エルサル革命史  第一部

 

第一章 エルサルバドルの成立

1回書いたのですが,どこかに飛んでしまいました.いつか書き足します.それまでは年表で我慢してください.

 

第二章 エルサルバドルの発展

第一節 自由党支配の確立

国家として独立はしたものの,小国ばかりの中米諸国のなかでも一番の小国です.逆に人口密度は最高で,そのほとんどがメスティソ(白人と原住民との混血)で,それなりに民族としての統合が進んでいました.エルサルバドルは進取の気性に富み,絶えず国外との交流の意欲を持っていました.

中米諸国は,それぞれが独立したあとも,絶えず互いに小競り合いをくり返していました.その紛争には,必ずといっていいほどエルサルバドルが絡んでいました.それはエルサルバドルが中米で唯一,自由党支配が優勢だったこととも関係しています.

独立後ただちにエルサルバドルはモラサンを擁し,グアテマラ侵攻の機会を狙います.しかしこのたくらみは打ち破られ,グアテマラ派のマレスピン将軍が権力を掌握,モラサンは銃殺刑に処せられます.

このあとエルサルバドルは米国への編入を図ったり,中米連邦再編を図ったりといろいろ画策しますが,結局うまく行きません.59年にはウォーカー戦争の英雄ヘラルド・バリオス将軍が決起,一時は政権を獲得しますが,グアテマラの干渉の前に敗れ去ります.

独立後30年間,泣かず飛ばずのエルサルバドルでしたが,60年代からコーヒー栽培が普及するに連れ,ようやく近代化への足がかりをつかみます.ただこの狭い,人口ちょう密な国でコーヒー生産の規模が拡大するということは,農民からの土地収奪なしには不可能です.したがってこの国の発展は最初から鋭い階級対立を伴わずにはいられませんでした.

土地取り上げに反対する農民の反乱が各地で発生,政府はこれに対抗して農村武装警察を組織,それでも足りないと見た大地主は独自にならずものをかきあつめます.こうして金ばかりでなく武力を合わせ持つ大地主が,エルサルバドルの国土を我がものとしていきます.

これが14家族といわれる権力集団です.なかでもメレンデス家は1913年から15年間にわたり大統領職を独占し,農業のほか軽工業の育成を図ります.

第二節 ラ・マタンサ(大虐殺)

1920年代後半にはいると,エルサルバドルでも労働運動が高揚し始めます.またメキシコ革命やロシア革命の影響を受け,マルクス主義が浸透してきます.この運動の先頭に立ったのがファラブンド・マルティです.

マルティは大地主の家の出身で,国立自治大学在学中にマルクス主義の洗礼を受けました.サンサルバドルで共産主義グループの組織を始めたマルティは,たちまち当局に目を付けられ,国外に追放されます.

グアテマラに逃れたマルティは,そこで中米社会党の創立に参加しました.そして,その頃ニカラグアで米海兵隊にゲリラ戦を挑んでいた民族的英雄,サンディーノを支援するキャンペーンに取り組むことになります.

30年3月,密かにエルサルバドルに戻ったマルティは,イロパンゴに活動家を集め第1回共産党大会を開きます.このころエルサルバドルでは大恐慌によりコーヒーが暴落し,国家収入は4年前の半分,労働者の賃金は半分以下まで低下していました.

労働運動は急速に左翼化,労働者同盟には8万人が結集します.また農村部でも農民の土地よこせ闘争が空前の盛り上がりを見せていました.

資本家階級は政治運営を放棄,軍部に統治を委ねます.あらたに大統領となったマクシミリアーノ・エルナンデス将軍は,共産党に対する大弾圧を開始しました.

これ以上の合法活動は困難とみた共産党は,エルサルバドル赤軍を組織しました.そして学校の教員を指揮者にしたて,農村での武装蜂起に勢力を集中するようになります.

1932年1月蜂起の計画は官憲の知るところとなりました.政府はいち早く軍内の共産党シンパを摘発,返す刀でファラブンド・マルティらを一斉検挙します.指導者を失った農民たちはそれでもマチェテを手に蜂起しますが,軍隊の敵ではありませんでした.

西部のソンソナテ県を中心に大弾圧がおこなわれました.死者3万人といわれます.犠牲者のほとんどは,かつてアルバラードの侵入と戦った先住民,ピピル族の子孫達でした.これがラ・マタンサスの経緯です.

まもなくマルティは処刑され,エルサルバドルにはエルナンデス将軍の独裁が続くことになります.

