ブラジル、民主化の闘い

ブラジルの民主化の闘いは大きく言って三つのフェーズに分かれます。最初の闘いは軍事クーデター、軍事独裁政権の成立とそれに抗議する青年たちの闘いです。これは敗北に終わりました。第二の闘いは労働者を中心とする闘いです。それは1970年代の後半から徐々に大きくなり、84年の軍事独裁政権の撤退と民政の復活にいたる闘いです。第三の闘いはネオリベラリズムによる国民生活破壊と対決しながら、2002年の大統領選挙でルーラを当選させる民衆の闘いです。そして第三の闘いは、「21世紀型の社会主義の実現」を目指す闘いとして、今も続いているといえます。

 

T 軍事クーデターと若者たちの抗議の闘い

A 軍事クーデターの発生

第二次大戦後、ブラジルの政権は比較的労働者よりの政権が続いてきました。しかし必ずしも民主的だったわけではありません。共産党は戦後のわずかの期間を除いて非合法下に置かれてきました。しかし62年にグラール政権が成立すると、社会主義国を承認したりして、政策がかなり急進化していきます。

この頃アメリカはキューバでの失敗に懲りて、ラテンアメリカに対してきわめて強引な干渉を行うようになっていました。これに呼応した軍部は、1964年3月末、アメリカと組んで政府を転覆する計画を実施に移したのです。

彼らは政府を転覆するだけではなく、親米の立場で経済開発を行い経済体制を再編することまで視野に入れていました。だから左翼や民族主義者を弾圧するだけではなく、従来型の政治勢力をも一掃するつもりでした。このクーデターで4万人が逮捕されたといいます。

グラール政権の末期には身の丈にあまる開発計画の破綻により極度のインフレと経済混乱が襲っていたので、最初は国民のあいだに軍事クーデターを歓迎する雰囲気もありました。しかし、既存の政治体制を無視し、旧来型の政治家までどんどん追放し、あるいは逮捕するにいたり、抗議の声が強まっていきます。

 

B 国家情報局(SNI)の創設

軍人たちが居座って政治を仕切ろうとすれば、市民の反感も強まります。「自由を求める知識人宣言」が発表されボサノバ歌手のナラ・レオンも加わります。

軍事政権はこれを暴力的に押さえつけようとしました。その指揮にあたるのが国家情報局です。初代長官となったコウト・エ・シルバ将軍は、狂信的な反共思想の持ち主でした。彼に言わせれば、「世界は本質的に二つのブロックに分けられる.ひとつは資本主義とキリスト教の西側世界であり,もうひとつは共産主義と無神論の支配する東側世界である.両者の価値観はまったく異なっており,和解は不可能である」のだそうです.

 

パウロ・フレイレ

 

軍の人権抑圧の事実は、いまだに明らかになっていませんが、政権発足から6ヵ月後、ブランコ大統領が「軍が拷問を行っているとの報道を否定」していますので、初期の段階から行われていたようです.

11月に入ると、弾圧が本格化してきました。全学連(UNE)に解散命令が出されました.各大学では教官の赤狩りが始まりました.識字教育で世界的に有名なパウロ・フレイレも、75日間拘留され,その後ヨーロッパ亡命を余儀なくされます.

 

C 軍政の継続へ

とはいえ、当初の1年半ほどは、軍事政権はそれほどは刃をむき出しにするほどのことはありませんでした。しかし軍事政権への期待が消え、民政への復活が話題に上り始めるようになると、俄然凶暴になります。

65年10月に行われた11州の知事選では、非合法化を免れた社会民主党が,ミナス州やグアナバラ州など5州で軍政支持候補を破りました。サンパウロ州知事となったアデマル・デ・バロスは、民政復帰を訴えるキャンペーンの先頭に立ちました。

これをみたブランコ大統領は、すべての政党を活動禁止とし、最高裁判事を政府任命制とし,大統領および州知事の直接選挙制度を廃止します。これが軍政令第二号と呼ばれるもので、これにより軍事政権は軍事独裁政権に変貌しました。大学は閉鎖され、教授は解任されるか、自ら辞任するかの道をとることになります。

この背景には軍内の左右両派の争いがあり、右派が勝利したことがあります。右派の代表がコスタ・エ・シルバ国防相でした。(先ほどのコウト・デ・シルバとは別人)

 

学生の抗議行動

 

コスタ・エ・シルバは66年の大統領選挙への出馬を表明。軍事政権の永続を図ります。民政復帰を期待していた国民はこの方針に強く反発。全国を巻き込む民主化の闘いが展開されるようになります。

その象徴となったのがリオデジャネイロ大学の医学部における警察の学生虐殺事件でした。活動家学生を追跡する軍警察が大学構内に乱入し学生を殺害したのです。大学のキャンパスがリオデジャネイロのプライア・ヴェルメリャ(赤い海岸)にあったことから「プライア・ヴェルメリャの虐殺」と呼ばれました。

折から学生は授業料値上げに反対して全国抗議行動を展開していました。これはただちに軍事独裁反対行動に切り替わり、全国18万の学生の半数が参加したといいます。警察の弾圧も厳しく、1千人が負傷、2千人が逮捕されています.

 

D 武装闘争への傾斜

67年初め、コスタ・エ・シルバが大統領に就任すると、合法活動の道はほぼ閉ざされてしまいます。国会もその機能を奪われ、議員の多くが投獄されるか国外に追放されます。国家機能は軍人で構成される国家安全保障会議の手に集中されるようになります。

新出版法が制定され出版物に対する検閲が義務付けられることになりました。3月には国家安全保障法が成立し、反政府活動は国家に対する反逆とされることになりました.

8月に全学連は非合法下に大会を開催。武装闘争をふくむ「革命綱領」を採択しました.

とりわけ衝撃を与えたのは55才の古参共産党員カルロス・マリゲラの武装闘争宣言です。マリゲーラは中産階級との同盟路線をとる主流派に反旗を翻し、「民主主義の再生とか平和的手段などという幻想で革命を実現」できるというのは「反動路線」でしかないとし、労働者農民の決起を訴えたのです。

カルロス・マリゲイラ: 1911 年、バイアの生まれ、27年、学生時代に入党。43年から中央委員。戦後はバイア選出の下院議員となる。その後、党中央執行委員権書記局員、「プロブレマ」誌の編集長。53年から1年間、党代表として中国に滞在したが、マオイストではなかった。63年からはプレステス書記長の右翼日和見主義を批判するようになる。66年に「ブラジルの危機」を発表した後中央執行委員を辞任。合法主義と小ブルとの統一にこだわる党を批判、人民革命政府の樹立を目指す。

彼は、当面、都市のゲリラを通して資金を確保し、その後ブラジリアの近くにゲリラ拠点を作るという戦略を打ち出しました。そしてサンパウロで都市ゲリラ部隊「民族解放行動」(ALN)の組織を開始します.

