第三章 第二次独立戦争  

A.独立運動の再生  

 

(1)十年戦争後の社会変化
 

・奴隷解放と米国資本の進出

 オリエンテの地主層は戦争に疲弊しつぎつぎと没落していきます.いっぽう中西部では十年にわたる戦争にもかかわらず砂糖生産は着実に増加していました.戦争終結に伴い外国からの投資もふくめ砂糖生産は再びブームを迎えます.

 この時期の特徴は生産規模が一気に拡大したことです.年産1万トン以上の「セントラール」が各地に誕生し市場を支配するようになります.大規模化のテコとなったのは,皮肉なことに奴隷解放でした.

 奴隷労働なしに生産を続けるためには,これを中国人苦力(クーリー)や農業労働者に切り換え,不足した労働力を機械化により補うことがもとめられました.そのためには当座のつなぎだけでも相当の資金を必要とします.この資金が用意できない地主層は倒産するかセントラルの下請け(コロノ)になるしか道は残されていません.砂糖工場は独立戦争をはさむ40年間で2千から4百に減少してしまいます.

 さらにもうひとつの事情があります.かつての主要な輸出先であったヨーロッパ各国は,このころ保護主義政策を強めまるようになります.砂糖についても自国の甜菜生産に切り換え外貨流出を抑えようとはかります.この結果,ヨーロッパの砂糖生産は世界生産量の53%を占めるに至ります.キューバからヨーロッパへの砂糖輸出はゼロとなり,本家のスペイン向け輸出も全体の6%にまで減少してしまいます.キューバの輸出先の87%が米国向けとなりました.このようなドラスティックな変化のなかで,旧来の販路に頼り米国へのアクセスを持てずにいた生産者は没落していくことになりました.

 米国のキューバ進出を一気に加速したのが90年のマッキンレイ法です.これはキューバ産砂糖に対する関税を廃止し見返りに貿易拡充を狙ったものです.マッキンレイ法成立後キューバからの砂糖輸出は1.5倍に増加しますが,キューバはむしろ貧しくなります.輸入業務を独占したハベマイアーら米国精糖会社が,キューバの足元を見て徹底的に買い叩いたからです.

 スペインもこの状況をただ黙ってみていたわけではありません.米国の進出をすこしでも抑えようと94年には米西通商条約を破棄する挙に出ます.そして関税障壁をかさあげし他国からの輸入を事実上禁止してしまいます.

 しかしスペイン本国がすでに世界の経済に完全にたちおくれてしまったいま,それは風邪を引いた患者が冷水マサツをやるようなものです.かえって病気をこじらせ肺炎になってしまうのがオチです.本国が肺炎になれば植民地は瀕死の状態におちいらざるをえません.生活のほとんどを輸入に頼らざるをえないキューバにとって,本国以外からの輸入を禁止されることは事実上死ねというにひとしい仕打ちです.

 米国はスペインに対する報復措置を発動しました.キューバ砂糖に対する特恵条項を廃止し40%の粗糖関税を復活したのです.このため百万トンを誇った砂糖輸出は激減します.当時世界第3位の生産量を誇ったコーヒー産業も壊滅,これに代わりエルサルバドル,ニカラグアなどが新興生産国となっていきます.
 

・キューバ労働運動のあけぼの

 ちょっと時代を元に戻します.奴隷制が廃止された後,砂糖ブームに煽られて多くの移民労働者が渡ってきました.逆に没落した農民達が続々と都市に流入してきました.キューバは奴隷の国から労働者の国へと変貌を遂げていきます.

 初期の労働運動のなかで有名なのがハバナの縫製工の争議です.彼らは賃金切り下げに対抗してストを打ちますが,会社はスト破りのため米国の縫製工を雇い入れようとします.これを知ったニューヨークの縫製工はハバナの労働者に連帯して港にピケを張ります.そしてスト破りの一団が出航するのを阻止しました.国際連帯の輝かしい1ページです.

 こうした労働運動を先導したのはタバコ労働者でした.彼らは87年にはハバナ・タバコ労働者協会を結成.その機関紙「生産者」はヨーロッパ伝来のサンディカリスムをひろげ,全労働者の中心的機関紙となっていきます.
 

(2)ホセ・マルティの歩み

・ホセ・マルティと十年戦争

 スペインの失政に対する怨嗟の声は町といわず村といわず島中に満ちあふれます.そこへ,あの独立戦争をふたたび始めようという呼びかけが疾風のように駆け抜けます.呼びかけの主はホセ・マルティ,そしてかれの指導するキューバ革命党です.ここでホセ・マルティの話をするために,さらに時代をさかのぼります.

 70年3月第一次独立戦争の真っ最中のことです.17才の青年ホセは独立派の秘密政治結社に加入,「パトリア・リブレ」紙に独立を訴える詩や記事を投稿する一方地下活動にも携わるようになります.それはやがて公安の知るところとなります.彼は強制労働6年の刑を受けピノス島に収監されます.(1)

 翌年ホセは刑の執行を停止されます.これには軍に勤める父親の尽力と彼の才能を惜しむ有力者のコネが効いたようです .スペインに渡ったホセは現地のサラゴサ大学に入学.74年学位取得後はパリを経由してメキシコにわたります.当時のメキシコは長年にわたるフランスとの戦争を終え,レフォルマ(改革)政治がその頂点にありました.自由と民族主義の洗礼を浴びたホセは,やがて詩人兼ジャーナリストとして一家を成すにいたります.

 77年,レフォルマが終焉をつげメキシコはディアスの独裁制に移行していきます.これを嫌ったホセは,望郷の念,断ちがたく,メキシコを離れいったんハバナに潜入します.しかし独立戦争の最中に彼の生活できる条件などありません.結局ハバナでの生活をあきらめグアテマラに移り住みます.当時すでに彼の名声は嚇々たるものでした.自由主義を標榜するグアテマラ政府は彼を憲法の起草委員に指名します. (2)

 グアテマラ憲法草案をかき上げた頃,十年戦争が終わりを告げます.終戦にともないホセにも恩赦が適応されます.十年ぶりに帰国したホセはハバナのエコール・ノルマール教授に就任,反自治主義の論陣をはります.これに目をつけた革命委員会の国内ビューロー代表グアルベルト・ゴメスは,ホセに委員会への参加を呼びかけました.ホセは一も二もなく承諾,革命委員会は彼を中央委員会副議長兼ハバナ代表に指名します.
 

・ホセの十年戦争総括

 小戦争が始まるとまもなく革命委員会へも弾圧の手が伸びてきました.公然組織の代表であるホセは真っ先にねらわれます.9月に逮捕されたホセは,簡単な取り調べのあと国外追放となります.確信犯で再犯ですからふつうなら厳罰に処せられるべきところですが,すでにLAを代表する知識人となっていたホセには本国もひるんだのでしょうか.

 ホセはただちに革命委員会の本拠ニューヨークに移り委員会の仕事に没頭します.そしてカリスト・ガルシア将軍がキューバに出たあとは後任議長となり,革命推進のキャンペーンに全力を傾けました.

 80年9月反乱は終了しました.革命委員会も事実上解散状態となります.彼はあらためてジャーナリスト兼詩人として活動を開始しました.彼の考えることはただひとつ,独立運動を絶やすことなく再生,発展させることでした.そのなかで彼の考えは徐々に変化をとげていきます.

 それは第一に革命の課題に関してです.スペインの植民地という性格は依然変わらないものの,砂糖産業の急激な発展により貧富の差の拡大がすすみました.期待とは反対に奴隷解放後,黒人の生活はかえって苦しくなります.奴隷主によって保障されていた最低限の衣食住は,わずかの賃金と引き換えに失われました.

 農園の生産性が向上し,規模が大きくなればなるほど,そこで必要とされる労働者の数はトータルとしては減っていきます.農村には失業者があふれ,砂糖キビの収穫のためのわずかな期間(サフラ)を除けば,1年のほとんどを飢えて暮らさなければならないことになりました.

 来たるべき革命はこの黒人貧困層の苦境を救う任務をどうしても持たなくてはなりません.ホセはニューヨークでの最初の講演「黒人問題について」で,十年戦争以来の黒人の変わりないたたかいを評価します.

