戦いでムバエペバ(Mbaepeba)の率いる先住民反乱軍を撃破.600人を虐殺.残党はさらに奥地で抵抗を続ける.

1590年

1.01 デ・バロス軍,先住民反乱部隊の本拠地カエテを占領.

別の文献によれば: バロスに率いられたペルナンブコの奴隷狩り部隊が、Baepeba丘でSergipe系先住民を攻撃。1,600人を殺し、4,000人を捕らえる。セルヒペ系先住民(トゥピナンバ族)の組織的抵抗は終焉。

91 フェリペ2世,オランダ船のポルトガル領への入港を禁止.外国船のブラジル寄港も禁止される.その後オランダは、ノルヂスチ地方への武力攻撃を開始。

92 イギリス人アンソニー・ニヴェット(Knivet)は、難破して、ポルトガル人に捕らえられ、奴隷にされる。。

93 イギリスのジェームズ・ランカスター,ペルナンブコを襲撃.

94 フランス船がマラニョンで難破。生存者はトゥピナンバ族と同化。

95年 サンパウロの住民2千人が、町を挙げてバンデイランテスを開始。Jeronimo Leitao部隊はパラナの海岸沿いに進み、カリージョ族を襲撃。別の一隊は北西部パラナイバ方面に進出。奴隷狩りはサンパウロの「主要産業」となる。

バンデイラス(bandeiras): bandeiraは「旗」。探検隊が、彼らの身元を明らかにするため旗を旗を掲げて進んだことから名づけられた。民間人が私財で編成した集団であり、組織者兼パトロンは Bandeirantesと呼ばれる。200~300名の部隊が、数か月にわたり内陸部を探検。
当初は海岸部の植民地で編成され、探検と黄金探しが主目的であったが、まもなく多くがサンパウロを起点とするようになり、先住民狩りと奴隷化が目的となる。バンディラの主体も、植民者とインディオとのあいだに生まれたメスティソに代わっていく.彼らの「探検」により,ブラジルの版図が大幅に拡大した.

1597年

8.20 フランシスコ・デ・ソウサ総督,国内通貨発行の許可を求める.

97年 フランス人とポティグアル族がパライバのポルトガル人要塞を攻撃するが撃退される。 Manoel de Mascarenhas Homemの率いるポルトガル部隊は、リオグランデを越えて反撃に出る。パライバの知事Feliciano Coelhoは、178人のポルトガル人と90人のトゥピナンバ族、730のTobajaraを従え、陸路で進出。

97年末 ポルトガル部隊、1日で12人が天然痘で死ぬなどの困難を続けながら、ポテンギまで進出。フランス人50人と多数のPotiguarによる襲撃を撃退、現地に武装キャンプを作る。

97年 リオ総督の息子Martim de Sa、タモイオと戦うゴイアナを支援するため、パライバ方面に部隊を送る。部隊は40日間で140人を失う行軍の末、ジャバリ川に到達。その後半年間にわたり、タモイオ族の集落を襲撃しては食いつなぐ生活を繰り返した後、タモイオに捕らえられ食われる。

1598年

98年 Martim de Saの部隊を破ったタモイオ族、海岸部への進出を図る。海岸部のカリージョ族はポルトガル人に援助をもとめる。Martim de Saは無抵抗のタモイオ族を捕らえ、反抗的なものと弱いもの役1万人を殺害。残りを奴隷とする。これによりタモイオ族はほぼ絶滅。

4月 ペルナンブコのFeliciano Coelho、増援隊(24人の騎手、60の射手、350人のトバハラ族)を送り、ポテンギ砦を完成させる。砦はReis Magosと命名される。

1559年

6.11 Reis Magos要塞のJeronimo de Albuquerque司令官、ポティグアル族に和平を提案。ポティグアルもこれを受け入れる。ジェロニモは初代リオグランデ知事となり、要塞に隣接してナタールの町を建設。

 

1600年代

1600年

00 リオのポルトガル人,フランス人を最終的に駆逐.

00年 ペルナンブコのエンジーニョ(ポルトガル人経営の砂糖農園)はユダヤ資本と結びつき発展,「砂糖の時代」を迎える.

00年 この頃のサルバドルの人口は1600人といわれる。

00年 オランダZeelandからの入植者がシングー川の東岸に、Fort Nassau and Fort Oranijeの二つの木造の砦を建設。(一説に1616年)

1601年

01年 ポティグアル族4万人が自由をもとめてナタールを包囲。Manoel de Mascarenhas Homemはポルトガル人400人と先住民部隊3千を引き連れ救援に向かう。奇襲攻撃に敗れたポティグアル族は、ふたたび和平を請う。

01年 ペルナンブコのイエズス会、ポルティグアル族の150の村で5万人がポルトガルの支配下に入ったとし、自らの実績を強調。

01年 Andre de Leaoの率いるサンパウロのバンデイラ、伝説の湖Paraupavaを探しに出る。

1603年

6月 Pero Coelho de Sousaが、白人65人、先住民200人を率いサン・ロケ岬を越えJaguaribeに達する。先住民5千人を奴隷として連れ帰る。隊はセアラを越えてCamocimまで進出。

7.18 ニコロ・バレートを指揮官とするサンパウロのバンデイラが組織される。サンパウロが空になるほどの大動員、白人300人のほか多くの先住民からなる。部隊は北方に向かいRio das Vehasに沿ってパラナ低地に進出。先住民捕虜三千人を連れ帰る.

03年 ポルトガル、これまで手つかずだったIlheus and Porto Seguroのアイモレ族制圧に乗り出す。トバハラ族1300人と、 Zorobabe酋長の率いるポティグアル族が主体となる。ソロバベは和戦両様の構えで望み、40年にわたる対立を終わらせる。ソロバベの成功に恐怖を抱いたポルトガル人は、ソロバベを本国に送り獄死させる。

03 ポルトガル,オランダ船のブラジル寄港を禁止.

1604年

04年 Pero Coelho de Sousa、カモシンから内陸部に侵攻。Ibiapaba丘でTobajara族とフランスの連合軍を撃破。30の集落を制圧。リオグランデに戻ったソウサは先住民を販売しようとして王室令違反に問われる。このころすでにペルナンブコでは黒人奴隷の輸入が主流となっていた。

04年 ポルトガル帝国の植民地管理を目的とする「インド会議」が設立される。

04 フアン・ケーレンの指揮するオランダ船隊,バイアを攻撃.

1606年

06年 Pero Coelho de Sousa、セアラに戻り植民地建設。極端なかんばつに襲われ失敗。一族を連れ陸路リオグランデに戻る。

06年 この年、サンビセンチのカピタニアには5つの町に300人のポルトガル人、1500人の武装した先住民奴隷が生活。

06年 イエズス会、リオグランデに伝道村Rio Grande Potiguarを建設。先住民改宗者を受け入れる。

1608年

1.11 イエズス会、セアラに進出。指導者がTacarijuに殺された後計画を中止。

08年 ブラジルがふたたび二つの総督領に分割される。

08 イエズス会、パラナ川とパラグアイ川ではさまれた地域(現パラグアイ南部)でグアラニ族の教化活動を開始。20年間に8ヶ所の教化村を建設。その後さらにグアイラ地方(現ブラジル領パラナ州)に15の教化村を建設。

1609年

09年 Martim Soares Moreno中尉、ナタールを出発してセアラ内陸部を探検。パライバ河口ではタプイア系のトレメンベ族と友好関係を結ぶ。原住民と良好な関係を維持した唯一の人物として知られる。

1610年

2月 イギリス人トマス・ウォーナ,アマゾン会社を設立.アマゾン河口への入植を試みる.Sir Thomas Roe の率いる200トンの大型船が、アマゾン河を480キロさかのぼる。

10年 パライバの市議会、先住民の奴隷化を終わらせ「内民化」(domesticate)する法案を審議。黒人奴隷(negros de Guine)と肩を並べ、互いに対抗しながら働かせることの意義が強調される。Duarte Gomes de Silveiraは、「ブラジルのためには大量の黒人奴隷が必要だが、白人はその1割に満たない。先住民に黒人を監督させなければ、我々は何もなしえないだろう」と述べる。

10年 圧縮ローラーを三つ持つ砂糖工場が導入される。

1611年

11年 マルティン・ソアレス・モレーノ、セアラのカピタンに任命される。セアラ河口にフォルタレサを建設。もくりぺに上陸しようとしたフランス船を迎撃。42人を殺害。モレノは裸になり体を黒く塗って、先住民になりすまし、フランス人をだまし討ちにした。

11年 パラナのLuis de Sousa Henriques知事、パウリスタの奴隷狩り部隊をスペイン領グアイラに送る。カリージョ族の町を攻め落とすが、帰路、スペインのAntonio Anasco知事の部隊に襲われ壊滅する。

1612年

7.26 La Ravardiereの率いるフランス船三隻が,マラニョン州イリャ・サンルイスを占領.原住民トゥピナンバ族と手を結びサンルイス要塞を建設。「赤道フランス」を名乗る.先住民を連れ帰り、ルーブル宮殿の王の前で洗礼式を挙行。

10.08 スペイン王フェリペ二世はフランス人排除を命じる。

12年 ペルナンブコの8つの県に地方部隊(capitao do campo)が作られる。主として先住民から構成され、逃亡奴隷の捕獲を主要な業務とする。地方によってcapitao do mato, capitao dos assaltoとも称される。

12年 Sebastao Preto(マノエルの弟)、スペイン領グアイラに侵入しカリージョ族900名を捕らえる。スペインの知事はインディアンのうちの500人を取り戻す。しかしそのうちの250人は、より良い生活を信じてふたたびポルトガル人バンデイラスの下に走る。

12年 Diogo de Campos Moreno、王室に報告書。先住民を植民地社会に同化させ統合することの意義を強調。

1613年

13年 バンデイラの一隊、サンパウロから北に向かいトカンティンス河源流にいたる。そこから河を下り、アラグアイ河との合流点から今度は流れをさかのぼる。アラグアイ河の上流で流れを離れ、陸路サンパウロに戻る。全行程約2年とされる。

13年 マラニョンのフランス人とトゥピナンバ族1200人、アマゾン河口の島に住むカマラピン族を襲撃。

13年 セアラのモレーノ知事、カモシンに前進基地を建設。

1614年

8月 Jeronimo de Albuquerqueの率いるポルトガル部隊、マラニョンを攻撃。ヨーロッパ式の訓練を受けたトレメンベ族、セアラのポルティグアル族も参加。Francois de Rasillyの率いる400人のフランス人と2,000人のトゥピナンバ族がこれを迎え撃つ。

11.19 ポルトガル軍、サンルイス島に向き合って砦を建設。フランス軍基地を攻撃。この攻撃でフランス人90人、先住民400人が死亡。トゥピナンバ族はこれを期にポルトガルに忠誠を誓う。

14年 バイアのJesuit aldeia of Sao Joaoの住民、内陸部の逃亡奴隷の集落破壊作戦に動員される。

1615年

11.03 フランシスコ・デ・カルデイラ・デ・カステロ・ブランコ,ガスパル・デ・ソウザ総督の命を受け,三隻の船に150人の兵を乗せ、セアラからマラニョンに進出.フランス軍司令官La Ravardiereは、ポルトガル増援軍の到着を知り基地存続を断念。サンルイ砦を引き渡す。

12月 カルデイラ、さらにアマゾン河口の南端に進出。原住民とフランス人・イギリス人植民者を駆逐.このあとフランスのブラジル進出の試みは途絶える。フランス人はアマゾン河北岸(現仏領ギアナ)にあらためて入植.

1616年

1月 カルデイラ、Belem do Para要塞(Bethlehemの短縮形)を建築.ペドロ・テセーラらを配置。後にベレンはトルデシーリャス線を越えていることが判明するがうやむやになる。

3月 オランダのシングー植民地、Pieter Adriaenszoon Itaの率いる150人の探検隊を組織。Ginipape河口に砦を建設。この砦は6年に我々あり存続したという。ベレンのポルトガル人守備隊はマラニョンに救援を求める。

16年 マノエル・プレト、スペイン領グアイラに侵入。初めてイエズス会伝道村を襲う。このあとプレトは伝道村を専門に狙う最も悪質なバンデイランテとなる。

1617年

2.03 マラニョンのトゥピナンバ系クマ族、奴隷化は必至と見て反乱。タプイタペラの砦を襲撃。白人30人を殺害。Mathias de Albuquerque(知事の息子)、50人の兵士と先住民兵200を率い、クマ族をジャングルに追い込む。

7.01 パラのトゥピナンバ族も反乱。ベレンの要塞を攻撃し白人14人を殺害.Diogo Botelhoはトゥピナンバ族最大の集落クジュを破壊。この戦いで指導者のグアイミアバ(Guaimiaba)が戦死.残存勢力はグアマ川流域で再編成される。

1618年

12月 Mathias de Albuquerque、パラのグルピに上陸。トゥピナンバ族を掃討。

1619年

1.07 トゥピナンバ族、ベレンの砦を正面攻撃。新任のJeronimo Fragoso de Albuquerqueが兵100名+先住民兵士とともに防衛。大砲と火縄銃の威力の前に、司令官「老婆の髪」が死亡、残りはジャングルに逃げ込む。

19年 Bento Maciel Parente、背後からトゥピナンバ族を攻撃するためペルナンブコを出発。80人の兵士+600人の先住民部隊で、陸路サンルイス近郊のTapuitaperaからベレンまでを、掃討作戦を繰り返しながら進む。

1620年

20年 ロジャー・ノース船長、120人の入植者を乗せアマゾン河に入る。河口から約400キロでBernard O'Brienら16人が船を離れる。船はさらに300キロ近く川をさかのぼる。ウィリアム・ホワイトは、そこからさらに小型ボートに乗り、130キロ先までさかのぼる。オブライエンはアマゾンに滞在し、現地民と交流しながら流域を調査する。

1621年

21 ポルトガル,新大陸植民地をマラニョン-グラン・パラ国(セアラ,マラニョン,パラをふくむ)とブラジル国(サルバドル,バイーア)とに分割.マラニョンは王室直轄の植民地となり、アゾーレスから300家族が入植。

21年 マラニョン島のトゥピナンバ族、天然痘により絶滅の危機に瀕する。

6.03 オランダ,西インド会社を設立。向こう24年にわたり港運、貿易、征服事業の独占を認める.アフリカや新大陸のポルトガル権益への介入を図る.砂糖の生産輸送を振興させるのが当初の目的.背景にユダヤ資本.

