エルサル革命史  第二部

 

 

第一章 内戦のはじまり

第一節 FMLNの一斉蜂起

1981年1月10日,ついにFMLNは総攻撃を開始しました.総「蜂起」という方が正確でしょう.「最終決戦」という作戦名がついていましたが,それが最終戦になるとは誰も思っていませんでした.しかし,それが,まさか10年以上も続く内戦になろうと考えていた人もいませんでした.

蜂起の日は,50年前にファラブンド・マルティの蜂起したのと同じ1月23日に予定されていたといいます.しかし,エルサルバドルへの干渉を公然と唱えるレーガンの大統領就任が目前に迫っていました.蜂起は急がなければならなかったのです.

総攻撃はあっけなくけちらされました.そもそも本格的な戦争を闘ったことのない連中に,緒戦で勝てという方が無理でしょう.戦術的にも混乱していました.

それでもいくつかの重要な戦果を挙げることはできました.ERPの拠点となったモラサン県では,県都サンフランシスコ・ゴテラを一時陥落させました.

FMLNの影響の比較的弱い西部でも,サンタアナでマハノ派将校が決起するなどの動きがありました.すでに政治力を失っていたマハノも「現政権はいかなる手段を用いても打倒されなければならない」とよびかけます.結局彼は逮捕され,国外追放になりました.

 

第二節 総蜂起の総括と闘争の方向付け

およそ3日間の戦闘の末,ゲリラ部隊は戦闘を切り上げました.FMLNはこの度の作戦について総括をおこない,これからの闘いを展望することになります.

第一部でも述べましたが,FMLNといっても元は雑多なゲリラ組織の寄り合い所帯です.総蜂起の総括についても,そもそもの位置づけが違えば,評価も変わってきます.この違いは,総蜂起を「権力奪取のための直接的なステップ」と考えるERPと,「長期にわたるゲリラ闘争に人民を組織するための作戦のひとつ」と受けとめているFPLとのあいだで際立っていました.

いま考えれば,この議論は当然FPL側に軍配が上がるのですが,このときはややこやしい事情がありました.緒戦において戦果をあげたのはERP,苦戦したのがFPLだったからです.

ERPが根拠地としたモラサンはニカラグアに最も近い山岳地帯で,軍の警備も比較的手薄でした.ここを根城としたERPは,ゴテラを一時占拠するなど優位な戦いを進めます.いっぽう北部チャラテナンゴでは,FPLが決起しますが,軍のきびしい反撃に抑えこまれます.

緒戦を通じてERPの威信が大いに高まったことは間違いありませんが,元々の戦闘能力はFPLが圧倒していました.このあと,FMLN内の主導権争いは,FPL対ERPを基軸にしながらしばらく続くことになります.

総蜂起を主張するERPであろうと,戦いの結果を見れば戦略上の結論は明らかです.当面は力を蓄積しなければなりません.ERPもふくめたすべての組織が,農山村部でのゲリラ闘争の確立に専念することになりました.

 

第3節 『エルサルバドル白書』のでっち上げ

1月20日,レーガンが大統領に就任します.彼こそが中米民衆の民主化への願いを踏みにじった張本人です.レーガンは大統領選挙のあいだから,一貫して中米における共産主義の脅威を説き続けてきました.彼の目には,ロメロ大司教もルベン・サモラも共産主義者としか映りませんでした.そしてドミノ現象を阻止するためには軍事干渉も辞さない,という強硬な姿勢を明らかにしていました.

予想通りレーガンは,就任翌日には早くも,本格的な軍事援助の再開を発表します.共産主義の脅威に比べれば,屠殺者の部隊など可愛いものだったのでしょう.

2月末,米国務省は「エルサルバドル白書」を発表しました.この白書はエルサルバドル解放勢力を共産主義者と断定し,その背後でキューバとニカラグアが操っていると非難します.そしてエルサルバドルを共産主義の魔の手から守るという論理で,現政権に対する本格的な軍事援助を正当化します.同時にゲリラへの武器供給を理由にニカラグア経済援助を打ちきるという筋書きです.

ところで,このシナリオについては,「2百トンの武器が社会主義国から国内へ搬入された」とする情報が最大の根拠になっています.しかし,この情報は出所,確度ともにかなり怪しいものでした.ワシントン・ポストは,「白書の信憑性について重大な疑問がある」と報道します.のちにでっちあげであることが元CIA職員により暴露されました.

さすが元役者だけあって,レーガンの芝居は堂にいっています.新政権は次々とデマを積み重ねます.例えばヘイグ国務長官は,尼僧殺害事件について議会で証言.「彼女たちは銃火の中を車で潜り抜けようとし,交通事故によって死亡した」と述べます.見て来たようなウソとは,こういうことを言うのでしょう.

これらのデマは現地では物笑いの種でしかありません.前のエルサルバドル駐在大使ホワイトは次のように反論しています.「中米紛争の原因を探るのにキューバやソ連に行く必要はない.ここに原因はある.それは失業,飢え,不公正である」

 

第四節 エルサルバドル干渉に反対する運動

米国が中米紛争に本格的に介入するとなれば,これは間違いなくベトナムの二の舞です.米国民は一斉に反発しました.3月3日にはワシントンでエルサルバドル介入に抗議する集会がおこなわれました.この反戦デモには10万人が結集,ベトナム反戦闘争以来,最大規模の集会となりました.

全米カトリック教会の司教会議も軍事顧問の派遣を非難する声明を発表します.これについでラテンアメリカのカトリック教会最高指導者らも,米国のエルサルバドルへの軍事介入を糾弾する声明文を発表しました.民主党の下院議員11人は,エルサルバドル介入中止を要求しワシントン連邦地裁に提訴します.

しかしレーガンにとって,このくらいの反対は最初から織り込み済みでした.委細かまわず,軍事援助強化の方向を邁進します.3月中には2千5百万ドルの軍事援助,6千3百万ドルの経済援助を決定しました.そして対ゲリラ戦指導のため56人の軍事顧問を派遣しました.顧問団長にはベトナムでの大量殺りくで蛮名をはせたエルドン・カミングス大佐が指名されます.

第五節 民衆虐殺のエスカレート

一斉蜂起に対する軍部の反応はすさまじいものでした.労組や市民活動家ばかりでなく,何も関係のない民衆までもが次々に捕らえられ,首や手をバラバラにされたむごたらしい姿で,道端やごみ捨て場,海岸に捨てられました.