とはいっても、実際に武装闘争が開始されるのは68年12月、軍政令第5号が出され、いかなる合法活動も不可能になる状況の下でした。

前大統領ゴラールにつながる南リオグランデ州の一派は、キューバの支持を得て、革命民族運動(MNR)を結成しています。彼らはクーデター直後からいくつかの地域でゲリラ活動を展開していましたが、多くは民衆の支持を得ることなく敗北し、やがて自壊・消滅していきます。

 

U 反軍政闘争の発展と弾圧の強化

A 反軍政運動の昂揚

 

エドソン・ルイスの遺体

 

68年は反軍政の闘争が最大の盛り上がりを見せた年でした。

最初は3月、政府の文教軽視政策と教育予算の貧困に抗議する運動が始まりました。リオデジャネイロでのデモ行進に参加した高校生エドソン・ルイスは、目抜き通りで軍警察に射殺されました。ルイスの葬儀には5万人の市民が参加しました。世論は学生たちに同情的でした。「学生を殺した.彼の子供だったかもしれないのに」との抗議の声が広がります。

殉教者が出たことで、闘争は一段と激しさを増しました。3月末には全国で抗議行動が展開され、リオデジャネイロとゴイアニアでさらに3人が死亡します.4月初めには学生虐殺抗議集会が開かれ、軍警察との衝突で30人が負傷します。軍はリオデジャネイロの中心部に戒厳状態を敷きます。カンデラリア教会の葬儀ミサにも軍警察が突入、600人を逮捕します。

シルバ大統領は一切の宥和的ポーズをかなぐり捨て、軍お抱え政党以外のすべての政党と政治活動を禁止し、「ゴリラ独裁」と呼ばれたもっとも野蛮な独裁体制に移行します。自治体選挙もすべて中止されます。

 

女優たちの検閲反対デモ

 

6月には「血の金曜日」事件と呼ばれる闘いが起きています。これはデモ隊の学生400人が軍警察の弾圧に抗議し、国会に突入したりアメリカ大使館を襲撃したりした事件で、8時間の衝突で警官1人をふくむ28人が死亡しました。(当時、まだ議会や各国大使館は旧首都リオデジャネイロにあった)

学生の英雄的な戦いに励まされて一般市民も立ち上がるようになります。6月26日、リオの抗議集会は当日にビラをまく程度の呼びかけだったにもかかわらず10万人が結集しました。民主的自由の復活をもとめる自然発生的なデモといえるでしょう。クーデター以降最大規模の反政府集会となりました。

サンパウロ大学では校舎を占拠した学生と教官との共闘委員会が設立されました。危機感を抱いた政府は大学ごと閉鎖してしまいます。サンパウロ州の金属労働者は軍政反対のストライキに入りました。パッサリーニョ労相は「労働者が立ち退かなければ,機関銃の的となるだろう」と警告しました.いやしくも労働大臣の口にするセリフではありません。

学生運動の経過については下記が詳しい。ただしポルトガル語。http://www.mme.org.br/main.asp?ViewID={017C677B-B51B-4952-8C5E-89EC5C37A9D0} 

 

B 軍政の反撃とゴリラ独裁

7月に入ると、シルバ政権はいっそうの弾圧に入ります。5日に国内における集会・デモを禁止.17日には街頭での抗議行動をいっさい禁止すると発表します.

国家情報部(SNI)、陸軍情報部(CIE)は、さらに卑劣な手段を弄するようになりました。民間人を装った軍人による白色テロです。シコ・ブアルキといえばブラジルのポップス歌手として有名ですが、民主化運動を支持していました。彼の出演する番組にあわせて放送局に爆弾が仕掛けられました。ブラジル新聞協会のビルや、左翼系書店でも爆弾事件が発生しました。

サンパウロ州の金属労働者のストは軍の装甲車と機関銃の前に押さえ込まれました。その後のきびしい弾圧の中で労働運動は壊滅.多くの活動家が「行方不明」となっていきます.ラテンアメリカで「行方不明」(デサパレシードス)と言えば、軍による誘拐・拷問・虐殺・死体遺棄のことです。

活動家たちはいっせいに地下に潜行しますが、当局の摘発は過酷でした。8月にはリオの都学連委員長パルメイラ、ブラジリアのギマリャンエス全学連委員長が相次いで逮捕されました。このときブラジリアでは軍警察が、大学の自治を無視して構内に突入しています。

御用政党の議員ではありますがMDBのマルシオ・モレイラは、議会演説で軍事政権と軍政令を批判し、ブラジリア大学への官憲導入を非難しました.それさえも脅迫の対象となります。政府は「モレイラ・アルベスの演説は高いものにつくだろう」とヤクザまがいの回答を示しました.

 

左端がディルセウ

 

学生たちが占拠したサンパウロ大学哲学部は、民主化をもとめる活動家の最後の拠点となっていましたが、政府は右翼学生を利用して暴力突破を図ります。「マリア・アントニア通りのたたかい」と呼ばれる武力衝突で高校生が死亡、これを理由に警察が構内に突入しストライキを解除します。

10月12日、学生たちはサンパウロの郊外イビウーナで秘密裏に全学連再建大会を開きますが、情報を得た警察は、大会に乱入し学生ら1,240人を一網打尽にします.これで合法活動は息の根を止められました。

ルーラの下で大統領府長官を勤めたディルセウ(Jose Dirceu de Oliveira e Silva)も、このときの逮捕者の一人。彼は後にエルブリック米大使との交換で釈放されキューバに亡命。その後75年に整形手術で人相を変えたあとブラジルに潜入。85年の民主化まで偽名を用いて活動を続けた。

12月、議会の最後の抵抗がありました。軍は議会に対しアルベス議員の逮捕承認をもとめます。刑法犯でなく、軍部を批判しただけの理由で不逮捕特権を停止することは立法府としてはさすがに首肯できかねるものがあります。

アルベス議員はふたたび激しい軍部批判演説をおこないました.採決の結果、議会はアルベス議員の不逮捕特権剥奪提案を否決するに至ります。基本としては御用政党のみで形成されている国会で、141対216票というからかなりの大差です。

これを聞いたシルバ大統領ら軍部タカ派は激怒しました。とくに「民主主義」を守り本尊のようにかかげるアメリカがどう出るかは、彼らにとって死活問題でもあったからです。彼らが下した結論は、さらに軍事独裁の道を突き進むことでした。アメリカは結果さえ出せばオーライだと踏んだわけです。

翌日12月13日、軍・政府は第二次クーデターを決行し議会を閉鎖しました。自分の政府を自分で倒すので「自主クーデター」と呼ばれます。そこで出されたのが悪名高い軍政令第5号です。報道機関は政府の全面的統制下に置かれ,人身保護法は停止され,裁判権は軍事法廷にうつされました.

クビチェック元大統領を始め、軍事政府に距離を置く政治家・ジャーナリスト2百名が、その日のうちに逮捕されました。社会活動の指導者・著名人の多くも拘留され、政治的権利を剥奪されました。もっとも、どうせ国民には政治的権利などないのですが… 音楽の世界で言うと、カエターノ・ヴェローゾ,ジルベルト・ジルなども逮捕・収監されます。罪状は軍事独裁に反対した、ただそれだけのことです。

司法の権利も軍に簒奪されます。軍は意向に沿わない最高裁判事3名を解任しました.オリベイラ最高裁長官は抗議の意をこめて辞職します(何をいまさらとも思いますが).年が明けて知識人の大量逮捕が始まりました.70名の議員があらたに資格を剥奪されました.

当初、軍事政権支持を掲げたカトリック司教会議は,この頃から公然と政府批判を開始。教会が反独裁活動家のアジトとなって行きます.

