パラグアイ年表

 1600年以前の事項に関してはアルゼンチン年表に一括。

1600

00年 この頃、三千人のスペイン人征服者・定住者がパラグアイにはいり、トゥピー・グアラニー語系先住民女性を妻とする。

06 イエズス会,パラグアイ東部、南東部および南部地域で布教活動開始.アスンシオンとその隣接諸村にはフランシスコ会が入る。

10 イエズス会,パラグアイに教団国家の建設を計画.グアラニー族を相手にレドゥクシオーネス(教化村)を建設.最盛時には先住民人口の半分にあたる15万人を「教化村」に組織。東は現ブラジル領のウルグアイ河東岸におよぶ.

17 ラプラタ地方,アスンシオン地域とブエノス・アイレス地域に分割される.

31 ブラジルのイエズス会神父アンティエテ,奴隷狩を避け黒人奴隷1万8千人とともにミシオネス州サン・イグナシオに逃れ,教化村を建設.最盛期,その数は30に達する.

1700

07 この年の報告ではイエズス会の30の教化村が作られ,グアラニー人10万人が暮らしていた.教化集落のグアラニーを奴隷として使用したいクリオージョに対し,イエズス会は総監を抱きこんでこれを退けたため,イエズス会とアスンシオン市民が対立.

17年2月05日 Diego de los Reyes Balmacedaがパラグアイ総督に着任。以下の日付はhttp://www.worldstatesmen.org/Paraguay.htmlによる。アスンシオン市議会(カビルド)は,イエズス会を擁護するバルマセダをチャルカスのアウディエンシアに告発。

21年8月 チャルカスのアウディエンシア、調訴官ホセ・デ・アンテケーラをアスンシオンに派遣。

アンテケーラ(José de Antequera y Castro): 法律家。1689年にパナマで生まれた。パナマのアウディエンシアでの聴聞官を勤めた後、スペインに渡り騎士に列せられた。新大陸に戻ったアンテケーラはチャルカスのアウディエンシアで先住民保護官の地位についた。

21年12月15日 アンテケーラはバルマセーダ総督の不正を追及、放逐し、自ら総督代理の地位につく。

22年6月6日 バルマセーダがいったん総督に復帰するが、アンテケーラはカビルドの支持を得て年内にバルマセーダを排除し、ふたたび総督となる。アンテケーラはペルー副王ホセ・デ・アルメンダリス(José de Armendárizの重税政策に対抗し,「民意を第一とし施政はその総意をもって行うべき」と主張.

23年 権力を強化したアンテケーラはイエズス会士を追い出したあと、Garcia Rosの率いるブエノスアイレスの王党派勢力を破る。バルマセーダはコリエンテスに逃げるが、Antequeraは隠れ家を急襲し、彼を捕らえた。

24年 アンテケーラ、「人々の権利は、王の権利に勝る」と宣言。リマ副王アルメンダリスは、アンテケーラがパラグアイ王国の設立をたくらんでいるとし、ブエノスアイレス総督ブルーノ・マウリシオ・デ・サバラ(Zabala)に反乱鎮圧を命令。サバラはイエズス会に属する先住民6千人を招集して部隊を編成。

1725年3月 サバラ軍がアスンシオンを占領。アンテケーラはコルドバのフランシスコ会士修道院へ逃げたあと、そこからチュキサカへ帰還するが、リマ当局の指示により逮捕される。

1728年3月18日 アルメンダリスの許可を受けたイエズス会がアスンシオンのコレヒオで活動を再開する。

1728年9月4日 アンテケーラ、リマ市内での行動の自由を認められる。チャルカスのアウディエンシアに対し、パラグアイでの行動を弁護する文書を送るが認められず。

1730年 アスンシオンでフェルナンド・モンポ(Mompox)・デ・サヤスの率いる反乱が発生。人民主権を主張して多くの貧しい入植者を引きつける (アンテケーラとモンポの反乱を併せて「コムネーロスの反乱」と称される) 。

1731年7月5日 マドリードの王室政府、アルテケーラに対し死刑判決。アルテケーラはリマの広場で斬殺され、首はさらされる。

50 マドリード条約締結.スペインはサクラメント(現ウルグアイ)を手に入れるかわりに,ウルグアイ川東岸地域のシエテ・ミシオネスをポルトガルに割譲.

52 シエテ・ミシオネスに教化村を営んでいたイエズス会,ブラジルからの侵入者にたいしグアラニー族をひきい武力で排斥(56年も)

61 マドリード条約破棄.翌年から戦闘が始まる.スペインはリオグランデ・ド・スルとサンタカタリナを占領.

67 イエズス会,教化村に15万人のグアラニー族を組織.バンディランテスの襲撃に対し武装を教化.イエズス会の勢力伸張を恐れたスペイン,新大陸からのイエズス会の追放を決定.教化村資産は植民者により掠奪される.

76 ブエノスアイレスにリオ・デ・ラ・プラタ副王庁設置.ウルグアイ,パラグアイ,ボリビアの一部を含む.メキシコ,ペルー,ヌエバ・グラナダとならぶ副王領.パラグアイは辺境の地になり,ブエノス・アイレスに対し隷属的な立場に置かれる.

1778年 カルロス三世、Antequeraへの評決を無効にし、忠実な新民であったと宣言する。

90年 Lazaro de Rivera 総督が着任。重税を課し国民の不満が高まる。

 

1800

08年 ラプラタ副王領、ナポレオンが征服したスペインに対し自治を宣言。

1810

5.25 ベルグラノ将軍にひきいられた革命軍,スイパーチャでの副王軍との戦闘に勝利.実権を獲得(5月革命).政務委員会議長にマリアノ・モレーノが就任.ブエノスアイレスを自由港と宣言.アルトペルー(ボリビア),コルドバ,パラグアイ,東方連合(バンダ・オリエンタル,現ウルグアイ)はこれに従わず.独自の動きをしめす.

1811

5.14 アスンシオンの独立派,ブエノスアイレスからの自治を求め蜂起.

5.15 アスンシオンの市会,自治を求める革命的フンタを結成.カビルド法律顧問のホセ・ロドリゲス・フランシアを司令官とする.

6.11 パラグアイ,トゥクマンの闘いに勝利し,ブエノスアイレスからの独立を宣言.鎖国下に自給自足体制をとる.ブエノスアイレスはパラナ河の封鎖で圧力をかけるが,パラグアイは,外国貿易を犠牲にしても独立を選ぶ.

8.14 パラグアイ,副王のインテンデンテ(県令)を放逐し,スペインからの独立を宣言.

1813

5.14 パラグアイ,蜂起2周年を記し独立を宣言.

10.12 パラグアイ,本国とブエノスアイレスの双方に対し独立共和国樹立宣言.スペイン軍にたいし蜂起.ホセ・ガスパル・トマス・ロドリゲス・デ・フランシア,フルヘンシオ・イエグロスとの二頭政治を敷く.

14年 フランシア,軍の統治権をあわせもつ最高執政者(エル・スプレモ)に就任.アスンシオン教区神父は解任されフランシアが教区代表となる.国民は一切国外との連絡が禁止され、出国もできず.有力氏族の相互婚姻はフランシアの許可が必要とされる.身辺には常に警護隊を置き暗殺を警戒した。フランシアが外出するときは,家の窓とドアは閉じることが命令され,外出もできなかった.

16年 フランシア,地方地主の支持を受けブエノスアイレス派を駆逐.終身執政官となり独裁政治を開始.ブエノスアイレス派の圧力に対し,無期限に外国貿易を禁止し,徹底した鎖国政策を採る.

1820年

1 アルティガス軍,ブラジルとの戦いに敗れ壊滅.アルティガスはパラグアイに亡命.50年に亡命先で死亡.

20 反フランシアの陰謀発覚.フランシアは百人以上を銃殺,残りも北部辺境地帯に追放するなど徹底した弾圧.身内や独立に功績のあったクリオーリョもふくめ白人を信用せず,原住民と白人との通婚を奨励ないし強制.土地の私的所有,奴隷制度や貢納制度を禁止.商人の活動を禁止.外資の導入,人の交流もいっさい禁止する徹底した鎖国政策をおこなう.一方で国内産業の振興,軍事力強化に傾倒.

1826年

26 フランシア,地主所有地の半分を没収して国民の財産とし,また教会の財産を没収し経済力の蓄積につとめる.

40.9 フランシア総統,74才で死去.

44.5.14 フランシアの甥にあたるカルロス・アントニオ・ロペス,大統領に就任.鎖国政策を捨て,輸出振興,産業基盤整備,公教育の充実など,近代化と富国強兵策につとめる.マテ茶の栽培・輸出を国営とし,外貨収入で軍備増強,多数の留学生の欧米先進国への派遣、最新技術の導入などを積極的に押し進める.

1845年

1 ロサス,リトラルを支援するパラグアイに対し交易禁止策をとり、圧力を強める.

53年 カルロス・アントニオ・ロペス大統領、鎖国を解き、英国、米国、ブラジルなどとの通商条約を結ぶ。

54 ロペス,フランシアについで終身大統領となる.識字率はLA諸国中最高となり,電信,鉄道網がひろがる.南米初の鉄道が建設され、製紙,織物,武器,製鉄工場が建設され,パラナ川を海軍の武装商船が行き交うようになる.

58 ブラジル,武力脅迫により,パラグアイから河川自由航行権を獲得.

62.10.16 フランシスコ・ソラノ・ロペス,亡父を引継ぎ大統領に就任.富国強兵策をとる.この時点で人口50万の国で7万の陸軍を擁する軍事大国となる(男性の三人に一人が将兵).

パラグアイ戦争

1863年

12 ブラジル,ウルグアイ居留民の安全がブランコ党政府のため脅かされているとして,フローレス軍支援のため軍事介入.

1864年

8 ブラジル,アルゼンチンの支持を得た上でウルグアイに軍を進出.アルゼンチンもブラジルの干渉を支持.この時点でウルグアイ国土の1/3を400家族のブラジル人地主が支配.ブランコ党は攻守同盟にもとづきパラグアイに援助を要請.

9 パラグアイ,パラグアイ河に停泊中のブラジル艦船マルケス・デ・オリンダ号を拿捕.

11.11 パラグアイ、ブラジルと断交。パラグアイ軍6500が,ブラジル領マトグロッソ南部に侵入.この時点でブラジル軍1万8千に対しパラグアイは6万4千の常備軍を配置.

12月 ソラノ・ロペスはコリエンテスにパラグアイ軍を駐留させるようアルゼンチンに要請.アルゼンチンはこれを拒否.ロペスがあてにしたアルゼンチン東北部の大地主たちは動かず.

1865年

2.22 ブラジル・コロラド派連合軍,モンテビデオを占領.ブランコ党政権を駆逐する.

3 パラグアイ、アルゼンチンにも宣戦布告。アントニオ・ベラクルス・エスティガリビアの指揮するパラグアイ軍6200人、エンカルナシオンからパラナ河を渡ってアルゼンチン領ミシオネス地方を席巻。

4 パラグアイ軍,ミシオネス州の首都コリエンテスを占領.ここに臨時政府を置く。アルゼンチン政府はパラグァイ軍のコリエンテス占領を侵略行為と判断.

5.01 ブラジル,アルゼンチンと,ウルグアイのコロラド党政権とのあいだで三国秘密同盟成立.5年間にわたるパラグアイ戦争始まる.

6.11 パラグアイ軍舟艇,リアチュエロに集結したブラジル海軍の艦隊を攻撃.リアチュエロはパラナ川を隔ててアルゼンチン領コリエンテスと向かい合う港町.当初パラグアイ有利に展開するが,火力に勝るブラジルが逆転.メサ提督は全艦に撤退を命じる.パラグアイ艦隊は7隻を失い、以後、河川の支配権を奪われる。

8.05 パラグアイ遠征軍,アルゼンチンのミシオネス回廊を突破、ブラジルのリオグランデ・ド・スルに突入.ウルガァイアナを占領.

9.15 ウルガァイアナのパラグアイ軍,2万のブラジル軍に包囲される.エスティガリビア将軍は、戦うことなく降伏.三国同盟はパラグアイに対し和平を提案するが,ソラノ・ロペスはこれを拒否.その後コリエンテス近郊で半年にわたり小競り合いが継続.

1866年

1月 アルゼンチン大統領バルトロム・ミトレ将軍が連合軍の司令官に任命される.実際には兵力の3分の2を占めたブラジル軍が主導権を確保.

1月 連合軍5万がパラナ河南岸アルゼンチン領のコラーレスに集結。パラグアイ軍は、パラナ河とパラグアイ川の合流地点トレスボカ(3つの口)周辺の軍事拠点パソデパトリアに兵力3万を集結し連合軍を迎え撃つ。

3月 補給線の維持が困難となったパラグァイ軍は,パラナ川地域からの撤退を開始.

