キューバ年表 その(1)

(1920年まで)

コロンブスのキューバ「発見」 キューバの征服 海賊の来襲 1600年 1700年 英国軍のハバナ占領 1800年代 

併合主義者の反乱計画 併合主義から改革主義へ 独立戦争の時代 1868年 1869年 1870年 1871年

1872年 1873年 1874年 1875年 1876年 1877年 1878年 1879年 1880年 1881年

1890年 キューバ革命党の創立 1895年 1896年 1897年 1898年 米西戦争開始 サンチアゴ決戦

 

もっとも古くからの原住民はシボネイ族,またの名をGuanahuatebey族という.もうひとつの部族はこれよりやや進んで,部分的に農耕もいとなむタイノ族,アラワク族ともいう.シボネイ族は島の西部に追いやられ,東部にタイノが居住.もうひとつはもっとも新しくキューバに侵入した部族,カリブ族である.

 

1492年 コロンブスのキューバ「発見」

10.12 コロンブス,バハマ諸島のひとつ,サンサルバドル島(現ワットリング島)に上陸.アメリカを「発見」.原住民から東方の大きな島コルバの存在を知る.

10.27 コロンブス,キューバの北岸バリアイ湾に上陸.「人間の目が見たもっとも美しい土地」と記載.コロンブスはアジア大陸の一部と考え,「フアナ」と命名.バリアイにはバヤティキリを首長とするインディオが住み,みずからの土地をコルバと呼んでいた.コロンブスは原住民の案内でクバナカン(現オルギン)まで使節を派遣するが,ジパングは発見できず.

12.5 コロンブス,黄金を求めて北岸を東進,東端のバラコアに達する.正式にはヌエストラ・セニョーラ・デ・アスンシオン・デ・バラコア。その後サント・ドミンゴ島にわたり最初のとりでを建設.

1493年

4.24 コロンブスの第二回航海。エスパニョーラ島に到着したコロンブスは,弟のディエゴに指揮を任せキューバ探検に出発.ニーニャ号他2隻を率い,キューバ島東端に達する.あらためて皇女の名をとりフアナと命名.のちにフェルナンディーナと改称.

4.30 南岸を西進しグアンタナモ湾に停泊. プエルト・グランデ(偉大なる港)と名付ける。

5.5 コロンブス,サンチアゴからクルス岬に達したあと,進路を南にとりジャマイカ北岸のセント・アン湾に上陸.その後モンテゴ湾に進むが黄金はなし.

6.13 コロンブス,サパタ半島の突端を越えバタバノーまで達したところで,タイノ族よりさらに未開のシボネー族と遭遇したことから探索を断念.

7.21 5週間をかけてようやくモンテゴ湾に入港.その後ジャマイカ西岸を回り,ハイチに向かう.

8.30 イスパニョーラ南端のアルタ・ベラに到着.その後島の南岸を航行し,サント・ドミンゴからサオナに至る.

9.29 コロンブス,5ヶ月ぶりにイサベリアへ帰還.

 

1500

09 セバスチアン・オカンポ,キューバ探検開始.西回りでピナルデルリオを越えマタンサス周辺に至る.ひとつの島であることが分かる.

10 オヘダ,シエンフエゴスに上陸.海岸沿いに踏破しマンサニーリョに達する.オヘダから金鉱発見との情報を得たスペイン政府,ディエゴ総督にキューバ征服を命じる.

1511年6月 ディエゴ総督,金産出量減少とインディオの減少による苦境を打開するため,キューバへの遠征を企画.インディオとのたたかいで蛮名をはせたイスパニョーラ島一の有力者ドン・ディエゴ・ベラスケス・デ・クエージャルを指揮官に任命.

1512年   キューバの征服

1.28 ベラスケス,スペイン兵3百名を引き連れグアンタナモ州北岸のヌエストラ・セニョーラ・デ・アスンシオン・デ・バラコアに上陸.エルナン・コルテスやペドロ・デ・アルバラードらが参加.フリアル・バルトロメ・デ・ラスカサスも遠征に参加.大規模なエンコミエンダを獲得.エスパニョーラ島のグアハバス族の酋長アトゥエイは,スペインの圧制から逃れキューバに先着していた.現地の酋長を語らい抵抗を開始.山にこもり数ケ月にわたりゲリラ戦でベラスケス軍に抵抗,このためスペイン軍は3ヶ月間にわたりバラコアに釘付けにされる.

2.02 アトゥエイ,内通者の手引きによりスペイン軍に捕らえられ,生きながら焼き殺される.その後スペイン軍はグアンタナモにまわり,南岸を東に進む.

3 別のスペイン人征服隊,ジャマイカを征服するが期待した金はなし.ジャマイカ征服隊に参加していたパンフィロ・デ・ナルバエス,部下30名を連れベラスケス軍に合流.

6.28 ベラスケス,キューバ南岸の入り江に上陸.国王の守護聖人の名によりサンチアゴと名付ける.

12.12 フェルナンド王、ベラスケスがキューバを占領し、「先住民に対し人道的措置を施した」ことに感謝の意を表する。

1513年

4.02 ファン・ポンセ・デ・レオン、フロリダ南端に到達。"La Florid"と名づけた後東岸を北上。

13年 ベラスケス,カオナオで原住民を大虐殺.疫病の流行もあり30万の原住民は抹殺される.キューバ征服の本拠をバラコアからサンチアゴに移設.エルナン・コルテスはエンコミエンダとしてサンチアゴに残留.

13年 キューバの地主アマドール・デ・ラレス、イスパニョーラ島から4人のアフリカ人奴隷をもたらす許可を得る。キューバでの奴隷制度の最初の記録。

1514年

1 ハバナ地方の制圧に成功したナルバエス軍,プエルト・デ・ハグアでベラスケスと合流.キューバ制圧を完了.サンチアゴの街にはグリハルバ,コルテス,ソトなどのならず者が結集.インディオ酋長グアマ,スペイン人侵略者に対する闘争を組織.グアマの死後,妻のカシグアヤもスペイン人に対する不服従をつらぬき自殺.

7 ナルバエス,ラ・ビリャ・デ・サンクリストバル・デ・ラ・ハバナを建設.ハバナは現地人首長の名前(San Cristobal de Habana).現在とは逆に島の南側,ネマヤベケ川の河口,現在のバタバノ郊外.

8.15 回心したラスカサス,サンクテ・スピリトゥスで聖母昇天の祝日にミサを行い,インディオ救済を訴える.自らのエンコミエンダを放棄.植民地システムへの反対とインディオの保護を説くようになる.

14年 島の中央部に小規模な金鉱が発見される.積み出し港としてバルバコア,トリニダー,カマグエイ(当初はビリャ・サンタマリア・デル・プエルト・プリンシペ)などの町が建設される.これらはいずれも海賊の攻撃を恐れ内陸部に建設される.

1517年

2 エルナンデズ・デ・コルドバ・バルディビアの指揮する奴隷狩の艦隊,キューバを出発.ユカタン半島北東部のコスメル島に漂着.原住民の襲撃にあいコルドバは負傷,死亡.

17年 ベラスケス総督,キューバを七つの州(バラコア,サンティアゴ,トリニダド,サンクティ・スピリトゥス,ハバナなど)に組織.

1518年 メキシコ発見

4 ホアン・デ・グリハルバによる第2次メキシコ探検隊出発.ユカタン半島西岸をホアン・デ・ウルア島まで南下し,アステカ王国の使者と接触.

11 エルナン・コルテスの率いる第3次メキシコ探検隊,5百人の兵士と16頭の馬などの布陣でサンチアゴ出発.

18年 ベラスケス,バラコアを首都と定める.バラコアにキューバ最初の教会建設.教会に付属して宗教裁判所設置.

1519年

11.16 アバナ,島の北岸に移設.最初ラ・チョレーラ(アルメンダレスと再洗礼された)の川岸に,ついでそれまでカレナス港と呼ばれていた場所に定着.

12.17 この日,ハバナで最初のミサが行われたとの記録.

1520年

21 サンチアゴにハイチから移入された黒人奴隷の第一陣300人が到着.ハウグア(Jaugua)と呼ばれる金鉱で採掘に従事。

22 サンチアゴ,バラコアに代わりキューバの首都となる.バラコアの教会,サンチアゴに移設.

26 サンチアゴにアウディエンシア設置.

26 アフリカからキューバへの黒人奴隷の直接輸入が開始.カポ・ベルデから145人の奴隷を乗せた船がハコボの金鉱に到着.王室は金銭の支払いにより,黒人奴隷に自由を与える勅許状を発行.

29.4.22 サラゴサ条約。スペインとポルトガルは、モルッカ諸島の297-1/2リーグ東に線を引き、東西をそれぞれの活動地域とする合意。

1530年

32.12 先住民グアマの率いる反乱。スペイン軍により破られる。

33 黒人奴隷による最初の反乱,ハコボの金鉱で発生.4人の奴隷は死ぬまでスペイン軍と戦う。その首はバヤモで晒される。

35 ハコボの金鉱枯渇.この時点でキューバの原住民人口は2千人に減少.

38 フランス人海賊,逃亡奴隷と組んでハバナを襲撃.教会や行政府を破壊,町を焼き払う.エルナンド・デ・ソト総督,船団が安全に運行できるよう,一連の要塞の建設を開始.

39 エルナンド・デ・ソトがフロリダに上陸。アメリカ内陸部を探検。

1540年  海賊の来襲

43 フロータス制成立.海賊の出没に対抗するため,年2回決められた時期に護衛艦に守られた船団を組むことが義務づけられる.ハバナがフロータスの集合地に指定(一説に61年).

44 ボアスのひきいるフランス人海賊がハバナを襲撃.撃退される.

46 ロベ・バール(Rover-Baal)の率いるユグノー教徒集団がハバナとバラコアを襲撃.資金はボルドーのユダヤ人銀行家が提供.

46 キューバのスペイン人人口はメキシコへの流出により千二百人に減少.スペイン国王は「許可なくキューバを離れるものは死刑に処す」との布告を発するが無効.原住民の絶滅によりほぼ無人の島と化す.この時点でキューバには6つの教会を持つ町が形成される。サンチアゴが80戸、ハバナ70戸、ほかにバラコア、プエルト・プリンシペ、サンクティ・スピリトゥス、バヤモがおのおの30-40戸。

47 サンチアゴ周辺で砂糖栽培開始.スペイン王室は「ありとあらゆる作業に抵抗する」キューバ人の怠惰を理由に、特権商人がキューバにアフリカ人奴隷を輸入するのを許す。

1550年

50年代早期 タイノ族首長グアマ、妻のアバグアネスとともに60人の部下を率い反乱。ゲリラ戦法でスペイン軍に対抗。

53 ゴンサロ・ペレス・デ・アングロ総督,首都をサンチアゴからメキシコに近いハバナへ移転(一説に49年とも言われる.また1592年に総督官邸がハバナに移転したが,その後も形式的にはサンチアゴが首都のまま残ったという説もある).

54 フロリダを根拠地とするフランス人海賊ジャック・ソワール(Soir,スペイン語読みではジャック・デ・ソレス)の率いるユグノー集団,サンチアゴの町を30日間にわたり占拠,略奪.

54 フランス人海賊「片足のルクレール」(Peg-Leg Leclerc),サンチアゴを襲撃.

55.7.10 ジャック・ソワール,第三回目のハバナ襲撃.ハバナを一時占領し略奪.スペインはハバナの城壁を強化する一方,フロリダをキューバ総督の管轄とし,フランス人海賊の駆逐に乗り出す.

57.5.14 ハバナのカビルド、黒人が居酒屋や宿屋を経営すること、タバコやワインを販売することを禁止。違反者は鞭打ち50回とされる。

57年 このときキューバ全島に残されたタイノ族はわずか2千人。コロンブスの来る前は300万人が生活していたという。

68 ハバナで最初の市議会「シャンゴ」が開設される.

1570年

70 この頃キューバにはスペイン人270世帯と,10数箇所のインディオ村のみが残される.ハバナは60世帯を数えるのみ.

74 ユグノー教徒の襲撃,78年にかけて続く.トリニダー,バラコア,レメディオス,バヤモの町が襲われる.

77 フランシスコ・デ・カレーニョ総督の指揮によりハバナを囲む城壁完成.バチスタ・アントネリ,ドレイクの再来に備え,モロ要塞の建設に着工するが,完成は遅れる.

1580年

82 海賊リチャード,マンサニージョを襲撃.4年後に再び現れたところを捕らえられ殺される.ドレイク船長ハバナに出現.本格的な攻撃を仕掛けないまま引き揚げる.

1586年  ドレイクのサンチアゴ襲撃

1.01 ドレイク,サントドミンゴを襲撃.シマロンの協力を得て奪取に成功.

2.11 サント・ドミンゴを出発したドレイク,カルタヘナを襲撃.攻略に成功し掠奪を繰り返す.ドレイクは引き続きハバナ攻略を試みるが果たせず.荒廃したサント・ドミンゴに代り,ハバナがスペイン軍の海上防衛の拠点となる.ドレイクは,最初キューバ西端のカボ・デ・サンアントニオを拠点とし,沖合を航行する船に水や卵を売りつける商売をしていた.

9月 タバコ販売に関する勅令が公布される。黒人がタバコを販売すれば、罰金は二倍、公衆の目前で鞭打ち200回の刑になるとされる。

89 キューバ,ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)副王領の直轄地となる.初代総督にはフアン・デ・テハダが就任.

90 砂糖キビ栽培,バヤモ平原やハバナ周辺にひろがる.ハバナではタバコの栽培も開始.

92 キューバ総督のオフィスがサンチアゴからハバナに移る.以後,ハバナが実質的な首都となる.

97 ハバナ港の入口にモロとプンタの両要塞が完成.モロ要塞.正式の名は「モロの三聖王の城」 40年をかけ,珊瑚礁を切り出し建設.

 

海賊の世紀

1600

02 この頃キューバの人口は約3万.うち1万が原住民.ハバナの町には1万3千が住み、100件の料理店と50の売春宿が出来,250人の売春婦が水夫を相手に生活.ハバナ周辺には18のインヘニア(精糖工場)が存在したが,いずれも小規模で,工場あたりの奴隷数は最大26人に過ぎなかった.

02 フェリペ2世,メキシコ銀行を通じてキューバ砂糖産業の振興を図る.

03年 バヤモ周辺のタバコ生産と密輸が盛んとなる。 スペイン政府はタバコ生産を禁止し、外国人へのタバコ販売を死罪とする。

04 海賊ヒルベルト・ヒローン,サンチアゴ,ヤラ,マンサニージョの町を略奪.最後に黒人サルバドル・ゴロモンに捕らえられ殺害.

06 ハバナ,公式にキューバの首都に指名される.ハバナ提督と別に,ハバナ以外の土地を支配するキューバ総督がおかれるようになる.

13 ロペス・デ・レオン,ユダヤ人の陰謀を企てたとして処刑される.最初で最後の宗教裁判による犠牲者.

14年 タバコ生産の禁止が解かれる。同時に全てのタバコがセビリャに出荷されなければならないと定められる。

1620年

22 オランダの商人,ブリトンのサンチアゴ襲撃に出資.ブリトンは手兵800を率いサンチアゴを略奪.

22 イギリス人海賊のハバナ襲撃.その後23,38年の三回にわたり大規模な攻撃があるが,攻略には失敗.ハバナの堅固さの前にモルガン船長も襲撃を断念したという.

28.9.8 ピット・ヘイン(Pitt Hein)提督の率いる,31隻のオランダ私掠船艦隊,金銀を満載したスペインのフロータ船団をマタンサス沖で襲撃.30隻を丸ごとだ捕する.1千2百万ペソ=1500万グルデン相当の黄金を略奪.

34 キューバに関する王勅発行.「新世界へのキーポイントであり,西インドの守りの要」と規定する.

1640年

40 各地で海賊が襲撃を繰り返す.英国人はアンティグア,プロビデンスを,オランダ人はキュラソーを,ユグノーはグアダルーペ,グレナダ,マルティニク,セントルシアを攻撃.

48 ハバナを中心に黄熱病が大流行.要塞の強化に支障をきたす.

52 英国の清教徒海賊,レメディオス襲撃.住民は町を放棄し、内陸部のサンタクララに新たに町を建設。

55 英国人海賊グランド,サンクティ・スピリトゥスを襲撃.

1660年

62 ジャマイカのミングス提督,サンチアゴ・デ・クーバを占領し略奪.ついでホンジュラスのカンペチェ湾のサンフランシスコを占領し略奪.

62 英国人海賊グランド,サンチアゴを襲撃.市内で略奪行為を展開. (上記との異同は検索中)

67 トルチュー島のフランス海賊フランソア・ロロノア(Jean David Nau)船長,レメディオス,プエルト・プリンシペ,バタバノの町を襲撃.さらに海を渡りベネズエラのマラカイボおよびヒブラルタルを襲撃.

68.2 モルガン,英政府からスペインの動向を探る密偵の使命を授かる.750名を引き連れ海岸から80キロ入ったプエルト・プリンシペ(現カマグエイ)の町を攻撃.住民を教会に閉じ込め,財産を掠奪したうえ町を焼き払う.その後カマグエイは,襲撃に備え曲がりくねった町並みを再建.カマグエイと時を前後してサンクティ・スピリトスも海賊により完全に破壊される.

1670年

73 ヤコブ・グリリョス,ヌエビタスを襲撃.

78 スプリンガー,トリニダーを襲撃.

79 グラモント・コリアンダー,バラコア,トリニダー,レメディオスを襲撃.

82 サンチアゴに第二の大司教区(Diocesian Synode)が開設される.黒人やムラート,メスティソは教会の位階への登録が禁止された.黒人は教会の保護を受けることができず,葬儀のミサも禁止された.

82 レメディオ村の司祭,人口800の村に80万の悪魔が侵入すると託宣.悪魔にとりつかれた犠牲者を焼いた後,40人の兵士が村人に村を捨て周辺部に移住するよう命令.村を焼き払う.残された村は司祭のものとなり,これを人に貸した司祭はかなりの利益を得たといわれる.

87 黒人の信仰をカトリックに改めるよう指示する教書が発せられる.

89 レメディオから逃げ出した人々は,内陸部にサンタクララの町を建設.

97.9 リュウイック(ライスウェイク)条約締結.スペインはエスパニョーラ島西半をフランスに割譲.条約締結に伴いキューバへの海賊行為は終焉を迎える。サン・ドマング(ハイチ)となる.フランスの支配を嫌うスペイン人はキューバに移住.

 

1700

05 カルロス2世死去.相続者がいないため,ブルボン家のアンジュー(ルイ14世のいとこ)を王に迎える.

08 相次ぐ戦争で戦費捻出に苦しむ本国,タバコ販売の独占をはかり専売制導入.英国との密貿易の道を絶たれたタバコ栽培業者,総督府に対して最初の反乱.

08年 奴隷が金で自由を購入することを許す勅令が公布される。自由となった黒人はコルタードス(cortados)と呼ばれる。

15 王室当局,「ファクトリア」を創設.生産されたタバコを低価格で強制買い上げ,海外でのタバコ販売を独占.

15 史上最大の財宝船団,ハバナを出港した後暴風雨に遭遇.2千5百人の団員のうち千名が死亡.

17.4.17 ハバナにタバコ購入局(Estanco de Tobacco)が設立される。支局がバヤモ、トリニダード、サンティアゴ・デ・クーバに開かれ、購入事業を開始。

17 タバコ栽培業者五百人が専売法に反対して蜂起(Sublevacion de los Vegueros).ハバナ近郊アルマンダレス川流域を中心に支配権を握り,ハバナに進出.スペインに逃げようとする高級官吏を捕らえ強制労働を課す.まもなく本国からの部隊により鎮圧されるが,一部はさらに20,23年にも蜂起するなど6年間にわたり武装抵抗を続ける.政府は反乱者の死体を道路にさらすなど強硬策で臨む.

20 最初の公的な新聞が発行される.

27 ハバナ西部のQuiebra-Hacha製糖工場で黒人奴隷の反乱が発生。およそ300人の奴隷が参加。

28 ハバナ大学創立.ハバナは新大陸貿易の中継地としてメキシコ,リマにつぐ新大陸第三の都市に成長.

1739年

10 ハバナでイギリス人船長ロバート・ジェンキンスが,スペイン人のファンディナ船長に捕らえられ,耳を削ぎ落とされる事件.英国議会はスペインがイギリスの密貿易業者や海賊を不当に扱っていると攻撃.

10.19 英国,スペインに宣戦布告.ジェンキンスの耳戦争とよばれる.48年まで続く.エドワード・バーノン提督のひきいる56隻の軍艦,130隻の輸送艦がパナマとサンチアゴ・デ・キューバを攻略.

1740年

40 スペイン政府の払い下げ資産とタバコなどの商権をもとに,ハバナ王立商会(Royal Compania de Comercio)が設立.「ファクトリア」の成功に倣い,すべての商品に対し専売制が持ち込まれる.王立商会はジャマイカの英国人奴隷商人と結託し黒人輸入を独占.一般キューバ人は貿易権を取り上げられ,不当な独占価格で物資を購入させられることになる.

40 ハバナを取り囲む城壁が完成.

41 新教徒世界の拡大を望む英国首相ウォルポール,兵5千を送りグアンタナモを攻撃.

47 ハバナ近海で英国とスペインの艦隊が衝突.

48 サン・ヘロニモ大学がハバナに創設される.

1750年

54 ミング提督の率いる英艦隊,サンチアゴを襲撃,略奪.

56 郵便制度発足.

61 キューバからイエズス会追放.

1762年 英国軍のハバナ占領

1月 スペインの王位継承をめぐり7年戦争開始.カリブの支配権奪取をねらう英国,スペインに対し宣戦布告.

6.06 ジョージ・ポコック提督の指揮する200隻の船団,8千の水夫,1万2千の兵士,2千の黒人奴隷の大軍がハバナを攻撃.ハバナ近郊のグアナバコアではペペ・アントニオが英軍に対し抵抗運動を組織.

8.13 ハバナ,2ヶ月におよぶ抵抗ののちイギリスに占領され,アルバマール伯の領地となる.イギリスの占領は11ヶ月にわたるが,この間内陸部への進出は行わず.入港する船舶は年間5,6隻から700隻に急増.その後の10年間でハバナからの輸出量は2倍に,砂糖生産は3百トンから2千トンに伸びる.

1763年

2 7年戦争終結.イギリスはハバナを返還する見返りにハバナ港の開港を要求.英国系奴隷会社が,キューバにおける奴隷販売権(アシエント)を獲得.イギリス人奴隷商人は1万人以上の黒人奴隷を持ち込む.

7.06 イギリスとスペインの間にパリ条約締結.スペインは東フロリダ(半島部)をイギリスに割譲.西フロリダ(現アラバマ,ミシシッピ州の海岸部)を確保.ハバナはフロリダや西インド諸島との自由貿易により活発化する.

64年8月 キューバと全スペイン帝国との自由貿易が認められる.ハバナ以外にトリニダード、バタバノ、ヌエビタス、レメディオスとマタンサスが新たに開港される。

73年 ハバナにReal Colegio Seminario de San Carlos y San Ambrosioが設立される。

74 キューバ最初の人口統計調査.総人口は172,620人.白人が96,440人,自由黒人が31,847人,黒人奴隷が44,333人(どういう訳か文献により数字がまちまち)

75年 アメリカ独立戦争が始まる.英領西インド諸島との関係が断絶したアメリカにとって,キューバが最大の砂糖輸入先となる.

76.11.05 スペイン、米独立軍の艦船が「国旗」を掲げキューバに寄港し必需品を購入することを許可。現金または黒人奴隷との交換が要求される。

76 ハバナ,自由港となる.ハバナ港は大規模な整備改良をほどこされる.テアトロ・プリンシパルが創業するなど文化面でも発展。

77年 キューバの管轄、メキシコ副王領を離れ、独立した総督領に変更される。

78 ハバナ,本国より正式に自治権をあたえられ,自由貿易を許可される.

1780年

82 ハバナ大学創設.

83 米独立戦争終結.イギリスに勝利したスペインはふたたびフロリダ全域を獲得.

84年 スペイン当局、キューバがスペイン本国以外の国との貿易をおこなうことを禁止。

89.5.31 スペイン,奴隷管理令を交付。国政改革の一環として領内における奴隷貿易を自由化.造船業の開設を許可する勅許状.この年の人口統計で黒人奴隷は9万人に増加.その多くはジャマイカから一人420ドルで買われた.その後奴隷制廃止までに70万人以上が「輸入」される.

奴隷管理令: 奴隷の労働日は年間270日を越えてはならない。奴隷主は一定の基準に基づいて奴隷に食料と衣服を供給しなければならない。カトリックの教えを指導し、ミサに出席させなければならない。奴隷は彼らの主人を尊重し、これに従わなくてはならない。
しかしこの法律によって奴隷主の義務が強化されたという証拠はまったくない。

1790年

90 ルイス・デ・ラス・カサスがキューバ総督に着任。税収増加のため産業を奨励する一方、フランス革命やハイチ黒人運動の影響を受けた反乱の動きを弾圧。

90 サンタマリア・デル・ロサリオで黒人奴隷の反乱.領主は首謀者12名を処刑し晒し首に処す.

90 最初のキューバの新聞"Papel Periodico"が発刊される。編集者はホセ・アグスティン・カバリェロ、トマス・ロマイ、マヌエル・セケリアら。93年には「祖国の友」経済協会のバックアップにより週2回、1810年には日刊紙となる。

1791年

8 ハイチでブークマンに率いられた黒人反乱が始まる.フランス人農園主の多くが,サンチアゴ周辺に亡命.(この時点でハイチの人口はキューバをしのぐ50万人。うち黒人奴隷が48万人)

11.24 総督府、向こう6年間にわたり奴隷の自由な貿易を許し、輸入関税を引き下げる。この後の15年間に91,211人の奴隷がハバナ経由でキューバに入る。

91 キューバ人口,30万人に増加.ハバナ市に街灯(ガス灯)が設置.

1793年

2.23 ラス・カサス総督、米国との限られた貿易を許す。

6月 大部分の白人住民が、ハイチから追い立てられ、サンチアゴに逃げ込む。

93 ハバナの農園主フランシスコ・アランゴ・イ・バレーニョ,欧州諸国を歴訪.産業振興のため「祖国の友」経済協会(Sociedad Economica)創立.砂糖産業の大規模化に着手.英国より蒸気機関を持ち込み,砂糖キビ圧搾への応用を試みる.サンチアゴでは87年に「祖国の友」経済協会が発足.

94年7.22 スペイン、共和制フランスに対し参戦するも敗れ、バーゼル条約に調印。

94年 サントドミンゴのスペイン人、トゥーサン・ルベルトゥールによって撃退され、キューバに逃げ込む。

95.6 バヤモの自由黒人ニコラス・モラレス,黒人と白人農民が団結して反乱を起こし,人種差別の撤廃と重税廃止,農地の解放を実現するよう訴える.運動は白人をも巻き込み、キューバの東半分まで拡大するが、当局の弾圧により敗北。

1796年

6.12 スペイン当局、キューバと米国の貿易を完全停止。

10.06 スペイン、フランスの同盟国として英国との戦争を宣言。

11.18 スペイン、勅令を発しカリブ諸島の中立国との貿易を一時許可。ハバナは,あらゆる中立国との自由交易を許可される.

99年4.18 上記の勅令は取り消され、カリブ諸島の港はふたたび閉ざされる。

 

1800

01.3.04 トマス・ジェファーソン,大統領就任演説.米国は選ばれた国,末代にいたるまで子孫が繁栄を続けるだけの土地を所有しいる国として祝福されている.

02 ハイチ、トゥーサンの下で独立.フランスはルクレール将軍の率いる大部隊をハイチに送り込む。

1803年

11.29 ハイチに残留していたフランス兵8千人が反乱軍に降伏。キューバにフランス人農園主数千人が亡命,水力による砂糖キビ圧搾などの技術を持ち込む.フランス人はサンチアゴ市内のロマ・ウエカにエル・チボリ劇場を建設するなど経済・文化の多方面にわたり影響を与える.

12月 スペイン植民地の港湾で、再び中立国との取引が公開される。

12.31 ロマン主義詩人ホセ・マリア・エレディア、サンティアゴ・デ・クーバで生まれる。

04 ハバナ総督の下,サンチアゴを中心とする東部(ベルタ・アリバ)と,ハバナを首都とする西部(ベルタ・アバホ)に行政機能が分けられる.サンチアゴもハバナとならぶ大司教区となる.

04 米国,フランスからルイジアナ植民地を購入.国土はほぼ二倍となる.

05年 キューバの砂糖生産高、34,000トンまで増加(10年前は14,000トン)。東部を中心に砂糖プランテーションが一気に発展する.

05 ジェファーソン大統領,「もし米国が西フロリダの争いが元で,スペインと戦争をするようになれば,キューバも手中におさめるだろう.この島は,その位置からしてメキシコ湾の要所であり,その確保は決定的に必要である」と発言.キューバ併合の意欲を表明.

06 フェリックス・バレラは軍人一家に生まれながら, 軍人となることを拒否し哲学・教育者となる. ハバナ大学に入学.

06 マタンサスで黒人による初のカビルドが開設される.自由黒人の自助組織で,奴隷が自由の身となるよう相互援助を行った.

1808年 フランスのスペイン占領

5.02 スペイン女王初め王室一族はナポレオンにより幽閉される.キューバ総督ソメルエロス侯は新政府に従わず.ナポレオンに宣戦布告.ハイチからの白人亡命者(多くは王制派)を受け入れる.

12. 25 スペインのバイレンで独立派とナポレオン軍との間に戦闘.ナポレオン軍は重大な敗北を喫する.

08年 ジェファーソン大統領,キューバ割譲をもとめジェームス・ウィルキンソン将軍をハバナに派遣.スペインはこれを拒否.

09 ハバナの弁護士ホアキン・インファンテ,スペインからの独立をめざす秘密結社を組織.このあと51年まで数次にわたり運動が起こるがいづれも「ハイチ型革命」を恐れる大地主の抵抗にあい挫折.

1810年

5月 ベネズエラでカラカス評議会が成立。キューバの上級評議会を招請するが、キューバはこれを拒絶。王室に忠誠を誓う。

10年 ナポレオンの特使マヌエル・アレマンがキューバに来島.ソメルエロス総督はアレマンを処刑.

10年 アランゴ・パレーニョら,総督を通じカディス政府に働きかけ,キューバ「発展」の最大の障害となっていた土地所有の限度撤廃を実現させる.砂糖産業の大規模化により米国向けの砂糖輸出を拡大.これにともない奴隷労働の規模も拡大.

10年 インファンテの後を継いだ自由主義者で地主のロマン・デラ・ルス,独立と反王制を目指す反乱を企てるが,未然に発覚.資金を提供したのはマルティニクのナポレオン派商人サッチャーといわれる.

1812年

2月 解放奴隷で大工のホセ・アントニオ・アポンテら,ハイチの黒人政府と秘密に連絡を取り,バヤモで反乱を計画.民兵隊を組織するが発覚。

4.09 アポンテら8人は捕えられ絞首刑となる.アポンテらの首は鉄のかごに入れられ、自宅の前でさらしものとなる。

12年 エルバ島を脱出したナポレオン,ふたたびスペインを征服しフェルナンドを幽閉.ソメルエロス総督,スペイン訪問中に毒殺される.カディスの臨時政府は共和主義者の牙城となる.アランゴらハバナのカビルド有力者はカディス政府を敵視し,ジェファーソンに支援を求める.

1816年

7月 王政復古に伴い総督が交代。ファン・ルイス・デ・アポダカに代わりホセ・シエンフエゴスが着任。

16 スペインで王政復古.独立派の紛争を嫌う多くのスペイン人が,中南米各地からキューバに亡命.キューバはボリーバルらの独立運動に対抗し領土を再征服するための前線基地となる.

16 フロリダで第一次セミノール戦争.逃亡黒人からなる「ブラック・セミノール」は迫害を逃れ,ハバナ郊外のグアナバコアに亡命.

1817年

17 英国とスペイン,奴隷貿易を禁止する協定に調印.スペインはこの年,北半球からの奴隷輸入を停止.しかし密輸はこの後むしろ増加。

17年 スペイン政府、キューバのタバコ販売を独占していた「ファクトリア」が廃止される

17 キューバの造船業者モンタルボス,蒸気式の砂糖圧搾機を導入.

17 この年の人口調査では,総人口552,000人,白人239,000人,有色人331,000人.

18 スペイン王制,キューバの貿易の自由を承認するなど経済強化を図る.ハバナは完全な自由貿易港に移行.2年後にはキューバ貿易の過半を米国が占めるようになる.

19年 スペイン政府、クレオールに土地に対する全面的な法的権利を与える勅令を発す。これまで土地はすべてスペイン王の資産と考えられていた。

1820年

4.16 スペイン革命成立.1812年憲法の復活。ファン・マヌエル・カヒガル(Cajigal)は、当初抵抗の構えを見せるが、まもなく断念。

20年 英国による奴隷貿易廃止の圧力を受け、本国における黒人奴隷貿易が禁止される.ヤミ貿易は依然続き黒人輸入は逆に増加.キューバの農園主は奴隷制を守るため,米国への併合を求める.

20 スペイン,南半球からの奴隷輸入も停止.実際にはこのあとさらに奴隷貿易は活発化.その後の十年間に約300回の密貿易が行われ,延べ6万人がキューバに上陸.

1821年

9.15 中米連邦がスペインからの独立を宣言。

21 ボリーバルの独立戦争の影響を受けたホセ・フランシスコ・レムスと,詩人ホセ・マリア・エレディアら,秘密結社「ボリーバルの太陽と光」を組織.

21 バレラ, スペインに赴き, 20年革命で制定された自由主義的憲法の研究にあたる.帰国後はサンカルロス神学校内に憲法講座を開設.これを基礎にハバナ大学の拡充進む.

22 併合主義者のG・ベタンクールら,ハバナ党の陰謀を試みるが失敗.スペインは併合主義者への警戒を強め,4万の兵を駐留.

22.9 クリオージョ地主層の密使「サンチェス氏」,訪米しモンロー大統領と会見.キューバの米国への併合を提案.構想は英国の反対にあい流産.

1823年

4.28 ジョン・クインシー・アダムス米国務長官,スペインにキューバを百万ドルで売却するよう提案.スペインは提案を拒否.キューバ人はこれを「熟れたリンゴ」(la fruta madura)政策と称し警戒を強める.

アダムスからスペイン駐在公使ヒュー・ネルソン宛の書簡 
「キューバとプエルトリコは,地理的に見れば北米大陸に付着したものである.とくにキューバは,我が海岸から指呼のあいだにある.どう考えても,それはわが国の経済的,政治的利害にとって死活的重要性を持つ.
物理的重力作用の法則があるように,政治的引力作用の法則がある.風の力によって木からもぎとられたリンゴは,リンゴがたとえそれを望まなくても地面に落ちないわけにはいかない.これと同じことがキューバにもいえる.すなわちスペインとの密接な関係は,一度中断されてしまうと,今度は北アメリカとの合併に必然的に引かれていく…機が熟せばキューバは自然に米国領となるだろう…
キューバが英国の掌中に帰するなら,それは合衆国の利益にまったく反する.必要とあれば武力に訴えてでもこれを拒否する権利と力がわれわれにはある」

8 詩人ホセマリア・エレディアとホセ・フランシスコ・レムス,秘密結社「ボリーバルの太陽と光」を創設.独立をもとめる反乱と解放者ボリーバルとの連帯を目標とする.まもなく陰謀が発覚.プエルト・プリンシペ(現カマグエイ)で「カデナ(鎖)の反乱」発生.

12.02 モンロー大統領,議会で演説.西半球を米国の影響下に置くと宣言.欧州列強の干渉を拒否。

23年 バレーラ,奴隷廃止の計画案を提示.

23年 南米のスペイン軍,敗戦とともにベネズエラからキューバに撤退.キューバをラテンアメリカにおける最後の領土として死守する構えを見せる.クリオージョでありながらスペイン軍に加わり独立派と闘ったナルシソ・ロペスもこれに同行.やがてスペイン本国にわたる.

1824年

24 フェルディナンド七世がふたたび権力を掌握すると, 当局の圧力を受けたバレーラはジブラルタルを経てニューヨークに亡命. 本国政府はバレラに死刑を求刑.フィラデルフィア(ニューヨーク?)で「エル・ハバネロ」紙を発刊.キューバ独立を訴える.政府は刺客を送りバレラ暗殺を図る.

24 宗教裁判所,最終的に廃止される.

1825年

5.28 中南米諸国の独立により、キューバとプエルトリコのみが残されたスペイン領土となる。勅令によりキューバ総督の権限が強化される。ディオニソ(フランシスコ?)・ビベス総督,キューバ独立の企てにきびしく対処.全土に非常事態令.軍の総督が政治を含め統制.奴隷解放を唱えた英領事タンバルーを国外追放.

25 メキシコとベネズエラでキューバ独立支援の動き.ボリーバル,メキシコに対し共同して西インド諸島の解放をすすめるよう要請.メキシコは賛成する.しかしキューバ独立により奴隷制が廃止されることを恐れた米国は,スペインが防備を固めたのを口実に,ヘンリー・クレイ国務長官を通じて「いかなるキューバへの干渉も阻止する」と表明.

25 スペイン駐在公使エドワード・H・エヴェリット,キューバを担保にスペインに融資し,期限内に返済されない場合はキューバ支配権を譲渡するよう協定を結ぶよう進言.

1826年

1月 ボリーバルの支援を受けたアンドレス・マヌエル・サンチェスとフランシスコ・アグエーロ・イ・ベラスコら8人,「黒鷲大隊」を率いカマグエイ州南岸に上陸.現地の有志とともに独立闘争を開始する.

3.16 サンチェスとアグエーロ、プエルト・プリンシペで処刑される。逮捕を逃れたものはコロンビアとメキシコに亡命し、「黒鷲」協会を結成。29年までの間に何度か侵入を試みるがいずれも失敗。

26 米国との貿易額,本国スペインとの貿易額を抜くに至る.

