旧ギアナ三国の年表
(ガイアナ、スリナム、仏領ギアナ)
2005年9月 旧英領カリブ その1 (ジャマイカ、ベリーズ、海賊関連年表を含む)は別の年表としました。
2006年11月 ジャマイカと小アンチル諸島を分けるのは不便です。また海賊関係の事項は、民衆の抵抗を主要な対象とする年表の眼目と外れており、煩雑です。このため年表の編成をギアナ三国、海賊、そして残りのジャマイカ・ベリーズ・小アンチル諸島の三つに改めました。
1500
30 Pedro de Acosta, Barima Riverに植民地建設を試みるが,先住民により追い払われる.
62年 Captain Hawkins,カリブ海で黒人奴隷を売り歩く.
80年 オランダ人探検隊がガイアナのポメルン河流域に植民を試みる。
93 トリニダードのアントニオ・デ・ベレオ総督、オロノコ(Oronoco)川を下り、ガイアナ地方を探索。「ガイアナ」はアメリカ先住民の言語で「水の多い土地」を意味している。
94 サー・ウォルター・ローリー,トリニダードに寄港。エルドラドのうわさを聞き、ジェイコブ・ウィドンをギアナ探検に派遣.ウィドンは「現地の人々は豊かな金鉱を持ち、体に金粉をふりかけている。彼らの話では、その奥地にもっと大きく豊かな町“エル・ドラド”がある」と報告。(一説にはローリーではなくロバート・ダドリー卿)
95 ローリー,トリニダーに渡航.ベリオを捕らえ,エル・ドラードをもとめギアナに入る.ガイアナは原住民の言葉で「雨の多い土地」という意味.4〜8,11〜1月が雨季となる.内陸は乾燥したサバンナ.
98 オランダ船がガイアナに上陸。
99 西インド会社のオランダ船十三隻が,ベネズエラのアラヤ半島塩田を占拠.大量の塩を持ち出す.
1600
03 イギリス人チャーリー・リーら,ギアナでタバコ栽培を開始.
04年 アンリ4世の命を受けたラ・ラヴァルディエール、Sinnamary River 河口に港湾を建設し、流域への植民を試みる。
16 オランダ,西インド進出の足がかりとしてガイアナに植民地を建設。エセキボ(Essequibo)川の河口から25キロに恒久的取引場を建設。
16年 オランダ、キュコベラル(KykoveralあるいはKijkoveral)に砦を建てる.ここはEssequibo、Mazaruni, and Cuyuniの三つの川が合流する中州にあった。
16年 英領西インド諸島のBermudaで最初の砂糖プランテーションがつくられる。
17 ローリー,第2回目のギアナ探検.
20 オランダ,カリブで密貿易と海賊行為を展開.ギアナに拠点建設(その後英領ギアナとなる.こんにちのガイアナ).フランス人も入植を試みるが,カリブ族の抵抗にあい失敗.
21 オランダ西インド会社が設立される。貿易会社であるが、植民と軍隊保持の権利を与えられていた。オランダ政府は西インド会社にエセキボ植民地の管理をゆだねる。
22 オランダ西インド会社、最初の植民地エセキボを中心にガイアナ地方を実効支配.アラワク族を追い払い,海岸地帯の湿地に排水工事を行い農耕を開始する.15トンのタバコがヨーロッパに向け輸出される。
24 オランダ艦隊,ブラジルへの攻撃を開始.
24 オランダ人,エセキボ東南,ベルビセ川中流にガイアナ第二の基地を建設.
27 オランダ、ギアナに第二の植民地ベルビセ(Berbice)を建設。
35年 フランスのノルマンディーの商人が出資し「ノルマンディー会社」を設立。フランス王からギアナ地方全域の開発・領有の認可を得る。
38 ノルマンディー会社、Cayenne に最初の植民地を建設。
40 オランダのエセキボ植民地に黒人奴隷が導入される。
40 英国でクロムウェルらによる清教徒革命.
43 Poncet de Bretignyの率いる後継部隊がカイエンヌに到着。数人がかろうじて生き延び、土着民とともに生活しているのを発見。
45 Poncet de Bretignyの増援部隊も次々に死亡。わずか二人の生存者が、スリナムのオランダ植民地に逃げ込む。
49 クロムウェルによるピューリタン革命成立.
51 バルバドスのイギリス人,ギアナ(現スリナム)に入植.小規模なさとうきび農園を開発.
52 イギリス・オランダが海上覇権をめぐり第一次英蘭戦争.3年間にわたる.
57 ガイアナのPomeroon川沿いにオランダ植民地が作られる。
58 ガイアナでの砂糖きびの栽培がはじまる。
63年 この年、ガイアナの奴隷人口は推定2500人、先住民人口は5万人とされる。
64 三年にわたる第2次英蘭戦争開始.チャールズ二世は、ウェストファリア条約(ギアナ全域に対するオランダ西インド会社の権益を承認)を無視し、Willoughby of Parham卿Francisに、Paramariboの領有権を与える。
64 ヨーク公の率いるイギリス軍がニューネザーランドを占領。ガイアナも一時イギリスに占領される。
64年 オランダ西インド会社、ギアナの植民を本格的に開始する。奴隷の反乱と内陸部の先住民の襲撃に悩まされる。
64年 フランス,西インド会社を設立.カリブへの本格的進出に乗り出す.ふたたびカイエンヌに植民地建設を試みる。オランダは事実上これを黙認。
65 ニューアムステルダム,イギリス軍の攻撃の前に降服.ニューヨークと改称.オランダはガイアナを奪回し、英領スリナムも制圧。
67 第2次英蘭戦争終結,ブレーダ(Breda)条約締結.オランダ,戦争中に占領した英領スリナムを,ニュー・アムステルダムとの交換で蘭領とする.ギニア東部はフランスに割譲,仏領ギアナとなる.
75 オランダ領となったスリナムからジャマイカにイギリス人入植者1,200人が移民.砂糖植え付けを開始.
1676年
5月 フランス領ギアナのカイエンヌをオランダ艦隊が攻撃し,占拠.
12月 フランス軍,カイエンヌを奪回.さらにトバコ占拠を目指す.一時トバコを占領するが,恒久的確保には失敗.
85年 ガイアナに最初の学校が設立される。
89 アウグスブルク同盟戦争開始.英仏の覇権争いが始まる.
1700
01年 この年、エセキボの人口はヨーロッパ人67人、奴隷800人。
01.9 スペイン王位継承戦争が始まる.
08 ギアナのデメララで大規模な奴隷の反乱.(デメララ建設は41年とされている。1808年の誤りか?)
38年 Laurens Storm Van Gravesandeがガイアナ総督に任命される。その後、デメララ地域の開発に力を注ぐ。
38年 砂糖農園主は、Kijkoveralの植民地行政当局をエセキボ河口のフラッグ島に移動するようもとめる。
41 エセキボとベルビセの中間デメララ河口に,ガイアナ第三の基地デメララが建設される.1773年に,独立したオランダ人植民地として認定される.
46 オランダ政府,ガイアナへの白人の入植を奨励するため,デメララ地区をイギリス人入植者にも開放.
56 イギリスとフランスとのあいだで7年戦争開始.
60 アンティリャスからガイアナへのイギリス人の入植が進む.デメララ地方ではオランダ人をしのぐまでに増加.
1763年 カフィの反乱
2.23(ガ) ベルビセ管内カンヘ川沿いの二つの農園(Magdalenenburg Plantation)で,カフィ(Cuffy)の率いる黒人奴隷の大規模な反乱.三千人の奴隷が参加し,農園を次々に焼き討ち.この反乱で白人農園主の半数がオランダに戻る.
5月 オランダは本国およびバルバドスからの増援部隊のほか,英領ギアナ,仏領ギアナの軍の援助も受け,反乱の鎮圧に成功.カフィは自殺、残党は1年にわたる掃討作戦で全滅する。カフィは現在ガイアナの国民英雄となっている.
63 仏領ギアナへ1万6千人が入植.チフスの流行により1万人が死亡.
67年 ベルビセの海岸平野にポルダーによる灌漑が発達。ガイアナでもっとも豊かなサトウキビ栽培地帯となる。
70年 エセキボとデメララをあわせ1万人の奴隷が働く。ベルビセには350人の白人と4千人の奴隷が働く。
73年 エスキボ・ベルビセに続き、デメララが第三の植民地として承認される。
1781年
11.26 米国の独立戦争と関係してフランス・スペイン・オランダと英国との戦争が始まる.英国,ガイアナのベルビセ,エセキボ,デメララ,およびセント・ユースタティウス島をオランダより奪取.要塞フォート・セント・ジョージ(現在の首都ジョージタウン)を建設。
1782年
3月 オランダと同盟関係を結ぶフランスは,ルシニャン公(Marquis de Lusignan)の率いる艦隊を送りセント・ジョージ要塞を陥落。ガイアナ全域を占領.二年間にわたり支配.あらたにデメララ河口にダウフィン砦を建設、その奥にロンシャン(Longchamps)の町を建設.
83.4 フランス、ガイアナをオランダに譲渡。オランダが再び支配権を回復.ロンシャンを首都とし,スタブレック(Stabroeck)と改名する.故国の町並みと似せて、格子状に運河を張り巡らせる。
86 デメララ地方の内政は,事実上イギリス人の手にわたる.
92 ガイアナ地方,西インド会社の管理を離れ,オランダ政府直轄のデメララ=エセキボ連合植民地となる.最初の憲法となる「刷新の概要」(Concept Plan of Redress)が制定される。ベルビセは別個の植民地として,引き続き西インド会社の管理下におかれる.