 一方において富裕農園主達の尊大な態度に不快感を表明,「人は特定の人種に属しているというだけで,特権を与えられるべきものではない.人間であることは白人であることよりも,またニグロであることよりもはるかに大きなことである」と述べます.彼は肌の色に関係なく全てのキューバ人が独立のため団結するよう訴えるとともに,黒人とともに黒人のためにたたかうことを「革命の義務」とします.

 まさにこの点でホセはこれまでの革命の路線を大きく乗り越えたのです.このあと彼は徐々に地主層と距離をおくようになります.
 

・親米路線との訣別

 第二には革命の民族主義的性格の問題です.米国の対外進出の原動力になっている,資本主義の発展を,ホセはその心臓部であるニューヨークでまのあたりにします.到着直後こそ「ここでは誰もが自由に呼吸できる.ここではまず”自由”なのだ.それは人生の基本であり盾であり真理なのだ」と米国の自由に心酔するのですが,その裏に隠された野蛮で冷酷な搾取と貧困にすぐ気づきます.そしてこの国こそ将来にわたってキューバとLAを苦しめる元凶となることを見抜きます.

 第三には,ホセ自身どのくらい理解していたのかは不明ですが,労働者階級の登場が上げられます.第一次独立戦争の時は闘争のマージナルな部分でしかなかった都市の無産者階級が,労働者として組織されるようになりました.さらにヨーロッパからの移民が大量に流入してきて都市労働者の人口に占める割合も高くなります.

1 ハバナ港を左手に見ながらしばらくいくと,やがて中央駅の大きな建物が眼に入ってきます.まるでヨーロッパの映画に出てくるような渋い魅力の中央駅,その駅前の広場を右に入ると角から二軒目,瀟洒な二階建ての一軒家があります.そこがホセの生家でした.
いまでこそこのあたりはハバナの中心部からはややはずれたところですが,当時はまさしくハバナの都心です.つまり豊かではないが都心でそれなりの家には住めるという社会的地位が彼の出自です.伝記ではひたすら彼が生活も苦しい下層階級の出身であったと強調していますが,それはリンカーンの丸太小屋伝説とおなじデンでしょう.
ただし生まれた家に住んでいたのはほんのわずかのあいだで,その後成人するまでにハバナ市内を5ヶ所ほど転々としています.なにか特別の事情があったとは思います.

2 時の大統領の令嬢とのロマンスが背景にあったという説もあります.こういう下世話な話,私は嫌いではありません.
 

 

(3)キューバ革命党の結成へ

・84年運動の失敗

 たたかいの性格の変化を象徴的にしめしたのが,ゴメス,マセオの両将軍が組織した「84年運動」の失敗です.かれらはフロリダで遠征軍をつのり独立戦争の再現を狙います.

 小戦争は十年戦争の二人の英雄ゴメスとマセオが参加しないまま戦われました.もしこのふたりが指導していたら,という声が起こるのは当然です.十年戦争のあと沈黙を守っていたゴメスはこの声に押されるようにして立ち上がりました.84年3月,彼は再び戦闘を開始する決意を明らかにするとともに,米国内の支持者に対しゴメス自らを司令官に任命し20万ドルの軍資金を託すよう訴えます.マセオも喜んでこの運動に参加してきます.

 しかし当初賛同した支持者も財布の紐を明ける段になると渋りはじめました.ニューオリンズではカンパを拒否され,ニューヨークでも20万ドルの寄付を約束していた富豪が,状況が変化したとして支払いを拒否します.

 彼らにとってもっとも意外だったのはホセの批判だったでしょう.10月にゴメスと会見したホセは「戦争は軍人のみがおこなうべきものではなく,その目的と改革プランを人民に提起し支持を受けることなしには成功しない」と批判します.すなわち政党結成の方向でした.

 こうして戦争の組織的性格,いわば「非民主的な組織の民主的あり方」をめぐり,両者のあいだの深い溝が明らかになりました.ゴメスの独断専行を警戒するホセは「われわれは軍事独裁国家を実現するために独立戦争を闘うのではない」とまで極言しますが,将軍たちはその批判を受け入れようとはしませんでした.ホセをたんなる日和見主義者のインテリとしてしか見ていなかったのでしょう.

 ゴメスとマセオはその後も募金活動を続け準備を整えますが,実施の直前アジトが官憲に襲われ武器弾薬が没収されてしまいます.ここで当初の一斉上陸作戦は段階作戦に切り替えられます.まずマセオに上陸させ状況を打開した後,ゴメスの本隊が進攻するという計画です.

 85年12月,キングストンのマセオは「オリエンテの同志と戦士へ」との宣言を発し,いよいよ進攻というところまで漕ぎ着けます.しかしこれからが誤算の連続でした.翌年1月武器を積んだ輸送船がニューヨークを出港しますが,手違いからニューヨークに引き返してしまいます.さらに7月には別の船がキングストンに到着しますが.摘発を恐れた船長が積荷を投棄し逃亡してしまいます.

 事態はもはや絶望的です.8月には軍民幹部がキングストンに結集し革命準備を再開することを決議しますが,基金はすでに募集不能となっていました.さらに悪いことには,もはや作戦続行は不可能と主張するマセオに対し,ゴメスが越権行為と非難しはじめたのです.あげくの果てゴメスは「キューバ人はもう革命などという言葉を聞きたくなくなったようだ」と捨てぜりふを残し,計画の終焉を宣言します.

 またもゴメスの悪い癖が出たなという感じです.それにしても「歴史は繰り返す,二度目は喜劇として」といわれますが笑えない喜劇でした.民衆の確たる支持もなしに過去の栄光に頼って一発勝負にかける,という失敗のためのすべての条件を備えたこの作戦は,「70年代闘争」のスタイルに終止符を打つ役割を演じたといえます.

 マセオもその後独立運動から遠ざかりパナマに移住.運河会社の労働者のための住宅建設事業を興します.
 

・キューバ独立を目指す党の創設

 いまや第二次独立戦争をになう人々が明らかになってきました.今度はハバナや国外に在住する知識人や小ブルジョアジーが,都市労働者や黒人を中心とする農村労働者の支持を背景に闘争をになう構成に変化しました.それらの動きの中心に位置しつねに運動を組織し続けたのがホセだったのです.

 ゴメスの「敗北宣言」から1年経った87年10月,ホセはニューヨークに会議を召集し,来るべき革命についての議論を交わします.この会議でホセは・民主的,・大衆的,・統一的,・反差別,・反併合主義の革命5原則を提示,おおかたの支持を得ます.さすがなのはゴメスとマセオです.ともに過去の行きがかりを捨て決議の受入れを表明します.

 このあとしばらくホセはニューヨークの独立派組織の強化に力を注ぎます.黒人児童の教育を行う教育同盟を育成し,キューバ人移民が絡む労働争議にも積極的にかかわって行きました.彼の独立をめざす戦略が何処にあったのかがうかがえます.

 91年,ホセはいよいよ本格的に革命組織の結成に乗り出します.まず11月末にタンパのキューバ人革命クラブを訪問し組織統合を訴えます.ホセの演説を熱狂的に支持した人々は,キューバ人の団結を訴えるタンパ宣言をあげました.

 ホセは今度はキーウエストをおとずれました.キーウェストは住民のほとんどがキューバ人,市長もキューバ人という米国最大のキューバ人租界です.同行したタンパの代表を交え現地組織との会談が三日にわたり続きます.こうして年明け早々には,キューバ革命党の設立と武装蜂起を基本とする暫定原則が承認されます.ここに再度キューバ独立をめざす組織が確立することとなりました.

 米国で文民中心に革命の組織が進むことについて,国内のベテランの中には不快感を表明するものも出ましたが,ゴメスが「いまこそその時である.時間を失ってはならない」と檄を飛ばすことで,これらの不満を解消しました.

 4月全米各地のキューバ人クラブは全会一致で「キューバ革命党原則」を承認,ホセを書記長に選出します.党は反帝独立と大衆民主主義を掲げ,カリブ諸島や中米の亡命キューバ人にも組織を拡大していきます.
 
