第七章 エピローグ

 

A.ミサイル危機後のケネディ

(1)ケネディ世界戦略の展開

・直接侵攻のとりあえずの断念

 時間はもういちどミサイル危機の直後に戻ります.この時点でもなおケネディはキューバ「解放」をあきらめてはいません.

 62年12月キューバとの交渉が成立しました.6千万ドル相当の医薬品と引き換えにプラヤヒロンの捕虜1,113名が解放されます.捕虜はパンナムの特別機でつぎつぎとマイアミに到着してきました.ケネディはスタジウム一杯の集会参加者を前に「2506旅団の軍旗がいずれ自由なハバナに翻えるだろう」と大見栄を切ります.捕虜たちは「Guerra! Guerra!」と闘いの叫びで応えます.

 その気持ちは気持ちとして彼はキューバ「解放」については,もう少し時期を待つという方針に転換していたようです.現在の力関係で作戦を再開しても結局ミサイル危機の再現となるのが落ちです.何とかこの政治的隘路を打開しなければなりません.

 ミサイル危機から暗殺されるまでの約1年間ケネディの政策は大きく変わります.この変化をどう評価するかは戦後史評価の上での分水嶺となっている,といっても過言ではありません.中ソ対立の激化,部分核停条約,そしてベトナムにおける軍事クーデターなど世界を揺るがすような事件がこの1年間に発生しています.そのような激動期であるにもかかわらず,去年まで米国にとって最大の懸案であったキューバ問題がすっぽりと抜け落ちています.実はそのこと,ケネディがあえてキューバ問題を無視する態度に出たことこそ重大な問題だったのです.

・米ソ「平和共存」と各個撃破政策

 転換の第一の理由はほかならぬケネディが蒔いた種子です.核ミサイルが人類を絶滅させてしまうかもしれない危険をあれだけ宣伝したのですから,あえて自分からその危機を再現することは出来ません.

 第二の理由は団結したキューバ人民の意外なしたたかさです.当初予想したよりはるかに大きな犠牲を払わなければキューバをわがものにすることはできそうにもない,それどころか泥沼化する危険さえある,これはミサイル危機を通じて痛感したことと思います.「祖国か死か」のスローガンはダテではなかったのです.

第三の理由は第二の理由の裏返しになりますが,キューバ国内における反政府組織の絶望的壊滅です.ミサイル危機の余韻さめやらぬ62年11月国内反革命組織の最高指導者オロスコが逮捕されました.これでキューバ国内にめぼしい反革命勢力は消滅してしまいます.統合参謀本部が侵攻計画立案にあたってつけた最大の条件が消失してしまいました.

 第四の理由は世界情勢の変化,とくに社会主義諸国内の不団結が顕在化したことです.63年はまさにその年でした.ケネディはこの亀裂を見逃しません.フルシチョフとの「平和共存」を大々的に打ち上げながらいっぽうでは中国の封じ込め,他方ではベトナムや中東のソ連との切り離しをはかります.キューバの現状維持はそのためソ連に与えられた交換条件となりました.

 さらにこの「平和共存」が,ケネディとフルシチョフのそれぞれの思惑から出た「2人にとっての共存政策」だったことも見ておく必要があります.ケネディ同様フルシチョフもその権力の座は決して安定したものだったわけではありません.ミサイル危機での妥協はキューバだけでなく中国からも激しい非難を浴びました.ソ連国内においてはフルシチョフ批判は公然とは出て来ませんでしたが,その強さは中国以上だったかも知れません.現にフルシチョフはケネディの死後まもなく失脚の憂き目にあいます.まさしく2人は運命共同体だったわけです.

 ケネディが依怙地になってキューバ強硬策を貫けば,それだけフルシチョフは困難な状況に陥ることになります.ケネディはベトナムを,フルシチョフはキューバをとることでおたがいの危機をのりきろうとしたのではないでしょうか.

フルシチョフがベトナムに関して及び腰になった結果,ベトナムの解放勢力はこの時期かなり孤立したたたかいを強いられました.この年ベトナムのバチスタともいうべきゴ・ジンジエム政権は,CIAの予防クーデターにより打倒されましたが,これら一連の経過はソ連によって事実上黙認されたのです.

 これが未完に終わった「ケネディ戦略」とよばれるものです.この作戦は愚かものの後継者ジョンソンがいったん台無しにしてしまうのですが,奇しくもかつてのライバルであるニクソンが全面展開していきます.

・キューバ封じ込め政策

 ケネディは無条件にキューバをソ連に差し出したわけではありません.とりあえず軍事的な作戦は保留するにしても,さらにキューバ包囲網を強化し,いびっていびっていびり抜いて,あわよくば内部の混乱を引き起こそうと狙っていました.

 2月におこなわれた中米5ヶ国との合同首脳会談では,キューバに対する共同包囲網を形成することで合意されました.7月のOAS外相会議はキューバとの人的交流禁止を決議しました.勢いに乗る米国は「米州における共産主義者の活動禁止」の決議採択まで狙いますが,さすがにこれは継続審議となりました.