95 ナポレオン,オランダを占領.英国はフランスに宣戦布告.英国はバルバドスで遠征部隊を編成し,ガイアナに侵入.現地のオランダ人政府は英国部隊を無抵抗で受け入れる.
95年 フランスの意向を受けて、三植民地からなる「ギアナ共和国」が成立。当時のデメララの人口は29,473人。
96 仏西同盟成立,スペインはイギリスに対し宣戦布告.英海軍,全てのスペイン植民地を海上封鎖.
96年 バルバドスのイギリス人、デメララ奪回を目指す遠征部隊を組織。
98年 デメララの人口は39,232人に増加。
99 ヨーロッパでナポレオン戦争が始まる。イギリス軍は蘭領ギアナへの攻撃を開始し、奪回に成功.
99 ナポレオン、ギアナでの流刑地の建設に着手。「呪われた土地」あるいは「緑の地獄」などと呼ばれていた。特に沖合いにある流刑島のデビルズ島は、その名のとおり、「悪魔の島」として悪名高い。
悪魔島: 本来の悪魔島は、三つの島からなる「イルドサル諸島」の中のひとつ。仏領ギアナのコウロウ川の河口に位置している。最初悪魔島は、ハンセン氏病に罹患した囚人を隔離するために使われていた。その後囚人たちを使役する「植民地」となった。
1800
1800年
00年 ガイアナのサトウキビ農園の数は380ヶ所に増加する。
02 アミアン(Amiens)講和条約.イギリスはトリニダードを獲得する見返りにガイアナ植民地をオランダに返還する.
03.9 英仏戦争が再開.イギリスはフード将軍を送り、ふたたびギアナ西半を奪取.英領ギアナとなる(現ガイアナ).以後150年にわたり英植民地となる.
06 英国,奴隷売買制度を廃止.奴隷制度そのものは存続。海外植民地においてはその後も売買が続行される.
06年 三植民地に居住する黒人奴隷が97,500人に達する。
07 英領ギアナでムラートと自由黒人にひきいられた黒人奴隷の反乱.ギアナ総督は「馭者,小売商,その他もっとも分別豊かな奴隷たち」が反乱を起こしたと報告.
09 仏領ギアナ,ポルトガルにより占領される.17年にはパリ条約にもとづき返還.
1810年
11年 英国、ガイアナのスタブレックに聖ジョージ教会を建設。
12年 英国、オランダ人の制定した憲法を廃止。植民地女性に政治的権利を付与する。
12年 スタブレック、ジョージタウンと改称される。
13.2.24 ガイアナ沖で,イギリス船ピーコックがアメリカ船に撃沈される.
14 パリ条約.トリニダード・トバコ,セントルシアがイギリス領に.グアドループとマルティニク島が正式にフランス領となる.サント・ドミンゴのスペイン帰属が決定.ガイアナ(エセキボ、デメララ、ベルビセ)は英国に帰属することとなる.フランスは海外領土における奴隷貿易の廃止を受諾.
15年 スリナムがオランダに返還される。現在の三国分割がこれにより確定。
1820年
22年 ベルビセにニューアムステルダムの町が建設される。
23 デメララ川東岸地区の砂糖農園で黒人奴隷の蜂起.50のプランテーションをまきこみ,1万2千の奴隷が参加する大規模な反乱に発展.数百の奴隷が殺され,33人が即決裁判で処刑される.白人側の犠牲者は3人.奴隷を扇動した罪に問われたジョン・スミス宣教師は死刑を宣告され,獄死.
23年 Thomas Fowell Buxton、『大英帝国臣民の宗教心、正義感、人間性に訴えるー西インド諸島の黒人奴隷に代わって』を発表。
1830年
30 英国奴隷制廃止協会,漸進的廃止の方針を破棄し,即時全面解放を支持する立場に転換.
31 英国,ガイアナ地方のベルビセとデメララ=エセキボ連合植民地を統合し,直轄植民地「英領ギアナ」として統治.ベンジャミン・ダーバン(Sir Benjamin D'Urban)が最初の知事となる。
34.8.01 英領ギアナで解放法(The Emancipation Act)が施行される。すべての英領植民地で黒人奴隷制が廃止.奴隷だった人々のうち6歳以上の者は、かわりに「年季奉公人」(Apprenticeship)として、同じ主人のもとで働くことが義務づけられた。
34年 「年季奉公人」たちに対する虐待に抗議するデモ。指導者デイモン(Damon)は逮捕され、反乱罪で死刑となる。英議会は年季奉公制度の早期終結と奴隷制の完全廃止に踏み切る.
34 ジョージタウンに知事公館(現国会議事堂)が建てられる。
35 英国政府,ドイツ人探検家ションブルクに(Robert Hermann Schomburgk)依頼して,ガイアナの地図作成およびベネズエラとの国境確定を依頼.ションブルクはオリノコ河口から探査を開始する。境界紛争の起源である。
35年 マデイラ島から429人のポルトガル人が農業労働者として移入される。
37年 ジョージタウンに市議会が開設され、グラッドストン市長を選出。市長は、黒人がプランテーションを離れ、町に集中することに対応し、インドから契約労働者を迎え入れるよう提案する。二つの農場へのインド人労働者の試験的導入が許可される。
契約労働者: 5年間の契約。最初は家を与えられ、一定額の契約金を渡されるが、その後の給料はゼロ。一部でプランターの虐待が起き起訴される事態も発生する。
37年 植物学者ロバート・ションバーグ(Schomburg)、ガイアナ奥地で、葉の直径が2メートルに達する巨大な睡蓮を発見。花弁の周りに巨大なニシキヘビがとぐろを巻いていたという。
38年 年季奉公制度(Apprenticeship)が廃止され、もと奴隷の身分は「労働者」になった。農園での労働力確保のため、ドイツ、ポルトガル、インド、中国から長期契約労働者(indentured laborer)を募集。
38 英領ギアナでインド移民の受入れ開始.カルカッタから第一陣156人が到着。この年だけで396人がギアナに入る。以後80年間で25万人が流入.同じ時期,トリニダードにも15万人が入るなどカリブ全体で50万人に達する.
38 解放された奴隷たちがエセキボ川地域のクイーンズタウンに「新しい村」を建設。39年にはデメララ川東岸地域のビクトリア、40年にはバクストンにも同様の集落が形成される。
38 ガイアナ、エセキボ・デメララ・ベルビセの三県に分けられる。
38 ションバーグ、ロライマ山を発見。
39年 ドイツのラインランドとビュルテンブルグから400人がガイアナ入植。そのほとんどが熱帯病に罹患。
1840年
40 英国,ションバーグの探索にもとづくガイアナ地図を発行.オリノコ川河口を国境とする.ベネズエラ政府は地図の発行に抗議、エセキボ川以西の領土に対する支配権を主張し対立.
41 クイーンズタウンの存在が公表される。
41 アフリカからのあらたな「移民」が、砂糖農場での「労働」を開始.この方式は結局一般化されなかった.
41 英国,ベネズエラとの暫定境界(Schomburgk Line)を策定.その後,該当地域に金鉱が発見される.
41年 この年、英領ギアナには101の小学校が運営されていた。
42.6 ジョージタウンがガイアナの首都として指定される。聖ジョージ大聖堂、公共ビルが完成。
42 デメララとエセキボの砂糖きび農園の労働者が、劣悪な労働条件をこばみ、ストライキ。
44.1 パリの労働者,国民議会に奴隷制の即時廃止を要求.
44年 ジョージタウンにクイーンズ・カレッジが設立される。
48年 英領ギニア全土を巻き込み、賃金切り下げに抗議するストライキ。
48年 デメララ鉄道社が設立される。最初の鉄道は、ジョージタウンから大西洋岸に出て、ベルビセ川のロシニョールまで60マイル。
48年 フランスで二月革命。フランス政府は奴隷制度を廃止。仏領植民地の労働力確保のため、囚人を植民地に移送。その後の4年間で二千人以上の囚人が仏領ギアナに船で送られる。
49年 12年に与えられた植民地女性の政治的権利が剥奪される。
1850年
50 英国とベネズエラ政府,係争地帯を中立地帯とすることでいったん合意.その直後に係争地帯に金が発見される.英国人は英領ギアナ鉱山会社を設立し,係争地帯に進出.
50 ナポレオンV世,仏領ギアナのカイエンヌ沖合の悪魔島にカイエンヌ刑務所を設置.その後ギアナ全体が囚人の流刑地となる.
52 イギリス,砂糖保護関税を廃止.ヨーロッパでの甜菜糖生産の拡大や,キューバとの競争に敗れ,英領西インド諸島は衰退.
53.1.12 ガイアナに最初の中国人契約労働者が上陸。1912年までに1万4千人が入国.中国人に続き,インド人もガイアナ入植開始.
56.2.18 ジョージタウンで暴動。ポルトガル人農園が破壊される。
57年 ベネズエラとの係争地帯であるクユニ(Cuyuni)川流域で金が発見された。採掘人たちの妄動により中立協定は事実上無効化する。
58年 仏領ギアナにゴールドラッシュ。世紀末までの間に、2万人以上が黄金を求めてやって来る。
72.08.02 イギリス,ガイアナを直轄植民地とする.
76年 初等教育が義務化される。
78年 ガイアナで金山が発見され、一時的なブーム。
85 フランス,仏領ギアナを8年以上の重罪人をおくる流刑地とする.ガイアナ,スリナムにインド,中国からの移民増加.
87 ベネズエラ,「中立地帯での英国の勝手な振る舞い」に抗議し断交.米国に調停を求める.英国が米国の調停案を無視したため,クリーブランド大統領は,モンロー・ドクトリンに基づき武力行使も辞さない立場を明らかにする.