 

V ゲリラ闘争の徹底的破壊

ゲリラ闘争については、いろいろ言いたいことがあるのですが、本題から外れるので簡単にレビューします。下の表はこの期に活動した主なゲリラ組織の一覧です。大きなものでも数百、小さなものは数人の戦闘員と言うものもあります。

http://www.brazzilbrief.com/viewtopic.php?t=1814に掲載されたゲリラ組織の一覧表載っているのは151のグループです。(このページはもう見られなくなっています。私の年表ブラジル史年表 その3 軍事独裁の時代を見てください)

 

ゲリラ組織一覧


ここにあげたものはその一部で、小さなグループがほかにもたくさんある。

組織名

構成主体および指導者

思想系列

活動開始

革命民族運動(MNR)

左派系軍人

民族派軍人

67年4月

民族解放行動(ALN)

マリゲラ

キューバ派共産党

67年8月

革命派共産党(PCBR)

アルベス・デ・ソウザ・ビエイラ

キューバ派共産党

68年4月

十月八日革命運動(MR8)

学生共産党員

キューバ派共産党

68年10月

革命的人民前衛(VPR)

カルロス・ラマルカ、ディオゲネス

民族派学生・軍人

69年1月

民族解放司令部(COLINA)

 

民族派

69年

VAR・パルマレス

フアレス・ギマラーエス・ブリト

VPRとCOLINAの合同部隊

69年7月

7月26日運動(MR26)

 ?

親キューバ無党派

69年

MRT(チラデンテス革命運動)

PCdoBの赤色派(Ala Vermelha)

70年

アラグアイア戦線

 

PCdoB

72年

 

A マリゲイラとVPR

最初に華々しい戦果をあげたのは「革命的人民前衛」(VPR)でした。この組織は、共産党などの組織とは関係ないサンパウロの無党派急進青 年の結成したものですが、最初からかなり軍に食い込んでいました。ブラジルの軍隊には革新運動の伝統があり、戦前にはプレステス中尉のブラジル版「長征」 もありました。プレステスはその後共産党書記長に就任しています。

今回はサンパウロの軍に所属するラマルカ大尉が軍の兵器庫からFAL63丁、機関銃三丁、ピストル45丁を持ち出すことに成功しました。ラ マルカはサンパウロのVPR同志に武器を手渡した後、その足でキューバに亡命しますが、まもなく国内に潜入し闘争を指導するようになります。

ついで8月にはマリゲイラの率いるゲリラ部隊ALNが、サンパウロのラジオ局を占拠.「反独裁国民宣言」を放送させることに成功しました. マリゲイラはその行動よりも著書「ブラジル革命の戦略的諸問題」で有名です。この本でマリゲイラはゲリラ闘争を「革命にむけた全体的な戦略・戦術的プログ ラムの一環で ある」と規定.「ブラジル革命の主戦場は農村である」としながらも当面の活動舞台を都市に設定しました.

 

 

 

そのことからこの本は「都市ゲリラ教程」とも呼ばれ、その思想性よりも手っ取り早いハウツーものとして、地下出版組織を通じ急速に広まりま した。「都市ゲリラは恐怖を広げることを恐れてはならない。それが政府を不安定にするのなら」とか、「軍部の独裁、その殺人行為、拷問室に直面している 今、我々はテロリ ストと呼ばれることを誇りにしなければならない」などの片言隻語が、「教理」として流布するようになります。

この二つのゲリラ組織はいずれもサンパウロを基盤としており、これまでのリオデジャネイロを中心とする学生運動とは別の流れを形成していま す。サンパウロは日系人が集中している地域であり、二つのゲリラにも日本人の名前がしばしば登場してきます。リオの学生たちはマリゲイラに敬意を払いつつ も、MR8という組織を結成することになります。

当局は最初こそ不意を衝かれて都市ゲリラ活動を許していましたが、まもなく対ゲリラ作戦を整えます、陸軍省の下にDOI、CODIなどの対 ゲリラ諜報組織を編成。さらにパラミリタリー組織として「バンデイランテス行動隊」が編制されます。バンデランテは植民地時代の奴隷狩りのことです。軍に は「囚人はいらない。全員をその場で射殺せよ」との通達が出されました。

政令898号は反政府活動家を国家の安全を脅かす「内部の敵」と規定し、最高刑で臨むことを定めました。そして軍政令第14号では、共和制発足後に廃止されていた死刑を復活し、国家反逆罪に対し極刑をもって臨むことを明らかにしました。

 

B あいつぐ大使誘拐事件

69年9月4日、ALNとMR8の合同突撃隊は,リオでチャールズ・バーク・エルブリック米大使を誘拐することに成功します.米国からの圧 力を受けた軍事政権は政治犯15名を釈放せざるを得なくなりました。70年3月、今度はVPRがサンパウロ駐在大口信夫総領事を誘拐しました.6月には西 独大使フォン・ホレーベン、12月にはスイス大使ブシェルを誘拐します.

怒り狂った軍部は社会政治保安局(DOPS)のもとにゲリラ対策を一本化、1万5千名を逮捕・投獄するにいたります.11月4日、マリゲイ ラが待ち伏せに会い虐殺されます。平和的に運動していた活動家も、もはや生きていること自体が危険になりました。彼らの多くは当時アジェンデ政権が誕生することになるチリを目指します。後のカルドーゾ大統領もその一人でした。

外国対視の誘拐という華々しい戦果で耳目を集めはしたものの、その代償はあまりにも大きなものでした。非合法下でも軍政反対で黙々とがん ばっていた人たちも活動の場を失い、国内に反軍政運動の基盤は消滅してしまいました。ゲリラ闘争を否定するものではありませんが、かつてカストロが何度も警告したように、「都市ゲリラ」という無謀なテロ作戦がいかなる事態を招くか、痛切な教訓とする必要があります。

多くのゲリラ組織が雲散霧消する中で、パラ州のゲリラ組織は3年間にわたり独裁政権と対決しながら拠点を維持します.これはブラジル共産党(PCdoB)が指導するものでした。プティ兄弟という抵抗の英雄は、今も現地で語り継がれているそうです。

 

W 軍政反対運動の勝利

A 命懸けの抵抗運動

そのあと、軍政史上のなかでも最も極右であり、もっとも残忍な大統領メディシによる治世が続きます。74年ガイゼルが大統領になり「開放政策」を実施するに及んで、ようやく弾圧姿勢にもほころびが現れ始めました。

海外亡命者はその間苦難の道を歩み続けました。多くの人が亡命したチリでは73年に軍事クーデターがあり、ブラジルをしのぐほどのすさまじ い弾圧が行われます。辛うじてチリを逃れた人々が向かったのはアルゼンチンでしたが、ここも75年の4月に軍事クーデターが起き、無数の活動家が弾圧の犠 牲となりました。この頃は南米大陸のうちコロンビアとベネズエラを除くすべての国が軍事独裁政権の下に置かれたのです。

こうなれば危険を覚悟の上で国に戻らざるを得ません。

軍政反対運動の最初の拠点となったのはカトリック教会でした。74年末、全国司教会議は拷問と迫害に関して、軍政府を公然と非難するに至り ます。軍政の公認野党であるMDBも勢力を拡大するとともに軍政批判の立場を徐々に明らかにするようになります。そして、決定的な民主化の推進力となった のが新興産業の労働者でした。