1623年

12月 Jacob Willekens提督の艦隊26隻が、バイア占領を目指しオランダを出航。

23年 Bento Maciel Parente、オランダとイギリスの入植者に対する掃討作戦。シングー河口東岸のオレンジ砦を破壊。イギリス人は先住民の案内でジャングルに逃げ込む。部隊はシングー河を67キロさかのぼり、オランダ人14人が入植したナッソー砦に上陸。オランダ人は闘うことなく降伏。

1624年

5.08 オランダ艦隊がバイアに到達。上陸部隊の司令官はJan Van Dorth。

5.09 450丁の銃を持つ3300人の上陸部隊がサルバドルから5キロの地点に上陸。

5.10 オランダ上陸部隊,サルバドールを占領.Diogo de Mendonca総督はほとんど闘うことなく降伏。

1625年

3月 64隻からなるポルトガル・スペインの連合艦隊、サルバドル沖合いに到達(復活祭の前日)。1,185丁の銃、12566人の将兵を乗せる。

5.01 オランダ軍、1ヶ月にわたるにらみ合いのあと降伏.サルバドルを明け渡す。

25年 オランダ船、アマゾンのグルパ砦を破壊。ポルトガル人守備隊は逃げ出す。

1626年

26年 ブラジルの正式名称が「ブラジル国」(Estado do Brazil)とされる。バイーアの総督が統括するが、マラニョン(Estado do Maranhao)は別系統の統制下に残される。

26年 Bento Maciel Parenteがパラの知事になる。前年の敗北の復讐のため、オランダ人の砦、イギリス人の農園、オブライエンのアマゾン砦をすべて破壊。

10月 パレンテ知事、反乱を計画したとしてベレンの先住民指導者24人を捕らえ処刑。

27年3.03 ピート・ヘイン(Piet Heyn)提督の率いる22隻のオランダ艦隊,ふたたびバイアを占領する。まもなくポルトガル人の反撃の前に撤退。

1628年

8月 サンパウロの大地主アフォンソ・サルディーニャ,4個中隊3千人(白人69人、マメルコ900人、先住民2千人)からなる巨大なバンディラスを組織.アントニオ・ラポソ・タバレスが司令官となりスペイン領グアイラ地方の教化村を襲撃。彼らは4ヶ月にわたり教化村周囲でキャンプ。直接侵入はせず、出てくる先住民を片っ端から捕らえる。

1629年

1.30 アントニオ・ラポーソ・タバレスが指揮するバンディランテス,グアイラ地方サンアントニオのイエズス会ミッションを襲撃.グアラニー族4千人を捕らえる.彼らは18年から41年にかけ,32ヶ所のミッションを襲い,先住民30万人を捕獲し売り飛ばし,史上最も凶暴なバンディランテスといわれた.ほかに有名な人物としてBartolomeu Bueno da Silva, Fernao Dias Pais, Antonio Rodrigues Arzao, Antonio Pires de Campos, Bartolomeu Bueno de Siqueiraらがあげられる。

3.20 別のバンディランテ,マノエル・モラト・コエリョ,3千名の大軍でヘススマリアのミッションを襲撃.奴隷2万人を連れ帰る.サンミゲルの教化村も襲撃を受ける。ブエノスアイレス総督の報告によれば、これらの襲撃によりグアラニー族7万人が捕獲される。

4月 Bernard O'Brien、オランダの出資を受けアマゾンに戻る。Manacapuruに定着しToherego砦を建設。植民者の多くはアイルランド系のカトリック教徒。(オブライエンの話が出てくるのは、この文献しかない)

29年 ポルトガルはPedro da Silvaの率いる掃討部隊を派遣する。ポルトガル側の兵士200、先住民7千に対し、オブライエンは42人の白人と先住民1万人で対抗。ポルトガルの攻撃の前に先住民は逃げ、オブライエンも負傷するが、ポルトガル軍の撃退に成功。

29年 ポルトガル軍、ふたたびToherego砦を攻撃。Pedro Teixeiraの率いるポルトガル人120人、先住民1600人の部隊が夜襲をかける。オブライエンと16人の白人、数千の先住民はかろうじて脱走に成功。

29年 イギリス・オランダの船4隻がアマゾンに入り、オブライエンらの退去を求める。これを受けたオブライエンは、ポルトガル部隊に降伏する。

1630年 オランダのペルナンブコ占領

2.15 Hendrick Corneliszoon Loncq提督の率いるオランダ艦隊,70隻,1170丁の銃、7千人の兵力でペルナンブコへの攻撃を開始。

2.16 オランダ軍、ペルナンブコ州都オリンダ占領。Mathias de Albuquerque知事はオリンダの町をみずから破壊。郊外に逃れたあと、レジスタンスを組織する.

3.03 ペルナンブコでのポルトガル人の抵抗が終了。オランダはレシフェ、オリンダ、アントニオ・バス島を支配下におさめ、「新オランダ」(Nieuw Holland)と名づける。ポルトガル人植民者は、レシフェ周辺に砦を建てゲリラ戦で抵抗.最大のボン・ジェズース(Arraial do Bom Jesus)砦は、レシフェから5キロの至近距離。

3.14 レシフェにオランダ政庁が創立される。オランダはアンゴラも奪取し奴隷供給を抑える.

7.22 グアイラのミッションを襲撃したマノエル・プレト,先住民の放った矢に当たり死亡.(天罰だ。ざまぁみろ)

30年 ペルナンブコの黒人奴隷数千人が、オランダの占領を機に奥地に逃亡。アラゴアス州北部からペルナンブコ州南部にかけての一帯で、モカンボといわれる集団で行動するようになる.このうち比較的大きな集団は独立した集落(キロンボ)を形成.最大のパルマレスの構成員は約千名といわれる。

パルマレスの中心地モカコは、現在のアラゴアス州、サンフランシスコ川下流に広がるSerra da Barrigaの山中に位置する。周辺はヤシの木が生い茂るジャングルであったことからパルマレスと呼ばれるようになる。キロンボ(Quilombos):アンゴラの武装キャンプ(Ki-lombo)を示すJaga語。モカンボ(Mocambo)は同じく武装キャンプを表すキンブンド語のMucambuに由来。

1631年

3.01 Thomas Hixson、200人とともにアマゾンに入る。フィリペ川の河畔にマカパ砦を建設。Jacome Raimundo de Noronhaの部隊がこれを破壊。

5月 オランダ部隊、イタマラカ近くの島を占領しオラニエ砦を建設。ポーランド人傭兵のCrestofle d Artischau Arciszewski大尉を司令官とし、366名の将兵を配備。ポルトガル人は、この島を襲撃し砦を破壊。

11月 オランダ軍、ポルトガル人の攻勢の前にオリンダを放棄。パライバのCabedello砦、リオグランデ、リオ・フォルモソ、カボ・ジ・サント・アゴスティーニョなどで攻勢に出るが、いずれも敗退。

31 バンディラによるイエズス会集落の襲撃が頻回となる。30万人のインディオが「捕獲」される.バンディラの前線はペルー・アンデスにおよぶ.イエズス会はグアイラに残された二つの教化村を放棄。生存者1万人を船に乗せ、ウルグアイ川の南(現ブラジル領南リオグランデ州)に避難させる。一部はパラグアイ川東岸(現ブラジル領南マトグロッソ)に避難。

1632年

11.24 バルフ・エスピノサ,ペルナンブコにユダヤ教会を設立.エスピノサはアムステルダム生まれのユダヤ系ポルトガル人神学者.

4.20 ポルトガル人で黒人との混血児Domingo Fernandes Calabarがオランダに帰順。カラバールはアラゴアスのポルト・カルボの出身で、あたりの地理に精通していたことから、オランダ人に貴重な情報をもたらす。このあとオランダの攻勢がはじまる。

5.01 反攻に出たオランダ部隊、イタマルカ島近くのイガラスーを占拠。

32 イエズス会教化村のなくなったスペイン領グアイラで、パウリスタがVilla Rica and Ciudad Realを攻撃。スペインはグアイラ地方全体を放棄して撤退。

1633年

2月 オランダ軍、ポルトガル人の守るRio Formosoの砦を攻略。

3月 オランダ軍、ポルトガル人の拠点となっていたAfogadosの攻略に成功。新たに砦を建設。

6月 イタマラカ島がオランダ軍に制圧される。オランダは新たにイタマラカ植民地を建設。

12月 Van Ceulenの率いるオランダ部隊が、リオグランデ河口のReis Magos要塞を攻略。セウレン要塞と名づける。

1634年

3月 オランダ軍、Cabo Santo Agostinhoのポルトガル人拠点"Pontal"を占拠。

12.19 パライバのCabedello砦が、オランダ軍により陥落。数日後にパライバの町も降伏する。オランダ軍はサンフランシスコ河口のCabo de Santo Agostinhoからリオグランデにいたる海岸線を完全制圧。

1635年

3月 オランダ軍、ポルト・カルボを制圧。ペルナンブコにおけるポルトガル人最後の抵抗の拠点Arraial do Bom Jesusの包囲戦に入る。

6.08 Arraial do Bom Jesusが陥落.ポルトガル人はCabo de Santo Agostinhoのナザレ砦に逃げ込む。

7月 ナザレ砦も陥落。ポルトガル知事と7千の部隊はバイア方面へ逃走。オランダ兵500人が守るポルトカルボを撃破する。このときポルトカルボにいたDomingo Fernandes Calabarは、「裏切り者」としてポルトガル人により処刑される。

7.22 ポルトガル軍、ポルトカルボを放棄し、バイア方面に撤退。24日にオランダ軍がポルトカルボを再制圧。

35年 オランダはポルトガル人の少ないレシフェをオランダ領ブラジルの総督府とする。オリンダの外港だったレシフェは、オリンダをしのぐ人口7千の都市に発展.

1636年

10.25 ナッソー伯ヨハン・マウリッツ(Johann Mauritius van Nassau Siegen)、「新オランダ植民地」の総督に任命されオランダを出発。

11.17 エンリケ・ディアスの率いるポルトガル軍2,500人がペルナンブコに派遣される。南から進撃するポルトガル軍に対し、ポルトカルボのオランダ軍司令官Von Schoppeは町を撤退。

12.15 ラポソ・タバレス,サンホアキンのイエズス会ミッションを襲撃.

36年 ブラジル総督の命により、サルバドルでバイア内陸部の逃亡奴隷狩りが組織される。隊員は先住民傭兵隊およびイエズス会伝道村から選抜される。多くの逃亡奴隷が捕らえられ売られる。利益の半分はイエズス会を通じて伝道村の隊員に分配され、残りは傭兵たちが配分。

1637年 マウリッツのペルナンブコ支配

1.23 マウリッツがレシフェに赴任.ただちにポルト・カルボ攻略作戦を開始。

2.18 マウリッツ、手持ち兵力を総動員。オランダ兵3000、水兵1000、先住民部隊1000人でポルトカルボを攻撃。

3.01 Bagnuoli(ナポリ人)の率いるポルト・カルボのポルトガル部隊、2週間の包囲戦のあと降伏。マウリッツはサンフランシスコ河口を30キロさかのぼったペネードに砦(マウリッツ砦)を建設。

8.28 マウリッツ、黒人奴隷確保のためアフリカ黄金海岸に部隊を派遣。ポルトガル奴隷貿易の拠点Sao Jorge da Mina(エルミナ)を奪取。

10.28 ペドロ・テイシェイラ(Teixeira)、70人の兵士と先住民千人あまりを率い、二年にわたりアマゾンをさかのぼる。8ヵ月後にキトに達し当局に保護される。この探検により、ブラジルの版図は西へ大きく拡大。

11月 オランダ軍のVon Schoppe大佐、Sergipe del Reyまで進出。ポルトガル軍のBagnuoli司令官(ナポリ人)は逃亡。

12.23 フランシスコ・ブエノ,サンタ・テレサのミッションを襲撃.

12月 セアラの州都フォルタレサ、オランダ人に占拠される。ポルトガルはベレンを除くブラジル北半分の支配権を喪失。

マウリッツの「善政」: モラドーレス(ポルトガル人農園主)とカトリック教会に寛容な姿勢をとる。植民地に代議制地方政権の創設を認め、市町村単位の議会開設も認める。奴隷の安定供給,ヨーロッパ商品の提供などを通じ、ポルトガル人との関係改善を図る。
レシフェ市内には街路、運河、橋が建設され運搬を強化.オリンダも再建される。レシフェ沖合いのアントニオ・バス島にはMauritsstad(Mauricia)の町が開かれ、天文観測所と気象観測所、動物園、植物園が置かれる。ナッソーが全ての宗派に活動を認めたことから,ヨーロッパのユダヤ人が大挙入植.最盛期には1500人近くに達する。しかしオランダ人入植者は最大時3000人にしか達せず、ポルトガル人の反抗に悩み続ける。

37年 Bento Maciel Parente、スペイン王よりトルデシーリャス以西のCabo do Norteのドナタリオ兼マラニョン知事に任命される。ベレンにはエクアドルのキトから、スペイン兵とフランシスコ会修道士が派遣される。(これらの行き当たり的人事は、スペインにはブラジルの統治能力がないことの証明でもある)

1638年

1.05 レシフェのシナゴーグ2ヶ所が、ポルトガル系住民の請願を受け閉鎖される。

4月 マウリッツの率いるオランダ軍3,600人と先住民部隊1,000人が、サルバドルを包囲。

5.17 マウリッツ、サルバドル上陸部隊に総攻撃を命令。10日間にわたりサルバドル市内で激戦。

5.25 オランダ軍、サルバドル総攻撃に失敗し撤退。

1639年

2.16 ペドロ・テセーラ、キトからふたたびアマゾンを下る。途中タバティンガの砦を建設し帰途に着く。

9.24 ペルナンブコ奥地のオロボ族,ポルトガル軍を撃破.司令官アルフォンソ・アドルノを殺害.その後63年まで抵抗を続ける.