書くのがいやになるような報告が続きます.ラ・ベルムダの国内難民センターで,女性と子供からなる2千名の難民が,強制的に刑務所に連行されました.このうち25名は移送途中に「失踪」しました.おそらくどこかに埋められているのでしょう.

アテオスの食肉工場では若者と子供83人が首を切り落とされました.首なし死体はサンタアナ郊外に遺棄.事件を報告したジャーナリストは死の脅迫を受け亡命を余儀なくされます.

亡命した人たちにも過酷な運命が待ち構えていました.米国は政治亡命を認めず,強制送還したのです.サンタナ・チリノも強制送還された一人です.2ヵ月後,首を切られたチリノの死体が発見されました.これを知った国連難民高等弁務官は「国を去ったすべてのエルサルバドル人は事実上亡命者とみなされるべき」と発言しますが,レーガンの耳には届きません.

国連人権委員会の発表では,この年の上半期だけで9250人が殺害されています.毎日50人ずつ殺された計算です.しかもこの数字にはスンプルの大虐殺は含まれていません.この事件が明らかになったのは,ずっと後のことです.

好き放題に人を殺せる状況をだれよりも喜んだのが,極右軍事組織でした.彼らの白色テロの対象にはドゥアルテすらも含まれていました.そのボスであるダビュイソンは,死の軍団をそのまま政党として登録するにいたります.これがARENA,現在の政権党です.ダビュイソンは「神,祖国そして自由」をスローガンに政権獲得をねらいます.

ダビュイッソンは記者会見し,レーガン政権からクーデターの承認を得たと発表しました.これにはさすがの米政府も否定にまわります.この報道に怒りに狂ったダビュイソンは,米大使館にまで銃撃をしかける始末です.

後に公開された文書ではCIAすら「ダビュイソンは自己中心的で,無慈悲で,おそらく情動不安の状態にある」と報告するほどでした.それでも「共産主義者」に比べればましなのでしょうか.米国はダビュイソンをかばいつづけました.国務省は,ダビュイソンがロメロ大司教の暗殺に関与した可能性を認めながらも,「これらの情報は限定的で不十分である」とし、議会の追及を拒みました.

 

第五節 リオ・スンプルとエル・モソテの大虐殺

中でも有名なのが5月14日に起きたリオ・スンプルの大虐殺,そして11月のエル・モソテの大虐殺です.

首都サンサルバドル北方のチャラテナンゴ県は,長年にわたりブロッケ=FPLの強固な地盤でした.中でもレンパ河の支流でホンジュラス国境を流れるスンプル河流域は,FPLゲリラの最大の拠点となっていました.

政府軍の反乱鎮圧作戦がもっとも重点としていたのもこの地域でした.軍はこれまでも大規模な掃討作戦を展開し,多くの農民を虐殺してきましたが,今度はまったく規模が違っていました.

ラ・アラーダという村で,突然飛行機が上空を舞い始めました.そして集落に無差別攻撃を加えたのです.そのうち軍の機動部隊がやってきて,銃を乱射し家々に火をつけました.

追いたてられた村人達は国境を目指して逃げ出します.政府軍はこれを追撃し,国境に向けて追い込んでいきました.

8千の人々がスンプル河のほとりに集まってきました.そして河を渡ってホンジュラス側に避難しようとしました.まさにその時,飛行機が襲いかかります.川面をなめるように低空を飛び,逃げ惑う群衆に機銃掃射を加えます.

対岸のホンデュラス側には宗教団体の運営する難民キャンプがありました.そのスタッフが見守るなかでのできごとでした.

この攻撃でおよそ3千5百人が行方不明となりました.その多くはエルサルバドル領内に戻ったと見られますが,約200人(一説に600人)が犠牲となったと推定されています.

重大なことは,この作戦が明らかに米国の指揮の下に行われたということです.ホンジュラスはこの日軍隊を対岸に配置し,上陸しようとする民衆を川の中に押し返しました.現場でホンデュラス駐在米大使ビンズの存在が確認されたとの情報もあります.

それまでのエルサルバドル,ホンデュラス両国は,サッカー戦争以来犬猿の仲でした.米国は両者を強引に「仲直り」させ,中米防衛共同体(CONDECA)に統合します.リオ・スンプルの虐殺もこうした作戦の一環だったのです.

さすがに気が引けたのか,軍はこの作戦をずっと隠していました.虐殺事件が明らかになったのは1年後,現地のミラ司祭の証言がイギリス紙に掲載されたことがきっかけです.

同様の事件が11月にも起きました.エル・モソテの大虐殺です。米軍によってあらたに編成されたアトラカル大隊が,モラサン県エル・モソテ地区で掃討作戦を展開しました.部隊は住民を国境に追い詰め、国境を越えて逃げようとした住民を攻撃.女性と子供を中心に9百名が虐殺されました.

現場に居合わせたCBS記者は,米軍事顧問団が作戦に参加していたことを確認しています.国連人権委員会は事件の直後に虐殺の事実を明らかにしますが,レーガンはこの報告を左翼によるデマ宣伝と否定しました.エンダース国務次官は「虐殺されたとの証拠はまったくない」と議会で証言しています.

ようやく真相が明らかになったのは内戦終結後のことでした.国連を主体とする真相究明委員会が現地調査を行った結果,恐るべき集団虐殺の全貌が明らかになったのです.

モソテ村もホンジュラス国境に近い山間の村でした.11月のある日,政府軍最強の部隊アトラカールの千名が,村に侵入しました.彼らは村を焼き尽くし女,子供,年寄りばかり800人を皆殺しにしました.女性は陵辱されたあと胸や頭を撃ち抜かれました.子供は天高く放り投げられ,クレー射撃の標的のように兵士の射撃の的となりました.

生きているものも死んでいるものも,すべてが集められ,ガソリンを振り掛けられたあと焼き殺されました.家の焼ける煙と,屍体の焼ける匂いがあたりに立ち込めました.兵士は狂った笑いを受けべ,言葉にするのもはばかられるような冗談を交わしながら,この「作業」にいそしんだといわれます.まさに「地獄の黙示録」そのままです.

 

第二章 FMLN軍事路線の確立
 

第一節 FMLNの路線確立へ向けて

一斉蜂起から半年,政府軍の見境ない虐殺の前に力を弱めたと見られたFMLNでしたが,実際は激しい弾圧のためにかえって団結を強め,戦闘能力を高めていました.

