第一章 1933年革命

A.将軍達の政治と米国の干渉

 

(1)米国支配の確立とエストラーダ政権

・プラット憲法修正条項

 99年11月あらたにキューバ弁務官となったレナード・ウッド将軍は,米国内では無慈悲なインディアン「征伐」で悪名をはせた男です.一方で,サンチアゴの占領軍司令官だった時代に反乱軍幹部と気脈を通じ,親分風を吹かせていました.

 反乱軍上がりの荒くれどもを掌握し,新政府に編入していくには,このくらいの荒っぽさが必要だったかもしれません.しかし,だいたいこの手のコワモテは,倫理観に乏しく,金にだらしないのがふつうで,のちに続く政権腐敗の伝統を作り出したという点でも特筆されるべきかもしれません.

 いずれにしても,ウッドが33年革命まで続く軍人政権の骨格を作った人物であることは間違いありません.彼がどのようにして政府を作ったか,反乱軍の輝かしい伝統を持つ新政権の担い手が,どうして堕落していってしまったかを見ておく必要があります.

ウッドのやったことは三つあります.

 もともと併合論者のウッドは強引に独立派の解体をはかります.まず手始めに反乱軍の解体と地方警察への編入が強行されました.当時約5万人といわれた反乱軍兵士は一人75ドルの退職金と引き替えに武装解除されます.これに伴い独立軍部隊の代表からなる反乱政府も事実上解体します.ただし反乱軍のボスたちは地方警察の幹部として丸抱えになり,ウッドの忠実な部下となっていくのです.

 翌年11月ウッドはさらに独立派議会を無視し制憲会議を召集しました.そして親米的有力者を集め自ら議長のポストにおさまりました.

 制憲会議が成立すると,こんどはこの会議に,外交権の制限と米国の内政干渉権を認めるよう強要します.おなじ頃おなじ内容のキューバ関連法案が米国議会でも提案されました.この法律は提案した議員の名をとってプラット修正とよばれますが実はウッドの起案になるものです.

 以上,政治権力の軍人集団への集中,ホセ・マルティ派知識人の排除,対米従属構造の強制という三本柱にキューバ人民を縛り付けたのが,ウッド将軍のやり方でした.

・制憲会議における力関係の変化

 99年末おこなわれた制憲議会選挙では,反乱軍の主体となった共和党が圧勝します.しかし,プラット修正条項を盛り込んだ憲法草案が発表されると,党は大混乱します.キューバ各地で抗議の行動がまきおこりました.01年6月会議はこの大衆の声に押されプラット条項をいったん否決します.そこで米政府は修正を受入れないかぎり軍政を続けると脅しをかけます.再審議の結果会議は1票差でプラット修正の受入れを可決します.

 グアルベルト・ゴメスなどホセ・マルティの衣鉢を継ぐ部分は,憲法草案に断固反対し共和党を離れていきました.旧軍幹部を中心とする多数派は,独立達成のため憲法を受け入れます.もともと併合主義を唱えていた連中は,党内保守派を形成するようになります.

 おなじ頃フィリピンでもアギナルドらによる独立をめざす反乱が起こります.この反乱が終結するのは,マッカーサー将軍(戦後日本を占領したダグラス・マッカーサーの父)の指揮する7万の米軍が7年間にわたり住民虐殺をくりかえした末のことでした.米国のいう「門戸開放政策」とはこのような自分本位のものだったのです.

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・エストラーダ政権の成立

 ウッドの乱暴なやり方を見て,旧反乱軍議会の活動家には批判が高まりました.これは反乱軍内部での従順派と独立派の矛盾に発展していきます.ウッドの驥尾に付すホセ・ミゲル・ゴメス(マキシモ・ゴメスの甥)、ケサダ、モンテアグードらは共和党を結成.これに対抗して独立派は民主党を結成します.さらに元の自治主義者たちは国民党を結成し,旧体制時代の特権の維持を図ります.

 ウッド派候補では勝てないと見た米政府は,革命党議長エストラーダを大統領候補に担ぎ上げます.エストラーダはセスペデス同様もともとが併合論者ですから,米国にとって都合悪かろう筈がありません.米国は完全独立派の勝利を阻みエストラーダを当選させるため,黒人,女性,低所得者の選挙資格を排除した選挙法を押しつけます.

 国内で独立戦争を担い誰よりも多く血を流した完全独立派は,戦闘のあいだニューヨークにいて米国の鼻息をうかがっていただけのエストラーダをかつぐことには納得できません.かれらはまずゴメス司令官その人を候補に推薦します.これは誰も反対できません.しかしゴメスはキューバ生まれの人物が大統領になるべきとして推薦を固辞します.

 ゴメスが候補を辞退したあと,彼らはバルトロメ・マソーを候補にかつぎ出そうと動きます.マソーはいうまでもなく,反乱軍政府の事実上最後の大統領です.この対立はゴメスがエストラーダ支持を表明したことにより独立派の敗北に終わりました.マソーは立候補を取り下げます .(1) こうして02年5月エストラーダが大統領に就任し,キューバは米国の保護の下に「独立」します.

 しかしこの対立はその後も国内政治対立の根底に流れ続けます.オリエンテではマンサニーリョのマソー,サンチアゴのバカルディらが米国に対し自主的態度を貫きます.ホセの腹心だったバリーニョはハバナでキューバ労働党を結成し,社会主義への傾斜を強めます.

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・米国による第一次占領

 初代大統領エストラーダは03年5月米玖条約を,12月にはそれを補完する互恵条約を結びます.この条約では米国がキューバからの砂糖の輸入関税を2割引き下げ,キューバは米国の工業製品に対する関税を引き下げることになりました.マッキンレー法の再現です.こうしてキューバは米国の市場として全面開放されることになったのです.

 急速に流入する米資本により公共事業の拡大,公教育の充実がすすみ,300キロにわたる道路があらたに建設されました.貿易黒字は54万から7百万ドルに増加.キューバ経済は空前の成長を遂げます.

 こうなるとエストラーダも強気になります.再選禁止を決めた憲法を無視して1906年の選挙での再選をたくらみます.彼は共和党保守派に所属していましたが,将軍連の支持を得られないと見るや,あらたに「中道党」を結成し,国民党や旧反乱軍議会幹部を取り込み選挙に臨みます.

 選挙ではエストラーダが大規模な票の不正操作をおこない勝利します.共和党主流派は,あらたに自由党を組織し猛烈な抗議運動を展開します.エストラーダは自由党幹部の一斉逮捕にふみきりました.(1) 合法闘争はここまでと見た自由党は,8月19日,ついに反乱を開始しました.先陣を切ったのはピナル州知事ミゲル・ゴメスでした.