1640年 ポルトガル独立

12.01 ポルトガル,イギリスの支援の下にスペインより分離.ブラガンサ公が王位につきジョアン4世を名乗る.ヨーロッパの砂糖市場を背景にしたマウリッツ,バイアのポルトガル副王と十年間の休戦協定締結.

40年 Bartholomeus Lintzの率いるオランダ軍の掃討部隊、パルマレスを攻撃。

リンツの報告: このときの記録では、大きなモカンボが二つあり、二重の柵と槍ぶすまを敷き詰めた堀で囲まれていた。街の長さは800メートルに及び、道の幅は2メートルだった。街の北には沼があり、農耕、生活用水として用いられていた。街には220の家屋、一軒の教会、4つの鍛冶屋、集会所があった。人口は約1,500人と推定された。ヤシの実や、わらの細工、陶器なども用いられていた。

40 サンパウロ,バンディラの活動に反対するイエズス会を追放.イエズス会はポルトガルとの対決姿勢を強める.

1641年 オランダのアンゴラ占領

3.11 ウルグアイ河沿いでムボローレMbororeの闘い.イエズス会の助けを借り武装したグアラニーが,イナシオ・アビアルの指揮の下に,ドミンゴス・カリェイロスら奴隷狩り部隊を打ち破る.以後,バンデイランテスの襲撃は下火となる.

8.26 Jol and Hendersonの率いるオランダ艦隊21隻がアンゴラのルアンダを占領.その後ベンゲラ、サントメも相次いで占領。ポルトガルの黒人奴隷の供給先が閉ざされる.

「大オランダ帝国」: ペルナンブコはアフリカおよび北米()をふくむ新大陸を支配する西インド会社の首都として、空前の繁栄を見る.ペルナンブコのほか、カリブ海諸領-Curacao, Aruba, Bonaire, Sint Eustatius, Sint Maarten, Saba, Tobago, St. Croix、Guiana and Suriname。北米東海岸-ニューアムステルダム、ニュー・ネザーランド。アフリカ諸領-アンゴラなど。

11.25 コーエン・アンデルソン司令官の率いるペルナンブコのオランダ軍が、先住民奴隷をもとめサンルイス・ド・マラニョンを占領。Sao Cristovaoも再度奪還する。

41 イエズス会のCristoval de Acuna、アマゾン伝道の模様をスペイン王に書き送る。

1642年

2月 ポルトガルの最後の奴隷供給基地だった黄金海岸のアクシン(Axim)砦が、オランダ軍により陥落。

4月 西インド会社、マウリッツの離任と帰国を促す。マウリッツはこれに抵抗し、44年5月まで残留。

9.30 マラニョンでポルトガル人クリオージョによる対オランダ反乱が始まる。

42 ジョアン4世、インディアス評議会を強化した海外領評議会を設置。ブラジルを王室直轄地とし,インディオの奴隷化禁止例を発令.ブラジルを「ポルトガルの乳牛」と呼び支配強化に乗り出す.

42 ポルトガル,英国に対しブラジル貿易の特恵を与える。

43 ペルナンブコのオランダ人ブロウェル,船隊を組みチリを攻撃.2、3ヵ月の間、バルディビアとチロエを占領する。

1644年 マウリッツの帰国

1.17 マウリッツ,ルドルフ・バロ(Roelox Baro)率いる千名の部隊にパルマレス掃討を指示.途中でタプヤ族隊員の反抗にあい、撤退を余儀なくされる。連れ帰った37人の逃亡奴隷のうち、7人は先住民で、ほかにも多くの黒人と先住民の混血児がいたという。また翌年のJan Baerの掃討部隊が連れ帰った捕虜も多くの先住民を含んでいた。この時点で1万人の逃亡奴隷がキロンボに暮らす.

5月 マウリッツ、7年余りにわたる総督の任を終え帰国。

44年 サンルイスのオランダ軍、ポルトガル人や先住民の抵抗を抑えきれず放棄。ポルトガルは1年の戦いの末、オランダ軍の駆逐に成功.Pedro de Albuquerqueが知事に就任。

1645年

2.26 オランダ,第三次パルマレス掃討隊を組織.ブラエル・ラインバッハ(Jurgens Reijmbach)の部隊はもぬけの殻となった部落を焼き払っただけで帰還.

3.08 ジョアン・フェルナンデス・ビエイラ,André Vidal de Negreirosらペルナンブコのエンジェーニョ, バイアの総督府と組みオランダに対し反乱.

4.07 Michael Cardozo、ブラジル初のユダヤ人弁護士となる。

8.03 ポルトガル人反乱軍、タボカスの戦いでオランダ軍に初めて勝利する.ペルナンブコの地方農村地帯(varzea)は反乱軍が支配するようになる。

8.06 反乱軍、セリニャエン(Serinhaem)の砦を攻略。オランダ人守備兵は降伏。

8.13 Cabo de Santo AgostinhoのPontal de Nazare要塞がポルトガル人部隊の手に落ちる。

9.02 パライバのモラドーレスが蜂起。ポルトカルボ要塞を攻撃。

9.17 ポルトカルボのオランダ軍が降伏。翌日にはサンフランシスコ河のマウリッツ砦も降伏。

9.22 Sergipe del Reyでもオランダに対するモラドーレスの反乱が始まる。この年の末までにオランダの支配地域は次々に陥落。レシフェとパライバのCabedello砦、リオグランデのCeulen、Itamaraca島とFernando de Noronha島を残すのみとなる。レシフェ市民8千人は包囲され閉じ込められる。

1646年

6月 包囲されたレシフェを救援するため、オランダ船が到着。7,8月にも引き続き支援船が入る。

11月 オランダ軍、マウリッツ砦をふたたび制圧。しかし半年後に維持が困難となり放棄。

1647年

2月 オランダ船団26隻、2400人がバイアを奇襲。トドス・オス・サントス湾内のイタパリカ島を一時占領。ポルトガルをけん制する。

9.08 サンパウロのバンディランテス,ヌエストラ・セニョーラ・デ・タレのミッションを襲撃.ムボインボイを戦ったグアラニ族部隊を殲滅.

10.18 ポルトガル、ペルナンブコ制圧を目指し15隻、3,800人からなる艦隊を編制。リスボンを出港する。ブラジル総督Villa Pouca de Aguiar伯Antonio Telles de Menezes が司令官を務める。

11.07 Salvador Correia de Sa e Benavidesが司令官を務める7隻、600人の船団がリスボンを出港。

12.13 オランダ軍、イタパリカ島を撤退。

47 ポルトガル,植民地体制の強化のためブラジル総合会社を設立.フロータスを組織しブラジル貿易を独占.現地の政治的・経済的自治をきびしく制限.資金の大部分をユダヤ人資本に頼る.

1648年

3月 Witte de Withの率いるオランダ艦隊がレシフェに到着。

4.17 Von Schoppe司令官の率いるオランダ軍5,000名が"varzea"のポルトガル軍に対し反撃に出る。

4.19 ポルトガル軍、わずか2,200名で、グアララペス(Guararapes)に野営中のオランダ軍を奇襲。オランダ軍は500人が死亡、556人が負傷し敗退。ポルトガル軍はオリンダを確保、オランダ軍6000人はふたたびレシフェに閉じ込められる。その後戦闘は断続的に続き,1年に及ぶ.

5.12 リオのコレイア・ヂ・サ(Salvador Correia de Sa)を中心とするクリオージョ,15隻1500人の軍勢をもってアンゴラ奪還に向かう。

8.24 コレイア・ヂ・サら、ルアンダに上陸。オランダ軍を駆逐しポルトガルの支配を復活。

8.24 ポティグアルの先住民,オランダの掃討部隊を待ち伏せ攻撃.この戦闘で指導者Morre Felipe Camarãoを失う.

1649年

2.19 オランダ軍3500人が,グアララペスに進出。ふたたび反乱軍と激突。Francisco Barretoの率いるポルトガル軍2600人はオランダ軍を撃破。オランダ軍は1000人近い死者を出す惨敗。

4月 Mathias Beckの率いるオランダ人部隊、43年に放棄したセアラをふたたび占領。Schonenburgh砦を建設。

49年 バイアのCorrea de Sa南ブラジル総督、「イエズス会の先住民たちは逃亡奴隷に対する特効薬」と述べる。

49年 ラポソ・タバレスの率いるバンデイラスがサンパウロを出発。部隊はパラグアイからジャングルを北上しアマゾン川まで到達する。

1650年

2月 レシフェが完全に封鎖され、食糧不足に苦しむようになる。この時点でレシフェの一般人口は約8千人。うちオランダ人(vrijburgher)が3400、ユダヤ人が600、残りは先住民あるいは黒人。これに対し守備隊は3,000人。ほかパライバとリオグランデにあわせて1,000人。

50 移動した先にもさらにバンデイラスの襲撃.最高時48あった教化村は22まで減少.

51 イギリス,航海条令を制定.オランダとの貿易を禁止.

52 20年間にわたる英蘭戦争開始.オランダ,イギリスに攻撃され弱体化.

1653年

53 Antonio Vieira神父らイエズス会士、マラニョンに伝道に入り、先住民を奴隷化から守る。

53 ナタール州のWise Kings要塞が、ポルトガル軍の手に落ちる。

12.30 ポルトガル艦隊77隻がレシフェ沖に進出。前後に敵を迎えたオランダ軍は混乱。

1654年 オランダ軍の降伏

1.26 レシフェのオランダ軍、ポルトガル艦隊に降伏。タボルダ(Taborda)条約締結。オランダはレシフェのほかParaiba, Ceara, Rio Grande do Norte, Itamaraca, Fernando de Noronhaなどの植民地も手放すこととなる。

1.28 ポルトガル軍がレシフェに凱旋。ペルナンブコの砂糖農場は戦闘により灰燼と帰し,ブラジルの製糖産業は国際競争力を失い衰退.一方でオランダは,スリナムや西インド諸島に砂糖生産を拡大.

4.26 ポルトガル政府、レシフェのみならずブラジル全土からユダヤ人を追放する決定。

54 ポルトガル政府,イギリス商船に,植民地との交易を認める。ただし彼らの船がポルトガルの艦隊に伴う限りとされる。

55年 ブラス・ダ・ロチャ・カルドソの率いるポルトガル人部隊600名、パルマレスに入る。このとき生後数か月のズンビが連れ去られる。ポルト・カルボのカトリック司祭アントニオ・メロはズンビを引き取り、ラテン語などの教育を与える。

50年代後半 逃亡奴隷の集落はキロンボ、またはモカンボと呼ばれる。この中の11の集落がパルマーレス連合体を形成。最盛期には構成員2万ないし3万、中心集落のモカボは8000人、もうひとつの大集落アマロは5000人に達する。

60.12 リオの砂糖キビ農園の植民者,ラム酒製造の禁止,貿易の本国独占などの戦後の処遇に不満.知事の免職を宣言し反乱.

1661年

6 リオの反乱者,総合会社の派遣した軍との市街戦のすえ敗北.その後政府は糖蜜酒製造禁止令の撤回で懐柔に回る.

4.10 リオ・ジェロニモ・バルバーリョ,植民地の重税に反対し反乱を起こす.まもなく捕らえられ処刑される.

61 ハーグ和平.オランダ最後の植民地レシフェの支配権が,正式にポルトガルのものとなる.ポルトガル政府はオランダに800万ギルダーを支払う。またバイア、ペルナンブコ、リオデジャネイロの三都市におけるオランダ、フランス、英国人の居留を認める.

61 スペイン,ポルトガルに対抗しパラグアイ北部に進出.サンタクルス・デラ・シエラを建設.

61 マラニョンのポルトガル植民者,インディオ奴隷化の障害となるAntonio Vieira神父らイエズス会士を国外に追放.その後本国で審問にかけられ投獄される。

62.1.09 先住民反乱の指導者ジャンドィム(Janduim)が処刑される.

64 オランダ,最終的にペルナンブコを撤収.

69  ネグロ河とソリマエス 川の合流点にリオネグロ要塞が建てられる。

70 15歳のときズンビは教会を脱走。ポルトカルボ近郊のオセンガと呼ばれるキロンボに所属する。ズンビは一生、メロを敬愛していた。のちにメロはソドミーの疑いで任を解かれ審問にかけらるが、これはズンビとの交流を維持したことから、ポルトガル人から讒言されたとされる。

これ以降、ズンビとパルマレスについての記載には、まったく違う二つのバージョンがあります。そもそも、ブラジル独立の際に首相を務めたボニファシオという人物が命令して、政府に都合の悪そうな記録をすべて焼いてしまったため、正確な資料がほとんど残っていないそうです。
これに対し民衆の語り継ぎには多くの異説があり、中には捨て去るわけには行かないものもあるようです。
Andressa Merces Barbosa dos Reisという人は、これをマルクス主義系と官庁アカデミズム系とに分け、文献学的考察をしています。ここではズンビの側から見た歴史を採用しました。PCdoBの年表も参考にしてください。

72年 ズンビ、抜群の素養を背景にオセンガの「長官」に選ばれる。このとき洗礼名フランシスコをすてズンビと改称。オセンガの集落もズンビと改められる。

73年 アントニオ・ジャコメ・ベゼーラの率いる掃討部隊、パルマレスを攻撃。ズンビはこの攻撃を撃退し、パルマレス軍の司令官(Cabo de guerra)の一人に推される。

74年 オランダの西インド会社が解散。残存植民地の管理会社としては、1791年まで継続。

1675年

9.28 マヌエル・ロペス・ガルバン少佐が率いる280名の部隊,Dom Pedro de Almeida知事の指示を受けパルマレス掃討作戦を展開.2千の家が焼き払われ、逃亡奴隷45人が捕獲される.ズンビも足に負傷を負うが逃れる。

1676年

9.21 マヌエル・ロペスに引き続き,フェルナン・カリリョの討伐隊が出発.数か月にわたりパルマレスの主要集落Zambi, Acotirene or Arotirene, Tabocas, Dambrabanga, Subupira、Macaco, Osenga, Amaro, Andalaquitucheなどを襲撃。ズンビは多大の損害を出しながら闘い、カリリョはパルマレスの将軍(Mestre de campo)と名づける。

12.04 カリリョの討伐隊,マカコとスプビラを襲撃。マカコは大酋長ガンガ・ズンバの居城で、戸数1500、スブピラはその弟の居城で800戸。

1677年

6.03 最初の大司教としてGaspar de Mendoncaが着任。

11月 ポルトガル軍撤退の後、パルマレス内部に対立。多くがガンガ・ズンバの退位を要求するが、最大のマカコ・グループが譲らなかったことから流産。(この後数年の日付には異同が多い)

1678年

1.17 別のポルトガル部隊がマカコ(ジョアン・タピア)に代わる首都となったアマロ(サンミゲル)を攻撃.パルマレス大酋長ガンガ・ズンバの息子ら縁者多数を殺害し,パルマレス軍司令官ガンガ・ムイカら56人を捕らえる.ガンガ・ズンバも負傷。

7.18 ガンガ・ズンバ、レシフェに二人の息子を含む使節団を送り、「平和と友好」をもとめる。ガンガ・ズンバとペルナンブコ知事Pedro Almeidaのあいだに協定成立。投降した黒人はクカウに居留地を与えられ、パルマレスで生まれたものはすべて、ポルトガル王の下で自由とされる。一方逃亡奴隷は元の奴隷主に返還されるものとする。ガンガ・ズンバの一行300~400人がパルマレスを去る。

78年 ズンビ、マカボに入る。領内からガンガ・ズンバ派を駆逐しパルマレス連合を再構築。農場から誘拐した白人女性ドナマリアを妻とする。ドナマリアは女王と慕われたという。

1680年

80年 クカウ居留地内のズンビ派、ガンガ・ズンバを暗殺しポルトガルに反旗を翻す。ポルトガル軍はこれを弾圧。首謀者4人を処刑し、居留民全員を奴隷とする。(これをズンビによる宮廷革命と記載する文献もある)

80 ポルトガル,黒人奴隷の供給独占を維持するため,原住民奴隷の使用を禁止.現地の労働力不足が深刻化.