ブラジルは軍政時代に「ブラジルの奇跡」と呼ばれる経済発展を遂げます。大規模な設備投資が相次ぎ、とくにABC地帯と呼ばれるサンパウロ の周辺部には近代産業のPLANTが林立するようになりました。74年からこの地域の自動車産業労働者,金属労働者は組合を結成し、多様な戦術で労働条件 の改善を積み上げるようになります。

農村部ではカトリック教会が農民や農業労働者を組織し大規模な土地闘争を展開するようになります。現地で運動の指導に当たったのは姿を変えた共産党員でした。

 

エルソグ(虐殺写真は割愛)

 

もちろんこのような活動がただで済むわけはありません。75年早々にはブラジル共産党(PCB)に大弾圧が加えられました。リオとサンパウロで党員千人が投獄されました.中央委員10人が殺害もしくは行方不明となっています。同じ年、MDBの左派党員百名が共産党との協力を理由に逮捕されま した.

このような弾圧に対する最初の公然たる抗議ののろしが上がりました。エルソグ虐殺事件です。サンパウロ教育テレビの報道ディレクター,ウラ ジミル・エルソグは共産党との関係を疑われ、DOI・CODIにより拘禁され、拷問のすえに虐殺されました。監察医ハリー・シバタは死体を見ることなく自殺と鑑定しますが、ユダヤ教とカトリックの最高指導者は、「エルゾクは軍関係に暗殺された」と非難する声明を発表します。

カトリック,プロテスタント,ユダヤ教の共同によるエルソグの葬儀ミサがおこなわれ、葬儀には8千人が参加しました。これは軍政令5号以来の抗議行動となりました。

77年に入ると、軍部が力で抑えようとしてもタガが外れてきます。散発的ですがサンパウロ大学で学生のストライキ、ベロオリゾンテで全国学生集会、ブラジリア大学やパラナ州のロンドリーナ大学で学生の抗議行動などが起きます。

6月には2,557人のジャーナリストが,情報の公開と批判の自由をもとめる共同宣言を発表しました.野党MDBは軍政令第5号の撤廃を目指す「護憲キャンペーン」を開始します.

 

B ルーラと労働運動の興隆

イグナシオ・ルーラが金属,機械、電気産業労働組合の指導者となったのは75年のことです。

「ルーラ」というのは、子供の頃からのニックネームで、本名はルイス・イナシオ・ダ・シウヴァ。ペルナンブコ州の田舎町で生まれた。彼がまだ幼い頃、父は妻と11人の子供を残して家を出、2度と戻らなかった。
母 は子供を連れて、サンパウロに移り住んだが、生活はとても厳しく、バーの奥にある小さな部屋で、母と子全員で暮らしていた。ルーラは10歳で読み書きをお ぼえ、小学校を5年でやめ、家計を助けるため12歳で働きに出た。冶金工として働き、19歳のときに仕事中、左手の小指を失った。

78年、年間40%のインフレがやってきました。労働者の生活は厳しいものとなりました。5月、スエーデン系自動車工場サアブ社で,労働者 1600人が賃金の20%増を要求し,ストライキを開始しました.まもなく、従業員4万6千を抱えるフォルクスワーゲン工場でもストライキが始まりまし た.そしてサンパウロ工業地帯におけるゼネストに発展していきました。さらに全国15の州ににひろがり、ブラジル史上最大のゼネストが始まります.

軍政の銃剣による脅しを跳ね返し、このストライキは勝利します。いまや民衆の目に、誰が民衆の敵か、誰が利益の守り手なのか明らかになってきました。

 

C 民衆の力の爆発

79年、フィゲレードが大統領になると、民主化をもとめる運動は一気に加速します。サンパウロでは民主主義をもとめる20万人の大集会が開催されました。ABC地区の金属労働者はゼネストを決行し、16万人が参加する空前の規模に達します。

 

収監された時のルーラ

 

東北部(ノルジスチ)では砂糖労働者10万人がストライキ入りしますが、都会と違って田舎では軍は権柄づくです。人と人とも思わないような弾圧により敗北に追い込まれます。

農民は独自に土地占拠運動を始めました。これは少々評価が難しい運動で、土地なし農民が人の土地に勝手に入り込んで占拠し、所有権を要求す る闘争です。戦術としてはきわめて有効ですが、戦略化され、理念化されるといろいろ変な軋轢を生むことになります。「占拠されたくなかったら金を出せ」式 のブローカーも登場することになります。

というわけで、たまりにたまった民衆の不満が爆発しました。もはや力で抑えることは不可能となりました。新政権はすべての軍政令を廃止すると明らかにします。9月には恩赦法が制定され、海外亡命者7千名が次々と帰国を果たしました。

こうした中で軍政後の政治主導権をめぐる闘いが始まります。体制内野党のMDBはさらに野党色を強めることで国民の支持を維持しようと図ります。これに対しクーデター前の与党だった勢力は労働者民主党(PDT)を旗揚げし、MDBにとってかわろうとします。

しかしこれら旧勢力が旗印だけ変えて出てきても、金持ちと大地主中心の政治は変わりません。労働者・農民の立場に立つ政党がどうしても必要 です。そこでルーラと労働運動の活動家たちは、「すべての経済的・政治的権力を直接労動者の手に」と訴え、労働者の政党「労働党」を旗揚げしました。同時 に「独裁政権に反対する広範な統一戦線を、すべての民主勢力の結集で作り上げよう」と呼びかけました。

共産党など左翼はまだ非合法のままでしたから、公然と政党活動は出来ません。そこで多くの活動家が労働党に結集して闘うようになりました。カトリック教会の活動家も統一の呼びかけに積極的に応えました。

 

D 労働党の下への民衆の結集

80年3月の三回目のゼネストは、新たな統一のあり方を象徴する闘いとなりました。サンパウロでは5万人の自動車産業労働者がストに突入、 6週間にわたり自動車産業の機能がストップしました.自動車産業だけではなく15の自治体で33万人がストに参加しました.教会は公然と労働者支持を表明 し,地域の教会をストの集会や売店のために開放しました。

当局も本気で臨みました。政府は労組指導部を国家安全法違反の罪で告発し、ルーラら指導部が逮捕されました。これに抗議して連日数万人規模の集会が続きま した。最大の山場はメーデーの日にやってきました。工場地帯のサンベルナルド市のメーデー集会には10万人が参加しました.行進を開始すると治安部隊が行 進を妨害しました。にらみ合うこと数時間、ついに軍警察は妨害を断念します。

労働者はこのように軍事的勝利を実現した後、ストライキを終結させます。2ヶ月の闘いの間に労働者党は全国で3万人の党員を拡大しました。これが20年後のルーラ政権実現を果たす出発点となったのです。

二つの共産党のうち、モスクワ派の共産党は情勢の変化に立ち遅れました。理由はいろいろあるのですが、クー前の政権与党との統一を追求し、 労働党が将来のブラジルをしょって立つ政党となりうる可能性をネグレクトしてしまったのです。たしかに82年の選挙で労働党はマスコミが予測したほどには 議席数を延ばしませんでした。しかし選挙を通じて党員数は25万にまで躍進したのです。