4.16 艦船56隻、1万5000人の連合軍部隊が作戦開始。アルゼンチン兵を中心とする部隊がパラナ川を渡り、パラグァイ川を溯上.パラグァイ領南西部のパソデパトリア北方に突入.パラグァイ軍がパラグァイ川とパラナ川の合流地点に構築したイタピリュ砲台の攻略を目指す.

4.17 ブラジル海軍の砲艦の掩護のもと,カブリタルの指揮するブラジル兵部隊1万人がパラナ川を渡り,イタピリュ砲台正面に上陸.

4.17 パラグアイの特別攻撃隊は夜陰に乗じてパラナ河をカヌーで渡河、対岸のコラーレスに上陸して切り込み。

4.19 パラグァイ軍,遺棄死体600を残しイタピリュ砲台から撤退.

4月 さらに別のブラジル部隊がパソデパトリアにも上陸。パソデパトリアから北に撤退したパラグアイ軍は、トゥユティ周辺のべリャコ河湿地帯(エステロベラッコ沼沢地)の北に布陣。ホセ・ディアスの指揮するパラグァイ軍約5千が、北上する連合軍を待ち受ける。

5.20 連合軍はウマイタを目指し北上作戦を開始.ホセ・ディアスは連合軍の先鋒部隊を待ち伏せ.フローレス大統領の指揮するウルグァイ人部隊約2千を壊滅する.パラグアイ軍はその後本隊に圧倒され,2000人を越える戦死者を出し撤退.

5.24午前11時半 ウマイタからの兵を加えパラグアイ軍1万7000人(一説に2万5千人)が一斉攻撃。先鋒のウルグァイ軍を殲滅したパラグアイ軍は,ブラジル軍2個師団(約2万人)を攻撃.3時間にわたる白兵戦となる.

午後4時 アルゼンチン軍の前進により後方を脅かされたパラグアイ軍が撤退を開始.戦場にはパラグアイ軍兵士6000の死体が遺棄される。連合軍も死者4000人(一説に8000人)を出す.

7月 3国秘密同盟条約の全文が公表される。ラテンアメリカ諸国を中心とする国際世論は、いっせいに秘密条約を非難。ペルー,チリ,エクアドル,ボリビアは,「戦争はラテンアメリカの兄弟同士の争いであり,パラグアイの主権に対する侵害である」と非難.

9.02 連合軍,クルス保塁への攻撃を開始.クルス保塁はパラグァィ川に面し,ウマイタ要塞の外郭防衛線の最先端に位置付けられていた.パラグァイ軍はディアス将軍指揮下の防衛部隊2500人を配置.ミトレ連合軍司令官は,川側・陸側の両面攻撃を計画.リズボア麾下のブラジルの戦列艦20隻と,ブラジル兵を中軸とする第2軍団1万4000人(パランホス司令官)が編成される.

9.04 クルス守備隊,後方のクルパイティに引き上げる.この攻撃で連合軍側に800人の戦死者.

9.12 クルス陥落をうけたロペス,ミトレに休戦交渉を提案.ヤタイティの対論が行われる.両者が両軍の向かいあう中間線まで馬上で進み交渉.交渉はその場で決裂,戦闘が再開される.

9.22 連合軍,クルパイティへの艦砲射撃を開始.その後上陸作戦を敢行するが,ディアス将軍の巧みな作戦に翻弄され,連合軍の最前線部隊5000人がほぼ全滅.25個あった大隊のうち13人の大隊長が戦死.パラグァイ軍の戦死者はわずか54人.

10月 アルゼンチン国内の戦争反対論に押されたミトレ,内政多忙を理由として前線を離れる.フローレスもモンテビデオに帰国.残されたウルグアイ軍兵士は200人.残されたブラジル軍は,リマ・エ・シルバ将軍の下パラグアイ攻撃を続ける.

11月 ミトレ,クルパイティ攻撃の失敗の責任を取る形で、同盟軍総司令官を辞任.カシアス侯シルバがミトレに代わり総司令官となる.半年以上をかけて戦線の再編成に取り組む.

12 米国,停戦の仲介を申し出るが,ブラジルはこれを拒否.

1867年

1月 偵察任務で河岸に出ていたディアス司令官,ブラジル軍の艦砲射撃を受け死亡.

7.22 連合軍,迂回作戦を開始.ウマイタの教会を見通せる北方のサンソラノと呼ばれる高地を占領.ウマイタはアスンシオンまで200km、パラグアイ最強の要塞といわれる。この時点で連合軍は総勢4万5000人まで増強、うちブラジル軍は4万人に及ぶ.

8.18 連合軍はクルパイティ正面を突破.パラグアイ軍はクルパイティを放棄しウマイタに篭城.パラグァイ川の支配権を奪われたため,ウマイタとアスンシオンの連絡は困難となる.

11.02 バリオスの率いる8000人のパラグアイ軍が,トゥユティに野営する連合軍を急襲(第2次トゥユティの戦い).バリオスは250人の捕虜と14門の砲を奪取.

1868年

2.18 ブラジル海軍は新建造の3隻の装甲蒸気船を投入.これを加え43隻の艦船、4千の兵士がウマイタ要塞を攻撃。

2.19 連合軍,最北方のラシェール保塁の攻略に成功.3隻が防衛線を強行突破し、アスンシオンに艦砲射撃を加える.

3月 ウマイタを撤退したロペスは、司令部をテビクワリ河のサンフエルナンドに後退。

3月 ロペスの弟のアンヘル・ベニクノ・ロペスら、徹底抗戦に固執するロペスを排除して停戦に持ち込もうとする。この事件で368人が捕らえられ、サンフエルナンドの特別法廷で処刑される。

7月 ウマイタ要塞とクルパイティ砲台、1年余りの包囲戦の末陥落。司令官のアレン大佐は自決。ロペスは防衛線をサンフェルナンドから、アスンシオンの南35kmのピキシリ河に後退。老人、子供を含めて13000人が最終防衛線をしく。

7.25 連合軍はウマイタ市内に突入占領.守備隊司令官フランシスコ・マルチネスは,残兵は1300人を率い対岸への脱出に成功.

8.05 マルチネスとその守備兵1050人が捕捉され降伏.

8月 ロペスは政府と住民をアスンシオンから東10キロのルーケの町に移動させ、臨時政府を置く。24時間以内の移動を命じられた住民はルーケ郊外で野外生活を余儀無くされる。

10月 ロペス,パラグァイ川左岸のロマス・バレンティナス高地にアンゴストラ防衛線を構築.アスンシオンを狙う艦船への砲撃基地を設営.

12.05 デセンブラダ(12月)の戦いがはじまる.連合軍1万7000人が,サンアトニオで渡河作戦.ビレッタへ向け南下を開始.

12.06 ビレッタ守備隊長カバレオ,連合軍をイトルオルで迎撃.5000の兵が切り通し道路で1万3000人の連合軍を待ち伏せ攻撃.3000人の戦死者を与えた後撤退.

12.11 連合軍,イトルオルを出発しビレッタに向かう.ビレッタの手前のアバイーと呼ばれる小川で最終決戦.少年兵と老人兵からなる4000人の守備隊は総崩れ.3000人が戦死または捕虜となり、残りは渡河しアンゴストラ防衛線に撤退.

12.21 連合軍,アンゴストゥラ防衛線を囲むピキシリ川の要衝イタ・イバテに総攻撃.アルゼンチン軍4000人、ウルグァイ軍600人を加え,6万人が作戦に参加.パラグァイ軍の兵力は1万人に満たず、その大半は子供と老人だったが,いったんは攻撃を跳ね返す.

12.24 カシアス,ロペスに降伏を勧告.ロペスは拒絶.

12.27 連合軍,2度目の総攻撃.全防衛線が突破される.パラグァイ軍6500名(うち女性600名)は全て戦死するか捕虜となる.連合軍の被害も膨大で、ブラジル軍のみで損害は3500人に達する.ロペスは数人の将校とともに北部に脱出.

1869年

1.01 アスンシオン陥落.ロペスはマットグロッソに撤退.

1.05 ブラジルに支援されたパラグアイ同盟が暫定政権を樹立.カシアス総司令官は戦争は終了したものとみなすが,ブラジル帝国政府は,ロペスを捕縛するまで戦争は終結させないと指示.

1月 ロペス,新首都をアスンシオンの東100km、アツクラ山地のペリビブイ村に定め、アスンシオンの連合軍にゲリラ戦をしかける.その数はピークで1万3000人に達する.

4月 すでに戦意を喪失したカシアスに代わり,ガストロ・ド・オルレアン・ド・エウ侯が連合軍の新司令官に任命される.新しい徴募兵による新軍を編成.

8.01 ドエウ,アツクラ山地の包囲・殲滅作戦を開始.

8.10 ブラジル軍2万を主体とする連合軍、ペリビブイに向け総攻撃.

8.12 ロペス軍は650人の投降者を残して全員戦死.ロペスの本軍はさらに北方の山間部カンポグランデに逃れる.カバレロが司令官となり、カラガタウに新たな戦線の構築を図る。パラグァイ軍は、少年兵が主体で成年兵は500人に過ぎなかった。

8.16 カンポ・グランデに進出した連合軍,アコスタニューでロペス軍を捕捉.ロペス軍のほぼ全員2000人が戦死.現在パラグアイでは「子どもの日」と呼ばれ、記念日になっている。ロペスはさらに北部アマンバイ山地への逃亡に成功.

1870年

2月 ロペス、アスンシオン北東約500kmのアマンバイ山脈沿いでゲリラ戦を続ける。Curuguaty,Ygatimi、Chirigueloなどを転々とする。総勢わずか400名。

3.01  敗走中のソラノ,セロ・コラの丘で捕捉され戦死(43歳).19歳の長男も運命をともにする.連合国が戦争の終結を宣言.暫定政権との間に休戦条約締結.パラグアイの独立と河川の通行権は確保される.

国土のうち15万平方キロを失い,戦前およそ525,000人の人口が,1871年にはおよそ221,000人に減少.国内の成人男子人口は人口の1割,2万8千人にまで減少.(犠牲者数については諸説があり,少ないものは人口の1割弱とする意見もある).
産業は破壊しつくされ,農地は大地主のあいだに分配.国民の多くは,農奴としてサンパウロのコーヒー園で使役に追われる.極端な男女比の不均衡から全国民のメスティソ化が一気に進行.
同盟国側にも27万の死者.ブラジルは15万人が死に,6万5千が死亡.2億ドルの戦費をつぎ込む.

11.25 新憲法が公布されるが,国家としての実態なし.政権内部ではアルゼンチン派とブラジル派の覇権争い.アルゼンチン派はヨーロッパの自由主義思想に影響された自由党(青色党)を結成。地方ボスを中心とするブラジル派はコロラド党(赤色党)を結成してこれに対抗。

74 アルゼンチン派民兵隊の隊長ベニグノ・フェレイラが,事実上の独裁者となる.大地主層を基盤とする保守派は「政党国民協和協会=コロラド党」を結成.ブラジルに支援され勢力を拡大.

76 ブラジル軍がパラグアイから撤兵.

78 パラグァイ大統領ビラ・ハイエス,アメリカ大統領に賠償金減額について仲裁を依頼。アルゼンチンはすぐ仲裁に応じ、ブラジルもこれに従う.

87 フェレイラを先頭とする旧アルゼンチン派,コロラド党に対抗する政党として自由党結成.

19世紀末 米国のメノナイト教徒がチャコに入植.メノナイト教会は宗教改革の直後、オランダのサイモン・メノンによって開始された.個人の内面による信仰、迫害に対する無抵抗、反近代文明などを主張する.ペンシルバニア州のアーミッシュ(非洗礼派)も同じ系統に属する.

1904年

8 自由党、ファン・アントニオ・エスクーラ大統領のコロラド党政府に対する反乱開始.

12.13 自由党が戦闘に勝利.ファン・パウティスタ・ガオナが大統領に就任する.自由党時代が始まる.

06 自由党のフェレイラが大統領に就任.まもなく反人民的政権に変質.その後チャコ戦争の期間を除いて36年間自由党政権が続くが,その間21の政権が交代し,派閥争い,軍事クーデター,内戦を繰り返す.

1908年

7.02 急進党(自由党急進派)のアルビノ・ハラ少佐,アスンシオンでフェレイラ将軍の自由党政権への反乱を開始。

7.04 ベニグノ・フェレイラ大統領が辞任。エミリアノ・ゴンサレス・ナベロ副大統領が暫定大統領となる。

7.08 ナベロ大統領、議会を解散し戒厳令を公布。アルビノ・ハラは大佐に昇進し陸軍司令官となる。

1911年

1.17 陸軍司令官アルビノ・ハラ大佐,クーデターによりマヌエル・ゴンドラ大統領を追放.政治の実権を握る。以後半年にわたり大統領不在の状態が続く.

