アルゼンチン年表 その1

 1500年  1600年  1700年  1800年  1900年

1961年  1965年  1970年  1975年  1980年  マルビナス戦争 

 

1500

 (一説ではアメリゴ・ベスプッチが1501年にラプラタ河口まで到達)

15年10月8日 フアン・ディアス・デ・ソリスの船団,Lepe の港を発ち、南米東岸を南進する.

フアン・ディアス・デ・ソリス(Juan Díaz de Solís): 出自は諸説ある。Catholic Encyclopedia では「セビリャのLebrijaの生まれだが、一説ではアストゥリアス生まれ」とある。1506年にユカタン半島を、1508年にブラジルを探検し、1512年にはアメリゴ・ヴェスプッチの死に伴い、その後を継いで「主任水先案内人」の地位につく


16年1月20日 ソリス、現在のプンタ・デル・エステの近くに上陸。先住民から銀の贈り物を受ける。現ラプラタ河を発見し、“Mar Dulce”(真水の海)と呼ぶ。

16年 ソリス、ラプラタ河を太平洋への出口と確信,さらに遡航するが銀は発見できず.途中パラナ川とウルグアイ側の合流点付近で、チャルーア族に襲われ殺害される.(侵略者に対し絶対に降伏しない不屈の精神を持ったこの部族にちなみ、今でもウルグアイ人は自らのことを「チャルーアス」と呼ぶ:ウルグアイ大使館ホームページ)

16年9月4日 脱出に成功した者からソリス殺害の報告を受け船団は帰投。船団長を代行したフランシスコ・デ・トレス(義弟)はこの河をRío de Solís と名付ける。

ソリスの探検について、日本語版ウィキペディアには特異な記載が見られるが、ここでは採らなかった。

19年8月10日 マゼラン(Fernando de Magallanes)の艦隊がセビリアを出発。(マゼランはトランジットに過ぎず、アルゼンチンの歴史とはあまり関係ないので簡単に触れる)

20年3月31日 マゼラン,パタゴニアのサン・フリアン港に入る。ここで8月24日まで越冬に入る。

サン・フリアンで艦隊の中から反乱が起きた。一時5隻の内3隻が反乱側に付くがマゼランは反撃に成功。航海を続行することとなった。

24年 この頃から、ソリスの発見したラ・プラタ河の上流地帯が銀の宝庫としてスペイン本国で注目されるようになり、「ラプラタ」と呼ばれるようになった(在ア日本大使館ホームページ)

25年 アレホ・ガルシアが、ブラジルのサンタ・カタリナから陸路パラグアイに入る。(ブラジル年表を見よ)

アレホ・ガルシア(Alejo García): ポルトガル人でソリスの探検隊の一員であった。彼の船はブラジルのサンタ・カタリナ沖で難破し、10名ほどがグアラニー族に保護された。

26年4月3日 セバスチアン・カボットの探検隊がスペインを出発。ブラジルでアレホ・ガルシアの話を聞き、インカの銀をもとめパラナ川をさかのぼる。パラナ河とパラグアイ河の合流点にエスピリト・サント要塞建設.

セバスチアン・カボット(Sebastian Cabot): おなじベネツィア生まれだが、ブリストル湾を探検したジョバンニとは別人。

29年8月6日 カボット、インディオのうちつづく襲撃と,財宝の少なさに失望して帰国.

1530年

33年 ピサロの部下ディエゴ・デ・アルマグロ、アルゼンチン北西部をふくむアルティプラノを探検。

34年3月21日 メンドサ,ヌエバ・アンダルシア(リオ・デ・ラ・プラタ地方)の初代総督(adelantado)に任命される。

35年 メンドサ,12隻の船を率い,千5百人の入植者とともにスペインを出航。

メンドサ(Don Pedro de Mendoza y Lujan): グラナダ出身の貴族でカルロス5世の重臣を務める。船や入植者の数については異同がある。ウィキペディア英語版では重症の梅毒に苦しんでいたとされる。

36年2月2日 メンドサの船団、ヌエストラ・セニョーラ・サンタ・マリア・デル・ブエン・アイレに植民地を建設する.

37年 病が進行したメンドサは、フアン・デ・アヨラス(Ayolas)に指揮を託す。先住民の攻撃と飢えが襲来する。

37年6月23日 メンドサ、帰国途中の船で死亡.

37年9月12日 勅令。メンドサの死亡にともなう後継者を現地に一任する。

37年 アヨラスのパラグアイ探検と死。

細かい日付が不明だが、経過としては以下のとおり。
アヨラス、食料を求めブエノスアイレスを出発。パラナ川を遡行し、カボットの要塞の廃墟を発見する。Corpus Christi 要塞を建設する(場所は不明)。カンデラリア(現在のフエルテ・オリンポ)の港を確保し、イララ が残留する。
アヨラスの本隊は、伝説的な「白い王の国」を求め、さらにパラグアイ川を遡る。現アスンシオンの近くでグアラニー族と戦ったあと、チャコ草原を横断しアンデス山麓まで達した。
その後、カンデラリアへの帰還途中に先住民の襲撃を受け死亡した。38年夏とされる。

37.8.15 アスンシオンの建設

こちらも細かい経過が不明だが、概略以下のとおり。
Juan de Salazar de Espinosa and Gonzalo de Mendoza の捜索隊がパラナ川を遡上し、イララの留守部隊と合流。イララは船団を導きパラグアイ河とピルコマヨ河の合流点に到達.現地に砦を築きヌエストラ・セニョーラ・サンタマリア・デ・ラ・アスンシオンと命名.
アスンシオンの名は、
8月15日の聖母聖天(Assumption of Mary)の日に由来する。
司令官にはサラザールが就任。イララはアスンシオンの建設には参加せず、カンデラリアに戻る。

38年8月 総督民選を許可する勅令にもとづき、植民者がイララをリオ・デ・ラプラタ総督に選出する。ブエノスアイレスに残留する Ruiz Galanとのあいだに緊張。

イララ(Domingo Martinez de Irala): Vergara生まれのバスク人。スペイン時代のキャリアはほとんど知られていない。メンドサについてブエノスアイレスにわたり、アヨラスについてパラグアイ遠征に参加した。

38年 インカ帝国を征服したスペイン人の部隊がボリビアのチャルカスまで進出。

39年 イララ総督,原住民グアラニーの襲撃や伝染病などのためブエノスアイレスへの植民を放棄し,内陸部への移動を開始する.

1540年

40年 イララ,グアラニー族と共同しグアイクルー族などチャコ地方のインディオを駆逐し支配を確立.通婚奨励策に基づき多くは現地人と混血しメスティソ国家となる.

血の契約: イララは、「血の契約」を布告し、スペイン人とグァラニー先住民族の混血を積極的に奨励した。混血によって生まれた人は「土地の若者(Mancebo de la tierra)」と呼ばれ、変化は身体面だけではなく精神面にも及んだ。アスンシオン住民は意識の上でも自己と他者を区別するようになり、「パラグアイ人」意識が生じるようになった。

40年 スペイン王室、バカをヌエバ・アンダルシア総督に任命。

バカ(Alvar Núñez Cabeza de Vaca): スペイン人探検者。メキシコ湾岸を6年にわたり漂流した逸話が有名。この書を読んだカルロス五世が総督に指名したが、本人はフロリダ総督の地位を望んでいたという。

41年 ブエノスアイレス植民地が最終的に閉鎖される。

41年 この年、パンパで12頭の馬が放し飼いにされる。馬はその後大繁殖する。

42年 ペルー副王領が設立され、ポルトガル領を除く南米大陸の全てが副王領に編入される。カベサ・デ・バカがラプラタ総督としてアスンシオンに赴任する.

42年 バカの着任に伴い副官となったイララは、パラグアイ川上流を探索。Los Reyes まで達したあとアスンシオンに戻る。

43.5 フェリーペ・グティエレス,クスコからコリャオを経由してフフイ,パラナ地方を探検.

44年4月 バカは王室の命を受け捕らえられる。その後スペインに強制送還され、北アフリカの地に配流される。これに代わりイララが総督に復帰。イララは先住民との関係を回復し農業や手工業の進行を図る。

ウィキペディアによれば、これはイララらの政治的陰謀によるものであり、彼は最終的には潔白を証明された。彼は余生において人類学者として名を成した。

46年 イララ、三度目の北西部遠征。ペルーへの陸路の開拓を目指す。

47年 Juan de Sanabriaがアスンシオン総督に任命されるが現地はこれを受け入れず。2年後には息子のディエゴが任命されるが、これも現地により受け入れを拒否される。

48年 イララ,チャコ地方を横断してチャルカスに至る.ここでゴンサロ・ピサロの反乱と敗北の報を聞き、アスンシオンに戻る。

49年 苦労の末アスンシオンに戻ったイララは、Diego de Abreu 総督代行と対立。暗殺により権力を奪還。

イララの遠征はその後も続いた。彼自身が率いる最後の遠征は「不幸な侵攻」(Mala Entrada)と呼ばれた。さらに54年にはNuflo de Chaves によるGuayra遠征、55年には Melgarejoによる Ontiveros地方の遠征が行われている。

1550年

53年 チリからの入植者によりサンチアゴ・デル・エステーロが建設される。アルゼンチン最古の都市とされ、マードレ・デ・シウダーデス(都市の母)と呼ばれる。(都市の母の呼称はアスンシオンに対しても用いられる)

52年 スペイン王室、ヌエバ・アンダルシアをリオ・デ・ラ・プラタと改称。イララをふたたび総督に任命。イララは街と公共建物を建設するなどアスンシオンを整備。先住民をエンコミエンダに囲い込む。

55 アスンシオンにラプラタで最初の司教座設置.その後1780年までラプラタ地方の総督府がおかれ中心都市となる.

56年 イララが死亡。スペイン王室はゴンサロ・デ・メンドサを新たなラプラタ総督に送り込む。

57年 イララの側近ヌフロ・デ・チャベス,金をもとめてヤラエス(jarayes)を探検。現在のブラジル・マットグロッソ州。翌年にはアスンシオン西方のモホス地方を探検.

ヌフロ・デ・チャベス(Ñuflo de Chávez): エストレマドゥーラ州トルヒージョ近郊のSanta Cruz de la Sierra で生まれる。44年のバカ追放劇に参加しイララの信任を得る。

59 ラプラタにアウディエンシアが創設される。

1560年

60年2月26日 ヌフロ・デ・チャベス、遍歴の末、最終的にボリビアに入りサンタクルス(Santa Cruz de la Sierra)に定着。68年に先住民の争いに巻き込まれ死亡。

62 チリ総督ビリャグランの命を受けたフアン・フフレ,アンデスを越えラプラタ入り.メンドサ,サンフアンを建設.メンドサは1776年までチリ領となる.

65 ディエゴ・デ・ビジャロエルのひきいるボリビア方面からの入植者,ツクマン(サン・ミゲル・デ・トゥクマン)を建設.つづいてコルドバを73年に建設.

73年4月 アスンシオンのサラテ総督(Juan Ortiz de Zarate)、ガライと80人の兵士を遠征に派遣。ガライはアスンシオンからパラナ河を下り大西洋岸に向け進出.

ガライ(Juan de Garay): バスクの生まれ。1543年、副王ヌニェス・ベラに従いてペルーに移る。ペルーからボリビア方面へ陸路から探検、1561年のサンタ・クルズ(Santa Cruz de la Sierra)建設に携わったあと、68年にアスンシオンに移る。

73.11.15 ガライ、アルゼンチン北西部にサンタフェ・デ・ラ・ベラクルス(現アルゼンチン)の町を建設.

井垣様から次のようなメールをいただきました。 
サンタフエ州は確かにブエノス・アイレスから見れば北西に位置しますが、 国内での地理区分では、中央部やリトラル(沿岸)部になり、 北西部(フフイ・サルタ・トゥクマン・カタマルカ・ラリオハ、そして サンティアゴ・デル・エステロの全6州)には属しません。
ということで、「中部 」に訂正いたします。ついでに地図も掲載しておきます。

75年 ガライ、ブエノスアイレスに到着し街の再建に取り掛かる。

76年 ガライ,アスンシオン知事に任命される。ガライは先住民との衝突を回避し、広範な自治を与えることで地域に安定をもたらしたといわれる。

1580年

80.7.11 ブエノスアイレスの再建が完了,ガライは町をラ・トリニダー、その港をSanta Maria de Buenos Ayres と命名する.

ブエノス・アイレスの位置づけは、ペルー副王より本国にとって重要視された。ポルトガルの南方進出をくいとめるための前線基地として、施設が整備された。20年後にはアスンシオンをしのぐ繁栄を遂げる(ただし人口は2百年間のあいだ2千人を越えず)

80年 ガライ、ペルー副王からリオ・デ・ラ・プラタ総督に任命される。

80年6月 サンタフェで本国人の横暴に反対する「7人の統領の反乱」(La Revolución de los 7 Jefes)発生.スペイン語文献がいくつかあるが読めません。クリオージョ青年が土地の不公平な配分に抗議して反乱を起こしたもののようです)

80年頃 牛馬多数がブエノスアイレスに導入される.牧畜業の始まり.

83.3 ガライ総督,ブエノス・アイレスからサンタフェに移動中、ケランディ族の待ちぶせ攻撃を受け殺される.

ケランディ族: ラプラタ河口周囲に住んでいた先住民。奥地のグラニー族と異なりきわめて戦闘的で、スペイン人が追い返されたのは、ほとんどケランディ族の襲撃による。ブエノスアイレスのケランディは有名なタンゴ・レストラン(高くて、まずくて、横柄なので有名とくさす人もいる)。

83年 フランシスコ会,原住民教化のためラプラタに入る.

85年 トゥクマン、先住民の襲撃のために65キロ離れた現在地に移動。

88年 イエズス会,パラグアイへの入植開始.グアラニー族の同化政策をとる。

92 イギリス人ジョン・デービス,マルビナス(フォークランド)諸島を発見.

 

1600

00 オランダ人,セバル・デ・ヴェールト,確実な資料としては初めて,フォークランド諸島を発見.

02年 マルティン・デ・バルコ・センテネラ神父による叙事詩『アルゼンチンとラ・プラタ河の征服』が発表される。アルゼンチンで書かれた最初の文学作品とされる。またアルゼンチンの名が用いられた最初の文献でもある。

05 ブエノスアイレスのエルナンダリアス,ウルグアイに派兵.チャルーア族を討伐.

08 フェリーペ3世,イエズス会にグアラニー族伝道のための組織設立を許可.

10 イエズス会,パラナ州グアイラに最初の教化集落(レドゥクシオン)を創設.その後20年間に13ヵ所10万人以上のインディオの生活する集落を作る.

 

グアイラは現在のブラジル・パラナ州にほぼ一致。ほぼ全域が密林地帯で東からブラジルの奴隷狩り、西のスペイン人に追い立てられたグアラニー族が暮らしていた。イエズス会はここにキリスト教を信じる先住民の国を作ろうと試みた。(Wikipedia より)

 

13 イエズス会,コルドバ大学を創設.その後,南米南部の文教の中心となる.国内保守派知識人の牙城となる.

17 ラプラタ地方(ヌエバ・アンダルシア),アスンシオン地域(Guayra)のパラグアイ政庁とブエノス・アイレス地域のリオ・デ・ラ・プラタ政庁に分割される.(このあと、パラグアイについてはパラグアイ年表へ)

17年 エルナンド・アリアス・デ・サアベドラ(エルナンダリアス)は、牧畜がラプラタの主要産業となると考え、牛の大規模な放牧を開始。

24 ウルグアイのサント・ドミンゴ・デ・ソリアーノにスペイン人入植地建設.まもなくチャルーア族により破壊される.

26 イエズス会のゴンサレス・デ・サンタクルス,ウルグアイ川の支流シェラ・デ・タペ地方を探検.2年後インディオに殺される.

30 イエズス会,サンパウロから侵入したポルトガル人に押され,グアイラの伝道村を撤退.パラナ川を北上しシェラ・タペ地方に伝道村を開拓.

32 バンディラによるイエズス会集落襲撃頻回となる.30万人のインディオが「捕獲」,イエズス会撤退,土地はポルトガル国王の手に.バンディラの前線はペルー・アンデスにおよぶ.

61 ブエノスアイレスにアウディエンシア開設.

90 イギリス人ジョン・ストロング船長,チリへの航海の途中,フォークランド諸島に上陸し英国領を宣言.東西のフォークランド島の間の海峡を,当時の英海軍司令官フォークランド子爵の名をとりフォークランド海峡と名づける.後にこの名前は島々全体の名称となる.

 

1700

13年 ユトレヒト条約.フォークランドはスペイン領となる.

18世紀におけるフォークランド諸島をめぐる経過をまとめておく。
64年 フランスの探検家ルイス・アントワーヌ・デ・ブーゲンビル(Bougainville),東フォークランド島に最初の永久の居留地ポルト・ルイを建設.サン・マロの島(Iles Malouines)と名づける(スペイン名マルビナスの語源).その後,フランスの漁業基地となる.二年後に入植者は約250人に達する.
65年 英国のジョン・バイロン提督,フランス人の入植を知らないまま西フォークランド島に再殖民.エグモント港を建設.
66年 英国のジョン・マクブライド大尉,エグモント港に入る.基地を強化すると同時に,他国の入植者追いだしを図る.
67年 スペイン,東フォークランド島のフランス植民地(ポルト・ルイ)を購入.東フォークランド島の領有権を確定.ソレダード島と名づける.ドン・フェリペ・ルイス・プエンテが知事に就任.
69年 スペイン本国,ブエノスアイレス総督フランシスコ・ブカレリあてに,マルビナスの英国人を駆逐するよう指令.
70年7月14日 スペイン,五隻の船に兵員1500人を乗せ,西フォークランドに派遣.英国人に島の明け渡しをもとめる.英国人は発見者としての居住権を主張するが,その後明け渡しに同意.
71年 英国,船団を送り,再び西フォークランド島を確保.
74年 英国,西フォークランド島の防衛が財政的に困難となり,いったん領有権を放棄.スペイン領であることを承認したうえで、ポート・エグモントへの英国人帰還が認められる.東フォークランドには引き続きスペイン人が居留.
90年 スペインと英国,ヌートゥカ海峡会議で合意.英国は南アメリカおよび周辺諸島への領土的野心を放棄する.