 

・北の巨人との対決:革命党の思想

 この間ホセは革命党の組織にばかり没頭していたわけではありません.90年8月から翌年にかけて,米国内で第1回米州会議が開かれます.会議を主催した米国の最大の狙いは「米州関税同盟」構想にありました.

 当時すでに米国と中南米諸国のあいだには圧倒的な力の差がありましたが,このころから米国は欧州列強の世界分割に対抗して西半球の覇権と経済支配を狙い始めました.そのテコとなったのが「米州関税同盟」構想でした.今でいえばNAFTAのようなものです.

 ウルグアイ政府に頼まれ,その駐米領事として会議に参加したホセは,関税同盟に秘められた米国の狙いを暴露し,ラテンアメリカの主権擁護の旗手として活躍しました.むしろ彼の名を不滅にしているのはこちらのほうだといってもいいくらいです.2

 ホセの真意は「われらのアメリカ」という著書のなかに示されています.彼はLAを「我らのアメリカ」と呼び「北のもうひとつのアメリカ」と区別します.そして北アメリカのLA進出を帝国主義と規定,「われらのアメリカは,野蛮で狂暴でわれわれを軽べつしている北のアメリカに併合されようとしている」と警鐘を乱打します.

 ここにおいて,反帝の課題が反植民地の課題と結合して理解されるようになります.百年後の今日米国の提案したNAFTA構想がLA諸国に幻想をあたえているのを見ると,ホセの警告がいちだんと今日性を帯びて理解されます.

 最後にホセは詩人らしく次のように結びます.「私はこの怪物の体内に住んでいるから彼らの腹の内はよくわかる.そして私の手には石投げ鞭がある.ダビデの石投げ鞭が…」
 

・マセオのキューバ入りと追放

 ホセが革命党を組織しているあいだ,不屈の「青銅の巨人」マセオはどうしていたでしょうか.決して惰眠をむさぼっていたわけではありません.スペイン政府の一定の和らぎを利用して革命を再び起こすため,大胆にもキューバに入ったのです.

 名目は母グラハレスの遺産処分ということでした.ときの総督サラマンカはみずからの政治的安定を宣伝するため旧敵マセオの一時帰国を許可したのです.

 90年4月,マセオはハバナに到着します.宿舎となったホテル・イングラテーラには,反乱軍のベテランや闘争再開を願う青年たち,社会主義者,労働運動や黒人運動の指導者などが次々に訪れました.マセオもたんに客を迎えるだけではありません.ハバナ周辺の各所,ピナル・デルリオと足を延ばしました.こうして恭順を装いながら10月決起の作戦を組織しはじめます.

 7月,各地での活動を終えたマセオがついにサンチアゴ入りしました.まるで凱旋将軍を迎えるような歓迎ぶりです.ここでもマセオは独立戦争のベテランを次々と召集しました.呼びかけに応えて集まったのはギジェルモ・モンカダ,キンティン・バンデラス,フロール・クロンベトなど「不敗の軍団」の面々です.

 しかしこの計画は密告により発覚してしまいました.マセオは国外追放となり,作戦は挫折します.ちなみにこの事件は「マンガン屋の平和」と呼ばれています.米国系のマンガン会社社長が密告したことから名付けられたものです.

 なおマセオはこの旅行中注目すべき発言をしています.「もしキューバが米国に併合されるようなら私はスペインの側に立って闘う」と述べたのです.おそらくホセなどの影響も受けてのことでしょうが,国外で活動しただけマセオの視野が広がっていることが感じられます.


   

 2 ホセは生涯を通じてウルグアイなど行ったこともありません.その彼がどうして領事を勤められるのかちょっと不思議ですが,実際にはよくあったことなのです.中米の小国などはまとめて一人のエージェントに領事を委嘱することもありました.ホセも米州会議のあとパラグアイとアルゼンチンからも領事を委嘱されています.この手のエージェントで悪名高いのがパナマ「独立」時の特使フスト・バリアです.彼は独立政府の承認なしに,パナマ運河を米国に売り渡す契約を結んでしまいました.その結果百年を経た今もパナマ人民は米軍に苦しめられているのです.


 
 
  B.第二次独立戦争  

(1)開戦に向けて

・武装蜂起の準備

 93年1月,革命党はゴメスを最高司令官に指名しました.ホセは自らサントドミンゴにおもむきゴメスと会談,ゴメスは要請を快諾します. マセオも参加を求められましたが,彼は一旦は参加を躊躇します.クロンベトらとコスタリカではじめた開拓事業が大成功をおさめたためです.なかなかのやり手です.

 蜂起の日は近しと国の内外で期待が強まります.なかには暴発行動もありました.オルギンではわずか30人で蜂起を起こし,たちまち鎮圧されてしまいました.「革命は生きているぞ」と知らせる意味はあったかも知れません.しかしホセはこれを挑発的行動として厳しく批判しました.それまでの幾多の反乱の失敗から「先陣争いは無意味であり,党の指導に基づく組織的な行動が求められている」ことを痛感していたからです.

 ホセはさらに戦列を強化するため,マセオ説得に乗り出しました.コスタリカのマセオを訪れたホセは1週間にわたりマセオを説得し続けます.これではマセオが断れるはずがありません.ついに彼も参戦を決意します.

 この間にハバナをふくめ各地の司令官が次々に決定,軍の組織系統が確立していきます.注目すべきは,軍を支えるものとして党の組織が重視され,各地に党組織を育成する方針が打ち出されたことです.革命党の国内指導はグアルベルト・ゴメスが担当することになりました.ホセが緒戦で死んでしまったことから,実際にはあまり成功したとはいえませんが,貴重な経験です.
 

・フェルナンディナ作戦

 蜂起の日は94年2月と決められましたが,ここで足並みの乱れが生じました.カマグエイの反乱勢力が準備不足を訴えたためです.最高司令官ゴメスは蜂起をサフラが終わるまで延期したのですが,これが飛んだ食わせものでした.結局サフラが終わったあとカマグエイの勢力は戦線を離脱してしまうのです.

 これ以上の政治工作は無意味と判断したゴメスは,カマグエイ抜きの侵攻作戦に切り替えました.これがフェルナンディナ作戦です.(3) 三隻の快速艇が準備され,フロリダからはロロフ,サンチェスら800名が,コスタリカからはマセオ,クロンベトら200名が,最後にサントドミンゴからはゴメスが乗り込むことになっていました.

 ところがこの作戦もまた流産の憂き目にあってしまいました.作戦を知ったスペイン政府は米国に抗議,これを受けた米国政府は,三隻のヨットを捜索し武器を押収してしまいます.これで三年間の努力で集めた5万8千ドルが水泡に帰しました.

 しかしこれでへこたれてはいられません.84年計画の二の舞です.ホセは押収物資を回収するためただちに南部の労働者から5千ドルを追加徴収,ゴメスもサントドミンゴのユーロウ大統領から2千ドルの借款に成功します.

 しかしこのときマセオの胸にはバラグアの抗議の敗北,84年計画の挫折の思い出がよぎります.彼の経験からすれば,はじめから失敗を覚悟で大義のため戦うのでない限り,1万ドル足らずの軍資金で戦闘を始めるのは無意味でした.彼の私心のない革命への誠意を知るだけに,その気持ちも痛いほど分かります.

 しかし彼は,革命を待ち望む民衆の力がこれまでと比べものにならないほど高揚していること,そして何よりも,その情熱がホセの下にしっかりと統合されていること,を視野の内に入れることが出来ませんでした.そこに当時のマセオの限界がありました.結局マセオは司令官を外され,ホセの信頼あついクロンベトがコスタリカ・チームの司令官となります.
 

・バイレ蜂起と反乱開始

 1月末ホセは戦闘開始を決断,開戦の期日については現地のグアルベルト・ゴメスに委ねることにし,ゴメスの待つサントドミンゴに向かいます.ニューヨークに残されたフンタの運営をまかされたのは,元反乱政府の第三代大統領エストラーダでした.開戦のタイミングをまかされたグアルベルトは,各地の司令官と接触したうえ2月24日を開戦日と決定しました.