 

第三章 開発型独裁の登場と破綻

 

第一節 メキシコ型発展を目指すオソリオ政権

13年にわたり政権を維持したエルナンデスですが,徐々に奇行が目立つようになり,支配層内部から見捨てられるようになります.44年4月には自然発生的なゼネストが広がり,その中でエルナンデス政権は自己崩壊を遂げていきます.

しかし彼を支持してきた14家族の権力は依然強大でした.民主化を拒否し,ゼネストを押しつぶし,エルナンデスなきエルナンデス体制の継続を図ります.

それから4年,エルサルバドルにもやっと遅い春がやってきました.48年末,元警察長官オスカル・オソリオが軍内若手を糾合しクーデターに成功したのです.彼らはコーヒー漬けの国家にはもう我慢できませんでした.国家の近代化と脱コーヒー化は,一握りの大地主を除く多くの国民の願いでした.

オソリオの目指したのは,民族主義的路線をとりながら経済を発展させていたメキシコでした.コーヒーの輸出にすべてをかけていたこれまでは,国内産業の育成などおよそ念頭にありませんでしたが,工業化のためには関税障壁などによってこれを保護することが決定的です.

そのいっぽうで,企業づくりのため必要な資金については海外に頼るほかありませんから,海外資本については積極的に受け入れなければなりません.とりわけ米国資本の信頼をかち取らなければなりません.

オソリオは14家族の抵抗を打破するため,翼賛政党として民主統一革命党(PRUD)を結成します.いっぽうでは新憲法を公布し婦人参政権,労組の一部自由化,社会保障制度の開始などを打ちだしますが,他方では再建された共産党にふたたび弾圧を加えます.

このあと,オソリオをついだレムス政権の失敗により,一時「左翼革命政府」が誕生したりしますが,すぐリベラ中佐が政権を奪回.その後も開発型独裁政権が続きます.

 

第二節 中米共同市場の光と影

軍事独裁による左翼運動の弾圧により,表面上は政治的な安定が実現しました,積極的な外資誘導策により,50年代後半からは海外資本の流入があいつぎます.

安くて豊富な労働力,世界最大の市場である米国への近さなどから,エルサルバドルはラテンアメリカ屈指の経済成長率を誇るようになります.

とくに最大の投資国は日本でした.早くも1955年,呉羽紡績が現地に合弁企業を設立します.ついで56年には伊藤忠と東洋紡の共同出資で紡績織布工場「ユサ」が建設されます.ユサはまもなく中米一の紡績企業に成長していきます.

日米繊維摩擦で米国への輸出を抑えられ,後発国に追い上げられる日本企業は争うようにエルサルバドルへ進出します.67年には誘拐事件で有名になる三井系合弁会社「インシンカ」も設立されています.

エルサルバドルの経済成長を後押ししたのは中米共同市場でした.59年キューバに革命が成功したのを見ると,米国は革命のうねりがラテンアメリカにおよばないよう,アメとムチの政策を使い分けるようになります.このアメがケネディによる「進歩のための同盟」です.

米国はラテンアメリカに10年間で総額●億ドルの開発援助をおこなうことになりました.そしてその受け皿として地域共同市場づくりを奨励しました.

そのモデルとなったのが中米共同市場であり,その優等生がエルサルバドルでした.エルサルバドルはゲリラ戦に悩むグアテマラをしり目に域内先進国として急成長を遂げ,とりわけホンジュラスへの輸出にドライブをかけてきます.

しかしこの急成長はエルサルバドルが抱える社会問題を一挙に噴出させることになります.労働者は低賃金と無権利状態におかれ,その闘いは厳しく弾圧されました.

いっぽうで経済構造の二重化は,中小企業や地場産業に壊滅的打撃を与え,地方の地主層の没落をもたらします.

これに代わり,米国などの外資産業,軍部と結びついた特権階級が新たに登場します.彼らの横暴と軍部の腐敗は,たんなる階級を越えた民族的憤激を呼ぶようになります.

それでも景気が上向きの時はなんとか持ちこたえますが,右肩上がりの経済に陰りが見え始めた60年代後半,矛盾は一気に激化してきます.

 

第三節 サッカー戦争と軍事独裁の強化

経済の行き詰まり,労働者・市民の不満の高まりを,政府は強権によって乗り切ろうとします.そしてホンデュラスとの戦争を引き起こすことで,国内の矛盾をそらそうとします.

その前からホンデュラスとの関係は悪化していました.ひとつは両国貿易の極端な不均衡で,ホンデュラスの側から不満が噴出していたためです.もうひとつは,人口過剰のエルサルバドルから国境を越えホンデュラスに入り,農耕を営むものがあいついだからです.