61 マドリード条約破棄.翌年から戦闘が始まる.スペインはリオグランデ・ド・スルとサンタカタリナを占領.

76 ブエノスアイレスにリオ・デ・ラ・プラタ副王庁設置.ウルグアイ,パラグアイ,ボリビアの一部を含む.メキシコ,ペルー,ヌエバ・グラナダとならぶ副王領.

77 サン・イルデフォンソ条約締結.ウルグアイのスペイン帰属が確認される.

78.2.25 サンマルティン,コリエンテスで州知事の息子として生まれる.8歳でスペイン本土に戻り,そこで教育を受ける.軍人となり,08年からはナポレオン軍と戦う.

78 ブエノスアイレスの本国との直接交易も認可される(一説に35年).ブエノスアイレスは対英仏密貿易なども通じ発展,ペルーとの北西ルートは衰退をたどる.

94年 Belgrano、ブエノスアイレス商業裁判所の事務局に入る。大衆教育に力を注ぎ、経済改革を提案。

 

1800

00年 この年,ブエノスアイレスの人口は4万5千人に達する.英国との密貿易により急速に発展.市街は舗装される.

01年 リオ・デラ・プラタ地方で、ベルグラーノらの手により、最初の定期発刊紙「商業通信」(Telegrafo mercantil)が創刊される。

1806年 対英戦争

6 ホーム・ポッファム(Popham)提督に率いられたケープタウン駐留のイギリス艦隊,2ヵ月にわたりラプラタ地方に侵入.副王ソブレメンテはなんらの抵抗もせず奥地に避難.ウィリアム・カー・ベレスフォード将軍の率いる陸戦隊が,ブエノスアイレスを占領.自由港を宣言し輸入税を大幅に引下げ.まもなく英商船隊が入港.

8.12 ジャック・デ・リニエ指揮下のブエノスアイレス市民軍,ベレスフォード軍に市街戦を挑み駆逐.市民軍にはベルグラーノやヴィセンテ・ロペスy Planes(国家の作詞者)も加わる。市民軍はポルテーニョと呼ばれ,後にブエノスアイレス人の愛称となる.

ジャック・デ・リニエ(Jacques de Liniers): フランス人海軍将校で当時53歳。ラプラタ副王に雇われ、サンチァゴ・デ・リニエールと名乗っていた。

8月 フアン・マルティン・プエイレドンとマルティン・ロドリゲスの率いるクリオージョ部隊も別個に義勇軍を組織するが、イギリス軍に敗れた後リニエールに合流する。

1807年

2月初め ジョン・ホワイトロック提督の率いる英艦隊,モンテビデオを占領.

2.10 リニエールとマヌエル・ベルグラーノ、軍事評議会を結成。リニエールが最高司令官となる。戒厳令を敷き、副王を退陣させる。

6 モンテビデオの英艦隊,1万1千の兵力でブエノスアイレス攻略.周囲を守るクリオージョ部隊は壊滅。ブエノスアイレスは包囲される。この防衛戦にはファン・マヌエル・デ・ロサスも少年兵として参加したといわれる。

7.05 ブエノスアイレス市民軍,市街戦ののち英国軍部隊を追い詰める。ジョン・ホワイトロック将軍が降伏、イギリス艦隊は撤退を余儀なくされる.

07年 モンテビデオではホセ・ヘルバシオ・アルティガスのひきいる市民が決起.1年にわたりゲリラ戦を展開し,イギリスをモンテビデオからも撤退させる.サラセン人のイベリア半島からの駆逐に因みレコンキスタとよばれる.スペインはソブレメンテに代えリニエを副王に任命.

08.5 リニエール、スペイン政府から公式にラプラタ副王として任命される。五月革命評議会は引き続きリニエールを支える。

1809年

8月 西仏間の関係が険悪となったことから、リニエールは副王退任を迫られる。

9 ナポレオン,スペインに侵略.フェルナンド王を退位させ弟のヨゼフを王位につける.ブエノスアイレス市の参事会(カビルド)は,フェルナンド支持の立場に立つ.

11.06 ブエノスアイレスのカビルド,イギリスに貿易権をあたえる.

1810年 アルゼンチン独立

3 ブエノスアイレスでリオ・デ・ラ・プラタ諸州の臨時議会,民兵隊の圧力の下で開催.コルネリオ・サーベドラを中心に政務委員会(第一次フンタ)誕生.フェルナンドの王権を擁護,退位した副王に名目的委員長の地位を与える.その後間もなくサーベドラがみずから委員長となる.ナポレオンと戦う英国も議会を支持.

4月 ベルグラーノらを先頭とするブエノスアイレス市民が、副王に対し反乱。愛国政権評議会を結成。議長には急進派のマリアノ・モレーノが選ばれる。モレーノはアウディエンシアやカビルドの法律顧問を務め、自由貿易の信奉者として知られていた。

5.22 ブエノスアイレス市参事会(カビルド)開催.モレーノ派が指導権を獲得.副王の退位を決議し,自治評議会と独立軍を創設.ブエノスアイレスを自由港と宣言.リオ・デ・ラ・プラタ諸州を構成するアルトペルー(ボリビア),コルドバ,パラグアイ,東方連合(バンダ・オリエンタル,現ウルグアイ)はこれに従わず.独自の動きをしめす.

5.25 コルドバ地方でリニエールの率いる副王軍が挙兵。マヌエル・ベルグラノ将軍にひきいられた革命軍,スイパーチャでの副王軍との戦闘に勝利.実権を獲得.リニエールは反逆罪に問われ処刑される。

6.07 モレーノら、Gazeta de Buenos Airesを創刊。民主主義的改革を推進する論調を掲げる。

10.12 サーベドラ委員長派,内陸諸州にも参加を呼びかけるよう主張.委員会を拡大委員会に改組.議長のモレーノは自由主義的政策をつらぬくため,内陸部連邦派の参加に反対するが,容れられず辞任.

11.9 フンタ,内陸部諸州に武力を用い参加を迫る.アルト・ペルー,パラグアイ,バンダ・オリエンタルはブエノスアイレスの強硬姿勢に反発.ふたたび急進派が主導権を握ったブエノスアイレス側は,軍事体制強化のため拡大委員会を解散し,三頭政府の下に立法権を持つ政務委員会を再編.

12.10 ブエノスアイレス軍,各地で苦戦.政務委員会内部で内陸部代議員の増員をめぐりふたたび紛糾.増員に反対するモレノは、地方地主代表をフンタに引き入れたサーベドラ派に敗れ退陣.

12月 三頭委員会のメンバーを交代するとともに拡大政務委員会がふたたび成立.これを引き金にして、ブエノスアイレスと諸州の長い紛争が始まる。

(1810年の記述は相互に矛盾するところもあり、良く分かりません。この「良く分からない」事情は、その後50年にわたり続きます。書いている人のスタンスの違いで、白が黒に変わったりします。「所詮アルゼンチン人はそういう人種なのだ!」、と叫びたくなります)

1811年

1月 モレーノ、欧州大使に任命される。渡航中に船上で死を迎える。

2 ラプラタ副王ハビエル,モンテビデオの要塞にこもりフンタにに宣戦布告.フェルディナントの姉妹がポルトガル皇太子摂政の妻であったことから、ブラジルの援助を求める.アルティガスは,フンタの支援を受け東方連合独立の闘争を開始.

6月 ベルグラーノの率いるブエノスアイレス軍,パラグアイに侵攻するも,現地クリオージョの抵抗にあい敗退(パラグアイ年表を参照).

9 拡大委員会,内陸部の代議員結集をはかれず,機能できないまま解散.あらたに第二次三頭政府が成立.

1812年

3.09 サンマルティン,スペイン軍陸軍中佐師団長のポストで退役.英国経由でブエノスアイレスに到着.ブエノスアイレス政府はサンマルティンを中佐として任官,独立軍士官学校教官に任命し,騎兵隊の編成をゆだねる.

6 アレベアール,サンマルチンらヨーロッパがえりの青年将校を中心に「ラウタロ結社」を創設.南米の独立のため,計画と組織をもって行動することをうたう.ほかにモテグアド,ベルグラノ,プエレドンらが参加.サンマルティンは「ラウタロ」師団を創設.その部隊は「馬上の鏑弾兵」として有名になる.

10 ラウタロ師団が中心となり,第一次三頭評議会を退陣に追い込む.カビルドはプイエレドンをふくむ第二次フンタを指名,憲法制定のための州代表者会議の召集を求める.

12年 北部軍司令官、プイエレドンからベルグラーノに交代。トゥクマンの闘いで副王軍を撃破。さらにサルタの闘いにも勝利。

1813年

1.31 三頭政府の召集により憲法制定会議開催.国名をリオ・デ・ラ・プラタ連合国と決め,貴族制度,拷問の廃止などで合意.国旗,国家など統一の象徴を採択するが,独立宣言や憲法制定には至らず.アルティガスは代表団を送るが,ブエノスアイレスの拒否にあい出席できず.ラプラタ河の自由航行権と,新規開港を要求する東方連合との離反が決定的になる.

1 ベルグラノ指揮下のブエノスアイレス軍,アルトペルーに侵攻するもウアキの戦闘でスペイン軍に敗北.さらにツクマンまで追撃されるが,苦戦のうえツクマンを確保.

1月末 モンテビデオの王党派軍,11隻の船団に250人が乗り、ブエノスアイレス奪回を目指す。パラナ河をさかのぼりロサリオを通過、上陸地点をもとめる.サンマルティンの指揮するラプラタ軍は、河岸でこれを追跡しながら北上。

2.03 サンロレンソの戦い。サバラの指揮するモンテビデオの王党派軍は11隻の船団、約250人の兵力でパラナ川を遡る。ロサリオを通過し、サンロレンソでラプラタ連合軍の奇襲を受け潰走。

修道院の近くに150人が上陸.これを待ち構えたラプラタ軍は、王党派軍を奇襲し撃破。エントレ・リオスの独立軍との連絡路を確保.

欧州帰りのサンマルティンの最初の戦闘となった。朝5時半、王党派船団は、サンロレンソの港北方数キロのサン・カルロス・ボロメオ修道院に着岸、食糧徴発のため150人が上陸した。礼拝堂の裏手に潜むラプラタ連合軍部隊150名はこれに奇襲攻撃を行う。15分の接近戦の後、王党派軍は40名が戦死し、少なくとも12名が負傷、14名が捕虜となる。連合軍も26名を失う。サンマルティンは負傷し敵に包囲されたが、部下のファン・バウティスタ・カブラルに救われた。

6 憲法制定会議,自由出生法を制定.奴隷は一代限りとなる.東方連合のアルティガス派を追放.

6 ベルグラノ,第2回のアルトペルー遠征に出発.サンマルチン,ベルグラノの副官として就任.

10.1 ベルグラノ軍,ビルカプーギオ(Vilcapugio)のたたかいに敗れる.

11 ベルグラノ軍,アヨウーマ(Ayohuma)でも惨敗.独立軍はほぼ崩壊する.ペスエラのひきいる副王軍,国境の町ツピサに司令部を置き,フフイからサルタまで侵入.ベルグラノ,アルバレス・アレナレス大佐をコチャバンバの総督兼司令官に,イグナシオ・ワルネスをサンタクルス・デラ・シェラの総督に任命.抵抗継続を命じる.サンロレンソで勝利したサンマルティンが救援に向かう.

12 ナポレオン失脚.フェルナンドは幽閉を解かれ復位.

13年 ヴィセンテ・ロペスがイギリス軍に対する戦闘の勝利をたたえた詩(Triunfo argentino)が、国歌に選ばれる。

1814年

1 ベルグラノは北方軍最高司令官を辞任し,サンマルチンが後任に就任.軍の近代化を急ぐ.サンマルティンはアンデス高地を越え陸路からリマを攻めるのは困難と判断.チリ経由で海路からリマを攻める作戦を提案.トゥクマンに前進基地を設け,兵の訓練にあたる.

1 ブエノスアイレスで各州代表者会議が開かれる.国家機構を整備すること,三頭制をやめ,最高統領制に移行することで合意.初代統領にヘルバシオ・ポサダス.

2 ブエノスアイレス,アルティガスを反逆者と断定,ウルグアイに派兵.

5.16 アイルランド人ブラウンが指揮するアルゼンチン艦隊,モンテビデオのスペイン艦隊を壊滅に追込む.

6 ブエノスアイレス,モンテビデオを支配下に置く.アルティガスはブエノスアイレス軍に対し抵抗を続ける.

8 サンマルチン,病をえて北方軍司令官を辞任.アンデス西麓のクージョ州長官に任命され州都メンドサに赴任.モンテビデオ征服軍を指揮したアレベアルが、「リオ・デラ・プラタ合州国」の統領に選出.

10 カレラ,オヒギンスらチリより亡命.カレラはサンマルチンと衝突しブエノスアイレスに去る.

1815年

4 ブエノスアイレスで軍の一部による反乱.アレベアルは失脚,カビルドはペルー遠征軍司令官のロンデウを後任に指名.

11.29 ロンデウ指揮下のペルー遠征軍,シペシペで惨敗を喫する.

15年 アルティガス,モンテビデオのブエノスアイレス軍を駆逐.ウルグアイの支配を確立.反ブエノスアイレス同盟の旗頭となる.

1816年

1 アルゼンチンの命を受けたブラウン船長,海路カリャオ,グアヤキル港を襲撃.

3 トゥクマン(サンミゲル・デ・トゥクマン)で諸州会議.フェルナンドに従わず独立を維持することで合意成立し,リオ・デ・ラ・プラタ連合州として独立.フアン・マルチン・プエイレドン(Pueyrredon)を最高統領に選出.立憲主義をとることで一致.国内行政機構の確立に動く.サンマルティンは代表団を送り,「リオ・デ・ラ・プラタ諸州連合」が全体としてスペインから独立を宣言するよう主張.さらに彼のチリ遠征軍を諸州が支持し援助するよう要請.

6.16 サンマルチン,チリ解放のあとチリ経由でリマを攻略する作戦計画を発表,軍の編成を開始する.プエイレドンはサンマルチンのチリ進攻計画を承認.

7.09 ラプラタ連邦,独立宣言.ブエノスアイレスの貿易独占に反対するリトラル3州と,バンダ・オリエンタルはこれに参加せず.スペインはペルーの王党派軍を派遣,ラプラタ川の封鎖をねらうが,各地で抵抗にあい敗走.

9 アンデス軍創設.サンマルチンが総司令官となる.

1817年

1.24 サンマルチン,メンドサで鍛えた4千名の遠征隊とともに出発.オヒギンスを先導にアンデスを越えチリに向かう.(以後はチリ年表へ)

17年 ジャーナリストのManuel Dorrego、連邦主義の立場からプエイレドン政府を攻撃。国外に追放される。

1818年

3 スペイン軍反攻.カンチャ・ラヤダのたたかいでサンマルチン軍を破る.

4 サン・マルチン,マイプーで王党派と決戦.この戦いに勝利してチリを解放.さらにペルーに向かう.

6 ボリーバル,アルゼンチンに対し南米大陸の全人民の団結を訴える手紙.

18年 チリから亡命したカレラの二人の兄弟が処刑される.

1819年

5 トゥクマン議会,ブエノスアイレスに移転.中央集権的な共和国の樹立をめざす最初の憲法を採択.ラプラタ連合州内でのブエノスアイレスの支配強化に対し,アルティガスは連邦主義の立場からこれに反対.リトラル各地で封建地主を主体とする連邦派の一斉蜂起を招く.

7 プエイレドンは最高統領を辞任.ラウタロ・グループの権限により後任にロンデウ将軍を選出.エントレ・リオスのカウディージョ,フランシスコ・ラミレス,バンダオリエンタルのアルティガス,サンタフェのロペスが手をにぎり,中央政府に公然と反抗.サンマルチンは内戦に巻き込まれることを恐れ,政府のブエノスアイレスへの動員命令を拒否.

1820年

1 中央政府,王党派との闘いを続けていた北部軍に対し首都に帰還命令.軍の再編を図る.移動中の北部軍は,政府の方針に反対して蜂起.これを機に中央政府の統制は無力化.

2.03 ラミレスが率いるリトラル連合軍,セペーダの闘いで政府軍を撃破.その結果、数ヶ月にわたり無秩序が続く。中央政府は崩壊し,憲法も失効.

2.23 ブエノスアイレスと連邦派のあいだにピラール条約締結.連邦主義と河川の自由航行権が確認.中央権力は消失し,各州が独自の軍事力をもち桔抗.この年1年だけで24人のブエノスアイレス知事が交代.

5.06 サンマルチン,チリ上院によりペルー遠征軍元帥に任命される.

8 サンマルチン,バルパライソを出発.海路ペルーにむかう.

9月 亡命から戻ったドレーゴ、ブエノスアイレス州の暫定知事となる。連邦主義を主張し、ベルナルド・リバダビアら中央集権主義者と対立。

20年 ラプラタ連合州,マルビナス諸島を占領.主権を宣言.

20年 ブエノスアイレス州の農村地帯でガウチョの頭目として頭角を現したフアン・マヌエル・ロサス、私兵隊を組織。保守党と連邦主義を支持して兵を挙げる。まもなく連邦主義者のリーダーになる。

1821年

7 サン・マルチン,イギリスのコクラン提督の援助を受け,リマを解放.ペルーの守護者に任命される.

21年 連邦派に敗れたブエノスアイレス州の知事にブエノスアイレス防衛戦争の英雄マルティン・ロドリゲスが就任.首相(内相)にベルナルディノ・リバダビア就任.アルゼンチン国家の再統合を目指す.

リバダビアの施策: モレーノの思想を受け継ぎ「実りのある孤立政策」を掲げる.貿易の自由,移民の奨励,報道の自由をうたい,ブエノスアイレス大学創立.近代科学教育を大幅に導入.教会の特権(十分の1税)を制限.6年間にわたり富国策をとる.これらはほかの州に影響を与え、将来のアルゼンチン国家の組織の基礎を構築した。さらに単独で英国とのあいだに通商航海条約の締結を目指すが,英国は統一政府でないことを理由に提案を拒否.