 その2月24日,真っ先に反乱ののろしを上げたのはバイレのサトゥルニーノ・ローラ,この日バイレは守護聖人をたてまつるカルナバルでした.かれは「独立か死か」を迫る「バイレの叫び」をあげます.ここに4年半にわたる第二次独立戦争が開始されました.4

 時を同じくしてモンカダはマヤリで,ホセ・マセオはグアンタナモで,ほかオリエンテ各地で数千が決起したたといわれます.しかしこれらの蜂起はいずれも短期間のうちに鎮圧され,残党は山に逃げ込むことになります.

 西部での反乱はもっと悲惨でした.十年戦争の教訓を踏まえ,西部での力強い反乱が不可欠と見た革命党は,サンギリー将軍を送り込み部隊の編成に取り掛かりました.しかし権力のおひざ元での活動は困難を極め,蜂起に至ることなく壊滅してしまいます.

 オリエンテの反乱を横目に見ながら対岸のエスパニョーラ島モンテクリスティで準備を重ねたホセとゴメスは,3月25日モンテ・クリスティ宣言を発表します.その内容は単にキューバ解放ばかりでなく,ラテンアメリカ全体の解放と繁栄を視野においたきわめて格調の高いものでした.


 

3 フェルナンディナは進攻部隊の出撃基地だったフロリダ州東北部の港町の名に由来しています.キューバを発見したコロンブスが名付けた美称がフェルナンディナでしたが,作戦名の由来はそれとは関係なくもっと即物的なものでした.

4 95年は第二次独立戦争開始百周年にあたります.こういう時代でなければもっと盛大に記念祭がおこなわれていたことでしょう.バイレの博物館を訪れたときはちょうど改装工事の真っ最中でした.といってもペンキの塗り替え程度のものでしたが….
意外だったのは,10日後に百周年を控えているという浮き浮きした感じがほとんどなかったことです.街に看板一つあるわけでもなし,今はみんなそれどころではなく食うのに精一杯なのかもしれません.「もっとも革命的な町」を期待して行った私にはなんとなく不満が残りました.

 
 

(2)反乱軍の全土展開

・ホセ,ゴメス,マセオの上陸

 いっぽう蜂起の知らせを聞いたマセオは,革命の決意に卒然目覚めました.そしてクロンベトの副官としてコスタリカ軍団を組織します.バハマに渡った一行は,米副領事ファリントンの援助を受け,13トンのスクーナー船「名誉号」を入手.嵐にまぎれてバラコア付近の海岸に近づきます.

 4月1日深夜,マセオ兄弟,クロンベトら15人が二つのボートに分乗し上陸しました.一行はそのまま森林地帯に入り,何日間かを歩き通しました.そしてやがて独立派の住民と遭遇します.

 スペイン軍捜索部隊が接近したため,マセオ,弟マセオ,クロンベトの三班に分かれ行進を続けましたが,残念ながらクロンベトは発見され殺されてしまいました.

 8日になってようようのこと,現地で蜂起したヘスス・ラビの部隊との合流を果たしました.マセオはオリエンテ全州の司令権をみずからが掌握したと布告,全てのキューバ人に武器をもって立ち上がるよう呼びかけます.この呼びかけに応え,たちまちのうちに6千人が参加したといいます.

 まもなくホセ,ゴメスら6人を乗せたボートもカホバボ近くに上陸しました.このときホセはゴメスから反乱軍少将の称号を受けています.写真で見ると,ホセはほとんど虚弱といっていいくらいのやせた小男,戦闘が勤まるようには思えません.何も敢えて直接戦闘に参加しなくてもいいのにと思いますが,彼なりの意地だったのでしょう.

 ホセらの上陸を知ったマセオは,グアンタナモにホセ・マセオの部隊を送りました.4月24日,ホセとゴメスらはホセ・マセオの部隊数百人と合流.5月4日にはホセ,ゴメス,アントニオ・マセオの三人がサンチアゴ北方のメホラナ精糖工場で会見します. (1)

 三者会談ではホセが最高指導者,ゴメスが総司令官,マセオがオリエンテ州司令官となることで合意しました.また秋に制憲議会を召集することも決定されました.

 実はここでホセとマセオのあいだにちょっとした確執がありました.ホセは軍民指導者の会議を開催しこれを元に政府を組織すること,軍事指導者は選挙によって選ばれるべきこと,要するに戦闘中においても文民優位を貫くよう強調します.その主張の根っこにあるのは軍人独裁への危機感です.彼がめざすのは近代的な民主主義国家です.しかし軍人が優位の政治体制では独立達成後独裁国家に移行しかねません.

 いっぽうマセオは,戦争勝利までは軍事評議会が全権を掌握すべしと主張します.文民の優柔不断ぶりによって何度も苦い汁を飲まされているからです.この論争は革命運動には不可避的につきまとうものです.そのときどきの状況により,具体的に柔軟に解決して行くしかありません.何よりもマセオにとって尊敬すべきホセの主張です.結局三者が分担協力しあって戦争を勝利に導くことで合意に達しました.

(1) マセオは6千の兵を迎え,部隊編成の真っ最中でした.このため,当初ホセらとの会見を渋ったといいます. 

・早すぎたホセ・マルティの戦死

 メホラナ合意からわずか2週間,ホセがあっけない死を遂げます.
  この日反乱軍はドス・リオスまで進出してここに陣を張りました.翌5月19日早朝スペイン軍とのあいだで遭遇戦が始まります.ホセは「危ないから決して前線に出るな」というゴメスの戒めをやぶり,馬に乗り前線に飛び出しました.そこに待ち伏せしたスペイン兵は格好の獲物とばかり射撃を浴びせます.ホセはたまらず馬上から転落,そのまま帰らぬ人となりました.享年43才でした.5

 思わぬ獲物にびっくりしたスペイン軍は遺体をサンチアゴまで運び,ホセ・マルティその人であることを確認します.そして「反乱の首謀者死亡」と発表します.ホセの墓がサンチアゴ市内にあるのもそのためです.6

 当初マセオはホセらとは距離を置きながら,オリエンテでの軍の編成を急ぎます.ちょうどその頃あの老カンポスが,ふたたびキューバ総督として戻ってきました.マセオは「十年戦争の犠牲者を忘れるな.恥知らずなカンポスが,またも甘言を弄しているが信用するな」と檄を飛ばします.

 5月12日にはスペイン軍のあいだに初の大規模な衝突がありました.マセオ軍は敵の連隊長を戦死させるなど大きな損害を与えます.こうして6月末までに,オリエンテで18連隊2千2百の兵を編成するに至ります.

 将軍たちは7月10日反乱軍会議を開催.ゴメス,マセオ,その後キューバ入りしたカリスト・ガルシアをふくめ全員が,戦闘続行の意志を固めます.マセオはオリエンテ,ゴメスはカマグエイで作戦を展開することとなりました.議会はゴメス総司令官の名で収穫作業をやめるよう呼びかけます.

 はやくもその2日後,マセオは華々しい戦果を挙げます.ちょうどその時カンポス総督がオリエンテを視察中でした.マセオはまさにこのカンポスの部隊を襲撃したのです.マンサニーヨ近郊のペラレホ草原でこの闘いは始まりました.反乱軍にはかつてセスペデスの副官を務めたマソー将軍の勢力が,スペイン軍からはサントルシデス(Santolcides)将軍が助勢に入ります.

 5時間にわたる白兵戦が展開されました.この闘いでサントルシデス将軍が戦死.マバイ河畔まで追いつめられたスペイン軍とカンポスは.軍装を投げ捨てかろうじて川を渡り,バヤモに逃げ込む始末です.あと一歩でカンポスをとり逃したマセオのなんと悔しがったことか.
 

・マセオの本土縦断作戦

 7月24日にはラスビリャスへロロフ,サンチェスの部隊が上陸,やがて中部,東部一帯に反乱軍の旗がたなびくことになりました.一方スペイン本国政府もあらたに1万の兵を増派し,いっさいの反乱を許さない構えです.

 こうなると長期戦の覚悟をしなければなりません.それまで時期尚早として「共和国政府」樹立に消極的だったマセオも態度を変えます.ゴメス宛に近く「オリエンテの2万五千の武装した人民,その21の連隊を代表して制憲会議へ出席する5人の代議員」を発表すると通知します.