89 英国人=オランダ人連合がポルトガル人に同等の地位をあたえることを拒否したため,ポルトガル人は改革協会を結成し対抗.英国人たちはポルトガル人に対する襲撃を繰り返す.ポルトガル人は人口の多数を占める自由黒人との提携を求める.
89年 ジョージタウンのシティー・ホールが完成する。
90 ガイアナ西部Upper Mazaruni でダイアモンドが発見される。(現在までに450万カラットのダイアモンドが採取される)
91 ガイアナに一定の自治を認める憲法修正が英国議会を通過.改革派の要望を受け、「選挙人学校」(College of Electors)の廃止と有権者資格の緩和が憲法修正に書き込まれる。
91年 アフリカ大陸生まれの黒人人口は3,442人に減少。
92 (ガ)議会にあたる連合審判所(Combined Court)の選挙が行われる.選挙権に対する厳しい制限のため,新議員の構成は旧体制と変わらず.プランテーション所有者のみとなる。
95 英領ギアナで金鉱発見.ベネズエラとの国境をめぐり紛争.イギリスは軍隊をベネズエラに上陸.
95年 ベネズエラ、ガイアナ領土の2・3にあたる55,000平方マイルの返還を求める。
95.4 アルフレッド・ドレフュス大尉、最初の政治犯として悪魔島に収容される。
97 英国,ギアナ=ベネズエラ間の国境問題を,国際調停にゆだねることを認める.二年間にわたり,英国,米国,ロシアからなる調停団が調査.
97 無記名投票制度が導入される。
99 調停団,係争地の94%をガイアナに帰属させる調停案を提出.ベネズエラはオリノコ河口を完全確保したのみ.
1900
03年 ベネズエラ国境に近いマシューズ・リッジ(Matthews Ridge)近辺でマンガン鉱が発見される。
1905年
11 (ガ)ジョージタウンの港湾労働者が賃上げを求めスト入り.ストは政府との対決色を強め,地方にも拡大.
11.30 労働者がジョージタウンの目抜き通りを占拠.
12.01 「暗黒の日曜日」 ジョージタウン近郊のルインベルト農場で、劣悪な生活環境に抗議する人夫が大規模な集会,警察と砲兵部隊が発砲し4人が重傷を負う.事件の知らせは直ちにジョージタウンに広がり,群衆が建物を占拠し蜂起.深夜までに7人が死亡,17人が重傷を負う.まもなく派遣された英国軍により騒擾は鎮圧される.
05年 ベネズエラ,国際調停団の国境線を受け入れ.その後も国内に不満がくすぶる.
05年 ガイアナからの米の輸出が始まる。
09年 ガイアナ議会選挙.有権者の範囲が拡大され,黒人が過半数を占める.
14年 第一次大戦始まる.欧州戦線に召集された黒人が,帰国後黒人運動の中核となる.
14年 デメララ・ボーキサイト会社が設立され操業を開始する。
17 ガイアナに最初の労働組合「英領ギアナ労働組合」(BGLU)が創立される.主力は黒人の港湾労働者.初代書記長はH.N. Critchlow.
17 インド総督府、国内での独立派の抗議に応え,インド人の年季奉公制度を廃止.インド人のガイアナ入植が禁止される。
1918年3月22日 チュディ・ジャガン、コレンタイン県ポート・モーラント(Mourant, Corentyne)の砂糖農園に生まれる。両親は1901年にインドから入植した。
20 ガイアナの主要産業が,砂糖から米とボーキサイトに移行.
21 英領ギアナで労働組合法制定.BGLUが合法化される。このころまでにBGLUは13,000人の組合員を擁するまでに成長.
23 バーナム,ジョージタウン郊外の黒人地区で小学校長の一人息子として生まれる.英国で法学の学士を取得.
27 英領ギアナへ調査団(Moyne Commission)派遣.総督が民意を反映せず「統治責任者に権力がないことが現体制の最大の問題」と指摘.立法評議会設立と議員の任命制を実施するよう勧告.議会,激しい対立により空転.
28 英国植民地庁はガイアナを王立植民地(crown colony)とし,直轄支配に移行することで問題解決を図る.新憲法が制定され女性にも選挙権が与えられる。
28年 フランスの救世軍が悪魔島の実態を調査。囚人植民地は一挙に全廃してしまうほかないと結論。これによれば、当時、およそ九千人の男が生活。最大の集団は、殺人や強盗殺人などの凶悪犯、次に矯正不可能と判断された犯罪常習者、これに対し政治犯は少数だったという。
28年 ガイアナで最初の教員養成大学が設立される。
29年 大恐慌で輸出(ボーキサイト、米、砂糖)が激減し、失業者が溢れる。これを背景に、激しい暴動やストライキが続発。
1930年
30 英領ギアナ小農問題委員会,大地主層が私有地に広大な遊休地を放置していることをきびしく非難.これらの土地を5エーカー毎に分割し小農に配分するよう提案.
35 英領ギアナの砂糖プランテーションで労働争議発生.
37 英領ギアナの砂糖プランテーションで暴動発生.「肉体労働者と市民の連合」成立.
38 モイン(Moyne)を団長とする英国調査団,ガイアナを視察.婦人参政権を含む普通選挙権,土地なし農民への対処、労働組合の合法活動拡大などの改革案を提案.第二次大戦のために完全実施は見送られる.
38 英領ギアナで「西インド諸島・ガイアナ労働会議」開催.連邦制,完全普選制,砂糖産業の国有化,50エーカー以上のプランテーションの禁止,社会立法・初等教育の充実などで合意.バルバドスではグラントリー・アダムスによる進歩同盟と労働者連合が結成される.進歩同盟は数年後に労働党に改組.
38 フランス政府、仏領ギアナへの囚人移送の廃止を決定。第二次世界大戦の勃発によって、実際の廃止は1946年まで延期される。
39 デメララ川西岸地区の農園で起きたストライキ。参加者のうち4名が殺される。
39年 第二次世界大戦が始まる。多くの黒人は、教育と技術習得による貧困からの脱出を願い、軍に加わる。
39 英領ギアナでBGLU以外の労働組合も認められる.
1940年
6月 ドイツ軍がパリを占領。仏領ギアナ住民は親独的なペタン元帥のビシー政府に忠誠を表明した。連合国は仏領ギアナを経済封鎖。
40年 この年のガイアナ人口は34万7千人。
41 米英の間に相互貸与法(Lend-Lease Act)成立.米国はイギリスへの軍事援助を本格化。近代的なアトキンソン空軍基地が建設される.戦後に返還されティメーリ(Timehri)空港となる.
11.24 米国,オランダとブラジルの承認を得てスリナムを占領.
1942年 ジャガン,エヴァンストン(イリノイ)のノースウエスタン大学を卒業,歯科医の免許と社会学の学位を獲得.バーナムは優秀な子弟への海外留学の資格を獲得。ロンドン大学に留学。
1943年
3.18 仏領ギアナで、連合国支持グループがビシー派を追放。民主的権利を弾圧しようとした政令が廃止された。これによって仏領ギアナに対する連合国の経済封鎖は解かれる。
8月 ジャガン、ユダヤ系米国人で看護婦のジャネット・ローゼンバーグと結婚.
10 ジャガン,ガイアナに戻る.ジョージタウンに歯科クリニックを開業。まもなくジャネットもシカゴから合流。
43 英領ギアナで,改革派の総督ゴードン・リーサム(Sir Gordon Lethem),普通選挙による立法議会選挙を実施すると発表.選挙人資格を緩和し、議会の過半数を選出議員とする。
45 ジャガン、インド系砂糖労働者の組織「マンパワー市民協会」(MPCA)に加入し,政治活動に集中するようになる.
45 (ガ)英領ギアナ労働組合会議(BGTUC)の提唱により,英領カリブ諸国の運動を包括するカリビアン労働会議を結成.政治組織として政治問題協議会を創設.イギリス連邦内で単一の独立国家を形成することを目指す.
45年 ガイアナ産業労働者組合(GIWU)が結成される。後にガイアナ農業/一般労働者組合(GAWU)に発展改組。ジャガンは名誉議長に就任。(TUCは全国労働組合センター。GIWUは砂糖労働者を中心とする単位労組であるが、ガイアナでは最大の組合員数を抱える。なお創立は1948年という説もあり、そちらのほうが妥当な気がする)
45年末 第二次大戦の終結を待って、Moyne調査団の報告が公表される。
1946年
3.19 仏領ギアナ、植民地から海外県に変更される。同時に囚人移送も廃止される。この時点で、七千人の既決囚が「悪魔島」に居住していた。
46 グアドループ,マルティニク,フレンチ・ギアナの仏領西インド諸国,フランス海外県となる.普通選挙制実施.共産党員のエメ・セゼールが,マルティニクの首都フォー・ド・フランスの市長および本国議会の下院議員に当選.
46 ジャガン,農園主と馴れ合うMPCA幹部と意見を異にし,協会から離脱.科学的社会主義を信奉する政治問題委員会(Political Affairs Committee:PAC)の創立に参加.自ら書記長に就任し、機関紙を発行し、マルクス主義的な解放・非植民地化理論を打ち出す.ジャネットら女性活動家は、「女性のための政治・経済機構」を設立,独立運動に加わる.