 当時中南米で政情不安を抱えていたのがグアテマラとベネズエラでした.グアテマラに関しては中米首脳会談でイディゴラスに対し露骨に大統領退陣が迫られました.会談のわずか2週後には「奇妙なクーデター」が発生しイディゴラスは粛々と亡命していきました.これにかわったペラルタ軍事政権は世界にその名をはせた残虐な弾圧を開始していきます.

 「キューバに続くかも知れない」といわれるほどゲリラ闘争がさかんだったのがベネズエラです.この国に対しては本格的な軍事的テコ入れを開始します.対ゲリラ作戦の専門家が軍事顧問の資格でゲリラの本拠地ララ,ファルコン両州に入ります.キューバに対して同情的だったエクアドルでは,米大使によって組織された軍部右派がクーデターによりアロセメナ大統領を追放します.

 ソ連に対しても対キューバ作戦を妨害するようなら容赦はしないという高飛車な態度に出ます.おそらく軍部の圧力もあっての事でしょうが,ミサイル危機でソ連の屈伏を引き出したことで,もっと脅せばもっと譲歩を引き出せると踏んでいたのではないでしょうか.たとえばラスク国務長官は「キューバを侵略しないという約束はもはや無効」と発言する一方,「キューバからソ連軍人も撤去せよ」と要求しています.いったいどういう神経でしょうか?

 経済封鎖も引き続き強化されました.国務省はキューバに対敵通商法を適用し,3千万ドルの銀行預金をふくむ在米キューバ資産を凍結しました.先立つゲバラの決断がなければ事態はさらに深刻だったでしょう.さらに米政府は英国,カナダ,メキシコ,スペインにキューバへの商業飛行を停止するよう要求しますがこれは拒否されます.

・作戦の国務省への一元化

 63年2月末統合参謀本部はマングース作戦の最終的中止を決定します.もはやキューバ作戦は軍事行動一本槍では進まなくなり政治の場に移されたのです.マングース作戦を統括したNSC内の拡大委員会も解散されました.

 NSCはポスト・マングース戦略を探るものとしてあらたにキューバ問題再検討特別グループを組織します.グループの目的は「ミサイル危機後の情勢に対応した新たな指針を作る」こととされ,議長にはバンディ安全保障担当補佐官が就任しました.一種の政策プロジェクト・チームです.その狙いはもう一度キューバ問題を国際的環境の中に位置づけなおし,外交,通商,軍事,秘密作戦の整合性を図ろうというものです.

 秘密作戦や破壊工作などは新戦略全体の中では傍流になっていきます.グループの秘密工作に対する役割も縮小され,タスクチームから提出された個別の作戦を検討し許諾を与えることのみに限定されました.

 キューバ工作の担当は国務省に移されました.ペンタゴンでテイラー議長直属の機構として肩で風を切っていた作戦本部は廃止され,スタッフは次々に荷物をまとめます.ランスデールは「作戦は終わった.すべてのファイルは記録保存所送りにしてくれ」と捨てぜりふを残し去っていきます.

 国務省内には「キューバ調整委員会」が設置され,これまでの作戦を引き継ぐことになりました.この委員会は秘密工作の推進とキューバ封鎖の強化策を並行して検討することとなります.ここでCIAやペンタゴンと協議しながら秘密作戦をも統括する理屈ですが,准軍事行動や暗殺作戦などはとても国務省の手に負えるものではありません.CIAは徐々に政府にも断らず独自行動を展開するようになります.

・マフィアとの訣別

 ケネディの政策目標には世界的戦略に関するものばかりではなく,もっとミクロでその分なまぐさい目標があります.それは64年の選挙に向けて再選体制を固めることであり,そのために外交,内政の各方面にわたって「得点を稼ぐ」ことであり,独自の人脈や金づるを確保することです.

 当選以来ケネディにとってキューバは鬼門でした.ピッグス湾,ミサイル危機とさんざんです.この上また何かをしでかせば政権にとって命取りになりかねません.できることなら少なくとも二期目まではキューバに触れないでおきたい,と考えるのが人情というものでしょう.であれば人脈的には狂信的なキューバ侵攻論者を遠ざけておきたくなるものです.

 それはマフィアとの決別をも意味しました.ところでケネディとマフィアとの関係は愛憎半ばする複雑なものです.そもそもケネディの父親が禁酒法時代に密売酒の販売で財をなしたことは有名な事実です.父ケネディはこのビジネスを通じてシカゴ・ギャングと深い関係を持っていました.大統領選挙にあたりケネディ一家はこの人脈を最大限利用します.ケネディが僅差で勝利することができたのもイリノイ州の票が大きかったと言われます.

 ケネディの派手な女性関係も有名です.ジアンカーナの二号さんと関係を持ったとか,マリリン・モンローを弟のボブ・ケネディと「共有」したとかうわさが絶えません.大統領選の1年前にはランスキーの招きでハバナに赴き,1ヶ月間女遊びにうつつを抜かしたという話もあります.クリントンがケネディを模範としていたというのも肯けます.

 しかしこれから東部のエスタブリッシュメントと結んで安定した政権を確立しようとするなら,このダーティーな関係は清算するに越したことはありません.その際弟のロバートが対マフィアで強硬路線を突っ走り,それを認める形で兄が追随していく方式をとったようです.ロバートは司法長官としてマフィアの大規模な摘発に乗り出します.ニューオリンズ・マフィアのマルセロは国外追放処分を受け,チームスター労組のボス,ジミー・ホッファは脱税容疑で起訴されます.

