ブラジル年表 その2

ブラジル年表 その1    ブラジル年表 その3     ブラジル年表 その4

 

1800

1841年

1.19 Lima e Silva,バライアーダがマラニョンから完全に駆逐されたと宣言.これまでに5千人が死亡.

12.10 政府,共和主義を唱えるミナス州バルバセナ出身の議員を資格停止処分.

1842年

4.05 バライアーダの最後の指導者Cosme Bento das Chagas(40歳),マラニョン州 Itapicuru-Mirimで捕らえられる.彼は Caxias 当局から「悪漢コスメ」と呼ばれていた.彼は民衆の自由と文化のために戦った.リオ・プレトの先住民部落に潜んだコスメは,そこに学校を建てた.

5.17 サンパウロ州のソロカバで,共和主義者の反乱が起こる.

7.10 ミナス州のバルバセーマで共和主義者の蜂起.市の権力を掌握.

8.07 リオにブラジル法律家協会(OAB)が設立される.

8.08 カシアス男爵ルイス・アルベス・デ・リマ・エ・シルバ,陸軍元帥に任ぜられ,ファルピーリャの反乱部隊との交渉にあたることとなる.

8.20 ミナスに出動したカシアス,サンタ・ルイザで共和派を撃破.共和派残党はサンパウロ州のパライバ渓谷に結集.Luzias(ロシア人?)と呼ばれる.

42 レシフェで農園主と商人の横暴に対する抵抗組織を結成.最初の階級的運動となる.プライア街を根拠地としたことからプライエイロと呼ばれる.アントニオ・ペドロ・デ・フィゲレードが指導.フィゲレードはムラートで「フスコ卿」とか「黒い貴族」などの俗称を持つ.

42 ペドロ二世,自由派が多数を占める下院を解散.再選挙では開票操作により帝政支持派が多数を占める.

1843年

3.05 ファラポス共和国とウルグアイのリベラ大統領,相互防衛条約を結ぶ.

3.17 カシアス,ファラポスに対し武装を解くようメッセージを送る.

3月 英国,ヘンリー・エリスを代表とする使節団を派遣.通商条約再会と奴隷制廃止をセットにし,その実現を迫る.交渉は物別れに終わる.

4.13 奴隷運搬船 「Progresso (!)」号,奴隷 400 人を乗せブラジルに向かう途中,嵐にあい座礁.54人が死亡.

5.17 27年の英伯条約,期限を終える.その後再調印は行われず.ブラジルはアルベス・ブランコ関税法により税率を15%から60%に引き上げる.その後,この保護関税政策により国内産業が発展.

5.26 ファラポス軍,Ponche Verdeの戦いで敗北.

43 アマゾン川に蒸気船による航路開設.

1844年

8月 公債償還のため,輸入関税を引き上げ.関税率は30%から50%に達する.

10.07 パラグアイとの間に通商条約締結.国境紛争を終結し,河川の通行権の相互保障で合意.

11.14 ポロンゴスの戦い.アルベス将軍の率いる帝国軍に敗れたファラポスは,壊滅的打撃を受ける.武器・弾薬が尽きたファラポスは,Vicente de Fontoura議員を通じ停戦交渉を打診.

11月 ブラジル側の主張が認められ,1827年の対英不平等条約が破棄される.

1845年

2.25 ポンチェ・ベルデで,帝国軍司令官カシアスと,ファラポス代表カナバーロとの間で停戦交渉.独立を断念する代わりに革命参加者の地位,階級の保障を実現.革命のために戦った奴隷の解放も保障される.

2.28 ポンチェ・ベルデの和平成立.高貴な「ガウチョ」の地を血で染めた血肉の争いに終止符.アルベスは反乱軍の幹部に恩赦を与え軍幹部に登用したことから,軍での影響力を強化.「ブラジル軍の父」と呼ばれ公爵にまで上り詰める.

3月 イギリス,ブラジルがさまざまな口実を設けて奴隷制廃止をサボることに憤激.海軍に,ブラジル領海内のみならず港湾にまで踏み込んでの奴隷船だ捕を指示.

8月 英議会で政府の行動を追認するアバディーン法が成立.ブラジルの奴隷船を海賊船とみなし,英海軍に逮捕・連行・軍事裁判を行う権利を与える.この後,5年間で400隻の奴隷船が拿捕される.この強硬策にもかかわらず,年間5万から6万の黒人奴隷が密輸入される.

46.11.19 フランス人技術者ルイ・レジェ・ボーティエ(Louis Lèger Vauthier),ブラジルに渡り社会主義(フーリエ主義)を広める.

1847年

6.24 自由黒人(ムラート)の Estêvão Pimenta,リオ州のコーヒー農園「Vassouras」で蜂起.

7.06 南リオグランデで警察による逃亡奴隷の一斉取締りが始まる.コウトでは2人が殺され,6人が捕らえられる.残るすべては,さらに奥地へと逃亡.

1848年 プライエーロの反乱

2.22 欧州で二月革命が勃発.これに影響を受けたペルナンブコの政治結社「Revolução Praieira」左派は,社会主義を支持する運動を開始.

6 プライエイロがペルナンブコ州議会に提出した「ブラジル人雇用法」,議会を通過.州政府はこれを無視.

7.20 帝国政府の最高位として,首相職が新設される.

11.07 プライエーラ,武装闘争を開始.

11.17 ペルナンブコのカショエーラ農場でプライエーロと国家防衛隊(GN)が武力衝突.

1849年

1.01 Borges da Fonseca,立憲政治,普通選挙,労働者の権利などプライエーラの目標を記した国際宣言を発表.

1.11 プライエーラ,Pedro Ivoの指揮の下Guerra das Matasを展開.ペルナンブコ南部でプライエーラ襲撃を企てたカモリムの農場を奪取.ここを拠点に2年間にわたりゲリラ闘争を継続.

1.27 プライエーラ,Tapiçumaで政府軍を奇襲攻撃.

2.02 プライエーラ,レシフェ奪取を狙い攻撃開始.ペドロ・イヴォは総攻撃には参加せず,Jacuípeでのゲリラ戦を継続.

3 プライエイロの組織した2千の都市貧民,2月革命の影響を受け,大地主支配に反対する共和革命の旗をかかげ,武装してレシフェ市内に突入.市街戦のすえ壊滅.これを機に保守党と自由党右派は妥協し,急進派を排除した「妥協政権」体制にはいる.

3.19 エスピリト・サント州サンホセ・ドス・ケイマドスで奴隷の反乱.首謀者5人が処刑される.

4.04 ペルナンブコ州Água Pretaでプライエロ454人が投降.

5.05 ドイツ人入植者,サンタカタリナ州にJoinvilleの町を建設.

8.04 ファラポスとともに戦ったアニタ・ガリバルディ,亡命先のスイスで病死.

12.07 エスピリト・サント州Queimadosで,とらわれていた奴隷が,蜂起とともに集団脱走.

1850年

1.08 Queimados蜂起の指導者João,絞首刑となる.

1月 英艦船,ブラジル沖で最大規模の奴隷船取り締まり作戦.

3.22 Pedro Pereira下院議員(詩人),最初の奴隷廃止法を提案.議会はこれを審議せず.

4.20 アグア・プレータにおけるプライエーラの指導者Pedro Ivo Veloso da Silveira, リオのラヘス要塞から脱走に成功するが, 亡命に向かう途中船中で死亡.

4.22 英外務省,海軍に奴隷船取締りの更なる強化を指示.捜索のためであれば,ブラジル領海内であろうと,港湾内であろうと立ち入る権限を与える.英艦コモランタンド号は,パラナグア要塞に突入し,ブラジル軍とのあいだに砲撃戦を展開する.

5.03 プライエーロに対する恩赦が発布される.

7.30 パラ州で民衆暴動.英艦コルモラント号が奴隷船を捕獲したことに抗議しメル要塞を攻撃.

9.04 イギリスの圧力下に,奴隷船を海賊行為と認める「エウセビオ・ケイロス法」成立.アフリカからブラジルへの黒人輸入を完全禁止する.

9.05 リオ・ネグロ流域,ブラジル領を宣言され,パラ州に編入される.

9.18 土地法成立.土地の購入に限度額を制定する一方、共有地の所有関係を「近代化」し,大地主の土地獲得に道を開く.同時に海外移民を呼び寄せる武器となる.

50 イギリス資本によるコーヒー生産が爆発的増加.ジャワを抜き世界一となる.労働力不足に悩むリオ近郊のコーヒー地帯では,バイアから大量の黒人奴隷を買い付け.これにともない黒人奴隷の価格が高騰.

50年 ブラジルの輸入品の50%を英国産品が占める.ブラジルは英国にとって米・独に続く市場となる.

1851年

4.20 プライエーロ指導者Pedro Ivo,リオのラヘス要塞から脱獄に成功.

11.28 プライエーラに対する大赦.

51 ヨーロッパとの間に蒸気船による定期便が運行開始.政府はリオ港の大規模な改良に着手.

1852年

1.22 ペルナンブコ州Paudalhoで, Marimbondosの反乱が発生.

3.02 Pedro Ivo,パライバ州に向かう船上で死亡.

8.29 ブラジルの新興財閥マウア男爵,リオデジャネイロ・ペドロポリス間にブラジル最初の鉄道建設を開始.

10.16 Helder Camaraの呼びかけで,リオにブラジル全国司祭会議(CNBB)が設立される.

52 マウア,アマゾン蒸気船会社創立.

52 ブラジル,アルゼンチンに干渉.ロサス打倒を援助.

1853年

8.21 独立戦争の英雄女性,バイアのキテリア・マリア・デ・ヘススが忘れられたまま死亡.

1854年

04.30 リオの鉄道が営業を開始.鉄道時代の開始.

1855年

1.19 帝国政府,ロンドンに大使を派遣.黒人奴隷の代わりとして中国人を輸入する契約を結ぶことを目的とする.

6.11 ペドロ二世鉄道(現中央鉄道)の建設開始.

10.13 209名を載せた最後の奴隷船が,ペルナンブコ州セリニャエムに入港.過去三世紀にわたり3ないし15百万の奴隷がブラジルに持ち込まれる.

55年 ロスチャイルド家がブラジル政府の財政代理人に指名される.

56.12.24 サンパウロ州イビカバに入植した白人,労働実態が事実上の奴隷に等しいとして抗議.

1857年

3.09 サンパウロ州リメイラ農場の白人入植者,「新奴隷制度」との戦いに勝利.戦いの記録はトマス・ダヴァッツの「Memórias de um colono no Brasil」として残される.

1858年

1.09 リオの三つの出版社の印刷工が,ブラジル初のストライキを決行.

1.09 リオに最初の成人のための夜間学校が設立される.工芸学校(Liceu de Artes e Ofícios)が設立される.

1.10 印刷工組合,最初の機関紙「Jornal dosTipógrafos」を発行.

3.18 リオ=ペトロポリス間に初の舗装道路.

59.12 サンパウロとサントス港を結び,コーヒーを輸送するサンパウロ鉄道会社が創立される.

1860年

5.11 ガリバルディ,シシリアで祖国統一戦争を開始.

11.24 サンパウロとサントスを結ぶ鉄道建設が開始される.

1861年

4.12 米国で南北戦争が始まる.4年間で62万人が死亡.

1862年

3.17 イギリス海軍将校3名が暴行事件を起こしてブラジル官憲に逮捕される.英国大使ウィリアム・ダグラス・クリスティーは,ブラジルに対し最後通牒を送る.「クリスティー事件」と呼ばれる.

6.18 ペドロ二世は,世論の支持を背景にクリスティー大使の抗議を拒否.英国艦はクリスティーの指示に基づきリオ港外でブラジル船数隻を拿捕.

12.30 イギリス艦船が6日間にわたりリオ港を封鎖.国交断絶に発展.

1863年

4 ウルグアイで,クーデターにより大統領の座を追われたコロラド党のフローレス,ミトレの支援を受け侵攻開始.パラグアイはブランコ党を,アルゼンチンとブラジルはコロラド党を支持して内紛に介入.ソラノ・ロペス,ウルグアイの中立と安全の維持は死活問題であるとし,ブラジルの介入には対抗措置を講じると警告.

6 ブラジル,イギリスと断交.

12 ブラジル,ウルグアイ居留民の安全がブランコ党政府のため脅かされているとして,フローレス軍支援のため軍事介入.

1864年

1.07 パラグアイ戦争のために国民義勇軍が結成される.多くの地主が黒人奴隷を供出.

4.09 プライエーラ革命の指導者アントニオ・ボルジス・デ・フォンセカが死亡.

8 ブラジル,アルゼンチンの支持を得た上でウルグアイに軍を進出.アルゼンチンもブラジルの干渉を支持.この時点でウルグアイ国土の1/3を400家族のブラジル人地主が支配.ブランコ党はパラグアイに援助を要請.

9.10 リオのソウト・イ・シア銀行が支払停止に追い込まれる.

11.11 パラグアイ,パラグアイ河に停泊中のブラジル艦船マルケス・デ・オリンダ号を拿捕.

12.05 ブラジルの軍艦Tamandaré号がウルグアイのPaissandúを砲撃.

12.26 ソラノ・ロペス,ブラジル領マトグロッソ南部に侵入.この時点でブラジル軍1万8千に対しパラグアイは6万4千の常備軍を配置.

12月 ソラノ・ロペスはCorrientesにパラグアイ軍を駐留させるようアルゼンチンに要請.アルゼンチンはこれを拒否.ロペスがあてにしたアルゼンチン東北部の大地主たちは動かず.

1865年

1 パラグアイ軍,ミシオネスを通過してブラジル領南リオグランデ州に侵入.

2.20 ブラジル軍,モンテビデオを包囲.ブランコ党政権を敗北に追い込む.

4 パ軍,アルゼンチンのミシオネス州の首都コリエンテスを占領.

5.01 ブラジル,アルゼンチンと,ウルグアイのコロラド党政権とのあいだで三国同盟成立.パラグアイ包囲網を形成.

6.11 ブラジル海軍,リアチュエロで,パラグアイの艦隊を撃破.Riachueloはアルゼンチン領コリエンテスに接するパラナ河沿いの港町.

8.13 アナ・ネリ,パラグアイ戦争に従軍看護婦として志願.

9.23 ブラジルと英国,国交を回復.

9月 ロスチャイルド家,ブラジル政府に対し700万ポンドを融資.パラグアイ戦争の戦費にあてられる.英国の武器承認は最新兵器をブラジルに売却.

9 三国同盟軍,リオグランデ・ド・スルに進出したパラグアイ軍を撃退.パラグアイに対し和平を提案するが,ソラノ・ロペスはこれを拒否.

65年 リバプールのランポート&ホルト社,ブラジルとのあいだに定期航路を開設.コーヒー流通のシェアを独占.

1866年

1月 連合軍はパラグアイにつながる川をすべて封鎖.

4月 ミトレ連合軍総司令官,南西部パラグアイに侵入.パラグアイ軍の激しい抵抗に会い,2年の間前進を阻まれる.

5.24 ウマイタのたたかい.2万のパラグアイ軍のうち1万3千が戦死.正規軍は崩壊.

5月 連合国,Tuyutiのたたかいでパラグアイ軍を破る.

7.15 パラ州の解放運動の創始者フェリペ・アルベルト・パトローニ,亡命先のリスボンで死亡.

7 ペルー,チリ,エクアドル,ボリビア,戦争はラテンアメリカの兄弟同士の争いであり,パラグアイの主権に対する侵害であると非難.

9.12 ソラノ・ロペス,ブラジルに停戦を申し入れる.ブラジルはこれを拒否.

9.22 パラグアイ軍,クルパイティ(Curupayty)において同盟軍1万9千と対決.激戦の末,勝利を収める.ミトレはアルゼンチン国内の戦争反対論に押され,いったん兵を引き揚げる.その後ほぼ1年の間,連合軍は新たな進攻作戦を停止.残されたブラジル軍は,リマ・エ・シルバ将軍の下パラグアイ攻撃を続ける.

11.06 パラグアイで「祖国のために戦う」すべての奴隷に対し解放令.戦死者16万人のうち9万人が黒人だったとされる.

12 米国,停戦の仲介を申し出るが,ブラジルはこれを拒否.

1867年

2.01 Pimenta Bueno,奴隷制の段階的廃止を提唱.

3.27 ボリビアとの間にアヤクーチョ協定締結.ブラジルはアクレのボリビア帰属を承認.

67 サンパウロとサントス港を結ぶ鉄道が開設.以後コーヒーの主産地はサンパウロに移る.

1868年

1.23 コーヒー農園のためのサンパウロ鉄道会社が設立される.

1月 ミトレ,同盟軍総司令官を辞任.ブラジルのカシアス将軍が総司令官に就任.

2月 ブラジルの装甲艦,パラナとパラグアイ川の合流点ウマイタ要塞を攻撃.守備隊を撃破.アスンシオンに進み艦砲射撃を開始.

8.16 Acosta Ñuの戦い.パラグアイ軍の残党4千が,ブラジル軍2万の前に敗北し壊滅.

9.07 サルバドルで「9月7日奴隷制廃止協会」が設立される.

12月 ロマス・バレンティナスのたたかいで,パラグアイの軍は完敗.

68 サントス=サンパウロ間に鉄道開通.サンパウロ周辺のコーヒー栽培が爆発的に増加.

1869年

1 アスンシオン陥落.ソラノ・ロペスはマットグロッソに撤退し,さらに1年以上にわたり抵抗を続ける.

10.31 サンパウロでGazeta de Caminhasが創刊される.コーヒー農園で働く黒人奴隷の組織にあたる.

69年 イギリス,アバディーン法を廃止.

1870年

3.01 敗走中のソラノ戦死.パラグアイ戦争終結.78年までブラジルの占領下に置かれる.戦前およそ525,000人の人口が,1871年にはおよそ221,000人に減少.男性の96.5%が死亡,わずか28,000人となる.国土のうち140,000平方kmが,連合国に割譲される.同盟国側にも27万の死者.ブラジルは15万人が死に,6万5千が死亡.2億ドルの戦費をつぎ込む.

3.13 リオで奴隷制廃止協会が発足.

4.08 Bernardino Caballero連隊,Bela Vista, MTにこもる最後のパラグアイ部隊を殲滅.

9.12 議会,54対21でTeixeira Júniorの提案した奴隷制廃止法案を否決.

12.03 Quintino Bocaiúva ,サンパウロ共和主義者宣言を発表.

70 ブラジル軍の主力であった黒人奴隷の多くは,奴隷の身から解放される.陸軍の士官・将校たちで組織された軍人クラブ,「軍隊は逃亡した奴隷を捕らえるためには動かない」という声明を発表.自由黒人となった彼らは,同時に職をうしない,奴隷解放運動の闘士となる.軍もこれに同情的な立場をとる.

70 メキシコのレフォルマを受け共和主義がふたたび活発となる.君主制と奴隷制の廃止を目指す自由党左派,リオで共和クラブを結成.「我々はアメリカに住み,アメリカ人でありたいと望む」と宣言.各地に支部を拡大する.