69年6月,メキシコで両国のサッカー試合がおこなわれました.試合はエルサルバドルの勝利に終わったのですが,ホンデュラスでは怒り狂った群衆が暴動を起こします.これをなだめるため,ホンジュラス政府は30万人のエルサルバドル人不法移住者を強制送還します.

7月14日,エルサルバドル政府はホンデュラスに宣戦布告し,テグシガルパ空港への爆撃を開始しました.この戦争はサッカー戦争と呼ばれたり,わずか百時間で終わったことから百時間戦争と呼ばれたりします.

いずれにせよ,戦争そのものはエルサルバドルの一方的勝利に終わったのですが,この戦争で一番ソンをしたのもエルサルバドルでした.戦後の失業者増大,中米共同市場の閉鎖による景気後退がエルサルバドル経済にのしかかります.

 

第四節 左翼運動の非合法化

冒険主義的方向に打ってでて失敗した軍事政権は,これを反省するどころか,ますます抑圧的な方向に向かいます.72年の大統領選挙は,軍事政権が暴力的独裁に移行するターニングポイントとなりました.

そもそもこの選挙をめぐって,左翼陣営は二つに割れていました.すでに60年代後半から軍事政権の左翼に対する弾圧は厳しさを増しており,労組や民主団体の幹部に対する暗殺事件や死の脅迫があいついでいました.

急進派は,もはや議会を通じての国政民主化は幻想に過ぎないという判断です.彼らは,さまざまな市民抵抗を通じて政府を追い込み,ゼネストや市民蜂起などにより政権を転覆する以外にないと主張しました.

共産党は二つに分裂し,カルピオ書記長らは党を出て新たにファラブンド・マルチ人民解放軍(FPL)を結成します.彼らは反帝反オリガルキーのスローガンの下,ベトナム型の長期人民戦争路線を打ち出しました.

いっぽうハンダル新書記長を中心とする主流派は,キリスト教民主党や国民革命運動などと連合し,国民抵抗同盟(UNO)を結成.大統領候補にキリ民党のドゥアルテを押し立て選挙に臨みました.

ドゥアルテは当時サンサルバドルの市長を務め,国民的人気は圧倒的でした.

2月行われた選挙はドゥアルテの圧勝に終わりました.選挙管理委員会も,いったんはドゥアルテ勝利を発表します.しかしそのあと軍部は強引に開票をやり直させ,その結果モリーナ大佐が逆転勝利します.

これには国民の怒りが爆発します.連日の抗議行動やあいつぐストライキの前に,政府は対応できなくなりました.

このとき若手将校によるクーデターが発生します.クーデター部隊はいったん首都を制圧し,ドゥアルテに政権を渡そうとします.しかしこのクーデターは,ニクソンの手によって潰されました.

日本ではほとんど知られていませんが,このクーデターも,ラテンアメリカ現代史で五本の指に入るくらい理不尽なものです.

米国は現地駐在の軍事顧問団を軍司令部に派遣しました.軍の指揮権を掌握した顧問団はモリーナ派部隊を動員し,ワシントン駐在武官のアギラール大佐を呼び寄せ,鎮圧作戦の指揮にあたらせます.同時に中米軍事同盟を動員し,ニカラグア,グアテマラ軍機にサンサルバドルを爆撃させます.まさに傍若無人というほかありません.

クーデターは数百名の死者,千名以上の負傷者を出し敗北しました.ドゥアルテも逮捕され,拷問を受けたあとグアテマラへ追放されます.抵抗運動の拠点,国立大学ではメンヒバル学長,カスティージョ医学部長ら8百名が逮捕されました.大学はその後2年間にわたり閉鎖されます.

 

第五節 あいつぐゲリラ集団の登場

選挙を通じての政権獲得は,誰の目にも不可能となりました.合法主義者といえども,暗殺の危険にさらされながら,非合法すれすれのところでの活動を余儀なくされます.しかもその境界たるや,あいまいかつ恣意的で,いかようにでも解釈される類のものです.

労働運動や農民運動分野の戦闘的活動家は一斉に地下に潜行していきます.労組幹部はFPLへの結集を強めます.ゲリラ闘争の拠点づくりを前提に農民への働きかけを強めたFPLは,74年末に農村労働者連合を結成します.

いっぽうキリ民党系の活動家は,FPLとは別個に大衆への働きかけを強めました.とくに「解放の神学」の影響を受けた教会の若手神父は,積極的に農村に入り共同体づくりに励みます.教会の最高指導者チャベス大司教もこの活動を積極的に支持しました.

なかでも有名なのがサンサルバドル北部アギラレスで活動したルティリオ・グランデ神父です.