46年 ガイアナで国勢調査。人口は37万6千人。
1947年
4.13 マッケンジーでボーキサイト労働者のストライキ。PACはTUCを通じてボーキサイト労働者を支援。また全国の労働者にストの意義を宣伝し支持活動に動員をはかる。
6.16 ボーキサイト労働者のストライキが終結。
11月 ガイアナ総選挙.J.B.シンの結成した新政党労働党が14議席中6議席を獲得し躍進.PACも何人かの独自候補をたててたたかう.東デメララ選挙区から立候補したジャガンが当選。ジャネットは、ジョージタウンの中部選挙区から総選挙に立候補するが落選。当選したジャガンは一時労働党に加わるが,中道右派の姿勢に飽きたらず離脱.
47年 バーナム、ロンドン大学法学部でBest Speaker's Cupを勝ちとるなど優秀な成績を収める。
47 ジャマイカのモンテゴ・ベイで,各植民地の代表とイギリス植民地省による会議が開催される.2年後に英領カリブ諸国の連合を結成する計画で合意.
1948年
4月 運輸労働組合のストライキ。4日間にわたり、ガイアナ全土が麻痺。
4月 東部のデメララ海岸で、インド系サトウキビ労働者のストライキ。TUCの派遣したヒューバート・ナサニエル・クリチロー(Critchlow)が指導し2ヶ月にわたり闘い続ける。たたかいのなかで砂糖農業労働者はギアナ農業労働組合(GAWU)結成.のちにギアナ産業労働組合(GIWU)に改組.
6.18 ジョージタウン近郊のエンモア砂糖農場で労働者の争議.官憲が労働者5人を射殺.PACは,エンモア殉教者(Enmore Martyrs)をたたえる大規模な平和的デモを組織.ジャネットは労働者と家族のための「スープ・キッチン」を運営する一方、アジびらの編集・発行に携わる。
48年 ジャガン、労働者の要求を代表して活動。48時間労働制などの労働者立法を提案するが、議会多数の支持を得られず流産。
49年 ジャガン、製材工場労働組合の結成に参加。議長に選出される。この組合は後に製材・林業労働組合に発展・改組。
49年 バーナム、英領ギアナに戻り弁護士を開業する。
1950年
50.1 (ガ)ジャガンら,完全独立と砂糖工業の国有化をめざす統一戦線組織,人民進歩党(PPP)結成.都市の黒人労働者,中産階級と農村のGAWUとの連合を基盤とする.労働者階級の利益を擁護するとともに、科学的社会主義の原則を掲げる。(ガイアナの人口構成はインド系50%,黒人35%).黒人集団も弁護士フォーブス・バーナムを中心に集団入党.バーナムにはアシュトン・チェイスに代わり書記長のポストが与えられる。
党の主要幹部: バーナムが党委員長、チュディが書記長となる。ほかの幹部にアシュトン・チェイス(弁護士)、女性活動家のジョセリン・ハバード、労働運動家のラム・カラン、シドニー・キングら.ジャネットも中央執行委員の一員となり、国際問題書記をつとめる。
50 最初の地方議会選挙.ジャネット・ジャガンがジョージタウン初の女性市議に当選.バーナムとチュディは落選するが,都市黒人層の中に影響力を拡大することに成功.
50年 英国調査団、普通選挙の実施を勧告。
1952年
3月 国公労連(FUGE)がミルクのダンピングに抗議する集会。ジャガンが国会議員としてただ一人参加し支持表明する。
3月 進歩党を基礎にPACが創設される。創立メンバーは、ジャガン夫妻のほかAshton Chase(英領ギアナ労働者連合の副書記長)、H.J.M ハバード(TUC書記長で英領ギアナ事務職員協会の幹事)。三大ストライキのほかにも、精神病院の職員、造船労働者、船大工、映写技師、マッチ工場、郵便配達、印刷工、バス運転手などが次々にストライキを打つ。PACは中心的な労働支援センターとして活躍。
52 (ガ)御用組合,人的資源市民連盟(MPCA)会長のライオネル・ラックーら,「望ましくない出版物法」を制定.これに対し言論の自由を守る闘争が全国的に広まる.
52 ジャガン,左翼的な言動のためトリニダードとグレナダへの入国を拒否される.
1953年 ジャガンの勝利と弾圧
4 (ガ)英領ギアナで植民地立法議会選挙.言論の自由と完全独立を訴える人民進歩党は,都市部の黒人層,地方のインド系を連合.得票率7割,選出議席25のうち18を獲得し圧勝.ジャネットはEssequibo選挙区から立候補し当選。
5.30 新国会が開かれる.チュディ・ジャガンを首相に,ジャネットを議会副議長に選出.土地改革と労働者保護政策を進めようとする。保守党はPPP政権が「産業活動に対する国家統制の強化」を狙っているとし猛反対.ジャガンに対し反共攻撃を集中.総督や官僚も一斉に反PPPにまわる.
6月 「有色人種連盟」の政治組織で,黒人中間層を基盤とする国民民主党(NDP)が,農民同盟,労働党,国民統一党を糾合し,キャスティング・ボードを狙う.
7月 PPPのバーナム派は、支配層の反感を背景に、自派の伸張をはかる。バーナムは党の指導を彼の下に一元化するよう主張.ジャガンはバーナム派への閣僚ポストの割り当て増で妥協をはかる.
8月 仏領ギアナで、最後の悪魔島収容者が本国帰還。
9 ジャガン政権,労働関係調整法(Labour Relations Bill)を提出.雇用者に労働組合との交渉を義務付け、労使間の利害調整をはかる.法案提出に併せ,PPP系労働センターのGIWUは法案成立を求めるゼネストを決行.
10.03 チャーチル政権は、ジャガンが親共的であることを理由に首相就任を拒否.「PPPがジョージタウンを火の海にしようと陰謀をたくらんでいる」(政府白書)とし、黒人層との抗争を挑発しながら戦艦4隻と兵士1600名を送る.
10.09 労働関係調整法,議会で可決される.
10.10 英領ギアナ総督アルフレド・サベージはガイアナ自治憲法(Waddington Constitution)を停止,ジャガン夫妻らを「国際共産主義運動との密接な提携の上に共産主義国家の形成をもくろんだ」として解任.同時にシドニー・キング交通相,ロリー・ウェストマス人民進歩党副議長ら5人の指導者を解任し,TUCとGIWUを解散させる.
10.12 PPP政権に代わり総督の指名した保守系政治家,資本家よりなる暫定政権成立.立法府は解散され、すべての政党の活動が禁止される。ジャガンはジョージタウン市内に禁足処分となる。ジャガン解任に抗議し砂糖労働者6千人の参加するゼネストと,抗議デモ.
10月 英国の軍艦がジョージタウン港に到着。海兵隊が上陸し、市内を制圧。戒厳令を公布。一斉に家宅捜索を行いPPP指導部を拘束。
12.15 ジャネット,無許可で政治集会を開いたとして逮捕される。PPP指導者に禁足令が出される。ジャネットは6ヶ月にわたり投獄され、その後もジョージタウン市内での保護観察下に置かれる。
12.22 英国軍(Royal Welsh Fusiliers)が、憲法停止後の混乱を抑えるためガイアナに派遣される。
12月 新TUCが創立される。戦闘的・進歩的特徴は失われ御用組合化する。
53年 「女性のための政治・経済機構」が「女性進歩機構」(WPO)に発展改組。ジャネットが議長に就任。
53 仏領ギアナへの囚人配流,最終的に終了.
1954年
ジャネット、獄中のジャガンと面会
3月 バーナム、「メトロポール」会議を招集。PPPの指導権奪取に乗り出す。
3月 PPP執行委員会、日和見主義派を排除。ジャガンは執行委員会決定に従い、ジョージタウン市外に脱出を図る。
4.05 ジャガン,ブリックダムで逮捕される.現地の警察署に拘留されたあと、「非合法の集会に参加した」とされ、6カ月の懲役刑を宣告される.
4月 ジャガンの逮捕に抗議する大規模な集会が開かれる。集会は警察に踏み込まれ、指導者多数が逮捕される。ジャネットも抗議デモに参加し,ふたたび逮捕される.
6.06 中小企業への融資を目的とする英領ギアナ信用会社が営業を始める。
12.29 カリブ海のオランダ領植民地に自治権が付与される.
1955年
55年 植民地当局、PPP政権を追放し憲法を停止。
55 (ガ)PPP分裂.フォーブス・バーナム,イギリスの支持を背景にインド系主体の人民進歩党に対し分裂をはかる.GIWU議長でインド系のラシュマンシンはバーナム支持,一方ジャガンの側には黒人急進派のシドニー・キングが回るなどの例外はあったが,ほぼインド系のジャガン,黒人系がバーナム支持に分かれる.バーナムは黒人系の支持を結集するため黒人中間層に接近.政策はさらに保守化する.
55年 進歩党: 英領ギアナの完全独立と社会主義社会の建設を目指す綱領を決定。
55年 ジャガン、Barticaでの労働組合大会に出席しようとするが、植民地当局は移動禁止令を盾にこれを禁止。
55 ジャガンはインドに亡命した後、ロンドンにわたり、「英政府に追放されたジャガン.ギアナ独立に支援を!」と書いたプラカードを掲げ,独立を訴える単独デモを展開.
56年 ブリューワーズ銀行が設立される。
56年 英国、修正新憲法を提出、現地議会により受理される。24議席中15議席のみが普通選挙の対象となり,6人は総督による任命議員,3名は暫定政権からの推薦議員となる.
57 修正憲法にもとづく選挙が実施される.ジャガン派が14議席中9議席を獲得、バーナム派は3議席にとどまる。ジャガンが首相・貿易工業相に就任.ジャネット・ジャガンも議会に復帰。労働・保健・住宅担当大臣に任命される。その後ジャガンは英国の妨害を押し切り64年までのあいだに三回にわたり首相に当選.