1871年

3.15 バイアで奴隷制廃止論者の機関紙「アボリショニスタ」が発刊される.

8.29 リオ・ブランコ内閣,ブラジルで奴隷の子は自由であるとするベントレ・リブレ(自由な子宮)法を議会に提出.8歳までは奴隷主の養育にゆだねられ,そのあと21歳までは,補償金を払わない限りお礼奉公が義務付けられた.この時点でブラジルを除くほとんどのラテンアメリカ諸国は,奴隷解放完了.

9.28 ベントレ・リブレ法,61対35で議会で成立.背景に軍部の強い圧力.

1872年

1.09 パラグアイとの国境条約締結.ブラジルはイタチン地方を割譲させる.

8.01 初の国勢調査が行われる.この時点でブラジルの人口は9,930,478 人,うち奴隷は1,510,806人.

72 実証主義を信奉するベンジャミン・コンスタント大佐,陸軍士官学校教官に就任.

1873年

1.26 共和主義者を糾合する連邦共和国クラブ(Clube Republicano Federal)が結成される.

4.18 サンパウロの中道右派政党ITU,大会を開き連邦共和国クラブへの加入を決定.これを母体に共和党が結成される.

12.24 IF州のカペラ.ロサリオ地方で,キロンボの掃討作戦が展開される.

73 イタリアからの移民が急増,ポルトガルからの移住者を上回るようになる.

73年 ヘンリー・ウィッカム,パラ・ゴムの種子をひそかに持ち出し,ロンドンのキュー(Kew)国立植物園に移植することに成功.

1874年

6.20 600名の兵士が南リオグランデ州フェラブラス,サン・レオポルド地方のキロンボを攻撃.

10.14 パライバ州カンピニャ・グランデ,ファグンデスで,重税に反対する Quebra-Quiloの反乱が発生.政府は600人の部隊を送りこれを鎮圧.

74 大西洋をまたぐ海底ケーブルが営業開始.

74 反キリスト教の立場から世界の終末を説くブードゥー教コンセレイロ(顧問=預言者)のアントニオ・コンセリェイロ(本名アントニオ・マシェル)に率いられたブードゥー教狂信者,バイア州の奥地カアティンガ地方の小村カヌードスに居を定め本格的な布教を開始.神権政治をおこなう大集落を形成.

74 ブラジル,奴隷の子女の解放と積極的誘致策により移民激増.

74 この年,ブラジル人口が一千万人を超える.うち選挙権を持つものは1割にとどまる.

1875年

5.12 ブラジルを金融危機が襲う.ブラジル銀行は支払いを停止.マウア銀行は和議を申請.

75 パラグアイ戦争の英雄カシアス公,ブラジル政府首相に就任.絶対王政のもと富国強兵を目指す政府と,教会との間で王権の範囲をめぐり論争.

75 労働力不足に悩むサンパウロのコーヒー農園,奴隷解放までのあいだに15万人の移民を受け入れる.

76 英国人ヘンリー・ウィッカム、パラ・ゴムの木の種子を英国に持ち出す。種子はロンドンのキュー植物園で人工栽培され,ビルマ・セイロン・マレーシアに移植される.

77 セアラ州を中心に3年間続く大旱魃.同州人口の半分にあたる50万人が飢餓と伝染病で死亡.生き残った人々もアマゾン流域に移動.黒人奴隷は南部へ転売される.

78 ブラジル,パラグアイ占領を終結.

1879年

3.05 バイア選出のJerônimo Sodré議員,議会で奴隷制度廃止キャンペーンを開始.

3.15 移民労働者の雇用契約に関する規正令が交付される.

3.23 ムラートのVicente de Souza,リオで奴隷制廃止会議を設立.

12.29 リオの王宮前で4千の市民が重税反対行動,バリケードを築き官憲と対決.共和主義急進派のロペス・トロバンが指導.4人が死亡するが税の撤回に成功.

1880年

3.07 リオで商業従業員協会(Associação dos Empregados do Comércio)が創立される.

7.09 ペルナンブコ選出のジョアキン・ナブコ議員ら,リオでブラジル奴隷制反対協会(Sociedade Brasileira Contra a Escravidão)を設立.強力な奴隷制廃止運動を展開.

7.25 奴隷制反対勢力がリオのサンルイス劇場で大会を開催.José do Patrocínioが議長を務める.

8.30 議会,ナブコの提案した80年までに奴隷制を廃止する法案を77対16で否決.

12.17 リオ州,州外からの奴隷買い付けを禁止.

80 カシアス公,死亡.軍内で共和派の若手将校が浮上.

1881年

1.09 セアラ州の漁師でムラートのジョゼ・デ・ナシメント,奴隷輸送拒否の運動「ジャンガデイロス」を組織.セアラから南部への奴隷移送が不可能となる.ナシメントは「海の龍」と讃えられる.

5.26 セアラ州マラングアペの議会,奴隷制廃止を決議.

81 王室の統治能力,一段と弱体化.革命までのあいだに内閣は10回も更迭され,議会は三度にわたり解散される.

1883年

1.01 セアラ州アカラペ,市内のすべての奴隷(116名)を解放.

5.10 穏健派10団体による「奴隷制廃止連盟」結成.奴隷制の段階的廃止を目指す.運動は全国的な広がりをみせる.

1884年

3.25  セアラ州,奴隷制廃止を宣言.南部への人口流出を食い止めるためといわれる.

6.04 ソウザ・ダンタスの進歩派内閣が成立.奴隷制廃止に向けて動き出す.文民出身の軍事相,軍将校が公開で政治がらみの文章を発表したり発言するのを禁止.軍関係者はこの決定に対し一斉に反発.

7.01 リオで開かれた「農業クラブ」(Clubes da Lavoura)の全国総会.「奴隷制擁護」を決議.

7.15 政府,Sexagenário法案を議会に提出.65歳以上の奴隷をすべて解放するというもの.サライバ=コテギペ(Saraiva-Cotegipe)が起草.

84 サンパウロで州独自の移民条例が成立.渡航費用を州が負担する移民奨励策.ヨーロッパの白人が大量に移入.

85.9.28 Sexagenário法成立.65歳以上の奴隷がすべて解放される.この時点で奴隷の数は120万人,その後3年間で50万人が解放される.この頃,黒人奴隷の大量逃亡が各地であいつぎ,奴隷制は事実上崩壊.

1886年

6.01 ダンタス内閣,奴隷制度廃止の期限を91年から89年に前倒し.

6.30 トスカニーニ,リオ・デ・ジャネイロで歌劇「アイーダ」を振り,指揮者としてデビュー.

86年 ロイヤル・メールラインの社員チャールズ・ミラー,サンパウロで最初のフットボール・チームを組織.

1887年

1.03 リオ州カンポスで,奴隷制度反対のデモが暴動化.コテヒペ(Cotegipe)政権はこれを弾圧.

2 リオ・グランデ・ド・スル軍団司令官マヌエル・デオドロ・ダ・フォンセカ元帥,ジョゼ・アントニオ・コレイア・デ・カマラ将軍ら,共和主義の立場から政府に圧力.国防相が辞任を余儀なくされる.フォンセカは「軍は奴隷制廃止論者でなくてはならない」と宣言.

5.31 パラ州ベレンに共和主義クラブ設立.当初より急進化の傾向をしめす.

6.26 リオに軍人クラブが設立される.士官学校教官コンスタントが教え子を中心に組織したもの.奴隷制廃止と帝政打倒・共和制実現を掲げて運動を強める.

6.30 リオで共和主義者の全国大会が開催される.

10.26 軍人クラブ,逃亡奴隷に対する捜索・摘発をやめるよう王室に要請.

1888年

2.10 ジョアキン・ナブコ,教皇レオ13世と会見.教皇は,奴隷制を非難する声明を出すと約束.

2.12 リオ州ペトロポリスのカーニバルで,奴隷制廃止のデモが官憲と衝突.

2.25 サンパウロ議会,政府に対し奴隷制の即時廃止を要請.

2.28 軍の圧力ますます強まる.奴隷制維持を図るコテヒペ内閣は崩壊.João Alfredoが新首相に就任.

4.01 リオ州ペトロポリス市,奴隷制廃止を宣言.

5.03 議会が再開される.奴隷制廃止派は,10日以内の即時廃止を求める.

5.12 議会,奴隷制を最終的に廃止する「黄金法」を95対9で可決.

5.13 外遊中の皇帝に代わり摂政となった娘イサベル皇女,「黄金法」に署名.72万人の黒人奴隷が解放される.奴隷主には補償なし.「保護」を失った奴隷は職を求めて都市部に集中.

8.14 ジョアキン・ブエノが率いる人種主義組織,サンパウロ州パラナパネマで先住民部落を襲撃.三千人を殺害.コーヒー農園拡大の地ならしをする.

12.30 リオで開かれた共和主義者の大会に王党派のGuarda Negraが乱入.

88 空気入りタイヤの発明.ゴムに対する需要が爆発的に高まる.アマゾン川の奥地にゴム・ブームが到来.

 

1889年

3.21 南リオグランデ州の共和主義者,「あらゆる手段を用いて現体制と戦う」と宣言.

10.23 ベンジャミン・コンスタン中佐,軍事学校の講義でクーデターを呼びかける.マノエル・デオドロ・フォンセカ元帥,フロリアノ・ペイショット(Floriano Peixoto)将軍らの担ぎ出しに動く。

89年11月 共和派のクーデター

11.09 リオで軍人クラブが総会.共和制実現のため市民と合流して戦うことを決議.

11.15 コンスタンら共和主義者、マヌエル・デオドロ・ダ・フォンセカ元帥を担ぎクーデター決行.当初は内閣の打倒を目標としていたが,奴隷解放で農園主の支持をうしなった帝政そのものが崩壊する.

11.16 暫定共和政府首班のフォンセカ元帥,ペドロ二世に海外亡命を要請.フンタはブラジル連邦共和国を宣言。

11.17 皇帝は退位しフランスに亡命.皇族たちもヨーロッパに逃れる.フォンセカは憲法制定議会を招集.その後革命を推進したペイショット将軍,ベンジャミン・コンスタン中佐らに実権が集中し始める.海軍を中心に帝政復活の動き。

89年12月

12.18 暫定政府,90年9月に制憲議会選挙を行い,その後2ヶ月以内に新憲法を制定すると発表.

89 セアラ州奥地のジョアゼイロ・デル・ノルテの神父シセロ・ロマン・バチスタ,さまざまな奇跡をおこない,聖者と崇められるようになる.ジョアゼイロに多数の信者が結集.最盛期には三万を超える集落を結成.

89年 奴隷制廃止後、労働力として大量の移民を受け入れ.

移民に関するいくつかの数字: 南アメリカ全体へのヨーロッパ移民は、70年代後半から始まり、第一次世界大戦が終了するまでの約40年間で1000万人以上以上に達した。そのうち340万人がブラジルに、サンパウロ周辺だけで100万人が入植した。各国別に見ると、一番がイタリア(1,373,000), 二番がポルトガル(901,000),三番がスペイン (500,000)となる。

1890年

4.21 ティラデンテスの命日が,ブラジル共和国最初の祝日に指定される.

9.15 共和国最初の制憲議会選挙が施行される.また文盲を除く21歳以上の成人男子すべてに選挙権が与えられる.(ただし国民のほとんどが文盲)

10月 制憲議会,フォンセカを暫定大統領に,フロリアーノ・ペイショトを副大統領に選出.コンスタントは陸軍大臣に就任.閣僚の多くは帝政時代の政治家.

11.08 コンスタントによる教育改革が始まる.実証主義に基づく教育を推進.

12.14 制憲議会,ルイ・バルボーザの起草になる連邦制憲法を採択.読み書きのできる21歳以上の男性に選挙権が与えられる(大部分のブラジル人は、読み書きできなかった)。正副大統領は4年、各州3人づつ選ばれる上院議員は9年、直接選挙で選ばれる下院議員は3年の任期。

1991年

2.24 ブラジル合衆国憲法公布.コントの実証主義にのっとり信仰の自由を認める一方,教会と国家の分離を確定.米国に倣い,各州におおはばな権限を認める.地方では封建的大地主のオリガルキーが温存されるなど,全体として微温的・折衷的なもの.

2.25 新議会、憲法にのっとりフォンセカを大統領に指名。副大統領には共和派のリーダーであるフロリアノ・ペイショトが就任。

2.28 連邦最高裁判所が創設される.15人の最高裁判事が任命される.

3月 新憲法にもとづく上下両院選挙が実施される.任期9年の上院議員は各州3人づつ,任期3年の下院議員も選出される.

4.01 連邦議会が開かれる.ブラジル連邦共和国が正式に発足.フォンセカを大統領に指名.ペイショット将軍が首相に就任.全国各州に共和派将校を知事として配置し,コンスタン陸相を中心とする軍内共和派が急進的施策を実施.

7.01 共和主義運動の指導者Silva Jardim(31歳),イタリアのベスビオス火山で投身自殺.共和制が事実上の軍事独裁となったことから,共和主義者の間に失望が広がる.

11.03 議会は陸軍の急進策に抵抗し,海軍と手を結ぶ.フォンセカ大統領,戒厳令を敷き国会を解散.独裁色を強める.これに対し,海軍は反対の意向.

11.22 リオの中央駅でデオドロに抗議するストライキが始まる.

11.23 リオで独裁に対する武装反乱が発生.南リオグランデでは軍による反乱が発生.

11.23 海軍との妥協を図ったフォンセカは,結果的に政権内で孤立を余儀なくされ退陣.改革派のペイショット副大統領兼国防相があとを継ぐ.ペイショットは中央集権を強め,フォンセカ派の知事をすべて更迭.コンスタンの影響を受けた若手将校が,ペイショットのもと改革を推進.これに抵抗する連邦派とのあいだに各地で流血事件が続発.

12.05 ドン・ペドロ二世,亡命先のパリで病死.この年コンスタント陸相も病死.

91年 南部三州(Parana, Santa Catarina, and Rio Grande do Sul)で小麦の栽培が始まる。

1892年

2.16 フォルタレサで市民の蜂起.軍事学校生徒も参加し知事官邸を襲撃.退陣に追い込む.この他六つの州で反政府暴動が発生するが,いずれも鎮圧される.ペイショットは「鉄血元帥」と呼ばれるようになる.

4.06 13人の将軍がフロリアノ・ペイショット政権に対抗する共同声明.直ちに収監される.

5.01 サンパウロ州go do Aroucheで,イタリア人入植者を中心とするオペラリオ党(Partido Operário)が総会を開催.

6月 リオ・グランデ・ド・スルで君主制主義者の大規模な反乱.

8.01 Partido Operárioが中心となり,リオで第一回社会主義者大会を開催.

8.23 デオドロ元帥が死亡(65歳).生き残ったフロレアノ・ペイショットが全権を掌握.

9月 共和派政権に反対する海軍の反乱が発生.

11.02 フロリアノの肝いりで産業省が設置される.

11.23 海軍のクストディオ・メロ提督,陸軍の独走に対し抗議.リオ湾内の艦隊をひきい反政府の旗を掲げる.

1893年 英・米の支援を受けた「連邦主義革命」

2.15 リオグランデ・ド・スルで,ペイショット派のフリオ・デ・カスティホス知事に対する,武装蜂起が始まる.各地の地主層はルイ・バルボーサ蔵相の下に結集.イギリスとアメリカがこれを支援.

3月 戦闘はサンタカタリナ,パラナなど南部諸州に拡大.「連邦主義革命」と呼ばれる.リオの海軍部隊も南部蜂起と結びついて反乱開始.共和主義政権と君主制支持の自由党とのたたかいは,「ブラジルの南北戦争」と呼ばれるようになる.「ブラジルの内戦で最も残酷な」ものといわれる.

3月 ワシントン特使サルバドル・デ・メンドンカ,ニューヨークの実業家チャールズ・フリントの援助を受け艦隊を結成.共和国政府を支持する米国政府は,この傭兵船団を黙認し,ひそかに護衛艦をつける.

4月 グアナバラ湾の反乱鎮圧に成功.これを機に反乱は失敗に終わる.反乱軍の多くが虐殺され,バルボーザは海外亡命.

8.14 フロリアノ政権,最初の外国人入国禁止令.1年半の間に36人を政治犯として国外追放.

9月 フロリアノ政権,リオ港を封鎖.この時点で英国船75隻が港内に停泊中だった.

93年 アントニオ・マシェルの率いる宗教結社、セルタンの廃村カヌードスに入植。マシェルは相談役(Conselheiro)と自称.中央政権を拒否し貧しいものの救済を唱えた.村は2,3年のうちにおよそ20,000人の支持者を集める。

1894年

3.01 大統領選.ペイショットは健康を害し,軍内部の不統一もあり出馬を辞退.サンパウロのファゼンデイロ(コーヒー農園主)を中心に連邦共和党を結成したプルデンテ・ジョゼ・ヂ・モライス・バロス(Prudente Jose de Morais Barros)が大統領に当選.初の民選大統領となる.

4.15 サンパウロの官憲当局,メーデー行動を準備中のオペラリオ党を弾圧.8人を逮捕.

11.15 モライス政権が発足.この後36年にわたりコーヒー農園主による支配が続く.州統領の下に地方政治ボス(Coroneis)が特権集団を形成.連邦政府の権限は大幅に制限される.

1895年

3.13 リオの軍事学校で反乱.

5.01 Silvério Fontes(マルクス主義者の医師),サントスで社会主義者センターを組織.

95年 ペイショット病死.モライスは反乱軍参加者に恩赦を与えるなど南部との和解を進める.

1996年 カヌードスの反乱

11.04 木材の購入をめぐり近くの町の商人とトラブル。捜査に入ろうとした州兵百名に対しカヌードスは立ち入りを拒否.巨大な木の十字架を掲げた1000名の村人が襲い掛かり、州兵は十数名の死者を出し退散。

大虐殺のきっかけを作った男: あるバイアの木材商人は、カヌードス村に教会を建設するための資材販売を請け負った。この商人は前払い代金を受け取りながら品物を渡さなかった。カヌードスの人々が繰り返し抗議すると、この男はカヌードスで君主制復活の陰謀がたくらまれていると当局に密告した。

12.31 マナウスに大理石作りのアマゾナス劇場開設.アマゾンのゴム景気,ますますさかんとなる.

96 統合参謀本部創設.モライスは実務派将校を登用し,ドイツ軍の顧問を招聘するなど,軍の近代化と非政治化を進める.共和主義者は「救国運動」を結成し対抗.

1997年

1.19 州兵に連邦軍兵士を加え560人が,デ・ブリトの指揮の下、カヌードスでふたたび掃討作戦に出る。カヌードスから3キロのJoão Grandeの住民が州兵の進出を阻止.カヌードスの司令官パヘウ(Pajeu)の巧みなゲリラ戦術の前に敗退.

2.03 リオで第三次カヌードス討伐隊が編成される.クルップ砲や騎兵まで揃え、総員1,261名に上る大部隊.指令官には南部での戦闘で蛮名をはせたアントニオ・モレイラ・セサル大佐が就任.

