2006年5月

FMLN党のカリスマ的存在

シャフィク・アンダルの死を悼むエルサルバドルの民衆

 

はじめに

不勉強で、ついこのあいだシャフィク・アンダルの死を知りました。ニカラグア=エルサルバドル世代にとっては、オルテガと並ぶ幹部です。もそもそと、インターネットを引っ掻き回して、幾つかの記事を拾ってきました。私なりの追悼文です。

アンダルの死と葬儀の模様

報道記事を総合すると、死亡の経過は以下のようになっています。

長いあいだFMLNの指導者を務めたホルヘ・シャフィク・アンダルが、1月24日なくなった。アンダルはボリビア大統領エボ・モラレスの就任式に出席した後、エルサルバドルに戻ったところだった。彼はコマラパ空港に降り立ち、歩いていたところ突然ショックを起こし倒れた。彼は救急隊員の蘇生を受けながらヘリでラ・ムヘール病院に運ばれたが、午後5時ころ死亡を宣告された。75歳だった。

FMLNは記者会見を開き、この党の歴史的指導者の悲劇的な死を発表した。そして彼の名誉をたたえ3日間の喪に服すよう呼びかけた。FMLNとサルバドル社会運動の活動家は、ただちに病院の周りやサンサルバドル市内の党本部に集まり始めた。アンダルと彼の闘いへの賞賛が流れ出した。アンダルは12年間にわたり、米国に支援されたサルバドル軍事政権と戦い続けたのである。

アンダルと行動をともにし、空港でも一緒だったFMLN書記長ミルトン・メンデスはこう語る。「彼は常に変革のために闘う人だった。シャフィクはそのすべてをサルバドルの民衆にささげた」

長年にわたるシャフィクの同志であるレオネル・ゴンサレス政治委員は、電話インタビューで、「シャフィク・アンダルの死はサルバドル国民全てにとって損失である」と話した。

「人民社会ブロック」の指導者グアダルーペ・エラソは、「我々はシャフィクを模範として闘いを続けてきた。彼はサルバドル人の心の中に生き続けるだろう」と語った。(人民社会ブロックはFMLNの大衆組織、一般にはエル・ブロケと呼ばれる)

ラテンアメリカのすべての左翼指導者が弔意を表明した。ウーゴ・チャベス、エボ・モラレス、そしてフィデル。

その夜、遺体はCapillas  Memoriales  Funeral  Parlorという葬儀場に安置された。FMLN の人々ばかりではなく、男女・年齢を問わず多くの人々が集まった。

AFP 特派員は報道する。「数百のサルバドル人が、FMLNの象徴的指導者に最後のお別れをするために、長い列を作った。彼らは花束と赤旗を持って次々と棺の周りをめぐった」

人々はFMLN本部にも集まった。「昨夜 オフィスは、人々でいっぱいであった。人民を指導してきたシャフィクへの感謝と連帯の声がとどろいた」

“Schafik Handal, Presente!”

この間に党外からの反応も相次いだ。2004年にアンダルと大統領のポストをめぐり激しく闘ったトニー・サカ現大統領は、アンダルの家族に弔意を表した。「私は、国に悲しみの瞬間がある、と思う」とサカは言った。「我々は、大統領府からその悲しみに加わる」

エルサルバドル社会のすべての分野の人々がシャフィクを称え栄誉を与えた。国会は全会一致で3日間の国民服喪を宣言した。アレーナ(与党)は「アンダルに敬意を示すため、葬儀の期間、来たるべき国会・地方議会選挙のキャンペーンを一時中断する」と発表した。

翌日朝、アンダルの遺骸は国会に運ばれ、礼拝堂に安置された。すべての政党の議員がエルサルバドル左翼の首領に敬意を払った。彼はそこで議員を務め、FMLN議員団の団長の席を担い続けた。次の日は彼が学んだ国立サンサルバドル自治大学法学部の講堂へ移された。

金曜日の午後からは棺は、サンサルバドル大聖堂前のヘラルド・バリオス広場に移された。彼はそこで毎週金曜日にきては、ひとびとに国会の動きを報告する演説を行っていた。(大聖堂は軍政時代にデモ隊の集団虐殺があったことで有名。映画「サルバドル」の冒頭場面。ヘラルド・バリオスは19世紀後半、グアテマラの干渉と戦った英雄)

弔問に訪れた中米大学 ( UCA )の学長、ホセマリア・トヘイラ学長は、「アンダルは考え方が首尾一貫していた。とくに重要なことは、政治家として模範的な生き方をしてきた人であることだ。残念ながら通常は政治家はそうではない」と語った。