21年 チリ独立戦争の元指導者カレラ、亡命先のアルゼンチンで処刑される.

21年 東方諸州,ブラジルに併合される.

1822年

1 コルドバのフアン・バウティスタ・ブストス,連邦主義の下に各州平等な国家統一を目指し国民議会の開催を呼びかける.権益の喪失を恐れるブエノスアイレスはリトラル諸州と4州条約を結び,ブストス提案を流産させる.

7 サン・マルチン,グアヤキルでボリーバルと会見.

22年 この頃までに、ガウチョの頭目Juan Facundo Quirogaがアルゼンチンのアンデス山麓一帯の実質的支配者となる。キロガは残忍さで知られ、"el tigre de los llanos"平原のトラと呼ばれ恐れられていた。後に、サルミエントの伝記小説「ファクンド」により有名となる。

23年 アルゼンチン政府が指名した最初のマルビナス知事が赴任.

1824年

2.10 内戦に嫌気がさしたサンマルティンは,ヨーロッパに向け旅立つ.1850年死亡.

12 ブラジルのバンダ・オリエンタル占領に際し,リバダビアの呼びかけで国会召集.

1825年

1 国会,国家基本法を制定.ブエノスアイレス州に暫定的に国全体の外交権を与える.

4 フアン・アントニオ・ラバリェハ大佐を指揮官とするリベラ,オリベら「33名のオリエンタレス」,アルゼンチンよりウルグアイに侵入し独立闘争開始.ラプラタ諸州は立場の違いをのりこえこれを支持.

11月 ラプラタ連合,アルゼンチンと名称を変更.

12 ブラジル,ラプラタ連合州に宣戦布告.

1826年

2 シスプラチナ戦争でウルグアイを支援するため,リバダビアの提唱で憲法制定会議開催.諸州代表が集まり「リオ・デ・ラ・プラタ連合諸州」を結成.戦争継続の立場から大統領制を施行.リバダビアを初代大統領に選出.ブエノスアイレスを首都と宣言.大統領の実際の権限はブエノスアイレス州と市,近隣の州に限られていた.

12 憲法制定.内陸諸州の反対を押し切り中央集権的色彩の強いものとなる.ブエノスアイレスが外交権と州知事の任命権をもつ.地方のカウディージョは憲法の受け入れを拒否。

1827年

2.18 イツザインゴ(Ituzaingo)の戦い.アレベアールの率いるアルゼンチン・ウルグアイ連合軍がブラジル軍を決定的に打ち破る.

Ituzaingo: ブエノスアイレス西方の町。当時はサンタマリア川流域の丘陵地帯。アレベアールの率いるアルゼンチン・ウルグアイ連合軍(6千人)が、川の西岸に陣取り、ブラジル軍を迎え撃った。ラ・バジェハの指揮するウルグアイ騎兵部隊2千人が右翼、アレベアールの部隊が中央、ミゲル・エスタニスラオ・ソレル将軍の率いる3千の部隊と砲兵が左翼を防衛した。

2.19夕方 バルバセーナの率いるブラジル軍(1万人)がイツザインゴに到着。ラバジェハの部隊を逃亡中のアルゼンチン部隊の最後尾と見て攻撃を準備。アレベアールとソレルの部隊は潜伏して包囲に移る。

2.20 AM6 ブラジル軍が攻撃を開始。ペレイラの第一師団が渡河しラ・バジェハの部隊を襲う。ラ・バジェハの部隊は徐々に後退。

ブラジル軍の布陣: 右翼はSebastiao Barreto Pereira将軍の第一歩兵師団、若干の騎兵部隊をふくむ。中央はJoao Crisostomo Calado将軍の第二師団、左翼は志願兵大隊でセロ・ラルゴ男爵(Jose de Abreu大将)が率いる。

2.20午前 ベント・ゴンサルベス大佐の騎兵部隊400人が右翼より突撃しラバジェハ部隊の退路を断とうとする。左翼からは志願兵大隊が封鎖線を敷くべく前進。

2.20午前 アレベアールの中央軍第二大隊、ブラジル軍中央の第二師団を攻撃。さらにフリアン・ラグナの率いる騎兵部隊を志願兵大隊迎撃に向かわせる。このときまでブラジル軍はアレベアール軍の存在に気づかなかった。

2.20正午 ソレルの率いる騎兵部隊、ブラジル軍第一師団の隊列に突入。さらに第二大隊を後方支援。ラグナの支援を受けたラバジェハの部隊はブラジル志願兵大隊と正面戦に移る。志願兵大隊はまもなく崩壊。

2.20 ラバジェハの部隊が逆渡河しブラジル軍第二師団の側面をうかがう。第二師団のカラド将軍は撤退を決断。ゴンサルベスの第一師団がしんがりとなり、ラバジェハの追撃を阻止。この戦闘でブラジル軍は200人の死者、1千人の負傷者を出す。

6 シスプラチナ戦争で苦境に立たされたリバダビア,ブエノスアイレス州を南部州,北部州,ブエノスアイレス連邦区に分割する提案.マヌエル・ドレーゴ大佐ら州内の保守派を中心とする「連邦派」が,リバダビアに反旗を翻す.

7 ラ・リオハ州のJuan Facundo Quirogaらの圧力により、リバダビアが大統領を辞任.ヴィセンテ・ロペスy Planesが暫定大統領となる。

8月 プエノスアイレス州の連邦主義者マヌエル・ドレーゴが,後継大統領となる。ドレゴはブラジルとの戦いを引き継ぐいっぽう、連邦憲法を廃止して,ブエノスアイレス州知事の地位に戻る.これに伴い連合諸州は崩壊、議会も解散に追込まれる.

27 英国人ジョン・ミラー,優秀な肉牛種短角牛を輸入.

27年 リバダビア大統領,マルビナス諸島にベルネト知事と駐屯隊を派遣.

1828年

8 ラプラタ=ブラジル紛争,イギリスの調停により和解.バンダ・オリエンタルを両国間の緩衝国「ウルグアイ」とすることで妥協.

10 ウルグアイ建国.アルゼンチンでは提案受入れをめぐり復員軍人の不満派により反乱.

11月 ブラジルとの和平条約を受諾したブエノスアイレス州知事マヌエル・ドレーゴに対し、州内外の不満が強まる。北西部ラ・リオハ州ではファクンド・キロガが蜂起.

12.01 戦争から帰った軍隊の一部が,戦争に消極的な政府に抗議し反乱.中央集権派のファン・ラバジェ(Lavalle)将軍を指導者とする.

12.13 ラバジェ,ドレーゴ知事を捕らえ、即決裁判で処刑。自ら臨時知事に就任する。アルゼンチン諸州会議の連邦主義者はこれに抗議し、ラバジェに大逆罪を宣告。

1829年

1 シスプラチナ戦争終了後,帰国した軍団を背景に,ブエノスアイレス州知事ラバリエ、エスタニスラオ・ロペスら中央集権派が巻き返しを計る.ブエノスアイレス市を州から離脱させ,国の首都として独自の機能を発揮しようとはかる.

両派の旗印 連邦派はその名のとおり赤色の旗.ウルグアイ・パラグアイでもコロラド党は赤で,コロール・デ・サングレ(血の色)なのであろう.これに対し中央集権派は青と白の二色旗だった.これはサッカー・チームのユニフォームでおなじみの色である.

4月 マヌエル・デ・ロサスの率いる諸州連合軍が蜂起。

マヌエル・デ・ロサス(Juan Manuel de Rosas): ブエノスアイレス州の大地主でガウチョの頭目。ラ・バジェハら中央集権派に反対し、私兵団「Los Colorados del Montes」を率い反乱。サンタフェ州知事Estanislao Lopez、アンデス山麓地帯リオハ州の有力者ファクンド・キロガら諸州の連邦派を糾合.

12.08 ロサス,ブエノスアイレスを占領.牧場主(estancieros)による寡頭政治を実現。ラバジェはモンテビデオに逃亡。集権主義者の残党はホセマリア・パス将軍を中心に再組織を図る。

29年 フランス,内乱に乗じブエノスアイレス政府に干渉,パタゴニアを占領.

29 アルゼンチン政府,アザラシ猟のためマルビナスに進出してきた米国船「ハリエット」号を,不法侵入として捕獲.ブエノスアイレスに連行.米国領事は島に対するアルゼンチンの主権を認めず.「ハリエット」号返還を求め,軍艦「レキシントン」を派遣.「レキシントン」艦長サイラス・ダンカンは,プエルト・ソレダードを破壊,武器を押収し住民を監禁.このあと島を「すべての国の共通の島」と宣言し帰還する.

30 ロサスがブエノスアイレス州知事(任期3年)に就任.あわせてラプラタ連合の指導権を掌握.内乱は収拾に向かい,ブエノスアイレス州内での連邦派の指導権が確立.ロサスは連邦主義者であったが,各州の平等を否定し自州の保守層の排他的利益を代表する.カトリック教会を保護する一方,教育振興にも力を注ぐが,その内容はロサス賛美の強制.

1831年

1 ブエノスアイレス市で中央集権派同盟(Liga Unitaria)結成.コルドバ,サンチアゴ・デル・エステーロ,カタマルカ,ラ・リオハ,サンフアン,サンルイス,トゥクマン,サルタ,メンドサの諸州が結集.ロサスはブエノスアイレスの都市中下層やヨーロッパからの移民を主体とする中央集権派を「野蛮人」とののしる.

5.31 ガウチョ連合、集権主義者を弾圧。ホセマリア・パスを逮捕。

11 中央集権派の再結集に対し,ロサスとリトラル三州(エントレリオス,サンタフェ,コリエンテス)が連邦同盟(Pacto Federal)を締結.中央集権派とのあいだで内戦となる.

32年 ロサス,流血の弾圧により中央集権派の抑え込みに成功.サンタフェ州のロペス,ラ・リオハ州のキロガとの連合により,アルゼンチンの政治を牛耳る.他州も連邦同盟に結集.ロサスは言論を弾圧するなど反対派を威圧.自由党員の多くはモンテビデオに移住.

32 ロサス,再選をめざすが,強権的な姿勢のため支持を得られず退陣.中央集権派が政権に返り咲くが,連邦派とのあいだに紛争が絶えず,政局は混迷.

1833年

1.02 米国によるフォークランド占領を恐れたイギリス政府は,マルビナス諸島の占領を指示.ジェームズ・オンスロー大尉の率いる英艦タインとクリオがマルビナスに侵攻.ブエノスアイレスから派遣されたベルネト知事らを追放する.アルゼンチンの政治犯と囚人からなる島の守備隊は頑強に抵抗.作戦完了に半年を要した.政治犯の一人アントノ・リベロは,今日アルゼンチンの国家英雄の一人となっている.

3 ロサス,千5百の兵をひきいパンパの南に進出.先住民を相手に「荒野の討伐作戦」を開始.3年間でインディオをネグロ川南方に押し込めることに成功.奪った土地を取り巻きに配分し権力を拡大.「祖国を野蛮人から守った勇敢なアルゼンチン人」として、彼の評判は急上昇.

10 連邦派によるブエノスアイレスのクーデター成功.ロサスの妻ドーニャ・エンカルナシオンは都市ルンペン層を自警団「Sociedad Popular Restauradora」に組織.「連邦よ永遠に,中央集権主義の野蛮人に死を!」をスローガンに挑発行動を展開.この組織は通称「ラ・マソルカ」(Mazorca)と呼ばれ,ロサスが政権を掌握した後は,反対派を弾圧する秘密警察に発展する.17年間で2万5千人を暗殺または処刑したという.

34年 ロサス、ラ・リオハ州知事で内陸部連邦主義者の指導者キロガをブエノスアイレスに呼び会談。北部諸州の鎮圧を命じる。

1835年

4月 連邦派の支持を得たロサス,ふたたびブエノスアイレス州知事に迎えられる.20年にわたるロサス独裁開始,ただちに反対派にたいし血の粛清を断行.新聞・雑誌の発行を禁じ大学を閉鎖.

35年 北部で反乱の動きを見せたキロガが暗殺される.キロガはブエノスアイレス州知事のポストに誘われ,おびき出されたところを殺されたという.この後ロサスの支配確立.教会特権の復活など強権政治をしく.一方高関税により輸入を制限,国内産業の振興をはかり,官僚の綱紀を高め国の財政基盤を確立する.

37 ロサス,チリと組んでボリビア・ペルー連合を攻撃,サンタクルスを失脚に追い込む.

37年 エステバン・エチェベリアら「五月協会」を結成.「文学サロン」を称する秘密革命組織.カウディージョ支配体制を終わらせ国家の近代化を図る.会員のファン・バウティスタ・アルベルディ、バルトロメ・ミトレ,ドミンゴF.サルミエントらは,のちに「37年世代」と称される.ロサスのきびしい弾圧に会い計画は流産,多くは国外亡命.

38.3 ロサス,ブエノスアイレス在住の外国人に兵役を義務付け,これを拒否したフランス人を投獄.フランスは損害賠償を要求して,2年間にわたりブエノスアイレス港を封鎖.この機に乗じ,自由党員が領内に侵入,ウルグアイはアルゼンチンに宣戦布告.フランスはリベラ派を支持して内乱に介入.

38年 ファン・バウティスタ・アルベルディ、ウルグアイに亡命。その後各地を放浪しながら反ロサス活動を継続。

39 ロサス,州内に厳しい専制体制を敷く.

39年 モンテビデオに亡命中のラバジェ、フランス軍の援助を得て亡命者部隊を組織。アルゼンチンに進入し反ロサスの動きを展開。

40.10 ロサス,自由党軍の駆逐に成功.フランスは港湾封鎖の継続を断念.

41年 ロサスの盟友マヌエル・オリベ、ラバジェの部隊を殲滅。ボリビアに逃れようとしたラバジェは、フフイで殺害される。

42 ロサスに支援されたオリベ,亡命中のアルゼンチンからウルグアイ侵入.モンテビデオを基盤とするコロラド党と,ロサスに支援され農村部を基盤とするブランコ党のあいだに内戦開始.リベラはアルゼンチンに宣戦布告.「大戦争」と呼ばれ51年まで継続したあとコロラド党の勝利に終わる.(旗の色からするとねじれ現象?)

6 サンタフェとコリエンテスの両州,アルゼンチンからの分離を宣言.リベラに雇われたガリバルディが,ウルグアイへの併合をはかり侵攻するが,半年後に敗退.

1845年

1 ロサス,リトラル支援のパラグアイに対し交易禁止策.

45 ロサス,ラプラタ川を通行するすべての船舶から通行料を徴収すると決定.英国とフランスはこれに抗議してブエノスアイレス港を封鎖.

45 ドミンゴ・ファウスティノ・サルミエント「ファクンドー文明と野蛮」を発表.スペイン的伝統を後進的なものとし,文明化すなわち西欧化を提唱.

49 アルゼンチンは最終的に英仏連合軍の封鎖突破に成功.この間ロサスは軍備増強のため税収奪を強めたため,連邦派各州と矛盾拡大.

1851年

5 ロサスの中央集権的傾向に対し,リトラル地方の反発強まる.エントレリオス州知事となったフスト・ホセ・デ・ウルキサ,リトラル諸州を糾合.ブラジルの援助を受け蜂起.ウルグアイに向かう.(ウルキサのたたかいについてはウルグアイ年表がメインとなっています)

10 ウルキサ,モンテビデオを包囲するオリべ軍を駆逐.戦いはブエノスアイレス州と13州連合の対立となる.多くの知識人がウルグアイやチリに亡命.

1852年

2.03 ブエノスアイレス近郊モンテ・カセロスで最後の決戦。ロサス軍は壊滅。

2月 ウルキサがブエノスアイレスに入る.ロサスはイギリス亡命.ブエノスアイレスとのあいだにサン・ニコラス協定.「アルゼンチン連合」成立.ブエノスアイレス州知事には68歳の老ヴィセンテ・ロペスy Planesが就任。(この後の10年間,情報が断片的で全体像がつかめません.はっきりしていることは,アルゼンチンが独立以来60年以上も、無意味な戦争に明け暮れていたということです)

5月 内陸諸州の知事が集まり、サン・ニコラス協定を締結。1831年の政府と内部州との合意を復活し、制憲議会の代議員を各州平等とする。

5 サンタフェで連邦議会開催.パラナを首都とし,ウルキサをアルゼンチン連合の暫定長官に選出,税関の管理と軍の統帥権を委ねる.

7月 ウルキサ,議会を召集することなく,独裁政治を続ける.ブエノスアイレスの指導者ミトレは,「論争」(Los Debates)という新聞を発行.連合政府を激しく批判.ウルキザは「論争」紙の休刊を命ずる

9 ミトレら,ウルキサがサンタフェに出張中にブエノスアイレスでクーデター.ラプラタ諸州連合を離脱.「アルゼンチン共和国」を名乗る.連邦派と中央集権派の対立から市内は暴動状態となる.米国海兵隊,権益保護のためにブエノスアイレスに上陸.

1853年

5.01 サンタフェ(一説にパラナ)を首都とする「アルゼンチン連合」が新憲法公布.フアン・バウティスタ・アルベルディが起草。37年世代の実証主義思想を受け,三権分立にもとづく共和制,両院制,連邦制の3原則を確立.普通選挙権が認められる.

1854年

3.05 ウルキサが「アルゼンチン連合」の大統領に就任.任期は6年.教育の振興、鉄道建設の推進などを目標に掲げる。連邦はロサリオを共同港とし外資の導入を図るが経済運営に失敗.

54年 ウルキサ、税関を国家管理とし、パラナとウルグアイ川を自由航行流域とする。ブエノスアイレスの集権主義者はこれに抗議してアルゼンチン連合から脱退。独自の憲法を制定.バルトロメ・デ・ミトレの率いる自由党の指導の下で経済発展を目指す.

57 ロサリオ=コルドバ間に最初の鉄道敷設.その後イギリス資本によりつぎつぎに延長.蒸気船の河川での運行が普及.インフラ整備に伴ない郵便制度が中西部にも広がる.欧化論広がる.貿易自由化によりイギリス製品が大量に流入,国内産業は崩壊する.