無抵抗でいれば集団虐殺が待つのみです.実際には武器を持って闘う方がはるかに犠牲は少ないのです.いわば武装自衛です.たとえばゲリラの浸透している地域であれば,政府軍は夜間の行動は起こしません.スナイパーが守る村であれば,とりあえず政府軍の兵士は敬遠します.

もうひとつ,都市での活動の可能性が絶望的になり,活動家は自らの命を守るためにも農村ゲリラとならざるを得なくなったからです.ただし,都市からの補給が困難となることは,ゲリラが大変厳しい状況の下で展開されなければならないという側面も持っていました.

FMLNが初期の混乱状態から体勢を立て直すきっかけとなったのは,6月から7月にかけての戦闘でした.モラサンではERPゲリラが,政府軍6千による掃討作戦に耐え抜き,部隊を確保します.勢いに乗るERPは,西部にあらたな戦線を開きます.

チャラテナンゴでも,FPLがホンデュラスまで巻き込んだ挟撃作戦をしのぎ,一定の浸透地域を拡大するに至ります.その他FARNは中部のサンミゲル,ウスルタンで戦闘を展開します.共産党のゲリラ部隊とPRTCは独自に戦線を開くほどの力はないため,FPLに合流し,サンサルバドル近郊でのゲリラ活動に参加しました.

FMLN各組織は長期の戦いに備え,軍事・政治路線を検討するようになります.そのためにはたんなるゲリラ部隊だけではなく,しっかりした政治指導部を確立することが必要です.

おそまきながら,ERPも長期人民戦争路線を受け入れることになりました.そして,これまで形だけだった社会革命党(PRS)を再編・強化します.党政治局員にビジャロボスほか7名が選出されました.ラジオ・ベンセレーモスの放送を開始し思想宣伝にも力を入れるようになります.

 

第二節 FDR=FMLN革命政権の樹立

FMLNが政府軍の制圧作戦を跳ね返したことにより,エルサルバドルは,二つの勢力が国土を分け合う事実上の内戦状態に移行しました.FMLNとFDRは和平の条件や,将来建設されるであろう政府の構想についても議論を詰めていきました.第1回目の政府に向けた和平提案も発表されます.

8月,中米6か国首脳会議が行われました.FDR=FMLNはこれにあわせ革命政権樹立を発表します.これを待っていたかのように国際世論が動き始めます.

いちはやく反応したのがメキシコとフランスでした.10月,メキシコを訪れたミッテラン大統領とポルティーヨ大統領のあいだで,エルサルバドルに関する共同声明が発表されました.この声明はFMLN=FDRの合法性と政治的代表権を認知し,政治解決のため交渉への参加を求めています.

12月の国連総会は,エルサルバドル問題一色となりました.西ドイツ,フランスなどの強力なバックアップにより,米国の軍事援助中止,政府とFMLNの交渉を要請する決議が採択されました.

 

第3節 内戦状態への移行

こうして国際的な認知は受けたものの,外交も力あってのものですから,一定の戦果を挙げなければなりません.まして相手は狂気の集団で,とりあえずは話など通じようはずもありません.

10月に入り,FMLN各部隊は1月蜂起以来初めての本格的攻勢に出ました.ERPはモラサンで戦闘を展開.FPLはグアサパ地区にあらたな戦線を開きます.首都サンサルバドルから北方わずか38キロの地区です.

人心を失った政府軍は,ゲリラの反撃の前に意外なもろさを見せ始めました.住民すべてを敵に回してしまったとき,そのただ中にいる恐怖は相当のものでしょう.自らのおこなった残虐行為は,そのまま自分に降り懸かってくるかも知れません.

ゲリラ部隊はほとんど抵抗を受けることなく,山間部や僻地を支配下におくことになりました.これらの地区では日中は政府軍がパトロールしますが,夜になると基地に閉じこもってしまいます.翌年1月,FMLNは「国土の1/4を解放」と発表しました.

勢いに乗ったFMLNは戦闘規模を拡大します.1月27日にはサンサルバドル郊外にある国内最大の軍事基地,イロパンゴを攻撃しました.基地に働く労働者がFMLNに情報を提供し,手引きしました.彼らの手によりコマンド部隊は易々と侵入に成功しました.彼らは6機のヘリと22機の戦闘機,その他多くの軍事施設を破壊し引き揚げます.ゲリラ制圧を豪語した政府軍と米国政府にとって,それは悪夢のような出来事でした.

ついで2月にはいると,全土で大攻勢をかけます.中部にあるエルサルバドル第5の都市サン・ビセンテが最大の目標とされました.町の陥落には失敗したものの,数日間にわたり包囲します.先ほど述べた首都北方40キロのグアサパでも,掃討作戦に出た政府軍の出鼻をくじき,陣地を確保します.ラジオ・グアサパの放送まで開始されました.この距離ならサンサルバドルの市民すべてが聴取可能です.
 

 

第三章 レーガン干渉と内戦化
 

第一節 レーガン政権の本格介入

キューバやニカラグアの経験からいえば,だいたいこのくらいで勝負はつくものです.しかしエルサルバドルの場合は米国政府が全面的に肩入れしているだけ情況が違っていました.

イロパンゴ事件に衝撃を受けたレーガンは,エルサルバドル軍の本格強化に乗り出します.翌日には早速5千5百万ドル相当の緊急軍事援助を承認しました.ヘイグ国防長官は「エルサルバドル政府転覆阻止のためにはいかなる手段もとる」と語ります.毎日50人が殺されているこの国で,これ以上『いかなる手段」があるというのでしょうか.

イロパンゴやその他の基地には,にわかに外国人の姿が目立つようになりました.ヘイグの「いかなる手段もとる」というのはこのことだったのでしょう.キューバ訛りの傭兵たちは,ピッグス湾事件の生き残りです.ベトナム戦争のあと,正業に就けなかった元兵士も大挙してやってきました.彼らにとっては対ゲリラ戦などお手の物です.

 

第二節 議会選挙とFMLNの挫折

82年3月の制憲議会選挙は,レーガンにとってひとつの勝負でした.ひとつには選挙を破壊しようとするゲリラを封じ込めること,もうひとつは,カイライにすえたドゥアルテを大統領の座につけ,「民主主義」の体裁を整えることです.