都市の青年たちも急進化していきました.キリ民党青年部のなかに,ゲリラ路線を主張するグループが形成されました.極端な秘密主義をとり,組織の名さえつけなかったため「エル・グルポ」と呼ばれています.

その中核部隊は率直に言えば議論よりも行動という連中で,最初から銀行強盗,人質誘拐,爆弾テロなど過激な行動に走ります.しかしその周りには不条理な政治を打破しようという熱意にあふれた青年が続々と結集していきました.さらに組織の主導権を獲得すべく,カストロ派や中国派などさまざまな潮流が集まってきます.

 

第六節 既存組織の枠を超えた大衆闘争組織の誕生

最初に大闘争を展開したのはキリスト教系の団体でした.エルサルバドルの地図を見てもらうと分かりますが,国土の北側を串刺しにするように大きな川が走っています.レンパ川です.この川の中流に大きな湖があります.ダムによって出来たセロン・グランデ湖です.

この湖底にはかつて1万5千人が住む農村が広がっていました.74年当時,土地取り上げに反対して農民は立ち上がりました.

この闘争を支援するために全国に共闘会議が作られ,それは人民連合行動戦線(FAPU)に発展していきます.しかしこの初の全国的人民戦線は,各派の思惑の違いからまもなく空中分解していきます.

FAPUの分解はそのままエル・グルポの分裂へとつながっていきました.もともと武装ゲリラ組織として位置づける人たちと,大衆の統一組織と考える人たちの間には大きな溝があったのが,運動の高揚のなかで隠されていただけですから,この分裂は当然といえば当然です.

しかしその過程では,あまり口にしたくないような内ゲバがありました.ようするに軍事部門の活動家がフロント組織の幹部をテロった訳です.

キューバ派の大物で,エルサルバドルを代表する詩人と謳われたロケ・ダルトンが,CIAおよびキューバのスパイとして「粛清」されます.軍事部門のなかでも,大衆闘争重視派といわれたエルネスト・ホーベルが暗殺者の手に追われることになります.

こうしてエル・グルポの主導権を握ったのがホアキン・ビジャロボスでした.彼は組織を人民革命軍(ERP)と名付け,いっそう都市ゲリラ活動に邁進するようになります.

75年8月の大聖堂占拠事件は,セロン・グランデにつぐ大衆運動の第二の結節点となります.首都サンサルバドルを代表する建物を舞台に起きたという点では,はるかに大きなインパクトを与えたともいえます.

そもそものきっかけは学生のデモに対する血の弾圧です.7月30日,大学への警察の介入に反対するデモがおこなわれました.学生だけでなく市民もふくめ5万人が参加したといいますからすごい規模です.

そこへ軍隊が出動しました.第一歩兵師団の装甲車がデモ隊に突入したといいますから,ずいぶんと乱暴です.軍の発砲により20名が「行方不明」になりました.行方不明といっても,要するに死体が見つからないのです.

8月1日,抗議の大デモが展開されました.この時決死隊が市内中心部の大聖堂に突入,占拠します.それから5日間,市民と軍隊とのにらみ合いが続きました.FPLは「7月30日」共闘を組織,大聖堂を取り囲んで必死の防衛にあたります.さしもの軍部も突入を果たせぬまま日にちが経過しました.

6日,国際的非難が高まるなか,ついに政府は折れました.チャベス大司教の仲介を受け入れたのです.こうして事件は市民運動の勝利に終わりました.

この闘争を機にFPLとホーベルらエル・グルポ反主流派との共闘が実現したかに見えましたが,結局ここでも共闘は短命に終わりました.

無党派市民はFPLの指導的立場を拒否し,第二次FAPUの形成へと向かいます.地方でも教会を中心に結成された組織はFAPUへ結集していきます.ホーベルらは,この勢力に依拠しながら独自の武装ゲリラ組織,民族抵抗武装軍(FARN)を結成します.

これに対し,農村労働者組合を中心に左翼の結集を図るFPLは人民革命ブロック(BPR)を結成.「エル・ブロッケ」と呼ばれるこのフロント組織は,9つの農民組織,6万人からなる最大の大衆組織へと発展します.

 

第七節 狂暴化する軍事政権

77年,大統領選挙が行われました.といってももはや全くの茶番です.共産党をふくむ野党勢力は反対派連合(UNO)を結成し選挙に臨みますが,独自の候補を擁立することすら許されず,やむを得ず退役軍人のクララモンを候補にたてます.

軍部の候補はロメロ,もはや開発派ですらなく,ひたすら人民弾圧をこととする全くのゴリラ型の軍人です.