 追い詰められたエストラーダは憲法を停止し,プラット修正にもとづき米国の介入を要請しました.米国はただちに海兵隊2千4百名をハバナに上陸させます.

 ここまではエストラーダの思惑通りでしょう.しかしそれから先はまったく違った展開となります.セオドア・ルーズベルト大統領により派遣された国防長官タフトは,過ぐる大統領選挙の経過を調査.あまりの不正ぶりに驚きます.

タフとは選挙やり直しを支持,両派の合意を取り付け停戦に持ち込みます.タフトはエストラーダを大統領と認めず,大統領選やり直しまでの暫定大統領として任にとどまるよう指示します.この裁定に頭にきたエストラーダは,暫定大統領職を拒否.両派の角遂はさらに激化し,内戦状態となります.

 米政府は「政治的空白を解消するため」介入.タフトを暫定弁務官に任命しました.海兵隊二千人がハバナに上陸.政府軍および自由党グループの武装を解除します.オリエンテにも海兵隊が上陸.自由党の反乱を鎮圧します.こうしてキューバ全土が米国の軍事占領下に入ります.この米軍直接統治は1909年まで続きます.そのあいだに米国の調停により国民党(中道党)と自由党とのあいだに和解が成立します.

(1) 自由党幹部の一斉逮捕は,あながち不当とばかりも云えません.地方軍閥化した自由党幹部は,各地で行政を私物化し,勝手な振る舞いに及んでいました.エストラーダは彼らを取り締まるために反乱軍政府の副大統領を務めたフレイレ・デ・アンドラーデを起用しました.フレイレというのは相当喧嘩っ早い人物のようです.独立戦争の英雄キンティン・バンデラスを反乱軍女性に対する性的虐待、囚人の殺害の罪で逮捕、処刑してしまいます.

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(2)ゴメスとメノカルの腐敗政治

・有色人種党の反乱

 米軍撤退後の大統領には自由党のミゲル・ゴメスが就任します.しかしこの自由党も,占領のあいだに米国支配層に取り込まれていました.これがかつて独立戦争をたたかった英雄たちなのだろうかと思うような腐敗がバッコします.もはや独立戦争のときの力強い同盟は失われ,利権あさりにウツツをぬかす亡者どもが国を支配することになりました.

 ゴメスはグアルベルト・ゴメスとはまったく無関係の人物です.グアルベルトは黒人で知識人で40年も闘い続けた筋金入りの独立活動家です.ミゲルは反乱軍の幹部ではありますが地方軍閥の首領の一人に過ぎません.やがてゴメスは飽くなき金銭欲から「サメ」と蔑称されるようになります.このような有象無象をたなごころに遊ばせているのはマルティがあれほどにまで強く警報を鳴らした「北方の巨人」でした.

 ところで「独立」後のキューバには好景気にうながされて大量のヨーロッパ移民が流入してきます.人口の3/4を白人が占めるようになりました.アルゼンチンやウルグアイほどではないにせよキューバも「白い国」になります.これにともないヨーロッパの労働運動やアナーキズムなどさまざまな潮流が流れ込んできます.黒人層はさらにマージナルな部分に押し寄せられ,経済的にだけでなく人種的にも差別されるようになります.

 いまやあらたな主体形成に向けて模索の時期が始まったといえるでしょう.その嚆矢となったのが12年の黒人の反乱でした.オリエンテの黒人エステノスは黒人を差別する選挙法に反対し有色人種独立党を結成します.ゴメス政権はこの動きを逆なでするように「同一人種または同一色の人間によって構成される運動」を禁じます.そしてモルア修正とよばれる選挙法改悪をうちだします .3エステノスらはこれに抗議し5月武装蜂起します.黒人労働者4千人が呼びかけにこたえ立ち上がり反乱軍はオリエンテの広範な地域を占領するにいたります.

 事態を重くみた米国はキューバ政府に対し「我が国の市民の人命・財産の保護にあたるべく,米艦隊および海兵隊が貴国領海内に待機」すると通告します.さすがに自由党出身のゴメス大統領はこの干渉を拒否しますが,それはみずからの力で反乱を鎮圧するという意志の表明でもありました.

 6月2日ゴメスはオリエンテ州における法の保証を停止,地方警察を動員して反乱鎮圧に成功します.あの名誉ある反乱軍の伝統を受け継いだはずの地方警察ですが,いまや腐敗した政権の忠実な番犬に変質していました.以後キューバ革命成功までのあいだ地方警察は恐怖の代名詞として悪名を響かせ続けることになります.

 2週間で3千人の黒人が殺害されました.その多くは闘いが終わってから白人のリンチにあい殺されたといわれます.独立戦争における黒人層と白人層の同盟のそれは悲惨な終止符となりました .

 いっぽう米国はキューバ政府の拒絶を無視して海兵隊をサンチアゴ附近に上陸させます.反乱鎮圧後は「独自に米国人の安全と米国資産を守るため」基地の貸与を要求します.要はキューバ人民を監視する基地ということです.協議の結果グアンタナモ基地を永久貸与することで合意が成立しました.グアンタナモ基地を考える場合このような出自と存在理由に注目する必要があるでしょう.4

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・第二次米軍干渉

 この反乱の翌年大統領選が施行されます.ゴメスは自らの影響力と利権を維持するため自党の後継者サヤスの推薦を拒否,保守派のメノカル支持に回ります.こうして自由党の内紛で漁夫の利を得たメノカルが政権をにぎることになります.

メノカルはニカラグアの米国鉱山会社の技師から第二次独立戦争に身を投じ,カリスト・ガルシアの副官となった人物.終戦後はハバナ警察長官から米系砂糖会社の重役に転進し,米国と結びついた保守派の大立物として影響力を拡大してきました.どんな政策をとるかは最初から明らかです.

前政権以上の腐敗と米国べったりの従属政治がこの時期に一気に促進されました.ゴメスの一派はもともと一介のカウディージョに過ぎません.彼らが徐々に政権中枢から排除されていくのも当然でしょう.

 16年末4回目の大統領選がおこなわれました.サヤスを候補に押し立てた自由党は圧勝の勢いを見せます.ところがフタをあけてみると例のごとく大規模な不正操作によりメノカルが再選されます.メノカルとその背後の米国に対する不満が国内に充満します.

これを見たゴメス前大統領はチャンス到来とばかりに反乱を開始します.チャンベローナの反乱と呼ばれるその蜂起の舞台はまたもやオリエンテでした.自由党軍はサンチアゴ,カマグエイをあいついで占拠します.できたばかりのキューバ国軍にはこの反乱を鎮圧できるだけの力はありませんでした.