最初のひとつはほぼ成功しました.ゲリラの破壊工作は失敗に終わりサンビセンテやグアサパでは,逆に撤退を強いられることになりました.ERPは5百人の兵力でウスルタンを攻撃しますが,待ちかまえていた政府軍の前に惨敗を喫します.「蜂起」戦術で,都市の活動家を晒してしまったゲリラは手痛い犠牲を蒙りました.

レーガンは,もうひとつの目標だったドゥアルテを勝たせることには失敗しました.ARENAがその他の極右政党とあわせ6割の議席を獲得してしまったのです.それはレーガンがまいた種でした.選挙にあたりダビュイソンは記者35名に暗殺予告を送りつけました.それが嘘ではないという証拠を示すためにオランダ人記者4人を虐殺しました.

このような状況の下ではドゥアルテを支持することすら命がけだったのです.そんな状況を作ったのは,ほかならぬレーガンだったのです.

選挙結果を見たドゥアルテはベネズエラへと亡命していきました.合法性を示そうとして企てた選挙が,この国の無法さをあからさまにする結果となったのは,なんとも皮肉でした.

さすがのレーガンも,ダビュイソンをこの国のトップにすえるのにはためらいました.そこでヒントン大使が,2千5百万ドルの援助凍結を切札に,露骨に内政干渉.ダビュイソンにねじ込みます.

ダビュイソンもレーガンの前には敵ではありません.彼はキリ民党との連立政権組織に合意,みずからは国会議長のポストで我慢します.憲法制定,大統領選挙までの暫定大統領には群小政党の一つ,民主行動党(AD)のマガーニャが就任することになりました.ダビュイソンの残酷さも戦慄すべきものですが,レーガン政府のこの無神経さもいささか耐えがたいものがあります.

 

第三節 大規模平定作戦の展開とFMLNの最初の軍事的勝利

82年5月,「合法」政権の成立を待っていた軍事顧問団は,ゲリラの平定に乗り出します.数千の規模の軍隊が動員され,モラサンとチャラテナンゴを中心に,4カ月にわたる作戦となりました.ホンデュラス軍も,2千名の大部隊が国境を越えゲリラ攻撃をかけます.ホンデュラスにも小規模なゲリラ部隊が存在していましたが,この作戦でほぼ壊滅させられます.

殺人を趣味とするような傭兵たちに率いられた政府軍は,これまで以上の残虐ぶりを発揮しました.エル・モソテで狂気の大虐殺を演じたアトラカール軍団は,今度はカラバソという村で女性,子供,老人2百人を虐殺しました.政府軍による住民虐殺は,もはやジェノサイドの様相を呈してきました.

五月から2ヶ月近くにわたり展開された政府軍の掃討作戦は,両派の始めての本格的な軍事的対決となりました.とくにこの時のERPの戦果には目覚しいものがありました.

ERPは前年8月に軍事路線への移行を決めた後も,一斉蜂起への期待を捨てきれませんでした.制憲議会選挙にあたっては,組織の全力を挙げてウスルタン奪取を図りました.しかし期待した大衆蜂起どころか,地下組織そのものがもはや消滅していました.大衆の支援のないまま政府軍と直接対決したERPは惨敗を喫し,モラサンに逃げ込みます.これ以降ERPは大衆蜂起の路線を放棄し,軍事行動主体の路線に転換していきます.それはFMLNへの強い結集をも意味していました.

8月にはいるとさすがの政府軍にも疲労が現れてきました.ゲリラのせん滅ができないばかりか,統率の乱れから,無意味な住民虐殺があいつぎました.いっぽうで戦線を離脱したりゲリラに武器を横流しするなどの行為も目立つようになりました.

そんな折り,モラサンで前線視察中のカスティージョ国防次官のほか百名以上が,ゲリラの罠にまんまと引っかかり,囚われの身となってしまいます.ついに政府軍は作戦の続行を断念します.

この一大決戦は大きな意味を持っていました.たとえ傭兵を動員しようと,米軍事顧問が直接戦闘を指揮しようと,ゲリラに勝つことはできないということがはっきりしたのです.となれば,和平以外に選択の道はなくなります.

もう一つは米軍事顧問団の権威の失墜です.軍内部にも米国人の支配に反発する動きが強まりました.彼らの背後にいたのは,いうまでもなく大統領になり損ねたあのダビュイソンです.

83年1月,軍部内の米国追随派と極右派との対立は頂点に達します.カバーニャス県で対ゲリラ戦を指揮していたオチョア司令官が,米国追随のガルシア国防相辞任を求め反乱を起こします.地図を見てもらえば分かりますが,カバーニャスはモラサンとチャラテナンゴ県を結ぶ線の真中に位置する文字通りの要衝です.

この反乱はいったん治まりますが,軍内の支配権は極右派が握るようになります.4月にはついにガルシア国防相が辞任.後任にダビュイソン直系のカサノバ将軍が就任することになります. レーガンはこれら一連の動きを事実上黙認しました.そして軍事援助の6千万ドル増額(総額2億5千万ドル)を議会に要請するいっぽう,軍事顧問をさらに20名増員します.

 

第四章 FMLNの本格的攻勢

第一節 FMLNの軍事統合とカルピオの死

81年と同じようにこの年も,FMLNが春から夏にかけて敵の猛攻に耐え,秋から冬にかけて,軍事・外交攻勢をとるというパターンになりました.しかし二度の攻撃に耐えたFMLNには明らかな変化が生まれていました.

一つはモラサンを守り抜いたことによるERPの権威の上昇です.これまでとかくうわさのあったビジャロボスですが,その戦闘能力に関しては誰もが一目置かざるを得なくなりました.

もう一つは,ERPが軍事作戦優先戦略を採るようになったことで,各派のあいだでの戦略に基本的な違いがなくなったことです.そうであれば,もともとが統一軍事組織を目標として結成された組織ですから,軍事的統合を具体的日程に掲げるべきでしょう.キューバやニカラグアもそれを望んでいました.

しかしFPLの指導者カルピオは違っていました.理由は分からないではありません.彼にとっては現状がまさに統合されているのではないか,という思いがあったのでしょう.最大の大所帯で,事実上FMLNを代表する組織としてFPLがあり,キューバやニカラグアとのチャンネルも開かれている.それを五つの組織の合議制にしてしまえば,かえって分散化するだけではないか,と考えても不思議はありません.

しかし肝腎のFPLからも軍事統合への動きが出てきます.83年1月に開かれたFPLの中央委員会では,組織統合を主張する意見が多数を占めるに至ります.その先頭に立ったのはアナマリア司令官(女性)でした.