7月 リベラート・ロハスが大統領に就任。この後もさらに二年間に7人の大統領が交代.

7月 ゴンドラ前大統領の率いる自由党軍、政府軍と対立。

1912年

5.11 政府軍と自由党軍の戦闘が終結。この内戦で2,000人が死亡。

8.15 エドワルド・シェーレルが大統領に就任。比較的な安定期を迎える.前大統領のゴンドラを軍事相に迎え,軍の再編成を行う.

1916.8 コロラド党リベラル派のマヌエル・フランコが大統領に選ばれる。

1919 フランコ大統領が死亡。ホセ・モンテーロ副大統領が暫定大統領として指名される。

20 自由党,大統領選を前にシェーラー派とゴンドラ派に分裂.大統領にはゴンドラが当選する。

1921.10.29 ゴンドラ、シェーラー派の圧力により辞任を迫られる。エウセビオ・アヤラが暫定大統領となる。

22.5 ゴンドラ派,反乱を開始.全面戦争に発展.

1923

4.11 エウセビオ・アヤラ大統領が辞任。

7 ゴンドラ派が最終的に勝利.以後36年まで政権を維持.放任経済をとり,一握りの封建地主の権益を保護.自らは派閥抗争に明け暮れる.

24.8.15 ゴンドラ派のエリヒオ・アヤラが大統領に選出される。(この二人の“アヤラ”については、我ながら怪しいと思います。機会があれば調べたいと思います)

26年 パラグアイ議会、祖国を防衛した英雄としてロペスの名誉を回復。

26年 メノナイト教徒のパラグアイへの入植が始まる。

メノナイト派: キリスト教の1分派。16世紀に、オランダの再洗礼派の司祭メノー・シモンズによって開かれ、宗教改革の過程で教義を確立した。信徒は現在世界に50万人。戦争絶対否定の思想により徹底した平和主義を守り、兵役拒否、公職就任拒否、幼児洗礼・宣言否定の信仰をつらぬく。19世紀初め、オランダでの迫害を逃れウクライナに移住。19世紀後半にウクライナでの弾圧が強まると、今度は2万人近くの信者が米国とカナダに移住した。

26年 スタンダード・オイル社,チャコに石油鉱脈を発見.

27.12 ボリビアがチャコに進出。ソルプレッサ(SORPRESO)要塞を攻撃。数名のパラグアイ兵が死亡。さらにパラグアイ河流域に「前進」基地(バングアルディア要塞)を設営.パラグアイと戦争状態を宣言.

紛争地域は,正確にはChaco Boreal.ピルコマヨ河の北側,パラグアイ川の西側,26万平方キロの荒野.Gran Chacoの一部分を形成する.

 

1928年 第一次チャコ戦争

1928年

2 知識人を中心に民族独立同盟結成.パラグアイ再生を図る.同じ頃パラグアイ共産党も成立.

8.22 パラグアイの騎兵隊,チャコに侵入したボリビア人民兵部隊を捕獲.

9 パラグアイは,ボリビア人の不法侵入について国際連盟に上訴.ボリビアが調停を拒否したため失敗.汎米会議が調停に乗り出すこととなる.

12.05 パラグアイ,チャコ地域で一連の攻撃作戦を開始.ラファエル・フランコ大尉の部隊,バンガルディア要塞を奇襲攻撃し破壊.ボリビア軍は直ちに反撃に移り,二つのパラグアイ軍基地を占拠.汎米会議などの仲裁運動を押し切り,全面戦争に発展.

1929年

9.12 汎米会議の調停案,合意に達する.停戦協定にパラグアイとボリビアが署名.

9.16 自由党政権は,フランコ大尉を退役させ,ボリビア軍のために「前進」基地を再建するという屈辱を飲まされる.国内世論は沸騰.グジャーリ大統領は、数週にわたる市民の騒乱の後、アスンシオンに戒厳令を宣言。

1930

4 パラグアイとボリビア,確保した要塞の交換で同意.

5.01 両国は国交関係を再開.

7.23 両者の確保した要塞の相互交換が実施される.最終的な和平協定は,署名されないままにおわる.ボリビアはその後もさらにチャコ進出を図る.アルゼンチン・米国・国際連盟の調停は何れも不調に終わる.

1931年

1 国防次官ホセ・フェリックス・エスティガリビア(Estigarribia)大佐,ボリビア軍と交戦体制に入るよう指令.民族独立戦線も戦いを訴え,勢力を拡大.

7.02 パラグアイとボリビアが国交断絶.

10月 政府軍部隊,大統領宮殿前でデモ中の学生に発砲.学生と兵士は「新パラグアイ」運動を起こしホセ・グッギアリ政権打倒の戦いをはじめる.

10.26 グジャーリ大統領が辞任。エミリアノ・ゴンサレス・ノベロ副大統領が大統領に昇格。

 

1932年

1.26 グジャーリ、大統領職に復帰。

2月 ボリビア、ピルコマヨ川沿いのバリビアン(Ballivian)とグアチャリャ(Guachalla)に要塞を建設。アスンシオンから200キロの地域まで進出。

5月 大統領選挙。ボリビアとの対決を訴えるコロラド党リベラル派のエウセビオ・アヤラが当選。

6.15 ボリビア,電撃作戦を開始.北Chacoのパラグアイ軍基地ロペス要塞を奪取.中部チャコのボケロン要塞に向かい進撃開始.南部のナナワ要塞でも激戦が始まる.パラグアイはボリビアに対し宣戦布告.4年間にわたる第二次チャコ戦争が開始.

チャコ戦争の背景: スタンダード石油はボリビアを,シェルはパラグアイを支援.事実上両者の代理戦争.ボリビア側は圧倒的な人口差,ドイツからの招聘軍人ハンス・フォン・クント将軍により十分に訓練された軍,アメリカの銀行からの融資で購入した豊富な武器により楽勝すると考えた.しかし兵の士気は低く,熱帯のジャングルや沼沢に不慣れで,多くが病気や毒蛇により命を失った.

8.15 アヤラが大統領に就任。ボリビアに対して断交.総動員を指令.ホセ・エスティガリビア大佐を総司令官に任命.

8月末 エスティガリビア、ボリビア軍がこもるポイ(Poi)島のボケロン要塞を包囲。

9.09 ボケロン要塞への攻撃を開始.エスティガリビアにひきいられたパラグアイ軍とクント,ペニャランダによって指揮されるボリビア軍との死闘が続く.近代兵器に不足するパラグアイはマチェテを武器に対抗.

9.29 ボケロン要塞,パラグアイ軍の手により陥落.余勢をかったパラグアイ軍はさらに進撃。

11月 ボリビア軍司令部はペニャランダ司令官を更迭。ダニエル・サラマンカ大統領、ボリビア軍(5万7000)の指揮をドイツ人将校ハンス・クント(Kundt)にゆだねる。

1933年

1月 クント将軍、激戦が続く南部チャコのナナワ要塞へ出動。「3カ月以内にチャコ全域を支配下に治める」と宣言。

5.10 パラグアイ政府は正式にボリビアに宣戦を布告。戦車、火炎放射器、戦闘機などの近代装備をもつボリビア軍(5万7000)に、約4万5000の兵力で挑む。パラグァイ兵は5人一組となる分隊による浸透戦術を実施.トレド、コラレスなどのボリビア軍基地を次々に奪取.

10月下旬 Estigarribia将軍,戦線を拡大し攻勢に出る.クントの率いるボリビア軍2個師団は、ナノウェ、ゴンドラ、サマクライの戦いで敗北を重ね後退。

11.11 パラグアイ軍,カンポ・ビアの戦いでボリビア軍を壊滅・降伏に追い込む.敵兵士8000人を捕虜にし、大砲20門、トラック60台、他多くの武器を手中にする。

12.20 国際連盟,三週間の停戦を提案.パラグアイのアヤラ大統領は,エスティガリビアの提言を元にこれを受け入れ.ボリビアの大統領ダニエル・サラマンカ,戦線不利に怒り,Kundtを更迭.エンリケ・ペニャラナ将軍を後任司令官に任命.戦線建て直しを図る.

1934年

1.06 国際連盟の呼びかけによる停戦期間が切れ,再びチャコ戦争に突入.

1.09 Estigarribia,ボリビア軍の確保するBallivian基地に攻撃を開始.3月から7月まで,チャコ戦争中,最大の激戦が展開される.

11.17 ボリビア軍最大の拠点Ballivian基地が陥落.サラマンカ大統領は事実上の解任.

12.11 中立地帯設置と動員解除を求める国際連盟の勧告.ボリビア政府はこれを受諾するが,パラグアイが拒絶し戦争再開.

1935年

1 パラグアイ軍部隊,パラピティ川を渡りボリビア領内サンタクルス県に進攻.

2.23 国際連盟調停を不満とするパラグアイ,国際連盟を脱退,国際連盟加盟の20ヵ国が,ボリビアに対する武器輸出禁止措置を解除.

4.05 パラグアイ軍、サンタクルス県のチャラグアを占領。このあとボリビアの反撃により戦線は膠着。国境上のアリフワタ=ピチアンプタ線を挟んでの戦いとなる.補給線の延びたパラグアイ軍は戦闘継続が困難となる。

6.12  アメリカ・アルゼンチン・ブラジル・チリ・ペルー・ウルグアイの代表者からなる調停委員会の長期にわたる交渉の末,ボリビアとパラグアイが休戦条約に調印.チャコ戦争終わる.兵力には勝るが,熱帯気候に適応できないボリビアの敗北に終る.パラグアイは延べ12万以上の兵士を投入,その内4万が戦死もしくは行方不明となる.ボリビアも6万の兵士が死亡.捕虜となったものは,公式には5万人,一説によれば30万人に及ぶ.パラグァイ軍は捕虜を養うことができず大半を殺害したという.結局石油資源は見つからず.

1936年 二月革命

1月 共産党と左翼グループが国民戦線(NF)を創設。チャコ戦争の英雄で亡命中のラファエル・フランコ大佐が議長となる。終戦処理をめぐる不満を結集し反政府活動を活発化。

2.17 フランコ派による「二月革命」発生.アヤラに辞任を迫る.

2.18 アヤラ辞任.新政権は二月革命党を名乗る.

2.24 フランコ大佐が大統領に.親ファシズムの立場から農地改革,労働保護などを実施.20万ヘクタールの農地を接収し,一万家族の農民に配分.労働者のスト権を承認し,8時間労働制を宣言.またフランコはソラノ・ロペスを外国の干渉と戦った国家的英雄と賞賛.セロ・コラトの墓地を探し出し,アスンシオンに祭る.

5月 政府軍、エウセビオ・アヤラ前大統領の率いる自由党反乱部隊を鎮圧。

11 フランコ,政令152号を発布.「全体主義的変革を目指す」と宣言.国民戦線の左派は「革命的民族同盟」を結成.代議制民主主義,労働者・農民の権利拡大,基幹産業の社会化を要求.外国人地主の排斥を呼びかける.

1937年

1月 自由党はフランコ政権打倒を掲げ,フランコの国家社会主義的傾向に警戒を深める軍内に影響力を拡大.

7月 フランコ,チャコの駐留軍撤退を指示.

8.15 軍部自由党派,クーデターによりフランコ政権打倒.フェリックス・パビアが大統領に選ばれる.二月党(自由党)は非合法化されるが,その後も活発な地下活動を続ける.

9.07 国民戦線の反乱、失敗に終わる。

11.02 国民戦線の再度の反乱も失敗に終わる。

37年 パラグアイヘの日本人の移住が始まる。最初の入植地はラコルメナ。その後イグアス、ラパス、フラムへと広がる。

38.7.21 チャコ戦争で和平協定成立.両国がブエノスアイレス講和条約に調印.パラグアイが係争地のほとんどを獲得するが,停戦ラインからは後退を余儀なくされる.

10.10 ボリビアとパラグアイ,アメリカ・南米諸国の仲裁裁定で最終的に国境を画定.

38.7.21 ブエノスアイレスで平和条約が調印される.アルゼンチン,ブラジル,チリ,ペルー,ウルグアイ及びアメリカ合衆国を含む「チャコ平和カンファランス」が調停役となる.パラグアイに紛争地域の大部分の所有権.ボリビアはパラグアイ川及び港(Puerto Casado)に通路を与えられる.

39.4.30 コロラド党リベラル派,米国特使として赴任中のエステガリビア将軍を大統領に指名.全国共和派はこれに反対し選挙をボイコット。

39.8.15 エステガリビアが大統領に就任。二月党との宥和を図る.

1940年

2.18 議会自由党,エステガリビアの宥和政策に強硬に反対.エステガリビアは憲法制定までの間,非常事態を宣言し非常大権を発動.