環境活動家のリカルド・ナバロはこう語る。「私は Schafik がここ 50 年間の最も重要な政治家であったと考える、彼は、どんな犠牲を払っても戦うという決意を持つ、めったにない特性を持つ政治家であった」

29日の日曜日、シャフィクの遺体がいよいよ埋葬される日が来た。葬送デモには、当局の調べで10万人を越える人々が参加した。BBC特派員によると、これはエルサルバドルで過去25年のあいだに最大の集会参加者である。

赤いシャツを着た元ゲリラの群れや市民・労動者が、サン・サルバドルの市街を行進し、大聖堂の葬儀ミサに参加した。バリオス中央広場やそれにつながる通りは民衆で埋め尽くされた。

葬儀にはベネズエラ、キューバ、パナマ、ブラジルの代表、それにニカラグアのダニエル・オルテガFSLN議長が参列した。

参加者はアンダルの棺に従い、革命的なスローガンを叫び、ラテンアメリカの象徴的革命指導者シャフィク・アンダルに別れを告げた。

ミサを執り行ったサンサルバドル副大司教ロサ・チャベスは語った。「アンダルは20世紀のエル・サルバドルで最も重要な政治家の一人だ。アンダルの闘いはエルサルバドルの人々が自らの運命を自ら決める権利を獲得するためのものだった。彼を民主主義の闘士として、祖国の皆におぼえておいてほしいと願った」

ミサの後、遺体は、1932年に殺害された農民指導者アグスティン・ファラブンド・マルティが眠るイルストレス墓地に運ばれた。

 

シャフィク・アンダルの生涯

ホルヘ・シャフィク・アンダル(Jorge Schafik Handal)は、1930年10月13日にエルサルバドル東部の町ウスルタンで生まれた。フィデル・カストロより3歳ほど若いが、ほぼ同時代を生きてきた人物である。

彼の父はパレスチナのベツレヘムで生まれたパレスチナ人である。キリスト(救世主)の生まれた地から救世主(エルサルバドル)の地に移り住んだことになる。

パレスチナ人は、19 世紀末に南北アメリカに移住し始めた。1915年、彼の父は、無一文でフランスのマルセーユの港からアメリカ行きの船に忍び込んだ。まもなく見つけられてしまったが、コックのアシスタントとして働いてエルサルバドルまでたどり着くことができた。そこには叔父が一足先に来て働いていた。

彼はスペイン語を話すこともできないままエルサルバドルに住み着くことになった。息子アンダルは独裁者マシミリアノ・エルナンデス・マルティネス(Maximiliano Hernandez Martinez)の政権のもとで、一家の期待を担いながら幼少期を送ることとなる。

1944年、有名な“brazos caidos”のストライキが開始された。このストライキの中で、マルティネス独裁政権が打倒されたのである。当時14歳のアンダルはこの闘いに参加する中で政治活動を始めた。(ラテンアメリカのニュースで、"declared a sit-down strike (huelga de brazos caídos)"という表現があり、座り込みストライキのことをスペイン語でこう言うようだ)

後に自治大学法学部に進んだアンダルは、まもなくサルバドル共産党の指導者の一人となった。その先に待ち構えていたものは、非合法の地下活動と相次ぐ逮捕、そして22才に始まる長期の国外亡命の生活だった。

1980年にゲリラ闘争が始まるまでのあいだ、彼は何度か国外追放され、そのたびにひそかに国に舞い戻って活動を続けた。1069年からは党の書記長に就任している。彼の前任書記長だったカルピオは、このとき路線の対立から党を離れ、ゲリラ組織ファラブンド・マルチ人民解放軍(FPL)を結成している。

シャフィクの兄弟ホセ・オルランドは、「父親は彼の理想に同意しなかった。そして彼を説得して政治を止めさせようとした」と語っている。「しかし」とオルランドは付け加えた。「当局が息子との関係を断絶するよう要求したとき、父はきっぱりと拒絶した」

父は塩の小売商を営んでいたが、当局の嫌がらせのために、自前の店を持つことはできず、ファミリーストアで商品を売らなければならなかった。

1981年、キューバやニカラグアの支援を受けてゲリラの連合組織FMLNが結成された。エルサルバドルに戻ったアンダルはFMLNの蜂起に指導者の一人として加わり、共産党部隊を率いた。

それはきわめて厳しい戦いだった。エルサルバドル革命史をご参照いただきたい。

彼の兄弟のアントニオは、1982 年に警察に誘拐されて殺された。親族によれば、彼は、「自分は政治に携わっていないから安全である、」と考えていたようである。しかしそんな理由が通るような世の中ではなかった。アンダルの近親の残りは、殺害の脅迫を受けて既に海外へ逃げていた。1992 年まで彼らは祖国に戻らなかった。