茶番的選挙と,不正を絵に描いたような開票操作の結果,ロメロが大統領に『選出』されました.2月28日,ロメロの就任に抗議するデモがおこなわれました.このデモに対し軍が発砲,50人が射殺されます.政府はただちに戒厳令を公布しました.

それから2週間後には,アギラレス村のルティリオ神父が暗殺されます.この頃から農村活動家に対する死の部隊のテロが一段と激しさを増します.

あろう事か軍部はこの事件を利用し,アギラレス近辺の不逞分子刈りを始めました.この作戦で神父と行動をともにしていた数百名が「行方不明」になります.さらに政府はイエズス会聖職者の国外追放を宣言します.

一連の事態に接した教会は怒りを爆発させます.チャベスに代わって大司教となったロメロは,もともと保守的な傾向の人物でした.しかしこの後彼はもっとも勇敢な教会代表として,政府・軍部の非民主的,非人道的態度を激しく批判するようになります.さらに人権外交を掲げるカーター政権も,エルサルバドルに対する批判的態度を強めていきます.

79年にはいるといよいよ事態は切迫してきました.5月にはブロックのチャコン書記長が逮捕され,これに抗議する大聖堂前の集会に機動隊が発砲し,参加者24人を殺害します.

テレビで全世界に放映され,映画「サルバドル」の冒頭でも使われた教会前の虐殺シーンはこの時のものです.この虐殺事件からわずか三日,今度はベネズエラ大使館の前でも大量虐殺がおこなわれ,14人が犠牲となりました.

 

第四章 激動の幕開け

第一節 マハノの予防クーデター

民衆と軍部との衝突が激化するなかで,となりの国ニカラグアでサンディニスタ革命が成功しました.その影響は,とくに米国にとって計り知れないものがありました.

このまま行けば間違いなく,エルサルバドルもニカラグアの二の舞を踏むことになります.そうなれば中米全体がソ連の影響下におかれることになる,米大陸の覇者を任ずる米国にとって許すべからざる事態です.

米国はロメロ政権に見切りをつけ,若手将校のクーデターにより国内の矛盾を解決しようと図りました.こうして10月15日,マハノ,グティエレス両大佐による無血クーデターが起こり軍民評議会が成立します.

しかしこのマハノなる人物,カーター好みのリベラル派ですが,軍内における影響力はきわめて脆弱で権力基盤を確保できません.むしろ米国というタガを外された軍部右派は,のびのびとテロ活動にいそしむことになります.

彼らにとってはマハノは軍部の暴力を覆い隠すイチジクの葉に過ぎませんでした.新政権の性格は,クーデターの翌日,早くも示されます.おりから工場を占拠中の労働者に警察が襲いかかります.この事件で労働者18名が殺害され,残りの労働者も全員逮捕されました.

それを知ったマハノは留置者を釈放するよう警察に命じますが,警察を処罰することは出来ませんでした.ようするに新政権は,最初から二重権力のもとにおかれていたのです.

軍主流派は表向きマハノにしたがうポーズを取りながら,准軍事組織(パラミリタリー)を結成してよりいっそう暴力的な方法に訴えるようになりました.それらは一応,軍とは関係のない政治結社のような形を取っていますが,その実体は軍や警察そのものであることは,誰の目から見ても明らかです.マハノはそれを知りながら手を出すことが出来ません.

 

第二節 軍民評議会の成立と極右の巻き返し

マハノは軍内で孤立するとともに,野党への傾斜を強めました.もともとFARNシンパと目されていたようですが,新政権にはのちにFDR指導者となるウンゴやサモラ,アルバレスが名を連ねました.軍部を除く全政治勢力が結集したほか,共産党のフロント組織であるUDNからも閣僚一人が送り込まれます.

新政府の樹立に成功したマハノは,秘密情報機関アンセサルの解散と極右組織オルデンの非合法化を宣言,オルデン指導者のダビュイソン逮捕に動きます.

この政権に対しFARN=FAPU系組織はいち早く支持の姿勢を明確にし,ERP系の大衆組織LPー28も支持の方向に動きました.唯一FPL=人民ブロッケの系列だけが慎重な姿勢を崩しませんでした.

軍部タカ派対軍部マハノ派+人民勢力という対決は,その年の暮れまで約2カ月にわたり続きます.このにらみ合いは結局タカ派の勝利に終わります.

その要因は,今のところ推論の余地を出ませんが,米国が中道左翼連合の政権に移行するのを嫌ったのが最大の要素と思われます.米国の狙いは軍部の「健全派」による権力の全面掌握であり,ゲリラや左翼の浸透と政治進出を容認するような政権ではなかったからです.