59 ブエノスアイレス州,関税問題をきっかけとしてアルゼンチン連合を離脱。関税戦争と呼ばれる反乱を起こす.

59.10.23 ミトレ軍、セペダの戦いで敗れ,53年憲法の承認とウルキサ政府の支配を受け入れる.

60年 ブエノスアイレス,アルゼンチン連合への加入に同意.連合側はブエノスアイレスが要求した憲法修正を議会で承認。ミトレはブエノスアイレス州知事に就任。その後も連邦との関係が険悪なまま。

61.9.17 ミトレのひきいるブエノスアイレス軍,ふたたび決起.パボン(パルチ?)の戦いで連合軍を打破る.一説によれば、ウルキサは雌雄の決しないまま撤退し、故郷のエントレリオスに引き揚げたという。

61年 ミトレがアルゼンチン連合の臨時大統領となる.ウルキサはエントレリオスに引きこもり,州都を自分の広壮な屋敷のあるサンホセに移す.

62.10.12 ブエノスアイレスがアルゼンチン連合に加盟するかたちで統一アルゼンチン共和国誕生.ミトレが大統領に選出.首都をブエノスアイレスにもどす.翌年には三権分立と大統領への権限集中を柱とする憲法採択.

63.11 ブエノスアイレス政府に対する保守派の反乱.ペニャローサ(チャチョ)が指導.蜂起は失敗しペニャローサは捕えられ処刑.これによりブエノスアイレスの支配確立.私兵を廃し国家軍を創設.内陸部ではコルドバ同盟が結成され、80年まで集権主義者への抵抗が続く。

65.5.01 ブラジル,アルゼンチンと,ウルグアイのコロラド党政権とのあいだで三国同盟成立.5年間にわたるパラグアイ戦争始まる.

66 アルゼンチン農牧協会設立.大地主の利益を代表する団体として,現在まで強い影響力を維持.

68.10.12 ドミンゴ・ファウスティノ・サルミエント,ミトレを継いで大統領に就任.教育の近代化と公教育制度整備を推進,「教育の父」と呼ばれる.またヨーロッパ移民の誘致,「アルゼンチン中央鉄道会社」を設立し,鉄道建設などを積極的に推進.

サルミエント: 1830年代にロサスの迫害を受けチリに亡命。その後ヨーロッパと米国で教育システムを研究。ジャーナリストとして名を上げていた。ファン・ファクンド・キロガの伝記はカウディリスモに関する教科書と評価される。

68年 ミトレはナシオン紙を創刊し著述業に専念。

69 最初の国勢調査.この時点で総人口175万人.その後の50年間に250万のヨーロッパ系移民が流入.

70 エントレリオスで連邦派の反乱.混乱の中で,引退したウルキサ元大統領が暗殺される.ウルキサ後継のホルダン(Lopez Jordan)知事が,ウルキサ邸に暗殺隊を送り殺害したとされる.

73 アルゼンチン,小麦輸出国に転化(一説に78年).

74.9.24 連邦派のニコロ・アベリャネーダ(Avellaneda)が大統領に就任.アベリャネーダはサルミエント政権の下で司法・宗教・公教育担当相となり、財政・教育改革を導入した。軍事相にはパラグアイ戦争の英雄フリオ・アルヘンティーノ・ロカ将軍が就任.

76 アンモニア冷凍設備をつけた食肉運搬船フリゴリフィック号,運航開始.まもなく冷凍施設付きの屠殺場も普及.鉄道網が発達し,風車を利用した深井戸を用いた小麦や豆の生産も発展.アベジャネーダ大統領は土地法を制定し外国移民の土地取得を容易にするなど,移民の受入れに力を注ぐ.外国移民が怒涛のごとくおしよせる.

76 白人入植者の進出に対し,先住民の反撃がさかんとなる.ブエノスアイレスから3百キロ以内にまで出現,畜牛30万頭と白人入植者5百人を連れ去る.

77 ロカ将軍,ロサスにならい第二次の「荒野の討伐作戦」を開始.4つの重砲隊を含む6千の軍が,2年間にわたりパンパ平原でインディオ集落を襲撃,無差別に殺戮.広大なパンパが侵略者の手で山分けされエスタンシア制が確立.

78 地主層を中心に保守派が結集し,全国自治党(PAN)創設.レアンドロ・ニセブロ・アレムとアリストブロ・デル・バジェらはこれに対抗して,オリガルキーに反対する共和党結成をはかるが失敗.

 

1880年 ブエノスアイレスと連邦の対立終了

4 ミトレ元大統領ら旧ブエノスアイレス派,諸州コルドバ連盟に対し反乱.

6.01 連邦軍は反乱を鎮圧した後,ブエノスアイレス市を州と分離し連邦国家の直属とする.これを機にブエノスアイレス州の関税特権など伝統的優位は最終的に終焉.ロカ将軍を大統領にすえる.6年の任期中に,各地の意見対立は解決される.鉄道建設がすすみ,驚異的な経済成長が実現する.

9.20 ブエノスアイレス市をアルゼンチン連邦の首都と制定.ブエノスアイレスの中心部と中央政府建物を連邦政府の管轄に移行.ブエノスアイレス州の州都をエンセルナダという寒村に移動.ラプラタと名づける.

83 ロカ将軍の部下はパタゴニアに至るインディオを平定し,土地を纂奪.国民自治党(PAN)政府のもとに大地主層の支配権が確立.以後外国資本の進出加速.イギリスの海外投資の1/2がアルゼンチンに流入.ヨーロッパ系移民も急速に増加.

85 フォークランド,英国自治領となる.この時点で住民は約1,800人.ほとんどが英国人.

86 ロカに代わりミゲル・フアレス・セルマンが大統領就任.セルマンは選挙ではなく,政界ボスの談合により選ばれる.PANの独裁は変わらず.

88 最初の本格的不況.イタリア移民のなかの無政府主義者を中心に一連のストライキ闘争発生.

89.9 アレムを中心に青年市民同盟(Union Civiica de la Juventud)結成.投票の自由,選挙の公正化,公務員の綱紀粛正を要求し,急速に影響力を広げる.セルマンPAN政権を相手に第1回目の蜂起.

1890年 市民同盟の反乱

4.13 インフレの進行により移民を中心とした労働者の貧困化深刻.イギリスは投資を中断.青年市民同盟,市民同盟(Union Civiica)と改称.アレムが委員長に就任.ミトレ元大統領も支持.

7 市民同盟,陸海軍の一部の支援を受けブエノスアイレスで武装蜂起.3日後に鎮圧.反乱を抑えた軍部の間からもセルマン政権の腐敗への糾弾の声が高まる。

7月 米海兵隊,ブエノスアイレスに利益保護のため上陸.

8.06 市民同盟,再度の蜂起によりファレス・セルマン大統領を退陣に追い込む.暫定大統領にカルロス・ペリグリーニ(Pelligrini).

91.6.29 市民同盟,ミトレらの保守派とアレムの非妥協派に分裂.アレム,急進市民同盟(Union Civiica Radical)結成.甥のイポリト・イリゴーエンが幹部に.

93.7.29 大統領にPANのルイス・サエンス・ペーニャが就任.選挙参加の道を断たれ,弾圧を受けた急進市民同盟,各地で武装蜂起するも敗北.ブエノスアイレス州の武装闘争を指導したイリゴージェンは,一時州都ラプラタを制圧するなど健闘.

96 党内分裂に絶望したアレム自殺.イリゴージェンが急進市民同盟の指導者に就任.急進党に改組.

96 バウティスタ・フスト,急進党の日和見と労働者のアナーキズムを批判する進歩勢力の連合として,アルゼンチン社会党結成.妻のアリシア・モローも機関紙「前衛」の編集長となり,女性解放運動の先駆者として活躍.

98 ロカ将軍,大統領に再選.この頃ブエノスアイレス市民の8割が外国生まれでしめられる.

 

1900

1901 アルゼンチンで最初の全国労組連合が結成される.

1902年

5.28 チリとの間に仲裁・国境画定などに関する「5月条約」を締結.ロシアとの関係が緊迫していた日本に,軍艦を譲渡することでも合意.アルゼンチンから軍艦リバダビア号(日進丸)とモレノ号(春日丸)の二隻,チリからはエスメラルダ号が贈られる.

11.23 外国人の政治活動を制限した居留法が制定.

02年 ルイス・ドラゴ外相、ドラゴ宣言を発表。

03 ロカ大統領,抵抗法を制定.急進党弾圧を強化.

04.3 チリ=アルゼンチン両国間の平和の象徴として,アンデス山脈にキリスト像が建てられる.

04 マヌエル・キンタナが大統領に就任.

04 政府の弾圧を打ち破り,大規模なストライキ成功.無政府主義者の影響力増大.

05.2.04 急進党,軍の一部もまきこみみたび武装蜂起.前回を上回る戦果を実現するが結局敗北.

1910年

5.25 ブエノスアイレスとバルパライソの間のアンデス横断鉄道が開通.

10月 ロケ・サエンス・ペーニャが大統領に選出される.ルイス元大統領の息子で、豊富な政治経歴から寡頭政治の限界を知る。

10年 政府,社会防衛法を制定,無政府主義者弾圧に乗り出す.

10年 このころ、アルゼンチンの一人当たりGDPはイギリスの8割でドイツを上回っていた。

20世紀の初頭、アルゼンチンは、世界の経済大国のひとつでした。国民の経済的豊かさを一人当たり実質国内総生産の額でみると、英米には及びませんが、欧州列強、例えばドイツなどと並ぶ高さでした。これは、当時の日本との比較では、2倍以上の高い水準です。首都ブエノスアイレスは、「南米の巴里」と呼ばれ、文化の香り漂う美しい街並みを誇っていました。 服部正純(日本銀行国際局副調査役)ら「アルゼンチン─“成長の破綻”から学べるもの─」より

12年 ロケ・セーンス・ペーニャ大統領,選挙法を改正.無記名投票による男子普通選挙となる.また選挙の公平を保障するため、選挙管理委員会を行政から司法の管轄に移行.

12年 各地で農民闘争高揚,農民連盟を結成.

14.12.14 リサンドロ・デラトーレ,普選法実施を前に民主進歩党を創設.

15.5.25 アルゼンチン,ブラジル,チリのABC条約が締結.

15 アルゼンチン地域労働連合(FORA)結成.イタリア移民を中心とするサンジカリストが指導権をにぎる.急進党の支持の下で急成長.

16.10.12 新選挙法下,初の大統領選.労働保護を掲げる急進党が政権をにぎる.イリゴージェンが大統領に就任.その顔つきからモグラ(ペルド)のニックネームをつけられ,彼の派閥はペルド派とよばれる.第一次大戦に対し米国の要請を拒否して中立をつらぬく.その後急速に右傾化.衆愚政治ととりまき政治に終始.

16年 Marcelo Torcuato De Alvear、駐仏大使に任命される。

1918年 大学改革運動

1 アルゼンチン社会党の左派,国際主義社会党を結成.20年には共産党となる.

3 アルゼンチン最古の大学,コルドバ大学で学生スト開始.LAに広がる大学改革運動の端緒となる.

6.21 コルドバ学生連盟,大学に自治,学生の運営参加,教授任期制,社会活動の促進などをうたった「コルドバ宣言」を発表.イリゴージェンもこれを支持.

11 FORA,汎アメリカ労働総同盟(COPA)結成にたいし「米国務省が,その勢力拡張に用いる手段の一つ」と非難.

19.1.9 賃金切り下げに反対する金属労組のスト.ブエノスアイレスの冶金工場から始まり,全国に波及.ブエノスアイレス全市を包む7日間にわたるゼネストに発展.軍が政府当局の支持を受けないまま出動.重火器もふくむ無差別攻撃によりストを鎮圧.当局の弾圧により死傷者多数.血の1週間とよばれる.イリゴージェン政府は経過を傍観.

1922年

6.22 国営石油公社設立.国内資本による石油開発をめざす.

10.12 急進党右派のマレロ・アルベアール,イリゴージェンにかわり大統領に就任.保守化路線をさらに進める.

22年 アルベアール、農業改革を目指すが、党内Irigoyen派の妨害にあい前進せず。(上の記事とどちらが本当でしょうね)

24 アルベアル大統領を先頭とする急進党反イリゴージェン派は,急進党をはなれ反個人主義急進党(アンチペルソナリスタ)を結成.

26 社会党系労組,サンジカリズムにこだわるFORAに対抗し,アルゼンチン労働連合(COA)を結成.

28 コミンテルン,アルゼンチンを半植民地と規定するテーゼを発表,.

28.4 イリゴージェン,ふたたび大統領に.8時間労働法を制定,教育の拡充をおこない,石油国有化を図るが,大恐慌後の無策により権威失墜.

29.6.01 ブエノスアイレスで第1回LA共産党会議.アルゼンチン共産党の影響下に階級的労働統一委員会を結成.

1930年

7.30 モンテビデオで第1回サッカー・ワールドカップ開催.決勝でウルグアイがアルゼンチンをくだす.ブエノスアイレスのウルグアイ領事館が襲われ,国交断絶にまで発展.

9.06 ファシスト的傾向をもつ保守派のホセ・ウリブル将軍による軍事クーデター.急進党政府は打倒され,68年間続いた議会制度は崩壊.このクーデターに参加したペロンは大統領官邸前の制圧に成功,その後昇進を重ねる.

9.27 COA,FORAの後身アルゼンチン労組同盟(USA)を併合.アルゼンチン労働総同盟(CGT)結成.10万人を結集.思想的には,政治不干渉,クーデターに対する中立などサンジカリストの影響を強く残す.

31年 大統領選挙。保守党のアグスティン・フストが当選。急進党右派のAlvearは選挙への出馬を禁じられる。

1932年

2.20 「民政」に復帰.「保守的国家主義の経済計画」を掲げたアグスティン・フストが大統領に就任.きびしい制限選挙により事実上急進党の立候補は認められず.軍部と封建的大地主をバックとした保守支配により,選挙は形骸化.

7 英連邦諸国,オタワ会議を開催.域内特恵関税の実施を決める.連邦圏以外の国(具体的にはアルゼンチン)からの一次産品輸入制限を打ちだす.英国向けの冷凍食肉輸出を主要産業としていたアルゼンチンは恐慌を来す.

1933年

1 ドイツでナチが政権掌握

5 アルゼンチン,イギリスとのあいだに関税協定(ロカ=ランシマン協定).英国が食肉輸入量を保障する代り,特恵待遇を受けることとなる.事実上英国の属国となることで食肉輸入割り当てを確保,ポンド圏内での生き残りを図る.国内産業はこれにより壊滅的打撃を受ける.半植民地化に対する抗議広がる.

9 社会党の議員,右翼に暗殺される.これを機に社会党は反ファシズムを全面に掲げ,急進化する.

33 イリゴーエン死去(80歳).追悼デモに50万人の市民が参加.

34 急進党を中心とする共同戦線,CGTも加え国会議員選挙に勝利.

1935年

6 急進党の青年層を中心に,青年アルゼンチン急進勢力(FORJA)を結成,反帝人民闘争の立場から,ロカ協定反対闘争を展開.

8 共産党,人民戦線戦術を採用.社会党との共闘に乗り出す.

12 レイロスを中心とする社会党左派,CGT執行部を実力で排除.独立CGTを結成.サンジカリズムと決別し,人民戦線を通じて政治闘争への積極的参加を打ちだす.翌年,階級的労働統一委員会も合流.

35 ブエノスアイレス大学政治経済学教授のラウル・プレビッシュ,中央銀行の初代総裁に就任.

1936年

5.01 アルゼンチンで人民戦線結成.右翼はこれに対抗し国民戦線結成.

12.01 ブエノスアイレスで米州特別会議.ルーズベルトが西半球の共同防衛を提案.

12 共産党,人民戦線の受け皿として民主主義連盟を結成.ストライキ戦術をめぐり社会党内の抗争激化.左派の一部は共産党に参加.保守化した急進党を中心に保守連合を結成.ロベルト・オルティスを大統領候補に擁立.

36年 カルロス・サアベドラ・ラマス、ノーベル平和賞を授与される。ラマスは外相として国際連盟で戦争反対の協定を立案。またチャコ戦争の終結に尽力した。

1937年

6 CGT,人民戦線より離脱.政治不介入をふたたび掲げる.

9 大統領選でロベルト・オルティスが勝利.急進党がアレベアール派を破りふたたび政権につく.

38.2.02 オルティス,大統領に就任.

38 ペロン,三年間にわたりイタリア・ドイツに研修.ファシズムに心酔.

39.9 第2次世界大戦勃発.独ソ不可侵条約にしばられ,反帝を優先する共産党と,反ファッショを優先する社会党のあいだに対立.

40 オルティス,糖尿病の悪化により引退,ラモン・カスティージョが後継となる.基本政策に変更なし.

1941年

6 独ソ開戦.共産党は反ファシズム路線に転換.ふたたび人民戦線の機運高まる.

12 真珠湾攻撃.アルゼンチン中立を布告.

42.10 大統領選に向け,社会党を中心に市民急進同盟,自由党などが民主連合結成.CGTも参加.

1943年 統一将校団によるクーデター

3月 軍内に「統一将校団」(GOU)が結成される.国家主義者の将校が集結.ファシズムの下での富国強兵をめざし,クーデターの準備に入る.ムッソリーニ体制を駐在武官として経験したファン・ドミンゴ・ペロン大佐が幹事となる.

3 CGT,非政治主義を主張するCGT NO1と,レイロス派,共産党系のCGT N0 2とに分裂.

6.02 統一将校団の秘密会談.軍の蜂起と大統領官邸への行進の計画を確認.

6.03 カスティージョ大統領,ファシスト的傾向を持つペドロ・ラミレス軍事相を辞任させる.後任には親英派の大地主パトロ・コスタスを指名.

6.04 統一将校団(GOU)によるクーデター.カスティーヨ大統領は船に乗り海外亡命.アルトゥーロ・ローソン将軍が大統領となる.CGT両派,FORJAは反帝の立場からクーデターを支持するが,軍部は政党や学生運動に対し大弾圧.連合国支持団体も解散.