(2)CIA,隠密行動を強化

・新オペレーション40の組織

 ミサイル危機の直後CIAは深刻な存亡の危機に陥ります.ダレス長官と二人の副長官がすでに罷免され,新たな長官には全くの素人であるマコーンが送り込まれました.ビッセルが作戦責任者として指名したハーベイもいまや任を降りました.

 ケネディのCIA敵視はその後も続きます.マングース作戦の本部は解散となり残務は国務省に移されました.このことでCIAは対キューバ政策の決定過程に対するアクセスを事実上失ってしまいました.

 この未曾有の危機に立ち向かったのがビッセルの後任として副長官に就任したヘルムズです.彼の大戦略は独自の財源,独自の兵力,そして独自の意志決定にあったようです.むろん独自性の及ぶ範囲はもともとのCIA固有の領域に限定されていたのでしょうが,それにしてもこれは国家への反逆といってもいいくらいの重大な問題です.

 ヘルムズはJMウェーブで暗殺作戦を指揮していたフィリップスを,新たにキューバ作戦の責任者に指名します.彼は2506旅団の生き残りを中心に亡命キューバ人武装組織の統合組織作りに乗り出します.この組織名にはタラレウ時代の暗号名「オペレーション40」がそのままつけられました.原点に戻れということでしょうか.

 部隊の指導にはハント,ヘミングス,スタージス,クレイ・ショーが共同して当たることになりました.キューバ人幹部にはディアス・ランス,フェリックス・ロドリゲス,ニーニョ・ディアス,アルティメ,ボッシュらをすえます.ゲリラ部隊が中米各地,ジャクソン基地,ベニング基地などで訓練に入ります.

 部隊の中核として特殊行動班が改組され「コマンドー」を結成しました.アルティメを指揮官とするコマンドー部隊はニカラグアの密林でサバイバル訓練を繰り返します.シュワルツネッガーの世界です.

 フィリップスはCIAメキシコ支局に支局長として転出,メキシコ・シティーは対キューバ謀略の司令部となっていきます.支局長代理にはハントが就任しフィリップスを支えます.

・闇の帝国の形成

 これらの作戦を政府とは独自に運営するとなれば莫大な資金が必要です.CIAはまず独自の財源獲得作戦を開始しました. 

 反革命軍には二つの作戦を通じて膨大な武器がストックされていました.これを中米諸国へ売りつけることで儲けが得られます.またドラッグをニカラグア経由の秘密ルートで送り込めばばく大な利益が上がります.さらにCIAはFBIやDEAといえどもうかつに手は出せない治外法権を享受していました.

 CIAが「独自路線」を強めるにつれ,その周りには得体の知れない連中が集まり始めます.まずマフィア・グループです.なかでもトラフィカンテやマルセロは,作戦に深く関わるなかで武器=麻薬密輸のルートを確立していきます.1亡命キューバ人のなかでもマス・カノーサのように目端が利くものは度胸に任せ財を築いていきます.ニカラグアのソモサ一族もキューバ・コネクションのなかで大いに私腹を肥やしました.

 これらの連中と持ちつ持たれつの関係を築きながらCIAも活動資金を獲得していきます.これらのダーティーな関係のネットワークが,のちにジョンソンをして「カリブ殺人会社」と呼ばせる組織を形成していくのです.

 もう一つは石油成金を中心とする南部資本家たちです.彼らはそれまでもケネディの黒人対策やキューバ政策に不満を持っていましたが,あくまでもそれは政治の世界の話でした.しかし政府が石油採掘に対し税金をかけると発表するやそれは怒りに変わりました.

 そこにCIAが手をさしのべたのです.反共反ケネディの資本家たちを一種の秘密結社となるまでに組織固めしたのは,ダラスでは亡命ロシア人のモーレンシルツ,ニューオリンズではビル経営者のクレイ・ショーです.いずれもCIAのエージェントであったことが今日では明らかになっています.

 こうして独自の財源,独自の軍事組織,有力な政治的パワーを獲得したCIAがその力を行使して独自の決定をしたくなるのは当然でしょう.

 

B.ケネディとCIAとの角遂

(1)ケネディ,武装集団に干渉

・対ソ攻撃を禁止

 オペレーション40のもと体制整備なった武装組織はふたたび攻撃を強化します.とくに大きな変化としてはソ連を直接の敵として攻撃を加えはじめたことです.3月26日ハバナに向かい航行中のソ連輸送船が攻撃されたことは大きな反響を呼びました.アルファ66が快速艇で攻撃したとみずから声明します.これは大変な問題です.ケネディにしてみればまたもやCIAの愚行にまきこまれ世界戦争を挑発することになります.ましてやソ連とのあいだで部分核停条約交渉が最終の詰めに入っているこの時期です.

 怒り心頭に達したケネディは,ただちにアルファ66などのキューバ襲撃を中止するよう指令します.彼のキューバ人集団への圧力はそれにとどまりません.革命評議会への公的援助を停止し,なんと侵攻計画の存在そのものまで否認してしまうのです.さらにケネディはFBIを派遣し「ノーネーム・キー」の基地を摘発,武器を押収させます.移民局は不法滞在者の摘発に乗り出しました.

