第二章 ウォーカー戦争

 

第一節 自由党と保守党の反目

どちらかといえば他力本願で独立し,最後には独立というよりほっぽりだされるような形でニカラグアは独立しました. 国内では軍部を握るレオンと議会を握るグラナダの両市が覇権を争いながら,それなりに共存体制をとっていました.46年,二つの街の中間にあった村ビラ・レアルに議会がおかれ,村はマナグアと改名しました.

国内的にはあいかわらずさしたる産業もなく,インジゴ(藍)と牧畜がわずかながら輸出される程度でした.レオンには自営農民を中心に自由党が結成され,連邦制復活,保護貿易と国内産業育成,反教会をうたっていました.いっぽうグラナダの牧畜業者や貿易業者は保守党に結集,いまでいうネオリベラリズムの政策を推進していました.

と自分で書いていても自由党と保守党の違いは,実のところよく分かりません.チリでは保守党政権が指導して富国強兵策を採りました.アルゼンチンではブエノスアイレスの保守党が中央集権型の政治を追求したのに対し,地方の保守派は自由党に結集,連邦制維持と自由貿易を主張しました.

一説によるとレオン近辺には下級兵士出身の自営農が多かったのに対し,グラナダには比較的富裕層が多かったのが対立の原因だと書いてあります.そんなところかもしれません.

 

第2節 ウォーカーの登場

40年代後半からはグラナダの保守党が政治的優位に立つようになりました.しかし,自由党もおさまっていませんでした.ひそかに米国人冒険家を雇い入れ,雪辱の機をうかがっていたのです.この頃は米国とメキシコとの戦争が終わったばかりで,まだ血を流したりない物騒な連中がゴロゴロしていました.

ウォーカーもそんな冒険家(フィリバスター)の一人でした.彼はメキシコとの戦争中,カリフォルニア半島の付け根あたりに侵入し,「バハカリフォルニア共和国」なるものをでっち上げました.結局,メキシコ軍に蹴散らされ,命からがら逃げ帰ったのですが,彼の冒険心はとどまるところを知りません.

55年6月,ニカラグアの自由党に誘われたウォーカーは,「不死身の56人」とともにニカラグアに上陸しました.レオンで自由党軍と合流したあと,彼はマナグア,マサヤと破竹の進撃を続け,4ヶ月後には保守党の本拠地グラナダを占拠したのです.彼のバックにはバンダービルトの会社の乗っ取りを狙う怪しげな資本家がいました.

軍を掌握したウォーカーは自由党のリバスをカイライ政権に就かせ,みずからを司令官に任命させます.米国政府は直ちにこの政府を承認します.このあたりから米国の態度がおかしくなってきます.

ウォーカーは司令官になったことくらいでは満足しません.彼のねらいはニカラグアの国そのものだったのです. ウォーカーはやがてリバスを追い出し,反対派を片端から粛清していきました.そして56年にはみずから大統領の地位につきます.彼は国有地を山分けし,運河会社(後述)の乗っ取りを図ります.さすがの米政府も事態の異常さに気づき始めました.米国民のウォーカー軍参加を禁止する処置をとります.

ウォーカーはこれに対抗し新憲法を発布,米国民の世論を味方につけようと図ります.環カリブ海に奴隷制を基礎とする一大帝国を作り上げ,米国南部諸州がその盟主となろうというのが,彼の夢に描いた構想でした.公用語は英語です.

 

第3節 運河会社と米国の進出

ウォーカーの背後には,カリブ進出を狙う米国の新興資本がいました.時代は少しさかのぼります.

18世紀末,米国独立戦争と並行して仏・西対英国の戦争が戦われました.この戦争でスペインは歴史上ただ一回だけ英国に勝利するのです.英国はミスキティアを一旦は放棄します.しかしラテンアメリカがスペイン相手に独立戦争を戦うドサクサに,英国は再びカリブ海岸に進出,ミスキティア王国を再建します.

カリブ海岸の全面制圧を狙う英国は1849年,サンフアン河口のサンフアン・デル・ノルテを占領,これをミスキティア王国領と宣言します.サンフアン・デル・ノルテは当時のジャマイカ総督グレイの名を取りグレイフィールズと改称されます.