アナマリア司令官は本名をアナヤ・モンテスと言います.共産党幹部としてモスクワにも留学,帰国後は教員組合の幹部として活躍していました.FPL創立以来のメンバーで,カルピオについでナンバー2と目されていました.FPLと行動をともにしてきたPRTCも,第三回大会を開いて5派の統合司令部結成を提起しました.

軍事統合路線の背景には,「中米のホーチミンをきどる」カルピオに対する内外の反発があったようです.靴職人だった若い頃から,40年も共産党の幹部として体を張ってきたカルピオは,69年に党を除名されたあともFPLを結成して,命がけの闘争を続けていました.その誇りが今度は悪い方に作用してしまったようです.

4月6日,ニカラグアの首都マナグアで任務に就いていたアナマリアは,FPLの保安・情報責任者バサグリアから呼び出しを受けます.本部に赴いたアナマリアを待っていたのは「査問」という名の拷問でした.アナマリアは最後はナイフとアイスピックで殺されたといわれます.

誰が見ても明らかな殺人事件です.ニカラグア当局が捜査に乗り出しました.捜査が進むにつれ,大変な事態が明らかになってきました.遺体の「発見者」であるバサグリアは,自らがアナマリアを殺害したこと,それがカルピオの指示によるものであったことを自白します. おりからカルピオはリビアを訪れカダフィと会見中でした.

もはや警察の手に負える問題ではありません.ニカラグア政府内相でサンディニスタの最古参幹部トマス・ボルヘが乗りだしました.ボルヘはカルピオの古くからの友人でもありました.

ボルヘは直接,リビアから戻ったカルピオの尋問にあたります.おそらくはボルヘの説得を受け入れたのでしょう,11日,カルピオは拳銃で胸を撃ち自殺します.その銃はリビアのカダフィ大佐から贈られたものでした.カルピオは遺書の中でアナマリア殺害への関与を否定,彼を追い込んだ小ブル急進派の陰謀を批判したといわれます.しかし前後の関係から見てカルピオの仕組んだ陰謀であることは間違いなさそうです.

FPLにとって,組織の創設者とナンバー2を同時に失ったことは大変な痛手でした.とくにERPのようなほんらい社会主義と無縁な勢力が,闘いの主導権を握ることについては深刻な危機感がありました.

FPLカルピオ派はFMLNから離脱.「カエターノ・カルピオ革命的労働者運動」を結成します.その一部は「クララ・エリザベス・ラミレス戦線」を名乗り,米軍事顧問や軍幹部,反動政治家を誘拐するなどの作戦を展開するようになります.このような作戦こそ,かつてFPLがもっとも強く批判したものでした.いかにFPLが混乱を極めたかが,このことからも分かります.

83年9月,この混乱にもやっと終止符が打たれることになりました.FPLは中央委員会を開催しレオネル・ゴンサレスを書記長に選出します.ゴンサレスは82年に開催されたFPL総会では7人の政治局員にすら選ばれていませんでした.ゴンサレスが選ばれた端的な理由は,当時エルサルバドル国内で闘っていたため,カルピオ事件には無関係だったということです.

彼はアナマリアのもっとも強力な支持者で,ERPとも良好な関係にありました.新指導部はFMLNへの結集を基本路線とすることで意思統一,ERPのビジャロボスを最高司令官とする統合軍事司令部の設置を受け入れることになります.いっぽうでFCERを除名.この決定に服従しない司令官7人が粛清されたといわれます.

 

第二節 米国の戦略変更

この時期,米国にとっても戦略を根本的に見直す必要が生じていました.82年の平定計画の失敗は,もはやエルサルバドルだけを対象にして戦争を続けても勝ち目がないことを示しました.とすれば,エルサルバドルの和平への動きを指をくわえて見守るか,それとも戦火を中米全体に広げるかのどちらかしかありません.

レーガンは後者を選びました.このことは国際政治の枠組みの中でエルサルバドル問題を考える場合に決定的なことです.

エルサルバドル解放運動にとっていわば聖域となっているニカラグアを叩くことを決意したのです.ホンジュラス大使には極右派のネグロポンテが送り込まれ,コントラの編成にとりかかります.超タカ派として知られるカークパトリック国連大使が,特使として送り込まれ,エルサルバドル軍部との関係調整にあたります.彼女はダビュイソンを食事に招き,有能な政治家と褒めそやしました.

いっぽうで,ルーベン・サモラと対話するなど,エルサルバドル問題の話し合い解決の道を探っていたエンダース米州担当国務次官補,曲がりなりにも合法的な政府を維持しようとしていたヒントン駐エルサルバドル大使があいついで更迭されました.

イロパンゴにたむろしていた外国人傭兵の多くは,ホンデュラスへ移動していきます.残された国内のゲリラ戦には,米国で訓練された特殊部隊があたることになりました.これで極右派も,いちいち米国のおうかがいをたてることなく,好き勝手に行動できるというものです.ただしFMLN相手に勝てればの話ですが.

 

第三節 FMLNが優勢に立つ

いま振り返ると,83年後半から84年前半にかけてが,FMLNの一番景気のいい時代でした.

7月こそ,政府軍の「サンビセンテ平定作戦」の前に,一時撤退に追い込まれますが,9月に入ってからの連続攻勢では,ほぼ連戦連勝の勢いでした.闘いの主力はERPとFARNの連合軍であり,かなりのFPL兵士がERPに移籍しています.

モラサンから進出した部隊は,サンビセンテの旧支配区を奪回したほか,さらに隣接したウスルタン県にも浸透していきます.今回の攻勢は,正規軍による正面戦をも組み合わせた高度なものでした.一度の作戦で500人の兵力が有機的に動くようになりました.攻撃対象も、分散した駐屯地ばかりでなく,地区の中枢に位置する軍事基地も含まれるようになりました.

この闘いの教訓を総括する形で,12月にゲリラ戦と正規戦を結合させる「軍事闘争」路線が確認,定式化されます.この時点で,軍事的にはすでにニカラグア解放闘争の水準を超えたと言えるでしょう.彼らが規範としたのはベトナム人民戦争でした.

この会議は統合軍事司令部の設置をきめました.五つのゲリラ戦線代表からなる司令部でしたが,その中でERPのビジャロボスの相対的優位が合意されました.統合軍事司令部はあらためて全国を五つの戦線に分けました.