 ケネディのこの決断はソ連とキューバに対する一種のジェスチャーとしての意味も持っていました.1ヶ月の長期にわたりソ連に滞在したカストロは,帰国後ABCテレビのインタビューに答え「捕虜の釈放と亡命者組織への援助停止は両国の関係改善にとって二つの好ましい徴候である」と述べます.これはソ連最高指導部との意志統一にもとづくエールの発信と受け取られます.

 老婆心ながらいささか性急に過ぎるこの決断は亡命キューバ人の強い反発を呼びました.革命評議会のミロ・カルドナ議長は「新侵攻計画の約束を裏切った」と米政府に抗議し辞任します.これまでくすぶっていたケネディと亡命者組織の確執が一気に表面化します.亡命者たちの精神構造からすれば最初は敵は唯一カストロのみでした.そのうちにカストロを援助するソ連も敵となり,さらにそれとつるんで反革命活動を妨害するケネディも敵と考えるようになっていきます.

・ロバート・ケネディの介入

 CIAの独自行動にいらだちを強めるケネディは秘密作戦部隊の再編成に乗り出します.秘密作戦をもふくめた対キューバ作戦の全体をみずからの手に掌握しようとの意志の表れです.全権を託されたロバート・ケネディは,キューバ問題再検討特別グループを通じてCIAに「キューバに対して取り得るあらゆる手段のリストを提出するよう」指示し,とりあえず実態の把握をはかります.

 たしかにロバートはNSCにおけるマングース作戦の共同責任者であり,前後の経過からすれば彼が秘密作戦の統括責任を担っても必ずしも不自然ではありません.しかしこの時点では秘密作戦の立案・実行はすでにNSCの手を放れ,国務省にいったんは移行しています.今回の措置は唐突かつ強引ととられても仕方ありません.

ロバートの行動はそれにとどまりませんでした.キューバ問題再検討特別グループの議論を経て新たな対キューバ秘密作戦を策定するのです.それはケネディ公認の行動でした.ソ連との正面対決になりかねない作戦や米国内の基地を利用した侵攻作戦は,注意深く取り除かれています.この計画は6月15日の国家安全保障会議で承認されました.この作戦は主要石油精製工場の破壊,発電所の破壊,キューバ最大の製糖工場の一つ「ブラジル」の破壊の三つからなっていました.

ちょっと考えるとこの一連の行動は不可解なところがあります.それまで政治的な包囲にスタンスを移していたケネディがなぜ突如として好戦的になったのか? 「俺がやる」といってしゃしゃり出てきたのか?

 しかしその目的が秘密作戦そのものではなく,作戦を通じてケネディの直接指揮権を獲得しようとするところにあったと考えれば,これらの行動は容易に説明できます.このときロバートはピッグス湾参加者エンリケ・ルイスと会見しています.ルイスはCIAのなかではロバートと近い関係にある人物と見られていました.ロバートはルイスに亡命者組織を米政府の意向に添って一本化するよう工作を依頼したといわれます.これはもうあからさまな分裂工作です.

(2)対抗から対決へ

・CIA,独自作戦に移行

 6月末から主力部隊はニカラグアに移動していきました.7月に入るとアルファ66,コマンドLなどがあいついで襲撃を開始しました.さらに8月には爆撃機がカマグエイの製糖工場およびカシルダ港の石油基地を爆撃します.

 しかしCIAは一連の作戦を冷ややかな目で見ていました.それは系統的な戦略計画の一部分をつまみ食いしただけのものであり「ケネディはキューバのため闘っているぞ」というアリバイづくりです.意地悪くいえば部分核停条約で対ソ平和共存を推進しようとするにあたり,共産主義に対し妥協しているわけではないことを示す政治的ショーととれないこともありません.

 このような個別作戦を積み上げてもキューバ転覆の展望は見えてきません.本気でカストロをやっつけようとするならやはりマングース作戦に代わる戦略が必要です.ロバートによる露骨な切り崩しに不信を募らせるCIAは,この頃から作戦のほとんどを政府の承認なしに進めるようになります.

 彼らのたてた秘密作戦は壮大なものです.ピッグス湾のように密集軍団を1カ所に上陸させるやり方は捨てられました.その代わりコマンドー精鋭千名をキューバの至る所に侵入させ,根拠地を形成しゲリラ戦を展開する作戦が採用されました.最新兵器で武装された兵士一人当たりの殺傷能力はキューバ軍1個小隊に相当するといわれます.上陸地点はバラデーロ半島や本島周辺の三千もの島々とされました.交通不便な場所に何カ所も同時に侵略基地が形成されるなら,キューバ軍といえども駆逐するのは容易なことではないでしょう.

・亡命者部隊への追い打ち

 主力がニカラグアに移動したとはいっても,現に亡命者が生活している米国内で訓練ができないというのはかなりの制約です.フロリダの国際反共旅団基地ではMIRRを中心にDRE,11月30日運動の部隊が訓練を受けていましたが,あいつぐ当局の捜査を受け事実上壊滅してしまいました.これに代わり浮上してきたのがニューオリンズ近郊ポンチャートレーン湖の秘密基地です(第三部第三章参照). 