 当時の米大統領ウィルソンはこの蜂起を不法かつ違憲行為と判定,治安回復のためグアンタナモ基地から2千名の海兵隊を出動させます.まさしくグアンタナモ基地を借り上げた理由そのままです.海兵隊はまたたく間にサンチアゴなど反乱軍の拠点を奪回,3月初めにはラスビリャスに陣取るゴメスも降伏を余儀なくされます.以後4年間にわたり全土を軍政下におくことになります.これが06年に続く第二次介入と呼ばれるものです.

 この闘争は民族派の軍閥による最後のたたかいとなります.このあと彼らの拠って立つ経済的基盤そのものが消失してしまうのです.

 メノカルは彼らしくカイライ大統領としての役割を忠実に果たします.第一次大戦に米国が参戦すればいちはやくこれに同調.海兵隊の訓練基地を提供するなど論功いちじるしいものがありました.その代償として彼は在任中に4千万ドルを着服したといわれます.

 それにしてもいやしくも栄光ある反乱軍の幹部だった連中がどうしてこうも堕落してしまうのか.独立戦争開始時にホセがマセオと論争したことが思い出されます.「闘いのなかでも民主主義と文民優位の原則は貫かれなければならない.そうでなければ軍人独裁になってしまう」と.

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・米国資本への完全屈伏

 第一次大戦が終わり米国は空前の好況を迎えます.砂糖相場もいったんは高値を記録しますがそのあと一挙に暴落します.1ポンドあたり22セントだったのがなんと3セントにまで下がるという記録が残されています.キューバのすべての銀行が破産し民族資本は完璧に没落します.

 米国はクラウダー将軍を特使とする監視団を派遣.総督気分のクラウダーは経済援助をエサに自ら閣僚を指名するなどきびしい経済再建策をおしつけます.これにより辛うじて生き延びて来た民族資本も息の根をとめられます.こうしてキューバは丸ごと米資本に買いとられた状態に移行します.

 砂糖キビ農園だけでなく電力会社,通信会社などインフラストラクチャーのほとんどすべてが米資本の手ににぎられました.

 折から米国内で禁酒法が施行されます.カポネの時代の始まりです.キューバは酒と女とギャンブルを求める米国人のパラダイスとなり「カリブのモンテカルロ」とよばれるようになります.

 このような経済の激変の結果,国内の組織的な政治勢力は米資本子飼いの新興資本家層とかれらに雇用された労働者階級に再編されていきます.もちろんこのような労働者は全人口からみればほんの少数であり,圧倒的多数は未組織で不安定な雇用下におかれていました.農村では農業労働者が飢えと失業に苦しんでおり一触即発の状況はむしろ強まっていたといえます.中間層の中でも時流に乗れない旧支配層の不満は解消されることなく蓄積されていきます.

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B.マチャド独裁の時代

(1)人民運動の高揚

・学生・知識人の改革運動

 20年代初頭アルゼンチンのコルドバ大学に始まった大学改革運動は,またたくまにラテンアメリカ全体に拡大していきました.運動の中で労働者との連帯が強くもとめられました.その中でも典型となったのがペルーとキューバです.ペルーではまずアヤ・デラ・トーレが,ついでマリアテギが労働者大学運動を始め,労働者にたいし政治闘争の重要性を訴えていきます.

 キューバではフリオ・アントニオ・メリャが同様の運動を開始します.ところでメリャはもともとノンポリ学生でハバナ大学バスケット部のスター選手だったそうです.ところがさきほど出てきたクラウダー将軍に大学が名誉学位を贈ると発表するやいなや,大学中が抗議の渦に巻きこまれました.学生たちは闘争委員会を結成して抗議運動を始めるのですが,彼が人気選手なるがゆえに委員長に担ぎ上げられたということのようです.

 メリャを先頭とする学生たちは腐敗した無能な教授の追放,教科書の刷新,学生の自治の拡大を要求し大学を占拠します.この過激かつ牧歌的な闘争の結果多くの要求が実現することになり闘争委員会の権威はおおいに高まります.

 23年10月学生運動の高揚を背景に第1回全国学生大会が開催され,大学学生連盟(FEU)の結成を宣言します.連盟はソ連孤立化政策反対,インド,フィリピンなどの独立運動支持を決議するなど左翼色を強めていきます.

 翌24年に入ると国民の運動はさらに大きな高まりを見せます.2月はじめ鉄道労働者が労働組合を結成,ただちに3週間のストに入ります.これに続きタバコ工場労働者も大規模なストを成功させます.メリャらは労働者との結びつきを深めるため「ホセマルティ人民大学」の運動を提起,労働者への接触をはかります.

 このような高揚を受け青年文化人の中にも大きな変化が生まれてきました.青年詩人ルベン・マルティネスはロシア・アバンギャルドの影響を受け,みずからの詩集の中で「ペテン師どもを権力の座から追い払うにはダイナマイトが必要だ」と宣言.4月の「古参兵と愛国者の委員会」の武装蜂起計画に参加します.そのマルティネスの他マリネーリョ,カルペンティエールら青年作家30人はミノリスタ(少数派)グループを結成,反米民族主義の声明「30人の抗議」を発表します.さらにカルペンティエール,ギリェンらは黒人層の独自の立場をうちだすべくネグリスモ運動を起こしていきます.

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・キューバ共産党の創設

 これらの思想・文化戦線での華々しいたたかいは急速にボルシェビズムに収斂していきます.実際当時のラテンアメリカをおそった共産主義旋風たるやすさまじいものでした.ロシア革命を語ることなくして知識人たりえないような風潮さえありました.メキシコにおけるシケイロス,リベラらの壁画運動はその代表といえるでしょう.

 コミンテルンはこの機を逃さず各国にビューローを結成し始めました.こうして25年8月キューバ共産党が創設されるにいたります.創設時のメンバーには社会党のバリーニョ,反帝同盟のメリャ,愛国者委員会のマルティネスら13人が参加しています.また時を前後してキューバ労働者総同盟(CNOC)も結成され,プロフィンテルンに結集していくことになります.

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(2)マチャド独裁との闘い

・マチャドの独裁政治

 24年11月このようないささか騒々しい雰囲気のなかで大統領選挙が闘われます.保守党からはメンディエタ将軍が立起しますが,自由党からはこれまでとはまったく違うタイプの候補が立ちます.それはヘラルド・マチャドという資本家です.マチャドは独立戦争前は肉屋を営んでいましたが,その肉はひとさまの牧場からかっぱらってきていたという噂のあるきわめて胡散臭い人物です.独立戦争中に反乱軍のため武器を密輸したことから頭角を現わし戦後は電気業界で実力者となりました.