6.07 ローソンは更迭され,ペドロ・P・ラミレス将軍が大統領に就任.「ドイツが欧州の指導者足るべく努力しているように,アルゼンチンも中南米の指導者となるべきである.南米諸国が力をあわせても対抗できぬほどの強力な国家を建設する任務は,軍人によってのみ実現可能である」とする宣言を発表.軍事相にはペロン直属の上司エデリロ・ファレル将軍が就任.ペロンが次官となる.この年,工業生産額がはじめて農業生産を上回る.

7 CGT No2に解散命令.

8 学生の抵抗を抑えるため,大学を2ヶ月にわたり閉鎖.

10 労働者政策の必要を痛感したペロン,労働局長(のちに労働福祉庁長官)に就任,労働組合の結成と中央組織の創設をバックアップ.1年間で29の労働関係法を制定,300以上の労働争議に関与し,その半分以上を労働者に有利な方向で解決.労働者の支持をバックに軍内部での力を強める.

10 知識人百5十名の言論が自由,民主政治の確立を訴える宣言発表.政府は全国の大学に対する弾圧と進歩的教授の追放で応える.

12月 政府,すべての政党を解散,出版物への検閲制を導入.公立学校での宗教教育を復活,

12 鉄道従業員組合,ペロンを「アルゼンチン第1の労働者」と賞賛.

1944年

1 米英両国,ラミレス大統領の独スパイ活動協力に対し抗議.GOU内では対ドイツ断交の是非をめぐり激論.ファレル=ペロンは断交に反対の立場を貫く.

1.26 アルゼンチン,米英両国の圧力により枢軸国と断交.宣戦布告は翌年3月にずれこむ.

2.16 ファレル=ペロン派による事実上のクーデター.ラミレスは辞任を迫られる.

2.24 ラミレス,辞任.エデルミロ・ファレル将軍が大統領に指名されるが,米国は新政府を承認せず.

3.04 米国,国交断絶も辞さないと声明.

3.10 ファレル,新大統領に就任.ペロンが軍事相に就任.

6.22 米国,大使召還.その後輸出の削減,米国船のアルゼンチン入港禁止などを打ちだす.イギリスの非協力により実効なし.

7.08 ペロン,副大統領と労働・社会改革局長官を兼務することとなる.米国と国内親英保守層の圧力に対抗するため,労働者勢力の抱きこみを図る.

8月 米政府,米国内のアルゼンチン資産を凍結.

8 ペロン,社会保障や有給休暇などの法案を次々に提出.CGT(No1)は米国との対決を強める政府に対し,支持を表明,ペロンへの傾斜を強める.社共両党はこれに反発.

 

クーデターとペロンの逆転

1945年

1 アルゼンチン,汎米同盟会議への参加を拒否される.

3.27 アルゼンチン,ドイツと日本に宣戦布告.米国はアルゼンチン制裁を解く.

4.19 米国,ファレル政権を承認.外交関係を復活.

5 ブレイドン(Spruille Braden)米大使着任.反ペロン派の組織を開始.

7 労働総同盟(CGT)による政府支持集会,30万人を動員.

8 戒厳令解除.急進党,社会党,共産党などによる反ファッショ行動広がる.

10.09 米国の意向を受けたエドワルド・アバロス将軍によるクーデターが成功.ペロンに対し副大統領,労働長官,陸軍長官の辞任を迫る.

10.11 ペロン,軍事裁判で有罪判決.ラプラタ河中のマルティン・ガルシア島刑務所に一時幽閉される.

10.17 CGTのシプリアーノ・レイエス,エビタ・デュアルテ(Maria Eva Duarte)ら,ペロン釈放を訴えゼネスト提起.「シャツなしども」(デスカミサード)とよばれる貧しい労働者たちが「リブロス・ノー,サパトス・シー(理屈はいらない,物こそだいじ)」のスローガンを叫んで5月広場を埋めつくす.

10.21 アバロス,ペロンを釈放し政権を放棄.

10.24 アルゼンチン労働党結成.ペロン当選の母体となる.

10.26 ペロンとエビタ,労働者に祝福され結婚.

11月 政府,来年2月に総選挙を行うと発表.

12.26 ペロン,大統領選キャンペーンを開始.

1946年

2.11 米国務省とOSS,外交青書を発表.ペロンと軍部がナチと協力していたと告発.ブレードン大使は反ペロンのキャンペーンを開始.急進党の一部,社会党,共産党は民主同盟を結成し「ファシズム反対」にたちあがる.

2.12 ペロン,大統領選への立起を公式に表明.「ブレイドンかペロンか」をスローガンとする.

2.24 アルゼンチン,民政移管し大統領選.労働者,大衆の支持を受けたペロンが147万票(54%)を獲得し圧勝.UCRの対立候補は121万票にとどまる.知事選挙でもコリエンテス以外のすべての州でペロン派が勝利.

3.28 ペロン,大統領に就任.アルゼンチンは元ナチ幹部の逃亡先となる.

6.04 第1次経済5ヵ年計画発表.ソ連との国交を樹立.中央銀行の国営化,基幹産業の国有化,農産物の2重価格制(貿易公社が農産物を安価で強制的に買い上げ,国際価格との差額をピンハネ)による工業化資金確保などを柱とする.

8 連邦政府,反ペロン派の牙城コリエンテス州を直接管理下におく.

9.03 政府,米資本の電話会社を1億ドルで買収.

11.17 政府,フランス資本所有の鉄道を買収.全路線の1/4にあたる.

1947年

1.01 第一次五カ年計画が発足.この時点で外貨準備高は17億ドルに達する.

1月 政府,ラジオで演奏される全ての音楽の50%はアルゼンチンのものでなければならないと宣言.タンゴが黄金期を迎える.

2.13 アンデス協定調印.英資本所有の鉄道路線を買収.買収総額は1.5億ポンド(6億ドル)に達する.100%国有化が実現.さらに海運,航空産業も国有化.

5 経済政策の受け皿として国民経済評議会設置.

6.06 エバ・ペロン,大統領の名代としてバチカン,スペイン,フランス,英国を訪問.「エビータ」の名がヨーロッパ中を駆け巡る.

7 ペロン,経済独立宣言を発表,電話に続き電気,ガス国有化を宣言,中小零細企業を中心に経済総同盟(CGE)を組織し大企業と対抗する.

9.07 婦人参政権を実現.

9 リオ条約(米州共同防衛条約)締結.

10.10 「リンコン・ボンバの虐殺」が始まる。アルゼンチン北部フォルモサ州の先住民居留地で、20日間に約千人のピラガー族先住民が殺害される。その多くは、騙されてサルタ州の砂糖工場に連れてゆかれ、飢えて帰り、食物と薬を求めたところ、虐殺されたという。この事件は長年にわたり隠され、2006年に遺体が発掘されたことから明るみに出た。

10 ベルナルド・ウーサイ,ノーベル医学賞を受賞.

12 ペロン,労働党を解散しあらたにペロン党を結成.

1948年

1月 地方で反ペロンの動きが強まる.コリエンテスに続き,いくつかの州が連邦政府直轄となる.

7 エバ・ペロン(エビータ)による慈善団体,「エバ・ペロン財団」設立.労働者住宅,孤児院,養老院を整備し貧困者の不満を吸収.ペロン政権の安定に貢献.

10月 リベラルな傾向を持つ「ラ・プレンサ」紙への圧力が強まる.政府は新聞用紙の割り当てを削減.

1949年

3 制憲議会,野党UCRの欠席のまま,新憲法草案を採択.労働三権を規定し,天然資源と公共事業の国家による開発をうたう.政府の権限が大幅に強化される.

11月 言論統制がさらに進む.主な独立系新聞社(La Prensa,La Nacion,Clarin,Laホーラ)が,政府監督の下に入る.AP通信,UPI通信のブエノスアイレス事務所も同じ運命に.

12月 政府,反ペロン運動を支援したとしてロンドン・南米銀行とラプラタ・フランス銀行を監視下に置く.旧支配層の溜まり場となったアルゼンチン自動車クラブ,ジョッキー・クラブが政府の監視下に置かれる.

49年 フアン・マヌエル・ファンヒオ,ヨーロッパの自動車レースでチャンピオンとなる.

1950年

1.01 政府,サンマルティン没後百年に当たり「解放者将軍サンマルティンの年」のキャンペーンを開始.軍と人民との団結を呼びかける.

1月 エヴァ・ペロンは白血病と診断される.

10.17 ペロン勝利5周年記念集会.数十万の労働者を前に正義主義(フスティシアリスモ)綱領を発表.ペロン派の公認政党として正義党が創設される.

50 ペロン,急進党指導者のリカルド・バルビンを議会から追放のうえ投獄.大学教授の7割がペロンに批判的という理由で解職.学生らの抗議集会は,動員された労働者が妨害.

1951年

1月 鉄道労働者のスト.ペロン派労働者内部に亀裂が生じる.

8月 ペロン,再選を禁じた憲法を修正し,二期目に立候補.急進党はアルトゥーロ・フロンディシを大統領候補に,バルビンを副大統領候補に押し立てて闘う.

9.28 ベンハミン・メネンデス将軍らによるクーデターが失敗.この計画にはエドワルド・ロナルディ将軍も参加.(就任後の5年間に兵員は1/3に,軍事費の対予算比も50%から25%に減らす)

10.17 テレビが初放映される.五月広場で開かれた「忠誠の日」の公式行事が中継される.

11.11 大統領選および総選挙.女性が初めて選挙に参加.ペロンとエバ副大統領は460万対230万票で圧勝.さらに議会選でも下院の2/3,上院のほとんどをしめる.

11月 選挙後軍の一部に反乱の動き.政府,内戦状態を宣言し高級将校のほとんどを更迭.最高裁判事5人のうち4人が更迭.保守系有力紙「ラプレンサ」を接収するなど権威主義的体制を強化.

51 アルゼンチン,OASより脱退,中立政策をとる.

51年 アルゼンチン空軍,ドイツ人技術者クルト・タンクの手によりプルキ(Pulqui)Ⅱ型ジェット戦闘機を開発.タンクはフォッカー・ウルフ社の技術主任だった.

1952年

6.04 ペロン,第二期目の大統領に就任.

7.26 エバ・ペロン,白血病(子宮ガン?)のため33才で死亡.葬儀には数十万の市民が参加.

52年 凶作により小麦の輸入を余儀なくされる.国内消費の増加による農業輸出の停滞と,景気後退の中で,国際収支の悪化とインフレの進行が始まる.保守層のあいだにペロンへの不満高まる.

52年 政府.経済引き締め策を実施.平均賃金は25%減少.

52 CGT,トレダーノのLA労働連合(CTAL)に対抗し,米州労働連合を組織.

1953年

2月 ペロン,チリを訪問.イバニェスとのあいだに経済協力協定.

3.16 ビクトリオ・コビドラ,モスクワの指示を受け帰国.党の政策をブルジョア民族主義と批判.ペロンを支持してきたホアン・ホセ・レアルら指導部が更迭され,ペロン支持を撤回.

4.09 エビータの弟で,ペロンの個人秘書を務めていたフアン・ドゥアルテが市街で暗殺される.当局は自殺と発表,犯人は見つからないままに終わる.

4.15 ブエノスアイレス市内でペロン派の集会に二発の爆弾が投げ込まれる.怒った民衆による暴動発生.中心街にある有産階級の社交場ジョッキー・クラブを焼打ち.ほかにも社会党,急進党などの本部が焼打ちに会う.

9 アルゼンチンとソ連との間に総額1億5千万ドルのバーター協定成立.

53年 ミルトン・アイゼンハワー,アルゼンチンを訪問.両国関係の正常化を図る.

53 教育問題をめぐりコペロ枢機卿と対立.バチカンはペロンを破門.

1954年

11月 ペロン,カトリック教徒がペロニスタ組織内にひそかに浸透を図っていると警告.アルゼンチン司教は,激しい調子で告発を拒絶する声明.労組は政府支持のゼネスト.

11 アルゼンチン共産党,右翼の政権奪取の危険を強調,全国民主戦戦の結成を呼びかける.

12.03 ペロン,カトリック教会の教育への関与を縮小すると表明. 

12.05 議会,離婚法案を可決.教会は司牧教書を発し,離婚法を非難.

12.30 ペロン,売春宿を事実上公認.教会と政府との対立はさらに深まる.

 

ペロン政権の崩壊

1955年

2 ペロン,離婚法をめぐり教会と対立.司教2人を国外追放するなど教会勢力に対する一連の攻撃を開始.全面対決に入る.

3月 米輸出入銀行,サンニコラス製鉄所建設に対する融資を決定.

4月 公立学校における宗教教育が廃止される.

5.06 英国,国際司法裁にフォークランド諸島の領有権を認めるよう提訴.アルゼンチンとチリは調停を拒否.

5月 上院,教会と国家を分離する憲法改正案を可決.

6.11 聖職者数人が,国家に対する反逆を企てたとして投獄される.これに抗議するカトリック教会系の10万人が,聖体を拝受して5月広場をデモ.

6.16 海軍の一部は大統領府(Casa Rosada)をカタリーナ飛行艇で爆撃.陸軍の一部隊も街頭から大統領官邸を襲撃.この事件で市民三百名が犠牲に.

6.16 ペロン派群衆はこれに対抗し,市内の教会を焼打ち,労組への武器引き渡しを画策.

6.30 閣僚多数が辞任.

7月 ペロン,国家の和解を求める訴えを発表.

8.31 ペロン,大統領を辞任すると声明.労働総同盟は辞任反対のゼネストを宣言.同大統領辞表を撤回.

9.01 議会,ペロン大統領に対し首都を戒厳令下におく権限を付与.

9.03 ペロン,戒厳令を公布.

9.16 エドワルド・ロナルディ将軍とイサク・ロハス提督,コルドバで自由解放運動の政権樹立を宣言.ラプラタ河を下りブエノスアイレスを襲撃.ブエノスアイレス市内では反ペロン派の市民と軍による反乱.

9.19 3日間にわたる戦闘の末,ペロンが辞意を表明.反乱軍,ペロン大統領の辞職を発表.ロナルディが臨時大統領に就任.「解放の革命」を自称する.

9.20 ペロンは停泊中のパラグアイ軍艦に逃げ込む.

9.24 ペロン,パラグアイ大使館へ避難.

10.03 ペロン,パラグアイ亡命を認められる.その後スペインへ亡命.ペロンの任期を通じて外貨準備は12億ドルから4億5千万ドルに減少,債務は10億ドルにまで膨らみ,国庫は破産状態となる.農業は疲弊し深刻な近代化の遅れ.

11.13 軍事評議会内にロナルディら宥和派と,対ペロン強硬派の対立が深まる.参謀本部長のペドロ・エウヘニオ・アランブル(Aramburu)将軍,ロナルディに辞任を迫る.ロナルディは「健康上の問題」により辞任.アランブルはただちにペロン派将兵を根こそぎ粛清.

11.14 CGTはゼネストをよびかけるが,軍の出動により不発に終わる.

11月 アランブルが暫定大統領に就任。副大統領はアイザック・ロハス海軍提督。大統領令を布告しストライキと反乱を鎮圧。政・財界からペロン主義者を排除する。OAS復帰,農業優先の親米開放経済政策をとる.

1956年

5.01 アランブル政権,49年憲法を廃止.

6 ペロン党員とペロン派軍人による反乱発生.アランブル,首謀者26名(40名?)を処刑.厳しくペロニスタ残党を追及するいっぽう,ペロン時代の法律やシステムを根絶やしにする.

56 急進党,軍政評価をめぐり二派に分裂.バルビンとイリヤは人民派(UCRP)を,フロンディシは非妥協派(INTRANSIGENTE)を結成.バルビンは反ペロン反開放政策を唱える.伝統的な個人の自由を主張し独裁と腐敗を強く非難.

56 政府,共産主義者を一斉逮捕.釈放を要求する大衆闘争.

57.7 2百万の労働者が参加するゼネストのなか,憲法改正議会選挙.アランブルと結びついた急進党バルビン派が第1党となる.白票を投じたペロン派は,バルビン派と同数を獲得.

1958年

2.3 民政移管,大統領選では軍部の押すバルビン派候補が有利に闘いをすすめる.フロンディシは①外国資本国有化,②中立外交と共産圏貿易,③ペロンに帰国を認める,などをかかげペロニスタ,共産党の支持を呼びかける.

2.23 大統領選.ペロニスタの支持を得たフロンディシが逆転勝利に成功.共産党は22万票を獲得.ペロニスタ左派は選挙妨害を試みるが失敗.

10 外資法成立.IMFとの合意にもとづくきびしい安定化政策に踏切り,全面開放政策への移行.ペロニスタ,大衆から強い反発を招く.

11.18 政権内の対立激化.ゴメス副大統領が辞職.

12 フロンディシ大統領,石油公社の開発に見切りをつけ,メジャーとの間に石油採掘の長期契約.メジャー進出に反対する石油労働者はスト入り.これに続きCGTペロン派によるゼネスト.フロンディシは戒厳令を公布,軍を動員してペロン派を弾圧.

1959年

4.26 共産党非合法化

6 フロンディシ政権,経済苦境に対処するため第二次内閣改造.アルソガライ経済相の引き締め政策で国民生活はさらに悪化.

8 労働者150万人が参加する賃上げスト.ブエノスアイレスでは数千のデモ隊が警察と衝突.

9.23 4百万人の参加するペロン派によるゼネスト,敗北に終わる.軍は戒厳令並みの労働運動弾圧をおこなう.コニエンテス計画によりテロ行為の徹底的取り締まりを強化.

1960年

3.14 選挙で与党敗退.フロンディシは全土に非常事態宣言.

5.11 イスラエルの特務機関,アルゼンチンでリカルド・クレメントを拘束.イスラエルに連行.ゲシュタポの高官アドルフ・アイヒマンと判定.アイヒマンは「ユダヤ人問題の最終的解答」を指揮.敗戦後はオデッサ・ファイルの下,アルゼンチンに潜入していた.

 1961年

7.25 アルゼンチン最大の「サビオ将軍名称製鉄所」が操業を開始する.

8月 フロンディシ,アルゼンチン生まれのキューバ革命政府ゲバラ経済相を歓迎.ゲバラはOAS経済・社会理事会出席のため,ウルグアイを訪れていた.

