第一節 自由党革命
ニカラグアでは30年このかた保守党政治が続いていました.自由党は国をウォーカーに売り渡した張本人として評判を下げてしまったのですからしょうがありません.
政治が相対的な安定を迎えるとともに,経済は目を見張るような発展を遂げていきました.とはいってもほかの国に比べれば遅々たるものですが,ようやく近代化の波がニカラグアにも訪れてきたのです.
まずコーヒー栽培と砂糖生産が普及してきました.ついで肉の冷凍運送技術の開発にともない,肉牛生産が発展します.北部の山岳地帯では金山が開発され,ちょっとしたブームを引き起こします.20世紀にはいるとカリブ側でバナナの生産が盛んとなり,ニカラグアはバナナ王国と呼ばれるまでになります.もっともバナナ生産には高度な技術と多額な資本を要し,ほとんどが米国のユナイテッド・フルーツ社に握られていました.
この経済成長は二つの変化をもたらしました.ひとつは原住民の共同体の崩壊です.彼らは共有地をコーヒー栽培のために取り上げられ,身一つで街に出るか,コーヒー農園の雇い人となるかを迫られました.1880年,中央山地の町マタガルパでは原住民の激しい抗議運動が起きています.マタガルパは,FSLNの創始者フォンセカを生み出すなど一貫して革命運動の揺欖でした.
もう一つはコーヒー業者を中心とする新興資本の勃興です.彼らは家柄と縁故関係で牛耳られている国家の近代化を要求し自由党に結集します.その代表がマナグアのコーヒー農園主セラヤでした.
そのきっかけは思わぬところからやってきました.1890年,執務中の大統領が急死.急きょサカサ副大統領が昇格します.このタナボタ大統領は保守党員ですが,レオンの出身でグラナダの有力者による支配には反感を持っていました.
サカサは大統領に留任しようと工作を始めます.グラナダの親分たちは,サカサのような傍流に二期も大統領職を委ねるつもりはなく,引き下ろしにかかります.そこで登場したのがセラヤ.彼は自由党部隊を組織するとともに保守党のグラナダ派と結託しサカサ派と闘います.そして93年7月,今度はグラナダ派を打倒し政権を獲得します.
ニカラグアにもやっと,スペイン統治以来の封建的支配からアメリカ型市民政治への移行がやってきました.セラヤは米国資本の積極的な導入による富国殖産政策を採ります.これまで農奴の状態におかれてきた一般市民に近代的市民権を付与します(形だけですが).市民生活の隅々にまで干渉するキリスト教会を排除し,普通教育や戸籍を採り入れます.
第二節 米国の干渉強化
この時期,カリブ海の覇者はかつての英国から米国に移動していました.米国の最大の関心はニカラグア運河にありました.米国西部の発展に伴い,鉄道だけではなく船舶での輸送も必要になります.しかしあいかわらず東部と西部を結ぶ海上輸送は,南米の突端フエゴ岬を回る迂回路でした.
特に運河の必要性が痛感されたのは,キューバ独立をめぐる米西戦争です.このときサンフランシスコに停泊していた戦艦にカリブへの出動指示が出ますが,その戦艦が着いたのは戦争が終わってからでした.レセップスのパナマ運河建設が失敗に終わったことから,米国はニカラグア運河への傾斜を強めます.実際,米国はニカラグア運河の掘削を開始していたのです.わずか800メートル掘ったところで経済恐慌のため破産してしまうのですが…
折から内陸部に金鉱が発見され,米国人が大量流入しました.バナナ農園も急速に拡張されます.何れも米国資本です.おまけにカリブ海岸沿いの原住民は、ジャマイカとの関係で英語を公用語とし,意思の疎通も簡単です.
しかし米国の障害になったのがモスキティア王国でした.なんということはない小国ですが,背後には英国が控えています.ヘタに干渉すれば,衰えたりとはいえ大英帝国と正面から対決することにもなり兼ねません.そこで米国はニカラグアを利用してモスキティア王国潰しにかかります.斜陽の大英帝国にはもはや,日の出の勢いの米国に対抗して植民地を維持する力はありませんでした.
セラヤの業績で,なんといっても大きいのはカリブ海岸の直轄化です.この経過は,かつてのウォーカー戦争のときとそっくりです.最初カリブ海岸の米国人居留民はモスキティアのクラレンス王を立て,ニカラグアに反乱を起こさせます.それと同時に米国人が戦闘に参加,モスキティアの独立を図ります.
英国はこの反乱を自国に有利なようにとりこもうとしますが,逆にそれが米国政府の警戒感を募らせます.米国政府にとっては英国の息のかかった国が出現するよりは,ニカラグア政府とサシで交渉するほうがやりやすいと考えたのでしょう.ニカラグア政府のモスキティア制圧を黙認する態度に出ます.それはパナマとちょうど逆のケースです.米国は1903年,パナマを支配していたコロンビアがなかなか交渉に応じないと見ると,パナマ人をたきつけ独立させてしまいます.
この両大国の矛盾をうまく利用して,セラヤはモスキティア王国を廃絶に追い込み,ここをニカラグアの県の一つとします.もっとも,英国の保護領から米国の保護領に代わっただけという見方もありますが… 今この県にはセラヤ県という名が付いています.
第三節 セラヤ政権の転覆
当時ニカラグアとホンデュラスは犬猿の仲でした.ホンデュラスの保守党政権は闘い敗れたニカラグア保守党を保護し,ホンデュラスで編成されたゲリラ部隊がニカラグアに侵攻してきました.ホンデュラスがここまで強気に出たのは,バックにグアテマラの保守党がいたからでした.セラヤは逆にホンデュラスの自由党員をかくまい,ホンデュラス乗っ取りをはかります.