 CIAはここを国内最大のゲリラ基地として指定しました.プリンギアの率いるDREも本拠をニューオリンズに移します.バニスターはマイアミの国際反共旅団と連絡し,ニューオリンズ=マイアミ間の秘密輸送ルート「ルイジアナ回廊」を開拓します.

 ロバート・ケネディはこの新たな本拠地に対しても容赦しませんでした.8月はじめにはFBIと地元警察がポンチャートレーンに立ち入り捜査を行います.その結果1トンを越えるダイナマイト,90センチ砲,ナパーム弾など多数の兵器が押収されました.警察はその場に居合わせたキューバ人9名,米国人2人を拘束します.

 6月から7月にかけてのケネディ兄弟のCIA攻撃は尋常なものではありません.この間にもCIAと密接な関係にあるニューオリンズ・マフィアのマルセロ,チームスター労組のジミー・ホッファに対する裁判が進行しています.こうなるともうCIAとケネディ兄弟とのあいだは決定的な破局です.ヘルムズをトップとするCIA軍団はケネディ抹殺を決意します.おなじ頃オズワルドはニューオリンズで奇怪な行動を開始するのです.2

 

C.未完に終わった新キューバ政策

(1)ケネディ,ハト派に転換

・CIA攻撃の背景

 突如始まったCIA追及は何を意味していたのでしょうか.おそらく最大の問題はCIAが作り上げつつあった「闇の帝国」に対する恐怖感だったのでしょう.他の理由からはこれだけの強引さと執念は説明つかないようです.

米国内での亡命者の策動は目に余るものがあります.彼らは治外法権的な特権を与えられ,一国の軍隊にも劣らないほど高度に武装しています.そのいっぽう,キューバ国内での反革命勢力は絶望的に壊滅し,軍事作戦によってキューバを「解放」する見込みは当面ほとんどなくなっています.つまりなんのために存在するか分からない組織になっています.これほど危険な存在はありません.

 ケネディはまず彼らをみずからの直接指揮下におきコントロールしようと狙いました.しかしそれは失敗します.その過程でケネディの意図を妨害しているのがCIAそのものであることがはっきりとしてきました.

 CIAは明らかに政府の統制を外れ独自の方向に歩みだしています.資金集めのためダーティーなビジネスにも手を染めていました.度重なる回答に反しマフィアとの結びつきが切れていないことも明らかになりました.さらに彼らは南部資本家や軍内のタカ派とも結びつきを強めています.これらの事実が明らかになったときケネディ兄弟がどんな思いを抱いたかは想像にあまりあります.

・ハト派結集でCIAと対抗

 これから11月22日までの3ヶ月間ケネディの展開した行動は猛烈なものでした.何か憑き物がついたような感じさえします.そのパターンは一言でいえば徹底したハト派への転換路線,タカ派との正面対決路線です.

8月末に奴隷解放宣言百年を記念する公民権運動大集会が持たれました.ケネディはこの集会への支持を表明しました.キング牧師の「私には夢がある」という有名な演説があったのもこの時です.つづいて9月3日ケネディはベトナム駐留中の軍事顧問団1万5千人を引き揚げると発表します.「90マイルしか離れていないキューバに対する軍事行動をも正当化できないわれわれが,9千マイルも離れた東南アジアでの戦争を果たして正当化できるのだろうか?」という演説内容は意味深長です.

 このようにスタンスをハト派側に寄せるいっぽう,ケネディはタカ派への圧力を引き続き強めます.ジアンカーナはFBIにより事実上の自宅軟禁状態におかれます.マルセロも入国管理事務所の厳しい監視下におかれます.捜査に消極的なFBI長官フーバーに対しては非公式ながら退陣が勧告されました.

(2)カストロとの接近

・キューバ政策変更の理由

当初考えた武装集団を直接指揮下に入れる案は不可能になりました.ついで彼らを国外に追い出し国内基地を徹底的にたたく作戦を実行しますが,CIAの抵抗にあって成功しません.中米を含む武装組織のネットワークを根絶やしにしない限り武装解除は不可能です.このネットワークを廃絶するにはそれなりの条件が必要です.元はといえばケネディ自身がこの作戦を推進したからです.

そうなるとCIAに率いられたゲリラ=マフィア=極右の結合体を粉砕するための大義名分が必要です.それはキューバとの関係正常化以外にありません.しかしそれは恐ろしいまでに思い切った決断です.そこまでの切迫感があったのでしょう.

 実はこの結論に至るにはいくつかの伏線がありました.さかのぼればすでに62年6月ミサイル危機の始まる前に,ケネディは密かにニューヨーク・タイムズのマシューズ記者を呼び,キューバ政策に関して意見を聴取しています.マシューズ記者はキューバとの和解を強く説いたといわれます.

 さらにこの年の4月バンディ委員会がNSCに提出したメモでは,さまざまな条件設定の一つとして「カストロとのある種の合意に基づく事態の進展」を想定していますが,これもケネディの意向を反映したものでしょう.6月の閣議では「カストロとの連絡チャンネルを作ることが可能かどうか検討することも一つの価値ある課題であろう」との認識で一致したといわれます.バンディが「建設的代案」と称するこの方向がケネディのキューバ路線となっていきます.