(1)サンタアナを中心とする西部戦線は主としてFPLが (2)サンサルバドルをとりまく中央戦線はFPLの他共産党やPRTC (3)サンビセンテなど中部周辺戦線はFARNが (4)モラサンからウスルタンにいたる東部戦線はERPが (5)チャラテナンゴを基盤とする北部戦線はFPLが受け持つこととなりました.

ERPも引き続き東部で積極的な作戦を展開しましたが,この期に目立ったのはFPLの復調です.83年も押し詰まった12月30日,大規模なゲリラ部隊がチャラテナンゴ県エルパライソの第4大隊基地を襲撃.激戦の末,3百人を殺傷し確保に成功します.私は軍隊の編成はよく分からないのですが,3x3方式で計算すれば,大隊基地は千人近い規模ではないでしょうか.ゲリラ部隊は1週間にわたりエルパライソを確保したあと撤退します.

1月1日には,レンパ川にかかる要衝クスカトラン橋がゲリラの手により爆破されます.これで,レンパ川以北での政府軍の機動作戦は不可能になりました.装甲車もない裸の遊撃隊編成で,川を渡ろうとする政府軍将兵はいないでしょう.

ゲリラ側の優勢は米国の目にも明らかでした.84年3月,中米問題超党派委員会,通称キッシンジャー委員会は,「戦争は長い目でみれば,ゲリラ側に有利な状況」と報告し,議会に対し危機感を煽っています.

 

第四節 中米全体の状況

ここで,エルサルバドル国内だけでなく,中米全体の当時の状況を見ておいたほうがいいでしょう.1984年の前半は,10年間の中米戦争のなかでも大きな転換点となっています.

ニカラグアでは米国=コントラの干渉が,破壊活動の域を超え,国境をまたぐ内戦に移行しています.数千のコントラ兵士が一斉に侵攻し,一時は首都近くまで攻め込みました.ニカラグアは徴兵制を施行し,総力戦に移行します.

ニカラグアの港に入った日本の船が機雷に触れ損傷したのもこの頃のことです.米国のニカラグアへの干渉は国際的な憤激を呼び,ニカラグア人民との連帯運動も大きく盛り上がりました.

少し前になりますが,自主的な経済発展を目指すカリブの小国グレナダが,米海兵隊の直接侵攻を受け崩壊したのもおなじ流れと見ることができます.

中米紛争の自主的解決を目指す,中南米諸国の動きも始まりました.メキシコ,パナマ,コロンビア,ベネズエラからなるコンタドーラ・グループです.その底流には,これ以上米国の横暴を許さないぞという,ラテンアメリカ人民の怒りと決意がありました.

米国の干渉を嫌うのは,民主的な人々ばかりではありません.エルサルバドルでもグアテマラでも,極右派自身が,反米傾向を持っていました.グアテマラ軍部は,米国の軍事援助を拒否したまま人民弾圧を続けました.

ホンデュラスでは,親米派の総司令官が事実上のクーデターにより更迭され,米国にもエルサルバドルにも一定の距離を置くようになりました.しかし国内でのコントラの活動を規制しようとする努力は,強大な米軍の前には無力でした.おそらく米軍やCIAは,ホンデュラスなど国家だとは思っていなかったのでしょう.

コスタリカのモンヘ大統領は,反共反ニカラグアの立場の人物でした.しかし,巻き込まれ型の戦争参加は断固として拒否しました.そのため,国民投票に訴え,永世中立を宣言してしまいました.もっともコントラはコスタリカ国内で堂々と活動を続けていましたから,その効果はかなり怪しいものでしたが,少なくともニカラグアが攻撃を掛けてきたときに,米国の支援をあてにできるという点では有効だったかも知れません.

グアテマラでは反米極右の軍人の支配が行き詰まっていました.軍内の親米派がクーデターを起こしてリオ・モント将軍を放逐しましたが,民主的活動家や先住民活動家に対する弾圧には変化はありませんでした.グアテマラの情報は,日本では少ないのですが,この国こそ30年にわたる内戦のなかで,もっとも多くの犠牲者を出した国だということは憶えておくべきでしょう.

 

第五節 「中米戦争」への移行

以上のように,中米各国がそれぞれの事情を抱えながらも,全体としてまさに「中米戦争」というべき状態に移行したのが,この84年前半のことでした.そしてそれは,いま振り返れば,80年代を通じた中米紛争の折り返し点でもありました.

それでは何がどう折り返したのでしょう.これが中米紛争の歴史を解くキーポイントになると思います.

最大の変化は,中米問題がニカラグアを主軸に語られるようになったことです.米国はエルサルバドルでの手詰まりを,紛争を国際化することで打開しようとしました.その結果,ニカラグアはまさに第二のベトナムとなりました.中米の抱える問題の本質は,むしろエルサルバドルやグアテマラにあったのですが,ニカラグアの陰に隠れた形になりました.

第二に,米国の介入に対抗して,ニカラグアやエルサルバドルの左翼もソ連・東欧などからの軍事援助で,武装を強化したことです.両軍の殺傷能力が飛躍的に高まったことにより,犠牲者の数もケタ違いに増えることになりました.このことは内戦終結への世論の圧力をかつてなく高いものにする結果となりました.

第三に,中米諸国の闘いは,好むと好まざるとにかかわらず,国際的反帝闘争の前線としての様相を帯びるようになりました.政府軍の一挙手一投足が,国際的な注目を浴びるようになりました.

この結果,さすがの野蛮な軍人たちも,自らの合法性や人権尊重の立場を明らかにせざるを得なくなりました.これ以降,軍部による大量虐殺は目立って減ります.もちろん虐殺がなくなったわけではありませんが,少なくともこれまでのように公然とおこなわれることはなくなりました.

 

第五章 米国=ドゥアルテの巻き返し

第一節 大統領選とドゥアルテの再登場

八方手詰まりのなかで米政府が打ち出したのが,ドゥアルテの再登板です.理由は簡単です.もしこのまま選挙が行われれば,ダビュイソンの勝利は確実でした.もしダビュイソンが勝てば,エルサルバドルへの軍事援助は国の内外から激しい非難を浴びて,不可能となるでしょう.

そうなれば,現体制はFMLNの前に一たまりもないでしょう.5年前のニカラグアにおけるソモサ体制崩壊の悪夢の再現です.