26 スペイン政府,違法に輸入された黒人奴隷は解放されると宣言.入港した船に航海日誌の提出を求める.英国艦は夜間にハバナに奴隷を上陸させようとしたスペイン船を検挙.フランシスコ・ディオニシオ総督は,事件が領海内で起きたことを理由に,英国の干渉を拒否.

27 人口調査.総人口は704,000人.白人が311,000人,286,000人が奴隷,106,000人が自由黒人ないし混血.精糖工場は1,000件,さとうきび農園が30,090戸, タバコ農場が5,534, コーヒー農園が2,067

28 アランゴら経済界は,奴隷制廃止を前提に,中国人などの低額所得労働者の導入計画を提案.

1830年

30 砂糖プランターらの勧業委員会(フンタ・デ・フォメント)の提案により,鉄道導入のための鉄道建設委員会を設置.

30 スペイン,恣意的な徴税を施行しあらたな増税を課す反対するクリオージョを政治から完全排除.

31 雑誌「Revista bimestre de Cuba」が刊行を開始。高いクオリティーが評価される。

31 ジャマイカで大規模な黒人奴隷の反乱発生.

1832年

5月 マリアノ・リカフォルト、総督に就任。

32 本国政府, バレラに恩赦.バレラは引き続きニューヨークにとどまる.

32 英国,植民地における奴隷制を廃止.

33 イサベル2世がスペイン女王に即位.

33年 キューバ文学アカデミーが創立される。

1834年

3.21 スペイン政府、キューバ総督に独裁的権限を与える。

6月 ミゲル・タコン将軍がキューバ総督に就任.反動的支配を開始.タコンは、とくにスペイン系キューバ人をスペイン政府の敵と考え、一切の公共的ポストへの参加を禁止。

7.15 教皇、公式に宗教審問裁判所の閉鎖を決定。

7.31 英国が奴隷制を廃止。英領西インド諸島でおよそ668,000人の奴隷が自由の身となる。

35 鉄道のビジャヌエバ駅が完成.ここを起点として全国に鉄道が延びて行く。この駅はハバナ・ビエホの外側にあり、現在の議事堂の場所に位置していた。

1836年

9.01 ホセ・マリーア・エレディア、亡命先のニューヨークから、タコン総督に帰国許可を要請。

36 本国で自由主義憲法制定.タコン総督は新憲法のキューバへの適用を拒否し専制支配を開始.ホセ・アントニオ・サコはスペイン支配のもとでは社会の発展に遅れをとると主張.国を追われパリに亡命.

1837年

4.25 スペイン本国政府、キューバ代表のコルテス(議会)への参加を拒否。

37 砂糖キビ輸送のためハバナ(ビジャヌエバ駅)=ベフカール(Bejucal)間にラテンアメリカ最初の鉄道開設.翌年にはギーネスまで延長.本国スペインに先立つこと10年.その後60年までに全土に鉄道網.

37 タコン総督,外国船の黒人水夫がハバナに入港する際はすべて拘禁するよう指令.英国艦ロマニー号はこれを拒否し,ハバナ港内に居座る.

1839年

5.07 ホセ・マリーア・エレディア、祖国への復帰がかなわぬまま、メキシコで客死。

39 キューバ向けの黒人奴隷船アミスタード号,ロングアイランド沖で奴隷が反乱.米国に検挙され,ニューロンドンで裁判.

39年 1790年からの50年間で、砂糖農場の数は400から800に倍増。トリニダーでは砂糖成金の御殿が立つ。

1840年

40 キューバに砂糖王国実現.生産の中心地トリニダではホープ,アウダシアス,ギャンブル,コンフィデンスなどの砂糖成金が出現.これらはすべて57年の不況で破産.

41 キューバ国勢調査.総人口は百万を越える(1,037,624).白人448,291人,自由黒人152,838人,黒人奴隷436,495人.人口に占める奴隷の割合は4割を超え,有色人口の比率は6割に達する.黒人奴隷のキューバ到着後の平均余命は7年といわれる.

42 ハバナに入港する米国船舶が倍加.キューバから米国に輸出される額は,スペイン本国の倍に達する.

41 ヘロニモ・バルデス,総督に就任.ナルシソ・ロペス,旧友バルデスの招きでスペインからキューバに戻る.軍事委員会総裁に就任したロペスは,自由黒人など政治犯への苛酷な態度で悪名を馳せる.

42 バルデス総督,89年の奴隷法を改正し黒人奴隷からの搾取を強化.奴隷たちは反抗して山中に逃亡.パレンケと呼ばれる閉鎖社会を形成.

43 ロペス,バルデス総督の辞任に伴い退官.ロサ・クバーナ鉄鉱山など事業に手を出すがつぎつぎに失敗.

1843年 マタンサスの黒人反乱

11.5 マタンサスにおいて自由黒人を中心に黒人奴隷と一部白人をまじえ,奴隷制廃止と人種差別の撤廃をめざす蜂起.これに呼応してマタンサスの地主92人が奴隷貿易の廃止を要求.トリウンビラートの農園では,奴隷の先頭に立ってたたかった女性カルロタが捕らえられ殺害される.のちにキューバ軍はアンゴラでの大作戦を「カルロタ作戦」と命名.

1844年

44 スペイン総督府,マタンサスの反乱に血の弾圧.4千名を逮捕し数百人を殺害.容疑者をハシゴに結わえ,鞭打ちで自白を強要したことから「ハシゴ(La Escalera)」事件とよばれる.自由黒人に対するきびしい追及.プラシードの名で知られた詩人のガブリエル・デ・ラ・コンセプシオン・バルデス,黒人反乱の陰謀に参加したとして処刑される.

44 黒人の暴動に恐れた農園主のあいだに,より強い政府として米国との併合を望む声が強まる.ホセ・アントニオ・エチェベリア,クリストバル・マダンなどが中心となり「ハバナ・クラブ」(Club de la Habana)結成.大地主の利益代表として奴隷制維持,米国への併合を掲げる.

44 ニューオリンズ・ガス会社により,ハバナの街に街灯が点される.

1845年

2 英国の奴隷制廃止論者マコーレイ,米国を「世界における奴隷制支持のパトロンであり,チャンピオンである」と非難.

6.14 アントニオ・マセオが生まれる(出生日については異説あり).父はベネズエラうまれの自由黒人で,サンチアゴで貿易商を営んでいた.母はマリアナ・グラハレス。

45 ユリー米上院議員,キューバ購入を議会に提案.

45 キューバ砂糖プランター,中国へ調査団を派遣.中国人労働者移入の可能性を探る.

45 カトリックの擁護に勤めたバレラ, ニューヨークのGeneral Vicar に指名される. 司教にも推薦されたが, スペインの抗議により実現せず.

1847年

7.06 ジョン・オサリバン,キューバを訪れハバナ・クラブの例会に出席.帰国後ジェームス・ブキャナン国務長官に・キューバの富裕層は奴隷の反乱を恐れている,・独立を望んでいるわけではない,・米国がキューバを購入するならそのための資金1億ドルを供出する用意がある,と報告.同行したモーゼ・ビーチは「キューバはわれわれのものだ,キューバをよこせ,そうすればわれわれは完全になる」と扇動.

ジョン・オサリバンはニューヨークで「民主評論」誌を主宰.「マニフェスト・デスティニー」(明白な運命)の提唱者として知られる.モーゼ・ビーチは「サン」紙主幹で、オサリバンを支援。

47年 中国移民の受入れを開始.最初の移民612名が到着.その後30年間で10万人が入国.実際は黒人に代わる奴隷のあつかい.

1848年 併合主義者の反乱計画

1.1 ニューヨークの亡命者グループ,キューバ人評議会を結成.ガスパル・ベタンクール・シスネロス,ホセ・アニセト・イスナガらが中心となり,マダンを総裁にかつぐ.「真実」を発刊,「5万の”アメリカ人”が白人救出のためにキューバに上陸してくる」と宣伝.奴隷制擁護と併合主義の論陣を張る.

4 ハバナクラブの代表ラファエル・デ・カストロ,メキシコ在住のウィリアム・ワース将軍にかつての部下5千人を集めキューバに侵攻するよう要請.ワースは申入れを快諾.「真実」誌は「キューバ人は力強くわれわれを守ってくれる,親密なる米国の手にとびこむ用意が出来ている」と宣言.

6.09 ポーク大統領、スペインに対し1億ドルでキューバを売却するよう提案。

6.28 ナルシソ・ロペス,自らの所有するエスカンブライのロサ・クバーナ鉱山で反乱の陰謀.組織はマタンサス,ラスビリャスにまたがり拡大.聖ペテロ=パウロ祭にあわせシエンフエゴスで蜂起する計画.ナルシソ・ロペスの陰謀を知ったハバナクラブは,ワースの侵攻作戦との合体をはかる.ロペスとの合意成立し,蜂起は7月に延期となる.

7 ワース将軍の蜂起計画を知ったポーク大統領,「成功の見込みのない蜂起はキューバ併合を遅らせるだけ」と判断.計画を中止させると同時に,ロムラス・ソーンダースを全権特使としてマドリードに派遣.1億ドルを上限としてキューバ購入の交渉に当たらせる.

8.15 ソーンダイス特使、マドリードを訪問しペドロ・ピダル外相と会談。キューバ買収を提案するが拒否される。

8 ブキャナン,ロペスの計画を密かにロンカリ総督に通報.ロペスは難を逃れ米国亡命.

10 米西間の秘密交渉,ニューヨーク「ヘラルド」紙により暴露される.これを怒ったスペイン政府は交渉打ち切り.

11 パリ亡命中のサコ,「キューバと米国との共同」を発表.米国との協調は「それがキューバに政治的自由をもたらす」限りにおいてであると主張.ニューヨークの奴隷制論者とのあいだに一線を画す.国内の中小農園主の共感を呼ぶ.

48 スペイン,米国産小麦に対し高関税を課す.米国はこれに対抗してキューバのコーヒー輸入を停止.以後キューバのコーヒー産業は急速に衰退.

48 キューバ人口調査.白人42万人,黒人62万人.

1849年

5 ワース将軍,ニューオリンズで死亡.ワースと組んでスペイン打倒を目指したロペスらの陰謀は挫折.

7 ロペスは独自に兵を組織することを決意.副官にアンブロシオ・ゴンサレスをあて,メキシコ戦争のベテランのロバート・ホワイト大佐を雇い入れる.ロペスの企てはキューバの「ハイチ化」を恐れる南部諸州の援助を受ける.

8 駐米スペイン大使アンヘル・カルデロン,ロペスの侵攻準備は中立法違反と抗議.

9 スペインの抗議を受けたテイラー大統領,ラウンド島の侵攻基地を封鎖しニューヨーク停泊中の二隻の船を押収.一回目の侵攻計画は壊滅.

49年 ユカタン半島の原住民が奴隷として輸入される.中国人契約労働者もこの年から始まる.増加する有色人種に対し,白人居住区への立ち入りを禁止.

49 総督府,キューバ人の米国への留学を禁止.

49 米国会社,キューバでの電信事業を開始.

1850年 ナルシソ・ロペスの第一次侵攻

3 ロペスら,活動拠点をニューヨークからニューオリンズに移す.ミシシッピ州知事のジョン・A・キットマン(Quitman)将軍と会見し,支持を取り付ける.キットマンは奴隷制支持の膨脹主義者でテキサス「独立」戦争とメキシコ戦争に参加.メキシコ占領軍の司令官を勤めた.

4.25 蒸気船ジョージアナ号、ケンタッキー出身の雇い兵200人を乗せニューオリンズを出航。「予定地」はパナマのチャグレス。

5.02 蒸気船スーザン・ラウド号、ジョージアナ号に続きニューオリンズを出航。ルイジアナ出身の雇い兵150人を乗せる。

5.07 蒸気船クレオール号、ロペスと650人の雇い兵を乗せニューオリンズを出航。「予定地」はチャグレスでさらにカリフォルニアを目指すとされる。

5.16 ロペスらの三隻の船,中立法違反を避けるためいったんユカタン半島沖のコントイ島に集結.このときロペスが掲げた旗は現在もキューバ国旗として用いられている.旗の星はいずれ米国旗の星の一つとなるはずであった.

5.19 6百名からなる侵攻部隊がカルデナスに上陸。司令官はアンブロシオ・ホセ・ゴンサレス将軍で、キューバ人はわずか5人.街の制圧には成功するが,ただちにスペイン軍の激しい反撃に遭い,数時間後にはキーウェストに撤退.ロペスは米官憲に中立法違反で捕らえられる.

50 砂糖生産は22万トンに達し,世界生産量の1/4をしめる.砂糖輸出はキューバ全輸出の83%を占めるにいたる.4割が米国向け.

1851年 ロペスの敗北と死

7 ロペスの行動に対し南部の支配層は熱狂的な支持.連邦政府の統制不能となる.ロペスに呼応してカマグエイ州グアイマロでホアキン・アグエロの反乱計画.アグエロは逮捕・処刑される.なおアグエロはカマグエイ黒人解放協会の幹部だったという.トリニダでも小規模な併合主義者の蜂起.コンチャ総督,ロペスの侵攻作戦に対抗するためスペインに忠誠を誓う準軍事組織「ボルンタリオ」を結成し育成をはかる.

8.11 ロペスの部隊435名,ニューオリンズを出航.ハバナから70キロ西のバイア・オンダに上陸し三度目の侵攻作戦開始.

8.12 ロペスの部隊,ラス・ポサス(Las Pozas)でスペイン軍の待ち伏せに遭い壊滅.

8.16 その後の索敵活動でロペスら51人が捕えられ、ハバナに連行される。

9.01 ロペスはハバナのプンタ広場で絞首刑に処せられる.ロペスは処刑の直前「私の死は、キューバの運命を変えない!」と叫んだという。

9月 ロペスのあとを継いでニューオリンズに秘密結社"Order of the Lone Star"を結成。南部8州に50の支部を持ち、メンバーは1万5千ないし2万と称する。

ブエルタ・アバホの陰謀(Conspiracy of Vuelta Abajo): 「ひとつ星の位階」が立てたキューバ侵攻計画。国内での反乱と連動した上陸作戦を目指す。52年夏にキューバに侵攻することを目標とする。国内ではロペスの義兄弟で資産家のフランシスコ・デ・フリアス、米国ではR.ピントらが指導。ブエルタ・アバホは一般的にキューバの東部を指すが、具体的にはピナル州を想定。

1852年

8月 キューバ国内でブエルタ・アバホの陰謀が発覚する。若干名が脱出に成功し米国へ亡命。フリアスほか多くは捕えられ、拷問の末虐殺される。

10.22 ニューヨークタイムズ、スペインのキューバ売却拒否に対し、「キューバ問題は現下の主要問題である」と宣言。

52 ハバナ大学で宗教色を排する学制改革.

52 英仏両国,米国のキューバ併合策動に警戒感.「三国が一致してキューバ島領有の意志を現在および将来にわたっていっさい放棄する」ことを内容とするに三国協定を提案.米国は義務の不平等性を理由に拒否.

1853年 キットマンの侵攻計画

1.28 ホセ・マルティ、スペイン軍下士官の子としてハバナで生まれる.

4.29 ニューヨークのキューバ評議会,キットマンにキューバ侵攻作戦を直接指導するよう要請.同時にキットマンを軍,民両面にわたる指導者として指名.

8.18 キットマン,フンタの要請を公式に受諾.「もし北部が併合を拒否すれば,南部はキューバとともに新たな国家を作るだろう」と発言.2月侵攻計画に着手するが,資金不足のため挫折.

9.23 スペイン政府、前プエルトリコ総督で熱心な奴隷制廃止論者のフアン・デ・ラ・ペスエラ侯爵を総督に任命.ペスエラは二年の在任期間中に白人と黒人の通婚合法化,民兵隊への黒人加入など,改革案を次々に提出.

9 英国,米国に対抗してキューバにおけるスペインの主権擁護に乗り出す.スペインは英国の圧力を受けキューバの奴隷制廃止に踏み込む.

12.07 政府系新聞「ディアリオ・デ・ラ・マリーナ」、奴隷制と奴隷取引に関するキャンペーンを開始。自由労働システムの長所を強調する。

12.23 ペスエラ総督が着任。黒人奴隷の密貿易を行ったものは2年間の島外追放処分とする。さらに奴隷取引を黙認した県知事は失格させるなど、きびしく取り締まる。一方,自由労働制を奨励しユカタン人,インド人,中国人移民を推進.以後の20年間で13万の中国人が移入する.

1854年 オステンド宣言

1 スーレ(Soule)特命大使,スペイン政府に対し4億ドルの対英負債,60万ドルの対米負債を肩代わりすると提案.スペイン政府はこれを拒否.

2.28 ハバナ港に入港した米汽船「黒い戦士」(Black Warrior)号,港湾法違反で船と積荷を没収される.乗組員は一時拘留される。ピアース大統領は「米国の名誉と安全にたいする重大な侵害であり,非平和的手段による解決も辞せず」と洞喝.

4 フランクリン・ピアース大統領,1億3千万ドルを上限としてスペイン政府とキューバ購入の交渉.不調に終わる.

4 キューバの一部農園主たち,ハバナ駐在のウィリアム・ロバートソン米領事と会見.奴隷制を守るため米国が早くキューバに侵攻するよう要請.

5.30 ピアース大統領,カンサス=ネブラスカ協定に調印.

5.31 ピアース大統領,キットマンの侵攻計画に対し「米国内での外国に敵対する軍事的活動を禁止する」と声明.「平和的方法で」キューバを獲得する方針を明らかにする.

5月 ペスエラ総督、すべての奴隷主に対し奴隷資産の全面公開を迫る。名前、年齢と性別、さらに購入時の情報が含まれる。

7 スペインで革命勃発.米政府は交渉進展のためフィリバスターの策動を抑えるが,新政府は1ヶ月後には崩壊.

9 ペズエラ,「黒い戦士」号事件の責任を問われ更迭。背景にキューバ地主層の強い反感.コンチャがふたたび総督に着任.地主層を懐柔するとともにキットマンの侵入に備える.

10.09 英,仏,西駐在の3人の合衆国大使がベルギーのオステンドに会合.オステンド宣言を発する。

オステンド宣言: キューバの「ハイチ化」を警告.「合衆国は人間ならびに神の名によるすべての法律によって,キューバを実力で手に入れる権利を持っている」と宣言.1億2千万ドルを上限価格としてキューバ買収に乗り出すよう勧告.この宣言を組織したジェームス・ブキャナン英大使は,民主党の大統領候補に指名される.

10月 オステンド宣言を受けたピアス大統領は,キューバ買収費として1億ドルの支出を認め,交渉次第では3千万ドルの上積みを認める.

11 キットマン,ハバナ航路の船主であるジョージ・ローと組んでキューバ侵攻を企図.先遣隊がバラコアに上陸するが,ただちにスペイン軍により捕捉される.

54 キューバの砂糖生産,2千のプランテーション,55万の奴隷労働により,世界総生産の1/4を占めるにいたる.

1855年

1.12 キットマンとつながる二月蜂起計画発覚.コンチャ総督はハバナに戒厳令を発布する。

2 総督府、「キューバ革命評議会」を摘発.ラモン・ピント委員長とフランシスコ・エストラルパスが処刑される.併合主義者の武装侵入策動は終焉.

3.09 キットマン将軍、ワシントンを訪れピアース大統領と会談。ピアースは侵攻計画の中止を強く求める。キットマンはピアース大統領の勧告を受入れ侵攻計画を断念.

3 米国で「オステンド宣言」の内容が発表される.宣言は「強盗宣言」であるとし,北部を中心にごうごうたる非難の的となる.

4.30 キットマン,フンタに対し計画からの完全撤退を通告.

8.25 キットマン将軍、公式にキューバ侵攻作戦からの撤退を表明。ニューヨークのフンタは解散し、有力者はパリへ移住.残った亡命者は・スペインから独立,・奴隷制を廃止した上で,・キューバ共和国を設立することを主張するようになる.

1856年

1 併合主義者の生き残りドミンゴ・ゴイクリア,ニカラグアに侵攻したウォーカーと交渉.20万ドルを提供する見返りに,ニカラグアの後キューバにも侵攻するよう提案する.ウォーカーはこの提案を快諾.

2 ゴイクリア,250の手兵を引き連れウォーカー軍に参加.

9.22 ニカラグアを制圧したウォーカー,奴隷廃止令を撤廃.・キューバを征服するよりは中米五カ国を軍事統合することが先決である,・キューバは米国にではなくこの中米連合に併合されることになる,・ゆくゆくは南部諸州と関連を保ちながら,米国人を指導者とする奴隷制帝国を作る,という構想を提示.ゴイクリアはウォーカーの実態に幻滅し11月には戦線を離脱.

56 オステンド宣言の中心人物ジェームズ・ブキャナン,大統領に選出.南部諸州は一斉に大歓迎.

1857年

5 米軍により救出されたウォーカー,ニューオリンズで「英雄」として歓迎を受ける.彼は奴隷帝国構想を宣伝するとともに,「キューバこそ奴隷制の見本」と賞賛し,スペインからの「解放」のため活動すると宣言.

57 米国,キューバ産タバコにたいする関税を引き上げ.米国内の恐慌と重なり,重大な不況をもたらす.タバコ労働者1万5千人のうち5千人が失業.多くがフロリダなど米国に移住.アドルフォ・ラモスは「まじめな白人」を対象とする労働者互助会」を設立.自由黒人アントニオ・モーラは比較的裕福な黒人を対象として宗教的色彩の濃い互助会を設立.

1859年

4 ウォーカーの成功に刺激されたホセ・エリアス・エルナンデス,ニューヨークを出航しキューバに向かうが,悪天候のためハイチに漂着.計画は失敗に終わる.

12 コンチャ総督,退任.かわってキューバ生まれのクレオールを妻にもつフランシスコ・セラノ将軍が就任.奴隷に代えてアジア人10万人を労働力として受入れる方向を提案.当局の懐柔策が効を奏し,併合主義は下火となる.

59 米上院,キューバ打開には交渉による併合が唯一の実践可能な方法であると同時に,長期的に見て安上がりな方法であると報告.

59 この頃キューバの製糖工場(インヘニオ)数,約2000に達する.

1860年 併合主義から改革主義へ

11 併合主義に反対の立場をとる共和党のリンカーンが大統領に当選.

60 ヨーロッパの甜菜産業に対抗するため,蒸気機関の圧搾機など砂糖産業の機械化が急速に進む.インヘニオは全島で1300以上になり,砂糖生産は50万トンに達する.輸出先の6割を米国が占める.地主層は本国資本家の高金利と奴隷の購入価格の高騰に苦しむ.

1862年

6 キューバ統計発表.総人口136万人に対し人口の1/4を占める37万人の奴隷が存在.白人は73万人,自由黒人は22万人.他にアジア人が3万4千人.黒人の割合は41年の59%から43%に減少.地主層はいまや供給困難となった黒人奴隷よりも,契約労働や移民労働者に活路を見出し,奴隷制廃止を受入れるようになる.

62 キューバ国内の有産階級は,当局の了解の下に改革主義クラブを設立.スペインの支配を認めつつその枠内で自治の確立,軍民分離を要求.本国政府はこれに応え植民地改革委員会を設置し,さまざまな改革案を採択.

62 オリエンテに砂糖プランテーションの進出.コーヒー農園や牧場は急減し伝統的農園主は没落.

1863年

1.1 リンカーン,奴隷制廃止宣言.以後1年間で北軍に参加した黒人兵は20万人に及ぶ.

5 改革主義クラブ,改革党に発展改組.主な指導者はミゲル・アルダマ,ポソス・ドゥルセス,ホセ・モラレス,ホセ・メストル,ホセ・アントニオ・エチェベリアなど大地主.多くはかつて併合主義を唱えたが,時代の変化により奴隷制維持を断念し改革主義に乗り換えたもの.「世紀(El Siglo)」という出版物を出したことからシグリスタとも呼ばれる.改革主義の影響が強まるにつれ,キューバをスペイン統治のもとにとどめ奴隷制を維持しようとする勢力は危機感を持ち,「無条件スペイン党」を結成.

63 ハバナ,人口増加にともない旧市街をとりかこむ城壁撤去.

64 マセオ、サンティアゴのフリーメーソンのロッジに参加。ロッジ内部の革命サークルにも加わる。

1965年

1 セラーノ総督,任期を終了し帰国.本国でキューバの改革推進と議会への発言権強化を訴える.

3.25 「エル・シグロ」誌、改革党の発足を発表。社主のポソス・ドゥルセスを中心に多くの知識人を結集。奴隷貿易の終止と奴隷制度の廃止を支持する立場をとる。奴隷主や資産家の多くもこれに参加。

4 下層階級にたいする教育の機会が認められる.傑出した詩人でジャーナリストのラファエル・マリア・デ・メンディーベ,初等学校を開設.生徒として当時12才のホセ・マルティ.

5.12 本国でのセラーノの活動に共感し,改革を求める2万4千人の署名が集められる.署名の内容は・関税システムの改善,・本国と同等の政治的権利の実現,・奴隷貿易の廃止の三点.改革主義者たちは12人の代表からなる「情報センター」を設置し,キューバ特別法について研究.

10 サトゥルニオ・マルティネス,タバコ労働者を対象とする週刊誌「アウロラ」の発行開始.無政府主義を紹介するとともに,全キューバ労働者のための互助会結成を訴える.十年戦争の指導者の内,ビセンテ・ガルシアとサルバドル・シスネロス・ベタンクールは無政府主義の影響を受けていたといわれる.

11 南北戦争における北軍の勝利と直後のリンカーン暗殺は,キューバ人に深い感動を与える.改革党幹部は揃って奴隷貿易反対協会に参加.

11.25 勅令により植民地改革委員会が結成され、キューバ改革のための諸提案が議論される。また情報評議会では、通商条約とこれに関連した税制改革。黒人やアジア人の労働に対する法的規制。白人移民の推進、などが検討される。

12.25 スペイン政府,保守派の反対を押しきりキューバに16議席,プエルトリコに4議席を与える勅令決定.選出された議員の大半はクリオージョの改革主義者.

1866年

3.25 キューバの改革派、スペイン本国に22名からなる代表団(改革委員会)を送り、改革の必要性を訴える。サンチアゴからはホセ・アントニオ・サコ(Saco)が代表に選ばれる。

4 ニューヨークに本部を置くキューバ・プエルトリコ共和主義協会,「人種や皮膚の色にかかわらずすべての住民のための自由」を訴える.奴隷制廃止は一部地主層までふくむ共感をかちとる.

5.30 ドゥルセ総督、本国に召還される。これに代わりレルスンディが第一回目の総督に就任。12月まで総督の職を務める。

レルスンディ(Francisco de Lersundi y Hormaechea): 1817年バレンシア生まれ。いったん失脚したものの48年に復活。その後軍の大将まで上り、1853年にはスペイン政府の首相をつとめている。(このWikiの記載は多少怪しい)
ニューヨークタイムズの1866年7月6日号が写真版で読める。これによるとハバナに到着したのは6月2日。港にはドゥルセが迎えに出ている。その数日後にドゥルセは本国に向け出発した。

5 サンチアゴの執政官シプリアーノ・デ・マソ,アウロラの発刊を禁止.その後も地下での発行が続けられる.

7 スペイン本国で,自由連合のレオポルド・オドンネル内閣失脚.植民地改革に敵対するナルバエス内閣に交代.植民地代表を含む新議会の開催は見送られる.

10.30 スペイン本国で、アレハンドロ・カストロ植民地相を議長に、情報評議会(Junta de Informacion)の第一回目の会合が開催される。キューバ改革委員会は、@25年以来40年にわたる非常事態を解除すること,A総督は軍事関係のみに権限を縮小し、知事による文民統制を実現するよう要請.

12 キューバを恐慌が襲う.ハバナの産業銀行と商業銀行,払出を停止.

66年 ネメシオ・ギヨー(Nemesio Guillot)、米国の大学に学び、ハバナに野球(beisbol)を持ち込む。野球そのものがスペインの統治に対する抗議のひとつとなったため、スペイン当局は野球を弾圧する。独立派の野球選手はモロッコに追放された。ほかの選手はドミニカやベネズエラ、コロンビアに避難した。彼らはそこで野球を熱心に広めた。

 

独立戦争の時代

1967年

1 新総督としてホアキン・デル・マンサノが着任.やがてキューバ人に認められた権利をすべて否定.自由主義者に対し苛酷な態度で臨む.

2.12 税制改悪.徴税対象を大幅に拡大.不動産,収入,すべての取引に6%の税が課せられる.キューバ全土を不況が襲う.中産階級の不満は一気に尖鋭化.マンサノはさらに12%までの税率引き上げを打出す.

4.16 キューバ改革委員会と植民地省との5ヶ月半の交渉,キューバ側の要求は,結局すべて退けられ,なんらの成果も引き出せぬまま終了.マンサノを更迭しようとする試みは失敗に終る.

4.27 本国政府、情報評議会を解散。エル・シグロとディアリオ・デ・ラ・マリーナは、この決定を厳しく糾弾。

4月 NYでは「キューバ,プエルトリコ独立協会」が設立され、両島における革命の準備に乗り出す.

4 バヤモの富裕な農園主アギレーラ,ペドロ・フィゲレード、フランシスコ・マセオの3人からなる秘密の「委員会」を組織し武装蜂起の準備にとりかかる.フィゲレードは現キューバ国歌の作詞者.

アギレーラ(Francisco Vicente Aguilera): オリエンテ随一の富豪といわれる。ハバナ大学法学部を卒業。当時はバヤモの市長を勤めていた。海外経験豊富で先代から引き継いだ黒人奴隷以外には奴隷を入れず、自由労働者でまかなうなど、当時としては開明的な思想の持ち主だった。蜂起が始まるや彼は全財産を投げ打ち、勝利のために貢献した。71年、資金活動のためニュ−ヨークにわたる。77年ニュ−ヨークで癌のため死亡。

4月 サンチアゴの革命派は秘密結社「グラン・オリエンテ・クバーノ」を結成.主な活動家にマヌエル・フェルナンデス,ドナト・マルモール,アンドレス・プエンテなど.アントニオ・マセオも参加.

4月 ほかにマンサニーリョではヤラ近郊ラ・デマハガの農園主カルロス・マヌエル・デ・セスペデスとバルトロメ・マソなどが秘密結社「ブエナ・フェ」を結成.カマグエイではサルバドル・シスネロス,ベタンクールらが活動.

マヌエル・デ・セスペデス: バヤモ近郊の農場主。バルセロナ大学在学中に革命運動に参加.投獄,亡命などの経験を持つ.自身はむしろ保守的な人物で,しばしば独裁的傾向をしめしたといわれる.

8 バヤモの革命評議会,改革運動への協力を求めフィゲレードをサンチアゴに派遣.サンチアゴ代表モラレス・レムスは,併合主義の立場から結局提案を拒否.

9月 キューバに厳しい経済統制を敷いたマンサノ総督が更迭される。12月にはレルスンディ(Lersundi)が二度目の総督に就任。

 

1868年

5 自由主義者の新聞「エル・シグロ」,労働運動の機関紙「アウロラ」があいついで発刊停止に追込まれる.独立戦争開始と同時に解散命令.

8.04 サンミゲル・デ・ロンペで独立闘争の支持者が秘密会議.最年長であり、スペインで革命に参加した経歴を持つセスペデスが会議の進行役をつとめた(この農場は1993年に国の歴史遺産に指定されている)

サンミゲル・デ・ロンペ(San Miguel del Rompe): ラス・トゥナスの街から20キロ余り離れた農場。参加者はバヤモ地区代表のBelisario Alvarez and Carlos Manuel de Cespedes、オルギン地区代表のSalvador Fuentes and Antonio Rubio、ヒグアニのDonato Marmol、ラス・トゥナス地区のVicente Garci'a Gonza'lez, Francisco Rubalcaba and Felix Figueredo、カマグエイ地区のSalvador Cisneros and Carlos Loret de Mola。

セスペデスの演説: 紳士諸君、時間が決定的な問題となっている。スペインの権力はいまだ強大に見えるが、それは過去三世紀の遺産に過ぎず、内部は虫食いだらけだ。
セスペデスの即時蜂起論が合意されたわけではなく、カマグエイ派はサフラの終了後を主張した。結局日時は決めず、早期に蜂起を目指すことで合意した。ビセンテ・アギレーラが会議を招集したという説があるが、彼が出席していたかどうかもふくめ否定的。 

黒人の扱いについても協議。「黒人の力なしに革命を遂行することは出来ず,そのためには奴隷解放が必須条件という点で意見が一致した」という記述があるが、これも真偽不明.

8.14 ラス・トゥナス会議を受け、サンティアゴ・デ・クーバでも革命委員会が結成される。12月24日を蜂起の日に設定.

68年9月

9.18 本国で自由主義革命成功(栄光革命).女王イサベラ二世はフランスへ亡命.臨時政府は出版,結社,教育,信仰の自由を宣言.「半島だけでなくすべての海外の兄弟の利益をも代表する」と声明.キューバ・プエルトリコにおける奴隷解放には強固に反対.

9.18 レルスンディ総督、臨時政府に従わず女王への忠誠を誓う。みずからの地位を固めるため,これまで以上に改革主義者への弾圧を強化.

9.23 プエルトリコで一足先にラーレスの反乱が始まる。革命議会は自由なプエルトリコの共和国を宣言する。

9月末 蜂起の陰謀が政府に漏洩。レルスンディ総督は、バヤモ知事ウダエータに関係者の即時逮捕を命じる。陰謀参加者の一人トリニダード・ラミレスの妻が神父に告悔。神父がこの陰謀を当局に通報するよう彼女に説得したのが漏洩のきっかけとされる。

68年10月 蜂起開始

10.01 オルギン近郊ミヒアル農場のルイス・フィゲレード,徴税官を追い出し武力でも支払いを拒否すると宣言.

10.03 革命に好意的な電信技手が、レルスンディの電信を傍受し、セスペデスの元に通報。革命評議会は緊急会議を開催.蜂起の予定を早めることで意志統一.  

電信の内容: キューバはスペインに属している。誰が統治しようとも、スペインのために存在しなければならない。セスペデス、ヴィセンテ・アギレーラ、ペドロ・フィゲレード、フランシス・マセオ・オソリオ、バルトロメ・マソ、フランシスコ・ハビエル・デ・セスペデスを直ちに投獄せよ。

10.10 セスペデス,自らの製糖工場で37人の同志とともに蜂起.奴隷を解放し武装させたあと147人からなる最初の解放軍を組織.バルトロメ・マソを副司令官に任命し、セスペデスみずから反乱軍総司令官に就任.彼らの保有する火器は、45丁の鳥撃ち銃、4丁のライフルと2、3の拳銃のみであった.

セスペデス軍のメンバー: Carlos Manuel のほかFrancisco、Pedro のセスペデス一家。Bartolomé とIsaías、 Rafael のMasó一家, Eduardo とMiguel のSuástegui一家、Jaime とManuel のSantiesteban一家、ほかにManuel Calvar, Juan Hall, Rafael Tornés, Manuel Socarrás, Agustín Valerino, Eligio Izaguirreなど。

10.11 セスペデス,ヤラの町に入り独立と奴隷解放をうたった「ヤラの叫び」を発する.Tras cerrarse todos los caminos pacíficos para reconquistar la libertad de Cuba, un puñado de patriotas manifestó ante el mundo sus razones para lanzarse a la lucha contra el totalitarismo que sometía al pueblo cubano. Era el preludio del heroico 10 de Octubre.

グリート・デ・ヤラ: 署名の日付は6日となっている。「キューバ革命は,キューバの独立を宣言するにとどまらない.自由が一部の人々にのみ限定されている状態もまた許容し難い」として,自由の普遍化をも宣言した.そして「自由なキューバは奴隷制のキューバと両立しうるものではない.それ故,ここに奴隷制の廃止も宣言するのである」と述べる。ただし奴隷解放を独立の最終的勝利のあとまで引き延ばすなど不徹底な部分も持つ.

10.12 セスペデス軍,スペイン軍の反撃の前にヤラを敗退.しかしセスペデスの呼びかけに応じ革命に参加した者は4千を越えるにいたる.いっぽうキューバ駐留のスペイン軍正規兵は7千人に過ぎず。

10.12 総督府は義勇兵(エル・ボルンタリオ)を組織し、米国から購入したレミントン・ライフル90,000丁を与える。(南北戦争直後のアメリカには武器が有り余っていた)

10.12 サンチアゴの革命派はヒグアニの蜂起に合流,マルモールが指揮をとる.

10.12 マルコス・マセオは4人の息子を引き連れマルモールの部隊の一員として参戦.メホラナ近くのティ・アリバで武装蜂起.このときマセオ家の所有する武器は2丁のリボルバー、4丁のショットガンとマチェーテのみ。

10.12 ラストゥナスのビセンテ・ガルシア,セスペデスの訴えに応え兵を挙げる.ラストゥナス攻略には失敗,ゲリラ戦に転換.

マンビ: 反乱軍は瞬く間に1万2千に達したが、そのほとんどは奴隷や自由黒人であった。彼らは自らをマンビと呼んだが、これはアフリカのコンゴ地方で使われているリンガラ語で、叛徒という意味だという。

10.15 アギレーラ,フィゲレードらがバヤモ蜂起を開始.セスペデス軍もバヤモに迫る.

10.19 バヤモ,4日間にわたる戦闘の末,反乱軍の手に落ちる.バヤモの指導者たちはセスペデスを司令官に推挙.

10.24 バヤモ近郊で農場を営むドミニカ人マキシモ・ゴメス,ドミニカ出身者の一隊をひきい独立軍に参加.隊員はルイス・マルカーノ,モデスト・ディアスら.軍曹に任じられ武器輸送隊の隊長となる.ゴメスはドミニカの富裕層の出身で,独立戦争に参加し無一文となったあと,66年にバヤモに入植.

10.24 ハバナで改革主義者の代表80人とスペイン人有力者の会合。レルスンディ総督は改革主義者の要請を全面的に拒否。追放された女王への忠誠を誓うとともに、反乱軍とのあいだのいっさいの妥協を許さず、徹底的な弾圧策で臨むことを明らかにする.