・アトウッドによる秘密交渉開始

 この「建設的代案」にはもうひとつ隠された狙いがあります.フィデルにソ連との縁切りをそそのかすことです.現にカストロがソ連との決裂を考えているのではないかと思わせる徴候はたくさんありました.この作戦がうまいこと成功してキューバがソ連と絶縁すれば,もうフルシチョフとのあいだの義理は関係ありません.あとは「熟れたリンゴ」よろしくどうにでも料理できるという寸法です.

 9月ケネディは側近の一人で駐ギニア大使のアトウッドを呼んで秘密工作を依頼します.ギニアは当時小国ながらセク・トーレ大統領の下アフリカの民族運動の先頭を走っていました.キューバとも親しい関係にあります.アトウッドはギニアの外務省を通じてキューバのレチュガ国連大使と接触し,国交回復の用意があることを伝えます.レチュガの連絡を受けたカストロはアトウッドをハバナに呼ぶように指示,同時に数千人におよぶソ連軍事顧問を送還し政治囚を釈放するなど,対米デタントにむけたジェスチャーを示します.

ここまでくるとあとはどうしても非公然の活動だけでは話は進みません.かといってアトウッドが直接キューバにおもむくのは余りにも唐突ではばかられます.そこでアトウッドは知人のジャン・ダニエルを利用することを思いつきます.フランスの雑誌記者ダニエルは,ちょうどその時キューバを訪問しカストロと会見することになっていました.10月24日ケネディはダニエルとホワイトハウスで会見します.彼は密かにカストロへのメッセージを託します.

 いくら「密かに」といっても,これからカストロと会見する予定の人と会うのですからバレないわけがありません.政府部内では上を下への大騒ぎになります.CIAはおそらくこれを見て「事実上のクーデター」への最終決断を下したのだと思います.

(3)ケネディ,ダラスに死す

・ケネディの密使,フィデルと会見

 ダニエルがキューバへ旅立つのと時を同じくしてケネディも保守反動の牙城,南部遊説にでかけます.おそらく相当の覚悟を決めた上での出発だったことでしょう.すでにその前から亡命者組織より「死の脅迫状」が送りつけられてきています.

 11月18日ケネディはマイアミを訪問し汎米新聞編集者協会で演説します.かれはまずカストロらを一握りの陰謀家集団と非難します.そして「真の革命を望むキューバ国内の革命的集団」を励まし,「西半球にもうひとつのキューバを作らせることは断じてありえない」と強調します.

 そのうえで「米国はどんな国に対しても,その国のあるべき経済政策について命令するつもりはない.どんな国にも,その国民の必要性と意志に応じて,独自の経済制度を形成する自由がある」と述べます.またキューバがソ連に対して主権を回復し,近隣国の政府転覆への活動をやめるなら「すべてが可能になり,われわれは友情と支援の手を差しのべるだろう」と語ります.

 同じ頃ダニエルはカストロと会談をはじめます.ダニエルによればカストロはケネディのメッセージを「ひとことも聞き逃さぬように熱情的な関心をもって」聞きました.そのあとでこう語ったといいます.

「わたしはケネディが正直に話していると信じよう.わたしは正直さを表わすことは政治的にも意義深いことだと思う」

・11月22日,ダラス

 歴史の針が大きく動こうとしたその瞬間,数発の銃弾がその針を逆戻りさせてしまいます.ケネディが暗殺されたのです.

 犯行の数時間後ソ連帰りで自称「キューバ・フェアプレー委員会の活動家」オズワルドが逮捕されました.かねて用意されたスケープ・ゴートです.CIAの目論見どおり疑いの眼はキューバに向けられました.

 カストロはキューバの関与を強く否定します.「ケネディの死を喜んでいるのは,彼の対キューバ外交の弱腰を非難していた極右,反動だけ」との声明はまさに彼の本音でしょう.

 情勢はカストロのいうとおりに進行していきます.ジョンソン新大統領はただちにベトナム撤退の方向を明示した大統領布告を撤回します.そして泥沼のベトナム戦争へと突っ込んでいきます.アトウッドを通じたキューバとの対話の窓口はふたたび閉ざされることになります.その後現在まで窓は開かれないままです.

 CIAは息を吹き返し,それにともない亡命キューバ人組織も心おきなく反革命活動を続けることになりました.しかしやがてベトナム戦争が深刻化するにしたがい米国全体がキューバどころではなくなります.キューバ人も含め反革命の主力部隊はベトナムへ集中していくことになります.こうして米国とキューバのあいだには奇妙な軍事バランスが保たれるようになります.

 73年,ジョンソン元大統領は,ある雑誌のインタビューに答えてこう語っています.「私は大統領になって初めて,米政府がカリブ海でとんでもない”殺人株式会社”を経営していたことに気づいた」

そして・ケネディ暗殺はある陰謀の一部である,・私はオズワルドの単独犯行説を一度も信じたことはない,と語っています.これが事件の真相だったのです.

 

D.暴露された暗殺計画

(1)ウォーターゲート事件と暗殺計画

・ロセリによる秘密漏洩

 早くも67年には,すっぱ抜きで有名なドルー・ピアソン記者がCIAのカストロ暗殺計画を示唆します.これは移民帰化局から国外追放の警告を受けたロセリが,自らの保身のためピアソンにリークしたものです.要するに「自分を粗末にするとためにならないよ」というメッセージです.しかしこの時はボブ・ケネディもヘルムズもこの記事を否定したため,それ以上の情報はつかめませんでした.本格的に計画が暴露されるようになったのはウォーターゲート事件が起きてからです.