 彼は米資本の電力会社の重役という立場にもかかわらず「水道,道路,学校」というポプリスモ的政策をかかげ,50万ドルの選挙資金と徹底した欺瞞宣伝で大衆的人気を獲得します.彼の親米的本質を知る米国の債権者や国内地主資本家層は,その民族主義的なポーズを見ながらやすんじてこれを許します.

 こうしてみごと,マチャドは大統領に当選を果たします.それはカウディージョとよばれる将軍たちによる伝統的なボス支配の終焉であり,資本家の直接統治の始まりであり,同時になによりも米国に対して忠実な売弁政治家支配の始まりでした.

 マチャドが大統領になってわずか2ヶ月後,ハバナの有力紙がマチャドと電力会社との汚い関係を暴露しました.ところがこの新聞社の編集長が何者かにより暗殺されてしまいます.共産党は事件当初よりマチャドの変質を予測し警鐘を乱打しました.メリャはマチャドを「熱帯地方のムッソリーニ」と呼んで激しく攻撃しました.

 当然のことながらマチャドの民衆に対する攻撃は共産党弾圧をもって開始されました.9月指導者数百人が一斉逮捕されます.もっとも騒々しい反対者メリャは大学から放逐されたうえ逮捕されます.メリャはただちに獄中ハンストを開始しました.民衆の抗議が殺到したためマチャドはやむなくメリャを釈放,国外追放処分とします.

 マチャドの手口の特徴は,正面切った弾圧だけでなくスパイや暗殺者を使ったより陰湿な弾圧方法を駆使したことにあります.翌26年には共産党のミゲル・ペレス書記長が国外追放,ついで書記長に就任したビラボアは死の脅迫に屈して任務を放棄し逃亡してしまいます.結局メキシコ亡命中のメリャに書記長のおはちが回ってきます.そのメリャも29年1月メキシコ市内の路上でマチャドの放った刺客により射殺されてしまいます.

 こうして反対派の弾圧に成功したマチャドはいっそう独裁色を強めます.そして再選を禁止した憲法に逆らって強引に再選を画策します.さらにずうずうしいことには大統領の任期を6年に延長することも考えます.そうすれば合計10年甘い汁が吸えるというわけです.議会は抵抗したものの結局憲法「改正」案を呑まされます .5

 こうして彼は軍部の支持をえて独裁政治を開始します.その出自と弾圧の苛酷さから彼は「屠殺者」とよばれるようになります.

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・1930年の闘争

 29年10月ウォール街を襲った株価の暴落は世界中を大恐慌へと巻き込んでいきます.米国の事実上の植民地キューバはもっとも深刻にその影響をこうむることになりました.対米輸出額は恐慌前に比べ実に2割以下にまで低下したのです.人々は職を失い飢えに苦しみ路頭にさまようことになりました.

 27年の憲法改悪以来3年にわたり人民は沈黙を強いられました.しかしもう黙ってはいられません.30年4月マチャド独裁に対する大規模な抵抗運動が起こります.このとき反政府グループは合同して独裁抗議の集会を開催しようとしていました.政府はこの集会を禁止に追いこみます.これに対し集会開催者はこの決定が憲法違反であると提訴しました.4月19日最高裁は政府の集会禁止決定は違憲と判断します.これを機に反政府行動は一気に拡大,ハバナでは連日5万を越す集会が開かれました.

 全国総同盟は48時間ゼネストを指示.ルベン・マルティネスの指導する砂糖労働者を中核に20万労働者が参加したゼネストはみごと成功し,国内はマヒ状態におちいります.

 5月ハバナ大学の学生は再開された大学への入校を拒否してデモに移ります.このデモに官憲が襲いかかりました.暴行を受けた学生一人が死亡したことから学生の憤激はますます高まります.27年の憲法改悪に抗議する運動のなかでつくられた学生幹部団が闘争の先頭に立ちます.その一人ギテラスは大学を追放されたあとオリエンテに潜入,武装組織の結成をはかります.

 マルクス主義の影響を受けた学生は独自に「学生左派」を結成.指導者のアウレリアノ・サンチェスはマヤコフスキーの詩の一節「演説はもうたくさんだ.今度は君の番だ,同志モーゼル銃よ!」をスローガンに掲げます .6

 メノカル元大統領を指導者とする国民党反マチャド派は機に乗じて武装蜂起を画策します.これをかぎつけたマチャドは国民党の集会に武装集団を乱入させ8人を射殺,会場を血の海にします.

 31年8月,メノカルとメンディエタはピナル州のリオ・ベルデに上陸しますが,まもなく捕らえられてしまいます.上陸作戦は結局失敗に終わりました.軍や警察は反乱の動きに対抗して準軍事組織ポルラを結成,反対派を片っ端から暗殺していきます.憲法はふたたび停止され全国に暴力が荒れ狂います.学生幹部団メンバーはピノス島へ送られます .7

 事態を憂慮した独立戦争の英雄コスメ・デ・ラ・トリエンテは「誠実と理解」を訴えマチャドとの和解を図りますが,マチャドはこれにすら強権でもって応えました.有力者の一人ハバナ大学医学部教授のグラウ・サンマルチンらを逮捕して,反政府活動の罪でピノス島へ送ってしまうのです.

 ポルラの幹部は政治結社としてABCを結成.ムソリーニをまねて大土地所有の廃止,公共サービスの国営化,外国資本の統制,労働者保護などギマン的スローガンを掲げます.そして中間層・インテリを巻きこみ,社会混乱に乗じて挑発活動に乗り出します.注目すべきはこの組織が軍内下士官にも影響を及ぼしていたことで,当時コロンビア兵営で通信担当の下士官だったバチスタも,ひそかに加入しています.

 不況の影響は中間層においてもっとも深刻でした.彼らが生活不安からの脱出をもとめ右に左に政治的立場を動揺させるのも当然といえるでしょう.

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・コミンテルンと共産党

 この項はとりあえず飛ばして読んで下さい.そしてあとで興味があれば読み返して下さい.\  共産党は結党後わずか数年でタバコ労働者や砂糖労働者,鉄道労働者などのなかに不抜の影響力を確立します.しかしマルティネスら多くの有能な指導者が国外に追放されたり逮捕されたりするなかで,中間層をもまきこんで政治体制を根本的にあらためる姿勢は弱まっていました.中間派をファシストと同列視するコミンテルンのセクト主義的方針も大きな影響をあたえていました.