57 ジャガン,インド系よりの政策を打ち出したことから黒人系の反発を呼ぶ.ジャガンが黒人系優位の西インド諸国連合への参加に拒否権を発動したことから,黒人系はジャガンと最終的に離反.バーナムは黒人中間層の政党統一民主党と合同し,人民全国会議(PNC)を結成.(この記事には裏がありそう)
58年 ガイアナ議会、トリニダードとジャマイカに認めた完全自治権をガイアナにも付与するよう、英国政府にもとめる決議を採択。
59年 人口調査。総人口42.5万人、インド人19.1万人、黒人15.6万人、混血4.5万人、先住民1.7万人、ポルトガル系9千人、他のヨーロッパ系4千人、中国系3千人。
1960年
8.24 キューバ訪問中の英領ギアナのジャガン通産相とのあいだに錫鉱山開発援助協定締結.10年間に5百万ドルを,年利2%で貸与.決済は錫でおこなうという条件.
9.18 英国はキューバとジャガンが交わした錫鉱山開発援助協定を拒否.
60年 Peter d'Aguiarらが「統一勢力」(United Force)を結成。
統一勢力(United Force): 資本家を代表する政治組織。ジャガン政権を攻撃しつつバーナムと接近。
1961年
7 (ガ)ロンドンでダンカン・サンズが起草した英領ギアナの新憲法が発布される.2年以内にイギリスからの完全独立をうたう.両院制が実施され,35人の下院,総督の指名した13人からなる上院の二院となる.選挙制度はジャガンの当選を阻止すべく仕組まれる。
8 (ガ)総選挙実施.バーナムのPNC,保守系の「統一勢力」との三つどもえの争いとなる.みたびPPPの勝利.35中20議席を獲得。しかし得票率ではPPPの43%にたいし,フォーブス・バーナムの全国人民会議(PNC)が41%を獲得.イギリスは英領ギアナの自治を認める一方,独立運動の先頭にたつインド系の農業労働者と,黒人系の都市労働者の離間を図る.
1962年
2 (ガ)野党PNCと連合戦線党,ジャガンの提出した予算案に反対.AFL=CIOに指導されたギアナ労組評議会,自治政府に対しゼネストを扇動.抗議デモは挑発により暴動に発展,一週間のあいだに十人近い死者と数百人の負傷者を出す.グレー総督は戒厳令を公布,独立は延期される.ジャガンは「米国が暴徒に4万5千ドルの資金を与えている.企業主は営業を止め労働者を扇動している」と非難.
4 ラスク国務長官,ヒューム外相に対し「ギアナの独立は南米大陸に時限爆弾を抱えるようなものであり,慎重な考慮を払うよう」要請.シュレジンジャー補佐官はガイアナを視察した後、「ジャガンの心は共産主義世界とともにある」と非難。
6.22 英国政府の派遣した「二月暴動調査団」、1週間にわたりジョージタウンで調査。団長のライオネル・ラックフーは「ジャガンが自ら共産主義者であることを認めた」と報告。これを受けた英・米政府はジャガンの放逐とバーナム擁立に向けて動き出す。
7.07 ガイアナ労働関係法,廃案に追い込まれる.政府は,労働法案の提出にあたっては,MPCAと事前の話し合いを行うことを条件に反対派と妥協.
8 ジャマイカ(6日)とトリニダード・トバコ(31日)が,西インド諸島連合より脱退しイギリス連邦内で独立.これにより西インド諸島連合は解体.
9 ガイアナ総選挙.PPPが20議席を獲得.大差で圧勝.PNCは11議席,UFは4議席にとどまる.ジャガンが首相に就任.チェ・ゲバラと会談,ハンガリーや東ドイツと国交回復するなど,左翼的姿勢を貫く.MPCAとPNCは結託してジャガン政権打倒に動く.ジョージタウン市内で反政府派の暴動が相次ぐなど政情不安が激化.
62年 ベネズエラ,1899年の国境線を拒否し,エスキボ河以西の現ガイアナ領をすべて自国領と主張する声明を発表.
1963年
1 PPP系の労働センターGIWUの呼びかけで砂糖労働者のゼネスト.内陸部からジョージタウンへ向けてデモ隊が集中.ジャガンはデモの先頭に立つ.MPCAはジョージタウン市内での暴動で応える.
4 (ガ)新労働組合法制定.労組役員選挙を政府が管理する項目が含まれる.米国に扇動されたPNCとBGTUCの幹部はこれに抗議してゼネスト指令.ストは80日間にわたる。背後にPNCと警察内右派によるテロ組織「X13」の策動.
6.11 2日間にわたる反ジャガン派の暴動。高校生をふくむ5人が射殺され、数人が殴打される。英領ギアナ知事サー・ラルフ・グレイの率いる総督府は、ジョージタウンに非常事態宣言。すべての大衆集会を禁止する。
6.21 ケネディが訪英しマクミラン首相とバーチ・グローブ会談.ガイアナが第二のキューバとなるのを防ぐため,独立を遅らせジャガンの影響力減退を図ることで合意.
6 ソ連船キロフスク号がジョージタウンに寄港。ガイアナ米取引所からキューバ向けの米3万袋を買い付ける。大量のダイナマイトが波止場の下で発見されたが、船は無事キューバに向け出港.
6 BGTUC議長のリチャード・イスマエルは「ジャガンはわれわれの米を取り上げてキューバに送ろうとしている」と扇動.黒人たちは「米をよこせ,ジャガンを倒せ」と叫びながら首相官邸や議事堂におしかける.この暴動を引き金に11週間にわたり全土で紛争が続く.イギリス,独立延期を声明.
7月 自治政府、労働関係法案を撤回。
10 (ガ)イギリス,米国の圧力により,ギアナ独立を無期延期.ジャガンは国連植民地問題特別委員会に提訴.委員会は調査団を派遣するが英政府により入国を阻止される.
12 (ガ)英領ギアナでジャガン人民進歩党を支持し,米国の干渉に反対する3千人集会.CIA,ジャガン政権を崩壊させるためストライキと暴動を組織.AFL−CIOを通じてバーナム派に資金が流れる.(国防研究センターの報告)
63年 ガイアナ大学が創設される。
1964年
3 PPPはMPCAに対抗してガイアナ農業労働者組合を結成.MPCAはこれに抗議してゼネストを決行.ジャガン政権は,労働関係法を改訂しようとはかる.
4.05 MPCA系労働者がジョージタウン市内で暴動を起こす.
4.18 ジョージタウン市内の暴動,ゼネストに発展.砂糖労働者もジャガン政権を支持してゼネスト入り.
5.09 自治政府,非常事態を宣言.その後もMPCA系労働者によるストライキと暴動が続く.Wismar-Christianburgではインド人に対する襲撃が繰り返されるが、警察はこれを放置。
5.22 政府,再び非常事態を宣言.その後も事態はさらに悪化する.ジャネット・ジャガン自治大臣、警察に対する統制権を事実上剥奪されたことに抗議し辞任。
6.17 キューバのタンカー「M.V.キューバ」号が緊急支援の石油を積んでジョージタウンに入る。反対派は入港を暴力的に阻止。さらに群集は政府ビルを取り囲み、執務中の閣僚や公務員に暴行。水力省事務次官マッカーサー・アブラハムは自宅に放火され、家族7人とともに焼死。(このあたりのやり口はいかにもCIA的)
6.17 マクミラン首相、下院で演説。ガイアナ問題に関して英連邦首相会議を開催すると述べる。
6 (ガ)英領ギアナ総督ラルフ・グレイ,戒厳令布告.全権を掌握.英国軍が進駐し政治活動を停止させる.この間の混乱で160人が死亡,千軒以上の家屋が破壊される.ジャガンは辞任を拒否.
10 総督はPPPの反対を押し切りガイアナ基本法を改正.53議席からなる一院制に移行.
10 (ガ)ジャガン,訪英しウィルソン首相に独立の承認を要請するが拒否される.
12.01 (ガ)英領ギアナで総選挙.PPPは,CIAが政府転覆作戦を展開する中で,46%の得票、24議席を獲得し勝利する.PNCは40%の得票で22議席,UFは11%の得票で7議席.
12.07 イギリスはジャガン就任を拒否,自治政府を崩壊させるため「民衆の抗議」を組織,これを口実に独立を中止させる方針を採る.PNCとUFは連合してPPP追いだしをはかる.
12.14 (ガ)ライト総督,バーナムPNC党首にPPP抜きの連立内閣の組閣を指示.辞任を拒否するジャガンを追放.占領部隊を載せた英軍艦が到着.
1965年
1月 ガイアナで白人・黒人・インド人の「比例合議制議会」(Proportional Representative System)が成立。バーナムは白人の党「統一勢力」との連立政権を発足させる.
6.24 米領事館とJFK図書館が入る三階建てのビルが、爆破される。
11.15 ガイアナ銀行が紙幣の発行を開始する。
65年 イギリス政府とガイアナ諸勢力がロンドン会議。1966年5月26日をもって英領ギニアをイギリス連邦内の自治領として独立させることを決議。PPPは会議をボイコット。
65年 英領ギアナ、CARIFTAの創立メンバーになる。
1966年
2月 エリザベス女王が英領ギアナを訪問。
5.26 (ガ)英領ギアナ(British Guiana)がガイアナ(Guyana)として独立.英連邦内にとどまる.自治領の知事Governor General の地位もイギリス人からガイアナ人に譲渡された。人民全国会議(PNC)の長期政権に移行.これにともない英軍は撤退を開始。
6.23 ロンドンでガイアナとスリナムの国境線確定交渉が始まる。
12 ガイアナ,カリブ自由貿易連合(CARIFTA)に加盟.第118番目の国連加盟国となる。
66年 ベネズエラ,独立直後のガイアナに干渉.クユニ河の中州アンココ島を占領.キューバはベネズエラに対抗する立場からガイアナに軍事援助を提供すると提案。バーナム政権はこれを拒否。
66年 ジュネーヴで英国、ベネズエラ、英領ギアナの三者会談が始まる。
66年 仏領ギアナのクールーにフランス国立宇宙センターが設置される。
1967年
6.06 日本とガイアナ,外交関係を樹立.