10.28 バヤモの革命評議会,セスペデスに対し奴隷制度の即時廃止を迫る.

10.28 オルギンで武装蜂起開始.

68年11月

11.04 ゴメス,ピノス・デ・バイレで,スペイン軍にたいする最初の攻撃.農民を山刀で武装させ待ち伏せにより接近戦を挑むマチェテ作戦を編み出す.ゴメスはドミニカ独立戦争の経験を生かしつぎつぎに戦果を上げ,軍曹から将軍に昇進する.

11.04 ハバナのサンギリ(Sanguily)兄弟を指導者とする青年たちが,ラスビリャスで蜂起.この蜂起はまもなく敗れ,サンギリは囚われの身となる.

11.11 カマグエイのアグラモンテが武装蜂起し,サンギリらを救出.メキシコで従軍したマヌエル・デ・ケサーダ将軍が,大量の武器を持って参加した.

イグナシオ・アグラモンテ・イ・ロイナス: カマグエイの名家の出身でスペインで学んだ。当時27歳。動揺するカマグエイの中で武装蜂起の先頭を切った。

11.08 マルモール軍,エル・クリストとエル・コブレの戦いに勝利。サンチアゴに1.5キロまで迫る.ピオ・ロサード大佐の部隊で戦功を上げたマセオは、軍曹に昇格。

11.12 セスペデス,一般市民に対し「行き過ぎ」を押さえる処置.焼打ちや掠奪を行なったり,「農園で働くものに職場離脱を扇動」したものは銃殺刑に処すと声明.奴隷主を味方につけるべく、その権利擁護をはかる.しかしセスペデスの宣言にも関わらず大地主は反乱軍に敵対的傾向を強める.

11月 反乱はオリエンテ,カマグエイ両州に広がり,ラスビリャス州の一部をもまきこむ.ハバナなど西部では動きなし.

11 レルスンディ,戒厳令を公布.米国から購入したレミントン銃9万挺を配付し,王党派準軍事組織「ボルンタリオ」の活動を強化.当時スペイン軍は7千名.これに対しボルンタリオは4万〜7万の組織を誇る.ボルンタリオの指導者ゴンサロ・カスタニョン大佐の編集する「キューバの声」紙は反乱軍と同調者の根絶を訴える.

11 レルスンディ,バルマセーダ将軍をオリエンテ討伐軍司令官に任命.麾下の精鋭をつけバヤモにおくる.政府軍,ラス・トゥナスの駐留軍を加え,オリエンテに進出.緒戦ではマセオの率いる反乱軍に反撃を食らうが,その後体制を建て直す.エル・サラディーリョの闘いではマールモルの率いる反乱軍主力を撃破し,2千以上の反乱軍兵士を殺害.犠牲となったのは殆どが解放された奴隷.

11 セスペデスとアグラモンテの会見.アグラモンテはセスペデスの独裁的傾向を批判し,連邦制の尊重が反乱軍の権威を高めると主張するが,セスペデスは全軍の統一を主張しアグラモンテの提案を拒否.

68年12月

12.1 スペイン軍,バヤモに対する包囲作戦開始.

12.27 セスペデス,「自由なキューバは奴隷制キューバとは適合しない」と表明.奴隷制廃止について踏み込む.ただし地主層に配慮し、「奴隷解放は独立の究極的勝利のあととし,それまでは奴隷も財産の一つとして尊重する」とする.

12月 改革主義者へのボルンタリオを使った脅迫が強まる.改革主義者の多くは地主としての権利を守るため,反革命の立場にたつ.サンチアゴの有力者モラレス・レムスやミゲル・アルダナなどは米国へ亡命したあとフンタを結成し反乱軍への支援を開始.

 

1869年

69年1月

1.04 スペイン政府,イサベラ女王への忠誠を公言するレルスンディを更迭.元総督で改革派のドミンゴ・ドゥルセ将軍を総督に任命.ドゥルセは出版,結社の自由を認め,キューバの議会への議席を認める緊急政令を公布.本国政府は,いっぽうでキューバ駐留軍を次々と増強.その後の1年間に精鋭3万5千がキューバに上陸.さらに戦艦14隻,クルップ製の最新型装甲列車を送り込む.

1.07 出版自由化を受け、77種の定期刊行物が新たに発行される。その多くが革命を支持。

1.07 バルマセーダ軍、エル・サラディージョで反乱軍の背後を衝く。この遭遇戦で反乱軍2千人以上が死亡。そのほとんどは解放された奴隷たちであった。

1.08 バルマセーダ軍、反乱軍を追跡しラ・カリダー平野に進出。掃討戦を続ける。

1.10 バルマセーダ軍、カウト川を渡りバヤモに迫る。

1.10 ドゥルセ総督,改革主義者の政治犯に対する恩赦を発令し,ボルンタリオの妄動を禁止,セスペデスに停戦をうながす使節団を派遣する.

1.11 バルマセーダ,バヤモ総攻撃を開始.マルモールの指揮するバヤモの反乱軍は,6日間にわたり2千の戦死者を出す激戦の末,撤退.

1.15 バヤモ市民はみずから家に火をつけ反乱軍と行動をともにする.バルマセーダ軍,廃墟となったバヤモに入る.

1.16 マセオは少佐に昇格する。マルモールに直属する独自の部隊を持ち、マヤリとグアンタナモ方面に進出。その後部隊は二百名まで増大.

1.22 ハバナのビリャヌエバ劇場で独立派支持の公演.スペイン派の奴隷主により支援されたボルンタリオは、劇場を襲撃し無差別発砲.女性,子供を含む多数の死傷者.その後の三日間はボルンタリオのテロルにより無政府状態となる.

1.23 ホセ・マルティら,「自由な祖国」紙を発行.

1.24 ボルンタリオ,喫茶店「エル・ルーブル」を襲撃し独立派活動家を殺傷.「ルーブル」はホテル・イングラテリアの屋外カフェテリアで,独立派青年たちのたまり場となっていた.

1.26 オリエンテ地区司令官ドナト・マルモール,エル・サラディーリョ,エル・クリスト,エル・コブレの闘いなどで戦果をあげたマセオを少佐に任ずる.

マセオの戦術: マセオの戦術は敵を罠にはめることであった。彼の部隊はスペイン軍と遭遇すると、まず「敗走」する。そしてかねて用意した待ち伏せ地点にスペイン軍をおびき寄せた後、これを包囲し一網打尽にした。

1 シエンフエゴスのフアン・ディアス・デ・ビジェガスら,スペイン軍に対し蜂起.

69年2月

2.09 ラス・ビリャスの各地で一斉蜂起.南北戦争に義勇兵として参加したフェデリコ・カバーダ将軍が指揮をとる.

2.12 ドゥルセ総督,独立派に対する政治的保障を停止.

2.20 ボルンタリオ,武装闘争を停止するとともにドゥルセに退陣を勧告.

2月 アグラモンテとアントニオ・サンブラーナ、カマグエイから独立軍議会の閣僚に選ばれる。最初の憲法草案の起草者となり、奴隷制廃止を主張する。

 

2.26 カマグエイ革命委員会の後身である「中部諸州革命会議」,セスペデスの微温的声明をきびしく非難し,奴隷制の即時全面破棄を主張.「スペイン支配者によってキューバにもたらされた奴隷制は、その終焉とともに消滅しなければならない」と宣言。中部諸州では奴隷制はすでに破棄され,反乱軍に参加した奴隷は他の兵士と同等の権利を持つと声明.

69年3月

3.19 ハミルトン・フィッシュ米国務長官、キューバにおける交戦状態の承認を拒否。スペインからの買収・併合の路線に固執。

3.23 愛国詩人ラファエル・マリア・メンディベが校長を務めるバロネス市立高等小学校,当局の命令により閉鎖.メンディベは政治犯として逮捕され国外追放となる.この学校にはホセ・マルティが特待生として通学していた.

3.24 反乱軍代表ホセ・モラレス・レムス,ワシントンでハミルトン・フィッシュ国務長官と会談,反乱軍の承認を求める.キューバ併合の狙いを捨てない米国は,スペインとの関係を保つため反乱軍の公式支持を拒否.

3 サンチアゴでおこなわれた聖列,独立を叫ぶデモ行進となる.首謀者コルネリオ・ロベルトはただちに捕らえられ銃殺される.

69年4月

4.04 バルマセーダ,ドゥルセ総督の了解の下に焦土作戦を開始.「15才以上の男子で自分の農場を理由なしに離れたものは射殺,スペインに帰順するか白旗を掲げない家はすべて焼き払う,女性や子供も自分の家にいない限りすべて強制収容する」と宣告.

4.09 米議会,キューバ独立運動を支持する決議を圧倒的多数で採択.グラント大統領,フィッシュ国務長官らはこれらの世論を無視,スペインに対し宥和的な態度を続ける.

4.10 セスペデスの召集した立憲議会,カマグエイ州グアイマロで開催.ビリャクララ,サンクティ・スピリトゥス,ヒグアニ,オルギン,カマグエイの代表団が参加.三権分立を基礎とする共和国が宣言される.圧倒的多数の奴隷を所有していた西部のクリオーリョたちは、米国との併合を折り込むことを条件に憲章に合意.

4.12 会議はセスペデスを大統領に,マヌエル・ケサーダを総司令官に選出.アギレーラは軍事顧問の地位にとどまる.

4月 アグラモンテ、セスペデスが大統領に選ばれるにいたり、議会・政府の職を辞し反セスペデスの立場を明らかにする。

4月 カマグエイ独立軍の将軍となり、最強といわれた騎兵部隊を組織する。スペイン軍はアグラモンテを「ボリーバル二世」と呼び恐れたという。

4月 ホセ・マルティ(17歳)、重労働8年の刑を宣告される。

69年5月

5.11 グアイマロ議会,アグラモンテ,アントニオ・サンブラノらカマグエイ派が起草した自由キューバ憲章を採択.その第24条は、「すべて共和国市民はまったく自由である」と宣言。 奴隷制廃止を明記する。フェミニストの記載によれば、女性戦士アナ・ベタンクールは議会への参加を拒否されたという.

5.11 元北軍司令官トーマス・ジョーダン将軍、キューバに上陸しアグラモンテ軍に参加.反乱軍司令官となる.数日後に上陸した一部隊はスペイン軍に捕えられ、即決裁判で処刑される。このときヘンリー・リーヴも4発の銃弾を受けたが奇跡的に息を吹き返す。反乱軍に救出され、山中で手当てを受ける。

小さなイギリス人(El Inglesito): ブルックリン生まれの米国人。当時19歳だったが、すでにジョーダン将軍の軍に鼓手として加わり、南北戦争に参加していた。「やせっぽちでちび」のりーヴは、死ぬまでの7年間に400の戦闘に参加し、10度負傷し、キューバ人から「小さなイギリス人」の愛称を賜った。

5.14 マセオ,サン・アグスティンの闘いに勝利.この闘いの最中、マセオの隣で戦っていた父マルコス・マセオが銃弾に当たり死亡.

大きくなれ(stand up tall): マルコスの妻(アントニオ・マセオの母)マリアーナ・グラハレスは、マルコスの死にあたり、息子たちに「早く大きくなりなさい。もう祖国のために戦うときが来ているのだから」と叫んだという。

5.22 マセオ、アルモニア製糖工場を攻撃。このとき最初の負傷。(マセオは生涯に24回負傷したが、そのたびによみがえった)

5月下旬 ニューヨークで組織された独立軍部隊、米政府により摘発。多くが刑務所に送られる。この部隊は800ないし1400人。スペンサー・カービン銃、リボルバー、サーベル、12-ポンド砲2門と60-ポンド銃数機を保持していたとされる。

69年6月

6.05 改革派のドゥルセ総督,退陣しスペイン帰国.ボルンタリオは政治組織「スペイン人クラブ」を結成し地位を固める.

6.23 オルギン付近で優勢なスペイン軍と遭遇したジョーダン軍,劇的な勝利をおさめる.バルマセーダ軍はラスビリャスまで退却.

6.28 新総督アントニオ・カバジェーロ・デ・ロダス着任.スペイン人クラブを公認するなど、反乱に力で対決する抑圧する姿勢を明確ににする.

6 スペイン軍,ヒグアニの反乱軍基地を襲撃.マセオの兄弟たちを始め多くの兵士が死亡.

6 ニューヨークの評議会,8つの独立派部隊がキューバ領内に送り込まれたと発表.これらの部隊は総勢で800ないし1400名に達し、スペンサー・カービン銃、リボルバー、サーベル、12-ポンド砲2門、60ポンド機銃数丁を備える。

6月下旬 米当局、キューバ反乱部隊を拘束。

7.06 保守派が主流を確保した反乱軍議会,カマグエイ派の起案した「憲法」の批准を拒否.

7.16 反乱軍議会、「リベルト法」(Reglamento de Libertos)を可決.リベルトとは多少条件は改善されているが,事実上奴隷の別称である.奴隷は主人のために働き続けるが、主人は食料・衣服の支給義務を負わない。

69年8月

8 米国政府,反乱軍の武器が米国から流入するのをきびしく制限.反乱軍は武器の不足に苦しむ.

8 独立派の囚人17人がサンチアゴ刑務所から脱獄.まもなく捕らえられ銃殺.

9.04 米特使オービル・バブコック将軍,サントドミンゴに上陸しブエナベントゥーラ・バエス大統領と会見.併合条約締結に向けての合意をとる.

9.05 グラント政権の中で唯一の反乱支持者だったジョン・ローリンズ軍事長官が死亡。

10 セスペデス,反革命的な富裕地主層からなる議会主流派と決裂.スペイン軍を支持する地主の力を弱めるため「島中の砂糖キビ畑をすべて焼き払う」よう指示.「自由のため、人権のため、子供たちのため立ち上がれ。マイシからサンアントニオまで島中が焦土と化そうと、それでスペインの権力が打倒されるのならそうしよう」と呼びかける。

11 ゴメスら,セスペデスに対し,奴隷問題にあいまいな態度をとる農園主出身のケサーダ司令官解任を要求.当初セスペデスはゴメス退任を策すが,押し切られてケサーダ解任を承諾.背景に奴隷解放の公約をより鮮明にするよう求める下層農民の圧力.

12 セスペデス,10月指示をさらに急進化.奴隷達に対し革命のため農園を離れ蜂起するよう呼びかける.セスペデスは独断専行が嫌われ,保守派が握る反乱軍議会からも反乱軍の主力からも孤立.指導権は名目上のものとなる.

12 反乱軍弱体化に伴い,米国はニューヨーク港内に拘留していたスペイン軍砲艦ビクトリアおよびサラゴサ号の出航を許可.制海権を奪われた中部諸州の反乱軍は、武器・弾薬の補充が困難となり、ラス・ビリャスを捨て、カマグエイまで後退。マンビたちはゲリラ戦法に切り替え,森(マニグア)のなかで抵抗を続ける.

 

1870年

1.06 カバジェーロ・デ・ロダス,反乱は終結し非常事態は解除されたと発表.フィッシュ国務長官の意を受けた米紙特派員コナリーも「革命は事実上消滅した.反乱軍支持は時間の無駄」と打電.

1月 サンチアゴ駐在のフィリップス領事、「反乱軍は依然衰えておらず,軍事衝突もしばしばである.キューバ人は最初にくらべると遥かに武装され訓練されている.彼らの方が攻勢的で,スペイン軍からの脱走兵を加えた隊列はさらに充実しつつあり,ますます巧妙で勇敢になっている.私見では,この反乱は相当の長期にわたるものと思われる」と報告.

2.15 サンチアゴ市内で武装蜂起の陰謀摘発.武装したキューバ人10人が逮捕される.

3.04 ホセ・マルティ(以下ホセ),「パトリア・リブレ」紙の発行に携わり,独立を訴える詩や記事を投稿.ハバナの軍法会議はホセを強制労働6年の刑に処す.ハバナのサンラサロ監獄を経てさらにピノス島に送られる.ホセは退役した下級軍人の息子で当時17才.

3.12 反乱軍幹部でサントドミンゴ出身のルイス・マルカーノ将軍、裏切りにあい暗殺される。

3.16 マセオ,グアンタナモ西方でアルセニオ・マルティネス・カンポス大佐の率いるスペイン軍と対戦.これを撃破する.

70年5月

5.7 スペイン奴隷制廃止協会副会長のセギスムンド・モレー・イ・プレンデルガスト,新政府の植民地相に就任.スペイン総督に,奴隷制廃止に向け速やかになんらかの対策を提出するよう指示.

5.17 サンチアゴ近郊に潜伏中のマセオ,アジトを襲われる.父マルコス・マセオは射殺されるが,マセオは危うく難を逃れる.

5 ゴイクリア,ハバナに潜入中を捕らえられる.死刑の判決を受け,市内引き回しのあとプリンシペ要塞で処刑.

70年6月

6.16 米議会下院,キューバの反乱軍承認案を採決.フィッシュらの工作の結果大差で否決.グラントも反乱軍から独立政府の承認を要請されるが拒否.

6.26 マセオの上官マルモール司令官が戦死.これに代わりマシモ・ゴメスがオリエンテ地区の司令官に就任.

7.04 スペイン政府,キューバにおける奴隷制廃止を目指す「自由市場法」(モレー法)を可決.王室の側に立って闘う奴隷,60歳以上の奴隷,一歳未満の奴隷の子を自由とするが,18才まで奴隷主の保護権(パトロナード)を認める.現地の総督はこの決議を無視.

7.20 ゴメス、オリエンテの反乱軍を再編。カリスト・ガルシアが副司令官に任命される。マセオは第三大隊の司令官となる。第三大隊の総勢はわずか187人。

8 バヤモのペドロ・フィゲレド,スペイン軍に捕らえられ銃殺される.

10.02 マセオの部隊、マハグアボ(Majaguabo)で宿営中にスペイン人部隊の襲撃を受ける。撃退に成功するが、マセオは重傷を負う。

10.18 ゴメスの率いる反乱軍,ティ・アリバを一時制圧.大量の武器・弾薬を鹵獲。マセオも負傷を押して作戦に参加。ゴメスはマセオを「戦いに戦いを継ぐ、戦士の中の戦士」と賞賛。

70年11月

11.23 マセオ,わずか37人の手勢で敵を撃破した戦功を認められ反乱軍中佐に昇進.ゴメスもこの頃第一師団長に就任.

11 キューバ出身の詩人で革命派のフアン・クレメンテ・セネア(Zenea),プリム将軍の意を受けキューバ入り.反乱軍首脳との接触を求める.

70年12月

12.12 マセオ,バラグア(Baragua)近郊のスペイン軍キャンプを襲撃,勝利をおさめる.この戦いで弟の一人フリオが戦死,自らもみたび重傷を負う.

12.27 スペイン自由主義政府の最高実力者プリム将軍,マドリッド市内で暗殺される.これを機に保守派の巻き返し強まる.バルマセーダは政府特使セネアをとらえ処刑.

70 キューバ,西部での砂糖生産好調の結果,世界一の庶糖産出国となる.その後ヨーロッパで甜菜生産が盛んになり,米国への依存強化.キューバ総人口は140万人となり,6割を黒人とムラートなど有色人種が占めるにいたる.その一方で黒人奴隷の年間死亡率は20%に達する.サフラ期においては1日20時間の労働と1日3時間の睡眠時間を強制される.住居はバラコンとよばれる掘っ立て小屋での集団生活.首都ハバナの人口は20万人に達する.この頃からスペイン人の移民が急増.20年間で70万人が移入したといわれる.

 

1871年

1 ホセ,関係者の尽力により刑の執行を停止される.独立運動にかかわらないことを条件に,スペイン追放となる.

3 マセオ,マヤリ・アバホ,ガジェータ山,インディアナ農園などで戦闘を展開.サンチアゴの独立派会議開催.スペイン派農園主に対するマセオの行動を「冒険主義的で粗暴」と非難,軍事援助を凍結.

7月 ゴメス、政府軍の拠点だったグアンタナモ地区への進出を決定。マセオはインド砦(La India)のサン・キンティン大隊と衝突。この部隊はライフルで装備され、スペイン軍の精鋭とされていた。マセオは自らの負傷をおして突破に成功。

10.08 アグラモンテ軍の司令官フリオ・サンギリ、待ち伏せ作戦により捕らえられる。アグラモンテは35騎の部隊で敵基地に奇襲をかけ、敵軽騎兵120騎を蹴散らしサンギリーを救出。、

10 反乱軍の敗色濃厚となる.兵力は7千に減少.ラス・ビリャスは政府軍の手に落ち,カマグエイではアグラモンテが孤立し,オリエンテでもバヤモ地方軍が壊滅し司令官のマヌエル・ガリード将軍(ベネズエラ人)は捕らえられ,ゴメスが指揮するグアンタナモ地方だけが辛うじて勢力を維持.

10 カンポス将軍の率いるスペイン軍1千名,グアンタナモ掃討作戦を開始.

10月 ゴメス将軍,セスペデスと会見し,苦境の打開策として西部への侵入作戦を提案.南北戦争に参加した経験を持つエミリオ・カバーダ将軍は,ゴメス案を支持すると同時に,南部を転戦しながら農場を破壊し奴隷を軍に編入して行ったバトラー将軍の闘いを示し,この方法に従うよう提案.セスペデスは軍備不足の下で冒険的作戦はとれないとして拒否.カバーダ案に恐怖の念を抱いた反乱軍保守派は,西部進出案を断固拒否.

11 セスペデス,ラス・ビリャスに限定した上で,ゴメスの西部侵攻作戦を承認.ゴメス軍は反攻開始.ハバナでも「ハバナ商業者義勇軍」が結成されるなど,たたかいは全国に波及.

11.27 ハバナ大学医学生の一群,ボルンタリオの指導者で暗殺されたカスタニョンの葬られる墓地に入る.ボルンタリオは「カスタニョンの墓を汚した」として総督の前に医学生をひきずりだし処刑を要求.戦時評議会は医学生8人に死刑を宣告.即日処刑する.スペインのホセ・マルティはこの事件を「11月27日の悲劇」として大々的に宣伝.

 

1872年

1.27 ゴメスの率いる第一師団,グアンタナモ周辺の戦略的拠点インディアを確保し参謀本部を置く.ゴメスはマセオの行動を調査した結果,彼の名誉を回復し参謀長を委ねる.

3.08 マセオ,スペイン軍の増援部隊を側面攻撃(flank and rear guard attacks)。多くの損害を与える。その戦果を評価され、大佐に昇進する.

3.18 カンポス部隊との合流に成功した増援部隊、6時間の激戦の末マセオの部隊を撃退。

3.27 マセオの部隊、ロマ・デル・ブロ(Loma Del Burro)で政府軍に奇襲攻撃。大きな被害を与える。

4.16 スペイン軍のグアンタナモ作戦,完全な失敗に終わる.セスペデスは第一の戦功を誇るマセオを賞賛.カンポスは「武器によって戦争を終わらせることは不可能である」と述べる。

5.26 ゴメス,西方進出作戦をふたたび提起。「グアンタナモでの勝利は貴重ではあるが、真の勝利は西方への進出を通じてしかない」と主張。全兵力をオルギンに結集し,カマグエイ軍との連絡をつける作戦を提示.

6.07 セスペデス,西方進出作戦を拒否。ゴメスに対し政府要人の防衛に回るよう指示.ゴメスはこれを拒否したため,オリエンテ地区司令官から罷免される.

6.08 マセオ,セスペデスと初の会見。共和国に対する貢献を認められ少将に任じられる.第一軍第2師団の指揮を任される.

6.20 ゴメスの副官であったカリスト・ガルシア,オリエンテ地区司令官に任命される.

7.01 オリエンテ軍,カリストの下に一体化され攻撃開始.その後の4ヶ月でグアンタナモを中心にあいついで勝利.緒戦となったレホンドーン・デ・ベルアノスの闘いでは,マヌエル・デ・カルバル将軍麾下のマセオ師団が,オルギンからバラグアへ行軍中のスペイン軍4百を殲滅.ライフル146丁と弾薬多数を捕獲.マセオはオルギン,マヤリ,バラコアなどを転戦.

9.26 コロンビアのヒル・コルンヘ外相,ラテンアメリカ諸国と米国に対しキューバ独立支援と奴隷制廃止で共同歩調をよびかける.LA諸国はこの呼びかけに全面賛成.米国に対してキューバ独立と奴隷制廃止のため指導権を発揮するよう要請.グラント大統領はこの提案を拒否.

11月 カリスト司令官,マセオ軍を含む総力でオルギン攻略作戦を開始。1ヶ月にわたる激戦の末、攻略に成功.この作戦はゴメスの立案したもの.反乱軍兵力は7千人に増強される。

12月 オルギンを奪われたバルマセーダは総督辞任に追込まれる.後任にカンディード・ピエルタン。スペイン軍には、本国からの増援を含め54,000人の兵、42門の大砲と2,000匹の馬が加わる。これに加え数千の民兵が町や駐屯地、プランテーションと工場の守備に当たる。

72 ハバナに最初のタバコ労働者の協会設立.この年,タバコ労働者による最初のストライキ決行.

 

1973年

2.11 共和党を中心とする議会勢力,国王を追放し共和制を宣言.エスタニラオ・フィゲレスが首相に就任.キューバに対する態度は旧体制と変わらず.

73年3月

3 マセオ,侵攻してきたスペイン軍を迎えうち,これを撃破.

3 セスペデス,米国に対しコロンビア提案への賛同を依頼するが,米国はこれを拒否.

5.11 アグラモンテ,カマグエイ州ヒマグアユの戦闘で頭に流れ弾を受け戦死.北部軍司令官だったフリオ・サンギリがカマグエイ軍の指揮をとる。その後、ヘンリー・リーヴスらカマグエイ軍残党はゴメスの指揮下に入る。

6.08 セスペデス,ゴメスを東部軍司令官に復帰させる。マセオは准将(Brigadier)に任命され、正規軍第二師団の司令官となる.

7.23 ナハサ(Najasa)駐留中のゴメス、反乱軍政府よりアグラモンテの後継者に指名され、ラスビリャス進出の許可を与えられる。ゴメスの下にはカりスト・ガルシアの部隊が編入される。カリスト・ガルシアの部隊は約400名、レミントン小銃400丁とカービン銃100丁が与えられる。前衛をマセオ准将が受け持つ。

8.06 スペイン政府、マセオを強く非難する政令を発布。

9.28 リーヴの部隊、サンタクルス・デル・スルのスペイン軍基地を襲撃。リーヴは負傷し両足の自由が利かなくなる。ゴメスはリーヴを准将に推す。1873年7月9日 ハコボ川以西についての指揮権はマシモ・ゴメスが掌握することとなる。サンギリはゴメスの支配下に入る。

73年10月

10.23 米国船ビルヒニウス(Virginius)号,ジャマイカのキングストンを出航。103人のキューバ人「乗客」を乗せ、反乱軍への物資補給を試みる。

10.24 セスペデス,保守派が多数を占める議会に対し,全権を彼に集中するよう要求.保守派との敵対姿勢を打出す.一方,強権的な姿勢のためゴメス解任を機に革新派の支持も失う.反セスペデス派の代表ビセンテ・ガルシアらはゴメスと会見し、セスペデス解任への賛同を促すが、ゴメスはこれを拒否。

10.27 制憲議会代表,セスペデスを除く形でビハグアルで会合.グアンタナモ,サンチアゴ,オルギン,ヒグアニ,バヤモ,ラス・トゥナスの軍代表(モデスト・ディアス少将、マヌエル・デ・カルバール、アントニオ・マセオ准将、ホセ・デ・ペレス准将、ギジェルモ・モンカダ大佐、フランシスコ・ボレーノ大佐)も招かれる.全会一致でセスペデスを解任.ゴメスを軍務に復帰させる。

ビハグアル(Bijagual)会議の内容: アギレーラ副大統領が海外で任務遂行中のため,議長のサルバドール・シスネーロス・ベタンクールが大統領に就任.フランシスコ・マシオ・オソリオが外相に,アントニオ・ウルタード・デル・バジェが外務次官,ビセンテ・ガルシア将軍が軍事および財務相,フェデリコ・ベタンクールが司法長官に就任.
軍務に復帰したゴメスは,西部が奴隷制の下で収穫を続けるなら,スペイン軍を強化することにしかならないと強調.反乱が勝利をおさめるためには,西部の大農場を焼き払い,奴隷を解放することが不可欠と主張し,あらためてラス・ビリャス進攻によりハバナに革命を誘発する作戦を提示.この作戦の成功のためには,マセオ少将に5百の兵をつけてくれるだけで良いと議会に提案.地主勢力が主流を握る新政府はゴメス提案に猛反発.

10.31 ビルヒニウス号,サンチアゴ沖でスペイン軍の臨検を受ける。逃亡を図るが、8時間の追跡後にだ捕される.キューバ人「乗客」はサンチアゴに連行される.

73年11月

11.04 サンチアゴ総監のフアン・ブルリエル(Burriel)将軍は,軍事法廷で,英国人ワシントン・ライアン将軍など反乱軍幹部4名に死刑の判決.ただちに刑が執行される.

11.07 ビルヒニウス号のジョセフ・フライ船長はじめ36人が軍事法廷で処刑される.続いて8日と12日の両日であわせて53人が銃殺刑となる.

11.08 英巡洋艦ナイオビ(Niobe)号,サンチアゴに入港.ランプトン・ロレイン艦長は、もし殺戮を続けるならサンチアゴを砲撃すると警告.ブルリエルは残り102人の殺害を思い止まる.

11.10 マセオの第二師団,マンサニージョを攻撃.数千の守備隊を打ち破り,中央広場まで達する.

12.03 スペイン,ビルヒニウス号を米国に引き渡し,補償金8万ドルの支払いに応じる.捕虜がナイオビ号に移る。

12.18 最後のビルヒニウス号の生存者が、ハバナのモロ要塞で、米艦フニアータのブレイン艦長に引き渡される。

73 米国人H.H.ガーネット,奴隷解放のためキューバ進撃を呼びかける.

73 最後の奴隷船がキューバに入る.

 

1874年

74年1月

1.02 スペインでパピア首都区司令官によるクーデター.イサベラ女王を国外追放。

カーノバスはアルフォンソ12世を迎え王政復古.共和制は1年足らずで崩壊し,セラノ元帥を統治者とする軍事独裁に移行.キューバに対しては武力での問題解決を目指す.

1.09 メロネス(Junurun・Melones)の闘い.カリストとマセオの連合軍は,スペイン軍の中でも精鋭と謳われたフェデリコ・エスポンダ大佐の千名三個連隊をせん滅.スペイン軍は潰走し,5人の将校を含む150人の死者と2百以上の負傷者が置き去りになる.

74年2月

2.01 カマグエイ州東南のサンディエゴ・デ・ブエナベントゥーラで,すべての将官,政府,議会を集めた作戦会議開催.作戦の説明に立ったゴメスは,「西部侵攻作戦はたんに必要というだけでなく十分に実現可能だ」と強調.作戦そのものはビセンテ・ガルシア軍事相を除いて全員が賛成する.マセオを副官とすることに対しては,オリエンテの守り手がいなくなるとする反対論が持ち上がるが,ゴメスは「この作戦はマセオなくして成功することは出来ない」と主張.議会を説得してマセオを副官兼師団長に任命.

2.04 ゴメス,オリエンテとラスビリャスの兵を募り,歩兵3百,騎兵2百からなる部隊を編成.西部進攻の噂は全島を駆けめぐり,「ラスビリャス賛歌」が歌われるようになる.

2.10 ナランホの戦い。マセオの率いる進攻部隊が,オホ・デ・アグアでマヌエル・ポルティージョ将軍の率いる2千の重武装部隊を撃破.

2.16 西方進出の先鋒となったマセオ軍、グアイマロを奪回.オリエンテ州西部(現ラストゥナス州)を制覇し、カマグエイ州西南部に達する.このときカマグエイの守備に当たっていたスペイン軍は約3千人。アルミナン准将が指揮。

2.27 セスペデス,ジャマイカ亡命を図りサンロレンソ潜伏中,アジトを襲われ負傷,死亡.

2月 反乱軍内の保守派、マセオに対するネガティブ・キャンペーンを開始。「黒人に支配されることになる」と、人種偏見を煽り立てる。

3.15午前4時 ラス・グアシマスの闘いが始まる.マセオ軍とカマグエイから派遣されたスペイン軍が対峙。マセオは2百の騎兵と50人の歩兵を率い,2千の兵が待ち受けるヒマグアユ平原の敵陣に突入.

3.17 戦闘はマセオ軍優位に傾く。スペイン軍のマヌエル・アルミサン将軍はカマグエイに増援を求める。

3.19 スペイン軍は5日間の闘いで死傷者1,037名を出し負傷者と多量の武器を戦場に残したまま敗走.反乱軍もマセオを含め174名が死傷.勝利はおさめたものの甚大な被害を蒙り,体制建て直しのためいったん撤退.

4.16 コンチャ(Jose Gutierrez de la Concha)総督、アントニオ・マセオに死刑を宣告。資産をすべて没収すると発表。

4.18 マセオの兄弟の一人ミゲル、カスコロの要塞を攻撃。このときの負傷が元で死亡。

5 ゴメス,西部侵攻作戦の再開を提案する.米国のフンタ代表レムスを指導者とする議会保守派は,「革命が成功するためには西部の農園主の支持を受けなければならず,そのためには彼らの財産である精糖工場と奴隷を守らなければならない」とし,この提案を拒否.とくにラスビリャスの地主はマセオが自州出身ではないことを盾に強硬に反対.ゴメスは腹いせに純粋の黒人ゴンサレスをラスビリャス州軍司令官に任命.

9.04 カリスト,百日間にわたる防衛戦ののち敗北.拳銃で自殺をはかるも未遂に終わり囚われの身となる.これに代わりマセオが第二大隊の指揮をとることとなる。

74 50年代に始まった中国人苦力の移入契約廃止.これまでに12万人がキューバに到着.キューバ在留中国人の数は77年に5万4千人まで達し,人口の3%を占めるに至る.

 

1875年

75年1月

1.06 ゴメス軍,西部進攻作戦を展開.モローン=ヒカーロ間にスペインが築いた防衛線トローチャを越える.トローチャ(斬壕)とはラスビリャスとカマグエイの境に島を南北に横切って敷かれた壕と要塞で,スペインが西部防衛のため建設した防衛線.シスネロス大統領はゴメスを賞賛し,他の将軍にもゴメスに協力し,来るべきマタンサスとハバナの闘いを推進するよう督励.

1 ホセ,サラゴサ大学で学位を取得したあとパリを経由してメキシコに移住.レフォルマ下のメキシコでジャーナリストとしての活動を開始.

4.27 シスネロスに反発を強めるビセンテ・ガルシア・ゴンサレス国防相,本拠地ラス・トゥナスのラグーナス・デ・バローナに反シスネロス派を集め会議開催.カルバール将軍と旧セスペデス派を味方につけ,シスネロスに辞任を迫る.

4.28 シスネロス、反対派の集会に出席し、「小異を捨て革命を推進させるために」辞意を表明。

6.18 マセオ、オルギン近郊のアルカラでビセンテ・ガルシア将軍と会見。シスネロス退陣策動に反対の意向を表明。

7.28 議会はいったんシスネロス辞任を拒否するものの,結局ガルシアの提案を受諾.議長のフアン・バウティスタ・スポトルノが臨時大統領に就任.この間戦闘は完全に停止.ゴメスとマセオはガルシアの戦線離脱に憤激.

7 ゴメスはラスビリャスで焦土作戦を命じる。ヘンリー・リーヴの指揮する反乱軍は、1ヶ月のあいだに83の精糖工場を焼き払う.これに対抗するため,スペインはみたびバルマセーダを総督に担ぎだす.ゴメスはサンタクララを越えさらに「ゆたかな西部」へ戦線を進めようとするが,西部地主の離反を恐れる議会右派の反対により実現せず.

11 ハミルトン・フィッシュ米国務長官,スペインに対し戦闘停止をよびかける.独立や奴隷制廃止の問題には触れず.米議会,圧倒的多数で革命軍支援の決議を採択するが,スペインと通じたフィッシュ国務長官の画策により,実行されず.黒人運動指導者のフレデリック・ダグラスは,黒人青年にキューバ革命軍への参加をよびかける.

12月 マセオが黒人共和国の樹立を狙っているとするキャンペーンが開始される。マセオはこれを無視する。

75 キーウエウストのタバコ労働者,独立戦争を支持する「エル・ヤラ」紙を発刊.

75 スペイン,王政復古.イサベラの息子アルフォンソ12世が国王に即位.

 

1876年

1.18 スペイン国王に指名されたホアキン・ホベヤール(Jovellar)新総督,「キューバ人民への布告」を発する.反乱軍に対し強硬姿勢で臨むと同時に,和平が実現すれば「公平な行政府」を実現すると公約.ホベヤールの下にマルティネス・カンポスがふたたび総司令官として着任.スペイン軍は7万に増強される.

3.29 議会,スポトルノに代えトマス・エストラーダ・パルマを大統領に選出.エストラーダはゴメスと会見し,西部侵攻作戦の再開を提案.ゴメスは喜んで提案を受諾するが,米国内のフンタ幹部の同意を得られず流産.

5.16 マセオに対し,黒人国家の建設を目論でいるというデマがふたたび強まる.バラグアに本拠を構えるマセオは,共和国大統領に対し「自分はキューバ人であり,皮膚の色に関係なくキューバのために生命を捧げる」と弁明.エストラーダはこれに回答せず。

8.04 シエンフエゴスで独立派の反乱.反乱軍から派遣された米国人で元北軍将校のヘンリー・リーブ,ヤグアラマスの闘いで敗北。捕らえられ銃殺される(一説では敗走中に自殺).反乱軍は彼の死後将軍に叙する.ビセンテ・ガルシアの軍,念願のラストゥナス攻略に成功.その後スペイン軍の反撃にあい,町を焼き払った後退却.