米国はマハノからクーデターのもう一人の立役者,右派のグティエレスに軸足を移しました.米大使はグティエレスを呼び,亡命中のドゥアルテをカイライ大統領に据えること,左派や野党派の民間人を政権から排除して新政権を形成することなどを指示しました.12月はじめのことです.

勢いを得た軍部は人民勢力に次々と襲いかかります.弾圧事件の犠牲者の数は一桁増えました.悪夢の時代の始まりです.LP-28のデモ隊は軍の発砲を受け86名の死者を出しました.ストライキ中の農場に軍が踏み込み35名の死者を出しました.

12月28日,農民虐殺に抗議する形で左派閣僚が辞任します.明けて80年1月2日,今度は中間派のウンゴら軍民評議会の民間代表三名全員が辞任.さらに翌日にも民間人閣僚6人が辞任し,新政権は二ケ月余りで崩壊していきます.

これを待っていたかのように軍部はただちに第二次軍民評議会を発足させ,ドゥアルテを代表に据えます.なお政権にしがみついた何人かの政治家もいたものの,全くの軍事独裁,徹底した民間人排除内閣です.米国はこの新政権を歓迎し,武装ヘリ10機を供与すると発表します.

これに対し党派に分かれていた四つの人民組織は大衆革命統合評議会(コルディナドーラ)を結成.「革命民主政府綱領」を発表します.まさに全面対決です.

 

第三節  ロメロ大司教の暗殺

まもなく両者の対決がやってきました.1月22日,コルディナドーラは15万人を結集する反政府デモを組織します.実にエルサルバドル総人口の3%です.しかし軍部は妥協しません.デモ隊が中心部の大聖堂にさしかかったとき,屋根の上から一斉射撃を加えます.死者は67人,負傷者は数え切れません.もはや軍事力に頼るしか道は残されない情況になってきました.

極右勢力はさらに戦争を挑発します.キリ民党は政権からは離れたものの,依然態度を決めかねていました.幹部のかなりの部分が政権に残留しただけでなく,新たに評議会議長に就任したドゥアルテも,かつての党の総裁です.

党幹事長マリオ・サモラは臨時に幹部会を開き善後策を話し合うことにしました.2月22日,その会合が開かれたキリ民党本部に右翼が乱入,マリオ・サモラをその場で射殺してしまいます.

難を逃れたサモラ派は,弟ルーベン・サモラを新幹事長に選出.はっきりと政府との対決姿勢を示すようになりました.キリ民党のサモラ派とウンゴのMNRはあらたに民主戦線(FR)を結成,コルディナドーラとの連携を目指します.

そしてテロの総仕上げ,ロメロ大司教の暗殺です.3月24日,最後の日となったミサでロメロはこう語ります.「わたしは乞う,願う,命令する.神の名において.民衆抑圧をやめよと!」

その時一発の銃声が聖堂にこだまします.ロメロは崩れるように倒れ,そのまま帰らぬ人となりました.まさに殉教です.

実はその数日前から,テロリストの代表ダビュイッソンはテレビでロメロの死を予告していました.周りの人はミサを取りやめるよう強くすすめましたが,ロメロはそれを聞き入れませんでした.いつかこの日が来ることを覚悟していたものと思われます.すさまじい生き方だと思います.

ロメロの葬儀は,エルサルバドル最後の大規模なデモとなりました.8万の民衆が,みな死を覚悟しながらデモに参加しました.そのようなデモにさえ軍部は容赦なく発砲,さらに26人の命が失われたのです.

ロメロの死から10日後の4月2日,すべての民主勢力が大同団結することになりました.コルディナドーラを中核とし,民主戦線,全国カトリック連合(UNCA)など21の政党大衆組織が結集しました.これが民主革命戦線(FDR)です.議長に就任したのはエンリケ・アルバレス前農相でした.彼は寡頭制の代名詞「14家族」の一員でもあります.

FDRの特徴を一言でいえば,ブルジョア勢力の決起と左傾化です.具体的には綱領に「反帝反寡頭制」をうたい,武装闘争を容認したことです.そこには大司教を失ったカトリック教会の,対決姿勢の強化が大きな影響を与えています.

 

第四節 DRUからFMLNへ

FDRの結成が比較的順調だったのとは裏腹に,ゲリラ組織の統一は難航しました.なんといっても問題はERPの評価にありました.

ポイントは三つあります.

まず彼らの路線です.ERPが公式に掲げていたスローガンは反ソ反キューバでした.彼らは政治の暴力・腐敗に対する怒りをバネに活動を展開していました.この路線に固執する限り共闘の条件はありません.しかしニカラグアのサンディニスタ革命のあと,ERPは少なくとも表向きはこの路線を放棄しました.