FMLNの勇敢で粘り強い戦いは死の軍団、右翼軍事政権、そして米国の干渉を跳ね返し、1992年の平和協定をもたらした。アンダルはこの協定の署名者の一人だった。

平和協定を機に、FMLNはゲリラ勢力から左翼政党に転換をとげた。ゲリラは軍服を背広と交換し、合法的政治活動の世界に乗り出した。アンダルは党政治委員会のメンバーとして、また国会議員として、この転換に指導的役割を演じた。(この過程については国民政党に向け前進するFMLNをご参照いただきたい)

2004年の大統領選挙をめぐるいくつかの議論

老シャフィク・アンダルは2004年の大統領選挙にFMLN候補として出馬した。このときすでに74歳である。結果はかなりの大差でARENAのサカ候補に敗れ去った。

この敗北をめぐり、FMLN内外からかなりの批判が浴びせられた。

党内の若手からは、アンダルと党執行部が非妥協的で、教条的で、旧式であると指摘された。彼は共産主義の理想への忠誠を維持したが、このことについても「革命ではなく改革を」という声が上げられた。アンダルがいなくなったFMLNが改革政党へと変身する可能性もある。

批判は路線の問題だけではなく、党内の民主主義の問題にもおよんだ。古いゲリラのリーダーたちは、とかく民主主義的なプロセスを軽視するというものである。FMLNは、その党員に対して党の路線を厳密に守ることを要求しており、意見の相違や表現の変化などの余地をほとんど許さない傾向がある。これに対しては執行部もかなり深刻に自己批判しているようである。

個別の選挙戦術においても、FMLN指導部による「正統」的かつ拙劣な作戦指導、なによりも候補者としてのシャフィクがあまりにもマイナス・イメージだということなど広範な批判がある。

しかし当然のことながら、これらの意見には反論もある。ここではある米国人政治学者の意見を紹介したい。

まずアンダルに対して元テロリストの不良外人、時代遅れの共産主義者というネガティブ・キャンペーンが徹底して張られたが、アンダルは日本でいえば東大法学部に学んだ本来なら超エリートであり、エリアス・アントニオ・サカ現大統領とも因縁浅からぬ縁故関係にある人物である。(サカ大統領の祖父はアンダルの父とほぼ同じころパレスチナから移住し、ウスルタンに居を構えた。アンダルの叔父がサカの名付け親という説もある)

また、「アンダルが勝ったなら、サルバドル人移住者を米国から追い出す」という米政府の露骨な脅迫も、FMLN陣営にとって強烈なボディー・ブローとなった。

FMLNそのものについても、短期間でゲリラ軍隊から新しいエルサルバドルをめざす政治勢力へと変貌することに成功したという側面を、より積極的に評価すべきではないかという意見がある。この転換においてアンダルが果たした役割はきわめて大きいものがある。

戦争の記憶はあまりにも新しく、FMLNの指導部や活動家たちは、路線変更を行うための姿勢転換を行うには、まだあまりにもラジカルである。それはARENAをふくめ社会全体に共通していえることであろう。評論家的な一般論ではなく、今日のエルサルバドルのおかれている歴史的・社会的状況に合わせ具体的な評価を行わなければならない。

FMLNとアンダルは、奇をてらわずに社会正義のための公約を掲げ、政策による闘いを挑んだ。その奮闘においてシャフィクを高く賞賛すべきではないだろうか。

FMLNはいくつかの誤りを犯した。しかしレーガン、ブッシュ、クリントン、ブッシュをいだいてきたみずからの国を見て、それらをシャフィクと比較するなら、答えはおのずから明らかだろう。

彼は熟練した国際主義者で、タフで断固とした指導者として、生涯のすべてをエルサルバドルの革命闘争にささげた人物として記憶されるだろう。

 

追補 ラテンアメリカのアラブ移民 (「ラテンアメリカから見ると」より引用)

ラテンアメリカのアラブ移民は、主としてレバノン、パレスチナ、シリアの三か国出身者で、なかでもレバノンが最大である。

 

アラブ人の多くは、19世紀から20世紀にかけて、オスマントルコ帝国の崩壊後の混乱を避け、この地にやってきた。現在ではほぼ全ての国にアラブ系コミュニティを作っており、トータルでは1800万人に達する。

最大の移民国はブラジルで、現在のアラブ系人口は1200万人とされる。 この他アルゼンチンに250万人、チリに40万人、ベネズエラに30万人が移住している。アルゼンチンはシリアから、チリはパレスチナからの移住者が多いといわれる。

アラブ人は容易にラテンアメリカの地に溶け込み、その一員となっている。そして学者、作家、商人、芸術家、音楽家、政治家など広範囲に活躍している。(シャキーラを見よ。とくに彼女のおへそを!)