9 ラスビリャス軍の代表カルロス・ロロフ将軍,ドミニカの流れ者を指揮官とするわけにはいかないとゴメスに通告.軍は西部侵攻作戦を中止.衝撃を受けたゴメスは,辞任しラ・レフォルマ農場に引きこもる.のちにエストラーダの要請を受け軍事相兼オリエンテ軍司令官となる.(この情報は疑わしい.カルロス・ロロフはポーランド出身のユダヤ人でワルシャワ蜂起に参加した後,キューバに亡命してきた人物である)

10 スペイン軍総司令官となったマルティネス・カンポス将軍,増派兵2万五千を引き連れハバナ上陸.これまでの防禦姿勢をあらため,ラスビリャスを攻略し,その勢いでオリエンテに進撃する作戦を開始.

76 サトゥルニノ・マルティネス,「ラ・ラソン」誌を発刊.協同組合主義を主張.ストライキを排し労使協調による解決を説く.

 

1877年

1 ホセ,短期間ハバナに潜入したあとグアテマラに移住.前大統領と親交を得て,憲法改定の作業を委ねられる.

3 カンポス,ラスビリャス進撃を開始.反乱兵は見付け次第射殺すると宣言.政治犯を大量に敵陣に送り込みデマを流させ,離間をはかる.

77年5月

5.05 カンポス,政治活動を禁止するいっさいの政令を廃止すると声明.また指導者以外で反乱に参加したものの罪は猶予されるとする.スペイン系新聞が「マセオはキューバの黒人支配を狙っている」とキャンペーン.反乱軍内部にも動揺が広がる.

5.11 ビセンテ・ガルシア、新たに宣言を発表。革命政府の改編をもとめる。

5 マセオ,バランカを攻撃中敵の逆襲に遭い,全治3カ月におよぶ重傷を負う.この後森の中の隠れ家を転々とする.

77年8月

8 ガルシアの影響下にあったラスビリャス軍は大量の脱走者を出し事実上崩壊.オルギンでは”ライオン”と呼ばれたリンバノ・サンチェスに率いられる黒人兵が独立軍政府に対し反乱.

9月 マセオ,ふたたび重傷を負う。内通者によりマセオが追い詰められたことを知ったカンポスは,ただちに3千の掃討軍を派遣.

9.27 マセオ、ポトレーロ(Potrero de Los Mangos de Mejor)で敵軍に包囲される.マセオは包囲陣の中を奇蹟的に脱出することに成功.

77年10月

10.18 戦線に復帰したマセオ,ピロートの闘いでスペイン軍を撃破.

10.19 議会,エストラーダを大統領から罷免.後任のフランシスコ・ハビエル・デ・セスペデス大統領はゴメスに統帥を委嘱.失意の底にあったゴメスはこの委嘱を拒否.これを受けた議会は一挙に講和の方向に傾く.

11 エストラーダ前大統領,スペイン軍により逮捕される.まもなく国外追放となる.

12.13 反乱軍議会,ビセンテ・ガルシア将軍を後任大統領に指名.ゴメスは停戦も含め民主的な議論で意志統一することを求める.ガルシアはカマグエイを中立地帯とし停戦協議を行なうようカンポスに提案.

77 ハバナに印刷工組合設立.

 

1978年

1.29 マセオ、シエラマエストラ山中のラ・ジャナーダ・デル・ムラート渓谷で、スペイン部隊を待ち伏せ攻撃。部隊を撃退するとともに大量の武器・弾薬を鹵獲。

78年2月

2.04 マセオ,サン・ウルピアーノで敵有力部隊に包囲される。38人の手兵を率い、3時間の激戦の末、8倍の敵を撃退。

2.05 ガルシアとカンポスのあいだで停戦についての合意成立.この時点でガルシアは大統領を辞任.議会は解散され,新たに組織された中部地区委員会(Comite del Centro)が停戦交渉に当たることになる.共和国軍は内部崩壊.ゴメスは委員への就任を要請されるが外国人であることを理由に拒否.

2.07 マセオ軍とスペイン軍の最精鋭サン・クエンティン軍団との間で,三日間にわたるサン・ウルピアーノの闘いが始まる。.

2.08 中央委員会,カンポスに対し休戦を要請.カンポスは・反乱軍指導者に対する恩赦,・プエルトリコと同等の政治的権利,・反乱軍に加わった黒人,中国人の解放,・出国を望む指導者の通行保障を条件に停戦を提案.中央委員会はカンポス案の受入れを決定.ゴメスは戦闘意欲がなくなった以上和議を結ぶしかないと判断.ホンデュラスに亡命.その後ホンデュラス軍の将軍に任命される.

2.09 マセオ軍、サン・クエンティン軍団を撃滅。

2.10 カマグエイ州サンホン(Zanjon)でカンポスと中央委員会との会見.中央委員会は停戦協定を受諾する.キューバは帝国内で一定の自治権を獲得する.スペインは戦いに加わった奴隷の解放,反乱者の大赦,政治改革を約束するが,奴隷制度そのものは廃止されず。それ以外の約束は守られず.

2.18 ガルシア大統領と中央委員会,マセオにサンホン条約の経過を説明し,ともに降服するよう説得.マセオは提案を断固として拒否.オリエンテの全将官を召集して会議を開くよう要求.

2.21 マセオ,独立とすべての黒人奴隷の解放という二つを除いた和平条件は認められないとし,カンポスに対し,同志の意思統一のため4カ月の停戦を申し入れる.

2.28 中央委員会,カマグエイで正式に降服.サンホン条約に加わったガルシアは途中から条約に反対,ラスビリャス軍を引き連れオリエンテに移動.

78年3月

3.08 マセオ,バラグアに出現.サンホン条約に反対し戦争継続を主張.いまだ降服していない将官全てに会議への参加を呼びかける.すでに降服を決めたバヤモの将官は不参加.マセオはガルシアとも直接会見するが,ガルシアは共同行動を拒否.

3.15 マセオ,5百人の将校を引き連れ,マンゴス・デ・バラグアでカンポス将軍と会談.マセオは独立と奴隷制廃止が含まれない和平を認めることは出来ないと抗議.交渉は決裂に終わる.

3.16 マセオを先頭とする戦闘継続派,改めて議会を招集.マヌエル・デ・ヘスス・カルバールを大統領に選出.

3.18 カンポス、マセオに慰労金の支払いを提案。サンホン協定の受け入れを迫る。マセオは「自由はお願いしていただくものではなく,マチェテの刃先から生まれるものだ」と応える。

3.23 1週間の停戦期間終了,戦闘再開.マセオはカンポスへの回答を、「バラグアの抗議」と題する文書として発表。サンホン条約に反対し地主層の日和見と裏切りを非難する.「バラグアの抗議」はキューバだけでなくスペイン本国,米国内にも知れわたる.

78年4月

4.06 ニューヨークのラ・ベルダード紙,全米奴隷制反対協会のマセオへの連帯の挨拶を掲載.ロンドンでも奴隷制反対協会の圧力を受けた英政府が,スペインに対し奴隷制廃止を迫る.

4 「バラグアの抗議」に賛同するすべての高級将校がマセオの求めに応じて会議開催.会議は新憲法を採択しマヌエル・デ・ヘスス・カルバールを大統領に選出.すでに降服したガルシアを総司令官に指名.マセオは副司令官兼オリエンテ軍司令官におさまる.ニューヨークでサンホン協定に反対する5人委員会が結成され,フリオ・サンギリ将軍が支援責任者となる.武器や資金の調達に乗り出す.

4月末 米国内での反乱軍支援活動は、フロリダのタバコ労働者の熱烈な支持にもかかわらず,有産階級の無視により有効な支援を組織することに失敗.

78年5月

5.01 バヤモ,マンサニーリョに続きベリサリオ・デ・ペラルタ大佐の率いるオルギンも陥落.

5.03 フィゲレード,マセオを守り玉砕を避けるためにはもはや降服しかないと議会に提案.も「マセオを温存し他日に備えることが最大の課題」と発言したことから議会の大勢が決まる.マセオ,カルバール将軍の説得を受け入れ戦闘を停止.

5.10 マセオ「いつの日かふたたびキューバのために闘うだろう」と宣言し,スペイン船でジャマイカに向かう.「不敗の軍団」の中核はオリエンテに残存.

5.21 カルバール大統領,スペインとの和平を受け入れ、ロマ・デ・ペラーダでスペインに対し降服.十年にわたる独立戦争は20万8千の死者を出し挫折.スペインも5億ドルをつぎこみ,兵士8万が犠牲となる.

78年6月

6 スペイン政府,キューバに国会への代表権を与えるとともに,全土を6州に分け,それぞれに選挙で選ばれた議会を設置すると表明.その後実際には実施されず.

6 マセオ,ジャマイカからニューヨークにわたり募金活動を続けようとしたが,すでに情熱を失ったニューヨークの支援センターは閉鎖され,支持者獲得に失敗.ジャマイカに戻る.

8.03 ハバナでキューバ地区委員会を母体に自由党創設.後に自治党と改称.政治結社の自由,軍政分離,税負担の公平化を掲げる.奴隷制については「廃止されるべき」と述べるだけで具体的な方針を明らかにせず.

78年8月

8.16 ボルンタリオの流れをくむ親スペイン派,自由党に対抗して立憲連合党を結成.旧改革主義者もニコラス・アスカーラテ,アドルフォ・マルケス・マルケス・スターリングらを中心に第三の政党を結成しようとするが,スペイン政府の敵視の中で流産.スターリングの発刊した「自由」は事実上,独立派の機関紙となる.ハバナの自由黒人フアン・グアルベルト・ゴメスが主幹となる.ゴメスはパリ留学中に独立運動に参加.フランシスコ・ビセンテ・アギレーラ駐パリ代表とともに亡命者を組織し支援活動を展開.

8.31 ホセ,恩赦を得てグアテマラからキューバに帰る.エコール・ノルマールの教授に就任したホセは,改革主義者ニコラス・アスカラーテを通じてホセ・アントニオ・アギレーラ,グアルベルト・ゴメスらと知合い,自由党急進派を形成.

9 カリスト・ガルシア,国外追放のあとマドリードからニューヨークに移り,5人委員会を改組した革命委員会(Comite Revolucionario Cubano)の議長に就任する.

10 革命委員会,ヤラ宣言十周年を記念しカリスト名のアピールを発表.島内外での革命組織の結成を訴える.国内オルグのグアダルベルト・ゴメスは帰国したホセを訪ね革命委員会への参加を訴える.

11.23 革命委員会の機関紙「独立」,「マチェーテを手にとり,砂糖キビを焼き払え」と檄をとばす.カリストの委嘱を受けたペドロ・マルティネス・フレイレ大佐,全島での一斉蜂起とサンチアゴの軍基地占拠を柱とする反乱計画を提起.蜂起成功後はカリストとマセオが最高指揮権をとると想定.ラスビリャス軍のフランシスコ・カリーリョ,エミリオ・ヌニェス,セラフィン・サンチェスらの将軍もこの計画を支持.

 

1879年

3.18 ホセ,キューバ革命委員会中央委員会副議長兼ハバナ代表に選出される.サンチアゴのホセ・マセオとギジェルモ・モンカダ,蜂起の準備を開始.ラスビリャスのヌニェスとサンチェスもこれに呼応して準備を開始.まもなく反乱計画が発覚し,ハバナの革命委員会は壊滅する.

6 ハバナで愛国委員会再建.議長にアギレラ,副議長にホセが就任.

79年8月

8.05 カリスト,秋期決戦を決定.キングストンのマセオを訪れ会見.ふたたび戦争を始めるにあたり,オリエンテ軍司令官となるよう要請.提案を受諾したマセオとともに,「スペインの改革の約束はまやかしであった」とし,武装蜂起をよびかけるキングストン宣言を発表.マセオはオリエンテの同志に「ふたたび戦場に向かう日がやってきた.我らの手に帰すべきものを武力で勝ち取らなくてはならない」と檄をとばす.

8.24 反乱計画が発覚.サンチアゴ軍司令官ポラビエハは独立派への弾圧を強める.オリエンテ各地では,予定を1カ月早め一斉蜂起.「小戦争(Guerra Chiquita)」開始.オルギンを中心にラス・トゥナス,バイレなどが蜂起.ラス・ビリャスでも反乱開始.ハバナでは反乱軍支援と,ハバナ州での蜂起を目指し中央委員会が結成され,ホセが議長に就任.スペインや自治主義者は「オリエンテをハイチのような黒人共和国にしようとする策動」とデマ宣伝.

8.26 ポラビエハのもとで副官をつとめるアンドレス・ゴンサレス准将(サンチアゴ生まれ),独立戦争に決起を呼びかける.これに呼応してホセ・マセオらが決起.「民衆闘争団」Orden Publico y de Guerrillas 三百人が街頭に出て「自由キューバ万歳,スペインを倒せ!」と叫び武装デモ.官憲との衝突でスペイン兵二人が負傷.部隊は市北部の山中に結集.

8.27 帰任したポラビエハ,ゴンサレス准将を解任.将校ホセ・ラクレ(キューバ人)に反乱者の帰順を説得するよう依頼.ラクレは説得に失敗しみずからも辞任.

8.28 反乱者の多くは投降.中心部隊はホセ・マセオを司令官に,ギジェルモ・モンカダ,ラファエル・マセオ,キンティン・バンデラス,フロール・クロンベト,ペドロ・マルティネスらがオリエンテ軍を編成し抵抗を続ける.参加者はシェラ山中や西領アフリカに幽閉される.

79年9月

9.05 マセオ,「キングストン宣言」と呼ばれる回状を発する.サンホン合意は口先だけであり,「約束された改革は実行されず,キューバ人の政府を作る方向ではなく,半島人の支配を強化する方向で物事が動いている.大量のスペイン人が流れ込みポストを独占してる.彼らは自らのポケットと本国人のごきげんだけを気にしている」と非難.当局はこれを危険文書として差し押さえ.

9.17 ハバナのホセ,反乱指導の疑いで逮捕,国外追放処分となる.1週間後にスペインへ追放となる.中央委員会は解散させられ,アギレーラとグアルベルト・ゴメスはセウタ監獄に,他の指導者たちはピノス島に収監される.

9.25 ラモン・ブランコ総督,サンチアゴで黒人狩り.350人をハバナのモロ要塞に監禁.その後アフリカに送還する.

10 ニューヨークの革命委員会,オリエンテ州司令官をマセオから白人のグレゴリオ・ベニーテス少将に変更.ベニーテスにオリエンテでの戦闘経験なし.カリストはスペイン側の反黒人宣伝に配慮と弁明するが,実際は委員会内部の右派に屈伏したものであった.マセオは革命委員会との絶縁を宣言.これを機にキューバ内の黒人に革命委員会に対する幻滅が広がる.

11.5 キューバ自治政府成立.カンポス総督がみずから首相に就任.奴隷制廃止をうたうとともに,以後8年間を移行期間として「保護者法」を制定.実際には奴隷以下の待遇におかれる.

12.14 ドミニカの将軍キンティン・ディアスとアントニオ・ペレス、キューバ総督ラモン・ブランコの依頼を受け、ハイチに滞在中のマセオを暗殺しようと謀る。事前に情報が漏れたため、マセオは難を免れる。

12 戦況は不利となる.ホセ・マセオに代わる新司令官ベニーテスは上陸後間もなく逮捕される.

79 キーウエウストのタバコ労働者,独立戦争再開を目指す秘密結社「太陽の秩序」を組織.

 

1880年

80年1月

1.03 ホセ,ニューヨークに到着.最初米国の自由に心酔.「ここでは誰もが自由に呼吸できる.ここではまず”自由”なのだ.それは人生の基本であり盾であり,真理なのだ」と述べる.

1.24 マルティ,革命委員会の活動に参加.革命委員会の大衆集会で、「黒人問題について」と題して最初の講演を行う。

「黒人問題について」の要旨: 「キューバ共和国は万人のためのものでなければならない」とし,肌の色に関係なく全てのキューバ人が独立のため団結するよう訴える.また「黒人が白人への報復を狙っている」とするスペインが流したデマを拒否し、十年戦争以来の黒人の変わりないたたかいを評価する。
「人は特定の人種に属しているというだけで,特権を与えられるべきものではない.人間であることは白人であることよりも,またニグロであることよりもはるかに大きなことである」と述べ、富裕植民者の尊大な態度に不快感を表明.逆に黒人やタバコ労働者の献身ぶりを賞賛する.

1月 奴隷制度が温存されたことから、ハバナは米州における奴隷取引のセンターとなる。

80年2月

2.13 スペイン政府,カンポス案をそのまま受入れた奴隷制廃止を決定.補償のかわりに10〜15年間奴隷を農園に拘束するパトロン制との抱き合せにより,奴隷の強制労働は温存される.キューバ代表の何人かは,経済状態を省みない決定と抗議.独立戦争で古い生産様式をとる砂糖農園主は没落.西部の生産業者に土地を売ったり,砂糖工場に従属するコローノに転進.

3 マセオ,ドミニカを訪れ資金援助を要請.時の大統領グレゴリオ・ルペロン将軍からも資金を与えられる.

4.17 劣勢にあせるカリスト将軍,ホセ・フランシスコ・ラマドリスに革命委員会を委ね,27人の部下とともにジャージー・シティーを出航.

80年5月

5.7 カリスト将軍,6人の仲間とともにサンチアゴ西方のアセラデーロ海岸に上陸.この時点ですでに反乱軍の敗色は濃厚.カリストらは味方とのコンタクトが取れぬまま,スペイン軍に追撃される.

5.13 マルティは革命委員会議長に就任.カリストの戦闘開始を祝うキャンペーンを組織.

80年6月

6.01 オリエンテ軍のホセ・マセオ、ラファエル・マセオ、ギジェルモ・モンカダらがスペイン軍に投降.グアンタナモ駐在の英仏領事の仲介で,彼らに安全な出国が保障される。

6.10 スペイン軍は約束を破り、洋上で76人の反乱軍将官を捕らえ,アフリカの監獄に送還する.反乱は実質的影響力を得られぬまま壊滅.

6.28 マセオ,34人の同志とともに米国船プエルト・プラタ号に乗りドミニカを出発,キューバを目指す.

7 マセオの一行,スペイン軍艦に徹底的に追尾され上陸を果たせず.途中立ち寄ったカプ・アイティアンで資金をハイチ当局により没収される.

8.03 カリスト,山中をさまよううち熱病におかされ動けなくなり,スペインに降服.この時部下はわずかに6人を残すのみ.カリストはふたたびスペインの監獄に送られる.カリスト逮捕と反乱軍壊滅の報を得たマセオ,上陸を断念.

8.24 ニューヨークの「独立」紙編集長フアン・ベリド・デ・ルナ、マセオに手紙を送り、キューバ侵攻作戦を思いとどまるよう説得。

9 ラスビリャスの青年将校エミリオ・ヌニェス,ロス・エヒードスで孤高の闘いを続ける.敵軍の包囲を受けたヌニェスは革命委員会の許可を条件に降服に応じる.ブランコ総督は戦争終結を宣言.ニューヨークの革命委員会も解散.ホセはジャーナリスト兼詩人として活動開始.

11 自由・自治党,キューバの平和を犯すような振る舞いは許されないと声明.スペインの傘の下での主導権獲得を目指す. 

 

1881年

4.07 スペイン憲法がキューバにも適応され,公民権が全面的に認められる.実際は総督の恣意的な運用により,権利は大幅に制限されたまま.

12.01 ジェームズ・ブレイン米国務長官、「我々の西半球における戦略拠点となるべき豊かな島キューバは、今なおスペインの手中にある。キューバはスペインであることをやめ、欧州のものであることをやめ、米州のものとならなければならない」と述べる。

12.10 ゴメス、ホンジュラスへの帰途ジャマイカのキングストンを訪れる。キューバ人医師エウセビオ・エルナンデスの手配によりマセオとの会談がセットされる。ほかにカルロス・ロロフ、ホセマリア・アギーレ・デ・バルデスが参加。マセオは「時が至れば、キューバ人はふたたび決起するだろう。そのときキューバ人すべてを団結させることができるのはゴメスを置いて他ににはいない」と主張。

81 ニペに仏西合弁の精糖工場.以後年産1万トン以上の「セントラール」が各地に誕生.精糖工場の大規模集中化が進み,独立戦争をはさむ40年間で,工場数は2千から4百に減少.

1882年

5.31 マセオ、ホンジュラスで判事補の職に就く。

7.20 ホセ,ゴメスとマセオに決起を訴える書簡.フロール・クロンベトに託す.この手紙でホセは「黒人差別思想はキューバ独立運動の敵である」と指弾.運動は軍事的であるだけでなく文化的でもあるべきだとする.

7.31 ホンジュラス大統領に就任したルイス・ボグラン将軍,マセオをオモアおよびコルテス港の守備隊司令官として招請.

11.29 マセオ、ホセからの手紙を受け取る。当時,経済的苦境にあったマセオはいったん書簡を無視するが,半年後に「キューバ独立のため最後まで闘う」決意を表明.

82 ホセ,時事評論で名を挙げ,ウルグアイ副領事の職を委嘱される.

82 ハバナの縫製工,賃金切り下げに対抗してスト.会社はスト破りのため米国の縫製工を雇い入れようとするが,ニューヨークの縫製工はハバナの労働者に連帯して,スト破りの出航を阻止.

82 フィリピンのホセ・リサール,マドリード大学在学中に祖国の独立を目指す運動を開始.リサールはメスティソの富裕階層の出身。

1883年

1月 マセオ、妻をプエルトコルテスに呼び寄せる。

1月 ゴメス、キューバ人農業移民の斡旋をマセオに委嘱。

6.13 マセオ、エル・ヤラ紙に寄稿。「スペイン人の支配はキューバ人にとって許しがたい恥辱である。キューバ人は、その剣でスペイン人を海に追い落とすとき、初めて自由になる。そのためには生きているかぎり戦い続け、祖国の土を血で染めなければならない」と述べる。

7月 マセオ、ホンジュラスにおける一切の公職を辞退。「わが祖国キューバは、その息子たちに、自由のために闘えと迫っている」と宣言。

1884年

3 ホンデュラス亡命中のゴメス,「革命センターへ」と題するメッセージをマヌエル・アギレーラ大佐に託し米国に送る.このメッセージで米国内に執行部を形成しゴメス自らを司令官に任命し,20万ドルの軍資金を託すよう訴える.ニューヨークの独立クラブを含む各地の亡命者組織は,ゴメス提案を支持.マセオもゴメスの指揮の下に闘いに加わるむね意志表明.

5月 ホセ・マルティ,ニューヨークのウルグアイの領事館から暫定総領事に任ぜられる.

8.02 ゴメス,ホンデュラス軍を辞す.ホンデュラス大統領から3千ドルを託され出発.ニューオリンズに基金募集のため立ち寄るが,現地の亡命者はカンパを拒否.キーウエストで寄付を訴えたマセオは5千ドルを獲得.

84年10月 ニューヨークのホセ・マルティとゴメス

10.01 ゴメスとマセオ,ニューヨークに到着.9番街のマダム・グリフォン・ホテルで、ホセ・マルティら独立クラブ幹部を含め作戦会議.最初20万ドルの寄付を申し出ていたニューヨーク在住の豪商フェリックス・ゴビンは,状況が変化したとして寄付を断る.

10.10 ゴメスの活動に接したホセ・マルティ,革命活動に専念するために,ウルグアイ総領事の職を辞任する.

10.20 ゴメスと会見したホセ・マルティ,戦争の組織的性格をめぐり論争となる.ゴメスの独断専行を警戒するホセは.「われわれは軍事独裁国家を実現するために独立戦争を闘うのではない」「戦争は軍人のみがおこなうべきものではなく,その目的と改革プランを人民に提起し,支持を受けることなしには成功しない」とし,作戦への協力を拒否.この後しばらくホセは裏切り者と呼ばれ孤立する.

11 ゴメスとマセオ,キーウエストでさらに5万5千ドルの募金に成功.作戦実施に移る.

12 十年戦争を最後まで闘ったボナチェア将軍,単身キューバにわたり蜂起を企てるも失敗.

84 ヨーロッパでの甜菜糖の生産増大.世界生産量の53%を占めるに至る.欧州各国の砂糖増産により砂糖価格の大暴落.キューバからヨーロッパへの砂糖輸出はゼロとなり,ほぼ全てが米国向けとなる.機械化によるコスト削減と競争力回復に失敗した「砂糖貴族」たちは次々と没落.資産の多くが米国資本の手に移る.

 

1885年

4.16 ホセ・マルティ,ニューヨークのウルグアイ副領事に復帰.

4 ドミニカ政府当局,ゴメスが島内に秘匿した進攻用の武器弾薬を押収.ゴメスは当初の一斉上陸作戦を断念し,まずマセオに上陸させ,状況を打開した後自分とラファエル・ロドリゲス,ついでエミリオ・ヌニェスが進攻する三段階作戦に切り替える.

5.07 ホセ・マルティ,ウルグアイ領事に昇格.

5 リンビアノ・サンチェス将軍の率いる反乱,失敗に終わる.

6 マルティ,独立を望むすべての勢力の団結を訴え,ふたたび独立派内での影響力を回復.

10 マセオ,エウセビオ・エルナンデスを伴い,みたびキーウエストを訪問.軍資金の寄付を訴える.島のキューバ人は期待目標をうわまわる9千ドルのカンパで応える.

11.24 保守党のアントニオ・カノバスと自由党のマテオ・サガスタとのあいだに「マドリード協定」.国王アルフォンソ12世の死を前に政治の混乱を避ける.自由党が政権をとる代わり,現状に基本的変更を加えないことで合意.

11.27 自由党のサガスタが首相に就任.

12.30 国王の死に伴ない,妻のマリア・クリスティーナが摂政に就任.

12 マセオ,ニューヨークでフェルナンド・ロペス・デ・ケラルタ大佐に武器の購入と船舶の確保に当たらせる.自らはキングストンで軍編成を急ぎ「オリエンテの同志と戦士へ」との宣言を発する.ゴメスはマセオの独走に不快感を表明。

85 タバコ労働者を中心にハバナ労働者クラブ結成.指導者にエンリケ・クレッシとマシミノ・フェルナンデス.

1886年

1.10 スペイン本国カルタヘナで共和主義者の蜂起.

1.16 マセオ、ゴメスに手紙を送り関係修復を図る。

2 ニューヨークからパナマに向かった輸送船,書類不備のためパナマ入港を拒否されニューヨークに引き返す.ゴメス,あいつぐ脱落者のため決起の延期を指示.

5.17 アルフォンソ13世が誕生.

5 アルフォンソ12世死去アルフォンソ13世の誕生,マリア・クリスティーナの即位に伴い小戦争参加者に恩赦.

7.10 革命委員会のフロール・クロンベトがパナマに到着。「モーニング・スター」号に乗り込む。

7.20 武器を積んだ「モーニング・スター」号,キングストンに到着.摘発を恐れた船長は積荷を投棄し逃亡.マセオはクロンベトを激しく糾弾、決闘を申し入れる。

8.17 軍民幹部がキングストンに結集.マセオの反対を振りきり革命準備を再開することを決議.しかし基金はすでに募集不能となり,反乱計画は挫折.

8.31 キングストン会議が決裂。ゴメス,マセオのキーウエストでの募金工作を最高司令官に対する越権行為として非難.マセオはゴメスの権威主義を批判、その統率力や指揮能力に疑問を投げかける。ゴメスはマセオとの絶交を宣言。

9.19 カルタヘナでふたたび共和主義者の反乱.マドリードでも呼応する動き.

10.7 キューバで奴隷解放令施行.パトロン制の下で温存されていた奴隷制を最終的に廃止.この時点ですでに奴隷は10万人に減少.さとうきびプランテーションに打撃をあたえる(当時の人口150万のうち1/3が黒人).黒人奴隷の反乱を当てにする独立計画は根本的見直しを迫られる.

12.08 ゴメス,「キューバ人はもう革命などという言葉を聞きたくなくなった」と述べ、反乱計画の終焉を宣言.この後、独立運動は軍人主体の陰謀的活動から市民の参加するキャンペーンへと変化。

1887年

1月 マセオはパナマに移住。バス・オビスポで運河会社のための住宅建設事業を始め,成功を収める.この間,独立運動への関わりはなくなる.

10.10 ホセ,ヤラ宣言記念日を機にニューヨークに会議を召集.独立派の再結集を図る.会議は革命の性格を・民主的な方法によるべき,・国内での運動が先行すべき,・米国内の組織は一本化すべき,・階層間,軍民間,人種間の差別を撤廃すべき,・併合主義の主張は排すべきとする5原則を提示.ゴメス,マセオともにこの決議の受入れを表明.

87 キューバの利権をめぐり,米西条約締結.米国の経済進出本格化.疲弊した東部地主は奴隷解放後の,農場機械化の財政負担に耐えられず,つぎつぎに米資本に土地を売却.「アメリカ精糖会社」が砂糖市場の支配権を確立.輸出の87%が米国むけとなるいっぽう,スペイン向け輸出は6%に減少.ホセ・マルティは,「米国はキューバを単なるおいしいご馳走としか見ていない.キューバ人にとって,主人を変えることは自由になることとは違う」と警告.

87 イポリト・デュモアの経営するバネス果実会社, 10万ヘクタールを所有しバナナ栽培.デュモアはハイチから亡命してきた旧フランス人の末裔.

87 エンリケ・ロイグ・イ・サンマルティン,労働者クラブの機関紙として「生産者」紙を発行.従来のプルードン主義に代えて,バクーニンのアナルコ・サンディカリスム思想を広める.

87 ハバナ労働者クラブを母体としてハバナ・タバコ労働者連盟発足.タンパとキーウェストの労働者も組織化開始.間もなくタバコ労働者組合に改組.

1889年

キューバ最大の鉄鉱山フラグアー社,ベツレヘム・スティールに身売り.ベツレヘム・スティールは,これを機に本格的にキューバの鉄鉱山開発に乗り出す.

10.10 ホセ,ヤラ宣言20周年を機に「セスペデスとアグラモンテ」を発表.オリエンテとカマグエイの団結を訴える.

1890年

90年1月

1.29 マセオ,母親の財産処分のためキューバに一時帰国を申請.マヌエル・サラマンカ総督は,国内の平定ぶりを示す機会と考えこの申請を許可.マセオは「マヌエリート・イ・マリア」号に乗りハイチのポルトープランスを出発。

1 キューバからの亡命黒人ラファエル・セラ,ホセの援助を受けニューヨークで黒人亡命者のための組織「同盟」を結成.夜学校を開設.ホセも講師の一員となる.第一次独立戦争は地主の戦争であったが,これからの運動は人民の戦争でなければならないと主張.

1 前年末から始まったキーウェストを中心とするタバコ労働者のストライキ,全面勝利を収める.エンリケ・メソニエ,エンリケ・クレシらが指導,「生産者」のロイグらが全面支援.

2.05 マセオ,ハバナに到着.サラマンカ総督との会見を申し入れるが拒否される.宿舎となったハバナのホテル・イングラテルラ(Inglaterra)には反乱軍のベテランや闘争再開を願う青年たち,社会主義者,労働運動や黒人運動の指導者などが次々に訪れる.マセオはマヌエル・サンギリ,マヌエル・スアレス,ホセ・アギレらと計り10月10日を期して決起することを申し合せる.

5.01 マドリードとバルセロナで最初のメーデー.

5.13 ビスカヤでゼネストが決行される.

7.03 サガスタの自由党内閣崩壊.カノバスが首相に就任.

7.14 マルティは、ウルグアイに加えアルゼンチンのニューヨーク領事も兼任.

7.29 マセオ,ハバナやピナルデルリオを巡回した後サンチアゴに到着.熱烈な歓迎を受ける.マダム・アデラ・ホテルを事務所として,独立戦争のベテランを召集.モンカダ将軍,キンティン・バンデラス中佐などが結集.オリエンテ各地でもハバナ蜂起にあわせ決起,サンチアゴを解放してゴメスを迎え入れるプランが練られる.

支持者との対話: ホセJ.エルナンデスという青年が「偉大な米国の星座の中のもう一つの星になること」の是非について質問。マセオは、「青年よ、そんなことはありえないと思うが、もしそんなことになるなら、私はスペインの側に立って闘う」と応える。

7.30 マルティ,パラグアイのニューヨーク領事も兼任.

90年8月

8.20 ギジェルモ・モンカダ,フロール・クロンベトを司令官とし,9月8日の一斉蜂起で合意.

8.24 カミロ・ガルシア・デ・ポラビエハ,サラマンカに代わる総督として赴任.ただちにマセオに対し国外退去命令.蜂起を断念したマセオは30日,ニューヨークに向け出航.この陰謀は戦争による荒廃を恐れたマンガン会社社長の密告で発覚したことから「マンガン屋の平和」と呼ばれる.

8.29 サンチアゴ当局、翌日のニューヨーク行きの船シエンフエゴス号に乗るようマセオ夫妻に命令。

8.30 ファン・アントニオ・ビノン知事、マセオを見送る。餞別として金30オンスを手渡そうとするが、マセオはこれを拒否。

8 米国の召集により第1回米州会議開催.ウルグアイ領事として会議に参加したホセは米国の提唱する関税同盟の狙いを暴露,LA諸国に警戒をよびかける.ホセはその後パラグアイ,アルゼンチン両国からも領事の職を委嘱される.

9 ホセ,ラテンアメリカを代表する立場から「我らのアメリカ」を発表.さらに実践主体としての信念を,「素朴なる詩集」に著わす.

@「我らのアメリカ」の内容: LAを「北のもうひとつのアメリカ」と区別し北アメリカのLA進出を帝国主義と規定.「われわれのアメリカは,野蛮で狂暴でわれわれを軽べつしている北のアメリカに併合されようとしている.私はこの怪物の体内に住んでいるから彼らの腹の内はよくわかる.そして私の手には石投げ鞭がある.ダビデの石投げ鞭が…」と述べる.
A「素朴なる詩集」の内容: 「詩はそれがすべての人々の作品であるとき,永続的である.それを書く人も,それを理解する人も,ともに作者である.心に愛を抱き,唇に歌をのせて,悩める大衆の中を歩むためには,すべてのうめきに耳を傾け,すべての苦悶を直視し,すべての喜びを感じ,そしてすべての人に共通の情熱に鼓舞されなければならない.とりわけ,悩める人々の中に生きねばならない」

11月 ホセ・マルティ、タンパのキューバ人集会で講演。「太陽が皮膚を焼く大陸から来ようと、あるいはもっと柔らかな日差しの大陸から来ようと、肌の色に関係なくすべてのキューバ人にとってこれは革命である」

12.23 ホセ・マルティ,ワシントンで開かれた米州国際通貨会議にウルグアイ代表として参加.

90 グアルベルト・ゴメス,有色人種協会中央司令部(Directorio Central de Sociedades de Color)を創設.

90 W.マッキンレイ下院議員の提案になる関税法成立.キューバ産砂糖に対する関税を廃止し,見返りにスペインとのあいだの貿易拡充を狙う.これによりキューバからの砂糖輸出は1.5倍,米国からの輸入は2倍化.

米国による砂糖支配: 第二次独立戦争開始の時点で,米国のキューバ砂糖産業への投資総額は3千万ドルに達する.キューバの砂糖生産の10%が米資本の手に.他鉱業,タバコ産業へも多額の投資.
マッキンレイ法に呼応して米国の精糖会社19社が「砂糖トラスト」を結成.アメリカ精糖会社のヘンリー・ヘイブマイヤーを中心として輸入業務を独占.買い叩きにより砂糖価格は25年間で1/3に低下.このため国内の製糖工場も1/3に減少.没落した農場主は「センター工場」の契約農(コロノ)となる.

90 米海軍将校アルフレッド・マハン, 海軍力増強なしに米国の繁栄はないとする著書を発表.カリブ海, 中米地峡, ハワイ, フィリピンの確保を説き外交政策に大きな影響を与える.

 

1891年

2 スペイン総選挙.保守党がふたたび政権を握る.カノバスは腐敗ぶりで名を知られたロメロ・デ・ロブレドを植民地相に指名.キューバ総督カミロ・ポラビエハはこの人選に抗議して辞任.

3.30 ワシントンで米州国際通貨会議開催.ホセは「複本位制」を主張する報告を提出し,基軸通貨間の政策調整を主張し,米国の銀本位制押しつけ案を流産させる.

10 スペイン政府,ホセ・マルティがキューバ独立運動に関わることに不快を表明.ラテンアメリカ三ヵ国を代表する領事が反乱をそそのかすことは外交官の職責に反すると抗議.米国がこの抗議を受け入れたため,ホセは領事の職を辞す.

11.27 タンパのアグラモンテ・クラブ(会長ネストル・カルボネル),ホセ・マルティを招き医学生虐殺20周年記念講演会を主催.亡命者はホセの訴えに全面的に共感,キューバ革命党結成を訴えるタンパ宣言を採択.タンパのタバコ労働者でアナーキスト系社会主義者カルロス・バリーニョも独立運動に参加,ホセの片腕となる.黒人たちはニューヨークの経験に学び教育同盟を創設.

12.24 キーウエストのタバコ労働者に招かれたホセ,タンパの独立派幹部とともに訪問.3日間の会談の末キューバ革命党の結成で合意.ホセは「暫定原則」の作成を委ねられ,そのまま現地に滞在.

 

1892年

92年1月  キューバ革命党の創立

1.05 タンパ,キーウェストの27クラブの代表により,武装蜂起を基本とする暫定原則が承認される.この日をもって革命党設立の日とする.

「暫定原則」: (ラテンアメリカの)友好諸国人民と関係を強め,最少の犠牲で(独立)戦争に勝利し,新たな共和国を打ちたてることは,(南北)アメリカの力関係を確立する上で不可欠である.

1.06 キーウェストからの帰途立ち寄ったタンパでも,ホセ・マルティの方針が承認される.革命党は各地のクラブの連合体であり,それらの委員長が評議会を形成し選挙により事務局長と財務責任者を選出する.

1.08 本国のフアレス・デ・ラ・フロンテーラで農民蜂起発生.

1.12 キューバ国内の元独立派からホセがイニシアチブをとることに異論.ホセはエンリケ・コリャソ,ラモン・ロアら元将軍達に対し統一の重要性を訴え,多くの亡命者の共感を得る.ゴメスも「いまこそその時である.時間を失ってはならない」と檄を飛ばす.