 9月16日,アグラモンテの戦死したゆかりの地ヒマグアユで,制憲議会が開催されました.十年戦争の時の第二代大統領シスネロスが大統領に,マソが副大統領に,ロロフが軍事長官に,ニューヨーク在住のエストラーダが対外代表に指名されます.

 議会はマセオの強い要求をいれ,軍事作戦への不干渉で合意します.そしてゴメス念願の中西部侵攻作戦実行を決定します.指揮をとるのはゴメス将軍,その先峯をつとめるのがマセオ将軍という布陣です.ゴメス軍はラスビリャス州サンタクララ付近まで進出し,ロロフらの部隊と合流します.

 マセオは17年前,断固として戦闘続行を宣言した思い出の地バラグアに兵を集めます.騎兵1500,歩兵700からなる軍勢は10月22日にバラグアを出発,1カ月後にはゴメス軍とともにトローチャをわたります.破竹の勢いというのはこういうことをいうのでしょう.スペイン軍はサンタクララ西方のマル・ティエンポで反乱軍を迎えうちますが,あっけなく撃破されてしまいます.

 翌年初め,ベラレホ,カリメテ,コリセオのたたかいでスペイン軍を連覇した反乱軍は,ついにハバナ州に侵入しました.反乱軍はここで二手に分かれます.ゴメス軍はハバナ州で敵と対峙しながら焦土作戦を展開することになります.マセオ軍はさらに西進,ピナル・デル・リオ州入りし,22日にはキューバ島西端の街マントゥアに達しました.マントゥアでは街をあげてマセオを歓迎します.ピナル州の若者千名が反乱軍への参加を希望し押し寄せます.ここに西部進攻作戦は完了しました.

 ころあいを見たゴメスは,首都ハバナの包囲を狙うランサデーラ作戦を発動します.不慣れな土地と熱帯病の蔓延で士気のあがらないスペイン軍は,都市部のみをかろうじて維持するのみです.首都ハバナも深刻な食糧危機に陥ります.
 

・スペイン政府の反撃

 この間,スペイン政府の姿勢はどうだったのでしょうか.スペイン本国では自由党と保守党が政権を分け合っていました.第二次独立戦争の開始時は自由党が政権を支配し,キューバ維持を前提としつつ比較的穏やかな政策を続けていました.しかし植民地支配を維持しようという点では頑迷そのものです.

  キューバの危機にあたり自由党政権は崩壊し,はるかに強烈な反動政権が登場しました.カノバス新首相は「最後の一人まで,そして最後のペセタ(円)までも闘う」と宣言します.そして兵力を飛躍的に増強し,軟弱なカンポスに代えて,勇猛をもって鳴るバレリアーノ・ウェイレル将軍を派遣します. (1)

(1) ウェイレルはカナリア諸島でドイツ系移民の子として生まれた.軍人としてさまざまな戦功をあげテネリフェ侯に列せられていた.

 2月,ハバナに赴任したウェイレルは,真っ先に独立派運動家の大量処刑を命じます.こうして市民に恐怖心を植えつけた後,手勢二万を率いハバナ包囲を突破,マタンサス,ラスビリャスを抜き,一気にカマグエイまで進撃します.

 勢いに乗ったウェイレルは,当面の敵をマセオと定めます.三月に入ると,みずからピナル州に進出します.ピナルでのマセオにはオリエンテにおけるほどの力はありませんでした.住民が必ずしも反乱軍を支持しているわけでもなく,地理にも不案内ななかでマセオ軍は苦戦を迫られます.

 いったん雨期に入って攻撃はゆるんだものの,6月にはいると今度は6個師団,4つの砲兵隊からなる掃討部隊がピナル州に進出してきます.この攻撃によりブラマレスからシエラ・ルビにかけての反乱軍基地は徹底的に破壊されました.反乱軍のディアス,バンデラス,デルガドなどの将軍が戦死しました.マセオも重傷を負いかろうじて隠れ家に逃げ込む始末です.

 とりあえず闘いの主導権を奪回したスペイン軍は,ゲリラを根絶するため都市における市民弾圧と農村における戦略村作戦を開始しました.各地に集団収容所が設置され40万人が隔離収容されます.収容といっても,その内容はアウシュビッツ並みでした.ハバナ州だけで10万人が収容されその半数以上が飢餓と疫病で死亡したといわれます. (7)

 状況は厳しさを増しました.ウェイレルは自治主義党にも弾圧をくわえます.サヤスら党幹部の一部は逃れて反乱軍に参加します.ラスビリャスにまで後退したゴメス軍に,さらに追撃の手が伸びます.ゴメスは西部戦線を一時放棄してまでもマセオに帰投するべく要請します.

 マセオにとっても,スペイン軍に攻めまくられるだけの状況を突破するために,どうしても東部としっかりした連絡を取る必要がありました.

 総大将ゴメスとの関係もギクシャクしてきました.ゴメスが弟ホセ・マセオを差し置いてカリスト・ガルシアをオリエンテ州司令官に指名したことが原因です.マセオは『これでは十年戦争時の肩書き主義の再現だ』とゴメスを非難します.

 その弟ホセ・マセオが,8月にはオルギン近くで戦死してしまいました.反乱軍のおひざ元すらも風雲急を告げる事態となります.ここはいったんオリエンテに戻り,ゴメスとの意思統一も図ったうえで,捲土重来を帰すのが賢明というものです.

 11月,今度はウェイレルが自ら軍を率いピナルに進出します.5個師団,砲兵6部隊,プリンシペ師団の騎兵400などを合わせて6千という軍勢です.緒戦となるシエラ・デ・ルビの戦いで,マセオ軍は敵の攻勢を何とかくい止めますが,もはやこのままでは座して死を待つばかりの状況となります.マセオは残留部隊を分散させ,ゲリラ戦に徹するよう指令します.そして敵の包囲を突破し,長駆オリエンテを目指すべく出発します.

 12月5日,マセオは14人の仲間とともに小舟で防禦線(Linea)を突破,ピナルからハバナ州に潜入しました.このとき,不死身の戦士にも最後の日がやって来ました.マリアナオ近郊プンタ・ブラーバの秘密拠点に達したマセオを,敵兵が待ちかまえていたのです.夜襲にあったマセオは逃亡をはかりますが,ついに敵弾に倒れます.ゴメスの息子で腹心のフランシスコは,遺体の傍らで自ら命を絶ちました.8日のことです.

 ゴメス軍はさらに東部に撤退しながら戦線を建て直します.勢いに乗るウェイレルは4万の兵を投入し掃討作戦に乗り出しました.わずか4千のゴメス軍は必死にとどまります.こうして3カ月にわたる激戦が,ラスビリャスを舞台に繰り広げられました.

 5月,ついにゴメスは主力の防衛に成功します.ウェイレルはいったん掃討作戦を断念しました.この間にオリエンテのカリスト・ガルシアはヒグアニとラス・トゥナスの攻略に成功します. この他マセオの遺臣キンティン・バンデラスがマタンサスで抵抗を続けます.

 こうして97年半ばには,両者が第一次独立戦争時とほぼ同様の勢力範囲を維持しながら,膠着状態に移行します.
 

・ヤヤ議会とレフォルマ作戦

 戦線が膠着すればそれだけスペイン側は不利になります.当初こそ戦略村作戦は成果を上げたものの,やがて村そのものが反乱軍の拠点と化していきます.戦略村の実態が明らかになるにつれ国際的に,とくに米国内でウェイレルに対する憤激が高まっていきます.

 ウェイレルにとって最大の打撃となったのは,彼を送り込んだ反動派の首魁カノバスが暗殺されたことです.犯人はカタロニアのアナーキストとされますが,一説にはキューバ人に雇われた刺客だともいわれています.

 カノバスに代わってスペイン首相に就任したのは,改革主義者との宥和政策を採るサガスタ元首相でした.折から米国内に高まった収容所政策への怒りに配慮したサガスタは,ウェイレルの更迭を決定.ラモン・ブランコ・イ・エレーナス将軍を後任に据えました.