3.02 モレイナ・セサル,カヌードス作戦を開始.夜襲攻撃にあい部隊は壊滅.将兵の半分近くが死亡。自らも腹部に致命傷を負い,つるし首にされる.ヒットアンドアウエーと夜襲戦法を組み合わせたゲリラ戦術を確立.

5.26 フロレアノを信奉するリオ軍事学校生徒が反乱.165人が追放処分を受ける.

6.17 政府,カヌードスを君主主義者の温床と断定.カヌードス絶滅を指示.現役兵のほぼすべてにあたる6千人を動員.予備兵・州兵など合わせて9,500の兵を投入し第4次討伐隊を編成.クルップ砲、ダイナマイト、機関銃など最新式の装備。

7.01 Pedro Macambira(18歳)の率いるカヌードスの特攻隊11名,マタデイラにおかれたカノン砲破壊を狙う.一人を除き戦死.その後も度重なる攻撃で砲30門を破壊するが,砲撃を全面停止させるには至らず.

7.07 討伐部隊,カヌードスを包囲し兵糧攻めに入る.

7.18 討伐軍,カヌードス部落に入り殲滅作戦を展開.銃撃戦でカヌードス司令官パヘウが戦死.

9.22 カヌードスの指導者Antonio Conselheiroが死亡.傷を負ったあと赤痢に罹患、一説では餓死したという。

10.05 カヌードス,政府軍の総攻撃の前に玉砕.戸数千戸、人口3万のカヌードスは砲撃により廃墟と化し、地上から抹殺される.討伐隊側も,4千名を越える死傷兵を出す.

10 戦闘に参加した将兵は政府の方針を非難,急進派はモライス暗殺を果たそうとして果たせず国防相を殺害.

12.12 ミナスの州都がオーロ・プレトからベロ・オリゾンテに代わる.Belo Horizonteは、ブラジル最初の計画都市として設立され、後のブラジリアのモデルとなる。

1898年

3月 軍内共和主義者に批判的なエマヌエル・フェラス・カンポス・サレス(サンパウロ)が,大統領に当選.サンパウロ,ミナス両州の政権たらいまわし(カフェ・コン・レイテ政治)開始.地方の分権化が進み,ボス支配が復活する.地方ボスの多くが「大佐」の名誉称号を持っていた事からコロネリスモ(大佐の政治)と呼ばれる.軍内においてもペイショット派の影響が弱まり,非政治化が進む.

6.15 カンポス・サレス大統領,ロスチャイルドからの1千万ポンドの融資取り付けに成功.ロスチャイルドの要求した引き締め政策により,ブラジル経済は三年間にわたり深刻な不況に陥る.

99年 アルゼンチン,ブラジルに代わりイギリスの最大のラテンアメリカ貿易対象国となる.

 

1900

1900年

00年 政府、新たな収入関税法(Martinho Tariff)を提案。一般産業の保護を狙うが、コーヒー栽培者の抵抗にあい挫折。

00年 この年のブラジルの推定人口は1700万人に増大.

01.11 ブラジルと英国,英領ギアナとの国境線で合意.条約に署名.

1902年 

3.01 ミナスのロドリゲス・アルベス(Francisco de Paula Rodriguez Alves)がサンパウロの支持を受け大統領に当選。

11.15 ロドリゲス・アルベスが大統領に就任.外相にはリオブランコ男爵(Jose Maria da Silva Paranhos) が就任。10年間の任期中にボリビア、英領ギアナとの国境を画定。

02年 カヌードス作戦に参加した兵士ダ・クーニャ、詳細な記録“Os Sertoes”を発表。「セルタンの反逆」(Rebellion in the Backlands)という題で英訳されたことから,さらに有名になる.

1903年 労働運動のあけぼの

1.24 アクレのプラシド・デ・カストロ,ボリビア領サプリ(Xapuri),プエルト・アロンソを占拠.

8.15 クルゼイロで、Aliaca Textile Millの労働者が、賃上げと8時間労働を要求するストライキ.リオ市内に拡大し、ブラジル初のゼネストに発展.全市から結集した4万人の労動者が、20日の間リオデジャネイロを麻痺させる。経営側は9.5時間労働を認める。

11.17 ボリビアとのあいだにペトロポリス条約調印.国境を画定しボリビアから20万平方キロの土地を2百万ポンドで買い入れ,ブラジル領アクレ州とする.

1904年

05.06 エクアドル,カクエタ・アマゾン間の地域に対するブラジルの権益を承認.

11.14 リオ州Praia Vermelhaの軍事学校で生徒の反抗事件. (Quebra-lampiões)

04年 リオ港の大規模な改修工事が始まる.イギリスのC.H.ウォーカー社が担当.

04年 ブラジルでの最初の大規模な保健キャンペーン。リオデジャネイロ全市で、黄熱病に対する予防注射が義務付けられる。計画実施にあたったオスワルド・クルスは、後にその業績を称えられるようになるが、当初は住民は強制的な予防接種に反対。

1905年

2.05 リオでロシアの「血の日曜日」事件に抗議するデモ.

2.07 サンパウロ州サンベルナルドのイピランガ織物工場で職工500人が参加するストライキ.

5.01 メーデー.サンパウロのジュンディアイ(Jundiai)で初めて行われたデモに5千人が参加.

12.30 ブラジル銀行(現在まで続く)が創設される.

05年 リオの大司教が,新大陸初の枢機卿に任命される.

05年 サンパウロ地方のコーヒー・プランテーションで、トラホームの大流行。305,000人の人々が感染。

1906年 職工連合(COB)の結成

4.15 50組織の代表が集まり,リオデジャネイロで第1回職工会議開催.ブラジル(Congresso Operario Brasileria:COB)を設立.アナーキズムの立場から,8時間労働の実現,移民労働者の擁護と戦争反対を唱える.

7.23 リオで第3回パン・アメリカン会議が開催.

11月 パウリスタのアフォンソ・ペーニャが大統領に選出。サンパウロ州は州警察を強化しフランス人軍事顧問を招請するなど,事実上の独立権力を持つ.

06 生産過剰にともなう最初のコーヒー恐慌勃発.外国移民は激減.サンパウロ,ミナス,リオの3州のファゼンデイロが,パライバ地方のコーヒー生産中心地タウバテで会談.コーヒー樹の植え付け2年間禁止,過剰生産品を買上げ価格を維持することで合意.

06 パウリスタ鉄道会社でストライキ。政府はただちに500人の軍を送りストライキを弾圧。これに対しCOBに結集するサントスの港湾労動者が連帯ストの動き。政府はただちに軍艦を送り弾圧の構え。当時サントスはCOB最大の拠点。組合員数はサンパウロの12500、リオの5000に対し22,500人を擁していた。

06年 サンパウロで英国資本のJ.P.コーツ紡績工場が創設される.

06年 ブラジル,金本位制度を採用.

1907年

4.04 コロンビア,カケータ河口とリオネグロ源流地帯をブラジルに譲渡.

07 サンパウロの共和党の一部,新興産業資本家を背景にサンパウロ民主党を結成.翌年ミナスジェライス州からの参加もあり,憲法改正運動を開始.この頃有権者は,人口2千2百万に対し63万(3%)にとどまる.

07 政府,日本の帝国拓殖会社に移民事業を許可.

1908年 日本移民の開始

6.18 日本から初のブラジル移民.笠戸丸の165家族781人がサントスに上陸.モジアナのコーヒー農園に入植.その後の6年間で1万4千人が入植.入植者の8割は,年季が明けたあと農園を離脱.多くはサンパウロ郊外,北西鉄道鉛線,リベイラ河沿岸地区に移住.

08年 兵役義務法成立.実施は16年まで持ち越される.

09年 ペーニャ大統領、任期途中で退陣。副大統領のニロ・ペカーニャ(Nilo Pecanha)が暫定大統領に就任。

09年 小説「セルタンの反逆」を書いたダ・クーニャが、リオ市内で陸軍士官に射殺される。

1910年

3月 大統領選挙。政府側候補としてデオドロ・ダ・フォンセカの甥,エルメス・ロドリゲス・ダ・フォンセカ元帥(リオグランデ・ド・スル)が立起.憲法起草に当たった改革派のルイ・バルボサは、バイアから市民党候補として立起。産業保護政策を唱え、35%を獲得するが、コーヒー地主層の財力の前に敗北。

7.29 ジョゼ・マダイス大統領,アメリカのニカラグア干渉を非難する声明.

11.22 行き過ぎた体罰に抗議する水兵2,400名が反乱(チバタの反乱).社会主義思想の影響を受けたホアン・カンディードが指導.リオ湾停泊中の新型のド級戦艦サンパウロとミナス・ジェライスその他の艦船を占拠.要求が認められなければリオを艦砲射撃すると警告.

11.24 議会と政府は水兵の要求を認め,恩赦を与える.カンディードは「黒い提督」とたたえられる.

12.09 リオのコブラス島の水兵600人,政府による11月協定の侵犯に抗議.軍の砲撃によりほとんどが殺される.

12.25 カンディードら18人の水兵反乱指導者,捕らえられ重刑に処せられる.

10年 バイアの軍司令官,州政府の転覆を企画.知事宮殿と周囲の建物を攻撃.このほかSergipe,Pernambuco,Alagoas,Para,Piaui,Ceara.で州政府に対する軍の攻撃.当初はボスの支配する州政府に対する「救国運動」派将校の攻撃であったが,まもなく軍そのものも,ボス支配構造に巻き込まれ,腐敗する.

10 原住民のキアンガング族,サンパウロ北方200キロのノロエステ鉄道工事を襲撃.政府は原住民保護局を設立し対策にあたる.

10 アルゼンチンとの関係悪化.政府は8千人をつぎ込み,南リオグランデへの鉄道建設を急ぐ.米国実業家パーシバル・ファークハーは南ブラジル木材・殖民会社を設立し,大地主と結託し土地取り上げと森林の皆伐を推進,環境破壊によりアイデンティティーを失った住民はメシアを信じる新興宗教に走る.

10年 ブラジルで100キロのアクアマリンが発見される。その価値は1996年現在で2,500万ドルとされる。

1911年

1.10 サンパウロの靴職人,8時間労働を求めストライキ.5ヶ月間にわたり戦い抜く.

11年 サンパウロ州に連邦政府の干渉.フランス人軍事顧問の指導を受けた州軍 (Forca Publica)と民兵「愛国軍団」が,連邦軍を撃退.フォンセカは国防相を三度更迭,高級将校100人を退役させるなど軍の統制に努力.

1912年 コンテスタードの反乱

1月 南部パラナ州(サンタカタリナ?)のコンテスタード地方でジョゼ・マリアのひきいる新興宗教の反乱が起きる.ジョゼは開戦まもなくパラナ州警察軍により殺害されるが,残された信者はジョゼの不滅を信じ、5年余りにわたり闘いつづける.

コンテスタード: サンタ・カタリナ州とパラナ州の間の約4万平方キロの地区。所属をめぐって両州が係争(contest)したことからコンテスタードと呼ばれる。ジョゼ・マリアの本名はミゲル・ルセナ・ボアヴェントゥーラ.ジョアン・マリアとする文献もあるがおそらく間違い。
新興宗教といっても古いカトリック信仰の流れを汲むもので、土着の住民を対象としていた。ここにパラナ州のボスがサンパウロ〜リオグランデ・ド・スルの鉄道(米国資本)を敷き、外国人が大量に入植して来た。これを快く思わない住民がコロネリスモの打倒を呼びかける.

1913年

3.16 リオで物価値上げと労働運動家の国外追放に抗議して1万人を結集した行動.

9.08 職工組合会議の総会.117組織が結集.8時間労働と最低賃金制度のために闘うことを決議.

12.29 サンタカタリナ州でコンテスタードの反乱.タクアルクの警察を襲撃.

13年 この年、ブラジルの綿製品輸入率は85%。ほとんどすべての鉄・鋼と石炭が輸入に頼る状況。自由貿易制度の下で、輸入代替産業の発展は遅れる。

1914年

1.23 セアラ州でフアゼイロ(Juazeiro)の反乱.バルトロメウ兄弟が指導.

4.14 パラ州で8時間労働を求めゼネストが行われる.

5.14 セオドア・ルーズベルト,アマゾンを探検.ブラジル政府は栄誉を称えてデュビダ川をルーズベルト川と改名.

8.02 サンパウロの労働者委員会,第一次大戦に抗議するデモ.

8 コンテスタード,二万の「狂信者」に達する.

9.29 コンテスタード,サンタカタリナ州最大の町クリティバノスを襲撃(おそらくパラナ州クリティバの間違い?).これに対し連邦軍は近代武装した6千名(全軍の約半分)により徹底的な弾圧.抵抗は17年末まで続く.

10.08 リオで労働運動が高揚.政府は非常事態を宣言して弾圧を強化.

10.30 サンパウロのソロカバで給料の25%引き下げに抗議する織物労働者のストライキ.

10.30 ノルエステ鉄道が開通.

10月 第一次大戦開始にともない,ヨーロッパ向け輸出が途絶.ブラジルの政府財政は破産状態に陥る.モラトリアム寸前,ロンドンからの新たな融資に救われる.この後アメリカの資本進出が急増し,イギリスを凌駕するようになる.

11.15 フォンセカに代わりウェンセスラウ・ブラス(ミナス)が大統領に就任.

14年 弁護士でジャーナリストのアルベルト・トーレ,「ブラジルの民族問題」を発表.国家主義の立場から国内産業や地下資源の保護を訴える.テネンティスモの思想的基盤となる.

1915年

1.08 Fernando Setembrino de Carvalho将軍の率いる連邦軍,サンタカタリナ州でコンテスタード掃討作戦.初めて飛行機による攻撃.6,000人の将兵が近代的兵器,無線電話や電報などの情報技術をもって鎮圧にあたる.

4.03 54日間にわたる包囲戦の末,コンテスタードの本拠地サンタマリアが陥落.残党は山中でさらに抵抗を続ける.

5.25 アルゼンチン,ブラジル,チリのABC条約が締結.

10.14 COB,国際平和会議を主催.国際主義の立場を貫く.

12.17 Contestadoのたたかいが終焉(一説に17年12月).首謀者のAdeodatoは逃亡に成功.この反乱の間に2万人が死亡。

12.18 リオの軍人村で,低賃金に抗議する兵士の反乱.256人が逮捕される.

15年 マラヤでのゴム・プランテーションでのゴム生産が急増.10万トンを超える。これに対しブラジルでは37,200トン。まもなくアマゾンのゴム・ブームは終結.

1916年 社会党が創設される。社会的影響力をほとんど持たないまま消滅。

1916年 この年の後半から、第一次世界大戦の影響で物価が高騰。市民の暮らしは厳しくなる。

 

1917年

4月 ブラジル,ドイツとの外交関係を破棄.

6月 サンパウロ市内Mocca地区のContonficio Crespi工場の労動者が、25%の賃上げを求める。

17年7月 お手本のようなゼネストの成功

7.10 賃上げを求めるサンパウロ労動者の集会を警察が襲撃。21歳の青年労動者アントニオ・マルティネスが殴り殺される。さらに葬儀デモを騎馬警官が襲撃。市民は街頭にバリケードを築き官憲と対峙する.

7.12 サンパウロで15,000人の労働者がストライキに入る。翌日、もう5,000人の労働者がストライキに加わる。COBはゼネストを宣言.8万人がストライキに入り都市機能は停止する。

7.13 政府は戒厳令を公布し、軍隊をサンパウロ市内に導入。サンパウロから始まったストライキの波は,全国に波及.

7.18 リオでもサンパウロに呼応して、自然発生的なストライキが広がる。この日の午後に150人が連帯ストに入る。翌日には5つの工場がストライキに入る。

7.22 リオデジャネイロの労働センターF.O.S.P.は、全労働者のゼネスト参加をもとめる。

7.22 朝から5万人がストに入る。午後からは20,000人の金属労働者がストライキに参加。リオ全市を巻き込むゼネストに発展。

7.26 政府は全土に戒厳令を公布。軍・警察を総動員。結局、労動者の自然発生的ストを終わらせることはできず。

17年8月

8.01 南リオグランデ州ポルトアレグレでもゼネストが広がる.政府はゼネストの力による押さえ込みを断念。企業側に労動者との妥協を求める。

8.02 リオデジャネイロのゼネスト、企業側が、週56時間労働と10%の賃上げを受け入れて終わる。

9月 ドイツ潜水艦、南大西洋でブラジル商船を撃沈。

10.26 ブラジル,ドイツに宣戦布告し参戦.国内に非常事態を宣言.7月のゼネストはドイツとイタリアの陰謀だと宣伝。指導者を国外に追放し、労動者の新聞を発禁処分にする。

12.29 国家法が発布され,サンパウロのゼネストが強制解除される.12歳以下の児童労働,女性の深夜労働が禁止される.

12 フェルナンド・セテンブリノ・デ・カルヴァーリョ(Fernando Setembrino de Carvalho)将軍の率いる政府軍がコンテスタードの反乱を鎮圧。5年にわたる抵抗は、2万人の犠牲者を出し終焉。

17年 ドイツ留学組の改革派若手将校は,軍事雑誌に新戦略について見解を発表,軍の近代化を訴える.コンテスタードを不名誉な闘いとし,国民統合に対する政府の無策ぶりを非難.「政治的規範の欠除と残酷かつ拙劣な戦略が,多くの歳月と無駄な犠牲者を生み出した」と批判.「軍幹部が政府の誤った政策に唯々諾々と従っていれば,ブラジルは滅亡への道を歩む」とする.

17年 戦争景気で産業界が空前の好況を迎える。相次ぐ移民が経済成長を支える。これまでの地方地主に代わり大都市の資本家が政治的実権を握るようになる。

1918年

9.25 ブラジル、オーストリアに宣戦布告。実際の戦闘行為はなし。

10月 大統領選挙でサンパウロのロドリゲス・アルベスが当選.まもなく死亡し,副大統領のデルフィン・モレイラが暫定大統領に昇格.アルベスの残り任期を勤める.

11.18 リオ州ニテロイで,アナーキストが指導するゼネストの陰謀が発覚.約40人が加わり、大統領官邸,議会などの占拠を計画.爆弾1600発とガソリン40バレルを準備し、市役所・警察・放送局・電報局・銀行などを襲撃する手はずとなっていた。

11.22 Delfim Moreira大統領は労働組合の弾圧を指示.活動家200人が逮捕される.

18 ブラジル国軍編制開始.若手将校は地方ボス(コロネル)の私兵支配に対し,中央集権的統制を志向.各地で州政府に対するクーデターの動きが続発.