8 ディロン米財務長官,ウルグアイのプンタデルエステで開かれたOAS経済・社会理事会に出席.「進歩のための同盟」の具体案として中南米経済・社会発展十カ年計画(ディロン提案)発表.

11月 鉄道労働者のストライキ,6週間にわたり交通を麻痺させる.

 

1962年 軍事クーデターとフロンディシの逮捕

1 OAS外相会議(プンタ・デル・エステ),キューバ除名と制裁を決議.ブラジル,メキシコ,アルゼンチン,チリ,エクアドルは米国の制裁案に反対.その後これらの国に対し,CIAの政府転覆策動が強まる.

2.08 フロンディシ,米国と軍部の要求に屈し対キューバ断交を決定.

3.18 一斉地方選挙.フロンディシはペロン派との協定に基づき,ペロン派の立候補を認める.ペロン派は食肉業石油などの国有化,大所有地の無償接収などの要求を掲げる.平均得票率34%を獲得.州知事選では16州のうち11州で勝利.共産党も大幅躍進.

3.19 アルフレド・ビトロ内相,ペロン派の勝利を無効とし,5つの州を連邦政府の直轄下に置く.

3.20 フロンディシの内閣,ビトロ内相を除き総辞職.アランブル将軍は公然とフロンディシ辞任を求める.

3.28 ペロン派の進出に危機感をもった軍部は,クーデターをおこない選挙の無効を宣言.モンテーロ,サラビア両将軍が実権を握る.フロンディシの責任を問い逮捕幽閉.急進党非妥協派はフロンディシと決別,オスカル・アジェンデを議長に指名.フロンディシ派は統一開発運動(MID)を結成.

3.29 軍部,ホセ・マリア・ギド上院議長をかいらい大統領に据える.コルドバ州知事アルトゥーロ・ウンベルト・イリア,軍の圧力により辞任.ペロン派労働者2百万人が抗議のゼネスト.共産党,ペロニスタの急進化を評価し,共闘をよびかける.

4月 軍事政権の方向とペロン派の扱いをめぐり,陸・海軍が対立.両者併せて4万人の武装部隊が動員される.

7 アルトゥーロ・イリア,バルビンの新党,人民急進連盟(UCRP)の議長に就任.

8月 段階的な民主主義への復帰を説く青派と,選挙に反対し軍事独裁を続けようとする赤派(ゴリラ派)との対立が顕在化.

9.18 軍強硬派に反対するフアン・カルロス・オンガニア将軍ら4百人の青年将校,カンポ・デ・マーヨの陸軍部隊,騎兵連隊を主力に反乱を起こす.ギド臨時大統領に退陣を求めると同時に「軍首脳は軍事独裁を恒久化しようとしている.道は独裁制か民主主義の二つしかない」と声明.

9.22 ブエノスアイレス郊外での軍事衝突は軍事政権側の勝利に終わるが,軍首脳部は事件の責任を採り辞任.オンガニアが陸軍司令官に就任.

10 キューバ・ミサイル危機発生.軍は駆逐艦2隻を派遣し,米国の封鎖作戦を支援.

62 テハーダ・ゴメス,メルセデス・ソーサらがヌエバ・カンシオン運動を起こす.

 

1963年 イリアの大統領就任

4.02 海軍部隊を主力とする「赤派」,ギドの辞任をもとめ反乱.アランブル政権の下で副大統領を務めたイサーク・ロハス提督が指導.

4.04 ホアン・カルロス・オンガニア最高司令官は,政府支持の立場をとり暴動を鎮圧.ロハス提督を逮捕.民政移管と選挙実施を発表.一方において共産党とペロニスタに対する弾圧を強める.

5 反共法公布.共産党の非合法化を確認し,マルクス主義の宣伝も禁止.

6 5百万人が参加するゼネスト.CGT,急進的傾向を強める.

7.07 大統領選で急進党バルビン派(UCRP)のイリア(医師)が,240万票を獲得し勝利.他にオスカル・アレンデが160万。退役して選挙に臨んだアランブル将軍はわずか130万票で敗退.

7月 ペロン派と左派急進党革新派が連携した「全国連合戦線」は選挙への参加を拒否される.ペロン派は白紙投票を指示,白票は21%に達する.これに対しイリアの得票率は25%にとどまる。非力な政府はペロニスタの抗議行動に対応できず。

7 ゲバラの腹心マルティネス大尉,ボリビアに潜入.アルゼンチンでのゲリラ活動開始に備え,南部のサルタ山岳地帯に根拠地建設.指揮官にはホルヘ・リカルド・マセッティ(セグンド少佐)が就任.マセッティはアルゼンチン人でハバナの「プレンサ・ラティーナ」通信社の編集長をつとめていた.

8月 右翼過激派のゲリラ・グループ「タクアラ」,都市ゲリラ活動を開始.銀行を襲撃し1400万ペソを奪う.指導者はホセ・バクスター.アラブ連盟から資金の提供を受けたといわれる.

10.12 イリア,大統領に就任.左派を弾圧しながら,一定の民族的政策を掲げる.

11 マセッティ,ボリビアからアルゼンチン北部に侵入.人民ゲリラ軍(EGP)の結成を宣言しゲリラ活動開始.

11 イリア政権,国家の利害に反するとしてメジャー13社との契約を破棄し石油の国営化を図る.

 

1964年 CGTによる政権揺さぶり

1 国家保安法制定.対ゲリラ活動を強化.

2 米,アルゼンチンとの間に軍事協力協定を結ぶ.「アルゼンチン軍は,西半球南半の民主主義の擁護者」と規定.

3 人民ゲリラ軍,アルゼンチン憲兵隊の越境掃討作戦により壊滅.マセッティも殺害される.

5 米系石油会社3社を接収.アルゼンチン電力省長官のポツィオ,13の外国石油会社の無償接収が予定されていると声明.

5 米国,駐アルゼンチン大使を召還,クーデターの動き強まる.アルゼンチン議会,石油会社接収に関する,マクリントク米大使の内政干渉に抗議.

5月 CGT,工場・オフィスの占拠作戦を開始.1200の会社が活動家により占拠される.

6月 CGT,全国的な輸送ストライキを指示.400万の労働者が参加する.イリア政権は最低賃金制の導入を受け入れる.

8月 国連,フォークランドの返還に関して交渉を開始するよう,英国に要請.

9.08 アルゼンチンの飛行士ミゲル・フィッツジェラルドは,島へ飛びアルゼンチンの国旗を立てる.

10 CGT,62労組15万人にストライキと工場占拠を指示.ペロンの帰国を要請する声が高まる.イリア政権はストに対処できず.議会勢力弱体で左右からの圧力により事実上崩壊.

11月 労組指導者のアウグスト・バンドールら,ペロン復帰のための秘密作戦「オペラシオン・レトルノ」を計画.スペイン在住のペロンをリオ経由で密入国させようと図る.

12.02 スペインから飛来したペロン,リオで拘束されスペインに送還される.

64年 国連非植民地化委員会,フォークランド島の帰属をめぐる問題もあわせて検討開始.アルゼンチンはトルデシーリャス条約以来の領有権を主張.イギリスは,発見者としての権利,1833年以来の実効支配,住民のほとんどが英国人であることを基礎として領有を主張.

 

1965年

3.14 国会議員選挙.ペロン派は37%を獲得し第1党に進出.党内ではネオ・ペロニスタの発言権増大.

5.12 CGTが主催して,米軍のドミニカ侵略に抗議するデモ.警官隊との衝突で一人が死亡,数人が負傷.

11 イリア,民族主義的傾向を強める.国家保安法撤廃,共産党合法化.カストロ・サンチェス准将を軍内階級を跳び越え陸軍大臣に指名.オンガニア最高司令官はこの人事に抗議し辞任.

65年 国連総会,フォークランドの帰属問題に関しては,両国が引き続き議論して平和的な解決案を作り上げるよう勧告.

 

1966年 ブラジル型開発独裁へ

2.10 CGT書記長ホセ・アロンソ,ペロンがバンドールらのグループを戦列から排除するよう指示したと発表.両派の抗争は大規模な市街戦にまで発展.

4月 国会議員選挙。ペロン主義者が躍進。フアン・オンガニア将軍ら軍部反ペロン派は危機感を抱く。

5月 金属労組の指導者3人,喫茶店で談笑中,反対派活動家により射殺される.場所はブエノスアイレス郊外の工場地帯アベジャネーダ.

5.29 パスカル・ピスタリーニ陸軍司令官,クーデターのうわさについて言及.軍内にクーデターの動きがあることを認める.言論界の重鎮ハコボ・ティメルマンもクーデターへの支持を公然と明らかにする.

6 イリアの腹心でロサリオの第二軍司令官カルロス・カロ将軍,ペロン党指導者と秘密会見.情報を察知したピスタリニ最高司令官はカロを解任,陸相にも辞任を迫る.イリアはただちにピスタリニを解任.

6.28 ゼネストのさなかに軍事クーデター.ピスタリニの指揮下に第一軍司令官フリオ・アルソガライが大統領官邸を占拠.

6.29 イリア大統領を放逐しオンガニア退役中将が大統領に就任.陸軍長官ピスタリニ中将を先頭とする三軍代表の軍事評議会が実権を握る.オンガニアは今後10年間政権を維持し,「アルゼンチン革命」と称する計画の下に,国家の統一と革新を推進すると宣言.クリーゲル・バセーナ経済相のもとにブラジル型開発独裁をめざす.外資の流入により工業部門の成長とインフレの抑制が達成される.

6.30 すべての政党に対し解散命令.

7.29 軍・警察を使った暴力的弾圧が社会の全分野で展開される.政治家多数を逮捕.共産党本部を襲撃,全国の大学を占拠.大学の自治を否定し,国家の全面統制の下に置く.ユダヤ人社会へも弾圧を加える.のちに「長い棒の夜」と呼ばれることになる.米国大使館はこれを黙認.

9.28 民族主義者青年が大型旅客機をハイジャック.フォークランド諸島に強制着陸させる.アルゼンチンの所有権を誇示するこの事件は「コンドル作戦」と呼ばれる.このほかに,ペロニスタ武装行動隊が,ポート・スタンレーを一時占拠.まもなく守備隊に降伏.

66年 スペイン戦争の生き残りでカタロニア無政府主義の伝統を受け継ぐ,労働者革命党(トロツキスト)幹部のアブラム・ギジェン,「都市ゲリラの戦略」を発表.現存体制の暴力による徹底した破壊をよびかける.

 

1967年

1月 アルベルト・クリーガー・バセナ経済企画相,マネタリスト政策に基づく経済再建計画を発表.賃金の抑制と,食糧・輸送料金の自由化を柱とする.国際投資家に歓迎される.

8月 オンガニア大統領,「共産主義と戦うための方策」を発表.すべての共産主義者の活動を違法とする.

67.9 英国のジョージ・ブラウン外相,アルゼンチンとの話し合いを開始.住民の権利と生活が保障されるのなら,主権を引き渡す用意があると述べる.

10.10 ゲバラ死す.亡命中のペロンは,ゲバラをLA革命のもっとも優れた英雄と賞賛.

 

1968年 景気後退と軍事政権の危機

1 共産主義青年連盟幹部のセサル・オットー・バルガスら,共産党を脱退し,共産党革命的再生派を結成.まもなく革命的共産党と改称.毛沢東主義をかかげ学生,知識人の間に一定の影響力を持つ.ゲバラ派はEGPを受継ぎボリビアELNとの連係をうたう革命軍(FAR)を結成.

7月 労働党政権とのあいだに,フォークランド譲渡の秘密交渉.英国内保守党の反対により流産となる.

8.23 アレハンドロ・アグスティン・ラヌーセが陸軍司令官に就任.

9.19 トゥクマン州タコ・ラロでペロン派のゲリラ部隊が摘発される.指導者のエンバル・エル・カードルはカストロとゲバラの精神で武装せよと呼びかける.

11月 チャルフォント卿,フォークランド現地で住民と対話.アルゼンチンへの国籍移転について合意を得られず.

68 英国の「牛肉輸入禁止」により輸出は激減.工業化政策をとった政府に,貿易赤字,財政赤字が直撃.賃金凍結に対し労働者の抵抗強まる.

 

1969年 第一次コルドバソ

4 共産党脱党派の都市ゲリラ「解放武装軍」(FAL),ブエノスアイレス近郊のカンポ・デ・マヨ陸軍基地を攻撃.ペロン左派もペロニスタ軍(FAP)を結成し,都市ゲリラ活動を開始.

5 中部の新興工業地帯の中心コルドバで,土曜休暇の廃止問題をきっかけとして学生,インテリ,労働者がたたかいに立ち上がる.コルドバ大学を中心に反政府デモ,労働者もまきこみ発展(第一次コルドバソ).学生・労働者の実力闘争はコルドバからロサリオ,サンタフェ,ツクマンなど内陸諸都市に波及.

5.29 政府,全土に戒厳令を公布.軍を派遣して闘争の鎮圧に成功.当局の弾圧で11人が死亡.

6.30 UOM金属労組の指導者アウグスト・バンドール,組合本部内で暗殺される.

8月末 コルドバ大学に始まった学生の反独裁闘争,全国へ波及.金属労働者も決起.全国ストにより国家機能はマヒ状態に陥る.

11 ブエノスアイレス市内の海外企業オフィスに連続爆弾テロ.コルドバソの主軸となった「青年ペロニスタ」の一部は,ペロニスタ左派の流れをくむ真正ペロン党より分裂.FAPとはべつにフアン・ホセ・バジェ部隊「モントネーロス」を名乗り武装行動を開始.モントネーロスはアランブル大統領時代に殺害されたペロン派の指導者.

 

1970年

1970年 レビングストン政権への交代

3 FAL,パラグアイ総領事サンチェスを誘拐.

4月 左翼各派による都市ゲリラ活動が活発化.警察署や銀行,外国企業オフィスが攻撃の対象となる.「モントネーロス」を中核に,都市ゲリラ組織「モントネーロ・ペロニスタ運動(MPM)」が結成される.元学生ファシスト組織の活動家マリオ・フィルメニッチが指導.思想的には左翼民族主義,無政府主義,キューバ主義のゴッタ煮.最盛時武装部隊5千,活動家1万5千を組織.

5月末 MPM,最初の象徴的行動として元大統領アランブル将軍を誘拐.

6.08 三軍評議会,オンガニアを罷免.クーデターを通じて,米国の支持が公然化.

6.18 三軍評議会,駐米大使館付き武官のマルセロ・レビングストン准将を大統領に選出.軍事独裁を続行するいっぽうオンガニアの弾圧政策をやめ,軍と労組幹部と民族派テクノクラートの同盟実現を狙う.外国石油企業に制限を加えるなど開発型経済政策に一定の手直しを加え,民族企業発展をはかる.

7.01 MPM,コルドバ州ラ・カレラの村を一時占拠.

7月 MPMに誘拐されたアランブル元大統領,遺体となって発見される.

7月 都市ゲリラ,ブエノスアイレス,マルデルプラタ,サンタフェで公務員,政府ビルディングへの攻撃を実施.

7.29 トロツキスト組織労働者革命党(PRT),第5回大会で軍事組織の結成を決定.マリオ・ロベルト・サントゥーチョ,エンリケ・アロルド・ゴリアラン・メルロを指導者として人民革命軍(ERP)を創設.ツパマーロスの援助も受け,アルゼンチン最強のゲリラ組織に成長.ペロニスタ党の官僚主義に飽き足りない青年を集め,3千名の活動家を擁するにいたる.

8月末 MPM,前CGT書記長ホセ・アロンソを暗殺.この時点でのCGT書記長は金属労組出身のホセ・イグナシオ・ルッチ.アロンソはペロンと絶交状態にあった.

9 フィルメニッチを含むMPM幹部と警察のあいだで銃撃戦.MPM幹部二人が射殺される.

10.09 CGTによるゼネストが成功.

11 連邦警察のサンドバル副長官,ゲリラにより射殺される

11.22 アルゼンチン国民会議(ENA)結成.ペロン左派を中心に,非合法下の共産党も参加.

 

1971年 ラヌーセ政権と国民和解

3.20 コルドバ市,ゼネスト状態に入る(第二次コルドバソ).政府は軍の出動を決定するが,ラヌーセ陸軍司令官は出動を拒否.

3.23 レビングストン政権崩壊.民政移管をめざすラヌーセ政権が成立.ラヌーセは国民和解を訴えるアピールを発表.アルトゥーロ・モル・ロイグ内相,政党禁止令を解除.

9.02 政府,物価凍結と給料・退職金の引き上げを発表.事態の鎮静化を図る.CGTはこれを不満としてゼネストを指令.

10 軍部反ラヌーセ派によるクーデター失敗.

11月 全国で山猫ストがあいつぐ.都市ゲリラによる爆弾テロ,暗殺事件も引き続き頻発.

71 労働総同盟左派,労組間協議会(CNIS)を結成.CGTの急進化をめざす.

71 革命的共産党(PCR)の学生組織,大学左翼グループ連合,ブエノスアイレス大学を中心に3千の学生を結集.アルゼンチン大学連合(FUA)の主導権をにぎる.中国と決別し,キューバ路線をとる.カミロ・トレス部隊,第三世界宗教者運動など,カトリック左派や武装組織とも連係.

 

1972年 ペロンの帰国

1月末 ペロン派の正義党が合法化される.ペロンは,選挙で勝利を確実にするために,幅広い連合体を結成すべきであると強調.

4.28 軍政下に弾圧をはねかえし,飢えに反対するデモ決行.全国で三万人が参加.

6月 合法化後初の正義党の大会.ペロンの忠実な部下エクトル・カンポラ(元保守党員)が党首に選出される.

8.21 ERP指導者ロベルト・サントゥーチョ,パタゴニアのトレレウ市にあるアルミランテ・ファー海軍基地から脱獄に成功.仲間二人とともに大型旅客機をのっとり,チリに逃亡.

8.22 サントゥーチョの妻をふくむERPゲリラ13人,トレレウの海軍基地内で射殺される.ロベルトの脱獄に対する報復行動.事件の調査の中で三軍士官学校出身者の秘密拷問組織の存在が明らかになる.