E ラテンアメリカ債務危機

83年1月、メキシコに始まった債務危機がラテンアメリカ全体を覆いつくしました。原因はレーガン政権がとった高金利政策で、それまでラテンアメリカに流 れ込んでいたオイルマネー、ユーロダラーといった投機的な外資がいっせいにアメリカに還流したのです。たちまちラテンアメリカ諸国は金欠状態に陥りまし た。残ったのは借金だけ、しかもその利率が高騰したので、対外債務は一気に膨らみます。

ラテンアメリカ諸国は不景気とインフレが同時に襲うスタグフレーションの状況に陥りました。庶民にとってはまさしく生存の危機です。サンパ ウロ,リオデジャネイロであいついで,インフレと失業を不満とする大規模な暴動が発生しました。7月に入るとサンパウロで軍政下初のゼネストが決行され、 産業・商業の6割がストップしてしまいます.軍事政権はこれらの闘いをなすすべなく見守るだけでした。

ゼネストを打ち抜いた労働者は、8月に第2回全国労働者会議を開き、新たな労働センター(CUT)を立ち上げ、さらに大規模なゼネストを呼 びかけます。しかしこれは政府の非常事態宣言により不発に終わりました。共産党系労組はCUTとの対応をめぐり分裂します。旧来の共産党(PCB)は堅固 な労働者組織を維持していたので、独自の行動をとります。一方PCdoBは全学連など青年・学生には強い影響を持っていましたが、労働者への浸透が弱かっ たことから、CUTとの共同行動にスタンスを移していきます。

F 直接選挙運動

フィゲイレード大統領の任期終了が近づくにつれ、軍政終了と大統領の直接選挙を目指す運動が昂揚していきました。「Diretas Ja!」と呼ばれるキャンペーンが、体制内野党MDBの呼びかけで始まります。

各地で史上空前の規模の集会が開かれました。最初はベロオリゾンテで25万人、ついでリオデジャネイロで30万人が集会とデモを展開します。圧巻だったのは4月10日のリオ集会、実に170万人を動員しています.1月以来の延べ動員数は800万人に達しました.

直接選挙制の提案はいったん議会で否決されるのですが、6月に入ると与党のなかに造反分子が現れます。造反の先頭に立ったのは、ほかならぬ与党総裁のジョゼ・サルネイでした。PMDBと造反派は協定を結び、大統領候補にネベス,副大統領候補にサルネイを選出しました.

結局、直接選挙は実現しませんでした。ひとつは直接選挙を強行した場合、軍の保守派がクーデターを起こす可能性が高かったためですが、直接選挙に拠らずとも議会内勢力分野から見て野党の勝利と軍政の終了は確実だったからでもあります。

85年1月、議会での選挙でPMDBのネベス候補が480票を獲得,180票の与党候補に大差をつけ当選しました.ついに20年にわたった軍政に終止符が打たれたのです。

 

X 民主化の挫折

A 民主化を妨げるもの

ベチ・メンデス

 

85年3月、待ちに待った民政復帰が実現します。ブラジリアの政庁舎には“Bon Dia Democracia”のたれ幕が掲げられました。新政府は共産党(PCBおよびPCdoB)などを合法化しました.全学連も活動を認められました。

しかしそのデモクラシアの前途は多難なものでした。軍は無傷のまま残り、折あらばふたたび軍政への復帰を狙います。政権を握った政治家たちは、軍政時代に存在を許された御用政党の指導者たちでした。

軍の横暴を象徴するのがメンデス事件です。
@ベッチ・メンデスは高名な舞台女優で,クーデター当時に下院議員を務めていた.64年のクーデターのあと,軍警察に捕らえられ,獄内で拷問を受けた.
Aベッチ・メンデスは,何らかの情報を受け,モンテビデオのブラジル大使館の駐在武官ウストラ大佐が,自らを拷問した下手人であることを確認した.
Bピーレス陸相は,以上の事実経過を認識し,かつ,大統領の命令を受けたにもかかわらず,「大佐はわれわれの信頼を得ており,通常の任期終了までこのポストにとどまる」と判断し,命令を拒否した.
Cこの結果,ウストラは拘束されず,現職に引き続きとどまり,大統領は部下である陸軍大臣の命令違反を黙認することとなった.
Dこの結果,軍部は共和国の法体制から超越することになった.また軍政時代の拷問は罰せられる可能性がなくなった.したがって拷問の下手人の法的処罰は不可能となった.

軍事政権を支えたもう一つの柱、大地主層は新政権に猛烈な敵意を示しました。農業者民主連合は土地占拠農民に対して実力で対抗します。各地に死傷者 が続発するようになりました。政府は農地改革計画を発表しますが、絵に描いた餅でした。結局、大地主の意向を汲んで占拠農民の排除へと動くようになりま す。

一番問題なのは、国の金庫が空っぽだということでした。その頃のブラジルをはじめとする中南米諸国は、「失われた10年」の真っ只中にありました。 対外債務は天文学的水準に達し、実質的に破産状態にありました。サルネイ大統領は国連で演説.失業や飢餓を生んでまで対外債務を返済することは出来ないと 表明しますが、当時IMFの支援を受けずに経済を再建することは不可能でした.アメリカは重債務国のこの弱点を徹底的に突いたのです。

この頃、アーンズ枢機卿は、債務問題について次のように語っている。
「過去2年 間の大変な努力によって1ヶ月当たり10億ドルの輸出超過を実現した。しかしこの金は債務の利子返済に充てられるのみである。我々はすでに借りた金の 2,3倍を返済した。このやり方を続けることは不可能である。すでに三分の二の民衆が飢えているにもかかわらず、我々は彼らが食べなければならないものまで取り上げてしまった。我々は民衆の血と困窮を第一世界のために捧げるのを辞めなければならない」

新政権はそれまでの高度成長路線を転換し,社会格差の減少を打ち出しました.しかしそのための公共投資はインフレに火をつけました。これに対抗するための高金利政策は対内債務をさらに膨らませました。IMFは拡大信用供与を停止,民間銀行団の支援もストップします.

それでも2年間は、何とかがんばったのですが、外貨が底をつき、対外債務の支払いが滞るに及び、ついにIMFに詫びを入れることになります。

 

B 革新野党としての労働者党の旅立ち

86年11月、民政復帰後最初の総選挙か行われました。民主化の今後を占う上で決定的に重要な選挙でした。軍政時代に体制内野党だったPMDBが、 議席の過半数を獲得するなど圧勝します。労働者党は6.5%を獲得し、全国政党への飛躍を遂げました。ルーラはサンパウロ州から立候補し,全国一の投票率 で選出されています。二つの共産党もあわせて7議席を獲得します。

翌月、労働組合連合は政府の緊縮予算に抗議して全国ゼネストを組み、労組の42%が参加する空前の規模となりました。陸軍は装甲車によりボルタ・ヘドンダ製鉄所を占拠,主要交通機関を監視下におくなど、政府などなきが如しの態度をとります.