 このような状況を背景に反乱軍は再度攻勢に出ます.そのきっかけとなるのが,ラスビリャス州ヤヤで開かれた反乱軍議会です.ここでは独立を前提としながらも,スペイン側の名誉も重んじた柔軟な和解案を提示します.同時に,ゴメスの立案になるラスビリャス制圧のためのレフォルマ作戦も承認されます. (1)

 レフォルマ作戦は,総督の交代時期を狙って97年11月に開始され,それまでの劣勢を一気に盛り返しました.シエンフエゴス,サンタクララなど都市部を除くラスビリャスの主要部分が反乱軍の手に陥ちました.カリスト・ガルシア指揮のオリエンテ軍はギサの町を確保しバヤモに迫ります.

 いいぽう,あらたに着任したブランコ将軍は,まずハバナの改良主義者と組んで自治政府を「再建」,反乱軍との和平交渉をめざします. ブランコの新提案はキューバを直轄県とし, 98年3月に選挙を行うというものでした.

 ここで読者のみなさんに思い出していただきたいのは,30年前のボルンタリオによるビジャヌエバ劇場襲撃事件です.あのときも自治推進派の総督が出した改革案に対して,純粋スペイン党に属する武装集団が暴動を引き起こし,改革案を台無しにしてしまいました.そのハバナで,頑迷な反動主義者が,またもやブランコ排斥の暴動を開始したのです.

 ハバナの実権を握るスペイン人右派に対し,総督や「自治政府」はまったく無力でした.キューバ国内における妥協路線は隘路に陥り,スペインは完全な手詰まりに陥りました.ゴメス将軍は,ここぞとばかり自治主義者のグループに反スペインの共同努力を呼びかけます.

(1) 

 5 ドス・リオスとは二つの川という意味.シエラマエストラに源を発し北上してきたコントラマエストラ川がここでカウト川本流と合します.カウト川はここで大きく向きを変え西に向かいます.ここで緩やかな起伏を持つ平原地帯は終わりを告げ,それから先は見渡す限りまっ平らな沖積平野がひろがっていきます.当時はここが森林地帯と平原との境界でした.あらゆる意味で攻防の要点です.乾季の終りとあって水量は決して多くはありませんが,キューバ第一の堂々たる川です.小高い丘にそびえるホセの記念碑もりっぱなものでした.

6 なおサンチアゴのホセの墓については一言あります.何でこういうものにまで入場料を取るのか!

7 戦略村作戦はもとの言葉をBando de Reconcentracionといいます.直訳すれば再集中ということになります.「農民はスペイン軍の支配する市街地に集められ, 小屋にすし詰めにされた.食料不足から免れるため, 彼らは道端で物乞いし飢え死にを防いだ.女性, 子供, 老人たちが主な犠牲者だった.毎朝道路には遺骸が散らばっていた』といわれます.

 スペイン軍はゴメスに向け「米国人に対しラテン系が団結して闘うべきだ」と停戦を呼びかけます.これに対するゴメスの回答はなかなかのものです.「われわれにとって人種はただ一つ,平等と尊厳を望む人種だけだ」 しかし総司令官たるゴメスが,独立政府大統領の頭越しにスペインと交渉するのはいただけません. 大体このあたりからゴメスの独断専横ぶりが目に付くようになります.反乱軍政府大統領であるマソーをさしおいて,スペインやアメリカとの交渉を自ら仕切るようになります.しかしマソーはエストラーダやシスネロスとは違う人種です.セスペデスの副官としてヤラの叫び以来,独立戦争を戦い抜いてきた剛毅な軍人です.当然おもしろくはないと思います.
   

(3)米国の介入と戦争終結

この節は今回大幅に加筆されました.98年に米西戦争百周年を記念して米国内で多くの文献が発表されたからです.そのときすでに年表には加えましたが,それをこの『歴史』に反映させるのが遅れました.  1999.12.10

・買収路線から武力干渉路線への転換

 米政府はこの間一貫して闘いを静観していました.それは十年戦争の時と同様です.国民は反乱軍に同情的でした.世論を反映した米議会は,96年2月上下両院であいついで独立支持の合同決議をあげます.この決議ではキューバが交戦状態にあること,スペインはキューバ独立を承認すべきことが宣言されます.そして政府に調停に乗り出すよう要請する決議をあげます.

 しかし当時の大統領クリーブランドは米政府の「伝統に則って」この決議の実行をさぼり続けます. 唯一したことといえば,駐米大使を呼んで調停を申し出たことくらいです.しかも調停案たるや,スペインの統治権はそのままに,キューバ人への自治権付与を提案するというものですから,反乱軍には到底呑めるようなものではありません.

 96年の末頃になると,スペイン軍の強制収容の実態がますます明らかになり,米国内での憤激を呼ぶようになります.さすがのクリーブランドも『完全中立』というわけには行かなくなりました.彼は「キューバの混乱がこれ以上続くなら,アメリカはこれを見過ごすわけには行かない」とし,独立運動の支持を口に出さざるを得なくなります.しかし言葉のレトリックとは別に,具体的な提案といえばあいかわらず自治権付与にとどまっていました.

 ただし十年戦争の時と違う点が三つあります.
ひとつは,すでに多くの米企業がキューバに進出しており,投下した資本は断固擁護されなければならないこと,
ひとつは反乱軍が併合主義を放棄し,ホセ・マルティの教えにしたがって米国に対し警戒的態度をとるようになったことです.

 そしてもうひとつは,これが最大の点ですが,米国がこのころから明確に,欧州列強に伍して帝国主義国家の一員を目指し始めたことです.97年末には,すでに軍内部でキューバ,プエルトリコ,ハワイを支配下に置くべく軍事計画が練られていました.翌年の『門戸開放』政策の骨格となるものです.(1)

(1) ブレッケンリッジ(J.C.Breckenridge)国防次官による,ハワイ,キューバ,プエルトリコの支配構想を述べたメモ

・メイン号を忘れるな

 反乱軍の勝利が目前に迫った今,彼らに完全なイニシアチブをとらせることはなんとしても避けなければなりません.反乱軍が自力で勝利すれば,彼らはいずれ必ず米国との対等平等を要求するに違いないからです.

 そのためにはどうしたらよいか.何らかの形でこの戦争に介入するしかありません.ではどのように介入するか.

 まずは完全独立を支持するかのようなポーズをとりながら,スペインを叩き出すことです.ついで独立派の保護者としての地位を無理強いし,実質的に独立派を無力化することです.しかるのちに,米国に忠実な番犬を独立派の代表であるかのように装わせキューバに押しつけることです.こうすれば米国の実質的支配がされることになります.

 この筋書に沿って米国は早速行動を開始します.

 98年1月,ハバナでボルンタリオに扇動された暴動が発生しました.米国はこれを奇貨として当時最新・最大の戦艦メイン号をハバナに派遣します.在留民保護というのがいつもの口実です.

  メイン号はスペインの寄港拒否通告を無視してハバナに入港しました.あからさまな軍事干渉です.そんな矢先,ワシントン駐在スペイン公使の本国にあてた秘密報告書が新聞で暴露されます.この報告はマッキンレーの内政干渉を非難する内容で,イエロー・ジャーナリズムといわれる扇動的なマスコミが「米国大統領に対する侮辱」だと,スペイン憎しの感情を煽りたてました.

 2月14日,メイン号がハバナ港停泊中に謎の爆沈をとげます.兵員,船員あわせて260名 が死亡するという大惨事になるのですが,米国はこれを徹底的に利用します.

 まずハーストなどイエロー・ジャーナリズムが「メイン号を忘れるな!」と一斉にキャンペーン,対スペイン開戦やむなしの雰囲気を作り上げます.サンプソン提督を団長とする現地調査団が現地入りし,船底に仕掛けられた機雷による爆発との予見のもとに調査を開始します.ボイラー爆発説を採るスペイン側は,共同調査を申し入れますが,この提案は拒否されました.

 3月28日,海軍軍事法廷はサンプソン調査団の報告に基づき,メイン号撃沈の原因はスペインにあると勝手に断定します,米政府は賠償と即時休戦を求める最後通牒をつきつけました.スペインは当然のことながらこれを拒否します.事態を憂慮した欧州列強は,交渉継続を求める共同覚書を両国におくりますが,米政府はこれを無視します.