1919年

3.01 大統領選挙が行われ,ミナスのエピタシオ・ペソア(Epitacio Pessoa)が当選.軍事費引き上げ法案に拒否権発動、民間人を陸軍大臣・海軍大臣に指名するなど、軍に対する抵抗姿勢を示す。これに激怒した軍は政府から幹部を一斉引き上げ。

5.01 サンパウロでメーデー記念集会。労働者6万人が結集する。

5.04 リオで5万人がストライキと集会。8時間労働と賃金の2割引き上げを要求。

6月 サンパウロで工場労働者2万人がストライキに入る。企業側は労働者も入れた「調停委員会」(Centro Indsutrial de Fiacao e Tecelegem de Aldgodai)を結成し、労働交渉からのアナーキストの排除を図る。労働者事務所や新聞社が破壊され、活動家は暴行を受け暗殺される。

9月 ブラジル政府、ウルグアイ・アルゼンチン・パラグアイと条約を結び、アナーキストの排除に関して共同行動をとることを合意。

10.20 労働運動の拠点サントスで、弾圧に反対するゼネストが行われるが、労働者の動員に失敗。17年型ゼネストの再現はならず。翌年リオでのゼネスト提起も失敗。大戦後の好況と経済成長に伴う労働者の生活条件改善により、従来型労働運動の可能性は狭まる。

19年 ブラジルで最初の左翼共産主義党が結成される.アナーキスト傾向が強く短期間に消滅.

19年 初めての労動者立法として労災補償法が成立。

1920年

20 米国人企業家パーシバル・ファーカー,イタビラ鉄鉱山の権利を政府より獲得.民族主義者の反発により実現せず.同年制定の新憲法では鉱山の外国人への譲渡を禁止することが明文化.

20 各地に分散した専門学校を統合し,初の大学が建設される.

20年 この年ブラジル人口は3千万、うちサンパウロ市の人口は579,033人に達する(1890年には 64,935人)。大都市を中心に444,374の外国人が居住。うち市民権を取ったのは1.5%、6千人あまりにとどまる。

20年 サンパウロを中心に第2次コーヒーブーム,世界のコーヒー生産の3分の2に達する.サンパウロ州の発展は「20台の無人の貨車を引いている機関車」に例えられる。

20年 第三回ブラジル労働会議総会、次期総会までの執行委員会を選出。COBの影響力を排除する方向。

1921年

1.17 無政府主義者を取り締まるAdolfo Gordo法が成立.このころ無政府主義労働運動が最高潮を迎え、組合員数は25万人に達する。

11.07 リオで共産主義者のグループが結成される.イタリア人移民が中心となる.指導者は元無政府主義者のアストロゴルド・ペレイラ。

21 ブラジルで工業の発展.ウジミナスに最初の製鉄所建設.労働者数はリオ,サンパウロを中心に百万人に達する(農業人口は630万人).

1922年

1月 フォンセカ元大統領、6年間のヨーロッパ滞在から帰国。陸軍クラブの議長に選出される。フォンセカは次期大統領候補アルトゥール・ダ・シルバ・ベルナルデスが反軍主義思想の持ち主であると非難。選挙への介入を示唆。ベルナルデスはミナス共和党(Partido Republicano Mineiro)の議長で州知事を勤めていた。

22年3月 ブラジル共産党の創立

3.01 ブラジル大統領選.カフェ・コン・レーチェ協定に基づきベルナルデスが当選。選挙にあたって、南リオグランデの呼びかけでリオ,バイア,ペルナンブコが野党連合を結成. Nilo Pecanha元大統領を対立候補に擁立。軍部もこれに暗黙の支持.

3.25 リオ近郊のニテロイで,非合法下にブラジル共産党結成.73人の活動家が結集.コミンテルンへの加入を決議、綱領を採択する。9人の地域代表からなる中央委員会を結成.ペレイラが議長に就任.

4月 ベルナルデスの当選阻止に失敗したフォンセカ、各将軍に「良心にもとづいて行動せよ」と呼びかける。さらにレシフェの司令官には政府命令への不服従を訴える。ペソア政府はフォンセカを逮捕し、陸軍クラブを6ヶ月間にわたり閉鎖。

22年7月 コパカバーナの反乱

7.05 コパカバーナ,レーメ要塞の守備隊約三百名,大統領選の結果に不満を唱え反乱.エウクリデス・エルメス(Euclides Hermes da Fonseca)大尉の指揮下に,同じコパカバーナのイグレジーニャ要塞に立てこもる.

7.05 ペソア大統領、反乱鎮圧を命令。エルメスは奇計によりとらえられるが,シケイラ・カンポス(Antonio de Siqueira Campos)中尉が指揮をとり3千名の包囲軍を相手に抵抗.

7.06 コパカバーナ要塞の反乱部隊が降伏.その後降伏命令に従わなかった16人の将校が、浜辺に向け行進。そのほとんどが射殺される.これをきっかけとして若手将校の反乱が各地で起こり,「中尉の運動」(テネンチズモ)の端緒をつくる.コパカバーナの生き残りEduardo Gomesは、民衆の英雄となる。

7.13 カンポ・グランデで別の中尉たちによる反乱.

11.15 ベルナルデス,大統領に就任.

1923年

1.25 南リオグランデ州で、ボルジス・デ・メデイロス州知事に対し、農村部を中心とする住民が選挙の不正と反対派の暗殺に抗議。知事派をChimangos派、反知事派をMaragatos派と称する。

5.03 連邦政府、南リオグランデの内紛に介入。8ヶ月にわたり非常事態体制を敷く。州軍司令官Affonso Massot大佐とポルトアレグレ警察のドゥトラ・ヴィヤ署長はマラガトス派弾圧に回る。

5.28 マラガトス派が州統領官邸に抗議デモ。官邸の護衛隊が群集を銃撃。女性や子供を含む30人が殺害される。マラガトス派はJoaquim Francisco de Assis Brasilを中心に蜂起の準備に入る。(この項以下はDean Lambという米国時冒険家の手記によるもので、日時と地名以外はかなり疑わしい)

6.16 アレグレテ近郊のIburapuitan川をはさんで、二度にわたる両者の対戦。Chimangosは150の死傷者を出し敗退。Maragatosにも90人の死傷者を出す。

9.04 Poncho Verdeで三度目の会戦。マラガトスが火力に勝るチマンゴスを機動戦で撃破。チマンゴスは300人の死傷者を出し敗退。

11.03 マラガトスがSanta Ana do Livramentoの町を制圧。

11.07 連邦政府のSetembrino da Carvalho国防相が南リオグランデに調停に入る。

12.15 両派が和平合意に調印。この内紛で100人あまりが死亡。

 

1924年

4.14 無政府主義者ホセ・リゲッティ、サンパウロで織物工組合を結成。 労組を中心に多くの地域コミュニティ組織との関係を構築。

24年7月 サンパウロの反乱

7.05 ジョアキン・タボラを先頭とするサンパウロの若手将校,コパカパーナ二周年を機に、リオの政府に対し反乱。3500の兵を動員、イシドロ・ディアス・ロペス将軍(一説に大佐)を盟主としてすえる(テネンテスの反乱).リゲッティの率いる無政府主義者もこれに加わる。

7.08 サンパウロ当局,市内から撤退.6千の反乱兵が20日間にわたりサンパウロを占拠.

7.12 ベルナルデス大統領は戒厳令を布告。サンパウロは3万の政府軍に包囲される。戒厳令はベルナルデスの任期終了まで継続.

7.12 Bela Vista, MTでも中尉の反乱が開始される.

7.13 Aracaju, IFで中尉の反乱開始.1ヶ月にわたり抵抗を継続.

7.15 政府軍がサンパウロ市内に突入。市内中心部の自由広場で激戦が展開される.反乱軍の指導者ジョアキン・タボラは重傷を負う.これに代わりイシドロ・ミゲル・コスタが実質的な指揮をとる.

7.19 ジョアキン・タボラが戦死.政府軍はドゥアルテ大司教の砲撃中止の要請にもかかわらず、砲撃を続行。市民503人(一説に千人)が死亡し,5千人が負傷.

7.23 マナウスでも中尉の反乱が発生.社会主義者のリベイロが指導.

7.28 イシドロ・ロペス将軍の率いる反乱軍は,サンパウロを放棄.サンパウロ西方に逃れる。市民30万人も市内を去り、周辺地帯に逃げ込む。

7.31 フアレス・タボラの率いる兵士800名,サンパウロ州ボツカツ(Botucatu)で反乱.3千人の政府軍を相手に抵抗.その後、パラナ州に向け退却。

24年8月

8.18 政府軍と反乱軍部隊、Tres Lagoasの近くで対決。110人の反乱軍兵士、41人の政府兵士が戦死する激戦となる。

8月 フアレス・タボラの反乱部隊、各地に転戦ののち,マット・グロッソを横断してイグアスーを占拠.ここを仮の根拠地とする。

8月 ホセ・リゲッティの率いる労働者部隊、逃亡市民の先頭に立ち、BrasとMoocaで食物倉庫を急襲。政府はアナーキスト数十名を逮捕し、戦いを弾圧。逮捕者は仏領ギニア国境付近の労働キャンプに収監される。

24年10月 プレステスの反乱

10.28 サンパウロと呼応して南リオグランデでも軍人が蜂起.ルイス・カルロス・プレステス大尉,サント・アンゼロ鉄道大隊をひきい蜂起.プレステスはコパカバーナの反乱の際,チフスのため参加できなかった.

10.29 ウルグアイ国境地帯のサン・ルイス,サン・ボルハの守備隊がプレステスの反乱に合流.軍勢は2000人に達する。

24年11月

11.04 リオ停泊中の軍艦「サンパウロ号」と「ゴイアス号」が反乱.エルコリノ・カスカルドが指揮を執る.

11.17 プレステスの部隊,ゴイア州アラグアイア渓谷のカンディエロで Franklin Albuquerque 指揮下の政府軍と対決し勝利.

11.18 プレステスの部隊,南リオグランデ州に戻り、サンパウロへ前進するための重要な戦略拠点カセキ鉄橋を奪取.

11.23 カンディード・ロンドン将軍の率いる政府軍約12,000人、「Belarmino-Catanduvas」作戦を開始。(これから先、政府側発表と反乱側発表が錯綜します。しかもすこしづつ日付が異なっています。政府側の発表はどうも数字がおかしく信用できませんが併記していきます。反乱軍側の発表は、主に「革命児プレステス」に拠っています)

24年12月

12.07 南リオグランデ州Arroio Irapuáと Passo Caldeirãoでも中尉の反乱が始まる.

12.27 プレステスの部隊,サンルイスの政府軍防禦線を突破.ウルグアイ,イグアスーとのルートを開く.

 

1925年

1.03 プレステスの反乱軍部隊はパルメイラスの近くで政府軍と衝突。40人の死者を出し敗退。(12.27の戦闘と同じ内容と思われる)

1.20 PR州,フォルミガスの戦いで,ホアン・カバニャス中尉の率いる反乱軍「死の大隊」が勝利.

3.02 コスタ・レイテ大尉ら,リオの第三連隊を襲撃.

3.30 PR州の反乱部隊,カタンドゥバス(Catanduvas)の戦いで敗北.反乱軍に数百人、政府軍179人の死者を出す。(一説に、カタンドゥバスの戦いは25日に行われ、サンパウロ軍本隊と政府軍本隊の決戦だったとある。死者の数は政府側発表と思われ、少なくとも数字からは、政府軍側の勝利だったとはいえない)

4.12 プレステス,イグアスーに移動してサンパウロ軍に合流.この時点で総勢1600人まで減少。イシドロ・ロペス将軍,パディリャ将軍は国外に亡命し,ミゲル・コスタが反乱軍総司令官,プレステスが参謀長となる.参謀次長にジュアレス・タボラ(Juarez Tavaro),副官にロレンソ・モレイラ・リマが就任.

4.28 プレステス軍,国境を越えパラグアイへの脱走に成功.

25年5月 プレステスの行進開始

5.01 共産党第二回大会,リオで開催。16組織代表が参加.週刊紙「労働者階級」の発刊を決議.12号まで続き、発行部数は900部に達するが、警察の弾圧により消滅。28年の第三回大会のあと復刊される。

5.02 リオの歩兵連隊に若手将校が指導する反乱が発生.

5.03 プレステス軍,パラグアイ領を抜けふたたびブラジル領内に侵入,ゲリラ戦開始.役所を襲撃し農民を搾取するための書類を焼き捨てるなどの活動を展開.マットグロッソからゴイアスをぬけ,翌年5月にはセアラ州に達する.軍勢は最大時5万人に達する.

5.16 ブラジル共産党、テネンティスモを積極的に評価し,若手将校へのはたらきかけを強める.

25年7月

7.24 プレステスの部隊,ゴイア州アナポリスでベルトルド・クリンガー少佐の率いる政府軍に勝利.(政府軍側は、反乱軍が30人の死者を出し敗走と発表)

25年12月

12.07 プレステス部隊,PI州ウルクイの政府軍基地を攻撃.24時間後に攻略に成功.

12.28 プレステス部隊,PI州テレシナを攻撃.

25 セルトンではビルゴリーノ・フェレイラ,アントニオ・シルビオ,カベレイラ・ビリアットなどの山賊(カンガセイロ)が「活躍」.

25年 労働者に年間2週間の休暇を認める法律が成立。児童労働も禁止される。

 

1926年

2.17 ペルナンブコ州Jaboatão-Gravatáで,プレステス部隊を支持する労働者がCleto Campeloの反乱.

3.01 サンパウロ派のワシントン・ルイス,大統領に選出される.(別の文献ではLuis Pereira de Sousaとブラジル人らしい名前になっている)

3.04 セアラ州フアセイロ地方のLampião é aclamadoで反乱.プレステス部隊に合流.

4月 ブランドン,「Abrarismo e Industrialismo」を発表.ブラジル社会に対する初のマルクス主義的分析.

5 プレステス部隊,セアラ州に到達.ジョアゼイロのシセロ神父と会見するも協力を得られず.政府軍は山賊ランピオンを抱き込みプレステス部隊の行軍を妨害させる.

5.2 コスタ・レイテ,ふたたび第三連隊を襲撃.またも失敗.

6.24 ブラジル,国際連盟常任理事国の席を与えられないことに抗議して脱退.

10.11 プレステス部隊の前衛,ゴイア州クラリーニョでアルブカーキ大佐の率いる政府軍に勝利.

26年11月

11.04 南リオグランデ州のRelampago大隊,ワシントン・ルイスの支配を認めないと声明.

11.25 ルイスが大統領に就任する(共和党最後の大統領).南リオグランデ州知事のジュティリオ・バルガスは蔵相に就任.

26年12月

12.07 プレステス部隊,マトグロッソ州ボム・ヘススで地主の私設部隊を撃破する.

12.23 プレステス部隊,マトグロッソ州Sangradouroで,国家警察の部隊を撃破.

12.28 ランピオンの猛威に対抗するため,PE-BA-AL-PB-SE-RN-CEの7州が合同対策会議.

26 レシフェで作家,科学者,外国代表者などが地方主義者会議開催.ジルベルト・フレイレが「地方主義宣言」を報告.ノルデステ地方の伝統と価値の復興を呼びかける.

 

1927年

27年1月

1.01 戒厳令が解除される.PCBも合法活動を再開.

1.03 リオでレーニン記念祭が企画されるが,当局は集会を禁止.

1.29 マトグロッソ州フマカの戦い.プレステス部隊最後の戦いとなる.このあと部隊はボリビア領内に逃亡.

27年2月

2.01 共産党,合法組織として労働者農民ブロック(BOC)を組織.選挙運動に乗り出す.

2.04 プレステス部隊,全国2千6百キロを行軍したあとボリビアに越境亡命し,武装解除を受ける.この時点で隊員数は620名。その後,プレステスはウルグアイに亡命.

2.14 シケイラ・カンポスの別動隊80名,ミナス州パラカトゥを占領.亡命ルートを見失ったカンポスの部隊は,さらに50日間,ブラジル領内で遊撃戦を続ける.シケイラ・カンポスは「コパカバーナの18人」の生き残り.

27年3月

3.24 シケイラ・カンポス,65人の仲間とともにパラグアイに亡命.これまでの大行進で死亡者は1000名に達したとされる。

4.27 従業員組合会議(Congresso Operário Sindical),リオで大会.36組合と23の工場代表が集まり,労働者総評議会(CGT)の創立を決議.

4 BOC,リオのエポカ地区と連邦区に一人づつ候補を擁立.

6.13 Lampião,北リオグランデ州第二の町モソロを襲撃.

8.12 政府、ストライキを禁止、ブラジル共産党をふたたび非合法化.

9.27 官憲が,BOCの選挙集会を実力解散.銃弾により労働者一人が殺害される.

27 アメリカの貿易高がイギリスを抜く.

27 ブラジル・フォード社,サンタレン近郊のベルテラでゴムプランテーションを開発.

 

1928年

1 PCBのペレイラ書記長,ボリビアでプレステスと会談.プレステスはその後アルゼンチンに亡命し,共産主義に急速に接近.

10.28 COBのオタビオ・ブランドンとミネルビノ・オリベイラ,12名からなるリオの市会議員に選出される.

12.29 ニテロイで共産党大会.800名の党員を代表した31人が出席.うち労働者が16名を占める.大会は中尉運動との関係強化の方針を確認.

28年 Carlos Moreira de Castroら、サンバ学校マンゲイラを開設。モレイラは99年97歳で死亡。

 

1929年

1.04 ブラジル青年共産主義同盟の創立大会.

3.18 モンテビデオでラテンアメリカ労働組合会議が開催される.

3.23 サンパウロで児童労働に反対する72時間スト.

5.01 共産党に指導されたブラジル労働総同盟(CGTB)結成.ブラジル労働組織の中核となる.

6.20 官憲がCGT本部を襲撃.69人を逮捕する.

6 ルイス,「カフェ・コン・レイテ」体制の慣行を破り,引き続きサンパウロ出身の候補を推すと発表.ジュリオ・プレステス州知事を後継に指名.

9.20 ミナス州知事は南リオグランデ,パライバの共和党と手を結び「自由同盟」を結成.南リオグランデ州知事バルガスを大統領,パライバ州知事ジョアン・ペソアを副大統領候補に推し対抗.都市中間層,若手軍人がバルガスの下に結集.

10.29 大恐慌,コーヒー輸出価格は4割下落,その後の三年間で7割下落.滞貨は2千2百万袋に達する.政府の買い支え政策は失敗し,破産.中央政府はこれ以上の値崩れを防ぐため,コーヒーを買い取ったうえ廃棄.

11.06 官憲はBOC大会を禁止.強制立ち入りにより85人を逮捕.

11.07 リオで準備中のロシア革命記念祝典実行委員会に銃撃が加えられる.

29年 トロツキーを支持するMário Pedrosaら、共産党の党内グループとしてボルシェビキ・レーニン・グループを組織。

 

1930年

2.17 コミンテルン,ブラジルに関する決議を採択.BOCとPCB第三回大会報告を非難する.

2.24 パライバ州のJosé Pereira,2千人の手兵を集め Guerra de Princesaを開始.30年革命のさきがけとなる.

3.01 大統領選,サンパウロ派のジュリオ・プレステスが自由同盟のバルガスに圧勝.選挙に関連した暴力で11人が死亡。

5.31 バルガスとペソア、大統領選挙の不正を公然と非難。

7.26 自由同盟の一角で,副大統領候補だったパライバのジョアン・ペソア知事が、レシフェでJoao Duarte Dantasに暗殺される。ダンタスはルイス大統領の放った刺客とされる.自由同盟は態度を硬化し、武装反乱へと動き始める。

7 ペソア暗殺を機に、青年将校による反乱の動きが強まる.ゴエス・モンテイロ大佐らテネンテスの主流は自由同盟に結集をはかる.カルロス・プレステスは共産党への入党を宣言.自由同盟派と決別し「革命行動連盟」を提起.