 29年6月コミンテルンの指導のもと第1回LA共産党会議が開催されます.会議は二段階革命論とトロツキズム排除を柱とすることで一致します .8会議で大きな論争となったのはひとつは武装蜂起戦術の是非についてであり,もうひとつはペルー社会党の指導者マリアテギが提起した民族固有の革命路線の是非についてでした.会議は結局武装蜂起については結論を保留する一方,マリアテギ路線をトロツキズムとして退けることになりました.今日考えれば国内の政治動向と無関係に労働者が工場委員会や労農ソヴェトを創設し,二重権力状態に移行させるなどというコミンテルンの方針こそトロツキズムそのものです.その移行形態が非平和的なものにならざるを得ないことは火を見るより明らかです.

 こんなヘンチクリンな方針を金科玉条のように守ることが革命的であり,科学的社会主義の理論を各々の国に創造的に適応していくことが反革命的であるのなら,勝負は闘う前からついているようなものです.32年のエルサルバドルにおける農民蜂起とその後の大虐殺はその悲劇的な代表例といえるでしょう.

 なお第二次大戦後日本の民主運動がとった自主独立の路線が,国際的に「トロツキズム」のレッテルを貼られた歴史的事実も記憶にとどめておく必要があるでしょう.

 一方における無原則的なサンジカリスト的傾向,一方における極左的な二重権力論,この二つが33年の革命をめぐっても典型的に現われます.9

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C.33年革命とグラウ=ギテラス政権

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(1)マチャド政権の崩壊

・「善隣外交」の開始とキューバ

 33年2月不況の真っただなかルーズベルトが米大統領に就任します.彼はこれまでのLAへの武力干渉を停止し民族自決権を尊重する「善隣政策」を打ち出します.その具体的内容としてパナマ,ドミニカへの干渉権の放棄,ハイチからの撤退,メキシコ駐兵権の放棄を発表します.そのなかにはプラット修正条項の廃棄もふくまれていました.非常に聞こえのよい政策ですが,米国が急にそんな親切な「サム叔父さん」に変身するわけがありません.要は金くい虫の海外派遣軍を縮少し属国の直接支配をカイライ政権による間接統治に切り換えるとともに,利権だけはがっちりと確保しようという虫のいい話です.

 そんな折ニューヨーク・タイムズ紙でポルラの市民虐殺行為が暴露されました.米政府は「マチャドのあいつぐ殺人行為は米国世論を刺激している.米政府はかかる非人道的殺戮を看過できない」と声明します.米政府が「看過できない」といえば看過しないのです.それがプラット条項なのです.米政府は特命全権大使としてサムナー・ウェルズを送り込みます.

 ウエルズは着任早々マチャドに「キューバ大統領への6項目の期待条件」なるものを突きつけます.「期待」の中身は「米国政府の意図するところに通暁すること,米国大使の示唆や忠告に忠実にしたがうこと」です.まさにカイライ扱いです.

 ウエルズはマチャドを別なカイライにすげ替えようと策動を開始します.まずデラ・トリエンテらと渡りをつけます.ついでABC,学生幹部会などと精力的な接触を行った末7月には「調停委員会」成立にこぎつけます.この委員会はデラ・トリエンテを議長にABCや国民党なども参加するポスト・マチャドの受け皿となるものでした.軍以外の支持基盤をもたないマチャドの権威は米国の心変わりによりもろくも崩れ去ります.まさにウェルズこそ33年政変の仕掛け人であり,激動する政治を背後でコントロールする「総督」だったのです.

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・ゼネストからマチャド退陣へ

 8月2日たまりにたまった民衆の不満は一気に爆発します.ハバナ市内の交通関係労働者が待遇改善を要求.バスターミナルを拠点にスト入りします.これがきっかけとなって瞬く間に全市に自然発生ストが拡大します.ハバナ大学では革命幹部会の学生がキャンパスを占拠し街頭に進出します.

 2日後にはすでに全土にゼネストが拡大していきます.共産党指導下の労働者は工場,鉄道をつぎつぎに占拠します.このときマチャド辞任のデマがハバナ市内に流れました.独裁者の退陣を喜ぶ市民の自然発生デモが大統領官邸へと向かいます.これをむかえる警官隊は無差別発砲で応えます.この事件で数十人が死亡し国民の憤激に火を付けます.

 8月8日これ以上の強硬策は危険と見たマチャドは共産党と会見,要求の全面受入れと引き換えにストを収拾することを提案します.10日スト中央委員会と労働者総同盟はこの提案を受入れ「明日正午を期して職場復帰せよ」との指令を発表します.

 しかし翌日もゼネストは中央委員会の指令を無視して続きます.もはやマチャド退陣に要求をすえた労働者は,共産党と労働者総同盟の説得を受けつける状態にありませんでした.

 マチャドは軍に出動命令を下し最後の賭けに出ます.マチャドを見限りはじめた軍は言を左右にしてこれを拒否.軍の一部は市民と合流し反乱を起こします.このときころあいを見たウェルズが幕引きとして登場しマチャドに引導を渡します.マチャドはついに政権を放棄しナッソーへ亡命していきます.

 ウェルズは軍幹部を召集,国民党首のセスペデスを臨時大統領に推薦します.セスペデスは第一次独立戦争の英雄セスペデスの息子にあたり ,駐米大使をつとめた経験も持ち親米派として知られていました.肩書きからいえば申し分のない人事だったのですが,惜しいかな彼には修羅場をくぐりぬけるだけの器量が欠けていました.10

 彼のさしあたっての任務は労働者の戦闘的分子をすばやく軍を動員してでも叩くことでした.そして民主主義的空文句と引き換えに統制への服従をおしつけることでした.労働者は闘争の目標を失い,闘いを機敏に展開・収束させるべき共産党の指導力を失い,伸び切った状態にあったからです.

 しかしその方針を実行しようにも頼りとする肝腎の軍そのものが混乱の頂点にありました.腐敗した高級将校に対する下士官の不服従が頻発し統制のきかない状態になっていました.こうしていたずらに時が費やされていきました.

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(2)「軍曹の反乱」とグラウ政権の成立

・バチスタのクーデター

 9月4日おそらくウェルズですら予想しなかった事態が発生しました.ハバナ市内にあるキューバ最大の基地,日本でいえば市ケ谷にあたるコロンビア兵営の下士官集団が反乱を起こし兵営を占拠してしまったのです.反乱はただちに全国の兵営に波及しました.アッというまに下士官たちが軍の実権をにぎってしまいます.バチスタ軍曹を首謀者とするこのクーデターは「軍曹の反乱」とよばれています.