 容易ならぬ事態をみてとったスペイン政府は,ただちにキューバ駐留軍に休戦指令を発します.そして反乱軍に使節を送り停戦交渉を呼びかけます.マソ大統領は『独立か死か』以外に我々の選択肢はないとし,この提案を拒否します.

 

・米西開戦にいたる経過

 4月11日,マッキンレー大統領は議会に対し,宣戦の是非を問う戦争教書を送ります.さすがにメイン号だけでは名分が立ちません.そこで「キューバにおける米国の商業,貿易と米国人の財産は破壊されつつある.われわれは介入しなければならない」と,無茶苦茶な理由をでっち上げます.

 19日,米議会は戦争教書に応え,圧倒的多数で合同決議案を採択し,平定達成後のキューバ独立を条件に,大統領に非常大権をあたえます.8

 決議を受けたマッキンレイは,断交通告と同時にキューバ封鎖を指令しました.米艦隊がキューバ沖合いを遊弋し,ハバナ港とシエンフエゴス港の周りは機雷封鎖されました.戦時動員法が制定されました.これにより6万5千からなる正規軍編成が承認されます.さらにマッキンレイは,志願兵12万5千を募集すると発表.これは後に20万まで拡大します.これをみたキューバ駐留のスペイン軍は,米国と交戦状態に入ったとの宣言を全土に公布します.

 これらがすべて進行した後の4月25日,米議会は「スペインと戦争状態にはいった」とする戦争決議を採択.スペインに正式に宣戦布告します.これが今日,教科書的には開戦日とされています.

 実はその頃すでに,香港駐留の米極東艦隊がひそかにマニラ湾に向け航行中だったのです.5月1日,その極東艦隊がマニラに対する攻撃を開始,ここに本格的な米西戦争の火蓋が切って落とされます.まったくキューバとは無関係の話です.

 

・三者の前哨戦

 スペインにとっては,はなから勝ち目のない戦争でした.急遽スペイン政府は,セルベラ提督の率いる虎の子の艦隊をサンチアゴに送ります.しかしそのセルベラ自身が,船舶も火力も物資も米国には太刀打ちできないと述べ,この闘いでスペイン海軍は崩壊するだろうと予言するほどでした.

 反乱軍との闘いのほうも芳しくありませんでした.3月にはマハグアの闘いで,4月はじめにはチャンバスの闘いで,何れも手痛い敗戦を喫しています.総督府当局は,事実上反乱軍との競合地域確保は断念し,全兵力をサンチアゴに集中させることとしました.

 いまや無人の野となったオリエンテを,反乱軍が次々と席巻していきます.4月28日,カリスト・ガルシアは無防備となったバヤモの町を占領.ここにオリエンテ軍総司令部をおきます.このほかヒグアニ,バイレ,サンタリタが反乱軍の手に落ちました.北岸の重要都市モアにも攻撃がかけられます.

 反乱軍政府の臨時首都となったカマグエイ州のサンタクルス・デル・スルには,総督府幹部と自治主義者からなるハバナ代表団が訪ね,最後の停戦交渉を試みますが,これも結局失敗に終わります.反乱軍政府大統領マソは「独立か死か」を訴えるセバストポリ宣言を発表し,国民総蜂起を訴えました.

 米軍はサンプソン提督が海上封鎖をすすめる一方,シャフター将軍の指揮の下,2万5千の上陸軍がフロリダ州タンパで編成されます.(9) 後に米国大統領となるセオドア・ルーズベルトは,冒険野郎を組織し「ラフ・ライダーズ(荒馬乗り)」なる部隊を送り込みます.

 当初の計画によれば,部隊はキューバの北岸に上陸し,反乱軍を後方支援する計画でした.制海権を確保した後,最初の部隊が5月中旬にはカルデナス上陸に成功しました.ところが,スペインが大艦隊を派遣したとの報に接し,米軍は作戦を大転換することになります.すなわち,スペイン艦隊が集結するサンチアゴで,スペイン軍と正面対決する戦略です,

 

・米軍,オリエンテに上陸

 5月19日,セルベラ提督の率いる6隻のスペイン艦隊が,いまだ米軍の封鎖が完了していないサンチアゴに入港することに成功します.これに力を得たスペイン軍は,海岸線沿いに強固な防衛線を構築します.

 サンプソンは全艦船にサンチアゴ集中を命じる一方,シュレイ海将にサンチアゴ港封鎖を命じました.シュレイは敵艦隊の迎撃を受けながらも,5月末には封鎖に成功します.そして6月6日には湾内に侵入し,2千発以上の弾丸を撃ち込みました.これですっかりスペイン軍は戦意を喪失してしまいました.

 海軍の華々しい活躍に比べ,上陸軍は寄せ集めの大編成で,しかも計画が突然変更されたとあって混乱を極めます.装備も完全に整わないまま,ようようオリエンテ沖合いに到着したのは,宣戦布告から二ヶ月もたった6月20日のことでした.それまでは海軍の独壇場でした.

 ニューヨークの革命党は,上陸部隊と反乱軍との協同作戦を実現するため奔走します.その仲介で,米軍の斥候がカリスト将軍との接触に成功.6月3日には,グアンタナモ沖合の戦艦ニューヨーク号艦上で,海兵隊司令官と反乱軍指導者との作戦打ち合わせまで発展します.

 反乱軍が後方かく乱と陽動作戦を展開するあいだに海兵隊が上陸する,という連携作戦は,グアンタナモで見事に成功しました.以後カリスト将軍は米軍の忠実な友人となっていきます.

 22日,上陸軍1万6千名がダイキリに上陸作戦を敢行しました.守備隊も必死に防戦しますが,わずか300名ではいかんともしようがありません.功をあせるシャフター将軍は,サンプソン提督の海上攻撃案を退け,陸戦による決戦策を採ります.攻撃隊は山中の道を通りサンチアゴを背後からつこうとします.(10)

 

・サンチアゴ最後の決戦

 その後もラドロウ将軍の旅団がシボネイに上陸するなど米軍の到着が続き,これに参加した反乱軍部隊と併せ戦力は2万2千に達します.これに対しサンチアゴ防衛軍はわずか8千でした.バンド総司令官はハバナに増援を要請しますが,ブランコ総督には既に手ごまはありませんでした.

 7月1日,サンチアゴ郊外に進出した米軍とのあいだに,決戦の火蓋が切って落とされました.スペイン軍の最後の防衛線サンフアン高地の攻防が有名です.

 サンチアゴ近郊に進んだ海兵隊とスペイン軍との間に最初で最後の戦闘がありました.7月2日,サンフアンの丘の決戦がそれです.スペイン軍はわずか500名でこの高地を守っていましたが,これに1万近い米軍が襲いかかったのです.守備隊は壊滅的打撃を受けここを撤退します.

 本当の決戦はその翌日です.スペイン軍の総力をあげた激しい反撃の前に,米軍はいっとき撤退も考えたほどでした.エル・カネイでは,ホアキン・バラ・デル・レイの守備隊がわずか500名足らずで米軍5千と対峙.10時間にわたり砦を守ったあと,壮烈な討ち死にを遂げました.

 サンフアン奪回を目指すスペイン軍と対決したラフ・ライダーズは,隊員の4分の1が戦死する大奮闘でした.この犠牲と引き換えに,ラフライダースは一躍マスコミの寵児となり,隊長セオドアが後に大統領になるほどの名声を勝ち得ました.

 7月4日,闘いは最終盤を迎えます.サンフアンの闘いで2千名近くを失ったスペイン軍は,サンチアゴ市周囲に塹壕をめぐらし,城を枕に討ち死にの構えです.一方の米軍にとっては,最大の敵が熱帯病でした.マラリアと黄熱病が猛威を振るい,戦闘能力は激減です.

 ところがこの日,浮き足立ったスペイン艦隊は,サンチアゴ封鎖を解こうと最後の出撃を試みます.この反撃は惨めな失敗に終わり,6隻の艦隊は1隻残らず戦闘不能となります.これが事実上最後の戦闘となりました.10日には米艦隊がサンチアゴ港内を完全制圧し,市内に艦砲射撃を加えますが,目立った抵抗はもはやありません.もはやなぶり殺し状態です.