8.04 国民投票でエステガリビアの新憲法が承認される.エステガリビアは農地改革を進め,大学を再開し,財政を再建し,中央銀行を増資し,金融改革,自治体改革をすすめ,インフラ整備に力を注ぐ.

9.07 エスティガリビア大統領夫妻、飛行機事故で死亡。イヒニオ・モリニゴ(Higinio Morinigo)軍事相が暫定大統領となる.憲法を停止し軍事独裁を開始.

11.30 モリニゴが正式に大統領に就任。自由党は政権打倒を試みる。

12.25 モリニゴ大統領、自由党に対する一斉弾圧。党員800人を拘留する。

1941年

4.18 モリニゴ、国民戦線への弾圧を強化。反乱を鎮圧。

7.04 ふたたび、国民戦線の反乱が起こるが鎮圧される。

1942年

4月 モリニゴ、コロラド党に解散命令。

6.04 ブエノスアイレス亡命中のコロラド党指導者エウセビオ・アヤラが死亡。国内におけるコロラド党の影響力は低下。

43.2.14 モリニゴ、大統領に再選される。任期は48年までの5年間。

44.1 反政府の反乱が発生するがまもなく鎮圧される。

1946年

7.26 モリニゴ,政治的な活動の再開を許可.二大政党による連立内閣を創設.

9月 国民戦線とコロラド党支持者がアスンシオンで衝突。死者2人を出す。

1947年

1.13 反モリニゴのクーデター,失敗に終わる.モリニゴ、非常事態を宣言。一定の緩和策をとっていたモリニゴは,ふたたび反対派に対する強硬路線に戻る.

1.15 共産党を非合法化。

2 モリニゴの強権政治に抗議し,Febreristasは内閣から総引き揚げ.自由党と連携し,反モリニゴ戦線を結成.労働者,共産党もこれに加わる.前大統領ラファエル・フランコ大佐を中心に反乱の準備に入る.

3.07 フェブレリスタ,反乱を開始.軍将校の8割が反乱軍に加わる.アスンシオン海軍基地が,共産党系の労働者により占拠されるが,ブルゲス将軍名称砲兵連隊司令官のアルフレド・ストロエスネル・マッティアウダ中佐は無差別砲撃を指示.基地は灰燼に帰す.

4.22 ブラジルが調停を申し出るが、両派により拒否される。

4 反乱軍の砲艦,アスンシオンを砲撃.ストロエスネルの部隊との間で砲撃戦となる.火力に勝る陸上部隊が砲艦を撃滅.

7.31 政府軍、反乱軍の拠点コンセプシオンを奪還。

8.20 反乱は敗北に終わる.フェブレリスタは事実上消滅し,軍将校のほとんどが解任される.モリニゴについたアルフレド・ストロエスネル・マッティアウダは,次々に昇進を重ね,参謀本部入りする.戦闘で1千人が死亡したほか、終戦後の弾圧により20万人が国外亡命.

1948年 

1月 大統領選挙を控え,コロラド党内の二つの派閥が激突.作家兼出版者のフアン・ナタリシオ・ゴンサレスが国家主義グループのギオニスタ(guionista)を率い,「民主派」のフェデリコ・チャベスが自由選挙と複数政党制を主張.モリニゴの指示を受けたゴンサレスは,暴力集団ギオン・ロホ(Guion Rojo)を用い反対派を押さえつける.

2.15 大統領選挙でゴンサレスが当選。野党は選挙をボイコット。

6.06 モンタナロ大佐の指導による軍の反乱.モリニゴの政権受け渡しを疑うゴンサレスが,ストロエスネルらコロラド党支持の軍人と組んでMorinigoを放逐しようとしたもの.当時砲兵連隊長のストロエスネルは反乱軍の指揮を依頼される.反乱は失敗に終わり,ストロエスネルは車のトランクに隠れブラジル大使館に亡命.以後「トランク大佐」と呼ばれるようになる.

8.15 ナタリシオ・ゴンサレスが大統領に就任。

10月 チャベス派の反乱計画、失敗に終わる。

1949年

1.30 ライムンド・ロロン将軍によるクーデターが成功。ゴンサレス政権は崩壊。議会はロロンを暫定大統領に指名。

2.26 コロラド党によるクーデターが成功。ロロン政権は1ヶ月足らずで崩壊。フェリペ・モラス・ロペスが暫定大統領に指名される。

4.17 モラスが大統領に選出される。

9.10 コロラド党リベラル派のチャベスが大統領に就任.3週間の戒厳令を施行し,ゴンサレス派やモラス・ロペス派の動きを封じる.

51 ストロエスネル,陸軍総司令官に就任.

1952年

1 パラグアイ共産党書記長オスカル・クライド,コミンフォルムに闘いの現状を報告.15年にわたる米帝と結託した大土地所有者の独裁政治を非難.

53.2.15 フェデリーコ・チャベスが大統領に再選される.

ストロエスネル独裁の時代

1954年

5.06 ストロエスネル陸軍総司令官らによる無血クーデター成功.チャベス政権は崩壊.ロメロ・ペレイラが暫定大統領に就任。

5.06 クーデターに抵抗した警察と銃撃戦が展開され,50人が死亡.

7.11 前中央銀行総裁エピファニオ・メンデス・フレイタスが,コロラド党全国共和会(ARN-PC)から大統領選に立起.野党自由党の候補者擁立は許されず.

コロラド党の構造: 全国に250以上からなるセクシオナレスと呼ばれるコロラド党支部。軍がこれと連帯して党・軍・市民の3者の協力的関係構造を構築。

8.15 フレイタスが大統領就任。ストロエスネルは国防相となり実権を掌握。

1955年

9 ストロエスネルのライバルとみなされてきたゴンサレス将軍が退役.モラス・ロペス将軍も死亡したため彼の軍内支配が確立.

10 アルゼンチンのクーデターによりパラグアイに亡命したペロン,内政干渉を繰り返す.ペロンを迎え入れたフレイタスが批判の的となる.

11 アルゼンチン軍事政権,フレイタスに圧力をかけ,ペロンをパナマに追放させる.

12 ストロエスネル,共産党非合法化に続き,すべての革新団体の禁止と新聞の自由の制限を実施.独裁体制を確立,予算の6割を軍事費にあてる.対外債務は歳入の20倍に達する.

56.1 フレイタス,クーデターを図る.ストロエスネルは軍内からフレイタス派の軍人を排除することに成功.フレイタスは国外に亡命.

1958年

2.09 ストロエスネル,国民投票により第二期目の大統領に就任.ストロエスネル,来年から「諸制度を常態に復する」計画を発表.これに触発され自由党の反政府活動活発化.

3月 アスンシオンのラモン・タラベラ神父、大司教メナ・ポルタがあいついで政府の人権蹂躙を批判。

4.01 ベネズエラの支援を受けた自由党と二月党のゲリラがアルゼンチン国境より進入し活動開始.コラソン・チャモロ大尉、コロネル・ボガドの近くで反ストロエスネルの蜂起。政府は非常事態を宣言。

1959年

4.28 ストロエスネル,軍やコロラド党内からの声に押され,戒厳令を一時解除.反対派の帰国を許可し,検閲を終了,政治犯を釈放する.

5 バス運賃値上げに抗議する学生の集会.警察の干渉により百名近い負傷者.議会はインスフラン内相の罷免を要求.

5.31 反独裁のゼネストはアスンシオンでの市街戦に発展.ストロエスネルはふたたび非常事態を宣言,国会を解散し,コロラド党員を含め多数を逮捕.ストに立ち上がった労働組合はつぶされ指導者は逮捕される.「アスンシオンの春」が終焉.

6 再び各地でのゲリラ活動が活発化.ストロエスネルは米軍の指導・援助を受けゲリラ絶滅に成功.地方では共和会の準軍事組織「パイ・ナンディ」(グアラニー語で裸足の意味)は,容疑者をジャングル内の強制収用所に閉じ込め,拷問し殺害した.

7.22 日本・パラグアイ移住協定調印.パラグアイは,今後30年間に8万5,000人を受け入れることとなる.

12.12 ファン・ホセ・ロテラ少佐の率いる1000名の反乱部隊が行動開始。ストロエスネルは全軍を動員する一方,エドガル・インスフラン(Ynsfran)内相に徹底した反対派弾圧を命じる.内相は,作戦参加者の家族を脅迫,場合によっては殺害.

1960年

5.13 議会選挙。コロラド党共和派が60議席を独占。

8 ロテラの反乱部隊が最終的に壊滅。

12.21 アスンシオン近郊で反政府派の蜂起が起こるが、まもなく鎮圧される。

61 反独裁の大衆デモ,アスンシオンでの市街戦に発展.

62.8.25 米国、パラグアイと軍事援助協定を結ぶ。

62 自由党の分派「革新運動」,国内に戻り公認野党として活動再開.ストロエスネルは議席の1/3を革新運動にあたえる.残された党員は急進自由党と名を変え,国外での活動を継続.

63.2.10 大統領選.ストロエスネルは自由党などに選挙への参加を要請.自由党は非常事態の解除と大赦の実行をもとめるが,ストロエスネルは拒否.自由党はストロエスネル提案をめぐり分裂.妥協派はエルネスト・ガビランを候補に立て選挙に臨む.選挙ではストロエスネル47万票に対し4万5千票.

63.8.15 ストロエスネル、みたび大統領に就任。

64 ストロエスネル,戦闘性を失ったFebreristasを合法化.あらたにキリ民党も結成される.一方でストロエスネルは共産党とエピファニスタ(コロラド党のEpifanio Mendez Fleitas支持者),コロラド民主運動(旧民主派)に弾圧を集中.

1966年

5 警察の腐敗が暴露される.ストロエスネルの支持を失った内相は孤立.

11 ストロエスネル,インスフラン内相を解任.

1967年

8 二院制に基づく新憲法を制定.ストロエスネルはさらに2期10年の在職を許される.大統領・議会選挙.急進自由党も帰国し選挙に参加.

67年 グアラニー語がスペイン語に並んで公用語に指定される。

68.2.11 ストロエスネルが大統領に再選される。ストロエスネルは終身大統領への意欲を宣言.

69.10.22 アスンシオンのカトリック大学教授のフランシスコ・デ・ポーラ・オリバ神父が逮捕される。

70  ストロエスネル,三ヶ月ごとに更新してきた戒厳令を解除.ただしアスンシオンにおいては87年まで戒厳令が続く.

1972年

4.14 ストロエスネル大統領,国賓として来日.

1973年 

73年 パラグアイ・ブラジルの軍事政権間にイタイプー水力プロジェクトに関する密約。エネルギーは折半されるが、パラグアイはブラジルに不使用分を排他的に譲渡する義務を負う。有効期限は50年間とされる。

イタイプー・ダム: 最大出力14,000MWの能力を持つ世界最大のプロジェクト。実際の発電量は07年度でおよそ9000万MW。ブラジルの電気消費の21%はイタイプーによりまかなわれている。パラグアイは年間700万MWを利用して、残りの3800万MWをブラジル国家電気会社(Eletrobras)に原価で譲っている。これは1億300万ドルに相当する。しかしこのエネルギーはブラジル国内では数倍の価格で販売されている。ブラジルはパラグアイの政治家を抱きこむことで、この権益の維持に成功してきた。プロジェクトの管理はブラジルが独占し、パラグアイ側は会計検査さえ出来なかった。

1974年

1.09 元ボリビア大統領エステンソロ,パラグアイに亡命.

5.12 ピノチェト議長,パラグアイ・アルゼンチンを歴訪.コンドル作戦の組織に動く。

1975年

2.08 政府軍はヘフイの村の近くで農民に発砲。8人を虐殺。

5月 チリのMIRを中心とする左翼活動家の国際的摘発作戦「コロンボ計画」が始まる。「革命的左翼行動」の119人が虐殺され、アルゼンチンとブラジルで死体が発見された。DINA当局は「MIRの内部抗争により死亡」と発表。またこの作戦で少なくとも900人のパラグアイ人が死亡、このうち12人はアルゼンチンで死亡している。

5.16 人民活動軍(ERP)の幹部アミルカル・サントゥーチョ(ロベルト・サントゥーチョの兄弟)、アスンシオンで逮捕される。

5.20 ホルヘ・イサーク・フェンテス・アラルコン(チリ人)がアスンシオンで逮捕される。フェンテスは社会学者で、革命的左翼行動(MIR)の指導者だった。

6.06 アルマダ弁護士が発表した書類によれば、フェンテスはこの日サンチャゴに引き渡しされた。

1976年

3.03 ドイツがサントゥーチョとフェンテス・アラルコンの亡命・入国を認める。アミルカル・サントゥーチョはドイツに引き渡されたが、フェンテスはすでにチリに送られ虐殺されていた。

76年 日本、パラグアイに対する最大の援助国となる。この後台湾とともにストロエスネルを支える最大の支柱となる。

1977年

2.06 パラグアイで制憲議会選挙.