 71年になるとロセリはさらに踏み込んで証言を始めました.この頃彼は詐欺の疑いで当局の追及を受け5年の刑を言い渡されます.刑が確定すれば確実に国外追放です.彼は弁護士をつうじて,みずからがカストロ暗殺のため生命を張って国に奉仕した「冷戦の英雄」であると主張します.これによって減刑をかち取ろうという狙いです.

 これだけでは余りにも荒唐無稽な主張で裁判所の理解は得られないと踏んだのでしょう,彼はCIAとの関係についてもマスコミにリークを開始します.相手はピアソンと並んですっぱ抜きで名を知られたアンダーソン記者でした.アンダーソンはロセリとの会見に基づき,暗殺作戦の首謀者としてオコンネルとハーベイ,CIAとマフィアの仲介者としてメイヒューが動いたということを実名入りで暴露しました.それにしてもロセリもずいぶん危ない橋を渡るものです.

・鉛管工グループの顔ぶれ

 ウォーターゲート事件によりニクソンが大統領辞任に追い込まれたのは1974年のことです.この事件の捜査中に実行犯である「鉛管工グループ」のケネディ暗殺事件への関与が問題になってきました.

 もともと「鉛管工グループ」は,アーリックマン首席補佐官がペンタゴン文書の漏洩に絡んで特別調査班を編成したことからはじまります.この奇妙な名前は,彼らが行政府ビル地下に設営した本部のドアに「鉛管工」の看板を掲げたことに由来しています.このグループにハワード・ハントが参加したことが後に話を複雑にしていくのです.

 このグループは70年9月,漏洩事件の犯人と言われたエルズバーグの秘密を探るため,かかりつけの精神科医フィールディングのオフィスに侵入します.その実行犯が問題でした.ピッグス湾参加者のフェリペ・ディエゴ,CIAの航海士として350回以上もキューバに侵入したエウヘニオ・マルティネス,元CIA職員のバーナード・バーカーの三人組でいずれもハントの手下です.

 この連中が72年6月ウォーターゲート・ビルに忍び込むことになりますが,その直前にはエルズバーグを襲撃する計画を立てています.三人組はさらにスタージス,ビルヒリオ・ゴンサレスらキューバ人亡命者数名を集め実行計画を立案しますが,そのうちの二人が逮捕されたことから計画は中止されました.おなじ頃,ニクソンの有力な対抗馬とされたウォーレスも何者かにより狙撃され再起不能の重傷を負いました.

 ウォーターゲート・ビルに忍び込んだ「鉛管工グループ」が逮捕され,「マクガバン候補がカストロやホーチミンから資金をもらっている証拠を握るため」侵入したと供述しました.ここからニクソン辞任につながるウォーターゲート事件が始まります.

・議会,暗殺計画を追及

 ニクソンが大統領を辞任したあとも政府の「汚い」工作に対しての国民の不信感は治まりませんでした.その関心はとりわけ政府とCIAがおこなった内外の要人暗殺計画に集中しました.

 75年3月,上院に外国要人暗殺調査委員会(委員長フランク・チャーチ)と下院に情報活動調査特別委員会発足(委員長パイク)が設けられ,調査が進んでいきました.コルビーCIA長官はフォード大統領の求めに応じ,外国指導者の暗殺計画を含む非合法活動の「完全な」調査報告を提出します.CIAの国内外における活動全般を調査するため多くの証人が喚問され暗殺事件への関与を追及されました.

 その中で一番明らかになったのはカストロ暗殺計画でした.ロセリ,メイヒュー,ランズデールらが次々と証言に立ち,暗殺計画を指示したのが他ならぬケネディであったことを明らかにします.ロックフェラー副大統領をキャップとする政府調査団の調査結果も上院委員会に提出されました.この報告はCIAとマフィアからなる暗殺チームの存在,ボツリヌス毒素や,ウェットスーツ,狙撃未遂事件など多くの計画を明らかにしました.

 それにつれますますこの暗殺チームのケネディ暗殺事件への関与が疑われるようになりました.76年11月には下院が暗殺事件特別委員会を設置,ケネディ大統領とキング牧師暗殺に関しての調査を開始します.

 カストロ暗殺計画については認めたCIAとしても,これだけはなんとしても認めるわけには行きません.5月にはジアンカーナが証言予定でしたが,彼が証言席に座ることはありませんでした.自宅の台所で至近弾を浴び蜂の巣にされてしまったのです.もう一人の証人ロセリも,まもなくコンクリート詰めにされマイアミ沖を漂っているところを発見されます.死体は縛られ射殺された後バラバラにされていました.その残虐さは裏切り者に対するマフィアのやりかたそのものです.

 もう一人の重要証人トラフィカンテは小委員会で証言.カストロ暗殺計画に加わった事実を認めますが,その行いは「愛国心に基づくものだった」と強弁します.そしてケネディ暗殺については巧妙に切り抜けてしまいます.