 7月16日,ついにサンチアゴ防衛軍は無条件降伏に応じます.翌日サンチアゴ市内に入った米軍はシャフター将軍をサンチアゴ軍事総監に任命,すべての施設を米軍管制下におきます.

 25日にはプエルトリコにも海兵隊が上陸します.完全に戦意を喪失したスペインは,8月12日サンチアゴで降服文書に調印します.
 

・米国による占領状態への移行

 ここで驚くべきことが起こります.米軍司令官シャフターは,反乱軍のオリエンテ州司令官カリスト・ガルシアが調印式に出席することを拒否したのです.つまり反乱軍には統治の力はなく,保護者たる米国が全権を掌握すべきだということです.

 いったいなんのための独立でしょう.これではかなり大幅な自治権が認められていたスペイン統治時代よりむしろ後退ではありませんか.

 9月に入ってラドロウ将軍,サンプソン提督ら米国代表団がハバナ入りし,スペイン側との交渉に入ります.交渉にキューバ人の要求を反映させるべく,ハバナの労働者はゼネストを決行しました.タバコ工場労働者,印刷工,パン職人などが次々にスト入りします.スペイン総督府にはもはやなすすべもありません.

 ところがこのとき,弁務官となったラドロウはスト弾圧を指示するのです.つまり米政府の意向に沿わないかぎり,平和的な独立運動すらも認めないということです.

 12月にはパリで講和条約が締結されます.しかし反乱軍の代表はパリの講和会議にも出席を拒否されます.

 明けて99年の1月1日,スペインは最終的に撤退しました.それに代わってこの国の支配者となったのは米占領軍でした.この日からカストロ勝利の日までちょうど60年のあいだ,キューバは事実上の米支配下におかれ続けることになります.戦争のあいだに亡くなった者20万人.多くは強制収容所での病死・餓死でした.(12) この戦争で流された血は一体何だったのでしょうか.

 米国はフィリピンとプエルトリコを植民地としドサクサに紛れてハワイも併合します.これには米議会内にも異論が続出します.ある議員は「外国の領土を併合しその住民の同意なくしてこれを統治することは,神聖な独立宣言の精神を侵害するものである」と反対します.こうして講和条約はわずか1票差で批准されたのでした.

・反乱軍政府・議会の崩壊

 注意しなければならないのは,スペインが降伏したのは米国に対してであって,反乱軍に対してではありません.現に8月15日も,アグアス・クララスでカリスト・ガルシア軍とスペイン軍との最後の戦闘が行われています.

 しかし反乱軍にはもはやあらたな闘いを起こす力は残っていませんでした.内部的にも規律がゆるみ始めました.軍事法廷は軍人の腐敗に強い態度で臨みますが,これはかえって反乱軍政府への離反をあおる結果となりました.なにも反乱軍に従わなくても,米国の占領軍とくっついている方が遙かに余録がありそうです.

 一方,ハバナの司令官となったラドロウ将軍は,旧来のスペインによる支配体制をそのまま維持して,統制にあたります.市内でストライキに立ち上がった独立派労働者は,ラドロウ司令官の命令をうけたスペイン当局の下,屈服を余儀なくされます.

 「北の巨人」に対して警鐘を乱打したホセ・マルティも,「米国の進出を許すよりはスペインとの共闘を選ぶ」と喝破したマセオも今はいません.戦場にあっては獅子奮迅の働きを見せるゴメスも,この手のもめごとはからっきし苦手です.カリストに至ってはいまや米軍に媚びを売る始末です.

 パリ会議の進行を見ながら,反乱軍はサンタクルス・デル・スールで議会を開催しました.そしてこれが実効性を持つ最後の議会となりました.席上,マソ大統領は革命代表者議会の選挙を呼びかけましたが,軍幹部の反応は冷ややかなものでした.逆に議会では都市部の活動家が完全独立の戦いを強く主張.マソーを解任してしまいます.

 かろうじて議会は完全独立の承認を求め,カリストを団長とする使節団を米国に派遣することで一致しました.(11) しかしこの使節団は完璧に無視されます.米政府は「キューバ国内のスペイン政府の所有物は,現在すべて米国に属している」と言明.反乱軍政府が米国資本から独自に借款を受けることにも干渉します.

 心労がたたったのか,カリストは肺炎にかかり,12月11日,ニューヨークであっけない死を遂げます.米政府が独立議会の承認を拒否したのを機会に,今後の方針をめぐり独立派は深刻な混乱を引き起こします. 13

 米国はこの混乱につけ込みました.カリストの葬儀では,ブルック総督が葬列の先頭に立ちます.一方,反乱軍政府は代表の列席すら拒否され,葬列に加わろうとした兵士たちは銃剣によって制止されたのです.まもなく米国は,反乱軍政府と無関係に暫定政権を設立.議会によって解任されたマソーを,これ見よがしに暫定大統領に指名します.

 ホセ・マルティの後任議長エストラーダは「キューバ独立は達成された」と主張,革命党解散を提案し強引に採択してしまいました.あとで考えれば,このときすでにエストラーダと米軍とのあいだには密約が成立していたのでしょう.

 ゴメス将軍は「独立の日まで引き続き団結を固めよう」と訴え,兵士を強引にハバナに入場させ,米国が支配する新政府に給与の支払いを求めます.米政府は退職金を払うことで合意しましたが,相当値切りました.

 この退職金交渉をゴメスが独断でまとめたことに,反乱軍政府は不快感を示します.まもなくゴメスは内部対立に嫌気がさし,公職を辞任してしまいます.カリストもマソーも,ゴメスまでも去った反乱軍議会は,完全に存在意義を失います.そして99年4月2日,エル・セーロで最後の議会を開き解散を宣言します.

 こうして独立戦争の英雄ホセ・マルティ,アントニオ・マセオ,マキシモ・ゴメス,そしてカリスト・ガルシアが歴史の舞台から姿を消していきました.しばらくキューバは雌伏の時代にはいっていきます.

 

 

8 上下両院合同会議の戦争決議は,その後米政府が採った政策とは重大な相違があります.決議はテラー付帯決議と呼ばれる最後の項目で以下のように述べています.
「同島の行政および管理はその国民に委ねられるべきである.合衆国は,キューバの秩序維持以外の目的をもっては同島に宗主権や行政権,管理権を行使する意志や意図をもたない.それ故,平和が回復され次第,合衆国は同島の支配,管理権を住民に返還する決意である」
米政府は,96年には議会決議を無視し今度は議会決議を勝手にゆがめるなど,議会無視を続けました.

 上陸軍の編成は第五師団を中核とし,これに北大西洋方面騎兵大隊を付け加えた.これでは実戦に不足するため,三つの義勇兵団を併せ,三つの旅団に再編した.セオドア・ルーズベルトの組織したラフ・ライダーズも,ラドロー准将の第一旅団に編入された.

10 シャフター将軍には,反乱軍とのいきさつなど関心ありませんでした.最初にカルデナスに上陸したときにも反乱軍が現れ,共闘をもとめますが,シャフターは彼らを追い払ってしまいます.従軍記者のひとりクレインは反乱軍を「南洋の土人ども」といってのけました.

11 代表はカリスト・ガルシアのほかマヌエル・サンギリー大佐,ホセ・ミゲル・ゴメス将軍など.

12 ご多分に漏れず,第二次独立戦争の犠牲者についてもさまざまな数字があります.一応の定説では,スペインは20万の軍隊のうち18万人をキューバに派遣.これに対し反乱軍は3万3千と推定される.この戦争で反乱軍の死者1万3千.うち2千が戦死者で,残り1万1千は病死.これに対しスペイン軍は6万2千が死亡.うち戦死者は9千で,残りは病死.戦略村には民間人30万が強制収容され,4万人が死亡.一説ではスペイン軍の戦死者2千人,1万人が負傷,黄熱病その他で5万人が病死とされる.

13 マッキンレイ大統領は,カリスト・ガルシアをキューバの指導者に据えるつもりでいたといわれます.しかしエストラーダの代わりにカリストが就任していたとしても,あまり歴史が変わったとも思えません.