レーガン政権で副大統領を務めたブッシュは,決して票目当てのお飾りの人物ではありません.70年代に,崩壊しかけたCIAの長官として組織を再建した「実績」を持つ,裏の政界の大物です.おおざっぱでいい加減なレーガンの影で,汚れ役を一手に引き受けていました.

今回もエルサルバドルに直接乗り込んでの陣頭指揮です.まず彼は現地の情勢を分析して,ダビュイソンら現地の極右派に政権をゆだねれば,敗北につながることをはっきりさせました.そしてカークパトリックやヘルムズらの国内極右派の反対を押し切り,極右派軍幹部を切り捨てました.そして「文民統治」への移行計画を策定します.もちろん「」付きですが.

CIAはベネズエラに隠れていたドゥアルテをまたもや引っぱり出してきました.140万ドルが米政府からドゥアルテ陣営に流れたといいます.大使館は,ドゥアルテ選挙事務所の様相を呈しました.こうして5月6日,ダビュイソンを辛うじてかわしたドゥアルテが大統領に当選します.

ダビュイソンはこの米国の仕打ちに怒り狂いました.ヘルムズを動かしてレーガンに強硬に抗議します.挙げ句の果て,なんとピカリング米大使の暗殺を企てますが,さすがにこれは失敗に終わります.これが裏目に出たダビュイソンは,以後,ガンで死ぬまでの数年間,厳しく活動を制限されます.84年前半における情勢の根本的転換を読みとれなかった報いでしょう.

 

第二節 ドゥアルテの外交攻勢

大統領に就任したドゥアルテはさっそく欧州各国を歴訪し,民主化の実績を訴えますが,反応は冷たいものでした.しかしそれはレーガンにも折り込み済みのことです.欧州歴訪の帰途,米国に立ち寄ったドゥアルテはレーガンと会談.米国の中米政策を全面的に支持すると発言します.これでレーガンは中米諸国のなかにただ一人の忠実な友人を獲得したことになります.

ドゥアルテはその後精力的に和平ポーズをまき散らします.10月の国連総会では和平対話の開始を提案し,各国の積極的な反応を引き出します.帰国直後,FMLN=FDRの直接交渉が発表されました.場所はゲリラ支配区のチャラテナンゴ県ラ・パルマ市,演出効果としては満点です.

会議は内外の記者団を集めて派手におこなわれました.FDRからはウンゴとサモラ,FMLNからはFARNのシエンフエゴス,PRTCのニディア・ディアスが参加します.ERPのビジャロボス,FPLのレオネル・ゴンサレス,共産党のアンダルら,最高指導者が列席を控えたのは一つの見識でしょう.

ドゥアルテ大統領は,ゲリラに対する無制限恩赦等を含む10項目の和平案を提示します.といっても,会議の意義は会議の開催そのものにあったので,内容はどうでも良いと言えるでしょう.

この和平政策は極右派の激しい反発を呼びました.ダビュイソンのほか,第二師団司令官シギフリド・オチョア,空軍司令官ブスティリョ将軍などは和平に強硬に反対,ドゥアルテ辞任を求めます.

しかし彼らの力は,他ならぬ彼らの戦績によって弱まっていました.もはや極右派に任せてはおけないという声も挙がり始めました.さすがに商人は切り替えが早い,寡頭勢力を代表する経済団体の民間企業国民協会(ANEP)は提案を歓迎する声明を発表します.

 

第三節 ラ・パルマ会談への疑問

私は,この和平会談はFMLNの側から見て疑問が残るように思えます.実際の所,この時点で和平の可能性は皆無に等しいものでした.軍事情勢は大きく動いていました.交渉の前提となる,一定の均衡状態は存在しておらず,FMLNは大きく後退しているさなかでした.

この会議がおこなわれたラ・パルマ市も,わずか二ケ月後の12月12日,政府軍に制圧されます.時を前後してERPの本拠地となっていたモラサン県ペルキンの町も政府軍の手に落ちます.

このような情況で和平会談をおこなえば,相手を利するだけの結果となります.実際にもこの会談のもたらした最大の効果は,ドゥアルテ政権の合法性と実効性が宣伝されたことにあります.それはレーガン政権のもっとも望むところでした.

もう一つ,これだけの会談をやるのであれば,その意義から考えて最高幹部が雁首をそろえるべきでしょう.何となく及び腰の印象です.FDRのウンゴやサモラに引っ張られたのでしょうか,それともニカラグア・キューバ筋からの圧力もあったのでしょうか.

 

第四節 CIA=政府軍の新戦略

話は少し戻ります.ドゥアルテ当選を期してCIAと政府軍が開始した作戦は,「画期的」なものでした.

一言でいえば,それは「空からの焦土作戦」でした.村人を「戦略村」に追い立てたあと,部落ごとナパームで焼き尽くしてしまうのです.さらに時限爆弾や地雷などを仕掛けて,その村を二度と人が住めないようにしてしまいます.かつてベトナムで展開した焦土作戦そのままです.

その恐ろしさは解放闘争に衛生兵として参加したフランス人青年の手記「人民軍の衛生兵」に生々しく描かれています.日本語訳も出版されています.いまでは入手困難と思いますが.

この作戦のためには,二つの手段が必要です.一つは戦略村を維持するばく大な費用です.この資金は米国政府がスポンサーとなっているAIDが引き受けました.もちろん,もうちょっとましな理由を付けてですが.

もう一つは,空軍の勝利は最終的には地上部隊によって確定されなければならないということです.このために対ゲリラ戦の訓練を受けた「新アトラカール部隊」が新たに編成されました.彼らは米国内やパナマのフォート・デトリックで訓練を受け,米人軍事顧問による直接指揮を受けるのにまったく抵抗を感じない部隊です.

84年7月に始まった焦土作戦に続いて,10月には,地上部隊によるモラサン掃討作戦が始まりました.まさに和平会談のおこなわれているさなかです.12月にはチャラテナンゴにも機動部隊が侵入します.

この政府軍の攻勢は,ゲリラ側に甚大な被害をもたらしました.先ほども述べたようにFMLNの支配区は事実上消失し,チャラテナンゴでもモラサンでもゲリラの本拠地が制圧されてしまいました.米国に戦況報告に赴いたドゥアルテは,FMLNとの話し合いは意味がなくなったとし,交渉を打ちきるとの声明を発表します.

 

第五節 ドゥアルテ派の支配確立?