これは少々やり過ぎでした.ニカラグア地峡はすでに米国の生命線となりつつあったからです.当時メキシコから獲得されたカリフォルニアに金鉱が発見され,ゴールドラッシュを迎えていました.開拓者たちは先を争うように幌馬車隊に乗り西を目指しました.しかしそれは困難をともなう長旅で,インディアンの襲撃も覚悟しなければなりませんでした.何とか安全で快適な移動ができないか? そこで中米のパナマとニカラグアという二つの地峡を越え,両洋間を結ぶ海運ルートが注目されていたのです.

とりわけのちの鉄道王バンダービルトは,ニカラグアの運河構想に執着していました. そして当時の保守党政権に働きかけ,航路の独占に成功したのです.

彼の開拓したルートはサンフアン・デル・ノルテからサンフアン河をさかのぼり,ニカラグア湖に出て,その南端から陸路,太平洋岸のサンフアン・デル・スルに出るものです.これだとロッキー越えの苦労に比べれば物の数ではありません.

やがて運河会社が開業というそのとき,英国のサンフアン・デル・ノルテ占領事件が起こりました.ニカラグア政府は米国に支援を求め,その交換に米国の通行権独占を認めました.米国は早速サンフアン・デル・ノルテに軍艦を派遣,英米間に一触即発の危機が訪れます.

1年ほどにらみ合いが続いたあと,英米間に妥協が成立します.ニカラグア地峡の通行権に関しては両者ともに中立を守るということです.これでバンデルビルトの会社が安全操業が可能になったのですから,ある意味では米国の勝利といえます.

しかし決してニカラグアの勝利ではありません.この協定で国土の3分の1におよぶ地域が「モスキティア王国」の領土として「承認」されました,サンフアン・デルノルテはイギリスの保護下に自由港となりました.ニカラグアがこの協定受け容れを拒否したのは当然です.

 

第四節 中米連合軍の結成

ウォーカーが大統領となるにおよんで,さすがに内紛を繰り返していた中米諸国も,団結しはじめました.各国の保守党と自由党が一時休戦協定を結び,ウォーカーに対抗することになります.とくに亡命したニカラグア保守党と連合したコスタリカの活躍は目覚しいものでした.

戦いは最初,ウォーカーに敗れた保守党軍の抵抗として始まりました.チャモロ亡き後大統領となったエストラーダは,旧マサヤ守備隊々長のトマス・マルティネスと組み反乱を起こします.反乱が失敗に終わったあとホンジュラスに亡命したエストラーダは,中米諸国保守党の支援を受け,再びニカラグアに侵入,オコタルに臨時政府を樹立します.この政府にはグアテマラを先頭とする各国保守党が支援を行います.

アルゲージョに率いられたもうひとつの保守党部隊はコスタリカに逃げ込みました.時のコスタリカ大統領モーラは,これを受け入れたばかりでなく,ウォーカーに対する全面戦争を宣言します.56年3月,ウォーカー軍の追討部隊がコスタリカ領内に侵入しました.そして20日,両軍はサンタ・ロサで対決します.

自由党員もふくむ中米連合軍とウォーカー軍との決戦は中米軍の勝利に終わりました.勢いを得た中米軍はリバスまで敵を追い詰めますが,ここで両軍内部にコレラが大発生します.帰還兵から広がったコレラはコスタリカ人口の1割を奪ったといいます.このためコスタリカは,1年にわたりあらたな戦いが不可能となりました.ここまでが中米戦争第二幕です.

 

第五節 グアテマラ・エルサルバドル連合軍の踏ん張り

中米独立後の歴史を振り返ると,グアテマラとエルサルバドルくらい始終ケンカをしていた国はありません.まさに犬猿の仲というべきでしょう.それがウォーカー軍に対してはともに手を結ぶことになります.とんでもない山師の侵略によって,はじめて中米諸国は民族としてのアイデンティティーを獲得したといえるかもしれません.

リバスの戦いの直後,リバス大統領はウォーカーとの対決を決意します.しかし口先でウォーカーを罷免してもリバスには何の力もありません.たちまちウォーカーに追い出されたりバスはチナンデガに逃れ,そこで「正統政府」を樹立します.これをエルサルバドルの自由党が支援しました.ウォーカーはこれに対抗して「選挙」を実施,みずから大統領におさまります.