80 ドンペドロ2世,リオからの植民者2千を送りウルグアイ南端にまで進出,ブエノスアイレス対岸にサクラメント植民地(現ウルグアイ領コロニア)を建設.ラプラタ川左岸をブラジル領と主張.ペルーとの密輸貿易中継に力を注ぐ.

1682年

82 セアラ,マラニョン,パラ州など北部の綿花地帯の貿易を司どる特許会社「マラニョン商事会社」設立.ポルトガルの影響はマトグロッソからロンドニアまで拡大.奴隷貿易を含む貿易を独占。現地での収奪強まる.

82 イエズス会伝道団,サンタクルス・デラ・シエラ(現ボリビア)から北方平原に進出.マモレ・グアポレ盆地(現在のボリビア低地地帯)に伝道村モホス,チキートスを建設.

1684年 マラニョンの反乱

84.2.25 マラニョン州サンルイスの綿花栽培者,マラニョン会社の貿易独占と横暴に対し反乱.知事を逮捕し革命政府を樹立.Manuel Beckmann(ブラジル生まれのドイツ人)を統領に選出.特許会社の倉庫を占拠.インディオ奴隷制に反対するイエズス会を州外に追放.

1685年

85.2.11 ポルトガルは軍を送りマラニョンの反乱を鎮圧.ベックマン,ホルヘ・サンパイオら指導者を処刑.

85年 ポルトガル王の名により、ズンビに和平提案。ズンビに農場を与え、奴隷とならない保障を与える。クカウの経験を知るズンビはこれを拒否。

85年 ブラジルの海岸地帯を最初の黄熱病の大流行が襲う。白人が次々に倒れる中、黄熱病に対して免疫を持つ黒人は健在。

86.1.10 フェルナン・カリリョによる第三次パルマレス掃討作戦.

1687年

3.03 Domingos Jorge Velho,州政府と契約を結び,第一回目のパルマレス掃討作戦.目立った戦果を挙げることなく引き上げる.

87年 ペルナンブコ当局、Henrique Camaraoに命じパルマレス討伐のための先住民部隊を組織。さらに奥地の先住民集落からも傭兵を募る。

1690年

90 タウバテを出発したバンディラ,ミナスのカタグアーゼスで金鉱を発見.

90 ポルトガル総督府、ポルト・カルボにならず者や先住民、マメルコなど3000人をかき集め、Serra da Barrigaにいたる道を造成。大量の軍備・食料を搬入するなど侵攻作戦に備える。

91 ポルトガル総督府、9千の軍勢を組織。これにDomingos Jorge Velhaのひきいるパウリスタ部隊を加え、パルマレスの壊滅を図る。

91 最初の掃討部隊1000名がパルマレスに侵攻。ズンビはこれを跳ね返す。

92 ペルナンブコ知事、Bernard Veira de Meloの率いる増援部隊を編成し送り込むが、これもズンビ軍の巧妙なゲリラ作戦の前に撃退される。

92.4.10 「カニンデ国」のジャンドゥイム王とポルトガル政府とのあいだに「恒久平和」協定.「カリリ戦争」が終結.

93 サンパウロのバンデイラが,ミナスジェライスのリオ・ダス・ベリャスで金鉱発見.黄金時代(エポカ・ジ・オーロ)の到来。この時点でブラジルの人口は白人10万,黒人20万人(先住民の数は不明).その後の100年間で人口は十倍に.

1694年 パルマレス王国の崩壊

1.12 ドミンゴス・ホルヘ・ベリョ,ペルナンブコ総督ベルナルド・ビエイラ・デ・メロの手勢を加え総勢6,500名の掃討軍を組織.パルマレス王国の首都マカコを攻撃.

2.06 2日間にわたる最終決戦。掃討軍の攻撃によりマカコは陥落。パルマレス王国は壊滅.男は皆殺しにされ、生き残ったもの500名は奴隷として売られる。ズンビの白人の妻も逃亡奴隷として扱われたという。ズンビは奥地に逃れ,さらに抵抗を続ける.(囚われの身となるのを避けるため絶壁から身を投げたというSebastiao da Rocha Pitta説もある)

6.02 フェルナン・カリリョ,セルタンの支配者ジャンドゥイム王討伐に乗り出すが失敗.

1695年

95年 ズンビの副官アントニオ・ソアレス、ペネドの町を襲撃中に捕らえられる。獄中で裏切ったソアレスはポルトガル軍を手引きして、ズンビとの接触をもとめる。

11.20 潜伏中のズンビ、ソアレスの呼びかけに応じて出て行ったところを撃たれる。ズンビと同志20名は、ポルトガル部隊と激しく戦い殺される。現在ブラジルで,この日は「黒人意識向上記念日」となっている.

彼の遺体はポルト・カルボで検分された。「体は細く小さく」、15の銃創と無数の切り傷があった。その首は切り落とされ、塩漬けにされ、ペニスをくわえさせられ、レシフェに送られた。レシフェのメロ・イカストロ知事はその首を公共広場にさらしものにした。ソアレスは罪を許され、レシフェで余生を送った。

1696年 ゴールドラッシュの到来

96 ミナス・ジェライス(何でもあり鉱山という意味)州のボルバ・ガトー(現サバラ)で砂金発見.ゴールド・ラッシュ到来.サンフランシスコ川源流地帯のセラ・ジ・マンティケイラ(Serra de Mantiqueira),セラ・ド・エスピニャコ(Serra do Espinhaco)にカエテ,マリアーナ,サンホアン・デル・レイ,ビラ・リカ(現オウロ・プレート)などの町がつぎつぎと建設.1世紀近くにわたり栄える.ポルトガルは5分の1税を決め,厳しく取り立てる.その後の百年で金千トン,ダイアモンド三百万カラットが採掘された.

96年 先住民Xukuru族、ポルトガル人の侵入を排除。「野蛮人の戦争」と呼ばれる。

97年 イエズス会のFather Pero Rodrigues、「ポルトガルの三つの敵はフランス人、いまだ抵抗するアイモレ族、キロンボの黒人である。これを防ぐためには、伝道所の導きの下にある先住民を使用するしかない」と述べる。

99.6.30 モライス・ナバロの部隊がセルタンに侵入.ジャグアリベのジャンドゥイム王捕獲を試みる.

8.04 モライス,マドレ・デウスで先住民400人を捕らえ虐殺.

 

1700

00年 リオ,金とダイアモンドの主要輸出港となる.人口は急激に増加,サルバドルをしのぐようになる.

03 スペイン王位継承戦争をめぐり,列強からの保護を求めるポルトガルとイギリスとのあいだにメスエン(Methuen)通商条約締結.ポルトガルはイギリスの羊毛製品に,イギリスはポルトガルのブドウ酒に特恵待遇を与える.実際はポルトガルを原料供給国におとしめる屈辱的なもの.これを機にブラジルへのイギリス進出強まり,金のほとんどがイギリスに流入する結果となる.ロンドンはアムステルダムに代わり世界の金融の中心地となる.

03 ブエノスアイレスのスペイン軍,サクラメントを奪取.ポルトガルは05年の休戦条約においてサクラメントの確保を断念。

03年 ポルトガル王室、Cristovao da Costa Freire総督に対し、黒人、マメルコ、奴隷のセルタン入りを禁止するよう指示。セルタンにすむ先住民と共同して反乱するのを避けるためとされる。

06.6.08 最初の印刷機がレシフェに持ち込まれる.

09 サンフランシスコ河上流は,流れ者たちの支配する無法地帯となる.ミナスでサンパウロ人と金鉱掘りなどバイーアから流れてきた「よそ者」(emboabas)とのあいだにエンボアーバ戦争.両者の争いによりポルトガル政府が漁夫の利を得ることになる.この時点でミナス地方には3万人の人が住む.

09年 ポルトガル政府、ミナスとサンパウロに新たなカピタニアを設置。ミナス=リオ間の道路を建設するなど本国支配を強める。

1710年 マスカッテ戦争

3.04 ペルナンブコの首都オリンダから5マイル離れたレシフェ,オリンダに代わりペルナンブコ経済の中心地となる.改宗ユダヤ人を中核とするレシフェの商人たちは,地主層の支配するオリンダからの市会の独立を宣言.

3.11 オリンダのエンジェーニョは2千の兵を動員しレシフェを封鎖.エンジェーニョが商人を「行商人(マスカッテ)」と蔑称したところからマスカッテ戦争と呼ばれる.1年後に本国の介入により収拾.商人の優位が確立すると同時に本国の支配権も強化.

10 フランス人が金の積出港となったリオを襲撃。一度目は撃退される。

1711年

4.28 バルトロメオ・ファリアら,塩の専売制に抗議し,ジャカレイで蜂起.

9.22 Duguay-Trouinの率いるフランス人船団がリオを攻撃、一時占領する。ミナスのポルトガル軍との間で交渉が成立し、身代金と引き換えに撤退。

10.19 サルバドルのMotim do Manetaら,塩の専売制に抗議し反乱.

12.02 Motim do Manetaら,二度目の反乱.総督Castelo Melhorにより三週間後に鎮圧される.

13年 ユトレヒト条約締結.ポルトガルはサクラメントをスペインに譲渡し,ウルグアイ川流域のイエズス会領を手に入れる.

14年 ブラジルに副王制が導入される。実際にはこれまでの総督が副王と名を変えただけ。ブラジルでのゴールドラッシュでポルトガルからの国外流出多数にのぼる.

18 エンボアーバ戦争に敗れたパウリスタは、ふたたびバンデイラスを組織。ミナスよりさらに奥地に進出。マトグロッソから現ボリビア北部まで進出し、チキートの伝道村を襲撃。マトグロッソ北部で金鉱発見.鉱山奴隷を求めるポルトガル人のスペイン領侵入がふたたび盛んになる.金鉱は36年にはほぼ枯渇.

1720年

6.28 ミナスのビラ・リカで金への重税に反対する反乱発生.総督軍は首謀者を即決裁判,さらし首とする.

20 ブラジル,総督領から副王領に昇格(一説に1774年7月13日).ミナス・ジェライスは州(capitany)に昇格。ビラ・リカ(現オウロ・プレート)を州都とする。ブラジル総合商社(General Brazil Trading Company)による支配が廃止され、本国の介入支配はさらに強化.

22 スペイン,フランス人地図製作者を雇い,トルデシーリャス線の確定を図る.フランス人調査団はアマゾン河口およびラプラタ河口が、トルデシーリャス線の西側にあると報告。

1723年

23 リスボンの海外評議会、ブラジル奥地の正確な調査と境界線の見直しを命じる。フランシスコ・デ・メロ・パレータPalheta,ベレンを出発しグアポレ川を探検.奥地に驚くべき多数のイエズス会教化村があるのを「発見」する.

23 サンフランシスコ川流域のディアマンテスでダイアモンド鉱発見.

23 リオの町に最初の水道が引かれる。サルバドルのサンフランシスコ教会が竣工する。壁は黄金で縁取られていたという。

24 サルバドールにブラジル博物学会 (Academia Brasilica dos Esquecidos)が創設される。

24 サンパウロ州ソロカバに馬市開設.ミナスの金鉱地帯へおくる牛馬を捕獲する牧畜が南部でさかんとなる.

25 マトグロッソに続きゴイアスにも金鉱が発見される.

27 アマゾン河口の警備隊長のフランシスコ・パリエッタ,仏領ギニアからコーヒーを移植.

29 ミナス州セーラ・フォリオでダイアモンドが発見.ブラジルは空前の繁栄の時代を迎える.

1730年

6.15 パンタナル地方の狩猟民パイアグア族(現在絶滅)が反乱.90隻のカヌーでLanhas Peixotoを襲撃.

30 ミナス州リオ・ジェキティニョニャ(Jequitinhonha)にダイアモンド鉱山発見.ミナス北部一帯はディアマンティーナと呼ばれるようになる.この頃,ミナスの奴隷の数は10万に達する.

32 海外領評議会のアントニオ・ロドリゲス・ダ・コスタ,ポルトガルのような「小さな貧しい国」がブラジルのような「大きく豊かな国」を支配するのは矛盾しており,今の重税政策を続けるなら,ブラジルは必ず離反するだろうと警告.

34.10.03 バンディランテスとパイアグア族の戦い.パイアグア族は1年以上にわたりゲリラ闘争を展開.

35 ブエノスアイレス長官ミゲル・サルセド,サクラメントを攻撃.2年後に奪取に成功.

38 王室顧問ドン・ルイス・ダ・クーニャ,イギリスの支配を逃れるためポルトガル王が「西方の王」となり,リオに首都を移すよう進言.