第二には,無差別テロ作戦です.商店街や乗合バスに爆弾を仕掛けて,市民を犠牲にしてはばからないやり方には,他組織からの批判が集中しました.ERPは徐々にこの作戦を縮小していきました.

第三には,ERPのもっとも後ろめたい部分,ロケ・ダルトン殺しなど内部粛清の総括です.しかしこの批判には,カルピオによって蓋がされました.おそらくはカルピオというより,ニカラグアのトップ筋(おそらくトマス・ボルヘ)からの示唆に基づくと思われます.

このようなERPの態度変更を各組織が受け入れた結果,ハバナにおいてゲリラ組織の統合会議が持たれました.会議は各組織5名からなる統一革命指導部(DRU)の結成で合意しました.さらに各組織1名からなる統合司令部を創設することでも一致しました.DRUの本部はマナグアにおかれることになりました.

このことからも分かるように,ゲリラ勢力の統一にあたってキューバとニカラグアの果たした役割には,絶大なものがありました.一見強引な「統一」のようにも見えますが,情勢はそれだけ緊急を要するものとなっていたのです.

その後の情勢は統合路線の正しさを示すものとなりました.およそどのような組織でも,荒れ狂うテロルを前に運動を維持するためには,統一組織の下に,軍事行動を起こす以外に道はなかったのです.

一時,DRUを離脱したFARNも,指導者ホーベルの死後,DRUに復帰します.また中米労働党の流れを汲むPRTCも新たに参加し,5つのゲリラ組織が結集.10月13日に,再出発することとなりました.新組織は32年大蜂起の指導者ファラブンド・マルティの名をとり,「ファラブンド・マルティ民族解放戦線」=FMLNと名づけられました.

 

第五節 マハノの最終的失脚

軍内部では「パンドラの箱」を開けてしまったマハノに対する批判が強まります.そして力尽くで改革派を押さえ込んででも,秩序を回復しようとする勢力が勢いを増します.原因は隣の国ニカラグアにあります.

ニカラグアで権力を掌握したサンディニスタは,軍隊を解体し,自らのゲリラ部隊を新たに国軍として再編成しました.20年前革命に成功したキューバでも,おなじような事態が進行しました.いま改革派の勢力増大を放置すれば,自分たちも解散の憂き目にあうという恐怖は,他の何にもまして彼らを狂暴化させる原動力となりました.

マハノもある意味で他の軍人と同根です.エルサルバドルをニカラグアのようにしないためにこそ,彼の予防クーデターの意味はあったのです.しかし結局,それは逆効果となってしまいました.このような雰囲気のなかで,ロメロを殺したダビュイソンは軍部内に影響力を広げていきます.

極右とマハノの緊張関係は,5月8日,一気に決着を迎えます.すでにレーム・ダックとなっていたマハノですが,ダビュイソンがマハノを共産主義者と攻撃,クーデターを公然と示唆するにおよんで,ダビュイソンを逮捕するという最後の賭けに出ます.そして軍部極右派によるクーデター計画を摘発します.

これを待っていたかのように,翌日,極右派は全国将校会議を召集しました.会議は全将校の過半数を集めることに成功し,マハノの司令官解任,グティエレスの司令官就任を決議します.この決定に基づいて13日にはダビュイソンを釈放しました.

 

第六節 吹き荒れるテロの嵐

そこで登場するのが死の軍団ORDENです.その実体は,軍服を脱いだ軍人であり,警察官でした.労組活動家,ジャーナリスト,弁護士など反体制派は片っ端から粛清されました.

まもなくその殺しかたも異様となりました.首や手,局部を切り落とすのがひとつのマナーとなりました.それまで1カ月あたり数百の単位だった犠牲者は,五月を境に千人単位に跳ね上がります.まさに人の命の,一山いくらの大安売りです.殺す方もずいぶんタフだと,変に感心してしまいます.

このようなテロの嵐のなか,FDRは驚異的な英雄精神を発揮します.6月25日,FDRはゼネストを決行しました.なんと企業の90%が営業を止めました.おそらく命がけだったと思います.国民の9割が命を懸けて抗議の意志表示をするなどという国があるのでしょうか?

しかし,このゼネストは軍部の狂気に油を注ぐだけの結果となりました.軍は抵抗の拠点,国立大学に突入し,学生16名を虐殺します.そして大学を無期限閉鎖に追い込みます.

10月にはいると,テロはいよいよ見境なくなります.国立大学の学長でエルサルバドルの良識を代表するウリョア教授が暗殺者の手にかかりました.