オコタルの保守党政府,チナンデガの自由党政府,そしてグラナダのウォーカー政府と三つの政府が鼎立する状況になりましたが,保守党は耐えがたきを耐え自由党政府を正統と認めます.逆の例がホンジュラスの前大統領カバーニャス(自由党)でした.彼はホンジュラス大統領としてニカラグア自由党の反乱を支援した人物でしたが,グアテマラ政府に追われ今はエルサルバドル亡命中の身でした.ホンジュラス奪回を目指す彼は最初ウォーカーに接近しますが,ウォーカーの本質を知るや,いちはやく自由党と保守党が連合してウォーカーを排撃するよう説くことになります.いっぽう最後まで統一に反対したエストラーダは,7月,自由党員を名乗るウォーカーの刺客により暗殺されます.

9月,まず保守党軍が行動を開始しました.サン・ハシントまで進出した部隊はウォーカー軍と対決します.はだしの軍曹アンドレス・カストロが,石で敵兵を殴り殺した逸話は有名です.つづいて自由党軍がマナグア包囲作戦を開始します.

9月24日,ウォーカーはマナグアを撤退します.自由党軍と保守党軍はともにマナグア入りし,グラナダ攻撃に向け戦線を再編します.総司令官には自由党軍のマキシモ・ヘレスが就任.自由党軍がマサヤ攻撃を,保守党軍は直接グラナダに向かうことになります.

この間,コレラから立ち直ったコスタリカ軍が,再び進撃を開始しました.この部隊はカリブ海からニカラグア湖につながるサンフアン河に攻撃をかけ,ウォーカー軍の補給ルートを絶ちます.

ウォーカーはグラナダに篭り守りを固めました.こうなると装備に劣る連合軍にはそう簡単には落とせません.包囲戦は1カ月におよびます.この間にマサヤが一時奪還されるなど,中米軍も厳しい戦いを強いられます.軍内に内部分裂が広がり,マキシモ・ヘレス司令官は解任されてしまいます.

あらためて最高司令官にコスタリカのモーラ将軍を立てた中米連合軍は,11月24日グラナダ最終攻撃を開始しました.3週間にわたる激戦が続いたあと,ショーカーはグラナダの町に火をつけ,リバスに撤退していきます.

 

第六節 ウォーカー戦争の幕引き

リバスに全軍を集めたウォーカーですがもはやあとがありません.コスタリカ軍が退路を塞ぎ,南方から迫ってきます.もはや玉砕かと思われたとき,米政府が救援の手を差し伸べます.米政府にとって見ればウォーカーのようなならず者の末路などどうでもよいのですが,一旦は大統領を宣言し,それを好意的に評価した経過もあり,むざむざ見捨てるわけにも行きません.国内世論がそれを許しません.

政府はバンダービルトを通じてコスタリカ政府に交渉を持ちかけます.バンダービルトも政府を支える東部エスタブリッシュメントの一員です.聞かないわけには行きません.バンダービルトはコスタリカ政府に最終攻撃を控えるよう要請,いっぽう米政府は戦艦セントメリー号をリバス近くのサンフアン・デル・スールに接岸させます.

モーラは軍備を依拠するバンダービルトに説得されればいやとはいえない立場です.それに一度リバス総攻撃をかけて失敗していました.あくまで武力解放ということになれば,相当の人的・物的被害を覚悟しなければなりません.こうしてモーラ将軍はウォーカーの避難を認めてしまいます.当然,ニカラグアやホンジュラスなど他の中米諸国は猛反対します.しかしそもそもこの災難を引き起こした責任は自分たちにあり,これで米軍の直接介入を招けばさらに状況は悪化します.ここが引き揚げどころでしょう.

5月1日,ウォーカーら463名は,海兵隊に保護されながらリバスを離れ海岸まで行進.米艦に「保護」され米国に向かいました.

これがウォーカー戦争の顛末です.