翌年三月,国会議員選挙が実施されました.軍内の力関係の変化を反映して,カサノバ国防相は選挙への不介入を宣言しました.ARENA内でも財界人を中心に,米国の方向に従うよう主張する勢力が台頭します.この年の末,ARENAは事実上分裂.ダビュイソンは政界からの引退するまでに至ります.後任の党総裁には財界出身のクリスティアーニが就任することになりました.

勢いに乗ったドゥアルテは,勇躍訪米しました.彼はレーガンに6千2百万ドルの緊急軍事援助を要請します.レーガンはこの要請を喜んで受け入れました.

帰国後,ドゥアルテはモラン中佐,カランサ大佐を解任します.米政府の指示の通りです.モランは米政府派遣の労働問題担当顧問2人がシェラトン・ホテルで殺害された事件の首謀者とされています.カランサは財務警察部(最悪の治安機関)の責任者で,ダビュイソンの暗殺部隊にも人を送っていました.

 

第六節 FMLNの再編成

85年は,FMLNの10年にわたる闘いのなかで最悪の年でした.政府軍の攻撃を受け,戦線はずたずたにされました.兵力は1/3から1/4にまで減少しました.司令官クラスの人物が次々に殺されたり,逮捕されました.ラ・パロマの和平会談でゲリラ側代表の一人として登場し,世界中から注目されたニディア・ディアス司令官もその一人でした.彼女は人質交換で釈放され,ハバナに渡っています.彼女の獄中記「決して一人ではない」は,英語にも訳され評判を呼びましたが,それはあとの話です.

捕らえられたあと組織を裏切って,政府軍のメガフォンになった人物も現れました.FPLナンバー・スリーで首都戦線の司令官だったカステリャノス(本名ナポレオン・ロメロ)です.彼はテレビに出演して「エルサルバドルではすでに民主主義の過程が開始されており,ゲリラの存在理由はもはやなくなった」と表明します.彼は89年,FMLN処刑隊の手にかかり暗殺されました.

国際的な関心はニカラグアに向かい,エルサルバドルの解放闘争は孤立感を深めました.さらにこれまで支援を惜しまなかったニカラグアが,エルサルバドルどころではなくなってきたこと,コンタドーラ・グループの提案や,中米首脳会議の合意に手足を縛られるようになったことも不利に働きました.

もはや84年前半のような戦術は不可能になりました.85年3月,FMLNの代表者会議が開かれます.会議は情況に見合って思い切った方針転換を提起しました.83年以来の「解放戦争路線」を放棄し,長期人民戦争,すなわち小部隊中心の農村ゲリラ戦に切り替えたのです.

これだけの重大転換が,五つの組織で合意できたことは,ある意味でFMLNの団結の水準が高度化していたことの表れと見て良いでしょう.しかし84年初頭,都市でのテロ・ゲリラ活動は停止すると宣言したにもかかわらず,一部はFMLNの統制を逸脱して都市ゲリラに復帰したことも事実です.

この合意を基礎に,FMLNは組織的結合をさらに強め,独自の党の結成をめざすことで合意します.ただこの作業は実際には無理だったろうと思います.民主主義の実現という最小限の所でまとまるのでは,もはや情勢は許しませんが,かといって科学的社会主義を行動の指針とするところまで踏み込むかというと,ERPやFARNには相当のためらいがあるでしょう.

この辺の矛盾は,時がたつにつれ深刻化していきますが,もう少しあとの章で触れたいと思います.

 

第七節 都市ゲリラの活動とその消滅

6月18日,マルドケオ・クルツ部隊と名乗るゲリラ・コマンドが,サンサルバドル市内の繁華街ソナロッサのバーを襲撃して,銃を乱射するという事件が発生しました.このバーは米軍事顧問や大使館つきの海兵隊員などのいきつけの店でした.この事件で海兵隊員4人を含む13人が殺害されました.ゲリラはこれを「米国の侵略者よ,第二のベトナムが待っているぞ」作戦と名づけていました.

7月には,4百人からなるFMLNコマンド部隊がサンサルバドル市内の刑務所を襲撃,政治犯13名を含む104名を解放することに成功します.

そして都市ゲリラ活動の頂点となったのが,9月10日のドゥアルテ令嬢誘拐事件でした.ペドロ・パブロ・カスティージョ部隊を名乗るゲリラが,大統領官邸から出てきた令嬢を誘拐するのです.実は誘拐したのは大統領令嬢ばかりではありませんでした.時期を同じくして地方都市の市長など政府側の幹部23人を誘拐・監禁していたのです.

当初FMLNは犯行を否定していましたが,10月に入って一転して犯行を認めました.そして大統領令嬢と引き換えに34人のFMLN捕虜と29人の政治囚の釈放を要求します.結局24日にゲリラと政府との交渉が成立しました.先ほどのニディア・ディアス(PRTC)のほか,アナ・グアダルーペ・マルティネス(ERP),ファクンド・グアルダード(FPL)ら96名のFMLN捕虜と3名の政治囚が,大統領令嬢と交換に釈放され,ハバナに脱出していきます.

1999年3月のエルサルバドル大統領選.FMLNの大統領候補がファクンド,副大統領候補がニディアでした.

FDRのウンゴは一連のゲリラ活動について「民間人をまきこむ作戦はわれわれの方針に反する」と声明を出します.この際ことの善悪を問うことは,部外者にはできません.ただあいつぐテロ活動とそれに対するドゥアルテの対応に関して軍幹部が一斉に反発したことは事実です.軍内極右派の代表オチョア大佐は公然とクーデターをよびかけます.

さらに米国人を公然とテロの標的にしたことは,重大な結果をもたらしました.米国は超タカ派の大物エドウィン・コーをエルサルバドル大使に送り込みました.コー大使は自ら陣頭に立ち,都市ゲリラの絶滅作戦を展開します.3年の任期中に徹底した殲滅作戦により,都市ゲリラをほぼ壊滅に追込みました.

85年に一気に展開され,その後消滅した都市ゲリラは,おそらくFMLN指導部の統率の外で発生したものでしょう.この時期のFMLNの統率力は,あいつぐ幹部の逮捕や死亡により,極端に低下していたと思われます.

確かに都市ゲリラは,成功した場合は華々しいのですが,その反動も非常に激しいものです.カストロはキューバ革命の際,終始,都市ゲリラの暴発を厳しく批判していました.都市ゲリラは,タコが自分の足を食うような所があります.一般的には,むしろその国の解放運動の主体的な力の未成熟ぶりを示しているといっても過言ではないでしょう.

第六章へ続く