これを押し返すのは、結局は労働者と農民の団結の力、市民の動員力しかありませんでした。87年は軍と人民の対決の年となりました。土地なし農民 は、殺されても殺されても占拠闘争を続けました。空軍と空港の労働者が共同で48時間ストを打ち抜きました。これには6万人が参加し、空軍の機能は完全に 麻痺しました。

翌88年11月には軍の弾圧を跳ね返してボルタ・レドンダ製鉄工場でストライキを打ち抜き、さらにタンカー従業員5万人のストで7つの製油施設が麻痺します.労働者の力なくしては軍隊も動けないということが証明されました。

政府は軍の統帥権確保には失敗しますが、予算編成の方向から軍への締め付けを強めます。こうしたなか、軍警察隊員が一般軍人並みの賃金を求めリオでデモ行進を行いました。このあと軍は徐々に政府を無視した強権発動を控えざるを得なくなります。

この過程で、民主化を担ってきた勢力のなかでも力関係の変化が生じてきました。サルネイは元々保守党の出身で、MDBのネベス大統領が病死したため に副大統領から昇格した人物ですが、民主化の精神を引き継ぎ、がんばってきました。しかし外には債務の重圧、内には軍との軋轢と言う中で徐々に力を失っていきます。いっぽうネベスを推戴していたMDB(その後MDB党)も、軍との対峙を回避したことから信頼を失っていきます。そして左派はMDB党から分かれPSB党を結成します。D(デモクラシア)からS(ソシアリスタ)への転換です。

 

C 89年大統領選挙

 

 

 

89年の大統領選挙は、新憲法による最初の大統領選挙で、64年のクーデター以来25年ぶりの直接選挙となりました。

軍と対決し民主主義を守り抜いた労働者勢力は、労働者党(PT)のルーラを大統領候補にすえ、89年大統領選挙に臨みます。結果は中道右派のコロー ルの当選に終わりましたが、決定的に重要なことは、ルーラが16%を獲得し、既成政治家を抑えて第二位に食い込んだことです。そして舞台はコロール対ルーラの決選投票へと移ります。

これには当の本人もびっくりしたかもしれませんが、資本家階級にはまさしくパニックでした。金持ち階級は手持ちの財産をドルに代え始めます。サンパウロの産業連盟会長は「ルーラが当選すれば80万人の企業家がブラジルから脱出して、ブラジル経済は疲弊のどん底に陥る」と語りました。コロル陣営は「ルラは金持ちの代表、コロルこそ貧乏人の味方」と宣伝。さらにルラの元恋人に1万ドルを与え、テレビで「ルラは娘を妊娠したとき、中絶しろといった。ルラは黒人差別主義者だ」と語らせました。

世論調査によると、高所得者ではルラが48%、コロルが41%。高学歴層ではルラがコロルを圧倒。これに対し低所得者層ではルラが38%、コロルが53%と逆転。とくにノルヂスチの農村ではコロルが圧倒的人気でした。ルーラを最も支持すべき人々が反ルーラだったことになります。よくある現象 です。

ルーラは追い上げ及ばず惜敗することになりますが、次回の当選は約束されたようなものでした。しかし実際はその後12年を要することになり ます。選挙を終えて、PTと民主労働党、共産党(PCdoB)、MDB党左派は共同声明を発表。今後もコロールとの闘いを共同して強化すると宣言します。

 

D 「真の民主主義経済を経て社会主義をめざす」

軍政の打倒に成功した民主勢力も、経済的苦境と対外債務に対する有効な処方箋を持っていませんでした。むしろ国家に対する“たかり”の構造が前面に出てくる最悪の経過になりました。IMFが国民生活を無視して病人の布団まで剥いでいくような悪辣な取立をしたことは非難すべきですが、市場経済原理に沿ったオーソドックスな経済・再生計画の実行と、国家のスリム化は避けて通れない課題でもありました。

外貨不足が物不足を呼び、これに投機も加わってインフレが悪性化します。この年、1年で4854%という史上初めての物価上昇率となりました。こうなればネオリベラリストでなくてもサプライサイドをいじらなければ問題が解決しないことは明らかです。

ヘテロドックス・プランの失敗: クルザード計画以来のIMF路線によらない物価安定計画はすべて失敗した。この経過を通じて以下の点がエコノミストの共通認識となった。
@ 物価・賃金の凍結策や預金凍結など金融業務への介入は有害無益であることが明白になった。A海外、特にドルとの関係を無視しては経済マクロの調整は不可能 であることが明らかになった。その調整は変動相場+金利調整か、変動金利+ドル・ペグしかない。B対外債務が膨らみ続ける構造は、財政赤字に起因する。財 政赤字は政府・国営企業の人件費にある。特に年金制度、非能率な国営企業について早急に改善しなければならない。
また、勝手にでっち上げた「
インフレ指数」に合わせ価格・賃金を調整するインデグゼーション(指数化)の習慣も改めなければならない。

コロールの打ち出した政策はいわゆる「ショック政策」でした。彼は変動相場制を廃止し、ドルとリンクさせようとしました。そのために通貨発行量を3分の1に減らすという荒療治です。同時にIMFなどの外圧も利用しながら、従来聖域とされてきた分野にも「改革」の手を伸ばします。

コロールの最大の功績は軍事費の削減でしょう。87年にはGDP比0.9%だった軍事費は1/3の0.3%にまで削減されました。これは中道派や左派政権には絶対出来なかったと思います。右翼の代表だからこそ、左翼に薄氷の思いで勝利した大統領だからこそ、軍は「ならぬ堪忍、するが堪忍」と耐えたのだと思います。

軍に対してさえこれだけのことを要求したのですから、ほかの分野ではさらにきつい。就任早々、「60日以内に公共労働者35万人を解雇する」と宣言.国策企業の象徴とされたウジミナス製鉄所も売却されました。国営工場では数千単位の解雇を発表します。これが80年代の「失われた10年」から「絶望の10年」への路程標となりました。同じ頃にペルーではフジモリが、アルゼンチンではメネムが同じような政策を打ち出しています。

もちろん労働者はこれに対して激しく抵抗し、さまざまな闘いを展開したのですが、コロールのショック政策に対して有効な対案を打ち出すのには、考え方の整理が必要でした。PTは全国大会の激しい議論を経て、「真の民主主義経済を経て社会主義をめざす」綱領を確定しました。

これは、それまでの資本主義から直接社会主義を目指す戦略とは大きく異なっています。経済民主主義の実現を当面の課題とする提案は、大会に引き続きラテンアメリカの左翼48組織が参加するサンパウロ・フォーラムでも議論されました。そこでは、新自由主義経済政策に反対するとともに,その政策が生みだす矛盾へ対応していくことを当面の目標とする決議が採択されました。

これは理論的には大きな前進ですが、「真の民主主義経済」への階級的視点が曖昧で、独占資本や大企業に対する幻想と、一種の敗北主義を伴っており、その評価には慎重でなければなりません。

この前進がソ連・東欧諸国の崩壊という事態の中で勝ち取られたものであることも銘記すべきでしょう。同じ時期にモスクワ派の共産党は「共産党としての活動を停止する」と決議しています。この党は党名を社会主義人民党(PPS)にあらため、今も活動していますが、ルーラを右から攻撃する政党になっています。もう一つの共産党は大会で「社会主義は生きている」(O Socialismo Vive! )をスローガンに掲げました。この党はブラジル左翼の主軸となり、とくに学生層内に影響力を広げています。

 