2.09 パラグアイ人医師アグスティン・ゴイブル,エントレリオス州で誘拐された後,行方不明となる.ゴイブルは警察病院に勤務中,70年に,拷問死した囚人の記録偽造を拒否したあと,アルゼンチンに亡命していた.

8.15 ルーゴ、聖職者に任命される。伝道師として5年の間エクアドルに送られ、「解放の進学」について学ぶ。

フェルナンド・ルーゴ(Ferunado Armindo Lugo Mendez): コロラド党反体制派の活動家の家に生まれた。父は20回拘束された。兄弟たちは亡命を余儀なくされた。ルーゴは最初教師としてスタートしたが、19歳で神学校に再入学した。

9.19 タイム誌,元ナチス親衛隊幹部のヨゼフ・メンゲレ医師がパラグアイに潜伏中と報道.

1978年

2.12 パラグアイで大統領選挙.ストロエスネル現大統領が90%の得票を得て再選される.

8.15 ストロエスネル,6期目の大統領に就任.

79 パラグアイの野党勢力,国民協定を発表.ストロエスネル打倒に動き始める.

1980年

9.17 ソモサ,亡命先のパラグアイで暗殺される.

10.02 パラグアイ,ニカラグアと断交.

1983年

2.06 パラグアイで大統領選.ストロエスネル大統領が7選される.

83年 エクアドルから戻ったルーゴ、「解放の神学」を広めたとして国外に追放される。教会は彼をアカデミックな研究のためローマに送る。

1984年

2.17 アスンシオンで政府に反対するデモ。2,000人が参加。

3.22  パラグアイ最大の日刊紙で野党系の「ABC・コロール」,無期限発行停止処分を受け,閉鎖に追い込まれる.

1986年

2.14 国内で国民協定を支持するデモが行われ、1万5千人が参加する.教会,経済界,労働者,学生が反ストロエスネルで結集し始める.

5.28 アスンシオンの大司教イシマエル・ロロン・シルベーロ、反政府のデモンストレーションを支持するよう教徒に向けアピール。

1987年

1 独立系の放送局,閉鎖を命じられる.

4.08 ストロエスネル,54年以来続いた戒厳令の更新・延長を見送り.その後も野党指導者,民主運動家が逮捕され,集会は蹴り散らされ,参加者は暴行される.

8 週刊誌「人民」,政府転覆を謀ったとして閉鎖.最後にカトリック系のラジオ・カリタスと週刊誌「道」のみが閉鎖を免れる.

87年 ストロエスネル、労組の団結権承認を拒絶。レーガン政権はこれに抗議し、パラグアイに対する最恵国待遇を撤回。

1988年

2.14 75才のストロエスネル,88.7%の支持を得て第8期目の大統領に就任.与党は国家共和協会=コロラド党.外国援助の75%が日本から.

5 法王ヨハネ・パウロ二世,パラグアイを訪問し人権尊重の政治を説く.コロラド党内の反対派は次々に党を離れる.

8.06 アスンシオンで反政府のデモ。約5万人が参加。

1989年

89年2月

2.02 ストロエスネル政権のナンバー2,アンドレス・ロドリゲス・ペドッティ第1軍司令官によるクーデター.この事件で約300人が殺される.

2.03 ロドリゲスを暫定大統領とする新政権発足.Stroessnerは,自宅監禁の下に置かれたあと海外への亡命を許される.

2.09 米国はただちにパラグアイ新政権を承認.

2.20 ハケト前法務・労働相,公金横領・武器隠匿などで逮捕される.

3.22 野党系日刊紙『ABCコロル』が復刊される.

4.04 米国,ストロエスネルの入国申請を拒否.

4.01 コロラド党臨時党大会,大統領候補にロドリゲス暫定大統領を指名.

5.01 大統領選,ロドリゲスが圧勝.議会選挙ではコロラド党共和派が72議席中48を確保。

8月 ロドリゲスが大統領に就任。自らの任期を「民主体制への移行期」と位置づけ、経済の自由化とともに、政治犯の釈放、言論・表現の自由など人権尊重、政党の公認、労組の団結権の容認など政治的自由化、国際社会への復帰など諸改革を進める。

 

1990年

1 パラグアイのアンドレス・ロドリゲス将軍とウルグアイのサンギネッティ大統領とのあいだにパラグアイ・パラナ・ウルグアイ川水路システムについての合意成立.

90年 地方で農民運動が高揚。ストロエスネル体制が不法に陸軍将官、取り巻き政治家に与えた土地(なんと土地改革の名目の下で)の収用を求めた。主な組織はひとつにメサ農民組織全国共同(MCNOC)、もうひとつは全国農民連合 (FNC)である。

1991年

3.26 ウルグアイとブラジル,アルゼンチン,パラグアイの4カ国.アスンシオン条約(1995年1月から4ヵ国間貿易に関税を課さない市場統合条約)締結.メルコスールが発足.拡大戦線は条約内に軍事協力が織り込まれていることに強い警戒心を表明.

5.06 ブラジル・パラグアイ国境を流れるパラナ河に,世界最大規模のイタイブ発電所が完成.総出力1,250万キロワット.

12.01 制憲議会の選挙。コロラド党共和派が198の議席中123を獲得。真正急進自由党(ARLP)は、57議席を獲得。

1992年

6.20 制憲議会,67年憲法を全面的に改正した新憲法を公布。再選の禁止、行政権力による議会解散権の廃止など大統領の権限を大幅に制限.「民主化と人権尊重」を掲げ、政治活動・言論の自由、言論の自由、労働者の団結権等を保証する.また司法権の独立性を確保するなど、三権分立の確立を目指す。副大統領職を創設した他、県知事、県議会の直接投票による地方政府創設が盛り込まれた。

12.22 アスンシオン近郊で「コンドル作戦」の文書保管所を発見。数万ページ、総計4トンに達する膨大な文書。発見者マルティン・アルマダにより「テロルの記憶」と名づけられる。

アスンシオン文書: ストロエスネル時代の政治警察が作成したものが中心。警察ファイル、非合法活動に関する命令文書、数千人分の外国人身分証明書、コンドル作戦関連の資料など.さらに中南米全体に関わる文書も含まれる。
発見者アルマダは74年に「知能テロリスト」として捕らえられ、厳しい拷問を受ける。77年に救出されたあとユネスコで活動。89年にパラグアイに戻り、秘密文書の捜索に当たっていた。

92年 税制改革。10%の付加価値税制度が導入される。支出の大部分は、公務員の賃金および年金の支払いにあてられる。

92年 国勢調査。全人口411万人。グアラニー語を優位とするバイリンガルが人口の49%、グアラニー語のみのモノリンガルが39%を占める。

カニリタ: 地方からアスンシオンに出てスラム街で暮らす人々のこと。パラグアイ川に沿う河川敷に住み、その数はおよそ100万人といわれる。さらに多くのパラグアイ人がブエノスアイレスなどに出稼ぎに出ている。

1993年

3月 大統領選挙を前にコロラド党内で候補者決定のための予備選挙。主流派のフアン・カルロス・ワスモシ(Wasmosy)候補と、「軍とコロラド党の同盟による永久的な共同統治」の必要性を訴えるオビエド将軍の争いとなる。ワスモシが僅差で勝利。

5.10 大統領選挙でワスモシが40%を獲得し当選する.自由党のライノは32%。また都市部の中間層・知識人に基盤をもつ国民会合運動(エンクエントロ:EN)のカバジェロ・バルガスも、変革と近代化、公正をスローガンに23%を獲得。

5.10 大統領選挙と同時に行われた国会議員選挙では、ワスモシ与党のコロラド党共和派が下院80議席中36を獲得。コロラド党内左派が、自由党とエンクエントロが結成した野党連合に結集したため、過半数に達せず。

5.28 議会、軍の政治活動への関与を禁止する法案を可決。

6月 野党連合とコロラド党が「統治のための合意」(Pacto de Gobernabilidad)を結ぶ。野党連合は上下両院の議長団をにぎり、最高裁判事の任命や軍の再組織化においてイニシアチブをとる。これに対しコロラド党内の保守派から強い批判。

8.15 ワスモシ,39年ぶりの文民大統領に就任.人権の尊重、司法権刷新、憲法順守など民主化の定着を訴える.経済面では自由化政策を継続。新銀行法の制定など金融改革、航空会社など国営企業の民営化をはかる。自由化経済は失業者の増加、貧富の差の拡大を生み、国内矛盾が高まる。

 

1994年

4.17 ルーゴ、国の最も貧しいサンペドロ司教区の司教に任命される。10年にわたり布教活動を展開。

94年 軍の最高実力者リノ・オビエド将軍と、ワスモシ大統領との対立が表面化。オビエドはクーデターの功績により陸軍司令官となる。軍内を掌握し、政治に公然と介入し影響力を行使。

 

1995年

1.01 メルコスール協定発効.

4月 最高裁判事が任命され、独立した司法権が発足する。

95年 パラグアイ,民主化後のバブル経済がはじけ,深刻な経済危機に陥る.自由化に伴い乱立した銀行が、ずさんな経営から危機に陥る。中央銀行は、銀行システム全体の総資産の約11%を保有する4つの銀行に介入。GDPの5%に達する約4億5,600万ドルをつぎ込むが、結局これらの4銀行をふくむ10の金融会社が破綻し閉鎖される。

95年 リノ・セサル・オビエド司令官を中心とする軍内保守派は,民衆保護のポーズをとりながらワスモシ政権を攻撃.

 

1996年

4月 ワスモシ大統領と対立したオビエド司令官,解任される.将軍はこの決定に反発して、軍を動員し陸軍司令部に立てこもる。

4月 事態の収拾を図るワスモシ、オビエドを国防相に任命することで妥協を図る。アメリカ政府の断固たる姿勢、ブラジルなどのメルコスール加盟国の支援、青年層を中心とした強い反発から、この人事は撤回される。

6.13 解任を不満とするオビエドはクーデターを起こす.クーデターは,メルコスル諸国や米国がいち早くワスモシ支持を表明したことから,数日後に失敗に終わり、オビエドは逮捕される.

6月 アルゼンチンのサンルイスデメンドサで第10回リオ・グループ首脳会議。パラグアイのクーデター未遂事件を教訓とし、「加盟国の立憲体制が倒れた場合、その国は経済統合の恩典を失う」とするいわゆる「民主主義条項」の協定導入で合意。

8.07 上訴裁、オビエド将軍の釈放を決定。

96年 財政赤字がGDPの0.8%となる。ただし、公営企業の黒字から、公共部門全体としてはGDPの1.8%の黒字。経常収支の赤字も6億3,500万ドルに増加。資本収支の大幅な黒字によりこれをまかなう。

96年 サンペドロ司教のルーゴ、第五回ラテンアメリカ基礎共同体会議を主宰。

1997年

5  与党コロラド党,次期大統領候補を選挙.主流派のアルガーニャに対し,ポピュリスト的ポーズをとるオビエド将軍が対抗.ストロエスネル時代を懐かしむ勢力にも支持されオビエドが勝利.副大統領候補にはオビエドの腹心ラウル・クーバス・グラウ(54)がつく.

8.25 当局,アスンシオン市内でトゥパク・アマル革命運動(MRTA)のメンバー16人を逮捕.

8月 アスンシオンで第11回リオ・グループ首脳会議。「民主教育と行動原則」を採択。グループ内で立憲秩序が危機にさらされた場合には、外相会議を招集して「民主主義の防衛」に当たることで合意。オビエド派への圧力をかける。

97年 第二の金融危機が到来。二つの銀行と一つの金融会社が破産状態に陥るが、合併や債務の繰り延べなどにより救済される。

97年 世界開発報告によれば、人口は490万人程度。民主化以降の平均成長率は2.7%。一人当たり国内総生産(GNP)は1,690ドルとされる。消費者物価指数はクーデター直後の44%から5.4%にまで低下。

1998年

4.10 特別軍事法廷,オビエド将軍をクーデターの首謀者と判断.10年の実刑判決を下す.これに代わりラウル・クバスが大統領候補となり,副大統領候補にはアルガーニャが繰り上がる.

5.10 大統領選挙.コロラド党のラウル・クーバスが当選.議会選挙では全国共和協会(ARN-PC)が45議席を獲得。民主同盟(DA)は35議席を獲得。

98年8月

8.15 親軍事政権派のラウル・クーバスを首班とする新政権発足.信頼できる司法制度の確立、経済活性化、犯罪撲滅等をかかげる.閣僚の多くをオビエド派が占め,アルガーニャ副大統領は孤立.

8.18 クーバス大統領,収監中のオビエド元司令官を釈放すると発表.

8.19 オビエド元将軍,恩赦により釈放.