10.17 ラヌーセ大統領,来年3月に総選挙を実施し,民政に復帰すると発表.経済の悪化,民政復帰への要求の高まりを前に,ペロン派との和解をめざす「国民的大合意」の道をとる.ペロン復権,ペロニスタ党の合法化と引き換えにみずからの大統領就任を支持するよう提案.

10 アルゼンチン・フィアット社社長オベルダン・サジュストロ,ERPに誘拐され殺害.ロサリオでは高級将校が暗殺され,ブエノスアイレスのシェラトンホテルでは爆弾テロ.

11.17 ペロン,3番目の夫人マリア・エステラ・マルティネス(愛称イサベル)をともないスペインより19年ぶりに帰国.ラヌーセとの協議ではラヌーセ支持を拒否.

11.20 ペロン,主要15政党,労組指導者ら50人と会談.民政復帰後の政局運営について協議.エクトル・カンポラを「解放正義戦線」(FREJULI)の大統領候補に指名.その後いったんスペインに戻る.

72 急進党大会,リカルド・バルビンを大統領候補に氏名.左派のラウル・リカルド・アルフォンシンは「革命と変革のための運動」を結成.急進党は事実上分裂.

 

1973年 ペロンの復活

2.24 ラヌーセ大統領がスペイン訪問.ペロンの評価をめぐりフランコと会談.

3.11 大統領選.49%を獲得したカンポラの圧勝に終わる.共産党も加わる革命的人民同盟は,軍部候補を上回る得票を獲得.議会選挙で共産党は2議席を獲得.

5.27 カンポラ,大統領に就任.経済相にはヘルベルトが就任.民政移管後初の国会開催.4年ぶりに戒厳令を解除.全会一致で共産党非合法化を決めた法令17401号を破棄.

5.28 カンポラ,ペロン自身の意を受け政治犯の釈放,キューバ,東ドイツ,北朝鮮との国交樹立.ベトナム人民に連帯の意を表明し,外資系7銀行の国有化を打出す.「大国主義支配に反対し,第三世界をめざす」と声明.「国家大協調路線」を提唱して民主的な手続きによる幅広い階層の利害調整をめざす.ペロン右派は新政権の急進性に反発.

6.15 カンポラ新大統領,スペインを公式訪問.ペロンを迎える.

6.20 ペロン元大統領,17年ぶりに帰国.エセイサ空港での歓迎集会で,警察の反テロ部隊,CGT派,都市ゲリラ部隊が入り乱れて武力衝突.多数の死傷者を出す.

6.21 ペロンの仲介でCGTとCGEのあいだに「社会協約」締結.今後2年間,食肉など生活物資の価格を凍結することを条件に賃上げをおこなわないことで合意.主要62組合の指導者からなるCGT代表に対する,一般労組の不満強まる.

7.13 カンポラの急進政策に警戒したペロンは早期退陣を求める.カンポラ辞任.ラウル・アルベルト・ラスティーリ下院議長を首班とする選挙管理内閣に移行.40日以内に大統領選挙が行なわれることになる.ラスティリはペロン側近のホセ・ロペス・レガの義息にあたる.

8.11 与党のの要請を受けたペロンは,大統領選への立候補を受諾.妻のイサベラが副大統領候補となる.

8 共産党,30年ぶりに大会開催.ペロン支持を決定.

9.23 大統領選挙実施.ペロンとイサベル夫人が61%の得票で圧勝.

9.25 CGT書記長ホセ・ルッチ,モントネロスにより暗殺される.軍の高級将校らもモントネーロスのテロの犠牲となる.

10.23 ペロン,大統領に就任.社会協約体制の復活と行き過ぎた開放経済の是正を政策の柱にすえる.内閣長官にはラスティリが就任.

11 CGTとCGEとの社会協約を基軸とする路線に,保守派の自由企業統合運動(ACIEL),アルゼンチン工業連盟(UIA),アルゼンチン農牧協会(SRA)などの反発強まる.畜産業者は食肉価格凍結に反発し,商品をヤミ市場に横流し.転倒から食肉が消失する事態をむかえる.

11 新外資法を公布.銀行,保健,マスコミ,農水産分野への外資進出を原則的に禁止.外資企業認可を議会の承認事項とする.これを機に外国からの投資は事実上完全停止.米国の軍事顧問団を追放し,自動車工場(米資本)に車のキューバへの輸出を命じる.

12 ヘルベルト経済相,経済再建3ヶ年計画を発表.①分配面を重視した賃金と価格統制による急速なインフレ収束,②経済再建における国家指導,統制の強化,③高度な工業化を主軸とする経済成長と統合的な工業化の推進,④外資規制の強化と導入に際しての主導権の確保を柱とする.

73 民政化にともない,武装闘争は一時衰退.PCR,革命至上主義に固執し学生大衆から遊離.FUAの選挙に破れ,その後衰退.ERPは第4インター(統一書記局派)と絶縁.カストロ主義の方向に踏みだす.

 

1974年 ペロンの死

2.12 ペロン大統領に対する暗殺計画が摘発される.

3.13 ペロン大統領,米国とフランスの軍事顧問団の引揚げを要求.

3 日本共産党12大会に出席した共産党アトス・ファバ執行委員,帰国後に自主独立の立場を非難しソ連を無条件に賛美する論文を発表.

4 ペロン,13%賃上げを承認すると同時に物価凍結も解除.協約体制の破綻.

5.01 ペロン,五月広場で開かれたメーデーで演説.モントネーロスを「未熟な愚か者」と非難.これに怒ったモントネーロスは,組合右派幹部や軍・警察への攻撃を強化.

5.10 アルゼンチンの政府代表団が訪ソ.共同声明でペロンの訪ソを謳う.

5月 聖職者カルロス・ムヒカが暗殺される.

6.12 ラスチリ内閣,経済破綻に責任をとる形で総辞職.

6.13 ペロン,ラステリの辞意を却下.

6.28 ペロン,病気のため辞任.

6.29 副大統領のイザベル・ペロン夫人が政権を代行することとなる.

7.01 ペロン死去.イザベル・マルティネス・デ・ペロンが大統領に昇格.ヘルバルド経済相は事実上解任.ERPは従来の都市ゲリラ闘争に加え,ツクマンにゲリラ基地を建設し2年間にわたりゲリラ活動を継続.

7月 前内相アルトゥーロ・モル・ロイグがゲリラの手により暗殺される.

9.26 イサベル大統領,ゲリラ取り締まりで新破防法を議会に提出.

9月 亡命中のチリのプラッツ将軍,秘密組織の手にかかり暗殺される.

11.01 連邦警察長官アルベルト・ビジャル,モントネロスにより暗殺される.これを機に警官・兵士からなる準軍事組織「アルゼンチン反共連盟」(Alianza Anticomunista Argentina=AAA)が結成される.主として夜間に市民活動家に対しテロを繰り返す.

 

1975年

1975年 イサベラ政権と政局混迷

1月 経済企画相セレスティノ・ロドリーゴ,ペソ切り下げと必需品,基礎サービス料金の引き上げを発表.この強硬策は「ロドリガソ」と呼ばれ,国民の強い反発を招く.年間物価上昇率は335%に達する.

5月末 政府軍,トゥクマン州のサトウキビ地帯でゲリラ掃討作戦を展開.

6.28 イサベラ大統領,オテロ労相とCGTとの100%賃上げ合意を拒否.オテロ労相が引責辞任.

6月 アルゼンチン最大の企業の御曹司ホルヘ・ボルン,モントネーロスにより誘拐.6千万ドルの身代金を払い解放される.豊富な軍資金を得たモントネーロスはさらに作戦を強化.

7.08 CGT,イサベラ大統領の妥協案を受けてゼネスト解除.

7.20 元ペロン側近ホセ・ロペス・ベガ(ロペシート),国を離れる.ベガは警察官からペロンのお抱え運転手となり,個人秘書にまで上り詰める.ペロン内閣では厚生大臣を務め,イサベルの首席顧問となっていた.一方で公金数百万ドルを横領し,また謀略組織「AAA」の黒幕となっていた.

8.01 イサベラ,ロカモラ内相とサビノ国防相の辞任を機に,ふたたび休養に入る.

8 カフィエロ,経済相に就任.適正利潤の確保を名目に,農産物などの価格統制がつぎつぎと撤廃,インフレ亢進を招く.

9.13 ルーデル上院議長が大統領職を代行.コルドバの労働者を先頭とするペロン左派は,賃金凍結策に抵抗して個別の団体交渉により賃上げをはかる.

10.16 イサベルがふたたび大統領職に復帰.実権はペロン派のなかでも極右のホセ・ロペス・レガ元社会福祉相が把握.社会政策をつぎつぎに放棄し右翼化.左派追い落としのためテロ組織アルゼンチン反共同盟(AAA)を組織,モントネーロスはこれに対抗して地下に潜行,ゲリラ闘争をふたたび活発化.両派によるテロの応酬となる.

11.03 イサベラ大統領,体調を崩し入院.辞任の意思はないと強調.

11.07 野党は,イサベラの無能ぶりに抗議し弾劾を要求.

11.26 イサベラ,病気療養を終え,1ヵ月ぶりに執務復帰.

11月 サンチアゴにてアルゼンチン、パラグアイ、ブラジル、ウルグアイ、ボリビア、チリの軍情報部の最高責任者による極秘会談.DINA長官のマヌエル・コントレラス大佐が議長を務める.「コンドル作戦」というコードネームをもつ南米6か国間の情報調整・安全保障システムの創設で合意.ブエノスアイレスにある「オルレッティ自動車会社」を秘密収容所とし,各国軍部の誘拐と移送とを企画・調整.またブエノスアイレスの「軍部機械整備学校」を情報センターとし,各国の軍情報関係者が常駐することとなる.

生存者の証言によれば、オルレッティには数百人が囚われ、出身国に移送された後、「失踪」している.ボリビアやウルグアイで両親とともに囚われた子供たちは、オルレッティに収容され、両親が殺害されたのち、アルゼンチン・パラグアイ・チリの軍人家族に引き渡されていった.

12.17 政府,大統領選を来年11月に実施すると発表.

12.20 イサベル,辞任要求を拒否,事態は解決に向かって動いているとの声明発表.

12月 空軍将軍オーランド・ヘスス・カペリーニ,反政府反乱を起こす.

12 ERP,モンテ・チンゴロ兵営を襲撃.これを最後に都市でのゲリラ活動は終焉.激しい弾圧の中で,ゲリラ活動家はほぼ半減する.

 

1976年 ビデラ軍事政権への移行

1.15 イサベラ,内閣総辞職を要求.ロブレド内相らを更迭.ロペス・レガを後任内相に据える.

2.18 イサベラ,次期選挙に立候補するつもりはないと言明.

3 イサベル,ロペス・レガ内相を更迭.「賃金,物価の180日間の凍結」を提案.評価をめぐりペロン派内紛.ミゲル金属労組委員長派とカラブロ・ブエノスアイレス知事派が武装衝突.

3.24 軍部クーデターによりイザベル・ペロン政権打倒.ホルヘ・ラファエル・ビデラ陸軍司令官を指導者とする.他にエミリオ・マセーラ海軍提督,オルランド・アゴスティ空将が軍事評議会を形成.

3.25 ペロン夫人,ホルヘ・タイアナ教育相らが逮捕.その後軍事政権の弾圧によりペロン派の政治家・労組指導者を次々と逮捕.3万人の行方不明者(デサパレシードス)をだす.この年のインフレ率は600%となる.

3.26 ビデラ将軍が軍事評議会議長に就任.三年間に限定して軍政をおこない,穏健保守路線を基本とすると声明.二人の民間人を含む9人の内閣評議会を結成.

3.30 ビデラ軍事評議会議長の就任演説.産業評議会(CGE),労働評議会(CGT)への軍の介入,スト権の停止を布告.革命的共産党,労働社会党など五つの極左政党を禁止.その他の政党については共産党もふくめ,党活動の停止のみにとどめたため,軍政に一定の幻想を与える.

4.2 ホセ・マルティネス・デ・オス経済相,「国家再編過程」と呼ばれる新経済計画を発表.過大評価されたペソ(plata dulce)を大幅減価.徹底したマネタリズムと緊縮経済をはかる.

6.23 アルゼンチン軍事評議会,イサベル・ペロン元大統領らの公職追放を発表.

7 軍部,左翼絶滅作戦を展開.「汚い戦争」(guerra sucia)と呼ばれるようになる.ERPの指導者マリオ・ロベルト・サントゥーチョ,軍により包囲され射殺.ツクマンのゲリラ基地も全滅.ゴリアランは国外逃亡.

8 ビデラ陸軍総司令官,大統領に就任.新外資法制定.その後工業振興法,技術移転法の改正などあいついで自由化と国営企業の民営化,国内企業保護政策の撤廃などを推進.ビデラの軍事評議会議長と陸軍総司令官いすわりに対し,海・空軍の反発.

9月 ラプラタ市で,バス料金値下げを要求してデモを行った高校生を,軍が弾圧.多くの生徒が誘拐され虐殺される.映画「ナイト・ペンシルズ」のモデル.

10.25 連邦裁判所,横領罪でイサベル・ペロン元大統領に有罪判決.

10 キッシンジャー国務長官,アルゼンチン軍政に全面的支持を与え,「議会が軍事援助を削減する前に“汚い戦争”を完了する」ように督励.(03年の文書公開で明らかになる)

11.04 アルゼンチン高裁,ペロン元大統領の詐欺容疑に無罪判決.

11.11 ビデラ大統領,チリ訪問.ピノチェト大統領と経済協力拡大で共同声明.反共抑圧体制への傾斜を強める.

11.22 外国為替業務,輸出入事業に関して自由化される.

12.06 アルゼンチン亡命中のゴラール元大統領が死亡.

 

1977年 

2.18 政府,ビデラ大統領の暗殺計画が未遂に終わったと発表.

4.13 「5月広場の母たち」14人による無言の抗議行動が始まる.カーター政権,人権外交に基づきアルゼンチンへの武器売却を禁止.

4月 平和運動家のアドルフォ・ペレス・エスキベル,アルゼンチン国内で逮捕.裁判のないまま14ヵ月間拘留.精神的・物理的な拷問を受ける.獄中でローマ法王から平和記念賞を受賞.

4月 「ラ・オピニオン」紙の編集委員ハコボ・ティメルマンが逮捕され,政治犯収容所で拷問・虐待を受ける.釈放後,ティメルマンは刑務所の無法ぶりを全面的に暴露.ティメルマンは元同僚のダビド・グライベル(モントネーロスの資金洗浄に関わったといわれる)と関係していたとの疑いをかけられる.

5.04 内務警察,ラヌーセ元大統領を汚職容疑で逮捕.

5月 チリの領有権を認めた国際司法裁の裁定に従い,係争中のビーグル海峡諸島の三つの島(Nueva,レノックス,ピクトン)についてチリの主権が認められる.

6月 世界銀行,外国資本の導入資金を調達するために,アルゼンチンの国立開発銀行に一億ドルのローンを承認する.

7 フィルメニッチら,メキシコにモントネーロスの事務所を開設.次いでニカラグアに潜入,ゲリラ戦士として活動継続.ERPのゴリアランもサンディニスタとともに戦闘に参加.

8月 ビデラ政権,ペロン政権時代に結ばれたソ連との通商・科学技術交流協定を発効させる.

77年秋 アルゼンチン海軍,フォークランド沖で軍事演習.英国のキャラハン労働党政府は,2隻の護衛艦,1隻のSSNで応ずるとともに,島の譲渡の方向で審議を再開.

77 「白い手」とよばれる各国の反共準軍事組織の連合,LA反共連盟(CAL)大会,アスンシオンで開催.ボリビアのウーゴ・バンセル大統領の提案による「バンセル・プラン」を採択.教会の進歩的勢力を迫害する共同行動をとることで一致.

77 CEPAL報告発表.「地主階級の比重は低下したが,テクノクラートと工業・金融大利益集団が権力を分有する傾向にあり,また多国籍企業の参加が増大している」

 

1978年

1月 政府,ビーグル海峡諸島の領有権に関する国際司法裁の裁定を拒否すると声明.両軍は衝突の直前までに至る。

4.24 検察当局,公金不正使用でイサベラ・ペロン元大統領に禁固6年を求刑.

5.03 改善しない経済情勢に対し,軍事評議会内部でもビデラへの反感強まる.ビデラ,軍事評議会議長と陸軍総司令官を辞任.大統領に専任することとなる.

6.25 アルゼンチンが,マラドーナらの活躍によりW杯サッカーで初優勝.

7.07 ビオラ陸軍参謀長,ビデラの後任として陸軍司令官に就任.

11月 ホセ・リボリオとマルタ・ゲルトルディスの夫妻,秘密組織「解放をめざすキリスト教徒」の会員としてエル・オリンポ収用所に捕らえられる.子供のクローディア(生後8ヶ月)は,警察の仲介でセフェリーノ・ランダ大佐に引き取られる.夫妻は拷問の末殺害されたものと思われる.

12月 スウェーデン系アルゼンチン人少女ダグマー・ハーゲリン,海軍大尉アルフレード・アスティスによって誘拐され,拷問の末殺される.アスティスの率いる部隊は,無防備の逮捕者に対する過度の虐待・殺害を繰り返し,恐れられていた.

 

1979年

3 モントネーロス,ナンバー2のフェルナンド・バカ・ナルバハ,ニカラグア国内で記者会見.マサヤの部隊に医療班を派遣している他,財政的援助も与えていると発表.

8.29 労働組合「グルポ25」が賃金統制に抗議して24時間ゼネスト.ブエノスアイレス地域では鉄道労働者の自然発生的なストライキ.政府は賃金統制を緩和.

9月 米州人権委員会の調査団がアルゼンチンを訪問.調査団は人権状況を改善するためしかるべき手段をとるよう要請するとともに,75年1月以来行方不明となった6千名のリストを手渡す.

9 空前のインフレ,150%に達する.メネンデス将軍による,軍事独裁反対の蜂起.失敗に終わる.軍政評議会メンバー入れ替わる.

11 ビデラ政権,新労働組合法を制定しCGTに対し解散命令.

12月 ブエノスアイレス・ヘラルド紙のロバート・コックス,度重なる死の脅迫を受け国外亡命.