E コロール弾劾運動

その後、コロールと取り巻きの不正蓄財が明らかになり全国的な抗議行動に発展していきます。これは84年の直接選挙運動に比肩するほどの盛り上がりになりましたが、特徴的なのは80年代末まで必ず登場した軍隊がまったく顔を出さなくなったことです。

思想信条から言えばコロールを支援すべきでしょうが、軍の財政に大鉈を振るった張本人ですから面白くなかったのかもしれません。それに何よりも、「もうそういう時代ではなくなった」という認識が広まっていったのでしょう。

92年末、ついにコロールは辞意を表明しますが、議会はかまわず弾劾の審議を続け公職追放を確定します。これにより長らく続いた民主化の闘いは一応の決着を見たといえるでしょう。

 

W カルドゾ政権と相次ぐ金融危機

A カルドゾの登場と、ルーラの苦杯

コロールの退陣とともにショック政策も終焉を告げ、ふたたび泥沼の物価上昇が始まりました。これをとりあえず終焉させることに成功したのが、フランコ大統領のもとで蔵相を勤めたカルドーゾです。カルドーゾはレアル・プランと言う物価安定策を実施し、天井知らずのインフレを沈静化させることに成功しました。それと同時に財政赤字もGDPの4.5%を切る水準に縮小します.

 

若き日のカルドーゾ

 

レアルプランというのは一種の兌換制度の復活であり、金の代わりにドルを当てるということです。しかしいまどきこんなことをすれば、縮小均衡が実現する頃には国民の半分が野垂れ死にしてしまいます。そこで従来の通貨はそのままに、ドルと等価のURVなる“貨幣”を導入して当分は二重通貨制とすることにしました。

しかしそれで通貨発行量が増えるわけではありません。ドルを確保するためには外貨を高金利で呼び込む必要があります。また通貨の為替レートを高めに維持する必要があります。

ただしこれは一種の緊急避難政策であり,これによりインフレを押さえ込んでいる間に,根幹原因となっている公共財政の抜本改革を実現するのが本来のねらいです.レアル高と高金利、大幅な輸入超過を続ければどうなるかは、火を見るより明らかです。

ともかく難題の経済・財政・物価問題を解決したカルドゾに国民の人気は集中します。財界や保守派は、94年の大統領選挙で、勝利が確実と見られたルーラを阻止するための切り札として、カルドーゾに白羽の矢を立てました。カルドーゾは元々は左派の経済学者で、クーデターのあと弾圧を逃れチリに亡命していました。体制内野党PMDBに属していましたが、党内右派と袂を分かちPSDBを創設した人物です。

対するルーラは、人気はありましたが、その経済政策には不安が付きまとっていました。カルドーゾは右派との連携を受け入れ、ルーラの対抗馬として出馬します。カルドーゾの人気は日を追うごとに高まり、終盤でついにルーラを抜き去ります。

しかしカルドーゾの勝利は、必ずしも保守派の勝利とはいえません。同時に行われた国会選挙では、労働党が得票を1.5倍に伸ばし躍進します。PCdoBもルーラを支持して下院議員を5人から10人に倍増させました.

 

B カルドゾ政権の「構造改革」がもたらしたもの

ブラジルのインフレ率は93年の2447%から22.4% にまで低下しました。経済マクロの安定化は、海外資金流入のブームをもたらします。繰り返しますが、これは一時の話でツケを先回しにしているだけなのですが、それでもブラジルにとっては20年ぶりの貴重な息継ぎでした。

この間にカルドーゾは公共部門のスリム化を矢継ぎ早に実行します。国営電力会社は17億ドルで民間会社に払い下げられ、国有鉄道、通信事業、石油産業の民営化も開始されました。さらに97年に入るとカラジャスの鉄鉱山の株51%を売却すると発表しました。カラジャス鉱山は世界の鉄鉱石の25%を生産し、さらに400年採掘可能とされるブラジルの最大の財産の一つです。

これにはサルネイとフランコ元大統領、ルーラ大統領候補がいずれも絶対反対の態度を表明しました。裁判所も差し止め決定を発します。しかし政府はかまわず鉱山会社民営化を推し進めようとします。

こうした無理はいつかは痛烈なしっぺ返しとして跳ね返ってきます。ひとつは内債累積問題です。高金利により連邦や州・市の債務が膨れ上がりました。とくに州政府の債務が深刻なものとなりました。もうひとつは国内産業の衰退が失業率と貧富の差拡大に拍車をかける結果となったことです.統計局調査では,レアル計画発効から4年間で雇用が24.3%減少するというすさまじさです.

何よりも、この間の経済体制は大幅な貿易赤字を外資の流入で帳尻合わせしていただけなので、きわめて脆弱なものでした。これが97年の金融危機で暴露されることになります。

7月にアジア金融危機が始まると、国際資金は「質への逃避」とよばれる現象を引き起こしました。金利よりも安全を求めて米国債に向け大量に移動を始めたのです。レアル高の根拠は突き詰めれば高金利しかないので、政府はさらに金利を上げることで対応するしかありません。基準金利は20%から43%というとてつもない数字に引き上げられました。

しかし本当の危機は翌98年8月にやってきました。今度はロシアでの金融危機が飛び火したのです。アジアのときはたんなる安全志向だったのですが、今回は国際金融機関が切羽詰っていました。

ロシア危機がブラジルに飛び火した理由: ロ シア国内短期国債や株式を大量に購入していたヘッジ・ファンドなど欧米系金融機関は,多額の損失を蒙る.キャッシュ不足に陥ったこれらの金融機関は,損失の穴埋めのため中南米の株式、債券や米国ジャンク債などの高リスク資産を一斉に圧縮し現金化.この結果巨額の資金が流出する事態を迎える.

9月の一ヶ月間に215億ドルの外貨が国外流出しました.外貨準備は700億ドルから450億ドルに減少しました。レアル・プランというのは外貨準備により通貨発行高が決まるわけですから、これではたまったものではありません。

株価は40%を超える下落、市中銀行への貸出金利は事実上の貸し出し停止に近い金利50%に達しました。末端金利は年間150-250% に達したといいます。しかしブラジルはつぶすには大きすぎました。ブラジル金融危機は、大量の投資を行っていた米国大手金融機関の危機をもたらしました。米財務省とIMFは新たに融資枠を設け,ブラジルに400億ドルの資金をつぎ 込みました。

 

C 反カルドーゾ勢力のスティグマ

こうした中で94年10月、大統領選挙が行われました。意外といえば意外ですが、国民の支持はカルドーゾに集中しました。カルドーゾは53%の得票率を上げ,第1回投票で再選を決めました.いっぽうで野党連合のルーラは32%にとどまりました。経済が困難を迎える中で、国の行く末をカルドーゾに託したのでしょう。また逆に言えばルーラ恃むに足らずと判断したのでしょう。

これは労働党にとって深刻な問題でした。カルドーゾ政権に対決するのは良いのですが、それに対する有効な代案を提示できなければ、政権交代の意味がありません。とくに深刻な争点となったのが、公務員の年金削減問題でした。