8.20 議会,オビエド恩赦に関する大統領政令について6時間にわたり審議.政令を無効とする決議を採択.クーバス実弟のカルロス・クーバス商工大臣は「これは真の独裁への道を開くものだ」と批判し、大臣を辞任.議会閉会後,ワスモシ前大統領はアルゼンチン大使館に一時避難.

8.21 クーバス大統領,特赦は合法的であり、再考は出来ないと強調.

8.24 オビエド元将軍,クーバス大統領の誕生日にあわせ官邸を訪問.来年行われるコロラド党首選挙に出馬する意向を明らかにし,キャンペーンを開始.

8.26 中央選挙管理委員会はオビエド元司令官に公民権認める.議会は最高裁にオビエド元司令官の釈放をさだめた大統領令の無効判断を求める.

8.30 クーバス大統領と議会との間で会談.政治危機の打開を求める議会側に対して,クーバス大統領は方針を固守.

98年9月

9.01 特別軍事法廷,オビエドの有罪判決を取り消す判決.クーバス大統領はオビエドを来年の南米カップ組織委員会メンバーに指名.

9.03 最高裁,オビエドの有罪判決を撤回した特別軍事法廷に対して,同将軍の有罪判断示す.オビエドの最終判決をめぐり,議会・最高裁と政府・軍部が対決することとなる.

9.06 大統領と最高裁の協議,物別れに終わる.議会は最高裁判断を支持するとともに「政治危機」宣言を発表.

9.09 ゴンサレス国会議長は,オビエド元将軍が年内(11月)にもクーデターを企てる計画であると声明.最高裁はオビエド元将軍に逆転無罪判決をあたえた特別軍事法廷のメンバー判事を「不謹慎」と判断.

9.10 議会,オビエド元将軍の釈放に関して特別軍事法廷の裁判長を起訴する意向を表明.

98年12月

12.04 オビエド,政治活動を再開.与党コロラド党の反クバス勢力はオビエド将軍の除名を決定.クバス大統領を民主主義に反すると批判.議会はメルコスル諸国にクバス大統領説得を求める.ルイス・マリア・アルガナ副大統領(ストロエスネル時代の最高裁長官)も反クバス派に回る.

12.20 オビエド支持派約400人が国際ハイウエイを封鎖,タイヤを燃やし気勢をあげる.その後最高裁ビルを襲撃.銃撃,火炎瓶などを投げつける.元アスンシオン大司教イスマエル・ロロンも投石を受け負傷.

12.21 パラグアイ最高裁,5対4で「オビエド将軍(退役)を免責釈放した大統領令は憲法違反であり,司法の独立に抵触する」とし,「無効」の判決.大統領にオビエドの収監を命じる.クバス大統領は最高裁判決を「棚上げ」し受け入れを拒否.

12.22 オビエド支持グループ,首都のバス交通を10時まで全面ストップさせる.さらに一部は5人の裁判官の罷免を求めて最高裁判所に押しかけ投石、乱入.オビエドは「収監に賛成した五人の判事を罷免せよ」と要求.

12.28 オビエド派,明日に予定されていた全国抗議行動を,カトリック教会の説得によりいったん延期すると発表.政治危機は依然として続く.

12.29 コロラド党のバデル・ラチド・リチ総裁,大統領との関係を絶つと声明.支持者に「民主主義の簒奪者に抵抗せよ」と呼びかける.オビエド支持派が5人の判事私宅に抗議行動.

1999年

1.07 コロラド党,オビエド氏の党籍が抹消されたと発表.オビエド支持派の暴力集団「UNACE」に対し,解散を訴える.

99年2月

2.5 パラグアイ最高裁,オビエド元司令官を72時間以内に服役させるよう,大統領に命令.クバス大統領は「最高裁は政府の崩壊を狙っている」と反撃.

2.8 メルコスル議会,各国大統領がクバス大統領を説得するよう求める決議を全会一致で採択.

2.11 クバス大統領,上下両院合同委員会が弾劾審議を開始したことに関し「弾劾されれば自宅に戻る」と述べる.

2.15 パラグアイ議会,クバス大統領を「専制的で独裁主義」とする批判決議を採択.

2.17 パラグアイ司法当局,オビエド元司令官に対して公民権剥奪の再判決.オビエドの大統領選への立候補は阻止される.

99年3月

3.17 下院特別委員会,クバス大統領に関する懲罰審議を開始.「オビエド事件」に関してクバス大統領が最高裁の判決を再三にわたって拒否したことが罪に問われる.

3.23 クバスに反対するルイス・マリア・アルガニャ副大統領,自動車で出勤途中に,3〜4人グループにより4発の銃弾を受けて殺害される.ほか護衛1人が犠牲となり,運転手が負傷.クバス大統領は,犯人の国外逃亡を阻止するため事件後直ちに国境を閉鎖し,また,隣国のブラジルとアルゼンチンに犯人逮捕のための捜査協力を要請.アルゼンチン政府はこれを受けて,パラグアイとの国境を閉鎖.

3.23 大統領選挙で敗北した青党ならびにエンクエントロの両党首が交代.青党は長年のライーノ時代からフリオ・セサール・フランコに.エンクエントロはエウクリーデス・アセヴェロが就任.

3.24 アルガーニャ副大統領の葬儀.クーバス大統領は保安上の理由から出席せず.バスはほとんど止まりアスンシオン市内中心部の商店は休業.ブラジルと結ぶ友好の橋も閉鎖される.警察は暗殺の下手人としてコロンビア人6人を逮捕.

3.24 議会下院は,大統領の弾劾裁判の繰り上げ開始に賛成決議.議案は上院に送付される.決議を欠席したオビエド派議員は反対派の妨害で国会内に入れなかったと弁明.

3.24 クーバス大統領,「オビエド将軍の身柄を拘束した」と発表.オビエド自身はこの報道を否定.「刑に服するため近衛兵施設に出頭」したと発表.

3.25 下院での決議を受けて,上院でもクーバス大統領弾劾の審議が開始.48時間以内に大統領の弁明を求める決議を採択.国会前広場の抗議集会に警察隊が出動し,放水車などで対応.商店や金融機関は平常通りの営業を行うが,公共交通機関はストップ.

3.26 「民主主義のための青年たち」,クバス退陣を要求する国会デモ.オビエド支持派スナイパーによりメンバー7人が殺害,150人以上が負傷する.オビエド派は,議会派との衝突に向け地方の活動家をアスンシオンに動員.

3.26 クバス大統領,軍隊の投入を決める.戦車が出動しアスンシオン中心部に向かう.

3.26 ブラジルのカルドーソ大統領,クーデターの動きがあれば強い対抗処置をとると発言.

3.26 アスンシオン市内で,トヨタ・カップのオリンピア-コリンチャスの試合が予定通り行われる.

3.27 クバス辞任を求める国会前デモ.何者かが公園横のビルの上から弾丸を発射.25歳の若者が銃弾を浴びて死亡.この間の一連の衝突で死者5人、負傷者は40人以上に上る.

3.27 カルロス・ビジャグラ・マルサル駐チリ大使,駐ボリビア,駐フランスおよび駐バチカンの各大使が事件に抗議して辞任を表明.ビジャグラ大使は,クバス大統領とオビエド元司令官を事件の責任者として激しく非難

3.28 午後から国会周辺に群衆が集まり,大統領辞任を迫る.

19:00 クバス大統領,大統領府から辞任を発表する声明.「私は不正を働いて辞任するのではなく,パラグアイの平穏を願うからである」 その後ブラジル大使館に保護を求める.

夜 ルイス・アンヘル・ゴンサーレス・マキ上院議長が大統領の就任宣誓.軍もゴンサレスを支持するとの声明.国会前の公園は喜ぶ群集で埋まる.ゴンサレス夫人は元ミス・パラグアイとのこと.

夜  リノ・オビエド元司令官,偽造ドキュメント所持し自家用機でアルゼンチン入り.ブエノス・アイレスのチグレ空港に到着.身分証明書が不正であるとして,同行していた夫人と3人の子供とともに当局に逮捕される.オビエドは政治亡命を申し入れる.

3.29 憲法規定に則りルイス・ゴンサレス・マキ上院議長が新大統領に指名される。下院はゴンサレス大統領の罷免を議決.ブラジル大使館は新政権と亡命の交渉に入る.

3.29 裁判所,青年の殺害事件でクバスに対し逮捕命令.パラグアイ新政権はオビエドの身柄引渡しを要請する.

3.30 クバス前大統領,新政権より亡命を認められる.ブラジル政府はアスンシオンへ空軍機を送り,クバスはブラジル南部の保養地カンボリウー(別宅の所在地)に到着.

3.30 ルイス・ゴンサレスが大統領に就任.52年間の与党コロラド党の1党独裁体制に終止符を打ち,「国家統合」内閣として野党から4閣僚を迎える.野党第1党の真正急進自由党(PLRA)=青色党からは,外務および農牧相,また,国民会議党(PEN)=エンクエントロ党?から商工および司法・労働相が入閣.また,アルガニャ前副大統領の子息を国防相に,ストロニスタの2人を公衆衛生・社会福祉および通信・公共事業相に充てる.

3.31 国会,クバス=オビエド派の支柱となっていたマスコミ幹部4人を「国家機関への侵害」で告発.クバスに対抗する議会を解散させ,最高裁判事を罷免するよう煽ったことを非難.4人は,ラ・ナシオン紙のオーナー社長オスワルド・ドミンゲス・ディブ,同紙編集長アルベウト・バルガス・ペニャ,ラジオ「ナンワ」社長のフアン・カルロス・ベルナベ,ラジオ「モンテカルロ」のラウル・メラメド.このうちバルガスとベルナベは警察に出頭.さらにワスモシ政権の副大統領セイファートも逮捕される.

3.31 アルゼンチン政府,パラグアイ政府の申し出を拒否.オビエドの政治亡命を承認.

99年4月

4.1 司法当局,反動派の黒幕ドミンゲスを,アスンシオンの街頭で逮捕したと発表.ドミンゲスはサッカーのチャンピオン・クラブ「オリンピア」の会長も務めていた.メラメドは引き続き逃走中.

4.5 ミゲル・アブドン・サギエル外相,今後2週間をメドに,オビエド元司令官の身柄引き渡しを要請すると発言.この要請は,退陣要求デモでオビエド支持派により殺害された「民主主義のための青年たち」のメンバー6人の遺族の意思でもあると述べる.

4.28 オビエドの側近ホセ・セゴビア・ボルテス前国防相,ウルグアイに亡命申請.パラグアイ政府は,公金の不正流用など汚職疑惑で身柄の引き渡しを要請.

99年5月

5.03 上院,ホセ・フランシスコ・アペヤルドとビクトル・ガレアノ・ペロネの両上院議員の議員特権を剥奪.デモ隊への発砲事件に関与した容疑で起訴されたことによる.ウルグアイに亡命.

5.05 ワルテル・ボウエル内相,アルガニャ副大統領の殺害容疑者の名前を公表.容疑者はウォロニエクキ大佐とソロリオ・ベラ(オビエドの護衛隊員)ら3人.

7.13 パラグアイのガラベルナ上院議長は,オビエド元司令官の身柄引き渡しをアルゼンチン政府に求める.アルガニャ副大統領を殺害した事件とデモ中の青年グループを殺害した事件の首謀容疑によるもの

9.23 アルゼンチン政府,「亡命中のオビエド元司令官が地元紙に政治的発言をしたためパタゴニア地方に”幽閉”する」と発表.マッチ大統領は「今後もオビエド元司令官の身柄引き渡しをアルゼンチン政府に求めていく」と声明.

12.09 パラグアイのルーベン・ダリオ・フルートス判事,77年のゴイブル博士失踪事件で,ストロエスネルを拘留する司法命令.ブラジル当局が彼を捕らえ送還することを求める.

12.09 オビエド,亡命先のアルゼンチンからひそかに姿を消し,ブラジルのパラグアイ国境近くに潜伏.クーデターの準備を始める.

12月 ルイス・ゴンサレス(マッチ)大統領,選挙実施を拒否.これを不満とする真正自由急進党(PLRA)は,連立政権から離脱.野党色を鮮明にする.

2000年

2.07 青党が連立政権からの離脱を宣言.エンクエントロは引き続き政権にとどまる.

4.28 最高裁判所は「大統領は2003年まで任期があり、副大統領だけを選挙で選ぶ」との判断を示す.

5.18 深夜から翌日未明にかけて,オビエド元将軍を支持する一部軍人によるクーデターが発生.退役佐官と下士官を中心とした約100人のグループが,国家警察本部と国軍部隊の兵舎を占拠.戦車部隊を市内中心部に出動させる.戦車が国会前の広場で議事堂に向け発砲するも,朝までに投降.