39.12.08 カアサパグアス(Caazapaguaçu)の戦い.ニコラス・ネーングイル(Nheenguiru)のグアラニー族が,Pascoal Leite Paesの率いる2,300の部隊を撃退.

41.3.03 捕らえられた逃亡奴隷に‘F’の焼印が押されることとなる.Fはfujãoの頭文字.戻ってきたものには耳をそぐ刑が課せられる.

46 この頃までにモホスに24,チキートスに10カ所の伝道村が建設される.教化村のグアラニー族を狙うバンデイランテスの襲撃がふたたび活発となる.

47.6.06 王室政府,植民地における印刷物の出版を禁止.啓蒙思想の普及に対抗.

48 ポルトガル,マトグロッソ総督領を創設.トルデシーリャス線を越えて版図拡大の姿勢を示す.その後さらにグアポレ河沿いにプリンシペ・デ・ベイラ砦を建設.ペルーと国境を接するようになる.また北部アマゾン河流域にはマラニョン=パラ王領を創設.

1750年

1.13 マドリード条約締結.スペインはトルデシーリャス線に固執することを断念.サクラメントを確保する代わりに,現状の勢力範囲を境界線とする.ブラジルのアマゾン,パラナ地域領有が認められ,現在のブラジルの版図がほぼ形成.ウルグアイ川左岸はポルトガル領に帰属することとなる.イエズス会は自領がポルトガル領に組み入れられたことに反発.

51 ジョゼ一世即位.ポンバール(Pombal)伯が宰相に就任.大貴族や教会の特権をおさえ,英国への従属からの脱却を目指す.25年にわたり絶対主義強化をめざし近代化を実施.このための資金をブラジルからの搾取・収奪の強化に頼ったため,支配は苛烈なものになる.

51年 アマゾン流域の支配権確立のためマラニョン州が拡大され、グラン・パラをふくむ直属領となる。州都はベレン。ギアナのオランダ,ベネズエラのスペインの進出に備え,リオ・ブランコとリオ・ネグロを防衛線に設定,オビドス,マナウス,タバティンガに要塞を建設.75年にはブラジル副王領に復帰、両州はふたたび分割される。

55.11.01 リスボンを大地震が襲う.死者3万人を数える.ブラジルの金に新たに再建税(Reconstruida Sera)が課せられる.

55 ポンバール,カピタニア制を最終的に廃止し、ブラジル全土を王室の直接支配下に置く。ブラジルのすべての港を外国に対して閉鎖.外敵に対する防衛を強める.またクリオージョの反抗を恐れた政府は,大学の設置を認めず,印刷物の発行も許可せず.いっぽうブラジルの農業生産を振興,コーヒー,桑,インディゴ,亜麻,綿花,カカオ,米の生産を広める.サンパウロでは鉄鉱石の採取と精錬が始められ,バイアとリオを結ぶ国内交易も盛んになる.

1756年 グアラニー戦争

2.07 イエズス会,マドリード条約に反対し抵抗(グアラニー戦争).ポルトガルはイエズス会と英国が直接手を結ぶことを恐れる.José Joaquim Viana総督の命を受け,ポルトガル人1,600人,スペイン人1,900人がバカカイのグアラニー族を襲撃.イエズス会のミッションを破壊.この戦闘でグアラニーの指導者セペ・ティアラジュ(Tiaraju)が戦死.

2.10 カイバテの戦い.グアラニー軍はニコラス・ラングリウ司令官ら千五百名が戦死するなど,壊滅的打撃を受ける.戦いは2年後に敗北に終わる.

58.5.08 ポンバール,「戦闘での捕虜」を含め,先住民の奴隷化を全面禁止.状況を監視するため,先住民監視局(Diretório dos Índios)が作られる.

59.9.03 ポルトガル,国王暗殺陰謀の廉でブラジルを含む王国全域よりイエズス会を追放.ブラジルでは6百名が追われ,教化村の資産が簒奪される.

59 ポルトガル、通商局を立ち上げ、パラ、マラニョン、ペルナンブコ、パライバに次々に国策会社を創設。

61.9.19 ポンバール,ポルトガル本国における奴隷制を廃止.ブラジルにおいても訴えがあれば奴隷を解放すると布告.

61 ポンバール,マドリード条約を破棄しサクラメントを占領.

62 ブエノスアイレス長官ドンペドロ・セバロス,4千の兵をひきいサクラメントを奪還.

1763年

1.27 ポルトガルはブラジル副王領の首都をサルバドルから,南方のリオデジャネイロに移転.都市整備のため膨大な資金をつぎ込む。ミナスの黄金を積み出す道路がリオにつながっていたこと、ウルグアイの所有権を巡りラプラタ副王領とのあいだに緊張が高まったことが理由として挙げられる。(一説に移転は1769年11月4日)

9.02 サルバドル近くのBuraco do Tatuのキロンボに対し掃討作戦.逃亡奴隷61名が捕らえられ焼印を押される.

63 セバロス,北リオグランデを占拠.さらに北上しサンタカタリナまで進出.植民者はパットス湖北方へ逃亡.

63年 この頃,ミナス州の金採掘はほぼ枯渇(密輸はむしろ増加したという).苛酷な5分の1税に不満高まる.

64年 イタポアの「アルマジロの穴」(Buraco de Tatu)と呼ばれるモカンボが、Jaguaripeの先住民部隊に破壊される。(無数にあって書き切れないので以後省略。要するに先住民たちにとって逃亡奴隷狩りは、ひとつのビジネスとなっていた)

67 ポルトガルに次いでスペインもイエズス会を追放. 4 Nov 1769 

72.2.08 ロサリオのキロンボに対する大規模な討伐作戦.多くがすでに逃散していたため,作戦は失敗に終わる.

72 ポンバル,文明開化政策を採用.ブラジル人のコインブラ大学留学を推進.

74 ベレンのマラニョン管区を廃止.リオに集中させる.ミナスへの食糧基地として,サンタ・カタリーナ,リオ・グランデ・ジ・サンペドロの二つの総督領があらたに創設される.

74年 ポルトガル政府はブラジルを南北に分割。北部総督にLuis de Brito de Almeida、南部総督(リオ)にDr Antonio de Salemaを任命。77年にはふたたび合一し,リオデジャネイロを首都と定める.(この項どこから拾ったか不明)

76 ミナス州モルテス川流域に散在する約1万人からなるキロンボ集落,州政府により駆逐される.バンディラ隊長のバルトロメ・ブエノは殺害した黒人の耳3千9百対を持ち帰る.

77 サン・イルデフォンソ条約締結.マドリード条約を追認.サクラメントをのぞく全占領地域がポルトガルに返還.ウルグアイ,パラグアイはスペインに帰属.これと引き換えにブラジルはアマゾン盆地の大半を獲得。ブラジルの国境はほぼ現在の範囲に確定.

77.2 国王ジョゼ一世,死去.マリア女王が即位。ポンバールは失脚し,政界より追われる.後任にマルティーニョ・デ・メロ・エ・カストロ.

80 欧州各地での戦争のため、本国政府は鉱山税の徴収を強化。衰退期に入っていたブラジルの鉱山では、税の納付が滞るようになる。

80 米国の独立戦争に影響を受けたコインブラ大学のブラジル留学生,独立を求める密約を交わす.

82 ミナス州の人口,30万を超え,ブラジル総人口の2割に達する.内17万が黒人,8万がムラート.白人は7万人(1/4弱)に過ぎなかった.

85.1 ポルトガル政府,ブラジルに織物業を中心とする工業の禁止令を押しつける.ポルトガル宰相メロは、ブラジルに産業が勃興してきており,これが発達すればやがて独立へと向かう.「ブラジルなきポルトガルは取るに足らない」国になってしまうと危機感を燃やす.

86 ジョゼ・ジョアキン・マイア・エ・バルバーリョ,パリで駐仏大使ジェファーソンと接触.独立運動への援助を求める.マイアはリオの出身.コインブラ大学を出た後,パリのモンペリエ大学で医学を学んでいた.

86年 ポルトガル王ドンジョアン三世が死去。妻のドナマリア一世が女王に即位。

88年 ドナマリア一世の長子ドンジョゼが痘瘡で死亡。これを機にドナマリアは発狂。

88 ミナス州知事の息子ホセ・アルバレス・マシェル、英国留学を終え州都ビラ・リカに戻る。英国の産業の進歩をブラジルの植民地の貧困と比較し、改革を訴える。ヴィラ・リカや金鉱の町オウロ・プレートで、神父や徴税官,将校,判事,官僚,農場主などが緩やかなグループを形成。州内ほとんどの有力者が関与する.ジョゼ・ダ・シルバ中尉(ティラデンテス)もこれに加わる。

ティラデンテス: 意外に正確な情報が少ない。本名はジョアキン・ジョゼ・ダ・シルバ・ハビエル。46年ミナス州サンホセ生まれ。貧困家庭に育ち11歳で孤児となる。歯抜き医のもとで徒弟奉公した経歴を、裁判の際に当局が誇大宣伝したが、逮捕時の本職は騎兵見習士官とされ、ミナスとリオを結ぶ伝令役を務めていたようである。職業柄、リオの知識人と接触する機会があり、それを通じて国内外の状況と自由主義思想を学んだ。とはいえ、彼が一種の「人身御供」となった可能性は否定し得ない。

1789年 ティラデンテスの反乱

2月 ミナス州の共和主義者が反乱を計画。鉱山税の納入日(derrama)を期してビラ・リカの町で蜂起、「ブラジル共和国」を宣言しようとするもの。ジョアキン・シルベリオ・ドス・レイスの裏切り・密告により、アルバレス州知事の知るところとなる。アルバレスはderramaを中止し、首謀者を逮捕。ティラデンテスは追っ手を逃れリオに潜入。

「陰謀」の中心人物: Cláudio Manoel da Costaは当時60歳。政府官僚であると同時に有数の文筆家とされる。トマス・アントニオ・ゴンザーガも有力官僚。アルバレンガ・ペイショットは現地富豪の一人。

5.10 組織再建を図るティラデンテス、リオ市内でドス・レイスと連絡をとろうとして、当局に捉えられる。

5.17 ミナス州の「共和主義クーデターの陰謀」が暴露される.3年にわたる裁判は「チラデンテス(歯抜き)の反乱」とよばれ、大々的に宣伝される.

7.14 マノエル・ダ・コスタ,ビラ・リカの監獄で獄死.公式には自殺とされる.

1791年

4.18 「鉱山の陰謀」に対する裁判,11人に死刑の判決.実際に処刑されたのはティラデンテスのみ.

91年 ノルデステで3年間にわたる大旱魃.牧畜業は壊滅.黒人奴隷の逃散あい次ぐ.逃亡奴隷狩りの「密林の司令官」(capitaes do mato)も出現.これに代わり南部での牧畜が勃興する.

92.4.21 チラデンテス,リオで公開処刑.死体は八つ裂きにされ,首はビラリカに送られ晒し首となる.ティラデンテスの処刑の日は現在ではブラジルの独立運動の始まりの日として祝日となっている.

92年 発狂したドナマリア女王に代わり、ドンジョアン皇太子が執務を代行。

94.12.11 リオ文芸協会で,共和主義者11人が独立を企てたとの容疑で摘発される.

94 バイア総督,奴隷制反対運動を行ったJ.de Bolonhaを追放.

95.5.07 フランシスコ・ペドロ・デ・メロ,Piolho, Motuca,Pindaitubaのキロンボを相次いで襲撃し奴隷狩り.

97 サルバドルで,ジャコバン派の影響を受けた急進的秘密結社「光の騎士団」結成.民主バイア最高評議会の名で,共和国制,自由平等,貿易の自由,奴隷制廃止をうたう.ブラジル最初の社会運動と称せられる.一味には仕立屋,兵士,小作農,ムラートなど下層階級も参加.ジョアン・デ・デウス(仕立職人)が指導.

1798年 バイアの陰謀

8.12 光の騎士団,市内各所で革命への決起を呼びかけるビラを貼る.(仕立屋の反乱)

8.20 当局は,反乱の陰謀を企てたとして,光の騎士団弾圧を開始.軍の下士官,兵士のほか黒人奴隷も含め49名が逮捕され,Luís Gonzaga das Virgens(36), Lucas Dantas(24), João Nascimento(24), Manuel Santos Lira(23)の4名がさらし首にされる.解放奴隷のLuís da França Piresも死刑判決を受けたが逃亡に成功.

99年 ドナマリア一世の精神異常は不治と診断される。ドンジョアン皇太子が摂政に即位。

 

1800

00.2.16 オリンダにセミナリオが創立される.独立派,共和派の巣窟となる.

00年 この年のブラジル人口は約300万。最大の都市はサルバドル。リオデジャネイロ、オーロプレトがこれに続く。

01.5.12 ペルナンブコの独立派秘密結社Aerópago de Itambéが,当局の摘発を受ける.スアスナスが指導しポルトガル人による貿易の独占に反対する.

01 英国,ポルトガル政府に対しリオへの移転を勧告.移転に際しての保護,援助を与えると約束.

03 英仏間の緊張激化.ポルトガル政府はリオ移転の議論を開始.

1807年

5.26 奴隷制反対運動を行ったRecôncavo Baianoが,反乱を企てたとして当局に摘発される.首謀者は極刑に処せられる.

10.27 西仏間で,親英派の立場をとるポルトガルの分割占領を決めたフォンテーヌブロー条約締結.これを知ったポルトガル王室は、ナポレオン侵入の場合にはリスボンを去ることを決定.準備に入る。

10 ポルトガルと英国の秘密会談.フランス軍侵入への対応を協議.ポルトガル保護と引き換えに,海外植民地の英国への開放で合意.

11 ナポレオンの部下ジュノー将軍,3万(10万?)の兵をひきいイベリア半島に進出.

07.11.29 ポルトガル王室は50隻の船に1万5千人が乗り,イギリス海軍の護衛の下にブラジル亡命.

11.30 ナポレオン軍,リスボンに入る.

1808年 帝政時代の開始

1.22 ポルトガル王室を乗せた船団,バイアに上陸.精神異常を来した女王マリア一世にかわり,息子のドン・ジョアンが摂政を勤める.ブラジルは副王制から王室親政へと変化。

1.28 ペドロ摂政皇太子,「全ての友好的な国との通商を指揮するためにブラジルの港を開く」と発表.ブラジル領内の主要港湾が開港される.