一般的には年金削減は庶民の生活を直撃し、景気の足を引っ張る悪法ですが、ブラジルの公務員年金はそうとばかりはいえない特権的な色彩を帯びています。民間よりも公務員の方が年金支給額が高いのは日本と同じですが、違うのは多くの公務員が50歳で退職し、現役最後の給与額をそのまま年金として受け取っていることです。その結果、国家財政に対する比率は教育、医療、警察などよりも大きく、公務員年金の赤字額はGDPの5%にまで達していました。

もうひとつが地方行政不の生み出す赤字です。各州は連邦政府から借り入れを行うだけでなく、独自に外債も発行していました。そのひとつミナスジェライス州は99年初め、債務モラトリアムに陥りました。連邦政府に対する債務150億ドル、ユーロ債2億ドル、対米債務1億ドルが焦げ付きました。州知事は償還を90日間凍結すると宣言、これに野党が握るほかの州も追随します。

結局連邦政府にすべての責任をおっつけようということです。モラルハザードを野党指導者が推進するのでは話になりません。

このミナス州知事発言は第二の財政危機の引き金となりました。IMFとのコンディショナリティを遵守できないとの懸念から、ふたたび大量の資本流出が始まりました。1日で30億ドルが国外流出したといいます.レアル建て国債はジャンク債並みの「シングルB」に落ちました.累積対外債務は2千億ドルを超え,単年度支払い義務は900億ドルに達しました.

ついに政府は通貨切り下げに踏み切りました。レアル・プランのシステムは、軟着陸の機会をもてないまま崩壊していきます.

しかしここでも「つぶすには大きすぎる」との判断が働きます。ニューヨーク市場はブラジル金融危機をきっかけに前日比261・58ドル安と暴落し、欧州株式市場も全面安の局面を迎えたのです。結局IMFはブラジルと心中するしかない羽目に陥りました。

連邦政府はIMFその他と協議の末、ミナス・ジェライス州の外債の半額を,肩代わり返済することになります。連邦政府は州の預金を差し押さえ、原資に一部補填しました。同時に,ミナス州への交付金を凍結するなど法的な対抗措置を発動しました.

率直に言って、非効率な国営・公営企業、特権的な公務員年金、州政府の財政ガヴァナンスの欠如という野党勢力の抱える三つのスティグマは、自力で解決することはできず、経済・金融危機という外圧の下に強制的に整理されたことになります。

 

Y 労働者党政権誕生へ向けて

A カルドーゾの「後継者」として立ち位置を定めたルーラ

 コーポラティズム(組合主義)といい、ネポティズム(縁故主義)といい、闘う主体にはつき物の厄介なトラブルをカルドーゾの時代に一気に片づけました。近代資本主義への脱皮にはこの過程は必然であり、ロストウの言う「近代国家としての離陸」には不可欠の条件です。

労働党は基本的にはこのカルドーゾの改革を受け継ぎました。さらにドルを基軸通貨とする市場経済の枠組も受け入れました。近代化と国際化を受け入れることは、ネオリベラリズムを受け入れることと同じではないということを明確にし、ふたたび闘いに立ち上がることになったのです。

それは多くのブラジル国民の合意でもありました。カルドーゾ自身が次のように語っています。

我々は世界決定を管理する機構に関して未だ規則を決めていない.しかしそこでは,恐怖に頼らず,非対称でなく、平等かつ貧困の少ない,世界の誰もが望むグローバルな秩序を実現しなければならない.
文化、経済、技術、軍事に関して傑出した国が、何かと注意を促し、従わない場合は更に強力なG7に持ち出し、自説を全世界の世論のように強要する。一方的に言い分を押し付け、是非を強制するのは交渉ではない。

すでにカルドーゾのレアルプランは完全に破綻し、変動相場制と資本の自由化、レアル安を受け入れざるを得ないことは自明の前提となっていました。その中で経済の回復を図るためには、レアル安を利用して輸出を振興し、貿易不均衡を正すこと、財政を身の丈にあわせて縮小せざるを得ないことも明らかです。

これらの当たり前のことをやりながら、ネオリベラリズムとどう闘って行くかが焦点となってきます。まさに「真の民主主義経済を経て社会主義をめざす」路線が切実な課題となったのです。

 

B ルーラ当選への妨害策動

2000年の末に行われた地方選挙で、労働党は前回比5倍の得票を獲得し躍進しました.相次ぐ金融・財政危機の中で影響力を失ったカルドーゾ政権に代わり、ふたたび労働党が明日のブラジルを担う主役として登場しました。

労働党大会では、新自由主義との決別を目指した綱領が採択されました.一方で,対外債務・農地改革・外資の参加などについて,柔軟な対応をとることも確認されました。

労働党への攻撃も激しさを増していきます。アムネスティは,労働者党活動家に対し97年以降,70件の死の脅迫,16の不審死があったと報告しています.

選挙を4ヵ月後に控えた02年6月、突如として国債相場が暴落します.ついで資金の国外流出が急加速し、レアルは1カ月で2割近い急落をみせます。

これは明確なおどしです。ベネズエラのチャベスに対するクーデター事件と、時期的には完全に一致しています。「ルーラが変なことをすれば、すぐに潰してみせるからな」、というデモンストレーションです。

米財務省はIMFと協調して400億ドルの緊急融資を行いますが、IMFは融資の条件として、各候補に対して従来の経済政策の維持を要求しました.

ルーラは「4つの基本政策」という形でこの要求を呑みます。しかしこの経過の中で圧勝と見られたルーラ候補の支持率は急下降しました。これに代わりカルドーゾ後継候補の支持率が上昇し、一時はルーラと肩を並べるまでに至ります。

四つの基本政策 @調印した契約は守り,インフレをコントロールし,財政の緊縮は継続する(これはIMFとの協定は守るとの意味).A飢餓を撲滅するための社会緊急局を創設する. B雇用創出のため土木建築と上下水道設備の建設を奨励する. C輸出製品の付加価値の引上げを通して貿易黒字を拡大する(輸出の振興をする).

 

C ルーラの大統領当選

しかしそれでもルーラの優勢を覆すには至りませんでした。10月末の決選投票のすえ、ルーラは60%の得票を得て勝利しました。

民政復帰以来の民主勢力の悲願であった国政の民主化が、こうやってスタートに就きました。後の世は、この日をラテンアメリカ民主化の分岐点として記憶することになるでしょう。

労働党とともに闘った共産党は全国では2.3%でしたが、ブラジリア連邦区で13%、バイアで17%、サンパウロではワグネル・ゴメスが350万票を獲得するなど健闘します。

ルーラは最初の施政演説で、「経済については現政権の経済を引き継ぐ」と語りました。しかし同時に雇用の促進と農地改革,社会福祉部門の統合と拡張,所得格差の改善なども公約しました。

そして「飢餓対策が新政権の取り組む最初の課題」とし、全国民が3度の食事が取れるようにすることを約束。当面する緊急対策として、食料品クーポン配布計画 (PCA)と学校給食の完全実施,サンパウロ等で実施されている官営低価格食堂の他地域への拡大などをあげました。

 


この後のルーラ政権の動きについては、いずれ稿を改めて検討したいと思いますが、いろいろ評価も分かれており、時間がかかるのではないかと思います。ただブラジルがこの間経験してきたこと、学んできたことは多いと思います。

市場経済とグローバリゼーションという世界の流れを、変革の課題として如何に主体的に受け止めるかが重要だと思います。