5.19 コンサーレス・マキ大統領は30日間の非常事態宣言.戦車が町に出動し主要道路を封鎖.ホセ・オカンポ国軍統合参謀本部議長は「軍全体を掌握しており、いかなる反乱も認められない」と発表.国会議員4人を含む60人以上を拘束.大統領は,戦車部隊の大胆な配置変更と地方への分散を実施.

5.19 オビエドは「われわれの政治勢力はいかなる軍事ほう起にもかかわっていない」と事件への関与を強く否定.「クーデターを起こした者は厳正にパラグアイの法律で裁かれるべきである」と発言.

5.20 政府当局,軍人60人と警官21人、民間人12人を逮捕.ガラベルナ上院議長,「ゴンサレス大統領ら政府要人の殺害計画」を示す文書が見つかったと語る.

6.11 パラグアイとの国境の街フォス・ド・イグアス市のアパートに居たオビエド元将軍が武器等不法所持の容疑で逮捕された。建物の8階に居たオビエド元将軍はトイレに隠れているところを逮捕され、ブラジリアに護送されることになった。今後パラグアイ側に引き渡されるかどうかは不明。

8.13 パラグアイで副大統領選挙.ルイス・アルガニャ暗殺以来空席となっていたもの.真正急進自由党(青党:PLRA)のフリオ・セサール・フランコ・ゴメス(愛称ジョジット)上院議員と与党コロラド党のフェリクス・カルロス・アルガニャ(暗殺されたアガルニャの息子)の対決となる.オビエド派は青党支持に回る.赤党と連立政権を組むエンクエントロはアルガニャ支持に回る.

8.14 開票率約90%の時点で,自由党フリオセサル・フランコの優勢が明らかになる.一部メディアはフランコ氏の当確を報じる.この後,選挙管理委員会が一週間以上にわたり開票状況を発表せず.野党側はコロラド党の責任を追及し,ルイス・ゴンサレス大統領の辞任を要求.

8.20 副大統領選.僅差でフランコの当選が確定.国政選挙での与党コロラド党の敗北は53年ぶり.自由党は大統領の退陣と新たに選ばれた副大統領の大統領就任を要求.人権活動家たちは「自由党がオビエドの復権を許せば,民主化はむしろ逆行しかねない」と警告.

10月 陸軍少佐ほか二人がアルガーナ殺害の罪で有罪となり収監される。

11.17 地方選挙が実施される.コロラド党が10年ぶりにアスンシオン市長のポストを奪還.

 

2001年

1月 警察が誘拐事件の容疑者を監禁し拷問していたことが発覚.内務大臣が引責辞任.

3.18 最大野党の青党大会.コンセプシオン県選出の下院議員、オスカル・デニスが新党首に選出される.

3月 政府、日本などの協力を得て経済開発戦略計画を発表。その後政治危機のため、店ざらしとなる。

3月 アスンシオン条約の締結10周年を記念するフォーラムがアスンシオンにおいて開催される。この条約はメルコスール発足の基盤となる4国間の合意。

5月 1600万ドルの国費が違法な手続きで米国銀行の口座に移される。この詐欺に関与した疑いで中央銀行総裁が辞任。

01年 ファン・カルロス・ワスモッシ終身上院議員(元大統領)に対する議員特権剥奪決議が議会で成立。大統領時代に、開発銀行救済のため中銀を通じ不正融資を行ったとするもので、カルロス・オルチス・バリオス判事の要請に基づくもの。

01年 エンソ・デ・ベルナルディ元財務大臣の息子嫁マリア・エディス誘拐事件。ベルナルディの資産は8億ドルといわれる。警察は「自由祖国」の活動家に罪を負わせようとして、準軍組織「反テロリスト団」を使いアン・アロムとアヌンシオ・マルティを拉致・監禁し拷問を加える。二人はアスンション郊外の「反テロリスト団」アジトで発見されたが、2週間にわたる拷問、火傷、殴打により危篤状態だった。二人を発見した「パラグアイ人権コーディネータ」などの組織は、ラトーレ検事総長とマッチ大統領を訴える。アロムは、La Jornadaとのインタビューで、二人への拷問が「左翼組織に対する迫害を始める」意図だったと述べる。

 

2002年

2月 クバス元大統領が帰国、ただちに逮捕される.

5.30 ゴンサーレス・マキ大統領の無能ぶりが明らかになる.コロラド党委員長ニカノル・ドゥアルテ・フルートとの関係も険悪化し,大統領は孤立.

5.31 民営化に反対する数千の農民がアスンシオンへ向けて行進.労組はゼネストの準備に入る.ブラジル亡命中のオビエド将軍,「イグアスーの『友情の橋』を渡って帰国する」と声明.

6.05 電電公社(COPACO)の民営化などに反対する農民数千名が,各地で道路を封鎖.警官隊と衝突し一人が死亡、数名が負傷.

6.06 パラグアイ上院,農民運動の激化を受けて,電電公社の売却(四億ドル)をふくむ国家改革法の効力停止法案を賛成32,反対7で可決.民営化プロジェクトを棚上げ.これを受けてゼネスト計画と農民行進は中止される.

6.06 自由急進党とコロラド党の一部が連合し,大統領弾劾決議を提案.政局混乱によるオビエド復活を恐れるコロラド党主流派が反対に回り,不成立に終わる.

02年7月

7.14 ゴンサーレス大統領の辞任を求めるUNACE(オビエド派)のデモ.一部が暴徒化し,主要高速道路をバリケード封鎖.ブラジル亡命中のオビエドが国境の町フォスから指令を出し,青党の一部がこれに呼応していたといわれる.

7.15 政府は全土に非常事態を宣言.警察機動隊が出動し,道路封鎖を解除.抗議行動で2人が死亡、239人が逮捕される.ブラジル国境の町エル・エステでの損害は百万ドル.

7.17 ゴンサレス・マッキ大統領が非常事態宣言の解除を発表.また来年5月に予定していた大統領選を4月29日に繰り上げ実施すると発表.

11月 CNN,パラグアイ東部のレバノン人入植地で「アル・カーイダ」の支持勢力が活動していると報道.

12.05 パラグアイ下院,汚職容疑にもとづくゴンサレス大統領弾劾手続きの申請を,賛成50票、棄権11票、欠席19票にて承認.問題となっている汚職容疑は1,600万ドルの公金をNYの個人口座へ横流しした件、大統領府機密費流用,および盗品の自動車を購入した件である。

2002年 資本家ペドロ・ファドゥールら、愛国党(Partido Patria Querida)を結成。都市部を中心に影響力を拡大。

 

2003年

2月  ゴンサレス大統領に対する弾劾決議案は議会上院で否決される.

盗難車とパラグアイ ブラジルで盗難にあった自動車は暫くすればパラグアイに現れる.60万台の自動車の70%は不正規なもの.マチ現大統領のBMW,スサナ大統領夫人の車も盗品であることが判明.

4.27 パラグアイで大統領選挙実施.与党・国民共和党(コロラド党:ANR)党首のニカノル・ドゥアルテ・フルトス(46)が37.63%で当選.ドゥアルテは財政赤字の撲滅と雇用創出、対外債務の繰延べなどを公約に掲げ,「汚職、偽造、密輸の泥沼から祖国を引きあげよう」と訴える.二位には愛国戦線のペドロ・ファドゥルが23.4%で滑り込む.自由急進党のフランコは22.4%で三位にとどまる.

4.27 パラグアイ議会選挙.ウナセが10%以上の得票を得て躍進.企業経営者を支持基盤とする愛国戦線(ペドロ・ファドゥル議長)も10議席以上を獲得.

6.18 パラグアイのアスンシオンでメルコスルの首脳会議.ベネズエラのチャベス大統領も招待されて参加.市場統合を進めると共同宣言.FTAAについては,メルコスルが全体として対処することとなる.

03年8月

8.08 ドゥアルテ,大統領就任を前にテレビ演説.「汚職と免罪に対する戦争を開始しよう」と呼びかける.また「政府には親戚を一切入れず、仕事の出来ない者は遠慮なく解任する」と語る.

8.14 ゴンサレス前大統領,中央銀行から1600万ドルを国外に不正送金との疑惑が浮上.裁判所が退任後の出国禁止を命じる.

8.15 ドゥアルテがパラグアイ大統領に就任.ルーラ、キルチネル、チャベス、カストロなどの8大統領が参列.ドゥアルテは,「人間の尊厳を否定し抑制するネオリベラリズムは弱体化する。人間は市場よりも尊いことを踏まえ、市場をより公正なものにしなければならない.人道に適した開発の道を探す」と宣言.「信用の回復」「新経済モデルの構築」「汚職・腐敗との戦い」「貧困の根絶」の4つの公約を掲げる.

8.16 議会はストロエスネル時代の人権犯罪を究明する委員会の設置を決める.

8.16 ドゥアルテ大統領,軍部幹部の大規模な異動を実施.国防相にロメオを任命,総司令官にカナザワ将軍を任命,陸海空三軍の司令官をすべて交替.

9月 ドゥアルテ大統領の訪米を契機にIMFとのスタンドバイクレジット交渉が本格化.

10月 IMFミッションのパラグアイ来訪.現政権の改革努力を評価.

11.06 米軍との共同軍事演習「アギラV」,FARCを空爆する作戦が含まれていることから,各国で反対運動.パラグアイのドゥアルテ大統領も,国内での米軍共同演習「アギラV」を拒否.

12.15 パラグアイの債務繰り延べ,IMF理事会にて正式合意に達する.その後、外貨準備高の上昇、インフレの抑制、税収拡大が図られる。パラグアイの一人あたり年収は過去20年間で最低の940ドル.貧困人口は国民の2/3に及ぶ.

 

2004年

4月 農地の再分配を要求する土地なし農民による一連の土地占拠事件が発生。

6.29 オビエド将軍がブラジルから戻る。アスンシオン空港付近で数百人が歓迎。軍のヘリで空港から直接連行される。

8.10 スーパーマーケット「イクワー・ボラーニョス」で火災。スーパー側が万引きの恐れがあるとして、火が出た建物のドアを閉じ、434人が焼死。政府は3日間の国民服喪を呼びかける。

8.28 マルティン・アルマダ,70年代のコンドル作戦によって行方不明になった三人の反体制活動家(フレデリコ・タテル、イグナシオ・サマニエゴ、オスカル・ルイス・ロハス)に関する裁判で,ストロエスネルの逮捕と召還をもとめる.

マルティン・アルマダはパラグアイの著名な人権活動家.1992年ストロエスネルの秘密警察の書類を発見し、2002年にはスエーデン国会からラブリーフッド・ノーベル賞を受賞している。アルマダの妻、セレスティナ・ペレスは、1976年の独裁制時に暗殺された。

8月 メルコスール常設仲裁裁判所がアスンシオンに設置される。

9.09 アスンシオン裁判所のグスタボ・サンタンデール判事,アルマダの要請を容れ,ストロエスネル(ブラジル亡命中)の逮捕と送還を要請するよう政府に命じる.