9.04 パライバ州都パライバ市,ジョアン・ペソアと改称.

30年10月 バルガスの反乱

10.03 「自由同盟」三州の青年将校が一斉蜂起.南リオグランデ州の州都ポルトアレグレで青年将校による武装蜂起,ミナス,パライバの各地でも決起に成功.共産党=革命行動連盟は蜂起参加の呼びかけを拒否.南リオグランデ州イタキで労農ソビエトを樹立するがまもなく崩壊.

10.04 反乱軍部隊、20名の犠牲者を出しポルトアレグレを確保。ベロオリゾンテでは反乱軍と政府軍が衝突。5日間にわたる戦いで政府軍16人が死亡。パライーバでは8人、レシフェでは35人が死亡。

10.06 ルイス大統領、非常事態宣言を布告。

10.10 南リオグランデ州の反乱軍,リオに向け北進を開始.サンパウロの部隊は,軍首脳の命を受け,無抵抗で街を明け渡す.

10.22 米政府、反乱軍に対して軍事制裁(武器輸出禁止)を課す。

10.24 リオのルイス大統領,軍部の説得により退陣を決意.これに代わりタッソ・フラゴソ将軍ら3人からなる軍事評議会が成立。バルガス到着までのあいだ政権を掌握。

10.26 バルガス,リオに入り首班を宣言.プレステス予定大統領を逮捕する.

10.30 軍事評議会、反共を条件にジェトゥリオ・バルガスの暫定大統領就任を受諾。

30年11月 バルガス政権成立

11.03 バルガス,軍部の承認を受け暫定大統領に就任.軍事評議会はそのまま残る。

11.11 バルガス、憲法を停止し制憲議会を解散する.

11.12 ゴエス・モンテイロが陸軍参謀長に就任し実権を握る。Miguel Costa, João Albertoら中尉運動指導者,リオで革命同盟を結成.バルガス政権への協力を強める.

11.21 ルイス前大統領,国外亡命を条件に釈放される.そのままヨーロッパに亡命.

11.25 サンパウロのカンブチ要塞が解放され,旧体制による政治犯がいっせいに釈放される.

11.26 バルガス,労働省を設立.リンドルフォ・コロールを担当大臣に指名.労働立法をつぎつぎとうちだし国民の懐柔を図る.コーヒー勢力に対抗するため、労動者の力を利用しようと図る。

12.25 サンパウロで革命同盟結成宣言.7千人が結集.

 

1931年

31年1月

1.01 反乱兵,ニテロイで旧体制派の民兵組織「人民権力」と銃火を交える.

1.17 リオの飢餓行進,官憲の手により弾圧される.

1.21 ボルシェビキ・レーニン・グループ,党を離れあらたに共産主義者同盟( Liga Comunista)を結成.ブラジル最初のトロツキスト組織となる.

1.24 リオで労働者1万5千人を結集しバルガス支持宣言.

1.31 バルガス、すべての共産主義者の逮捕と資産の差し押さえを命令。共産党系の労組に厳しい弾圧.労働出版を取り締まり、指導者600人を逮捕。ストライキ、集会、デモンストレーションを禁止。このころ共産党は党員数1,100名に達する。

31年3月

3.02 米国は、暫定軍事政権に対する軍事制裁を停止。

3.12 ウルグアイ亡命中のプレステスとテネンティスタたちはPCB支持を呼びかける.プレステスは共産党の勧誘を受けソ連を訪問。

3.19 バルガス,労働組合法を公布.労働組合を合法化するが、条件として指名した指導者を押し付ける。

31年4月

4.15 左派作家のOswald de Andrade e Pagu,サンパウロ当局により拘禁される.

9.04 反乱兵がリオ中央警察署を襲撃.

9.16 サンパウロでブラジル黒人戦線が創立される.「黒人の歴史的権利を確立する」ことを目標とする.各地に影響力を拡大.

10.12 独立100年を記念して、Corcovado の頂上にキリスト像が建立される。Carlos Oswald(ブラジル)とPaul Landowski(フランス)が制作。

31 カルロス・プレステス,ソ連訪問.入党に至る.金融恐慌発生,銀行破産あいつぐ.

 

1932年

1.19 共和党サンパウロ派を中心とする旧支配層,憲法の制定と州の自治権保障を要求.

32年5月

5.02 サンパウロ鉄道労働者が1ヶ月にわたるストライキ.サンパウロ当局は,ストライキを扇動したとしてPCB活動家100人を逮捕.反バルガスのデモに参加した青年4人が銃撃により死亡。

5.04 法令20402号公布.8時間労働を制定.

5.17 バルガス政権,男女の同一労働・同一賃金制度,2ヶ月の出産休暇制度を法律化.

7.09 サンパウロ州の共和党,30年革命とバルガス政権に反対,「護憲革命」を標榜し反乱を起こす.Bertholdo Klinger将軍が反乱軍を率いる。

9.27 サンパウロの反乱軍,3ヶ月に渡る戦闘の末,連邦軍に包囲され降服.この間の反乱で1000人あまりが死亡。

32年10月

10.03 政府とサンパウロの間で停戦合意に調印。以後バルガスと陸軍参謀長ゴイス・モンテイロは青年将校と距離を置き,立憲政治を目指す.反乱の残党はサンパウロ民主党を結成.青年将校左派はプレステスの率いる共産党に接近.

10.07 「ブラジル統合主義運動」(インテグラリスタ)が結成される.プリニオ・サルガドを党首とし,「神・祖国・家族」をスローガンに,カトリック人道主義,組合国家主義,経済の国家管理を基礎とする国家統合の実現をめざす.中核となる突撃隊員はナチを真似、緑シャツを着用。モンテロら保守派の支持をえて軍,政府,教会,南部ドイツ人社会に浸透.ドイツ大使館から財政的援助を受ける。

11.12 過剰生産対策として,パラナ州以外でのコーヒーを植付けが禁止される.

11.15 元中尉運動参加者からなる「革命会議」(Congresso Revolucionário),ブラジル社会党の結成を決議.

32年 黒人弁護士グラーナ・サンタナ、Brasil Novo新聞を発刊。社会主義系のアフロ・ブラジル人グループを形成。

32 ペルナンブコ出身で,米国に学んだジルベルト・フレイレ,「カサ・グランデと奴隷小屋」を発表.ブラジル人の精神的原点として奴隷制下の社会関係を考察する.

32年 バイーアの大学生マリゲーラ、知事を批判している詩を発表し逮捕される。保釈のあとリオに出る。

 

1933年

1 ドイツでナチが政権掌握.

5.03 制憲議会選挙.共産党員のÁlvaro Venturaが議員に選出される.初の婦人議員誕生.

5.21 バルガス、サンパウロの反乱参加者に恩赦.旧勢力と手を結び、革新色を強める青年将校勢力と対抗する。

10.10 米州諸国、リオ不可侵条約に署名。

11.10 憲法制定議会発足.ブラジル第二共和制が発足。憲法草案策定作業が始まる.

33年 ドイツが最大の貿易相手国となる。これは第二次大戦の始まるまで続く。

33年 政府の全面的支援を受け、カトリック労働者総連合( Confederacao Operaria Catolica)が結成される。

 

1934年

2.24 新憲法に先立ち,新選挙法が公布される.18歳以上の男女に選挙権が与えられる.

3.01 コミンテルンから派遣されたArthur Ernst Ewertがリオに入る。エヴェルトは元ドイツ共産党国会議員。米国人ハリー・バーガーと名乗る偽造パスポートを所持していた。エヴェルトはRodolfo Ghioldi e Julesとつながり、ブラジル国内での組織活動を開始。

5 外国人入国管理法制定(2%法).奴隷制廃止以降4百万人が入国,その6割がサンパウロ州に集中.この年最高に達した日本からの移民を制限するため,毎年の受入れ数を既住移民の2パーセント以内に制限する.日本からの移民は年間2千8百人以内に制限される.

34年7月

7.08 PCB,ニテロイで第1回全国大会を開催.反ファシズムの戦いを意思統一.

7.16 ブラジル憲法制定.大統領は議会による間接選挙で選ばれ、任期は再選なしの4年とされる。州統領を州知事とし州の自治権に制限をくわえ,地方反乱を予防.共産党など全政党の合法化.

7.17 選出された議会の間接選挙により,バルガスが大統領に就任.

34年8月

8.01 ソ連亡命中のプレステス,共産党に入党.

8.23 リオで第一回反戦・反ファシズム会議.官憲の弾圧により,ジョアン・カエターノら2人が死亡,10人が負傷.弾圧に抗議するストライキが行われる.

34年9月

9.23 反戦・反ファシズム週間が展開される.

10.07 サンパウロの中心街で共産党員とインテグラリスタが衝突.5人が死亡.

12.24 郵便・電信労働者が初のストライキ.リオ,サンパウロなど全国に波及.

34年 カルメン・ミランダが出演したアデマル・ゴンザガ監督の映画「アロー・アロー・ブラジル」が国際的ヒットとなる。

 

1935年

35年3月

3.12 共産党,人民戦線を提起し党を解散.社会党,軍人左派などと民族解放同盟(ANL)を結成.

3.30 民族解放同盟がジョアン・カエターノ劇場で創立大会を開催.「パン,土地,自由」を合言葉に反帝人民革命政府の樹立,婦人の参政権,労働者の生活擁護などをうちだす.学生代表カルロス・ラセルダの提案で名誉議長にプレステスを推挙.4ヶ月のあいだに150万人を組織.

35年4月

4.03 24年革命の指導者だったミゲル・コスタ,ANLへの加入を発表.

4.04 国家保安法が成立.Lei Monstro(化け物法)と呼ばれる.

4.11 プレステスと妻のオルガ・ベナリオ,偽造パスポートでブラジルに入国.

4.21 リオでANLの雑誌「ア・パトリア」,新聞「マニャ」が発刊される.

35年5月

5.01 メーデー当日,11の州の400の組合が結集し,ブラジル統一労働者会議(CSUB)を結成.

5.25 ブラジル婦人同盟(União Feminina do Brasil)が創立される.反ファシズムの行動計画を採択.

35年6月

6.16 サンパウロでANL反インテグラリスタ委員会が結成される.

6 モンテイロ、軍からANL派将校を排除.

35年7月 民族解放同盟(ANL)の非合法化

7.05 プレステス,22年−24年革命記念式で挨拶.「民族解放同盟に全権力を」と演説.

7.11 バルガス,Góis Monteiro将軍の意見を受け,民族解放同盟を非合法化.政治活動を禁止する.ANLは武装蜂起路線に転換.軍への浸透を強める.

7.13 警察長官Filinto Muller,ANL弾圧を指示。リオのANL本部と婦人同盟に侵入.関係者多数を逮捕.

7.25 コミンテルン第7回大会,人民戦線テーゼを採択.反帝人民革命政府をめざすブラジル民族解放連盟の綱領をラテンアメリカ諸国にとっての模範であると規定.

7.27 サンパウロで反ファシズム統一委員会結成.

35年11月 共産党の武装蜂起

11.11 リオで金属労働者28千人がストライキ.

11.23 ブラジル共産党の指導下に,北リオグランデ州ナタールで武装ゼネスト開始.ナタール市駐屯歩兵大隊が反乱に加わる.州政府の弾圧に対し,民間警察と軍の一部が反乱.革命派の兵士がレシフェの軍兵器庫を襲撃。武器を市民に分配する。4日間にわたり都市部を占拠,人民革命政府を樹立.

11.24 レシフェでプレステスの右腕シロ・メイレレスの指導する蜂起.

11.25 全国に1ヶ月間の非常事態令が公布される.

11.27 プレステスの指示のもと,リオで軍の反乱開始.Praia Vermelha空軍学校のアセベド大尉部隊とバラータ大尉の第三連隊が決起.

11.27 エウリコ・ガスパル・ドゥトラ陸相の陣頭指揮する政府軍が出動.その日のうちに反乱は鎮圧される.党は非合法化.バルガスは強権政治を強める.

35年12月

12.20 議会、非常事態を90日間延長することを決定。

12.31 反乱参加軍人に対する処罰が発令される.

35 サンパウロ大学創立.フランスからレヴィ・ストロースが赴任.「かなしき熱帯」を著わす.

 

1936年

1.10 バルガス政府,共産主義弾圧委員会を結成.体制内反対派の粛正に乗り出す.軍人2千人以上,民間人9百人が検挙.バルガスの腹心で,自治主義党創設者のバプティスタも,リオ州知事を解任される.

36年3月

3.04 プレステス,リオ監獄に収監.9年間の獄中生活を送る.

3.15 Graciliano Ramosら北東部で蜂起した活動家115人が,リオに召喚される.

3.21 戒厳令解除.軍の要請を受けた議会は,引き続き戦時令に切換え.

3.30 警察は市民権を停止し,共産党員摘発を続ける.インテグラリスタはバルガスに協力する中で勢力を伸張,最大時党員20万に達する.

36年4月

4.03 リオ連邦区市長のPedro Ernesto,ANLを支持したとして,逮捕・拘留される.

5.01 学生カルロス・マリゲーラ,特別警察に捕らえられ、22日間にわたり拷問を受ける.特別警察はナチの支持者フィリント・ミュラーが管轄していた。

36年9月

9.08 国家保安裁判所が設立される.9年間で4千人に有罪判決.

9.23 夫プレステスともに逮捕されたオルガ・ベナリオは,ゲシュタポの元に送られ,42年に強制収容所のガス室で死亡.

11.27 サンパウロ州Maria Zélia監獄の政治犯,国家保安裁判所に対する闘争宣言.

12.14 国家保安法が改定.反共極右に対しても適用できるようになる.

12月 無政府主義の指導者でLa Battaglia紙社主のオレステ・リストリ(当時65歳)、ブラジルを亡命。43年に母国イタリアで、ナチにより銃殺される。

 

1937年

2.10 Pablo Emilio Sales Gomesらサンパウロのパライソ監獄収監中の政治犯10人が脱獄に成功.

3.15 政府,連邦区への干渉を強化.市議会を解散させる.

4.21 サンパウロのマリア・セリア監獄で政治犯の虐殺事件.共産党員4人が殺され,10人が銃撃を受け負傷.

37年5月

5.07 ANL幹部に対する判決.プレステスは懲役16年.

5.22 セアラ州奥地のアラリペで,カヌードスの亡霊出現のうわさ.軍・警察はかつてのカヌードス本拠地の近辺を爆撃.

5 次期大統領選挙にむけてキャンペーン開始.反バルガス派を代表してサンパウロのアマンド・サレス・デ・オリベイラが立起。事前の予想では、バルガス派左派のパライーバのジョゼ・アメリコ・デ・アルメイダに対し圧倒的優勢となる。共産党はサレスを支持。インテグラリスタのサルガドも立起。

37年6月

6月 軍部、選挙での敗北の危機を前に、共産党が政府転覆を狙っているとする「コーエン偽造文書」をでっちあげ.この「文書」でデマ宣伝を行い、共産党を壊滅に追い込もうとする陰謀。軍大尉でインテグラリスタのOlímpio Mourão Filhoが発案したとされる.

7.12 インテグラリスタがサンパウロで街頭パレード.これに抗議する群集との間で銃撃戦となる.

9.30 (後に明らかになったところでは),バルガスとドゥトラは,この日「コーエン計画」を承認.

37年10月 共産党陰謀のでっち上げ

10.02 政府、「コーエン文書」が発見されたと発表。ドゥトラ将軍の依頼を受けたバルガスは,戒厳令公布.

10.17 南リオグランデ州知事Flores da Cunha,辞職しウルグアイへ亡命.

10.28 セアラ州の作家Rachel de Queirós,共産党との関係を疑われ投獄される.

37年11月 エスタド・ノボ

11.05 Filinto Muller警察長官(ナチ信奉者),出版・放送の検閲を実施.

11.08 バルガス政権、アマンド・サレスの大統領就任の阻止に動く。サレスは議会あてに政府弾劾文を提出.

11.09 投票前夜,ドゥトラ陸相の指揮するクーデター勃発.憲法を停止,議会を解散させ,州の自治を停止.

11.10 バルガス、「共産党員の巨大な陰謀」を未然に防ぐため、選挙を取り消すと発表。自らの政府を否定し「新国家」(エスタド・ノボ)を宣言。任期6年の再選を自ら定める。政治警察による弾圧など独裁制を敷く.共産党活動家の多くは逮捕されるか、国外亡命を余儀なくされる。

11月 ブラジル,対外債務の支払いを一時停止.

37年12月

12.02 エスタド・ノボ憲法を公布。地下資源に対する国家主権、再生不可能な自然資源の保護など、民族主義を強く押し出す。また、イタリア・ファシスト党の労働憲章をまね、「労働は社会的義務」と規定。48時間労働,最賃制などの労働者懐柔政策をとる.「憲法」は第187条で「国民投票を経て実施される」としつつ、第186条で国民投票制度を否定するといういい加減なもの。

12.02 新憲法公布と同時に,すべての政党の活動が禁止される.民兵組織を警戒する軍部の圧力のもとに、インテグラリスタに対する非難を強化し、解散に追いこむ.

 

1938年

1.14 バイア州Pau de Colherで,カルデイロン派残党が警察や軍を襲撃.キンゼイロに率いられたセルタンの民衆が決起.400人が戦死.

38年5月 インテグラリスタ蜂起

5.10 インテグラリスタ,リオで一斉蜂起.大統領官邸を夜襲する。バルガスは家族・スタッフとともにピストルで応戦。

5.11 インテグラリスタ蜂起が敗北.サルガドはポルトガルに亡命.

5.18 バルガス独裁政権,国家保安法をさらに強化.

38年7月

7.08 バイア州のランペオン(本名ヴィルグリノ・フェレイラ), Maria Bonita と 15 人の盗賊,アンヒコスの農場で警察の待ち伏せに会い壊滅.最大で最後のカンガセイロ(山賊)といわれた.それまでの20年間で警察との交戦は2百回,殺した数は1千名といわれる.その首は1969年までNina Rodriguesの博物館に展示されていた.

12月 バイアの共産主義者,雑誌「セイバ」を発行.反ファシズムの論陣を張る.

38 新移民制限法施行.この年までに約14万人が移入.その後移民禁止によりいったん中断.外国語学校閉鎖.日本語教育や出版も禁じられ,移民のあいだに混乱をもたらす.

38 「アマゾニア産業研究所」経営の移住地でジュート(黄麻)が,コーヒー袋の需要を獲得.後に敵性国資産として政府に没収される.

38 石油資源の国有化発表.国営石油委員会を創設,バイアでの油田発見に成功.

 

1939年

7.19 右翼クーデターの試み.一部が大統領官邸に侵入するも失敗に終わる.

9.01 ドイツ軍,ポーランドに侵攻.