2.18 バイア陸軍病院に付設して医科大学が創設される.

3.07 王室,バイアからリオに到着.ポルトガル=ブラジル王国を宣言。王室の下に最高軍事評議会,大蔵,通商,農業,産業の各省,控訴審,王立印刷所,政府新聞,ブラジル銀行が設立される.英国は3百万ドルを新政府に融資.

4.01 産業の禁止を定めた1785年の勅令を廃止.英国の投資により綿花栽培が急速に拡大。

5.10 立法院(Intendência Geral de Polícia)が創設される.

6.01 ブラジルの政治家でリベラル系ジャーナリストのイポリト・ジョゼ・ダ・コスタ,ロンドンで最初の新聞「コレイオ・ブラジリエンセ」を発行.

8.13 ドン・ジョゼ,印刷物条例を発布.一定の検閲の下で紙誌の発行を許可.

8月 150-200人の英国人の商人が、リオに押し寄せる.英国、ブラジルの間の通商は,4倍に増加した。英国のジョージ・キャニング外相は,いずれリオが南米大陸の消費物資の受け入れ口となるだろうと述べる.リオは人口五万から二年後には7万に増加。

9.10 Gazeta do Rio de Janeiroが発刊.国内で印刷される最初の新聞となる.

10.12 ブラジル最初の銀行としてAlvará realが創立される.

11.25 外国人の土地所有が条件付で許可される.

1810年

2.04 バイアでも印刷物の発行が許可される.ただし総督とバイア大司教による二重の検閲を要する.

2.19 イギリスとのあいだにメスエン通商友好条約締結.イギリス製品の輸入を無制限とする一方,イギリスへの砂糖,コーヒー,綿工業製品の輸出を禁止.英国商人はブラジルに居住し,卸・小売などの仕事に携わることを認められる.英国政府は、また、在留英国人のかかわる問題を審理するため,裁判官補をおく権利(治外法権)を与えられた。ブラジルは事実上イギリスの植民地的地位に落ちる.

12.04 イパネマとソロカバに最初の製鉄工場が建設される.

1811年

5.13 リオに王立図書館が創設される.

11年 王室,外国移民の入国と土地の所有を許可.港湾を開放し本国以外との貿易およびダイアモンド以外のすべての商品の取り引きを自由化.各種工業を起こす.海軍を移設したほか,陸軍と陸海軍士官学校,兵器工場をあらたに創設.治安維持のために王立警察隊が組織される.バイアとリオに医学校,リオに美術学校,自然博物館,公共図書館,植物園などを設立.ヨーロッパから技術者を呼び寄せるなど富国強兵策をとる.リオの人口は5万から13万に急増.ブラジルの資本家らは本国出身者による王政強化に対し不満を強める.

12.110.20 ブラジル銀行創設.資金確保のため特別税徴収,株式の公開などが行われる.

13.2.18 バイア州カショエイラの造船所で奴隷反乱の陰謀が摘発される.イタポアンではフランシスコに率いられた漁業奴隷の反乱.監督ら白人12人を殺害し,サルバドルへ向かう.ジョアネス河で軍の反撃にあい壊滅.56人が死亡,4人が縛り首となる.ほかの多くは奥地へ逃散.

1814年

14年初め サルバドル郊外のイタポアでイスラム指導者に組織された黒人奴隷250人の反乱。捕鯨基地の建物を焼き、多くの農場を略奪。

3.20 バイア州カショエーラのポンタ農場で奴隷の反乱が発生.

3月 イスラム黒人の反乱に呼応してReconcavo砂糖農場のハウサ族奴隷がもうひとつの反乱を企てる。

7月 サルバドルの造船所の奴隷労働者と自由黒人の職工が別な反乱計画。これまでの蜂起の失敗から、農場の奴隷、地方の逃亡奴隷、地主に土地を取り上げられた先住民が力を合わせることが重要と考え、ひそかに共闘を呼びかける。先住民が街の中に姿を現したことが当局の目に留まり、計画が発覚。

1815年

11 パリ条約締結.イギリス軍はそのままポルトガル駐留を続け,本国はイギリスの事実上の属国となる.

12.16 ポルトガル=ブラジル=アルガルヴェス連合王国成立.ブラジル人に本国人と同等の権利が授けられる.

1816年

3.19 マリア女王死亡.摂政ドンジョアンがドンジョアン6世として即位.二人の娘をスペインのフェルディナンド7世とその弟と結婚させ,息子ペドロの妻にオーストリア皇帝フランツ1世の娘レオポルディーナを迎えるなど各国王室との関係を強化.

7.09 ジョアン6世,ラプラタ東岸の確保を目指し,リオ・ダ・プラタ連合州(Províncias Unidas do Rio da Prata)の独立を宣言.ウルグアイ独立を目指すホセ・ヘルバシオ・アルティガスに対し,本国部隊を投入し制圧作戦を展開.闘いは5年にわたる.

7.29 ドンジョアン6世,外国船のブラジル沿岸就航を禁止.

12.04 ドンジョアン6世,植民地時代禁止されていたミナス内陸部への進出・殖民を許可.

12.04 バイア奥地の砂糖栽培地帯サンと・アマロ,サンフランシスコで奴隷の反乱.Jeronimo Fiuza Barretoが指導.

1817年 ペルナンブコの反乱

3.06 ペルナンブコ州で,リオの王室による専制と東北部の自治権侵害に抗議し,ドミンゴ・ジョゼ・マルチンら軍内クリオーリョが率いる共和主義者が武装蜂起.

3.08 反乱軍、州都レシフェを占拠し臨時政府を宣言.「(有産者の)あらゆる階級」からなる共和制と奴隷制の即時廃止をめざす.米英両国に使節を送り,承認を求める.鎮圧に向かった軍は反乱軍との対決を拒否,一部は反乱軍に合流する.

3.11 パライーバ州,暫定政府への参加を決議.州内では奴隷により編成された部隊が「正義と真実」の旗を掲げ戦闘に参加.反乱はさらに北リオグランデ,セアラ州南部に拡大する.これらの運動が連合することはなかった.

3.29 サルバドルでカトリック教会の一部に暫定政府支持の動き.

4.26 北リオグランデ州の共和主義指導者André de Albuquerque Maranhãoが死亡.

5 中央政府軍,大地主層の支援を受け弾圧に乗り出す.臨時政府はエンジェーニョが反乱反対に回るなど内部分裂のため樹立後2ヶ月半で崩壊.首謀者15名が死刑となる.

5 ポルトガル本国で、ベレズフォード(William Carr Beresford)による摂政政治を打倒する陰謀.ゴメス・フレイレ・アンドラーデ総軍を始め,11人の将校が反逆罪容疑で逮捕され,絞首刑となる.この過酷な措置は国内での反感を呼ぶ.ポルトでは共和主義者のク゛ルーフ゜「シネドリオ」が勢力を伸ばす.

6.12 レシフェ共和政府の指導者3人が捕らえられ,バイアでさらし首に処せられる.ドンジョアンは残虐刑の中止を指示.

7.10 レシフェ市内で共和政府の指導者4人が処刑される.クリオージョの忠誠心に疑問を持った王室は,リオ,バイア,レシフェの守備隊を本国出身者で固める.

1818年

3.30 ドンジョアン,秘密政治結社「マコナリア」に対し,死罪を含む厳しい態度で臨むと警告.

5.16 ドンジョアン,飢饉に苦しむスイス人に対しリオ近郊のカンタガロ入植地を提供.入植者のうち80人が航海中に死亡.

11.01 サンパウロ州イパネマのソロカバ製鉄工場が操業開始.作業には黒人奴隷があたる.

1819年

10.4 サルバドル=カショエーロ間に初の蒸気船による定期航路が営業開始.

19年 ヨーロッパで地質学者として一家を成したジョゼ・ボニファシオが帰国、分離主義運動に参加する。このときすでに56歳。

1820年 本国の護憲革命成立

4.06 ブラジル国内で郵便制度が発足.

8.24 ポルトの立憲派,イギリス駐留軍司令官ウィリアム・カー・ベレスフォード元帥の不在をねらい蜂起.運動はリスボンに波及し護憲革命成立.革命評議会は1607年以来廃止されていた憲法制定議会(コルテス)を開催.封建的特権や異端審問制を廃止し,ドン立憲君主制に移行.ジョアンに帰国を要請.新議会は本国優位な構成とされ,ブラジルをふたたび植民地の地位に押し下げようとする.

9.05 ポルトガル、ウルグアイでのアルティガスとの戦いに勝利.アルティガスはパラグアイに亡命.ブラジルはバンダ・オリエンタルと名づけ,ブラジルへの併合を狙う.

10.17 ポルトガル革命の報がリオに届く.

1821年 ポルトガル王室の帰国

1.01 ベレンに駐留するポルトガル軍,本国に呼応し,自由主義者と結びついて反乱.

1.21 リスボンに議会が成立.絶対王政の終焉を宣言.リオの王朝との二重権力となる.

2.10 バイア駐留の部隊,ポルトガル人総督を追放.ジョアンに自由主義的憲法案の受入れをもとめる.

2.26 リオ駐留の軍人がバイアに呼応して蜂起.議会が審議している新憲法を受け入れるよう国王に強制.ジョアン6世はコルテスの主張を認め,立憲君主制のもとでのポルトガル帰国を受け入れる.軍の一部は,これに対抗しポルトガルからの分離と国王の残留を要求する反乱.市民も加わり大規模化.

3.02 ポルトの自由主義者の圧力を受け,ブラジル国内での検閲制度を廃止.

3.27 レシフェで共和主義者の新聞{ペルナンブコの夜明け」が発刊される.

4.21 ジョアン6世ら王室関係者4千人が,12隻の船に分乗しポルトガルに帰国することとなる.24歳のドン・ペドロ王子Pedro de Alcantara de Braganca e Bourbonが摂政として残留.

4.25 ドンジョアン,リオを出発.

6.05 リオの駐留部隊,ドンペドロに新憲法の遵守を求める.

6.28 サントス港の駐留部隊が反乱.給料の遅配に抗議し,ポルトガルからの独立を要求する.

6.30 ミナスで自由黒人アルゴイムの率いる奴隷反乱.オーロ・プレトでは1万5千人,S. João del Reiでは5千人が蜂起.憲法制定と奴隷解放,白人との平等を訴える.

7.18 ブラジル,ラプラタ川東岸をシスプラチーナ州として併合する.

9 本国議会,ブラジル王国とリオデジャネイロの王立機関の廃止を決議.ブラジルの再従属化を狙いブラジル人を官職・軍務から排除,貿易の自由を禁止するなど自治権を大幅に規制する法案をつぎつぎと成立.

10.26 ゴイアーナ州でペルナンブコ共和政府の復活を目指す蜂起.

11 本国議会,ドン・ペドロにたいし帰国要請.ポルトガルは軍隊を送り,ブラジル在留部隊を指揮下におく.

11 ペルナンブコ州政府、レシフェのポルトガル駐屯軍に撤退を求めるが,ポルトガル軍はこれを拒否.州兵との間で流血の事態となる。

 

1822年 ブラジルの独立宣言

1.09 ジョゼ・ボニファシオら分離主義者,ドンペドロを説得し帰国を思い止まらせる.ペドロは,ブラジル残留の意思を表明.「とどまる日」(O Dia do Fico)と呼ばれる。これを期にペニンスラールとの対立が激化.

ボニファシオ(Jose Bonifacio de Andrada e Silva)
サンパウロ出身のクリオージョ.リスボンの王室官僚を務め,コインブラ大学で地質学を教えたこともある保守派の知識人.後に「独立の父」と呼ばれるようになる.ドンペドロを擁立しようとしたのは、民族意識からではなくペルナンブコの共和革命を恐れたからともいわれる。

2 分離主義者がセロ・カステージョに結集.軍は分離主義者を弾圧しようとするが,武装した数千の群衆に取り囲まれる.ドン・ペドロはみずからポルトガル軍総司令官の職を辞すとともに,「リオ対岸のニテロイ湾にいったん退去し,ポルトガル帰還までそこに待機するよう」軍に指令.

2.19 サルバドルで独立派とポルトガル軍が衝突.独立派指導者のJoana Angélicaがロシア人雇い兵に殺害される.奥地に追い込まれた独立派は、ゲリラ戦に切り替え抵抗を続ける.

3.05 ポルトガルからの支援艦隊がリオ沖に到着.英国の支援を受けたドンペドロは艦隊の入港を拒否.ニテロイの部隊を乗せて帰るよう指示.艦隊は補給のみを受けた後,そのまま本国に戻る.

3.22 ドン・ペドロ,みずからミナス州各地を歴訪.少数の部下だけを引き連れ,馬に乗って駆け回る.

当時、ミナスとサンパウロにはポルトガル軍は駐留していなかった。このためドンペドロはミナスを独立の拠点にしようと考えた。しかしミナスの支配者たちは独立に対して懐疑的だった。このためドンペドロは自らミナスに乗り込み支持固めを図った。州都オウロ・プレートをはじめ各地の民衆は、ドンペドロを熱狂的に歓迎し、キャンペーンは大成功した。

4.01 独立派の雑誌「パラエンセ」が発行される.1ヵ月後に廃刊に追い込まれ,編集長のフェリペ・パトリーニは収監される.

5.13 ミナスからリオに戻ったドンペドロ,みずから「ブラジルの永久防衛者」を名乗る.1年後に制憲議会を召集すると声明.

6.15 バイア州のポルトガル軍司令官Madeira de Melo,ブラジルの独立を画策しているとしてドンペドロを非難.

6.25 カショエーラの市議会,リスボン政府を非難し,独立戦争に立ち上がるよう呼びかける.以後カショエーラはバイアにおける独立運動の中心となる.

8 ドンペドロ,リスボン滞在中のブラジル選出議員を召還.ポルトガルとの「友邦宣言」を発表するとともに,「ブラジルにいるポルトガル軍は敵と見なす」と述べ,ブラジル駐留のポルトガル軍に対し退去を求める.事実上の独立宣言となる.