 

第七節 ウォーカー事件の背景

ウォーカーという一介の冒険家が,わずかな手勢でまんまと中米の一国を手に入れ独裁者となるというのは極めて特異なケースです.しかしゼルダやドラクエでもあるまいし,その背景には多くの偶然と,大国の利害対立のエア・ポケットが存在していた事を試摘しておかなければならないでしょう.小さな国の小さな事件ですが,その背景にはとんでもなく複雑で巨大な力が働いています.現在の中南米の歴史の本質を抉り出す典型的な事例といえるでしょう.

大まかに言うと,保守党の背景には第1にグラナダと結託したバンダービルトと運河会社がいました.バンダービルトは米政府の背骨を形成する東部エスタブリッシュメントの代表でした.

第2は米国務省です.米国はニカラグアのカリブ海岸沿いの権益をめぐり,英国と激しく争っていました.ただし,国務省は自由党と保守党の何れが勝利してもよかったのです.ウォーカーが勝とうと,バンダービルトが勝とうと米国の勝利には違いないのですから….

第3には中米諸国の保守党です.これはグアテマラとコスタリカで有力で,あいだに挟まれたホンジュラス,エルサルバドル,ニカラグアの三ヵ国を牽制していました.

いっぽう自由党の方には,まず第1にウォーカーを代表とする米国人雇い兵集団がいました.彼らはその本質上,一匹狼でしかなかったのですが,彼らの膨張主義や人種差別思想などは米国南部の大地主層と通じるものがありました.

おりから米国内での南北対立は激化の一途をたどっていましたから,国務省に代表されるような米国の国益よりは,南部を中心とした汎カリブ構想が熱狂的に受け入れられる土壌がありました.これが第二の勢力です.

第3の勢力はホンジュラスとエルサルバドルの自由党でした.特にホンジュラスは当時自由党が政権を握り,反チャモロの部隊に援助を与えました.レオンのカスティジョンが組織した自由党軍はホンジュラスからニカラグアに侵攻したのです.

これがウォーカーが侵略を開始したときの布陣でした.しかし,いったんウォーカーが政権を握るとこの状況は一変します.米国内の熱狂的なウォーカー支持を背景に,国務省はウォーカーに傾くようになります.もちろん米国南部諸州はウォーカーを断固支持します.

これに対し,直接権益を侵害されたバンダービルトは保守党軍を支持し,物質的援助も行います.その窓口となったのは,ニカラグア保守党を受け入れ反ウォーカー戦争の前面に立ったコスタリカ軍でした.

これとともに保守党側に立って応援したのが英国でした.英国にしてみれば,直接のライバルである米国がウォーカーを支持すれば,その敵は我が味方です.ただしバンダービルトとの関係もあり,英国はコスタリカよりもホンジュラス,グアテマラを支援することになります.

こうやって説明しても,一度絵を描いて見ないと分からないかもしれません.そのくらい複雑な構図ですが,ある意味でこの複雑さが19世紀後半の中年米の時代背景にあるということで,一度は書いておきたかったところです.

 

第八節 ウォーカー戦争後のニカラグア

ウォーカー戦争のあと,ほぼ30年にわたりニカラグアには比較的平和な時代が続きます.自由党は国民の信頼を失い,鳴かず飛ばずの状態が続きます.

あのウォーカーは,夢よもう一度とばかりに侵攻を企てますが,失敗.60年8月にはホンジュラスで捕らえられ,9月12日刑場の露と消えました.普通なら米国人が処刑されるとなれば大騒ぎになるところですが,当時の米国にそのような余裕はありませんでした.奴隷制廃止を唱えるリンカーンが大統領に当選,国内は南北戦争の前夜を迎えてんやわんやだったからです.

70年代後半大統領を勤めたペドロ・ホアキン・チャモロは近代的土地制度を導入,といえば聞こえはいいのですが,これまで所有権のはっきりしていなかった原住民の共有地(エヒード)を片っ端から取り上げ,大地主たちで山分けにします.彼らはそこにコーヒー農園を建設,主に英国資本により輸出の振興を図ります.

当然,原住民の抵抗も激しいものがありました.81年にはマタガルパで,エヒード没収に抗議する原住民が蜂起しました.7千名が参加し9ヶ月にわたりつづいたといいます.政府は参加者を虐殺することでこれに応えました.

 

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