 権力をにぎっては見たもののその重大さに下士官たちはすっかり困惑してしまいます.なんせほとんどが下層階級出身で政局に関与できるだけの素養がありません.フルヘンシオ・バチスタ・イ・サルディバルはその時わずか21才.オリエンテの最底辺に生きる無学なムラート小作農の息子だったのです.

 難を逃れた高級将校はホテル・ナシオナルに結集,両者のあいだににらみあいが続きます.さすがに老練な外交官ウェルズも,このような前代未聞の事態に際してどのように対処したらよいのかとっさには思い浮かばなかったことでしょう.

 この時機敏な反応を示したのが学生幹部会のメンバーでした.プリオ・ソカラスを先頭とする代表団は,その日の内にコロンビア兵営に乗り込み軍曹たちに共闘をよびかけます.

 軍曹達はいわば恐怖の選択を迫られたわけです.このよびかけを拒否すればいずれ権力の座に戻ってくる高級将校によってみな殺しにされるかもしれません.かといって左翼の連中と肩を組んでみてもいずれ彼らによって弾圧されることになるかもしれません.しかし当面さしせまった恐怖は将校たちによる報復です.であれば敵の敵は味方,当面学生と同盟を結ぶ以外に道はありません.

 というわけでコロンビア兵営の軍曹たちと学生は「キューバ革命連合」の結成を宣言します.

 兵営を出た学生たちは革命委員会を組織すべくその足で夜のハバナに展開します.そしてその夜のうちに,グラウ・サンマルティンら5名の反政府派の著名人のもとを訪れて革命委員就任を受諾させてしまいます.みごとな行動力という他ありません.

 ここまでの状況を見届けたセスペデスは辞任を決意します.「5人委員会」はグラウを議長に互選,ここに新政府が誕生することとなります.

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・グラウ=ギテラス政権の成立

 ヒョウタンから駒というたとえがピッタリの新政権ですがその基盤は脆弱このうえありません.7日まずいきなりウェルズからきびしいビンタをはられました.彼は「共産主義的傾向をもつ新政府のもとでキューバ全島が無政府状態となった」とし,ルーズベルトに軍事介入を要請.ルーズベルトはこれにこたえ軍艦30隻をキューバとキーウェストに派遣し,海兵隊と爆撃機を出動体制に入らせます.ただし直接介入は当面控えることにしました.

 9月10日革命評議会が開かれグラウを大統領に選出しました.グラウ・サンマルティンこそはキューバの良心を代表する人でした.彼はハバナ大学医学部で生理学教授,医学部長を歴任,キューバ医学界の頂点にたつ人物でした.しかし彼はマチャドが独裁政治を強めるやこれに果敢に反対し行動に立ち上がります.一時はピノス島の監獄に入れられるなど抵抗精神のシンボルとなっていました.

 しかしシンボルだけでは政治は運営できません.革命幹部会は実質的な政府運営をバヤモで蜂起を準備していた不屈の人ギテラスに依頼します.ギテラスは内相として入閣,いきなり政府ナンバー2の地位を占めることになります.

アントニオ・ギテラス

 27年,当時ハバナ大学の学生だったアントニオ・ギテラスは学生幹部会に加入し運動に参加した結果放校処分となります.このあとオリエンテ州で地下活動に入ったギテラスは薬の行商人を続けながら武装蜂起の計画を練ります.31年,32年と蜂起しますがいずれも失敗.それでも懲りずに33年4月に3度目の蜂起,今度は失敗はしたもののかなりいい線まで行きます.こうして次の作戦を準備しているところに政変の成功,そして入閣の依頼が舞い込んできたのです.

 弱冠26才,中央政界ではまったく無名のギテラスでしたが,大方の予想を裏切って意外な政策能力としぶとさを発揮します.まず労働者の要求を認める立場から労働省の設立,8時間労働法,労働国有化法,最低賃金法などをあいついで打ち出します.また民族主義的立場から50%法(雇用者の半分はキューバ人,総賃金の半分はキューバ人へ)を制定します.なかでももっとも具体的できびしい政策は電力料金の4割引き下げ決定でした.アメリカ電力会社は即座に料金値下げを拒否する声明を発表しました.ギテラスはこの声明を待っていたかのように電力会社の国有化を宣言します.宣言したから実施できるというほどの力は政府にはなかったのですが,米政府を怒らせるには十分すぎるほどでした.政府はそのほか米系砂糖会社の国有化,政府とマチャド派の所有する土地の農民への配分など農地改革にも手を付けようとします.

 なおバチスタは参謀総長に就任しましたが入閣の依頼に対しては固辞します.米軍と旧軍将校に対してフリーハンドを維持する思惑があったものと思われます.

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・ウエルズの新政府転覆策動

 ウェルズの政府転覆の決意は揺るぎません.まず彼は新政府不承認を基軸とする「不安定化」戦略をとりました.フェレル前陸相に政権転覆の準備を指示します.フェレルの指令を受けた将校団三百はウエルズの宿泊するホテル・ナシオナルに結集.バチスタ軍の包囲のなかでたてこもりました.

 学生左翼はゼネスト総括をめぐり混乱する共産党をしり目に「赤軍」を組織,オリエンテを中心に36の製糖工場を占拠,労農ソビエト運動を開始します.各地で将校派,バチスタ派,労働者の三つ巴の闘いが展開されていきます.

 混乱する情勢の中で治安を担当するギテラスの態度はきわめて明確なものでした.彼はウエルズがいようがいまいが,断固としてホテル・ナシオナルを攻撃し旧軍将校達をせん滅するよう主張します.10月1日コロンビア兵営でひらかれた作戦会議はギテラスの主張を容れホテル・ナシオナル攻撃を決定しました.

 翌朝6時ホテル前に陣取った装甲車が警備の将校に発砲,攻撃の火蓋が切って落とされます.といっても中に米国特使がいるのですから攻撃は慎重をきわめます.グラウはウェルズに対しホテル内の米国人を退避させるよう勧告しますがウェルズは拒否します.しからばと政府軍は本格的な銃撃を浴びせます.撃つこと3時間さすが剛毅なウエルズも退去に応じます.これで勝負がつきました.政府軍は銃撃に加え艦砲射撃まで行い午後4時過ぎに将校団の降伏を受け入れたのです.

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・ウェルズとバチスタの同盟

 ウエルズはしたたかな男です.将校団がダメと見るや今度はバチスタに接近します.バチスタの方からプロポーズしたという説もありますが,とにかく硝煙未だ褪めやらぬ頃彼は密かにバチスタと会談,米国への協力を約束させました.