67年 議会選挙。PNCによる選挙不正は激しさを増す。ジャネット、選挙管理委員会の野党代表として、選挙の不正を厳しく批判。
1968年
5.01 旧英連邦諸国(コモンウェルス)を中心に12ヶ国が参加してカリブ海自由貿易連合(CARIFTA)発足.カリブ地域の関税を撤廃し,地域内経済の発展をめざす.本部をガイアナのジョージタウンにおく.
10.15 アフリカ史の講義を通じて民衆文化の発展につとめたウォルター・ロドニー西インド大学教授(ガイアナ人),ジャマイカ政府当局より国外追放処分を受ける.
12.16 ガイアナ総選挙.PNCが30議席を獲得し第一党となる.PPPは19議席にとどまる.ただしPNCによる不正操作が横行.バーナムはガイアナに社会主義をもたらすと宣言する一方,政府機構をPNC一党支配の道具に変える.中流階級はバーナムの左翼的姿勢に抵抗しつつも,反ジャガンの立場から支持を続ける.
68年 ベネズエラ,ガイアナ西部海上の領海権を主張.
68年 アメリカ、バーナム政権に対する援助を強化。年間1830万ドルに達する。
1969年
1.02 ガイアナ南西部のラパナニ(RapanuniあるいはRupununi)州リーサムとアネイ(Letham and Annai)で、白人入植者と原住民が中央政府に対し反乱.反乱部隊が町を占領.ガイアナの警官4人を殺害.独立を宣言し,ベネズエラに援助を求める.ベネズエラ軍は国境地帯に部隊を集める.数日後に駆けつけたガイアナ軍により反乱は鎮圧される.この騒動で25人が死亡。
反乱の真相: リーサムとアネイはいずれもベネズエラに近い国境の街。一説によれば,この町を牛耳っていたのは米国籍の農場主たちで、彼らはガイアナの黒人政権による支配を嫌い、ベネズエラの援助を得て別国家を結成しようとしたという.先住民はお飾りで、反乱の主力をになったのは、制服を脱いだベネズエラ軍兵士といわれる。
69年 (ガ)ガイアナ人民進歩党,科学的社会主義の党への発展を決定.
69年 ガイアナとベネズエラ、ポートオブスペイン議定書に署名。国境線に関して12年間の現状凍結で合意。
69年 スリナム、ガイアナとの係争地域に軍を派遣。
1970年
2.23 ガイアナ,カフィの反乱の記念日に共和制を宣言。「ガイアナ協同共和国」(Co-operative Republic)と改称.大英連邦にはひきつづき残留するが、総督職は廃止され,アーサー・チャンが名目的な大統領に就任.ガイアナは非同盟運動に参加.ソ連との国交回復,キューバとの関係改善,協同組合の拡大と外国企業の国有化など,独自の民族的政策を打出す.
9 ルサカで開かれた非同盟諸国首脳会議に,ジャマイカ,ガイアナ,トリニダード・トバコの旧英領3ヵ国が参加.
70年 ジャネット、ミラー紙の編集委員としてガイアナ・ジャーナリスト組合を再結成。みずから最初の議長となる。
70年 ガイアナとベネズエラのあいだでポートオブスペイン合意。境界紛争を凍結することとなる。
70年 ガイアナの総人口が70万人に達する。
71.6 ガイアナ,レイノルズ社の経営するデメララ・ボーキサイト鉱山会社(通称 Demba)、アルキャン・ボーキサイト社を接収.さらに砂糖きび畑の大半の土地の所有権を持っていた Booker McConnell Ltd. の資産も国有化される。
1972年
8.08 ガイアナの首都ジョージタウンで非同盟外相会議開催.資源国有化の運動を支持.バーナムは南アの解放運動を支持し,キューバ軍がアンゴラへ派兵するための中継基地を提供すると表明.
12 ガイアナ,ジャマイカ,トリニダード・トバコ,バルバドスの旧英領4ヵ国,キューバ,中国、東ドイツとの国交樹立.
72 第1回カリブ芸術祭がガイアナで開催される。
1973年
5 ウィリアムズのイニシアチブでカリブ自由貿易連合(CARIFTA)を解消.カリブ共同体(CARICOM)の創設で合意.
73年 ガイアナ総選挙。PPP、議会ボイコット戦術を放棄。ジャネットらが議会に復帰。PNCが53議席中37議席を獲得し、PPPを「破る」.選挙不正はますますひどくなり,軍・警察によるインド系住民への脅迫が横行.
73年 ジャマイカからガイアナに戻ったウォルター・ロドニー,ガイアナ大学教授となる。バーナムの強圧的政策に反対する勤労人民同盟を結成。
勤労人民同盟(Working People's Alliance): バーナムの黒人優位主義と権威主義的傾向に反対し,すべての民主勢力からなる国民的統一と経済の回復を目指す政府の創設を訴える.人種調和を訴える政治家や知識人が結集.PNCやPPPに代わるあらたな政治組織として発展.
73年 フィデル・カストロがガイアナを訪問する。バーナムは、クルクル協同大学(Kuru Kuru Cooperative College)を設立するなど文化革命を標榜するキャンペーンを展開.
1974年
7 ガイアナ,スリナムであいついでボーキサイト採掘の多国籍企業レイノルズ社を国有化.背景にオイル・ショックによる経済的苦境.ジャマイカでも五大アルミ企業の51%を国有化しようとするが企業の抵抗にあい挫折.米国はマンレーの民族主義的傾向に強い警戒感.
12.15 ガイアナ,レイノルズ社のボーキサイト事業国有化を発表.
74年 バーナム,「ソフィアの宣言」を発表。「党の最高性」(paramountcy)を提案.「ガイアナ国内のすべての組織は政府PNCの機関とみなされ、その指揮に従うべきものとする」とした。例えば日刊新聞「ガイアナ・グラフィック」もこの年、政府に買収された。同時に路線を急進化させ,民族主義を押し出す.
74年 アメリカからの経済援助は、20万ドルに減少する。
1975年
1.01 ガイアナ政府,レイノルズ社のボーキサイト工場、ジェッセルズ証券会社を国有化.
3,11 北京を訪れたガイアナのバーナム首相,病気のため入院.周恩来首相と病院で面会.
4 PPP,これまでのPNCに対する非協力と市民的抵抗の立場を捨て,批判的支持に代える.
5.26 独立記念日祝典.ジャガンがバーナムと肩を並べ演壇に立つ.
11.25 スリナム(旧オランダ領ギアナ)完全独立,ヘンク・アロンを首班とするスリナム国民党の民政に移行.黒人系の支配を嫌うインド系住民が多数オランダへ流出.
12.31 ガイアナ農業・一般労働者組合(GAWU)、合法化を目指し13週間にわたる闘い。政府に合法化を問う住民投票を行うことを約束させる。投票では98%の支持で合法化を実現。ジャガンと進歩党はPNCお抱え労組のTUCを厳しく批判し、合法化実現運動の先頭に立つ。
75年 ガイアナ、アンゴラに派遣されるキューバ軍航空機の給油基地を提供。アメリカはこれを非難する声明。
75年 バーナム首相がキューバを訪問。
75年 ジャガン、TUCの非民主的構成を厳しく批判。最大の構成員を誇るGAWUからは400人に一人の代議員しか選出できないが、AMMからは60人に一人、「ガイアナ国立共同銀行従業員組合」からは13人に一人が選出できる。
1976年
3.13 中南米・カリブ海地域砂糖輸出国機構が設立される.23ヵ国が参加する.
5.24 (ガ)GNPの25%,輸出の40%を占める英国系コングロマリット,ボーカー・マッコネル(Booker McConnell)社を国有化し全資本を接収.同年末までに国内経済部門の8割が国有化される.ジャガン,現政府の基本政策を支持すると表明.両派に和解成立.
12.07 グレナダ総選挙。ゲイリー与党の統一労働党が議席の過半数を確保。人民同盟(PA)など野党は不正選挙と非難。
76年 政府、教会系学校をふくむすべての学校を統制の下に置く。教会勢力は政府による学校統制を非難。
1977年
4 ガイアナ議会での大統領選で、中国系のアーサー・チャンが選出される.この時のガイアナでは大統領は権力を持たない象徴的な存在.チャンは訪中し華国鋒中国共産党主席と面会.
10.31 スリナム議会選挙。国民党同盟(NPA)が39議席中22を獲得。ヘンク・アロン(Henck Arron)が首相に就任。野党統一民主党(United Democratic Party)は17議席を獲得。
77年 カフィ思想協会が設立される。
1978年
6 ガイアナ総選挙を前に.PNCはPPPの共闘提案を拒否.インド人砂糖労働者のストに厳しい態度で臨む.
7 バーナム,総選挙を中止.現議会に対する信任を問う国民投票を実施.政権側の発表では有権者の71%が投票に参加し,その97%が信任票を投じたと発表.しかし観測筋の概算では,投票参加者は10〜14%にとどまる.PPPとWPAは投票をボイコット.