9.02 バルガス,ブラジルは第二次大戦に対し中立を守ると声明.

39年 マリゲーラ、官憲により逮捕される。この後バルガスの失脚まで6年間を獄中に送る。

1940年

40年 この年の識字率は45%。20年前に比べ10%増加したのみ。

40年 パンナム、リオ=ベレン間にDC-3の定期便を就航させる。70年代には米ソに次ぐ航空網が整備される。

41.3 PCBの中央委員会が一斉摘発を受ける.バイアの州委員会のみが,かろうじて地下活動を続ける.党員作家のホルヘ・アマドはアルゼンチンに亡命。辺境地帯におけるカカオ農民同士の紛争を描いた「暴力の地」を発表。

41 米国からの資金援助を受け,リオに国営製鉄会社CSNが設立される.

1942年

1.15 リオで米州外相会議.米州防衛委員会の創設と集団防衛システムの確立で合意。各国軍首脳には、武器・編制・戦略が米軍方式に統一されることに不安が残る。

1.28 ブラジル,独伊と断交.連合軍への参加を決定.

2.14 ドイツ潜水艦,ブラジル船「ブアルケ号」を撃沈.54人が死亡.このほか5隻の商船が撃沈される。

6.26 UNE(全学連),もっとも凶暴なファシストとして警察長官フィリント・ミュラーを糾弾.

7.04 UNEの主催で反ファシズム統一行動.37年のクーデター以来の大集会となる.フィリント・ミュラーは,大衆の抗議の中で失脚.

8.18 UNE,ドイツ・クラブを占拠.彼らの本拠とする.

8.31 ブラジルの商船5隻がドイツの潜水艦に撃沈される。ブラジル政府は戦争状態を宣言。ドイツ,イタリア、日本に宣戦布告.大衆の声は圧倒的に参戦を支持。

9.14 UNE,ヒトラーとのたたかいに参戦するよう政府に要求.

1943年

5 最低賃金制実施.農村部では地主の抵抗により実効性なし.

8.30 PCB,Engenheiro Passos, RJで秘密会議を開催.マンティゲイラ会議と呼ばれる。ファシズムとの戦いを強めることを確認.バルガスに開戦を求める公開状を送る。獄中のプレステスを中央委員会議長に選出する.中央委員にはDiógenes Arruda, João Amazonas, Maurício Grabois, Amarílio Vasconcelos, Pedro Pomar, Mário Alvesが選出される.この時点での党員数は1,800人.

10.24 鉱山労働者組合,民主主義の復活を求める決議.

11.10 サンパウロで民主主義復活を求める学生の沈黙行進.当局の弾圧により2人が死亡,25人が負傷.

43 CSN,米国の金融・技術援助を受けボルタ・レドンダ製鉄所を建設.

44.7 遠征隊2万5千が米第五軍の指揮下に入りイタリアに出兵.451人の犠牲者を出す.

44 ボルタ・レドンダに最初の大規模製鉄工場完成.輸入代替工業が本格化.

 

1945年

45年1月

1.22 第一回ブラジル作家会議,「新国家」体制を批判.完全な表現の自由を求める.

1 バルガス,軍部の圧力を受け次期大統領選に立候補しないと表明.

45年2月

2.01 Góis Monteiro将軍,左翼活動家への恩赦と総選挙を支持すると表明.

2.12 ブラジル軍,モンテカシーノの激戦に加わる.

2.28 バルガス,検閲制度を廃止し新選挙法発令.ソ連と国交を回復.

45年3月

3.02 恩赦委員会,サンパウロでデモ行進.

3.03 レシフェで恩赦委員会がデモ.官憲の弾圧で学生一人,労働者一人が殺害される.抗議の行動が全国に広がる.

3.08 リオのシネランディアで民主化行動委員会の集会.

3.10 民主主義を求めるジャーナリスト宣言が発表される.

45年4月

4.01 ブラジル,ソ連を承認.

4.06 UNE,恩赦週間を呼びかけ.政治反釈放を求める学生デモ広がる.

4.07 旧サンパウロ民主党を中心とする保守派の反バルガス勢力,国民民主連合(UDN)を結成.エドワルド・ゴメス将軍を議長とし都市の有産階級を基盤に勢力を伸ばす.ゴメスはコパカバーナ反乱の生き残り。

4.18 共産党などの政治犯がいっせいに出獄.釈放されたプレステスは,バルガス支持を表明.

4.21 ルーズベルト米大統領が死亡。共産党,ルーズベルトに対し哀悼の意と賞賛の辞をささげる.

45年5月

5.15 バルガスの指示の下に,労組上層部より成るブラジル労働党(PTB)結成.バルガスがみずから党首となる.保守派は,バルガスの女婿エルナミ・デ・アマラル・ペイショットを党首とする民主社会党(PSD)を組織.ミナス州を中心に旧共和党員も多数参加.東北部のオリガルキーを基盤とする.

5.22 ブラジル共産党,合法活動を認められる.モンテイロ陸軍長官ら軍首脳は、共産党との和解に不信をいだく。

45年9月

9.19 労働組合の会議,CGTB (Confederação Geral dos Trabalhadores do Brasil)の結成を決議.

10月初め 大統領居座りをねらうバルガス,実弟ベンハミン・バルガスをリオの警視総監につけようと工作.ベンハミンは窃盗の犯罪歴を持ち、売春とギャンブルへの関与で知られていた。

10.17 モンテイロはリオ警察の人事を国家と軍隊への侮辱とし、バルガス否認を通告.事実上のクーデターによりバルガス大統領辞任.最高裁長官ホセ・リニャレスが暫定大統領に就任.

10.29 バルガスは南リオグランデ州サン・ボルハに撤退し,みずからを「我が国を植民地にしようとねらう国際金融資本の手先による犠牲者」であると声明.

45年11月

11.10 最高裁,共産党の合法活動を承認.この時点で登録党員数は3千名。

11.17 共産党,機関紙「Iedo Fiúza」を創刊.

11月 バルガス失脚に伴い、マリゲイラらが釈放される。

45年12月

12.02 大統領,および制憲議会選挙.バルガス腹心だったエウリコ・ガスパル・ドゥトラ元陸相が、社会民主党(PSD)から立候補。PTBの支持も受け、UDNのエドワルド・ゴメスを破り当選.ドゥトラは55%、ゴメス派は35%.共産党とブラジル統一行動党も選挙に参加.

12.12 党機関紙Tribuna popular、プレステス議長の談話を掲載。プレステスは平和と秩序を維持するために闘うとし、「混乱を望むのはファシストと反動主義者だけ」と述べ、合法主義の立場を強調する。

12月 バルガス、リオグランデ・ド・スルからPTB候補として上院議員に当選。議会での処女演説で、Spruille Braden(アルゼンチン)とアドルフA.バール, Jr.(ブラジル)の両米国大使がバルガスに対するクーデターをあおったと示唆。反ヤンキー民族主義を打ち出す。軍部は米国の関与を否定するが、Bradenとバールは、「バルガスが大統領選挙の直前に共産党の支持を望んだ」と述べ、事実上、干渉を認める。

 

1946年

1.31 ドゥトラが大統領に就任.共産党は60万票(10%)を獲得し,議席数第4位の有力政党に躍り出る。首都リオでは総投票43万のうち11万を獲得.連邦および州議会に78名,上院議員にプレステスが当選.マリゲイラほか下院議員14人を送り込む.

46年2月

2.02 制憲議会が開会.マリゲーラ,ストライキ権を擁護する演説.

2.20 サンパウロで賃金凍結令に抗議するストライキ.10万人が参加する.このほか1月から2月にかけ,60件のストライキが相次ぐ.

46年3月

3.15 ドゥトラ,法令9,070号を公布.ストライキの弾圧に乗り出す.

3.16 プレステス,もしブラジルとソ連が戦えば,ソ連に味方すると発言.マスコミはいっせいに「ブラジル共産党はモスクワの回し者」とするキャンペーン.

46年4月

4.23 警察,リオのカリオカ広場で開かれた集会を弾圧.一人が死亡.警察はさらに共産党本部に立ち入り捜査.

46年5月

5.01 ドゥトラ,リオにおけるメーデー行動を禁止.マウア公園とカリオカ広場に戦車が出動.

5.23 官憲,カリオカ広場の共産党機関紙「Imprensa Popular」編集局を閉鎖.この行動でセリア・マガリャンエスが死亡,10人が負傷する.

46年6月

6.01 リオでゼネストが決行される.

8 臣道同盟(勝ち組)による殺人事件,29件に及ぶ.政府は日本人177名を好ましからざる人物として国外追放処分.「年齢および出身地の如何を問わず,日本移民の入国いっさいを禁止する」法案,議会に上程されるが否決.

勝ち組と負け組: 日系コロニアが、神州不滅を信じる「勝ち組」と、敗戦を認識する「負け組」に二分される。勝ち組の一部に臣道聯盟が組織され、敗戦認識普及を図る負け組幹部らにテロ。23人を暗殺し、147人の負傷者を出したとされる。

9.17 制憲議会、大統領の直接選挙制や行政権の制限、司法権の強化などを定めた進歩的な新憲法(46年憲法)を採択.翌日より発効。軍の強い意向を受け、連邦主義の装いを残しつつも、さらに中央集権が強化される。

7.08 リオの共産党本部で,第三回ブラジル共産党大会,合法下に開催される.

46年12月

12.04 サルバドル・セザール・オビノ統合参謀本部議長が、アイゼンハワーと会談。アメリカの対アルゼンチン軍事援助に反対の意向を明らかにする。

12月 ドゥトラ大統領、「共産党への投票は外国勢力への投票」と非難。

46 リオデジャネイロ州ボルダ・レドンダに国営製鉄所建設.ミナスの鉄鉱石とリオ,サンパウロの消費地を結ぶ地点に建てられ,重工業発展の基礎となる.

 

1947年

1.19 地方選,共産党は総投票数6百万のうち百万を獲得し大躍進.首都区議会では第一党となる.リオを含むグアナバラ州知事にはトリブーナ・デ・インプレッサ紙社主でUDNのカルロス・ラセルダが当選.

2月 検察庁、最高選挙委員会にたいし共産党の承認を取り下げるよう要請。後に米政府の圧力によるものであったことが明らかになる。

3月 米駐留軍が撤退を完了。米国の進出に反対し民族主義者と共産党が共闘の動き。ドゥトラは青年共産同盟の活動を禁止する。

47年5月 共産党の活動禁止

5.07 最高選挙評議会,3対2で共産党の政党登録を抹消し,党活動を禁止する決定.警察はただちに党事務所、党運営のクラブなどの建物を接収。この時点で共産党の党員数は20万人に達する。

5月 CGTBも活動禁止,14組合に強制捜査.政府は労働組合に「臨時行政官」を送り、統制を強化。

5 ドゥトラ,反共親米路線を鮮明に.ソ連との国交も事実上断絶.開放経済の下で貧富の差の拡大と米資本への従属がすすむ.

47年6月

6.18 サンパウロ州アンハンガバウで共産党非合法化に抗議する行動.

6.18 駐米大使大使カルロス・マルティンス・ペレイラ・エ・スーザ、アチソン国務長官と会談。軍事学校の設立のための財政的・技術的援助を要請。リオ条約にあわせ軍の米国型システムへの転換を試みる。

6.24 共産党の影響下に雑誌「婦人運動」が創刊される.

6月 最高選挙評議会,共産党議員の処遇は自らの関与する問題ではないと表明。

47年8月

8.01 サンパウロで高物価に抗議する行動.バス300台がとまる.

8.06 UDNの保守化を嫌う左派はブラジル社会党(PSB)を結成.(1892年の社会党とは別組織)ジョアン.マンガベイラが委員長に就任.土地の社会的所有,エネルギー・資源の国有化,小農民の協同組合への組織を主張.

8.15 サンパウロで共産党機関誌「プロブレマ」が発刊される.

9.02 リオで米州会議.19ヵ国が相互援助条約を締結する(リオ条約)。しかし集団防衛の物質的基礎となるべき「米州協力法」(Inter-American Cooperation Act)は米下院で否決される。

47年10月

10.20 ソ連との国交を断絶.

10月 上院、共産党議員の追放提案を否決。引き続き下院でも激論となる。

10.21 Tribuna Popular紙が発行禁止となる.警察は社内に立ち入り設備を破壊.

47年12月

12.02 サンパウロ州ソロカバナで2万人が参加するストライキ.

47年 ドゥトラの放任政策の下、この年の国際収支は2億ドルの赤字となる。一方で米国の直接投資は年間数億ドルに達する。家賃は3倍に高騰。激しいインフレの中で、貧富の差は一気に拡大。ブラジル型経済構造が形作られる。

 

1948年

48年1月 共産党の非合法化

1.03 警察,共産党の日刊紙「Hoje」社を襲撃.関係者多数を逮捕.

1.05 政府,プレステスを予防拘禁すると発表.共産党が反乱を起こすといううわさが広まる。

1.10 共産党員の公職追放案,181対74票で下院を通過.国会議員など共産党議員百名が資格を剥奪される.

1.12 Gregório Bezerra,共産党議員団を代表し,最後の議会演説.マリゲーラ下院議員は,議席剥奪後サンパウロで地下活動を開始.

1.28 地下の共産党,「1月宣言」を発表.ドゥトラ政府の独裁性を厳しく批判.過去の改革主義的な幻想について自己批判。しかし民族解放民主戦線の方針は堅持。民族ブルジョアジー内の反帝派、とくに進歩的中産階級との同盟を目指す。

1 最高裁,政府の提訴を受け共産党を非合法化.「破壊的信条または階級的偏見を説くことを禁止した憲法の規定に反する綱領をもつ団体」とする.

48年2月

2.28 官憲,サルバドルの共産党事務所を襲撃.一人が死亡.

3 ボゴタで第9回米州会議開催.トルーマン・ドクトリンにもとづくボゴタ憲章採択.常設機構として米州機構(OAS)設立,アメリカを盟主とする反共軍事同盟となる.

4.15 リオ近郊のデオドロ兵器庫で爆弾。34人が死亡。官憲はこれを共産党の仕業と発表。

4.16 政府は1週間にわたり共産党弾圧作戦。党員千名が逮捕される。

6月 米陸軍、ブラジルに2個師団(約5万名)を創設し、南米諸国の治安に関する情報活動を行わせるよう提案。ブラジルを目下の同盟者として育成する意向を示す。国務省と統合参謀本部は、マゼラン海峡生命線の立場から、アルゼンチンとの関係強化を図る。両者の対立は、ブラジル軍側に不信感を呼ぶ。

7月 米国との間で、ブラジル軍事学校の設立で合意に達する。当初の予想より反共主義が強化され、ブラジル側の財政負担も重くなる。

9.23 連邦区議会,官憲の弾圧により閉会に追い込まれる.

9 リオ条約(米州共同防衛条約)締結,「如何なる国に対する武力攻撃も,米州のいっさいの国に対する攻撃とみなす」(第3条)など,のちの安保条約などのひな型となる.

11.07 ミナス州St John Del Rey Minning Co の用心棒,ノバリマ鉱山の労働者代表で共産党議員の Williiam Dias Gomesを射殺.

48 国連ラテンアメリカ経済委員会(CEPAL,英ECLA)発足,本部はサンチアゴに.

 

1949年

49年 米下院、相互防衛援助法(Mutual Defense Assistance Act)を採択。同盟国への武器輸出を承認。しかしラテンアメリカ諸国への割り当てはなかったことから、軍部の対米不満が高まる。一方、ブラジル軍若手幹部の育成に力を入れたことから、軍内で反共・親米派(エドゥアルド・ゴメス、カステロ・ブランコ、エルネスト・ガイゼルら)の比重が増大。

49年 地下の共産党、Mantiqueiraで会議。バルガスの反ファッショ戦線を再評価し、国民統一戦線を呼びかける。

49年 ポンド切り下げ.ブラジルのポンド資産は暴落.この後イギリスの影響力は消滅.

 

1950年

7.26 ブラジル労働党(PTB),大統領候補にバルガスを擁立.副大統領にジョアン・カフェ・フィリオ。UDNはエドワルド・ゴメスをふたたび擁立。PSDはクリスチャン・マチャドを擁立。軍部はバルガスの容共姿勢に警戒.

7月 朝鮮戦争が始まる。米国はブラジルの国連軍への参戦を促す。軍内で参戦の可否をめぐり論戦。親米基調のカステロ・ブランコら「ソルボンヌ大学グループ」と、途上国との関係重視と対米関係見直しを主張するNewton Estillac Leal、Nelson Werneck Sodreら「民族派」に分かれる。さらに軍内左派は米国による「朝鮮侵略」を非難。

8.05 ブラジル共産党,「8月宣言」を発表.民族解放民主戦線におけるプロレタリアートの指導的役割を強調。民族派(バルガス派)への無原則的迎合を戒める。

8月 雑誌「陸軍クラブ評論」(Revista do Clube Militar)、「朝鮮戦争をめぐる考察」と題する“Capitao X”名の長大論文を掲載。朝鮮戦争を「米国による侵略行為」と非難。これが共産党の路線とも一致するものだったことからソルボンヌ派が反発。軍内の対立は抜き差しならないものとなる。Canobret Pereira da Costa国防相は、軍内対立を抑えるため、反米派将校を遠隔地に左遷。

9.24 Livramento, RSで 共産党員4人(Abdias Rocha, Aladim Rosales, Aristides Correa , Ary Kuhlman)が官憲により虐殺される.

10.03 バルガス,民族主義と社会正義を掲げ、ふたたび大統領に当選.

10.10 パラ州ポレカトゥで農民の武装反乱.

12月 Catete Palaceで国家安全保障会議が開かれる。朝鮮派兵の是非について結論を出せないまま終了。バルガス次期大統領も確答を避ける。

 

1951年

1.03 プレステスの誕生日を期して「共産党の秘密拠点が捜索を受け,武器・爆弾などが押収」されたとの発表.

1.18 最高裁,バルガスの当選を確認.

1.31 バルガスが大統領に就任。このとき68歳。ブラジル労働党(PTB)のジョアン・カフェ・フィーリョを副大統領、民族派の旗頭エスティリャックを国防相に指名。

3月 米州機構総会。Joao Neves da Fontura外相は、陸軍一個師団が朝鮮に派遣される可能性を示唆。Paulo de Figueiredo首席軍事顧問は、軍事視察団を朝鮮に送る用意があると発言。

6 バイアとミナスでツピニク族の土地占拠闘争.

7.28 サンパウロで第一回ブラジル婦人連合大会.平和のための戦いを強調する決議を採択.