 

1980年

1980年

2月 米国務省の国際人権白書,アルゼンチンにおける人権状況を厳しく批判.

6.05 ビデラ大統領,中国を公式訪問.

7 アルゼンチンとソ連とのあいだにトウモロコシ,大豆の輸出協定成立.武器購入の密約も買わす.

9 CAL年次総会,反体制派大量虐殺の実行者ソアレス将軍(アルゼンチン第1軍管区司令官)を会長にブエノスアイレスで開催.アルゼンチン,ボリビア,パラグアイ3国の大統領の他,各国軍事政権幹部が参加.アルゼンチンの弾圧の徹底ぶりをほめたたえ,その経験を中南米全域に広げていく方向で一致.イエズス会の中南米からの追放を決議,OASと国連の人権委員会,アムネスティ・インタナショナルをマルクス主義的と非難.

9 CGT,合法組織として再発足.銀行員スト,軍部に対し賃上げを認めさせる.

9 ウーゴ・サンチアゴに率いられたERPコマンド,パラグアイにおいてソモサを暗殺.

9 人権擁護組織「法学社会学研究センター」(CELS)に属する弁護士が,329名の政治囚のために人身保護令状を一括申請.裁判所はすべてのケースの申請を却下.

10.03 軍事評議会,次期大統領にビオラ退役陸軍大将を指名.ビデラは退任の時期を明確にせず.

10.13 アルゼンチンの画家で平和運動家のアドルフォ・ペレス・エスキベル,ノーベル平和賞を受賞.エスキベルは70年代はじめから,平和運動とラテンアメリカ各地の土地なし農民運動に取り組んだ.76年には祖国を追放され,エクアドルで逮捕された.77年にはアルゼンチンで逮捕され,拷問の後14ヶ月拘留された.

10月 付加価値税を導入.これにより不況とインフレにいっそう拍車がかかる.国内産業は崩壊し,対外債務が一気に拡大.

11月 サッチャー政権,島を割譲した上で「借り戻す」案を提起.リドレー国務長官が島民と折衝するが,拒否される.

12.24 政府,拘禁中のペロン元大統領を軍管理下から司法管理下に移すと発表.

 

1981年

1月 「自由競争防衛法」が公布される.企業間の価格協定に厳しい制限.

1月 輸入制限を目的とする二重為替相場システムが導入される.事実上のペソ切り下げ容認.

2.03 ペソの10%切り下げが発表される.数十万の人がドルとの両替に銀行に押しかけ,大パニックとなる.軍事独裁の下でスタグフレーションが進行.80年単年度の貿易赤字は25億ドルにのぼる.

2.04 連邦裁,イサベル・ペロン元大統領の一部罪状に無罪判決.

3.20 イサベル・ペロン前アルゼンチン大統領に禁固8年の判決.

3.29 軍事評議会,経済運営に失敗したビデラを解任.米国筋の信頼が厚いロベルト・エドワルド・ビオラ陸軍退役大将が,第38代大統領に就任,新内閣発足.民主勢力に対する弾圧はいよいよ苛酷となり,世界の非難を浴びる.

4月 ペソの下落に歯止めかからず.さらに25%切り下げ.

5.29 LAの人権擁護組織「平和と正義の会」,指導者の一人でノーベル平和相受賞者アドルフォ・ペレス・エスキベルにたいする脅迫を含む,一連の脅迫事件を告発.

6.30 英政府,防衛力見直し.フォークランドに対する恒常的艦船派遣は,英艦「エンデュランス」の退役とともに中止されることとなる.

6月 ペソ,さらに25%切り下げ.

7.06 ペロン夫人,連邦裁判所より仮出獄を許可される.

7.09 イサベル,アルゼンチンを出国しスペインに亡命.

10.15 5月広場で7つの人権団体がはじめて合同デモ.デモ隊は政府に「失踪した囚人の生還を求める請願」を提出.

10.17 陸軍総司令官レオポルド・フォルトナト・ガルチェリ中将,これらの事件は「終了」していると述べ,失踪者名簿の発表を拒否.

11.20 大統領府,病気療養中のロベルト・ビオラ大統領に代わりトマス・リエンド内相が暫定大統領に就任と発表.ガルチェリ陸軍司令官は,ビオラの政策を「余りにもポプリスタ的である」と非難.

81年12月

12.03 ビオラ大統領,心不全検査のため入院.

12.4 警察,共産党事務所を襲撃.19名を逮捕・拷問.

12.11 ガリチェリ陸軍司令官,海・空軍の支持を得てビオラを解任に追いこむ.

12.22 ガリチェリ,大統領に就任.フォークランド奪回計画を本格化.

12月 有名無実化した二重為替相場システムが廃止に追い込まれる.この年,物価上昇率は一気に600%に跳ね上がる.労働者の実質賃金は2割減少.

81 急進党のバルビン死去.アルフォンシンのもとに急進党の統一なる.アルフォンシンは人権会議の中心メンバーとして軍部批判の先頭にたつ.

81年 ハコボ・ティメルマン、「名前のない囚人、番号のない獄舎」を発表。ベストセラーとなる。ティメルマンは1971年にオピニョン紙を創刊。クーデター以後はデサパレシードスに対するキャンペーンを行った。1977年に逮捕され、拷問を受けたあと、1979年まで収監。その後市民権を奪われ、国外追放となった。

 

1982年 マルビナス戦争

1.12 アルゼンチン合同軍事委員会,マルビナス侵攻計画の作成作業を開始.ガルチェリは国民の不満をそらすためマルビナス進攻計画を進める.

1.24 軍事評議会のフォークランド進攻作戦が,ラ・プレンサ紙の一連の報道で明らかになる.

2.09 サッチャー首相,軍艦「エンデュランス」の退役を承認.

2.28 国連を舞台にした両国の折衝は不調に終わる.アルゼンチンはすべての調停案を拒否.

3.03 サッチャー,アルゼンチンの進攻作戦に備え,非常事態計画の準備を指示.

3.05 キャリントン外相は,「軍艦をパトロールのため派遣せよ」との現地の要請を拒否.

3.19 軍によって護衛されたアルゼンチン人スクラップ金属商ダビドフらが,南ジョージア島に上陸.英政府はアルゼンチンに対し抗議・警告するが反応なし.

3.20 アナヤ海軍提督,侵攻計画の発動を命じる.

3.22 フォークランド駐留の英艦「エンデュランス」,サウスジョージアのくず鉄労働者に対し撤去を求める.

3.25 アルゼンチン船「バイア・パライソ」号,軍服に身を固めた武装人員を乗せ,サウスジョージアに接岸.

3.26 軍事評議会軍事行動の開始を決定.英国防省は,軍艦なしでの対応は不可能とし,キャリントン外相に武力対応を思いとどまるよう警告.

3.28 アルゼンチンの侵入艦隊,出港しマルビナスに向かう.

3.29 サッチャーとキャリントン,英艦船の派遣に同意.

3.30 非合法下のCGT,大規模なデモを強行.

3.31 英情報部,アルゼンチン艦隊の一斉出動が侵攻開始の目的であることを察知.

 

82年4月 アルゼンチン軍の上陸

4.01 レーガン大統領,ガルティエリに上陸作戦を中止するよう求めるが,ガルティエリはこれを拒否.

4.02 アルゼンチン海軍上陸部隊,数千がマルビナス諸島を占領.英軍守備隊が散発的に抵抗するが,まもなくレックス・ハント知事は降伏.マルビナス(フォークランド)戦争はじまる.経済自由化の再強化により生じた200%のインフレという矛盾をそらすのが目的.

4.03 上陸部隊司令官マリオ・メネンデス将軍,マルビナス州知事を宣言.さらに別働隊がマルビナス東方1,600キロの南サンドウィッチ諸島を占領.

4.03 サッチャー,機動部隊の派遣を発表.

4.03 国連安保理,アルゼンチンの即時休戦と撤退を求める決議502号を採択.

4.04 ガルチエリ大統領,国連安保理決議を拒否と言明,フォークランド諸島防衛のため戦争も辞さない構え示す.マルビナス防衛のため兵1万を徴募すると発表.

4.04 英国は100隻の艦船を動員し,ポーツマスを出港.フォークランド奪還を目指す.キャリントン,外相を辞任.

4.05 レーガン米大統領,軍事衝突回避のため仲介の用意があると言明,事実上イギリスを支持する立場を明確にする.

4.06 ヘイグ米国務長官,両国駐米大使と会談.レーガン大統領,調停担当者としてブッシュ副大統領とヘイグ国務長官を任命.

4.07 英国,フォークランド周辺に200マイルの排他水域を設定.

4.08 ヘイグ米国務長官,ロンドンに到着.調停のためのシャトル外交を開始.

4.08 ガルチエリ大統領,フォークランド諸島を英艦隊が海上封鎖すれば戦闘を開始と警告.

4.10 ヘイグ米国務長官,ロンドンを発ち,そのままブエノスアイレスに向かう.EECは,アルゼンチンに対する通商制裁を承認する.

4.12 ヘイグ国務長官,ブエノスアイレスからロンドンに向かう.

4.17 戦争評議会,アセンション島で計画策定会議.機動艦隊司令官ジョン・フィールドハウス提督が議長を務める.

4.17 ヘイグ米国務長官,いったん米国に戻った後,ふたたびブエノスアイレスに向かう.

4.19 ヘイグ=ガルチェリ会談は最終的に決裂.ヘイグはワシントンに戻る.

4.20 レーガン米大統領,両国に重ねて自制を呼びかける.

4.20 英政府の「戦争内閣」,フォークランド島の奪還を命令.

4.23 ガルチエリ大統領,暫定共同統治案は検討できるが,「主権」は交渉外だとする基本的立場を確認.

4.23 英国外務省,アルゼンチン在住の英国人に国外退去を勧告.

4.23 ジョージア島を占拠したアルゼンチン占領軍のアルフレド・アスティス将軍,戦線を離脱し英国軍に投降.戦艦プリマス艦上で降伏文書に署名.

4.25 英海兵隊特殊部隊,ジョージア島を奪取.フォルトゥアナ・グラシエルの上陸を試みたSASは敗退.

4.30 米政府,フォークランド諸島紛争の調停工作を断念.NSC,アルゼンチンに対し武器援助停止,信用供与停止などの制裁措置を決定.英国支持の立場を明確にする.いっぽうで,「敵対行為の即時停止」を含む新和平提案(7項目)を,ベラウンデ・ペルー大統領に委託.

4.30 英海軍,フォークランド諸島周辺の戦闘海域に到達.排他地域を宣言し封鎖を開始.

 

82年5月 アルゼンチン,敗北に続く敗北

5.01 英軍のバルカン爆撃機,ハリアー海上戦闘機,ポート・スタンレー(プエルト・アルヘンティーノ)の飛行場を襲撃.待機中のアルゼンチン戦闘機3機が破壊される.

5.01 アルゼンチンのミラージュ機,機動艦隊を攻撃.アルゼンチン艦隊は,英機動艦隊に対して挟撃体制に入る.

5.01 ガルチエリ大統領,テレビ・ラジオで「勝利まで戦い抜こう」と徹底抗戦を呼びかける.

5.02 ベラウンデ大統領,両国に新和平提案を提示.

5.02 アルゼンチン巡洋艦「ベルグラノ」が,イギリス艦「コンカラー」と戦闘海域外で海上戦.潜水艦の魚雷攻撃により撃沈される.乗組員400人が死亡.以後,海軍は作戦から手を引き,一切の軍事行動を拒否.

5.03 ベルグラノ撃沈の情報を受けたガリチェリ,新和平提案を拒否.

5.04 英新外相フラウシス・ピム,ワシントンを訪れヘイグと会談.

5.04 アルゼンチン空軍のスーパー・エタンダール戦闘機,エグゾセ空対地ミサイルにより英国の駆逐艦シェフィールドを撃沈.甲板上の乗組員20人が死亡.

5.04 ペルーのベラウンデ大統領,両政府に対しあらためて新和平提案をおこなう.

5.07 国連において和平交渉開始.

5.09 英海軍,島に対する海空からの攻撃を開始.

5.11 アルゼンチンの輸送船イスラ・デ・ロス・エスタドス号,英艦により撃沈される.

5.12 クイーン・エリザベス二世号,兵員を乗せ出港.

5.14 英軍,スモールストーン島へ夜襲.アルゼンチンの航空機11機を破壊.

5.18 サッチャー首相,デクエヤルの提示した国連和解案を拒否.

5.20 デクエヤル,和平交渉の挫折を明らかにする.

5.21 英軍,東フォークランド島の北岸サン・カルロスに上陸作戦.橋頭堡の確保に成功.

5.22 英地上部隊,サンカルロスから南進を開始.ダーウィン,グース・グリーンを確保.

5.22 英軍艦アーデント,アルゼンチンの空襲で撃沈される.

5.22 ペルー政府,ベラウンデ大統領の提案をアルゼンチンが受諾したと発表.

5.23 英軍艦アンテロープ,不発弾が爆発し沈没.アルゼンチン側は連日10機近くの航空機が破壊され,急速に戦闘力を喪失.

5.25 英軍艦コベントリー,アルゼンチンのスカイホーク機の空襲により19人の死者を出す.上陸作戦用の輸送ヘリを搭載した英輸送艦「アトランティック」号,エグゾセによる攻撃で大破・沈没.

5.25 ガルチエリ大統領,アルゼンチンの立場を支持するカストロ首相に,感謝の書簡を送ったことを明らかにする.

5.25 英上陸部隊とアルゼンチン軍が,グースグリーンで地上戦.最初で最大の戦闘となる.英軍は第二空挺大隊長ジョーンズ大佐を

含む17人,アルゼンチン側は約200人が戦死.戦闘は英国側の勝利に終わり,アルゼンチン軍1,400人が投降.

5.26 英軍,制空権を確保.ポート・スタンレーへの空襲を強化.

5.29 英艦載機ハリヤーがアルゼンチン艦を襲う.

5.30 ガルチエリ大統領,陸軍記念日の演説.「必要なら“世界の他の地域”からの支援を要請することもありうる」と言明.

5.30 英第45特殊部隊,ダグラス居留地を確保.第三空挺大隊は,地上戦の末ティール湾を確保.ポート・スタンレーから30キロの地点まで迫る.

5.31 英軍,ポート・スタンレーを見下ろすケント山を確保.首都包囲体制に入る.

 

82年6月 アルゼンチンの降伏

6.01 6つの旅団規模の増援部隊がサンカルロス沖に到着.

6.02 ガルチエリ大統領,「いかなる国の援助も受け入れる」と述べ,ソ連の援助受け入れを示唆.

6.04 国連安保理開催.パナマとスペインの停戦決議に対し,英国は拒否権を発動.

6.06 ベルサイユ・サミット,フォークランド紛争で英国支持の立場を確認.

6.08 アルゼンチン空軍のA-4スカイホーク機,フィッツロイに進出した英軍を攻撃.揚陸艦ギャラハド,トリストラムが被弾.英兵50人が死亡.

6.08 デクエヤル国連事務総長,和平提案.和平交渉開始の条件としてアルゼンチン軍の一方的撤退を要求.ガリチェリはこの提案を拒否.

6.12 第三空挺大隊,ロンドン(Longdon)山への攻撃を開始.アルゼンチン側守備隊の反撃により戦闘は膠着.

6.13 ロンドン山,白兵戦の末陥落.アルゼンチン側の死者47人,英国側は23人が死亡.第45特殊部隊,艦砲射撃の支援の下にハリエット山を奪取.トゥー・シスターズも英軍の手に落ちる.作戦に参加していた英巡洋艦グラマーガンにエグゾセ・ミサイルの攻撃.13人が死亡.

6.14 英軍,タンブルダウン山とワイアレス・リッジを確保.アルゼンチン軍はジェレミー・ムーア少将に対し降伏.一連の戦いで英国側9人,アルゼンチン側34人が死亡.

6.14 英軍,ポート・スタンレーに突入.マリオ・メネンデス司令官と守備隊9,800人が,事実上の無条件降伏.

6.15 ガルチエリ大統領,テレビとラジオで「戦闘終結」を正式に宣言.主権はあくまでもわれわれにあると述べ,英国が再び植民地化の動きをみせるなら戦いをやめないと主張.

6.17 ガルチエリ大統領,敗戦の責任とり大統領職と陸軍総司令官職をともに辞任.大統領職は内相のサンジャン将軍が暫定代行,陸軍総司令官にはニコライデス将軍.

6.18 新たな軍事評議会が発足.戦後処理と後継大統領問題を協議.外務省は全面停止実現のため英軍の撤退と経済制裁の撤回を強調.その実現のため国連の介入を要請.

6.20 英軍,南サンドイッチ島を再占領.英政府は停戦を宣言.アルゼンチンは,72日間の戦闘で655名の死者を出し惨敗.以後,軍政は急速に自己崩壊.英国側にも236人の死者を出す.

6.22 陸軍の指名でレイナルド・ベニート・ビニョネ(Bignone)退役陸軍中将が大統領に就任.海・空軍は三軍の一致原則違反として軍事評議会から引き上げ.

6.24 ビニョーネ次期大統領,施政方針を説明. 7月1日以降,政治活動禁止令を解除し,1984年に民政移管を実現すると述べる.

6.25 レックス・ハント,ポート・スタンレーでふたたび知事の執務を開始.

 

82年7月 アルゼンチン大統領の交代

7.01 ビニョーネ,大統領に就任.対外債務は400億ドル,インフレは年間210%に達する.

7.12 レーガン米大統領,アルゼンチン経済制裁措置の全面解除を発表.ただし武器輸出停止は解かず.

8 陸軍,84年度前半の民政移管を前提に政党活動の全面自由化を決定.

9 海・空軍,ガリチェリ体制の復活は不可能とみて軍事評議会に復帰.

9月 ホルヘ・ウェーベ蔵相,トロントで国際通貨基金(IMF)と経済安定化計画について交渉.IMFはアルゼンチンの負債が債務転換が必要であると指摘.

11.01 二重為替相場制度が最終的に破棄される.

11 クーデター以来最大のゼネスト,10万人の市民デモなどがあいつぎ,即時民政移管をもとめる声がたかまる.

12.01 ビニョーネ大統領,民政移管を来年12月に繰り上げると発表.