11.18 人民寺院事件発生.教祖ジム・ジョーンズが信者912人とともに服毒自殺.
キリストの人民寺院(People's Temple of Christ): サンフランシスコの新興宗教。ジョーンズは信者千人を引き連れガイアナに移住.ガイアナ西部のポート・カイトゥマ近郊にジョーンズタウンを建設.自給自足的な生活を送る。ガイアナ政府は農業共同体作りのモデルケースとしてジョーンズを歓迎した.
78年、ジョーンズの信者虐待の内部告発をうけ,サンフランシスコ選出のレオ・ライアン下院議員が現地調査に乗り出す.調査を終え帰国しようとしたライアン議員ら5人は,カイトゥマの飛行場で信者に射殺される.これをきっかけにジョーンズは集団自殺を決意したといわれる.
1979年
1 ガイアナのバーナム政権,WPAの合法的活動を認める.
5 人民寺院事件とバーナムとの関わりを厳しく非難するWPAにたいし,政府の攻撃強まる.指導者の一人でウォルター・ロドニーらが「放火罪」で逮捕されるが,まもなく保釈.
10 ガイアナのビンセント・ティーカ教育相.何者かに射殺される.
79年 スリナムの与党である国民党よりジャワ系住民が離脱.オランダからの経済援助も大幅に後退.
1980年
2.25 スリナムで左派系の下士官や兵士による軍事クーデター.8人からなる国家軍事評議会が成立。指導者はデシ・ブテルス(Desi Bouterse)軍曹。
デジ・ブテルス(Wikipediaより)
3.15 スリナム国家軍事評議会、民間人ヘンドリック・チン・セン(Hendrick Chin Sen)を臨時首相とする政府を立ち上げる。
6 ウォルター・ロドニー,政府のスパイの爆弾テロにより暗殺される.政府はロドニーがテロリストの一味であり,自らの製造した爆弾で事故死したと主張.弟のドナルド・ロドニーを共犯の疑いで逮捕.国際的に有名な進歩的知識人ロドニーを暗殺したことで,バーナムは非同盟諸国からの信頼を失う.
8.15 スリナム軍事評議会のデジ・ブテルス議長、ヨハン・フェリエール(Johan Ferrier)大統領を追放し実権を掌握.非常事態を宣言。憲法を停止し全政党を禁止.
10.06 ガイアナで新憲法公布.協同組合制度を基礎とする社会主義路線を志向.これまでの形式的な大統領職に代え,執行権を持つ大統領となる.バーナムが初代執行大統領に就任.首相にはプトレマイオス・リードが就任。
12.03 デジ・ブテルス軍事評議会議長、チン・セン首相を大統領に指名。社会主義を標榜し,キューバ・グレナダとも友好関係を結ぶなど政権の実体を握る.
12.15 ガイアナ,新憲法下に初の総選挙.ホーブス・バーナム大統領率いる人民国民会議(PNC)が,黒人勢力の支持と投票の不正操作の下にひきつづき政権をとる.投票日に前後して、全国で100人ほどの死者を出す。選挙をボイコットしたWPAは不正操作を激しく非難.
80年 ガイアナの人口は758,619人に達する。インド系が51%、アフリカ系が42%、先住民4%、ヨーロッパ系およびアジア系あわせて3%を占める。
1981年
1.18 フォーブス・バーナムがガイアナ大統領に就任。終身執権体制をとると表明.
2.16 エイブベリ卿を団長とする英国の選挙監視団(BPHRG)、ガイアナ総選挙について「はなはだしく不公正だった」と報告。
5.01 ブテルス司令官、「解放と発展のための戦線」(FLD)を結成。チンセン首相を名目上の指導者にすえる。
81年 ガイアナを長期にわたる深刻な経済不況が襲う.公共サービス,インフラは著明に低下し,停電・断水が頻発,食用油や灯油のほか主要産品の米と砂糖も不足する事態に陥る.
1982年
2.04 ブテルスに抵抗したスリナムのチンセン大統領兼首相が、辞任を迫られる。これに代わりラヒミペルサド・ラムダ=ミシェル(Lachmipersad Ramdat-Misier)が暫定大統領に就任。
3.11 スリナムで右翼軍人Surendre Rambocus大尉とHenri Gorre大尉に率いられた反乱が発生。ブテルスにより鎮圧される。首謀者の一人ウィルフレッド・ホーカーが捕らえられ、処刑される。その後、反政府派に対する人権抑圧が強まる。
3.31 スリナムで臨時政権が成立。ヘンリー・ネイホルスト(Neyhorst)が首相に就任。実体はブテルス独裁の隠れ蓑。その後も政情は安定せず,クーデター未遂事件が頻発.
12.08 デジ・ブテルスと軍事評議会,ネイホルスト政権を無力化し、戒厳令を布告。弁護士や労組幹部など反対派指導者17人をふくむ50人あまりを逮捕し,パラマリボの陸軍基地で拷問の末虐殺.「12月殺人事件」と呼ばれる.軍による野党側報道機関などの焼き打ち事件。
12.10 米国,オランダは援助を停止し、経済制裁を課す.ブテルスは翌年のグレナダ事件以後,キューバと断交し親米路線に転換.
82年 ガイアナ労働組合会議(CTUC)、執行委員会の選出をめぐり紛糾。指導部は最大の労組である砂糖労働者組合(1万5千人)とボーキサイト鉱山労働組合代表を執行委員会から排除。
1983年
1月 オランダでスリナム解放運動(MLS)が創立される。議長にヘンドリック・チン・セン元首相。
2.26 スリナム軍事評議会、ふたたび「政府」をでっち上げ。「進歩的労働者・農業労働者組合」(PALU)のエロール・アリバクス(Alibux)委員長を指名。
11月 ふたたびブテルス独裁に対する反乱。軍事評議会により鎮圧される。
83年 USAID、ガイアナから撤退する。
83年 ガイアナ経済破綻の中で闇市場が大幅に伸張。
1984年
9.10 バーナム・ガイアナ協同共和国大統領,キューバ訪問.
1.08 ブテルス、アリバクス政権を解任。これに代わりウィレム・ウデンホウト(Udenhout)を首相とする暫定政権が成立。
1985年
1.01 スリナムで31人からなる国民議会が成立。メンバーはすべて軍事評議会の指名による。
8.02 スリナム「議会」はブテルスを政府主席に指名。ウデンホウトは首相職に留まる。
8.06 ガイアナのバーナム大統領が喉頭癌のため死亡.キューバ人医療チームが死を看取る.ヒュー・デスモンド・ホイテ(Hoyte)副大統領が執行大統領に就任.
12.02 ガイアナ総選挙.バーナムの死を受けた国民協同党が79%の「驚異的」得票を獲得し圧勝.ホイテは従来の急進的な政策を修正.西側先進国との関係強化、国有企業の民営化などに乗り出す.
85年 首都ジョージタウンの人口は19.5万人、第二の町リンデンは3万人、ベルビセの首都ニューアムステルダムは2万人を数える。
1986年
2.25 スリナムで非常事態が解除される。
7.17 スリナムのウデンホウト首相が辞任。後任にはインド系のPretaapnarain (Pretaap) Radhakishunが就任。
7.21 スリナムでロニー・ブランスウィック(Brunswijk)ら反ブテルス派の元軍人が「スリナム解放軍」(SLA)を結成。
11.20 SLAがモエンゴの町を制圧。ゲリラ活動を活発化させる.
11.30 鎮圧行動に出たスリナム政府軍、Mooi Wana村で住民19人を殺害。
12.01 ボータセは非常事態宣言公布.政府は国土の5%をのみ確保.政府軍と反乱軍による内戦に移行.およそ5千名が隣国フランス領ギアナに避難。
1987年
1.16 SLA反乱軍部隊、政府軍兵士2人を殺害。
2.12 スリナムのラダキシュン首相が辞任。ジュールズ・アルベルト・ウィーデンボッシュ(Wijdenbosch)が後継首相に就任。
2.17 学生らが反ブテルスのデモ。警察の弾圧により5人が死亡。
3.03 ガイアナのジョージタウンで非同盟諸国外相会議が開催される.
3.18 SLA部隊がフォート・ドェデル兵営を襲撃。警官3人を殺害。
7.04 列強の圧力を受けたブテルスは,民政復帰を決意.自らの政党として国民民主党(NDP)を創設する。
9.22 アムネスティ・インタナショナル、スリナム政府の市民虐殺と抑圧を非難。
9.30 民政を基礎とするスリナム新憲法が国民投票を経て制定される.
11.25 スリナム,民政移管.国会議員選挙では黒人系,インド系,インドネシア系の諸政党が連合した「民主主義・進歩戦線」が,51議席中40議席を獲得。旧軍部派の国民民主党はわずか3議席に留まる.
12.03 オランダ政府の選挙監視団、選挙が自由・公平だったと報告。
12.31 政府軍部隊、Pokigron村で住民7人を殺害。
1988年
1.25 スリナムで、議会による大統領選。改革推進党のラムセワク・シャンカル(Ramsewak Shankar)政権誕生.8年ぶりに民政復帰。ブテルスは陸軍司令官の地位に留まる。
1.27 新政府とSLAが仏領ギアナのカイエンヌで停戦交渉を開始。
6.28 議会諸政党、政府提案の停戦合意案に署名。
8 スリナム解放軍,政府との停戦協定に調印.これを喜ばないブテルスら軍部は,首都パラマリボ近郊で爆弾テロなどの挑発を繰り返し,奥地のインディオを扇動して争乱を引き起こす.