1.16 ハバナで第一回全国労働者会議開催.労働者代表千名が参加.マルティネス主義を排し,労働者クラブの方針を採択.ただし政治への関与を避けるサンディカリズムはとらず,8時間労働,人種による労働差別の廃止を掲げる.集会はマルティの独立運動を支持する決議.黒人労働者は独自に組合結成.百以上の団体を結集.

1.20 ポラビエハ総督,キューバ国民の不満の前に解任される.これに代わったマウラ総督は改革路線と自治主義者への宥和策を採るが,国内外の保守勢力の猛反対にあい挫折.自治主義者は国内における実効的支配力を喪失.

92年3月

3.01 ホセ・マルティ,ウルグアイ領事館に辞表を提出.革命準備に全力を集中.

3.04 ホセ・マルティ,プエルトリコ出身の黒人ソテロ・フィゲロアの編集する「祖国」紙を,革命党の事実上の機関紙とする.最初の号の大部分の資金をフロリダのタバコ労働者が拠出する。マルティは寄稿の中で、「キューバに人種間戦争の恐れはない。人々は白人、ムラート、黒人という区別をすでに乗り越えている。彼らはキューバのために戦場で死んだ。黒人と白人の魂は一緒になって天国へと上った」と語る。

3.05 ホセ・マルティ,スペイン系アメリカ人文芸協会で講演.ボリーバルを生み出したベネズエラの人々を賞賛するスピーチ.

3.13 ニューヨークの革命クラブ総会,満場一致で党の原則を承認.

3.14 「祖国」紙,革命党の綱領全文を一面に掲載.

3.25 カタロニア分離主義者の総会がマンレサで開催される.

92年4月

4.8 南部,ニューヨーク,フィラデルフィアのキューバ人クラブ,全会一致で綱領と規約を承認,ホセを事務局長に,ベンハミン・ゲラを財務局長に選出.ニューヨークに置かれる事務局にはバリーニョ,ディエゴ・ビセンテ・テハダも加わる.

4.10 ニューヨークでキューバ革命党の結成大会.タンパ,キーウエスト,ジャクソンビルなどのほかカリブ諸島に亡命中のキューバ人に組織を拡大.反帝反独裁,大衆民主主義を掲げる.

5.13 ホセ・マルティ,フロリダのカヨ・ウエソで革命党委員長として報告.「諸外国において革命への敬意と共感を呼び起こすこと.公私を問わず,募金を募ること」を訴える.

92年6月

6.12 ホセ・マルティ,対米関係確立のため,ニューヨークで米国関係者との対話に乗り出す.

6 マセオ,コスタリカ政府の許可を得てニコヤ県に農場を開拓.二年余りで軌道に乗せることに成功.

7.18 タンパ市長,ホセ・マルティを公賓として招待.セラフィン・サンチェス将軍とカルロス・ロロフ将軍が同行.

7.19 タンパのホセ・マルティ,葉巻工場を訪問し,労働者に支持を訴える.さらにOcala,SanAgustinでも有力者・地方紙と会見.

8月 ホセ・マルティ,ワシントンに対し,スペイン公使による革命党への干渉を抗議.米国側の不干渉の立場を確認する.

8 ホセの命を受けたヘラルド・カステリャノス少佐,キューバに潜入し情報収集にあたる.

92年9月 ホセ・マルティのドミニカへの旅

9.01 革命党,ゴメスに司令官を依頼することを決定.ホセは自らサントドミンゴにおもむく.

9.07 ホセ・マルティ,ハイチに上陸.3日間にわたりゴナイーヴ,カパイシアン,フォート・リベルテを歴訪.

9.10 ホセ・マルティ,ハイチからドミニカに入り,モンテクリスティでゴメスと会談.ゴメスは行き掛かりを捨て要請を快諾.

9.18 ホセ・マルティ,サントドミンゴでエンリケス,カルバハル(Carvajal)兄弟と会見.

9.19 ドミニカのイグナシオM.ゴンザレス外相,ホセ・マルティと会見.来訪を歓迎.

10 ホセ,ドミニカからジャマイカにわたりアントニオ・マセオの母グラハレスに面会.マセオの意思を確認.

92年12月

12.11 カノバス保守党政権崩壊.サガスタ,新内閣を組閣.キューバ自治を主張するアントニオ・マウラを植民地相に指名.

12.27 スペイン,本国において普通選挙権を認める.キューバにおいては「黒人が多数を占めるという特殊性」のため,実施は見送られる.

92 ホセ・リサール,マニラに戻りフィリピン人同盟を創設.直ちにミンダナオに追放される.

 

1893年

93年1月

1.03 ホセ・マルティ,ニューヨークの顧問会議に海外での統一工作の経過を報告.

1.05 革命党,正式にゴメスを最高司令官に指名.

2.01 ホセ・マルティ、マセオに革命運動への参加を求める。コスタリカでの事業が成功をおさめていたため,マセオは一旦は参加を躊躇.

93年4月

4.10 マルティ、キューバ革命党の委員長に再選される.

4.26 ホセ・マルティ,フィラデルフィアで開かれたキューバ系アメリカ同盟の創立総会に出席.プエルトリコを含むスペイン領アンティル諸島人民の結束を確認.

4 マヌエルとリカルドのサルトリウス(Sartorius)兄弟,オルギン(エル・パルニオ?)で反乱.わずか30人の蜂起はたちまち鎮圧されるが,革命は生きていることを内外に広く知らせる.ホセは挑発的行動をきびしく戒める.

5.02 サンチアゴのモンカダら,サルトリオらの失敗とその後の警備強化を見て,15日の一斉蜂起計画を11月まで延期する.

5.25 ホセ・マルティ,第二期の海外オルグに出発.ドミニカでゴメスと会談.

5 米国で恐慌発生.米国からの投資は激減.米国南部のタバコ工場も次々と閉鎖.タバコ工場のキューバ人労働者を基盤とする革命党も財政的窮地に陥る。

93年6月

6.20 カノバス前首相の私邸が無政府主義者に襲われる.

6月 ホセ・マルティ,ドミニカからパナマに向かう.

7.01 ホセ,ゴメスと会った後コスタリカのプエルト・リモンにマセオを訪れ会談.1週間にわたるホセの説得の結果,マセオも参戦を決意.新たに革命クラブが創立される。

7.07 ホセ・マルティ,サンホセを訪問.Pio Viquez(コスタリカの著名な文筆家)の歓迎を受ける.学生協会のもとめに応じ,サンホセ法学校で講演.演題は「(我らの)アメリカの将来と強力な外国の影響:ラテンアメリカ人民が発展・成長する上での条件」 

8月 ホセ・マルティ,ラモンE. ベタンセス(プエルトリコの医師兼革命家)の招きに応じフランス旅行を計画するが流産に終わる.

9.23 無政府主義者,アルセニオ・マルティネス・カンポスの暗殺をねらい,バルセロナの軍事パレードを襲撃.

9.14 アルゼンチンの駐米全権大使セバジョス,ブラジルとの紛争に対するクリーブランド大統領の調停に関して,文書の翻訳と評価を依頼.

9.29 モロッコ内のスペイン飛び地メリージャで紛争勃発.

10.05 フィラデルフィアでマルティを称えるレセプション.マルティはキューバ人と米国人を前に,「米国にはラテンアメリカの人々の善良さや犠牲に対する恐るべき無知が存在する」と語る.

10.06 マルティ、「パトリア」紙にアントニオ・マセオを賞賛する論文。

10.28 イスパノアメリカ文芸協会での講演.マルティはボリーバルを称える.

11.07 バルセロナのリセオ劇場で無政府主義者の仕掛けた爆弾が爆発.18人が死亡,負傷者多数.

11.28 マセオの母マリアーナ・グラハレス,ジャマイカ?で死去.享年85歳。前夫とのあいだに4人,故マルコスとのあいだにアントニオ,ホセをふくめ9人の子ども.「すべてのキューバ人居留者が、貴賎を問わず、異国の地に85歳の人生を終えたこの女性を、墓まで見送った。なぜならこの最愛の老婦人に恩義を感じないような、情け無しのキューバ人など存在しないからだ」(ホセ・マルティ)

93年12月

12.01 サンチアゴ当局,モンカダ,キンティン・バンデラスらを逮捕.

12.10 ホセ・マルティ,2週間にわたりフロリダのタンパ,カヨ・ウエソ,イボル・シティー,オカラ,ジャクソンビルを歴訪.

12.12 ホセ・マルティ,国内の反乱勢力に対し2月蜂起に備えよと指令を発する.

12.12 ホセ・マルティ、パトリア紙に、個人的思い出をふくむマリアーナ・グラハレスへの熱烈な追悼文を寄せる。

12.19 黒人指導者ファン・グアルベルト・ゴメス、「平等」(La Igualdad)で人種差別を糾弾。白黒とか優劣の考えは、後から作られた人工的なものに過ぎないと批判。「その肌の黒さにあなたは反発できるだろうか。もし、あなたが生まれてはじめてみるものが、深い愛情を込めた黒い乳母のまなざしであったとすれば…」

12 キーウエストのキューバ系会社で,労働者に首切り攻撃.これに反対するストライキ.経営者はスペイン総督と結託し,ハバナからスト破りを導入しようと計る.

93年末 各地の司令官が次々に決定.サンチアゴはモンカダ,マンサニーリョはマソー,ハバナはサンギリーとマヌエル・ガルシア・ポンセ,マタンサスはペドロ・ベタンクール,ラスビリャスはフランシスコ・カリーリョなど.革命党の国内指導はグアルベルト・ゴメスが担当し,各地に党組織を育成することとなる.

93年 黒人に白人と同等の市民権が付与される.

93年 この頃,キューバにおける砂糖モノカルチャーが完成する.キューバ産砂糖の95%以上が米国に向けて輸出される.いっぽう砂糖工場の所有者のうちキューバ人は2割を切る.

 

1894年

1.03 カヨ・ウエソの争議で労働者の援助を求められたホセ・マルティと革命党,米国弁護士ホレイショーS.ルーベンスに介入を依頼.ルーベンスは事件を財務省に提訴.外国人への契約労働法および米西間に結ばれたスペイン人保護協定に対する違反とする.勝利をかちとる.

1.27 ホセ・マルティ,「祖国」紙でハヨ・ウエソ事件を分析.スペイン人とアメリカ人の間で陰謀が仕組まれたと非難する.この闘いを機に革命党は労働者の側に大きくスタンスを踏み込む.

1月 「キューバへ」と題する「祖国」の英語版号外が配布される.

2 最高司令官ゴメス,カマグエイの反乱勢力が準備不足を訴えたため二月蜂起の日程を中止.サフラの終わるまで蜂起を延期.

3.03 ホセ・マルティ,ワシントンを訪問.カヨ・ウエソ裁判をたたかうルーベンス弁護士を支援.

4.10 ホセ・マルティ,キューバ革命党委員長に再選される.

4.13 アルゼンチン政府,ブラジルとの訴訟に対するホセ・マルティの尽力に対し,外相を通じて公式の感謝を送る.

4 ゴメス,ニューヨークに到着しホセと合流.フェルナンディナ作戦を立案.サンチェスとロロフが中部に,マセオとフロル・クロンベルトがオリエンテに上陸することとなる.

6.12 モンカダら,レイナ・メルセデス兵営の獄中から釈放.

6.05 ホセ,ふたたびコスタリカにマセオを訪問.2週間にわたり滞在しマセオの立起を促す.その後パナマ,ジャマイカでオルグ活動.

7.18 ホセ・マルティ、メキシコの首都に到着.各地でオルグ活動を展開.

8.01 ホセ・マルティ,大統領ポルフィリオ・ディアスとの会見.独立運動への支援を要請.

9.30 カマグエイの勢力,結局戦線離脱.ゴメスはカマグエイへの工作継続を断念.11月15日を期限として蜂起準備にとりかかるよう指令.ホセ・マルティはフェルナンディナ作戦を開始.作戦名は進攻部隊が出航するフロリダ州フェルナンディナに由来.三隻の快速艇が準備され,フェルナンディナからはカルロス・ロロフ,セラフィン・サンチェスら800名が,コスタリカからはマセオ,クロンベトら200名が,最後にサントドミンゴからはゴメスが乗り込む計画.

11.05 自由党政権で混乱.植民地相はブエナベントゥーラ・デ・アベルスーサに交代.自治権付与政策も後退.

11.17 コスタリカで演劇を鑑賞中のマセオが暗殺者に撃たれ、肩を負傷。

11.19 パラグアイ副大統領,ニューヨークでの領事活動に関しホセ・マルティに感謝の意を表する.

94年 スペイン,米国の進出に対する警戒を強め,関税障壁によりキューバに対し他国からの輸入を事実上禁止.通商条約を破棄.米国はスペインの差別関税強化に対する報復処置としてキューバ砂糖に対する特恵条項を廃止,40%の粗糖関税を復活させるウィルソン=ゴーマン関税法を採択.このため砂糖輸出は3分の2に減少し100万トンを超えた砂糖生産は激減.製糖工場の数も約400まで減少.キューバ経済は破綻,スペインの失政に対する不満強まる.当時世界第3位の生産量を誇ったコーヒー産業も,米国の経済制裁により壊滅.これに代わりエルサルバドル,ニカラグアなどが新興生産国となる.

 

1895年

95年1月

1.10 1月10日を期して反乱を開始するというフェルナンディナ作戦に応じ,ランチュエロとラハスで反乱が発生するが、いずれも失敗に終わる.反乱計画がスペイン当局に発覚.

1.14 スペイン政府の抗議を受けた米国は,フロリダ州フェルナンディナの港に停泊中の二隻のヨットを捜索し武器を押収.ボストンでも一隻を押収.三年間の努力で集めた5万8千ドルが水泡に帰す.

1月 ホセはただちに南部の労働者から5千ドルを追加徴収し,拿捕物資の買い戻しに奔走.ゴメスもサントドミンゴのユーロウ大統領から2千ドルの借款に成功.

1.29 ホセとゴメスにホセマリア・ロドリゲス将軍,国内司令部のエンリケ・コリャソ将軍,戦争開始命令に署名.開戦の期日についてはグアルベルト・ゴメスが指示することとなる.グアルベルトは各地の司令官と接触したうえ,2月24日を開戦日と決定.

1.30 ホセ・マルティ,ニューヨークを立ちフロリダに向かう.ホセ,エストラーダにフンタの指導をゆだねる.

1 スペイン,米国産品を他の諸国と同じ関税率に戻す.

95年2月

2.07 ホセ・マルティ,フォーチュン諸島・カパイシアンを経由して,モンテ・クリスティにわたる.当時ゴメスはモンテクリスティ郊外ラグナ・サルダのほとりレフォルマ農場に暮らしていた.

2.22 マセオ,ホセあてに武器・資金の割り当てを要求.ホセはこの要求に応えられず.軍資金の不足を理由に戦闘開始をためらったマセオは司令官の地位を外され,クロンベトがコスタリカ・チームの司令官となる.

2.24 革命党国内派はスペイン政府の弾圧強化を前に即時蜂起を主張.バイレの有力者サトゥルニーノ・ローラ,「独立か死か」を迫る「バイレの叫び」を発し蜂起.第二次独立戦争開始.バイレ蜂起はまもなく鎮圧されるが,ギジェルモ・モンカダはマヤリ北方のラ・ロンブリスで,ホセ・マセオはグアンタナモ,マソはバヤモで決起.ほかエルコブレ,バランカス,サンルイス,パルマ・ソリアーノなどで数千の農民が決起.

2月末 総督府はハバナで一斉摘発に乗り出し,西部反乱軍のサンギリー司令官とホセマリア・アギレ・デ・バルデス副司令官を逮捕.指導部を失った西部軍は戦闘開始前に総崩れとなる.

95年3月

3.7 ヘスス・ラビ将軍,バイレ近郊のロマ・デル・アヒで挙兵.グアンタナモ方面へ勢力を拡大.

3.10 スペイン,6千の増援部隊をキューバに派遣.

3.23 サガスタ政権崩壊.ふたたびカノバスが政権に就く.

3.25 ホセ・マルティ,ゴメスの了承を得てモンテ・クリスティ宣言発表.「今日,キューバはふたたび戦争を始める.この間キューバ人民ははいっそうたくましくなった.いまや,われわれの努力は,祖国と人民を自由の身にすることだけに向けられているのではない.カリブの島々の結び目であるキューバ,そのキューバの独立戦争は,西インド諸島を代表する英雄的行為である.それは米国とわれわれとのあいだに打ち建てられるべき公正な関係のために,また平等な世界を実現するために,まさに今なすべき歴史的任務である」

モンテクリスティ宣言の要旨: @戦争は野蛮なものであってはいけない,A黒人の参加は勝利のために不可欠のものである.黒人脅威論はスペインが意図的に流したデマに過ぎない,B非戦闘員のスペイン人は復讐や処罰の対象ではない,C敵対行動をとらない限り,個人の資産は尊重される,D革命は破壊ではなく,公正な新たな市民生活システムをもたらす.

3.25 マセオ,クロンベトの副官として戦闘に参加することを決意.弟ホセら30人とともにコスタリカを出発.

3.29 戦闘を恐れた船長,マセオらをバハマで下船させる.マセオらは米副領事ファリントンの援助を受け13トンのスクーナー船「名誉号」を入手.

3.31 マセオらを乗せた「名誉」号,バラコア北方に接近.二つのボートに分乗し,マセオ兄弟,クロンベトら15人が上陸.名誉号はその後嵐の中で座礁,乗組員一人が死亡.

95年4月

4.01 部隊は上陸地ドゥアバ川河口から森林地帯に入り,何日間かを歩き通した後独立派の住民と遭遇.スペイン軍捜索部隊が接近したため,マセオ,弟マセオ,クロンベトの三班に散開するが,クロンベトが待ち伏せに遭い殺害される.

4.01 ゴメス,ホセ,フランシスコ・ボレロ准将,アンヘル・ゲラ大佐,セサル・サラス,マルコス・デル・ロサリオの6人,モンテクリスティを出発.イギリス籍スクーナー船でグラン・イグアナに向かう.

4.03 サンホン協定を結んだマルティネス・カンポス,総督兼司令官としてふたたび着任.

4.05 グラン・イグアナ駐在のハイチ領事,一行のために偽名のパスポートを用意.一行はドイツ貨物船ノルドストランド号に乗りこむ.

4.08 マセオら,山中をさまよい歩いた末,ヘスス・ラビ旅団長の部隊に合流.マセオはオリエンテ全州の司令権を掌握したと布告を発する.

4.11 ホセ,ゴメスら6人を乗せたボート,夜半に英国船を離れ、嵐の中をカホバボ近くのプライータ海岸に上陸.

4.15 ホセ,ゴメスにより反乱軍少将の称号を受ける.

4.18 カーノバス,オリエンテの政情を鎮めるためカジェハ総督を更迭し,老マルティネス・カンポスを総督に指名,サンチアゴに派遣.

4.21 マセオ,「我々のモットーは“勝利か死か”である」とし、全てのキューバ人に武器をもって立ち上がるよう呼びかける.いっぽう全軍に対し「スパイは,スペイン人であろうとキューバ人であろうと,どのような位階にあろうと,摘発し次第無条件に即時処刑せよ」と指令.この呼びかけに応え,たちまちのうちに6千人が参加.

4.24 ホセとゴメス,グアンタナモ北方の山中でホセ・マセオの部隊数百人と合流.初の本格的戦闘に臨む.ホセとゴメスはマセオに会談を提起するが,マセオは当初,軍の編成が緊急優先課題としてこの提案を無視.

4.28 ゴメス、「革命に敵対する所有者の資産だけが破壊されるだろう」とするチラシを一斉配布。

95年5月

5.01 スペイン,兵員2,668名を新たに増派.

5.02 ニューヨーク・ヘラルド紙のジョージ・ユージン・ブライソンがホセ・マルティと会見.マルティは編集長あての声明文書を書く.「キューバは自由であることを願う。人がその運命を完全に実現するために、すべての人がここで働くために、そしてその富がアメリカの市場で自由に売られるために。キューバは世界に対して、みずからの尊厳を承認すること以上を求めるつもりはない」

5.03 マセオ,グアンタナモ北方で独立派の結集に成功.「十年戦争の犠牲者を忘れるな.恥知らずなカンポスが,またも甘言を弄しているが,これを信用してはならない」と檄を飛ばす.ホセらとの会談に合意したマセオは本陣ボクシー(Bocucy)で合流.

5.04 ホセとゴメスら,アントニオ・マセオとサンチアゴ北方のメホラナ精糖工場で三者会談.ホセが文民最高指導者,ゴメスが総司令官,マセオがオリエンテ州司令官となること,秋に制憲議会を召集することを決定.

メホラナでの議論: 独立達成後軍事独裁国家に移行する危険を恐れるホセは文民優位を強調.軍民指導者の会議を開催し政府を組織,軍事指導者を選挙すべきと主張.マセオは十年戦争の苦い経験から,戦争勝利までは軍事評議会が全権を掌握すべきと主張し対立する.結局三者が分担協力しあって戦争を勝利に導くことで合意.マセオは政府内の一切の公職を拒否。

5.09 ゴメス軍,カウト川にコントラマエストラ川が合流する地点ドス・リオスに陣を張る.

5.12 ゴメスらと別れグアンタナモ方面に進出したマセオ,スペイン軍のあいだに初の大規模な衝突.スペイン軍はシマンカ連隊長のボッシュ中佐が戦死するなど大きな損害を出す.

5.18 ドスリオスの陣にバルトロメ・マソの部隊が合流.これに対しサンチアゴからJose Ximenez de Sandoval大佐の率いるスペイン軍が進出.

5.18 ホセ・マルティの友人マヌエル・メルカードあての未完の書簡は,「いま私は祖国と自分の義務のために,日々生命を捧げる危険の中にいます.私の義務は時機を失せずキューバを独立させること.そして合衆国がアンティール列島に進出し,われらのアメリカに襲いかかるのを阻止することです.私のこれまでのすべて,そしてこれからのすべては,この目的のためにあります」

5.19 早朝,スペイン軍とのあいだで遭遇戦.ゴメスの指示をやぶり前線に乗り出したホセはスペイン兵の待ち伏せ射撃にあい射殺される.享年42歳。遺体はスペイン軍によりサンチアゴまで送られる.

5.19 ニューヨーク・ヘラルド紙,ホセ・マルティの「編集長あての手紙」を掲載.「我々はまず自由のためにたたかう.その後に米国との友好を提示する」

5.27 スペイン軍はホセの遺体をサンチアゴで確認した後,埋葬.

95年6月

6.01 スペイン,兵員 9.193 名を新たに増派.

6.12 クリーブランド大統領,キューバでの内戦に関し中立を宣言.臨時革命政府の承認を拒否.独立軍への武器流出を拒否するいっぽうで、スペインへ大量の武器・装備などを販売.アメリカ労働総同盟(AFL)は独立戦争を支持する決議.

6.17 カマグエイに進出したゴメス、アルタグラシアの町を攻撃し破壊。

6.20 ゴメス軍、サン・ヘロニモでマルティネス・カンポスの正規軍を攻撃、重大な被害を与える。

6.30 ゴメス、マセオに対し西方進出に備えるよう指示。マセオはオリエンテで2千2百の兵を結集することに成功.これを18の連隊に編成する.

95年7月

7初 ニューヨークのエストラーダ革命党代表,「共和国政府」樹立に向け準備を開始すると発表.

7.10 ゴメス,マセオら,戦争継続の意志を固める.マセオはオリエンテ,ゴメスはカマグエイで作戦を展開することとなる.ゴメスの名で農民に対し砂糖キビ農場での労働を中止するよう訴える.

7.12 マセオ軍7千名,マンサニーヨ近郊のペラレホ(パラレホ?)草原で,カンポスの率いるスペイン軍部隊400の隊列を奇襲,白兵戦となる.この間に反乱軍にはマソーの勢力が参加,スペイン軍からはサントルシデス(Santolcides)将軍が千名の援軍を率い参加.5時間にわたる激戦が展開される.この闘いでサントルシデスが戦死.マバイ河畔まで追いつめられたスペイン軍とカンポスは.軍装を投げ捨てかろうじて川を渡り,バヤモに逃げ込む.

7.24 サンチェス,ロロフ,ロドリゲスらラスビリャスに上陸.カリスト・ガルシアはオリエンテに上陸.

7.26 オリエンテで軍事的支配を確立したマセオ,「共和国政府」樹立に積極的に乗り出す.ゴメス宛に近く自らの新聞「自由キューバ」を発刊予定であり,そこに「オリエンテの2万五千の武装した人民,その21の連隊を代表して制憲会議へ出席する5人の代表」を発表すると通知.

7月 ハバナ駐在のロシア領事デ・トルフィン、「名将マルティネス・カンポスの疲れを知らない努力と、首都からもたらされた3万の増援部隊にもかかわらず、反乱はさらに拡大している。近く本国からの増援部隊1万が到着予定だが、総督はさらに2万5千の増派を求めている」と報告。

95年8月

8 スペインから2万7千の第3次補充兵が到着.まもなくその2割が熱病に罹患,戦闘不能となる.戦闘技術も稚拙で,スペイン兵4人が反乱軍兵士1名の戦闘能力にもおよばないとの評価を受ける.

8.30 マセオ,サオ・デル・インディオで敵に包囲されたホセ・マセオを救出するため出動.9時間の激戦の末,包囲を突破.ホセ・マセオもふたたび闘いを開始,36時間の激戦の末脱出に成功.3日間の闘いでスペイン軍兵士百名と将官8名が戦死,他に2百の負傷者.味方にも89人の犠牲者を出し,しばらくのあいだ弾薬の不足から戦闘継続が不可能となる.スペイン側はマセオが重大な被害を蒙り戦闘力を失ったと宣伝.

95年9月

9.06 サルバドール・シスネロス・ベタンクール、マセオへの手紙で大統領就任への支持を要請。交換条件として政府高官のポストを提供すると示唆。

9.12 マセオの返書。「私の気質を忘れないでほしい。私はこれまでポストを望んだことはなかったし、そのようなことに強く反対してきた」と述べる。

9.13 ヒマグアユで憲法制定会議開催.オリエンテ、カマグエイ、ラスビリャスの反乱軍指導者20人が結集し共和国成立を宣言.内閣の人選にはいる.

9.16 「キューバ共和国憲法」を採択.マセオらの強い要請を受けた議会・政府は,軍事作戦には干渉しないという原則を確認.ゴメス=マセオ・ブロックの反乱軍内における優位性が確定.

9.18 制憲議会,シスネロスを大統領に,マソを副大統領に,ロロフを軍事長官に,ゴンサロ・ケサダを駐米代表に選出.エストラーダはワシントンにおける反乱軍代表に選出される.エストラーダは米国内で革命党執行委員会を組織.キューバ支持の世論を盛り上げるとともに,内戦状態を承認するよう米議会に働きかけを強める.ニューヨークの銀行家サミュエル・ジェネイとともにスペインと交渉.1億5千万ドルと引き替えに島を譲渡するよう提案.

9.22 マセオは、エストラダ・パルマに1万ドルの銀行為替手形を送り、武器と弾薬の調達をもとめる。

95年10月

10.10 グリート・デ・ヤラの記念日。マヌエル・サンギリはニューヨークで講演。マセオを「青銅の巨人」とたたえる。

10 ホセ・マリア・ロドリゲス将軍,シエンフエゴスで独立派軍団300名を組織.カマグエイでゲリラ活動開始.

10.22 騎兵1500,歩兵700からなるマセオ軍,マンゴス・デ・バラグアを出発.西部進撃'la invasion del oeste'を開始.ホセ・マセオ,カリストらの東部軍がオリエンテに残留.

10.27 マセオの部隊は、ペスタンに到着する。

10.30 マセオは、エストラダ・パルマに手紙。「全力を尽くし、できるだけ早く、依頼した武器と・装備を送れ」と督励。

95年11月

11.06 ゴメス、「すべての農場を完全に破壊せよ」との新たな命令を公布。

11.08 マセオ軍,ほとんど抵抗を受けないままホダボ川をわたりカマグエイにはいる.

11.10 ホセ・マリア・ロドリゲスの部隊がマセオ軍に合流.

11.21 マセオ、米国のマヌエル・サンギリあてに書簡。「我々は新政府の樹立においてあまり幸運とはいえなかった」と批判。

11.29 マセオ軍,カマグエイ州ラサロ・ロペスで、いったんゴメス軍と合流。この後,総勢2600人がフカロ=モロン間の防禦線(トローチャ)をわたる.

95年12月

12.03 反乱軍主力、ハティボニコ川を渡りラスビリャスに入る。ゴメスはイグアラ近くのスペイン軍補給部隊に奇襲攻撃を計画する。スペイン軍はゴメスの策略を見抜き、全面戦に持ち込むが大敗。反乱軍側にも多くの犠牲者を出す。

12.10 マナカル高地の激戦、3日間にわたり続く。反乱軍は西方に移動、スペイン軍が追走する形となる。

12.13 スペイン軍の強力な砲火により反乱軍は後退。しんがりを勤めるマセオ軍が敵に接近戦を挑む。午後遅くまで砲弾を打ち尽くしたスペイン軍は基地に戻る。

12.13 ゴメス、弾薬の不足からこれ以上の西進をストップする提案。マセオはこれに猛反対し、「たとえマチェーテのみでも」、西進を継続せよと主張する。

12.15 マル・ティエンポの闘い.スペイン軍は大敗し潰走.この闘いでカマグエイの部隊が奮戦.

12.20 マセオ軍,アナバニージャ(Hanabanilla)川を渡りマタンサス州にはいる.ゴメスの軍,ペラレホでスペイン軍を撃破.さらにサンタクララ州を西に進む。

12.23 マセオ軍、コリセオで政府軍と激戦を繰り広げる。敗れたスペイン軍はハバナ市内に逃げ込む.マセオ軍も何人かの将校を失い、マセオの馬も打たれる激戦。反乱軍はいったん撤退し態勢を立て直す。

12.27 マセオ軍、「偽りの退却」作戦を展開。マタンサスからラスビリャスまで軍を移動。スペイン軍を迂回しつつ再進出を狙う。

12.29 ゴメス軍、カリメテで政府軍と激突。スペイン軍は850人が殲滅される。

12月 年末までに正規兵98,412人がスペインから到着。島内で集められた志願兵は63,000人まで増加する。

 

1896年

96年1月

1.01 マルティネス・カンポス総督は反乱軍の活動を軽視。すでに撃退され東部に戻ったとハバナに報告。政府系新聞ディアリオ・デ・ラ・マリーナはこれを大々的に報道。

1.01 マセオ軍とマセオ軍,マタンサス州を席巻した後ハバナ州内に進出.この時点でハバナ,マタンサス,サンチアゴなどの都市を除く全土が反乱軍の影響下にはいる.反乱を恐れる農民はハバナに逃げ込み、ハバナはパニック状態となる。

1.03 カンポス、スペイン政府に手紙。「敵は、南と北からハバナを目指して進み続けている。ハバナから29キロのサンホセ・デ・ラス・ラハスには分離主義者が集結しつつある。もうひとつの暴動勢力はバタバノから遠くないメレナ・デル・スールにも集結している。彼らは鉄道駅を燃やし、すべてのものを破壊している」

1.06 反乱軍、ベレダ・ヌエバに入る。反乱軍は「自由キューバ万歳!マセオ万歳!」の声で迎えられる。

1.07 マルティネス・カンポス総督、辞意を表明。サバス・マリンが代理総督に就任。新総督はスペイン政府に反乱軍との交渉開始を説くが,キューバ死守を図る本国はウェイレルを次期総督に指名。

バリリアノ・ウェイレル・イ・ニコラウ: ウェイレルはカナリア諸島でドイツ系移民の子として生まれた.モロッコで軍人としての戦功をあげ、テネリフェ侯に列せられていた.その治世は苛烈さをもって知られていた。

1.07 ラスビリャス州サンフアンでマセオ軍とゴメス軍が合流.ゴメスとマセオが、今後の戦略について検討。ゴメスがハバナ戦線を維持する一方、マセオがこの間にピナル・デル・リオまで達することで合意.

1.08 マセオ軍,カバーナスを経由してトローチャスを横断、ピナル州にはいる.

1.10 ゴメス軍、ハバナ包囲を狙うランサデーラ作戦を開始.「反乱軍は、平和的な住民と農業を尊重する」と明らかにしたチラシを配布。

1.14 マセオ軍,カバーナスからバイア・オンダに向かい,ガルシア・ナバロ将軍の部隊を一蹴.ピナルでは新たに千名の志願兵が結集.

1.22 マセオ,部下5百人を従えキューバ縦断.キューバ西端の街マントゥアに達する.マントゥアでは街をあげてマセオを歓迎.

1.24 スペインは大都市のみを維持.カノバス・デル・カスティージョ首相は「最後の一兵まで,最後のペセタまで」犠牲にしてもキューバを守り抜けと叱咤.ゴメスはマタンサス全域を焦土化する作戦を展開.カリスト,ニューヨークで兵を募りオリエンテ上陸.マタンサス出身のペドロ・ベタンクールも兵を引き連れ参加.

1.27 マセオ,スター紙に手紙を送りゴメスとの不仲説を否定.ゴメスこそが「武装勢力の首領」であると強調.マセオはピナル州の確保が決定的に考え,州都ピナルの街の近くに防衛線を張り,スペイン軍の反攻に備える.

96年2月

2.10 ウェイレル,ハバナに到着.マルティネス・カンポスに代わり総督に就任.マセオ軍の破壊に当面の力を集中。

2.11 ウェイレル将軍,戒厳令を全土に公布.戦争裁判所を作り,多くの独立運動家を処刑.

2.16 ウェイレル,最初の集中村(reconcentracion)作戦を指令.スペイン兵2万余りとボルンタリオの部隊を率いハバナの包囲を突破.ラスベガスの戦いで反乱軍を撃破.ゴメス軍はラスビリャスまで後退.

集中村作戦: 作戦地域の住民は、8日のうちにスペイン軍の支配する町への移住を強制される。これに従わないものは反乱支持者として殺害される。

2.19 ゴメスとマセオ、ソトで会見。ウェイレルの集中村作戦への対応方針について議論する。

2.21 ウェイレル,反乱軍をカマグエイ州オホ・デ・アグアまで追撃し叩く.

2.28 米上院,キューバを内戦状態にあると認定.反乱軍の承認とキューバ独立を求めるジョン・モルガン/ドナルド・キャメロンの決議案を圧倒的多数で採択し大統領に要請.クリーブランド大統領に対応を迫る.3月2日には下院でも同様の決議.

96年3月

3.05 マセオ、マタンサス州に入り、敵部隊に対するかく乱作戦を展開。

3.10 マセオは、エル・ガレオンでゴメス軍に合流する。その後、ゴメスに中央部の作戦を任せ、ふたたびピナルへ移動。

3.15 ハバナ周辺の治安を確保したウェイレル,当面の敵をマセオと判断.ピナル州に進出.

3.16 豪雨のため休止中のマセオ部隊,敵に発覚し奇襲攻撃を受ける.延べ三日にわたる激戦ののち,かろうじて撤退に成功.マセオは敵に後ろを見せたキンティン・バンデラスらの将校に厳重処分.

3.20 エル・ルビの戦い。マセオの部隊は、弾薬の不足にもかかわらず敵部隊を撃退。

96年4月

4.01 スペインで総選挙.保守党が議会を抑える.

4.07 リチャード・オルネイ国務長官,両者の紛争を調停する用意があると声明.スペイン大使エンリケ・デュプイ・デ・ロメと会談にはいる.米国の示した調停案はスペイン支配の継続と自治政府の樹立を柱とする.

4 雨期に入りピナル州の力関係は膠着状態となる.マセオ軍はタピア山地を確保し平野部の諸地点に攻撃をくり返す.スペイン軍はスアレス・インクラン将軍の率いる1千名の部隊が掃討作戦を展開。

5 マセオは,スペイン派の地主に対する焦土作戦を打ち出す.コンペティター号が米国から潜入、武器・資材を持ち込む。また中央戦線からフアン・ドゥカセ大佐の率いる増援部隊が弾薬1千発とともに到着。

5.10頃 カカラヒカラ(Cacarajicara)の戦い。掃討軍戦力は170名にまで減少し、撤退を余儀なくされる。この戦いでスアレス・インクラン将軍も負傷.

5.23 マセオ、コンソラシオン・デル・スールの要塞化された町を攻撃し、焼き払う。

5.25 マセオ軍、ピナル州最高司令官バルデス将軍の軍と対戦し、これを撃破。

96年6月

6.06 ハバナのロンドンタイムズ通信員チャールズ・エイカーズ、「ウェイレルは17万5千の兵、無限の兵器、美しい天候、病気ひとつ発生しない部隊、一言で言えばすべてが彼に味方したとしても、叛徒を破ることができないだろう」と述べる。

6.19 ゴンサレス・ムニョス将軍の指揮の下、6個師団,4つの砲兵隊からなるスペイン軍掃討部隊が,ピナル州に進出.サン・ガブリエル・デ・ロンベーリョでマセオ軍部隊を攻撃。

6.23 ブラマレスからシエラ・ルビにかけて反乱軍基地は徹底的に破壊される.ディアス,バンデラ,デルガドなどの将軍が戦死。

6.24 サン・ガブリエル・デ・ロンベーリョの戦いは反乱軍の全面的な敗北に終わる。マセオも足の骨を打ち砕かれる重傷を負うが,かろうじてロサリオ山地の隠れ家に逃げ込む.

6.27 ゴメス,ホセ・マセオやマイア・ロドリゲスらを差し置いてカリスト・ガルシアをオリエンテ司令官に任命.

6月 マセオ、ペルフェクト・ラコストあての手紙で、米国とスペインの協議を批判。「彼らはどんな協定でも結ぶことができる。しかしまもなくキューバは自由になり、そのような交渉を笑い飛ばすことができるだろう」

6 スペイン政府,米国の調停案を最終的に拒否.