 10月5日ウェルズは記者会見をおこないます.彼はまずグラウ政権を「共産主義的で無責任な政府」と論断します.その一方バチスタを「反共であることにおいてキューバを代表する唯一の人物である.この事実がキューバの貿易,財政上の利害代表の大半をバチスタ支持者としている」と天までもちあげます.こうして彼に米国の保障をあたえたのです.

 バチスタにとって米国のいうとおりに行動していさえすれば,すくなくとも米軍と闘わせられる危険はなくなりました.米国の指導のもとで上級将校たちと対等の立場に立てることになりました.もちろん上級将校たちとの闘いはまだ残されていますが,そのたたかいに勝てばみずからが軍の代表として君臨する道が開かれたのです.

 バチスタにとって学生らとの同盟関係はなんとも座り心地の悪いものでした.米国の支持を受けた彼らは同盟を破棄して労働者や農民への襲撃を繰り返すようになります.

 バチスタにとって運命の日がやってきました.11月1日,ホテル・ナシオナルに立てこもった旧軍将校ら4百人は新政府の混乱ぶりをみて市内に武装挑発デモに出ます.バチスタ軍はこのデモ隊を待ち伏せ一気に襲撃にでます.不意をつかれたデモ隊は惨敗し参加者ほぼ全員が捕らえられます.バチスタは彼らを兵営に連れ込んだあと残らず射殺してしまったといいます.ついにクーデターは完成しいまやバチスタのまえには輝かしい権力者としての道が開かれたのです.

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(2)グラウ=ギテラス政権の崩壊

・政権内部の矛盾

 一方新政権のまえにはイバラの道が続いていました.米国の政権不承認はそのまま経済の崩壊を意味していました.労働者の不満は高まりますが,政府には秩序の維持と生活困難に対する忍耐の呼びかけを続けるほかに方法は残されていませんでした.

 もしもという仮定が許されるなら,この政権がかたくなな反共の姿勢をあらためていたなら,国民の圧倒的多数を味方とすることが出来たのではないかと思われます.そうすればもう少し別な展開があったのではという気持ちは残ります.

 しかしこの政権は反共思想での一致なしには成立しえないものでした.そもそも政権成立の前提となったバチスタとの連合自体が反共の立場抜きには考えられないからです.それに米政府の承認を得て経済困難を脱するためにも,反共の立場を明確にしておくことは重要なポイントでした.

 共産党にも問題はありました.スト収拾に失敗し「人民に乗り越えられた」共産党は,8月26日中央委員会総会を開き深刻な総括をおこないました.その結果あらたに打ち立てられた方針は「各地区でソヴェトを人民権力の機関とし,かつソヴェトをして頂点における権力への踏み台とせよ」というとんでもない方針です.

 グラウ政権が登場すると,共産党はこの政権に「支配階級である米帝国主義者および国内の大土地所有の意志を代弁する欺瞞的なプチブル政権」とべたべたレッテルを貼り打倒の対象とします.10月政変後は学生左翼の運動を踏襲し労農兵ソビエトの創設をはかることになりました.工作の結果オリエンテ,カマグエイ,ラスビリャス州で30以上の製糖工場にソビエトが結成されますが,ハバナ近辺に拠点を築くことはできませんでした.

 バチスタは旧軍将校とのたたかいに勝利したあと一気にソヴェトの壊滅作戦にうつります.共産党が占拠した製糖工場はつぎつぎとバチスタ軍により陥落していきますが,共産党はさらに「ソヴェト死守」の方針に固執し犠牲をかさねます.

 その頃になって政府はおそまきながら米国と対決してでも民族主義の立場を守ろうと決意を固めるようになります.12月モンテビデオで開かれた汎米会議においてキューバ政府は米国の干渉政策と支配を公然と非難するにいたります.ギテラスは政権に対する左翼の支持を呼びかけますが,バチスタがその左翼に対し現に暴行を加えているのになんら手を打てないでいるようではしかたありません.もはや中間層と労働者が統一してたたかうための基盤は失われてしまっていたのです.

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・グラウ辞任とバチスタの実権掌握

 年が明けるとバチスタはいよいよ権力奪取にとりかかります.1月14日政府は料金引き下げに応じない電力会社の接収を発表します.このとき沖合い停泊中の米戦艦ワイオミングが突如ハバナ港に侵入してきます.すかさずバチスタはグラウの辞任を要求.ギテラス側は有効な反撃手段を持たないままこの要求を受入れることを余儀なくされます.そして19日にはメンディエタを臨時大統領とする「国民統一」政府が発足することになります.

 メンディエタはメノカルに次ぐ国民党ナンバー2の人物で,かつてマチャドの対抗馬として大統領選にも打って出たことがあります.もともとは第二次独立戦争を大佐としてマセオとともにたたかったベテランです.メノカルの侵攻作戦に参加してとらえられ革命の時点では獄中にいました.国民の支持を得られるだけの肩書きは持っていたわけです.

 彼は一方においてギテラスの推薦も受けながら臨時大統領に就任したのですが,決断力に乏しくバチスタの事実上のかいらいとなりはててしまいます.

 バチスタは新政権を代表して労働運動と「血を流しても」対決する意志を表明します.そして狂暴な弾圧をいっそう推し進めることになります.

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・33年革命,その後

 労農ソヴェトをめざす闘争は各地で血の弾圧にあい圧殺されていきます.共産党はこれ以上の工場占拠闘争の中止を指令しますが,学生左翼はこれに反対しあくまで闘争継続を図ります.その一部はボルシェビキ=レーニン主義党(PBL)を結成,グアンタナモを中心に活動を続けます.

 共産党の主力部隊と総同盟は実権をにぎったバチスタがますます独裁傾向を強めるのに抗議し,打倒のため3月ゼネストをよびかけます.バチスタは労組指導者30人を無差別のテロで殺害,活動家3千人を投獄し大学・労組を占拠するなど徹底的に抑え込みます.

 プリオら革命幹部会の主流はメキシコからマイアミに亡命したグラウを追って海外に出ます.彼らはあわよくば亡命政権が樹立出来るのではという期待を持ちながら,グラウを担いでキューバ革命党(PRC)の結成に動きます.この党は「民族主義,社会主義,反帝国主義」をスローガンに掲げてはいますが,米国に対する無批判性を根本的特徴としていました.革命の「真正派」を標榜したので一般には真正党(アウテンティコ)と呼ばれています.