8 ドンペドロ,支持基盤確立のためサンパウロ州内各地を歴訪.当地の女性ドミティラ・デ・カストロとの不倫が後に問題となる.

8月末 ポルトガル議会,ドンペドロを反逆者と断じ,討伐軍を送ることを決定

9.07 ドンペドロ,サンパウロからサントスに足を伸ばす.帰路サンパウロ近郊のイピランガで,本国議会がドンペドロを反逆者と断じ,討伐軍を送ることを決定したことを知る.伝説によれば,彼は軍服からポルトガルの徴章を剥ぎ取り剣を引き抜き,「私の血に賭けて,私の名誉に賭けて,そして神賭けて,私はブラジル解放を成し遂げる.われらのモットーは“独立か死か”だ」と叫んだという(イピランガの叫び).

9.18 レシフェで黒人と混血よりなる部隊が組織される.メスティソのPedro da Silva Pedrosoが指揮を執る.

10.05 リスボン議会に出席したブラジル代表の7議員,ポルトガル憲法を拒否し,ロンドンに亡命.

10.12 ペドロ,ブラジル皇帝に即位しブラジルに王朝を開く(戴冠式は12月1日).ボニファシオが首相に就任。

10.13 独立戦争の伝説的英雄João das Botas,イタパリカ沖でポルトガル艦隊11隻と3時間にわたる海上戦.

10.21 バイア州Conceição農園の戦い.独立派部隊がポルトガル軍の攻撃を跳ね返す.翌日には増援部隊の前に撤退を余儀なくされる.

10 新政府,トーマス・アレクサンダー・コクレイン提督,ピエール・ラバトゥ(Labatut)将軍らを雇い,北部バイア,マラニョン,パラに残るポルトガル軍との戦争に備える.コクレインはナポレオン戦争で活躍した英国軍人で,チリ独立戦争にも参加した.ラバトゥはフランス人.コロンビアで独立戦争に参加し戦った.このための資金にはリオの関税と内陸部からの寄付があてられた.

11.08 Pirajá e Cabritoの戦いで独立派が勝利.独立戦争の帰趨を決める戦いとなる.

11 独立宣言後もバイアはMadeira de Mello准将の率いるポルトガル軍が支配。他にマラニョン,パラに残留するポルトガル軍も,ドンペドロによる撤退命令を拒否.焦土作戦で混乱をもたらす一方,黒人奴隷解放の公約を示す.

12.20 ドンペドロ政府の長官ジョゼ・ボニファシオ,José Clemente Pereiraら共和主義者を国外追放処分とする.

12.21 革命的ジャーナリストのCipriano Barata,亡命先のロンドンからレシフェに到着.

12.23 イタパリカ島の戦い,独立軍の勝利に終わる.

12.28 バイアで独立軍の最終総攻撃が始まる.

 

1823年

23年3月

3.13 チリ独立戦争に加わったコクラン提督,英国人将校を従えリオ港に入る.ただちにポルトガルの支配するバイアの海上封鎖に向け準備に入る.

3.14 パラ州のポルトガル軍部隊が降伏.

3.20 ミナス州の首都ビラ・リカ,オウロ・プレトと改称.

4.09 レシフェのシプリアノ・バラータ,雑誌「Sentinela da Liberdade」を創刊.急進的民主主義,愛国主義,共和主義を訴える.

23年5月

5.03 ボニファシオやドンペドロの弟らを先頭とする議会憲法起草委員会,三権分立を基礎とする自由主義的憲法を起草.ポルトガル本国人の被選挙権剥奪,皇帝の権利は米国における大統領とほぼ同じものにとどまる.この草案をドンペドロに押しつけたことから,草案を拒否するドンペドロ派とのあいだに緊張高まる.

5.21 バイアの独立派部隊,ドンペドロの派遣したフランス人司令官Labatut将軍への服従を拒否.リオに送り返す.

5.28 ポルトガル派の拠点となっていたアマゾニアでも,Muaná (Marajó)が先頭となり,独立闘争が始まる.

23年6月

6.29 王権に厳しい制限を設けた新憲法が発効する.ドンペドロはひそかに改憲を狙う.この憲法でカピタニア制度が廃止され、プロビンシアと改称される。これは、ほぼ現在の州に一致する。

6 北部での独立戦争激化.ナポレオン戦争を戦った兵士などポルトガル側が一万~2万,ブラジル側は北東部出身の民兵を中心に1万2千~一万4千.

23年7月

7.02 アルベス・デ・リマを指揮官とする独立軍,コクラン提督の支援を受け,バイアに立てこもるポルトガル軍を攻撃し陥落.ポルトガル軍は北方に向け撤退.

7.26 コクレインは,一艦のみでポルトガル軍の最大の拠点マラニョン州サンルイス要塞のポルトガル軍を攻撃.降伏を迫る.

7.28 マラニョン州で独立軍が勝利.

23年8月

8.10 コクランの副官,ジョン・パスコ・グレンフェル提督の「パリャコ号」がパラ州に上陸.ブラジルへの帰順を迫る.

8.15 パラ州,ブラジルへの併合を受け入れる.

8.20 ドンペドロ,バイア独立戦争の英雄女性Maria Quitériaを歓迎する.

9月 ジョージ・キャニング英外相を仲介として,ポルトガルとブラジルの停戦交渉が始まる.

23年10月

10.13 反動派の巻き返しが強まる.ミナス州では独立・共和派の雑誌「Compilador Mineiro」が発刊停止に追い込まれる.

10.15 パラ州の革命派「Batista Campos」,州政府を掌握.

10.22 ドンペドロの命を受けたグレンフェル,ベレンに上陸し自由主義者256人を逮捕.船内の営倉に収監.その日の夜に射殺する.生存者はわずか4人だった.

23年11月

11.11 「苦しみの夜」(Noite da Agonia).ペドロ1世をたてる旧ポルトガル軍人が,憲法制定会議に解散を迫る.

11.12 ドンペドロ,制憲議会を解散.共和派を権力から排除し,本国出身者で周囲をかためる.議員の多くは逮捕され,ボニファシオ首相ら政府首脳は亡命においこまれる.

11.17 グラン・パラのカメターで独立軍がポルトガル軍に勝利.グランパラのブラジル帰属を実現する.

11.21 出版法が制定され,検閲が強められる.

 

1824年

3.25 ペドロが任命した国政参議会,絶対王政を柱とする欽定憲法を採択.ポルトガルの22年憲法を基本とし,三権の上に超然とし,閣僚,上院議員と最高裁判事の任命権,議会の招集・解散権,対外条約の策定,批准権を持つ王の権力を確定.米国,ブラジルを承認.

4.27 サンパウロの町に街灯がともる.

6.22 ハイチ革命の影響を受けたエミリアノ・ムンドゥルク,有色人種の戦闘部隊を組織し,レシフェで反乱を開始。

24年7月 「エクアドル連邦」の反乱

7.02 Pais de Andradeらペルナンブコを中心とする共和派,奴隷禁止に抵抗する農園主も参加し第2回目の反乱.背景に砂糖価格の低迷と黒人奴隷価格の高騰.

7.14 アンドラーデら,ペルナンブコを制圧.東北部五州の支持を得て「赤道(エクアドル)連邦」を結成.レシフェを首都として臨時政府を樹立.

7.25 ドンペドロ,非常事態を宣言.赤道連邦の鎮圧に乗り出す.

7月 ロンドンで,英国とオーストリアの立会いの下,ポルトガル=ブラジル和平会談が始まる.

8 赤道連邦,憲法を公布.奴隷貿易存続の是非を巡り,都市住民と地主層とのあいだに分裂.

24年9月

9.13 レシフェで共和派とドンペドロ軍が激突.

9.17 レシフェの戦闘はドンペドロ軍の勝利に終わる.

10.25 サルバドルにおける独立戦争の中心となった民兵部隊「Batalhão dos Periquitos」が,陰謀を企てたとして摘発される.指導者二人に死罪が言い渡される.

10.31 赤道連邦軍,CE州サンタ・ホーザで最後の戦い.部隊は壊滅し,指導者Tristão de Alencar Araripeが戦死.

11 ドンペドロ,英国軍人コクラン提督をやとい反乱を鎮圧.17年の反乱にも参加したジョアキン・アモール・ジヴィーノは,捕らえられ銃殺.

24年 英国人エドワード・オクセンフォード,ブラジルの鉱山採掘権を獲得.ロンドンに帝国ブラジル鉱業協会(Imperial Brazilian Mining Association)を設立.

24年 南リオグランデ州サン・レオポルドに初のドイツ人植民地形成.ブラジルの南方進出盛んになる.

 

1825年

1.13 ドンペドロ政府,赤道連邦の指導者で革命的共和主義者のFrei Canecaに死刑を宣告.

2月 ロンドンのポルトガル=ブラジル会談が決裂.ポルトガルは独立の交換条件として,ポルトガルの対英債務140万ポンドの肩代わり,ポルトガル王室への60万ポンドの慰謝料を要求.ブラジルは,アフリカのポルトガル植民地の併合を要求.

3.07 赤道連邦の指導者3人が,リオで処刑される.

6月 英国政府,チャールズ・スチュアート特使をブラジルに派遣.アングロ・ブラジル人通商条約の交渉にあたる.スチュアートはポルトガルの交渉権限も委託された.

8.29 ドンペドロとスチュアートのあいだに独立合意が成立.英国,ブラジル独立を承認.ポルトガルも,イギリスの強制下にブラジルの独立承認を余儀なくされる.ブラジルはポルトガルに200万ポンド支払うことを了承.このための資金はロンドンで公募される公債が当てられることとなる.5年以内に奴隷貿易を廃止する約束.この条約に対し,大地主層からは強い不満.

10 ラプラタ諸州の支援を受けたラバリェハら,アルゼンチンよりシスプラチナに侵入し独立闘争開始.ウルグアイ共和国を宣言.ラプラタ連合州とブラジルとの紛争に発展.

12.10 ドンペドロはアルゼンチンに宣戦布告.英国とのローンを延長し,外国人用兵を雇う.みずから討伐軍を編成し出動.ブラジル海軍はノートン提督,アルゼンチンは同じくイギリス人のブラウン提督を雇う.

 

1826年

1.22 50人からなる元老院が設置される.すべてが指名制で保守派が独占.これに対し下院は自由党が多数を占め、保守党に対して優位に立つ。

1月 最初の駐英大使ロドリゲス・ガメイロ・ペソアが着任し,英国政府の信任を受ける.

11月 ブラジル、英国の圧力の下,奴隷制廃止条約に署名.1830年以降の奴隷貿易が禁止される.

12.26 バイア州ウルブでゼフェリナに率いられた逃亡奴隷の反乱."Morra branco, viva negro!"を合言葉にカブラ農園を襲撃.

26 ジョアン6世死す.ドン・ペドロが本国の国王もかねることとなる.まもなくドン・ペドロは娘のマリア・ダ・グロリアにポルトガル国王の位を譲る.彼女がマリア二世として即位.弟のドン・ミゲルが摂政の地位につく.

26 オリンダとサンパウロに初の高等教育機関として法学校が設置される。オリンダ法学校はまもなくレシフェに移転。

1827年

2.07 サンパウロの新聞「Farol Paulistano」,発刊停止となる.

2.20 Passo do Rosárioの戦い.ブラジル軍はウルグアイ人部隊に敗れる.

03.13 英国との間に通商条約締結.英国はブラジル貿易の優越性を固める.さらに奴隷貿易停止条約を批准,国内の地主層の反感を呼ぶ.

3.22 バイア州カショエーラのビトリア農場で奴隷の反乱.カショエーラ全域に拡大.民兵隊の出動により鎮圧.30人が捕らえられる.

8月 英・ブラジル通商条約が成立.英国からの輸入関税を最高15%とする条項が継続される.さらに在ブラジルの英国人商人に対する裁判権も引き続き英国人裁判官が保有することとなる.

1828年

3.11 カブリトとサルバドルの奴隷達が,ピラハ(Pirajá)で蜂起.

3.12 イタポアンでジョアキン・ナゴの率いる奴隷150人の反乱.家屋を焼き警官隊と対決.20人が殺され,8人が負傷,4人が捕らえられる.

4.17 カショエーラで黒人奴隷の反乱,6日間にわたり続く.

4.21 フルクトゥオーソ・リベラの率いるウルグアイ人部隊,国境を越え南リオグランデ州のZona das Missõesまで進入.

6.12 シスプラチナ戦線の建て直しのため,ドイツとアイルランドから雇い兵が徴募される.リオ駐留の外国人雇兵部隊,激しい訓練に抗議し反乱.アイルランド人は本国に帰還.ドイツ人傭兵は南部に送り込まれる.軍兵士は1万5千にまで減少,ドンペドロは奴隷所有者や大地主の抗議を抑えるのが困難になる.

8.27 シスプラチーナ紛争,イギリスの調停により和解.両国間に緩衝国としてウルグアイを建国することで妥協.南リオグランデとの国境線も確定される.戦死者は8千名にのぼり,ブラジルは3千万ドルの戦費を費消する.ドン・ペドロの好戦政策により経済は疲弊し不満高まる.ブラジル銀行破産.

9.18 最高裁判所が創設される.

10.01 地方行政法が制定される.地方の自主的傾向を抑えるため地方議会を閉鎖.

10.12 バイア州警察,奴隷反乱の鎮圧計画を承認.

10月 ブラジル,アルゼンチン両国の了解の下にウルグアイが独立.

28 ポルトガル本国で,ドン・ミゲルによる反乱.

28 コーヒー栽培の普及に伴い,リオ地域での黒人奴隷が急増.25年の2万6千から4万3千に.奴隷制廃止論者のドン・ペドロは「奴隷制はブラジルを食い尽くすガン」であり,他人を奴隷とする権利は誰も持っていないと非難.議会と対立を深める.

 

1829年

4.17 カショエーラで新たに奴隷の反乱.反乱は5日間にわたり続き,敗北後はほとんどの参加者がそのまま逃亡.

4.23 最後のブラジル部隊,モンテビデオを離れる.ブラジルによるウルグアイ占領が終結.

9.23 ブラジル銀行,資金難から倒産に追い込まれる.ブラジル政府は一回目の公債支払いを完結できないまま,二回目の公債を発行.