11月,ウリョア学長葬儀のために帰国したFDRのアルバレス議長,BPRのチャコン書記長ら幹部6名は,市内で記者会見をおこなっていました.そこに突然武装集団が乱入し,全員を連れ去りました.

数時間後,道路脇の下水溝に血塗れになった6人の遺体が転がっているのが発見されました.

もはや情勢は絶望的です.テロによる犠牲者は,1980年の1年のみで約1万名に達しました.結局,エルサルバドルを内戦に追い込んでいったのは,他ならぬ軍部そのものだったといえるでしょう.人々にとって,それしか生き延びる道はなくなったのですから…

 

第八節 最後のジャンピング・ポイント

もはや国内での進歩的運動は消滅しました.FMLNは着々と武装蜂起の準備を進めます.FDRは国外に本拠を構え,MNRのウンゴとキリ民党のサモラが代表に就任.事実上FMLNの外交部としての役割を果たすようになりました.

エルサルバドルの闘いを,ますます武装闘争の側に追いやるできごとが二つ発生します.ひとつは80年11月の米大統領選です.現職のカーターが極右のレーガンに敗れたのです.

レーガンはかねてから中米ドミノ理論を掲げていました.中米をこのまま放置しておけば,やがて共産主義が浸透し,ソ連の影響下にはいってしまうというのです.

レーガンは,共産主義の浸透を食い止める橋頭堡としてエルサルバドルを位置づけていました.エルサルバドルの軍部や寡頭層がどのように腐敗していようと,民衆が何を願おうと,それは国際反共運動の視点から見ればどうでもいいことだったのです.

彼は孤立した極右派ではありませんでした.すでに軍部やCIAは,カーター政権の人権重視政策もお構いなしに,エルサルバドル軍部への支援を強化していました.

中南米においても,とくにアルゼンチン,チリ,グアテマラの軍事独裁国家は,国際反共連盟の中核として恐怖政治を推進していました.連盟のスポンサーは文鮮明の勝共連合でした.

表向き米国が直接支援することができないために,彼らはアルゼンチンとイスラエルを利用しました.イスラエルからは大量の兵器が輸出されました.アルゼンチン軍事独裁政権は50名を越える軍事顧問団を送り込みました.その多くは人民弾圧や白色テロ,拷問の専門家でした.

当選したレーガンはさっそく,エルサルバドル軍部への強固な支持の立場を明らかにしました.このことはFMLN側に深刻な影響を与えました.軍部と正面切って闘うことは,米政府を相手にすることになるからです.

もう一つのできごとが,死の軍団による米人修道女暴行虐殺事件です.

当時,すでに死の軍団の脅迫は相手を選ばぬものとなっていました.活動家や農民をかくまう教会や聖職者は,弾圧の例外どころか最大の標的となっていました.そして聖職者の国籍は問題でなくなりました.サンサルバドルの修道院に奉職していた米国人修道女にも「死の予告」が送りつけられてきました.

彼女たちは難を逃れ米国に帰還しようとしますが,その帰路をテロリストが襲撃するのです.今日では現職の軍人が犯行にあたったことが明らかになっています.彼らは修道女を縛り上げた上,凌辱し,虐殺し,死体を遺棄したのです.

さらにおなじ月,米国人フリージャーナリスト,ジョン・サリバンが失踪しました.これも「死の軍団」の手によるものでした.そして年が明けた81年1月には,サンサルバドルの高級住宅地にある最高級ホテル「シェラトン」のロビーで,米国人政府顧問二人が暴漢に襲われ,殺害されるまでにいたります. 彼らは米国の肝いりで設立された農業改革研究所の所長と談笑中でした.

軍部は左翼ゲリラの仕業とし,犯行を否認しますが,駐エルサルバドル大使ホワイトにはすべてが分かっていました.ホワイトはダビュイソンを人殺しの病理学者と名づけました.

解任直前の身でありながら,ホワイトはエルサルバドルへの制裁を強力に要請します.これを受けたカーターも経済・軍事援助を停止すると発表します.国連総会も,非同盟諸国のイニシアチブで「エルサルバドルの人権侵害を非難する動議」を可決しました.

マハノに代わって軍の実権を掌握したグティエレス大佐は,まったく無力化していた軍民評議会を改組.高まる国際的非難に応えて,ドゥアルテを担ぎ出します.

ドゥアルテは亡命中の米国より舞い戻り「大統領」に就任しました.副大統領にはグティエレス当人が就きます.この時まで形式的に評議会にとどまっていたマハノは解任され,政治的発言力を失います.

こうして,事態は81年1月,FMLNの総蜂起へと抑えがたい勢いで突き進んでいきます.

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