10月 クーバス元大統領の長女セシリア(31)、何者かにより誘拐される。

11.16 パラグアイで農地改革と農業地域の非軍事化を求めた全国ストがはじまる。「祖国と生命のための闘争戦線」(FSV)の指導の下、農民、労働組合、学生がアスンシオンの中心部を示威行動。全国各地で4000人が抗議活動を展開。

11.18 サン・ペドロ県で、農業地域の非軍事化を求めるストに軍と警察の弾圧。20人の負傷者と30人の逮捕者を出す。

11.19 アスンシオンでサンペドロの弾圧に抗議するデモ。オスカル・ラトーレ検事総長の辞任を要求。警察は首都に向かう農民を乗せたトラック20台を検束。

11.22 ドゥアルテ大統領、「公共の秩序と国民の安全を守るため」、軍が国家警察と協力することを認める。FSVの指導者トマス・サヤスは、「事実上の戒厳令」と非難。

11.27 パラグアイの運河プロジェクトで、EUからの援助資金の90%が無関係の銀行口座にまわされていたことが判明。

12.03 カアグアスーの土地を持たない農民が農場を占拠。パラグアイ警察に追い出され、逮捕される。

12月 カトリック教会、ルーゴに司教の辞任を迫る。彼が土地なし農民の土地占拠運動を支持したためとされる。

 

2005年

1.11 ルーゴ、サンペドロ司教を辞任。大統領選挙出馬の準備に入る。

1.21 マルティン・アルマダ弁護士、75年のフェンテス・アラルコン失踪事件に関し、自国の裁判所に対しピノチェットとコントレーラスの裁判を開始するよう求める。アラルコンを含むMIR活動家の摘発はコロンボ作戦と呼ばれコンドル作戦の一部をなす。

2.07 パラグアイのエルナン・ケサーダ弁護士、「コロンボ計画にピノチェットがかかわった証拠がある」とし、ピノチェット元大統領の裁判を求める。コロンボ作戦は1975年7月に開始され、「革命的左翼行動」の119人が虐殺され、アルゼンチンとブラジルで死体が発見された。当時、DINA当局は「MIRの内部抗争により死亡」と発表した。

2.07 コントレーラス、コロンボ計画に関連し、「毎朝ピノチェットとの朝食で、DINAの活動作戦は全て伝えた」と発言。

2.17 クーバス元大統領の長女セシリア(31)の遺体が、首都アスンシオン郊外のニェムビで発見される。遺体は住宅の地下トンネルから発見され、腐敗が進んでいた。死因は窒息死で、鼻と口を荷造り用のテープで塞がれていた。

2.17 オスカル・ラトーレ検事総長、これがマヌエル・クリスタルド・ミエレスの所有する「自由祖国」(PPL)のアジトだったと主張。この家から「自由祖国」のオスマル・マルティネスへの電話発信があったとのべる。オスマルとホセのマルティネス兄弟は昨年10月同党を除名されている。

2.18 セシリア・クバスの誘拐・殺害事件で、オスマル・マルティネスら6人が逮捕される。うち2人は警官。マヌエル・クリスタルド(31歳女性)は誘拐犯として逃亡中。

2.18 ネルソン・モラ内務大臣とカルロス・セラヤ警察長官、「事件の重大さ」から辞表を提出。会見の席で、「誘拐殺人犯とFARCとは直接関係がある」とのコロンビア政府の情報を重視していると述べる。昨年末カラカスから誘拐されたFARCのロドリゴ・グランダが誘拐グループを手引きしたとの観測を発表。FARCと思われる人間が「自由祖国の兵士に誘拐の訓練」をしているビデオの存在が取りざたされる。

2.18 一方人権団体はニェムビの警察が誘拐に殺害に関わった可能性を示唆。「農民活動への弾圧と投獄が始まる」ことを強く警戒。01年のマリア・エディス誘拐事件の経験から、警察の直接関与、情報の秘匿に関しても強い疑いがもたれている。アルゼンチンのコリエンテス州の検事オスカル・ロセアリは、2003年9月に起きた別の誘拐事件の犯人と同一の可能性があると示唆。

2.19 駐アスンションのジョン・F・キーン米国大使、FARCとのつながりなどの仮説を支持。反テロの合意を得るための南米国家の会合に言及する。コロンビア政府は、パラグアイ司法当局にあらゆる協力をする用意があると声明。

2.20 ドゥアルテ大統領、クーバス元大統領の長女誘拐殺害事件で国家警察幹部を処分。

2.21 ブラジル亡命中の「自由祖国」のフアン・アロム、セシリア・クーバスの誘拐・殺害とはいかなる関係もないと言明。1月中旬にセシリアを殺害することを決めたとの報道を否定。FARCとの関係については、「兄弟的関係を維持しているが、左派政党との一般的関係と同じもの」と述べる。

3.16 パラグアイ最高裁、オビエド元将軍の主張を却下。10年の刑が確定する。

4.05 パラグアイのグスタボ・サンタンデール判事、元参謀本部長アレハンドロ・フレーテス将軍84歳の逮捕命令を出した。フレーテスは、アルフレッド・ストロエスネル軍政時代に、コンドル作戦により反対派の行方不明者を出した。少なくとも900人のパラグアイ人が死亡、このうち12人はアルゼンチンで死亡している。サンタンデール判事は、ブラジル亡命中のストロエスネルについても身柄引き渡しを要求、同じ罪状で告発している。

5月 米国軍、パラグアイと協定。パラグアイ全土の通行が可能となり、全ての空港に着陸ができ、兵士は無処罰特権を有し、いかなる武器も帯行できることになる。ボリビア国境から200キロのエスティガリビア軍事基地は3800メートルの滑走路を持ち、超大型輸送機の受け入れも可能である。

6月 政府、公共事業の民営化をふくむ経済改革案を提出。下院はこの提案を否決。

7月1日 パラグアイに500人の米軍特務部隊が到着。「テロリズムと麻薬取引に対する闘いの」ため、パラグアイ軍の指導を始める。

8月 パラグアイの米軍特務部隊、ボリビアから250キロのマリスカル・エスティガリビア飛行場で3800メートルの滑走路を整備。B-52、C-130ハーキュリーズ、C-5ギャラクシーなど大型機が離発着可能となる。ここは「サンタ・クルスの自治運動」の要請を受けてボリビアに介入するには、理想的な位置にある。

8月 ラムズフェルド米国防長官、アスンシオンを訪問。麻薬や反政府ゲリラの取り締まりの重要性を指摘し、「中南米との最大限の協力は有益だ」と評価する。米国との自由貿易協定を視野に置くパラグアイは、米軍要員約400人の出入国と国内移動の自由を認める。

8月 パラグアイで内陸国会議が開催され30カ国以上が参加。世界貿易寄稿の会議で優先的に措置が講じられるよう要求する。

9月 ブラジルとアルゼンチン両国外相、「パラグアイに米軍基地は不必要だ」と表明。アモリン外相はパラグアイ政府に「米国との関係に一層の透明性を」と求める。

11.30 マルティン・アルマダ、「真実と正義のための悲痛な戦いは、今も妨げられている。かつての独裁者ストロエスネルは、“イタイプーの実力者”(イタイプー・ダムの建設にまつわる汚職で豊かになった軍民グループ)によって、今も守られている」と述べる。

 

2006年

1.15 ストロエスネルの家族が帰国運動を展開。娘オリビアは、「父は過去の独裁時代に起きたことには責任がない。米国に押しつけられたものである。みずから人を殺せと命じたことはない」などと語る。いっぽうLa Jornadaによれば、彼らは祖父の巨額の財産を守り、犠牲者に対する賠償金支払いを逃れているとされる。

3月 アスンシオンで、ドアルテ大統領の経済の失政を批判し、コロラド党支配に抗議する反政府デモ。5万人を動員し、前司教のルゴがデモの先頭に立つ。

6月 ルイス・ゴンザレス・マッキ前大統領、違法な銀行間の金銭移動の罪で懲役6年を宣告される。

8.16 前軍事支配者アルフレード・ストロエスネル(93歳)、ブラジリアで死去。

12月初め ルーゴ、聖職を辞す。バチカンは不服従のかどでルーゴを非難、立候補にも激しく反対する。

12.25 カトリック教会のルゴ司教、還俗して大統領に立候補すると発表。ドゥアルテ大統領は「ルゴはチャベス大統領の傀儡である」と批判。エクアドル、ベネズエラの扇動家達がパラグアイにやってきて暴力行為を引き起こすだろうなどと発言。

12.26 ディアリオABCの世論調査。ルーゴが「貧しい者の司教」として、他候補を圧する高い支持率を獲得。パラグアイの住民のほぼ50パーセントが、1日2ドル未満で暮らしている。市民の38パーセントは失業中であるか不完全就業である。

 

2007年

2.23 ルーゴ、政治活動をやめるように「死の脅迫」を受ける。プレンサ・ラティーナ記事は、「内務省がルーゴに保護を提供する」ことを決めたと報道。

2月 世論調査。ルーゴが有権者の37%以上の支持を集めトップとなる。

6.18 ルーゴは、ワシントンを訪ね、国務省当局と会見。ジョージ・ワシントン大学で「世界の最も長い与党に代わるもの」と題し講演。

7月 最大野党の正統急進自由党(PLRA)、ルーゴの立候補を支持することに同意。党首のフェデリコ・フランコが副大統領候補の地位を獲得。愛国党(PPQ:Partido Patria Querida)のペドロ・ファドゥール、市民倫理国民統一党(PUNACE:Partido Union Nacional de Ciudadanos Eticos)のオビエドなどを怒らせる。

8月 ファドゥール、オビエドが大統領立候補をにおわせたため、反対派連合は崩壊。これに対しルーゴ=PLRA陣営は群小左翼政党を糾合し、新たな左翼連合の結成に動く。

8月 ルーゴ、中道よりイメージを強める。ベネズエラは「多元的文化が不足しており、真の民主主義にとって危険である」、あるいは「チリでのミシェル・バチェレ政権は米国との自由貿易協定に調印したが、社会主義者であることをやめなかった」などと発言。

9.17 ルゴの選挙母体として七つの政党と市民団体からなる「変化のための愛国同盟」(APC)が結成される。

9月 リノ・オビエド、恩赦により出獄。大統領選挙を目指し、ウナセを母体に市民倫理国民統一党(Partido Union Nacional de Ciudadanos Eticos)を結成。

10.29 ルーゴ、大統領選挙出馬のためパラグアイ・キリスト教民主党に党籍を登録。

10.31 パラグアイ最高裁、リノ・オビエド元将軍の軍法判決(禁固刑10年)を取り消す決定。これにより来年4月の大統領選出馬に道が開かれる。

11.16 ドゥアルテ大統領、「コロラド党はルーゴの立候補を妨げるために、いかなる訴訟も始めない」と声明。

選挙出馬の障害: 与党の一部には、いかなる宗教の役職者も選挙出馬を禁じる憲法の第235条をたてに、ルーゴの出馬を阻止しようという動きがあった。ルーゴは聖職者の地位を辞したが、法王ベネディクトXVI世は辞任を認めなかった。

12月 穀物の価格上昇で07年度は6.4%の経済成長率を記録。失業率も8.5%に下がる。

 

2008年

2.19 アスンシオンの貧しい郊外で、黄熱病の発生。少なくとも10人の人々が死亡。予防注射の不足から、数万の人が放置される。

3月1日 パラグアイ人民軍(EPP)が結成宣言。マルクス・レーニン主義、民族主義をかかげる。カルメン・ビジャルバ、その夫であるアルシデス・オビエド・ブリテスが指導。「自由な祖国」(PL) の流れを引き継ぐ。二人が逮捕された後はオスバルド・ビジャルバ、マヌエル・クリスタルド・ミエレスが指導。コンセプシオン県、サンペドロ県など北部の貧しい農村地帯を地盤とする。

3月 フェルナンド・ルゴ候補、アルゼンチンを訪問。「まもなくパラグアイは、希望ある時代を迎えている南米大陸の異なる孤島ではなくなる。われわれは喜んで、ラテンアメリカのすべての進歩的政府に加わる」と語る。

4.10 投票直前にルゴ陣営への攻撃が強まる。ルゴ支持者は暴力に反対して首都アスンシオン市内をデモ行進。オビエド陣営は、ベネズエラ、ボリビア両大統領とルゴ氏の写真を並べ、「紛争、経済危機、資本流出」などと中傷するポスターを張り出す。

4月20日 大統領選挙。「変革のための愛国同盟」(APC)のフェルナンド・ルーゴ候補が41%を獲得。過半数にはおよばず、コロラド党の出方待ちとなる。

4.20夜 コロラド党候補のブランカ・オベラール、敗北を認める。まもなくドゥアルテも、コロラド党の敗北を受け入れる。61年続いたコロラド党の政権が終わる。

4月22日 ルゴ、中国との関係具体化に向け作業を始めると語る。

4.26 最大紙「ABCコロール」、「ニカノルは去るが親戚は税務署に残る」と報道。大統領の汚職問題を追及。

5月03日 議会の議席数が確定。下院では赤党30と青党27が拮抗し、オビエド党が15議席に増やす。

5月09日 ルーゴ新大統領、ブラジル政府に対しイタイプー発電所の建設協定見直しを求める。電力料金5・5倍値上げ要求。ブラジルのアモリン外相は、イタイプー水力発電所に関する条約の見直しはない。外交交渉によって双方満足の行く形で解決したいと述べる。

5.29 ルーゴ、財務大臣にディオニシオ・ボルダを指名。ドゥアルテ政権発足当時の財務大臣。ボルダは、「新政権はIMFとの契約更新に署名しないだろう」と述べる。

6月23日 ドゥアルテ大統領が辞意表明。上院議員に転身を図り議員の不逮捕特権で起訴を免れようとする。野党が抵抗。

6.24 パラグアイ議会は、ドゥアルテ大統領の辞意表明を巡り上下両院の合同会議を招集。

6月25日 パラグアイ議会、野党や一部与党議員の欠席で定足数に至らず流会。大統領の辞任認めず。

 

2009年

09年 EPP、農場主フィデル・サバラを誘拐。「飼育している牛の肉を、 貧民に分配する」ことを要求する。

 

2010年

 

2011年

 

2012年

 

2013年

8月15日 コロラド党のオラシオ・カルテスが大統領に就任。

8.17 サンペドロ県タクアティ(アスンシオンの北400キロ)でパラグアイ人民軍(EPP)がブラジル人所有のラグニタ農場を襲撃。ガードマン5人が殺害された。「この農場の殺し屋どもは、農民を20人殺害し、罰されることが なかった」との声明を発表。政府は軍200人を現地に派遣する。

 

2014年