96年7月

7.01 ホセ・マセオ、オリエンテ州反乱軍司令官を辞任。カリスト・ガルシアにポストを引き渡す。後にこれを知ったマセオは、ゴメスの決定を「十年戦争の時と同じ肩書き主義」と批判.

7.05 ホセ・マセオの部隊,オルギン近くのロマ・デ・ガトで,バラ・デル・レイ大佐の率いるバヤモ方面軍と戦い壊滅.ホセ・マセオは戦死.

7.26 フィリピンのアンドレ・ボニファシオ,武力解放を目指す「祖国の友協会」(KATIPUNAN)結成.を結成.「バリンタワクの叫び」を発す.

7.28 反乱軍議会,共和国憲法を採択.

96年8月

8.07 作曲家エルネスト・レクオナ、グアナバコアで生まれる。

8.09 英政府, キューバにおけるスペインの方針を支持しないと表明.

8.11 反乱軍, バネスのバナナ農場を焼打ち.デュモアは米国に移り住み, アンドリュー・プレストンらとボストン果実会社を創設.

8.25 マセオ,新たに遠征隊を編成.負傷中の自らに代わる指揮官としてフアン・リウス・リベラ准将(白人)を指名.

9.18 反乱軍のフランシスコ・レジェテ・ビダール大佐、ハバナを迂回しマセオ軍に合流。50万発の弾薬、1000丁のライフル、2000ポンドのダイナマイト、大砲一門と砲弾100発、米国人の砲手2人を持ち込む。この部隊にはマシモ・ゴメスの息子フランシスコ・ゴメス・トロ(愛称パンチート)が同行。その後マセオと行動をともにする。同時にホセ・マセオ戦士の報ももたらされる。

9.23 マセオ軍、モンテスエロでスペイン軍の攻撃を受ける。2日間の戦いで撃退に成功するが反乱軍にも68人の犠牲者を出す。

9.25 マセオ軍、スペイン軍を追撃。トゥンバス・デ・エストリーノの戦いで撃破する。

96年10月

10.01 マセオ軍、セハ・デル・ネグロでスペイン軍の三つの部隊に包囲される。3日間の戦いでスペイン軍を撃退するが、マセオ軍も277人の犠牲者を出す。マセオ直属の兵力はわずか200人に減少。

10.10 ウェイレル,ピナル州に21万8千のスペイン軍正規兵,9万の民兵,数千の私兵集団を挙げて乾期攻勢をかける決定.攻撃を前に「集中令」を発表.

集中令(Bando de Reconcentracion): (1)市外の住民は8日以内に街に移住すること.これに従わないものは反乱者とみなし,そのように扱う.(2)街を許可なく出るもの,街のあいだを移動するものは反乱者とみなす.(3)放牧中の家畜は街の近くに移動させること.(4)この間に出頭した反乱軍兵士には恩赦が与えられる.(5)この法令はピナル州に限定して施行される.農民はスペイン軍の支配する市街地に集められ,小屋にすし詰めにされた.食料不足から免れるため,彼らは道端で物乞いし飢え死にを防いだ.女性,子供,老人たちが主な犠牲者だった.毎朝道路には遺骸が散らばっていた.

10.21 マセオ,アローラ将軍が陣取るアルテミサ近くのリネア要塞に夜襲をかける.

10.27 マセオ、サン・クリストバルに兵士を集め演説。「勇気を奮い起こし、独立を勝ち取るために必要などんな犠牲でも払う覚悟をセよ」と呼びかける。

10.29 エル・ロブレに達したマセオ、カマグエイに戻るよう要請したゴメスの手紙を受け取る.またゴメスが反乱軍総司令官の地位をはずされたことを知る。

96年11月

11.01 マセオ,この時点で東部への突入を決意.

11.09 ウェイレル,ハバナ港を出発.翌日にはマリエル港に上陸.5個師団,砲兵6部隊,プリンシペ師団の騎兵400などを合わせて6千の軍勢.6日間でマセオ軍をせん滅すると豪語.

11.10 数日間におよびタピア渓谷のシエラ・ルビをめぐる攻防戦.守備隊長リベラは兵士77人を失うなど甚大な被害を出しながら、要地の確保に成功.

11.25 マセオ、トローチャ突破のための作戦を検討するが、結論は得られず。

96年12月

12.03 マセオ,マリエル近郊で暴風雨をついて行進中の敵部隊を襲撃.甚大な被害を与える.

12.04 東部を目指すマセオ,17人の兵士とともにマリエル港から小舟で海に出て、トローチャを突破。

12.05 マセオ、スペイン軍の目をかいくぐりハバナ州に潜入.ラ・メルセデスの製糖工場跡にいったん避難。

12.06 マセオ、ガロの製糖工場に移り、連絡を待つ。

12.07 クリーブランド,これまでの完全中立政策から,独立側支持に態度を変える.もしこのまま内乱が続くなら米国はこれに干渉する可能性があると警告.ハニス・テイラー特使をマドリードに派遣.カノバス首相に自治権承認を迫るが,スペインはこれを拒否.

12.08 マセオ,サンチェス・フィゲレスの指揮するハバナの反乱軍部隊との接触を求めマリアナオに向かう.マリアナオ近郊プンタ・ブラーバの反乱軍拠点サン・ペドロ・デ・エルナンデスに達する.マセオの求めに応じ450人の兵士が結集.

12.09 マセオの死: プンタ・ブラーバ潜伏中のマセオ,夜襲にあう.少数で逃亡をはかるが射殺される.フランシスコ・ゴメスは,遺体の傍らで自ら命を絶つ.二人はサンチァゴ・デ・ラス・ヴェガスのカカウアルに葬られる。

12月 マセオの死により西部戦線崩壊.ゴメスのラス・ビリャス軍と,キンティン・バンデラスらのマタンサス軍,カリストのオリエンテ軍が抵抗を継続.戦闘は膠着状態にはいる.ウェイレルはハバナの自治主義党に弾圧.中央委員の一人アルフレド・サヤスは逃れて反乱軍に参加.

12.21 フィリピンの革命家ホセ・リサール,処刑される.

12 ピナル・デル・リオから始まった集合村作戦が全国に広がる.

集合村作戦: 全土で非戦闘員40万人を隔離収容.そのうち32万人が飢餓と疫病で死亡したといわれる.これは総人口の2割に達する.島の西部での死者がその85%を占めていた.ハバナ州だけで10万人が収容され,劣悪な生活環境のなかでその半数以上が死亡.

 

1897年

97年1月

1 ウェイレル,4万の兵を投入しラスビリャス制圧作戦に乗り出す.ゴメスは4千の手兵を率い3カ月にわたりウェイレルの攻撃に耐え抜く.

1.19 ニューヨーク・ジャーナル(ハースト系)とニューヨーク・ワールド(ピューリッツァー系)の両紙,独立運動家アドルフォ・ロドリゲスの処刑を大々的に取り上げ,反スペイン感情を煽る.

2.05 カノバス,キューバに制限付きの自治権を与える声明を発表.

2.07 リカルド・ルイス医師がハバナ市内の自宅で、列車強盗作戦に参加したとして逮捕される。彼はキューバ生まれで米国に帰化していた。ルイスは10日後に刑務所内の独房で殺害された。ニューヨーク・ワールドとニューヨーク・ジャーナルはこの事件を大々的に取り上げる。

2.09 ゴメス、米国の支援を求めクリーブランド米大統領に手紙を送る。

3.24 プエルトリコの独立派,ヤウコの町で蜂起.

97年3月

3.04 ウィリアム・マッキンレー,大統領に就任.

97年5月

5.10 ボニファシオ,逮捕され処刑される.後継者にエミリオ・アギナルド・イ・ファミ.当局と交渉の結果,40万ペソと引き替えに香港への出国に同意.香港で再決起に備えることとなる.

5 ウェイレル,ラスビリャス制圧作戦を断念.この間にオリエンテのカリスト・ガルシアはヒグアニにつづきラストゥナスを占拠.ライフル千挺と弾薬百万発を獲得.グアルベルト・ゴメス,イバラで反乱を試みるも発覚,米国に亡命.

6.26 米国務省,キューバにおけるスペイン軍の行為を批判する覚え書きを送る.

8.08 スペイン本国政府のアントニオ・カノバス・デル・カスティージョ首相,サンタ・アゲーダで暗殺される.犯人はミゲル・アンヒオリージョというイタリア人無政府主義者で,カタロニア無政府主義者の大量処刑に対する報復を唱える.その後の調査で,パリ在住のキューバ人から資金の援助を受けていたという.

97年9月

9.05 ラスビリャス州ヤラで反乱軍議会開催.完全独立を柱とする和解案を提案.

9.13 シスネロス大統領退陣.これに代わりバルトロメ・マソー副大統領が昇任.副大統領にはドミンゴ・メンデス・カポテが就任。

97年10月

10.02 カノバスに代わり自由党のプラセデス・マテオ・サガスタが首相に返り咲く.最大の後ろ盾を失ったウェイレルの立場が弱まる.米国だけでなくスペイン本国でもウェイレル将軍の残虐行為に対する憤激高まる.

10.08 反乱軍幹部のエバンヘリナ・シスネロス,ピノス島の監獄から脱走に成功.米国のマスコミは救出劇をつぶさに報告.

10.09 サガスタ,対キューバ宥和政策に転換.ウェイレルの更迭を決定.ラモン・ブランコ・イ・エレーナス将軍を後任に据える.

10.31 ラモン・ブランコ将軍が和平を命じられ赴任.キューバを直轄県とし, 98年3月に選挙を行うむね提案.実際の有権者はキューバ人の1/4にかぎられる.ハバナの改良主義者と自治政府を再建するが,独立軍は承認を拒否.

97年11月

11.6 スペイン政府,キューバ人政治囚への大赦を宣言.

11.22 モレー海外相,勅令(自治憲章)を発表.アンティージャス(キューバとプエルトリコ)在住のスペイン人に本国人と同等の政治的権利を与え,コルテス議員選挙における普通選挙権を付与.またプエルトリコに対しては二院制の立法院を設立するなど大幅な自治を認める.

11.25 ブランコ総督,キューバを本土並の州に昇格させること,98年3月に選挙を実施することを柱とする和平案提案.ただし選挙権を与えられるのはキューバ人の1/4のみ.

11.30 カリスト・ガルシアのオリエンテ軍,ギサの町を確保.

97年12月

12.06 マッキンレイ大統領,年次教書を発表.集中村作戦を非難.これを続けるなら武力干渉も辞さないと声明.いっぽうで,キューバを内戦状態にはないとし,スペイン軍の残虐行為についても無視.キューバ独立を認めることを拒否する。

12.14 フィリピンで独立軍とのあいだに休戦協定成立.

12.24 ブレッケンリッジ(J.C.Breckenridge)国防次官,ハワイ,キューバ,プエルトリコの支配構想を述べた「ブレッケンリッジ・メモ」を陸軍司令官ネルソン・マイルズ中将に提出.

12月 この時点で島内のスペイン軍兵力は240,000人。このほかに約6万の民兵。

97年 米国の好景気に支えられ,島の西半分では好況が続く.米国の砂糖消費量は1861年の6倍にあたる250万トンに達し,キューバへの資本投下額は年間5千万ドルに上る.

 

1898年

98年1月

1.1 キューバ自治政府,ブランコの肝いりで機能再開.Jos・Mar} G疝vezが議長に就任.反乱軍との戦闘の前面に立っていたボルンタリオはこの措置に反発.ヒマグアユ議会,完全独立以外の妥協はありえないとしてブランコ提案を拒否.この時点で解放軍は国土の約半分を制圧,戦略村は有名無実化する.

1.12 自治政府に反対する王党派が総督府の妥協的態度を糾弾し暴動開始.ハバナ市内で反乱.

1.15 マッキンレイ,「在留米人1万2千の安全を守るため」当時米海軍最大の戦艦メイン号をハバナに派遣することを決定.ハースト紙はマッキンレイを侮辱する内容のカナレハスの手紙を公表.

1.24 ハバナ反動派の暴動により市内は無政府状態となる.ハバナ駐在の米領事は在留民保護のため海軍の緊急出動を要請.

1.25 24人の士官と331名の兵士を載せた二級戦艦メイン号が友好親善を口実にハバナ港沖合いに姿をあらわす.予告無しの入港にスペイン政府は抗議.不測の事態に備え乗員は船上待機を指示される.

98年2月

2.2 米大統領の内政干渉を批判したワシントン駐在スペイン公使エンリケ・デュプイ・デ・ロメの手紙,キューバ革命党の手に渡る.革命党は情報をジャーナリズムに流す.

2.9 ニューヨーク・ジャーナル,スペイン公使の手紙を公表.マッキンレー大統領に対する侮辱とされ,米国内で大問題となる.サガスタ首相は直ちに公使を召還.マッキンレーは戦争を防ぐにはスペインが反乱軍との対話を行うことが必要と強調.

2.12 スペインの新政策に基づき,プエルトリコに自治政府樹立.総督は軍事・外交を除く内政に干渉できないことになる.

2.12 マキシモ・ゴメス,自治主義者のグループに対し反スペインの共同努力を呼びかける.

2.14 ルイス・ポロ・デ・ベルナボ,新しいワシントン駐在大使に任命される.

2.15 午後9時40分ハバナ停泊中のメイン号,謎の爆発.そのまま沈没.兵員,船員260名が死亡.

2.16 セオドア・ルーズベルト海軍次官補(のちの大統領),米艦船をハバナに送り込むため最大の努力を行うと述べる.ハーストなどイエロー・ジャーナリズムは「メイン号を忘れるな!」と一斉に戦争を扇動.これを機に開戦論高まる.

2.20 サンプソン提督を団長とする現地調査団が出発.スペイン側との共同調査を一切拒否.

2.25 セオドア・ルーズベルト,海軍に厳戒態勢に入るよう指令。香港駐留中のデューイ提督指揮の米極東艦隊にマニラ攻撃準備を独断で指令.

98年3月

3.4 カディスでキューバに派遣する艦隊の編成が始まる.

3.9 スペイン政府,ハバナ駐在総領事フィッツヒュー・リーの召還を要求.米政府はこれを拒否

3.9 下院,軍備増強のための予算5千万ドルの起債を承認.

3.13 マハグアの戦い.ゴメス軍はスペイン軍の攻撃を打破.

3.13 ドン・フェルナンド・ビジャーミル海軍大佐の率いるスペイン艦隊, カディスを出発.カポ・ベルデに寄港した後カリブ海を目指す.

3.17 レッドフィールド・プロクター上院議員, 集中キャンプを視察した後上院で報告.開戦に踏み切るよう主張.

3.19 戦艦オレゴン,桑港を出港し,ホーン岬経由でカリブ海入りを目指す.

3.20 スペイン軍,高まる国際世論を前に戦略村を解放する.ブランコはゴメスに向け米国の侵略を阻止するため共同しようと呼びかける.ゴメス,ブランコの共同提案をただちに拒否.

3.21 サンプソン調査団, 爆発の原因は船底に仕掛けられた爆弾によるものと断定.機関庫の暴発は石炭が空だったことから否定,竜骨が上に向かって曲がっていた事から船底の機雷による爆発だったとする.スペイン側の内部爆発説と真っ向から対決.

3.28 調査団の告発を受けた米海軍海難審判所,メイン号の沈没が水雷によるものであったと結論.スペインの関与の疑いをにじませる.

3.29 米政府,メイン号撃沈の原因はスペインにありとし,賠償と即時休戦を求める最後通牒.

98年4月  米西戦争開始

4.1 スペインはこれを拒否.欧州列強は交渉継続を求める共同覚書.エストラーダらは開戦決議を採択させるため4千万ドルを投じてロビー活動を展開.

4.2 J.P.キハノ大佐の指揮する反乱軍,チャンバスの闘いでスペイン軍を撃破.

4.4 ニューヨーク・ジャーナル,一刻も早く米国がキューバの戦いに参加するよう訴える号外を発行.

4.5 フィッツヒュー・リー総領事,訓令を受けるため本国に召還.

4.8 スペインの武装巡洋艦インファンタ・マリア・テレサ号とクリストバル・コロン号,退役提督パスクアル・セルベラ・イ・トペテに率いられカディスを出航.

4.10 スペイン政府,マッキンレイの要求に応じ休戦を命じる.ブランコ総督,キューバ全土で停戦を指示.

4.11 マッキンレー大統領,欧州列強の声を無視.議会に対し対スペイン宣戦の是非を問う戦争教書を送付.「キューバにおける米国の商業,貿易と,米国人の財産は破壊されつつある.われわれは介入しなければならない」

4.12 J.P.キハーノ大佐の指揮する反乱軍,モロン近郊チャンバスの戦いでスペイン軍を撃破.

4.12 ホアキン・バラ・デル・レイ・イ・ルビオ准将,サンチアゴで軍務に復帰.予想される米国との対決に備え,軍再編に取り組む.

4.13 米議会,マッキンレイ大統領のキューバ干渉要請を受諾.スペイン政府,米議会の決定は内政干渉であると声明.

4.15 ブランコ総督,ハバナで軍事評議会を召集.サンチアゴ付近に戦力を集中することを決定.オリエンテ各地の将軍は反乱軍の攻勢を前に出席できず.

4.19 下院は311票対6票,上院では42対35票で合同決議案を採択.決議の実行にあたり軍事力の行使権を大統領に与える.「@キューバの住民は当然自由であり,独立すべきである.Aスペイン政府はただちにキューバの主権と政権を放棄し,その陸・海軍をキューバの陸と海から引き揚げるようにするのが合衆国の義務である.B大統領はこれらの決議の実践に必要な範囲で,全陸・海軍を投入し,若干の州の民兵を召集して軍務につかせることが出来るように,しかるべき権限を付与されるべきである」

4.19 これに付帯してヘンリー・ムア・テラー上院議員の提案になる決議も採択.「同島の行政および管理はその国民に委ねられるべきである.これによって,合衆国は,キューバの秩序維持以外の目的をもっては同島に宗主権や行政権,管理権を行使する意志や意図をもたない.それ故,平和が回復され次第,合衆国は同島の支配,管理権を住民に返還する決意である(テラー付帯決議)」とする.

4.19 セルベラ提督の率いるスペイン艦隊がカディスを出港.キューバに向かう.

4.20 マッキンレイ,合同決議に署名.スペインに対する最後通牒を手交.スペイン大使ポロ・デ・ベルナベは国外退去.

4.20 アンドリュー・サマーズ・ロワン,カリスト・ガルシアと接触し地図,情報,協力すべき反乱軍幹部名簿などの提供を受ける.

4.21 スペイン,米議会決議を事実上の宣戦布告と受け止め米国との外交関係を断絶.ウッドフォード大使に国外退去を求める.

4.21 マッキンレイ,断交と同時にキューバ封鎖を指令.ハバナ港を機雷封鎖.キューバ駐留のスペイン軍は,米国と交戦状態に入ったとの宣言を全土に公布.

4.22 サンプソン提督の率いる北大西洋艦隊,キーウェストを出航.キューバ北岸およびシエンフエゴスの海上封鎖に赴く.

4.22 カディスを出航したパスクアル・セルベラ提督指揮のスペイン本国艦隊,カポベルデに入港.

4.23 サンプソン提督,ハバナ港の封鎖に成功.

4.23 戦時動員法制定.6万5千からなる正規軍編成を承認.マッキンレイ,志願兵12万5千を募集すると発表.後に20万まで拡大.

4.23 スペイン,米国と交戦状態にあることを確認.スペイン海軍は最高会議を開催.船舶も物資も米国には太刀打ちできないと報告.セルベラ提督はこの闘いでスペイン海軍は崩壊するだろうと予言.

4.24 スペインのセギスムンド・ベルメホ国防相,カポベルデで侍命中のセルベラに対しキューバへ向け出航するよう指令.

4.24 パンド将軍と自治主義者からなるハバナ代表団が,反乱軍議会の置かれたサンタクルス・デル・スルを訪ね停戦交渉に入る.

4.24 米艦船,スペイン商船サトゥルニーノ,カタリーナなどを相次いで捕獲.スペイン軍は封鎖の及ばないサンチアゴに向けて主力を移動.米艦船の襲来に備えグアンタナモ湾に機雷敷設.

4.25 マッキンレー大統領、スペインに正式に宣戦布告.上下両院合同会議はこれを受け,21日以降スペインと戦争状態に入ったとする決議を採択.

4.26 在米革命党の使節,カリスト・ガルシア・イニゲスと接触.カリスト・ガルシアはスペイン軍が町を次々と放棄し,反乱軍が占領しつつあると報告.

4.27 ジョージ・デューイ准将の率いる米艦隊,アギナルドを伴い香港を出発.

4.27 監視船ピューリタン,武装巡洋艦ニューヨーク,シンシナティがマタンサス湾のスペイン要塞を砲撃.反乱軍はサンルイス近郊のラ・コンスティトゥシオンとパルマ・ソリアーノでスペイン兵営を襲撃.

4.28 カリスト・ガルシア中将,バヤモを占領.総司令部を置く.このほかヒグアニ,バイレ,サンタリタが反乱軍の手に落ちる.マソ大統領,自治主義者や良心的なスペイン人と手を結び新政権の実現に努力するよう反乱軍に指令.

4.29 パスクアル提督の率いる艦隊がカポベルデを出航.キューバ増援に向かう.

4.29 米軍,シエンフエゴスを機雷封鎖.合わせて守備隊に砲撃.反乱軍はモアとアルト・ソンゴのスペイン軍基地を襲撃.

4.30 ブランコ総督,反乱軍に対する停戦命令を破棄.

4.30 ドルスト大佐の率いる海軍,ピナル州ラ・エラドゥーラに上陸を試みる.守備隊のエルナンデス・デ・ベラスコ将軍は激しく反撃し撃退.

 

98年5月

5.01 デューイ准将の率いる米極東艦隊,マニラ湾攻撃を開始.パトリシオ・モントホ提督の率いる湾内のスペイン艦隊は壊滅し海兵380人が死亡.

5.01 アンドリュー・S・ロワン陸軍中尉,バヤモに潜入しカリスト・ガルシアとの接触に成功.軍事・政治情報を交換する.マキシモ・ゴメス総司令官は米軍との連携を重視するよう指示,自らもシャフターとの接触を図る.しかし一連の行動において反乱軍政府は完全に無視される.

5.1 キューバ作戦司令官ウィリアム・ラファス・シャフター将軍,フロリダ州タンパに部隊を召集.第五師団(ヘンリー・ロートン師団長)の指揮のもとに北大西洋方面騎兵大隊(正規軍),三つの義勇兵団など2万5千の兵を結集.第1旅団(義勇兵団)はウィリアム・ラドロー准将が統率することになる.セオドア・ルーズベルトも志願兵をつのり「荒馬乗り」部隊(ラフ・ライダーズ)を組織.

5.2 米議会,戦時緊急予算を3千5百万ドル増額することを承認.

5.4 米軍によるピナルデルリオ上陸の試み,再び失敗に終わる.

5.5 サンプソン提督,スペイン艦隊が出動したとの報告を受け,全艦船をキューバの港湾封鎖に差し向ける.北岸一帯を米国の制圧下においたほか,ウィンフィールド・スコット・シュレイ准将にサンチアゴ進出を命じる.このためシャフターの軍をキューバに輸送する任務は延期されてしまった.

5.9 シャフター,マリエルに上陸しハバナへの橋頭堡とするよう指令を受ける.ただし反乱軍を援助するだけで,実戦への参加は認められなかった.艦船が確保できず,輸送能力は1万7千にしか達しなかった.

5.9 シエラマエストラ山中のカブレコとアルデアで反乱軍とスペイン軍が衝突.

5.10 エストラーダ,「反乱軍総司令官マキシモ・ゴメスと副官カリスト・ガルシアが米国と行動をともにする用意がある」とマッキンレイに伝達.

5.11 米軍,マタンサスの街を砲撃.上陸目標をカルデナスとし攻撃を開始.

5.14 米海軍,シエンフエゴスの海底敷設線を切断.

5.18 サガスタ,内閣改造.

5.19 アギナルド,米軍の支援を受けマニラ上陸.その後反乱軍1万2千を組織し,米軍本隊が到着するまで陸戦の本体となる.

5.19 パスクワル・セルベラ提督の率いる6隻の艦隊,いまだ封鎖が完了していないサンチアゴに入港.

5.20 シャフター,ジャーナリストを引き連れカルデナスに上陸.反乱軍への物資補給にあたる.従軍記者ステファン・クレインはゲリラのみすぼらしい服装をみて「南洋の土人」と酷評.

5.21 米軍上陸部隊を乗せた巡洋艦チャールストン,グアムに寄港し占領.開戦を知らなかったグアム総督は無抵抗のまま降伏.

5.29 マッキンレイ大統領,タンパに待機中の第五師団にサンチアゴ緊急出動を指示.

5.30 シュレイの米艦隊,セルベラの艦隊を擁するサンチアゴ港を機雷封鎖.封鎖に手間取り,サンプソンの不興を買う.

5.31 米艦船,サンチアゴの防塞を砲撃.湾内からはクリストバル・コロン号が応酬.

 

98年6月

6.01 サンプソン提督,サンチアゴ湾封鎖の指揮を自ら執ることとなる.

6.3 マッキンレイ,英国とオーストリアの大使館を通じてスペインに意向を伝える.戦争の獲得目標をプエルトリコ,マリアナ諸島の併合,フィリピンにおける基地の確保におく.

6.3 米戦艦ニューヨーク号で海兵隊司令官と反乱軍指導者が会見.上陸作戦について意見交換.

6.6 米艦隊,サンチアゴを攻撃.2千発以上の弾丸を撃ち込む.スペイン艦船や防塞に甚大な被害.タンパのマイルス将軍,反乱軍との共同作戦の最終プランを受け取る.

6.9 サンプソン提督,グアンタナモ湾に向かう.

6.10 ハンチントン中佐の指揮する海兵隊600名が,反乱軍大佐エンリケ・トマスの陸上援護を受けながらグアンタナモ上陸.この時点でスペイン軍は正規兵15万,このほか民兵とボルンタリオが合わせて4万.これに対し反乱軍は推定5万.

6.11 マッキンレイ,ハワイ併合案を提起.「我々は中国の分け前に預かるためハワイを領有しなければならない」

6.13 エミリオ・アギナルド,スペインとのたたかいの中でフィリピン共和国の独立を宣言し,革命政府を樹立.米国務省はアギナルドの独立運動を支持しないようデューイ(新)提督に指示.

6.14 第五師団,42隻の船に1万6千名の兵と武器,装備を積み込みタンパを出発.サンチアゴ遠征に向かう.

6.15 米下院,209対91でハワイ併合案を可決.3週間後に上院も可決.

6.15 フィリピンンの米国の併合に反対する有志が反帝同盟結成.マーク・トゥエイン,アンドリュー・カーネギー,ウィリアム・ジェームス,サミュエル・ゴンパースなど各界を代表する著名人が賛同.パリ条約調印後に自然消滅.

6.16 カマラ提督の率いるスペイン艦隊,カディスを出港.スエズ運河経由でフィリピンを目指す.

6.20 米軍上陸部隊16,000,サンチアゴ沖合いに集結.ほか153隻の米艦船がキューバ全土を封鎖.

6.20 カリスト・ガルシア,オリエンテのエル・アセラデロ海岸でサンプソン提督,シャフター将軍と会見.作戦概要を協議.反乱軍がサンチアゴの西部,北東部,東部を確保することで合意・シャフター,ダイキリへの上陸作戦を決定.艦砲射撃の中カリスト・ガルシアの部隊が突撃し,その間に部隊の上陸をはかることとなる.さらに別働隊がカバーニャスに上陸し,スペイン軍の補給線を寸断することとなる.サンプソンはサンチアゴ湾からの直接突入を主張するが退けられる.スペイン軍のアルセニオ・リナレス・イ・ポンバ将軍もダイキリへの上陸を想定し布陣を強化.

6.21 カスティジョ・ドゥアニー将軍とゴンサレス・クラベル大佐の率いる反乱軍部隊,米艦船と共同でダイキリ近郊の海岸を確保.米軍上陸に備える.

6.22 ダイキリ上陸作戦決行.サンプソンの艦隊が砲撃開始.守備兵300を駆逐.第一旅団一万6千がダイキリに上陸.ベイツ,ラファティの各将軍.参謀総長のパンド将軍は1万の増派を要請するが,ハバナのブランコ総督は承認せず.

6.22 シカゴ・トリビューン、キューバ、プエルトリコとフィリピンの占領に賛成する社説。「これらすべての島は、名誉ある征服という我々の固有の権利に基づき、わが国に属すべきものである。島の上に星条旗が翻った瞬間、それらはアメリカの地となるであろう。これは自然の摂理に基づくものである」

6.24 ジョセフ・ウィーラー将軍の連隊,内陸を西進し,ラス・グアシマスで最初の戦闘.両軍千名規模の戦闘は米軍の勝利に終わる.その後米軍部隊は熱帯の細い道を十分な装備もなしに歩き続けなければならなかったため,極度の疲労と熱帯病に罹患.

6.25 ラドロウ連隊がシボネイに上陸.アセラデロから乗船したカリスト・ガルシア,ラビ,ローラ,ポルトゥオンド・タマヨの手兵3千をふくむ.その後戦火はカネイ,マンサニージョ,アグアドレスに拡大.反乱軍はサンチアゴの西部,西北部,東部を確保することとなる.

6.25 米戦艦ヨセミテ,サンフアン港を封鎖.

6.27 カリスト・ガルシア,マッキンレイが反乱軍政府を承認するよう,エストラーダを通じ要請.ヘンリー・マーチン・ダフィールド将軍の率いる3千の部隊がダイキリに上陸.反乱軍と併せ総勢2万2千に達する.

6.28 サンチアゴを守るスペイン軍は約8千.サンチアゴへの1万名増派を要請するが,ブランコ総督はこれを拒否.パンド参謀総長,サンチアゴ西方に三つの防衛線を張り攻撃に備える.第1の防衛線サンフアン高地にはわずか5百人を配置.大部分は,よりサンチアゴよりの エル・カネイ,サンチアゴ郊外に張りつけられる.

6.30 米海兵隊1万5千がフィリピン本土上陸.アギナルド軍を無視して戦闘を展開.

 

98年7月 サンチアゴ決戦

7.1 第五師団,サンチアゴ総攻撃を開始.ジェイコブ・ケント准将の率いる米軍主力はサンフアン高地に攻撃を仕掛ける.いっぽう黒人兵をふくむ第9,第十騎兵隊とレオナード・ウッド将軍とセオドア・ルーズベルト中佐の率いる荒馬部隊が,サンフアンの右翼ケトル・ヒルの確保を目指す.ダフィールド将軍の部隊3千はアグアドーレス要塞を攻撃.ほかエル・ビソ要塞にも攻勢.スペイン軍は左翼からの砲撃に耐えきれず第二防衛線に撤退.

7.2 これまでほとんど無抵抗だったスペイン軍が,突如激しい反撃を開始.サンフアン高地はスペイン軍の砲火に見舞われる.シャフターはサンフアン高地からの撤退を考えるが,本国からサンフアン死守と攻撃続行の指示.エル・カネイでは,ホアキン・バラ・デル・レイの守備隊419名が,小火器のみでヘンリー・ロウトン准将指揮下の米軍5千と対峙.10時間にわたり砦を防衛.バラ・デル・レイは最後に負傷,撤退中を捕らえられ殺害される.ほか多くの兵士が戦死,生存者はわずか84名という.この日の戦いでリナーレス将軍とホアキン・ブスタマンテ海軍大佐が戦死.

7.2 米軍,攻撃を再開.熱帯病で病気になる兵士が続出するなか,シャフター司令官自らも痛風で倒れる.結局防衛線を突破できず,スペイン軍の降伏までにらみ合いが続く.カリスト・ガルシアは北部よりサンチアゴ市内を攻撃.塹壕に立てこもったスペイン軍と対峙.

7.2 ハバナの総督府,サンチアゴ攻撃開始の報に恐慌を来す.スペイン艦船の米国による鹵獲を恐れたブランコ総督は,セルベラ提督にサンチアゴ封鎖の突破・脱出を指示.セルベラ提督,出港の準備を開始.

7.3 シャフター将軍,サンチアゴの北部,東部を制圧し包囲中と報告.フェデリコ・エスカリオ大佐の増援部隊3千5百がサンチアゴに到着.トラル将軍指揮下のスペイン軍,米軍に降伏.

7.3 セルベラ,サンチアゴ港からの強行突破を試みる.グアンタナモ方面に遊弋中のサンプソン提督に代わり,サンチアゴの封鎖にあたっていたウィリアム・シュレイ准将の艦隊がこれを迎撃.シエンフエゴス方面に移動を試みたスペイン艦隊5隻のうち重巡洋艦「ビスカヤ」号など4隻が湾内で次々と座礁,沈没.セルベラの乗った残りの1隻もサンチアゴ西方80キロの地点で航行不能となり放棄される.スペイン側の死者350人,負傷者160人.70人の将校をふくむ千6百の兵が米軍の捕虜となる.

7.3 マニラの米艦隊、港内のスペイン艦隊を殲滅。

7.4 一時休戦.サンチアゴ居住の外国人に対し退去の許可.

7.6 米両院共同決議によりハワイ併合を宣言.翌日マッキンレーもこの法案に署名.

7.10 米艦隊,サンチアゴ港内に入り砲撃を開始.

7.16 サンチアゴを守備する2万4千のスペイン軍,無条件降伏に応じる.アルボル・デ・ラ・パスでスペインと米軍間に停戦協定.反乱軍は協定に参加せず.

7.17 米軍,サンチアゴ市内にはいる.レオナード・ウッド将軍がサンチアゴ軍事総監に任命される.

7.18 米艦隊,マンサニージョを艦砲射撃.

7.18 スペイン政府,フランス大使カンボンを通じて停戦の実施と和平条約交渉の開始を打診.

7.19 反乱軍,エル・ヒバロの戦いでスペイン軍を撃破.反乱軍機関紙「エル・クバーノ・リブレ」,最近の戦闘について報告.

7.20 米艦船,サンタクルス・デル・スルを砲撃.

7.25 反乱軍,ラスビリャス州アロージョ・ブランコでスペイン軍を撃破.

7.25 マイルス将軍の遠征隊がプエルトリコのグアニカに上陸.

7.26 スペイン,フランスに停戦の仲介を依頼.フランス政府はワシントン駐在大使ジュールス・カンボンを通じマッキンレーと会見,停戦と降伏を打診.

7.28 スペイン,キューバの米国併合を求める発言.

7.28 「クリーブランド・リーダー」紙、キューバを併合するようもとめる社説。

7.28 米軍当局,黄熱病の流行を防ぐため兵士をただちに本国に帰還させるよう,シャフター将軍に指令.

98年8月

8.06 マイルス,プエルトリコで総攻撃を開始.

8.9 シスネロス前大統領,反乱軍とともにサンタクルスに凱旋.

8.12 ワシントンで、両政府が和平議定書に調印.停戦協定発効.米西戦争による犠牲者は,米陸軍369名,海軍10名.スペイン陸軍550名,海軍520名.

第二次独立戦争全体では,スペインは20万の軍隊のうち18万人をキューバに派遣.これに対し反乱軍は3万3千と推定される.この戦争で反乱軍の死者1万3千.うち2千が戦死者で,残り1万1千は病死.これに対しスペイン軍は6万2千が死亡.うち戦死者は9千で,残りは病死.戦略村には民間人30万が強制収容され,4万人が死亡.(一説ではスペイン軍の戦死者2千人,1万人が負傷,黄熱病その他で5万人が病死).

 

1998年

98年8月

8.13 デューイ海軍准将とウェスレイ・メリット陸軍大将,停戦協定を無視しマニラ総攻撃.現地独立派を率いるアギナルドに対し戦闘への参加を認めず,市内に入れば攻撃すると通告.

8.14 反乱軍政府大統領バルトロメ・マソ,諸勢力の再結集を図り、「革命代表者議会」の選挙を呼びかける.

8.15 カリスト・ガルシア,アグアス・クララスでスペイン軍との最後の戦闘にはいる.

8.19 米政府,黄熱病の大発生を抑えるため,至急部隊を帰還させるようシャフター将軍に指令.第五師団はニューヨーク州ロングアイランドに帰還し,志願兵部隊がサンチアゴ占領を続ける.シャフターに代わりレオナード・ウッド将軍がサンチアゴの軍政官に就く.

8 反乱軍裁判所,独立戦争の英雄ベルムデスを殺人罪で処刑.裁判にはフレイレ検事総長があたる.フレイレは後に軍所属の女性と不正常な関係を持ったこと,囚人を殺害したことでキンティン・バンデラスも断罪.

98年9月

9.09 プエルトリコのサンフアンで、スペイン軍撤退をめぐる米西代表団の交渉開始.

9.12 米国代表(ウェイド将軍,バトラー将軍,サンプソン提督)がハバナに入る.志願兵師団長に昇格したウィリアム・ラドロウ少将がハバナの弁務官に就任.スペイン代表(セグンド・カボ将軍,ゴンサレス将軍,ビセンテ・マンテローラ提督,ラファエル・モントロ博士)と,スペイン撤退の方法をめぐり協議開始.

9.13 スペイン議会,停戦協定を承認.

9.16 パリでの和平交渉に向け両国の代表が決定.米国はウィリアム・デイ国務長官を交渉委員長とし,フライ,レイド,グレイ,カッシュマン各上院議員.スペイン側はエウヘニオ・モンテロを委員長にアバルスーサ,ガルニカなど.

9.22 カリスト・ガルシア,サンチアゴにはいる.レオナード・ウッド将軍は歓迎の挨拶の中で戦争における彼の功績を公式に認める.これにより独立軍(とくに黒人部隊)の分断とカリスト・ガルシアの取り込みを図る。

9.27 米国資本の「キューバ不動産会社」が設立される。

9 ハバナの労働者,8時間労働制を要求しゼネスト開始.タバコ工場労働者,印刷工,パン職人などが次々にスト入り.ラドロウ弁務官はハバナ市長(スペイン人)に対し,スト弾圧を指示.