セラヤはひそかに,ホンデュラスを叩くだけではなく,中米全体を自らの支配下におこうと考えていました.カベサス将軍指揮下のニカラグア軍は圧倒的な勝利をあげ,ほぼホンデュラス全土を手中にします.ちなみにカリブ海岸北部の港町プエルト・カベサスは彼の名を取ったものです.
こうなるとグアテマラだけではなくエルサルバドルも警戒を強めます.結局ニカラグア軍は橋頭堡となるエルサルバドル上陸作戦に失敗し,矛を収めました.セラヤの好戦的な姿勢に米国は反感を持ちました.それは,米国支配からの脱却を図ったセラヤがニカラグア運河建設をヨーロッパ諸国や日本に持ち込んだことで,頂点に達します.米国はセラヤ打倒を決意します.ニカラグア第一の親米派だったセラヤが米国により打倒されるのも,歴史の皮肉です.
米国が白羽の矢を立てたのは,ブルーフィールズ駐留部隊の司令官エストラーダでした.もともと米国はニカラグアのカリブ海岸沿いに多くの権益を保有していました.それは木材(マホガニー)であり,金山であり,19世紀末からはバナナ農園でした.米国はモスキティア王国に領事をおいたこともあり,ブルーフィールズから侵入した冒険家たちがプリンサポルカに星条旗をたてたこともありました.
彼が兵を挙げると,米海兵隊400人はただちに上陸.ブルーフィールズを管理下に置きます.政府軍が入ってこれないようにするためです.弱体のエストラーダ軍に代わり実際の戦闘には米国人傭兵が深く関わりました.サンフアン河で破壊工作をおこなっていた米国人が,警備隊の手で処刑されました.これを見た米国政府は全面戦争も辞さないと最後通牒を送ります.
事態を憂慮したメキシコは積極的に調停に出ました.まず米国に独裁者と決めつけられたセラヤに引導を渡します.これを受けたセラヤは辞任しメキシコに亡命します.後任には自由党反主流派のホセ.マドリ外相が選ばれました.隣国ホンデュラスとコスタリカはただちに新政権を承認し支援します.これで干渉が終われば決着ですが,米国はそうしませんでした.あくまで武力決着を図り,エストラーダの部隊をマナグアに向け進軍させます.政府軍もよく頑張りましたが,結局米国の圧力の前に倒れます.1910年のことです.
ニカラグア干渉は米国がおこなってきた干渉のなかでももっとも理不尽なものの一つでしょう.国民の支持を得たしっかりとした政権が,反米でも共産主義でもない普通の政治を行っているとき,これを武力で打倒しようというのは理不尽そのものです.
第四節 セレドン将軍の抵抗
米国の指導の下に実力者会談が持たれ,エストラーダが大統領に選ばれました.副大統領には金鉱に務めていた現地人幹部のディアス(保守党)が選ばれます.ディアスの肩書きは文献によって顧問弁護士だったり,会計士だったり,経理部長だったりいろいろですが,要するに米国の意向の代弁者です.いずれにせよ自由=保守の連立政権です.米国は新政権をただちに承認し,破産した財政の管理を取り仕切ることになります.こうしてニカラグアはニューヨークの銀行の管理下に入りました.
挙国一致の新体制だったはずですが,同時におこなわれた議会選挙でエミリアーノ・チャモロの率いる保守党が多数を占めたことから,事態は複雑になります.エストラーダはもともとが自由党ですから,エミリアーノとはそりがあいません.エストラーダは議会を強引に改選し,保守党員を追放して自らの息のかかった議会に作り替えました.
新議会では自由党のメナ将軍が影響力を強めます.エストラーダは今度はメナを嫌い,解任を図ります.しかしディアスら保守党と組んだメナの攻勢の前に,逆に辞任を余儀なくされてしまいました.この内紛に米国は干渉しませんでした.エリツィンと同じでこんな勝手な人物に国政は任せられないと見たのでしょう.後任には副大統領のディアスが昇格します.「彼の意向は米国の意向と思え」ということです.
勢いに乗るメナは大統領の地位を狙い始めました.ディアスはメナとの対抗上,エミリアーノを呼び寄せ国軍最高司令官に据えます.メナは実力行使の構えも見せますが,肝腎の米国はセラヤの再現を恐れ彼の権力掌握を認めません.1912年6月,マナグアに入った海兵隊がメナの軍隊を武装解除します.
いったんは引き下がったメナでしたが,支配者への夢を捨て切れません.彼はマサヤに国民会議を召集,臨時政府の樹立を宣言します.これに呼応したのがセラヤ政府時代の陸軍大臣ベンハミン・セレドン将軍でした.自由党軍はたちまちのうちに主要部を制圧,首都マナグアを包囲する体制に入りました.
米国は間髪をおかず反応しました.今度は「ディアスの要請を受け」直接干渉に乗り出します.8月14日,戦艦8隻がニカラグアを包囲するなか,バトラー少佐の率いる海兵隊2千5百名がコリント港に上陸.ディアス軍の反撃を「支援」します.メナはまもなく降伏してしまいますが,セレドン軍は降伏を拒否し,マサヤ近郊のコヨテペ要塞にたてこもります.
10月4日,海兵隊が直接要塞を攻略,セレドンはマサヤで捕らえられ市中引回しの後虐殺されます.その後チャモロはディアスのあと大統領に就任,ふたたび保守党時代が始まることになりました.