(2)疑惑はCIAトップに

・ヘルムズ元長官,証言席へ

 9月ついに一連の陰謀の主役ヘルムズ(当時CIA長官)が委員会での証言を求められます.彼はカストロ暗殺計画がケネディの指示に基づくものであったことを示唆します.さらにAMーLASH作戦の実行にあたってマコーン長官の裁可を得なかったと認めました.しかし暗殺計画そのものについては「カストロとその政権を排除するのが作戦の目的であり,そのための手段に制限はない」と開き直ります.マフィアとの関係については明確に否定しました.このことが後に偽証罪に問われ辞任に追い込まれる最大の根拠となります.

 続いて証言席に座ったハーベイは,61年1月「ホワイトハウスが二度にわたって『海外指導者の排除のため“処刑能力”を創出せよ』と指示を出してきた」とのビッセルの発言を紹介.さらにビッセルが自分にその任務を与えたと証言します.

・キューバ側の反応

 ハーベイの証言を最後に調査を終えた委員会は,最終報告のなかでCIAがルムンバとトルヒーリョ暗殺を企てたと認定しました.いわば国家がみずからの犯罪行為を認めたことになります.

 ケネディ暗殺を調査した下院の特別委員会は,テキサスのフィクサー,モーレンシルツなど多くの証人が抹殺されるなかで結審します.委員会はトラフィカンテ,マルセロらがケネディ暗殺にかかわった事実を認めますが,CIAの関連を証明することは出来ずにおわりました.

 カストロは「未然に摘発された暗殺計画がこれまで24件に達した」ことを明らかにし「かつて『キューバの民主主義』のために養成された傭兵たちが,いまや米国の民主主義を掘り崩すために重宝されているとは皮肉なことだ」とたっぷり皮肉を効かせます.

 暗殺計画を隠し続けたケイシーCIA長官はまもなく辞任,偽証罪に問われたヘルムズ元長官はイラン大使へと転出していきます.これに代わりCIA長官となったのがブッシュ上院議員でした.

 マフィアのなかではトラフィカンテ一人が生き残り,やがて全米マフィアの頂点に立つことになります.

 

E.その後の若干の経過

 ケネディ暗殺後,今日までの間に30年余の歳月が流れています.書かなければならない多くのことが,そこには存在しています.

 数限りないCIAと反革命集団の武力挑発,70年代後半に生じた「雪解け」の機運とその後の反動的揺り戻しなどはぜひ触れておくべきことがらです.70年頃から活発に展開された第三世界外交についても検討が必要です.

 ソ連・東欧の崩壊以降,未曾有の危機にキューバがどう立ち向かったのか,さらにどう立ち向かおうとしているのかも,実践的かつ切実な課題です.

 一方初期経済政策の問題,60年代後半の「アンデスをシエラマエストラに」というスローガンの総括,68年から69年にかけての「屈折期」,ついに実現しえなかった民主的議会制度,アンゴラなどアフリカ諸国への派兵など未だ「歴史」としては叙述できない内容も少なくありません.

 当面可能な方法としては主題別にしぼった記述でしょう.肝腎なことはキューバの人民が,LA人民の希望を担って自主自立の国作りを進めることです.

 100年前,モンテクリスティ宣言のなかでホセ・マルティが述べた言葉を,いまいちど振り返るのがよいかもしれません.

 「今日,キューバはふたたび戦争を始める.すでに勇士たちは卒然と立ち上がった.この間キューバ人民ははいっそうたくましくなった.いまやわれわれの努力は祖国と人民を自由の身にすることだけに向けられているのではない.なぜならキューバはカリブの島々の結び目であり,その独立戦争は西インド諸島を代表する英雄的行為であるからだ.その戦争は合衆国国民とわれわれとのあいだに打ち建てられるべき公正な関係のためにあるからだ.そして相も変わらず存在する世界の不公正を打ち破り,平等な世界を実現するためにあるからだ.まさにそれがこの戦争の目標そのものである」


1 56年ころからキューバ・マイアミの麻薬密輸ルートがDEAの捜索を受けるようになりました.これにかわりニューオリンズ経由のルートが新たに確立されます.これに伴いそれまで田舎ギャングに過ぎなかったニューオリンズのマフィアが一躍全国組織に成長していきます.マルセロは勢いをかってダラスにも進出,そこにくすぶっていたルビーを配下に引き入れます.ルービーがスタージスと武器の密輸でつながることになりました.

2 現在ではケネディ暗殺チームはほぼ明らかになっています.ヘルムズが企画し,総指揮者がフィリップス,現場監督がハント,ヘルムズと現場を結ぶ連絡役(コンタクト)がクレイ・ショー,モーレンシルツという布陣でした.狙撃手はCIAとキューバ人達でした.マリア・ロレンツの証言によればボッシュ,スタージス,ディアス・ランス,オズワルド,ヘミングス,サンポール兄弟(キューバ国民運動)がニューオリンズからダラスに向かい,ダラスではルビーが迎えに出たといいます.他にエラディオ・デル・バリェが加わっていたことも間違いありません.ダラスの極右組織「ミニットメン」のメンバーが加わっていたかも知れません.計画のスポンサーをつとめたのはジョン・バーチ協会に属する極右派の石油成金達,当日ニクソンがダラスで彼らと行動をともにしていたのも単なる偶然ではなさそうです.