8.01 軍の最高実力者ゴエス・モンテイロ参謀本部議長が、オラシオ・ラファエル蔵相とともにワシントンを訪問。ブラジル軍の朝鮮戦争参戦の見返りについて最終調整に入る。米国はブラジル側が期待した要求に確約ができずに終わる。

8月 バルガス、モンテイロが持ち帰った合意草案を受け入れず。バルガスもモンテイロも第二次大戦にブラジル軍を送ったときの責任者。このとき期待した見返りは結局あたえられなかった。

 

1952年

3.15 バルガス政権と米国との間に新軍事協定が締結される.議会もこれを批准。

米伯軍事協定成立の経緯: 目下詳細不明だが、この協定の締結および議会での批准をめぐっては、軍内外で相当な議論があったようである。野党と軍内民族派は反対闘争を展開した。折からの陸軍クラブの議長選挙では、新協定の是非が争点の中心となった。軍の分裂を恐れたモンテイロは、バルガスに議会での批准強行を思いとどまるよう進言した。新軍事協定の成立は、Alcides Etchegoyen and Nelson de Meloら親米派軍幹部の勝利を意味した。国防相Estillac Lealは、自らの承認なしに交渉が行われたと抗議し辞任した。

3 当局,モンテロ参謀本部議長の自動車運転手を共産党スパイとして逮捕.軍内親共派150名を一斉摘発.

12.14 リオの紡績工場でストライキ.当局の弾圧によりAltair de Paula Sousaが死亡.

52 北東部で連続して大旱魃.多数が東南部へ移動.財政的インフレによる物価騰貴強まる.

52 貿易相手国の二位がイギリスから西ドイツに入れ替わる.

52年 陸軍クラブ議長選でエスティリャクは敗れ、国防相の地位も更迭される。

52年 マリゲーラ、解放直後の中国を訪問。

 

1953年

1.05 政治・社会秩序防衛法が成立.集会の自由が剥奪される.

2 共産党幹部のオリンピオ・カラバルホ(元大佐),ベロオリゾンテで開かれた鉱山労働者の組合「赤色戦線」の会議で演説中を逮捕される.

53年3月 サンパウロ労働運動の高揚

3.10 サンパウロで8千の繊維労働者がデモ行進.

3.18 サンパウロで,物価上昇に抗議する6万人が空鍋を叩きながら行進.

3.26 サンパウロで繊維労働者6万人がゼネストを決行.1ヶ月の闘争の末勝利.

3.31 スト中の労働者と警官隊が衝突.4時間にわたる乱闘で数百人が逮捕される.

53年4月

4.09 サンパウロで2万人が参加するデモ行進.ゼネスト支持を訴える.銃による弾圧により2千人が逮捕される.

4.10 サンパウロで労働組合連絡会議が結成される.スト参加者は30万人に拡大する.

6 PTBのグラール(Joao Belchoir Marques Goulart),労相に就任.ペロンにならい最低賃金を倍増するなど急進的政策を実施.

10.3 2年間の議論を経て国有石油会社(ペトログラス)設置法が成立.バルガスは「石油は我々である」とのスローガンを掲げ、成立を推進するが、原油掘削技術がない状況では重要な意義を持たず。

53年 アマゾン経済評価庁設立.通貨・信用管理庁(SUMOC),輸入為替競売制を導入し輸入代替工業化を促進.国家発展評議会が設置され、産業成長の強化策を検討。しかし慢性的インフレ、輸入超過と輸出停滞、低い生産性などでは、ドゥトラ以来の宿阿を克服できないままに終わる。

 

1954年

2.08 陸軍クラブ議長選で反バルガス派がふたたび勝利。軍幹部82名が連名で、最低賃金法反対の意見書「佐官の声明」を国防相に手渡す.

2.20 グラール労働相は辞任に追い込まれ、ウルグアイ亡命を余儀なくされる.

6 ブラジル総選挙に向け共産党はブラジル民主同盟の名で登録申請しようとするが,政府により阻止される.

7 ブラジル当局,共産党指導者アルミリオ・デ・バスコンセロスを逮捕.重要文書を押収.

54年8月 バルガスの自殺

8.05 反バルガスの急先峰カルロス・ラセルダ,車で移動中のところをバルガス側近(おそらくはベンハミン一味)により襲撃される.同行していたルーベンス・バス空軍少佐が射殺される(トネレイロ事件).

8.08 空軍将校団,バルガスの退陣勧告を決議.海軍もこれに同調.(貧困子弟が集まる陸軍に比べ、海軍・空軍はエリート出身が多く、親米・反共・反民族主義の傾向が強かった)

8.23 バルガス、大統領の辞任に同意。後任にカフェ・フィリオ副大統領が就任。

8.24 バルガス,官邸内でピストル自殺.副大統領のジョアン・カフェ・フィリョが政権継承.

8.25 バルガスの遺体がリオのサントス・デュモン空港に運ばれる.50万人が葬儀デモに参加,空軍部隊と対決.共産党などが、「人民のために闘ってきたが,国際的な独占資本と国内反動勢力の前に敗れた」とするバルガスの遺書を宣伝.これは実際はゴラールが作成したものといわれる。

8.25 リオではラセルダの新聞社や米大使館などが襲撃される.ポルトアレグレでは米領事館と米企業を襲撃した群衆に軍が発砲.6人が死亡,数百人が負傷する.

54年9月

9.02 サンパウロで労働組合統一会議(Pacto de Unidade Intersindical)の指導により,物価上昇に抗議するゼネスト.100万人を結集.

9.21 サンパウロで第二回農村労働者全国大会開催.ブラジル農業労働者組合(ULTAB)の結成で合意.

9.21 レシフェ周辺のズムビ共同体への弾圧.

10.03 議会選挙。PSDが下院320議席中113を獲得。

11.07 ブラジル共産党第4回大会開催.プレステス書記長は反帝反封建の民族解放民主戦線の結成を提唱.「8月宣言」の立場を変更。当面する革命の性格を反帝・反封建民主革命とし、ふたたび民族ブルジョアジーを同盟者と規定する。バルガスなきバルガス派との連携を模索。モスクワの指令の下,中間政党との無原則的な合同政策は退けられる.

 

1955年

1.01 レシフェの西方50キロのビトリオ・デ・サント・アントンのガリレイア農場で,小作農の自営地にたいする借地権取り上げの動き.小作農は元共産党員のジョゼ・ドス・プラゼレスを指導者とする農牧生産者組合を組織しこれと対抗.

1月 ガリレイアの農民,第一次農民同盟を結成.農地解放を掲げたたかいを開始.弁護士でペルナンブコ州選出下院議員フランシスコ・ジュリアンに援助をもとめる.東北部を中心に急速に組織拡大.

8 ノルデステ地方の後進性脱却を訴え,レシフェでノルデステ救済大会開催.地方政府の要人や産業人もふくめ結集に成功.

10.03 大統領選.PSD(旧ドゥトラ派)の推したジュセリーノ・クビチェックが275万票(34%)を獲得し圧勝。UDNはフアレス・タボラ少将をたてるが、234万票で敗北。クビチェックはチェコ系移民の家系を持ち大統領選までミナス州知事を勤めた.

10.03 PTBは独自の大統領候補を立てず、副大統領にグラールが出馬.その得票はクビチェックを上回る40%。共産党は全国労働大衆運動(MNPT)を組織し,独自にクビチェックを支持して運動.この時点で共産党の集票力は60万票といわれる.

10 UDNはクーデター説を流し不安をあおる.カルロス・コインブラ・ダ・ルス下院議長は軍部右派と結託し、クビチェックの就任を阻止する策動.

55年11月 護憲クーデター

11.03 ジョアン・カフェ・フィリオ暫定大統領、心筋梗塞を起こし病気退陣.

11.05 「立憲国軍運動」の機関誌,クーデターの陰謀を非難.軍部内でクーデター派と立憲派の対立.

11.09 カルロス・コインブラ・ダ・ルス下院議長が臨時大統領に就任.

11.10 ルース,クーデター派と共謀し立憲派指導者のエンリケ・テイシェイラ・ロット将軍の罷免をはかる.

11.11 陸軍首脳部はルースの策動を知りただちに2万5千の兵を動員.大統領官邸を包囲.ルースとクーデター派を放逐する(護憲クーデター).ラセルダはまもなく国外逃亡.

11.12 国会は上院副議長ネレウ・デ・オリベイラ・ラモスの臨時大統領就任を決議.ラモス大統領はロット将軍を国防相に指名。最高裁は「憲法が言論と信仰の自由を保障している以上は,共産主義的見解の表明は非合法ではない」と裁定.

11.21 病気休職中のカフェ・フィリヨ元暫定大統領,議会に職務復帰を通告.上下両院,カフェ・フィリヨの復職を認めぬことを決議.

11.25 議会の承認を得て、非常事態宣言が発令される.

55 サンパウロ,リオを抜きブラジル最大の都市となる.

 

1956

1.05 クビチェック,大統領就任を前に米国を訪問し支持を求める.

1.31 クビチェック,大統領に就任,「50年(の進歩)を5年で」というスローガンで外資導入と工業化を精力的に推進.新首都ブラジリア構想をうちあげる(METAS計画).5年間に毎年2億ドル以上の外国直接投資,工業生産は8割成長.自動車生産は世界第7位となる.サンパウロ郊外のABC3市に,外資系企業の大量進出.一方国民生活費も10倍になり,実質国民所得はマイナスを記録.

56年2月 空軍の陰謀

2.01 非常事態が解除される.

2.09 開発評議会が設けられ,経済政策を集中管理することとなる.

2.11 空軍による反政府クーデターの動き.ハロルド・コインブラ・ヴェロサ少佐とホセ・チャベス・ラメイラオ大尉が,ひそかにパラ州ジャカレアカンガ(Jacare-Acanga)に兵を集める.

2.19 空軍将校によるクーデターの陰謀が発覚。反乱は鎮圧され、反乱派将校は大赦を受ける。

2.21 サント・アンタン郡の隣アマラジ郡のプラタ・グランデ農場でも,カルモ社の土地とり上げに反対してあらたな闘争開始.カルモ社と組んだ州知事コルデイロ・デ・ファリアスは重武装した警察隊を派遣.農民を追い出し農地を破壊.ジュリアン,レシフェで「農民解放のための手紙」を発表.農民同盟を母体に全国的な農民の組織化をうったえる.

2.29 ジャカレアカンガの陰謀が暴露される.空軍将校二人が逮捕される.

56年3月

3.09 共産主義者56人に対する恩赦法案,議会で否決される.

4 八幡製鉄の技術長,ウジミナスを視察.クビチェックの大歓迎を受ける.

5.13 UNE,バス代値上げに対する抗議行動を展開.軍の出動により1人が死亡.

7.18 航空会社従業員が全国ストを展開.

8.12 ロット将軍,文盲への選挙権付与を提案するが,議会はこれを拒否.

11.03 新首都ブラジリアの建設が開始.

56年 ブラジル,英国より空母「ミナスジェライス」号を購入.

 

1957年

5 ペルナンブコ農民同盟の600人,メーデーに参加し労働者と連帯.

7.22 リオで金属労働者のスト.

8 共産党,スターリン批判とハンガリー事件をめぐり内部分裂.活動停止に陥る.フルシチョフの新路線に反対する分派は,ブラジル共産党(PCdoB)を結成.そのご毛沢東路線に近づく.

8.03 プレステスに対する時効成立.公然活動を開始.

8.16 ミナス州イパチンガでクビチェックも臨席してウジミナス製鉄所の定礎式.年間2百万トンの生産をめざし日本が40%を出資.操業開始は62.10と大幅に遅れ,日本の投資意欲減退.

8.27 リオでスト権制限に抗議するデモ.

10.15 サンパウロで40万人が参加するストライキ.6単産で25%の賃上げを獲得.

11 プレステス書記長,党政策達成手段としての「革命」を放棄し,平和的手段により社会主義をめざすと声明.合法化をめざし活動再開.

12 空軍将校による反乱発生.

57 PCB,「パルマーレス」農業労働者解放連合(ULTA)を組織.のちにクアドロス,グラールらの支持を受け,LIGAに代り農民運動の主流となっていく.

 

1958年

1.21 レシフェの繊維労働者がストライキ.

3.13 レシフェでゼネスト.

3.22 共産党、「3月声明」(Declaracão sobre a politica)を発表。第4回大会決定の立場を再確認。進歩的民族派と米帝国主義・同盟者の間に根本的な矛盾が存在するとし、ブルジョアジーとの間に搾取関係があっても、「アメリカの帝国主義からの独立と封建性からの脱却のために、ともに闘う用意がある」と強調。

5.13 レシフェで第1回ペルナンブコ農民大会.3千人が参加し市内をデモ行進.

8.09 ブラジルのクビチェック大統領,米州外相会議を前に「パンアメリカ作戦」を提唱.低開発との共同の闘いを訴える.

9月 ワシントンで米州外相会議.アメリカはクビチェック提案を受け入れ,世銀のOAS版として米州開発銀行(IDB)を設立.LA諸国の経済的社会的開発の促進を目的とし,米国の独占資本の支配下に共同市場形成への足場を築く.業務開始は60年10月.

10.30 サンパウロで労働組合会議が運賃値上げに対する抗議行動.官憲との衝突で5人が死亡.

12.02 サンパウロで交通労働者を中心にゼネスト.

58年 Leonel Brizola、史上最も若い州知事(36)として、リオグランデ・ド・スル州知事に就任。

58 コーヒー国際価格,大暴落.国家財政は一気に破綻.

 

1959年

5.21 リオ,ニテロイでストライキが拡大.警官との衝突で二人が死亡,112人が負傷.

6.28 クビチェック,国家の尊厳をまもる立場からIMFとの交渉を打ち切り.Roberto Campos経済相はこれに抗議して辞任.

11.17 ジュリアン,農民同盟を母体に農業労働者連盟評議会(LIGA)を設立.

フランシスコ・ジュリアン: レシフェ出身の弁護士。キューバ革命の影響を受け社会主義へ接近.キューバより帰国したのちベロオリゾンデ宣言で農地改革,土地の国家・社会的所有の路線を打ちだす.グラールの支持も得て63年には最高時2万人を組織.全国20州に219の同盟が活動するまでになる.共産党と一線を画し,のちにトロツキストの影響を受ける.(岩波新書「重いくびきの下で」)

11.17 Heitor Villa-Lobos (72)が死亡。

59年12月

12.03 空軍将校3人(Lt. Colonel Haroldo Veloso, Joao Paulo Moreira Burnier, and Colonel Luis Mendes da Silva)が,ゴイア州アラガルコスでクーデターの企て.リオの軍を中心にクーデターの動き.ロット陸相は手勢をリオに差し向け反乱を事前に鎮圧.反乱軍に恩赦を行う。

12.15 サンパウロで民間建設労働者のストライキ.

12.15 東北地方開発庁(SUDENE)設立.セレソ・フルタードが長官に就任.

59年 日本人移民の再開.約26万人が移民.88年時点での日系人は約123万人と推計されている.

59年 パウロ・フレイレ、レシフェ近郊の農村で農民への識字教育を開始。字を覚えるだけでなく、農民を「意識化」(Conscientization)し、変革の力をつける(Empowerment)ことを目指す。その後のキリスト教共同体運動のひな型となる.

59年 映画「黒いオルフェ」。監督はマルセル・カミユ、音楽はルイス・フロリアノ・ボンファ。

 

1960年

1.29 アイク,ブラジルを訪問しクビチェックと会談.UNEは抗議行動を展開.

4.21 ブラジリア遷都.この当時のブラジリア人口は14万人.

9 八幡製鉄社長と経団連事務局長,ウジミナスの建設現場を視察.建設は急速に本格化.

10.03 大統領選.社会民主,労働の各党と農民同盟はロット陸相を推してたたかうが,国民民主同盟とキリ民党の推すサンパウロ州知事ジャニオ・クワドロスに敗れる.クワドロスは560万票という空前の得票を獲得.副大統領にはゴラールが就任.共産党,ロット支持を申入れるが拒否され独自の支持.

60 ブラジルの経済成長率は8%を超え,自動車生産は世界第八位に進出,世界第2位の食料輸出国となる.人口は30年前の33百万から7千万人に達し,ラテンアメリカ総人口の1/3を占める.一方で外資導入が高度のインフレ(40%)を招く.

60 クレスポ,メロの両神父,貧困にたいする人道的立場から,教会派に属する農民組織「農村労働者連合」を結成.クーデター直前には20万人を結集するにいたる.ナタルのエウジェニオ・サラス司教も独自の農民組織を結成.

60 共産党第5回大会.三月声明の基本線を承認。「国の完全な経済的解放,後進的な農業構造の一掃,完全な民主的諸権利の確立,大衆の生活条件の改善を保証するような政府」の樹立を目指す平和的な道を決定.ジョアン・ゴラール政権を支持し、61年の大統領選挙ではロット元帥を推薦。その後政権への無原則的迎合に反対するJoao Amazonas, Pedro Pomarらが党から排除される。

 

1961年

1.21 ポルトガルの民主化とサラザール独裁打倒をめざすエンリケ・ガルバン大尉,大西洋航海中のポルトガルの豪華客船「サンタマリア」号を乗っ取る.12日後にレシフェに上陸し亡命.

1.31 UDNのクアドロス,大統領に就任.副大統領には引き続きグラール.超党派政治を宣言し、金融引き締めと賃金凍結を柱とする緊縮政策を発表。また女性が浜辺でビキニを着るのを禁じ、闘鶏を禁止する。

2 クアドロス,IMFの意向に沿った経済再建をめざし公務員1万人を解雇.クルゼイロを5割切り下げ,緊縮,増税政策をとるいっぽう,東欧,キューバとの接近を図り,左右両派から攻撃を浴びる.

3 バール特使,クアドロスと会見.キューバ制裁に加担するよう圧力.

5 ジュリアンら百名の農民代表がキューバを訪問.

7 クアドロス,財政再建の第二弾として為替レートの完全自由化に踏み切る.インフレはさらに亢進.クアドロスはインテグラリスタと非難される。

7 フルタード,米国を訪問しケネディと会見.SUDENEの革命防止に果たす役割を説き,米政府の援助約束をとりつけることに成功.

61年8月 クアドロスの辞任

8.17 ウルグアイのプンタ・デル・エステで米州会議経済社会理事会.進歩のための同盟の発効で合意.@十年間に2百億ドルの援助.A土地改革と税制改革など経済改革,B十年間にひとりあたり所得を2.5%引き上げ,などを骨子とする.会議に出席したクアドロス,独断でゲバラにブラジル最高勲章をおくり,保守派の集中砲火をあびる.

8 鉄鉱山国有化法案提出.ラセルダ,反クアドロス・キャンペーン開始.与党UDN,クアドロス弾劾決議.軍も離反.

8.24 クアドロス大統領,「わたしは恐ろしい勢力の圧力に破れた」と謎の議会あて声明。就任後8ヵ月で職を投出し辞任.まもなくヨーロッパに亡命する.政敵ラセルダ(グアナバラ州知事)は、「クアドロスは独裁者になることを目指していた」と非難。その後の分析ではクアドロスはサンパウロに篭り,「民衆の支持」を待つつもりだったが,期待した民衆の蜂起はなかった.

8.25 マジリ(Ranieri Mazzilli)下院議長が大統領代理となる.後継大統領予定者のグラールは、公式訪問中の中国から急遽帰国しようとするが,軍により帰国を阻止される.議会はグラールの就任を拒否.