 ギテラスはこれら「主流派」とは別の動きをとります.彼は内閣を辞任したあと国外には出ずにオリエンテに戻り組織活動を再開します.同時に全国的な支持基盤として学生幹部会左派を中核にキューバ青年同盟を結成します.

 36年2月ギテラスのグループが活動を開始します.あまりほめられた方法ではないのですが手始めにハバナの大富豪を誘拐し身代金60万ドルを獲得,他に銀行強盗などで資金を荒稼ぎします.この金を元にオリエンテの砂糖工場で武装ストを組織するのですが,これはみじめな敗北に終わりギテラスも重傷を負います.

 当面最大の敵であった共産党と総同盟の弾圧に成功したバチスタはついでギテラス派の弾圧に乗り出します.身の危険を感じたギテラスは地下に潜伏,5月には国外脱出を図ります.とりあえず米国でグラウらと合流しそこでホセに倣って革命軍を組織しようと彼は考えたのです.マタンサス東方のエル・モリーリョ海岸で密かに連絡を待ったギテラスですが,いざ出航しようとしたときスパイが密告します.ギテラスとベネズエラ出身の同志アポンテがボートにのって海岸を離れたまさにその瞬間,官憲の銃が火を吹きギテラスの身体は蜂の巣になります .11こうして36年を境に国内にめぼしい反対派はいなくなります.

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1 ゴメスは,文民統制というホセとの約束をエストラーダを推薦することで果たしたといえます.ただ十年戦争以来の闘士で剛毅な性格の持ち主マソーとはそりが合わず,作戦をめぐって何回か衝突したこともあるようです.マソーに対していささか含むところがあったのかも知れません.

2 バカルディといえば世界最高のラム酒です.ラム酒製造で名を挙げたバカルディ家は代々独立派を支持してきました.シエラマエストラの時代にも秘密裏にカストロに資金を提供していました.
革命後政府と意見が合わず亡命,現在はジャマイカに移住しラムを作り続けています.その一方,マイアミの反革命テロ組織の有力なスポンサーにもなっています.
彼らはサンチアゴに素晴らしい酒樽と豪華な家屋敷を残しました.私は旅行中にバカルディの23年モノを手に入れましたが,帰ってみると陶製の瓶が鞄のなかで粉々になっていました.

3 モルアは黒人穏健派の代表的存在で当時上院議長を務めていた.マセオの衣鉢を継ぐモルアはキューバ人民の統一を訴え宗教・人種の差を強調する動きを危険視した.一種の時代錯誤でありこれが支配層に利用されたといえる.

4 1912年といえばメキシコでは革命の真っ最中,ニカラグアでは英雄セレドン将軍の海兵隊への反乱などが起こっています.ドミニカ,ハイチでも米国とそのカイライ政権への闘争が高揚し始めています.米国は「棍棒外交」と称して頻繁に武力干渉をおこないながら中米カリブでの覇権を確立しようとしていました.
こうした状況のもとで,米帝国主義とのたたかいなしに民族の自立も民主主義も望めないということが,否応なしに諸国人民の頭にたたきこまれました.そういう意味でこの時期は革命運動史上の転換点といえるでしょう.

5 ケンブリッジ大学出版の「ラテンアメリカ史」では,マチャドの功績を讃えた議会がこぞって推したことになっています.詳細な事実関係は不明としても,前後の関係からはこのような評価は適切とは思えません.

6 マヤコフスキーは,ロシア・アバンギャルドとよばれるダダイストのグループから転向した,ソ連初期の著名な詩人.過激な言葉を連ねるレトリックで,当時の青年を魅了した.

7 ピノス島はキューバ本島の南に浮かぶ島.広さ3千平方キロといいますから佐渡や淡路島並みです.米西戦争のどさくさで米国が占領していましたが,マチャドの時代キューバに「プレゼント」されました.マチャドはここを監獄島にして政治犯を続々送り込みます.カストロもモンカダ襲撃のあとここに送られています.革命後この島は「青年の島」と改称され多くの青年学生を受け入れるようになりました.観光スポットとしても力が入れられハバナから定期便も飛んでいます.

8 トロツキズムとはスターリンによりソ連から追放されたトロツキーの主張を総称するもの.スターリンの野蛮な支配に対抗する点では一面の真理性を持っていますが,歴史的に見れば結局は一種の対抗思想に過ぎないといえます.彼の遺鉢を継ぐと称する集団はほとんどがアナーキーな極左主義者であり,反共産党という面からして権力の手先の侵食も著しく,時には組織そのものが権力側の陰謀組織となっている場合もあります.キューバはその典型でした.
セクト主義,二段階革命論,労農ソヴェト,二重権力などについては参考文献を参照のこと.

9 サンディカリズムは無政府主義の源流で,シンジケート(友愛を基盤とする結社)が社会の調整を行えば国家など不要だとする一種の空想的社会主義です.マフィアの世界にその典型を見ることが出来ます.転じて,労働組合が政治を握れば人民のための政治が実現するのだという意味にも使われます.かつての総評=社会党ブロックにこういう傾向がありました.エルサルバドルの悲劇,自主独立路線などについては,巻末の参考文献をご参照下さい.

10 バヤモのムセオはセスペデスの業績を中心に展示されています.私がびっくりしたのはセスペデスの子沢山ぶりです.相手はもちろん一人ではありません.美人の説明員が言いにくそうに「彼は若い女性を好んでいた」と言っていましたが,サンチアゴの歴史家はもっと直截に「セスペデスはロリータ・コンプレックスだった」と言い切りました.
ここで登場するセスペデスを私は孫かと思っていましたがなにを隠そう最後の子でした.実に死の1年前の生まれです.歴史家はこう耳打ちしました.「彼がサンロレンソで入浴中に殺されたとき,12才の娘といっしょだったんだ」

11 ハバナから東へ海岸沿いに1時間半ほど車をとばすと,ハッと息を呑むような美しい海が見えてきます.マタンサス湾です.沖合いに長く延びる桟橋は石油タンカーの受け入れ施設です.そこから南にのびるパイプラインはシエンフエゴスまで達し,そこの精油施設で精製されるとのことです.
ひなびたスペイン風の町並みをやがて通り過ぎたあたり,海岸に降りて行く小道があります.この道はやがて磯場に尽きるのですがそこに何百年も前に建てられた小さな要塞があります.ここがギテラスの隠れ家でした.現在はギテラス記念館になっていますが,訪れる人もすくなく説明のおばさんも暇をもてあます様子でした.他ではなかなか見られないギテラスの生涯が展示されておりなかなか貴重なものです.
キューバを尋ねる人は殆どバラデロへ行くでしょう.その途中にちょっと寄ってみたらよいと思います.

 

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