9 ガイアナのホイテ大統領,ガイアナ首脳として初めて訪米.親米政策への転換を明らかにする.外国企業の投資を自由化.バーナム政権時代の政策を全て放棄.同時に国内政治への規制も緩和.
10.11 ホイテ,テレビで演説.今後は経済・外交を親米路線にあらためると表明.外国企業の活動に対する規制を緩める。
1989年
5月 ガイアナ独立労組連合(FITUG)、政府の引き締め政策に抗議してストライキ。
6.01 スリナム議会、SLA反乱軍の囚人に対し恩赦を承認。
7.21 仏領ギアナのコウロウ(Kourou)でSLAと諸政党が和平協定に調印。
8.08 スリナム国会、和平協定を批准。しかしこの合意は、ブテルスの反発により実施されないままに終わる。
9.01 スリナムでSLAが戦闘を強化。政府は非常事態を宣言。千名ほどが仏領ギアナに避難する。
1990年
4.20 国連難民問題高等弁務官事務所(UNCHR)、仏領ギアナにおけるスリナム難民に対し帰国を援助するための使節団を創設。
12.22 スリナムで88年の民政移管後も総司令官の位にとどまっていたブテルス辞任.フラーノーフストが後任となる.
12.24 ブテルス,軍事クーデターにより実権を掌握。シャンカール政権は崩壊。米国はクーデター非難声明を発表.オランダは経済援助を停止。ベネズエラは国交を断絶、禁輸措置をとる一方、問題を米州機構に提訴。
12.28 米州機構、ブテルスによるクーデターを非難する決議。
12.30 国会、ブテルスの率いるスリナム全国国民党(SNP)のヨハン・クラアグを暫定大統領に選出。
90年 ホイテ政権、選挙登録問題が未解決だとし、大統領選挙の二年間延期を発表。
90年 ガイアナの識字率が91%に達する。死亡率は5プロミリまで低下し、いずれも西半球諸国の中で上位を占める。
1991年
1.31 ブテルス、OASに対し民政移管の意向を表明。選挙のOASによる監視を受け入れる。
2.13 OASとECの監視団がスリナム入り。11月まで現地に滞在し選挙過程を監視。
3.26 スリナム政府とSLA、和平協定で合意に達する。
5.25 スリナム軍政、国際世論の反発を受け退陣.国民議会選挙.「民主主義のための新戦線」(NFDD)が51議席中30議席を獲得。ブテルスの全国民主党を破る.
9.07 スリナム議会,新大統領にNFDDのロナルド・フェネチアーン(Venetiaan)を選出.首相にはジュールズ・アジョディア(Ajodhia)が就任し組閣を開始。
10 (ガ)ホイテ(Hoyte)政権,熱帯雨林4百万エーカーをバラマ社に貸与.バラマ社は韓国のSun Kyong社とマレーシアのSamling錫会社の合弁企業で.サラワクでの森林破壊で有名.
11.13 OASのスリナム選挙監視団、選挙が自由かつ公正だったと報告。
11.28 デズモンド・ホイテ大統領,テレビ,ラジオを通じて非常事態を宣言.
1992年
5.05 スリナム政府とSLA、軍事的敵対行動の停止で合意。
7.21 OAS、地雷撤去と選挙援助を目的とする特別使節団をスリナムに派遣。
8.08 スリナム政府とSLA、和平合意に調印。
8.29 ホイテ・ガイアナ大統領,選挙民登録のめどがついたとし、総選挙を10月5日に行なうと発表.
10.05 ガイアナで総選挙.国際監視団を受け入れ、独立以来初の自由選挙となる。チュディ・ジャガン元首相の率いる人民進歩党は,経済界指導者らの団体CIVICと連携し,65議席中35を獲得。ホイテ大統領の人民民族会議を破る.ジャガンは30年ぶりにガイアナ大統領に復活.首相にはCIVICのハインズが就任。
1993年
12月 アメリカ原住民協会(APA),バラマ社への森林提供は国の未来を危うくするものと反対.
93年 エセキボ川支流のオマイ(Omai)川近辺で金が発見。商用採掘が始まる。
93年 ガイアナの国連代表ルディ・インサナリ、国連総会議長に選ばれる。これに代わり、ジャネット・ジャガンが国連代表に転出。
93年 ジャガン政権、労働組合承認法、差別防止法、労働衛生・保安法、有給休暇法、退職年金法などの労働保護法を次々に成立させる。
1995年
95年 オマイ鉱山で大量の有毒排水が川に流出する事故。
1996年
5.23 スリナム総選挙。「新戦線」は24議席を獲得するが過半数に届かず。いっぽう旧ブテルス派野党の国家民主党(NDP)は16議席を獲得する。
9.05 新戦線と国民民主党の間に妥協が成立。NDP党首ウイデンボシュ(Wijdenbosch)が大統領に選出される。副大統領には自由民主主義運動(MFD)のプレタアプ・ラダキシュン(Pretaap Radhakishun)が就任。
96年 アメリカ国務省が機密扱いを解除して公開した公文書、CIAによるジャガン政権転覆工作を明らかにする。
1997年
3.06 チュディ・ジャガン,ワシントンのウォルター・リード陸軍病院で心臓手術の後そのまま死亡.78歳.同じ日,キングストンのマイケル・マンリーも前立腺癌で死亡.78歳.
3.17 ハインズ首相が大統領,ジャネット・ジャガン夫人が首相に就任.ジャガン政権は自由経済・改革路線を基本的に継承,IMF・世銀の厳しい条件を打ち破ることなく終わる.
8.06 オランダ,ブテルス国家顧問を麻薬取り引き疑惑で捜査開始.スリナムは「両国の友好関係を損なうもの」と不快感を表明.
12.15 ガイアナ総選挙.PPP-CIVICが議席の過半数を獲得し勝利.PNCは22議席を獲得。かつてのPPPの盟友「労働者同盟」(WPA)はガイアナ労働党と合同しガイアナ同盟党(AFG)を結成.二議席を獲得.
12.16 全国人民会議(PNC)は選挙に不正があったとして抗議行動。裁判所はこの抗議を却下。
12.17 国会、PPPのジャネット・ジャガンを大統領に指名。首相にCIVICのサミュエル・ハインズ。蔵相にはジャグデオが就任.このときジャグデオは33歳.
12.19 ジャネット・ジャガンが初の女性大統領に就任.
1998年
1.17 カリブ共同体の仲介の下、デモの中止、同大統領任期3年への短縮、憲法改正、選挙結果の再審査に関する国際的検証実施等につき与野党間で合意が成立。
4.08 OAS調査団、「97年のガイアナ総選挙が自由で公正であった」と報告。ついでカリコムの調査団も選挙結果に不正はないと報告。
6月 ガイアナで人民進歩党に反対するPNCが数週間にわたり暴動。ジャガンは非常事態を発令。
7.02 カリコムの調停でPPPとPNCとの停戦が成立。
1999年
5.25 スリナムで経済困難に抗議するゼネストと街頭行動が激化.通貨ギルダーの対ドル比率は1/3となり,生活必需品の価格が暴騰,ガソリン代は3割値上げ,さらに売上税の新設が追い打ちをかける.
5.28 スリナムのウィーデンボッシュ大統領、連立政権を解消。国民民主党の少数単独政権となる。
6.01 人口40万のスリナムで2万人が参加する抗議行動.野党は大統領の即時退陣を要求.ウィーデンボッシュ大統領は早期選挙を約束。
7 オランダの裁判所,スリナムの元独裁者ブテルスを,欠席裁判で11年の刑に処す.麻薬取引とマネーロンダリングの罪.
8.11 ジャネット・ジャガン大統領が健康不安を理由に辞任.大統領選挙で35才のジャグデオ首相が大統領に昇格.
Bharrat Jagdeo 1964年,デメララの出身.鉄道労働者の父を持ち,80年代にモスクワ大学で経済学の学位を習得.帰国後PPPで経済・金融関係の要職を歴任.
10月 ベネズエラのチャベス大統領,エセキボ地域の領有権を主張.
99年 国営化されたガイアナ電力会社が、ふたたび民営化される。
2000年
5。25 スリナム総選挙。「新戦線」が33議席を獲得し勝利。国際的圧力を前にブテルスは動けず。
5 ガイアナ政府,Beal Aerospace Technologies Inc.がエセキボ地域に商業用衛星打ち上げ基地を建設する契約を締結.ベネズエラ政府はガイアナ、米国の両国政府に契約無効を申し立て.
6.03 コーランタイン河口付近で,ガイアナ政府の許可を得て掘削作業をしていたカナダ企業の船舶を,スリナム海軍が実力排除.両国軍が境界付近に兵力を集結し,緊張が高まる.
8.04 スリナム議会で新戦線のフェネティアーン元大統領が大統領に選出される。
11.17 スリナム政府,82年の「12月殺人事件」に関し,元独裁者ブテルスに対する捜査を開始すると発表.
11.22 オランダ検察当局,「12月殺人事件」に関し,犠牲者の家族の告発を受け捜査を開始すると発表.
2001年
3.19 ガイアナ議会選挙。PPPが議席の過半数を獲得。ジャグデオ大統領が再選を果たす。
4月 ジャグデオ大統領とホイト人民全国会議党党首との党首会談が実現。与野党が協力していくことで合意。
2005年
2.18 ガイアナで豪雨被害。人口の4割30万人が被害を受ける。
2006年
2007年
7月 ガイアナのジャグデオ大統領が来日し、「小国の挑戦、持続可能な発展と未来」と題して講演。「中南米では、国民が選挙という民主主義を通じて、新しい発展戦略を探求するようになった」と述べる。