10.16 バイア州のコテヒペ(Cotegipe)農場で奴隷の反乱.

12.03 リオで初の美術展が開催される.

29 ドンペドロ,奴隷船がアフリカに向かうのを禁じる布告.ミナス州選出のベルナルド・ペレイラ・デ・バスコンセロスら議会の奴隷制支持派はこの布告を無視.

29 ドン・ミゲル,自ら王位につき絶対王政を開始.ドン・ペドロはポルトガル内政への干渉を開始.

29年 英国人資本の進出が急増.クリストファー・スター,レシフェに最初の鉄工場を建設.翌年には「セント・ジョン・デルレイ」金鉱山会社が設立され,ミナス州最大の企業となる.

1830年

4.10 サルバドル市内で奴隷の反乱.奴隷市場を襲撃.50人が殺され41人が捕らえられる.

7.29 フランス7月革命が勝利する.

9.14 フランス7月革命勝利の報が,ブラジルにもたらされる.これに影響され各地で共和派の反乱.

10.02 リオのBorges da Fonseca,雑誌「共和主義者」(Repúblico)を創刊.

10.12 サンパウロの知識人,ドンペドロの即位記念日祝典への参加を拒否.

11.20 サンパウロの反政府派ジャーナリストのリベロ・バダロ,射殺される.ドンペドロの放った刺客による仕業であることが明らかになる.葬儀には5千人の市民が集まる.これを契機に,本国人偏重のペドロ1世は民心をうしなう.

 

1831年

3.13 「ビン投げの夜」事件(Noite das Garrafadas).リオでドンペドロの失政に抗議する市民の抗議行動.デモ隊はドンペドロを祝福する本国人地区に乱入.本国人はビンを投げ応酬.

31年4月 ドンペドロの退位

4.05 ドンペドロ,内閣を解散.これに抗議する群衆が王宮を包囲,ドンペドロの退陣を求め暴動となる.近衛兵の一部も暴動に参加し造反.リオの支配層はペドロを説得し退位を促す.

4.07 ドンペドロ,退位を表明.息子のペドロ親王(当時5才)に譲位.ジョゼ・ボニファシオら三人の摂政による統治(Regencia Trina Provisoria)の開始.

4.13 ドンペドロ,英艦「ウォースパイト」号に乗りリオを離れる.

5.19 ボルジス・ジ・メデイロス,「自由・独立防衛協会」(Sociedade Defensora da Liberdade e Independência)を創設.

31年6月

6.02 パラ州の第24師団が,政治的自由を求め反乱.

6.05 市民弾圧法が制定される.暴動を鎮圧するため警官隊を補助する民兵隊(国家警備隊)の設置が認められる.後に国家警察へと発展.

6.11 パラ州で「Batista Campos」が中核となり「博愛協会」を結成,合法的政治活動に乗り出す.

7.12 リオの第26旅団が反乱.帝国を揺るがす「7月危機」が始まる.

7.14 第26旅団にリオ市民も合流.自由と新政府と議会開催を求める.近衛旅団が制圧に向かう.

31年8月

8.18 国家警察が創設される.事実上大地主の私設警察として機能.反対派への襲撃やテロを繰り返す.

8.30 司法省,軍定員を3万から1万に削減する法案を議会に提出.軍の反乱を恐れたための処置.

31年9月

9.07 リオに海軍兵器庫が作られる.

9.14 レシフェに駐留軍が置かれる.反対闘争により300人が死亡.

9.28 リオの劇場で,反乱者による銃の乱射事件.

31年10月

10.06 シプリアノ・バラタ,リオで革命部隊「Ilha das Cobras」の結成を企てたとして逮捕される.

10.27 政府,奴隷制廃止法案を提出.先住民保護法も合わせ提出される.

11.07 政府,イギリスの圧力により奴隷輸入禁止法を策定,奴隷貿易を禁止.奴隷使用者の抵抗で実施が先延ばしされ,密貿易はその後逆に拡大.

1832年

2.16 サルバドルで自由派将校の反乱.

2.19 カショエーラで連邦主義者が権力を掌握.

4.04 チャールズ・ダーウィン(当時23歳),世界旅行の途中リオに上陸.奴隷制に驚愕し,キロンボを賛美する.

4.14 ペルナンブコで市民の反乱(4月蜂起)

10.23 パライバ州で低い給料に抗議する下士官・兵士の反乱.

1833年

1.09 南リオグランデ州マリネイロス島のキロンボを警察が襲撃.指導者のルカスを殺害し10名を捕らえる.

33 支配層内部に深刻な分裂.ボニファシオは後見を解任され,逮捕される.帝国議会はイタナエム侯マノエル・イナシオ・デ・アンドラーデ・ソト・マヨールを後任に選出.

1834年

1.16 革命の古参兵バジリオ・トレオン,北リオグランデで初の雑誌「アテネウム」を発刊.

5.30 クイアバで特権的なポルトガル人商人に対する水夫の反乱.

9.24 ドン・ペドロ,ポルトガル制覇をなしとげたあと肺結核で病没(34歳).これにより国内のペドロ派は衰退.

8.06 アンドラーデが単独摂政となる.帝政を維持しながら地方反乱の収拾を図るため憲法修正令.連邦制を導入.自治体の財政権限を強化する憲法修正を実施.中央政府の権威は大幅に減退し,各州の自治が拡大.

34年 大都市で選挙が施行され、連邦制を唱える自由党が圧勝。

1835年

35年1月 ベレンの反乱

1.07 パラ州ベレンで広範な市民が参加する反乱が成功.ポルトガル人支配勢力を駆逐し,コミューン型政府「Vitória da Cabanagem」を樹立.反乱は3年間にわたる.下層階級の人々がたたかいの中心となり,先住民や自由黒人,逃亡奴隷なども参加.

1.24 バイアでイスラム教徒(マレス)が市街焼打ちと蜂起の計画.黒人奴隷千5百名が参加する予定であったが、事前に発覚し失敗(マレスの陰謀).

1月 アグア・ミニーニョスの戦いで,100名が死亡,281人が捕らえられる.

35年2月

2.19 政府軍艦隊がベレンを砲撃.フェイジョー法相は,反乱鎮圧と秩序回復のため地方有力者を「大佐」(コロネル)に任命.配下の人間を中心に民兵隊グアルダ・ナシオナルを創設させる.その後、地方ボスが全国政治を支配する「コロネリスモ」の源流となる.

2.21 政府軍がベレンを制圧.Francisco Vinagreが行政長官に就任.ベレンの人民権力はCarneiroを議長にすえ,抵抗を継続.

5.14 サルバドルで「マレスの陰謀」の首謀者五人が銃殺される.Gonçalo, Joaquim,Pedro(奴隷), José Francisco Gonçalves,Jorge de Cunha Barbosa(自由黒人).

35年8月 ベレンの市街戦

8.14 政府軍部隊がベレンを攻撃.9日間にわたる市街戦を展開.三隻の軍艦がカバナゲムの拠点を砲撃.

8.23 カバナゲム政権,議長を交代.最急進派のEduardo Angelimが議長に就任.あくまでも抵抗を続ける決意を示す.

35年9月 ファルピーリャス戦争の開始

9.19 南リオグランデ州で急進派の反乱.州都ポルトアレグレを制圧.王政を拒否し,共和制と連邦制,奴隷制廃止を掲げる.主力はファラッポス(Farroupilha)と呼ばれる牧場主たち.浮浪児の意味.

9.27 ファラッポスと政府軍,セリート(現ハグアラオ)で最初の対戦.

10.14 リオ=ニテロイ間の蒸気船航路が営業開始.

1836年 

4.09 アマゾニアでカバナゲムに対する政府軍の掃討作戦.

5.13 カバノス,ベレンを放棄しジャングルへと逃れる.政府軍はこの後の五年間で4万人を殺害.

6.15 ファルピーリャス,ポルト・アレグレを撤退.

9.10 ファルピーリャス,セイバルの戦いで政府軍を撃退.

9 ファルピーリャス,ハグアラオ(Jaguarao)に政府を樹立.ベント・ゴンサルベス・ダ・シルヴァ(Bento Gonçalves)が大統領に就任.イタリア統一の志士リヴィオ・ザムベッカーリが参謀総長に就任.十年間にわたる戦いとなる.

10.04 ベント・ゴンサルベス,ファンファの戦いに敗れ囚われの身となる.

10.30 カバーノの指導者エドゥアルド・アンヘリム,アカラ高地の先住民の部落に潜伏中を捕らえられ,ベレンに連行される.

11.06 南リオグランデ州とサンタカタリナ州のファルピーリャス,ピラティーニ村に集結.ウルグアイと共同しリオグランデ共和国成立を宣言.

36年 バルバセーナを団長とする使節団,ロンドンを訪問.通商条約の改定を求めるが不調に終わる.

1837年

3.18 摂政府,「出版の自由に関する犯罪」を罰する政令を布告.

4.08 Sousa Neto の率いるリオグランデ軍,Caçapavaの戦いで政府軍を撃破.540人を捕虜とする.

5 ブラジル亡命中のジュゼッペ・ガリバルディ,共和思想に共鳴しリオグランデ独立のたたかいに参加.「マッツィーニ号」でブラジル船の襲撃を繰り返す.

9.10 ベント・ゴンサルベス,バイアのマール要塞からカヌーで脱走.リオグランデ軍に復帰.

37年10月

10.11 急増する移民労働者に関して最初の法律が制定される.

10.31 Bento Ribeiro e Canabarroの率いるリオグランデ軍,リオグランデ州Espinilho, Cruz Alta,PR州 Em paranaguáで相次ぐ勝利.

37年11月 サビナーダ(バイーア)の反乱

11.07 サルバドルで「サビナーダの反乱」勃発.首謀者のフェルナンド・サビーノがバイア人共和国を宣言.黒人回教徒を中心とする部隊が1年にわたり反乱を続ける.

11.30 政府軍,カンブリト,カンピーナでサビナーダを破る.

12.04 サビナーダの重要拠点イタパヒペ(Itapagipe)が政府軍の手に落ちる.

37年 摂政フェイホ(Feijo)が辞任。議会内自由党はペドロ2世の担ぎ出しに動く。(アンドラーデが摂政だったはずだが…ss)

1838年

3.13 政府軍,サルバドルへの攻撃を開始.

3.16 サルバドル,政府軍の手に落ちる.サビナーダ戦争終結.この間の戦闘で死者千名,逮捕者3千名.

4.30 ファラポス,激戦の末Rio Pardoを確保.この戦闘で政府軍の犠牲者は一千名を越す.

5.18 ペルナンブコ警察,Serra Talhada山中の宗教共同体を捜索.29人を殺害.

9.05 ファラポス,革命の目標を明らかにする綱領を発表.

10.21 リオにブラジル歴史・地理研究所(Instituto Histórico e Geográfico Brasileiro)が設立される.

11.01 ウルグアイに大統領制が敷かれ,ファラポスの盟友フルクトゥオソ・リベラが初代大統領に就任.

12.11 ルイス・アルベス・リマ・エ・シルバ少佐 (将来のカシアス公),Sta Catarina, RJのキロンボ集落を弾圧,指導者のManuel Congoを捕らえ殺害.

12.21 ファラポス,アレグレテに政府評議会(Conselho de Municípios)を設置.

1839年

39年3月 バライヤーダ(マラニョン)の反乱

3.07 マラニョンで黒人ら下層民衆の白人に対する反乱.逃散農民,牧童,職人,黒人奴隷など5千人が蜂起.指導者が篭作りのムラートだったため篭作り(バライヤーダ)の反乱と呼ばれる.当時州内最大の町カシアス(Caxias)を襲撃した後キロンボにたてこもる.1年にわたる抵抗を続ける.

8.01 バライヤーダ,ふたたびカシアスを攻撃.マラニョン州東部全域と,隣接するピアウイ州の北西部を支配.

9.24 ガリバルディ,サンタカタリナ州の湖沼地方を確保,ジュリアナ共和国を宣言.

ぽっぽさんから「ジュリアナ共和国建国なんて、どの文献にも見られません。本当ですか?」とのメールをいただきました.どこから引っ張ってきたのか,記憶がまったくありません.とりあえず,検索エンジンで調べたところ,39年から40年にかけてファラポスが作った国のことで,正式名称はカタリーナ共和国,39年7月に建国されたことからジュリアーナ共和国とも呼ばれる…とのことでした.「ガリバルディが造った」とまで言えるかどうか,少し調べてみなければなりません.

11.04 カバナゲムの生き残りに対し,恩赦令が発せられる.

11.15 ガリバルディ,反撃にあい湖沼地帯から撤退.

12.12 アルベス・デ・リマ,マラニョン州長官兼軍司令官に任命される.2年間にわたる戦闘の末,バライヤーダの反乱を鎮圧.

12.20 政府軍,リオグランデで反攻.Rio Pardoをふたたび確保.

39 イギリス,奴隷貿易法(Palmerston's Act)を制定.奴隷売買は人類一般に対する犯罪であり,外国船でも取り締まることができるとし,西アフリカ沿岸でポルトガル奴隷船を次々拿捕.2年間で150隻がだ捕.

39年 トーマス・コクラン(コクラン提督のまたいとこ),リオデジャネイロ=サンパウロ間の鉄道建設を企画.

1840年

3.03 ファラポス,タクアリ(Taquari)の戦いに敗北.

3.25 政府の恩赦に応じ,カバナゲム残党980人が投降する.

6.18 ライモンド・ゴメスの率いるバライヤーダ部隊300人が,アマゾン航行中の蒸気船を攻撃.

7.23 ペドロ2世.皇帝に即位(一説に41.7.18).これにともない摂政廃止.自由党と保守党が交互に政権を担当することとなる。連邦制度を定めた34年憲法修正を廃し,中央集権を強める.国内政治は安定へ向かう.

8.22 政府,皇帝即位を期にカバナゲム,ファルピーリャ,バライヤーダなどに対し大赦令を発する.ただし国外退去を条件とする.

11.16 Antonio Netoの率いるリオグランデ軍,サンフェリペの戦いに勝利.

40 リオデジャネイロ周辺のパライーバ川流域のコーヒー生産さかんとなる.

40 ブラジルの実業家マウア,イギリスを訪問.マンチェスター銀行との連携に成功,鉄道建設の決意を固める.

 

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