8.31 南リオグランデ州知事レオネル・ブリゾーラ(義弟)と第3軍および第5空軍はこれに抗議し,決起の姿勢を見せる.政府軍,南リオグランデとの対決に動く.労働総同盟はグラール支持を表明,鉄道労組はストに入る.

9.07 軍部とグラール=ブリゾーラ派,大統領の権限を大幅に制限する内閣制をとることで妥協.ゴラールの大統領昇格が確定。

9.09 帰国したグラールが大統領に就任。首相にはミナス出身のタンクレド・アルメイダ・ネベスが就任.産業の統制強化,労組強化,農地改革,石油工場の国有化などをはかる.

10.18 銀行従業員3万人が全国スト.40%の賃金引上げを実現.

11.15 ベロオリゾンデで第1回ブラジル農民・農業労働者大会開催.百以上の農民組織の代表1,500人が参加.ジュリアンの農民同盟,カトリック系,共産党系の運動が総結集.グラールは閉会式の議長をつとめる.その後の組織統一にはいたらず.その後もセレソ・フルタード経済開発庁長官を中心に,経済開発理論の立場からノルデステの貧困解決に取組む.

11.20 ブラジル,ソ連との国交回復.

11.24 ゴイアニアで「民族解放運動」結成.議長にプリゾーラ、書記長にゴイア州のポジェス知事が就任.民族主義的路線をうちだす.アマゾナス,セアラ,ピアウイ各州知事も後に参加.

民族解放運動の結成宣言: 人民とその武装勢力は,グラール就任を阻止しようとした危険な反動攻撃を粉砕したが,政変の陰謀は依然として存在している.民主的な法律は,人民が自己の経済的解放をかちとるための武器となるべきで,みずからを飢餓に追いやる道具とするべきではない.
これまでの国家経済政策は国際的な独占グループ,とくに米独占に従属してきた.ブラジルは土地改革,外国資本の規制,外国企業,銀行の国有化,不法財産の没収など大幅な構造改革をおこなわなければならない。

12 レシフェ市長ミゲル・アラエス・デ・アレンカル,グラールの支持を得てペルナンブコ州知事に当選.小作農や農業労働者の組織化を図るなど急進的政策を実施.

61年 マクナマラ国防長官もブラジル外交政策の中立性について疑問を提起。ワシントン駐在のロベルト・カンポス大使は、「ブラジル政府は国際情勢に対して中立であるよりも個性的であることを望む。閣僚構成について米国政府があれこれ評価するのは不適切だ」と反論。

 

1962年

1 リオの全学連(UNE)本部に右翼の襲撃.

2.18 共産党中国派,「ブラジル共産党臨時再建大会」を開催.PCdoBと呼ばれる.フルシチョフ路線と右翼日和見主義に決別.新たな宣言と綱領を採択.ジョアン・アマゾナスとマウリシオ・グラボイスが指導。

62年4月

4.02 南リオグランデ州知事ブリゾラ,州内のITT施設を接収.「米国の電力その他の独占企業はブラジル人の手に戻るべきものであり,今後も国有化を推進する」と述べる.

4.5 パライバ州サペ農民同盟の指導者ホアン・ペドロ・テイシェイラ,地主の雇った殺し屋により暗殺.ジュリアンは州都ホアン・パソアで抗議集会.農民3万5千人がスキやクワを手に結集.

4 グラール,訪米しケネディと会談.共産勢力浸透防止と,西側の結束で合意.進歩のための同盟に基づく2億7千万ドルの援助をとりつける.

4 レシフェに米国の東北ブラジル援助代表部設置.進歩のための同盟にもとづき1億3千万ドルの基金をもとに4ヶ年計画を実施開始.

62年5月

5.1 グラール,メーデーで演説.「全面的な農業改革の意志」を表明.農業労働者の組合結成を合法化する連邦法可決.東北地方を中心につぎつぎと農民組合が結成.

5 ペルナンブコ州リオエイロで農民千人が「われわれは飢えている.食べ物をよこせ」と叫んでデモ.その後農民暴動が各地に波及.その後ペルナンブコで農民運動の主導権をめぐる争いが激化.ジュリアンの農民同盟(LIGA)は武装闘争に乗り出すが,アラエス知事に弾圧され失敗.このあと急速に衰退し,ペルナンブコを中心としたジュリアンの個人的選挙機関に変質.共産党系もソ連派,中国派,トロツキスト派に分かれ抗争.

5 リオデジャネイロでソ連見本市開催.

62年6月

6.01 UNE,全国学生ストを提起.学生の1/3が参加.40の大学が3ヶ月にわたり麻痺.

6.25 カトリックの青年左派,人民行動 (Ação Popular)を結成.

6.26 タンクレド・ネベス首相が辞任。

7.05 全国ゼネストが展開される.リオでは警官隊と衝突.42人が死亡,700人が負傷.

7.10 タンクレド・ネベスに代わり、Francisco Brochado da Rochaが新内閣を組閣。

8.17 第4回全国労働組合会議を開催.各組織代表2,566人が参加.労働者総同盟(Comando Geral dos Trabalhadores)を結成.

62年9月

9.13 ダ・ローシャ首相が辞任。その後首相不在状態が続く。

9.15 CGTが内閣制廃止を問う国民投票を要求してゼネストを呼びかける.

9 対外利潤送金制限法,独占禁止法が成立.外資のSUMOSへの登録を義務付け,利潤の送金を登録資本の10%以内に制限し,国内への再投資を強制する.米国は対外援助法改正.米国企業を保障なしに接収した外国政府にたいして,特恵供与を禁止する.外国投資は一気に減少し,不況下のインフレ進行.

62年10月

10.07 下院選挙。反ゴラール派の大幅な後退。

10.23 ゴラール,リンカーン・ゴードン米大使に書簡.ミサイル危機を批判し,侵攻作戦に反対する立場を明らかにする.

10.26 ウジミナス製鉄所,操業開始.

62年11月

11.30 二ヵ月半ぶりに内閣が組織される。政府与党であるブラジル社会党のHermes Limaが首相となる.

11 ソ連と国交回復.

62年12月

12 R.ケネディ司法長官,ブラジルを訪問しグラールと会談.キューバ不干渉政策への「憂慮」を表明.また「共産主義者」が政府機関に存在することについて懸念を表明。その後ガリレイア農場を訪れ農民を激励.

12 米大使館の駐在武官ヴァーノン・ウォルターズ大佐、グラールが親米派軍人を排除し、超国家主義者を取り立てていると報告。「米国からのヘリ購入が遅れれば、グラールはポーランドから購入するだろう」と述べる。

62年末 CIAの偽装組織「社会科学研究所」(IPES),活動を活発化.18万冊の本を配布,各種組織に助成金.一方所員シークマンは,サンパウロで左翼に反対する自警団細胞を組織.退役軍人を雇い,手製の手榴弾などで武装させる.

 

1963年

63年1月

1.05 46年憲法に対する国民投票,グラール派の勝利に終る.940万対2百万票の大差となる.議員内閣制から大統領制への復帰が決まる.

1.07 ペルナンブコ州エストレリアナ農場で,農業労働者5人が暗殺される.

1 フルタード経企相の作成になる,経済社会発展3ヵ年計画発表.「進歩のための同盟」の政策に近似.

63年3月

3.02 農村労働者を保護する農村労働法公布.農場主は,これに対抗して農場内の不完全就業者を排除.

3.28 リオデジャネイロでグラールの支持の下に反動派の妨害を押し切って「キューバ連帯ラテンアメリカ人民大会」成功.

3 経済政策失敗.インフレ亢進に対処するため経済安定化計画施行.労働者の抗議のストあいつぐ.グラールはこれをのりきるため革新的ポーズを強める.

4 グラール,米議会で演説.ケネディとの友好をうたう.

63年5月

5.05 ブリゾーラとナタールの第4軍司令官ムリシとの間に論争.CGTの Hércules Correiaはブリゾーラを支持.

5 米国務省,国内反動分子の活動を賞賛.

5 グアナバラ州(現リオ州)の第1軍団司令部のアルベス将軍,反動勢力の先頭に立つ同州のラセルダ知事を批判.サンパウロの第2軍団のクルエル将軍は,アデマル・デ・バロス同州知事と連係しグラール非難を強める.

5 アルベス支持の軍人千人,リオデジャネイロで反帝抗議集会開催.代表のロドリゲス少尉はただちに逮捕.第2軍の下士官5百名,民族派支持を表明.

7.21 PCdoB、ソ連共産党に公開状を送り、資本主義国の共産党として初めてフルシチョフ路線を公然と非難。

7 グラール,外資導入の権限を州から連邦政府に集中させる.

63年8月

8.04 議会,農地法案を否決.

8.07 高物価に対し,「国民抗議の日」行動が展開される.

8.11 ペルナンブコ州ミレスの農民,査察受け入れを拒否.警官隊と銃撃戦.

8 リオデジャネイロの国会前で労働総連合の主催による土地改革要求集会.1万5千人が参加.挨拶にたったグラールは,大規模な土地改革を提起.

63年9月

9.10 リオ警察,大富豪ペレイラ・ダ・シルバによるグラール暗殺未遂事件を摘発.背景にCIA.

9.12 ブラジリアで軍の民主的改革を要求する空,海軍の下士官559名による反乱(軍曹の反乱).一時政府の施設を占拠.この反乱で二人の死者を出す.グラール,議会に非常事態令公布を要請するが,議会はこれを拒否.兵士よりのあいまいな態度をとるグラールに対し親米派によるクーデターの動き発覚.

9 イタリア遠征軍作戦司令官,軍事学校校長,防衛研究所作戦研究部長(Escola de Comando de Estado-Maior do Exercito--ECEME)を歴任したウンベルト・デ・アレンカル・カステロ・ブランコ元帥,参謀総長に就任.幹部学校 を中心にグラール打倒計画が広まる.

9 国防相のアマウリ・クルエル(Amaury Kruel)将軍,軍は生き延びるのにやっとの予算しか割り当てられず,装備の多くは旧式化し修理不能で緊急に更新が必要と発言.

63年10月

10.06 レシフェ州で,3万人の農民が農地改革を要求するデモ.軍が出動し鎮圧.

10.06 「イパティンガの虐殺」事件.ミナス州イパティンガのウジミナス製鉄所で,従業員のストに軍が介入したことから一時暴動に発展.32人が死亡,117人が負傷.

10.19 南リオグランデのブリゾーラ州知事、ラジオで民衆を動員。民兵隊「グルーポ11」の結成を宣言し、将来はこれを解放人民軍(EPL)に発展させると豪語。実際は軍をけん制するためのデマ宣伝で、「11」はサッカーチームの人数から適当につけたものだった。

10.29 サンパウロで78組合70万人が参加するストライキ.

10.29 グラール,非常事態を提案.議会はこれを拒否.

63年11月

11.16 サンパウロで米州経済社会理事会閣僚会議開催.「進歩のための同盟」路線,ブラジルなどの抵抗で破産の危機に陥る.グラール,「われわれが求めているのは,われわれを際限なく貧困状態に押し下げて行くようなアメリカの借款という新規の負担ではない.われわれが求めているのは,それでもって発展の新しい段階に進んで行けるような資源である」と演説.以後「援助でなくて貿易を」が会議の主潮となる.

11 ブリゾーラ,11の部隊20万の民兵を編成したと公言.軍部の強い警戒感を招く.

12.20 全国農業労働者連合(CONTAG)が結成される.農業改革のたたかいを促進することを目標に掲げる.ULTABが主軸となり,LIGAを排除した広範な全国組織.初代議長にリンドルフォ・シルバ.農民の土地占拠闘争がさらに急進化.

12 グラール大統領,石油輸入の国家管理を宣言.メジャーの横暴に挑戦.

63年 ブラジルで最初のキリスト教基礎共同体が誕生。10数人から30人で構成され、週1、2回集まって聖書を読み、様々なことを話し合う組織。スラムや農村の貧しいカトリック信者を結集し、ラテンアメリカ各地に広がっていく。

63年 ブラジルの教育者パウロ・フレイレ,リオ・グランデ・ド・ノルチ州の地方都市アンジコスで,独自の識字運動と教育活動を展開.たった45日間で300人の農村労働者の識字教育に成功し,一気にブラジル中の注目を浴びる.翌年3月、政府はフレイレの教育法を国全体に導入する。

63年 アルゼンチンのJ. Posadaの影響を受けたトロツキストが、Partido Operario Revolucionario (POR)を結成。Murilo Leal Pereira Netoが指導。

 

1964年

64年1月

1.2 農民同盟,レシフェでキューバ革命5周年記念式典開催.1万人が参加.

1 ブラジリアでラテンアメリカ労組統一大会開催.22ヵ国労働組合が結集,51年以来国際自由労連の手で分裂させられていたラテンアメリカ労働総同盟(CTAL)の再統一と,新たな中央労働組織の再建を決議.単一労働センターの樹立に向け,書記局のサンチアゴ設置を決める.

1 対外利潤送金制限法にもとづく外国企業の海外送金への規制を開始.外国企業のブラジル進出に対する「経済防衛行政会議」を設置.

64年2月

2.27 ベロ・オリゾンテで人民行動戦線の総会.民主婦人同盟の参加をめぐり混乱.

2 ミナス州ベロ・オリゾンテで民主勢力のデモに警察が介入.武力衝突となる.

2月 リンカーン・ゴードン米大使、「グラールは全体主義権力を握るため突進する可能性がある」と国務省に打電。

64年3月 軍事クーデターへ

3.13 グラール,みずからの命運をかけた「改革を支持する集会」を組織.リオデジャネイロの軍事省前に30万人が結集.グラールは大衆の面前で土地収用法案,民間精油所7社の国有化法案に署名.さらに演説の中で地代凍結,二千万人といわれる文盲と軍人への投票権付与,共産党合法化をおこなうと宣言.

3.13 グラールの後演説に立ったブリゾラは,法案が成立しなければ議会を解散し国民投票をおこない,「兵士と労働者」よりなる立法府を作ると演説.

3.16 グラール,議会に土地収用法,選挙法改正,共産党の合法化などをを含む憲法の一部改正案を提出.土地収用法は道路,鉄道沿いの遊休地を接収し農民に分配するもの.国民投票の実施に向け全国キャンペーンに乗り出す.

3.16 CGT,改革推進を要求するゼネストを行うと発表.

3.17 プレステス共産党議長が演説。事態の緊急性を強調し、ゴラールの指示を全面的に受け入れるよう呼びかける。

3.19 急進派議員のイニシアチブにより「人民代表との交流」キャンペーン.サンパウロで50万人がデモ.同じ日同じサンパウロで40万人が「自由を求めて神とともにあゆむ家庭人の行進」(Família com Deus pela Liberdade)に参加.反共団体IPESは,自警団を組織し武器を配付しはじめる.

3.19 ワシントンで米州公館長会議.トマス・マン米州担当国務次官補,他国に合憲的政府を強制することは,かならずしも米国の安全保障にとって有益ではないとし,「アメリカは,外交政策の面では,独裁政権と民主政府とを区別立てすることをやめなければならない」と声明.ブラジルのクーデター推進を示唆(マン・ドクトリン).

3.20 レシフェの第4軍司令官から参謀総長となったウンベルト・カステロ・ブランコ,軍内外に秘密文書を回送し,反政府革命を呼びかける.さらに米大使館にメモを提出。「グラールが議会を封鎖し、独裁政治を始めようとしている」と警告。

3.25 リオで「水兵,海兵協会」会長のジョゼ・アンセルモ伍長ら,グラールの憲法改正案支持,モタ海軍相への不服従を表明.責任者40名に対し逮捕命令が出される.

3.26 およそ1,400人の水兵と海兵隊員が,共産党系の集会に参加.集会参加者は会場に立てこもり抵抗.海軍大臣の投降勧告を拒否.逮捕に向かった海兵隊も水兵に合流,3千人が立てこもる.

3.27 陸軍部隊がビルの接収に乗り出す.占拠者は恩赦を条件にビルを明け渡す.

3.27 グラールは兵の処罰を拒否,海軍司令官を監督不行き届きの責任により解任.軍上層部を反動分子と非難.軍部に危機感ひろがる.

3.27 リンカーン・ゴードン米大使、国務省・ホワイトハウス・CIA高官あてに文書。(後の秘密文書解禁により明らかになる)

ゴードン文書: 「大きな災害を避けるのを助けるために…非米国製武器をただちに秘密裏にサンパウロの反政府派に供給するよう」もとめる。さらに続信では「サントスのひと気のない海岸に、標識を隠した潜水艦から武器を下ろすよう」要請。CIAには「反共感情をあおるべく、民主主義派の街頭集会に暗黙の支持を与える」よう要請。また国防総省に対しては、「クーデター成功後の軍の行動を助けるためタンカーの派遣」を、また「ゴラール派に脅威を与え、紛争が長引けば軍事介入する」べく軍艦の派遣を要請。

3.29 ミナスジェライスのOlympio Mourao Filho, Carlos Luis Guedes and Odilio Denys各将軍が、反乱計画について最終確認。

3.29 リオの新聞「コレイオ・ダ・マニャ」,号外を発行.「Enough!」と宣言.翌日の見出しは「Out!

3.30 グラール,憲兵・下士官クラブの40周年記念集会で演説.サンパウロの反政府デモを「大衆の宗教心を利用して反政府運動に結びつける仮面の民主主義だ」と非難.

3.30 ブラジル労働者総司令部,軍と4知事グループのクーデター策動に反対し,ゼネスト準備をよびかけ.

3.30 軍部クーデター派,海軍のクーデター妨害行動を牽制するためアメリカ艦隊の出動を要請.アメリカはただちに「ブラザー・サム」作戦を発動.空母フォレステルと4隻のタンカーが海軍基地を沖合封鎖.

3.31朝 共産党のJacob Gorender、全国指導部会議を召集。すでにミナスでは軍が動き始めたにもかかわらず、党独自の行動提起を決めず、ゴラールとの連絡を強化することのみ合意。

3.31夕 労動者総司令部がゼネストを呼びかけ。プレステスは共産党系の産業労働者全国連合に電話し、ゼネスト召集に応じないようもとめる。

3.31 ジョンソン大統領、クーデターに関して「とりうるすべての準備を進める」よう指示。ラスク国務長官はゴードン大使あてに文書。海軍機動部隊をブラジル沖合いに配置し、海軍タンカーをアルーバから急送し、110トンの弾薬と催涙ガスなどを緊急空輸すると知らせる。

4.01朝 報道各紙、共産党がストライキ参加者を公式に非難したと報道。

報道内容: 昨日、共産党は、政治的危機をもたらす過激派の動きを非難。「このような行動は中道派組合の右傾化を促し、共和国大統領を追い落とそうとする世論を強めるだけだ」とし、軽率な行動を控えるよう呼びかけた。

4.01 ホワイトハウスで緊急会議。マクナマラ国防長官が、ラスク文書と同様の内容で準備完了と報告する。実際にはこれらの準備は発動されずに終わった。

4.02 ブラジルのCIA支局からの通信。「現地時間の午後1時、ジョアン・ゴラールはポルトアレグレからモンテビデオに去った。民主主義者の反乱が勝利した」と報告。

 

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