98年10月

10.01 パリで和平会談が開始される.会談のメンバーにはキューバ人もプエルトリコ人も、フィリピン人も含まれず。

10.01 デイの転出に伴い、ジョン・ヘイが後任の米国務長官となる.

10.3 シャフター,第五師団の解散を宣言.部下の将兵はシャフターが病気で戦闘を指揮できなかったことを暴露.

10.16 カリスト・ガルシア,反乱軍全軍から意見を聴取した後,レオナード・ウッドとともに米国を訪れ政府とキューバ側の利益について調整することとなる.

10.24 カマグエイ州サンタクルス・デル・スルで制憲議会開催.マソに代わる大統領としてドミンゴ・メンデス・カポテ将軍を選出,フェルナンド・フレイレ・デ・アンドラーデを副大統領とする臨時政府を創設する.兵士一人あたり300ドル,総額1千万ドルの慰労金捻出について協議するが,結論を得ず.資金援助を要請する訪米代表団の派遣を決定.その後,カノ(12月),マリアナオ(2月)で議会が開催される.

10.27 パリ会談。スペインは米国からもキューバからも保証を求めないことを受諾。

98年11月

11.10 反乱軍議会の代表団訪米し,反乱軍の支援とキューバ政府設立への援助を訴える.代表はカリスト・ガルシアのほかマヌエル・サンギリー大佐,アントニオ・ゴンサレス(学者),ホセ・ミゲル・ゴメス将軍,ホセ・ビジャロン大佐など.米国はこの使節団を認めず.キューバ国内のスペイン政府の所有物は,現在すべて米国に属していると言明.議会が米国資本から借款を受けようとすることにも干渉.

11.26 ブランコ総督,正式に辞任.カステリャノス准将に任務を引き継ぐ.

11.28 パリ会談。スペイン代表団は米国側の要求を完全受諾することを決定.

11月 サミュエル・ゴンパース(AFL指導者)、「自由を愛し犠牲をいとわない愛すべきキューバ人たち、彼らに対する私たちの共感の巨大な爆発はどこへ行ってしまったのだろうか? 奇妙ではないか?今や私たちが聞くのは、キューバ人は自治に適さないという言葉ばかりだ。こんな言葉は今まで聞いたことがないというのに…」

98年12月

12.01 占領当局によりキューバ教育教会が設立される。黒人・カラードを米国内での高等教育には不適格と断定する報告。

12.09 プエルトリコのジョン・ブルック弁務官が,初代キューバ弁務官に任命される.これに伴ない第二師団長のヘンリー将軍が後任プエルトリコ弁務官に就任.

12.10 パリ講和条約.米国は2千5百万ドルと引き換えにプエルトリコ,フィリピン,グアムを取り,キューバへの支配権を獲得.キューバ人,フィリピン人は条約への参加を拒否される.米西戦争での米軍犠牲者は3千.その9割が伝染病によるもの.スペインは戦費支払いのためマリアナ,パラオ,カロリン諸島をドイツに売却.

12.11 カリスト・ガルシア,訪問中のワシントン(ニューヨーク?)で肺炎のため死亡.一時的にアーリントン国立墓地に葬られる。彼は反乱軍解体に関して米国の指導を求めていた.マッキンレイ大統領はカリスト・ガルシアをキューバの指導者に据えるつもりでいたといわれる.

12.22 米国在住のキューバ革命党,キューバ独立は達成されたとする議長トマス・エストラーダの提案を容れ、党の解散を決議.

 

1899年

99年1月

1.01 最後のキューバ総督カステリャノス,米軍の初代弁務官ブルック将軍にハバナ市の鍵を手渡し全権移管.モロ要塞で星条旗の掲揚式。キューバ国旗の掲揚が許されなかったことからゴメスは出席を拒否。「我々の国旗は、そのために多くの血と涙が流されたキューバ国旗でなければならない」と述べる。

1.10 カルデナス造船所で最初の同盟罷業。労働者は、米ドルでの支払を要求。

1.13 反乱軍議会解散.バルトロメ・マソも退陣.ゴメスは米軍の軍事占領を糾弾し「独立が実現する日まで、引き続き団結を固めよう」と訴える.

1.16 ハバナの港湾労働者が賃上げと時間外手当を要求してストライキ。フェリーの乗組員もこれにくわわる。

1月 ブルックは公安,司法,行政・教育制度の米国化に集中.セオドア・ルーズベルトと陸軍長官ルートなど政府内タカ派が対キューバ政策の立案にあたる.旧植民地行政官を重用したことから島民の反発を呼ぶ.

1月 フィリピンのアギナルド,東アジアにおける最初の共和国樹立を宣言.米国はこれを認めず.

99年2月

2.04 アギナルド,マニラの米軍基地を襲撃.独立軍5万が,米国に対し反乱開始.02年7月まで続く.米軍は兵力を7万に増強.反乱を押さえ込む.地方で展開した作戦はウェイレルと変わるところなし.

2.06 米上院,パリ協定を57対27で批准(2/3以上必要な賛成数を2票上回る).民主党を中心とした諸勢力は帝国主義的拡張に激しく反対.「英雄」ルーズベルトはニューヨーク州知事に当選.翌年には副大統領に就任.

議会での主な議論:
ホアー上院議員は「外国の領土を併合し,その住民の同意なくしてこれを統治することは,神聖な独立宣言の精神を侵害するものである」と演説.
ペティグリュー議員,「マニフェスト・デスティニー思想は,それが生み出されたとき以来,ずっと,ただの人殺し思想でしかなかった.それは幾多の罪を犯し,人類がこれまでにもたらした最悪の災難を世界の人々にもたらした.マニフェスト・デスティニーは弱肉強食の世界を生み出し,弱者を奴隷の地位に貶めた.マニフェスト・デスティニーは城を築き上げ,そこに農奴を送り込んだ.マニフェスト・デスティニーは,それまで存在した弱者の共和国を葬り去り,その国民を奴隷へと追い立てた.彼らの意思に反する税を押し付け,彼らの政府を馬鹿げた存在に仕立て上げた.マニフェスト・デスティニーは弱者を搾取する強者の,おごり高ぶった雄たけびに過ぎない」と弾劾.

2.09 カリスト・ガルシアの本国での葬儀.葬列にはブルック将軍が先頭に立つ.反乱軍政府はアンドラーデ「副大統領」を先頭に行進へ参加しようとするが,米軍の銃剣によって制止された.

2.17 キューバ駐留軍は、歩兵15個連隊と4砲兵大隊など45,000人、これはスペインとの戦争にかかわった兵員数を上回る。

2.24 ラスビリャスで待機中のゴメス,米国と直談判するため、独立軍兵士を引き連れハバナ入城.軍の解散の条件として兵士一人に75ドル,総額300万ドルを要求.これが満たされるまでは軍の解散を拒否すると声明.

2月 米国は武器引き渡しと交換にゴメスの要求を受け入れる.ロバート・ポーター特使は、「アメリカはゴメス将軍と解放軍の功績を最大限に評価する」と述べる。

99年3月

3.03 スペイン本国でサガスタ内閣崩壊.カノバスに代わり保守党党首となっていたフランシスコ・シルベラが政権に就く.

3.12 ゴメスを取り込んだ米国は,独立派議会の承認を拒否.カリスト・ガルシアに近いバルトロメ・マソ(反乱軍政府の前大統領)を,暫定政府の大統領に指名する.メンデス「大統領」も暫定政府に参加.

3月 エル・セロで独立派議会が開催される。米政府の独立軍解散提案を受諾する一方、米政府主導の暫定政府に反対。メンデスに代えて、アンドラーデ副大統領を大統領に指名.さらに,「わずか75$の慰労金支給案に賛成した」としてゴメス総司令官とケサダ将軍を反乱軍から追放する.これを受けたゴメスは公職より引退.

3.19 紛糾中のスペイン議会,マリア・クリスティナ女王の決断を受け条約を批准.

3.29 マルティの思想にもとづき、キューバ社会党(Partido Socialista Cubano)が結成される。ディエゴ・ビセンテ・テヘーラの筆になる、「キューバの人民への訴え」と題された宣言がハバナ市内で配布される。のちに民族党へ吸収.

3.30 ボストン果実会社,マイナー・キースのトロピカル貿易会社と合併.UF社を創設.バネスをさとうきび農場として再開発.ボストン&プレストン製糖工場を建設.

3月 マタンサスの街頭労働者(Street laborers)がストライキ。占領軍のカートライト少佐は、「ストライキは許さない。逆らうものは軍法会議にかけて射殺する」と宣言。

99年4月

4.02 エル・セーロの反乱軍議会,政治行動は無意味になったとし解散を決議.これに伴い独立軍部隊の代表からなる臨時政府も自然消滅.

4.03 暫定政府のマソ臨時大統領,18歳以上の男子に選挙権を与える選挙法を制定.

4.11 米西両政府,批准書を交換.パリ条約発効.米西戦争が正式に終結.

4.15 米黒人指導者ブッカーT.ワシントン、「キューバ人はいくつかの弱点を持つにもかかわらず、こと人種問題においては、彼らのほうが勝っている。キューバに米国風の生活をもたらそうとして、人種問題を新たに持ち込み、人種間の敵対を復活させるのは愚かなことである」

8.27 ハバナの石工(建設労働者)、賃上げと8時間労働を求めストライキ。

99年9月

9.01 ハバナでキューバ労働者総同盟が結成される。議長にエンリケ・メソニエル、書記にペドロ・ナバロ。

9.06 ジョン・ヘイ国務長官,門戸開放政策を発表.

9.12 カルロス・ガルシア将軍、米紙とのインタビューで、「キューバ人は彼らの独立とそれを引き渡さないだろう。米国が島を併合しようとするならば、それは武装した抵抗に会うだろう」と語る。

9.19 総同盟の呼びかけで、ハバナの労働者サークルが合同会議。石工のストライキを支持して、翌朝6時からゼネスト入りすることを満場一致で採択。

9.24 8,000人の労働者が、建設労働者の闘争を支持してバルボア広場で集会。ゼネスト指導委員を選出。

9 立憲議会選挙施行.旧独立勢力は民主党と共和党に分かれ,共和党がさらに自由派と保守派に分裂する.ゴメスの率いる共和党のリベラル派が主流を形成する.旧自治主義者たちは国民党を結成.

率直に言うと書いている私にも訳が分かりません。第一次独立戦争からの流れで言えば、@最も保守的な部分:エストラーダに代表されるカマグエイ・ラスビリャスの地主層。もともと併合主義者でもある。A同じく保守的ではあるが、黒人を受け入れるオリエンテの地主層:カリスト・ガルシアやバルトロメ・マソ。B中下層の白人勢力:マクシモ・ゴメスやJMゴメス。Cマルティの衣鉢を継ぐハバナの知識層:アンドラーデ派、グアルベルト・ゴメス派や新興労働者層。Dマセオを奉じる黒人層。 という風に分けられるでしょう。それらが、米国支配の受け入れという条件の中で、どういう風に各政党に配置されたかは、これからの研究課題です。

12.20 ブルック弁務官が退任。これに代わり前サンチアゴ地区司令官のレオナード・ウッド将軍が弁務官に就任.以後民政移管までの総督を務める.

レオナード・ウッド: ウッドはインディアンとの戦争で勇名をはせた軍人で,強力な併合論者.
スペイン人官僚を更迭しキューバ人に代えることで,反乱軍上層部の支持を獲得.前任者を引き継ぎ公教育,道路,橋,港湾の整備に力を注ぐ.また黄熱病の撲滅など公衆衛生にも力を注ぐ.地方警備隊を創設し旧反乱軍兵士を編入.
いっぽう米国流の金権腐敗政治をキューバに持ち込む.シエンフエゴス市長選で自派の候補を当選させるために金をばらまいたり,ハバナの電気事業の権利を入札抜きで売却したり,キューバ政府の資産を売り払ったりと悪いことのし放題.

10月 建設労働者の闘いが勝利。キューバで始めて8時間労働を勝ち取る。

11.01 ニューヨーク・タイムズ、マシモ・ゴメスの発言を紹介。「公共の要職につく人間は、国のために働いていると信じているが、それはまったくの誤りであり、干渉主義者のために働いているに過ぎない。尊敬すべきキューバ人は、まずもって共和国の理想を貫かなければならない」と強調。

11.14 ハバナのLa Discusion紙、社説で「キューバはアメリカの領地ではなく、州でもない。それはスペインから米国に譲られたプエルトリコやフィリピンなどとも異なる。スペインはキューバに対しては、その主権と権利を捨てただけである」と述べる。

11.19 労働者出身で独立戦争の英雄だったエンリケ・クレシ(Enrique Creci)の葬儀デモが行われる。サルバドール・シスネロス・ベタンクールとファン・グアルベルト・ゴメスが数千人のデモの先頭に立つ。警察はデモ隊を攻撃、多くの労働者が負傷。

11.29 大規模な街頭での抗議が1週間にわたり続く。デモは占領の速やかな終わりを要求するようになる。

12.05 マッキンレーが国会への年次教書。キューバの米国併合のための含みを残す。この演説により、米国内でキューバ併合論が息を吹き返す。

99 キューバ中央鉄道会社設立.キューバ・アメリカ精糖会社設立.キューバ第一の精糖会社となる.UF社,キューバ東部に二つの大製糖工場と17万エーカーの砂糖キビ畑を開発.全長1万5千キロの私設鉄道を敷設.さらにキューバ政府に8千キロの鉄道を敷設させる.

99年 国勢調査。 キューバの全人口は1,572,797と発表される。

99 この頃最初の日本人移民がキューバに入る.大量の移民流入に伴い,「移民法」成立.東洋系移民が制限される.

99 GE社によりハバナのアルマス広場にはじめて電球の街灯がともされる.

 

1900年

3月 クリーブランド政権の国務長官を務めたリチャードB.オルニー、「キューバはすでに事実上米国に併合されており、議会はこれを法律上も裏打ちすべきだ」と発言。

4.13 ニューヨーク・サン紙、「併合に対するキューバ人の態度は、簡潔に言えば、金持ちとインテリは賛成、扇動者と彼らの手先、そして無知な黒人が反対、ということである」と、自らの無知を簡潔に明らかにする。

4.18 米軍事長官エリヒュー・ルートの策定した選挙法が成立する。有権者は21歳以上のキューバ国籍を選択した男性で、@読み書きができる者,A独立軍での軍務経験を持つもの,B250ドル以上の資産を持つもの、のいずれかに該当することが求められる。

4月 キューバ人代表団がウッドと会見。「ムラート、カラード、ブラウンなど、皮膚の色で人間を識別するような用語は違法であり、もはや公式文書において使用すべきではなく、シチズンとのみ呼ばれるべきだ」とし、法律の制定を要請。ウッドはこの要請を無視。

4 キューバ選挙法成立.成人男性で,読み書きできるものに選挙権が与えられる.

4.12 プエルトリコでフォレイカー法,議会を通過.米国の管制下に民政府を設置することが決まる.プエルトリコは米国領土として併合される.米議会の選挙権は与えられず.

5.16 アウグストゥスO.ベーコン上院議員、占領軍当局者が自らの生活改善に没頭し、キューバの資金を不当に浪費していると証言。このような長引く占領は、不必要なだけではなく違法でもあると非難。

5月 ハバナ中央郵便局で大規模な使い込み発覚.エステスG.ラスボーン郵政長官をふくむ高級官僚が、10万ドル以上の金を横領した疑いで告訴される。スペイン人官僚がいなくなった政府・管理機構は混乱を極める.

6.16 全国選挙に先行して地方議会選挙が行われる.ほとんどの議席を独立派が占め、併合論を唱える民主連合党(Democratic Union Party)は衝撃的な敗北を喫する.独立戦争の支持者からなるキューバ国民党は多数派を形成、多くの黒人有権者を含む共和党も躍進。

7.25 ウッド弁務官,301議席からなる制憲議会を召集すると発表.政党結成を認める一方,元反乱軍議会の権威を無視し、親米的有力者を集める.

8.13 ウッド、キューバ国内を巡回。「妨害者と不平家は選ばれるべきではない。安定した政府のみが米国政府に受け入れられることを念頭に置くべきだ」と脅迫。制憲議会に「ベスト・マン」の選出を促すキャンペーン。

8月 シスネロス、ウッドの攻撃に応答。「ウッド将軍は米国での選挙なら、その直前に有権者にそのような言葉を吐くことはしないだろう。なぜキューバでは自由な選挙を制限し、脅迫によって人々を侮辱し、人々の尊厳を傷つけなければならないのか」

9.16 ニューヨークタイムズのハバナ特派員、「独立戦争の英雄の一人マセオは黒人だった。すべてのキューバ人は、肌の色に関係なく、彼をもっとも高貴なキューバ人として尊敬している」と報告。

9.25 アルバートJ.ベヴァリッジ上院議員、「テラー修正は、開戦直前の感情のたかまりと切迫した状況の中で生じたエラーであり、破棄すべきだ」と語る。

9 ウッド, マソを暫定大統領に指名し,6州31名からなる制憲議会を招集.

主な議員: ゴンサロ・デ・ケサダ、エミリオ・ヌニェス将軍、サルバドール・シスネロス・ベタンクール、フリオ・サンギリ将軍、マヌエル・サンギリ、アルフレード・サヤス・アルフォンソ、ホセ・ミゲル・ゴメス、ファン・グアルベルト・ゴメス、ドミンゴ・メンデス・カポテ。

11.05 ホセ・マルティ劇場で第1回制憲議会開催.自ら議長となったウッドは,キューバを米国の隷属下につなぎ止めようとたくらむ.同時にウッドは,エリオット・ルート軍事相と共同でArmy Appropriation Act修正条項を作成.コネティカット選出の上院議員オービル・ヒチコック・プラットに議案提出を委ねる.

11.06 マッキンレー,大統領に再選される.副大統領にはキューバ戦争の英雄セオドア・ルーズベルト。彼は当時ニューヨーク州知事を勤めていた.

12月 キューバのカラード代表が会合。ほぼ満場一致で決議を採択。キューバが米国の州のひとつになるのなら、その将来は不安であるとし、併合運動への反対の声を上げることとなる。

1901年

1.30 米行政当局、キューバ憲法の草案を提出。基本的に米国憲法にならい、任期4年の大統領制、二院制議会、裁判所の三権を分立。

2.21 ウッド弁務官,制憲議会に憲法草案を提示.キューバ外交権の事実上の制限と,米国の内政干渉権を明示するよう強要.同時にグアンタナモを米海軍基地として租借するという修正条項の受入れを強要。

2.25 米上院でキューバ関連法案の審議.プラット上院議員,軍の修正条項を追認し米国の権益を擁護する立場から,外交権と財政権の制限など8条からなる修正案(enmienda de Platt)を提出.

プラット修正条項: 第三条では米国が「キューバの独立を保持するため」介入できるとし,第七条では米国が「キューバの独立を保障するため,また米国自身の国防のため」基地を作ることが出来ると規定.キューバは「必要と認定され合意された特定の地域を,海軍基地として売却あるいは貸与」することが求められる.ピノス島の返還は将来の条約改定まで持ち越されることとなる.

2.28 憲法が発効. プラット修正には自由派のホセ・ミゲル・ゴメス(マキシモの甥), ケサダ, モンテアグード, および保守派に属する黒人モルーアが賛成にまわる.マソ大統領,18歳以上の男性の普通選挙権を定めた選挙法を公示.

2月 キューバ中央鉄道で、労働者が一連のストライキ。

3.02 米議会,プラット修正案を可決.米政府はこの修正が認められるまで軍事占領を終了する意思がないと通告.

3.02 15,000人以上のキューバ人がハバナでプラット修正に抗議するたいまつデモ。パトリア紙(ホセ・マルティが創刊)は、「この法案が受け入れがたいことは疑問の余地がない。この法案に抗議するのは我々の義務である。米国人がこの真実を知れば、彼らは再考するだろうし、それは米国にとって名誉の回復につながる」

3.03 ハバナ国旗をかざすデモがハバナからサンティアゴ・デ・クーバまで全島各地に拡大。ウッドはルート軍事長官に手紙を送り、憲法制定会議がプラット修正の受け入れを拒否した場合の行動方針をもとめる。

3.07 サガスタ,4度目のスペイン首相に就任.

3.13 ウッド将軍、地方警備隊に対し鉄道スト参加者51人の逮捕を命じる。鉄道従業員組合指導者のファン・ロドリゲス・マルティネスは、当局に反抗した罪により懲役8年の刑に処せられる。

3.15 制憲会議議員のサルバドール・シスネロス・ベタンクール、「米国は弱者に対して強者の権力を行使している」と抗議。プラット条項への反対を呼びかける。

3.20 エリヒュー・ルート軍事長官、ウッドへの返書。「プラット修正は最終的なものである。これに反対する議員は、それによって米国との正常な関係が損なわれること、祖国と自分自身が傷つけられることを自覚すべきである。議会がそれに固執するなら、彼らが果たすべき義務は他のものに取って代わられるしかない」

3.21 マヌエル・サンギリ、「若干の制限をともなう独立は、軍事支配の存続より好ましい。もしプラット修正を拒否すれば、軍事支配はさらに続くだろう」と述べる。

3.23 フレデリック・ファンストン将軍の率いるフィリピンの米占領軍,独立軍指導者のアギナルドを逮捕.

3.26 制憲議会で、ファン・グアルベルト・ゴメスは、「家の鍵をわたす仕業」とプラット修正に反対する演説。Fonerによれば、「プラット修正に対するキューバ国民の感情を最もよく反映したものであり、反帝国主義の文学において最も優れた表現」とされる。

4.05 ハバナの新聞「ラ・ディスクシオン」、二人の泥棒がキューバ人を苦しめる漫画を掲載。ウッドは直ちに新聞社を閉鎖し封印。編集者と漫画家を名誉毀損の罪で逮捕する。

二人の盗賊: 二人はレナード・ウッドとウィリアム・マッキンレーに似せて描かれる。その脇には、プラット上院議員がローマ兵のよろいをつけ、「プラット修正」の旗印のついた槍を持って立っている。

4.06 憲法制定会議にプラット修正の受け入れを求める動議が提出される。議会は24対2票でプラット条項を拒否する.

4.08 ディスクシオン紙、出版を再開。再開第一号の見出しに、「1896年10月23日、ウェイラーにより弾圧される。1901年4月6日、ウッドにより禁止される」と書く。

4.12 制憲議会、プラット修正は受容できないとする決議が18対10で採択される。

4.25 議会代表団はプラット条項の撤回を求めワシントンでロビー活動を行う。マッキンレー大統領と会見した後、軍事長官エリフ・ルートと長時間にわたる会談。ルート長官は、「米国は常にキューバの独立の擁護者であった。第三条(内政干渉権)はモンロー宣言の拡張であり、具体的なものではない」と説明する。

5.28 制憲議会15対14の1票差でプラット修正の受け入れを決議。ただし付属文書で、「プラット法はキューバの独立を保障するためのものであり、キューバ政府への干渉を意味するものではない」とするルート長官の説明を了解事項として添付。

01年6月

6.01 ルート長官,制憲議会の付属文書を拒絶。「プラット修正が一切の変更や追加なしに、正確に言葉通りに採用されるまで」、軍政を続けると恫喝.

6.12 議会は16対11票で最終的に修正を受諾.選挙法は,黒人,女性,低所得者を選挙人から排除.

真っ二つに割れた旧独立派: 賛成した有力者は自由党のホセ・ミゲル・ゴメス(マキシモ・ゴメスの甥),ケサダ,モンテアグード,ビジュエンダス,モルア,国民党のサンギリなど.
反対を貫いたのは、ファン・グアルベルト・ゴメス、ラファエル・ポルトゥオンド、エドアルド・タマヨ、ラファエル・マンドゥレイ、ホセ・フェルナンデス・デ・カストロ(以上サンチァゴ)、サルバドール・シスネロス・ベタンクール、マヌエルR.シルバ(以上プエルト・プリンシペ)、ホセS.アレマン(サンタクララ)、ルイス・フォルトゥン(マタンサス)、アルフレード・サヤス、ホセ・ラクレト・モロト(以上ハバナ)、

6.21 地方選挙施行.旧反乱軍を柱とする自由党が圧勝.この選挙で選ばれた地方議員が大統領選の選挙人となる.

6.21 プラット、キューバの状況について、「多くの点で彼らは子供のようなものであり、安定した自治は期待できない」と述べる。

7月 ニューヨークの北米信託会社、キューバ国立銀行(Banco Nacional de Cuba)の名の下に操業を開始。この会社は占領軍政権の財政をまかなう代理店であった。

8.18 大統領選に向け,諸勢力は一致してゴメスを大統領に推すが,ゴメスはキューバ生まれの人物が大統領となるべきとして固辞.ホセミゲル・ゴメスの率いる自由党グループが、エストラーダ・パルマに大統領選への出馬を求める。グループのメンバーはドミンゴ・メンデス・カポテ、ルイス・リヴェラ将軍、ペドロ・ベタンクール、ディエゴ・タマヨ。(一説によれば、エストラーダの立起について投票が行われ、23対2で承認された。反対者はファン・グアルベルト・ゴメスとエゼキエル・ガルシア)

8月 米政府もエストラーダに狙いを定める。反乱軍内で米国の意向を代弁するサンギリーを通じて出馬を依頼.

9.14 マッキンレイ,ニューヨーク州バッファローの全米博覧会でデトロイトの無政府主義者レオン・ソルゴス(Czolgosz)に撃たれ死亡.セオドアが大統領に就任.

9.27 エストラーダ、エミリオ・ヌニェス将軍と会見し大統領選立起を受諾。プラット修正については、条約改正の過程で主権と独立に有利な方向で解釈を加えていけばよいと述べる。

9.28 エストラーダを推薦する文書が島中に流される。ドミンゴ・メンデス・カポーティとアルフレード・サヤスが起草し、マシモ・ゴメス、マヌエル・サンギリ、ゴンサロ・デ・ケサダなど32人が署名。占領軍当局の選挙干渉と,マキシモ・ゴメス将軍がエストラーダ支持の立場を表明したため,諸将軍,独立運動指導者の支持はエストラーダに集中.

10.28 黒人層を中心とする急進派はプラット修正に反対し、バルトロメ・マソの擁立に動く。ウッドは、ルーズベルトあての手紙で、マソの立起が「非常に危険な状況をつくる」とし、大規模な選挙干渉に乗り出す。

11月 選挙管理委員はすべてエストラーダ派に指名される。マソは米政府に選挙不正を抗議するが容れられず、大統領選出馬を断念。

12.31 24の上院議員,110の地方首長などを選ぶ選挙が施行される.国民党と共和党の推すエストラーダが無投票で大統領に確定。

01年 UF社はニペ湾近郊の旧王室料を買収し広大な砂糖農場を確保.ロックフェラー社はこれまでに比べ20倍の性能を持つ最新型の精糖設備を売り込む.ベツレヘム・スチールはモルガン社との共同でモアに大規模な鉱山を開発.マヤリの製鉄工場で操業を開始.

01年 ヤグアハイで,米資本の下に旧来の精糖工場を傘下におさめたナルシサ精糖工場が操業開始.

01年 フルヘンシオ・バチスタ,オリエンテ州バネスで生まれる.父のベリサリオはムラートの農民兼鉄道労働者で,ホセ・マセオの下で反乱軍軍曹として活躍.

1902年

2.24 大統領選挙人による投票。トマス・エストラーダ・パルマが当選。エストラーダは保守党(CP)から立起し、自由党右派のホセ・ミゲル・ゴメス、国民党自由派のサヤスと協定を結ぶ.有産層の多くがエストラーダ陣営につく.独立左派はマソを推したてて民主党を結成。

3月 エストラーダ政権が組閣を開始。カルロス・サルドが司法長官兼国務長官,ディエゴ・タマヨが内相,ホセ・ガルシア・モンテスが蔵相に就任.

3月 軍事省島嶼部、黄熱病が蚊の特定の種によって伝染されると報告。この事実はすでにキューバ人カルロス・フィンレー博士により発見されていたが、黙殺される。

4 フィリピンの反乱終結.マッカーサー将軍(ダグラス・マッカーサーの父)の指揮の下,延べ12万6千人の米軍が3年間で独立軍1万6千を殺害し、独立軍を駆逐.米軍側にも4,234人の死者を出す。その後も10年にわたりゲリラ闘争が続く。

5.05 最初のキューバ議会が開催される。

5.20 エストラーダ,大統領に就任.米軍全面撤退.キューバは軍政を解かれ「独立」.ピノス島の返還は米議会一部の反対にあって1905年まで遅れる.

5.26 エストラーダ、議会に財政方針を提出。財政的には収支均衡策をとり外資導入には慎重姿勢で臨むが,反乱軍兵士への退職金を支払うため,3千5百万ドルを起債.スパイヤー銀行が発行を引き受ける.償還には酒税収入が当てられることになる.

この時同時に初代サンチアゴ市長兼上院議員となったエミリオ・バカルディは,対米自立主義の立場をつらぬいた.その後ラム酒製造会社で成功.

7.04 ルーズベルト,フィリピン・アメリカ戦争の終結を宣言.

11.03 第二期国会が開かれる。政府は総額1千5百万ドルの予算案を提出。

11.24 ふたたび労働者同盟によるゼネストのよびかけ.地方警備隊を動員した政府の弾圧により,労働運動はいったん衰退に向かう.

02年 ウッドの秘書官を務めたスタインハートはキューバ電力会社を創立.ウィリアム・バン・ホーム卿は鉄道をサンチアゴまで延長.島の東西をつなぐ鉄道が完成.

02年 砂糖輸出は輸出総額の半分を占める.この割合は以後急速に増大,10年後には8割に達する.同じ時期タバコ輸出は4割から1割に減少.多くのタバコ会社を併合しアメリカ・タバコ会社設立.

02年 移民法が修正,同時に「外国人労働者入国規制法」が成立し,契約移民の入国が全面禁止される.

1903年

2.13 米玖相互貿易協定調印.基地貸与については引き続き交渉.

5.22 「キューバ・米国関係に関する恒久条約」締結.1901年の憲法に付帯条項としてプラット条項を取り入れることで合意.米国はピノス島の所有権を譲渡。元来米国への併合論者であるエストラーダは,プラット条項を積極的に支持,ウッド将軍の思うがままに政策を決定.ラスビリャスのマシモ・ゴメスを中心とする共和党主流派は,エストラーダに対する反感を強める.

7.26 4人の元兵士が、「給与の即時支払い」をもとめ武装して立てこもる。3人が殺され、残り一人が逮捕される。

9.13 エストラーダがサンチアゴを訪問。60人ほどの群集がエストラーダを捕えようと襲い掛かる。

12.16 高級条約に基づく基地貸与協定.グアンタナモとバイア・オンダ両地区に海軍給炭・補給基地を租借.地代は年2千ドル.これまでの通例である99年条項は含まれず.「米国が放棄しない限り,または両国が変更に合意しない限り,基地は維持される」とされる.

12.17 米議会,キューバ互恵条約を批准.キューバからの輸入関税を2割引下げるとともに,米国産品のキューバへの輸出関税も2〜4割引き下げ,米国の市場として開放.300キロにわたる道路があらたに建設され,公共事業の拡大,公教育の充実がすすみ,貿易黒字は54万から7百万ドルに増加.「恒久条約」は批准されず、翌年3月あらためて締結。

1904年

1.06 エストラーダ、モルア・デルガド上院議員の宝くじ再開法案に拒否権を発動。

2月 上院の1/3を改選する選挙。保守共和党が多数を獲得。オリエンテのファン・グアルベルト・ゴメス上院議員(国民自由党)が投票数より多い得票を獲得するなど、不正が横行。

4月 新しい国会が始まる。国民自由党は選挙の不正に抗議しボイコット。

12 ルーズベルト大統領,年次教書で「西半球の諸国の失政に対しては国際警察力として行動せざるをえない」と宣言する.ルーズベルト・コロラリーあるいは「棍棒外交」と称せられる.

12 議会中間選挙を前に.エストラーダはラスビリャス派との1901年協定を破棄.ラスビリャス派は,ハバナのリベラル民族主義者の結成した国民党と手を結び,自由党を結成.エストラーダから実権を奪取しようとはかる.エストラーダ,共和党を離れ共和中道党を結成.ハバナの資産家を基盤とする.メンデス,フレイレ・デ・アンドラーデらが新党に参加する.

12 議会中間選挙実施.選挙違反と地方警察の干渉・暴力が横行.自由党は選挙後の議会をボイコット.マキシモ・ゴメスはエストラーダ再選に反対の態度を明らかにする.

04年 元革命党左派のカルロス・バリーニョ,労働党を結成.

1905年

2.02 エストラーダ・パルマ大統領、中道党を合併し党首となる。新たな内閣を編成するため、これまでの閣僚メンバーに辞任を求める。

3.06 エストラーダ・パルマ大統領、内閣メンバーの辞表を取り付け、中道党に新たにポストを提供。フェルナンド・フレイレ・デ・アンドラーデ将軍が大統領府長官、ラファエル・モンタルボが公共事業相に就任。新内閣は政治腐敗の責任を追及し,「闘う内閣」と呼ばれるようになる。

4.14 6人の国会議員が、ハバナ市議会議員に関する文書を盗む。後にハバナ市議会から犯罪として断罪される。

6.17 マコシモ・ゴメス,ハバナ市内のベダード街で死亡.(一説にはドミニカとなっているが、コロン墓地に埋葬されたとあるので、ハバナが正しいと思われる。ゴメスの墓には行ったことがないので、誰か機会があれば訪れてほしい)

7月 エストラーダ、政治腐敗の責任を追及し,地方首長110人のうち32人を旧法に基づいて罷免する.自由党は各地で蜂起の構えを見せる.

7.22 サンアントニオ・デ・ラス・ブエルタスで、自由党員が政府機関を焼き討ち。自由党は各地で蜂起の構えを見せる.

8月 大統領選挙を控え、二期目を狙う中道党のエストラーダに対し,自由党はホセ・ミゲル・ゴメス将軍を立てる.

ホセ・ミゲル・ゴメス: マキシモ・ゴメスの甥にあたる。第一次独立戦争,小戦争にも参加したベテラン.第二次独立戦争では少将にまで昇進,不敗を誇った.独立後はマキシモ・ゴメスの意を体し、ラスビリャス派のボスとして力を伸ばした。

9.04 エストラーダが記者会見。「行為そのものより雄弁な議論はない。これまでの行いこそ将来への確かな誓約である」と反論。過去の革命への貢献を根拠に自らの政策を正当化。

9.22 シエンフエゴス自由党の指導者エンリケ・ビジュエンダスが暗殺される。彼は死亡直前にゴメス将軍に身の危険を訴える手紙を送っていた。自由党はビジュエンダスを殉教者とし、反政府闘争をさらに強化。

9.23 大統領選の予備選挙が実施される。二期目を狙う中道党のエストラーダに対し,自由党はホセ・ミゲル・ゴメス将軍を立てる.投票は地方警備隊と警察により監視され、多くの自由主義者は投票権を奪われる。

9.27 予備選挙は中道党の勝利に終わる。自由党、不正選挙と暴力に関し中道党を非難する声明を発表。自由党総裁のホセ・ミゲル・ゴメスは抗議の辞任を発表。

10.04 ホセ・ミゲル・ゴメス、暗殺を恐れてニューヨークへ亡命。中道党の横暴を非難し米国の干渉を要求する。「米国は、いまキューバで起きていることに対して直接の責任がある。アメリカはこの事態に終止符を打つ義務がある」と述べ、プラット条項の発動を求める。

10.06 ゴメスはニューヨークで、「いまや米国とキューバにとって、プラット修正に本物の解釈を与える瞬間が来た」と語り、米国の介入を求める。

10.07 キューバの新聞「ディアリオ・デ・ラ・マリーナ」と「エル・ムンド」は、事態打開のためキューバへの米国干渉を要求する。

10月 本選挙のための選挙人登録。少なくとも15万人の架空の名前が登録される。自由党は中道党を詐欺師と非難。12月の投票をボイコットすると声明。

10月 黄熱病の最後の罹患者が報告される。

11.21 ハバナ市内のアルキサール、ラ・サルードとバタバノで自由党員による武装蜂起が発生。

11.27 選挙を前に各地で自由党の武装反乱が発生。ピナル州のサンファンとマルティネスでも自由党員の暴動が起こる。

12.01 大統領・議会選挙。エストラダ・パルマ大統領は対立候補なしで信任される。議会でも与党の中道党が圧勝。地方警備隊や警察はエストラーダを支持して選挙に介入.グアルベルト・ゴメスら多数が逮捕されたことから、自由党は選挙をボイコット.

05年 この年までに米国資本がキューバ農地に投資した総額は約5千万ドルに達する。

 

1906年

06年2月

2.24 バイレの蜂起を記念し、各地で自由党員の蜂起。反乱部隊がハバナ郊外のグアナバコア兵舎を襲撃。兵士数人を殺害し、馬と武器を奪う。

2.24 シエンフエゴス警察,法務官との共同で市内のスイス・ホテルを捜索.このホテルは自由党ボスのビジュエンダスの宿泊先で,爆発物秘匿の疑いがもたれていた.ビジュエンダス側近が捜査にあたった警察署長イジャンセ(中道党所属)を殺害.自由党は抗議して暴動を起こす.

06年4月

4月 議会に残る自由党員、選挙の無効を宣言しようと試みるが失敗に終わる。

4月 キューバの国庫剰余金は「およそ2500万ドル」に達する。(A History of the Cuban Republic, by Charles E. Chapman)

5.20 エストラーダが二期目の大統領に就任。

7.02 ハバナで米国との間に新条約が締結される。グアンタナモ湾とバイア・オンダが無期限に米軍基地として提供され、米国は1年につき2,000ドル(!)の使用料を払うこととなる。

06年8月 自由党の蜂起

8.16 中道党,ビジュエンダスを報復殺害.これに抗議する自由党員がブエルタスの市役所を焼き討ち.全国に選挙結果に対する承認を拒否し、中央革命委員会へ結集するよう訴える.

8.16 全国で公然たる反乱が開始される。月末までに、あらゆる行政区で武装闘争が発生。「8月の小戦争」として知られる。

8.17 自由党,19日の一斉蜂起を指示.必要な資金150万ドルはロックフェラーとナショナル・シティー・バンクが確保.背景に反トラスト派のルーズベルトとロックフェラーなど財閥との抗争.

8.17 機先を制したフレイレ・デ・アンドラーデは全国で自由党員の一斉検挙.多くの反乱軍のリーダーは逮捕される。

8.17 メサ将軍の率いる反乱軍が、地方警察と交戦。アスベルト・ゲーラ(ファウスティノ・ゲーラ?),ロイナス・デル・カスティージョなどの自由党員,武装蜂起を開始.

8.17 独立戦争の英雄キンティン・バンデラス、反乱軍女性に対する性的虐待,囚人の殺害の罪で逮捕,処刑される.

8.19 エストラダ・パルマ大統領、サンタクララのホセ・モンテアグード将軍、オリエンテのカスティージョ・ドゥアニ(Duany)将軍およびファン・グアルベルト・ゴメスの逮捕を命じる。

8.19 ピナルデルリオでJMゴメス将軍の率いる自由派の蜂起開始.「8月の小戦争」と呼ばれる。

8.20 エストラダ・パルマ、地方警察の2千名増員を命令。

8月末 反乱軍が島の大部分を制圧。自由派の黒人モルアはグアナバコアの軍基地を襲撃.アスベルト・ゲーラ(ファウスティノ・ゲーラ?),ロイナス・デル・カスティージョなどの自由党員,武装蜂起を開始.政府軍1万7千に対し反乱軍は1万4千を数えるに至る.

06年9月 エストラーダの辞任

9.01 独立戦争のベテランであるマリオG.メノカル将軍、ハバナでエストラダ・パルマ大統領に会う。自由党員と中道党の間の妥協の道を探る。メノカルは、1905年に選ばれたすべての公職者が、大統領と副大統領を除いて総辞職すること、不当に移動された自由党員が身分を回復することを提案。さらに必要な選挙法と地方自治法を発効させた上で、再選挙を行うようもとめる。そして大統領が提案を考慮するあいだ休戦することをもとめる。

メノカル: フロリダ生まれのキューバ人.コーネル大学を卒業した後,ニカラグアの鉱山会社の技師から第二次独立戦争に身を投じ,カリスト・ガルシアの副官となった人物.終戦後はハバナ警察長官から米系砂糖会社の重役に転進.同時に米国と結びついた保守派の大立物として影響力を拡大.

9.05 反乱軍が、島の大部分を制圧。

9.08 エストラダ・パルマ、「反乱軍が武器を置くまで交渉の余地はない」とし、メノカルの妥協提案を拒絶する。プラット修正条項にもとづき米介入を要請.

9.08 外務大臣がハバナ駐在のフランク・マクシミリアン・ステインハート米総領事と会談。「もはや政府軍は反乱を鎮圧できず、米市民の生命と財産を保護することもできなくなった」として、プラット修正条項にもとづき米介入を要請するエストラーダの意向を伝達.

9.08 ステインハート、ワシントンの国務省に極秘電を送る。「キューバ外相は、パルマ大統領の命により、ルーズベルト大統領に、直ちに2隻の船を送るようもとめた。一隻はハバナへ、もう一隻はシエンフエゴスへ。政府軍は反乱を鎮圧できない。政府は生命と財産を保護することが出来ない。パルマ大統領は、次の金曜日に議会を開くだろう。議会は我々の強制的干渉をもとめるだろう。このことは大統領、国務長官と私自身を除いて厳重な秘密である。至急応答を待つ」

9.10 エストラーダ,議会を緊急召集。議会は国内不安の拡大に対し憲法停止.米国の強制介入を求める決議を採択。米政府は前フィリピン知事のウィリアム・ハワード・タフト国防長官を仲介者として派遣.

9.10 ステインハート、もう一つの極秘電。「パルマ大統領は返事がないことを極めて憂慮している。軍艦がただちに送られることを求めている」

9.10 ハバナで配布されるパンフレットは、「米国介入の遅れ」を理由にエストラダ・パルマを攻撃する。エストラーダ,国内不安の拡大に対し憲法停止.

9.10 ステインハート総領事からの極秘電を受けたルーズベルトは、直ちにキューバ介入を決定,戦艦デンバーなどをハバナとシエンフエゴスに派遣する.

9.12 デンバー号,ハバナ入港.(正確にはcruiserとなっているので巡洋艦)

9.13 デンバー号の部隊125人がハバナに上陸。しかし翌日にはいったん撤退。

9.14 セオドア・ルーズベルト大統領、ワシントン駐在のキューバ大使ゴンサロ・デ・ケサダに公開書簡を送り、ウィリアム・タフト軍事長官(前フィリピン知事)とロバート・ベーコン国務次官を特使として派遣。両派の交渉を調停するよう指示したことを明らかにする。この書簡では「武装反乱を起こしたもの、現在の状況に関していささかでも責任あるものは、すべて“キューバの敵”である」と断言。

9.14 エストラダ・パルマ、キューバ議会で演説。プラット条項に基づき米国の介入を要請したことを明らかにし、歓迎する演説。

9.16 エストラダ・パルマ、戦闘中止命令を発し、一部の政治犯を釈放する。ハバナでは潜伏中のサヤスが公然活動を開始。

9.17 セオドア・ルーズベルト大統領は、ウィリアム・タフトとロバート・ベーコンに両派の交渉を調停するよう指示。

9.19 タフトとベーコン,巡洋艦「デ・モイン号」(Des Moines)ハバナ到着.自由党および中道党リーダーとの会談、および選挙結果の分析により、タフトは不正を認め,これを無効と判断.エストラーダに対し,次の選挙まで暫定首班にとどまることを強要.自由党との調停に乗り出す。

9.20 米艦がシエンフエゴスにも入港。乗組員が上陸する。

9.21 海兵隊を乗せた6隻の軍艦が新たにハバナ入港.海兵隊2千4百人が上陸.

9.24 タフトとベーコンは、 メノカルの妥協案に基づく調停案をエストラダ・パルマに提出する。エストラーダは提案を全面拒否。

9.26 アルフレード・サヤスは、タフトとベーコンに対し書簡を送る。「憲法付帯条項により米国には介入権が与えられている。当然ながら、この権利の行使はキューバ政府によって妨害されてはならない」

9.28 反乱軍のサヤス代表との交渉成立.新法にもとづく再選挙を行うことで合意.サヤスは、プラット条項は現地政府の意向を越えて適用されるべきものと主張。

9.28 エストラーダは議会を召集。タフト提案を拒否し高齢を理由に辞任を申し出る.これに伴い内閣及び議員も総辞職.これによりキューバは文字どおりの無政府状態となる.両派の角遂はさらに激化し,内戦状態となる.

9.29 ルーズベルトは「政治的空白を解消するため」介入.タフトを暫定弁務官(U.S. Governor of Cuba)に任命する。

9.29 タフト弁務官、政府軍および自由党グループの武装を解除.オリエンテでは海兵隊2千がバラコアに上陸作戦を展開.自由党の反乱を鎮圧.

06年10月

10.02 前大統領エストラダ・パルマは、列車に乗りハバナを去る。マタンサスで家族と合流した後、バヤモの故郷に戻る。そこで死ぬまで隠遁生活を続ける。

10.02 エリヒュー・ルート国務長官,タフトにかわるキューバ弁務官に,パナマ大使兼運河地帯弁務官チャールズ・マグーンを指名.

10.09 マグーン、ハバナに到着。タフトとの引継ぎを開始。

10.10 タフト、反乱と関連して逮捕されたすべての政治犯に対し大赦宣言を出す。

10.12 タフト、ルーズベルトの勧告を受けて、1年前の選挙を無効と宣言。この間に選ばれた議員の資格を剥奪。「臨時政府の存続の間、議会が休会にされる」と発表。これにより行政権と立法権が暫定政府の下に集中される。

10.13 マグーンが新弁務官に就任.2年4ヶ月にわたり統治.立法委員会を組織し,スペイン法に代わる米国式法体系の整備に力を注ぐ.同時に王室料だった森林をルーズベルトの息のかかった砂糖工場に売り渡し,私腹を肥やしたという.

10.23 ルーズベルト米大統領、キューバ統治を軍にゆだねる。キューバ暫定知事は、国務省ではなくタフト軍事長官の直接管理の下に入ることとなる。

10.24 反対分子の全ての武器がハバナ港から曳行されて、メキシコ湾に放り込まれる。

06年11月

11.03 エストラーダの与党だった中道党が、正式に解散される。多くが保守党へ流れる。

11.27 マグーンは、「8月小戦争」の被害に対する補償要求を解決する委員会を設置。キューバの税金による米人地主の救済を図る。

11月 キューバで、米国の保護領となることをもとめる運動が始まる。米国でもキューバ併合論がふたたび台頭。アラバマのJ.T.モーガン上院議員は、ピノス島の領有を主張。カラム(Cullom)上院外交委員長は併合運動への支持を表明。

06年12月

12.03 ルーズベルト米大統領からの指示に従って、タフト法令(10月12日発令)が廃止される。これにより、1905年12月1日と1906年3月19日に選ばれた議員は、その「任期」の終了まで給与を受け取ることとなる。ただし立法権はないので、事実上の飼い殺し。

12.03 マグーン、1年前の選挙を無効と宣言。「平静と住民の信頼が全面的に回復されるとき、新たな選挙が行われるだろう」と表明。

12.24 マグーンは、立法に関する顧問法委員会を組織し,スペイン法に代わる米国式法体系の整備に力を注ぐ.委員会は9人のキューバ人と3人のアメリカ人から構成され、エノク・ハーバート・クラウダー大佐が委員長に就任。キューバ側からはアルフレード・サヤスとファン・グアルベルト・ゴメスなどが参加。ゴメスは委員会の幹事を務めた。

06年 バリニョ,労働党を発展させキューバ社会党を創立.

06年 アグスティン・マルティン・ベロス、ブラス・ロカ、フランシスコ・ロサレスら、マンサニーリョで最初の「キューバ共産党」を結成。(一説によれば、当時は労働者党を名乗ったが、共産党創立に際し合流し、主流派の一角を形成。ブラス・ロカが創立メンバーだったかに関しては眉唾です。彼の生年は1908年とされています)

06年 元キューバ執政官レオナード・ウッド将軍,フィリピンのジョロ島で900人の女性,子供をダホ火山の噴火口に投げ込み虐殺.事件が発覚し政治的生命を終える.

1907年

3月 有色人種独立党が設立される。党はエストラーダの「共和国」が黒人住民を裏切ったと非難。人種戦争が始まるとのうわさが、キューバで流布する。(この日付については疑問が多い)

4.08 米国軍事長官タフトが2日間ハバナを訪問。

4月 米国最高裁、米軍の占領するピノス島が事実上のキューバの領土であるとの判断を示す。

5.08 マグーン、あらたな国勢調査の実施を指示。

7月 大量の中道党員を迎えた保守党が正式に創立される。マリオ・ガルシア・メノカルが率いる。このあとキューバの選挙は「原則」ではなく、パーソナリティによって争われることとなる。

9.26 「外国人の資産を燃やすために」共謀したとして、Juan Masso Parra, Lara Miret and Juan Ducasseら7人がハバナで逮捕される。政府は「マッソの陰謀」と名づけ、保守党の一部が米国への併合を計るために企てた反乱計画と主張。

9.30 ビクトル・ウーゴ・オルムステッドを委員長とする国勢調査委員会が作業を開始。

10.31 「8月小革命」の被害請求総額がまとまる。総額は863万ドルに達し、政府の“つけ”として残される。

11.14 国勢調査は、完了。人口は205万人.1899年の国勢調査から30パーセント増加。Allan Reed Millettは「1907のキューバには、肉屋より多くの医者がいた。技師よりも弁護士の方が多かった」と述べている。

07 中央鉄道労働者のスト,無政府主義者の指導で全国に広がる.

07 マグーン政権の下で白色化法が成立.黒人優位の人口構成を変えるため,ヨーロッパ人移民の積極的受け容れを図る.

 

1908年

3月 大統領選挙をめぐり、自由党が二派に分裂。サヤスが率いる執行部に対し、独立戦争のベテランを中心とする「伝統派」が、「05年の候補指名は依然有効だ」として、ホセ・ミゲル・ゴメスを大統領候補に推す。サヤスらは自由党の名を保持し、ミゲル・ゴメスの党大統領候補としての資格はすでに喪失したと主張。キューバ政界はサヤスを推す自由党主流派(サヤイスタ)、伝統派(ミゲリスタ)、保守党の三派で構成されることになる。

3月 国勢調査の結果は、発表される。人口は2,048,980人、1899年に比し30%の増加を示す。出生率は9.6から19.8まで増加。

4 米軍撤退に備え,米軍の指導の下にキューバ国軍が編成される.反乱撃破能力を目標とする。

5 独立戦争を戦った黒人層は,公民権実現と政治への参加を求め有色人種独立同盟(Agrupacion Independiente de Color)を結成.後にPartido Independiente De Colorに改称。エバリスト・エステノス(ラスビリャス)とペドロ・イボネト・ミランダ(サンチアゴ),グレゴリオ・スリン(黒人ジャーナリスト)らがひきいる.白人を含め多くの人士を結集.議会ではフレイレ・デ・アンドラーデとラ・コステが支持の論陣を張る.

8.01  6つの州の知事、28の市長を選ぶ地方選挙が施行される。メノカルの国民・保守党はそのうちの三つを除き敗北。ゴメスのひきいる自由党が大勝利。マンサニージョを地盤とする労働者党(後に共産党の主流となる)や独立有色人種党(黒人の公民権を主張する)も選挙に参加.

8.07 ハバナで有色人種独立同盟が設立される。新聞「展望」(Prevision)を創刊。(PICの創立をめぐっては07年3月、08年5月と8月の三つの説があることになる)

10.01 キューバ平和維持軍に所属する米兵への給与支払いが85万ドルに達する。

11.04 エストラダ・パルマ、バヤモの自宅で、失意のうちに死亡。マグーン、エストラダ・パルマの未亡人が年5千ドルの年金を受けられるよう指示する。

11月 大統領選をめぐり、議会自由党とミゲリスタのあいだに合意成立.いずれが勝利しても1期のみという条件で米国の監視下に大統領選を行なうこととなる.

11.14 大統領選挙の結果,ラスビリャス州知事ホセ・ミゲル・ゴメス将軍(自由党右派)が共和国第二代大統領となる.副大統領には旧自治主義者のアルフレド・サヤス・アルフォンソが就任.保守党からはマリオ・ガルシア・メノカルが立起するが敗れる.

11.14 国会議員選挙。自由党は下院の83議席中51議席を獲得し勝利。

08年 キューバ東部鉄道会社設立.中央鉄道とならび国内の鉄道を支配.このころ鉄道総延長は1千3百キロに及ぶ.

08年 日本人移民のピノス島(当時米軍統治下)への集団入植がはじまる.移民はピノス島を「松島」と呼ぶ。第二次大戦前のピークで百数十人.

1909年

1.08 マグーン,ゴメスに全権を引き渡し退任.マヌエル・サンギリーが国務長官に,マルセリーノ・ディアス・デ・ビジェガスが蔵相に就任.

1.26 公務員とホテル・レストラン労働者に対し8時間の労働が確立する。

1.28 米軍撤退完了.JMゴメスに全権が移譲される.(一説に3月末日)

1.29 ハバナPost紙、「マグーンの作業は、広範囲だった。それは全て受け入れられた」と賞賛。

2.01 JMゴメス,大統領に就任.好況に支えられ陸軍,海軍,沿岸警備隊などを強化,権力基盤を固める.キューバGE社重役でサンタクララ市長のマチャードは労相として入閣,下水労働者のスト弾圧に実績をあげ注目される.

ゴメスと汚職: ゴメスは4年間の任期中,汚職に汚職を重ねた。飽くなき金銭欲から「サメ」とよばれる.国営宝くじを発行し,もうけを自由党員で山わけするなど政権腐敗はその極に達する.

2.25 ゴメス大統領は、国会に対し、新しい軍のための予算を要請する。司令官に腹心のゲラ(Guerra)を充てる.軍隊の維持のため電話の独占権を米企業に与え1600万ドルを獲得.

09年 プラット条項に反対する併合反対連盟(Liga Antiplastica)がハバナで結成される.

09年 有色人種同盟,全国政党の結成を決定.分離主義の傾向を強める.オリエンテに黒人共和国をとのスローガン.この頃ヨーロッパの移民増加により,黒人の比率は27%にまで減少.これにともない,黒人層はさらにマージナルな層として抑圧されるようになる.

1910年

2月 有色人種独立党が勢力を拡大、146の地方の委員会を確立。サンタクララでの53、オリエンテでの36、ハバナでの32、ビナル・デル・リオでの13とマタンサスでの12。黒人の少ないカマグエイには委員会は結成されず。

2.13 親スペイン紙「エル・ディアリオ・デ・ラ・マリーナ」、Joaquin N. Aramburuの論文を掲載。「キューバ人が“文明的、科学的な独裁国家”の賢い声に耳を傾けていれば、島は現在の“人種問題”を避けることが出来ただろう」とし、独立戦争に黒人を巻き込んだことの歴史的誤りを批判。

4.22 ハバナで有色人種独立党のリーダーが一斉逮捕される。主なメンバーは、エステノスのほか, Julian Valdes Sierra, Antero Valdes Espada, Mauricio Lopez Luna, Agapito Rodriguez Pozo and Jose Ines Garcia Madera。それぞれについて1万ドルの保釈金が定められる。

4.23 有色人種独立党の地方幹部17人も捕らえられ、ハバナに護送される。年末までに島中で220人以上の党員が逮捕されて、ハバナに起訴のために送られた。罪状は「不法に結社を組織し、武装革命の陰謀をめぐらせた」というもの。

4月 ミゲル・ゴメス派の新聞「エル・トリウンフォ」は独立党を「ハイチ化を目指す党」と攻撃.

5月 人種間の離反を恐れるマルティン・モルア・デルガド上院議長,「同一宗教、同一人種または同一色の人間によって構成される運動」を禁ずる憲法修正条項を提案.これにより有色党の選挙活動が不可能となる。

モルア法: ミゲル派の新聞「エル・トリウンフォ」は独立党を「ハイチ化を目指す党」と攻撃.モルアはヒベルガとともに黒人ながらプラット修正に賛成した穏健派の指導者.イタリア人など白人少数派も結集しながら全人種を融合させることを最も重要なことと考え,黒人の自立を求める闘争を黒人運動に有害なものとして排撃.グアルベルト・ゴメスもモルアを支持.

5.20 有色党はモルア法廃止に向け闘いを組織。サフラ(サトウキビの収穫)の終了を機に、黒人が島中で抗議行動を開始。これらの行動は直ちに弾圧されるが、グアンタナモでは闘争が長期にわたる。

9.12 ポンセ司法長官、有色人種独立党のメンバー77人のうち57人を釈放。残りのメンバーについても、保釈金を3千ドルに引き下げる。釈放された幹部はアンテロ・バルデス・エスパーダ、マウリシオ・ロペス・ルーナら。残り20人は依然として獄中に置かれる。

11月 国会議員選挙。独立党はモルーア修正のため立候補できず、選挙活動も一切封じられる。

12.08 官公庁の労働者の最低賃金を定める新法が制定される。

12月 有色人種独立党の20人のメンバーに対し無罪判決が下される。

無罪判決を受けた主な独立党幹部: エバリスト・エステノス、アガピート・ロドリゲス・ポソ、ホセ・イネス・ガルシア・マデーラ、フリアン・バルデス・シエラ、フランシスコ・デ・パウラ・ルーナ、クラウディオ・ピント・イリバレン、ヘロニモ・モラン・フェルナンデス、ラモン・カルデロン・モンカダ、その他

 

1911年

9.11 黒人歌手Bola de Nieve(本名Ignacio Villa)がグアナバコア(ハバナ)で生まれる。

1911 独立運動の先覚者バレラの遺体, ハバナに改葬される.

1911 なぞの爆発の後沈んだ戦艦メイン号が引き揚げられる.調査した結果、戦艦が内部から爆破されたことが明らかになるが,アメリカは80年にわたり事実を秘匿.

1912年

2 メイン号撃沈記念集会に列席するため,ノックス国務長官がハバナを公式訪問.

3月 政府,モルア修正を利用して有色人種党への弾圧を強める.有色人種独立党の指導者を反逆の容疑で一斉拘禁.

4.23 ヘラルド・マチャド、ミゲル・ゴメスの内閣から辞任。現政権の「憎悪と排除の論理をもとにした分離と抑圧の政策に反対する」と述べる。

4 モルア,農相に就任直後,急死.国葬に付される.

12年5月 有色人種党の反乱

5.12 オリエンテでは弾圧に抗議し武装蜂起の動き.米国,キューバ政府に対し「我が国の市民の人命・財産の保護にあたるべく,米艦隊および海兵隊が貴国領海内に待機」すると通告.ゴメス大統領はこの干渉を民族自決権の侵害であるとして抗議.

5.17 エバリスト・エステノス、サンチァゴを訪問。共同創設者のペドロ・イボネットと会談。エステノスは5月20日の「共和国記念日」を期して、全島規模でのデモを提起。

5.20 オリエンテとサンタクララで有色人種独立党の武装デモ。黒人労働者4千人が起ち上がる.保守派の推定では、オリエンテで300ないし600人、サンタクララで60人の参加にとどまる。ハバナ、ビナル・デル・リオ、マタンサスとカマグエイは決起せず。(その後の戦闘経過を見れば、これは過小評価であろう)

5.20 エステノス、ソレダード製糖工場(米資本)を襲う。「武器の引渡しを拒否すれば、農場を焼き討ちし工場を破壊する」と管理人を脅し、25丁の銃と弾薬を強奪。

5.20 有色人種党の反乱開始.ラ・マヤとアルト・ソンゴを焼き討ちしたあと森に篭もり抵抗を開始.最高時6千の兵力に達し,オリエンテ州の広範な地域で支配を確立.(この記事も全体の経過とは時期的に矛盾する。6月1日とするのが正しいだろう)

5.20 米国政府はダイキリでの海兵隊を上陸させ、キューバ政府に「米国人の生命・資産を保護できなければさらなる行動をとる」と通告。(A Short History, edited by Leslie Bethellによる。実際に上陸したのは5.31という説もあり、そちらの方が説得力がある)

5.21 ミゲル・ゴメス、米軍の出動提案を拒否するいっぽう、軍隊をオリエンテに派遣することを決定。

5.21 政府の討伐軍がオリエンテに向かう。マチャドが指揮をとる(抗議の辞任をしたばかりの人物が司令官というのも変ですが).

5.24 米国政府は、グアンタナモ基地の海兵隊員に、アメリカの生命と資産を保護するために行動する許可を与える。Prairie, Nashville, and Paducahの三隻の軍艦がキューバに向かう。

5.25 米政府、艦船をキューバ領海内に進出させ、反乱を威圧。ノックス国務長官「米国は危機がさしせまって,どこかで上陸作戦を展開しなければならない場合,キューバ政府に諮ることは出来ない」と脅迫.

5.25 オリエンテでの弾圧作戦と平行して、全土で反黒人キャンペーンが開始される。新聞各紙は、「激情的で、暴力的で無責任な黒人が人種戦争をたくらんでいる」と書きたてる。

この時点ではまだ反乱は起きていない。資産または物理的な損害がなくても、新聞は「人種戦争」と書き立てた。Aline Helgは、「弾圧は独立党の行動に先駆けて起こった」としている。

5.26 カンポス・マルケッティ下院議員、10日以内に投降した反乱軍参加者に対して恩赦を与えるよう提案。

5.27 議会、政府のオリエンテ方針を支持するとの決議を満場一致で可決する。マルケッティの恩赦提案は無視される。

5.27 ノックス国務長官は,オリエンテにおける米国市民の権益を保護するため,海兵隊のダイキリ上陸を指示.

5.27 モンテアグード将軍がゴメスの私兵団7千の司令官としてオリエンテ掃討を委ねられる。ハバナから巡洋艦に搭乗し、オリエンテに向かう。彼の部隊は、後にその残虐ぶりで有名となる。

5.27 保守系紙エル・ディア、「支配された人種は服従する。米国に倣い黒人を差別し隔離すべきだ」と主張。

5.31 海兵隊はキューバ政府の拒絶を無視してサンチアゴ附近のダイキリに上陸し,米国人資産の監視にあたる.また別の艦船がニペ湾に送られ米系企業の保護にあたる.米政府は、「キューバ政府が米国市民の生命・資産を保護することに失敗するなら、さらなる行動をとる」と声明。

5.31 オリエンテで指揮を執るカルロス・メンディエタ将軍、「軍の新しい機関銃の効率を目撃しよう」とジャーナリストを誘う。彼は黒人住民の収容施設に向け発砲。150人の非武装黒人農民が死傷する。「負傷者の呻き声は山々にこだました。そのあと何日も、死体を狙うハゲワシが上空を旋回した」(生存者の証言)

5.31 オリエンテのインデペンディスタ、限定的なサボタージュで彼らの意思を示そうとする。彼らは橋、郵便局、鉄道駅とサンタ・セシリア砂糖会社の警備員宿舎を燃やした。これがインデペンディスタの最初の武力行動である。

12年6月

6.01 ファン・グアルベルト・ゴメス、独立党を非難する声明を発表。黒人有力政治家との共通の立場を強調。白人人種主義の台頭に配慮し、独立党と一線を画す。

6.01 イシドロ・サントス・カレラの率いる独立党活動家が、黒人の住むオリエンテのラ・マヤの町を制圧。政府派の住民の家屋を燃やす。この行動が弾圧の火に油を注ぐ結果となる。

6.02 独立党、ラ・マヤの製糖工場や公共の建造物を焼き払う。その後森にこもる。

独立党部隊の戦い: 独立党部隊は最高時6千の兵力に達し,オリエンテ州の広範な地域で支配を確立.武器を持たない彼らは、道路・橋を破壊し、鉄道駅・郵便局・製糖工場の事務所・地方警備隊の兵舎に放火するなど限定的なサボタージュ作戦を展開。

6.02 ゴメス政権は非常事態を宣言しオリエンテ州における法の保証を停止.2週間で「反乱」を鎮圧.現地警察の指揮官アルセニオ・オルティス大尉は,地方警察2千名を動員.反乱軍兵士の耳を削ぎ,その数をマチャドに報告.

6.03 ゴメス大統領、議会に対し戒厳令を宣言する権利をもとめる。

6.05 ハバナにも米艦ワシントンとロードアイランドが進出。沖合いで海兵隊約2,500人が待機体制をとる。

6.05 議会、ゴメス大統領の要請を承認。

6.06 ゴメス、全土に戒厳令を公布。国民に向け演説。アカ新聞のデマ報道を受け売りし、キューバを「強姦された教師」にたとえ、独立党の「凶暴性」に対し「文明の力」で闘うと訴える。後に「強姦」のエピソードは保守系の新聞がでっち上げたデマであったことが判明する。

6.07 議会、独立党を抑圧するため100万ペソの国庫支出を承認。大統領に戦争大権を与える。ヘラルド・マチャドの指揮する政府の討伐軍は2週間で反乱を鎮圧.現地で指揮を執ったアルセニオ・オルティス大尉は,地方警察2千名を動員.反乱軍兵士の耳を削ぎ,その数をマチャドに報告したという.

6.09 Beaupre領事、国務省に「心理的効果を増大させるため」、ハバナに軍艦を入港させるようもとめる。

6.10 軍艦ワシントンとロードアイランドが、ハバナに入港。海兵隊約2,500人が上陸。7月1日まで滞在。

6.12 アルセニオ・オルティス大尉、反乱軍指導者のグレゴリオ・スリンを捕らえる。この戦闘で45人が殺される。

6.15 保守党のメノカル将軍、軍に支援を提供。オリエンテに所有するChaparra製糖工場から、1,000人の騎兵隊を選抜し派遣する。

6.17 フランス領事アンリ・ブリョア(Bryois)の本国への報告: 「私は以下の点が本当のところと考える。大統領と独立派のあいだには再選挙について合意がある。大統領は救済者となり、“サンジョルジュの騎兵”が演じられることになるだろう」

サンジョルジュの騎兵”をグーグルで検索したら、次のような記事がありました。http://blogs.yahoo.co.jp/desaixjp/archive/2008/7/6
ナポレオンのイタリア遠征時、フランス軍の騎兵大隊長がサンジョルジュでオーストリア側の槍騎兵指揮官と一騎打ちをしたという話が報告されている。「市民デュヴィヴィエは彼の大隊を止め、敵の指揮官に向かって『お前が勇敢なら、私を捕らえてみせろ!』と叫んだ。二つの部隊は足を止め、両指揮官は戦いの実例を示した。槍騎兵の指揮官はサーベルで2回打たれ、負傷した。

6.20 ハバナ各紙、ブリョワ仏領事が独立党の陰謀に加担していたと非難。ブリョワは黒人虐殺を当初より批判していた。キューバ世論の圧力に押され、フランス政府はブリョワを召還。

6.22 この日までに700人以上の反乱軍が降伏。およそ500人がひそかに家に帰ったとされる。

6.25 モンテアグード将軍、ミカラで独立党主力と対決。政府軍は反乱軍兵士を、「何人殺したかわからないくらい」大量虐殺する。残党50名ほどがアルト・ソンゴ方面に逃走。

6.27 反乱軍、アルト・ソンゴ近郊で壊滅。エバリスト・エステノスは50人の仲間とともに殺害される。彼の遺体は「ハエに包まれて」サンチアゴでさらされる。その後の白人によるリンチで黒人3千人が殺害される.

6.30 米海軍の艦船、キューバ領海内から撤退。ハバナの海兵隊は8月5日まで駐留を続ける。

12年7月

7.15 オリエンテで戒厳令が解除される。

7.18 最後まで抵抗を続けたイボネット・ミランダが、エル・カネイの近くで当局に降伏する。その後、「脱走しようとして」殺害される。イボネットの遺体もさらしものにされる。イボネットとエステノスの遺体は共同墓地に埋葬された。反乱軍の記憶を呼び覚ませるシンボルとならないようにするためといわれる。

7 反乱鎮圧にあたった米国は,国内の安定維持のため4基地の貸与を要求,キューバはグアンタナモとバイア・オンダの二つにしぼるよう提案.

7月 独立党の残党は、「人民の友」と名を代え活動を続けるが、影響力はほぼ消滅する.

12年8月

8.07 黒人反乱者500人がサンチアゴからハバナに移送される。

10月 大統領選を控え、自由党からはサヤスが立候補。保守党のメノカルは「誠実,平和,仕事」をスローガンとして自由党に対抗。再選を禁止されたゴメスは、後継候補サヤスの推薦を拒否.メノカル支持に回ることで利権の維持を図る.

10月 議会,独立以前にスペイン政府のために働いていたものを公職追放する法律を制定.フレイレ・デ・アンドラーデが起草.

12.11 大統領選.ゴメスと組んだ保守党のメノカルが、自由党のサヤスを破り当選.

12.27 米国とキューバ、基地貸与について合意。米国がバイア・オンダを放棄する代わりにグアンタナモ基地を拡大.年地代を5千ドルとすることで合意。

1912 禁止された移民労働者に代わり,ハイティ,ジャマイカからの季節労働者が急増.「ゴロンドリーナ」(つばめ)と呼ばれる.

1913年

5.20 メノカル,新大統領に就任.副大統領には哲学者のエンリケ・ホセ・バローナ.国務長官にはコスメ・デ・ラ・トリエンテが就任.自由党多数派は国民=保守連合を組んでメノカルに対抗.プラット修正条項の廃棄を求める蜂起.メノカル当選後,ゴメスは着服した800万ドルでコラル・ゲイブルズに隠退.

13 この年,砂糖生産量は200万トンを越す.

1914年

7 第一次大戦勃発.欧州における甜菜糖生産の低下により,砂糖市場は空前の好景気.生産量は260万トンに達する.労働力不足から「外国人労働者入国規制法」が一時緩和される.最初の日本人集団移民「小川移民」75人がハバナに上陸.

14 メノカル,職業的,非政治的な恒久的軍隊の編成にとりかかる.ホセ・マルティの息子サヤスバサンを軍司令官に指名し.1万1千名を組織.他に空軍や海軍の編成にも着手.

1915年

15 第一回全国労働者大会,ハバナで開催.メキシコ革命の影響を受けた労働者は,クルース宣言を発表.武装闘争の構えを示す.ラスビリャスでキューバ農民連合結成.農民のストライキは地方警察の残虐な弾圧により敗北.

15 「国際権利のためのキューバ人協会」(Sociedad Cubana del Derecho Internacional)が結成される.「1901年の屈辱を忘れるな!」をスローガンにプラット条項撤廃のキャンペーンを展開.

1916年

11.01 大統領選.再選をねらうメノカルにたいし,自由党のサヤスが圧倒的に優勢となる.メノカル,投票用紙の偽造など不正選挙により大統領に再選.ラスビリャス、オリエンテの州政府は選挙の無効を宣言。

1917年

17年2月

2.09 開票の不正操作に抗議する「チャンベローナの反乱」発生.しゴメス前大統領を指導者としラス・ビリャスで蜂起開始.その後サンチアゴ,カマグエイに広がる.メノカル側2万5千に対して自由党側は1万7千といわれる.

2.14 ラスビリャスで大統領選挙の再投票が行なわれる。

2.18 ロバート・ランシング国務長官、メノカル政府に対する支持を表明。

2.24 ウィルソン大統領はゴメスの蜂起を不法かつ違憲行為と判定.米艦船をキューバに派遣.

17年3月

3.01 治安回復のためグアンタナモ基地から2千名の海兵隊を出動させる.米艦隊がカマグエイ沖に到着.

3.07 自由党軍主力、ラス・ビリャスで政府軍に包囲され、ホセ・ミゲル・ゴメスが降伏。ヘラルド・マチャドはさらに抵抗を続ける。

3.08 ラスビリャス州プラセタス近郊でカイカヘ(Caicaje)鉄道をめぐる争奪戦。ホセ・マルティJrのひきる政府軍が圧勝.自由党軍に加わったマチャドは逃げようとして落馬し大怪我を負い逮捕される.その後もオリエンテ,カマグエイ,サンクティ・スピリトゥスでは抵抗が続く.

3.20 カマグエイ州Arroyo Hondo近郊の戦い。反乱軍はふたたび敗北し、オリエンテに逃げ込む。

3.30 オリエンテに逃げ込んだ自由党の反乱軍、政府軍に降伏するが武装解除せず。

17年4月

4.07 メノカルの大統領当選が確定.

4.15 海兵隊,サンチアゴ上陸開始.反乱軍の一派はサンチアゴ市の金庫から20万ドルを奪いハイチに亡命.ハイチ駐留の海兵隊に逮捕される.

4.17 米国,ドイツに対し宣戦布告.メノカルもただちに第1次世界大戦への参戦を決定.米海兵隊の訓練基地としてカマグエイの基地を提供.

4.18 Gustavo Caballero将軍の率いるオリエンテの反乱部隊、政府軍に敗北。40名が死亡。残党はさらにカマグエイ方面に逃れる。

17年5月

5 海兵隊2600名がカマグエイまで進出し反乱を鎮圧.米軍は反乱部隊に恩赦を与えることを条件にメノカル支持の方向を打ち出す.メノカルがこの条件を受け入れたため,反乱は平和裏に解決.海兵隊は22年までカマグエイに残留(第二次介入).

5.20 メノカル、二期目の大統領に就任.任期中,メノカルの個人資産は4千万ドルにまでふくれ上がる.政官界のすみずみまで汚職体質がひろがる.メノカルは,その専制的態度から「カイゼル」と呼ばれる.

1917 契約移民の入国禁止が一時解除.このころメキシコ,ペルー,パナマなどからのキューバへ転航する日本人移民が数十人に達する.

1918年

18年 70歳のバリーニョ,ロシア革命を受けハバナ共産主義協会を設立.

18年 離婚法成立.

1919年

19 米国,禁酒法時代に突入.キューバは米国の歓楽地帯として発展,「カリブのモンテカルロ」とよばれる.

19 人口調査.総人口は289万人で,07年から12年間で1.4倍となる.

1920年

5月 第一次大戦終結後、米国は空前の好況を迎える。これに伴い国際砂糖相場は昨年末の1ポンドあたり7.28セントから22.51セントに暴騰,砂糖輸出高は10億ドルに達する。これは1900年から1914年の総販売額を上回る。第2の「札束乱舞の時代」(バカ・ゴルダ)と呼ばれる空前の好況を記録.

6月 砂糖の価格は、ポンドにつき20.31セントに落ちる。7月には18.56セント、9月には10.78セント、12月には5.51セントに落ちる。

10.6 キューバの二大銀行バンコ・ナシオナルとバンコ・エスパニョールなど銀行がいっせいに破産.政府は緊縮財政に転換.

10 大統領選を控え、自由党はサヤスの指名を拒否しゴメス元大統領を候補に推す.サヤスは自由党を離れキューバ人民党(Partido Popular Cubano - PPC)を結成.米国の指示を受けたメノカルはサヤスと妥協.PPCとともに国民同盟を結成しサヤス支持にまわる.

11.01 大統領選挙でサヤスが「当選」。しかし開票はまたしても混乱.選挙管理委員会は最終結果を集計できず.

12 砂糖価格.3セントまで暴落.中小砂糖製造業者の75%が破産し,米資本の下に入る.政府はモラトリアムを宣言.砂糖価格はその後の20年間3セント前後にとどまる.ニューヨークのナショナル銀行は金融危機に乗じ60の砂糖工場を買いあさり,世界の砂糖輸出の25%を独占する.

12.31 ウィルソン米大統領、キューバの大統領選挙を無効と宣言.事態収拾のため,特使としてエノック・クラウダー将軍をハバナに派遣することを決定.キューバの政府との協議はなし。

20年 ハバナ労働者連合(Federacion Obrera de la Habana)が設立される。アルフレード・ロペスとエンリケ・バローナが指導。